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***********************************************************塩野七生著『ローマ人の物語』(17) 悪名高き皇帝たち(一)(新潮文庫)読破ゲージ:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■***********************************************************悪名高き皇帝たち。素晴らしいタイトル。著者はタネを明かす。曰く、ある一面から見た場合には“悪名”でも、多面的に見た場合にはそれが誤認という場合もある、と。このタイトル、視野狭窄に陥って皇帝たちに悪名を被せてきたスタンスへの「待った」であり、洒脱な一刺しでもあり。悪役列伝、トップバッターは、孤独の帝王・ティベリウス。その治世スタート。基本路線はアウグストゥスの政治の踏襲により帝政を盤石に。いや、むしろ、アウグストゥスを「法」とした秩序の強化。名門出身、愛憎の果てに、結果的に皇帝となった厭世家皇帝の治世は質実剛健。地味で堅実なのが退屈と受け取られたワケで。凱旋式も神格化も、すべて断る自制心は、元老院にも市民にも頑固な印象。この堅物には、おべっかも通用しない。おべっかに使う時間すら惜しみ、おべっかに使う頭など次元が低いと嘆じる構え。当地に必要な「権力」のみ継承し、「権威」は削減。そんなティベリウスは、カエサルが描き、アウグストゥスが実現した帝政を不動にする仕上げの役目を、困難のうちに迎える。パンノニアでの軍団蜂起は実子・ドゥルーススが担当。一方ゲルマニアの反乱には、ゲルマニクスが当たる。情熱的で快活、ドラマティックな行動(部下の反乱に憤り、己が胸に剣を突き立てる!!嵐で船が沈めば、自分の責任だと荒れ狂う海に飛び込もうとする!!)も計算無しにできてしまうゲルマニクスの“人気”が、後のティベリウスの悩みのタネに。ゲルマニクス軍団のマスコットとして「小さな軍靴(カリガ)」の愛称で呼ばれる彼の三男坊・後の皇帝カリグラ、その幼い耳目に父の演説をどう聴いたのか?間接的にではあるが、軍団に規律を戻させた幼児・カリグラのカリスマもまた眩しい。しかし、光源は、さらに別の光で輝こうとするべきではなかったのだ、と個人的には思う。知足。人気取りには関心無し、不人気皇帝を引き受けたティベリウス、同時代に評価されなくとも、先人の意志を推進。公衆安全、財政再建、緊縮財政。なのに、ゲルマニクス、悲願のゲルマン征服続行を希望。その二つ名が泣く、と。ティベリウス、これを制す。パクス・ロマーナの要の一つ、防衛体制の強化もまた、ティベリウスの責任の範疇だったから。定刻の安全保障への責任感は、アウグストゥスを凌ぐほど。「レンガのローマを受け継ぎ、大理石のローマにして世に遺す」との豪語は伊達に非ず。ゲルマン征服にはブレーキをかけられた「熱意あふれるディレッタント」ゲルマニクス、その“やる気”はティベリウスによってオリエント問題の解決に充てるよう任を受ける。ゲルマニクスとオリエント。嗚呼、この傑物は、アウグストゥスの血を引きながらまた、その宿敵だったアントニウスを実の祖父に持つ、ドラマのプラットフォームのような人物。最高責任者として東方問題に対峙するゲルマニクスには、シリア総督ピソとその妻が立ちはだかる。適度に有能なピソ、分を弁えず過信。見栄の張り合いなら恥も外聞もないその妻との下衆な夫唱婦随、ゲルマニクスを陥れ、そのゲルマニクスも病に倒れる。ゲルマニクス人気をねたんでの毒殺?その糸はティべリウス?あっけない死は、ゲルマニクスの鬼嫁、アウグストゥスの孫・アグリッピーナの、カリグラを通じての復讐心としてパワー倍増。以降、アグリッピーナは“ゲルマニクス神話”キャンペーンを強行。人間味溢れるゲルマニクスの死に、人々は号泣。ところで、古代ローマでは、花は生者への贈り物、死の直後には各自の財力に応じた“モノ”を燃やすことが哀悼だったとか。キリスト教のろうそくへの点火はその名残と。ゲルマニクス、国葬も、ティべリウス公務により欠席。「冷徹なプロフェッショナル」、不評に。悲しみに機能停止する首都に、ティベリウス、喝入れ。続いてピソを裁判に。ティベリウスの「最高裁判決」は、公正なれど、またも人間味を欠いて不評。特に、ただでさえアウグストゥスとは血の繋がらぬティベリウスを皇位簒奪者と見ていた鬼嫁は、ティベリウスをゲルマニクスの毒殺者と恨み深める。単に、国家の統治においては“ゲルマニクス神話”の一人歩きを危険視しただけなのだが。北アフリカ、ガリアで反乱、ドゥルイデス教(アーサー王伝説におけるマーリンはドゥルイデス教の司祭と)の追放。政教分離徹底、それが確信犯的な活用とわかっていても、自身の神格化や宗教との接近は断固避けたティベリウスは、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」そのもの。人は死すべき存在を超えないのだ、と。その覚悟を験すように、ティべリウスに息子・ドゥルーススの死が襲う。なおも厳格に、公務を遂行。テンション上がったのは鬼嫁・アグリッピーナ、今度こそ皇位継承は己が子のものに。手直し、メンテナンスを軽んじれば百年の計は成らず。その点、ティベリウスは、面倒な割に地味なメンテナンスを徹底的に断行した賢帝。同じメンテナンスの意味から、人材発掘、人材育成、人事にも際立ったセンスを発揮。彼の下準備なくば、以降の皇帝は、多分何も出来なかった…。なるほど、誇り高い人とは自分自身に厳しい人、と。自身を普通の人と思わないこの人は、普通の人のように、困難な時に仕事を投げ出したりしない。そんな時こそますます、自分にしか出来ない仕事に没頭し、誇りを保とうとする。そして、普通の人が、悲しみも苦しさも癒えて仕事に戻る頃、誇り高き人ははじめて、深く重い疲労感を感じるのではないか、と。息子の死から二年。不人気でも堅実な皇帝に捧げられる神殿建立も、不評に負けないで行った国益と平和への貢献こそわが神殿と固辞。これまた不評。ストイックに過ぎるのは考えものなのか?アウグストゥスがした苦労を今また、ティベリウスも抱える。つまりは、家庭内の問題。内にも外にも問題山積、孤独の皇帝。封印してきた厭世癖発動。68歳にして、“家出”。前科あり。ローマを離れ、カプリ島へ引っ込む。(了)ローマ人の物語(17)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/30
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***********************************************************塩野七生著『ローマ人の物語』(16) パクス・ロマーナ(下)(新潮文庫)読破ゲージ:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■***********************************************************アグリッパ、マエケナス、ドゥルーススを失い、今またティベリウスと仲違いしたアウグストゥスも、己の使命は全うせねばならぬ。失意の皇帝は退かず。ユヴェントス創設。サッカーじゃなくて。「少年団」。健全国家への夢はなおも潰えず。その一方で、娘が不健全な行為で咎に。倫理を重んじ家族の再生を図った皇帝は、その身内の不行状で悩まされる皮肉。成熟してから、ようやく人間くささを醸し出す自制の皇帝は、元老院にも愛される存在に。「国父カエサル・アウグストゥス!」コールに落涙。小林秀雄の政治観「ある職業でもなくある技術でもなく、高度な緊張を要する生活」。その張りつめた一生のゆえに、国家の父と見なされたことはアウグストゥスの琴線に触れたのだ。ところで、本格的国勢調査を行う几帳面な為政者で鳴らしたアウグストゥスの御代、この時期、イエス・キリスト生誕も、記録なし。少なくとも、生年は“この時期”どまり。だとしても、イエス・キリストは、ローマ最盛期を迎えるタイミングに生まれ、生き、死んだということ。若武者に去られた皇帝、血縁主義への妄執のゆえに、凡庸な後継者を擁立。いわゆる、スポイルされた後継者候補・ガイウス、各地でご乱行に大不評。こいつじゃダメなんだ。ティベリウス、復帰。おそらくは、長大な計画にゆえに実現を目前としたパクス・ロマーナおよび新秩序樹立に相対して、周囲を見回した背かれたアウグストゥスと出戻ったティベリウスの双方に私心・私怨なく、もはや互いしか人物が存在しないことに気付く。そして、皇帝はティベリウスの力量を認め、実利的に後継者に復帰させる。ティベリウスもまた、ユリウス・カエサル、アウグストゥスの偉業への敬意は変わらず、それを絶やさぬために、これまた現実的にアウグストゥスの後継者として肚をくくる。弱小家門にもかかわらず、使命によりカエサルの養子になったアウグストゥスと、超名門クラウディウスの名を継ぎながら、結果的にアウグストゥスを継父とするようになった、二人の根本的な違いは、目の前の大義の前にようやく結束を見ることに。ティベリウス復帰=パクス・ロマーナのフロントラインに名将が復帰。ゆえにティベリウス、大喝采の中復帰を迎えられる。好材料の傍で、家族またも不祥事。飽くまで血縁主義にこだわったのは、アウグストゥスのアキレス腱。運命を想い通りにしようとする態度は謙虚さを忘れさせ、もってローマ古代の神々の復讐の手から自由ではなかったのだ。詩人・オイディウス、『愛の技術(アルス・アマトリア)』で罪を問われる。もっとも、その内容はポルノグラフィーでもなく、単純に倫理的でない家族の不祥事に悩んでいるところに、自由な恋愛を謳った作品が登場して、時の皇帝もカチンと来た、という話し。ゲルマニア進行は難航。「森はゲルマンの母」。ゲルマンの策略に乗り、現場知らずの官僚・ヴァルス、貴重な三個軍団を、みすみす失う。それも、ゲルマンのもっとも戦いやすい、彼らの母たる森に誘われて。その尻拭いはティベリウス。この辺りから、アウグストゥス、ティベリウスに心を開き始める。本当に今の自分にとって、大切な人が誰か気付いたかのように。結局、ローマにとっての北方の二大強敵、ガリアとゲルマン。その前者を制圧した父・カエサルに対抗して、労多いゲルマン制圧を成し遂げたいというのは、アウグストゥスなりの男の意地だったのか。ティベリウス、クールダウン。ローマの防衛線は、エルベ=ドナウ構想からライン-ドナウへ回帰。ティベリウス、ゲルマン撤退を決意。紀元14年(ちなみに、彼の『業績録』はこの年に書き上げられた。周到なり)、イエス・キリスト少年時代、ローマ帝国初代皇帝・アウグストゥス、8月19日、77歳の誕生日を一ヶ月後に控えて墜つ。その遺言状は、遺産、権限、すべてにおいて、後継者は勿論、国民のすみずみにまで行き渡るほど緻密、会計士のそれに近いほど。最期まで、現実と向き合うことから逃げない、ユリウス・カエサルの後継者にふさわしい傑物であった。(了)ローマ人の物語(16)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/23
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***********************************************************塩野七生著『ローマ人の物語』(15) パクス・ロマーナ(中)(新潮文庫) 読破ゲージ:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ***********************************************************健全な「国家」は健全な「家族」の保護と育成なしには成立せず。自制の人・アウグストゥスの少子化対策。多産奨励、倫理遵守、ローマ的「法の精神」を推進。不倫は文化ではない、と。バランス感覚抜群のアウグストゥス、本領発揮の次代。バランス感覚とは、矛盾の中間を確保するため、両極を行き来する永遠の移動行為。然り。後に保守的とされるアウグストゥス、マキャヴェッリはすでに、アウグストゥスの革新性を看破していた。曰く、カエサル一人が革新的なのではなく、カエサルですら、暗殺を免れていたら順当に政策を実現していたかどうか、と。多神教世界のローマでは、アウグストゥスが「霊(ジェニウス)」的存在へと消化して行くことは自然の成り行き。アウグストゥスのパクス・ロマーナは、防衛線の拡充。んなるほど、ガリア征服以降、防衛線は、山でなく河。河ならば対岸が見える。対岸が見えれば敵兵が見える。敵兵が見えないことが、戦場での最大の不安要素という経験知。この時期のパクス・ロマーナ、フロントラインはアグリッパに加え、横恋慕の賜り物、愛妻の連れ子の若武者・ティベリウス&ドゥルースス兄弟が担当。微笑ましき絆の力は、史上初の皇帝廟となる「平和の祭壇(アラ・パチス)」に残る“家族の肖像”が証明。共同体防衛には軍事再編成で臨む。共同体維持は、共同体防衛の義務の履行で成り立つ。あわせて、安全保障(セクリタリス)構想を方針に据え税制改革なども断行。長い防衛線の堅守軍縮で処するは、逆転の発想。数の確保の困難は、防衛力の効率性と質向上で補填。軍制再編成の中でも出色は「近衛軍団」創設。アウグストゥスの「精神」がオクタヴィアヌスなら、その「身体」であったアグリッパ逝く。アグリッパ、無名の人なれど、無学の武人にはあらず。公共建造物や建築にも辣腕発揮、南仏のポン・デュ・ガール(水道橋)は今に遺る傑作。公共の人は、反面私邸の所在も不明、無私の人。真、傑物なり。次いでアウグストゥスの「頭脳」であったマエケナス、逝去。隠密活動のためだけに、公的キャリアをすべて、喜んで投げ出したまたも無私の義人。まさに、アウグストゥスというカエサルの後継者は、オクタヴィアヌス、アグリッパ、マエケナスの共同名義のようであった。今や、アウグストゥスは、アウグストゥスその人、つまりオクタヴィアヌスがひとりで背負わねばならない。我が世の春は、夏を飛び越して激動の晩秋へ。悲願のゲルマニア戦線では、若き希望、ティベリウス&ドゥルースス兄弟が頼みの綱。行政改革では「州」制を導入。以降のローマ帝国は、史上どの国よりも、後のアメリカ合衆国に似ていたのだと。ちなみに、古代ローマの選挙の方法は、アメリカ合衆国の大統領選と似ているとか。どこか、偉大なる父・カエサルを思わせた快活なる期待の弟・ドゥルースス、死す。ローマの死生観は、非宗教的・非哲学的ゆえに健全だったようで、「人間」=「死すべき者」。とはいえ、情けは古今、洋の東西を問わず。ドゥルーススの死は、アウグストゥスに、血縁主義への妄執を植え付ける決定的事件。なに、ティベリウスがいるじゃないか。とはいかないのが、辛いところ。似た気質ゆえの反発か、ドゥルースス、愛弟の死を機に、命令遵守には、老いたりといえどもやはり厳格主義のアウグストゥスの命に背く形で、戦線を引き上げ隠居生活へ。皇帝の懊悩は、一人の父親としての苦悩へと変質してゆく。(了)ローマ人の物語(15)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/21
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ちょっと劇場での鑑賞は見送りかな、タイミング的に…と思ってましたけど、『レッドクリフ』、観ちゃいました。 感想。うーん、難しい。50点かな。大きなところでは、まず、二部作にする必要があったのか?という点。レッドクリフ、つまり訳せば赤壁。史上名高く、また三国志エピソードの中でも大きな話しの一つである、赤壁の戦いを描くこの作品、第一部ではそこにいたるまでの話しで「続く」。え?じゃ、レッドクリフじゃないじゃん(苦笑)。結局、前フリしておいて、パート2で、赤壁の戦いを描く、という流れなのですが、そこでそもそも、果たしてジョン・ウーは歴史映画を作りたかったのか?という次なる疑問が残るのです。 三国志は超メジャーな物語。でも、実際には壮大すぎるし、細部までの認知度がどの程度かと言えば、そんなに期待は出来ないハズ。そうなると、赤壁の戦いを描く、ということがどんなにスゴいことなのか、というインパクトそのものも弱まってしまうワケです。それで、あえて前フリを作ったのかな、という感触なのですが、むしろ、歴史的な流れや事実関係などはすべて削ぎ落として、まさに赤壁の戦いそのものに絞り込んだエンタテインメント映画(もちろん、一作完結型)にしてしまっても良かったんじゃないかな、という気がするのです。パート1で語られた前フリも、結局、三国志を知りたい人も知らない人も、そんなに詳しくなりたいわけでもない人にとっても、同じ程度の意味しか持たないのではないか。だったら、十分にストーリー性があり、劇的な赤壁の戦いのみを、あの躍動感やスピード感を存分にフル稼働したジョン・ウー節で料理してしまった方が強かったんじゃないか、と思えてならないのです(実際、映画本編の前に流れる、おそらくはタイアップした関係会社が作成したであろう、よく大河ドラマや年末時代劇でも使われる「導入」はよく出来ていましたし、マス向けの意味においては、これで十分パート1一本分の役割を果たしていました)。 つまりは、ジョン・ウー監督なら、三国志を知っているか否かに関わらず、誰でも楽しめて、かつ三国志的世界観のエッセンスは十分に味わえる、スペクタクルを作ることが出来たのではないか、と。これは、とにかくパート2を観てから、総合評価するしかなさそうだ、というのが正直な感想。これまで作られて来た“三国志映画”に比べて、明らかに鳴り物入りの本作なのに、なんだかビデオ・オンリーみたいな中国作品とそんなに変わらない地味な内容。 でも収穫がなかった訳ではありません。キャスティングが、いや、金城武氏が本当に良かったんです。コアなファンではなかったので、あまりハッキリは言えないのですが、個人的に知る範囲では、彼自身の最高のアタリ役&名演技ではないかと。一般的にイメージされる諸葛亮孔明像を暗示させながら、日本人が好む諸葛亮像をうまく作り上げています。のみならず、知謀神に通ずる諸葛亮を、ただの怜悧な軍師の枠に収めていない。温かくて、人情もあって、静かだけど情熱があって、何より、茶目っ気がある。チクリとハチの一刺し、皮肉たっぷりの台詞にも嫌みよりさわやかさが残り、飄々としてとぼけたフリの、なんともいえない魅力が滲み出ているのです。切れ切れなのに、ユーモアを失わない。傑物なのに、どこか浮世離れしている。赤壁の戦い当時は青年であったろう諸葛亮孔明の、あまり描かれてこなかった快男児的側面が実に新鮮で、金城氏の演技と絶妙にマッチしているのです。 物語中盤で、出ましたハトーーーーbyジョン・ウー。なんだ、今日は群れて飛ばないんだ…。でも、孔明の意外な小道具として飛びますよ、今回も。 中村獅童氏@甘興。これって、甘寧興覇のことですよね、間違いなく。巧いなぁ。やっぱり。地顔もまた、なんか水賊出身の荒くれ風ながら、ひとたび仕えれば忠心較ぶ者なき猛将、ってな佇まいが漂ってるし。ご本人もきっと、水を得た魚のようにのびのびと演じられたのではないか、と伺えるような演技。 トニー・レオン@周瑜。やっぱりスクリーン映えしますねぇ。清廉潔白な感じがババーッン、と。ただ、一般的なイメージに較べると、かなり家庭的&庶民派な周瑜になっちゃってるんですけど(苦笑)。かなりマイホームな旦那さん。ま、奥さん美人ですしね(個人的には、評判ほどには演技面でのオーラをもう一つ感じなかったのですが)。 意外なのが、曹操。難しい役ですよ。野心家、奸臣、でも壮大な器を持つ一世の英雄。この曹操が期待はずれだったら、この映画の評価は大きく変わっていたでしょう。人物の大きさを余裕を持って演じ、なおかつ快活で豪放で知的。それに、どこか感傷的な雰囲気も嫌味なく遺した演技は、独特の色気すら感じさせる迫力の名演。いやぁ、よかった。 孫権、イケメン。この人は日本人ウケしそうだなぁ。ちょっと青さが残る雰囲気も、孫権らしくてイイですね。 魯粛がまた、なんかイイ感じに魯粛っぽいんだ。ちょっと三の線入った風間杜夫氏風の妙演が、作中に描かれる人間関係にいいテンポを作ってます。孫尚香も合ってますね、ヴィッキー。 関羽を演じたのは、正真正銘のチンギス・ハーンの末裔さんだとか。でも…なんかイメージよりも小柄なんだよなぁ。魯粛より小柄なのが…気になる。いや、もうハッキリ言おう。気に入らない(苦笑)。 張飛は…ヤバいですね。一歩間違うと、燕人・張飛ではなく、猿人になってしまいます。あと、走り方がちょっとしずかちゃん@ドラえもん、ぽいんですが。 しかし日本人って三国志好きですよね。勿論私も大好きなんです。そして、日本人にとっては、いかに横山光輝大先生の『三国志』の影響が強いか、ということを再認識したわけで、もしかしたら日本人の方が中国の人よりも三国志に詳しいかも知れない、とすら思ってしまうのです。 あ、それとやっぱり、画面が地味に見えたのは、あの繊細にして優美な、川本喜八郎先生の人形劇『三国志』のイメージがどこかにあるからに相違ないのです。うん、やっぱり三国志を愛し、歴史から神話へと翻案したのは、ほかならぬ日本人なのかも知れません。(了)レッドクリフパーフェクトガイドレッドクリフ公式ビジュアルBOOK(CD)レッドクリフ Part I オリジナル・サウンドトラック/音楽:岩代太郎■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/21
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三大スター競演。パトリス・ルコント監督、ジャン=ポール・ベルモンド、アラン・ドロン。ヴァネッサ・パラディ主演。いやぁ、こんなカラッとした、ちょっとハリウッドくさい映画も、“楽しい監督”ならでは、と思えば納得。要は、自動車泥棒してる二十歳の娘(ヴァネッサ)が、出所時にもらった最後の身寄りである亡き母の遺言テープから、「実父の可能性がある二人の男」を訪ねたとこから話はスタート。『ハーフ・ア・チャンス』というタイトルも、この男性二人が半分ずつ実父の可能性あり、というところに引っ掛かっているわけで。で、その男性というのが、ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドロンなんですが、例の遺言テープがまた振るっていて、「20年前、一生に一度の恋を、同じ時期、二人の男性にした。二人を、同時に愛した」と、こう吹き込まれているワケです。そりゃ、20年前(公開時から算出すると、今から約30年前ですね)、ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドロン相手なら、無理なく同時に激しく愛せるでしょう!!全然、荒唐無稽じゃない(笑)。 で、まぁ、ヴァネッサがそれぞれの元を訪ねるんですけど、これが不思議なことに、悠々自適のオジサマ・ライフを満足に送っている二人の父親候補、突然現れた娘に、戸惑いや否定の感情を表さない。もう、その場でメロメロ、奪い合い。このあたりは、アメリカの映画だったらちょっと違う描き方になるのかもなぁ、とも思って、価値観や文化の違いを勝手に憶測したりしますね。アメリカでこの手の映画だと、まぁ大抵最初は押し付けあうところからスタートするわけで。 さて、血液検査を控えて、どちらが正統なるお父さんか、互いに火花散らすジャン=ポールVS.アランでありますが、そこは年頃の娘、ヴァネッサ夜遊びから、なんと巨大犯罪組織と警察の一大抗争に牧夫困れるハメに。このあたりの展開がまぁ、無茶苦茶なんだ(笑)。5000万ドルの入ったアタッシェケースを横取りされたと勘違いした犯罪組織は、娘をめぐってバトル中のジャン=ポールとアラン、それにヴァネッサを執拗に襲撃。挙句、大事な娘候補(?)も人質に…。 で、休戦協定、結託して娘奪回に乗り出す父親候補、なんとそれぞれの過去が明らかに!!ジャン=ポール→元兵士、アラン・ドロン→凄腕の怪盗。どんな展開なんだ!?で、カタギの生活を捨てて、再度、娘のために暴れてやるか、と奮起します。このああtりからは、もう完全にB路線。なんだけど、名優二人の会話ややり取りににじみ出る遊び心や過去作品へのオマージュ的シーン続出で、楽しめてしまうのです。特に、飄々としたジャン=ポール・ベルモンドのアラン・ドロン評(もちろん、一般的に流布するイメージを踏まえての、ですが)が、いちいち笑える。一方で、その“アラン・ドロン像”を逆手にとって、派手好みを披瀝してみせるアラン・ドロンの応酬、っと。「空き地で決闘するか?タイツでもはいて」、ってゾロかよ。一体なんなんだ、このオジサンたちは!!そう、安定した生活に胡坐をかいて、ちょっと守りに入ったオジサン二人が、「もう一度燃えるチャンスに賭けてみるか」、という意味もまたタイトルに掛かっているのかと。 晴れて犯罪組織に一泡拭かせ、娘も取り戻した二人。ひょんなご縁から5000万も手に入って、ほとぼり醒めるまでニューヨークに高飛び。で、その先で、いよいよ決着をつけることに。無論、血液検査です。結果は…一人確認して破り捨てるヴァネッサ。「療法父親でもいいでしょ」って、秤にかけたな、小悪魔よ。でハッピーエンド。 さて。よく言えば『スティング』のような軽妙さ。スター競演度で言えば、バチーノ&デ・ニーロ『ヒート』並み。でも、一歩間違うと、シュワ&スタローン夢の対決(実現してないけど)、みたいな作品ですが、こんなB路線スレスレの映画でもバッチリ格好いいジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドロンの適度にユルい名演に支えられた佳作。やっぱり永遠のスターってのはオーラがあります。(了)<スマイルBEST>[DVDソフト] ハーフ・ア・チャンス■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/18
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『ブーリン家の姉妹』、観てきました。もう公開前からね、ポスターがとにかくイミシンで格好良くて。それに、よく考えたら豪華なポスターだよなぁ。ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンが、バーンっ、ですから。歴史モノは大好きですし、やっぱりハズせないかなぁ、と。 さて。観終わって一言。息苦しい。重苦しいというより息苦しい。テーマも息苦しいけれど、何よりも、ナタリー・ポートマン演じる姉、アン・ブーリンと、スカーレット・ヨハンソン演じる妹、メアリー・ブーリンの関係が、一番息苦しい。で、この関係の息苦しさの原因は、もう言うまでもなく、ナタリー・ポートマンの演技&役柄。役損ですね。もう、ナタリー大嫌いになった。と本気で思うほど、嫌なヤツ。意地悪。傍迷惑。なアン・ブーリン。でも、歴史はその野心を見捨てなかった。だって、その野心がエリザベス1世の治世を準備するワケで。それにしてもなぁ…。もう、愛憎、という形容しか当てはまらないでしょう。憎しみですよ、憎しみ。愛を間に挟むと、そこに生まれる憎しみはこうもえげつないものか、と(汗)。どちらかと言えば、ファム・ファタール的なイメージが強かったスカーレット・ヨハンソン、役得ですね、逆に。皆忘れているでしょうけれど、フェルメールの運命の女、純真無垢な真珠の似合う少女を演じて評価高まった人ですから、この女優さん。でもなぁ、いつも口がポカーンと開いている本作での表情、どうなんだろう(『真珠の耳飾りの少女』でもそうだったような…。口ポカーン、ってのがこの人の純粋モードのメソッドなのかな)。 結局、この映画に出てくるイイ人(=まともな神経の人)って、姉妹のお母さんと、史実はともあれ、ヘンリー8世王妃・キャサリン、それに最後にメアリーと結ばれたウィリアム・スタフォードくらいなんじゃないでしょうか???過大な野心は、あらゆる関係を徹底的に破壊する、ということの見本のような映画。ちなみに、女性関係ではダメダメなヘンリー王演じるエリック・バナ、髭の向こうの意外な童顔が、王の隠れた弱さや孤独、不安さを滲ませていて好かったです。佇まいは地味なんですが、ふっと“男の華”を感じさせますね。 ケート・ブランシェット主演の『エリザベス』は、“女性版・ゴッドファーザー”なんていわれたました。『エリザベス』が、ご本家『ゴッド・ファーザー』の劇画的でドラマティックな部分を受け継いだとしたら、この“エリザベス王朝ビギンズ”とでも呼べそうな『ブーリン家の姉妹』は、『ゴッド・ファーザー』の息苦しいほどの緊張感、過剰なストレス下での閉塞感みたい要素を引き継いでるような気がしました。 姉妹の性格や歴史の中での役割を対比させるような衣装や、イメージカラーの映像への置き方なども美しく、それらが、比較的ダークなトーンの中で、巧く役割を果たしていました。 ところで、アクセサリー・ブランドのageteが、この『ブーリン家の姉妹』とコラボレートしてるんですよね。劇中でも、ナタリー・ポートマンの首筋を飾る、あのブーリン家のイニシャル。これをアレンジした記念ネックレスが発売されているのですが、映画の衝撃的な最後を思い出すと、なんか不吉かもなぁ。なんて。アンのネックレスをつけて野心と情熱にあやかるか、メアリーのネックレスをつけて、王に愛された純粋さにあやかるか。いやはや。(了)ブーリン家の姉妹 映画ポスターブーリン家の姉妹(上)ブーリン家の姉妹(下)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/14
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***********************************************************塩野七生著『ローマ人の物語』(14) パクス・ロマーナ(上)(新潮文庫) 読破ゲージ:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ***********************************************************オクタヴィアヌスによるパクス・ロマーナ、はじまる。オクタヴィアヌスの帝政移行は、重ねて周到。まずは、元老院派を安心させながら、アクロバティックにカエサルの遺志を実現。ローマ中が久しぶりの「融和(コンコルディア)」に喜ぶ中、領土拡大から領土維持に適したリストラを断行。湧き返る民衆の支持と、真意に気付かぬ元老院派の共和制信仰をくすぐりながら、軍備削減、元老院議員の議席数削減、果ては共和制復帰宣言。派手な大盤振る舞いで注意をそらし、オクタヴィアヌスが手にしたのは、事実上最高権力。つまりは、手放した方が良い特権を放棄しただけのこと。いまだ34歳のカエサルの後継者の深謀遠慮は桁外れ。執政官、インペラトールの称号の常時使用権は保持しながら、共和制復帰からたった三日の間に、アウグストゥスの尊称を、誰ひとり異議を唱える者なき最高の適任者によって獲得。これで「権威では他の人々の上にあったが、権力では、誰であれわたしの同僚であった者を超えることはなかった」と嘯いてみせるとは。アウグストゥスとは、もとは神聖なものや場所を意味する言葉。権力臭がなかったことが危険視を遠ざけた。共和制をローマに返した男、その名は「インペラトール・ユリウス・カエサル・アウグストゥス」。自己抑制能力もまた抜群だった男は、一手一手は合法に徹しながら、それらの集積が、共和制下では非合法である、つまりは帝政の強化につながっている、この卓抜なるマジックを遂行。アウグストゥスの統治への理解は、体制(テーゼ)を倒しながらも、体制への反対でしか成立し得ない反体制(アンチテーゼ)では意味がないからこそ、新体制(ジンテーゼ)樹立にこだわったカエサル直系。統一と分離、中央と地方、中央集権と地方分権、これら矛盾し相反する概念を並立/同居可能なシステム構築の成否がすべてと把握。例えば、多神教のローマにとって、一神教のユダヤ王国の扱いは、パクス・ロマーナの試金石に。あるいは、いまだ留保され続けるパルティア問題もまた。しかし、カエサルも果たせなかったローマ人の雪辱戦は、一兵も動かすことなく外交によって解決。アウグストゥス外交の傑作と呼ばれるまでに。私有扱いにしていたエジプトでは、インフラ整備と、政教分離の概念を導入。文化を尊重しつつ、文明をもたらした業績の一つ。ギリシャ経由で東を後にしたアウグストゥス、アテネにて、やがてこの世を去る直前の詩聖ヴェルギリウスと出会う。叙事詩『アエネイアス』を火中から救う。アウグストゥス、ローマへ帰還。(了)ローマ人の物語(14)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/11
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当代の女傑。そう呼ぶことを、きっとご本人は嫌がるに違いない。難民を助ける会会長であった、相馬雪香氏が、11月8日(土)、96歳の生涯を閉じた。「憲政の神様」と言われた政治家、尾崎行雄の三女。女性の社会進出に高いハードルがあった時代にも、果敢に、自らの使命と理想に忠実であられ、生涯を通じた旺盛な活動は、欺瞞とは無縁の、実のある、文字通り人道活動であった。 縁者として、比較的近い場所にいながら、生前はお目にかかる機会もあまりなかった。招かれた別荘で熱っぽく世界を語る姿には、年齢を感じさせず、若者の背筋をぴんと伸ばす迫力があったことを今でも思い出す。また、若者の意見を逸らさない度量のある方だった。年齢を重ねることに胡坐をかかない、いつも初心の心意気だったのかもしれない。いや、あの激しい情熱の前には、時の経過など無力だったのだ。 いただいた言葉を胸に、「未来の本舞台」に向けて“日々是初心”を誓い、ご冥福をお祈りしたい。(了)
2008/11/11
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***********************************************************塩野七生著『ローマ人の物語』(13) ユリウス・カエサル ルビコン以後(下)(新潮文庫) 読破ゲージ:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ***********************************************************「人間ならば誰しも、すべてが見えるわけではない。多くの人自分が見たいと欲する現実しか見ていない」。そう言ったカエサル。パルティア戦役へ経つ前に、旧制度への憧憬と、本来は「帝政」であるカエサルの新秩序を、忌避すべき「王政」と無意識に見たがった、マルクス・ブルータスを首謀者とする14人によって、紀元前44年、武器を帯びること許されぬ「ポンペイウス回廊」にて、ユリウス・カエサル、刺殺さる。享年55歳。救国の英雄と迎えられると信じた暴挙は、ローマ市民には愚挙と映る。浅はかなり、14人の怒れる革命家。生前書かれたカエサルの政治上の遺言状を読んで唖然。カエサルを殺した要人クラス・子飼クラスは、恩を仇で返したことに。のみならず、国法にしたがって、おめおめとカエサルの深謀人事にて、視線が痛いローマを脱出、各地赴任へ。「ブルータスよ、お前もか」。なるほど、目をかけたお前までもが…というダイイング・メッセージのブルータスは、デキムス・ブルータスなら辻褄が合わないないが、カエサルが嘱望した暗殺の首謀者マルクス・ブルータスだから納得。暗躍に徹した謎の立ち位置・キケロ、矛を振るっても決断をしなかった革命家崩れたちを恫喝。暗殺まで教唆したキケロの夢、古き佳き共和制復活はペンディングのまま。カエサル、死して新秩序を遺す。元老院に対して紳士協定で臨んだカエサルを、非紳士的振る舞いと、武器携帯の許されぬ元老院会議場で殺害した者たちは、二重の失策、政治的才能ではカエサルが信頼しなかったアントニウスが、ひとり事実上カエサルの後継者顔で旭日の勢い。そこに、次代の担い手・アクタヴィアヌス登場。遺言により、18歳で、カエサルの思想も魂も家名も権力も、そして課題も責任も宿命も引き継いだ、後の初代皇帝。オーソライズされた、本物の後継者の登場も、病気がちの小僧相手では、アントニウスまったく警戒せず。カエサルが、養子にまでしてすべての後事を託したオクタヴィアヌスを侮ったのは、カエサルを侮ったに同じ。オクタヴィアヌスは、カエサルとはまた違うモンスターであることをやがて知ることに。周到な“プエル(少年)”は、まず地元ローマで「カエサルの真の後継者」であることを、徹底的かつ迅速、かつ合法的に浸透させる。そのためには、キケロの慢心すら逆手に取れる、恐るべき子供よ。僭王・アントニウスを弾劾、キケロあくまで共和制復活に粉骨砕身、その希望を「かわいいオクタヴィアヌス」に託したのが運の尽き。ともあれまずはオクタヴィアヌスを旗頭に、アントニウスを叩かねば。アントニウスはアントニウスで、カエサル人気および地盤を強引に引き継ごうと、カエサルに手を下した者たちを折っては、天才的武略で果敢に撃破。ただし、復讐はカエサルが最も嫌ったことであったのだが。が、復讐することで実現する理想もある、と醒めて引き受けていたのもまたオクタヴィアヌス。復讐するは我にあり。暗殺者とアントニウス、そして帝政移行の障害を一つ一つ崩して行くオクタヴィアヌス、急がば回れで、初手はアントニウス、レピドゥスらと「第二次三頭政治」へ。目的のためには、事実上現在最高の実力者には違いないアントニウスとも組める策謀、天井知らず。悪名高きスッラのブラック・リスト復活、カエサル暗殺・処罰者名簿が、世紀の対決の舞台上の塵芥を一掃した時、オクタヴィアヌスの隠された牙はアントニウスに公然と向けられる。なお、リストのナンバーワンには、キケロ。青天の霹靂、戦犯キケロ、もはやこれまで。結局、最高に祖国を愛したことでは、カエサルとキケロに違いはなかった。ただ、描くビジョンに差異が、そしてカエサルの方には未来があった。時代の読めなかった両ブルータスも死して、カエサル神となり、アントニウス東へ、オクタヴィアヌス西へ。雌雄決する最後の詰め。ただし、アントニウスには慢心と、クレオパトラがいけなかった。カエサルとの子を抱くクレオパトラ、最高権力者アントニウスを簡単に籠絡。アントニウスとまで子を成すまでに。クレオパトラの一方的なリードで、アントニウス完全に骨抜き。ありとあらゆる失策を重ねる。その分だけ、オクタヴィアヌスにアドバンテージが。“神の子”のもとには、ミスター・メセナ、マエケナスと、喧嘩はからきし駄目なオクタヴィアヌスの右腕、勇猛なるアグリッパが参集、三本の矢は徐々に的を絞って行く。怜悧なオクタヴィアヌスも案外純情、情熱家。人妻に横恋慕、晴れて結婚。アントニウスも結婚、クレオパトラと。嗚呼、これで、完全にローマ全体の敵に確定。イメージ戦略・パルティア遠征も、アントニウスには荷が重かった。成らぬ遠征を、クレオパトラ・プロデュースによる異国風凱旋式で慰労されたアントニウス、もはや逃げ場なし。オクタヴィアヌス、三頭政治終焉を決め、一気に反アントニウス・反クレオパトラのキャンペーンで市民を煽ると、東地中海へ“トニ退治”。クレオパトラの軍事会議出席も士気を下げ、逃げる準備が周到過ぎた海戦では、闘う前に兵脱走。勝つための戦なら、逃げる準備はしておかないだろう、と。決戦「アクティウムの海戦」もまた、クレオパトラの指令ミスで、戦の主導権を丸ごとオクタヴィアヌスに渡す形に。追い討ちをかけたのは、陣形立て直すために戦線離脱したクレオパトラを、敗走と見て棄てられず追ったアントニウス、はからずも戦闘放棄。しょげるアントニウスに、伝説の「プトレマイオスの財宝」をはたいて再起させようとクレオパトラ。「戦士で富はつくれるが、冨で戦士はつくれない」ローマ流を知らなかったは不幸なり。策に溺れたクレオパトラの偽情報が絡み合ってのアントニウスの死は、ロミオやジュリエットを地で行く最期。惚れた者のために死すもまたもののふにござる、か。オクタヴィアヌス、勝者として東に入城。傾国の美女、毒蛇に死す。復讐の連鎖の芽、カエサルとクレオパトラの子・カエサリオンは周到に摘んだとはいえ、残りの子は生かし、遺言通り、アントニウスの傍にクレオパトラを葬ったオクタヴィアヌス、これが情愛の墓場か。アレクサンダー以来、300年続いたギリシャ系プトレマイオス王朝、ここに滅す。国境をまたいでのローマ人同士の内戦、ここに終結。足掛け14年。オクタヴィアヌス、カエサルの寛容ではなく、平和(パクス)を基本方針に新生ローマ創設へ。パクス・ロマーナ、はじまる。本巻、巻末、参考文献に、カエサルとキケロの対比を軸に、「なぜカエサル前後は後代にも生き生きと描かれること可能だったか」が触れられている。(了)ローマ人の物語(13)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/10
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***********************************************************塩野七生著『ローマ人の物語』(12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中)(新潮文庫) 読破ゲージ:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ***********************************************************ポスト・ポンペイウス時代のカエサル。短い期間にやるべきこと山積。カエサルの理想は、ポリス(都市国家)を超えたコスモポリス(世界国家)。文化は共有しても文明は共有せず。ローマ世界の平和(パクス)を確立するため、目の上のたんこぶ除去へ。ファルナケスとの戦いでは、早くもキターーーーーッ、「来た、見た、勝った(VENI,VIDI,VICI)」、名台詞登場。世紀の決戦のあとは、ポンペイウスの地盤をカエサル側へ転換すること。ところで、博識と貴族的精神は別物、と。キケロ、好例。ポンペイウス残党との戦いが続く。筆者によれば、戦術とは、的を包囲することをどのようなやり方で実現するか(所謂、方位壊滅作戦)に尽きるのではないか、と。アレキサンダー→ハンニバル→スキピオ・アフリカヌスと磨き上げられたローマ式戦術は、カエサルのオリジナリティでさらに変幻。ただし、これはカエサルだけが駆使できる飛び道具。タプソスでは、兵士スト→功を焦ってのフライング、により予想外の戦端も、結果オーライ、勝てば読み通り。硬骨漢・小カトー、ウティカに堕つ。確かに、親戚縁者の身柄をカエサルに託したのはらしくなかったが、少なくともお前自身は腐ったミカンじゃなかった。敵すら許すカエサル流クレメンティア(寛容)は、古き良きローマを奉じる小カトーには容れられず。確かに、自由たる人間の処遇を、寛容であれ、非寛容であれ、一人の人間の一存で左右することは“暴力”には違いない。だが、時代は革新を、カエサルは革新を求め推進していた。小カトー、憤死で、カエサル宿願の凱旋式へ。それにしても、慣例とはいえ、市民による「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ」なるシュプレヒコールはあんまりだ。戦場では孤独でなかったカエサルも、政治では常に孤独。孤独は創造の才能の代償で、孤独を嘆いていては創造の作業は遂行できない、とは著者のカエサルへの慰めと応援。暦の改定。紀元後1582年、法王グレゴリウスの再改定までユリウス暦がスタンダードであり続けた。ちなみに、グレゴリウス暦で修正されたのは、1627年間で僅か11分14秒。几帳面。ユリウス暦を作ったカエサルとエジプト人たちも偉かったが、僅かな誤差の修正にこだわった法王グレゴリウスもまたえらかった。旧ポンペイウスの蜂起は局地的に続く。スペインはムンダで会戦勃発。ポンペイウスの息子たちもここに敗れ、恐るべきラビエヌスも戦死。カエサル、帝政へ王手。カエサルの独裁政治のビジョンの源流は、統治する領域が広くなればなるほど、決定力が鈍る600人からなる元老院制の妥当性へのノン。史上例のない終身独裁官に就任。これが、遠くない後に「戴冠」の誤解へとつながることに。カエサル、ハンニバルすら攻略を諦めた、紀元前600年からローマを護って来た「セルヴィウスの城壁」を破壊。ベルリンの壁もかくあろうかと。本当に安全で平和な我らが首都・ローマは、壁要らず。開放の精神の発露。実現しなかったカエサルの改革には、造本事業があったとか。中世に入って、修道僧がカエサルの造本のアイディアを再発見。「三頭政治」時代の共謀者・クラッススの不名誉なる敗北の汚名をそそぐため、カエサル、ローマでなすべき布石をすべて終え、いざパルティア遠征を発表。終身独裁官として?暴君として?成功した栄えある革命家として?皇帝、あるいは王として。それが気に入らないのなら、摘むべき芽は花開く前に。不穏な影が、出立前のカエサルに忍び寄る…。なお、カエサルの政策の具体的な内容は、この12巻で一覧可能。(了)ローマ人の物語(12)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/06
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クシシュトフ・キェシロフスキ監督作品。1991年カンヌ国際映画祭主演女優賞(イレーヌ・ジャコブ)・批評家連盟賞・全キリスト教会賞、全米映画批評家協会賞外国作品賞 。スゴい…。 でも、私にとってこの一作は別の意味で、なんだか重要。もう10年以上は前でしょう、観に行きましたよ。劇場に。池袋。だったな、確か。あの日、マックで昼ご飯食べたんだよな、とか。劇場に行く途中で聴いていた音楽も覚えてるなぁ(MN8ってアイドルグループ。結構好きだったんだ、これが)。でも、作品のメッセージみたいなことは、もう全然覚えていなくて。いやはや。 同じ日、同じ時刻に、ポーランドとフランスで生まれた、ふたりのベロニカ。観ているうちに、「あぁ。あのスーパーボール…」とか「あぁ、人形劇ねぇ」と、印象的なシーンがどんどんよみがえってきました。いやぁ、当時は全然集中してなかったんだな、こりゃ。 流麗で、歓喜を呼び起こすような荘厳な音楽、本当に、冒頭にも書いたように、ほとんどディティールを覚えていなかった私にさえ鮮明な記憶を刻み付ける映像。 ストーリーは、どうなのかなぁ。広い世界にいるもうひとりの自分とのつながり、絆。どこかにいる、まだ見ぬもう一人の自分が死んだとき、言いようのない喪失感が“遺されたベロニカ”を導く…。そういうメッセージもあるような気もしますが、私自身はこうした「自分探し」的なメッセージより、詩情溢れる奇譚が醸し出す、面妖な、独特な美の結晶みたいなものを感じてしまいます。ストーリーより、絵巻で伝えるようなイメージ。それがクシシュトフ監督が『ふたりのベロニカ』で描きたかったことなんじゃないか…なんて、今さら思ってみたり。とにかく、音楽、映像、とくに、光とか、陰翳を交えた印象的なカットが多く、美しい映画です。(了)[DVD]ふたりのベロニカ スタンダード・エディション■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/05
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急に吹く風の冷たくなった秋の三連休。それでも、前半は好天に恵まれました。そして私は、実に久しぶりに、動物園なるものに行ってきました。よくよく振り返ってみると…そうですね、学生時代でも行った記憶がないなぁ。普通はデートなんかで行くのかな。海外ではサファリみたいなのに行ったかな。ともあれ、それほど嫌いでもない動物園から、ずっと縁遠くなっていたのですが、これって童心にサビが付いてたってコトでしょうか??? この千葉市動物公園、無論レッサーパンダの「風太くん」で一躍有名になった(ちなみに、レッサーパンダの赤ちゃんの名前は、「チイタ」と「クウタ」です)動物園ですが、連休初日とあってなかなかの賑わい。ここは正門から動物ゾーンへの道の桜も綺麗みたいです。 ここの動物園は、近隣に住宅があるからなのでしょうか、猛獣の類はいないんですね。でも、種としては珍しいおさるさんなどもいるし、大物の象やキリンもちゃんといます。ヤギや小動物との「ふれあい広場」もありますし。 子供の頃のイメージですと、動物園って臭い、という感じだったのですが、ここ、全然臭くないんですよ。最近だと、フンなどの匂い消しみたいな餌があるくらいですから、そういうものでも食べさせているのかな。 さておき。この千葉市動物園、ずっと気になっていたんですけど、シンボルマークがゴリラの横顔なんですよ。なんでかな、と気になっていて、この日は個人的にはゴリラに会いたくて。結局、なぜゴリラがシンボルなのか分かりませんし、おそらく関係はないのかと思いますけど、まるで自分が動物園の看板だぜ!!的ゴリラがいましたよ。岩山の真ん中、日当たりも良好な位置にでんと座し…なぜか肩からタオルを羽織ってる!!なんなんでしょう???でも、似合ってる。。。キミはゴリラ界の中尾彬氏か???とでも言わんばかりの堂々たるお洒落っぷり。なぜか、ゴリラ=シンボルマーク、に納得してしまいました。(了)■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/11/04
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