戦国ジジイ・りりのブログ

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2017年10月29日
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カテゴリ: 江戸めぐり
さて、ぼたもちの2つめは「東叡山」の名称。
長らくの読者様で記憶力のいい方は、何を今さら・・・って思うでしょうが、
「東叡山寛永寺」で一般的に紹介されるのは、天海が「東の叡山」を
造ったというもの。

ただ、わたくしが知る限りでは寛永寺を紹介している歴史ファンの中で
寛永寺以前に関東に東叡山が存在していたことを知る人って
案外少ないように思う。
史跡めぐりの記事をアップする自称・歴史ファンなんて、
自分で検証や考察をすることもなく、他人の文章をほとんどコピーしてるくせに

おっといかん、つい毒が

寛永寺以前の東叡山は、仙波喜多院。
もともと喜多院・・・つか、北院が属する無量寿寺は「星野山」だったのが、
慶長18年(1613)に東叡山の号を賜った。
が、その後寛永寺ができて東叡山の号を遷したので、
喜多院はもとの星野山に戻った。
ここまでが過去の記事で紹介してきたもの。

ところがですね、無量寿寺以前にも「東叡山」の号を持つ寺が
関東にもあったんですよ。
これにはマジたまげましたね~。
しかも、そちらの東叡山は今もって「東叡山」だというんです。


正式名称を東叡山勅願院円頓房泉福寺といいます。

泉福寺の歴史は古く、慈覚大師円仁様が天長6年(829)に開山したと伝えられ、
無量寿寺よりも長い歴史を持つ古刹です。

わたくしが泉福寺の存在を知ったのはほんの数日前のことで、
年内いっぱいで切れる東武のタダ券消化のために

ご飯を食べながら 叡山のおじさんにもらったムック をぱらぱら見ていた時でした。

「円頓房」とはいかにも天台らしい名称ですが、「勅願院」というのは
淳和天皇の勅願によって開山されたという朝廷とのゆかりを示すもので、
「東叡山」の方は鎌倉期に中興されて以降の山号だそうです。

なんでも、源平の乱の時にまきぞえ食って荒廃していたのを
叡山の僧・信尊さんが中興したそうで、ついで信尊さんの弟子・尊海さんは
無量寿寺の中興をしたことから、泉福寺が関東天台の祖山としてあおがれて
東の叡山を名乗ることになったという流れらしいのですが、
イエアスが入府した際には五石の朱印状をもらったものの、

 【朝廷とのゆかりの深さから領地を与えるという徳川幕府の使いからの申し出を
  拒んだこともある。】
  (「慈覚大師円仁と行く ゆかりの古寺巡礼」より)

という関東天台の中心らしい、気骨のあるお寺だったようです。

しかし、天海だけを見ていると「東叡山」てものすごく重要な意味を持つ号なのに、
一体これはどういうことなんだ?
仙波と桶川なんて近いんだし、関東天台の中心だったらなおさら、
天海が泉福寺のことを知らなかったハズもなし・・・

ウィキペディアには、泉福寺は戦国時代の永禄3年(1560)兵火で焼失し、
江戸期の正保4年(1647)に復興されたとある。
天海の死から4年経ってのことだった。

復興前がどの程度すたれていたのかがわからないので何とも言えない部分はある。
ほとんど廃絶した状態だったのなら、とりあえず天海の存命中は
2つの東叡山は併存しなかったという見方もできるけど、
寛永寺はその後もずっと繁栄を続けていくんだから、
泉福寺復興以降は現在に至るまで2つの東叡山が関東にあったことになる。


少し話は変わりますが、ブログをほとんど書かなかったこの1年、
にほんブログ村のデータによるとわたくしが365日で記事を更新したのは
たった16回だけだそうで(しかもほとんどカレーとかだし)、
1ヶ月間1日も休まずに記事をアップしてた時期と比べてのあまりの変わりように
我ながらびっくりですが、歴史への興味がなくなった訳ではなく、
本はそれなりに読んで勉強だけはしておりました。

そのうちの1冊、『満済』(森茂暁著/ミネルヴァ書房)は
図書館の書架に並んでいるのをたまたま見つけてなにげに借りた本ですが、
足利6代将軍・義教の将軍選任時のエピソード で出てきたぐらいで
満済がどういう人かほとんど知らなかったし、室町初期に関心の高い時期だったので
いっちょ読んでみるかあ~!と思った程度でした。

ところが、読み進めるうちに満済についての経歴だけではなく、
大変示唆に富む内容が多いもので、しぜん天海に思考が向かっていった。
似てるんですよ、満済と。
それから、満済がひそかに敬慕していたフシのあるという、
満済の何代か前の師・賢俊とも似てる。
将軍に信頼され幕政に深く関与して「黒衣の宰相」と呼ばれたところとか。
もっとも、 江戸初期の「黒衣の宰相」は天海じゃなくて崇伝 なんだけど、
名称の問題じゃなくて中身が崇伝よりも天海に似てるとわたくしは思った。
それで、『満済』の書き出しにこういう文章がある。

 【日本の中世国家の性格を考えるとき、政治(王法)と宗教(仏法)との関係は
  大変重要な論点の一つとなる。宗教が精神的な面から政治を支えるという役割を
  担っていたからである。そのことは当時の史料にみえる「王法は仏法に寄りて栄へ、
  仏法は王法に依りて弘まる」といったような表現に如実にあらわれている。
  神道については「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によて運を添ふ」という
  言葉があるが、これも広い意味では同種の表現と言えよう。
  政治と宗教の関係は、いわば鳥の両翼、車の両輪である。両者は相依関係によって
  固く結ばれていた。国家的な宗教行事の主催権の所在は、王権をめぐる問題を
  考えるための手掛かりを提供する。】
  (文中の出典は割愛しました)

平安期は現実と目に見えない世界との境界がものすごくあいまいで、
目に見えない世界に政治が大きく左右される時代でもあったから、
なんとなく平安期頃の古い時代の方が宗教べったりってイメージがあったんだけど、
これを読んであらためて考えてみると、べったりはべったりでも
案外政治と宗教は切り離されていたのかもな、って思った。
サポートはしても、政治には介入しない。
政治の方からは介入したけど。
諮問ぐらいはあっただろうけど、後世の密着度とは質が違う気がするのだ。

むしろ、後の時代の方がより政治に深く関わっていくというのが意外だったんだけど、
キビシイ戦国時代を経て朝廷や宗教界をも管理するようになった江戸幕府においてさえ、
時には大きな発言権を持った僧もいた。


天海についての勉強を始めた頃は、ギラギラしたイメージが強かった。


    比叡山を東に移すということに執心していたかを知っていただければよい。】
    (『寛永寺』より)

   前にも書きましたが、『寛永寺』は私のすべての出発点。
   この文章を読んだ当初は、叡山のコピーから始まってしまいには叡山のお株を
   奪おうという、ギラギラした天海像をイメージした。


これは 「上野第二編(52)」 で書いた文章ですが、
『満済』を読んでするりとその呪縛から抜け出たような気分になった。


さてそれでこれらの材料を基にあらたな推測を加えた
「寛永寺創建のナゾ2017バージョン」ですが、ハデな変化はないです。
それどころか、考察の結果はどんどん地味になっていってます。
でも、最初の頃よりはずっとマシになってきたんじゃないかと自分では思ってます。

まあどのみち手持ちのカードは少ないんだし、第一人者の浦井正明氏にだって
わからないことが多いナゾを解き明かしてやろうなんて気負いはさらさらありません。
過去の材料をそのまま使う場合は極力リンクを貼るようにしますので、
興味のある方はご自分でも考察を広げてみてください。

まず今回思ったのは、寛永寺にせよ輪王寺宮のことにせよ
「最初から最後まで一貫したプランに基づくと考える方が無理がある」ってことだった。

家康との出会いから天海の死までには、長い年月の経過がある。
2人の出会いは徳川政権の草創期にあたり、三河の土豪の小せがれが
戦国の最終勝利者となって、鎌倉幕府も室町幕府も秀吉でさえも、
かつて武家が誰も踏み込んだことのない領域にまで到達し、
それを軌道に乗せるための施策を続けていた、そういう社会の転換期にあった。

フツーの人が江戸時代と言われて思い浮かべるのは、
時代劇で見るような風俗とか慣習とか封建制じゃないかと思うけど、
例えば女性の髪型ひとつ取っても、島田とか丸髷とかの「高く髷に結った結髪」ってのは
江戸も中期に入ってから広く浸透して確定したスタイル。
髷の基が結われ始めたのは天正期の遊女だと言われてるけど、
一部のモードな遊女が男髷を真似たとか、忙しく立ち働く下々の女性が
実用性のために下ろした髪の先っぽを丸く結ったりとかする程度で、
江戸に入った頃の身分の高い女性は、まだまだ昔さながらの垂髪だった。

有名どころでは淀殿の肖像画として有名な(奈良県立美術館所蔵)
赤っぽい着物を着た女性も垂髪だし、菱川師宣の「見返り美人」(東京国立博物館所蔵)も
17世紀中盤~後半に描かれたのに(菱川師宣:1618-1694。
割りと早い段階の作と言われるけど、どんなに早くても17世紀中期以降のハズ)、
下ろした髪をねじって結っている。

髪型に限らず「江戸時代らしい」スタイルや制度はかなりあとになってから
確立したもので、特にイエアスが生きてた頃なんかは戦国時代や
安土桃山の前時代の雰囲気を色濃く残していた。
それを、新しいものに変えていく。
その過程で豊臣家を滅ぼし、朝廷や宗教界を抑え、幕府の権威も右肩上がり。
イエアスの信任を得た天海は「東照大権現」の成立も成功させ、
これまた右肩上がりで栄達を遂げていく。
社会の変化に応じて考えや方針が変わるのはむしろ必然。
変わらなきゃ乗りきれない。

さて、天海。
前半生はひたすら吸収に努めた 。
色んなものを学び、山門派出身の天海が寺門にまで教えを請うている。
その勉学の末に、やっぱり山門にとどまっている。

世はあちらこちらでドンパチやってる戦国末期。
天海自身も戦乱の影響で常陸に引っ越したりしている。

 【「東源記」によると天文末年、20代の天海は、叡山神蔵寺の実全から
  玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)を学んでいる。また、36歳の元亀2年
  (1571)には、豪盛から三重七箇大事(さんじゅうしちかのだいじ)を
  授与された。これらは叡山の檀那・恵心両派を代表する教学であり、その内容は
  本覚思想、つまり現実の徹底的肯定である。】
  (『神君家康の誕生』(曽根原理/吉川弘文館より)

「檀那」は 檀那院覚運 、「恵心」は 恵心僧都源信 の流派で、
覚運・源信のどちらも良源さん門下の四哲と称された方です。
関東天台では主に恵心流が伝わったと言われることが多いけど、
檀那流の方も入ってきてたようです。
それで、 本覚思想 を学んでいた・・・
キビシイ現実にさらされながら、現実の肯定を続けてきた。

 【幅広く学ぶこと自体は、あるいは当時にあっては特別なことではなかったかもしれない。
  ただ天海の場合、そうした成果を終生おろそかにはしなかったようだ。】

とは前掲書における曽根原氏の言ですが、おろそかにしなくっても
寺の奥でただ自分の研究だけに打ち込んでいたら花は咲かない。
研究の大成を見たなら「ひとつの花を咲かせた」ということもできるかもしれないけど、
仏教はやはり実践を伴ってこそだし、長寿に恵まれたために
天海には長い期間で培ったものを実践するだけの充分な時間もあった。

その実践段階で食いついてきたのがイエアスで、
大坂の陣直前3年間での御前論議の回数 は尋常じゃない。

イエアスは確かに悩んでいた。
長く戦国武将として戦いぬいてきた自身の罪業滅消、
豊臣家との決着、徳川政権のゆくすえ・・・
およそ仏教とはかけ離れたテーマでの論議 も催される中で、
天海は持てる知識をいかんなく発揮しただろう。

浄土宗の家に生まれた イエアスが天台宗に改宗すると言い出した のも
うなずける気がするけど、そういうイエアスを押しとどめた天海は
シビアに現実を見ていたイエアス以上に冷徹なまでの現実的思考を
持っていたのだろう。



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最終更新日  2017年10月29日 21時55分06秒


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