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本日で1月は終わります。明日からは如月。で、今月のソーラー発電売電量を集計しました。今月は30日月では無く31日月。今日一日でこの金額と云うことは、30日時点では大台、4万円に成らなかったのですが、先月12月はこれだけでしたので、今月・お正月は月の半ばに不順な日和が続きましたが、日量に換算して300円上乗せ発電ということでした。それを観れば、冬至を過ぎて、確かに太陽のエネルギーが増している証しですね。化学は確かな太陽の変化を確実に数に残すよう。CO2を出さず発電する、少しは環境に寄与しているかの自負と、毎月銀行口座に刻まれる某かの金額。 御天気が気に成る今日この頃です。
2013.01.31
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私は、いざなぎ学園大学でのサークル活動の一つとして、書道を採っています。書道は私の想っていたより何倍かお金の懸かるサークルです。それで一応学習発表の作品が出来たことだし、初心に還り半紙作品に戻るとともに、裏打ちも少し独習しようかと思い立ちました。その手始めに以前お手本を頂き手にしていた、「弄花香満衣」を何枚か書き、先生に見ていただき未だしとされた一枚を、試みに裏打ちし、先の坐禅会の新年会での、順番の挨拶に使いました。「弄花香満衣」。此の文字上の意味は、「花の中で遊ぶとその香りが衣服に着く」、でしょう。もう少し分かりやすい古の諺で表すなら、「門前の小僧習わぬ経を読む」そしてもう少し言うなら、「此の場に居合わされる坐禅会の立派な人々とお付き合いさせていただき、此の私も少しは此処に相応しい人間に成れるよう今年も努めます」と締めました。因みに、「弄花香満衣」の対の言葉は「掬水月在手」。此の言葉を説明するにふさわしい句が一茶の詠んだ、「名月をとってくれろと泣く子かな」。此の句にはまさに「子」の文字があるよう。その句、境界に応えるにこの五文字、「掬水月在手」。手に水を掬ってごらん、その水鏡に月は在るでは有りませんか。 観音様の手には水瓶が在り、その瓶は傾けられ水は注がれている。これは何を意味するのでしょう。観自在菩薩(Aryaavalokitaisvara bodhisattva。) まさにこの意味するところ、真理に法り澄んだ自己自身の眼で観るその機能。観音様のその手から注がれる水とは、生命育む水であり、法・真理を育めと注がれる水。そこで「掬水」、真理に目覚めれば、法は外に在るのではなく、「月在手」、個々人、その手の中に在るではないか。「掬水月在手 弄花香満衣」 合掌。
2013.01.30
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2月末に在る、平成24年いざなぎ学園大学学習発表会に向けて、書道サークルの作品が出来上がってきました。一つは、万葉集の第一首を万葉仮名で横書きした扁額。もう一つは、「空手把鋤頭」の扁額。 そして今日は、例の農協組合長室に掲げる、臨済宗管長、河野太通老師の「和顔愛語」の扁額が、表具屋さんで出来上がり、表具屋さんとともに、組合長室の壁に飾ってきました。やはり額に入れるとどれもかがやくようです。額にすることは人間で云えば、お化粧することでしょう。軸装したものとはまた趣が異なりますね。
2013.01.29
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昨日は寒かったですね。今日もでしたが。私は何となく二日続けて無駄銭使って家を空けるのに後ろめたさを感じながら、それでも出かけましたよ。 (東浦のバス停から眺める茅渟の海、春の様)(相変わらず大倉山公園野球場は草野球)(そこから見える山頂の電波塔はどこ?)何時もより寺への到着が30分ほど遅れたのが、その躊躇の証。知っている人は知っている。今日は遅いですね、と挨拶されました。12時から坐り2時間。その頃は未だそう冷え込んでは居ませんでしたが、それから読書会と老師の無門関提唱と続く後の2時間は、次第に冷え込みが、会場の大きな書院に忍びより、身が凍えそうになるので、一層坐禅に努めました。普通、後の2時間は膝を崩してのひとが多いのですが、寒い時は坐禅すると少しは暖かくなるのです。それは身うちが完全燃焼するからでしょうか。 提唱が終わったのは午後4時前。その後タクシーで宴会場へ。坐禅会の宴会は歳は関係ありません。みな忌憚なく年齢を超えて人間を語るというところでしょうか。その間、某か個々人に隔たりが有るとすれば、世間臭の多少に在るかもしれません。帰宅すれば老臭高い私でも勝手な事が言える場が、坐禅会です。8人1テーブルで3テーブル。料理が後から後から出されそれが直ぐ無くなる。2時間は直ぐ出お開きに成ったのは6時半。其処から電車とバス、自家用車を乗り継ぎ帰宅は8時過ぎでした。淡路島に渡り直ぐ猛吹雪に合いました。まあ雪国で無い島の猛吹雪では有りましたが。朝に少し雪化粧は昨夜の仕業。 で今日も何となく、続きは明日に残します。
2013.01.28
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本日は、某大学主催の坐禅会。御天気は昨日と異なり風は有りません。暖かくなるでしょう。 今日の坐禅会は何時もは二時間坐って直ぐ帰宅しますが、本日は坐禅の後で新年会があり、何時もの中華料理屋でささやかな宴会。私はウーロン茶を飲みながら料理を口にします。毎日のお付き合いは少し気がひけますが?、まあ出かけてきます。
2013.01.27
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今日は、体感温度から云うと、今冬最高の冷えでしょうか。風が強く冷たい。風が有るのに水たまりには氷が張っている。詰まり霜の朝では無いのに凍るとは、気温は零度を大分下回ったということでしょう。 私はこれから、過去二度三度、ひょんなことから通い始めた、大阪は箕面の禅寺に出かけます。大阪の禅友に電話すると当然当てにされていた。まあ何処かへ出かけるのも元気の維持に必要かも。とかなんとか口実つけて、無駄?銭はたく。薬代に消えるよりはましでしょうか。
2013.01.26
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昨日は午前中好天、暖かかったので、もう二か月近く行っていない遠くの蜂場に、内検とともに巣くずの掃除に行ってきました。蜂場に着き早速巣門を開けて見ると、写真の通りの巣くずの溜まりよう。底板をスライド引き出し、巣くずを掃除しました。巣の様子はと観ると、まあ元気な様子。もう二か月ほどこの群れの勢いを維持してくれるでしょう。 贔屓目に見て今の所およそ30群前後越冬に在るかと思います。昨年の春の分蜂後群れの数は、45群を度でしたが、昨年はその維持が難しい年で、結局10群前後消滅逃居したようです。 御話変わって、今月のソーラー発電の日量平均は今の所、1200円程。月始め十日ほどは天候に恵まれ、一両平均14・500円ほど有りましたが、そのこの天候不順で大きく低下しました。でも昨日約半日好天に恵まれると、昨日の売電は1800円を超えていました。やはり春近く、日射熱量が高くなっているということでしょうか。今の所12月の発電量より二割アップの状態です。原発に頼らない自然再生エネルギーの太陽光発電。来年度は早、買い取り金額が一割下げられるとか。ソーラー設置費用は下降気味とのこと。どの辺りの金額が適当なのでしょうね。
2013.01.25
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昨年暮れに作った蜜蝋クリーム。暮れの来客に差し上げたり、知り合いに上げたりで、等々無くなりました。そこで今日再び作りました。精製した蜜蝋、200グラム余と、ゴールデンホホバオイル1リットル。これを湯煎溶解混合し、小さな瓶に注入しました。全部で33個ほど。此の冬はもう是だけにするつもりです。
2013.01.20
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此のところの朝夕の気温は、厳しいものが有ります。日中は風が無く、それなりの日が顔を出すので、心持冷たさは和らぐのですが、夜に成って無風、星が見える空と云うことは、放射冷却が機らく機会が整っている証しのよう。此のところの朝は至る所の水溜めは厚く凍っています。 本日午前中、書道の先生の教室に車を走らせ、予て選別して頂いて居た清書作品に、私の落款印を押して頂きました。そして今日は例の「空手把鋤頭」の手習いした何点か見ていただき、その内の一点を選んで頂き、その作品には二つの落款印と関防印を押して頂き、帰宅時、表具屋さんに裏打ちをお願いしました。これは扁額仕様になり、額装すると高くつくとともに、これからも横書き作品を書くことが有るやもしれず、作品を裏打ちすると入れ替えが可能なので、額のみ購入し取り替え可能の仕様にしました。(購入予定)縦書きの作品もその内軸装から裏打ち仕様に替えて、額作品に仕様と思っています。道楽・生命を楽しむとは、経済を度外視の結果のよう。年が変わっても厳しい私の懐。
2013.01.19
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今朝は放射冷却で寒さの厳しい朝でした。その様な日に、いざなぎ学園の清掃奉仕日。皆さま当然老人大学生、ご高齢者。体調を崩されることはないかと心配の清掃作業でしたが、その内日が照り風も無く、作業に勢出す内、体が温まりました。落ち葉もあまりなく一時間ほどで作業を終え、お昼前に書道サークル生14人、車で15分ほどの、公営レストランで書道の先生を囲み、新年昼食会を行いました。日ごろなじんだ人達と小一時間、あっという間の食事会。午後一時過ぎからの特別書道教室に、そこそこに席を立ち、再び学園に戻り、その雰囲気の内に3月初めの学園学習発表会の出品作品、これまで書きためた作品を先生に審査選別して頂きました。私の「空手把鋤頭」の作品は好い物が無く、「至道無難唯嫌楝択」からは一枚好いと認められました。(この真中の作品かな?不思議ですね、選ばれるのは何時も最後に書いたもの)まあ、先生の批評を糧にまた書く楽しみが延ばされました。少し休んでもう少し書くつもりです。 今日、ヤフオクで落札していた物品二点届きました。その内の一点は関東の大雪で一日ずれて届きました。こんな所にも遠くの降雪被害が出るのですね。
2013.01.16
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昨日の雨空は本日に至っても、続いてぐずついた天気を引きずっています。まあ、御正月から好く御天気が続いたのが設けものと云うところでしょうか。御蔭で習字はよく書けました。明日は特別の書道サークルの日。午前中学園周りの清掃の後、書道サークルのみ、近くの公営レストランで昼食を採る運びに成っています。本来は学園の無い日、書道サークルのみの午後の特別教室。皆さま3月の学習発表会に向けて、最後の仕上げに入っていると思います。私は以前書いた、万葉集の横額、もう少しすれば額装が出来上がるはず。このお正月の書き初めには、「空手把鋤頭」 の五文字と、(写真真中の書は先生の御手本)「至道無難唯嫌楝択」(全て私の書)この言葉を選び書きました。少し筆が手になじんできたかな、の思いあり。今日現在の、福寿草の芽、5・6個見えますね。蝋梅は未だこの程度。未だ未ださむいです。
2013.01.15
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本日は、長年「禅」の一事で繋がるお人、七人と老師を囲んで、神戸の六甲道近くで円テーブルを囲み、中華料理を食しながら、新年会を催しました。気心の知れた長年の仲間。云いたいことを云いながら過ごす時間、時計を見れば二時間半があっという間に経っていました。歳や経歴は関係なく、云いたいことを言い合える、このような仲間はなかなか集えないものかと思います。「動中の工夫」もあらばこそ、利害の無い無礼講も良い処。御世話下さったお人には何とお礼を言うべき。ありがとう。その言葉のみ・・。
2013.01.13
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「空手把鋤頭」。今年の書き初め、百姓?としての心構えにこの言葉を選びました。この写真は因みに先生の御手本です。空手で鋤きの頭を把るとは何の事かと思うでしょう。しかし昔の人は、そしてもう30年も前に亡くなった、私の明治生まれの父等は、農具を大切に農具と一体に成らなければ、一人前の百姓では無い、と云っていたものでした。「空手」つまりこの意味するところはまさにその事でしょう。単に手で道具を持つのではない、物と手が対峙しているようでは尚作業者としては、一人前では無い。道具が体の一部として、一体不二の態に成ってこそ、事は成る。イチロー選手はまさにバットと腕、肉体が不二一体になり、ボールを叩いて居る。彼のバッティングはバットという棒きれでボールを叩くというより、昔子供のころ、手打ち野球で掌で球を打ったように、彼のバットはもう手の一部に成っているのでしょう。何事を為すにもそこに道具は介在すること多々。意思を伝えるに言葉という一種の道具。「指月」というところ、「月」詰まり仏教ては「仏法」を月に例え、それを説く言葉を「月」を指さす「指」に例える。でも「指」は決して「月」では無い、月に成りえない。故に云う「不立文字」と。文字言語「指」に拘っては本当の「法」は見えない。「空手把鋤頭」。此の時、手は無く、鋤きのみに。 「不立文字 直指人心 見性成仏」目に見える物に捉われず、その向こうに在る実態を見る。其処に真実は在るでしょう。合掌。
2013.01.08
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。或るお人の提唱の、反原発運動。それを云う前に先ず仏教の何たるかを基から検証するが肝要かと。高速増殖炉「もんじゆ」の名付けは、曹洞宗の老師と聞く。今となっては「木を見て森を見ず」もはなはだしいかな。このように一事が万事確たる立ち位置に無いらしいのが我らの姿かな。そこに仏教者を標榜する者は何おもう。斯くのごとく「木に捉われ森の見えない」、俯瞰的視点に無い者をして、禅者・仏教者の呼称は相応しいでしょうか。禅(dhyaanaの音写で、意味は静慮)。つまり色即是空にいう、「「空(sunna。ゼロ・ニュートラル、普遍的存在・価値)に立脚し物事、色(ruupa。形。事象)を見通せる、これ禅者とすれば、事にあたり後追い対処に至る行為、これは俯瞰的位置に在る者の意識に適うと云えるでし」ょうか。「過ちを顧慮するに憚ることなかれ」とは云うも、これまで余りに権力に媚び諂ってきた結果の顕れが今日の日本の道無きていたらくの姿ではないでしょうか。市井の人々に支えられ在る筈の出家・僧伽(sangha。共和。付着。交流。流れの交わる地点)集団。その意味をどこかに置き忘れてはいないでしょうか。年頭に思う。禿 禺儒 頓首敬白。
2013.01.06
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そしてバラモン教での祈念祈祷行為、息に通じる「言葉に力あり」の意識を戒めた。その表れは今日蝋燭の火を吹き消すことを厭うのは、言葉・息に関連付けられる、バラモン思想に由来するはず。婆羅門(braahmana。司祭者)意識に。 日本仏教がインドから東アジア各国民族経由で東の端の国日本に伝わった、その結果もろもろの民族、思想にさらされ受け入れ伝わったことは想像に難くない。結果は本来の釈迦仏教に似て非なる、釈迦を標榜しながらその実は、羊頭狗肉、婆羅門(braahmana。司祭者)教そのものかな。「美、善、祥」に通じる羊の肉を売るとの看板の下、安価な狗の肉を売っては利益をむさぼる。巷に云うよう「悪貨は良貨を駆逐する」。此処に今日日本人は汚染され仏教徒とは云うも仏陀の思想を菩提(bodhi。さとり。目覚め。真理の確認)寺に聞くこともなく。むしろ其処から遮断され立ち位置の無いままに日暮らし、その場限りを暮らしているのではないでしょうか。生命を考える時、原発は如何な立場に在るでしょう。立ち位置として安全な場と云えるでしょうか。或るお人の提唱の、反原発運動。それを云う前に先ず仏教の何たるかを基から検証するが肝要かと。高速増殖炉「もんじゆ」の名付けは、曹洞宗の老師と聞く。「木を見て森を見ず」もはなはだしいかな。
2013.01.02
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処で本来の神道も亦、自然の中に自然に育まれ在る生命の確認を説くものでは無かったでしょうか。其れが何時しか権力者の権力の拠り所として標榜されるらしいことになり、権力の象徴にすり替えられる。バラモン教がその代表でしょう。婆羅門(braahmana。司祭者)。ブラフマン(brafman。梵。大我。世界の根本原理。ベーダに於ける神秘力)アーリア人がインドに侵攻後、少数勢力で多数の征服民族を支配するため創造した神話によれば、梵我一如(brahmaatmabhaava)に云う大気が人の肉体に分散し入り「我」としての個人の生命は為る。梵・ブラフマン(brafman。梵。大我。世界の根本原理。ベーダに於ける神秘力)が世界を支配、其れを原人(purisa。バラモン教での宇宙観での主神。 元は真理の意も)に例え、この託を伝えるとして神官・婆羅門(braahmana。司祭者)は最上位に立つ。何やら今日の仏教行事での僧職の行為に似る。時代の今昔に関わらず、ものの言い出しっぺはその己が利にかなうよう図るらし。所謂外道とは其れに従い、仏陀は法(dhamma)に則る。例えば死者供養と称して行われる僧の読経。仏典では比喩して曰く、「水の底に沈んだ石を浮かびあがれ浮かびあがれと念じた処で浮かぶものではない。人は生きている内に善業を積むべきだ」と。
2013.01.02
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今日、日本での仏教と云われる諸宗派の中で、一般にもヨーガ(yoga。結び付ける。心を散乱させないように)坐禅の普及に努めるのは、禅宗といわれる宗派のみかと思われる。この行無くして真に仏教とは云い難い。「パンのみにて生きるに非ず」と説く宗教も在るも、肉体の正常な機能なくして全ったき「生命」は在り得ない。「生命」。「生」とは肉体。「命」とはその機能。どちらか片方では「生命」たり得ない。しかしここで今日の仏教。このような菩提(bodhi。さとり。目覚め。真理の確認)に導いているでしょうか。大抵は、死人を相手に糊塗を重ねる状態ではないでしょうか。因みに仏教に云う、生死(他に操られるを死とし、自覚し生きるを生と)。釈迦の言葉とされる、覚った後「此の後は再び「死」することは無い」の言葉の理解は為るかな。「生命を基に生き、道を外れない」、とのこと。
2013.01.02
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今日、日本での仏教と云われる諸宗派の中で、一般にもヨーガ(yoga。結び付ける。心を散乱させないように)坐禅の普及に努めるのは、禅宗といわれる宗派のみかと思われる。この行無くして真に仏教とは云い難い。「パンのみにて生きるに非ず」と云うもの在るも、肉体の正常な機能なくして「生命」は在り得ない。「生命」。「生」とは肉体。「命」とはその機能。どちらか片方では「生命」たり得ない。しかしここで今日の仏教。このような菩提(bodhi。さとり。目覚め。真理の確認)に導いているでしょうか。大抵は、死人を相手に糊塗を重ねる状態ではないでしょうか。因みに仏教に云う、生死(他に操られるを死とし、自覚し生きるを生と)。釈迦の言葉とされる、覚った後「此の後は再び「死」することは無い」の言葉の理解は為るかな。「生命を基に生き道を外れない」、とのこと。
2013.01.01
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処で仏陀の対に在るらしい、神(deva。その語源は輝く。漢訳では天と表す。女神 devataa)。この、神(deva→god。輝かしい・bright。輝く資質・brightnessを意味)。漢字「神」とは「示」す編に「申」。この「申」とは稲妻の光が天から申びるを表すとか。つまり漢字の民も亦、神(deva。天の・天宮にある者の意)。宇宙の力、空からの某かの働き、今日的にはエネルギーを想像していたはず。其処で、仏陀(buddha。 目覚めた人)表現するとすれば、宇宙の顕現、個々の生命、それを全うするには如何に生きる。その追求者こそ仏陀と云い、云うべきだと思う。其処で瑜伽(yoga。身心統一)。此処に云う「身」とは即ち「色」(ruupa。形。存在を認識できる物)。「心」とは云う処の精神ではなく、仏教に云う心とは梵語では(hridaya)。hridayaとは真髄と表されるよう。つまり肉体の機らきであり、その機らきを機能させるエネルギーというべきでしょうか。因みに、精神を表す、心(citta・ cetas・ maanasa)と表されるよう。末那識(mano vinnaana。)機能とは、泳ぐ魚に対する、水の存在に例えられるよう。個々の生命は其れが機能するに必要な構造に構成され、まずその構造に則った姿勢を保つ坐禅での結跏趺坐で「調身」、身を整え。「調息」生命生きるに欠くことが出来ない「調息」に取り掛かる。呼吸の基本は陸上脊椎動物としての人間、腹式呼吸を基本とする。腹式呼吸とは横隔膜の上下動で、肺を圧迫し海綿状の肺に在る空気を絞り出す。その後横隔膜の緊張を緩める事で、自然に肺の圧迫は解かれ大気は吸入される。鰓呼吸と横隔膜が在る陸上脊椎動物の呼吸の違いはここに顕著で在る筈。常に遊動し酸素を取り込むか、静止しながらも酸素を取り込み廃棄可能かという。此処に横隔膜呼吸で「調息」は為る。つまり脊椎動物の基本的呼吸法。そして「調心」。調身、調息という生命の基本を行じることで、心(hridaya)は正常となる。宇宙に法則に則った生命を生きる。白隠禅師は云われる。「歌うも舞うも法の声」。生命の真理(satya。実在)に目覚めれば、その立ち位置で行動する時、それは生命の則からは外れはしない。
2013.01.01
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日本人の立ち位置は?。 島国住民、日本人は立ち位置を何処に置いているのでしょう。国民共同の行事としては神道を、家族の絆を図る行事・宗教行事としては、大多数の日本人、仏教徒を標榜する為れば、仏教行事にその絆を確認するよう。処が仏教脈略の根本を辿れば釈迦とされる、その人の立ち位置は「個」。国を捨て、妻を捨て、子を捨て全きの「個」の確立。個の確認有ってこそ個々の生命の尊びは認識され、その結果平和平安は追求されその認識に至るとされるよう。釈迦族ゴータマ仏陀(buddha。 目覚めた人)が真理を求めて山籠り。苦行を重ねてその結果目覚めたのは、生命の実在(satya)・真理(satya。実在)は個々の生命機能に在ると。つまり苦行の末の窮極の空腹の結果身内から沸き出した思い、其れは「何か口にしたい」。その思い(samkalpa。案じ思うこと)、生命の意識に導かれ、霊鷲山(Gijjhakuuta)?から下り、尼連禅河(Neranjaraa. )に朝食後の椀を洗うスジャータ(Sujaata。善生)と称する娘の手から、乳粥の残りを口にされる。個々人の生命の顕れは、dhamma(宇宙法。)を真理としてその生命を構成すると。因みに宇宙(visvakarman。Visva・一切を、karman・造ったもの。空)。色即是空に云う「空」。そしてここに云う、「色」(ruupa。形。存在を認識できる物)個々の生命は宇宙の法則に従い、その機能の内に機能していると目覚める。其れが仏陀(buddha。 目覚めた人)。
2013.01.01
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平成二十五年元旦はれ。
2013.01.01
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