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私たち人間にとって必要なことは呼吸です。もし呼吸を10分も止めてしまったら死んでしまいます。すなわち、二酸化炭素を吐き出し、酸素を吸い込みます。 このことによって私たちの命は保たれています。祈りとは、この呼吸に譬えることが出来ます。それは、霊の領域における呼吸です。 人間には、霊・魂(知識・感情・意思)・体という三つの部分に分けることが出来ますが。この霊とは永遠の命であるとバイブルは教えます。 しかし、最初の人アダムとエバは、この永遠の命である神を捨てて、「神なんかいらない。」と言って、神を捨てました。この状態を罪と言います。 罪とは、犯罪等に現れる行為にとどまらず、自分を創造した神から離れた状態を言います。 人は永遠に生きる存在として神に造られましたが、神から離れて霊は死にました。また、魂も空しくなり、体もやがて死ぬようになりました。 しかし、2000年前のクリスマスに、神の一人子ジーザスがこの地上に生まれ、33歳の時に十字架にかけられ、私たちの罪の身代わりに死なれました。 この事実を信じる人は、罪が赦され、神の子供となって、永遠の命を頂けます。そして、霊が復活します。 ここから祈りがはじまります。もちろん、日本人は宗教心が厚く、祈る人が多いのですが、呼吸としての祈りはここからはじまります。 祈ることは、二酸化炭素を吐き出して、酸素を吸い込むように、私たちの中にある悪いものを吐き出して、神の命を吸い込むことです。 今日、ジーザスの救いをまだ知らなかった人は、「ジーザス、私の罪を赦して下さい。アーメン」と祈ってみて下さい。この祈りで救われますし、この地球上に住む20億人の人は救われました。 そして、私たちの苦しみのすべてを神に吐き出して行けたら幸いです。罪を吐き出し、悪魔・悪霊を吐き出し、心と体の病気を吐き出し、問題を吐き出して行きましょう。その吐き出す呼吸をしたら、今度は吸い込む番です。 神から与えられる霊は、罪の赦しであり、聖霊の満たしであり、健康であり、豊かさであり、永遠の命です。 ですから、祈りとはすごいことなのです。祈りによって霊の呼吸をしたら、霊が生き生きし、幸福になりますし、健康になりますし、豊かになりますし、死んだ後に天国に入ることが出来ます。 祈りは、私たちに必要なことなのです。難しいことはありません。自己流で大丈夫です。ジーザスの名前によって、創造の神に祈って行きましょう。
2010年09月29日
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■「流しそうめん」2631m、世界新に歓声 (読売新聞 - 09月20日 11:28) http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1348041&media_id=20 この夏私は、はじめて流しそうめんを食べました。軽井沢でたくさんの人たちと炎天下にはしゃぎました。 緩やかな流しそうめんだったので、川上にいると100発80中くらいでそうめんを取ることができます。 しかし、取りすぎると嫌われるし、さりとて、譲り過ぎるとなかなかお腹一杯にならないので、なんとも言えないジレンマを感じました。 その辺の微妙なバランスが人間関係のいい勉強になりました。 これは、団体のキャンプでの一こまでしたが、全く知らない人たちと流しそうめんをしたら、これがまた違ったことでしょうね。 最近、譲り合い精神を忘れた大人が多くいることを感じます。 人が通る通路を確保するために、距離を開けて買い物かごを持ってレジに並んでいると、それを知らずにスッと入ってくる人がいます。しかし途中で気づきますが、気づかない顔でそのまま割り込んで先に買い物を済ます人がいます。 スキー場のリフト待で、故意に割り込む人も多く見かけますし、車の合流の割り込みもそうですし、譲り合いを忘れる人が多くいることを感じます。 「自分さえ良ければ他の人はどうでもいい」。もしこんな人がこの国に満ちていたらとても寂しいだろーなーと感じます。 他人の利益だけを考えるというのはハードルがあまりにも高すぎますが、自分の利益と同時に他人の利益も考えるというバランス感覚があったら、日本はきっと変わっていくような気がします。 今年私は39歳になりましたが、私が子どもの頃には、今より遥かにそんなバランス感覚があったような気がします。 世の中どんどん便利になってりますし、色々な技術の発展がありますが、それに反して、人の心は他の人に無関心になり、温かみのない空気が蔓延しているように感じます。 そんなことも、毎年3万人以上の自殺者が出ていることにも繋がっているのではないかと感じます。これは、一日平均90名が死んでいるということです。 幸せで死ぬ人はまずいないと思います。自殺をするというのは、よっぽどの理由があるはずです。 私たちの国を幸せにするのは、政治・経済・教育等も重要だと思いますが、私たち一人一人のバランス感覚、思いやりからはじまって行くのではないかと思います。 私が車の免許を取ったばかりの頃、割り込みされて気分を害したことがありました。しかし、次の瞬間、宅急便のお兄さんが笑顔で満ちを譲ってくれました。その時、今までの気分の悪さはどこかに吹き飛ばされ、自然と笑顔がこぼれました。そして、私も譲り合いを実践してみました。そうしたら、譲った車の運転手の笑顔を見 て、私の心はとてもうれしくなりました。私から譲ってもらったその人は、もしかしたら、また他の誰かに道を譲ったかも知れません。そういうことは小さなことのように思えますが、それがやがて大きな川の流れのようになって行くのではないかと感じます。
2010年09月20日
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私が務めている新宿福興教会は今年の9月23日で、満9年目を迎えます。これまで色々なことがありましたので、もう少し年月を重ねているように感じます。人間を9歳まで育てるには、相当の労力が必要です。9歳になれば、ほとんどのことを理解できるようになり、たいていのことは出来るようになります。この教会は、神様の命に よって誕生し、今日までそのふところに抱かれてきました。 お隣の韓国に行くと面白いことに、日本でいう9歳のことを、10歳と表現します。それは、母親のお腹の中にいる時から、その子の年を計算するので、私たちの数え方+1歳ということになります。確かに、お腹の中にいても、命であることには変わらないので、この数え方は理にかなっていると思います。すなわち、妊娠した時か ら年を数えるといことです。 そういう数え方をするならば、この教会が妊娠したのはいつでしょうか? それは、牧師である私が、神様の召命(calling)を受けた20歳の時にあります。そうすると、今年39歳なので、創立19周年ということも言えます。19歳ならもう立派な大人です。 時々、こう言われることがあります。「先生、今日の説教とてもすばらしかったです。準備にはどのくらい時間をかけられるんですか?」そうしますと、わたしは「39年間です。」と言います。確かに、十数時間のうちに説教が流れ出て、まとめあげることが出来るならば苦労はありません。それは39年間の人生の中から、にじみ出 て来たものなのです。 私たちの今持っている考え方や価値観は、生きて来たその年齢分の経験の集大成だろうと思います。人は、年を重ねるごとに成長します。しかし、この成長を早める方法があります。それは、自分の年齢を現在の年齢+永遠にすることです。つまり、永遠に存在する神とあなたが直結し、その命があなたに流れて来るならば、無限の 可能性を持って成長できます。私は、+永遠の秘訣を心得ているから、今日まで牧師をさせていただけているのだと思います。共に永遠の今を生きて参りましょう。
2010年09月18日
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私に取っての人生とは、試練の連続でした。神を知らない時に会う試練は、何とか回避したり、お酒などでごまかすしかありませんでした。そして、「何で俺ばっかりこんな苦しい目に会わなければならないのか。」とつぶやいたものです。 しかし、神を信じた後の試練は、例えば、神をズボンと譬えるとするならば、そのズボンと私をベルトが固定してくれるように、試練とは、神と私を結ぶベルトのようなものになりました。それは、もしベルトがなければ、ゆるゆるのズボンは簡単に脱げてしまうように、人生が平穏無事であり、すべて順風満帆に進むならば、簡単 に神を忘れ、神を必要としないだろうと思います。 しかし、私を含めて私たちの人生で試練がないことなんてあり得ないだろうと思います。ある人は、身から出た錆びのゆえに苦しむことがあります。お金や異性や名誉に動かされて不正を行なったことのゆえにその報いを受けることがあります。しかし、人に迷惑をかけないようにと気を使い、正しく誠実に生きていたとしても試練 はあり得ます。交通規則を守って安全運転をしていたのに、後ろから追突されて体に障害を負わされた人、貧血で輸血したらエイズに感染してしまった人、田舎で静かに暮らしていたのに、強盗に入られて家族が殺されてしまった人もいます。また、些細な試練であるならば、日常茶飯事だろうと思います。家庭や職場、学校や地域 での人間関係や、経済的な問題もあるでしょう。 今日お話ししたいのは、どんな種類の試練であったとしても、試練とは、神様と私たちを結ぶベルトのようなものだと思います。自分の不甲斐なさのゆえの苦しみであったとしても、神は赦しの神ですから、悔い改めをしたら消して外れないベルトで神とあなたは結ばれます。また、予期せぬ大きな試練も、「神がいるのになぜ?」 と疑問が湧いて来るかも知れませんが、祈るならば、すぐに神とあなたはベルト結ばれます。小さな日常にある試練も、神とあなたを結ぶベルトなのです。 そう考えて行きますと、試練は悪いもので、忌み嫌うというのが普通の考えですが、もし神抜きに考えたならば、マイナスのほか何もありません。しかし、神を信じる人の会う試練は感謝に変ります。作家の三浦綾子さんは、病を背負いながら夫婦で二人三脚で歩んで来ました。そして、「病は私に取って宝である。」と語りました 。星野富弘さんは、神様がもう一度生まれ変わらせて下さって、健康な体を下さるとしても、「私はお断り致します。今のままで十分に幸せです。」と語りました。 試練はあなたを不幸にし、神とあなたを引き裂くものではありません。試練に合って初めて自分の弱さを知り、神が必要であるとわかるので、神に信頼し、神を求めるようになります。そうしたら、神はあなたをご自分とベルトで固く結んでくださり、助けて下さいます。神はあなたを愛しています。 聖書には、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』と書かれています。神は、試練という名のベルトで今日も私たちをご自身と結びつけて下さり、一緒に歩んで下さいます。よい一週間でありますように。
2010年09月13日
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私の家には、時々「~の無料体験キャンペーン」というチラシが入っています。それを見た私は、「ただなら試しに行ってみよう」と思って出かけて行きます。 しかし、無料というので行ったのに、体験の前後にカウンセラーと称する方と一対一の小部屋に入れられて、10回で数十万円コースに入って下さいと強く薦められます。 私は「試しに体験に来ただけですよ」と言うのですが、「私たちは慈善事業をしているのではないですよ。この世の中にただのものがありますか?」と半分脅されました。気が弱い人ならば、多額なお金を支払って会員にならざるを得ないだろうなーと感じました。 私は、「無料で体験出来ますのでお待ちしてます」とありましたので行きましたが、世の中にはただなものがないのが事実だと思います。 世界的な知恵者が、世界の知恵を凝縮して一言で表現しました。それは、「ただのものはない」ということでした。これが世界の知恵だというのです。 クリスチャンになりますと、救いは無料であり、ただであると認識しています。しかし、それは私たち人間の視点から見たらそうですが、神の側から見たら、一人子イエス・キリストをクリスマスに地上に送り、十字架で命を犠牲にして下さいました。救いの代価はあまりにも高いので、それを私たちに要求しないで、ただ信じる だけで与えられました。しかも、見返りを期待しない無条件な愛なのです。 また、この世にただのものはないのは、職場で仕事をしないで給料をむれる会社はありません。会社は、仕事をした対価として給料を支払ってくれるのです。 また、畑に種を蒔かないで収穫することはありません。耕された畑にお米の種を蒔いたらお米を収穫することが出来ます。私たちの人生も蒔いたものを刈り取ります。否定的・消極的・破壊的なことを語り、信じ生きるならば、その通りの現実を収穫します。しかし、積極的・肯定的・前向きに語り、信じ生きるならば、その通り の現実が収穫されます。 私たちは、人に親切にし、人を助ける生き方をして行きたいものです。そうしたら、やがて私たちが困った時に、助けの手が差し伸べられるものです。 世の中ただなものはありません。棚から牡丹餅を求めたり、愛されることだけを要求して生きてもそれは叶えられませんのでいらいらするだけです。その求めるものを他人に与えることをして行ったらどうでしょうか。 ある有名な精神科医は、精神的な病にかかっている人に、「2週間、他人の幸せだけを願って暮らして下さい。」という処方箋を出しました。ほとんどの患者さんはそれをばかにしましたが、それを忠実に実行した人は、みんな病気がいやされたと聞きます。 あなたが他人の幸せを願ったら、あなたは幸せになります。しかし、人をねたみ、人の不幸を願ったら、あなたは不幸になるでしょう。この世の中にはただのものはありません。あなたが支払ったものをあなたが手に入れることになります。よいものを支払って行きたいですね。祝福がありますように。
2010年09月05日
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