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前回、「力を得ることの責任」について書きました。成長のステージが一段階あがったような感じがして、それがなんだか恐さもあって戦慄を覚えるというようなことを書きましたが、その日記を書いた24日の夜から、それが現実化するような霊的な出来事が起こり、かなり精神的、霊的に危機的な状態に陥ってしまいました。その時に、周囲の友人達から思いもかけなかったような深いサポートをしていただいて、ほんの3日間でその危機的状態は脱することができました。その内容はまた近いうちに時間をつくってこの日記でご報告しようと思っています。29日(日)は、いつもお世話になっている先輩、伝ちゃん(佐藤 伝)の「朝 日記の 奇跡」の出版感謝パーティーに参加させていただきました。懐かしい人々にも沢山お会いできたし、本当に心温まる素敵なパーティーでした。そのパーティーの二次会で、親しい友人たち三人とファミレスで熱く語り合い、なんと、私を入れたその四名で、新しいプロジェクトを立ち上げることになりました。その後も、めまぐるしく様々なことが動き始め、やっぱり、今までとは全く違う、成長のステージに上がったのだという実感がヒシヒシと湧いてきています。最初に辛かった三日間は、一種の通過儀礼だったのでしょう。急に、短期間の間にエネルギーを注いで現実化したいこと、しなければならないことが増えたので、今まで時間管理などせずに、贅沢にのんびりと自由な時間を使っていたのですが、急に「タイム イズ マネー 」の感覚になってきました。エネルギーの使い無駄もないようにしなければと気を引き締めています。これも突然ですが、急に早寝早起きを実践したくなりました。今までは全くそんな気がおきなかったのですけどね。今は、それが必要な時期なのかもしれません。それでは、今日はこの辺で。。。
2005.05.30
最近、自分を知るためにひいたOSHOカードは「COMPLETION 完成」でした。今まで課題として取り組んできたひとつのテーマが完成して終了したというようなメッセージだと受け取りました。一体どんなテーマが一区切りついたのかしらと、考えながら過ごしていたのですが、今の時点で多分これだろうと思っているのは、「自分の人生に起きることは、全て自分で創造している」という認識(確信)がある一定のレベルに達したのではないかということです。もちろん、その認識はこれからも更に深くなっていくとは思いますが、「ある一定のレベル」とあえていうのは、そこまで到達したなら、次の成長段階に進むための条件が整ったということではないかと感じているのです。どんなことでも、次の段階に進むための前提としてクリアーしてなければならないことがあります。例えば、本を読むためには、文字が読めてその文字の意味を理解できていること。歩くためには、そのために必要な最低限の筋力や運動能力が発達していること。では、「自分の人生に起きることは、全て自分で創造している」という認識(確信)がある一定のレベルに達したというのは、次にどんな段階に進めるのかというと、「自分の人生に起きることを、自分で意識的に創造することができるようになる」ということではないかと思います。そう、誰でもこうしたいと思って、それを実現しているのですが、自分が自分の人生における唯一の「創造主」だと理解できると、その可能性のスケールが爆発的に広がるため、今までの人生観が急激に変化します。とてつもないパワーと責任の両方を手に入れることになるのです。今まで不可能だと思い込んでいたことが、それは自分のせいで不可能になっているのだと分かります。では、自分次第だからと思って不可能を可能にして実現しはじめると、その実現には、大きな責任(献身など)が伴っていたのだと分かり、その重さに立ちすくみます。覚悟を要求される感じです。そして既に自分次第で実現できるのだと本当に分かってしまった時点では、「実現しない選択」にさえ大きな責任が伴うようになったのだと知り、後戻りもできなくなります。自分の内面以外のどんな人、状況、トラウマ、過去生、カルマなどそういうものに一切責任転嫁が出来ないことが分かってしまうということです。幸運や不運なんていうものも、単なる幻想でしかないと分かってしまうことです。すべては「私」が創造している。シンプルに、ただそれだけが真実。そして、その「力と責任」にどう向き合うかが次の課題となったような感じです。これはあくまでも私個人の内面的な感覚ですが。。。自分が「力とそれに伴う責任」など認識できなかったときには、その課題とは無関係でいられました。それぞれの、認識(意識)の成長段階によって課題が与えられます。正確には与えられるというより課題だと捉えられるようになるということです。で、どうも最近、私が今までにない重苦しさというかプレッシャーを、様々なことに対して感じるようになった理由はこれかもしれないと思っています。でも、一方で私は(もちろん誰もが)物凄い「パワー」を手にしていて、どんな可能性も現実化できるのだということも意気込むこともなく、ごく自然にそう感じられています。「ワクワク感」と「恐怖感」とも呼べるような二つの感情の間をいったりきたりしてだいぶしばらく感じることがなかった不安定な心理状態というものを味わっていて妙に心細さを感じている最中です。でもこれは慣れるしかありません。私は、自分が望んで、努力の結果、霊的な学びのクラスを一段進級したのです。この新しいクラスでは、今までとは違う「喜びと苦しさ」を味わうでしょうが、私たちは「成長」するように運命づけられているのですから、いつかはこの道を通らなければなりません。前だけ向いて、とにかくより大きな自分を信じて頑張るしかない!「頑張る」なんていう言葉は普段あまり使わないけど、でも今の私の心境はこの言葉がまさにピッタリです。時々めげそうになる自分に「ファイト!」です。
2005.05.24
ところで明日は恵比寿で「月曜ビタミンの会」という交流会を開催します。明日以降、月ビタを継続して続けてゆくかどうかは決めていません。明日が最後になる可能性もあります。でもそうではないかも。。。(笑)基本的には私の気分というか、ワクワクするかどうかという気持ち次第なので、この先のことはどうなるか分かりませんが、もし、お時間が都合がついて、行ってみたいと感じる方は是非ご参加くださいね。詳細はHPの月ビタのページにあります。http://www.vitamin-wave.com/vitamin_no_kai.htmlではでは
2005.05.22
最後の者であるがいい、野心なくあるがいい。野心とは、上に向かって行くという意味だ。水は下に行く。もっとも低い地を探す。それは何者でもないことを望む。自分は、ユニークだ、例外だ、特別だと宣言することは望まない。エゴの観念はない。これはOSHOカードの「GOING WITH THE FLOW -流れと共にいく」の説明文の一部です。前回の「STRESS-ストレス」のカードの説明をもう一度ここに転記すると、*******************************個人的なゴールはすべてノイローゼのようなものだ。本質を究めた人は、「私は全体から離れてはいない、私ひとりの運命を探し求める必要は何もない。ものごとは起こっているし、世界は動いている---それを神と呼ぶなら・・・神のしわざなのだ。それらはひとりでに起こっている。私が奮闘し、努力する必要はまったくない。私がなにかのために戦う必要はない。私はリラックスして、ただ在ればいいのだ」ということを知るようになり、感じるようになる。*******************************本質を究めた人の状態というのが、冒頭のエゴの観念のない状態、「GOING WITH THE FLOW -流れと共にいく」の状態なのだと思います。では、本質を究めたエゴの観念のない状態の人は、何かを達成しないのかというと、そうではないと思います。多分、傍から見たらその人は様々なことを達成し続けているように見えるでしょう。でも、その人の心の中では何かを達成しようという発想はまるでなく、言葉を変えれば、毎瞬、すでに達成した状態に在る、全て完璧で完全で何か足らないものなど何もないことが分かっている状態に在るということかもしれません。表面的は全く同じ行動、同じような結果に見えるとしてもエゴがあるかないかで、内面的な状態が全く違うのです。エゴ意識は野心であり、ゴールを求める、自分は、ユニークだ、例外だ、特別だと宣言したいから闘う。自分が愛され認められるには、戦利品が必要だと思っている。だから、それが得られなかったときは恐怖に陥る、自信をなくす。成功に執着しているので、失敗を恐れている。でも、エゴ意識をもたない人は何も必要としない、何かしたいと心が動くなら、それは野心ではなく愛が動機となる。愛はゴールなど必要ない。子供を愛し育むとき、その行為が何かのゴールを目指しているのなら、それは本当の愛ではない。愛はただ愛する行為そのものが喜びであり、自己完結している。それは何者でもないことを望む。自分の手柄など必要ない。もし手柄と呼べるようなものがあったら、それはあなたの手柄だと相手に言って賞賛してあげたい。自分は、ユニークだ、例外だ、特別だと宣言することは望まない。なぜなら、全ての存在はユニークだし特別だと知っているから、自分だけが特別だなどと考えることはない。愛する誰かが、心地よく幸福で満たされるために役立つものであれば、何でも与えてあげたいと思う。人間でさえそう思うなら、神(創造主)がそう思わないわけはない。だからこの世界では、すべての人に素晴らしい豊かさが準備されているはずだ。それらは、受け取られるのを待っている。マーフィーは創造主への信仰心により、そう感じたのだと思います。そして私たちが今、得てない理由はただひとつ。「受け取ろうとしないから、求めようとしていないから」愛する誰かというのが、他人でなくても自分でもいいのです。自分を心から愛しているから心地よく快適に暮らさせてあげたい。それに必要なものは何でも自分に与えてあげたい。そして宇宙は必ず与えてくれることを信頼する。野心というのは、不足感、欠乏感、劣等感があるから生まれるのです。流れと共に行く人にはそういう不足感、欠乏感、劣等感はありません。すべて必要なものは与えられる、私は充分に愛されていると知っているからです。「ワンネス」「すべてはひとつ」「宇宙は愛の法則によって動いている」「すべては愛」という意識を自分の中で感じられるかどうかで、エゴ(野心)と愛とどちらを動機として選択、行動してゆくかが決まります。エゴを動機とする人は、「流れ」を信じられないので自分が溺れないように手足をバタバタして何かのゴール(つまり浮き輪みたいなもの)を得る為に必死になります。愛したいという思いが動機となっている人は「流れ」を信じているので、自分が何もしなくてもこの流れの中で浮くことも知っているし、この流れは自分が得たいどんなところ(状態)にも連れて行ってくれることを知っているので、ただ心でなりたい状態をイメージし、そしてリラックスして流れに運ばれるままに身をゆだねます。そしてより深く、よりたくさん愛するために様々なものを求め、流れの中で手にいれるのです。
2005.05.20
今日は何か書きたいことがある感覚なのだけど、具体的には何も思い浮かばないわ。なんてこと、よくあります。今日もそんな日です。自分の心の深いところでは、書きたいことが分かっているんだけど、何も思い浮かばないから書くのをやめてしまうか、あるいはとりあえず、内側から何か出てくることを信じてキーボードに向かってみるか。。。その時々で選択していますが、今日はこのまま書き続けてみます。ふと、いつものOSHOカードをめくってみたら自分の心にピンときた文章がありました。OSHOのこんな言葉です。*******************************個人的なゴールはすべてノイローゼのようなものだ。本質を究めた人は、「私は全体から離れてはいない、私ひとりの運命を探し求める必要は何もない。ものごとは起こっているし、世界は動いている---それを神と呼ぶなら・・・神のしわざなのだ。それらはひとりでに起こっている。私が奮闘し、努力する必要はまったくない。私がなにかのために戦う必要はない。私はリラックスして、ただ在ればいいのだ」ということを知るようになり、感じるようになる。*******************************この文章はSTRESS(ストレス)というカードの説明なので、この理解の不在がSTRESSを生むということだと思います。うーん。やっぱりOSHOは素晴らしい。。。この文章を読みながら、今までの自分の変化を振り返ってみました。多くの日本人がそうであるように、私はすでに十代の時に個人的なゴール(いわゆる出世コース、学歴やその他のステータスを得ることによる金持ちコースみたいな)を追い求め、それが達成できなければ生きる価値がないと思い込むようなノイローゼ状態に陥っていました。親からそれを期待されていると思い込み、親離れしていなかったために、それ以外の生き方など思いつかなかったのです。ありがたいことに、その生き方は早々と二十歳になるかならないかの頃に完璧に崩壊し挫折してしまいました。それ以降は、今までの親を捨て(親離れしはじめ)別の価値観を求めて彷徨いはじめ、キリスト教の中では愛と許しの神に出会い、仏教では無欲になることで全ての苦しみから解放されることを学びました。長い時間をかけて愛すること、許すこと、無欲になること、執着をなくすことに取り組んできましたが、それは言葉を変えれば、「個人的なゴールを求める必要のない」意識状態になる試みだったのかもしれません。自分がどの程度、(OSHOの言葉を借りれば)その本質を究めた状態になれたか分かりませんが、すくなくとも自分の人生では苦痛は激減し、愛され守られている感覚はだいぶ保てるようになりました。OSHOが言った「個人的なゴール」というのは、エゴの自己主張というような意味だと思います。エゴというのは、分離幻想(わたしたちは皆バラバラ)を元にした、偽りの自己認識なので真実の自分ではありません。だから、どんなに立派な「個人的なゴール」を達成したとしても、それだけでは何をしてもしなくても私は絶対的に愛され、守られているというあの平安は得られないのです。その平安はエゴを落とした人のみが感じられる無条件で永遠の絶対的な愛です。「何かを達成しなければならない」という強迫観念それと縁を切るために、私は長い間「目標」や「夢」などをもつことをやめていました。ただ宇宙を信頼して身を委ねて、起きることをあるがままに受け入れるという努力をしていました。そして、その努力が実ったのか、いつの間にか自分の人生から苦痛が消え、問題も起きなくなり、人に何かを期待する必要性もなくなった時期に、さらに意識が大きく変化するきっかけとなってくれたのは「ジョセフ・マーフィー」の本です。彼は、エゴの自己主張ではない「個人的なゴール」を決め、それをリラックスしてただ在る事でそのゴールにたどり着く(現実化する)ことが可能だと教えてくれたのです。この考えは私にとっては衝撃的でした。自分の中でようやく三次元と四次元が統合された感じです。それまでは、この世(三次元)とあの世(四次元)はどちらか一方にしかいられない相反する世界だったのですが、マーフィーとの出会いによって、両方の世界で同時にうまくやっていく方法が見つかったと感動ました。このつづきはまた次回書きます。
2005.05.17
楽天的昔は、そんな人たちをとても羨ましいと思っていました。でも私はそういう性格ではないので、一生無理だろうとも思っていました。それでも、少しでもそうなれたらいいなと。何時も笑っている人悩みのなさそうに見える人人に好かれる人性格も外見も美しい人何かあるとすぐに人に心配してもらえる人異性と気楽に話ができる人何かを頑張れる人特に中高校生くらいの年齢のときは、そういう人が本当に羨ましかった。だって、私は全部あてはまらない人だったから。少なくともそう自覚してました。人間関係は私にとっては本当にいつも頭痛の種で、苦痛の元でした。楽天的になるなんて、どうやったらなれるか想像もつきませんでした。今、私は自他共に認める楽天家なので、昔の自分は、今の自分を羨んだり、憧れていたということです。時間は存在しないので、あえて、現在形で書くと、楽天家でない自分は、楽天家の自分に憧れています。何故かというと、楽天家である方が、より本当の自分に近いから。それならそこへと続く道が必ずあるのです。そしてその道は、すでに憧れている状態になっている自分が知っています。だからその自分にどうしたらいいか聞けば教えてくれます。これは、トリックや言葉遊びではなく、本当にそのままの真実です。私は中高生の時には、まだスピリチュアルな情報には触れていなかったので、自分の性格や自己イメージがそんなに簡単に変えることができるなんてとても信じられませんでした。でも、今は人間というのはいかに簡単にその自己イメージを変化させることができるか、ずいぶん信じられるようになってきました。今よりもっともっと楽天的な自分が別の世界に存在しています。その別世界(別次元)の自分に、どうしたらあなたのようになれるか聞いてみます。その答えは、私の心の中にこだまのように聞こえてきます。「楽天的って何?それは、どういう意味のことば?天を楽しむってこと?ああ、天なる生き方を楽しむということね。つまり、天なる生き方とは、真実の自分をあるがままに生きるってことだよ。それ以外の生き方なんて、一体どうやったら出来るか私には想像もできないけどね。私だけでなく、この世界の人全てはそれ以外の生き方などする人はいないよ。だから「楽天的」なんて言葉自体存在しないんだ。でも一瞬でも、真実の自分らしく生きるのをやめたら、そうでない生き方を選んだとしたら、一瞬にして心の中もその投影として起きる外側の世界も地獄になってしまうだろうね。えっ、何だって、あなたがいる世界ではそういう人だらけだって?!ひやー、信じられない、そんな状態でよく生き続けられるね。よっぽどあなたの世界の人たちは忍耐力があるんだね。えっ、忍耐力があるんじゃなくって、絶望感によるウツ状態によって何かを変化させる気力さえ無くなってしまっているの?しかも、実際に生き続けることができなくなって、予定より早めに地上での人生を終わらせて霊界に戻ってしまう人が後を絶たないんだって?うわー、一体、あなたはそこで何を学ぶために、そんなところに居続けているの?そうか、そこから今の私がいる世界へ移動する方法を学んでいるの?じゃあ、早くおいでよ。今の私たちと、今のあなたたちが違うところを見つけて、私たちのやり方を見習って同じように考え、選択して行動すればいい。例えば、私たちは何か直感でやりたくなったことがあったら全く躊躇しないで行動に移す。それをやらないでいる選択肢など思いつかないからね。あなたたちは躊躇するのが普通?どうして?それをしたからって上手くいく保障などないし、今以上に幸福になるとは限らないだって?本当にそんな風に考えているの?直感でやりたくなったことをやらないというのが、最悪の選択肢、つまり最も物事が上手くいかないし、幸福感も感じられない選択肢だと、そんな当たり前のことも分かってないの?私たちの世界では、幼稚園児だってあたりまえに知っているよ。えっ、あなたたちの世界でも幼稚園児はよく分かっているの?(笑)じゃあ、だれが「躊躇ぐせ」をもっているの?成長するにつれてだって?それは肉体的にってことだよね。どうやらあなたの世界では、肉体的成長と、精神的(霊的)成長が全く伴っていないみたいだね。じゃあ、自分の行動ひとつひとつをチェックして、私たちの世界の幼稚園児のレベルから学び始めるつもりで基礎から取り組まないといけないね。どこが今のあなたと、今の私が違っているのか。大丈夫だよ。私たちは、心で質問されれば、必ずあなたの心に答えを返すよ。だって、あなたたちは、つまり、私たちなんだもの。家族以上の、双子以上のつながりがあるんだ。そんな存在を大切にしないわけないでしょ。ただ、あなたから質問したり求めないといけないよ。私たちは勝手にあなたに意見してそれを強要するつもりなど全くないし、そんな無意味なことする人なんてこの世界ではだれもいないんだから。いつでも話しかけて利用してくれたらいい。心から喜んで応えるよ。じゃまたね。」というのが、今回の質問の答えでした。別次元(未来)の自分さん、おつきあいくださって有難う。これからもどんどん質問するので、沢山教えてくださいね。うーんと、今日のテーマはなんだっけ?どうしたら楽天的になれるか?それは、すでに楽天的な状態になってる「未来のあなた」に「あなた」自身が聞いてくださいね。
2005.05.13
自分の意識が「私の世界」で起きることがらを決めるということが分かってから、自分の取り入れる情報について、今まで以上に気を配っています。今入ってきた情報は、「愛か恐怖」どちらに焦点を合わせたものなのか?出来る限り愛を元にしたエネルギー(情報、思考、感情)を取り入れようとしているけど、そのことを意識して生活すると、TVというのがいかにネガティブなエネルギーを発しているのか分かります。私は両親と住んでいるのですが、両親ともTV大好きで、しかも四六時中TVを大音量で(年齢のために耳が遠いので)かけています。でも、その内容がドラマの「殺人事件」だったり「世界の悲劇」だったり、ネガティブなこと(解釈)しか流さないニュース番組だったりするので、嫌でも私の部屋にまでその恐怖と絶望に満ちた感情エネルギーが音として侵入してきます。TVというのはなんというネガティブエネルギー製造機なんでしょ。きっとそうではない番組もあるのでしょうが、あまり出会えません。実は、私は自分がチャンネルを選ぶとなると、つい幼児番組を選択してしまうのです。不思議なことに、幼児番組はかなりポジティブで愛と思いやりや希望に満ちています。なのに、どうして大人向けの番組になるにつれて、怖れと絶望の入り混じった観点で創られたものが増えてしまうんでしょ。このギャップは凄いですよね。私の部屋にはTVは置いていないこともあって、私はあまりTVを観ないのです。それ以外にやることがあるので、TVを観ていたら、夜、寝る時間がなくなってしまいます。そのTVとの縁の薄さと、私の地球の今後の進化への楽観的な展望とはきっと関連性があると思います。私はこれからの地球の行く末について、全くネガティブには考えていなくて、夢と希望しか感じていません。素晴らしい世界への幕開けに立ち会っているという感覚で生きています。でも人と話しをしていると、そんな風に楽観的に考えている人はかなり稀らしく、よく驚かれます。(あるいは世間知らずで無知なだけだと思われている場合も多々あるでしょう。)私の周囲がそういう人ばかりなのか、それとも全体的に社会にそういう傾向があるのか???ふと思い出すと、ハワイの人たちは日本のようにこんな悲観的ではなかった気がします。今の日本がそういうネガティブな状態に惹きつけられてしまっている人が多いのかもしれません。これは、TV番組の質と一日のTV鑑賞時間の長さにもきっと原因があります。実際、ハワイ在中の日本人たちから、日本での生活にストレスが強い原因のひとつは「情報過多」「情報公害」だろうと何度か聞きました。なんで自分がこう楽観的でいられるのか、どうして他の人たちはそれほど悲観的でいられるのか?人と話していると、その感覚の違いに驚き、そして逆に興味をそそられることがよくあります。なので、このことについてしばらく書いてみようと思います。そういえば、私もスピリチュアルなことに目覚める前は、TVのドキュメンタリーなどで悲観的、絶望的、危機的な状況の情報を取り入れ、その中にいる人々と一緒に苦しむことやそれに対して怒りを感じることが世界をよい方向に向ける大切な手段だと思っていました。自分が意識したものが強調され、現実化するという霊的法則からするとその起きて欲しくないという状況を再創造するエネルギーを発しているということをしていた訳ですが。。。それじゃあ、無視して知らん振りを決め込み、事なかれ主義で生きれば世界は良くなるのか。という反論が出てきそうですが、それもまた違います。物事は、ただ因果の法則にのっとって正確無比に物質化したエネルギーで、それ自体、ポジティブもネガティブもないのです。でも、それを怖れをもとにした観点で解釈すると、その解釈をした人の中でネガティブなエネルギーが生み出され、愛と信頼をもとにした観点で解釈すると、同じものを見ても、その解釈をした人の中でポジティブなエネルギーが生みだされるというだけです。つまり環境は単に自分を映し出す鏡なのです。事なかれ主義というのは、その人はすでにその状況を怖れていて、自分の中にネガティブなエネルギーが生み出されてしまっているのに、愛と信頼による観点をもつ努力を捨ててしまい、ネガティブエネルギーが増大している事実などないと言う。感性を鈍くすることで自分に嘘をつく、あるいは自分に嘘をつき続けられる環境を無理やり創るということです。すでにネガティブなエネルギーを生み出してしまっているなら、その事実を受け入れ、直面することから始めないといけません。自分が認識できないものは、取り組むことができないからです。状況や環境はあくまで中立です。それを解釈する人のなかで様々な種類のエネルギーが反応として生み出される(鏡として自分の姿が映し出される)のです。解釈するというのは、その人の「信念」「世界観」のなかでどのように見えるか確認するということです。
2005.05.10
「エンリケ・バリオスの魔法の学校」をもう一度、繰り返して読んでいる最中です。この本は「平行宇宙」について書かれていますが、この概念は前から気になっていました。宇宙はひとつではなく、同時に無限の宇宙が同時並行で存在していて、私たちは意識を変えることによってそれらの無限にある宇宙を常に移動している。というような考え方だと私の中で理解しています。(私自身、それほど正確な理解ができてるとは思っていませんが)「時間は存在しない。」私たちが時間と認識しているのは微妙な次元の差。過去、現在、未来と呼ばれる宇宙は全て「この瞬間」に存在している。ということは、私自身、なんとなく理解し始めていました。時間が存在しないとなると、この瞬間という「永遠」にいくつもの宇宙が同時並行で存在しているということです。自分の意識の状態が、毎瞬、どの平行宇宙に移動するかを決めています。自分が変れば世界が変るというのをよく聞きますが、それは自分が変れば違う宇宙に私たちが移動するので世界が変ったように見えるのです。その他、この本をきっかけに、いろんなことを思い出しました。意識が広がり、より高次の真実を知ると、ウキウキできるのかと思っていましたが、実は今、自分のエゴによる幻想が消し飛んで、一時的なショック状態に陥っています。ひやー、自分は何て無知だったのだろう。なんて大きな思い違いをしていたんだろう。私は自分がこんなにも意識レベルが低かったなんて知らなかったよ。なんてとんでもなく凄いことを思い出してしまったんだろう。これから、どうしよう。どうしよう。どうしよう。。。と、明らかに動揺しております。(笑)いや本当は笑い事ではないショック状態なのですが、こんなときほど笑うしかありません。自分が思い出した真実に慣れるにはもう少し時間が必要です。自分が思い出したというのは、この本に書いてあることそのものなのですが、今までとは全く違うレベルでここに書かれていたことが不意に理解できたようなのです。今までの自己認識が根底から覆ってしまいました。でも、今の私は楽天日記のような、いろんな人に向けた言葉としてとても書くことができません。言葉で表現することはあまりに難しく感じます。改めて、この本を書いた、エンリケ・バリオスさん、めちゃくちゃ凄い人だと思いました。こんなに深い真実を、こんなにも平易な文章でしかも面白い読み物にもできてしまうなんて。。。。いつか自分自身も、この意識に慣れるはずです。そして人に役立つ形で言葉が出るようになってからまたこのことについて書こうと思います。
2005.05.07
「エンリケ・バリオスの魔法の学校」エンリケ・バリオス (著), さいとう ひろみ (翻訳), 徳間書店昨日からこの本を読み始めて、今日読み終えたのですが、これ、私にとってはスゴイ内容でした。マーフィー以来の衝撃を受けました。今までのワンネスの感覚は、「私はあなた、あなたは私」という一体感のようなものでしたが、この本を読んでから、今までの一体感とは全く違う次元での「ワンネス」の感覚を得ました。「私がこの世界を創造している」という感覚、つまり「私」と「あなた」という区別自体存在しない。全ては「私」であり「私」以外のものはこの世界に存在していないという感覚です。この本を読んで、いきなり意識が飛躍してしまったようで、あまりの変化に戦慄を覚えています。確か前にもこういう意識になったことはあったのですが、あまりにその時点での通常意識とかけ離れていたので、その拡大された意識を長い時間保つことができなくて、すぐ忘れてしまったような気がします。でも、今回は、その数年前の状態とは違うので、多分この感覚を保ってゆくことはできるでしょう。いや、是非保ちたいと思います。この本はそれほど難しいことは書いてありませんが、読む人の意識の状態によって、様々なことを理解させてくれる良書だと思います。どんな意識になったかということを言葉にするのは毎回とても難しく感じます。言語というのは内面的なことを表現するにはあまりに不十分なツールです。その感覚そのものを言語で説明することは、あまり意味のないことだと思います。それよりも、その意識状態になったことで、この三次元でどんな変化が起こせるようになったかということなら言語で充分表現できるし、理解してもらえるはずです。言語は三次元の出来事ならかなり詳細に伝えることができる便利なツールとなります。ここ数日は家の中にいたので、自覚できる環境の変化としては、我が家の猫達の私に対する態度が急に変ったように感じることくらいでしょうか(笑)猫という生き物はとてもエネルギーに敏感な生き物なので、私のエネルギーの変化をいち早く感じているのかもしれません。今まで以上に常に私の後を追いかけて、私の傍にいようとするのです。どんな意味があるのか分かりませんが、多分私のエネルギーの近くにいるのが心地良いのでしょう。今まで以上にお互いのコミュニケーションがスムーズになった感じもあります。明日、外に出たときに自分の目にどんな現象を目にすることになるのかとても楽しみです。この本は魔法使いになるための学校に入学し、そこで学ぶという設定ですが、ハリーポッターのような、ちょっとネガティブな怪物や出来事には出会いません。読み終えて、私はまさしく「魔法使い」に(少なくとも見習い程度には)なれた気がしています。これからは、その「魔法」の力をどんどん使えるようになる実践的訓練をしてゆくのみです。もちろん全ては「愛」のために
2005.05.02
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