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私は夜更かしの朝寝坊なので、なかなか朝の清清しさを味わえないのですが、今日は珍しく6時前に目が覚めて、PC起動して楽天HPを見ました。で、なんとなく他の人のHPものぞいてみたくなって、私のHPに訪問してくださった方やリンクを張ってくださっている方の日記を読ませていただきました。そうしたら、様々な個性の花がどこも咲き乱れてて、かなりびっくり!(笑)こんなにも多くの人たちがエネルギッシュにポジティブに自分の人生を生きていたのかぁ。だけど、私は身近な楽天仲間のことさえまるで知らずにいたようです。自分はつくづく世間知らずだわと思い知りました。(笑)すごい世の中です。素晴らしい!そういう衝撃を受けた後、振り返ってびっくりしてしまった自分のことを考えました。私はこの数年、多分スピリチュアル・カウンセラーという仕事を始めてから横とのつながりというのが、どんどんなくなっていったんですよね。横というのは、いわゆる「友人」との関係です。人的ネットワーク。数年前までは山ほどの友人との付き合いがあり、仕事でもないのに毎日楽しみで違う人と会うためにスケジュールを調整するのが大変だったようなときもあったので、多分、私はもともとかなり社交的な性格だと思うのですが、この仕事を始めてから、どんどん社交的ではなくなっていった感じです。一般的?には、何か事を成すことが、その人の幸福につながり、そのためには人間的魅力を高め、人的ネットワークを広げてゆくことこそが必要だ!という考えがあるのではと思うのですが、私は全く逆方向に進んでしまった感じですねー。この変化の理由は自分で分かっています。これは、誤解をされてしまいそうな言葉なのですが、「友人」との付き合いを欲しなくなってしまったのです。スピリチュアル・カウンセラーという仕事を通じてこの4年近くの期間でとても内面的に変化をしたことは確かです。どうも、4年前にサラリーマンを辞めて、スピリチュアルな仕事を始めることで目に見えない某霊界学校に入学した感じがします。そしてその学校には未だに在籍しているのですが、そこでの生活は寮生活で、その学校外の世界とはあまり行き来ができないみたいなのです。唯一関わりがもてる外の世界の人は、私の授業の基礎科目であるスピリチュアル・カウンセリングを受けに来てくれるクライエントの方。つまり学校へ訪問者です。世間的な見方をすれば、私にとっての「趣味」にみえる、ダンスや歌というのは、私の感覚だと、その学校の選択科目のひとつです。決して気晴らしとか趣味という感じではなく、もう少し真剣に取り組む必要性を感じていて、そうしないと、及第点がとれないし結果、卒業もできない感じです。でも自分の魂が望んで入った霊界学校なので、どんな授業も刺激的だし、真剣に取り組みたいし、とても学びがいがあります。この霊界学校は、基本的には個人指導みたいです。そう思うのは、周囲に一緒のことを学んでいるクラスメートが見当たらないんですよね。ダンスはグループレッスンですが、この霊界学校の人はいないようです。私は今、霊界学校で学ぶことが生活のすべてで、世俗について関心をもつ必要性がないような感じです。お寺でもなんでも集中的な霊的修行するときには、やっぱり世俗と縁を切りますよね。それと似たような感じでしょうか。私に分かることなんてわずかなことですが、多分、霊的な成長段階のある時期、学びに集中するためには、それ以外の世界や事柄と隔離される必要があるのかもしれません。私は、霊界から見たら優等生って訳ではないでしょうけど、今のところそれなりに頑張って落ちこぼれないで学び続けているのではと思います。そう願います。(笑)今の私にとっては、大いなる存在と、私たちのもともとの住処である霊界と、私を指導してくださっている指導霊の方々との密接な関係を保つために、それ以外との関係がシャットダウンされるような環境が必要なのかもしれません。「学び」という言葉は、なにかストイックで「忍耐」するというような響きがあって嫌いという人もいるでしょうけど、私は「学ぶ」という言葉自体も、その行為自体も大好きで、学びの結果「成長」することこそが私が最もワクワクすることでもあるので、学べる環境にいて、「学び」を導いてくださっている先輩方がいるということが、本当に感謝で、本当に嬉しく思います。地上界で交友関係をもって、親しく関わっている人というのは、ほんの数人という感じですが、とても有難い存在です。この霊界学校、卒業する頃にはどういう感覚や観念や信頼を身につけられるんでしょうかね。自分に合ったいい学校で学ばせてもらって嬉しいです。
2006.03.30
今日はなんだかいつもよりのんびりしていました。太陽の光が降り注ぐと、嬉しくて晴れやかな気分になります。こういう日は特別に幸せだなあと感じます。我が家の猫たちの可愛い姿を目にするだけで、この子たちとの出会いに本当に感謝です。(笑)そして毎日、カウンセリングという形で様々な人のお話を伺うことができるのは、私にとって本当に恵みだなあと思います。ところで、先日ヒーリングを受けたときに、感情の浄化というのもしていただいたのですが、ヒーラーさんから言われて気になった言葉に、あなたは怒りのエネルギーを溜め込んでいたようです。それが癒されたことで表情もとても柔らかくなった。過去に自分のことを人に理解してもらえなかった怒りがあるので、自分の感情を人に伝えることが苦手で、外に表現できない感情が身体にたまってしまう。というようなことでした。まあ、確かに感情を溜め込みやすいので、ウツになりやすい気質はあるけど、今は、なにかに怒ってるわけではないし、過去のそういう感情が残ってても無理はないかなと。。。でも、身近な人に聞いてみたら、その人は、今でもふと私が怒っているのではと感じることがある、怒りそのものというより、「怒りたい感情を我慢して抑えている」と感じることが時々あると言われました。ひえー。そうだったのか。確かに言いたいことを我慢するってことは、家族のような身近な人に対して全くないわけではないけど、相手は想像以上にそれを感じて怒っていると認識していたってことかしら。(笑)でももしそれが本当なら感情を単に溜め込むというのはあまり良くないだろうなと思い自覚症状はなくても、本当にはストレスとして感じているものがあるかもしれないと、ここしばらく心の中を探していました。感情を溜め込むということ、誰にでもよくありますよね。処理が追いつかない宿題がたまってゆく感じに似てます。その処理の方法も人それぞれですが、歌ったり踊ったり、その他の芸術活動は生の感情を相手にそのままぶつけるということの代わりに、それらの行為の中に自分を没頭させてゆくことで、思いを昇華させて、(少なくとも私にとっては)「普遍的な美しさ」にしてゆく試みなのだろうと思います。私本当は今、怒ってる?怒ってない?と妙に怒りに対して敏感になってる自分も、ちょっと可笑しい(笑)どんな感情も自分の子供のようなものなので、大切に認めて扱って世話をしてあげないとと思います。
2006.03.27
桜がぽちぽちと咲いてきましたね。これから桜並木が少しずつ華やかになってゆくのが楽しみです。昨日は、ある方の「ヒーリング」を受けました。本格的なヒーリングの個人セッションは初めて受けた気がします。受けてから何がどう変化したのか・・・実のところよく分からないのです。(笑)だけど、できる限り変化を自覚しようと自分の観察をしている最中です。このことをきっかけに、今まで考えたことのないようなことを考えています。自分についての新しい視点を与えられたのかもしれません。今日のカードは 「PLAYFULNESS 遊びに満ちる」でした。ヒーリングとは癒し過去と現在のネガティブで苦痛な感情と直面する必要がある場合もあるけど、でも一番楽に癒される道は遊びに満ちることだという気がします。避けたい何かから逃げるための、躁的な興奮ではなく、魂が本当に求める歓びの体験を選択する。でもそのためには、通過しなければならない大変さもあります。沢山の練習とか芸術的産みの苦しみとか。本当に意義を感じることをやることは何よりも刺激的な遊びです。私は人生という素晴らしい愛と可能性の海の中で充分に遊んでいるだろうか?もっと遊べるのならもっともっと大胆に可能性を広げてゆこう。そんなことを思っています。
2006.03.25
春らしくなってきましたね。桜の開花が待ち遠しいです。ここしばらく、人の他界について考える機会が何度か訪れました。「死」といのは「他界」他の世界に行くということなのですよね。私たちの生命をこの短い地上界の滞在だけの間だと思ってしまうと、そこから様々な誤解と苦しみが生まれてしまいます。私たちの心の中から心配や悩みや苦しみや悲しみを消すことができるのは、決して外側にあるものではありません。霊的な真理を知ることで輝く「内側の光」以外にないのです。でもそれは頭脳で理解できるものではなく、霊的直感による、「ただ分かる」というような感覚。無理のない純粋な「人智を超えた何か」に対する信頼とそれを切実に求める気持ち。沢山の要らないものを手放して、もっとシンプルに、繊細に、歓びに満ちた生活、平安と共にある心を意識してゆこうと今日は、改めてそんなことを思ったりしています。
2006.03.23
最近は、言葉が出てこないというより、書きたいけど日記を書く時間がつくれないという感じです。しばらく書きたい衝動がほとんど起こらなかったのですから、私の中で何かが変化しつつあるようです。ここしばらく、人からヒーリングエネルギーを受け取るという体験をしています。ヒーラーとして有名な小林さんとか、レイキとか今までそういうヒーリングのエネルギーを体験する機会はあったのですが、私はそういうものにとても鈍感らしく、なんだかほとんど感じることがなかったのです。それで、そういうものって私にとっては興味の範囲外でした。でも、友人がそういうヒーリングエネルギーに興味をもって私もよく送ってもらうようになってから、なんとなく感じるようになりました。どうやら私の場合、個人的な信頼関係や親しみがないとあまり効果ないみたいです。(笑)「信頼」というのは何よりも大切で、イエスが様々な奇跡を行えたのも、受け取る側にイエスに対する「信頼」があったからだと思います。あるいはそれは「崇拝」だったのでしょうか?「信頼」というのと「崇拝」というのは、言葉のニュアンスが違いますよね。強烈に、盲目的に誰かを信じて、そして自分よりその相手が価値がある、力をもっている、特別な存在だと思うことが「崇拝」するということだと思っています。これは自分の経験から学んだことでもあり、自分のもともとの性格の影響もあるのですが、私は人を「崇拝」するということがありません。少なくとも今は誰も崇拝していません。でも「尊敬」はします。とても沢山の人(あるいは猫や犬やほとんど全ての存在を)「尊敬」し、また「敬愛」もしているのですが、誰もが自分と同じ魂という意味では価値において全く対等だと思っています。なのでどんなものに対してであっても、本来対等なものであるものに対して、「崇拝」するというのは、危険な精神状態だという認識が私の中にあるのです。自分の力をその「崇拝」する対象に盲目的に預けてしまうことだからです。たとえ「神」というような究極的な存在に対する「崇拝」であっても、盲目的信仰という言葉と繋がってしまいそうで、やはり危険な気がします。根本的に私たちの「神」に対する認識はかなり歪んでいるだろうと思うからです。でも、なんと言うか「崇拝」している人の方が「奇跡」と思うことを体験したりします。私から見たら、その人の「思い込みの強さ」による自己暗示の結果と見えるのですが、本人は、その人が特別な力をもつ人で、そのお陰で「奇跡」が起きたと思っているのです。私はやっぱりそういう認識にも、とても危険な匂いを感じるのです。なので、特別な人がやる特別なヒーリングとか、特別な人にしか授けられない秘儀だとか、そういう特別性、優越性を匂わせるものはそれだけで、はなから距離を置いてしまいます。でも、私はそういうものを散々見聞きして体験して来た結果そういう感覚になってしまったわけで、今、何かを崇拝したい人たちを批判する思いは毛頭ありません。それでも今の私はこう考えています。「この世界にいや、宇宙に特別なものなんてありません。隠されているものなんてのもありません。隠されているんじゃなくて、私たちの理解力が及ばないから理解できないだけのことです。だから特別なものを探しまわろうとするのではなく、ごく当たり前に出会っている事柄の中にふんだんに溢れている真理と神秘を理解するための自分の霊的な理解力、認識力を高めることだけが大切なこと」ヒーリングの話からずれてしまいましたが、ある人たちにとって「特別」な先生や「特別」な方法であっても、自分にとってはそれほど「特別」な感覚がなければ、その結果も私には「特別」な効果をもたらさないものです。ヒーリングを習いたてのつたないその技術や能力で精一杯送ってくれるその友人のエネルギーは結構感じることができるし、効果もある気がします。それは、信頼関係や互いを思いやる気持ちとかそういうものがベースにあるからだと思います。そういう個人的な関係は私にとっては何より価値のあるものだと思っているので、このエネルギーは私にとっては「特別」に感じます。私は、会ったこともない高名な大学病院の先生より、近所の昔馴染みの町医者の方を信頼するたちってことですね。(笑)全ての人にとって「特別」なんてものはあるのでしょうか?人それぞれ、必要性も学びの段階も違うのですから「特別」と感じるものも違うんですよね。
2006.03.19
月曜日はベリーダンスの発表会でした。ダンスとしては初舞台でした。徐々に気持ちも身体も落ち着いてきたけど、とても刺激的な体験で楽しかったです。また是非出たいと思います。2月28日の歌の演奏会、3月13日のダンス発表会の2つの山場を越えて、今の時期、ちょうど台風の目の中にはいってしまったような感じ。疲れたので今、休養中。この1年で様々なことをやってきたのですが、最近は、徐々に余分なものを落としたくなっていて、生活がシンプルになりつつあります。より興味の出てきたもの、急に興味を失ってきた事柄がはっきり分かれてきて、余分なことには一切エネルギーを使いたくないというか、本当に価値を感じて欲求を感じることに集約してつかいたいと思い始めました。多分これは、私だけではなく多くの人も同じように感じ始めているのではと直感的に感じています。自分が今、何をすべきかをスピリチュアルなカードを使って尋ねてみたら、「内側のガイダンスに耳を傾けて、信頼して従いなさい」「古いものを手放し、新しいものを受け入れる準備をしなさい」という2つのメッセージを受け取りました。もう、自分で何かを成し遂げようとか達成しようとか、そういう次元で我を張ってはいけないという段階なのだと分かってはいるのですが、でも、頑張らないと何かいい結果がでないのではという今までの観念に囚われてしまって、どうも休養して気力の充実を待つ今の状況が居心地悪いです。本当は動きたいのに、充電が終了してないって感じですね。(笑)私の生活はとにかく「義務として何もしなくていい」時間が多いのです。人はそれを羨ましいと思うかもしれませんが、多分ほとんどの人はそういう状況になれば、何もする義務がないことに対して焦りを感じて何でもいいから考えたり行動して、責任を背負い込むことや心配することで気を紛らわそうとしてしまうのではと思います。「何もしなくていい」時間というのは、「自己責任の自由選択」時間が沢山あるということです。もうちょっとしたら、状況も気持ちも霧が晴れるようにすっきりするかなと思います。それまでのんびり休養して待ちます。
2006.03.16
2月7日のプログに「精神病とどう関わるのか?」というテーマでそのときに考えていること、感じていることを書きました。1ヶ月経った今、憑依や未熟な霊(低級霊)の存在や影響について前よりずっと身近なものと感じています。ところが、彼らを身近に感じれば感じる程逆に、未熟な霊(低級霊)と関わることは自分の役目ではなく、私は、より高い霊界と関わることだけに意識を集中してゆくのが自分のすべきことなのだろうと感じるようになりました。でも低級霊に影響を受けて苦しんでいる人々のサポートに無関心になるのかというと、そういうことではないのです。それは、そういう苦しむ人たちを「身近でサポートできる人たち」を私がサポートする。つまり、直接ではなく間接的に働きかけられるのではないかと思っています。霊界でも進化が進むと、人間と直接的にはコミュニケーションできなくなります。波長やエネルギーが違いすぎるからです。影響を与える、サポートするというのは、成長のレベルがあまり離れすぎていないほうが上手くできるのです。ギャップがありすぎる場合は、両方のことがある程度理解できる中継役の人にコミュニケーションの橋渡しをしてもらう必要があります。低級霊(未熟な霊)に関わって立派な霊的な社会貢献、活動をされている人々の本もいくつか読んでみましたが、読み終わって感じるのは、とてもよく理解はできるけれど、同じようには出来ない、そこまでの興味がもてない、私のやりたいこととは違うなということです。私は、自分の霊的な成長に取り組むことでより高い霊的エネルギー(や真理)を受け取れるようになりたいのです。つまり高級霊と人間との中継ぎ役、そういう霊媒(ミディアム)になりたいのです。受け取った高いエネルギーはまだ霊的に目覚めていない人には異質すぎて、恐怖を感じてしまうので、とても受け入れることができません。それをそのまま、彼らに伝えてもまるでチンプンカンプンでしょう。でも、人間界にいて高低両方のエネルギーを理解できる人が間にはいれば、彼らが様々な人に理解できるような形に変換して、より多くの人々に伝えてゆくことができます。それはよく電圧を下げることに例えられます。大きなエネルギーを大自然から受け取る人、それを人々が日常の生活に利用できるように電圧を下げることができる人、電球のように明るく日常生活を照らす役目をする人、など、いろいろです。私自身いままで、電圧を下げてより多くの人がこの情報を受け取れるようにしたいと思ってきましたが、どうやら配置換えになったようです。私は今度はエネルギーを受け取ることだけに意識を集中したくなりました。「適材適所」私が全ての役割をする必要はないし、誰でもそうです。最も自分が得意としていて、そして強い欲求を感じることをすればいいのです。そうはっきり理解して納得できるようになったら、ずいぶん気分が軽くなりました。自分が心の底から使命感や強い欲求を感じる方向に向かって安心して突き進んでゆきたいと思います。
2006.03.11
今日は、太陽暦での自分の誕生日。毎年、自分で自分のお祝いをするのが好きで、自分へのプレゼント買ったり、一人で旅行へ行ったりして過ごすこともあります。今年の最高のプレゼントは2日前の「ソロ・リサイタル」(練習発表会)を開催したことかな。出来はどうであれ、本当に(恥ずかしながら 歌手としての)最初の一歩を踏み出せた感じがするし、もちろん、一生(永遠に)忘れられない強烈な感情を味わった体験でした。いやーでも、大変だったわ。(汗)自分が精神的なダメージを受けるのが怖くて、2日たった今になっても発表会の時の録音をきけずにいます。聴いてしっかり現実を確認して次の練習の参考にしないといけないんですが・・・死ぬ覚悟で聴かなきゃところで昨日、親しい友人と会って、歌やダンスの発表会の話をしてたら、「ちっとも楽しそうではないし、修行してる感じで見てて辛くなる」と言われました。なるほどーーー。彼女にはそう見えるかぁ。もっともかもしれない。(笑)スピリチュアリズムでよく言われる「明るく楽しくワクワクすることだけに熱中してゆくと全ては宇宙の波にのって上手くいくし、霊的な成長もスムーズにしてゆく」という考え方。特に「バシャール」という宇宙存在が「ワクワク」という言葉を広めてくれて、私もどんなにその考え方に救われたかもしれないと思う。「バシャール」に出会ったころは、何が「ワクワク」するんだか皆目見当もつかなかったし、この先、いろんなことが上手くいくんだかどうだか不安だらけで心配だらけの状態だったから、余計にその楽天的な人生観(観念)に惹きつけられました。今から十年以上も前の話になる。今の自分はその頃の自分と比較してどう変化したのだろうと思うと、自分が「やりたくないことをやる」という状況が一切起きなくなった、または選択することがなくなった。自分が何をやりたいのか、何に意味と意義を感じるのかがはっきりと明確になった。自分の人生について、現在と未来に関することで何かを心配するということが殆どなくなった。という変化が起きている気がする。「ワクワク」することを選択するというのは、過去の自分にとっては努力目標であり、理想であり、意識的な行為だったけど、今の自分にとっては、「ワクワク」というのはほとんど意識することのないもので、それは、諦めちゃったということでないのなら、当たり前にできるようになったからそれを選択することは無意識化して身についてしまっているんじゃないかと思う。でも、ある一部の人から見て、それはちっとも「ワクワク」を選択しているように見えないのはどうしてなのかしら、面白いですよね。「ワクワク」することを選択できるかどうかの大きな要件は、どれだけ「怖れ」を感じることなく動けるかということかもしれません。子供は無知だから「怖れ」を感じることなく何かを選択できるので、常に「ワクワク」しているように見えますよね。だけど、大人になるにつれてそうは行かなくなる。周囲の大人たちに感化されて「怖れ」を感じるようになるから。すると単純に選択できていた「ワクワク」を「怖れ」から選択できなくなってゆきます。そのうち「ワクワク」の感情さえ忘れてしまうように・・・だから「ワクワク」を感じること、それを選択してゆくことは、自分の感情、感覚、本質に繋がるための大切な入り口となり、同時に後天的に学んで身につけた「怖れる」ことを手放してゆくための学びを提供してくれるんだと思う。でもそれは、生きなおす為に、一旦自分の状態をゼロにするというか子供のときの感性を取り戻すのにとても有効な道ではあるけど、本来、大人はずっと子供のままではない。それは大人が毎日、ブランコや滑り台や砂遊びをすることだけで満足することができないということを考えれば、幼児の「ワクワク」と精神的に成長した大人の「ワクワク」は質が異なるんじゃないかな。私は、人間の最大の「ワクワク」というのは、自分のライフワーク(それはお役目、使命と言ってもいいし、この地上人生の自分なりの目的)を知り、それに向かって小さな一歩であっても確実に、終わりのない完成を目指して歩み続けているその実感ではないかと思う。その場限りの出会いや出来事を通じて、つまり外側の出来事との出会いによって嬉しい、楽しい、すっきりする、癒される、感動するというのは、花火みたいなもので、時に味わうのも大切な人生の喜びのひとつだけど、それだけでは、多分飽きてしまうし、80年の人生は長すぎる。私たちの永遠なる生命の流れの中で、今この時点で納得して理解できる最大限の「使命、役割、意義」そういうものが明確になれば人はそれだけで内側から「ワクワク」が溢れてくる。しかも、そのことの為なら、大抵の苦痛や苦難なども嫌だとは思わないし、かえって乗り越えたときの喜びを強める不可欠のスパイスだと分かるので、逆に苦難を求めることさえしてしまう。それは「ワクワク」することだけやればよいという、その言葉だけを文字通り信じたい状態だった私には決して理解できないし、受け入れられないことだったと思う。すべてのことには段階がある。ひとつの段階を乗り越えれば、次の段階。。。常に導かれるし、私たちが道に迷うことなどありえない。もちろん、どの段階にいるから価値があるとかないとかそういうものであるはずもない。だけど、霊的に成長すればするほど、より精妙で深い「ワクワク」感と出会えることは確かだろうと思う。今の自分にとってはとても受け入れられない考えや観念も、いつか当たり前のように納得できるときがくるんだろうな。成長の階段を昇っていくというのは、実に「ワクワク」する不思議体験だと思う。
2006.03.02
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