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お願いします、有難うございます、の挨拶。仏教の原典般若心経心経は、色即是空空即是色で始まる。色即是空。サンスクリット語では色(ruupa。形。存在を認識できる物。移ろう物・無常)空(sunna。ゼロ・ニュートラル。普遍的存在)つまり大きく捉えると、世の中に存在する全ての現象は、宇宙(visvakarman。Visva・一切を、karman・造ったもの。空)、何も無いかの宇宙の顕現であると。それを身近に表現すると、お客様をお迎えする意識は「色即是空」と表されても良いかと。お客様(因みに、客とは移ろうものを意味)・「色」を歓びお迎えしよう、受け入れようとする大らかな意識・「空」。大らかな意識「空」に則り個々人・お客様を受け入れる時、それは「空即是色」と表されよう。処が此処にお客様を受け入れようと努めるようで、その対価を採る時、それは最早労働に対する対価の希求、色是色に他ならない。(因みに私は法施に対する財施?と)親の大らかな気持ちで子供たちを受け入れる意識では無く、同じ意識目線で物を欲しては、親も子も無いただの餓鬼(preta。亡霊。ひもじい・餓えた魂)ではないでしょうか。処で例えばイベント会場に来られるお客さまにも、この仏教意識が有ればそれ相応の礼儀に表されるはず。それは当日の会場でのマナー。「宜しくお願いします。有難うございました」の意識が自然に表されるはず。学園生が催す催しものは無料無私の行為。対価を求めはしない。お願いします。有難うございました。この挨拶が心から出来たなら、それは「色即是空空即是色」の理に則った行為と云って過言ではないかと。色即是空空即是色。佛道を歩む初めは、お互いを思いやる心だと思う。 合掌。
2013.10.06
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人間力の欠如衰退。 例えば、先日掲げた「玄関」での、 子供、家族対象イベントへ向けての竹を使用しての催しに向け、私たち老人大学三年生有志が居残りで為した作業で、其処に参加された予想外に多くの御婦人たちの、その意識の主に、本来イベント当日来場された外部参加の人々に作品作業参加、提供すべく用意する竹製品を、催し当日参加者が持ち帰られた後の、残り物を頂いて帰る。それは許容の範囲として、お客様に出される物を準備の日に、お客様に先駆けて持ち帰りたいと参加された人が在るとすれば、それは如何なものでしょう。 本来が年配の人対象の老人大学の事、参加された御婦人とは言え、大抵は家ではお孫さんの居られる年配のお人とお見受けする。 例えば、年に一度のお孫さん対象の御馳走作りをしたとして、お孫さんに御馳走する前に自ら先にたらふく口にした後、お孫さんに提供する御馳走とは何でしょう。御馳走の出来栄えの良し悪しは別に、先ず何はともあれお客の孫に一番に差し上げる、この心が御馳走ではないでしょうか。その意識無く先ずは我が家に持ち帰りたいとの意識は、お孫さん、お客さんに提供する前に我が自室でこっそり先に口にしたいの自我我欲の顕れで無くして何でしょう。 例えば先年の大震災当時、私は震源地で何日かボランティア作業をさせていただいた。それは、所謂「目の前に倒れた人有れば手を差し伸べ支えようとする」、それは社会的集団的生命としての人間本来の意識の発露。そこに全国からの支援の物資が参集し、其れを被災者に分配すべく、物資分配仕分けの作業がなされる中、地元学童保育に関わる保母さんと思われる何人かが、「良いものは除けて於いて私たちで・・・」と別にする実態を目にする。将にこれまた我欲、私利私欲の現場。 「木犀の香り」に観た幼女の心は歳経、長じては此処に至るのでしょうか。人間社会とは云うところの「悪貨は良貨を駆逐する」?。 今此処に思い返しこの国の指導的立場に在る人の姿をみれば、自らはその場しのぎの逃げ、言い訳に終始し、一般庶民はないがしろ、わが身を切る気なく政治・まつりごとを取り仕切ろうとする。これまた我欲先に立つ行為ではないでしょうか。 「上上にして下それに従う」。 民の竈に煙立たぬを観て、租税の軽減を図ったといわれる古の人の姿、今いずこ。 銭かね金で銭まみれ、ころころ心は転げゆく。 己に覚え在れば、尚哀し。
2013.10.04
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金木犀の花が咲き始めました。花の開花に先駆けて、甘い香りが早、辺りに漂っています。 木犀の香を聴きながら土曜座禅の時を待ちました。童女が三人山に上り来ると喜々として玄関に向かい、もみじの手で柏手を打ちます。付き添った叔母でしょうか孫の散歩のお供でしょうか年配の人、「お寺さまでは手を会わせます」。と、 教え通りに頭を頷くと振り返り私を目に止めると、何やら言葉を交わし手にした花籠を揺らせながら何を思ってか近づきます。「何かしていなければ納まらないものですから。小父さんに上げたいのでしょう!」。 私はその時その籠の何か?,そこに目を移すと折られた色紙が詰まっているようです。「小さな折り鶴!」。私は一瞬そう想い、その幼子の手に成る折り紙の喜びを共にしようとの思いの現れ?か!、とも想いました。「クッキーを・・・・」。 女の声で私の耳にその語も加えられます。 はにかみながらの小さな手から渡されたそれは、豈図らず折り鶴では無い折り紙がすぐ見られ、おし戴いた手の中に色紙で折られた筒状の、その中を望めば確かに焼き菓子が・・!。 微笑と共に頂きます。 三人三様に一包みづつ。 私はおし頂きます。 童女等の姿はそこに一層喜々として在り、 私は拝し頂きます。 木犀の 花の香りの広がりの ほの忍ばれる 篠はらのやま この文はもう20年近く前の震災の年の9月の末、調度今頃だったでしょうか、太邦老師を訪ね始めたころ、神戸六甲の禅師の庭で、土曜坐禅の時を待ちながら、その場の様子を後日書きとめた物。その時の幼女ももう二十歳は過ぎたでしょう。 木犀の香りとともに思い出す。
2013.10.03
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玄関。普通一般に家の入口を指すと想われます。処で此の「玄」の文字は「元」に通じひいては、玄妙に云う天の理、宇宙森羅万象の理を表すに通じる様。「玄関」。其処はその家を訪ねて行った人が、その家に住まいする人と最初に出会う場。それはその場のしつらえは其れとして、如何に一般整然に整われて在ったとして、そこでのその家の人の最初の対応如何で、家庭事情、ひいては家族の姿が瞬時に露呈するかと。其れが「玄関」の玄関たる呼び名の由来。そして今日其処に住まいする夫婦であれば夫婦仲の如何。近頃では女権有利の風潮に、将に其れがそのまま諸に顕れる事は無いでしょうか。そし大抵其のまま顕れる環境は、其処を訪れた人には、所謂に「砂を噛む」思いに至らせる。 「太古女性は太陽であった」とは女権の啓発に努められた女性の言葉だったかな。もし其れを理解する女性なら、常に身近に接する夫には熱すぎる存在を有していたとして、突然玄関から訪ねた他人をして酷暑を感じさせては如何なものでしょう。例えば昨日は例の催会の準備として学園清掃の後、有志が居残りで準備作業に精を出したはずが、催しの場に来場の皆さまに渡らぬ先に、製品をお持ち帰りの人の続出。それも大抵は男性任せ、自らは見役で製品作製に参加すること少々、「私のもの、私のもの」と自身作品制作会かのごとく在り帰らる。 また今朝は今朝とて、或る当人から体の急な変調で入院間近と電話あり、手近な蜂蜜を元気の元と、訪ね差し上げた。曰く。「今或る所から帰宅したところ。今から亦次に出かける」と、玄関での立ち話もままよ追い出される状態で門を出される。此処には其の屋の奥の日常が?・。 今日、日本人の、或いは人間の人間力の疲弊を感じるのは、疲弊した私の心の顕現でしょうか。私も亦他に漏れず、「玄関」で自らの心の疲弊が他人に伝わってはいないかと自省し、大人の人間として精進(viriya。 努力)しなければと思う。
2013.10.03
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