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劇中の田舎、ラダックの生活が本当に理想的だったなら、なぜ、外の文明が入る余地があったのでしょう?それはもちろん、外からの圧力が非常に強かったこともあるでしょう。しかし、同時に、ラダック自体、そこに住む人々の心に、やはり問題を抱えていたのだと想います。映画の作者も含め、文明に保護されてきた者には気づき難い問題を…。日本においても、黒船来航後や、戦後から今に至るまで、少し形は違えど、同じようなことが言えるように想います。異国の文明を受け入れ、手に入れたひと時の繁栄と、膨大な負債。便利になった反面、いびつになったつながり、進む孤立化。それに端を発する数多の問題。それでは、グローバリゼーションなど、今までの歩みは無駄だったのか。当然、無駄ではないのですよね。原発よろしく、問題を浮かび上がらせる大切な過程。そして、誰しもが気づき、行動が起こり、変わっていく。人自身の成長のために、必要な過程であったように想えます。前回の日記よろしく、失敗に気づいた後が大切で。孤立化の果てに、何を見出し、どこへ向かうのでしょうか。それは、自分の外ではなく、自分の内だと想います。孤立は、自分の心と向き合う、またとない機会。そうして、精神的自立へ向かうことができたなら、そこから、つながりが再生、回復していくでしょう。原発を生んだ、甘えあい、もたれあいという、いびつなつながりから、「調和」という、つながりへ。
2011.05.31
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草刈り機で草を懸命に刈っていたら、息子から除草剤を撒きゃいいじゃん、と言われて愕然とした。息子が便利さにあまりにも慣れていて、除草剤に対し、何の抵抗も危機感もないことに愕然とした、というのですね。息子にはいくら話して聞かせても通じない。そして、便利さから離れるのはやはり難しいかもしれない、と危惧されたとのこと。映画後の集いで伺ったお話。このお話は、とても興味深かった。とても素晴らしい問題提起をしていただいたと想います。成功談を誇らしげに語る方は私も含め多いものですが、案外失敗談の方が多くのことを教えてくれるように想います。くだらない成功にノーベル賞を与えるくらいなら、ものすごい失敗にも賞があったらいいのにね、と昔想ったものです。草刈り機と除草剤。確かに除草剤の方が害は大きいでしょう。しかし、それらは実は同じ想いと行動から生じた、同一線上に位置するモノです。嫌々ながら草を殺す、という。言うならば、除草剤は草刈り機の進化系。マシンガンと核爆弾、火力発電と原子力発電みたいなものです。あぁ、親子やなぁ、と。原発の問題をはじめ、日本の前に山と積まれた問題は、最近になって突然生じたものではありません。世代を超えて、脈々と築いてきた借金の山みたいなもの。今時の若者は、とか、最近の年寄りは、などと、世代間で溝を深めている場合ではない。良くも悪くも、すべてはつながっているのですから。こういうところでも、外を、相手を変えようとするのではなく、自分が変わる、心を、姿勢を、行動を変える、ということが大切になってくるように想います。(ちなみに草刈りに関しては、武術を応用してカマを繰ると、非常にいい運動、鍛錬になり、過程も楽しめます。もっとも私の場合、必要以上に刈る(殺す)ことはしないのですが…)
2011.05.29
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さて、少し映画「幸せの経済学」に話を戻しまして。劇中の田舎、ラダックの生活がよく見えるからといって、それを求める。それでは、日本じゃ売れなくなったから、外国で売ろう、というのと本質的に違わないでしょう。中国野菜は安いから、と買っていたけど、問題が出たから、別のにしよう、とか。グローバリゼーションが駄目だから、ローカリゼーションにしようとか。単純に、原子力じゃ危ないから、他のエネルギー、資源を使おう、とか。自分の外を、こっちじゃ都合が悪いから、あっちに乗り換えよう、と。それは、人自身の成長、改善ではないですよね。劇中で強調されていたローカリゼーションというのは地域を見直し、地域の自立をはかるということでしょう。その本質は足元からつながりを、循環を整えていくことではないでしょうか。…それでは、究極的な足元とは何か?自分の内面、心。外側だけローカリゼーションの形をとろうとしても、できあがったものはきっと似て非なるもの。中核には精神的自立が不可欠であるように想います。原発の根本には、私の心には、すべての社会問題を解く鍵が隠されていました。あらゆる問題という枝は、それぞれの心という根から生じている、と想います。心がからだに、姿勢に、行動に表れ、社会が築かれていくのですから、当然のことなのですけど…。そんな当たり前のことを、原発は改めて教えてくれているように想えるのです。(→続く?)
2011.05.28
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原発は危険だから反対!廃止!当り前田のクラッカーです。しかし、原発や電力会社、果ては国を単純に卑下するだけでは、何も変わらない。そこから妙案が出てくるようには想えません。原発に、今までたくさんのエネルギーをありがとう、という感謝。自分と原発のつながりをたどってみれば、まずはそれからだろう、と想います。そして、自分の内にある根本をヒントに、これからどうしてゆけばいいか、模索してゆくことができるでしょう。自分の外を変えようとするのは難儀ですが、自分を変えるのは今、この瞬間から可能。自分の中に答えがあるのだから、外に多くの情報を求める必要もありません。振り回されることもない。そして、自分が変われば、自ずと周囲も変わってくる。前回の日記どおり、私の内にある、原発の根本は、「過程の楽しみを知らない、楽しめない、楽しむ余裕がない。…だから、モノ、あるいは人に、してもらいたい。」~してもらいたい、という気持ちは誰しもあるもの。しかし、過ぎたならば、それは自分の外に対する甘え。外を変えてやろう、というのも、変わってもらいたい、という甘えかもしれません。そんな、甘えのエスカレートから原発は生まれたのでしょうか。そして、都合で棄てられる。…何だか気の毒になってきました。(→続く)
2011.05.26
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自分と原発のつながりをたどっていきますと、診えてくることがあります。原発の役割は何だろう、というと、何といっても電力をまかなうことでしょう(核武装の準備、あるいは核輸出のための工作、という裏事情はさておき)。では、なぜ、そこまで電力が必要になったのか?それまでは、無くてもめぐっていたでしょうに。答えの産物は、身の周りにあふれていますね。多くの電化製品はもちろんのこと。衣食住、娯楽、今や日本において、電気を使わずに生産されているモノは珍しい。では、なぜ、それらのモノが生まれてくるのか、と。…自分との直接的接点が近づいてきました。なぜ、それらのモノを購入したのか。モノもいろいろですから、これはなかなか一概にはわかり難い。しかし、よくよく診てみますと、モノを買って使うということは、おおむね、過程をすっ飛ばすということのように想えます。例えば、食べ物一つとっても、野菜を買う、ということは、野菜の種を撒くところから、収穫するところまでの過程を自分にとって省略しています。さらに、弁当や惣菜など買うとなると、調理という過程も省略するわけです。そのように、自分にとって省略過程を増やすことがモノの進化とも言えるかもしれません。では、なぜ私は過程をすっとばしているのか?…自分の内を探ってみます。過程の楽しみを知らない、楽しめない、楽しむ余裕がない。だから、モノ、あるいは人に、してもらいたい。原発にエネルギーをもらっている。(→続く)
2011.05.26
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前回の日記に記した映画の後、参加者でお話する時間が少し設けられていました。今後のあり方に、それぞれの想いを抱いた方が集まっていて、刺激を受けました。正直、映画そのものよりも、映画後の方が有意義であったように想います。映画の企画、運営、紹介をしてくださった方にはもちろん、よきご縁、出会いに感謝(娘と草履を買いに行く約束をしていたため、あいさつもそこそこ、長居できなかったのは残念でしたが…)。原発やエネルギー問題の意見なんかも盛んに飛び交って。原発ねぇ…。改めて少し考えてみました。私は治療の際、病気という問題と向き合う時、頭の作業として、できる限り糸を手繰って原因、根本に近づく、ということを試みます。原発、という大きな問題(癌みたいなものだ)に関しても、そういうことを試みてみますと。自分と原発のつながり、糸をたどってみますと。どうして、原発が世に生まれてきたのか、というところの一端が診えてきます。(→続く)
2011.05.25
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ご縁がありまして、さる教会で(信者ではないけど)上記タイトルのドキュメンタリー映画を見ました。感想は…首が痛かった。…というのは、半分冗談、半分本気。内容は…チベットのラダックという平和な片田舎が、多国籍企業の経済的侵略を受けて、蝕まれていった、という話を皮切りに(なぜか黒船来航を思い浮かべた)、現在のグローバル経済の危うさを指摘したり、ローカリゼーションの必要性を説いたり、といった感じの70分。まぁ、そうなんだろうけどね…。首が痛んだのは、必ずしも前の方に陣取ったという理由だけではなかったように想えるのです。どうにも、心にではなく、頭に響く、押しの強さ、悪く言うなら、押しつけがましさが影響したのではないか、と。それは、映画中で非難されていた、モノを売りつけるためのCMと本質を同じくするもので。一方の短所ばかりを並べて否定し、もう一方の長所ばかりを並べて賛同を得ようとする。「これは、何かが違うぞ」と私の心とからだは感じ取り、主として首の緊張に表した気がするのです。そういうやり方では、調和には結びつかないし、本質的な改善には至らないのではないか。対立が生まれ、つまらぬ競争、殺し合いの輪を抜けることはできないのではないか。映画の内容はともかく、伝える方法として、学ぶところがありました。私自身、こういう文章でもワーク・ショップでも、往々にして、陥る危うさを持ち合わせていますので(というか、陥り続けてきた、反省、乞うご期待)。
2011.05.23
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「うべ探検博覧会」が15日から始まりました。うべ探検博覧会、通称・うべ探(http://ubetan.jp/)は、「体験型交流イベントを通じて、宇部市の活性化を図る取り組み」なのだそうです。当治療院の主催するイベント(ワーク・ショップ)「誰でもできる!養生術講座」も本日で3回を終了。内容の大筋は毎回同じですが、参加者が変われば、「場」というものは当然変わってきます。毎回、発見があり、課題に気づき、改善され、変化向上していく。初回に来ていただいた方には申し訳ない気もするけど、最終回の頃にはだいぶ質がよくなっていることと想います。それは、参加者皆様のおかげで。育てていただいているのです。ありがたいですね。そして、その成長を、また次の参加する方に還元することができれば。宇部市のみならず、世の中に、何だか、いい螺旋、めぐりが起こってくるのではないか、そう想います。枝葉を広げる、というのは、そういうことなのかな、と想いました。枝葉を広げれば、そこに様々なつながりが生まれます。おひさまと、風と、虫と、人と…。さまざまな影響を受けるのです。中には、一見、あまり嬉しくないような影響もあるわけで。だから、私にしてみれば、枝葉を伸ばすのは少し勇気がいります。しかし、根がしっかりしていれば、嬉しくない影響にも屈せず、逆に成長の糧とすることもできるのですよね。庭のツツジは散りかけています。花は人を喜ばせ、虫を助け、地に落ち、土を肥やす。こともなげに、そこにあって、いいめぐりを体現する自然。感嘆せずにはいられないですね。
2011.05.19
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5月15日から6月12日まで開催される「うべ探検博覧会」。市が推進する、体験型交流イベントを通じて宇部の活性化を図る取り組みです。当院も、開催期間中の木曜日と日曜日に「誰でもできる!養生術講座(マクロビ・スウィーツ付)」と銘打ち、出展します。地域の活性化を図るなら、まずは「こころとからだ」の活性化から!という想いを込めて。からだを動かし、触り、感じながら、からだと病気のことをいっしょに学んでみよう、というプログラムです。おまけにマクロビ・スウィーツと無農薬茶が付いてます。興味のある方は奮ってご参加ください。詳しいお問い合わせは、「うべ探検倶楽部」 0836-39-7460(http://ubetan.jp/)まで。
2011.05.17
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今年は寒さが割合長く続いたように感じておりました。が、流石に五月ともなると、暑くなってまいります。木々もここぞとばかりに、枝を伸ばし、葉を繁らせて。まぶしいばかりの新緑、気持ちがいいですね。 人にも、枝葉や根っこがある、といえば、おかしく聞こえるでしょうか?からだでいえば、脚腰、下半身を根、上半身を枝葉と見みることもできる。栄養を消化吸収する内臓を根とし、手足などの運動器を枝葉と見たり。生命を維持する無意識的なはたらきを根、意識的なはたらきを枝葉と見たり。こころを根とみれば、からだ全体が枝葉ともいえるかもしれません。 自然木のバランスは絶妙。地上で枝葉が広がっている分と等量、地下では根が広がっている、といいます。そうでないと、成り立たないのでしょう。枝葉ばかりが広がって、根が脆弱であれば、少しの風で倒れてしまいます。また、根っこだけでは、お日さまとつながることができず、いずれ縮こまり、あるいは腐ってしまうでしょう。 人のバランスはどうでしょうか? 仕事ひとつとっても、頭や小手先、上半身に偏ったものが優遇され、全身を使う仕事、一次産業は厳しい現代。偏った仕事、偏った生活は、偏ったからだを育みます。便利な道具、機械を使っているつもりが、それらにからだをあわせることで、からだを歪ませ、偏らせていることも少なくありません。使っているようで、実は使われてしまっているのですね。 見るともなく、だらだらTVを見てしまったり。ハンドルを握ると性格が変わってしまったり。パソコンで肩・首・胸をフリーズさせてしまったり。挙句、刃物に振り回されて、自らや周囲を傷つけてしまったり。 初夏の木々が示してくれているように、枝葉も、それを広げる時期も、もちろん大切。しかし、根がしっかりしていなければ、広がっていく枝葉もまた、おかしなものになってしまいます。根という分を超えて、無理に枝葉を広げようとしても苦しいですし、枝葉の先に結びついたモノや情報に振り回されてしまうことでしょう。まずは不必要な枝葉、すなわち思い込みとその産物を削ぎ落とすことから始めてみては如何でしょうか。そして、根っこ。こころ、からだ、生と死、即ち命、自然...。きわめて身近で、お金も、エネルギーもさしてかからない探求です。逆にかけ過ぎると見つかりにくいかもしれません。肥料をやり過ぎると根腐れをおこし、逆にバランスを崩してしまいますから...。 大きなアンバランスが解消されれば、根は枝葉を、枝葉は根を、お互いに補いあって、うまいこと再びめぐり始めます。根は深く、逞しく、揺るぎなく。枝葉は広く、柔軟、闊達に。ともにのびゝ成長してゆくことでしょう。
2011.05.17
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春の陽気に誘われて、自粛ムードを後目(しりめ)に、桜の下、団欒を楽しんだのは、私だけではないはず。家族で和やかに食べる、手作り弁当の美味しいこと。 さて、今世間は、真の欲求、「生きる」という根源的欲求を誤魔化す代用品で溢れかえっていることにお気づきですか?命を蝕むモノ、害するモノ、誤魔化すモノ。化学調味料にまみれた市販弁当よろしく、短期的に見れば、その害に気づきにくく、むしろ擬似的な快楽すらもたらします。それでは、なぜ、命を蝕むモノ、害するモノ、誤魔化すモノがこうもはびこるのでしょう?人は問題とぶつかり、欲求が満たされない時(いわゆるストレスを受けた時)、その欲求を他の欲求に置き換えて発散しようとすることがあります。ストレス食いなど典型的。何らかの欲求不満を、食欲を満たすことで発散しようとするのです。しかし、残念ながら、代わりは代わり、誤魔化しは誤魔化しに過ぎません。問題の中核、自分の内にあるその原因は、誤魔化している限り解決されません。また別の問題を呼び寄せてしまう。問題は徐々に大きくなり、複雑化していきます。それは、病を誤魔化すために、対症療法のクスリを飲み続けることと本質的に同じ。クスリで、表に出る症状は誤魔化せたとしても、病は深く潜み、内側からジワジワと蝕まれてゆきます。空洞化が進み、内心の不安は増大していくために、誤魔化し続けなくてはいけなくなってしまう。治っているように見えても、次第に症状は増え、あるいは重篤になり、誤魔化すためのクスリも増えていくでしょう。そんな中で、感覚は鈍くなり、麻痺し、真の欲求を満たす快感、生きる喜びも忘れてしまう。目先の誤魔化しのために奔走するようになってしまう。結果、蝕まれるために身を粉にするような、傍から観ていると周囲を巻き込んで自滅するような、不可思議な現象が起こってきます。もはや慢性の中毒状態です。 何が本当に必要なのか。大切なのか。自粛の賛否を論ずる前に、そういうところを今一度問うてみては如何でしょうか。その先に、原発に頼らずとも、かなえることのできる真に豊かな世界、暮らしが観えてくるでしょう。 命を蝕むモノ、害するモノ、誤魔化すモノ。それらを生み出し、管理するために、膨大なエネルギーが使われています。そして、それをまかなうための原発。身の丈を超え、自らを蝕む便利さと引き換えに、膨大な危険を抱え込んでいる。明日の命を殺しています。 そんな悪循環に気づき、本(もと)を断つ。意識改革という芽吹きの春、目覚めの時です。
2011.05.17
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ようけ雨が降り続きました。おかげで畑も庭も潤った模様。緑が嬉々として繁らせています。雨が降ると喜ぶのは植物ばかりではありません。陸に残った奇特な貝類。…そう、ナメさんです。畑でも、庭でも、よく見かけます。どういうわけか、デンデンさんとは今期まだお会いしておりません。彼らは、マメやら、ウリやらが大好物のご様子。歯形?を残してくれます。昨年は枝豆の芽などが深刻なダメージをこうむりました。それを踏まえて、今年は少し早く種をまいたので今のところ順調。加えて、今年はカラスノエンドウというマメ科の草が昨年より多かったことが幸いしているように想います。自然農では草も必要以上に退けることはしません。野菜の生長を妨げない程度に刈ることはします。ですから、少し遠くから見ると、畑か、草叢か、区別がつかないぐらいなのですが…。草もまた、虫やナメさんの食物です。それを全て取り除いてしまっては、虫も野菜を食べるしかないではありませんか。自然、野菜が特定の虫に集中砲火を受けてしまいます。草があれば、その虫を食べる虫が住むことも手伝い、野菜を食べる特定の虫ばかりが増えることもありません。自然はそのように、うまくめぐりゆくように、できているんですね。カラスノエンドウを食事中のナメさんに会いました。ナメさんだって、腹いっぱいになれば、必要以上に食い尽くすことはないでしょう。人と違って、貪り尽くして、貯蔵する、金に換える、ということをしませんので…。もちろん、マメもノー・ダメージとはいきませんが。昔の農家は収穫の1/3ぐらいは動物に渡すつもりで、自然に還すつもりでやっていた、という話を聞いたことがあります。自分が作った自分のモノ、利用して作ったモノという感覚ではなくて。自然の恵み、命を分けていただいている、という感謝の心、謙虚な心が、そういう余裕、姿勢にあらわれていたのではないでしょうか。本当の豊かさは、そういう心なくして、ありえないのでしょうね。
2011.05.12
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連休中はちょうど大潮にあたっていたこともあり、山で、畑で、道端で、海で、多くの収穫に恵まれました。タケノコ、ワラビ、ゼンマイ等の山菜。えんどう豆、菜っ葉等の野菜。クズ、ヨモギ、ツワブキ、柿の葉?等の野草。メカブ、テングサ、ナマコ、ウニ等の海産物。食物を探しまわっている時、いい代物を発見したとき、そこには原始的な喜びがあります。根源的な喜びとでもいいましょうか。「あぁ、一日食べもの探しとっても飽きへんなぁ~。」と想ってみたり。多くの動物は、そんなシンプルな生活、シンプルな喜びで満たされているようにも想えます。もちろん、食物が手に入らなければ、そこにあるのは死であり、お気楽なわけではないのでしょうが。職業(仕事)は治療。趣味は?と聞かれれば、武術、自然農、野草・海藻採集、自然観察、などと答えるでしょう。でも、もし、昔の人や、動物にそう話したなら。「あんた、そりゃ、全部仕事やないかい!」とつっこまれるかもしれません。そう、命を守ること、養う餌をとることが、本来、仕事の基本、だと想うのです。ところが、現代では必ずしもそうではないですよね。命をすり減らし、仕事に興じ、貨幣を手に入れる。その貨幣を使って、餌を手に入れる。命を守ってもらおうと、医療機関を訪れる。そこで一つの問題が生じます。その餌は本当に命を養うものなのか?そのクスリ、医療は命を守るものなのか?…実は、毒ではないのか?「仕事」から「命を守ること、養う餌をとること」までの過程が複雑化することによって、いつの間にか、「仕事」≠「命を守ること、養う餌をとること」となってしまった。時に、仕事が自らを、家族を、環境を苦しめるようになってしまった。「趣味」という言葉はいつ頃生まれたのでしょうか。はるか昔には趣味に興じる余裕などなかったでしょう。でも、仕事の中に根源的な喜びがあって、家族の幸せもあって、環境もうまくめぐっていて。現代における仕事と趣味の狭間で、そんなことを考えてみたりします。
2011.05.11
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柿の若葉も採集します。蒸して乾燥させるとお茶としていただけます。これは尿の出を助ける、然るに主として腎臓を助けます。高血圧によろしい。無理にエネルギーを投じて生産する降圧剤より、自然にも、からだにも、財布にも、よほど優しい。味も、他の薬草茶に比べ、ダントツに臭みが少なくて、飲みやすいです。そして、天ぷら。青臭さはほとんどなく、ほんのり甘みがあって、おいしゅうございます。(写真:野草天ぷら三種盛り、ヨモギ、クズ、柿の葉) 若葉を収穫しているうちにも気づきがありました。数ある葉のうち、どれを選んで収穫するのか。その選択基準は「美味しそう」なのです。言葉にするとそうなるのですが、実際これはもう感覚的なもので。そうすると結果的に、各枝の先端から2~3枚ということになります。中には先端でも今一つ、というものもあります。視覚的にも、選ぶべき葉は、輝いて観える、というか自然と目についてきます。触ってみると、やわらかくて、やっぱり美味しそう。えんどう豆の収穫でも、それはあって。そういう感覚にゆだねると、実際触れた際に枝から実の離れがよい、抵抗感が少ない、という手応えがありました。あぁ。およそ30年間汚染され続けていた私でも、原始的な感覚、内なる自然がちゃんとからだの奥に息づいていて。外の自然はいつだって手を差し伸べてくれていて。囚われを捨て、内と外が結ばれた時、命はしっかり甦ってくるのだね。そんな実感、感動、そして安心。
2011.05.10
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えんどう豆の収穫適期はいつか?もちろん明確な答えなどないのでしょう。それでも、専門書など読めば、それなりに書いてあるに違いありません。実際に収穫していて気づきました。豆の成長度合いによって、収穫時の手応え、抵抗感が違う。まだ成長しきらずに、若いうちはなかなか枝から離れようとしません。無理に?ごうとすれば、枝を損ねたり、無駄に腕力を労したり。しかし、十分に育まれ、豆が充実してくると、少し力を加えるだけで、どうぞ、と言わんばかりに枝から離れます。感謝をもって、気持ちよく摘み取れます。考えてみれば、当たり前のことなのです。豆は種ですから、ゆくゆく自然と地に落ちて、個の生命として広がりゆく役割をもっているのですから。自然と離れる時がくる。出産でも、その後の子育て、親離れでもそうでしょう。限らず、自然に添う、という関係性を表しているように想います。無理なく、澱みない関係性。無理がないのですから、その延長線上に原発など必要であろうはずがありません。しかし、それを身をもって感じることが大切で。そこに気づきがあって、腑に落ちるものがあって、考えも広がり、深まってゆく。考えばかり、頭ばかりが先行してもいけないのですね。小さな農で、手で一つ一つ命を摘み取るからこそ、感じ取るからこそ、広がってゆく豊かさがあります。
2011.05.09
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Peace [pi:s] n. 1.平和、泰平…Pea [pi:] n. (pl. peas or pease [pi:s]) 1.えんどう、えんどう豆…えんどう豆がたくさん採れています。家族総出(私、身重の嫁、3歳の娘、計3.5?人)で畑へ赴き、収穫します。帰ってきて、やはり総出でスジをとります。会話も、豆の如く、弾みます。嫁が茹で、茹で上がった分を私と娘がうちわで扇ぎ、冷まします。そして、和やかに、いただきます。たいへん、おいしゅうございます。楽しゅうございます。生き生き、伸び伸びしております。真の豊かさを探求していく時、いくつかのキーワードに想い当たります。その一つが「小さな農」。日本の恵まれた気候風土に添って生きる、道であろうと想います。
2011.05.08
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