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イスラエルの旅行記も、いよいよ大詰めで、まとめは、しばらくのお休みの後に(教役者大会に参加するため)させて頂きたいと思います。旅行も最後の日となり、やはり、昨晩の物が無くなったということが不可解で、気分が冴えませんが、気持を切り替えて、嘆きの壁に行きました。私はそこで、前日買ったキッパというユダヤ人がかぶる帽子を頭にピン止めしてかぶり、そして、嘆きの壁に額をつけて叫んで祈りました。最初は、自分のこと、家族のこと、そして、最後は、エルサレムの平和のためにひたすら祈りました。私は祈りに夢中になっていましたので、周りに一緒に参加した先生方が誰もいなくなっていることも気付かずにいましたが、添乗員が呼びに来てくれました。そこに、伝統的なユダヤ人が来て、英語で「あなたは素晴らしい人だ!」とか話しますが、添乗員が急がせますので、二人で写真を撮ってもらって足早にその場所を去りました。今回の聖地旅行では、ガリラヤ湖畔で、私が知っている教会員の祈祷課題やインターネット上の友達の祈祷課題をはじめ、あらゆる課題を祈ることが出来ましたし、非常に霊的な雰囲気でしたので、深く祈ることが出来ました。一つ気になったのは、イスラム教の祈りの時間に放送される大音響の声でした。その声は、ペンテコステ派の教会の人たちが歌う異言の讃美に近い感じのものでした。ガイドさんは、気持ち悪いですが、これを聞いた時には、彼らのために祈ることにしていると話されましたが、それは名案だと思いました。私たちは、気になる人、いや、気に入らない人を見たら、すぐに排他的になったり、誹謗中傷をしたり、無視したりしやすいものですが、その時、その人のために祈ることで必ず解決できるものです。実は、私も人間ですから、気に入らない人に出会うことは1日に何度もあります。しかし、その時、その人のために、特に、祝福を祈るのです。そうやって、ローマ書に書いてあるように相手の頭に炭火を積むのでしょうか? 違います。祝福を祈ることで、少なからず、私の心が救われるのです。苦い思い、赦せない思い、嫉妬心から解放されて、喜びに満たされるのです。ハレルヤ!そして、園の墓、ホロコースト記念館、鶏鳴教会に行きました。どこも、心揺さぶられるような場所でした。特に、ホロコースト記念館は、ヒットラーを先頭に行なわれたユダヤ人迫害と大虐殺を目の当たりに見せられて、とても苦しかったです。園の墓は、イエス様の死体が納められ、そこから復活したお墓ですが、そのお墓には、急いで掘られた跡がありましたが、それが、イエス様がここに納められたという一つの大きな証拠だと聞かされました。鶏鳴教会では、イエス様が裁判にかけられ、そして、投げ落とされたという地下牢も見ることが出来ました。そして、おそらく、その地下牢に入れられる途中に、ペテロのいた場所の近くを通った時、ペテロが主を否み、そのペテロを主がみつめられた場所であると言う場所に来た時に、主の愛を感じずにはいれませんでした。それは、「お前裏切ったな!」というようなものではなく、「心配しなくていいよ。」という赦しのまなざしであっただろうと思いますし、その主は、失敗を繰り返し、罪深い私をも同じように見つめていて下さるのだと感じて感謝しました。地下牢では、一人の先生が代表して祈られましたが、泣いて、「この罪人の私のためにあなたは・・・。」と祈る言葉に、「アーメン」と同意しました。最後は、田舎の集団農場の食堂で食事をし、急いで、テルアビの国際空港に向かいました。これでイスラエルとお別れだと思ったら、すごく寂しくなりましたが、ここは私の心の古里であり、霊的な故郷であると思います。しばらくお別れして、「また必ず帰って来ます」と主に祈りつつ、バスの中で過ごしました。
2007年01月30日
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あっ、忘れていましたが、今日の五日目に入る前に、四日目の日曜日は、エルサレムで唯一の会堂を持っているというメシアニックジュー(ユダヤ人のクリスチャン)の教会、キング・オブ・キングスに行きました。その前に、そのビルの最上階は、エルサレムを見渡せる場所ですが、そこは24時間祈りのタワーと呼ばれる場所で、絶えず祈りがささげられている場所です。その場所で行なわれる、主日礼拝の準備祈祷会に参加させて頂きました。それから、そのビルの地下にある教会に行きますと、とてもいい雰囲気でした。アメリカやヨーロッパ的な雰囲気も少し混じっていますが、むしろ日本に近い雰囲気を感じました。そして、手を上げたり、手を叩いたりして、夢中になって讃美をしました。その後、主任牧師によるメッセージが語られましたが、題は「神の国のビジネス」でしたが、それはすごい説教でした。ガイドであるスティーブンス栄子先生が16年間通っている教会だそうですが、「こんなすごい説教は聞いたことがない」とまで言われた程です。この牧師先生は、一週間に10冊以上の本を読んで説教を準備するそうですが、さすがだと思いました。今、次々に世界中に教会を開拓しているアッセンブリーの教会だそうですが、エルサレム唯一の政府公認教会らしいですが、国は、「こんなにリバイバルするなら・・・」と後悔の色を見せているようです。観光客のためにという公認が、主によって大きく用いられていることを感謝しました。もうここまでで一日分になりますが、実は、私は明日から、教役者大会に参加するために、この旅行記を一時お休みにします。ですから、大まかなところまでは終わりにしておきたいと思いますので、続けたいと思います。五日目は、まずは、ステパノが殉教した教会を横目に、ゲッセマネの園の教会に行きました。そこで記念撮影をし、そこから、ヴィア・ドロローサに行きました。それは、イエス様が十字架を担がされた苦難の道です。悪魔は、何度もイエス様を殺そうとしました。それは、十字架の預言を重々させたくなかったからです。イエス様が断食をして祈っていると、「この神殿から飛び降りてみなさい。」と誘惑し、また、ユダヤ人たちによって、崖から突き落とされそうにもなっています。そして、イエス様は、40に一つ足りない鞭を受けましたが、この鞭打ちで死んでしまう人がいるようなものです。動物の骨が付いていますが、ガイドによれば、パッションはそれを忠実に再現したようですが、それでもまだまだ足りないと言う事でした。神様は、イエス様が鞭打ちの途中で死なないように守って下さったんだと思います。さらに、バラバかイエスが釈放されると言う時に、もしここでイエス様が釈放されてしまったら、十字架は成就しません。そして、言い忘れましたが、ゲッセマネでイエス様が、「この杯を飲まないですむ方法はないのですか?」と三度祈りましたが、その杯とは、全人類の罪が入った杯です。ガイドさんは、便所の汲み取りを小さい頃に見たことを思い出しながら、あれを飲みなさいと言われても到底出来ないのに、はるかに汚れた全人類の罪を、罪のない方が飲みほすということはどういうことだったでしょうか。しかし、この杯を飲んだ途端に、罪のないイエス様は罪そのものとなりました。ですから、その直後に逮捕されたのです。そして、この罪を背負って、十字架で死ぬことが必要なのです。なぜならば、これが、罪の唯一の解決策だからです。パッションを見られた方はわかると思いますが、その同じ場所で撮影されていますから想像できると思いますが、血だらけになって、そして、鞭打ちによって、体中がすごい熱だったと思います。そして、あのきつい坂を登りますから、何度も気を失いそうになり、倒れました。それを考えただけで、涙が溢れます。そして、カルバリーの丘に着いて、そこで、♪カルバリーの十字架♪と♪丘にたてる♪を涙ながらに讃美しました。すごい感動の中、次はお昼です。中華料理を食べながら、私が座った席には、とても明るい先生ばかりが座りましたので、やけに話が盛り上がりました。また、その店主の中国人が面白いの何のって、楽しい一時を過ごしましたが、この喜びは、イエス様の十字架のゆえだと思う時に、ただ感謝をささげ、また、再献身を祈りました。午後は、ブリッジ・フォー・ピースのフードバンクに行きました。今この働きによって、一番多くユダヤ人が救われていると言われているそうです。貧しいユダヤ人を食事や経済的に助けます。その時、数人の里親になっている先生方が来られていましたので、そのことを知った里子のユダヤ人が面会に来られました。しかし、それは公にされませんでした。部屋で一対一であったそうです。なぜならば、みんなの前で紹介することで、おそらく恥かしい思いをするでしょうし、せっかく築いた関係を、「宣伝に利用されている。」と感じさせてしまったら何の意味もなくなってしまうからです。それから、夕食の席は最後の晩餐で、多くの来賓が集われ、観光大臣までがその晩餐に列席されました。一人一人の長いスピーチの後に、五人の代表の牧師先生が選ばれ、私もその一人でしたが、そこで簡単なスピーチをしました。なるべく手短にと思い、「シャローム」ではじめ、伝えたいことを端的に話しました。それを聞いた観光大臣や来賓の方々は、手を叩いて喜んでくれていました。その内容は、私の救い主の歩かれた場所、聖書の舞台であるここイスラエルに来れて感謝していること、そして、イスラエルを愛していること、これから、エルサレムの平和のために毎日祈ること等です。そして、最後に、参加の先生全員に呼びかけて、♪君は愛されるため生まれた♪を歌いました。そして、今回参加したメンバー全員ですが、イスラエルの観光親善大使に任命されました。その後、大きな喜びに包まれて部屋に戻りますと、私の荷物の中から、税金の書類とおみやげの一部が紛失していました。しかし、こんなに立派なホテルのメイドさんが、チップを置かなかった訳でもないのに盗むことは考え難いですし、とても不可解な思いで布団に入りました。しかし、その心は重かったです。イエス様が、最後の晩餐の後に受けた受難と何も比べられませんが、ただ笑って過ごすしてしまうのではなく、ふと、イエス様の受難に目を向け、祈ることが出来たことは、本当に大きな恵みであったと思います。長い一日でした。おやすみなさい。
2007年01月29日
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四日目は日曜日です。まずは、7時頃の遅い日の出を死海で見ました。面白いことに、もうだいぶ明るくなってからの日の出でした。標高マイナス400m以上の場所ですからそうなるようですが、とても不思議な感じがしました。また、死海でも朝の運動としてなわとびをしました。しかし、感じたのは、富士山の山頂などで空気が薄いと感じることと反対で、空気がとても濃いのです。ですから、楽にたくさん飛ぶことが出来ました。そして朝食を食べますが、気分はうきうきしています。それは、他の人も同じようで、随分話が盛り上がってしまいました。しかし、「続きは、死海で浮きながらしましょう」と、話を打ち切って、早速、海水パンツに履き替えてバスローブをはおり、ビーチサンダルで死海に行きました。真冬の早朝ですが、水に入ってしまえば寒いということは全くありませんでした。しかし、それ以上に、とても不思議な感覚でした。とにかく浮くのです。上向きでも浮きますし、下向きでも浮きます。平泳ぎは、足が浮いてしまうので、手でしか出来ませんでした。1人の九州から参加した牧師先生は、山登りが好きな方で、冒険心が富んでいるのでしょう、どんどん沖にまで泳ぎますので、心配した添乗員と私たちは、大声で、「先生!危ないですよ!」と叫びました。ここでは、浮き過ぎるので船はありませんし、誰も助けに行けません。さらに、ヨルダンとの国境を越えそうな所まで泳ぎますので、とても心配しましたが、涼しい顔で、しばらくしたらターンして来られました。「ホッ」死海には15分以上つかってはいけないと繰り返し注意を受けました。さらに水を飲みながら入らないと、すぐに脱水状態になってしまうそうです。私は、水を持参することを忘れましたが、15分ごとに上がってシャワーを浴び、計45分泳ぎ? いや、浮遊しました。それから、スパに行って、塩を洗い流しますが、体が脱水のためにフラフラになってしまいました。しかし、すぐに部屋に戻って、水を補給したら元気が出ました。着替えたら、すぐにバスが出発し、昼食は、イスラエルの家庭料理を頂きました。そこでは、羊料理が食べられるはずでしたが、2~3日前に、韓国人のツアーのグループが100人くらいで突然食事に来たこともあって、羊やオリーブは切れてしまっていて残念でしたが、とても暖かい感じのするお店でした。すぐに車はエルサレムに向かいます。死海から距離にしたらそんなにありませんが、標高マイナス400mから標高800mです。ずっときつい登り坂をバスはエンジンを唸らせながらゆっくりゆっくりと登ります。このような道をイエス様は歩いて登られたのかと考えただけで、涙が溢れてきました。私は、今回一番感動した景色の一つが、このエルサレムに登る道でした。外は雨が降っていましたが、私の心も、感動の涙で潤っていました。オリーブ山の山頂にバスが付きますと、次々に商売人がやって来ました。それは、戦場のようになりました。何でも1$で売りますが、やたらに安いのですが、実は、そう見せかけてスリのプロがたくさんいるということです。それを知っているガイドさんは、一手にそれを引き受けて、「これほしい人?」とマイクで言って、その数を商売人に告げて持って来てもらうというシステムを取りました。外は雨で、暴風が吹きまくっていました。そして、ものすごく寒いのですが、彼らは、生きるか死ぬかなので、必死に商売をしていました。エルサレムのパノラマ写真等をたくさん買いましたので、教会に来られた方にお土産に渡そうと思っています。それから、ホテルに向かいました。ホテルは、最初の二泊はキブツの経営するホテルでしたが、今回は、格安のツアーでしたので、「まあこんあもんかなー」と思っていましたが、死海では5つ星で、このエルサレムでは、何と超高級ホテルのような場所でしたので驚きました。夕食を食べ、とても優雅な夜を過ごしました。おやすみなさい。
2007年01月28日
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三日目は土曜日ですので、80%近いユダヤ人の住むイスラエルでは安息日ですから、ひっそりと静まり返っていました。今朝も、ガリラヤ湖の日の出はきれいでした。朝食後、荷造りをして、バスに荷物を積み込んだ後には、2泊したこのホテルを経営しているキブツ(自給自足の共同体)を見学しました。そこには、保育園や幼稚園、小学校、中学校、老人ホームが揃っていました。高校以降は、外部に通うことになります。ここでは、赤ちゃんを産んだばかりのお母さんも休養の後働きます。仕事が分担されていますので、赤ちゃんを専門に育てる人がいますので、食事の時間以外は、子どもと離れます。全員が何らかの仕事をしますが、とても理想的な共同体だと思います。ガイドさんによれば、「これは、信仰によって建てられているのでここまで成功するのだと思います。また、共産主義も、はじめはこう言ったものを理想に掲げてはじめましたが、自己中心さがそれを変質させてしまった」という説明が加えられました。ひっそりと静まりかえったそのキブツの広大な敷地の中で、唯一、楽しそうにタバコを吸い、労働をしていたのは、極少数のアラブ系の人たちでした。それ以外の人たちは、安息日を自宅で過ごしているようです。イエス様は、「安息日が人のためにあるのではなく、人のために安息日がある。」と教えられましたが、この光景を見て、神様が恵みとして安息日を下さったのだと痛感しました。それから、ガリラヤ湖から少し下ったヨルダン川沿いにある洗礼場に行きました。そこでは、白装束に身を包んで、これから洗礼を受けようとする人も数人いましたし、インドネシア人をはじめとする外国人で賑わっていました。それから、ヨルダン川沿いを死海に向かってバスで走り続けますが、通常の日であれば、片側一車線の道路ですから、渋滞することもあるそうですが、この日は、すいすいと走ることが出来ました。途中、羊を飼うベドウィン族の少年と少女の一団に会いましたので、バスを止めてもらって、お話をしたり、写真を撮ったりもしました。そして、少年の指差す方を見ると、生まれたての羊の赤ちゃんを見ることも出来、感動でした。この時、参加者全員が感動し、はしゃぎまわっていましたが、バスの運転手とガイドさんは気が気ではなかったそうです。それは、ヨルダン川側の道路わきには、鉄格子が張られていましたが、そのすぐ向こうには地雷が埋められていて、もう少し先は、ヨルダンという隣りの国になりますから、そんなところにバスを止めておいたら、すぐに兵隊さんが駆けつけて来る場所だそうです。その後、死海写本が発見されたというクムランに行き、昼食を死海のビーチサイドで食べました。たまたま座った座席が、4席のところを2人で座りましたので、パンが二つづつ食べられると喜びましたが、食べ終わった後には、また持って来てくれた時には笑いが止まりませんでした。そして、ユダヤ人最後の砦と言われるマサダに行きました。ここは、真冬だというのに、ちょうどよい気候でした。しかし、水とサングラスは必需品でした。ここに夏に来たら、熱くて大変だそうです。しかし、感動しました。臆病なヘロデ王が作ったと言われますが、そのスケールの大きさ、その技術には驚かされました。ガイドさんの話しによりますと、AD70年に、ローマ軍に攻撃されエルサレムが陥落し、逃げのびたユダヤ人約900人が2年間にわたり抵抗し続けたました。しかし、抵抗を続けるユダヤ人にローマ軍は奴隷として使っていたユダヤ人を先陣に送り込みますと、それを知ったユダヤ人は、もはや戦うことが出来なくなり、最後は、ローマ軍の手に落ちるよりも自決を選びました。現在イスラエルでは、18歳になると男女ともに兵役義務がありますが、部隊の入隊宣誓式はマサダで行われるそうです。「2度とマサダは落とさせない」という言葉は、ユダヤ人の悲しい歴史と、何者にも屈しないという思いが伝わって来ます。それから、もう一度死海に戻って、ホテルにチェックインしました。ところで、現在死海は上の死海と下の死海の二つに分かれています。それは、地球上の陸地のうちで最も低い場所にある死海ですから、流れ込んだ水を流し出すことは出来ませんが、流れ込んだ水と同等の水が蒸発しますから、塩が残って、どんどん塩の湖になります。上の湖は塩分30%、下の湖は塩分35%だそうです。しかし、二つに分かれてしまった理由は、ガリラヤ湖が全イスラエルの水道水になっていますし、降った雨が鉄砲水として、ヨルダン川や死海に流れ込みますが、それを途中でせきとめて、農業等に使っていますので、ここ最近では、死海の水は減ってしまっているそうです。完全に二つに分断されてしまった死海は、下の湖の塩やミネラルを採取する権利を持っているアハバ化粧品の会社によって、運河を作って、上の湖から下の湖に流しているそうです。しかし、事体は深刻そうです。この日は、夕食を簡単に済ませて、早めにベッドに入りました。5つ星のホテルなので、それなりに高級なホテルの感じでしたので、ゆっくる寛ぐことも考えましたが、翌朝は、死海浮遊をする日なので、それに備えて早めに休みました。今日も、感動に次ぐ感動でとても疲れましたので、あっという間に夢の国に入りました。おやすみなさい。
2007年01月27日
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二日目は、ガリラヤ湖畔で気持いい朝を迎えました。この湖の標高は、何と海面下約210mにあります。地中海からそんなに離れていないのに、この地形を見ただけでも、イスラエルがどんなに変化に富んだ場所であるかがわかると思います。そんなこともあって、日の出は6時50分頃と少し遅いです。死海に至っては、標高海面下約410mに位地しています。ですから、死海の日の出は、だいぶ明るくなってからの7時頃でした。私は、時々宣教旅行に出かけますので、出来る限り生活のリズムが狂わないように、いつもと同じようにします。それは、聖書9章を読んで、お祈りをし、最低でもなわとび等の運動をします。私がなわとびをしている知った人たち(全員牧師や教役者)は、面白がって色々なことを言われました。「ガリラヤ湖と死海で飛んだら、あとは嘆きの壁ですね。そうしたら、このなわとびに価値が出て、講壇から垂らしたらどうでしょう。」(笑)これは、もちろん冗談で言っているのですが、面白い方々との旅行はとても面白かったです。その日は、ガリラヤ湖を遊覧船で一周近く回りましたが、その船は、イエス様が乗られた舟を復元したものであるということで、下船した時には、証明書が渡されました。船の上では、参加者全員(ガイド・添乗員含み33名)で讃美を数曲歌いました。♪主はガリラヤ湖の漁師に告げぬ♪なんとすばらしい♪あばたをたたえ♪等、ここは天国なのではないかと思う程でしたが、気がつけば、船のエンジンは止められていました。それは船員さんの心配りだったようです。戻った時には、韓国人の聖地ツアーのグループが待っておられました。次に、バスに乗り換え、山上の垂訓教会、パンと魚の奇跡の教会、ペテロ召命教会、そして、カペナウムにあるユダヤ教のシナゴーグの跡の遺跡を見に行きました。どこも素晴らしい場所で、主のご臨在を深く感じました。ガイドであるスティーブンス栄子師は、「イスラエルはどこに行っても主のご臨在を感じますね。その中で特に大好きなのは、ガリラヤ湖とペテロ召命教会と、ペテロが主を否んだ鶏鳴教会です。」と言われました。それは、自分(栄子先生)自身がペテロとそっくりな性格だと感じていることと、その弱いペテロを主は召し、失敗を赦し、教会の鍵を渡されるに至ったことを思い起こすことが出来るからだそうです。そして、「こんな私でも大丈夫」と、心燃やされるそうです。私も、全く同感でした。昼食には、セント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペテロの魚)と言われる魚を食べに行きました。淡水魚のスズメダイの巨大な魚でした。油で上げられていましたが、それは舌がとろけるくらいにおいしいものでした。食卓は、どこに行ってもそうでしたが、笑いが絶えませんでした。それは、主のご臨在があったからだと思います。近年、大笑いしているイエス様の顔の聖画が見られるようになりましたが、かつては、泣いたり、苦しんでいる顔がほとんどでしたが、それは、ちょっとした誤解からそうなったようです。聖書には、「イエス様が笑った。」とは書いていないからです。ですから、ある厳格な教団では、冗談を言ったり、笑ったりすることを禁じているところもあるそうです。理由は、「主も、笑いたもうことがなかったから。」だそうです。しかし、主は、いつも大笑いをされ、「大食いで、大酒飲みで、豪快な方であった。」と、極最近では、そのイメージが改められています。聖書には、当たり前のことはあえて書かれていないからです。それは、何となく、私のイメージに近いものがありますので、非常に喜ばしくもあります。多くの方が、「菅ちゃん(いつしか、そう私を呼んでくれました。)のいるテーブルからは、全員から笑いが絶えないし、喜びのオーラが放たれていましたよ。」と言ってくれました。おそらく、全員がそう思っているとは思いますが、私は、誰よりも聖地旅行を楽しませてもらったと思います。もちろん、涙を流し、感動で動けなくなることもありました。二日目(本当は三日目、飛行機の中が一日目、イスラエル初日が二日目)も、最高に充実した工程を終えて、キブツが経営するホテル(このホテルは、ガリラヤ湖畔で一番人気だそうです。)に戻りました。その夕食は、シャバット(金曜日の日没から安息日です)のお祝いのワインが無料で注がれました。その日は、ユダヤ人の家族がたくさんおられ、とても穏やかで和やかな空気が流れていました。その後、すぐにベッドにもぐり、気がつけば朝を迎えました。
2007年01月26日
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イスラエルからの帰国は、火曜日の夜にテルアビブのベングリオン空港を離陸し、水曜日の夜に成田空港に着陸しました。今日一日は、疲れのため全く食事が摂れませんでしたし、寝たり起きたりを繰り返しました。時差は7時間で、イスラエルの方が7時間日本よりも遅れています。旅行初日は、地中海沿いをバスで走りました。まずはカイザリヤに行き、ローマ時代の円形劇場等を見学しました。円形劇場は、音響がすこぶる良くて、マイクなどの音響装置がなくても、すべての観客席に座っている人にまで声が届くのには驚かされました。これは古代の人の知恵ですね。あと、その日はガリラヤ湖の湖畔のホテルに宿泊しましたが、ガリラヤ湖の湖畔の音響の良さにも驚きました。遠くで話している人の声が、すぐ近くで話しているかのように鮮明に届くのです。その翌日には、イエス様が山上の説教をしたと言われている場所に行きましたが、おそらく、その群集にもイエス様の8つの幸いの説教をはじめとするお話は届いたであろうと感じました。イエス様は、公生涯の大部分をこのガリラヤ湖畔やカペナナウム等を中心とする場所で過ごされたのは、自然自体がそのようなすぐれた音響効果のある場所であったことも無関係ではないと感じます。初日は、ガリラヤ湖の湖畔で宿泊しました。到着してすぐに、ウェルカムドリンクが出され、食堂に通されました。イスラエルは、どこに行ってもだいたい似たような食事が出されましたが、日本人の口にとても合うなーと感じました。しかし、肉等はさっぱりしすぎて、参加した牧師先生方(このツアーは、牧師や教役者だけの優待ツアーでした。)は口々に、「今一だ」という声が聞かれました。それはおそらく、コーシェルと言って、レビ記をはじめとするユダヤ人の食物規定に従って、肉は完全に血抜きがされているためだと思われます。日本で焼肉をレアで食べた時に血が滴っていることがありますが、血がおいしいのだと感じました。しかし、このコーシェルという食物規定に従って食事をするユダヤ人は、どこに住んでいても不思議なくらいに、その地方で流行っている伝染病の被害とは無縁であると聞きますが、衛生の面で考えても、聖書が教える規定は本当だなーと思わされます。しかし、私たち日本人には、その規定を守ることは至難の業であると思います。おいしいものの多くを食べられなくなってしまうからです。例えば、豚は最も汚れたものであると考えられていますから口にも出来ませんし、イカやタコ、うなぎも食べられなくなってしまいますから。さて、初日は、手短に食事を終えると、「みんなでガリラヤ湖に行きましょう」ということになりましたので、その前に妻に電話をしようと思って、5ドルをイスラエルの20シェケルに両替してテレホンカードを購入しました。イスラエルで一番安いとされる013を回し、日本の国番号81を回して、東京03の0を取って電話しますが、誰も出ません。しかし、忘れていたのは時差があることです。日本は夜中の3時でした。(笑)イスラエルに来て思うのは、外国に感じないことです。私は今までに、韓国とアメリカには何度も行きましたが、そこは外国であることを痛感させられましたが、イスラエルはそういう感じがないのです。それは、行くところ行くところに、「ここでイエス様が早朝にお祈りをされた場所です。」とか、「ダビデがいた場所です」とか、聖書のほとんどの舞台になった場所があることも関係があると思いますが、その行くところ行くところに、神様の臨在を感じ、「懐かしい」という表現も似合わないほど、自分の居場所であるように感じます。私は今までに、国を捨てて外国に移住したいと考えたことはありませんでした。それ程日本が大好きですし、外国で生活をする中で、「自分の居場所は日本しかない」と確信しました。しかし、イスラエルは違うのです。ここなら移住していてもいいと思いますし、永住してももいいなーと感じています。今回のツアーガイドは、政府公認のスティーブンス栄子先生でしたが、栄子先生は、エルサレムに自宅がありますが、そんな生き方もいいなーと思いました。また、有名なガイドに、通称「ばらさん」呼ばれる方もいますが、このばらさんのガイドを受けたくても、二年先まで予定がぎっしり詰っていると聞きます。若い頃からこの地に魅了されて、オーストラリア人の女性と結婚して、ずっとこの地で暮らしています。そんな生き方もいいなーと感じました。とにかく、どこに行っても違和感がないし、感動と涙の連続なのです。これをうまく伝えられないのが残念です。今さっきまで、ガイドの説明入りのイスラエルの風景のDVDを妻と子供たちと見ていましたが、その感想は、「つまらない」です。そうだと思います。それは、以前の私も同じだったからです。聖書には、「来て、見なさい。」という言葉が書かれていますが、来て、見てはじめてわかることがたくさんあります。もちろん、行って、見ても、全くチンプンカンプンということもあり得ますますが、特に、信仰を持っている私たちに取っては、どんなに大きな犠牲を払ったとしても行った方がいいと思える場所です。とにかく、とりとめのない、まとまらない旅行記ですが、しばらく書き続けていきたいと思います。今の感想は、あまりにも良すぎて、言葉にならないというのが正直な感想です。ヘブル語のこんにちはやさようならは、「シャローム」と言う言葉を使いますが、今日の旅行記はこの言葉でしめたいと思います。シャローム。
2007年01月25日
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私は、念願だったイスラエルに行って参りました。期間は8日間でしたが、あまりにも中身のある8日間でした。今日から少しづつ、その内容を紹介させて頂きたいと思います。イスラエルは、日本の四国くらいの大きさの国ですが、聖書のほとんどの出来事の舞台となった場所です。イスラエルに行ってみてはじめてわかることがたくさんあります。イスラエルには、ウズベキスタン経由で飛行機に乗って行きました。飛行時間だけで、実に、16時間かかりました。その前後を考えると、丸一日がかりの旅行になりました。私が行った時期は、日本と同じ冬で、雨季です。しかし、思ったほど寒くはありませんでした。あと、雨季ということですが、1月の降水量の平均は134mmです。ちなみに、2月は47mm、3月は98mm、そして、5月~9月までは0mmで1滴も降らないと言っても言い過ぎではありません。10月は2mm、11月は14mm、12月は10mmです。雨季である1月でも、空気は乾燥しています。ですから、常時水を飲まないと熱中症にかかってしまうと言う様にガイドさんから言われました。そのような地でイエス様は、「私は生ける水である。」と言われました。これは非常に意味のある言葉です。日本のように水に恵まれた地域にいますとピンと来ませんが、イスラエルに行ってその言葉の重みがよくわかりました。今回はまた、雨季にも関わらず、旅行に支障が出る雨は降りませんでした。降ったのは夜間であったり、一日中バスで移動するような日でした。今回は、イスラエル独特の、鉄砲水を見ることが出来ました。また、鹿が谷川を歩く姿も見ることが出来ましたし、羊飼いが羊を飼う姿も見れました。特に、鉄砲水は、数年イスラエルでくらしていても見たことがない人もいるようなものです。日本で雨が降りますと、山や地に浸み込みます。そしてそれが地下水になります。しかしイスラエルは岩地です。雨が浸み込むことが出来ませんので、100%近くの水が、海面下200mくらいのガリラヤ湖や海面下400m以上の死海目掛けて流れ込んで来ます。それは、時には橋や家をなぎ倒すほどの勢いです。そして、この鉄砲水を溜めて、それを農業やその他の必要に使います。全イスラエルの水道水は、ガリラヤ湖の水を使います。しかし、雨量が極度に少ないので、万年水不足です。一年の半分近くは、全く雨が降りません。通常は、植物は全て枯れてしまいます。しかし、イスラエルの農業には驚かされます。全てコンピュータ管理がされているようですが、畑や植物がある回りには、水道管を通し、そこに、極わずかな穴が開けられていて必要最小限の水を有効に活用しています。聖書が水の話をする時には、このイスラエルという地で語られたことを知る時に、全く違うメッセージとして受け止めることが出来ると思います。
2007年01月24日
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今日は、お昼くらいまで新宿消防団の始式に参加して来ました。この式には、たくさんの消防団員をはじめ、新宿区長、区議会議員、都議会議員、国会議員等の来賓も多数参加されて、非常に盛大なものでした。また、私は進入団員として紹介して頂きました。とても光栄な気持ちで帰宅しました。午後からは、アメリカから来日された宣教チームの方々と合流して、夕方からの新宿駅前路傍伝道&路上ライブの打ち合わせをし、実際に1時間半くらい行う予定です。人は、神によってすべての人に召命が与えられています。第一の召命は、男女の召命です。第二の召命は、その働きの召命が与えられています。私に与えられた第一の召命は、男性としての召しです。次に、牧師の働きです。神の人として選ばれ、召し出され、御国の大使として福音宣教をしています。その他にも、色々な働きや働き場が与えられています。あなたも、性別の召命のほかに、何らかの働きの召命が与えられていると思います。与えられていない人はいません。そして、大切なことがあります。その働きには優劣は一切ありません。あるのは違いだけです。それは、会社員であっても、専業主婦であっても、医者であっても、公務員であっても、弁護士であっても、教師であっても、国会議員であっても、牧師であっても、はたまた、汲み取りのバキュームカーの運転手であっても、みんなそれぞれの分野でなくてはならない働きであり、優劣はないのです。世の中一般の考えでは、肉体労働よりも頭脳労働の方が優れていると考えます。そして、キャリアというものに価値を置きます。本当でしょうか?世の中もし、エリートのような職種だけしかなかったら、とても偏った社会になり、円滑に回りません。すべての職種の人がいるからこそ、世の中は成り立っています。今日、消防団の始式に参加して、団員になれたことの誇りを感じると同時に、この地域のお役に立ちたい、尽力したいと益々願います。神様は、与えられた働きを通して、やる気と満足感、夢や希望、自信や自尊心が与えられると思います。あなたが、神から召された仕事を知り、それに献身し、仕えて、全力投球したら、最高に満足と幸福が味わえるようになっています。どうぞ、、自分に与えられた仕事に誇りと自信を持って、全力で働いて行きましょう。世の中、劣等感やコンプレックスを持っている人は、自分の仕事に引け目を感じている人です。どうぞ、引け目を捨てて、最高の仕事が与えられたから最高の仕事をして行こうという気持ちを持って行きましょう。祝福がありますように。
2007年01月13日
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「りっしんべん」に「亡」と書いて忙しいと書きますが、忙しいと心を亡ぼしてしまいます。その実態は一体なんでしょうか? それは、禁止令に追い立てられる心です。子どもの頃から、多くの人が「早くしなさい!」と一日中追い立てられたのではないでしょうか? 朝「早くおきなさい!」「早く着替えなさい!」「早く食事をしなさい!」「早く学校に行きなさい!」そして、学校から帰って来ると、「早く手を洗いなさい!」「早く宿題しなさい!」「早く塾に行きなさい!」そして、「早く夕食を食べなさい!」「早く寝なさい。」そして一言、「明日早く起きるのよ!」これでは、一人立ちし、大人になってからも、心の中ではテープが回るように「早く!」「早く!」と追い立てるのではないでしょうか?何事も早くしなくてはならないと思い込まされている現実があります。もちろん、早さは今の時代要求されることですが、同時に、じっくりと確実にすることも大切です。私たちは、早く、そして、時間に追われている現実はありますが、しかし、その「早く!」という禁止令を一旦封鎖し、「自分のペースでいいよ。」と言ってあげることも大切です。ある人は、いつも何かに追われているような気持になっている人がいます。もちろん、追う者はいないのに。また、何もしない暇な時間を持つことに罪悪感を感じる人がいます。私は、自分自身、朝の聖書と祈りの時間を最も大切なこととしています。忙しい人にも、忙しくない人にも、私は奨めます。「朝、聖書を読んで祈って下さい」と。それに対して、「私は忙しいので、そんな暇ありません。」と返答が帰って来ました。そう答えられた方の中には、熱心なクリスチャンの方もいますし、牧師のお子さんもいます。しかし、忙しいからこそ、聖書を読み、祈らなければならないのです。少なくても、朝の1時間、30分、いや、10分でも、この朝の時間があなたの人生を豊かにし、忙しくならないばかりか、何倍ものことをすることが出来るはずです。私は、朝の聖書と祈りのために、朝早く起きます。そして、重要なほとんどのことは午前中に終わらせてしまいます。そうしたら、午後の時間は、外部の働きにゆとりを持って参加することが出来ます。そのために聖書を読み、祈るのです。その時、すべての否定的な感情、心配、恐れ、思い煩い、嫉妬、憎しみ、怒り、失望落胆、無気力、イライラ、憂鬱さ、忙しい心・・・。それらすべては溶かされ、肯定的な感情に変えられます。その上で祈りますと、必要なことと不必要なことが見えて来ます。そうしたら、不必要なことは、排除、もしくは、後回しにして、必要なこと、しかも、緊急を要しないけれど重要なことから行なって行きます。そうしたら、忙しさは最小限になり、消えてなくなってしまうのです。私は、今日、明日、明後日と、とてもいそがしいです。しかし、忙しくはなりません。やることがたくさんあるだけです。それを、ゆとりを持って、楽しく行なうのです。みなさんにも、そんな生き方を提唱します。必ず、人生が何倍にも祝福されるはずです。お祈りをしています。
2007年01月12日
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私たち、人と人との関係とは、人と言う感じが示すように、互いに支え合い存在しています。しかし、今年になってから特に目に付くのは、身内の殺人です。これは明らかに何かが狂ってしまっています。これに付随して起こっているのは、虐待やいじめ等です。家庭内での虐待や学校でのいじめが激化していると言われます。これを小さなこととして見過ごしてはなりません。主イエス・キリストは、聖書の律法を解釈されました。人々は、「自分は人を殺していない。」と言いますが、そうではない。「人を能なし」や「ばか者」と言うものは殺人者と同じ裁きを受けなければならないと言われました。この現在起きている身内の殺人以前に、虐待やいじめ、いや、それ以前に、「能なし」とか、「ばか者」という相手を見下し、過小評価し、否定する心を問題としなければ解決はありません。イエス様は、人を「能なし」や「ばか者」と言うことをなぜそこまで厳しく糾弾されたのでしょうか? それは、その思い、その言葉自体が殺人の種だからです。そのことは、人からそのようにばかにされたり、見下されたり、無視されたり、嫌がらせや皮肉を言われたりしたら、それだけで精神的には萎縮させられ、傷つけられ、殺されるということが起き得るのです。現在、精神的な病にかかっている人のほとんどは、この人からのそのような言葉や態度が原因となっています。そして、その状態にある人は、その相手を赦さないし、その本人か、他の誰かに復讐をしたり、怨念返しをしますから、ますますそこにはまってしまいます。今日、そういうことは無駄であり、解決にはならないことを知ってもらいたいです。悪魔は、人を、盗み、殺し、滅ぼす存在であると聖書は語ります。身内殺人、虐待やいじめ、人を見下し、誹謗中傷し、否定するのは悪魔から来るものであることを知らなければなりません。人は本来、支え合うものなのです。倒し、躓かせ、なき者にするのは、悪魔から騙されているのです。聖書には、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。」と書かれています。神は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と語られました。神に従うとは愛し、赦し、受け入れるということです。そして、「悪魔に立ち向かいなさい。」とは、愛の反対である盗み、殺し、滅ぼす思い、スピリットを断固拒否し、追い出し、締め出さなくてはいけません。私は、本当に多くの人から支えられていると思います。まずは、神様です。そして、信仰によって支えられていますが、何よりも、家族に支えられています。また、教会員に支えられています。また、多くの牧師先生やクリスチャン、地元の人たち、身の回りの人たちです。このことに対して本当に感謝しています。あなたにはそのような人がいますか? もちろん、そのような人がたくさんいることは感謝なことですが、大切なのは、あなたがそのような人になってあげることです。あなたが誰かの支えになるのです。躓かせるのではありません。躓かせるのは悪魔の願いです。私たちが一人間として、どんな立場であったとしても、どんな過去があったとして、今どういう状態にあっても、あなたの身近な人、あなたと接する人を支えるのがあなたの使命です。これは、神があなたに与えられた永遠不変の使命です。ですから、あなたは愛するために生まれて来たのです。韓国のゴスペルソングに「あなたは愛されるため 主の愛を伝えるため~」という讃美がありますが、今日そのことを再認識して下さい。もし、赦せない人がいるならば、無条件に赦しましょう。神にその思いを預けたら、神があなたに代わって裁き、復讐して下さるでしょう。どうぞ、その思い、怨念を人にぶつけないで下さい。人を殺し、人を虐待し、人をいじめ、人を見下し、人を否定する人は、過去にそのような仕打ちを受けて来た人がほとんどです。しかし、その悪の連鎖を断ち切って下さい。あなたにそうした人も、かつてそうされたのです。それは、先祖伝来伝わって来た罪であり、怨念なのです。その悪の連鎖は、十字架によってのみ断ち切ることが出来ます。その悪を自分に向けないで下さい。最近、「自殺したい。」「死にたい。」という言葉をよく耳にしますが、これは、悪を自分に向けているからです。直ちにやめて下さい。その思いは、イエス様の十字架に向けて下さい。そうしたら、そのやるせない思いが解け去り、喜びが必ず湧き上がって来ます。必ずです。時間がかかるかも知れません。しかし、祈り、執拗にイエス様の十字架にその思いをぶつけて下さい。そして、絶対に人にぶつけないで下さい。自分にコンプレックスがあったり、劣等感があったりすると、うまく行っている人を妬ましく思い、祝福することが出来ません。ちょっと皮肉を言ったり、噂話をしたり、引き下げたくなります。このような思いは、自分自身の中に潜んでいるコンプレックスや劣等感によるものなのです。これもイエス様の十字架に持って行きましょう。また、弱い者、異分子に思える者、自分の物差しに合わない者をいじめたり、悪口を言ったり、否定するのは、実は、その相手に問題があるのではなく、自分自身の中にある問題を相手にぶつけているのです。つまり、自分自身を否定しているのです。ですから、あることで人を激しく中傷する人が、実は、そのことを自分がしているということを数限りなく見て来ました。それは、自分を赦していないのです。自分を赦さないと自分を責めますが、責めると苦しくなるので、同じような人を見つけて、その相手を責めるのです。しかし、それらの思いのルーツは、悪魔から来ていることを知って下さい。なぜ、悪魔の思いをキャッチしてしまうのでしょうか? それは、罪と言うチャンネルを通してです。ですから、罪を悔い改めなければいけません。そして、人を支えない思い、言動、あり方は、今後一切やめて行きましょう。それはすべて、イエス様の十字架に向けて下さい。イエス様は十字架に係り、そのあなたの思いを背負って死なれました。そして、復活されたのです。イエス様に否定的な思いと怨念をぶつけても、イエス様は、「やったなー!」と怒ったり、仕返しををしたりしません。むしろ、あなたをありのままで愛し、赦し、受け入れて下さいます。その愛を受けて下さい。そうして、その愛で、自分を愛し、他者を愛して下さい。そうしたら幸せになります。少しリンクしますが、昨日、ブログの1に書いた、佐々木満男さんの詩を紹介します。「考えるとうつになる 信じると楽になる 愛するとうれしくなる みつお」愛に生きて参りましょう。祝福がありますように。
2007年01月10日
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最近親しくさせて頂いている、国際弁護士の佐々木満男さんは、有名な相田みつをさんの書画に倣って、太字のマーカーで書画を書き綴っておられます。あちらは「みつを」で、こちらは「みつお」。ご自分で芸術作品と称しておられました。それを見て、なぜか勇気が湧いて来るし、慰められるし、芸術作品だと思いました。その一つを紹介しますと、「善か悪かは問題ではない 愛か憎しみかが問題なのだ みつお」その通りだと思います。私たちは、善か悪かを問題にしやすいと思います。しかし、絶対の善悪の基準は人の中にはありません。それは、ゴムで出来た物差しのようなものかも知れません。同じことをしても、ある人に対しては寛容になれるのに、また別のある人に対しては厳しくなるということがあります。その物差しの正体は、好き嫌いであったりするかも知れません。また、ある事件の裁判において、その裁判官によってその判決が変わることがあります。下手をしますと、死刑か無罪かくらいの違いが起きることさえあります。善悪は、私たちは出来るだけ関わらないで、法律家に任せたり、神様に任せるのが得策です。悪い人は、あなたが目くじらを立てなくても、法律がその人を裁きますし、神が必ず裁かれます。この善悪を委ねるということは、ある人に取っては泣き寝入りのように感じるかも知れません。泣き寝入りとは、泣いたまま寝てしまうということですが、そこには我慢ということがあるでしょう。しかし、聖書は、泣き寝入りを教えていません。「復讐するのは私だから、私に任せなさい。」と神ご自身が語られるのです。すごいことです。どうぞ、神にすべての裁き、すべての善悪を任せてまいりましょう。あとは、神が正しいと言われることを正しいとし、神が間違っていると言われることを間違っているとしたらいいのです。そして、問題は、愛か憎しみかなのではないでしょうか。神様は、他の人の有様を見て、「善悪を判断しなさい」とは教えません。「その人を愛しなさい」と教えられます。ですから、愛しているか?憎んでいるか?、このことを私たちの問題として行きましょう。そうしたら、すべての人間関係の問題は解決し、精神的な苦しみはなくなり、心は自由になり、幸せになります。そう。あなたは、愛を選択するのです。その時に、あなたは、「私の人生はこれで良かった。」「最高だ。」「幸せだ。」と言えるようになるのです。今日、そんな素敵な一日を歩みたいですね。祝福がありますように。
2007年01月09日
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私は、今から10数年に成人式を迎えました。今考えて見たら、随分子どもであったなーと感じます。ある人は、男の人は26歳を越えてやっと大人の考えを持つようになると言いましたが、私の人生の節目は、その年頃でした。26歳で結婚をし、二人でアメリカに留学しました。そこでは、ダブルのカルチャーショックがありました。一つは、国際結婚だったので、家庭の中に二つの国の文化が存在するようになって、大きな葛藤を覚えました。それは、同じ国の人同士の結婚であったとしても、理想と現実とのギャップは大きいと言われますので尚更です。また、その葛藤を抱えたまま、今度はアメリカに渡りましたので、ストレスとカルチャーショックに囲まれていました。その上、英語が拙かったので、ESLの学びも並行しました。憧れだったアメリカ留学は、大きな試練を経験しましたが、同時に、大きな成長をさせて頂いた時でもありました。振り返ってみたら、神様が私に下さった一つ一つの訓練や恵みは、本当に時に適ったものであり、最善のものであったと感じます。成人式の成人とは、「人に成る」と書きますが、20歳になったからと言って、特別に何が変わるということはないと思います。特に、男性の幼児性はまだしばらく続きます。それは、毎年の成人式での騒ぎを見ただけでも一目瞭然です。しかし、人に成ると言うのは一体何だろう?と思いますが、それは、本当の意味では、キリストの姿に似せられ、変えられるということではないかと思います。そして、究極に言ってしまえば、この地上でどれくらいの業績を残し、成長できたと言っても、大したことはないとさえ感じます。ジェラール・シャンドリーさんの有名な言葉に、「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」という言葉がありますが、集めたものとは、私たちの実績や成功に当るのではないかと思います。そして、与えたものとは、キリストの姿に変えられた生き方だと思います。キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われましたが、愛こそ与えることであり、愛こそ尊い生き方だと思います。先日、韓国人の宣教師の集まりで、今年の総会長になられた牧師が、「勉強した人がいい人とは限らない。」と言いました。それは、勉強する人は、人のためではなく、通常自分のために勉強しますし、その人の人格とは全く関係ないという話をされましたが、その話しにも通じると思いますが、大切なのは、いかに人に仕え、キリストの心で牧師の働きをすることが重要かを話されたのだと思います。成人式に想うことは、年を重ね、成人式を迎えることは素晴らしいことですが、それだけではなく、それにふさわしい中味、それは、究極にはキリストの姿、愛の人になることだと思います。今の世の中、個人主義が蔓延し、自分を犠牲にして、人を愛するということの価値を伝え難いように感じますが、実際は、そんな人を世の中は待ち望んでいるのではないかと思います。何か、立派な地位を得、立派な肩書きを得てから人は変わるのではなく、今この時から、そのような歩みをする人が、やがて立派な人となり、その生き方にふさわしい地位や肩書きも後からついてくるのではないでしょうか?共に、キリストの生き方である愛に生かされていきたいですね。そう書く私に愛があると言っているのではありません。愛を目指し、愛の人になりたいと言う祈りを持って、愛の方向に共に歩んで行きたいと願いします。そんな想いを込めて、私たちも20歳でなくても、自分の中で成人式を祝い、人と成る、そんな生き方を目指して参りましょう。祝福がありますように。
2007年01月08日
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私の人生の中で、最も大切に思っているものは出逢いです。この出逢いによって、私の人生は素晴らしく変化して来ました。まずは、何と言っても、主イエス・キリスト様との出逢いです。私のために、十字架で身代わりに死んで下さって、救って下さいました。この出逢いは永遠に変りませんが、最も大切にしています。次に、妻との出逢いです。妻は韓国のソウルに生まれましたが、たった一度の来日の時、新宿路傍伝道の場で出逢い、結婚することが許されて、夫婦となりました。この出逢いは一生大切にして行きたいです。また、両親や恩師との出逢いです。たくさんの恩を頂いて来ましたから、これからは、恩返しをして行きたいです。これも、本当に大切な出逢いです。そして、みなさんを含む友だちとの出逢いです。友だちは、利害関係ではありません。それだけに大切に思います。私は、許されるならば、一生涯友だちの関係を続けて行きたいと思っています。相田みつをさんの詩に、「そのときの出逢いが 人生を根底から 変えることがある よき出逢いを」というものがありますが、味わい深いです。出逢いとは、時に人生を根底から変えてしまう場合があります。ですから、素晴らしいのです。主イエス・キリスト様との出逢いは、私を罪から救い出し、永遠の命を与えて下さいました。私は、根底の根底から変えられました。また、妻との出逢いも、人生を大きく変えてくれました。私の中の半分近くは、韓国人的な価値観を持っています。世界観が大きく変りました。また、最近親しくさせてもらっている、国際弁護士の佐々木満男さんとの出逢いは、私の宣教活動を大きく励ましてくれています。佐々木さんは、毎週、「ささきつおのDon,t Worry!!」というラジオ番組に出演しています。また、相田さんとは一味違いますが、「みつを」ではなく、「みつお」で自筆で詩を書いています。落ち込みそうな時、大きな励ましを頂いています。また、数人の親しい牧師友だちは、定期的に交わりをし、励まし合い、祈り合い、支え合っています。ですから、私は支えられていますので、燃え尽きたり、落ち込んだりしないですんでいます。今日から、二泊三日で韓国人の宣教師の新年聖会があります。これからそれに出席するために出かけますが、ということで、また何日か日記の更新をお休みさせて頂きますが、とても素晴らしい出逢いと再会に胸踊らせています。今回の聖会の講師の一人のソ牧師は、韓国で数千人の集まる教会の牧師ですが、私が韓国を訪問した際には、講壇に立てて下さり、身に余る接待をして頂きました。再会がとても楽しみです。また、妻のおかげで、たくさんの韓国人宣教師との出逢いが与えられ、親しくさせてもらっています。また、今回は数百人が集まって三日間を過ごしますので、たくさんの新しい出逢いが与えられるだろうと思いますので、とても楽しみです。出逢いは、人を根底から変えてしまう場合もあります。どうぞ、一つ一つの出逢いを大切にして行けたら素晴らしいと思います。自分より偉いからといって、ぺこぺこする必要はありませんし、自分より低いと思って見下す必要はありません。むしろ、偉いと思える人には、尊敬心を持ちながら対等に接し、低いと思える人には、丁重な心で接するくらいが丁度いいだろうと思います。そうしたら、両者とも驚くだろうと思います。偉い人は、人から対等に接せられることに慣れていませんし、低い人は、人から丁重に接せられることに慣れていないからです。つまり、平等に接し、人を分け隔てせず、出逢いを、一生涯続くものとして大切にして行くならば、きっと、あなたを根底から変えるよい出逢いになるはずです。あなたとの出逢い、これを大切にして行きたいと思っています。これからもよろしくお願いします。祝福をお祈り致します。
2007年01月04日
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「ありがとう」という言葉は、とても魅力的な言葉です。そして、この「ありがとう」が私の力の源泉でもあります。どんな状況、どんな環境の中にあっても、「ありがとう」と言うならば、それは、プラスの力となります。しかし、それは、浅はかな「ありがとう」ではなく、心の底から言うことです。そのエネルギーは、自らの心を豊かにし、他の人の心にもエネルギーとして伝わります。そして、「ありがとう」には、積極的にその出来事に対しての価値を認めることです。心の底から「ありがとう」と言う時に、心を豊かにしますが、今の状況に対しての価値を認めることで、理性に働きかけます。世の中の経済は、価値が認められたものの値段が上がります。ですから、リサイクルショップに行って、「何でこんな物が?」と思うものが高かったり、少し前まで高く売られていたものが、とても安く売られていたりします。私たちの人生には、どう考えてもマイナスとしか思えない状況があります。失敗、争い、紛失、事故や災難、そして、悲しい、つらい、やるせない状況はいくらでも起き得ます。しかし、そんな時にも、心から「ありがとう」を言い、その中にある価値を探して認めることです。私たちは、人の苦しみや悲しみに対しては、意外にもクールに対処できるものです。しかし、こと、自分自身のことになりますと、そうは行きません。それは、客観視できなくなるからです。ですから、自分のことであったとしても、それを、第三者のこととして客観視し、受け止め直してみることです。それと、ゲームの精神を持つことです。これは、アメリカのロサンゼルスにあるクリスタルカテドラルのロバート・シューラー牧師が推奨しているやり方です。今の出来事に対して、積極的な価値を見つけるゲームをするのです。1~10まで神に書き出す頃には、きっと笑いが込み上げて来るだろうと思います。そして、どんなことも、私たちの目にはマイナスに映ったとしても、神の許しなしに起こることはありません。ですから、神を信頼する私たちに与えられたことは、それが戒めであったとしても、最善であると信じることです。マイナスやつらい経験は、時に私たちを心からの悔い改めに導き、より良い人生へといざなってくれるものです。そして、そんなつらい時にこそ、人は神に祈るものです。私の恩師である大和カルバリーチャペルの大川従道牧師は、何度も、「祈りに導かれることは全て善し。」と教えて下さいました。そう、祈りに導かれることならば、すべて「ありがとう」と言えるのです。そして、この「ありがとう」が私のエネルギー源なのです。今日も「ありがとう」で1日をスタートし、そして、「ありがとう」で終わりにしたいと思います。あなたも「ありがとう」と、心の底から言ってみて下さい。そして、理性でも、全てのことに対して価値を認めてみて下さい。「ありがとう」と言って生きている限り、絶対に落ち込めません。もちろん、元気を失うことや疲れきってしまうこと、燃え尽きてしまいそうなこともありますが、必ず浮上できるものです。そして、聖書は、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。』と教えます。そんな一日でありますように。みなさんの祝福を心からお祈りしています。
2007年01月03日
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「いのちのパン」とは、聖書の言葉です。そして、聖書の言葉は神の言葉ですから、この地上の価値観で現わすことは極めて困難ですが、しかし、誰にでもわかる言葉で書かれているのが聖書でもあります。この聖書が書かれた時代背景、文化背景を見て見ますと、パンはは身近な食物です。日本で聖書が書かれたとしたら、きっと、「いのちのごはん」とか、「心のごはん」と書かれたのではないかと思います。また聖書は、私たち人間を羊に譬えますが、それは、イスラエルに羊が多いからです。日本であったならば、犬や猫が譬えられただろうと思います。「主は、犬の飼い主」「神は、猫の飼い主」と。イエス様の譬え話しは、当時の聴衆にとっては、生活の身近なものを題材に話されました。「空の鳥を見なさい。」「野のゆりを見なさい。」と、神様の奥義を、誰にでもわかる言葉で表現されたのです。ですから、聖書とは、いのちを与える食物のように、私たちの霊のいのち、心を養う食物のようなものです。栄養を与え、元気を与え、いのち生き生きとさせて下さいます。今、多くの人の心にはゆとりがありません。忍耐力がなく、すぐに腹を立て、人と争ったり、快楽に走ったり、現実逃避をします。なぜでしょうか? それは、いのちのパンを食べていないからです。私は、1日に9章の聖書を読みます。旧約聖書を7章、新約聖書を2章です。そうすると、4ヶ月で1回聖書を完読出来ますので、年間3回読めます。しかし、これが私に取ってちょうどいいいのちのパンの量なのです。このことによって、私のいのちは支えられ、豊かにされています。しかし、聖書を読んだら完全な人になってしまうかというと、そうではありません。しかし、1日のスタートから方向性が違います。感謝と讃美、平安な心で人を愛そうと願い、目標を目指してはじめます。しかし、聖書を読まないで1日をはじめますと、昨日の精神状態を引きずって、愚痴と不満、恐れと無気力、ストレスと疲れ、怒り、憎しみ、心配等で、活力なくスタートするかも知れません。私は、時々断食をしてお祈りをすることがあります。断食とは、人に見せたり、人から偉いと思われるためのもではありません。自分のためにするものなのです。そして、食事をしない分、もっと聖書の言葉のありがたみがわかるのです。聖書は、約2000年から数千年前に書かれた書物です。普通ならば古いですから役に立たないはずですが、しかし、聖書は神の言葉ですから、今でも、全く変らない力があります。毎日聖書を読んでいる人は、引き続きそのことを続けて下さい。また、聖書を時々か、ほとんど読まなかった人は、どうぞ、この新年から聖書を読む習慣をつけて見てください。これがあなたを生かし、あなたの人生を革命的に変えるのです。約束します。聖書は、いのちのパンです。あなたを生かし、あなたの心を豊かにし、健康をもたらし、あなたの才能を目覚めさせ、祝福と繁栄に導き、その恵みはまわりの人にまで広がって行きます。共に、1冊の聖書を慕い求め、愛し、読んで行きましょう。それがあたなのいのちです。そして、その言葉を信じ、そして、従って行くのです。どんな過去があっても、今どんな状況にあったとしても、聖書を読んで悔い改めるならば、聖書に書かれている通り、『誰でも、キリストにあるものは新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった。』のです。今日も、新年だからではなく、全く新しいスタートをさせて頂きましょう。祝福がありますように。
2007年01月02日
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新年明けましておめでとうございます。旧年中は、毎日日記を愛読して下さり、交流をして下さってありがとうございます。今年もどうぞ、宜しくお願いします。新しい年を迎え、新たな出発をされていることと思いますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。先週は、一週間の休暇を頂き、家族で栃木に出かけていました。前半は、鬼怒川オリーブの里という祈りの施設にのんびり温泉につかりに行き、後半は、那須塩原にあるかもしか荘という場所で、日本基督教団・新松戸教会の修養会に参加しました。それは、大変有意義な時間を過ごしました。この期間、私の心に残っている一つの光景があります。栃木は、山に囲まれていて、東京よりも寒い場所です。そんなこともあって、水道管の水も、この時期には凍ってしまうことがあるそうです。ですから、トイレの水や洗面の水等は、ちょろちょろと出しっぱなしの状態になっていました。もったいないと思いましたが、もし止めてしまったら、凍ってしまって大変なことになってしまうそうです。しかし、水を止めている場所もありました。それは、水道管の回りに断熱材入っていたり、温めているから大丈夫なようです。2007年、夢と希望を持ってスタートされた人も多くいらっしゃると思いますが、聖書を見るならば、世の終わりに向けて、ますます悪い時代になって行くと書かれています。これを人生の四季に譬えるならば冬です。そんな時、私たちは神の恵みを流し出す水道管のような存在ですから、絶えず受けた神の恵みを流し出し、誰かに愛を分かち合うことが必要です。そのことによって、私たちが凍ってしまったり、息詰まってしまうことはないはずです。反対に、受けるばかりで、与えなくなってしまうと、そこで詰りを起こし、何らかの傷害が起きて来ます。イスラエルには、ガリラヤ湖と死海という有名な二つの湖があります。この二つの湖は、同じヨルダン川の水が流れ込んでいますが、全く対照的です。ヨルダン川は、自然の宝庫であり、たくさんの命があります。しかし、死海は、何の命もありません。その理由は、ガリラヤ湖は、上流から受けた水を下流に流しますので、水の循環がなされます。しかし、死海は、受けた水を流し出しません。そこは、地球の吹き溜まりのような場所です。ですから、水分だけ蒸発し、塩分が濃くなって、命が存在できません。従来は、この死海はよくないということで、みなさんは、このお話をお聞きになったことがあられると思いますが、しかし、神の恵みは、マイナスをプラスに変えることが出来ます。ですから、死海にも使命があるとも言えます。それは、有名な観光地になっていますし、死海の塩も有名なお土産になっています。また、この死海から、ある飛行機に必要な貴重な物質が摂れるそうです。まさに、受けるだけの湖は、宝の湖になりました。ですから、受けるだけで与えない人も、何かいいことがあるかも知れません。しかし、原則は、あの栃木で見た水道のように、ちょろちょろであったとしても、耐えず愛を分かち合って行きたいものです。それは、笑顔を向けるだけでも十分です。笑顔とは、「あなたをありのままで愛しています」という表現です。その笑顔が、凍ってしまったような心を、氷解する力もあります。また、ちょろちょろと流し出すだけではなく、あなた自身というパイプを、耐えず温めておく必要があります。それは、祈りと聖書を読むことです。単純なことのようですが、これが大切です。これこそ、信仰のABCであり、基本なのです。私の友人や知り合いの牧師先生の中には、心理学や成功哲学等のこの世の学問を一生懸命に勉強された方がたくさんいますが、私はそのようなものを専門に学んだことがありませんので聞いて見ますが、口を揃えるようにして帰って来る答えは、「やっぱり、聖書を読むことと祈ることに勝るものはありませんね」と言われます。何事も、基本が大切です。私は、毎朝、聖書を9章(旧約7章、新約2章)通読しています。また、同時に、瞑想し、声を出して祈ります。私は、たまに時間の都合等でこれが出来ない時にわかるのですが、そういう時には力が抜けてしまったように感じます。普段は、習慣になっていますから、特に、力がみなぎるというようなことはありませんが、やらない時に、その基本の大切さを感じます。ある有名なオリンピックに出場するような器械体操の選手が、ウルトラC級の技にばかり興味が一杯になりました。しかし、いくらイメージトレーニングをしても、いくら練習を繰り返しても、うまく行かなくなりました。何度も、本番で失敗し、心に迷いが生じ始めました。そして、周りからも選手生命が危ぶまれた時に、もとオリンピックの器械体操の選手であり、監督である父が、一言、「基本をやれ!」と言いました。器械体操の基本は、倒立です。彼は、「今更、そんなこと!」と心で思いましたが、言われた通りに、倒立だけを練習しました。しかし、しばらくしてびっくりしたのが、今までうまく行かなかった演技が、ビシッと決まるようになり、スランプから完全に抜け出すことが出来ました。基本は大切です。基本は、祈りと聖書だと言いましたが、そこまでで半分です。もう半分は、悔い改めて従うことです。感謝できない状況であっても、聖書が語るから感謝をしてみることです。そして、赦せない人がいても、赦すのです。また、裁きたくても、裁かないのです。そして、キリストが十字架で私たちを愛して下さった愛で、他者を愛するのです。これを祈りながら忠実に行なったら、伝道になります。いくら、流暢に聖書を語れても、基本がなければ空しいものです。これは地味なことですが、基本に忠実であるならば、必ず大きなことにも成功できますし、神様の祝福をたくさん受けられるはずです。今年一年、基本に忠実、小事に忠実な歩みをさせて頂きたいものです。そして、周りを見たら失望し、絶望させられることもあると思いますが、とにかく、祈り、聖書を読み、そして、従って参りましょう。その人は、岩の上に建てた家のような存在です。平素は、土台なく、砂地に建てた家と変わりませんが、嵐がやって来た時に全く違ったことが起こります。倒れてしまうのです。砂地に建てた家とは、基本を怠り、自分の力だけで肩肘張って生きることです。あなたは、キリストという岩の上に建てられた家となって、今年一年を歩ませて頂きましょう。そうしたら、大丈夫です。神は、あなたの砦、あなたを守るシェルター、あなたの岩なのです。2007年は、愛を分かち合い、基本を忠実とした歩みをさせて頂きましょう。豊かな祝福がありますように。みなさんの祝福をお祈りしています。
2007年01月01日
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