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昨日はテノールの真木くんにお誘いを受けて天王寺動物園で本番でした。天王寺。。。。大阪の最も大阪らしい場所。なにわ、のど真ん中。神戸育ちのわたしにとってこの場所は、いつも神戸の新開地と印象が重なります。。その天王寺動物園の中のレクチャールームでの子供対象のコンサート。ソプラノは北爪かおりさん、アルトは船元素子さん、で、テノールが真木喜規くん、バスがわたし。今年は「国際カエル年」とのこと。動物園で開かれていた「カエルの学校」の締めくくりのイベントだそうです。かえるのうた、かえるの笛、蛙の夜まわりなどなどカエルに因んだ歌を六曲。テノールの真木くんが全てアカペラにアレンジした。歌い心地も良く、良い編曲でした。若い後輩たちと一緒の本番、先輩たちとの本番には無い緊張感もあり、逆に気が抜けない面もあるし、なかなか良いもんです。。(気、、抜けてたかな?)楽しく本番を終え、シロクマのフェイスタオル、カエルのバッジ、動物のプリクラ、、お土産を一杯貰って、、動物園を見て回って帰りました。通天閣が、お寺が、高速道路が、隣のビルが、工事現場のクレーンが見える天王寺の動物園。シロクマのスポンサーは関西人ならみんな知ってるあの551の蓬莱だそうです。で、名前がゴーゴくん。。何か良いです。とても。帰りの駅で何故か無性に立ち食いうどんが食べたくなりました。他ではあるのでしょうか。。「ねぎうどん」。。やはり、、バックで流れる演歌のなんと似合うこと、、ああ、天王寺。なかなか味のある一日となりました。スタッフの皆さんもありがとうございました。また、こんな仕事あったら下さい。今度は是非、遠足の用意もしっかりして行きますから。。【くつろぐ】
September 29, 2008
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アイルランド音楽に惹かれ始めたのは今から15年程前の事。チーフテンズとヴァンモリソンのCDの出会ったのが最初。ジャケットの写真、、アランセーターに身を包んだ男の持つ楽器。コネフの歌うゲール語の歌。モリソンの歌声、楽器の音色、毎日聴いていた。。私はアイルランドの女性に民謡を教えてもらい、心斎橋のIrish Pub"Murphy's"を知る。そこで様々な出会いがもたらされ、かつて修士演奏で取り組んだドイツリート、Carl Loeweのエッセンスのひとつが此処にこそあった、、という事を漸く知る。しかし、何よりも私の心を掴んで離さなかったのは、唱歌や童謡、といった子供の頃から慣れ親しんで来た日本の歌。これらが、明治期よりも過去の人たちとは、共有出来無い、、西洋の歴史や文化、言葉も共有出来無い、、そういうもどかしさを埋めてくれるものがあったから、、、、かもしれない。「辿り着いた。」という言葉もぴったりかもしれない。。そして、W.B.イエイツの言葉が全てを語ってくれている様に思う。『民俗芸術は最古にして高貴な知的所産であって、卑俗かつ偽善的なるものを退け、移ろい易く些細なもの、才気走った奇麗事に過ぎぬものを拒否する。幾世代にもわたって最も純粋にして忘れ難い思潮を集約してるがゆえに、民俗芸術はすべて偉大な芸術を根付かせてる土壌なのである。』「アイルランドの民話」Henry Glassie 編 大澤正佳、大澤薫 訳 より"The Celtic Twighlight"の一文である。"The Celtic Twighlight"は「ケルトの薄明」を邦題として、井村君江さん訳 ちくま文庫のものが入手出来る。以下、引用"The Celtic Twighlight"Folk art is, indeed, the oldest of the aristocracies of thought, and because it refuses what is passing and trivial, the merely clever and pretty, as certainly as the vulgar and insincere, and because it has gathered into itself the simplest and most unforgetable thoughts of the generations, it is the soil where all great art is rooted. Wherever it is spoken by the fireside, or sung by the roadside, or carved upon the lintel, appreciation of the arts that a single mind gives unity and design to, spreads quickly when its hour is come."The Celtic Twighlight"W.B.Yeats「ケルトの薄明」実際のところ、民俗芸能が、卑しいものや偽りのものに対するのと同様に、束の間のものや、些細なもの、単に賢いだけや、きれいなだけのものを、確かに拒んでいるからであり、またその世代の最も単純で、最も忘れ難い思いの中に集約されるもだからである。それは偉大な芸術がすべて根を張る土壌なのだ。炉端で物語られ、道ばたで歌われ、横木に刻み込まれていようと、その時が来れば、一つの心が調和を与え、形造った芸術の評価は速やかに広がっていくものなのである。「ケルトの薄明」W.B.イエイツ、井村君江 訳 ちくま文庫(1993)より【くつろぐ】
September 29, 2008
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今、大阪コーラルソサエティの練習でルネサンスの作曲家の"Ave Maria"をいくつか練習しています。この合唱団はその昔、Palestrinaの"Papae Marcelli"の本邦初演も果たしている、創立から80年以上経つ歴史ある合唱団なのです。が、近年は長井斉先生の築かれた伝統が絶えた為なのか、、率直に申し上げると、ルネサンスのアカペラが上手くはありません。まだ、Palestrina,Victoriaなどは上手く行く方です。しかし、Josquinがどうにもならない。。Palestrina,Victoriaは演奏上の歴史で見ても古楽(Eary Music)と呼ばれる演奏が盛んに行われる以前、所謂「モダン」な演奏が盛んであった時代も、「モダン」の合唱団によっても歌い続けられて来た音楽です。(今、敢えて便宜上古楽とモダンを区別する。)ルネサンスは。。普通の「ドレミファソラシド」や、普通の五線譜を使う音譜、、これらが基礎になっている音楽ではありません。新しい魂を用意する必要があります。少なくとも私の身の回りの殆どの音楽大学では、これらの音楽の実際生きた演奏を学ぶ事が出来ません。音楽史や楽理といった「お勉強」するもの、、と限定してしまい、演奏として取り入れていません。良い演奏を聴いてみて下さい。自ら仲間と声を合わせて歌ってみて下さい。決して小難しい音楽等ではありません。「オタク」たちだけの物になってしまう様な小賢しい音楽等ではあり得ません。一般的に普及している「音楽の基礎」は無いけれど、、ただ、純粋に楽しんでいるアマチュアの人たちの方がプロの声楽家よりもよっぽど上手に歌えてしまう、というケースも決して少なくはありません。小難しくも、オタクでもありません。ちょっと、違った次元の基礎が必要なだけです。新しい魂を用意すれば良いんです。大阪コーラルのJosquin、私もメンバーも諦めてませんので、、暖かく見守っていて下さい。"Miserere nobis"ブリーゲン先生の自筆メモあと、もう一つ、、これまで学んだ「基礎」本当に出来てますか?【くつろぐ】
September 20, 2008
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お茶、お菓子、お酒、、、って凄く大事だな、、そう思います。勿論、そんなものが無くても互いに向き合えて、一つの事に取り組める。それが、本質である事は間違いないです。また、それに超した事はありません。だって、経済的ですから。中年になってくると、尿酸値、血糖値、中性脂肪、、色々と気を使わねば行けませんし。。。でも、美味しくて奇麗なお菓子を食べて、、ほっこりした所で練習を始めると、かなりシビアな指摘でも、苛つかずに言えるんですよね。また、言われる場合も素直に聞けたりします。。で、練習で率直な指摘をしたりされたり、、結構ハードなバトルになったとしても、後でお酒を飲むと、、誤魔化す訳じゃないですけど、上下左右、関係無く、接する事が出来ます。まぁ、、少なくとも私は完璧な人格者ではありませんので。。お菓子、お酒は欲しいです。そしてその場の空気を作れる人は偉いです。お茶も飲めない。お菓子も食べれない。(「食べられない」が正しい日本語ですが、、、)そんな空気は何か苦しい。。この件に関して異論がある人が居る、、という事も承知しております。「心のドーピング」「邪道」かも知れません。でも、まぁ、今日あった練習も含め、ここ何度かの練習で、ある時はケーキがあって、ある時はお酒が飲めて、良かった事は事実なのですから。。でも、内科検診、、行っとこ。。ほろ酔い加減にて記す、、、おやすみなさい。【くつろぐ】
September 18, 2008
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Relay for life Japan 2008 in ASHIYAに行ってきました。アイルランド音楽の仲間が久しぶりに歌いませんか、と私に声をかけてくれて初めてこのイベント「リレーフォーライフ」の事を知りました。仲間の友人の女性が癌と共に生きて8年だそうで、このイベントにもご本人がスタッフとして積極的に参加されていました。また、誰しも癌で倒れない、、という保証はどこにも無いのです。でも、大きく発症してしまったら、、私自身の人生において、癌という病は実に大きなウエイトを占めています。1995年のあの地震の渦中に居て、地獄絵図さながらの光景を目の当たりにしながらも、年を追う毎に私の中ではやはり癌という病、その病と共に過ごした日々が大きな存在であった事に気付かされるのです。昨年、十一月、三木市に居る母の主治医を30年ぶりに訪ねました。神戸中央市民病院で母の主治医であった方です。よく考えてみれば私は母の正確な病名を知らないまま居ました。昨年二月に亡くなった父に、一昨年その事を訊ねたところ、「良くわからないが、確か主治医のI先生が三木市に居る。」とだけ教えてくれました。何故か、ただ、病名が知りたかったのです。先生には直接お会い出来ませんでしたが、後で大変丁寧なファックスを頂きました。"Ossifying fibroma"と呼ばれる病で、報告例も少ない珍しい病気らしいです。日本語では「骨形生成骨繊維腫」「化骨性繊維腫」ほか多くの名前で呼ばれていて、未だにその本態は不明、、とのこと。医者でもない私が長らく本当の病名を知らなかったのも全く無理の無い事だったのでした。。その先生の30数年のキャリアの中でも私の母以外に一例だけ報告を見た記憶がある、、との事でした。そして「今泉雅子様は小生の『忘れ得ぬ』患者様の一人です。」ともありました。その一件で私の中で何かがやっと収束した様に感じました。そして、今回偶然にも”Relay for life Japan”の中に、この人たちの中にただ身を置くことが出来ただけでも良かったです。「神の時は全て良き時」そう思います。死ぬまで生きましょうね。
September 15, 2008
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元神戸市長宮崎辰雄さんの本、「神戸を創る」(1993)には、「六甲のドライブウェイは戦争準備として日本軍が造った軍用道路であった。」という内容の記述が載っている。郷土史の史料の中で米軍通信基地の話が載っている本は極僅かで、それ以外の本やガイドブック、地図にも記載は無い。昭和三十一年の週刊朝日7月15日号の六甲山の特集に、記者の門田勲さんの記事として以下の一文のみ見つかった。「六甲の頂上の一部は、いまも米軍が電探基地として使っている。」毎日新聞の「六甲山系」(1963)には写真のページが豊富にある。頂上からの眺望の写真はあるが、頂上そのものの写真は無い。頂上の説明文には「マイクロウェーヴの鉄塔」と最初にあり、「戦後は米軍のマイクロウェーヴが建てられて、とても千メートル近い山の頂上とは思えない姿だ。」と、あった。この六甲米軍基地の存在を知ってから、地元に長く住む年配の方何人もに幾度も基地の事を訊ねた。殆どの人は知らなかった。1992年に通信技術の変化に伴い必要性が無くなり撤去された。これは新聞記事で知った。無くなる段になって漸く報道メディアが取り上げた。という印象だった。横須賀と沖縄を中継していた通信基地らしい。1992年に通信技術の変化に伴い必要性が無くなり撤去された。つまり、この基地が担っていた機能自体が日本から消えた訳ではない。1953年に終息した朝鮮戦争でも活躍したのだろうか。ベトナム戦争(1959~1975)の時には大きく活躍していた。という話は何処で読んだ記憶だろうか?撤去当時の新聞記事だった様に思うが、、。この通信基地の存在を知ったとき、自分の生きている足下が、歴史の流れとしっかりと繋がっている、そう感じた事をはっきりと未だに覚えている。まだ山慣れていない格好が恥ずかしいが、米軍基地の前に立っているのは二十数年前の私。看板部分のアップ。
September 13, 2008
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私の山登り歴はかなり遅く、28歳から山歩きを始めた。ふるさとの山である六甲を皮切りに、南北アルプス、八ヶ岳、大峰、四国、屋久島、、といくつか国内の山を登った。初めて六甲山の最高峰に辿り着いたとき、驚いたのは、わが街の背山として親しんで来た六甲。その最高地点が米軍の占有地だった事だった。いや、もっと驚いたのはその事をその時まで全く知らないまま、二十数年間も神戸と芦屋で暮らし続けていた事の方だった。パラボラアンテナの存在は知っていたし、ハイキングガイドの写真にも載っていた。手前のアンテナはNTTのもの。奥のパラボラが米軍基地だがその記述は無い。赤松滋著「六甲山」<ワンデルングガイド-2>(1984)より「阪急ハイキング」(1992)より大西雄一著「六甲山ハイキング」第四版(1984)より「通信アンテナ」という記述程度はどこかで見た事があった。が、写真にはその姿は写っていても、どのガイドブックにも記述は無いし、地図にも「米軍」または「基地」という文言は一切出て来ない。子供の頃から、第二次大戦の話は周りの大人たちから何度と無く良く聞かされていたし、学校でも確かに何度も学んだ記憶がある。でも、六甲山の頂上が米軍基地である事を何故今まで知らなかったのだろう?「あそこにアンテナがある。」街からはっきりと誰でも目視可能な存在なのに、、これだけ誰でも知り得る現実なのに、何故、こんなに認知度が低いのか?初めて見た時の率直な疑問だった。情報操作の意図が存在している、という風にしか受け止められなかった。住民感情を刺激しないための、、これまた、率直な印象でしか無かった。改めて郷土史の史料を見てみた。
September 13, 2008
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食品偽装表示の問題に続き事故米転売問題。ああ、またか、という反応と同時に、こんな事も出来るのか、という反応になってしまう程次から次へとな人を裏切る行為が表に出て来る。しかも、ほんの極身近な所で、そんな事はあり得まい。。。そう当たり前の様に思っていたからこそ、見えぬが故に見えぬ人を信頼し、見えぬ人に身を委ねていたその場所で。。でも、今の現代都市型社会の生活の中、全てを把握し、理解し、見えぬ人たちの善行の上でのみ私は生きている。。そう言い切れる人が果たして居るのだろうか。その昔、私達の祖先が自然に身を委ねた様に、神の御技に身を委ねた様に、私達人間自身が作り出したシステムに身を委ねている。「安く上げる。」「コストを抑える。」この事の裏に何があるのか。私達はどれほどその理由を知っているだろう。全ては知らないが、その一つ。日本で誰もが気軽に購入出来る安い外材。家、家具、様々な木工製品が外材で作られ製品として売られている。 以下、以前速水亨さんという方のお話を聞いた時のその内容を僕が記憶している範囲での話しだが、原生林を切って売れば立派な木材を使った製品に仕上がる。ただ、切って売っているだけである。間伐などはしない。全部伐採してしまう。後に苗木など植えない。人件費も安い場所の上に、これだと経費は遥かに安く押さえる事が出来る。切りっぱなしの放ったらかしだから安いのはあたりまえの話しである。アラスカ、アフリカ、シベリア、、と原生林を切っては売り、切っては売り、、そう、文字通りの原生林の切り売りが今現在行われている。地球温暖化は二酸化炭素の排出の問題だけではない。酸素を生む森を育てていない。それどころか、どんどん減らして行っている。今も、この瞬間も。確実に減少の一途を辿っているらしい。同時に都市型社会に属さない現地の人たちの暮らしは直接的に蝕まれている。しかし、このビジネスは法に抵触はしていない。国内材は高級品の様にイメージしてしまう。日本は人件費も高い。日本の森は荒れ放題。木だけではない。イカ漁のニュースも身にしみたばかり、、全て善行に基づいた製品や商品のみを手に入れ、都市型社会で生き抜くには大金持ちで無ければ無理なのだろうか。その利益を得るには、、、スパイラルが続く、、
September 11, 2008
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"Bigot"ビゴー、フランス人の名字。特に長く芦屋に住んでいたので、パン屋さんのビゴーには馴染みがあった。ご主人のビゴーさんも良く店や町でお見かけした。もう一人の有名なビゴーさん。画家のジョルジュ・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860~1927)。先日の寺島実郎さんの文化講演会は実はまだまだ続きがあって、その中で「日本は戦後長らく、中国の存在を忘れていられた。」という行があった。この講演会は数年前の古いものなので、今、現実に中国は私達の住む社会にとって大きな存在になっているように思う。この講演の録音を聞きながらジョルジュ・ビゴーの絵を思い出していた。明治維新以降、列強のお膳立ての上で得た一等国というプライド。第二次大戦後、列強の事情の狭間で列強によって与えられた高度成長のチャンス。一等国と煽てられていたニッポン。日本の背中を押している英国はこの前にはアヘン戦争を引き起こしていて、その流れとこの絵は決して無関係では無いどころか、非常に直接的な関係なのだなぁ、と思いつつ最近ビゴーの画集をちょくちょく見ていた。狭間で想像を絶するほど先達が苦しみもがいた事は想像に難く無い。しかし、真の事情は一般に届いていたのだろうか。敢えて「届けなかった。」というのが歴史の狭間での事情だと思う。とすれば、幸せなニッポン人。平和ボケニッポン。海外の町中や人の中にいて初めて自分の中に存在するニッポン人に気付く瞬間。こういった現実もこの辺りの歴史にも根があると感じる。「西洋音楽」を歌っていると、その音楽と私の関係そのものの中にこの絵の中にあるものと同質のものがある、と感じずにはいられない。越えねばならない技術のハードルは当然ある、しかし、文化のハードル(そう称して良いのか?)もある。音楽を生業とすればするほど痛烈に現実のものとして突き刺さってくる。さて、画家のビゴーは風刺画ばかりを描いていた訳でも無い。というのがこの画集を見れば良くわかる。日本の文化と人そのものには暖かい眼差しが注がれている。因に、もう一人のパン屋のビゴーさんが住む町、芦屋。その明治時代の浜辺の風景がこちら。私達の街、ハイカラな街。。。
September 9, 2008
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先日マッサンに久しぶりに行った。その帰路に阪神電車を使おうと地下鉄千日前線をチョイス。これまた随分と久しぶりに野田阪神へ出た。随分昔、この辺りの専門学校の音楽の授業を担当した事がある。その頃は何だか雑然とした街並みに思えたのだが、久しぶりに見る野田の街は意外にすっきりして見えた。街そのものが昔よりもすっきりしたのだろうか。それとも、僕の感覚が大阪の街に慣れて来たのだろうか。そんな事を思いながら駅のホームから街を眺めていると、道路標識が目に入った。「阿波座、、梅香、、神戸、、」大阪に阿波座があったことは昔から承知していた。でも、「梅香」は今まで知らなかった。へぇ~、「BAIKA」と読むんだ。。実は父方の祖母の名前が梅香である。我家の一族は阿波徳島出身なので、その道路標識を暫く眺めていた。祖母の名は梅香と書くが、普段は仮名書きが多く、「ムメカ」と書かれていた。。子供の頃「何で?何でこう書くの?」と良く母や祖母に僕は訊ねていた。さて、その翌日、ラジオで「ん」の話しをしていた。NHK放送文化研究所 主任研究員 柴田実さんのお話し。以前僕もブログに書いた事があったが「ん」という文字は一つだが、日本語を母語とする話者なら普通だれでも一般的に発音としては5~6種類発音し分けている、、というお話し。そこまでは既知のものであったが、「ん」の文字自体が新しい存在という事は意外だった。馬も「ムマ」梅も「ムメ」と表記されていた訳で、それぞれm-ma、m-meと発音されていたらしい。。いや、明治生まれの祖母は確かにそう発音していた。。そうそう、、思い出した。。つまり「ム」は今の「ん」の発音の中の一つに相当する。語頭の「ム」は"m"で母音は付いていなかった。納得すると同時にまた新たな疑問と新たな興味が、頭の中と胸の中で、また渦を巻き始めてしまったようだ。。追記)そう、、どなたか、阿波浄瑠璃を指南して頂ける方はいらっしゃいませんでしょうか?
September 8, 2008
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