全10件 (10件中 1-10件目)
1
今日は (横浜市)中区民ミュージカル を観劇。また、感動して共感して後半は泣きどうし。脚本は毎年、本当に私好みで、素晴らしいことは分かっていたので、午前中と午後の2回とも観劇しました。だって1回だけではもったいないもの。毎年、知り合いが何人も出演しているのは知っていましたが、今回は、さらに私のPOPSの先生まで出演していたことが分かってびっくりした~ミュージカルだったので、先生は劇中の曲の歌唱指導を依頼され、出演者不足だったので、出演も頼まれてしまったらしい。内容については、あえて書きません。言葉で説明するのは無意味だし、そういうの不得意だから。でも、最近悩んでいた、無条件の愛とか、人間の心の荒廃とかそういうことに対する洞察が与えられました。「ああ、やっぱりそうなのか、そういうことなのかと分かり、自分が進むべき方向性を示してもらえました。」自分の頭でいくら考えたところで答えの出ない疑問に対して思いもよらない視点から、想像も出来なかった洞察を示されたことにはただ感謝です。これからのことについては、起こるに任せ、考えも変化するに任せようと思っています。私は2月3日の節分までは、天中殺の年だったんだって。めいさん言われるまで知らなかった。(忘れていた?)でも、2月3日からは新しい1年が始まるってことだから、今までとは全く違った流れになりそう。皆さんを元気にするようなご報告が出来るといいけどなではまた。
2011.01.30
久しぶり・・・というか、もしかして初めて!?かもしれないが、父親と自分の将来のことについて話をしました。父とは仲が悪いわけではありません。家族、みな仲が良く、笑い合って和やかに生活しているのだけど、私自身は思春期を迎えてからは、自分のことをほとんど何も家族には話さない娘になってしまったので、そういうプライベートなこと?は話題に上がることがなく、あるいは、持ちかけられても瞬間的に話題を変えることが常なので、本当に久しぶりにそんな話をしたような気がします。親には自分のことを何も話さないという方、もしかしたら意外と沢山いるかもしれない。私は親しい友人には、ほとんど隠すことは何もなく、なんでもありのまま、気持ちのままに話をすることができるのだけど、親に、ましてや同居している親に何か話すというのは、なかなか難しいものです。しかし、どう考えても親以上に自分のことを考え、気遣い、心配し、尽くしてくれる人間など存在しないのです。親の心、子知らず・・・私は、もう20代の頃から、今回は、自分の子どもを出産し子育てをするという経験をしないと固く心に決めて、その決意通りの人生を選んできたので、親という立場の人間の気持ちは分からずじまい。想像することしかできない。という、人間としてはある種のハンディーを負っていると感じています。後悔は全くしていませんが、親になって苦労されてる方々には頭が上がらないというか、それだけで尊敬してしまいます。その苦労を引き受けた魂に対する尊敬です。ところで、ブログにも何度も書いたように私の今回の人生のテーマのひとつは、血縁関係で自動的に結ばれる人間関係 ではなく、血縁によらない家族的な人間関係を意識的に創ってゆくということです。気がついてみると、現代日本社会では、それが、自分だけでなく周囲の多くの人たちの課題でもあることは確かのようです。家族的な共同体相互扶助が規則ではなく自発的に行われる共同体そういうものは、宗教団体や僅かな昔ながらの村落共同体の生き残り以外にあるんだろうか?新しく創ることは可能なのだろうか?今まで共同体づくりを試みた人は沢山いるだろうと思う。私自身は、さてさて、どこから手をつけようか?話を戻すと、父が思うに、娘の私が生きてゆくために最もこれから大切な事は、何かの資格を取得して日銭を稼ぐというようなことではなく、「人とのつながりをつくる事」だという話になった。なるほど、そうかもしれない。と妙に納得できた。人が本当の意味で「生きる」というのは、助け合う関係を複数の人とつくってゆき、その関係の中で「生かされる」ということなんだろうと思う。人によってはごく当たり前のことなんだろうと思うけど、今まで、精神的にも社会的にもどこにも強く帰属せずに生きてきた私のような人間にとっては、そんな風に思うようになったこと自体が、ずいぶん年をとったものだと苦笑してしまう。私は一人ぼっちで生きてきたわけではないけど、不思議とその時、その時で家族のように関わってくれる人間が人生の中で登場してくれていた。これは本当に有難いことだった(今も)と心から感謝したい。でも、これからはただ受身でいるのではなく、人と手を携えて生きるような生き方を意識的に選んで実験してみようかと思う。それがこれからの私の新しい仕事となるかもしれない。
2011.01.25
今日は、親友のめいさんに会ってきました。めいさん、中華街の占い館をやめ、昨年10月に伽楽(からく)さんという占い師仲間と二人で独立開業いたしました。新しい占い館は、関内駅徒歩1分、伊勢佐木モールの入り口のビルです。今日は初めてそのお部屋に遊びに行きました。ビル4階の急階段はかなりよい運動になりますが、レトロな雰囲気でとても素敵な占い館でした。〒231-0045 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1-3-1イセビル402アクセス:JR京浜東北・根岸線『関内駅』北口徒歩1分イセザキモール入り口イセビル4F(1Fは文明堂) 『青の魔法』それから、今日はもうひとつ素敵な出会いがありました。自分が新しく入りたい、ゴスペルのクワイヤーを探していたのですが、とってもよさそうなところが見つかりました。出来たら、来月からこのクワイヤーに顔をだしたいと思っています。実はなんとなく、八方塞がりの感じがあったこの1週間でしたが、思いのほか、早めに抜け出せそうです。少なくとも気持ちだけは、ずいぶん軽くなりました。状況はまだ変化の兆しは見えていませんが、気持ちが変わったなら、ほどなく現象界も変化するでしょう。具体的に何か気がかりなことがある場合、あるいはなんとなく自分の人生がうまく回ってない感じがあって、元気がなくなっている時、雪どけを待つように、ただ黙って耐えるしかないこともあります。ほんの小さなことでも、変化を促す一歩が踏み出す気力がわいたらそれはそれで本当に有難いこと。何も動けず、ただ耐えるしかない時間を長く過ごしてきた経験があればその有難さが なおさら心に沁みる・・・皆さんにも心からの感謝を伝えたい。ありがとう。春はもうすぐです。
2011.01.23
あれこれ、本を読んでいたら、視野が広がって感受性も鋭くなってきて、頭と心はフル回転です。それにしても、本というのは、自分の知らない世界、体験したことのないこと、味わったことのない感情を擬似体験させてくれる本当に素晴らしい財産だなと思います。今、キリスト教の恵みと赦しについて、本を読んで勉強しているのですが、今まで勉強して吸収してきたスピリチュアルな思想の視点とは違っていて、どちらも共感できるだけに、どのように新しい視点をミックスしたり、取り入れたらいいか分からず混沌としています。しかも楽しいだけでなく、結構苦しい。人類が今まで味わってきた悲しみと恐怖と痛みの感覚をほんの少しだけど、感じる、あるいは思い出す状態になってます。霊的にそのセンサーを敏感にすることは、その痛みを身に引き受けることになるので、ある面危険だけど、一方、より深い慈愛や赦しや共感の感覚も磨かれてゆくので、諸刃の剣。より深く痛みを身に引き受けることが出来る人が、霊的な恵みを感じ、赦しと慈愛を手にすることができるのだと思う。とても人に言葉で説明しにくい感覚ですが、多分、分かる人には分かるかも。役者とか歌手とか、本当の芸術家はそういうプロセスを経て何か深いものを表現できるようになるのだろうと思う。しんどい感覚は生みの苦しみ。そのままにして、とにかくしばらく霊的闘いと葛藤の結果を静かに待ってみようと思います。
2011.01.22
しばらく、ブログを書きかけては、UPするまで推敲できずにお蔵入りさせるということを何度かしていました。今日こそはUPするまで、取り組んでみようと思います。今、読んでいる本が「だれも知らなかった恵み」フィリップ・ヤンシー著(現在『この驚くべき恵み』で新装再出版されています)という本で、図書館から借りて読んでいるのですが、これは、図書館ではキリスト教関係の書籍に分類されています。前のブログで書いたように、12月20日のクリスマスコンサートで、イエスの誕生物語を朗読することになったことがきっかけで、いくつかキリスト教関係の本を読むようになり、その流れの中で選んだ1冊です。この本には、とても啓発されています。この本の中で使われている「恵み」という言葉の意味は、神の無条件の愛、賜物、贈り物ということです。まだ本の真ん中までたどりついていないのですが、このような内容でした。神にこれ以上愛されるために私たちが出来ることは何もない。神に愛されないように私たちが出来ることも何もない。神は無条件になんの見返りも条件もなしに私たちを愛し、恵みを与えてくださっている。恵みとは「無条件の愛」であり、一方的な贈り物であり、受け取るために人間の側では何の努力も必要ない。ただ、人間の側はそれを信じることがとても難しく、常に差し出されている恵みを受け取ろうとしない。私たちは「ギブアンドテイク」の信念の中で生きている。社会、宗教、家庭の中で全てそのように教育され、他の人間からそのように言われ、扱われる。何かを得るためには、受ける側の人間の努力が不可欠だと周囲の全ての環境が言い続けている。しかし、それは「無条件の神の恵み」が信じられなくなった人間の考え方で、神のもとへ帰り「恵み」を受け取るためには、私たちはその信念から抜け出さなければならない。「無条件の神の恵み」を受け入れられるようになるためには、どうしたらよいのだろうか?それは「赦すこと」。私たちは「正義」を貫くために、人を赦さない。あってはならないことを犯した人間を赦さない。罪を犯した人間は罰を受けるべきであり、恵みを受け取るべきではない。赦したところで、相手は変わらないし、さらに増長して被害が拡大するかもしれない。それでも、赦さないことで心の中で憎しみや怒りや不安や不信感を募らせることで、また目には目をという報復の正義を貫こうとすればするほど、被害者の人生の中で失うものはあまりにも大きい。著者は、そんなこと理想論だといわれることを充分意識した上で、赦すことがどれほど難しいことか、あるいは不可能に近い場合もあるといくつもの例をひいて書いています。ユダヤ人が虐殺されたホロコースト無差別大量殺人思想的なテロリストによる特定の人種などに対する虐殺平和な時代の日本に生まれ育った私が、想像することさえ出来ない赦し難い出来事が、今、この瞬間にも世界中で起きつづけていて、そして憎しみと痛みが広まっている。その輪廻を切るために、今私が出来ることは何だろう?この生活の中で「赦す」「恵みを受け取る」って具体的にどうすることなんだろう?と、考えながらこの本を読み続けています。簡単には答えなど見つかることはありませんが、かなり衝撃を受け、また考えさせられるテーマです。今、この時期に自分が取り組むべきことなのでしょう。後半を読んで、また後日、内容をご紹介しますね。
2011.01.20
ここしばらく、内省的な時間を過ごしています。愛する存在(今回は愛猫ですが)を失ったので、どうしても気持ちが内向きになります。喪に服すというのは、こういうことなんだなと思い出しました。ここ10年ほど、家からお葬式を出していませんから、しばらく忘れていた感覚です。身近な存在が目の前から消滅すると、どうしても生死や生命の価値や人生の質など、普段考えないような根本的なことまで知らず知らずのうちに考えてしまっている自分に気づきます。普段、魂は永遠だと信じて、人にもそう話すのに、形がなくなったというのが、これほどの大きな違いなのかと思い知らされ、しばらくは、気持ちが深いところに自然といってしまうので、あれこれ気持ちの整理をつける必要あるみたいです。焦らず、焦らず、感謝して次の一歩を
2011.01.12
「フィリップ・ヤンシー」というクリスチャンの著書を昨年末に読んで、とても啓発されたので、この人の本を図書館で何冊か借りて、今、読んでいます。自分がいかに何も知らず、視野がせまいのか、それを分からずにきたんだなあと分かってきたり、過去のこと反省したり、恵まれていることがわかって感謝したりする、そういうきっかけをいただきました。人は生まれつきの性格と環境の2つの要因によって創られてゆくと言われています。生まれながらの性格や気質というのは世界にただひとつ、そのもって生まれた個性をもとにわたしたちは世界とかかわります。その色合いは、人と比較する機会がなければ、特徴や独自性も分かりません。そして誰もが、自分がほとんど選ぶことができない環境、生まれた場所・時代・家庭環境・社会環境や人との出会いや出来事によって人生体験が限定されています。これが当たり前、こうあるべき、こう考えるのが普通というのは、私個人の感覚から生まれたもので、周囲の人と共有しているわけではない。当然のことなのですが、横並びが好きな日本の文化の中で、基本的に幸せに育ってきたのにとても個性的だった私には、生きる世界が違う人に対する共感性や想像力が欠けたところがあり社会に馴染むのにかなり苦労しました。気も強かったので、ポジティブシンキングしさえすれば、あなたの問題は解決する、その不幸から抜け出せるとか、こんな風に考えれば問題は解決するはずだと言ったり。いまでこそ、そんな楽観的で一方的な考えはもっていませんが、特にカウンセラーになる前はもっていました。カウンセラーになってからは色んな方たちの人生を知り、人間には、自分の努力や気力だけではどうしようもないことがある。いや、そういうことの方が多い。だから皆、何か頼みになるものや、救いやご利益を与えてくれそうな存在を求める。と思うようになり、自分の人生観から生まれてくる意見を言うことより、相手のために祈ることにしました。なので今は、カウンセリングという特殊な場以外で、相手から特に意見を求められない時に家族や友人たちに何かアドバイスしたり、意見を言うことはあまりないように思います。(そうでもないかな?)唯一、相手に対して出来ること、してあげられそうなことは、ただ話しを聞く。ひたすら相手の立場にたって(立とうとして)相手の話を聞くこと。相手の言葉に出来ない感情を汲み取り、同情したり共感したり、一緒に悲しんだり喜んだり時に励ましたりすること。その時、大切だと思っているのは、相手の話を聞いて自分だったらこうするのに、こうしたらよいのにと考えが浮かんできたとしても、自分の考えを押し付けたり、相手を否定したりしないこと。思いやりといい意味での距離をたもって、感情的反応に巻き込まれないように注意して一緒にその場にいる。相手の感情を受け止め、そして最終的にはそれをすべて起こしている神を「愛の神」だと信じて自分の心の中で委ねること。それが、少しは相手の役に立ったり慰めになるのかどうか分からないですが、それしか出来ないと思うことが多いです。人生は思ったより短いものです。私もこの世にいられる短い間、とらえどころのない「神の愛」と呼べるような普遍的な何かをもっともっと体感してそこから生まれる「愛したい」という欲求を形にしてゆくことが「生きる」ことなんだと信じて今日もまた頑張りたいと思います。
2011.01.09
病気だった猫は、今晩19時半頃静かに息をひきとりました。本当に、この子には感謝しかありません。最後に存分に一緒にいて、介護できたこと、そして苦しまずに逝ってくれたことがせめてもの救いです。この子が傍にいない生活が今晩から新たに始まりました。ほかに2匹、この子のきょうだい(オスとメス)がいて、どちらも健康そのものでいてくれているのでありがたいのですが、家族全員が、新しいバランスを見つけないといけませんね。今日はずっと、この子の隣で本を読んでいました。「こころに響くさんびか」という本で、この本も12月20日のクリスマスコンサートの準備のために年末に図書館から借りていた本です。とても心に残る内容でした。私は、クリスチャンでもないし、イエスの十字架での犠牲の死による人類の救いというのも、意味がよく分からないので、キリスト教というものをあまり理解していません。また、プロテスタントとカトリックの違いも信仰に深く関わってないせいもあり、よく分かっていません。だけど、こういうキリスト教信者ひとりひとりの思いや考え方には、何故かとても親近感を感じ、似たもの、同じ種類の人という感覚があるのです。思い違いかもしれないし、多分に思い込みなのかもしれませんが、やはり、彼ら信者の言葉を聞くと反感や否定的な感情は少なく、ちょっと距離をおきながらも、共感できることが多いです。例えば、エゴの完全放棄による幸福感とか神に委ね切るという信頼感からくる安心感とかなので、これを機にもうすこし深くキリスト教について学んでみようかと思っているところです。
2011.01.04
今日は家から車で10分ほどの神社伊勢山皇大神宮へ、ひとりで初詣に行き、お参りしてきました。日本人の習慣として、新年に神さまにご挨拶に神殿に伺うというのは素晴らしいなあと思います。新しい一年を新たな気持ちでスタートする気持ちの切り替えが出来ました。ところで、昨日、今日と猫の介護もあり外出できないので、TVドラマを見ました。「フリーター家を買う」これがまた素晴らしいドラマで、わたしは15分おきに泣きました。人とのつながり、支えあい、そして愛するがゆえの傷つけ合い・・・家族って、なんとシンドイ、そして人間を成長させる関係なのかと。逃げられない関係の中、逃げずに向き合おうとする家族のひとりひとり。そして、今では珍しくなってしまった家族的関係を保っている職場。仲間っていいなあとコミュニティーの素晴らしさを改めて感じました。そして不器用で傷つきやすくて、だけど忍耐力だけはすごい昔の日本男児の典型みたいなお父さんに、とても愛おしさを感じてしまいました。うちの父も、あそこまで直情的ではないけど、結構似たところあります。昭和一桁生まれですから。さらに祖父は明治生まれでしたので、父の100倍、家庭内では暴君だったそうです。昔の男は、妻には威張る、見下す、馬鹿にするが当たり前(苦笑)高度経済成長以降は急激に家父長の権威がなくなったせいで現代は子どもにそういう態度をすれば、関係が切れる可能性もあるし、あるいは、傲慢にも平気で言い返してきて、かなりプライドが傷つけられるので、お父さんたちは、子どもに対しては言いたい事を言わずに我慢するようになりましたが、その分、不機嫌になって、さらに自分の妻に絡むようにもなりました。(今は妻にもなかなか絡めません。。。簡単に離婚になってしまいますから)ドラマでも、不器用な愛情表現しか出来ないお父さんの家族に対する執着と愛情と根っこにある誠実さを痛いほど感じて、泣けました。ドラマの中のお母さんは典型的な昔の女性のタイプでした。我慢しすぎて、うつ病になってしまっていました。それでもはやり、昔の女性は立派だったなと思います。忍耐力や愛情の深さや献身には頭が下がります。宗教的な生き方とでも言いましょうか、多分、今とは比較できないほど生きることが困難だった時代、全ての人が宗教的・信仰的な価値観を身につけないと精神的に持ちこたえられなかったからでしょう。戦争がない時代に生きているということは本当に有難いことです。だけど反面、精神を高めるにはなんと不利な環境かと思います。戦争という自分の生死に直面することのない状況の中で生き、同時に精神を深く掘り下げ、宗教的・信仰的な昇華された生き方を求め、実現することは、なんと困難なことでしょうか。人は生死を賭けた困難の中で最も、鍛えられ、磨かれるものなのではないでしょうか。わたしは、若いときには、きっと苦労せずに成長できる道はあるはずだと信じ、そして捜し求めていましたが、結局年をとるにつれて、そんな抜け道はある訳がないと、諦めとともにありがたく受け入れています。苦労は別に自分から求めてはいませんが、必ず向こうからやってきます。逃げずに向き合うことが理想ですが、時に逃げ出してしまうこともあります。それでも日々、与えられた状況の中で頑張って生きるしかありません。当然、今年も沢山の苦労が待っているはずです。それにこそ感謝したい、いやそうできる自分でありたいと願います。
2011.01.03
あけましておめでとうございます。2011年になって、今年の抱負や今の気持ちを書こうと思ったらさて、何を書いてよいやら、しょっぱなから立ち止まっておりました(笑)昨年の元旦は、自分ながらなんだか立派なことを書いていて、2010年01月01日 「2010年の夜明けを迎えて」目標やらテーマやら思うことはっきりしていたみたいです。今年の年明けを迎えたわたしはというとどうやら、内面的に過渡期にあるらしく、思うことは色々あっても、はっきり言葉にできなくて、ちょっともどかしいです。でもあえて言葉にするなら、「今一度原点に戻って生きたい。」原点というのは、縦とのつながり、大いなるもの、創造主、人知を越えたものへの信仰、信頼、委ねる気持ちを一番大切にして、人と人のつながり、支えあうこと、補い合うことを願って行動するということです。それは、現実社会の中で理想論とみなされるかもしれないし、経済的にも、空回りして崩壊するかもしれません。疲労困憊してもうやだと思う瞬間があるかもしれないし、そんなことすっかり忘却してしまうかもしれません。自分の無知や愚かさ、傲慢さ、経験不足によって、何も実をむすばず、結果的に人に迷惑をかけるだけで終わってしまうかもしれません。それでも、自分が今信じていることを出発点にして、神と共にありたいと願います。私は今現在、どんな宗教団体にも所属していませんが、私が内面で信じている「神」と呼べるような何かとは常につながりを保って生きてきました。それは日本人の多くがそうなんだろうと思います。これから先に起きることは何も分かりません。今は、自分がどうしたいというのもなく、嵐の中、神を頼りにして、神に連れて行ってもらう。行き着く先がどこであろうと、文句を言わないで感謝する。そういうことが少しでも出来るような自分になりたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。
2011.01.02
全10件 (10件中 1-10件目)
1