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3月2日の誕生日を迎えるにあたり今の自分の状況を知るためにOSHOカードを一枚ひくとNO-THINGNESS (無)何一つ抵抗することも、なにかしようとすることもなく、何一つ予測さえつかない状態の中で頭も心もからっぽにしてくつろぐ今の私にはその意識が必要だそうです。昨年の今頃、ジョセフ・マーフィーの本との出会いをきっかけにして一年かけて自分の可能性が驚くほど広がりました。この一年で生きることがとっても楽しく軽くなりました。そして今年の誕生日を迎えるこの時期に、また大きな変化が起きつつあるようです。それがどんな状態なのか、全く予想もつきませんが、予想できるようなことならば、大した変化ではないはずですから予想できなくて当然なのでしょう。何でも実際に体験してみないと本当のところは分からないものです。だから、何の心配も期待も焦りもなく、NO-THINGNESS (無)の状態でいなさいということだと理解しました。誕生日といえば、昨日「老い」をテーマにしたTVドラマを見ました。 私たちは誕生日を迎えるたびに、自分の年齢という看板に数をひとつ加えて書き換えます。そういう概念のない社会があるとしたら、その習慣はとても不思議なものに思えるかもしれません。その人が生まれてからどの位の季節が巡ってきたのか、それを数えそしてそれを記憶するための手段としての年齢という看板がどうしてそれほど重要視されているのでしょう。この回数(年齢)までにこれをやっておかなければいけないという、社会的に暗黙のルールがあり、それに従うことが他人に承認される条件だと思われているのかもしれません。あるいは、何かが出来ること、出来ないことの言い訳や理解のために必要なのでしょうか。肉体は物質の摂理に従って、「時間」の経過と共に成長したり衰弱し衰退することもあるけれど、物質ではない霊的な部分、心や精神や魂は「時間」には縛られないはずです。自分で制限をつくって不自由にならない限り、見えない世界は無限で常に新しいのです。私は10代後半から20代にかけて、最も不自由に感じ、希望も心からの喜びもなく精神的に老いていたような気がするので、今の自分とその時の自分を比較したときには毎回、私はなんて若返ったのだろうと感じています。そして、年齢を加えるたびに精神的な自由度が広がっているので、加齢することは楽しみですらあります。そしてこの地上での人生の残り時間を示す砂時計の砂が、着実に一粒一粒下に落ちてゆくのを眺めるのは、この瞬間の生の貴重さと輝きを思い出させてくれます。私はまだ肉体の衰えによって生じる不安感というものには、ほとんど直面していませんが、これからの体験の中でそれと向かい合ってゆくこともあるでしょう。老いは未だ体験していない身体的感覚です。自分がどう反応するのかとても興味深いです。でもその経験を通じて、嘆き絶望してゆくこともできれば、より豊かで深い喜びに満ちた輝きを人生の中で見つけてゆくこともできます。恐怖や不安というのは、とても利用価値があります。それらをよく観察し、理解することで手放すことができれば私たちは必ず思いがけない素晴らしいご褒美がもらえます。いつだって人生は新しいプレゼントを用意してくれているものです。それを常に見つけられる人、受け取れる人が本当の意味での「若さ」なのだろうと思います。「若さ」とは、何事からでも学べる「智恵がある」ことなのかもしれません。
2005.02.28
明日は、707朝食会というのに参加します。朝7時に集合して一緒に朝食をとりながらお話をするという会です。こんなに早起きするのは、この朝食会の時だけです。なので、前日は早く寝なきゃという思いが強くなって緊張してしまい、逆に全く寝られなくなることが多いのです。(笑)今日ももしかしたら寝られないかもね。まあそれはそれで仕方ないですね。何でも頑張ろうとすると、スムーズにいかないという好例です。(笑)いつもはこんなこと日記に書かないのに、深夜2時にわざわざこんなこと書き込んでいること自体がかなり緊張している証拠です。そんな普通ではない自分が可笑しくて、わざわざ書き込んでみました。明日以降、朝食会に参加した感想をまた書きたいと思います。ではおやすみなさい。
2005.02.25
親は政府や社会や属している文化、信念や神や迷信、考えずに順応している伝統の影響力これらすべてを理解して、そこから自由になるには、深い洞察が必要です。しかし、君たちは内的に怯えているために、たいがいはそれらに屈してしまいます。人生で良い地位が得られるのか、と恐れています。宗教家が何と言うだろうかと恐れています。伝統に従っているのか、正しいことをしているのかと恐れています。しかし、自由とは本当は、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。「子供たちとの対話―考えてごらん」よりJ. クリシュナムルティ (著), J. Krishnamurti (原著), 藤仲 孝司 (翻訳)平河出版社世間の常識、文化的な信念、育った過程で身につけた保身の方法それらと闘い、理解し、乗り越えて自由になってゆく過程で最も衝撃的な気付きを与え続けてくれたのは、この J. クリシュナムルティ という人です。彼はすでに1986年にこの世を去っていますが、その著作は多く残されていて、世界中の自由と真理を求める人々の心に影響を与え続けています。彼の話すことはどれも、あまりにも深い智慧に満ちていて特にこの「子供たちとの対話―考えてごらん」 は子供たちとの質疑応答を本にしたものなので、難しい彼の著作の中でもとても分かりやすい内容になっています。昔は、彼の本を読むたびに大きな衝撃を受け、考え込んでしまい、その後しばらく意識がここにあらずという状態になってしまうので、現実的な用事に取り組まなければいけない時期は彼の本を読むことを避けていたほどでした。ある疑問が湧いて、久しぶりに彼の本を手にして読んでみると、やっぱりため息をつかずにはいられないほどの鋭さで迫ってきます。彼の本を読むには生き方や価値観を根底から変化させる覚悟が必要です。その準備をしつつ、しばらくこの本を読みかえしてみようと思います。ところで今日、自分が知るべきテーマとしての一枚のOSHOカードをひいてみると「MORALITY」(道徳)というカードです。OSHOもクリシュナムルティー同様、私に大きな影響を与えてくれた人ですが、二人とも道徳や様々な条件付けや世俗的、宗教的信念なども生を腐らせてしまうものとして注意するように言い続けていました。最近、「MORALITY」(道徳)というカードをよく引くので一体今の私にとってどういう意味があるのだろうと考えていました。まだよく分かりませんが、何かクリアーにする必要があるらしくちょっと前からちょっとモヤモヤしていて産みの苦しみのようなものを感じています。道徳的、倫理的、宗教的な人文化的、世俗的なルールに忠実な人そしてスピリチュアルな本に書かれている理論を信じている人も恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境に達していないのなら皆同じように野心的で攻撃的で排他的で押し付けがましく、または無関心で冷酷になります。それはその人がもつ恐怖感の強さに比例してそうなるのです。恐怖感というものが、そういう生き方を要求するからです。その恐怖感、そして安心したいという欲求から本当に解放されるには自分が何を怖れ、何を得ようとしているのか自分に問い続け、自分を観察しつづけ、深く理解する以外にはないだろうと思います。人から差し出された理論や信念を無批判に受け取り、お守りや鎧として身につけることはできますが、その結果が今の社会、今の私たちの状態です。私たちは皆、全く恐怖がない人生など思いつきもしません。本当の「自由」を得たくはないでしょうか。それは、「恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求さえない心境」です。それは疑問に思うことを考え抜いたり自分自身に問い続けること、そして自分の内側に答えを見いだし続けることで得られます。決して簡単なことではありませんが、不可能なことでもありません。カウンセリングをしていて、自分が全く考えることなく私に答えを求めようとする人たちに時々出会いますが、その人たちに、その問いが生まれる「考え方」自体があなたを苦しめているのだと伝えることは時に困難です。私は幸せになれるでしょうか。私は結婚できるでしょうか。私は成功するでしょうか。この苦しみの原因となったトラウマは何でしょうか。彼あるいは彼女は浮気しているのでしょうか。その答えを得たからといって、一体人生にどんな変化があるのでしょう。単なるお守りをお金で買う以上のものではありません。何故、そういう質問が出てくるのか。何故、自分ではなく人にそれを質問しているのか。私は何を信じているから、あるいは何を信じられないから苦しんでいるのか。本当はそれらを自分に問うこと以上に意味のある大切なことはないのです。そして問い続け考え続けることを止めてしまった人は、既に固定されて変化することのない理論や理屈や信念を身にまとい始めます。それは自動的に答えをくれます。自分で考え、答えを見つける過程を必要ないと言います。それに依存すると、あたかもその鎧が生きる上で何よりも大切なもののように守ろうとし、それを脅かすものを排除し、殺しはじめます。それが今の私たちの心の中、そしてこの地上で起きていることです。その理屈の中で辻褄の合う答えが欲しいと願いますが、本当は恐怖感を生み出すその理屈自体が屁理屈なのです。答えは自分で見つけるしかありません。本質的な答えを求めて問い続けることはとても大切です。そしてカウンセリングに関わらず、人に尋ねるというのは自分自身で考え見いだした答えを、再確認しようとする時にだけ意味をもちます。この恐怖感を生じさせる根は何か。自分は何に怯えているのか。本当に欲しいものは何か。生きるとは何か。自分が当たり前に信じていることを疑ってかかることはとても大切です。私たちは皆、生きることは苦痛と不自由を耐え忍ぶことなのだと洗脳されてしまっています。自分で創り出した心理的な牢獄から抜け出るためには、本人がその牢獄の存在を疑い続ける必要があるのです。だから牢獄の中でどうやったらより楽に過ごせるかと聞いてくる人たちに私は新しい気晴らしやお守りを差し出す気はないのです。
2005.02.22
ほんのちょっと前には信頼することが難しく悩んだり迷ったりしていたことがふと気がつくと、何の努力も必要なく当たり前に信頼できるようになっていることがあります。前に不安に思ったときは、先のことなど考えずに、とにかく今したいこと、したいけど怖くてできないからこそしなければならないと感じたことを勇気を出して信頼して一歩行動に移しただけなのですが、その小さな一歩はとてつもなく大きかったのだと後から気がつきます。自分がこうなりたい、こうしたいというポジティブな願望が現実になってゆくことを一般的に「成功」と呼びますが、時々、人間にとって最大の恐怖は「失敗」することではなく「成功」する恐怖なのだと耳にします。人間は複雑な心を持っていますね。願っていることが叶わないことを怖がったり、あるいは叶うことも怖がるなんて。失敗する恐怖は皆よく知っていますが、成功する恐怖というのは何でしょうね?成功はしたいけど、成功すると想像してなかった問題がいろいろと起きてそれに煩わされるかも。人に妬まれて友人がいなくなったり、誰からも相手にされなくなるかも。不幸な境遇や状況のために特別に得ていた様々な恩恵が得られなくなるから。前に本で読んだことがあるのですが、ある女性が事故か病気で車椅子の生活となり、本人は最初はショックだったけど、多くの人が自分を援助してくれて、世話をしてくれて、愛してくれる状況に慣れたところに続けていたリハビリが効を奏して、車椅子なしで歩ける可能性が出てきたそうです。だけど、そうなると今までのように特別に愛され注目され世話をしてもらえなくなってしまいます。それに気がつくと本人は物凄い恐怖感に襲われ、それ以来、身体的には完全治癒したのに二度と歩けなくなってしまったという話です。彼女は歩けるようになった後の更なる幸福を信じられなかったのですね。彼女にとって歩けるようになることが「成功」であれば、これは「成功への恐怖」ですが、もともと彼女にとっての本当の「成功」が人に特別に愛され注目され世話をしてもらうことならばこれは「成功」している状況を失うことへの恐怖だとも言えますよね。私たちは、自分の最大の願いは何なのか、勘違いしていることが往々にしてあります。そして更なる幸福や夢を実現するために私たちは、新たな自分にふさわしいよりいいものがこの先に用意されていると信頼し時には今まで最も必要を感じていたり大切だと思ってたものを手放すことが必要になります。その時に信頼が欠けてしまうと、まだ暗くて見えない所へ一歩踏み出すこと、「成功」や「さらなる幸福」を手にいれることへの恐怖を感じるのです。私は会社勤めをやめてこのスピリチュアルな活動を始めてから何度か、「私はこれからスピリチュアリズムの普及に関わり、社会的な意味でも成功してゆくだろう」という直感的確信を感じることがありました。それは本当なら嬉しいことで、なんの不満もないはずなんですが、なぜかその感覚を感じるたびに、何とも言えない気分的な落ち込みや精神的混乱が起きました。人に話しても分かってもらえないだろうという思いから、ほとんど人に話しませんでしたが、自分の環境が大きく変ったら、今までの友人たちとは皆、縁が切れてしまうのかもしれないし、成功と引き換えに大切なものを失うのかもしれない。そんなことを考えて、今まで味わったことのない怖さを感じた覚えがあります。でも今は、関わる相手がかわっても、一緒に楽しく関われる友人は常に出会えるだろうし、大切なものを失うのではなく、変化することで今まで大切だと思ってたものにそれほど価値を感じなくなり、より価値のあるものを見つけることができるだけなんだと分かったので、「成功」への恐怖はだいぶ薄らぎました。「成功」というより「より大きな可能性」への恐怖ですね。昨年夏、これから私は、日本と海外を行ったり来たりする生活をしたいと突然思ったのですが、半年たって、もう実際に自分の生活がそうなりつつあります。最初にそれを願ったときはまだ現実味がなかったので、絵に描いた美しい景色のようでしたが、その景色が現実となり始めて、今まで最も大切にしていたものを手放す必要があることに気がつきました。私にとってそれは、大好きな両親や猫達と一緒に過ごす時間です。海外に行けば当然その期間は一緒に暮らすことができません。不思議なことに海外にいるときは、両親や猫達のことをほとんど思い出さないし、離れていることを寂しいとも思わないのですが、日本にいて一緒にいると、またしばらく離れて生活しなければならないということがとても寂しく感じるのです。徐々に今までの生活で大切にしていた執着や愛着を手放し、新しい生活の中でより喜びを感じる価値のあるものを見出してゆく必要があります。この変化は楽しくもあり、ちょっぴり別れが辛くもあります。でも先に進むと自分で決めたのですから、後戻りするわけにはいきません。そして先に進むペースは速くもゆっくりにも自分でコントロールできるのだろうと思うので、自分の心地よいペースで進んでゆけばいいのです。ほんの短い数ヶ月の間に、私の「願うこと」は全く変化しました。「スピリチュアリズムの普及に関わりつつ、社会的な意味でも成功してゆくこと」は、すでに私の「願うこと」では無くなりました。なぜかと言うと、すでにそれらを私は手に入れてしまったのです。「スピリチュアリズムの普及」とは私が生き生きと生きること、その喜びを人と分かち合うことが基本だと理解できて、その生活をすでにしているし、「社会的な成功」というのはどうでもよくなりました。お金にしろチャンスにしろ人との縁にしろ、自分がやりたいことに必要なことは必要なときに必要な分だけちゃんと私に用意されるのだからそれで充分。という信頼が出来るようになったのです。私が本当に望んでいたのは、そういう宇宙に対する信頼感をもつことで、そのために「社会的な成功」をすることは全く必要ないのだと気がつきました。今の私には「夢」が沢山あります。演奏会で素晴らしい歌を歌うこと。心から楽しんでダンスをして人にも素敵だと認められるようなダンスを踊ることそれらの素晴らしさを聴衆や観客の方と共有することもっともっと自由に、まるで空を飛ぶように自由に心のままに生きることそういう生き方を自分ができるようになるだけでなく、他の人もできるようにサポートしてゆくこと私の「夢」はそういうことで、それが現実になってゆくことが「成功」です。「夢」や「成功」といっても、将来実現させたいことではありません。毎日その夢は実現してるし、それをより大きなスケールでより高い質で実現していくことが私のこの地上での最大の楽しみでありゲームであり、地上に来た目的なのです。
2005.02.18
あなたの生は花のように開き、その芳香をあらゆるものたちに広めるべきだ。友人たちだけではなく、見知らぬ人たちにも。これが本当の慈悲だ、これが本当の愛だ。自分の光明を分かち合うこと、彼方なるもの、あなたのダンスを分かち合うことだ。OSHO今の自分に必要なことを教えてほしいと願ってOSHOカードをひいてみました。FLOWERING(開花)というカードでした。私にとってこのカウンセリングというのはどういう意味があるのかよく考えます。私にとってカウンセリングは義務でも責任でもなく、お金を稼ぐ手段でもありません。そういうものはすでに私にとって何かをする動機にはならないのです。カウンセリングをしているのはそれをすることで人に喜んでもらえるし、人の役に立てるという感覚があるからです。それは嬉しいことです。でも時に全く違う価値観や信念の人と出会い、話が通じずに嬉しくないカウンセリングになることもあります。そんな時は、カウンセリングをしている意味を改めて考えてしまいます。今まで、相手がちゃんと受け取れたのかどうかはやっぱり気になっていました。でもこのカードは相手が受け取るかどうかなんて気にするなと言っています。私は自分の生きるということを常により素晴らしく愛と冒険と豊かさに満ちたものにしてゆくつもりですそしてその歓喜を周囲の人々と分かち合いたいそれが家族や友人たちと関わる意味でありカウンセリングはそれを見知らぬ人たちに広げてゆくのを可能にしてくれるひとつの手段です。だから、カウンセリングでなくても構わないはずです。最も大切なのは、いつも分かち合いたい歓喜を私自身が味わっていること、花を咲かせていること。このカードは、そうそう、それでいいんだよと言ってくれました。生きることの本質は歓喜を味わうことで人と関わることの本質はその歓喜を分かち合うことです。歓喜するために、歌うことや踊ること、描くこと創ることなどのすべては役立つのです。そして猫たちとの交流も自分の歓喜を最優先にしながら生きていくことは宇宙の法則に従うことです。それを忘れずにいたいと思います。
2005.02.16
最近、自分に何らかの変化が起きていることは分かるのですが、それを言葉にすることができずにもどかしく思っています。今は書くことよりも楽しいと感じることがいろいろあるせいか、それとも書くことが思いつかないせいもあって、ちょっと日記の更新が遅くなっています。でも今日はちょっと無理して搾り出して書いてみようかと思ってます。ここしばらく、変化のある生活をしていました。旅行している時間が多いせいで、初めてだったり、珍しい経験をすることが多かったです。そういう時、ちょっとづつ自分の世界が広がってゆく感覚、自由になってゆく感覚があります。「何も心配しないで物事を起きるに任せておくと、次々と奇跡的で素敵なことが起きる」最近そういうことを信じられるきっかけとなる出来事が沢山起きました。そうなってみると今まで自分がいかにその素晴らしい宇宙の流れを、心配のために余計なことをしてしまって邪魔していたのかが分かります。でもその時は一番最善だと思ったことをしたに過ぎません。人は霊的な理解が深まるにつれ徐々に宇宙の法則に逆らわなくなるので、自然の流れに乗ることができます。傍から見たら、その人は幸運の女神に特別愛されているように見えるでしょう。でも私たちは皆、本来はそういう生き方が最も楽で自然で無理なく、感情的にも楽しく感じるように出来ているのです。「そう生きるにはどうしたらいいのか?」「ただそれを信じて、そう生きること。」今の私にはそれ以外の言葉が出てこないのです。そんな状態だから、文章を書く気になれないのかもしれません。本来、永遠に生きる私たちは、この地上で肉体をもつ存在として「有限の人生」という幻を楽しむためにいる。私はそう考えています。きっと今はまだそんな風に考える人は地上には少ないのかもしれません。でも同じ考えの人が増えてくれるともっともっと楽しみが増えるはずです。早くそういう仲間が増えるといいな。そう願いながら今日は眠りにつくことにします。おやすみ。
2005.02.15
昨日の早朝、ハワイに到着しました。ワイキキ周辺は天気もよいし、相変わらずの常夏です。寒い日本を脱出できて、寒さの苦手な私はそれだけでも本当に有難いです。昨日は、私が奇跡だと感じるようなシンクロ(共時性を感じること、思ったことが現実に起きるような現象)がいくつか起きたので、気分がとてもよく、ご機嫌です。でも、本当は私が気づいていようが、全く気がつかなくても、起きることは完璧ですべて理由があり、私自身が起こしているのですから、驚くこともないのです。でもどこかで完璧性を信じきれていない部分もあるのでしょう。自分にとって都合がいいと感じる状況がとってもすばらしいタイミングで起きたように見えると、私は喜んでしまいます。逆に自分にとって都合がよくないと感じる状況もすばらしいタイミングで起きているのですが、これは嬉しくはありません。すべては完璧で順調なのに、やっぱり人間的な視野の限られた範囲でしか見えないので完璧性に対する疑いで不安に感じることもあります。霊界の存在たちも、私たちの魂も「人間であることの特徴」として十分それをわかっているので、分かりやすい喜びを感じる奇跡を時々見せて、それでいいんだよと励ましてくれるのでしょう。何かの本に、霊界の存在か「人間には、励ましと友人が必要」と書いてあったっけ。確かにそういうものかもしれません。ところで、昨日起きた奇跡というのは、まず、ワイキキで連絡先がわからないけど連絡とりたいと思っていた人が、道で私の目の前を横切った。そのうちいつか欲しいと思っていたものや、人にこんなものを贈りたいという希望にぴったりのものに何の苦労もなく出会い、手に入る。というような事柄です。宇宙の流れに乗る意識でいると、上記のようなことが日常的に人生で起こる。とよくスピリチュアルな本に書いてあるので、私もそれには同意しているのですが、だけど、この言葉だけではどこか説明不足で言葉足らずで誤解されやすい気がするのです。宇宙の流れに乗る意識って一体なんでしょうね。私の尊敬するジョセフ・マーフィーの「思いが現実化する。強く願ったことは何でも叶う」という言葉は、私にとても大きな信頼する力を与えてくれましたが、この言葉は、宇宙の流れに乗るというより宇宙の流れを創るという能動的な感じがします。私が友人に道端で会ったのも、欲しいものに出会ったのも、それが起きること自体を強く願っていたわけではありません。ただなんとなく、そうあったらいいなと思っていただけで、別に現実に起きなかったとしてもがっかりするような期待感をもってはいませんでした。だから会いたいとか、欲しいという思いが現実化したのではなく、そのもっと根っこになっている思いが現実化したという感じです。ところで、最近、よく人にプレゼントをするのですが、それはプレゼントすること自体がとても嬉しくて楽しい体験だからです。そしてプレゼント(贈り物)をしたいと思う気持ちを、ギフト意識と勝手に名づけるとすると、このギフト意識が高まったことで、他人だけでなく自分にもよく贈り物をするようになりました。ギフト意識は、生きることにまつわるすべては贈り物で、私はこんなにも愛され豊かにく与えられているのだから私もそのように人に与えたいという意識だと思います。そして実はそれこそが、「宇宙の流れに乗る意識」だと思うのです。マーフィーもクリスチャンなので、「思いは現実化する」という言葉の裏にはそういう意識があったと思います。私が道端で会いたい人に会えたのも、欲しいものに出会えたのも、それが現実化するための力を与えたのは、私の中にあるギフト意識、もっと簡単に言ってしまうと「愛したい」という思いでその思いを現実とするためにただ必要なことが起きたのでしょう。でも、その前提となる意識の説明を省いて「思いは現実化する」という言葉や現象を説明するととても味気なく「物事を自分の思い通りに起こす方法」みたいな実利的なハウツー本の一節のように聞こえてしまうのです。確かに「思いは現実化する」と思います。その思いが愛を動機としていても、無知や恐怖を動機としていても関係なく私たちが意識を集中し続けたことは大抵、現実化します。でも、その思いの前提には「ギフト意識」、自分にも他人にももっと与えたい、愛したい、楽しみたいという感覚がないと、現実化したとしてもとても空しく感じてしまわないでしょうか。逆にギフト意識があると、具体的に何かを起こそうとしなくても、自然と自分も周囲も幸せになるようなことが起きてきます。それは愛したいという根本的な思いが現実化してゆくからだと思います。何か具体的な事象が起きることに意識を集中するまえに、それを願う動機となる思いが、愛なのか無知による恐怖なのかそれを確かめることは私たちが幸せであるためにとても大切だという気がします。
2005.02.09
先日、なんだか笑っちゃうほど面白い夢をみました。夢の中でいろんなスポーツ選手になっているのです。バレリーナをしていたり、オリンピックの重量挙げの選手だったり、水泳の選手だったりはたまた女子プロレスしてたり。。。なにかのスポーツをしているのに気がつくとすぐ別の場面になって、また違うスポーツやっているんです。女子プロレスの選手をしている時は、ぼこぼこ殴られていやだなあ、勇気いるよなあって思ってたことを覚えてます。なんでこんな夢みたんでしょうね。(笑)最近運動することに興味があるからかも知れませんが、それにしてもどうして最近、急に身体を動かすことに興味が出てきたのかしら?と、半分寝ぼけた状態で疑問に思っていると「新しいエネルギーに対応できるように身体の歪みを調整するため」と、ふと思いつきました。なるほど。よく分からないけど多分そういうことなのでしょう。だから、今自分が強く惹きつけられる種類の運動をすることはとても大切みたいです。「これが何に役立っているのか?」「いったいどんな風に自分の人生に影響を与えるのか。」ということについては、しばしば自我の表面的な意識では想像もつきません。もちろん、ワクワクして楽しくできることなら、意味など分からなくてもやればいいんですけど、魂がそれを仕向けた深い意味が分かったときには、宇宙のその完璧さと奇跡に本当に感動します。そして、その感動を経験するたびに、宇宙や自分の感覚に対する信頼感が更に高まります。どんなことでも、今この瞬間、起きること、私の感情が喜びをもって惹きつけられること、または、根拠もないのに、これだと確信してしまう選択肢は、魂が今回の人生を先々まで見通した上での、最も妥当な選択肢とアドバイスです。でも毎瞬そのアドバイスは変化するので、常に今、この瞬間に意識を集中していないと見当違いの方向に向かってしまうので、何かしらの苦痛を生んでしまうこともあります。「毎瞬、感情が喜ぶこと(ワクワク)を選択することで、私たちは喜びに満ちた幸福で豊かな人生を送ることができる。」それは、最初スピリチュアリズムの考え方として出会いました。ふーん。本当にそうだったらいいな。でもそんな苦労もなく努力もいらないような上手い話はやっぱり信用できないな。たいたい、ワクワクすること自体、何にも思い当たらないよ。私自身、最初その情報に出会ったときはそう感じただろうと思います。でも今はワクワクを見つけるのも、それに従うのもとても簡単だと感じています。でも苦労も努力もいらないということではなく、普通なら大変そうなことでも楽しんでやっているので、ちっとも大変ではなく逆にやりがいと感じてしまうのです。今はワクワクすること以外のことをすることの方がとても大変に感じるので、自然と楽な方へ行こうとするとワクワクを選択することになります。「毎瞬、感情が喜ぶこと(ワクワク)を選択することで、私たちは喜びに満ちた幸福で豊かな人生を送ることができる。」これはひとつの信念ですから、誰でも日々の生活やその中のちょっとした冒険を通じてこの信念に対する確信を高めることができます。私たちは、今は肉体をもって生きているのですから、まずは確信がない状態でも信じて行動する、つまり仮定して冒険的行動をする必要があります。そしてその結果、現実に起きた変化を見て、行動と結果の因果関係を認めるとやっぱり自分の信念は正しいのだと思えるようになります。それはネガティブな苦しみを生む信念でも同じというのが面白いところで、「ワクワクすることを選択しても貧乏になるばかりだ」という信念をもって行動すれば、その信念が正しいと確信できるようになります。だから最初に、謙遜したり制限をつけないで最も欲張った理想的な自分の状態を思い描くことが大切です。でも現実逃避のための理想像はワクワク感に嘘があるので現実化しません。そういえば自分で、より大きなエネルギーを扱えるようになりたいと願っていたことを思い出しました。必要な肉体的運動することで、自分がより高くて大きなエネルギーを扱えるようになれるなんて、自分では思いつきませんでした。でも魂は私が願ったことをちゃんと覚えていてくれるし、その願いを叶える方法も知り尽くしています。そして、私が楽しんでやれるように、導いてくれています。生きるのはなんて楽しい冒険なのかしらと思います。しかも実はとても安全で用意周到に準備されているのです。この先、より大きなエネルギーを扱えるようになった自分に出会うのが楽しみです。
2005.02.06
最近、「健康」に対する意識と欲求が高まっているので、健康によさそうな方法をいろいろ探し歩き、試しています。今日も、友人に紹介していただいた「タイ古式マッサージ」をしている方に施術していただきました。自分の身体のゆがみや疲れなどが分かり、そしてそれを健康にしてゆく方法も教えてもらってなんだかとても安心しました。こういう人にアドバイスをいただいたり、サポートしていただくのは本当に心強い限りです。それはそれとして、でも、ちょっと待てよ。。。私の興味は、表面的には「健康体になること」なのですが、それを求めて動くことで、ここ最近何か別のことを学んでいるような気がし始めました。お互いの得意なことを提供しあってゆくこと。相互扶助、分かち合いと助け合い。それでお互いに必要なものを完璧に補い合えるようにできている宇宙の完璧な仕組み。それを毎日、目の当たりに見て感じて体験している。そんな感じです。そのことによって、「仕事」や「職業」というものの「意味」が私の中で変化しているようです。それぞれの人が自分が好きなことを楽しみ、それが得意になったら他の人に教えたりその能力を提供して喜んでもらう。それが「仕事」。「人に仕える事」「サービス」の本来の意味のような気がするのです。だからそれは「お金」と関連づける必要のないものです。それは飛びぬけて上手である必要はなく、ほんの少し先に学んでいる人が後輩に教えるということでも充分喜んでもらえたり、助けになったりする。それだって、「仕事」「人に仕える事」「サービス」になります。そして助けてもらう人、教えてもらっている人も、相手に何かを与えている。相手は教えたり助けたりする機会を得ることで、自分の存在価値を感じたり感謝される喜びを得る。これが人間関係の本来の在り方だという気がします。というか、全てはひとつのものなのに、わざわざ別々の人間のふりをしている理由はお互いの関係性の中で喜びや愛を感じるためなのだと思うのです。私がこんな風に人間関係について考えたり感じたりしているときに、「お金」は一切意識にあがりません。私の中から「お金」というものに対する意識そのものが薄れてきた感じです。私は、この世界は近いうちに「お金」が存在しない状態になると思っています。何かがこの三次元に存在しているということは、誰かの意識の中に存在しているということです。逆に、意識の中から消えると、三次元に存在しなくなります。ある社会の殆どの人にとってお金というものの利用価値と必要性がなくなりお金に対して意識がいかなくなると、お金そのものが存在しなくなります。そして最近、私の意識の中で「お金」が消えてゆくプロセスが始まったような気がするのです。「ああ、こうやって人々の意識が変化することでお金の存在価値がなくなり、実際に社会からお金がなくなってゆくのかもしれない。」今、自分が体験している意識の変化をそんな風に理解すると、とてもワクワクしてしまいます。多くの人が、自分の人生はお金に縛られている、自由を奪われているのだと感じているのかもしれませんが、それは本人がそう感じる意識状態を選択しているからです。宇宙はとても完璧にできていて、自分に必要なものは誰かが喜んで与えてくれる準備をしている。自分が喜んで人に与えたい何かは、どこかの誰かがとっても必要としていて、感謝して受け取るのを待っている。そしてその2人は磁石のように引き付け合い、最も完璧なものが与えたい人から受け取りたい人に届けられる。嘘みたいによく出来た話なんだけど、これはそれを本当に信じている人にとっては当たり前にその通りのことが起こります。宇宙に対する理解と信頼の深さがある一定のレベルを超えるとそれが当然だと信じられる意識状態になるのです。私たちは皆、自分の意識状態にふさわしい世界観と信念をもって生きています。意識の進化と変化というのはつくづく面白いですね。毎日、目にする世界は同じはずなのに、意識が変化するとまるで違う世界のように違って見えるのです。お金の存在しない社会は一体どんなものなのか、これからも自分の人生を実験の場にして、更に詳しく探検してみたいと思います。
2005.02.01
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