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クラシカジャパンで『マチュー・ガニオ&カルフーニ~2人のエトワール』と題した番組を途中から見ました。(次回録画しなくちゃ~)
カルフーニのオペラ座での活躍から退団。共演者達のコメントも沢山あって、バリシニコフもインタビューに答えてる。(ミーシャ!)年取っても人懐こそうな顔立ちは変わらない。
マルセイユの市立劇場のこじんまりさに驚きを隠せなかったこと。
新しいことに挑戦したくて飛び出したけど、またいつでも踊れると思っていたロマンチックバレエを踊る機会は二度となかったと淡々と語る姿。
2人の子供と過ごした懐かしい路地、かわいい子供のマチュー。。。
すくすく成長したマチューが髭面で親子並んでインタビューに答えてる。母親にとったら自慢の息子でしょうね~。こんなにきれいな顔して。瞳なんて吸い込まれそうなブルーだし。
肝心の本題ですが、番組でウラジーミル・ワシーリエフが語った言葉です。
>>音楽は感情。音楽の内包する曖昧さこそ大事だ。
>>最近のダンサーは音楽を聴いていない。テクニックはあるが音楽と融合していない。
>>芸術とは想像を生むこと。イマジネーション。
>>なんの想像もさせないのなら、それは意味のないこと。
確かこんなことを言っていました。
洋楽は音の抑揚で感情を表しているといいます。弦楽器などその典型。音の強弱やうねりが感情そのものを表現しているのに対して、日本古来の和楽やアジアの楽器の音色は一定していて、心の波が少ない(安定している)と。言われてみるとそうなんですよね。
その感情を表す音楽に同調せずになにも観客に訴えることはできない。そんな風にワシーリエフは言っていました。
そう。ここで連想するのはファルフ・ルジマートフの音楽性です。本人も光藍社さんのインタビューに答えていたではありませんか~。
『舞台の上ではただ音楽を聴くのです。そうすると身体は自然に動きます。どう動かないといけないなど、舞台上では考えることはできません。』
そうでなければ音楽が身体の中から奏でられているように見る者が感じるはずもないと、その時深く感じ入ったのです。
まるで音を紡ぐような繊細な感情表現の素晴らしさ。音楽と溶け合って色と温度と空気を、感情と一緒にリアルに感じさせるのが、舞台に立つたったひとりのダンサーがしていること、なのです。
そのとき受け取るものの多彩さと、あとからあとから想像(妄想?)が広がるのも、ワシーリエフが言っていたとおり、それこそが芸術だから。
確かオスカー・ワイルドもおなじようなことを言ってた(はず)。
本物とはいろんな解釈ができるもの。真逆の印象を持つものもいる。それが単一な型にはまったものではなく、幅広いインスピレーションを与えるから。そういう要素を持ち合わせているからこそなのだと。(オスカー・ワイルドが正確になんて言ってたかはさっぱり忘れました)
観た後に頭の中でどんどん妄想がふくらみ、実際とは違うように記憶されてるんじゃないかと思うときがあって困ります。それもリアルに想像を煽るルジの芸術性ゆえかと。
感情を「込めて」踊ってるくらいでは足りないのだな。
音楽のエモーショナルな部分がそのままの感情で自分の内側でふくらまないと、舞台全体の空気を変えることなんてできないと思う。
今年1月のバヤデルカのチラシをうっかり見ただけでその世界にのまれそうだもの。
キケンですよ。バヤデルカのチラシは。ソロルが天に捧げるように差し出す両手と伏せ目の横顔だけでめまいがしそう。
ワシーリエフの言葉に反応してつい書いてしまった。マチューのことじゃなくてごめん。
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