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市民図書館の棚を徘徊していて、なんとなく手に取って、読み終わって気付いた。
「いつだったか、一度、読んだ本ですね、これ。」
東北の震災から9年の年月が流れました。昨年亡くなった 加藤典洋さん
が 「震災後」
という時間で論じたことがありましたが、このエッセイ集は、まさに 「震災後」
の渦中に書かれた文章です。
収められた三つのエッセイは、
2011
年夏季号から冬季号
まで、 「小説トリッパー」
という雑誌に連載された「文章」を単行本にしたものらしいですが、今では 朝日文庫
という文庫版で読むことができます。
さて、本書、第一章 「非常時のことば」
はこんな文章で始まります。
とても大きな事件が起こった。ぼくたちの国を巨大な地震と津波が襲った。東日本のたくさんの街並みが、港が、津波にさらわれて、原子力発電所が壊れた。たくさんの人たちが亡くなり、行方不明になり、壊れた原子力発電所から、膨大な量の放射性物質が漏れだした。 高橋源一郎さん はこの文章に続けて、戦後 66 年間忘れていた 「言語を絶する体験」 ということが、実際に起こった結果、人々が感じた 「ことばを失う」 ということに論及してこう書いています。
少なくとも、同じテーマについて、これほどまでにたくさんのことばが産み出された経験は、ぼくたちにはない。それにもかかわらず、ぼくたちの多くは、 「ことばを失った」 と感じているのである。 震災をめぐって、途方もない量のことばが、人々の口から、あらゆるメディアから、吐き出され続けている世界を前にして、ある疑いを口にします。
「どんどんことばが出てくるなんておかしいんじゃないだろうか。」 そして、 鶴見俊輔 のこんな文章を引用します。
庭に面した部屋で算術の宿題をしていると、計算の中途で、この問題は果たしてできるのだろうかと疑わしくなる。宿題をする時だけでなく、一人でただ物を考えている際にもこの感じがくる。 人々の口から吐き出されてくることばが、 鶴見俊輔 の言う 「一人で考える」 時に感じる 「めまい」 を失っていないか、という疑いです。
ひとりで物を考えるのは、へんなことなので、もうひとり別な人がそばに立って「それでいいのだ」と言ってくれなければ、確かでない。ひとりで考えて行って、それでやはり皆の落ち着くところに行けるかしら。考えている途中で「へんだ」と思うときがある。ビルディングの非常はじごを一足ずつ降りるが、あるところで一寸止まって下を見廻し、急に恐ろしくなり、 めまい を感じる。そのめまいに似た感じだ。
「私に地平線の上に」
「そうだったのだ、この場にかけていたのは 祈祷の朗誦 だったのだ」 えっ、 朗誦 って何?
「ことばはなんのために存在しているのか。なんの役に立つの。ことばは、そこに存在しないものを、再現するために存在しているのである。」 「ジャン・ジュネ」 うん、それはわかる。うーん、でも、ようわからん。
水俣病の患者は、国や会社によって、この社会によって。殺されたのである。あるいは、徹底的に破壊されたのである。 なるほど、 「祈り」 であり 「音楽」 である ことばの姿 か。 「非常時のことば」 というこのエッセイで引用されている三人の文章に対する高橋さんの読みの展開が、ここに来るとはと、うなりました。
だが、人間が、徹底的に破壊されるとは、ただ殺されることではなく、忘れ去られること、そのせいに意味など無かったとされることではないだろうか。
そのことを知って 「あねさん」 は、これらの 「文章」 を書いた。そして生涯 「文章」 などとは無縁だった 「坂上ゆき」 は、 「あねさん」 の 「文章」 の中で、蘇ったのである。その生涯が、どれほど豊かであったかを、証明するために、その文章は書かれたのだ。
それは死にゆく「坂上ゆき」への 「祈祷の朗唱」 でもあっただろう。
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