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今日のカードは『 CONDITIONING 条件付け 』なんと意味深い・・・私たちは皆、条件付けの中で物事を判断して選択しているけど、もしこの条件付けがない状態で生きるとしたら一体どんなことになるんだろう?まず思い浮かぶのは過去の記憶や経験から自由にならないといけない。それからまだ経験をしていない未来の計画や期待と不安からも自由にならないといけない。期待と不安は同じコインの裏表だから、どちらか一方では存在できない。そうすると、「瞬間に生きる」というのがひとつの条件かな。自分の楽天日記を読み返してみると、2週間ほど前から何か大きな変化が来るような予感があって、それが何だか全く見当もつかないけど信じて待つしかないなという状態でした。ところがこの2,3日で急に動きたくなりました。この先に何が待っているのかは相変わらず全く分かりませんが、少なくとも今、自分が自分の為に何をすべきなのかが見えてきました。ただ「体験」すること。興味を感じたら、すぐに体験する。今まで自分が身につけてきた知識や観念を一旦脇において、不慣れな物事をどんどん体験してゆく。そういうことをする時期に来たのだろうと感じています。それは、とりもなおさず無自覚な「条件付け」から解放されてゆく方法なのかもしれません。体験中の自分の変化や詳細な出来事はまたおいおい、この楽天にUPしてゆきます。
2006.01.31
今日のカードは『 COMPROMISE 妥協 』妥協とは権力であれ、他者からの承認であれ、外側から何かを得る為に自分の内側の真実に背くこと一日の自分の言動でそういうことがなかったか振り返ってみました。ひとつ人との印象的なやりとりがあったのですが、人から提案されたことに対し私ははっきりとNOと言いました。それは自分の「正直でいたい」という気持ちを大切にしたかったからです。ありのままの正直な自分を表現できないような状況に自分を連れてゆきたくありません。妥協・妥協・妥協生きていくのに妥協することは不可欠なんでしょうか。大人になるというのは、妥協できるようになることなんでしょうか。「妥協」というのが「外側の何かを得る為に自分の真実に背く」ということならばそれは神でないものに依存していることが原因のひとつなのではないでしょうか。先日楽天でも書いたように、自分の外側にあるもの、他人やお金や権力や愛情や承認・・・・そういうものを手に入れたい、それで自分を満たしたい、安心を得たいと思ったらその時点で人生に「妥協」が入り込みます。「妥協」とは裏取引であり、相手に袖の下を渡すことであり、相手に期待することであり、相手をコントロールする為に渡す賄賂なのです。正当な取引、オープンな取引ではありません。多分この世で権力を握るにはこの「妥協」する能力はとても役にたつでしょう。正直に生きる=自分の真実(本心)に忠実に生きることは、私は何よりも大切だと思っています。というか、今ではそれ以外の生き方は不快感が強すぎて出来なくなってしまいました。それは、人によってはとても不器用で損な生き方だと評価されるでしょう。その通りだと思います。そういえば昔の私は、人からよく生き方が不器用だといわれていました。今は不器用と言うかぶっ飛んでいる人だから世間的に判断できる範囲外だと思われているかも。(笑)でも器用に妥協を使いこなせるような人は、自分の中の真実、自分の中の神と出会うのは難しいのです。妥協とは自分の中の真実=神と直面しないための巧妙なテクニックだからです。それはこの世での危険を避け、不誠実で不正直な人生を崩壊させないようにさせます。でも嘘だらけの人生は一度崩壊しないと、真実な生き方は始められないのです。
2006.01.25
今日のカードは『トラベリング』余計な苦労や計画は必要なく新しい出会いを受け止める気持ちがあればスムーズに変化が訪れるというような意味です。これも過去の何枚かのカードと似たようなメッセージを伝えてくれました。ただ信頼して平安な状態で時がくるのを待つように。。。なんとなく心がざわめく瞬間もあるのですが、最近受け取っているメッセージを思い出しては、すぐに不安を手放すようにしています。アマゾンで本を3冊注文しました。人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅―人が悲しみ・病気・不幸から学ぶものは? 新装版・人生は霊的巡礼の旅近藤 千雄 (著)迷える霊(スピリット)との対話―スピリチュアル・カウンセリングによる精神病治療の30年カール・A. ウィックランド (著), Carl A. Wickland (原著), 近藤 千雄 (翻訳)霊的人類史は夜明けを迎える―スピリチュアリズム誕生の系譜 霊と深く関わっている人類の歴史―。近藤 千雄 (著)近藤 千雄さんは、私が今まで多大な影響を受けて深い気づきを得た本の数々を翻訳されている方で、この人の関わっている本ならとにかく信頼できるし、私にはぴったりだろうと思い注文しました。最近、私の中に新しく生じてきた疑問にきっと答えてくれるのではないかと思います。本を読むのが楽しみです。
2006.01.24
今日のカードは『 AWARENESS 覚醒 』でした。行動という表層から覚醒というその中心へ、今、あなたのなかで成長している覚醒は、意識して「やること」の結果でもなく、また、何かを起こらせるために奮闘しなければならないということでもありません。新しい覚醒が目を開かせようとしてくれています。というようなことがそのカードの説明です。前回この日記を書いたときのカードは『忍耐』ただ信頼して起こることを待つようにという意味でした。2枚とも共通したメッセージだと感じました。私自身にはまだ大きな変化は起きていないと思っているのですが、この1週間ほどの間で身近な人に、ある日を境に人生が大転換するようなとても大きな変化が起きたのを見ています。次に私に一体、今何が起ころうとしているのか、あるいは起こり始めているのかまだ自覚的には理解できないのですが、今どう在るべきかはカードは教えてくれています。焦らずに静かに観察すること。そして信頼して待つこと。表面的なことに惑わされずに、内面的なことに意識を向けていること。無理やり行動を起こそうとしないこと。これから私に起こることに関係しているのかどうか分かりませんが、「よりパワフルで美しく叡智に満ちたエネルギーを受け取りたい、そしてチャネルとしてそれを地上に降ろしてゆきたい。」私の中でそういう欲求が徐々に強くなってきています。でもその為には、私自身がそれができるような準備が整っていなければなりませんよね。肉体的にも精神的にも霊的にも変化する必要があります。表面的な自我である「自分」では、何をどうしたら準備できるのか全く分かりませんが、その為に必要な準備は、魂によって周到になされているはずです。その準備の内容も導かれる方向も私が具体的に知る必要はありませんよね。だって魂が導く方向が真善美でないわけありませんから。昨年から急に運動をしたくなってダンスのレッスンに通い始めたのもその準備のひとつなのでしょう。それに昨年はずいぶん、関わる人々も変化しました。人間関係もシンプルになって、関わる人の数も減りました。どこへかはよく分からないのですが確かに導かれている感覚はあります。でも時に不安になることがないわけではありません。そんな時こそこのカードを信頼して大いなる流れに流されてゆこうと思います。一体どうなるかこれからの展開がとても楽しみです。それは私だけではなく、全ての人にもそれぞれ相応しい時期に起きる大転換でしょうから、やっぱり地球のお祭りっていう感じがします。(笑)
2006.01.23
今日は東京や横浜でも大雪が降りましたね。今冬初めての雪らしい雪でした。最近、いろんなことが周囲で起こっていて、具体的に言うと、人生や意識の大変革の時期を迎えている友人と関わることが多いです。仕事柄、毎日のように人生の転換期を迎えている方々とお話をしているのですが、友人関係でも同様に皆、変化しつつあります。人間関係というのは鏡なのだから、私自身が変化の時期にあるということかもしれませんが、私は過去の記憶の保持があまりできないせいか、毎瞬かなりの部分の記憶をリセットしてしまうので、過去と比較して変化したかどうかという見方ができないんですよね。(笑)記憶といえば、とても気になる映画を見つけました。「博士の愛した数式 」という映画です。主人公は事故で記憶が80分しかもたなくなってしまった元学者さん。私はさすがに80分以上はもつけど、なんだか妙に惹かれてしまうストーリーなんです。是非、近いうちに観にいきたいなと思っています。それから最近、OSHOタロットカードを利用して、メッセージを受け取るようにしています。自分の思いを言葉にしたいという欲求や気持ちを整理したいという欲求が少し出てきたのでしょう。カードの言葉はその言語化する作業をサポートしてくれます。今日のカードは「忍耐」これは、妊婦の状態に例えられていて、あとは月日が満ちるのを信頼して待つだけ。焦って何か事を起こさない忍耐が求められている。というような内容です。確かに自分から何か物事を起こそうという気は起きない時だけど、衝撃的な変化が起きて欲しいという願いは日に日に強まってきていて、かなり受動的に事が起きるのを待っている状態。それは、出産の時を待つ「妊婦」の心理状態に近いかもしれない。必ず時が満ちて事が始まる。。。それを「信頼して待つ」それが今の私に唯一必要なことなのかもしれないな。
2006.01.21
今日のカード『 THE BURDEN 重荷 』今日はこの愛用の「OSHOタロット」にテーマをもらって何か思いつくことを書いてみようと思います。最近、聞いて急に驚くようになった言葉があります。「親に孫の顔を見せてあげたいから早く結婚したい」あるいは「結婚したのは親に孫の顔を見せて安心させてあげたいという思いもあったから」多分、多くの日本人のとっては当たり前の感覚なのでしょうから、こういう言葉はカウンセリングの最中では四六時中耳にしていたし、それに対して今まで特別に反応することもなかったのですが、先日、プライベートな友人との会話の中で相手からこの言葉が出てきて、何故かその時に限ってとても驚いてしまいました。その人はそんなことを考えていないという思い込みがあったのかもしれません。これは「人の期待に応えることで相手の役に立ちたい」ということの思いやりのひとつの形だとは思うのですが、私にはそういう発想があまりというか、多分ほとんどないのです。それは一体どうしてなんだろうと考えてみたのですが、よく考えたら20歳頃までは、「両親を幸せにする為だけに自分の人生はある」と本気で思っていて、その生き方が早々と崩壊してしまったためにある時点からそういう考え方を捨ててしまったようです。そうそう、そうでした。「両親を幸せにする為だけに自分の人生はある」という、その人生観が崩壊してしまった原因が、『 THE BURDEN 重荷 』です。私は20歳前には人(特に両親)の期待に応えて生きる重荷に耐えられなくなってきて、高校時代あたりから徐々に自分が壊れはじめている感覚がありました。心の深いところでこのままいくと非常にマズイことになると気づいていたので、そこから抜け出す道を見つけ出して脱出行動を始めました。表面的にみれば、親のいうことを素直に聞いて従っていたいい子ちゃんが、突然反抗期にはいって、言うことを全くきかなくなってしまったのです。それを見て、両親は私がまさしく人格崩壊してしまったのだとパニックになりました。ある面、世間ではよくある、心理的な親離れ・子離れの状況です。依存的な関係が壊れ始めて、子供あるいは親の方が自立しはじめるということです。それは、他人との関係でも依存関係をつくるか自立した関係を創れるかということと繋がってきます。ちょっと遅い思春期に始まった私の親離れの葛藤は30代半ばに終了し、それ以降は両親とは結構仲の良い関係になりました。と、自分だけが思っているのかもしれませんが・・・というのは、相変わらず両親の私への期待や要望は変わらず、それに応えない私に対しては四六時中文句を言っていますから。(笑)でも私は馬耳東風で感情ひとつ動かないので笑って聞き流してしまいます。20代に親離れしてゆく過程で、親代わりになってくれる対象を見つけてそのグループやその人に依存するということは沢山やってきましたし、今でも自分が結構依存的だわと思うこともあります。(笑)でも、依存と言うのは基本的には苦痛をうみだします。それはまさしく人の期待に応えざるを得ない心理状態になってしまうし、自分の本音と人の期待が一致しなくなれば、つまりは『 THE BURDEN 重荷 』を背負うことになります。それで私は、依存は依存でも、重荷を感じずにすむ依存対象を見つけてゆきました。それが人や物や地位・名誉というようなこの世のものではなく、神「人智を超えた大いなるもの」に依存するという方法です。それ以外に楽になる方法がなかったんですけどね。この世のものは全て不確実で不安定で変化していて、いつ消えてなくなるかも分かりません。そういうものの永続性に期待し、頼りにしたところで、決して本当の平安や喜びは得られません。だからいつでもどこでも、どんな状況であっても常に変わらず安心感と喜びを与え続けてくれる存在との関係を強くしていったのだと思います。実際は、自覚してそうしたというより、依存したい気持ちや相手に対する期待が裏切られるたびに傷ついて、その傷を癒すために神に助けを求めざるを得なくて導かれていったという感じです。神や宇宙への信頼、信仰が強くなるに従い、人間的な苦しみはどんどん減っていきました。絶対的な力が自分を守り導いてくれているという感覚は、徐々に自分の生きること全般に対する不安を消し去ってくれました。だから物事や人に執着しなくなるし、起こるがままにすべての状況を肯定的に受け取ることができるようになります。それが本当の意味での「自立」ではないかと思うのですが、「自立」してしまうと、彼もできなくなるし、結婚もできなくなってしまうのではないですかと聞かれることがあります。それは「自立」=「人に期待しなくなる」=「人間関係を必要としなくなる」というつながりでとらえているのだろうと思います。でも「自立」というのは、目の前の人や状況というようなツールに執着しなくなるということで、誰も何も必要としなくなるあるいは誰かにサポートしてもらう必要がなくなるというのとは違うんじゃないかな。何かが欲しいと思うと、それを与えてくれる人や状況との出会いができる。でもその出会いは宇宙が今の私にとって最善だと判断して与えてくれたもので、そうでなくなればそれを取り去り、また新たにその時に最善なものを与えてくれる。その時、その人がパートナーシップを通じて学び、成長する必要があればその機会を与えられるだろうし、そうでなければ与えられないだろうし。だと言っても、すべては神の采配で決まるんだから、私が何をしてもしなくても関係ないってことでもないんですけどね。神への依存というのも言葉だけで理解してしまうとちょっと誤解する可能性もあります。「自立」というのは、自我と神(宇宙あるいは魂)との共同創造関係が上手くいっている状態という風にも表現できるかな。だから何かとの関係性に『 THE BURDEN 重荷 』を感じているならば、その共同創造の意識を取り戻すことによって重荷とは感じなくなったり、不必要な関係を切ることができるようになるのではないでしょうか。逆に一見とても依存的な関係に見えたとしても、お互いそれに『 THE BURDEN 重荷 』を感じていないで、助け合えたり関わりあえる喜びの方が大きいときはそのままそれを味わって楽しめばよいと思う。赤ちゃんと子育て中のお母さんというのはまさにそういう関係ですよね。自分が感じる感覚というのは、自分の生き方や考え方を見直したり確認するための大切なサインなので、自分が何に『 THE BURDEN 重荷 』を感じているのか、正直に見つめてみることは誰にとっても素晴らしい気づきと成長の機会になると思います。
2006.01.16
ちと最近、風邪をひいてしまい無理しない生活を心がけています。「風邪などひいたことない」っていう人羨ましいけど、私は無理するとすぐ風邪ひいてしまいます。私の「無理」っていうのは、遊び過ぎというか動き過ぎってことなんですけど。。。最近、新しい本を買ってときどき読んでいます。「オープニング・トゥ・チャネル―あなたの内なるガイドとつながる方法」サネヤ ロウマン (著), デュエン パッカー (著), 中村 知子 (翻訳)発行 ナチュラルスピリット自分の今やっていることの自己確認と、チャネリングの新たな可能性を探ってます。分かりやすい本なので、チャネリングに興味のある方にはお勧めです。私のワクワクするイメージは、サネヤやデュエンのように、高次元の存在からの情報を得てそれを言葉にして表現してゆくこと。今、私がやっている「スピリチュアル・カウンセリング」も、より高次元と繋がる通路を広げるための練習になっていると思います。でも何かこれから先に起こってくることは今とはかなり違う何か・・・のような気がして。それがどう違うのか言葉にするのはまだ出来ないのだけど、きっと私には私にしかできない役割ややり方があるはずなので、魂に導いてもらうことにしています。導きに従うというのは、毎瞬もっとも自分がやりたいことを喜びをもって実現するということだから、私自身が先々の細かい計画を知る必要はないのよね。私はいつも宇宙(魂)にお任せしてます。今年もますますびっくりするような出来事が次々起きてきそうで楽しみです。地球のお祭りにあわせてお祝いしたい気分。。。楽天的過ぎかしらん?
2006.01.15
多分誰にもそう見えないだろうと思いますが、私、最近ウツ気味です。(笑)もともと私はウツ気質なので時々なります。だけど、一方でもともと社交性があるので人にはそう思われることはめったになくて、もしかしたら私がウツ状態のときには、普通の人と同じ程度の社交性になっている状態なのかもしれません。前はウツになると相当苦しんでいたのですが、今はウツでも別に苦しくはありません。多分自分のありのままを受け入れてしまっているからでしょう。でも、なんか壊れてるなっていう自覚はあります。(笑)例えば物事がなかなか決められないとか、ちょっと前のことをすっかり忘れてしまう記憶の断絶があるとか、いつも周りに申し訳ないなと感じてしまうので、勝手に気を使いすぎてしまうとか。。。大雑把にいうと外側に向かってゆくエネルギーの欠如という感じです。外の世界に対する自己主張のエネルギーの欠如ですね。でも逆に内側に向かうエネルギーは増えていて、内向的に自省的になっている感じです。何かひとつのことに集中するには、雑念がわかなくていい感じがします。ウツって何か治さなきゃいけない症状みたいに思われていますが、長年この時々訪れる精神状態と付き合ってきた私としては、別に避けたり忌むべきものでもないなと思っています。人は変化の前には自然と内省的に内向的になるものです。力を貯めるというか、心の大掃除というか、そういう必要性を知らない間に感じていて、自然と心が内側に向かうのではないかと思っています。自己主張して何か外側のものを得ることだけが価値があるという考えに多くの人が同意しているこの社会の中だからウツはやっかいもののように思われてしまっているのでしょう。ウツは人が何か芸術作品を生み出そうとしている時、つまり創造的なエネルギーの中に没頭している時の状態にある面似ています。その状態を否定的に見たり、どうにか抜け出そうともがかずにありのままを受け入れ出てくる感情や思いをちょっと他人事みたいに観察することが出来たら、多くのことを学べるし、いろんな余分なものを落とすことができると思います。重度のウツ症状はまた別の理由と目的があるのかもしれませんが、少なくとも軽度の一時的なウツは、色んな景色を見せてくれます。より人のことが見えたり、理解できたりもします。ということで、しばらく流れのままにこの内向的な状態でいようと思います。
2006.01.04
元旦から大掃除を始めました。一応、一般的なお決まりとしては年末までに終わらせるのが良しとされていますが、相変わらずそういうお決まりとは関係なく生きてしまっているので、正月あけてからようやく掃除をする気持ちになったのです。2日の今日、ずっとずっと気になっていた写真の整理に手をつけました。最近はあまり写真を撮りませんし、デジカメの時代になったので保存もほとんど場所をとりませんが、10年ほど前のある時期、よく旅行も行っていたのでかなりの量の写真を撮っていて、その数はゆうに千枚を超えています。いや、数千枚か??だけど、今となっては殆どそれらの写真を見返すことはないし、これからもそうだと思います。なので、アルバムに整理してある膨大な枚数の写真を本当に残したいものだけ残して、それ以外は全て整理することにしました。どの写真をみても、いろんな記憶がよびさまされます。。。写真の整理はなかなかエネルギーのいる作業です。ほとんどの写真は自分が幸せに微笑んでいるものばかりです。もちろん、そんな時期でなければあえて写真で残しておこうとは思わないでしょうから当然かもしれません。でもその頃サポートしてくれていた彼や多くの人たちに心から感謝の思いがわきあがってきました。その一方で、当時の自分にとってはとても辛い経験をする直前の写真や、あまり思い出したくない記憶を呼び覚ます写真もいくつかありました。それでも前にくらべれば、「痛み」というより「苦笑」程度の反応ですからほとんど傷は癒えてる感じです。ああ、まだこんな風に感じている記憶もあるのだなと再確認したうえで、その写真はすぐには捨てないでもう少しとっておくことにしました。それらの写真をその時の記憶を忘れるために捨てるのはなんか違うような気がしたのです。心から感謝しおわって、納得できて、あまり感情が動かなくなったら手放そうと思いました。それは明日かもしれないし、1年後かもしれない。今日は私の人生に何か大きな変化が起きそうな予感がした一日でした。
2006.01.02
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2006年、今年は一体どんな年になるのでしょうか。最近は余りに予想外の出来事が起きるので、目標や方向性でさえも、あまり明確には決められなくなってしまいました。ただ、日々流れに身を任せて、その瞬間自分が最善だと信じる道を選んでゆきたいと思っています。その瞬間、思うことを言葉にして話すということには何も問題はないのですが、それを文章して書くという作業には、相変わらず非常に困難を感じています。なので、多分楽天日記はこれからもあまり書けない可能性が大きいですが、過去のプログが残っているので、それが少しでも人の役にたてればと願っています。スピリチュアル・カウンセラーとしての仕事とは関係ないですが、今、一番楽しみにしている自分のプロジェクトは歌の「ソロ リサイタル」開催です。といっても、経験も浅いので、まずは練習がてら非公開で何度か「ソロ リサイタル」練習をやってみて少し自信がついたら、ちょっとづつ友人に声をかけてみようかなと考えています。と言いつつあまりに楽しみなのですでに、ずいぶんいろんな人に宣伝してまわってしまいました。(笑)自分の伝えたい何かを、心を込めて歌うことで誰かの心に届けたい。そういうことがとても楽しく、そして今最もやりたい大切なことのひとつだと感じるのです。それは目標というようなものではなく、生きることそのもの、在り方そのもの、気がついたらそういう形の自己表現になってたという感じです。これからは言葉ではなく日々練習を積み重ねることで表現をしてゆきたいと思います。
2006.01.01
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