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私の勤める小学校の子どもたちは、今休み時間になると皆外へ出てなわとびを始めます。来週になわとび大会があるので、その練習に一生懸命なのです。 毎日、休み時間の終わり頃になると何人か駆けてきて、「今日は2重跳びが30回出来たよ」「交差跳びが100回出来たよ」などと嬉しそうに報告に来ます。帰りの会で“今日のよかったこと、嬉しかったことの発表”という時間があるのですが、最近はほとんどなわとびの話題です。中には「私が初めて2重跳びが跳べたことをAちゃんがとても喜んでくれたので嬉しかったです」と発表する子などもいて、子どもたちの発表を聞くと私も嬉しくなります。 なわとびは練習すればするほど目に見えて上達します。その上達も回数が増える、できない技ができるようになるというわかりやすさがあり努力がかなり報われるので、子どもたちも意欲をもち続けることができます。そんなところが最大の魅力だと思います。もちろん体力もつきます。 大会に向けての目標も立てやすいので練習にも熱が入り、来週が楽しみです。
2005年01月31日
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主人の実家は歩いて5分くらいの所にあります。義父は家庭菜園が趣味でいろいろな野菜を作ってはもってきてくれます。無農薬で新鮮な野菜でありがたいです。 今日は義父の畑へ子どもたちと行って、一緒に野菜を収穫させてもらいました。いただいたのは、大根とかぶとブロッコリー。大根を抜く子どもたちは楽しそうでした。 家へ帰ってから、家の庭にじゃがいもの種いもを植えました。庭には今、ねぎしか植わっていなくて寂しそうです。でも、去年育てたノースポールの花の種が土に落ちていたようで芽がたくさん出てきました。まだまだ寒さは厳しいですがなんとなく春が近づいてきたような感じがして嬉しくなりました。 子どもたちが自分で抜いた大根はきっといつもより美味しく感じられたのではないかと思います。今日はぶりと一緒に煮込んだのですが「この大根はおいしいよね」としきりに言っていました。 息子の絵日記には(いちおうあれから今まで続いています。時々忘れますが・・)収穫したたくさんの野菜の絵と楽しそうな自分たちと義父の絵が描かれていました。
2005年01月30日
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「教育論」ならぬ「強育論」。算数塾を経営する著者は言っています。 成績のいい子が受かるわけではありません。 たくさん勉強した子が受かるわけではありません。 頭のいい子が受かるわけではありません。 強い子が受かるのです。 著者は自分のことを冷血先生と言います。生徒からの質問は禁止で、質問してきたとしても無視をします。やらない子を助けようとはしません。「やりたくないなら他の塾へ行け」などというだけです。そこで、自分で考えようとすることで伸びていきます。手取り足取り教えていれば、分からなくなったら質問すればいいという甘い考えで終わってしまい伸びることはないのだそうです。 そして、大切なことは考えること。“考えることで学力は身に付きます。学力とは、決してよい学校に入るための力ではありません。人が人として生きていくために必要不可欠の力で、それが身に付くのであれば、入試に合格するのは行きがけのお駄賃のようなもの”と言っています。手順暗記型の学習より試行錯誤型学習をすることが時間はかかるが学力は大きくつくのです。 宮本算数塾では、1回の授業で10問の問題を出すだけです。その問題を全問正解して帰る子は今までに一人もいないし、4分の3は1問も解けません。でも、大半の子が「今日も頭を使ったなあ」と充足感を感じ、その積み重ねが学力を伸ばすことになるそうです。 塾ならではのできることという面はありますが、なるほどと思わされる部分は多々あって勉強になりました。
2005年01月29日
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インフルエンザがだいぶ猛威をふるってきたようです。クラスでも4人が欠席しました。学校で全体では35人ほど休んでいます。先生方も3分の1がマスクをしているという状態です。私は元気ですが。 息子の通う保育園では、クラス25人中7人が休んだとのことです。そして、とうとう今日は息子がダウン。元気だったのですが、いつもより食欲がなかったので、熱を計ってみると38度6分でした。7時を過ぎていたので今日は病院に行けずじまい。明日はどうだろう。インフルエンザでなければいいけど・・。 自分の調子が悪いのであれば、多少無理をして仕事にも行くけれど(朝38度近くあっても、仕事へ行くとなぜか熱が下がるということが何回もあったのです)子どもが病気の時は休むしかないからなあ。休むとしたら6時間、何の学習をさせようか考えなくては・・。
2005年01月27日
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15日に土星の衛星タイタンに着陸した小型探査機「ホイヘンス」から撮影された画像の分析が少しずつ進んでいます。 1997年に地球から土星探査機「カッシーニ」が打ち上げられてから6年7ヶ月?かけて土星まで旅をし、小型探査機を切り離し着陸。地球から土星まで12億キロだとか。地球一周が約4万キロだからその3万倍?う~ん。その距離はどんなものか想像もつかないような数字だけれどその技術の高度さに感嘆します。 タイタンの大気や地表の組成は、生命が誕生する以前の太古の地球に類似しているようです。地球と地形なども似ているようで人知を超えた神秘さ不思議さを感じます。すごいなあ。 最近、仕事でも理科の授業で月や星の学習をしていることや、子どもたちと星座板や宇宙の本を少し眺めていることもあって普段ならそれほど気にしないこの話題に興味をもちました。いろいろと興味が広がるのは楽しいなあ。
2005年01月26日
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数年前に3年生の担任をしていた時のこと。テストの点数にとてもこだわるS君という子がいました。授業の中での学習の理解は早い方ではありませんでしたが、塾にも通い、家でもよく復讐などをしていたこともあり、算数のテストはいつも満点に近い点数でした。満点はなかなか取れないもののよく頑張っていると思うのですが、テストを返すと点数を見ていつもとても落ち込んでいます。時には点数が書いてあるところを握りしめその部分がぐちゃぐちゃになっていることもありました。 ある日の算数のテストでS君は98点でした。いつもS君の様子は気になっていたので、採点をしながらどんな問題でつまずいたのかは把握していました。その時はちょっとした計算ミスでした。 テストを返してみんなでまちがい直しをしている時にS君が「先生、この問題どうして×なの?」と聞きに来ました。テストの答えには正解が書いてあります。でも、採点をしたときにS君がどんな答えを書いていたか知っていた私はすぐにピンと来ました。「初めからこう書いてあったの?」と聞くと小さい声で「うん」と答えます。ちょうど授業が終わる時間だったので、休み時間にS君を隣の空き教室に連れて行って話をしました。「先生は、S君が〇〇という答えを書いていたのを見て×をつけたんだよ。1問か2問しか間違えていない人はどこで間違えたか先生はよく見るようにしているから・・。」と言うとうつむいて泣き出しました。いろいろと話を聞いていくと、「テストを見せるとお母さんが悲しそうな顔をする」という言葉が会話の中に出てきました。「100点取りなさい」などと言うことはないのだけれど、お母さんの表情が彼にとって無言のプレッシャーになっていたのだろうと思いました。 勉強に意欲をもたせることは大切だと思います。しかし、やり方を誤ってしまうと時としてそれは子どもを追いつめることになってしまいます。 個人懇談会が近くにあったので、事実を話すとお母さんも「そういうところがあったかも」と頷いておられました。聞くところによると、ご主人のご両親と同居されていて、その祖父母からの期待も大きいようです。孫の教育面にもいろいろと目をかけておられるようで、嫁としてしっかりやらなければという思いも大きかったようです。そんな雰囲気をS君も察していたのかもしれません。 どんな子にもいつか何かしら壁にぶつかるときが来ます。自分のためというより親など家族のために頑張ってきた子どもは、壁にぶつかった時に、初めて自分は何のために誰のために頑張ってきたのかを振り返ります。そこで、自分のために頑張るんだと気持ちを切り替えることが出来ればいいけれど、出来ないときにはそれを親のせいなどにして、「自分がこうなったのはお前達のせいだ」と暴れたり、引きこもったりすることが時としてあります。(もちろんそれだけが原因ではありません)いい子が陥りやすい落とし穴です。 子ども自身が自分のために勉強やその他さまざまなことに対して努力をするという気持ちをもたせることが大切だと思います。そして、責任転嫁をさせないよう、何かの道を選ぶときは親はアドバイスをするけれど、最後は自分で答えを出させ、責任をもたせるようにしないといけないと思います。
2005年01月25日
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職場に私よりも少し年上の人で、人に対して厳しい方がいます。若い人に対して(特に男の人に対して)厳しい言葉で考えを言います。言い方にキツさはあるものの言われてみればそうだなと納得する部分もあります。 どうして、あれほどいろいろなことが気になるのだろうと思った時期がありました。彼女がきつい言葉でいうのは、職員室だけでなく子どもたちの前でいうこともあったからということもあります。でも、彼女が厳しいのは、人に対してだけではなく自分に対してもとても厳しいのだと気がつきました。仕事はいつも早めに仕上げているし、身の回りの整理整頓もいつもきちんとしています。宴会になると盛り上げようとする役割も果たし、学級の子どもたちの指示もよく行き届き、細かいことまできちんとしています。いろいろなことがきちっとされているので、その分、自分から見た他の人の至らなさが目につくのだと思います。自分ができていなければ気がつかないということは多いと思います。例えば、物が散乱して片づいていない部屋を見たときに、自分の部屋も同じようで、気にしない人は、何とも感じないかもしれません。でも、部屋を片付けることがきちんと出来る人は、片づいていない部屋を見ると“どうして整頓することができないのだろう”と思うのかもしれません。そして、それは努力不足だと感じるのだと思います。 でも、子どもを育てることにおいてはさまざまなアプローチの仕方があるので、もちろん彼女のような方法も正しいと思いますが、他の方法もあってそれが悪いわけではないとも思います。そのあたりが難しい。陰でこそこそというのではなく、面と向かって言うというのはよいことだと思いますが。彼女が人に向かって言っているのを聞いて自分の襟を正している私です。 で、結局今私がしていることと言えば、若い女の子が言われていたら時々「自分の信念があっての行動だったら気にしなくてもいいと思うよ。気がつかなかったことならこれから気をつければいいだけのことだし。」などと声をかけるくらいです。(なんとなく男の子にはプライドがありそうで声をかけにくい・・)
2005年01月24日
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昨夜、息子がパソコンのお絵かきに夢中になり長いこと遊んでいました。「目が悪くなるから、遠くを見て目を休めないとだめだよ。今は夜だから星を見よう」と声を掛け、子どもたちと外へ出たけれど街灯の光でたくさんの星を見ることはできませんでした。折角なので少し車を走らせて人工の光が無いところまで行ってみることにしました。私が住んでいるところは、車で20分も走ればかなりの田舎でよく星が見えるのです。 冬はよく星が見える季節。山に上から見る星空には負けますが、多くの星を見ることができました。かなり寒かったけれど。 学生の頃は、一人暮らしをしていたので、よく同じ一人暮らしの友達と夜中に暖かいお茶やコーヒーを水筒に入れて星を見に行きました。山に上から見る空には明るさや色ががさまざまなたくさんの星が散りばめられ、時折流れ星を見ることができる幸福感に酔いしれていました。星を見ながら将来のことや恋愛のことなどいろいろなことを話したことを覚えています。青春の1ページだなあ。 昨日の夜空のことを思い出しながら、今日は家にあった宇宙の事典を子どもたちと一緒に見ました。息子は星のことに少し興味をもったようです。星座板を見ながら星座を探す気満々です。残念ながら今日は小雨が降っていて見ることができませんでしたが。 私も事典を見ながら宇宙の神秘に触れることができました。宇宙のことを思うと人間ってなんてちっぽけなんだろうと思います。ちょっと頭がトリップしたようななんだか不思議な感覚を味わいました。時には生活の中にある細かいことを忘れて広大なものに目を向けるのもいいなと思いました。
2005年01月23日
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新聞等で時々名前を目にする稲盛和夫氏。中小企業から世界的大企業京セラとKDDIにしただけあって理念がすばらしい。 心に残ったのが「利他」(世のため人の為に尽くす心)の精神。“家族のために働く、友人を助ける、親孝行をする・・そうしたつつましくささやかな利他の心が、やがて社会のため、国のため、世界のためといった大きな規模への利他へと地続きになっていく。ただし、利己と利他はいつも裏腹の関係にあることを気をつけなければならない。会社のため、家族のための行為には利他の心が含まれているが、「会社が儲かればよい」「自分の家族さえよければよい」と思った途端に、それはエゴとすり替わり、そのレベルにとどまってしまう。そういう低いレベルにとどまらないためには、より広い視点から物事を見る目を養い、大きな単位で自分の行いを相対化して見ることが大切となってくる。”と稲葉氏は言っています。 すばらしいと思うことはその精神をさまざまな場面で具体的に行動に移していることです。言うは易し、行うは難しですが、実際に“自分が得た資産(あるいは会社から預かった資産)は私有のものにしてはいけない、社会に還元するのが筋である”という考えのもとにいろいろなことを手がけています。さまざまな社会貢献事業をすすめたり、先端技術、基礎科学、思想・芸術の各分野ですばらしい業績をあげ、多大な貢献をした人の功績を讃えようという趣旨から200億円を投じて「京都賞」を創設して表彰したり。(現在ではノーベル賞に匹敵する国際賞として高く評価されているとか)その他にもいろいろ。 自分を高めようとすることは大切、でもそれは自分自身だけを見つめるのではなく周りによい影響や利益をもたらす成長でありたい。自分がよい方向に成長すれば自ずと周りによい影響を与えることができるものだとは思うけれど。そして、自分にできることは何かを考え行動に移していくことが大切。そんなことを改めて感じました。
2005年01月21日
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教育雑誌に“保護者が学校に望むこと”というアンケートがのっていた。「重要だと思う学校の取り組みや指導は?」への回答(複数回答)は、1位 子どもが人間的に成長するのを助けること 48.3%2位 いじめ問題や友達同士のトラブルへの対応 44.7%3位 教科の基礎的な学力をつけること 37.8%で、「基礎的な学力をつけること」よりも「人間的な成長の援助やいじめ・トラブルへの対応」を保護者は重視しているという結果になっているという記事だった。 「学校」と「塾」との違いを保護者も大きくとらえているということかもしれない。塾に期待することは“学力”が大きく、“子どもの人間的な成長”と答える人は多くないだろうから。学校は「勉強」するところである以上に集団生活の場であるということか。 もちろん、学校は集団生活の場だから、基本的なルールやマナーがしっかりできていなければ学習どころではないし、子ども同士の人間関係がよくないと学校生活のさまざまな面で支障をきたす。人間会計や雰囲気は学習をするにあたっても、子どもたちが毎日楽しく生活するにあたっても大切なこと。たくさんの人と関わり合う中で心も成長していく。それは当然のことだから、そういうことに学習と同様にも力を入れて取り組んでいる。でも、その一方で最近、学力低下の声が声高に叫ばれ保護者の方々も不安に感じているのも事実。 国は、学校という機関に何を求めているか明確にして優先順位をつけて整理していかないといけないと思う。 何故、そう思ったかと言うと、今日の新聞に文科省が総合学習の見直しを示唆したという記事が一面に出ていたから。学力が低下傾向にあるということが判明したことを受けてのことだと見られている。 総合学習が導入されたのは、2002年度の学習指導要領改訂からで、まだ数年しか経っていない。現場では検討や議論を重ね、ようやく学年ごとにどんな力をつけるべきで、そのためにどんな内容のことをすべきか体系化し、系統だった指導ができるようになってきた段階であるというのに。ここまで到達するのに会議等を重ね膨大な時間を費やしてきたのに、それが水の泡とまではいかないにしても肩すかしをくらったような感じがする。見直しといっても総合学習がなくなるのではなく、時間数を軽減するというような方向だとは思うが。 私自身は、総合学習は各教科の基礎、基本的な力があってこそ生かされるものだと思うので、見直し自体は賛成ではあるのだが、問題はなぜ、国はその見通しが立てられなかったのかということ。総合学習を導入するに当たり、小学校で年間、国語224時間、算数142時間、理科70時間を削減し、学習内容を減らしたのだから学力低下は当然のことだと思うが。それを見越しても“生きる力”などをつけさせることが必要という考えで導入したのではなかったのか。それを、学力が低下しているから見直しますというのでは・・。国が何を一番大切にするのかしっかりと整理して、その場しのぎでなく長いスパンで物事をとらえて方向性を示していかないと世間はいろいろな情報に振り回されてしまう。もちろん現場や子どもたちも。 それをふまえた上で、教師一人一人や学校それぞれが何を大切にしていくか考え行動していくことが大切だとは思う。子どもと直接関わっていくのは、文科省の方々ではないのだから。
2005年01月19日
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消費税が内税になってから、子どもに買い物をさせやすくなりました。買い物をさせると言っても、一緒に買い物に行ったときにお菓子を一つだけ自分で買うだけです。 私が働いていることもあって、家では買い物は週に一回、週末にまとめ買いです。その時に子どもは選んだお菓子の値段をみて、私の小銭入れからその値段のお金をおつりが無いように持っていき、レジに並ばせます。そのため、私の小銭入れは、普段使う財布とは別にしてあって、硬貨が大量です。56円のお菓子を買うのにも50円玉、10円玉、5円玉、1円玉がそれぞれ1枚ずつの組み合わせもできれば、10円玉5枚、1円玉6枚の組み合わせなどいろいろな組み合わせ方法があるので何回もやっているうちに数の概念をとらえることができるかなと思っています。お金の価値も少しずつ分かってくるといいな。 息子は自分で硬貨の組み合わせを選んで買うことができるようになってきましたが、娘はまだまだです。でも、週末の時間があるときに買い物へ行くのでいらいらしなくて済むし、一緒に考えるのは私も楽しみなのです。
2005年01月18日
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あれから、もう10年の月日が経ったのですね。スマトラ沖地震の報道と重なってさまざまな人の苦しみや悲しみが思い計られます。 10年前のあの日は、大学の卒論の大詰めで、夜中まで論文を書いていました。書きながらうとうととしてしまい、ふと目が覚めてテレビをつけると震災のニュースが飛びこんできたことを覚えています。当時は関東地方に住んでいたので地震の揺れは感じませんでした。 その後も連日、報道される現地の様子を見て、命のはかなさややりきれなさ、反対に逞しさや強さ、尊さなどいろいろなことを考え、友達と話したことを覚えています。卒論を出したら、現地のボランティアに参加しようかと考えていたのですが、ゼミの代表で学科の卒論発表をするのに当たってしまい、その準備や家庭教師のアルバイトの大詰めなどでまとまった時間がとれなくて(なにしろ、交通機関がマヒしていると聞いていたのでまとまった時間でないとなかなかいけないと思っていたということもあって)行けずじまいでした。でも何か力になりたくて、家庭教師とガソリンスタンドのアルバイトを掛け持ちしていた私は、バイト代を義援金として送ったことを覚えています。ガソリンスタンドのアルバイトは、日払いでもらえたため、休日に働いてもらえた5000円くらいのお金を帰り道に郵便局から送金しました。それを、2、3回した記憶があります。その日のアルバイトへ行く前に一つ心に決めた気持ちがあるというのは、行動に張り合いもでるし、何か強みのようなものをもったような気がしました。義援金というのは自己満足の世界かもしれませんが、そういう気持ちは大切にしていきたいなと思っています。
2005年01月17日
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文科省の調査で全国の幼稚園と小中高校の33%くらいが子どもに防犯ブザーやベルを配布、または貸し出ししていることが分かったそうだ。それくらい防犯意識が高まってきているようだ。 私が勤めている学校では、1学期に刃物を持った不審者が教室に進入してくるという設定で全校自児童を対象とした避難訓練も行った。 また、防犯ブザーは、1年前に全員に配布された。ブザーを首から下げたりして見えるところにつけているだけでも抑制効果はあるかもしれないが、いざという時に慌ていて使えなかったり、操作に手間取ったりするようでは困る。昨年度、低学年の担任だった時は学年下校をする時に不審者に手をつかまれる場面などを想定してほとんど毎日、3ヶ月間くらいブザーを鳴らす練習をした。何回もやって体で覚えれば、地震などの避難訓練と同様にとっさに判断することができると思う。特に小さい子は頭では分かっているつもりでも実際にはできないことが多いので。 自分の子には家で練習をするようにしようかなと思っている。
2005年01月15日
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最近、息子は絵日記を書くようになった。なぜ書くようになったかと言えば、私が先週末に学級の子どもたちの冬休み中に書いた日記を家に持ち帰ったから。子どもたちが遊んでいるときに日記をみる仕事をしていると、息子が寄ってきて「これ、何が書いてあるの?」と聞いてきた。だから、日記の説明をして何人かの子どもの日記を読んであげると「僕も書きたい」と言うので、ノートを買ってあげたのだ。 買ってから家に帰ると、早速「お母さんは見ないでね」と言い、一人で何か書き始めた。それなので、私も仕事の続きをしていた。すると、10分くらいしてから「お母さんできたよ」と見せにきた。小学生のお手本を読んであげたこともあってか思っていたよりも書けていた。きょうはくるまやさんにいきました あめをもらってたべましたあかいふくをきたおんなのことあそびましたと書いてあった。「た」の後に「。」がついていなかったのでつけることを教えてあげた。(実際は「た」の後に1マス空けておらず、詰めて書いてあった)教えもしないのになぜか「きょうは」の「は」がきちんと書けていて驚いた。なんで知っていたのだろう。不思議だ。本で読んでいたからかな。それとも、教えた覚えはないけれど、何かの折りに言っていたかもしれない。「は」は書けても多分「へ」は書けないだろうな。 今日で日記は4日目。さあ、いつまで続くことだろう。
2005年01月14日
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スマトラ沖地震で孤児になった子どもたちが数百人単位で行方不明になっていて、人身売買の可能性もあるらしい。 聞くところによると、子どもの人身売買は、性的搾取、臓器移植、強制労働などを目的としているようだ。貧しい国ではブローカーや経済的に苦しい親や親戚から「都会にいけばいい仕事があるよ」「家事手伝いの仕事でたくさん稼ぐことができるよ」などと持ちかけられる。そして、「あなただけに紹介する仕事だから、誰にも言わないでね」「早く出発しないと仕事がなくなってしまうよ」と口止めして、子どもたちが家族に黙って家を出るようにし向ける。または、お金の欲しい親戚を利用して、子どもの安心を得るために親戚から子どもに仕事の話をさせたりする。子どもたちは少しでも苦しい家庭の生活を支えることができればとだまされてしまうそうだ。 スマトラ沖地震の行方不明の孤児達はヨーロッパなどからの旅行者の子どもも多いと聞いているから、また別の話だろうが、人身売買ならば言葉巧みに誘い出しているに違いない。耳をふさいでしまいたくなるような話だ。 日本のように豊かな国に人身売買というのは何かの物語のような遠い出来事だが、貧しい国の貧しい人々たちのとっては日常の生活の中にある大きなこと。 日本では「何のために働くか」と聞かれたら「自分の生きがい」「自分を成長させるため」「社会の役割として」などなどさまざまな答えが考えられるだろう。けれど、貧しい人達は「生活のため」という答えしか返ってこない気がする。それ以外に考える余地はないのではないか。“どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろう”と怪訝な顔になるかもしれない。働かないと生きていけないのだから。でも、日本では働かなくても生きていくことができるから、ニートと呼ばれる若者の増加が問題になっている。この違いに考えさせられる。
2005年01月13日
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昨日、イチローの本の事を書いたが、その本を手に取るきっかけの一つとなったのが少し前にした友人との電話だった。彼女は同じ高校だった子で、電話で話したのは1年ぶりくらい。互いの近況を報告し合ったりした後、なぜか話題はイチローの方に。 イチローが育った町と私が高校生の時まで済んでいた市は隣同士。彼女はイチローと同じ中学校出身で、同級生ではないが、同じ時を同じ校舎ですごしていた。私は、当時高校野球が好きだったので、そんなことからなんとなくイチローに親近感をもっていて、彼がピッチャーとして甲子園のマウンドに立っていた頃から実は応援していた。 話していて、彼女が「イチローとは、中学の時に直接関わりがあった訳でも何でもないんだけど“一緒の中学だったんだよ”と言うだけでちょっと特別な気分を味わえる。やっぱり誇りなんだよね。だから、応援もしたいし、彼の生き方を自分の生き方に取り入れることができるところは取り入れたいなと思うよ。」というようなことを言っていた。 直接イチローと関わったわけではないけれど、同じ場所で同じ時を過ごしたということが、彼女の人生によい影響を与えているのだなと感じた。そして、私も彼女を通していろいろな影響を与えられている。 イチローがインタビューの中で「ぼくにとってお金は、野球ファンだけでない人達に影響を与えられている。そのことへの評価だと思っているわけです。」と言っていることの一端はそんなところにも表れているのだと思った。
2005年01月12日
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この本は、糸井重里がインタビュアーで、BSデジタル放送のテレビ番組でおこなわれた、イチローへのインタビューを記録したもの。いつもながら、本当にイチローはいろいろな自分なりの哲学のようなものをもっているのだなと感じさせられる。答えにくいだろうなと思われる質問にも、的確にそして言い古されているような言葉でなく彼自身の経験からでてきた言葉を紡いで答えていることが伝わってくる。彼は、いろいろな力を高めて生きているのだなと思う。野球に関してはもちろんのこと、精神面に関して特にそう思う。・決めたことは納得がいくまでとことんやる力・流されない自分をもとうとする力・常に夢や目標を持ち続ける力などなど。もっともっとたくさんあるけれど。“~すること”というよりも“~する力”というように感じられる。 本の中にこんなくだりがある。ファンから寄せられた「今までの人生の中で、これは無理だなと思ったことはありますか」という質問の答え。イチロー「無理だと思ったのは、学年で1番になるのは無理だと思いました。勉強ですけど。」糸井「(笑)小さいときに?」イチロー「ええ。それはぼくにとって実は大きな出来事なんですよ。小学校ではあまり勉強しなかったんですけど、中学になって、それじゃあ、マズイっていって、一生懸命勉強したんです テストの点は取れました。実際できる限りの勉強はしました。でも、一番にはなれなかったんですよ。 学年で7、8番にはなれても、決して1番にはなれなかった。それで、勉強あきらめたんですよ。」 中学生になったばかりで“できる限りの勉強をした”と言い切れるところがすごい。道を選ぶ時に妥協せず納得のいくところまでやりきれるという力が13歳でかなりついていたのだなと思う。 まだまだ自分に甘いところがある私にとって、とても刺激になる言葉でした。 イチローのひたむきさが表れる言葉に次のような言葉もあった。「グラブを手入れするっていうのは、道具を大切にするという意味だけでなく、作ってくれた人に対する感謝、小さい子なら、買ってくれた人への感謝の気持ち、自分のプレイに対する愛情。こういうところがグラブを磨くことで、とても変わってくるんですよ。ですから、子どもたちに、グラブの手入れをしろ、っていうのは、決して“きれいにしろ”というだけの意味ではありません。 そのグラブで練習したことっていうのは、体に、必ず残るわけですよ。 記憶が体に残っていく。」 他にも・進化するときっていうのは、カタチはあんまり変わらない。だけど、見えないところが変わっている。それがほんとの進化じゃないですか。・長く続く強い発見は、凡打をして、その凡打の理由がわかったときなんです。・ぼくにとっておお金、野球ファンだけでない人達に影響を与えられている。そのことへの評価だと思っているわけです。などなど、心に残る言葉がいくつもありました。私ももっとひたむきに努力を重ねよう、そんな気持ちになりました。そうそう、みなさんの励まし、ご協力のお陰で、ドレスの写真、何とかアップできました。教えていただきどうもありがとうございました。最後の方は手抜きをしてしまい、凝ったドレスではないですが、まあ2、3回楽しんでくれればいいかなと思っています。写真の向きがちょっと変ですが・・。
2005年01月10日
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今日から3学期が始まりました。学校に行くまでは“また忙しい日々が始まるなあ”と少し憂鬱でもありましたが、学校へ行って子どもたちの顔を見るとやる気がでてきます。顔を見渡すとどの子もよい顔つきをしているので一安心。「あけましておめでとうございます」というみんなの大きな声はとてもすがすがしくまた頑張ろうという気持ちになりました。 とぴうことでまずは、宿題と日記の山。これを見るのがこの連休の宿題です。 そして、今日は七草粥をつくって食べました。家族が今年も健康で過ごせますようにと願いながら。 以前、ある有名企業の社長さんに「子どもの頃に戻るとしたら何が欲しいですか」と聞くと「素敵な思い出です」と答えられたという話を聞きました。子どもたちが大きくなったときに“そう言えば、1月7日にはいつも七草粥を食べたなあ”と思い出してもらえたら嬉しいです。私もひなまつりのお祝いやお月見のススキとお団子を毎年飾ったこと、家族での誕生会などなどの思い出は大切な宝物ですから。 そんなことを考えながら七草粥を食べました。
2005年01月07日
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自分の生き方や恋愛に悩み、時にはスランプに陥るヒーローっていいな。学生でありながらいろいろな事を抱えて生きている主人公のピーターを見ているのはせつなくもあるが、自分の進むべき生き方を決意して進んでいく姿は潔さも感じる。 悪が後を立たないから、特別な能力をもつスパイダーマンはヒーローにならざるを得ない。でも、彼の姿は子どもたちに夢と力を与える。 正義と悪。アンパンマンの作者やなせたかしさんの本に“アンパンマンとバイキンマンは光と影、明と暗、コインの裏表のようなもの”というようなことが書かれていたことを思い出した。バイキンマンがいることによって、アンパンマンの存在意義もある。バイキンマンがいることでアンパンマンは正義の味方のヒーローとなり物語が生まれていく。 コインの裏と表。見える面は違っているけれど、そのコインは裏表が合わさって一つのコインとなる。正義と悪。戦争と平和。過去と未来。光と影。何となくふと考えさせられた。
2005年01月06日
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娘がトイザらスの広告を持って来て、「これ、ほし~い」と言って指さしたのは、ディズニーのシンデレラのドレス。最近、娘はおしゃれセットに目がない。実家の母に買ってもらったおもちゃの指輪やネックレス、子供用のマニキュアや口紅をつけては鏡の前でにらめっこ。う~ん。やっぱり女の子なんだなあと思う瞬間だ。 ドレスを買うのももったいないし、もうおもちゃなどは夏休みまで我慢と言ってあるので、「それなら、お母さんが作ってあげる」と安請け合いしてしまった。仕事で学芸会用の衣装を作ることも多いので、まあいいか、と気楽に考えていたのだけど、作り始めたら細かい所まで凝りたくなってしまい、思わぬ時間がかかってしまった。しかも、あと少しでスカートが出来上がるというところでミシンが壊れてしまったのが痛かった。 今日は夕食を食べた後、ずっとドレス?作りをしていたので、主人が洗い物をし、洗濯物もたたみ、子どもたちもお風呂に入れてくれ、歯磨きまでしてくれた。ありがたい。子どもたちは、私が作っているのを見ながら口を出し、手を出し(本人達は手伝っているつもり)しているうちに寝てしまった。 結局、今日できたのはスカートだけ。(ワンピースは難しいので上下を分けることにしたのだ)上の洋服は週末かな。明日もこの調子で集中してやっていると主人の眉間にしわがよるかもしれないので・・。でも、ミシンなしでは大変だなあ。
2005年01月05日
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夫は食べ物の好き嫌いが結構ある。特にお正月に食べる料理に苦手な物が多い。お餅が嫌いだからお雑煮も食べない。エビやカニ刺身も好きではない。海の幸は好きではないのだ。だから、知り合いの家に呼ばれたりした時は嫌いな物を無理して食べたりしている。そんな姿を見ていると、お正月から嫌な思いをするなんて気の毒にと少し思う。 嫌いな物が少なければ、辛い思いをすることも少なくなる。逆に好きな物が多ければ、楽しいことも多くなる。食べ物に限らず何でもそうだと思う。スポーツでも勉強でも仕事をすることでも読書をすることでも楽器を演奏することでも料理をすることでも何でも好きだったら何をやっても楽しくとらえることができる。人に対する思いも同じだと思う。嫌いな人が多かったら、嫌だなあと感じる場面や時間が多くなるし、逆に自分の周りの人を皆好きになれたら、人と会うことは貴重な時間となるだろう。 好きなことが多いことは人生の豊かさにも繋がるのじゃないかなと思った。
2005年01月04日
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新年あけましておめでとうございます 今年もどうぞよろしくお願いいたします 今日は、朝からショッピングモールにでかけました。ねらいは福袋。朝早くに行かないとお目当ての物は売り切れてしまうので朝から行くことにしたのです。お目当ては子供用の洋服。5000円の福袋の中に6~7点入っているので楽しめます。子どもだからあまり好みもないし・・。しっかり子ども二人分買いました。 私は、バーゲンをねらってGAPのジャケットとパンツを買いました。満足、満足。 その後は、息子のランドセルを買うことに。いろいろ悩んだ末ELLEのランドセルにしました。色合いも落ち着いている気がしたし中も気に入ったので。とはいってもそれほどみんな大差はないのですが。 次は、学習机だなあ。いろいろ悩みそう・・。 その後は主人の実家にご挨拶に行きました。明日からは私の実家に2~3日行ってきます。
2005年01月01日
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