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二人目が生まれて、早3週間。慣れたとはいえ、のんびり屋にとっては忙しい。昼ごはんを食べながら、夜ごはんの献立を考えてしまいます。日記に書きたいネタはメジロ押しに閃きますが、文章化が間に合わない現状です。二人目の写真が激減する理由の一端はこれか…。前にも書きましたが、それでも家族のチーム・ワークでまわっています。娘(3歳)がしてくれるお手伝いは、まさに天の助け。暗い夜空だからこそ星が輝いて見えるように、窮している時こそ、ありがたさが身に染みます。ただ、こちらからお手伝いを頼むことはほとんどありません。私が楽しげに、あるいは真剣に(生きるために)作業をしていると、首を突っ込んできます。そして、楽しげに、あるいはもくもくと集中して取り組みます。大切なのは、嫌々やらない、過程を楽しむこと。楽しめるように、工夫すること。心のあり方(心を誤魔化すのではなくて)、からだの使い方などなど。どーしても、嫌々になるのは、どこか、理に適っていないからでしょう。自分が嫌なことを押し付けても、どーにもうまくいかないものです。自分が変われば、まわりも変わる。子は親の背中を観て育つ、といいますから。育てよう、と気張って押し付けんでも、親が育てば、子も自ずと育っていくように想いますね。
2011.06.28
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昨日はうべ探(春)のフィナーレ、交流会に出席。うべ探こと、うべ探検博覧会がひとまず幕を閉じました。当院の主催した「養生術講座」もまずまず盛況に治め、ほっと一息。たくさんのご参加、出会いに、ありがとう。おかげさまで、活かされ、育まれ、充実した時間を過ごすことができました。出会いは変化、成長の肥やし(講座でも話したけど、病気や災害との出会いもまた然り)。命の交流を糧に、こころもからだも、常々変わりゆきます。それは、それぞれの種がそれぞれの土地に落ちるようなもので。すぐに芽を出し、成長するとは限らないけれど。ゆくゆく、それぞれの森を彩っていくことでしょう。よしんば、芽を出さずとも。朽ちて土を肥やし、新たな種を受け入れる力を生むことでしょう。願わくば、今回の出会いも、新たな命を健やかに育む、そんな未来へつながりゆきますように。 (たくさんの雨粒と出会い、忘れた頃に芽を出したゴーヤー)
2011.06.20
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第2子が無事生まれてから、一週間が経過。先週の土曜日、順調に母子とも退院をむかえ、わが家に戻ってきました。嫁の実家は近くですから、そちらにしばらく身を寄せる、という選択肢もあったのですが、嫁と協議の結果、わが家で養生することに。自宅での自営業(治療業)ですから、何とか可能な選択なのかもしれません(こういうことも考慮しての開業でしたが)。予想はしていましたが、なかなか忙しくなりました。仕事の合間に家事をこなします。一人暮らしの経験が役に立っていることはもちろんですが。自分のぶんだけすればいいわけではありませんから、少し忙しい。改めて、世の主婦のありがたみに感じ入るところです。それでも、娘(3歳)は自分のことを極力自分でしていますし、嫁も無理なくできる範囲で動いてくれますから、まわっています。赤ちゃんも、息をし、おっぱいを飲み、おしっことうんこをし、眠り、全力で生きて、わが家を照らしています。お互い甘えあう関係ではなく、それぞれがそれぞれの生きる役割を果たし、共存共栄するチーム。その小さな単位が「家族」であることを、改めて実感しています(さらに小さな単位はからだだったりします)。目の前の共存共栄なくして、世界の共存共栄、地球の共存共栄などありえないですよね。息子誕生のおかげで、絆が締めなおされて、それぞれが、家族という生きものが成長していきます。ありがたい。
2011.06.13
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第2子生まれました。豆ちゃん:仮称(ちなみに娘の時は助六ちゃん)。男です。病院へ行って、一時間とかからない、超安産でした。わが嫁ながら、立派なものです。もちろん、豆ちゃんも立派(あそこも立派でした)。無事生まれてくれて、ありがとう。とりあえず、一安心。
2011.06.07
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いっそのこと、電気やお金に変換することなく、もっと直接的な方法でエネルギーを用いたらいいのではないでしょうか。昔の水車や風車などは、電気に変えずとも、水や風の力で粉をひいたりしていたのでしょう。少量であれば、臼を用いて、人力でひけばよい、と。火をおこして、薪をくべれば、電気に変えずとも、水を沸かしたり、食べ物を焼いたりできますよね。生じた草木灰は畑の土にお返しすることで活かすことができるでしょう。太陽光も電気に変えずとも、できるだけ夜更かしをせず、早起きして日の出とともに活動するとか。太陽光のパネルなどは、開発、生産、管理(修繕など)に相当なエネルギーを使いますから、トータルで考えると、本当にエコなのか怪しいもんです。水車や風車も工場で機械を使って生産すれば、同じことが言えますし、最近のLED電球なんかもそう。そして、容易に土に還らないものですから、循環がうまくいきません。新しい科学技術で何とかできる、という思い込み、何とかしよう、という意気込み、何とかしてもらおう、という依存心に危うさを感じます。その結果の原子力だったでしょうに。お金にしても、物品の流通過程で無理・無駄を踏まえることで物価が高くなっていたり、あるいは収入が差し引かれたり(現在の税金などいい例ですが)。不透明な部分が多いです。生きるための餌をいただいたら、当然ありがたい。お父さんが給料日にゲンナマを持って帰ってきていた頃は、餌ではなくお金といえど、まだありがたかった。しかし、現在の銀行振り込みになり、給与明細という紙切れになると、実感がわきづらい、という例もあります。私の治療業など、目の前のやりとりが、ほとんどすべてですから、いいのでしょうね。機械もクスリも使わないし、保険もききませんし…。野草、海藻採集、釣り、畑などの餌とりにしてもそう。極めてシンプル、直接的。誤魔化しがきかず、人力によるところがほとんど(実際は恵みに活かされている)ですが、それがいいのでしょう。活かされて、活き生きしております。ありがたや。
2011.06.06
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治療をしていますと、患者さんから、治療料金に加えて、いろいろいただいたり、貸していただいたりすることが多々あります(心の交流ももちろんですが、今回は物質に話を絞ります)。自分を活かしていただいてるうえに、料金をいただいて、さらに物資まで…。料金をいただくのが申し訳なく想えてきます。ただ、現在の社会システムでは現金収入がどうしても多少必要ですから、料金もいただかないわけにはいかない、という残念な現状。電気とお金は似ていますよね。電気は、原子力、風力、波力、太陽光、地熱、人力、まぁ何にせよ、様々なエネルギーが変換されたものです。機械にとって、使われやすいように。お金は、これまた人力を主として、電気も含め、様々なエネルギーが変換されたもの。数値化したほうが、一見管理しやすいからでしょうか。ともに問題は変換効率です。無駄、ロスが非常に多い。複雑になればなるほど、その過程でロスが出ますし、問題も生じやすくなります。
2011.06.06
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無理・無駄を減らさなくては、原発は無くならず、他の社会的諸問題もなくならず、悲劇は増え続けるでしょう。しかし、現代の日本は、はっきり言って無理・無駄だらけですから、それを無くせば、失業者で溢れかえります。困ったね、と。クスリを止めると、反動、禁断症状が怖いから…という理由で、嫌々ながらもクスリを飲み続ける方の心境と似ていますね(飲み続けていると、原発よろしく、いずれ悲劇が起こってしまうのですが…)。日本は楽を求めて、一躍先進国に躍り出ましたが、結果、どうでしょうか。私から診ると、民が活き生きしているようには診えません。苦を誤魔化すために、楽ではなく、堕落に奔走しているようにすら映ります。そして、それを助長することで経済が何とかまわっている(それも、そろそろ限界でしょうが)。このジレンマを解消するには、本当の楽、そして「人力」を見直す他ないように想います。無駄を省き、生き物の根源的欲求と直結する分野、ことのほか、餌をとる、食の分野、即ち一次産業に人力を傾けたらいいですね。一次産業にしても、無理・無駄を減らす、例えば、慣行農業から自然農に切り替えるという、改革が必要です。そうすることで、現在の形ばかりで、ともするとからだを蝕む食材から、命溢れる食材が食卓に供給される。命の循環がスムーズになり、病気(特に癌)は減り、食料自給率ははね上がるでしょう。死ぬことよりも、生きながらにして、生きないことが最大の問題にして、脅威。それは、うつ病やら自殺やら諸問題の語るところです。人力を惜しみなく発揮し、活き生き生きることで、諸問題は収束していくでしょう。
2011.06.01
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原発の危険性があらわになり、それに代わるエネルギーが求められているようです。火力、水力、風力、波力、地熱、太陽光…。外にエネルギーを求めて、頭を悩ませている様子。しかし、大切なエネルギーを一つ忘れているのではないでしょうか。それは…人力。命のエネルギーです。私たちは、生き物を殺し、食べ、命のエネルギーを補って動いています。生き物は、そのエネルギーを惜しみなく、ありがたく使うことで、活き生きと生きられるのです。気持ち悪く残る疲れは、心を捻じ曲げ嫌々すること、あるいは偏らせて無理にからだを捻じ曲げ使うことにより生じます。機械相手の偏った仕事では、初めは活き生きしていても、疲れが蓄積してくるでしょう。
2011.06.01
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