2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全21件 (21件中 1-21件目)
1
毎年、高校時代の友人たちと忘年会やら新年会で飲むのが恒例となっている。私の結婚後は、私の帰省に合わせて正月2日がその定例日となっていた。帰省前に携帯メールで召集をかけ、集まれるメンバーだけで飲むのだ。それが今回は、年末30日に開催となった。理由は、東京から帰省するメンバーのUターンの日程の調整がつかず、やむなく年末となったわけ。そして、私のリコンカミングアウトは年賀状ですることにしていたので、まだメンバーの多くは知らないまま。集まったうち、ごくごく仲のいい2人だけが詳細を知っていたが、公にすると、飲み会の話題がそればかりに集中して、私も、それ以外の人も、居心地があまりよくないので、意識的に伏せてくれていた。が!やっぱり、空気を読めない奴がいた。結婚してから子供が出来なくて、不妊治療を続けていた頃、盆、正月に集まるたびに「子供はまだか?子供はいいぞー。」を不必要に連発していた奴がいた。周りの「30過ぎてる主婦で子供がいない相手には、口を慎め」と言う空気にも気づかず言い続けたため、「欲しくても出来ない人もいる。私も治療してるけど出来ないんや!!あんたはそんなことも知らんのか?!」という私の罵声を浴びた経験もある奴だが、今回もやってくれた。はじめのうちの、「旦那とは上手くいってるのか?」あたりのときは、軽く「上手くいってるよ」で済ませていた。徐々に「旦那を大事にしないと離婚されるぞ」と言い出だしたしたので、事情を知る友人が「sallyちゃんはすごく旦那さんを大事にしてはるよ」とかばってくれた。が、その「離婚されるぞ」発言は同じ飲み屋で何度も繰り返され、そのたびに、友人たちが話をそらしたり、自分に置き換えて話してくれたりしたので、かなり周りのメンバーにも、その空気が読めていたようだった。が、まだ奴は気づかない。そして、カラオケボックスに移動し、ご機嫌に皆で歌っているとき、奴は地雷を踏んだ。そう、泣いてやりました。そして、私に涙の理由を問う彼に、「今日、あんたが私に言った言葉は、今言ってはいけない言葉やったんや!自分が吐いた言葉に後悔して、一晩落ち込め!」と、私は言い放ち、その場を去った。私と離れ、その彼と同じ方向に帰ったほかのメンバーが、数分後私の携帯に電話をかけてきて、「大丈夫か?もう一軒飲みに行くんやったら付き合うぞ」と、言ってくれたが、もうその必要は無いぐらいに私は酔っていた。先日賃貸契約を結んだマンションの部屋で半時間ぐらい過ごし、また実家へ戻った。こういうことが、あと何度起こるんだろう?
2005.12.31
コメント(3)

この季節、ものすごい乾燥に悩まされる。顔はもちろん、体も。恥ずかしながらこのsally、若き日は「吸いつくような肌だねぇ」と評判だった(誰に言われたんじゃ!!)。が、今はシャワーの水滴も吸い込んでしまうような砂漠肌である(コレホント!←ジャパネットタカタ風に)。寝起きのオヤジよろしく、背中をボリボリ掻く姿もサマになる。で、買ってしまったのがコレ↓のみ続けると、体からローズの香りがする、と言うシロモノ。その効果はまゆつば物であるが、お肌プリプリ効果が話題になっているレチノールと、抗酸化作用が高いグレープシードオイルが配合されているあたりに、いたく興味を惹かれての購入である。先ほど、1粒のんでみた。数分後に、うっかりゲップをしてしまったのだが、口の中でローズの香りが広がり、妙に驚いた。一人で「この息、色っぽいんじゃないの?」と、悦に入っている次第である。
2005.12.31
コメント(2)

うたた寝はするが、布団に入ると眠れない、皆さんそういう経験をお持ちではないだろうか?まさにそれが私である。心療内科から処方されている睡眠導入剤、レンドルミンをのむと半時間もせずに眠りに落ちるのだが、朝、仕事に間に合うように目覚められるかが不安で、平日には服用する勇気が出ない。若干、効果の弱めのものを処方してもらっているが、日頃薬を飲まなかったせいか、1錠で効果テキメンである。そんなわけで、日々寝酒に頼っている次第。もともとは、コレ↓一本やりだったが、ビール腹になり始めたため、急遽、健康志向でコレ↓に。そのおかげか、毎晩つまみと共にのんでいるが、未だ太る気配なし。いいことである。冬場でコレだと、夏太りもなさそうだ。ヘルシー志向の酒飲みを目指そう!!
2005.12.28
コメント(10)
先週末の連休で、婚家から実家への引越しをした。おりしも、連休前日の大雪で引越しのスケジュールが乱れ、予定以上に婚家での滞在時間が長くなった。予定では、23日午前中に私が実家から婚家へ行き、昼過ぎに荷物出しを終え、夕方には実家へ帰着、翌24日午前中に荷受け、のはずだった。が、引越し業者が荷物を引き取りに婚家へ到着したのは、夜7時過ぎだった。それまでの間、私は何をしていたのか?まずは、オットと二人で昼ごはんのチャーハンを食べた。荷造りは、2週間前の週末に1泊した折、ほとんど済ませていた為、残りの荷物整理など、あっという間に終わってしまい、すぐに暇になった。仕方ないので、隣に住んでいるオット側親族の本家の伯父、伯母に手土産を持って挨拶に行った。1時間ほどの世間話に付き合ったが、まだ時間が余った。私のウクレレコードブックをコピーしたいとオットが言ったので、好きな曲をコピーしてもらった。ホットカーペットの上で、二人でゴロゴロした。オットが隣の伯父を手伝って、道路の雪かきをしている間、部屋でパソコンをした。コンビニで買ったツナサンドを食べた。元姑がパン教室で作ってきた、ケーキを食べた。ひたすら、取りとめもない話をオットとした。そして、引越し業者が来て、二人で荷物出しを手伝い、雪の道を行く引越しトラックを見送った。その後、オットが駅まで私を送ってくれ、夜11時ごろに実家に着いた。引越し業者が来るまでにしたこと、それはこれまでの何年間かのクリスマスとほとんど変わらない。クリスマスだからといって、特に出かけるわけでもなく、イベントをするわけでもない、そんな夫婦だった。夜、思いついて、コンビニで缶コーヒーを買って、近所でクリスマスイルミネーションをしている家を回ったりした。それが幸せだった。今までと何も変わらない二人の関係、それがちょっと悲しかった。
2005.12.27
コメント(8)
なんていうものを、今年6月ごろに考えていたオバカな私。「上半期も終わりだなー。今度の年賀状は『今年の○大ニュース』つー奴にするべ?」などと、暢気に考えていた。実際に年賀状には、そんな脳天気なことは書けないが、ここでなら、発表してもよかろう。一つ目 ペーパードライバー脱出(1月)9年前に、プー太郎生活をエンジョイしつつ、当時の彼氏をアッシーに教習所に通ったものの、免許取得後、運転の必要性を感じず、ペパドラ化の一途。四月からの幼児英会話講師の仕事に向けて、保育園までの通勤の為の運転強化訓練を経て、めでたく、リアルドライバーに転身。2つ目 マイカー購入(2月)リアルドライバーには車が必要だろう?!ってなわけで、かわゆくクラシックタイプの黒軽を購入。目指せ、不思議ちゃん!(不思議な雰囲気を持つ美大生風な装いのギャル)3つ目 幼児英会話講師開始(4月)結婚当初から「Sallyは英語好きだから、うちで子供に英語教えたら?」と、オットの勧めがあり、2年目にホームティーチャーをすることになったが、ちょっとした妨害に遭い(敢えて明言はしないが、我が家に住んでいた年配の女性の気にそぐわなかったのだ)、断念。今回、採用枠のより小さな、契約社員としての非常勤講師採用試験を経て、念願叶い、講師の仕事に就いた。めでたいことだ!(注:家庭の事情により9月に辞職)4つ目 貿易商社勤務開始(10月)これまでさっぱり興味の無かった貿易業。離婚を前に、何とかして収入の道をつけねば!と、派遣会社の門を叩き、即日もらった職。勤め始めて2ヶ月少しであるが、未だに毎日が勉強である。これは、人生の勉強と言うわけではなく、毎日知らないビジネス英単語に出会うため、単に辞書を引いて勉強している、と言う意味だ(もっと、まじめに働くべきであろうことは、うすうす気づいているが…)。5つ目 離婚(12月)これについては、何も言うまい。まだまだ、わが離婚への道は、このブログ内で展開されるであろう。そんなわけで、私Sallyの2005年は暮れていく。
2005.12.26
コメント(6)
最近、どうもダークな話題が多いので、若干お気楽な話でも…。先日来、話題に上っている私の一人暮らし。実際に部屋を見て回ったとき、1度だけ兄が同行してくれた。あまりに何度も不動産屋に行くので、強引に契約に持っていかれないため、助っ人を頼んだのだ。で、業者に案内されて数件の物件を二人で見て回った。物件を見るまでに、物件案内書で検討している間は、バス・トイレセパレートで商店街の中にある部屋(以下物件A)を痛く気に入っていた兄。しかし家賃の関係で、私は商店街から徒歩2分程度のバス・トイレ一体型ユニットの部屋(以下物件B)に惹かれていた。その話を伝えても、兄は「いーや、こっちの方が坪単価も安いし、得だ!」と言い切っていた。かくして、実際の物件を見に行くと・・・物件Aはこぎれいでおしゃれな造り。そして、防犯システムもしっかりしており、人の出入りがしにくい女性専用の部屋であり、女子大生の親御さんが「娘を住まわせるならここに!」と思うぐらい、女子寮を思わせる雰囲気のある部屋だった。そして物件Bはと言うと、バブルの頃に建てられた香りの残る、有線放送付き、ディスプレイ画面付きインタフォン有り、の性別問わず単身用のマンション。ここで、兄の意見がころっと変わった。「物件Bのが断然イイ!」わかってるぞ、お前の考えは・・・。30代も半ばの出戻り女である妹には、悪い虫の一つや二つついてもらわないと困ると思ってるんだろう?!自分が若き日に、一人暮らしの彼女の部屋に入り浸っていた思い出が、頭でぐるぐる巡っているはずだ!!そうして私は、自分の置かれている「三十路女」の状況を悟ったのだった。もう、純真無垢なオトメではないのね(ため息)ちなみに、検討の結果、物件Bで契約は済ませたが・・・決して、そんなよこしまな考えからではないと言うことを、お含み置きいただきたい。
2005.12.21
コメント(10)
「離婚」と言えば、「失う」ものだというのが、社会通説。確かに、オットを、家族を、心の拠り所を、失うのではあるが、得るものもある。「自由」を得る、というのもあるだろう。が、「自由」と「孤独」は紙一重であったりする。(と、言いつつ、まだ孤独を感じる余裕が無いのが私である。)それとは別に、私は「友情」を得た。正確に言えば、それは以前から私が手にしていたものであるが、その存在を「深く実感する」ことが出来た、と言うのが正しいかもしれない。私の離婚話はこの7月から始まった。それから2ヶ月近く、婚家で暮らし、9月中旬に別居するまで、数人の例外を除いて、誰にもこの話をせず、ひたすら耐えた。知らせてしまえば、認めたくない離婚が現実になってしまう気がして。が、当時アップしていたブログの影響もあって、私の異変に気づく友人たちが出てきた。ことの内容はわからずとも、「どうしたの?」とメッセージや携帯メールを送ってくれる彼ら。電話をくれる友達もいた。それは、別居してからも続き、徐々に自分の状況を伝え始めることができるようになった。ともすると、誰にも会わず、誰とも話さず、一人の部屋で死を思う日々。「メールが来ても、答えられないよ。もう、消えたいの!」と、思う自分がいる反面、「こんな私のことを、心配してくれる人がいる」と、周囲に漂う「消えてしまいたい衝動」を、ほんの少しでも忘れることが出来る一瞬を味わった。それから、高校以来の親友(口にするのは照れくさいが)の存在の大きさを再確認した日々でもある。彼女も離婚について、長い間苦しんだ、いや、今も苦しんでいる。離婚はせずとも、その影が付きまとう別居生活を何年も過ごしている。以前の私は、彼女の気持ちを推し量るにも、持てる知識の量が少なすぎた。「苦しんでいるだろうに」と、彼女の気持ちを思いやりはしたが、その深さを知ることは出来なかった。だが、今回の騒動で彼女は、対岸に渡りかけている私をこちら側に引き戻したのだ。別居して実家に戻ったその夜に、彼女は私を連れ出し、一緒に飲み、昔の笑い話で共に泣き笑い、日を空けて電話で、この先の二人の楽しみを語り合ってくれた。何よりも、私を励ますのでなく、ひたすら熱心に私の話に頷き、アドバイスではなく「同意」を示してくれたことに、私は言葉ではない「励まし」を感じたのだ。彼女がいなければ、実家の部屋の中で朽ち果てていたかもしれない。外に出る勇気と、こんなに力強く「励ましたい」気持ちを表現してくれる友人を持ったことに、心から感謝している。彼女の長く暗かった日々に、何の力にもなれなかった私。本当に後悔している。この離婚で得たもの、友を持つ有難さ。私を取り巻く全ての人に感謝したい、と心から思う。そして、この離婚で得たもう一つのもの。誰にもあるであろう心の闇の部分を、前よりも少しだけ、ほんの少しだけ深く、感じられるようになった、そう感じる。
2005.12.20
コメント(4)
先日のブログに絡んで、私の鬱症状について書いてみようと思う。物理的な症状、呼吸困難や動悸などに関しては、先のブログのとおりである。この症状があれば、おそらくほとんどの人が「何か体調が悪いのかも?」と、心療内科とは言わずとも、内科などの診察を受けようとするはず。しかし、それ以前の状態、「前向きに物事が考えられない」、「物事が好転する可能性を見出せない」、「自分が消えてなくなってしまいたい」あるいは「自分がいなくなっても、誰も何も変わらないと感じる」、そんな心理状態が続き、無気力で体がだるい、そんなとき、人はどう考えるだろう?私の場合、「自分は怠け者だ」とか、「辛抱が足りない」と感じ、余計に自己嫌悪に陥ることになる。ここで「自分は鬱病かもしれない」と感じ、医者を受診する人は、鬱病の前段階、「神経症」の時点で治療にかかることが出来、回復も早いのだそうだ。だが、ここでその機会を見失う人間の如何に多いことか。大抵は気の置けない友人に、「最近、無気力で何も出来ないんだ」と言うような、打ち明け話をしたりすることになるだろう。もちろん私もそうだった。同居で精神のバランスを崩したときは、毎日のように涙を流しては、オットにすがっていた。そんなときオットは、「Sallyの涙は、どれだけ流れたら止まるんやろな。」といいながら、タオルで涙をぬぐいながら、困ったように笑っていた。そうして、全てを受け入れてもらうことで、いつしか私の鬱症状は消えていった。だが、今回はそのオットにすがることは出来なかった。友人にもうまく話せなかったため、実家の両親に話を聞いてもらった。すると、彼らが言うのは「お前の辛い気持ちはわかる。けど、もうどうしようもないことで悩むな。頑張れ、応援してるぞ。力になってやる。」と言うようなことばかりだった。すばらしい励ましの言葉である。が、この言葉が私を苦しめた。「もう頑張れない。これ以上何も出来ない私には、将来の希望なんか持てない。これ以上頑張らねばならない人生なら、すぐにでも終わってしまいたい。」私の正直な気持ちだった。だが、この気持ちは私の口から発されることは無く、ひたすら私は無口になった。1日の大半、呆然と虚空を見つめて涙を流す娘をみる両親の心痛はどれほどだっただろう。そして、両親の言葉は、励ましから苛立ちに変わった。「お前はそんなだから、XXX君から離婚されるんだ!もっと明るくなれ!」「車を運転したいだと!お前にそんな資格は無い!」丁度、それは私が心療内科の治療を受け始めた頃だった。服薬を始めてから、少し気持ちが安定しても、両親のその言葉で発作が起こった。両親の年代には鬱病はなじみが無く、高血圧や糖尿病と変わらないという認識であり、うつ状態の私を見ると「そんな病人みたいな顔をするな!頑張れ!元気を出せ!」と言う言葉がぶつけられた。それらのことをドクターに相談すると、「他人を自分のいいようには変えられませんから、お辛いでしょうけれど、じっと、じっと耐えて下さい。そういった言葉(「頑張れ!」などの励まし)があなたの症状を悪化させることは十分にあります。しかし、それを発しない人達だけに囲まれて、社会生活を送れることはありえません。今が踏ん張りどころです。決して困難に立ち向かわないで下さい。ただひたすらに、じっとこらえて下さい。」と言うことだった。私はその言葉に深く頷き、今の自分の状況を理解した。それ以後、「頑張れ」の言葉を聞くたび、自分が社会生活に復帰するための試練なのだ、と思うようになった。そうして一月後、私の服薬量は2/3に減量された。今も治療は続いているが、発作はほとんど起きなくなった。
2005.12.18
コメント(8)
何か自分によくないことが起こったとき、「どうしてこんなことが起こったのだろう?」と、考える。それが大抵の人間の習性だろう。まったく考えない、思いつきもしない、そんな人間がいたとすれば、それは人間の持つ最大の武器「学習能力」を放棄していると言うものだ。が、この武器も使いようによっては、自分を傷つける。そして、この武器を自分に向ける人間が少なくないことも事実である。今回の離婚話が持ち上がったとき、私は一番に「何がいけなかったのだろう?」と、懸命に考えた。一番に思い当たったのは、「私が笑わなくなったこと」。四月にはじめた幼児英会話講師の仕事からの疲れと、同居の姑から受けるストレス、それらが重なったことが原因だと感じ、すぐに仕事を辞めた。私を体力的に疲れさせていた仕事から解放されると、オットに対する感謝の気持ちと愛情が蘇った。今まで疲れていて、オットの為にしてあげられなかったことを、挽回するかのように、世話を焼いた。次に思い浮かんだのは、自分が大事にする人間の「優先順位を間違えていたこと」。オットのことが好きで結婚したのだから、大事にするべきは「オット」、その人だった。が、1日のうちの大半を同じ家で過ごす姑の脅威が、私にとって強大すぎて、姑の機嫌を損ねないために、オットに負担をかけていたこと、それを大いに悔やんだ。昼食時に姑が「庭の木が伸び放題でみっともない。切ってもらわねば。」と言えば、その週末、オットが「ドライブに行こう」と言うのに、「だめ、おかあさんが庭の木を切って欲しい、って言ってはるから、そっちをして!」と、オットのせっかくの心遣いを無にしていた。後悔しても、後悔しきれないほどに自分を責めた。そして、オットの言葉が、私の心を貫いた。「結婚しているから『不妊』と言われるが、独身であれば子供が無くても白い目で見られない。」私自身も子供がいないのは辛かった。けれど、それ以上にオットが傷ついていることを思いやってあげられなかった。結婚して2年目から1年半ほど不妊治療を受けたが、治療の痛み、副作用による肥満(と言うより、腫れと言う方が近いか?)、毎月期待を裏切られる精神的な負担などから、ストレス性の病気、パニック障害や過呼吸症候群(同居から来るストレスも相まっていたが)などもあって、自然消滅的に治療をストップし、運よく子供が出来たら出来たでいいし、出来なくてもストレスがなければいいか、と、軽く考えていた自分を反省した。そんなわけで、あらためて少し遠いが不妊治療で有名な産婦人科で検査を受けた。そうして、別居生活に入ってからも、その後悔と言うのか、反省と言うのか、自分を責める考えはぐるぐるとめぐり、私の心を占領していった。実家に帰り、一人の部屋で気を紛らわそうと音楽を聴く、涙が出るばかりで歌詞もメロディも頭に入らない。大好きな映画を見ても、何も内容がわからない。時間があるいい機会だから、好きな英語の勉強をしてみたが、何もすすまない。自分の人生に先があるとは思えなかった。両親は腫れ物に触るように私に接し、「たとえ離婚になっても、世の中離婚する人は多いんだから、深く悩まないで」と言った。その言葉は、私には響かなかった。「世間の結婚した人達のうち、離婚する人はマイノリティー(少数派)だ。私はみんなが乗り越えている困難に負けた意気地なしだ。」そんな考えが私を支配した。自分が「不具者である」と、信じるようになった。そうするうちに、私は眠らなくなった。布団に入っていても、ずっと音が聞こえている気がして、意識がずっとあるように感じた。夜が長かった。突然、意味も無く息が苦しくなり、動悸で胸から心臓が飛び出すかと感じたり、めまいが頻繁に起こりだした。自分で自分がコントロールできなくなり、涙は絶えず流れ出た。体重は夏痩せしていた頃から比べて3キロ減っていた。私が結婚してすぐの頃に(同居生活になじめなくて)感じたのと同じように、「もうだめだ、生きていられない」と、その時また感じた。そして、睡眠導入剤を処方してもらうべく、心療内科を受診。診察の結果、すこし症状が進んだ鬱病だと説明され、抗うつ薬と安定剤、睡眠導入剤を処方された。治療には半年から1年かかると診断され、自分が病んでいた事に何故か安心したのだった。いや、理由はわかる。自分を責めるあまり、前向きに将来のことを考えられない自分に嫌悪していたからだ。この後、服薬を続けることで、精神的な自傷の日々は終わる。ここで言いたいのは、何かの不幸の理由を自分の中に探し出してケリをつけようとする(かく言う私がそうなのだが)、それは「自傷行為」である、ということだ。確かに自分を反省することも必要だが、客観的に物事を見る目を失わないでいたいものだ。
2005.12.17
コメント(6)
今日は、数年ぶりの忘年会であった。結婚するまでは、毎年末、会社で、気の合う同僚達で、友達同士で、といくつも忘年会をこなした私だが、結婚後、ぱたりとそういう付き合いは無くなった。っつか、姑の手前、夜に出かける、と言う行為自体が出来なかったのだが…。それはさておき、今日の宴会はフグのコースを肴に…ということだったので、かなり気合が入っていた。なのに、朝から胃がキリキリと痛み、どうも不調。が、そんなことにはへこたれず、フグとの戦いに参戦するも、ひれ酒を前に胃痛の為討ち死に。そこで気がついた。私、この別居以来、休肝日が無い。酒量はうなぎのぼりである。抗うつ薬とアルコールを併用している(本当は禁忌)ことも関係しているかもしれない。実は、胃痛を通り越して、背中が痛い。やばい、これは膵臓炎(前に一度急性をわずらっている)か?それとも胆石が移動したか?ここで一句。こうなって、ようやく気づく、飲みすぎに。(by sally)こうならなきゃ気づかない私も私だが、数ヶ月で気づいた自分をほめておこう。しばらく、禁アルコールで行こう。
2005.12.15
コメント(10)
「私って、ツイてる?!」と、思うことがある。「類は友を呼ぶ」と言うが、私には何か「不思議な運」があると感じるのだ。立ち向かうことが困難で、挫けそうな出来事に私が出会ったとき、不思議と似たような経験を持つ人が、身の回りに現れる。「嫁姑同居」で苦しんでいたとき、英会話スクールで同年代の同居嫁と知り合い、感じることが良く似ていて、いろんな話を聞いてもらった。今回の別居を開始したとき、子供がいないことをオットがひどく悔やんでいたため、精神的な負担に負けて不妊治療をストップしてしまった自分を責めていた。そんなとき、私より後に派遣されてきた女性が、不妊治療経験者で、私の倍以上の期間(5年も!)治療をしていて、その時の話を二人で話し合ううち、自分を責める気持ちがほぐれ、何かしらふっ切れた。そして、今回の離婚をしてから、自分の中で忘れきれない「喪失感」を抱えて働いているが、それについてすごく理解を示してくれる人に出会った。今の職場の先輩女性である。よく聞くと、彼女は離婚経験者で今は再婚されているが、前夫との間に生まれた子供を夫側に取られ、一度も会わせてもらえないそうだ。現在のご主人との間にも子供はもうけておられるが、今でも1日たりとも、その前夫との間の子供のことを忘れる日はないと言う。聞くだけで身につまされる話だが、それも自分の一部として受け入れて、今は元気に暮らされている。私も元気をもらった気がした。こうやって、関わる人達が増えていく、こうやって、自分の気持ちが変化していく、やっぱりツイている、そう思ってもいいだろう。
2005.12.14
コメント(4)
別居開始後、無理矢理に働き始めたが、離婚のこともあって正社員採用の応募が出来ず、とりあえず、本当にとりあえず、派遣で働き始めた。まったくの未経験で、小さな商社の国際部と言う部署に配属され、常務付きの英文タイピスト業務。そこで、私の「でたらめ英語」がウケて、単なるタイピング業務以外に、海外との文書のやり取り(コレスポンダンス業務)にも関わることになった。が、実際ビジネスの世界で英語を使ったことがなく(過去に英会話スクール勤務で社内メールのやり取りはあったが)、めくらめっぽうに英文メールをやり取りしてきたが、この度めでたく正規採用が決定した。来年2月より、今の派遣先で正社員として働くことになったのだ。めでたい!!目標に一つ近づいた♪そんなわけで、まじめに英会話スクールでビジネスコレスポンダンスクラス(と、言ってもマンツーマンだが)を、先週金曜日から受講し始めた。初回の授業で既に、今まで私が犯してきた過ちをハケーン!!通常、面識が無い相手には使ってはいけない言葉を、メールの中で連発していたのだった・・・。仕方ないねー、今から、徐々に直して行くさ。《今日の覚書》文頭-結語面識の無い相手=Dear Sir or Madam - Yours faithfully面識の有る相手=Dear Mr.XXX - Sincerely yours親しい相手=Dear XXX - Best wishesappreciate =相場が上がるglance one's eye down ~ =~にざっと目を通す through~remunerate=報酬を与える、報いる、償う
2005.12.13
コメント(6)
本日、午後3時、離婚届を提出してきました。私は引越しの荷造り、郵便物の転送手続きや、地方信金(実家は他府県の為、解約できないので)の預金解約、諸届けに必要な書類揃え、等等を終え、婚家でオットが会社を早退してくるのを待ち、オットの運転で市役所まで・・・周りから見ると、「出生届」あるいは「婚姻届」を出すカップルのように見えたかもしれない。会話も穏やかで、口調も優しい…そのせいか、市民課の窓口に二人で近づくと、受付の男性もにこやかに応対してくれたが、届けを見てしどろもどろになった。市役所の人でも驚くのか、と、心の中でつぶやいた。終始、穏やかに届出は完了し、そのあと、お隣に住んでいる、オット方の本家の伯父、伯母に挨拶に行った。(この話は後日書くことにしよう。)そして、駅までオットに車で送ってもらい、JRに乗り込んだ。窓には、いろんな景色が映っては消えていく。保育園に英語を教えに行くときに、いつも通ったデパート、ドライブで見に行った明石海峡大橋、オットが「Sallyは俺の服ばかり買って、自分の服を買わない」と言って、強引に私を連れて服を買いにきたポルトバザール、新婚旅行で夜行フェリーに乗るため、車で神戸港まで走った高速、みんな、涙ににじんでキレイに輝いていた。もう、前を見るしかない。私の好きな本、ミヒャエル・エンデの「モモ」のなかで、ベッポという道路掃除夫が言った言葉を思い出した。「自分の掃いている道路のすぐ先だけを見るのだ」と。道の終わりがどこなのかを見ようとすると、先があまりに長くて途方にくれてしまう。自分のすぐ先を見て掃いていれば、いつしかゴールがやってくるのだ。今の自分の少し先のことだけを考えて、一生懸命に生きよう。ずっと先のことを考えて、嘆く人生は楽しくないから。
2005.12.12
コメント(6)
私たち夫婦の離婚の日取りが決まった。12月12日月曜日、二人で届けを出しに行く。半月ぐらい前、二人で会って、今後について話し合った。精神論ではなく、荷物をどうするか、とか、親戚への挨拶をどうするか、という物理的な問題についての話だった。そのとき、別居前に婚家においたまま出てきた、白紙の離婚届を渡され、暗黙の了解で「私の書くべきところを記入して、父に保証人欄の署名をしてもらう」んだ、という理解で受け取ってきた。が、それからその白紙の届けはずっと机の上に置きっぱなしで、何度かペンを持って、それに向かうのだが、書き込むことが出来なかった。が、先日腹を決めて、間違ってもう一度書くようなことが無いように、2階の自分の部屋で、慎重に自分の記入するべきところを埋め、階下へ持っていくと、父はもう就寝していたので、母に保証人欄の記入を頼んだ。母はペンを持って、机に向かったが、数秒後、「向こう(オット側)が何も書いてないのに、こんなんおかしいわ。うちから離婚したいといってる訳じゃないやん。あんた、xxx君に言ってみ、そっちが書いてくれなかったら書けへんって。」と言い出した。私は、それまでの数週間、自分が白紙の届けに向かって、何度涙をこらえたかを思い出し、「辛いのはわかるけど、私はもっと長い時間悩んで名前を書いたんだ!」と母に憤った。受け取るときは、白紙に書き込むことがそんなに自分を消耗させるとは思いもせず受け取った。が、それを今更「書けないから、そっちが書いて」とオットに返せない、自分が感じるのと同じことをオットも感じるんだ、と、自分に言い聞かせて、ようやく書いた離婚届。私は「もういい!ほかの人に頼むから!」と、2階の自分の部屋に戻った。そして、携帯から近くに住む兄に電話をし、保証人になって欲しいと頼んだが、仕事が忙しく会えない事がわかり、断念。考えを改め、自分からオットに頼んで、今手元にある届けをオットに渡し、それを先方で記入してもらい、それを私が受け取って、また私が母に記入を頼み、それをまた婚家にもって行き、二人で届けを出そうと決めた。(はじめはオット一人に届けをしてもらうつもりだったが、届けを書くだけでこんなに辛いのに、一人で提出に行く彼はどれほど辛いだろう、と思い直したのだ)そう思って、彼の携帯に電話をすると・・・電話の向こうから言い争う声が聞こえる。それは階下から、わが父親が(おそらく母が、寝ている父に頼んだのだろう)電話で「白紙の離婚届を渡すなんて、非常識もはなはだしい!」と、オットを責め立てているのだった。(オットが携帯を取って、今自分が話している会話を意図的に私に聞かせたのである)それ以外の過去のことまで、父は責めている、それがわかった。あわてて私は父の元まで行き、電話のキリがついたところで代わってもらい、オットにこうなった経緯(ギリギリまで自分が記入できなかった理由)を説明した。彼は「白紙の届けがそんなにsallyを傷つけるとは思わなかった。本当にごめん。明日、俺と母親の記入を済ませて、速達で届けを送るわ。」と言った。そんなわけで、翌々日、速達で届いた記入済みの届けに、もう一度私は署名し、今度は父親に証人欄を記入してもらった。ここで一つ納得いかないのは、一番書くことに手間取った私は、結局2度も届けを書くことになったのだ、如何なものか?もう一つ言わせてもらえば、白紙の届けを渡すのが非常識かと言えば、それはどうだろう?全て記入されていて、あとは自分の署名のみ、と言う状態の届けをもらっても、やはり「ここまで私と早く別れたいのか?」と、辛かっただろうと思うのだが。そんなわけで、その離婚届を持って明日婚家へ戻り、引越しの荷造りをし、月曜日に提出する予定。さっき、荷物を用意していたら、婚家の鍵が出てきた。届けを出した後、オットに返すことになるだろう・・・。鍵には、姑にもらった鈴と「子授け祈願」のお守りがついていた。涙が出た。
2005.12.10
コメント(10)
私が実家に帰る前夜、オットと言い争いになった。もともと「何故離婚したいのか?」というのが、私にはさっぱりわからなかった。オットが言うには、最近私の楽しそうな顔を見たことが無い、オット自身も5月の旅行(萩と倉敷に行った)以後楽しいと思ったことが無い、そんな話だった。今考えても、よくわからない。実際、長い人生のうち山もあれば谷もある、その何度も繰り返す谷の部分の一度ではないのか?そんな話は。こんな理由で離婚をしていては、一生のうちに何度離婚しなければならないだろう?例えば、「他に好きな人ができた」、「莫大な借金を抱え、姿を消すしかない」、「配偶者の暴力に耐えられない」、アル中などの深刻な病気、などの理由ならまだわかる。そんなわけだから、どうしても納得のいく理由が知りたかった。そして、その疑問をぶつけると、「お前は言うことに理屈が通っていて、俺には反論の余地が無いのが嫌だ」とか、「他人から『子供はまだか?』と聞かれるのが嫌で、独身になれば聞かれない」とか、「養う家族がいると思うと、仕事を辞めたくても辞められない」とか、枝葉の部分の話をほじくり出してきた。それでも、私はその枝葉から真実を導き出そうと、真剣に彼の話を聞いた。が、終いには「嫌なものは嫌なんだ!」で終わった。その夜、最終的には、「二人のどちらかの気持ちが変わるまで、なんて、ゴールの無い別居はできない、期限を切れ!」と彼が言うので、私が「あなたが決めて」と言うと、「じゃあ、明日だ」と言われる始末。呆然とした私が、正気を取り戻して「せめて3ヶ月ちょうだい」と頼んだところで、ベッドに入った。翌朝、オットの弁当を作り、布団のシーツを換え、床を磨き、アイロンがけをし、自分の荷物をまとめながら泣いた。とめどなく泣いた。自分がつめている荷物が何であるか、わかるはずも無いほどに混乱していた。が、もう後には引けない、別居するしかないのだ。実家へ向かうJRの中でも涙は止まらなかった。思考はぐるぐる繰り返す。「どうしてこうなってしまったのだろう・・・」と。
2005.12.09
コメント(6)
夢に一歩近づいた!両親に、特に父親にずっと反対されていた一人暮らし。が、それを目標にすることで、何とか精神の均衡を保っていた私は、部屋探しをして、めぼしい物件を見つけ、本契約をする直前で悶々としていた。と、言うのも、契約には保証人が必要である。且つ、一人で引越しを完了させるには、私はあまりにも非力である。かねてから私は、人間は「いかに迷惑をかける相手に恵まれるか」で、人生が変わる、という考えを持っている。人間誰しも、「誰にも迷惑をかけずに生きて行きたい」と思うもの。が、自分の家族との憩いの時間を過ごしているときに、友人から「交通事故に遭った!」と電話があったとする、その相手が自分の大事な人間であれば、すぐに駆けつけたいと思う。しかし、その相手がそれほど自分にとって大きな存在で無かったなら…冷酷な人間だと思われるかもしれない、けれど、私なら「何で私に連絡してくるんだろう?他に行ってくれる人がいないのか?」と、はじめに訝ってしまうはず。理性的に考えられるようになって初めて、その場に駆けつけられるだろう。つまりは、相手に頼ったときに、前者のように感じてくれる人間がいれば、それが自分を大事に思ってくれる人間だと言うことだ。と、話は本筋から逸れたが、その迷惑をかけても、それを喜んで受け入れてくれるはずの両親が、まだ一人暮らしに反対している、と言うところが私を悩ませていた。が、ここ数日、この一人暮らしの話をスムーズに受け入れてもらうため、いろんな芝居を打ち、両親にいろんな問いを投げかけ、私が幸せになるために、いかに一人の時間が重要であるかを、繰り返し考えてもらい、そして、今日、父、母、一人ずつに誠心誠意、自分の気持ちを伝えてみた…やったぁ~~!二人とも納得して、一人暮らしの承諾をもらえた。いい歳をして、こういうのはおかしいが、親を説き伏せる力がついた気がする。今まで、親を納得させられなくても、強引にやり抜いたこともあったが、そうではなく、みんなが頷いた、と言うことがうれしい。
2005.12.08
コメント(8)
さて、勢い良く仕事を辞めた私。その後したことは・・・ひたすら泣いた。毎日、泣いた。涙が声を上げて泣いた。オットの出勤を見送ると、洗濯をし、掃除をし、買い物に行き、洗濯物をたたみ、アイロンがけをし、食事の用意をする直前まで泣いた。で、夕食の準備が終わるころ、顔の腫れはひき、鼻声も治まった。オットが帰ってきてから、翌朝出勤するまでは、ひたすら笑っていた。笑わなければ泣いてしまう危険に恐れて、ただ、ただ笑っていた。その頃から姑が優しくなった。今まで、自分より不幸な人間は居ない、と思っていたのに、それ以上に私が不幸だと思ったかのようだった。私の生活は全てオットの為にあった。シーツや枕カバーを硬めに糊付けするのは、オットの好みだったから。フローリングの床磨きをマメにするのは、オットがホコリアレルギー体質で、鼻水やくしゃみをよくしたから。お弁当にタコのウィンナーや、ウサギのリンゴを入れるのは、オットが子供のように喜んだから・・・「別れたい」と言われてからも、2ヶ月ほどそんな生活が続いた。半日泣いて、半日笑うのが、私の日常になった。そのころ、よく相談にのってくれた義弟嫁の発案で、私が婚家の近くで部屋を借りて一人暮らしをし、毎週末オットに泊まりに来てもらう「週末婚」をしてみるか、と言う気になった。ずっと居るから、妻が居なくて「寂しい」とか「不便だ」とわからないのかもしれない、あるいは恋人時代の頃のように、毎週末が楽しみになるかもしれない、と、淡い期待を抱いて、近くの賃貸を探して回った。一旦、家具付き家電付きの1Kを借りる申し込みをしたが、所詮主婦、オットが保証人にならないと、部屋も借りられないのだった。もちろんオットが週末婚を望むわけもなく、あっさり断念。ある夜、オットがこう言った。「Sallyは、こんな生活しんどくないの?(俺はこんなにしんどいのに)」と。昼間の私を知らない。私の苦しみを知らない。どれほどの時間をこれまで彼の為に費やしていたかを知らない。急に、その家に居ることが出来なくなった。9月のある夜、「お願い、明日から実家に帰らせて」と夫に告げた。オットは離婚協議書と離婚届を私の目の前に出し、それを書いてから出て行ってくれと言った。それは出来なかった、私の中にはまだ「私が居なくて寂しい、と、年老いてからの人生を共にするのは私だ、と、思い直してほしい」というかすかな希望を胸に抱いていた。それをオットに伝えたが、彼の耳から入ったその言葉は、彼の心には届かなかったようだった。そうして、その翌日、私は実家に当座の荷物を送り、婚家を後にした。(続く)
2005.12.06
コメント(6)
私の目標の一つである「独立する」につながる「一人暮らし」。現在、実家の両親におんぶに抱っこな状態の私であるが、これは両親の希望でもある。また、このブログで語る予定の話題の一つ、「鬱病」は今回の離婚話勃発以後、当然のように私の心に住み着いた仲間である。(嫌悪しつつ、それでもそいつと上手くやっていかねば、この先の人生は明るくならない。そんなわけで現在明るく治療中である。)良くご存知の方もいらっしゃると思うが、この鬱病患者、一番気にせねばならないことは、「自殺しないように」気をつけることである。我が両親は、そのキーワードに恐れて、私を一人に出来ないのである。が、私的には「いい歳こいて、親におんぶに抱っこ」と言う方が、精神衛生上よろしくないのだ!!そんなわけで、現在密かに駅近の1Kあたりを探している。ってか、あたりをつけて、物件も見て回っているのだ。ついに、ベランダからタワーが見える高さ8階最寄の駅から歩いて5分弱、というブケンをハケーン!!(物件を発見)お値段も魅力的、オートロックや有線放送などと言う、バブル時代の名残も妖しく、私の心を鷲掴み状態である。さあ、これからどうやって実家を脱出するか?まさに頭の絞りどころ。取り敢えず、夢に一歩近づいた、と言うことだけは心に刻んでおくべし。
2005.12.05
コメント(4)
人間には3つの窓があると言う。1つ目は、自分から自分を見るための窓。2つ目は、他人から自分を見るための窓。3つ目は、自分にも他人にも見えない自分を見るための窓。私の場合、自分で認識している自分は、周りの人の目を気にして、決断に時間がかかり、大胆に振舞えない引っ込み思案なワタシ。けど、友人からは、人当たりが良くて社交的だとか、会話の切り返しが早いとも言われる。3つ目の窓に関しては潜在的な能力なので、未だ開花せず、と、書いておこう。なぜ、こんな話になったかと言うと・・・昨日、いわゆるオフ会つーものに酸化参加してみた。他のサイトで知り合い、楽天でもお世話になった方々と私を含めて、計4名。ネットキャラと実際が、すごくギャップのあった方は無く(外見が著しくギャップのあった方もあるものの)、会話も想定内の楽しさ(by堀江氏)を満喫した次第。知り合ってから3年ぐらい経過してからのオフ会、元々ご近所であったかのような会話。男性陣が仕事話題に興じている間、同年代主婦同士は飲んで、食べて、飲んで、飲んで、という調子。明るく、よく気のつくオクサマと話は尽きず、今オフ会をきっかけに、付き合いが深まる予感。そんな中、私は彼女らの目にどのように映ったのだろう?現状況は暗いが、振る舞いは常人程度であったと思われ、酔っ払い度は中の上、いや、上の下程度か?!会話の中で「SallyさんはB型でしょう?」と言う意見と「A型よね?」と言う意見があり、しかしどちらも不正解と言う結果。一番ありがちなO型なのだが、そこにハマらない何かがあるのか?血液型談義ほど不毛なものは無いように感じるが、数人集まると、この話題はかなり有効であり、相手が自分に対する印象がどうなのか、自分が相手をどう感じているか、を伝え合えるいい手段であると再認識したのであった。「オールA型だった皆様。O型のワタシとも、お付き合いヨロシク!」
2005.12.05
コメント(4)

今日も、離婚について書こうかと思ったものの、連日はくどいので最近の変化について…離婚を決断して、一番変わったのは、鏡の前にいる時間。今まで家事に追われていて、じっくり自分の顔を見ることがほとんどなかった。身だしなみとして、化粧はしても、その出来栄えや、化粧する前の肌の調子などは、じっくり観察することが無かったのだ。化粧がつきにくかったり、にきび(この歳になるとにきびと言わず「吹き出物」らしいが)が痛かったりして、肌の不調に気づくぐらいで、その日、その日のコンディションなど、どうでも良かった。が、オットと言う生物の世話をしなくて良くなると、突如自分の時間がすごい割合で増殖し、肌や髪のチェックが出来るようになった。そうなると、あれもこれも気になり、手を掛けたくなる(金を掛けたくならないところが主婦らしい(笑))。今まで、化粧水以外のものを顔につけるのは、よほど乾燥したときだけであったが、このところ毎晩せっせと美白化粧水に美容液を使用中。気持ちに余裕が出てきたのか??で、先日目に付いて購入したのが、コレ↓ 一時期、ブームを呼んだ「コエンザイムQ10」入りクリームだ!!使い始めて1週間であるが、確かに頬の感触がやわらかくなった。自分でわかるだけかもしれない、傍目にはさっぱりわからないかもしれない…が、この変化もアシタの私のためになるであろう。小さなステップアップに乾杯!
2005.12.03
コメント(4)
絶対1日で終わらない話なので、タイトルに(その1)とつけてみた。始まりは何だっただろう?きっかけは、同居の姑の態度の悪化。私が4月から新しい仕事を始めたため、結婚してから仕事を持ったことの無かった姑は、私が疎ましかったのだろう。言動、振る舞いが常軌を逸していた。そんなある日、オットの「体調悪い」週間が始まった。もともと虚弱な彼は、花粉症の時期、夏バテ、年末の会社決算時期、急に激しく疲れる時期があり、たいていは1週間少しで回復した。が、この夏の体力消耗は長く、「しんどい」と言っては寝転んでしまい、夫婦の会話が無くなった。日頃私の口からこぼれるのは、姑の愚痴ばかり。それを言わないでおこう、とすると、私から笑顔が無くなった。「これではいけない!」と思った私は、自分に笑顔を取り戻すのは、姑と別居するしかない!と思い、「何で、私と話をしようとしないの?これじゃ一緒に居る意味無いやん!もう別々になるのん?」と、オットに噛み付いた。そうやって、「姑との別居」を獲得するつもりだった。(仕事は辞めたくなかった、すごく頑張って得たポジションだったから)が、オットは「そうなっても(離婚しても)仕方が無い」と言い切った。私は言葉に出して「そんなん、二人でやり直そう。おかあさんと別居しようよ」と、嘆願した。しかし、それは彼の中ではありえない選択肢だったようだ。そこで私は、いつも相談相手になってくれる義弟嫁に事情を話してみた。すると、義弟経由で姑から「あんたらが仲直りできるんやったら、別居してもいいよ」と言う言葉をもらったが、夫はこう言った「母親と別居しても、俺らの関係は戻らないと思う。」と。それを聞いて、私は頭が真っ白になった。私の中では、二人で暮らす夫婦の楽しい未来が見えていたから。すぐさま私は仕事を辞めた。今、自分が笑えない理由は仕事の疲れと同居のストレスが重なったからだ、どうにかして笑顔を取り戻さなくては…どうしても辞めたくなかった幼児英語講師の仕事、けれど、それ以上に失いたくなかったオットとの関係だった。(続く)
2005.12.02
コメント(6)
全21件 (21件中 1-21件目)
1