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かなり恥ずかしくて、ブログにかけなかったエピソード、日をあけて告白です。何を隠そう(隠してないが)、かなりの迷ドライバーの私。仕事でやむを得ず、月に2~3度車を運転する。銀行に書類を届けたり、ちょっとした雑用に出かけるときだけ。大抵は他の経理担当者が行ってくれるが、無免許の為、雨や雪の日だけは私が交代。で、先日、とある銀行に行った折、初めてその銀行のパーキングに駐車した。上手く説明できないが、パーキングの幅が狭いため、頭から車庫入れし、両サイドの壁に向かってはすかいに車を停めるようになっている。そのため、パーキング内で方向転換できず、出るときはバックで・・・が、そんな高等技術、私にあるわけがなく、案の定ハマッテしまった。泣きそうになりながら、何度も切り返してバックで出口に向かっていると・・・見知らぬミドル(妙齢の男性というのか?)が、「代わりに外まで出してあげましょうか?」と声を掛けてくれた。ここぞとばかりに、「お願いします♪」と、私がハンドルを任せたことは言うまでもない。本当に、捨てる神あれば、拾う神ありである(言葉の用法を間違えているが・・・)。そして、昨日、またしてもその狭いパーキングの銀行へ行くことに。もう、かなり投げやりモードで、もし出せなければ、銀行員に頼むか?と、ハラを決めていた。が、なな、なんと!時間は通常人の3倍ほどかかったが、一人で出庫出来たのである。大感動である。人間やれば出来る!日々、成長♪
2006.01.31
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今日こそ、友達無くすブログ投稿。もういい加減、後ろ向きな内容もやめとけよ、と、私の理性はアドバイスしてくれるが、その対極にあるものが、私の背中を押している。と、言う言い訳なぞどうでもいいが、はっきり言えば、私はストーカーである。離婚後、いや、別居開始後、オットのブログをこっそり読みに行っているのだ。もともと、HP作成やネット検索のことを教えてくれたのは彼。そして、ブログ黎明期に私に勧めてくれたのも彼。そんな彼がブログをしてない訳がない。いろんなサイトで活躍中である。見ても仕方ないのに、どうしてるかな?と、ついつい見に行ってしまう自分のバカさに呆れるばかりだ。そして、そのバカさが私を崖っぷちから突き落とした。このしばらく、彼のサイトにはいろんな写真がアップされていた。それは、過去に私たちが良く訪れた菜の花畑や寺院など、写真を撮りにあちこち行った場所へ、彼があらためて訪れたことを物語る写真ばかりだった。二人の思い出を訪ね歩く彼を思い、胸が痛んだし、辛かった。が、何かしら連帯感のようなものを感じていた。しかし、数日前、とある写真がアップされたことで、その連帯感も消え去った。休日に外食をほとんどしない彼が、日曜の昼食をうどん屋でとっていた。対面のテーブルで黒いセーターのほっそらした誰かと。それが誰かはわからないけれど、二人で向かい合ってうどんを食べるとき、その写真を撮る姿を見られても恥ずかしくない相手である、と言うことだけはわかる。そうなると、今までの、私との「思い出をたどる」写真たちも、その黒いセーターの主と行っていたのかも知れないという疑念が沸き起こる。「元妻と行って楽しかった場所だから、新しい友人にも教えてあげよう」と言う彼の行動パターンも見え始めてきた。これはあくまでも、私のネガティブな想像の域を超えず、こんなバカな妄想に悩まされる自分にも、呆れてものが言えないのだが、頭に浮かんでしまったものは仕方がない。こんな自分のバカさをあらためて感じ、ポジティブな状態を維持できない人間の器の小ささを認めつつ、ここに誓うのである。もう、ストーキング行為はしない、と。もう、オットのサイトは覗かない!!と。
2006.01.30
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巷には、「私って、心配性だから困ってしまう」と言うようなことを言う人が多い。実際、母親業をしている女性の大部分はそうであろう。どちらかと言うと、「心配ばかりして損な役回りだわ」的に感じている人の方が多いのではないだろうか?かく言う私も、主婦時代はそうであった。一転、今は心配することは、半分以下に減った。確かに、年老いた両親のことは絶えず心配しているが、今まではオットの健康、精神状態、仕事のストレス、嫁姑の間に入る精神的苦痛を案じ、姑の健康、ご機嫌、将来的な生活の仕方、ひいては彼女の生きがいをどう見つけるか?まで心配していた。こうやって、自分を追い詰めていた感はあるが、今、その心配事から開放されると、何か虚しさに似た感情が沸いてくる。「もう、私にはオットのことを心配する権利はないんだ。」と。そう、もう彼を振り返ることは許されないのだ。と言うより、彼のことを考えないようにしなければ、前には進めない、そう自分に言い聞かせている。私の好きな映画に「フライドグリーントマト」と言う映画がある。その中で、夫、息子に先立たれ、ずっと看病をしてやっていた友人にも先立たれ、一人になった老女が「今まで誰の世話もしない人生なんて考えられなかった」と、悲しいような、寂しいような、何とも驚いたように呟くのだが、そのシーンが私の中に急に蘇った。本当にそう、驚きと共に味わう空虚感である。先日、父が「カレーが食べたい」と言うので、「私が作るわ」と言い置き、サルサ教室に出かけた。帰り道カレーの材料を買って実家に着くと、既に母がカレーを作っていた。別に何と言う話ではない、それで当然である。しかし、私には言葉に出せない寂しさがこみ上げてきた。オットは私の作るカレーが好きだった。「今度はいつカレー作ってくれるのん?」と、聞くこともあった。夕食がカレーだとわかった日は、帰宅後、急いで着替えて台所にやって来た。そういう思い出が、次から次へと私の中で浮かんでは消え、消えては浮かぶ。これまでバタバタと生活がめまぐるしく変化していたが、少しずつ落ち着きを取り戻し始めたこの頃。もうそろそろこの離婚がらみの話題も、「まだ言ってるの?」と思われそうで、友人たちとの話にも出せない私の意地。身近な両親にも、「娘は離婚を乗り越えた」と思って欲しい気持ちのほうが先走って、どうも弱音を吐けない。そういうものがゴタマゼになって、今の私を形成している。これがいわゆる、気合の谷間なのだろう。もう少し、活発に人と関わっていかなければならないのかもしれない・・・。と、言いつつ、それさえも億劫なのだが・・・。
2006.01.29
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誰が?というと、私のこと。もろもろの変更手続きをするため、平日に休暇をとった。区役所に行き、免許の氏名、住所、本籍変更用に住民票を取った。ついでに、銀行、郵便局の変更の為にも、余分に住民票を取った。(この時点で、戸籍抄本をとらなかった私が悪かった)とある、銀行で口座氏名の変更と使用としたら、「戸籍抄本が必要です」といわれたのだが、時既に遅く、銀行窓口が閉まる3時まであと30分しかなかった。その直前まで、区役所に住民票を取りに行っていたのだが、タイミングが悪く、役所は混み混みで住民票をもらうだけでも小1時間かかったところだった。それから、もう一度戸籍をとりに行っていたのでは間に合わない。免許証は、銀行の後に変更に行く予定だったので、まだ旧姓のままだし、私が旧姓から今の姓に変わった経緯がわかる書類は無く、八方塞だった。が、この休暇を逃すと、来月から正社員になる私に有給休暇が発生する6ヵ月後まで、平日に休みを取れない、と、焦りが生じる。(全給料の5%以上が皆勤手当てであり、1日でも休むとそれが飛んでしまい、且つ、休んだ日数の給料もマイナスになるので、私的にはかなり痛いのである。)私 「あの、免許証の写真で私が本人である確認が出来て、旧姓、旧住所も確認できるし、住民票で旧住所も合致してるし、今の住所と姓も確認できるし、それで何とかなりませんか?」銀行 「氏名変更は戸籍抄本でないとできません。」私 「郵送で変更手続きは出来ますか?」銀行 「住所変更だけならできますよ、郵送で。氏名は出来ません。」私 「じゃ、住所だけ変更して、氏名変更は先にします。」銀行 「そうですね、そうしてください」私 「あの、ここの口座が給料振込先なんですが、給料名義は今の新しい姓になるので、姓が違っても問題ないですか?」銀行 「それは、入金できません(きっぱり!)」私 「え、何とか変更できませんか?じゃ、代理人に変更してもらえますか?」銀行 「変更はご本人様でないと出来ません。」私 「じゃ、今日本人が届けを出しますから、後日郵送で戸籍抄本を送るので、手続きしてもらえませんか?」銀行 「それは、ちょっと・・・」私 「怒!」ついにキレた。自分が悪いのだが、切羽詰ってくると、つい逆切れ。次の銀行も行くので、と、その場を去る雰囲気を見せると、その銀行員はとても嬉しそうだった。ややこしいことを言う客は、はよ帰ってくれ、ということだろうか?いくらその客が、口座名義変更できなくて給料が入金されなくて困っても、自分には被害はない、そういうことなのだな?よーーーーく、わかった。絶対に、この事はあなたの銀行の顧客サービスセンターに訴えてやる!!(by上島竜兵)そんな心の声に耳を傾けながら、その後、他の銀行や郵便局にも同じ書類を持って変更に行ってみたが、拍子抜けなぐらい、どこもてきぱきと変更手続きを進めてくれた。もちろん、免許証の変更もあっという間に出来た。給与振込みとカード引き落としに使っている口座だけが、変更できなかった、というお粗末さ。はてさて、どうやって氏名変更しよう??
2006.01.27
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もともと、共働きの両親の元で育った私は、インスタント食品や冷凍食品に、ほとんど違和感を持たなかった。が、結婚後、同居していた姑は、徹底的にそういう「手抜き」を奨励するグッズを嫌った。食洗機しかり、だしの素しかり。冷凍食品などもってのほか!だった。確かに、新鮮な食材で手間ひまかけたものの方が美味しい、その理屈もわかった。自分でも、その味の差がわかるものについては、私なりのこだわりを持つようにもなった。煮魚や刺身は、新鮮なものを、調理してすぐに食べるのが一番美味しい、とも思うようになった。が、姑の目もあったので、オットの弁当にも手抜きはなかなか出来なかった。(とは言え、数年の間に気も強くなり、少しの手抜きはやり通せるようになったが・・・)そんなわけで、弁当のおかずに冷凍食品を使う頻度はかなり低かった。言い換えれば、この4年の結婚生活で私の中にも「手抜き蔑視主義」が、本人の無意識のうちに心の奥底で根を張っていたとも言える。一転、自分一人のことをすればよくなったこの数ヶ月。本当に手抜きしまくりである。いいのか?これで???という状態。で、別居後これまで自分の弁当に冷凍食品をほぼ毎日入れてきた。「ソースカツ」なぞ、お気に入りだったりもする。それでも野菜だけは、緑のお野菜だけは、冷凍食品を使わなかった。しかし、そんな日々も2006年1月25日で終わった。買い忘れた弁当用野菜、が、それを理由に外食する気になれなかった。そして冷凍庫には、オクラの冷食。使わない手はないだろう。使ってみた。かつお節としょうゆで和えただけ。それが、予想を超えてうまい!!茹でてから時間が経つと、オクラ特有のエグみが出るものだが、冷凍モノにはそれが無い!食感はコリコリしていて、あの粘りもちゃんとある。なのに、青臭さとエグみが皆無。よっ、見直したよ~、冷凍食品!!
2006.01.25
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昨日の今日だが、もう一発リコンネタ。オットとの連絡がほとんどつかなくなった。元々、うるさいぐらいに私の世話を焼いていた彼が、である。そのときの私には、彼の様子が目に見えるような気がした。当時の私が、半ば確信的に感じたことは・・・本来の理由はどうあれ(彼はそれを見つめたくないのだ、と私は思った)、彼自身は「結婚」と言う呪縛から逃れなければならない、と、妄信的に信じているのだろうと言うこと。離婚を承諾してくれない私の存在を疎み、たまに、何事も無かったかのように連絡をしてくる妻の存在を煩わしく思っているだろうと言うこと。これらのことから、彼が「もう、俺のことは放っておいてくれよ!!」と、背中を丸め、頭を抱えている姿が、私の脳裏にまざまざと浮かんだりもした。おそらく、この私の確信は真実であっただろう。未だにその自信がある。彼が病んでいたと、自分の中で結論付けた私は、このあと「彼を助けなければ!」という使命感を感じ、何とかして自分のように治療を受けさせようと、いろいろ画策をした。まず、彼のこれまでの様子や言動を、自分のかかりつけのドクターに相談してみたが、鬱の完治していない間に、オットに接することは、私の病状を悪化させ、相乗的にお互いの病状が悪化する可能性が大きいと言われ、極力接しないことを条件にされた。それでは・・・と、姑にやんわりと手紙を書いた。「先日、おかあさんの旅行中に帰宅した折、疲れている彼の様子が心配になったので、一度大きな病院の内科などを受診した方がいいかもしれません」と。もちろん、本心は心療内科を受診して欲しかったが、それをそのまま述べるには、元姑は難関過ぎた。「あの子の事は、そばにいて、母親である私が一番わかってる!」と言い切られる予感もあったので、あくまでやんわりとほのめかす程度に留めた。その手紙には、私が鬱病の治療を受けていて、投薬治療でずいぶん快方に向かっている、と言うことも書いた。私が彼女なら、その二つのことを関連付けて考えるし、手紙というものはそこまで考えて書かれているものだ、と感じるはずだった。が、この辺は実際どうとられたのか、未だに不明である。この手紙による、「婉曲な嘆願」は数回続いたが、一向受け入れられた形跡は無かった。しかたない、あきらめた。そうこうする間に、私の人生は他から加わる力によって、見る見る転がっていくことになる・・・。
2006.01.24
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前回の「私が~(その5)」を書いてから3週間。その間も、やはり、ふとしたきっかけで思いを馳せる、離婚するまでの自分の生活。もう、外観ほとんど全快したと見える様相であるが、内面的に、離婚が濃い影を落としているのは、疑うまでも無い。さて、私の中にオットも精神を病んでいたのかもしれない、という疑念がわいた時、それまで心の中で渦を巻いて、私のエネルギーを吸い取っていた、ドロドロとしたうねりが穏やかに凪いでいくのがわかった。理由はわかっていた。この話が持ち上がって以来、オットの発する言葉は、攻撃的で、自己中心的で、やけにヒステリックになり、私自身を痛めつけるような内容に変わった。今まで私の知っていたオットから出てくる言葉とは思えなかった。「子供が出来ないから別れたい」、「明日、離婚したい」、「別居したら、俺がお前の生活費を出さなならんやろ!絶対嫌だ!早く離婚届を書け」、等々。言葉つきは業務的で、思いやりの欠片もなかった。今まで、彼の優しさを身にしみて感じていた分、その反動によるダメージは大きかった。痛みを通り越して、自分の気持ちも感じられないぐらい、心を麻痺させていた。それが、オットも病んでいたという、意識が芽生えることで、それまで凶器であった彼の言葉が、徐々に意味を失い、形を失い、もやにかすんでおぼろになった。ある意味、気持ちがフラットになったと言ってもいいだろう。そんなとき、オットとのコンタクトがほとんど取れなくなり、やむを得ない事情の場合のみ、普通の他人以上によそよそしいメールだけが届くようになった。
2006.01.23
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先週のことだが、母方の伯母が入院した。いつも、何かあると連絡をくれ、親しい付き合いのあった伯母。私が入院したときも、原付バイクしか乗れないのに、はるばる遠くから見舞いに来てくれた。祖母や父が入院したときも、奈良の石切神社までお百度を踏みに行ってくれた。そんな伯母が、今年は気弱で元気の無い正月を迎えていた。彼女の身近にいた伯父(旦那さん)や叔母(近所に住む実妹)は「今年の彼女は何かおかしい」と感じていたらしい。大腸から大量の出血があり、緊急で入院した伯母だが、その検査過程で他の病因が発見され、5月ぐらいまでは入院生活が続くらしい。そんな伯母が「今度は(以前に脳梗塞を患って入院したことがある)家に帰れないかもしれない・・・」と、いつに無く気弱なことを言う。脳梗塞の治療中は出血することが命取りになるのに、今回の入院は大きな外科手術を伴うため、不安に押しつぶされそうなのだろう。「私の為にお百度参りをして欲しい」「うちに帰れるように、お守りの草履の腰下げが欲しい」と、わが母に頼んだらしい。お百度は、丁度他の伯父、伯母が参ってきたのだが、草履は手に入らなかった。そんなわけで、私が、見よう見真似で描いてみた。実物が手元に無いので、ネット検索で画像を引っ張り、絵手紙にした。治療をすれば、ほんの少しずつでも退院に近づくんだよ、と言う気持ちをこめて「こまたで一歩、また一歩」と言葉を添えた。たいしたものではないが、「うちに帰れないかもしれない」と言う不安が、「諦めず、治療をして元気になろう」という勇気に変わってくれることを、祈りつつ。
2006.01.22
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今日は、単なる覚書ブログ。現在勤め先のわがボス(72歳男)の、名言を忘れないように書き置く。人を育てるときは・・・1.部下に仕事を教える。2.部下の前で、その仕事をやって見せる。3.部下に、その仕事をやらせる。4.そしてほめる。なのだそうだ。実際に彼はそれを実践している。確かに老人なので、強引だったり、デリカシーが無かったりするが、なかなかにチャーミングな老紳士である。(ちょっと褒めすぎ)
2006.01.21
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今流行のデトックス(毒出し)、やっぱり気になる。基本は、体内に蓄積された有害金属(水銀など)を排出することを言うのだそうだが、実際この言葉は多様化され、体の中の老廃物を取り除くこと全般に使われている。それなら、今私が行っていることも、一種のデトックスだろう??と、思いついた。何をしているか?それは、サプリメントをのんでいる、ただそれだけだ。それも自社製品・・・名前は出せないが(医薬品原料の商社でありながら、自社でも研究室を保有しサプリメント販売も行っているため)、社内販売で手に入る。その成分は一時期話題になったフコイダンである。わかめやモズクなどのヌメリ成分が元となっていて、免疫力を高め、抗酸化効果も望めるとか。が、私の目的はそれではない。そう、老廃物の排出だ。「ちょっと最近、トイレとご無沙汰ね」などと思ったら、即、服用。6時間後には「My best friend is a toilet(あー、すっきり)♪」といった具合だ。「やっぱり、回送海草か!!」それが、私の答えである。これからは、ワタシ、時流に乗ってデトックスしてる!!と、胸を張って言うことにしよう。
2006.01.19
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丁度、このタイトルのブログを書こうと思っていたら、思わぬ話題が飛び込みポストポーン(延期)。そしたら、常連さんからのコメントに同じ言葉があり、びっくり!これは、このブログを書け、との神、いや仏からのご啓示か?話はおとといに遡る・・・わが母親が旧知の友人宅を訪れた。先月、近くのスーパーであった折、彼女のご主人が急逝されたとの由。以前パート仲間で会った彼女を知る友人立ちに連絡網を回し、数人でお悔やみに窺った、と言うわけだ。そこで、わが母は自分が「井の中の蛙」であったことを実感した。かの未亡人となった友人宅には、お骨も仏壇も家財道具も無かった。彼女が内職で作っている商品の山のみである。長く患い、入退院を繰り返したご主人の為に、貯金も使い果たし、手元はなにも残っていない。そして、二人は本当は夫婦ではなかった。どちらにも、れっきとした正式な配偶者が実家におり、彼女達に支払われる年金や保険の手続きはなされていない。内縁関係を20年以上続けていたため、彼女の本当の姓では生活が難しく、預金もご主人の姓で作っていた(昔は本人確認書類無くても作れたんですね、預金)ため、今となっては本人確認書類など無く、預金は引き出し不可能となってしまった。ご主人の正妻の子供たちに毎年お年玉を届けていたが、そんな恩よりも父親を奪った愛人への憎しみの方が大きく、ご主人が亡くなったと連絡を入れるや否や、飛んできて、お骨、家財道具、家電製品まで、全て引き上げられてしまった、と言うのが、今の彼女の状況。集まった友人たちは、それまで想像したこともなかった状況に直面して、二の句を告げなかったそうである。出来ることは、生活保護の申請を相談してみたら?とか、民生委員に頼んで、今の賃貸の契約更新の保証人をどうするか聞いてみるように、などというアドバイスを残し、その家を後にした。母は、今まで自分の知っていた人間の種類が、いかに少なかったか、と言うことにショックを受け、他の人間を自分の基準の良し悪しでふるい分けていた、ということに後悔し、世の中には、自分には想像もつかないような苦労をしている人がいるんだ、と、まじめに感じ、「自分は井の中の蛙だ」と言うことを受け入れたようです。私が思うのは、人間、もちろん「井の中の蛙」であっていいのだ。何が人間の価値を分けるかと言うと、自分が「井の中の蛙である」と言うことを、観念的に理解し受け入れていると言うことではないだろうか?先日ご紹介した本では、布施行について、こんなことが書かれています。布施行=自分に必要なものを人に捧げることだが、それはほとんどの人間には無理なことである。例えば、目の不自由な方に亡くなった方の角膜を提供する、これは布施行のようだが、亡くなった方には角膜は必要ではない。布施行というのは、生きている状態で、自分の目が見えなくなっても、角膜を提供する、と言うのが本来の布施行である。普通の人間には、絶対無理な行、それが布施行なのだ。ここで重要なのは、「自分は布施行も出来ない人間である」と言うことを、心に刻み、申し訳なく思いながら人生を生きる、それが仏に近づく行でもあるのだ。そんなわけで、人に出会ったとき、私は自分の中にあるデータベースから似たような人物を繰り出し、「きっとこの人はこんな人!」と決込まず、新たな可能性を秘めた人物として受け入れたいものだ。
2006.01.18
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以前、英会話スクールの受付をしていた頃、スタッフルームでアメリカ人講師に「What's your goal(君の目標は何)?」と聞かれ、「GET MY FAMILY(私の家族を手に入れること)!」と、答えたことがある。「You have your family already(今も家族いるじゃーん)!You don't need the business success(ビジネスでは成功したくないの)??」「It's the family I belong to(私が属する家族がね). I want to have my own family origenated from me(私から始まる家族が欲しいの)!!」と言う、若気の至りな会話が続き、もともと働くのは好きだが、優先性は極めて低いのが、私の仕事に関する感覚だった。が、離婚して、とにかく仕事を持つことが一番の課題になった。そして、めでたく2月から正社員の職にもありついた。ありがたいことである。確かに、アテンドで営業社員について海外出張に行く可能性もある、とは聞いていた。それもやむを得ないだろう、もう若さで雇ってもらえる歳ではなく、「えーぇ、こわいぃ~ぃ!」なんて言ってたら、仕事なぞもらえないのである。ここまでは、自分の「3○歳(今更歳を伏せても意味が無いが)の常識」として納得していたつもりであった。が、今日もう一度、自分のキャパ(許容量)を問い直さねばならない事態に直面した。私の直属のボスが言うにはこうである。ウチは来年あたり、北欧某国(名前を出すと会社が限定される可能性があるので)に新会社を設立することになっとんのや。で、あんたに1年ほど、いや半年でもいいから、あっちに行って欲しいのんや!!それ、まじめに考えてくれんと、ワシもおちおちしてられんのや!なー、どうや?返事、真剣に考えといてくれ!!と、言うことなのである。それを待ち望んでいた人にとっては、これはビジネスチャンスであろう。だが、私はどうなんだろう?確かに貿易業の何たるかを学び、キャリアを身につけたいとは思っている。細部まで言うと、貿易の流れを身につけ、ビジネスコレスポンダンスを習得し、このキャリアを持って、もう少し安定した企業で働きつつ、終身まで仕事がもらえる実務翻訳の仕事をするための足場を築きたい、というのが私の将来設計であった。安定を求める私があざといのか?それ以前に、私の今の能力で、新規立ち上げ企業の為に渡欧して、何が出来ると言うのだ?と言う疑問の方が大きい。取り敢えず、脳が考えることを拒否しているので、いったん思考停止。そして、北欧から日本に留学している学生宛に面接オファーメールを送ることを先決に考えよう・・・。
2006.01.17
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ときに、「全く何もしたくない」日がある。化粧も、外出も、翌日の用意さえしたくない日、それが今日だった。今、ペンディングになっているもの全てがわずらわしい日。と言うわけで、全く何もしなかった。顔洗って、着替えて、掃除して、パソして、テレビを見ていた。結婚していた頃には考えられない1日である。家事を全くせず、家にある食材を適当に食べるだけで、洗濯もなし、買い物もなし、炊事もなし、信じられない。そんな中、以前に書こうと思っていたブログ話題を思い出した。それがタイトル、「(夫婦)別居」してから「(姑との)同居」で困ったこと、なのだ。これは、今となってはどうでもいい話題であるが、当時の私には結構重大だった。昨年7月末あたりから、夫婦間がおかしくなり始め、以前のブログでお話したような生活を2ヶ月近く続けた後、9月中旬から夫婦別居と相成った。婚家にいる間から、10月はじめに姑が海外旅行に行くことが決まっていた。私たちの騒動に巻き込まれた姑も可哀想なもので、自分の意志に関係なく、もう息子夫婦は元に戻らないのかもしれない、と気をもむ毎日であったろう。そんな彼女を解放すべく、私たち夫婦は心から「自分の行ける間に行きたいところに行っておいで」と言って、その旅行に賛成していた。そして、別な意味で、私はもう一つの期待を抱いていた。いくら夫婦別居をしても、洗濯、掃除、炊事をしてくれる母親がいる限り、オットは「寂しさ」や「不便さ」を感じないだろうと思っていたので、夫婦別居した後に、母親が旅行で1週間留守にするというのは、願ったり、叶ったりだった。ほんの少しの期間ではあるが、それがきっかけでオットの気持ちが変わるかも?と、微かな希望を持って、それについてコンコンと、姑にも夫婦別居前から説明していた。「私が別居するのは、自分が離婚を認められるようになるためじゃなくて、私がいなくて『寂しい』とか『不便だ』だと、XXX(オットの名前)君が感じてくれて、離婚を考え直してくれるためですからね。」「旅行に行かれるのもいい機会です。全く一人になって、自分のこの先がどんな感じなのか、実感してくれるはずですから。」などと、時を換え、言葉を換え、何度も話をしてから別居に踏み切ったのだ。そして、姑の旅行の間を狙って、掃除、洗濯、夕食の支度をしに、一晩だけ婚家に戻った。そこで私が見たものは・・・冷蔵庫いっぱいに詰め込まれた朝食用のフルーツ、冷凍庫には、1回分ずつラップで包んで冷凍されたご飯1週間分、タッパーに入った、ビーフカレー、クリームシチュー、エスニックカレー、など、冷凍にして作り置けるおかずたち、そしてテーブルの上にある、優しい母親の言葉で綴られた手紙だった。オットはそれに頼らないようにはしていたものの、面倒くささには勝てず、やはり、その母親手製の作り置きを食べていたようだった。そして、その夜「母親がいないと、自分の生活は成り立たない」と、彼は私に告げた。姑の意図はわからないが、いい具合に彼女の存在意義が証明され、ある意味逆転勝利である。わざわざ、夕食を作りに帰った私は、辛い言葉を聞きに行ったようなものである。そこで思ったのは、母親はいつまでも母親である、と言うことだ。目の前に可哀想な息子がいれば、それを庇うことしかできない、それが母性と言うものなのだろう。その彼の将来を考えて、「今、困難な状態に息子を置いて、それを乗り越えさせよう」と判断するには、よほどのエネルギーを必要とするのだろうと、私は納得した。と、今日は思い出したことを書いてみた。本当に、今となってはどうでもいい話である。
2006.01.15
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もともと私は構内にチャペルがある短大の卒業生で、友人にもクリスチャンの子が多かった。が、基本、無神論者の私には、宗教学などは授業で受けてもさっぱりわからないことだらけだった。が、このたびの別居、離婚騒動中になぜか目が離せず、ついつい買ってしまった本がある。それがコレ↓「般若心経入門」本屋の店頭に平積みにされていた。一度通り過ぎたのに、引き返してまでその本を購入したという、何かの魔力を持った1冊。この中には、今の私にとって宝物になった言葉が、いろいろ詰まっていた。(それについては別館のSALLY'S BLOGでも幾度か記事も書いているが・・・)敢えて、こちらのブログで書いておきたい話がある。それは・・・「泣きっ面に蜂」は仏様のはからいであるという下り。話はこうである。与えられた困難が一つであると、そのことについて、深く傷つき、悩む余裕が生まれ、立ち直れなくなってしまうが、たくさんの困難に見舞われた人にとっての、一つの困難の重さは前者よりはるかに軽い、と言うもの。トータルすると、重さは前者に勝っても、傷の深さは浅くなる、とでも言うのか・・・。私に当てはめて考えてみた。姑との同居、それを苦にしていた頃は、それ以外に苦労は無かった。オットとも上手くいっていたし、二人でいられることを幸せだと思っていたが、二人ともが姑の脅威におどらされ、身動きが出来なくなっていた。そして、二人のバランスが崩れ、離婚の話が浮上したら・・・姑のご機嫌など構っていられなくなり、自分のことで手一杯になった。そして別居が始まり、荷物など、物理的に生活が不便になり、オットからの経済的援助がなくなったので、私の経済状態も困窮した。そして、外界との接触が無くなり、自分の部屋に閉じこもるようになり、鬱病の発症、自立の為に始めた仕事の職場には馴染めず、新しい仕事もなかなか覚えられない(鬱の状態になると集中力が無くなり、物覚えが非常に悪くなるらしい)。そこへまだ、姑からの非難の言葉や、自分のこの先への不安も押し寄せてきて、もう、物事一つ一つをじっくり考えていられる状態ではなくなった。そうなってくると、私の中で「離婚」と言う言葉の重みが変化していき、自分を守るために今まで選びきれなかった、さまざまな事象が淘汰されていき、自分の中の優先性が見えてきた(薬に頼る部分も大きかったが)。そして今の私がいる。そう思うと、このいろいろが重なった時期が無ければ、「今」を迎えられていなかった、とつくづく感じる。「泣きっ面に蜂」、いい言葉である。私にとって、この本に出会ったことこそ、仏様のはからいであったのではないだろうか?
2006.01.13
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とある関係で知り合った男性から、「飲み会をしてもらえませんか?」と、お願いメールが来た。はて?コレはどういうことか?端的に言えば、「合コンしましょう!」と言うお誘いのようだ。チャレンジャーな奴よの、先月離婚したオンナ相手に。(ま、知らないから仕方ないけど)私からすれば、「気晴らしに飲み会に行く」わけなので、相手陣がどういう手合いでも、自分の話し相手(友人)さえ確保できていれば、二の足を踏むことも無い。愛の狩人(結婚前)であったころだと、こうは行かない。相手はどんな仕事をしていて、何歳で、勤務先はどこで・・・と、先に情報が無いと、なかなか踏み切れなかったものだ。その点、さっぱりそんな心配もせず、うーんと年下の男性のお誘いにのれる自分に驚いた。が、誘う友達がいない!独身の友達がごく少人数で、その友人も住んでる場所がまちまちである。過去にそういう悩みを感じたことも無かったが、さすが30代も半ばになると、大方嫁いでしまっており、合コン仲間もいなくなっているのだった。付き合いが狭まったわけでなく、結婚したことで、男女の境界なく飲み会に集まり、既婚、未婚にもこだわらなかったため、今になるまで独身の友達がほとんどいないことに気づかなかった。じゃー、今の私は同年代で貴重な独身??すごいなー。ちょっと、感心した。で、かなり驚いた。
2006.01.12
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昨日、会社で言われたことを思い出した。「sallyさんって、『四月の雪』のヒロインのイ・ソンエに似てるって、本社の人達の間で話題になってるよ。私もそう思うのー♪」が、韓流にのれていない私は、そんな名前を聞いたことも無く、さっぱりわからない。で、今調べてみたら・・・イ・ソンエは50歳を超えた歌手の方で、この人に似てると言われると、かなり「・・・」な感じ。が、「四月の雪」には、微塵の出演記録も無い。そして、「四月の雪」のヒロインはと言うと、ソン・イェジン。彼女はまだ25歳そこそこの、ロングヘアがなまめかしい、こじんまりとした美人。こちらに似てると言われるなら、大抵のアジア人女性はウレシイだろう。が、こっちの場合は、微塵も私に似た部分が無い。♪そしーて、僕は途方に暮れるぅー♪(by 大沢誉志之)一体、本当は誰に似てると言われているんだろう???過去にはいろんな人に似てると言われた。なんといってもそういう年頃だった(20代後半って、よくいろんな人に似てるって言われるモノ)。そういわれなくなって、もう久しい。久しぶりにそんな話題が出て、密かにうれしいのに、その「誰か」が誰なのかわからないとは!歳をとるって、そういうことなのか???
2006.01.11
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昨日のブログを書いてから、しこたま考えた。(いや、そんなには考えてないか?どっちやねん!!)オットの笑顔と暮らせなくなったことは不幸だろうか?別居直前のオットには、もう笑顔が消えていた。私も「ストレス」と言う痛みに慣れるために、出来るだけ痛みを感じないように自分をセーブしていた。それはこういうことである。「うれしい」とか、「たのしい」と強く感じられるときは、感情の触れ幅は最大限になっていて、「かなしい」、「つらい」という感情も、とても強く感じられる。それは、莫大な量の体力を消耗して、体の中を暴れまわる。その負の感情に強く影響されないように防衛本能が働くと、痛みを感じる細胞を麻痺させるがごとく、感受性の部分が鈍化していき、マイナス感情に左右されにくくなる代わりに、正の感情も強く感じられなくなる。まさに、オットも私も同じ状態だった。本当は幸せなのに、その幸せを「幸せ」と感じられない、コレまでの私。幸せな時間を振り返って、「幸せだった」と余韻に涙する、イマの私。そして思う、どちらも同じに不幸で、同じに幸せなんじゃないのか?と。人生、どちらでも同じ。人間の選択に正解、不正解は無いのだ。それなら、後者を選んだ自分を好きになろう。本当は手にしている幸せを正視できず、片目をつぶって帳消しにしたまま生きるのではなく、手放した幸せを大事に振り返れる勇気を選んだのだから。これから何度も後悔し、振り返り、涙を流すことになるのだろう。しかし、幸せな「とき」は確かに存在した、この先消えてなくなることは無い。次の恋をしても、私が死ぬときも、「あの時間は幸せだった」と胸を張ろう。
2006.01.10
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年末のブログで紹介していた、ローズなオンナになる計画!着々、決行中~。が、体から香っているかは不明。サプリメントを飲んでから2時間ぐらいは、ゲップ(失礼!)がローズの香りに満たされる。何か変化があったか?と言えば、ウエストあたりの乾燥肌が軽減されたのは確か。乾燥のあまり、かゆみがあったのがきれいに消えた!!しっとり感が出たのか?と言えば、そうではないが、かゆみは消えた!ありがたい事である。今後の動向にも注視しつつ、他サプリメント併用の所存。
2006.01.10
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少しだけ、ほんの少しだけ、弱音を吐かせて下さいな。今日は新しい部屋に電化製品を届けてもらった日。掃除をして、冷蔵庫、洗濯機、オーブンレンジ、テレビを荷入れ。テレビの映りをチェックしがてら、月9再放送に見入ってしまった。その中で主人公の織田裕二が、別れた彼女と1年前に行ったカナダの氷を割って酒に溶かして飲むシーンがあった。氷が泡立ちながら解ける音に耳を傾けて、嬉しそうな顔をする彼を見て、無性に涙が溢れてきた。・・・オットはそういう人だった。木々の間に吹く風の音、雨上がりの空気の匂い、ワインの注ぎ始めの香り、目をキラキラさせて「すごいねぇ~」、「気持ちいいねぇ~」と、嬉しそうに私に話しかけてくれる人だった。あの笑顔は、もう私と同じ空間には存在しないんだ。そう、実感した。一人の部屋で声を出して泣いた。こんな日を何度繰り返せば、アシタが来るんだろう?
2006.01.09
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めでたく、今年もサルサ教室開始しました~!半月ぶりで、やっぱり振り付け忘れてましたが・・・(汗)休みの間、さっぱり練習することも無く、音楽を聴くことも無かったので、リズムもいい加減になってるし、おまけに腰周りにお肉が!!サルサって、ウエストあたりをクネクネひねりながらステップを踏むのに、それがどうにもひねりにくい。明らかに贅肉が邪魔してる(♪わかっちゃいるけど、痩せられない♪スースースーダララッタ、スラスラスイスイスイ~♪)。レッスン場壁一面の鏡に映る、私の無様な容姿にガマの油(汗ね)を流しながら、1時間踊ってきたが、もう一つ、決定的な欠点を発見した。一緒のクラスで踊っている先輩(50才前後であろうか?)が、美しく軽やかに踊るコツを私に教えてくれた・・・が、出来ないのである、私。それは、筋力があまりにも無いため、体のポジションをホールド(固定維持)出来ないのである。体重移動をスムーズに行うために、ステップごとに頭の中で体重をかけるべき脚を考えながら踊っているが、そうすると、その体重がかかった脚が重さに耐え切れず、バランスを崩してしまうのだ!が、かの先輩はスラリと美しく細長い脚に、なまめかしいほどにすべらかな腕をお持ちで、筋肉の筋の一本も見当たらない。ダンス暦が長いと、筋力はついても、見苦しいほどの筋肉はつかないのだ、とつくづく実感。私的には、浮き出るほどの筋肉の持ち主にも憧れるのだが、そうなると、今度はダンスの邪魔になるのかもしれない、と思い直し、適度に筋肉がつくぐらいに鍛えたいものだ、と路線変更した日であった。
2006.01.07
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このタイトル、以前にも似たようなのがあったな、とお思いの方もいらっしゃるかと・・・が、しかし、敢えてもう一度言う!離婚したら、やっぱりオンナが損!!あまり深い意味は無いが、今、年賀状で困っているのだ。結局婚家に送られた私宛の年賀状が、続々と実家に転送されてきている。もう、年賀状で返事を出すには日が経ちすぎていて、出す気も起きない。が、来年の婚家宛年賀状を避けるためには、「離婚して苗字変わって、実家にいる」という知らせをせねばならん!離婚理由が、あまりにも周囲に理解されないために、もう人に説明するのに疲れた私。もう、嫌なんだ!!いちいち説明するのは!!!と、脳が拒絶反応起こしてる。文章にすると、よりいっそう説得力が無くなる、この話。友達減ってもいいから、いっそのことムッシングしようか?とも思う。年賀状だけの付き合いになっていて、もうこの先会うこともなさそうな相手にはそれでイイかー。まだ会いたい友達(会わなくてもいい友達、と言うのがあるのが、私の不思議なところだ・・・)にだけ、何らかの形で連絡することにするか?で結論。そこで、思った。これがオットの立場だと、何もしなくてもいい。住所も変わらないし、苗字も変わらない。知らん振りしておいて、相手が「奥さん元気?」などと電話をしてきたときに初めて「あー、ずっと前に離婚してん」と言えばよい。なんてお気軽なんだー。おまけに、まれに連絡してきた友達に、インパクト強いストレートパンチ(驚きによる衝撃)を与えることが出来るじゃないかー。なんか、うらやましい・・・(←どうも方向性を間違えてるな?)
2006.01.06
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今、微妙に悩み中なことが・・・。それは、マンションのご近所への挨拶。普通に家族で引越す場合は、迷うことなく、挨拶の品を持っていくんだけど、今回は単身者のマンションで、挨拶に行けば「コノ部屋にはオンナが独り暮らし」と言うのを吹聴して回るようなもの・・・。家族や友達は大反対。今まで、何度も部屋に行ってるけど、同じフロアの残りの二部屋の住人には会うこともなし。学生なのか、勤め人なのか、男なのか、女なのか、さっぱりわからない。このまま、わからないまま、洗濯物にオットからくすねてきたパンツとソックスを混ぜて干して、性別不明な住人として住んでいるべきだろうか?以前、一度挨拶に行ったものの、誰も人が出てこなくて断念した私。それをいいことに、挨拶も無かったことに???どうしたものか???悩み中~~~~。
2006.01.05
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この年末年始、迫り来るXデー(大げさ?)に備えて、一人暮らし用品の物色している次第。婚家は、何もかもがビッグサイズであった為、それにあわせて持っていった荷物が全て巨大だった。な、わけで、ほとんどを婚家に置き去りにし、実家にあるあまりものを物色しているのである。そうこうするうちに出てきたのが、私の嫁入り準備品(と、言ってもオットとの結婚用ではない)。以前のブログで少し触れたが、10年ほど前に一度「婚約破棄」なる経験をしている私。当時の彼は東京勤めであった為、立川市にマンションを借り、家具も当地で購入していた。が、「目指せ、倹約主婦!」だった私は、食器や生活用品はお祝いでもらったり、実家にあるものを最大限に活用しようと、自分でせっせと準備して、ダンボールにきちんと明細を貼って梱包していたのだ。それを見つけたのが、おとといのこと。ピンク色のメモに、せっせと明細を書き、緩衝材などを使ってキレイに梱包されたダンボールがいくつも出てきて、見てすぐに「あ、コレはあのときの!」とわかった。それを見るだけで、「あらー、コノ子几帳面なのねー。いいお嫁さんになるわよー」と、今の私なら言うであろう。ダンボールを見るだけで、ラブラブ感が伝わってくる。また、その中に入っているものにも笑ってしまった。日本酒飲めない私が「天目酒器セット」なるものを入れている。私自身がしたことだから、当時の思考を図るのは難くない。おそらく、彼が後輩たちを飲みの帰りに連れて来るかもしれない、そんなときに慌てないようにお酒の準備♪などと言う、馬鹿げた想像を張巡らしたのだろう。思い出すのも恥ずかしいぐらいのマヌケである。恥ずかしさを通り越して、母と顔を見合わせて大爆笑してしまった。今どきの新婚カップルも、これほどのバカップルぶりを発揮しているのだろうか?そう思いつつ、「いやいや、逆にこういうマヌケさがカワイイと言えるのかもしれない」と、にんまり一人ごちる、この2日間である。
2006.01.04
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ひさびさのリコン反芻ブログである、しばしお付き合いを。その4でお話した「鬱病診断」が出たことで、なぜか私は冷静になった。自分が理論的に物事が考えられなくなった理由、または、建設的な意見を持てなくなった理由、が自分の中で「鬱だったから?」と、ぼんやりと受け入れられるようになったからであろうか?そして、客観的に今回の別居に至るまでの流れを、心の中で復唱してみた。頭に浮かんで来たのは、オットの態度が頑なになったときに、何が起こっていたか、と言うことだった。それは、私が「もうおかあさん(姑)と一緒にはいられない。それほどにおかあさんの存在が、私の中のストレスになっている」と、オットに告げたことだった。結婚して4年足らず、途中に何度も空気抜きをしつつ、なんとかかんとかやってきたこの同居生活。抜ききれなかった、空気の粒がジワジワ溜まって飽和量を超えていた。ようやくそれを自覚して、思い切って素直にオットにそれを告げたとき、彼は離婚を切り出した。ショックだった。端的に考えれば、これはオットは「私と過ごす」人生よりも、「姑の老後をみる」人生を選んだのだ。もっと考えを進めれば、姑の面倒をみてくれる相手であれば、私でなくほかの女性と結婚していてもよかった、そういう結論に至る。が、そんなはずはない、そういう自信が私にはあった。つきあっていた頃、いや結婚してからも、不思議なことに、私には「オットに愛されている(今更言うのも照れるが)」と言う実感があったのだ。私が「嬉しい」とか「楽しい」と感じているとき、彼の顔にはえもいわれぬ幸せな表情が浮かんでいた。これは言葉では上手く表現できないが、通じ合っているものだからこそ感じる、精神の高揚感とでも言えばいいのか、そういう類のテレパシーのような感覚が互いの中でこだましあっていたのだ。「この人は本当に幸せなんだな」と、お互いが感じていた。このことについて、二人でよく話をしたが、そのあたりは本当にピタッと気持ちが通じ合っていた。そのオットが姑を選んだ。そう思うと、私は悲しさで一杯になると同時に、もう一つの可能性を信じるようになった。彼も、精神を病んでいた。別にドクターの診察を受けたわけでもないし、オット自身が訴えたわけでもないが、彼の言動、態度、行動が、私の理解の範囲を超えていたこの数ヶ月間を振り返ると、そう考えずにはいられなかった。こうやって、私の「離婚に関する思考」は、次のフェーズ(段階)に進んで行った。
2006.01.03
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今日は元旦。毎年なら、私の大好きな年賀状が届く日。が、年末ギリギリに離婚したため、全て年賀状は婚家宛に届いているはず。(郵便物の転送手続きは完了しているが、この1ヶ月転送されてきた郵便物は1通だけ。喪中のはがきなどはオットからメールで知らせが来ていた。郵便局も当てにならないものである。)そんな中、1通だけ今の住所に届いた年賀状がある。それは・・・ジャ、ジャ~ン!ウルフルズだー!去年、ファンクラブに入ったから当然なのであるが・・・。相当にウレシイ1枚であった。別居のどさくさにまぎれて、ファンクラブ入会をしていて、本当によかった。( 私の別ブログ-お気に入りリンクに登録してます-でご存知の方もあると思うが、ワタクシ、ウルファンの端くれでもあることをお含みおき頂きたい。)思い付きを信じることも大事だ、と実感した元旦であった。年頭に当たり、皆様にご挨拶。「旧年中はお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。」
2006.01.01
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