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年末の忙しい時期に11日間も入院してしまった。時間を取り返す事は無理だと思うけど、身体はゆっくりリセット出来て喜んでいるだろう。 退院に際して「もともと腸の動きが弱いので無理しないように。1月5日に外来に来てください」との事。下剤を飲んで数回に分けて食事をする方が良いとの事だった。いままでも食い溜めは出来ないので、少しずつ食べていた。食事だけではなく休養も心がけようと思った。 年末で退院の人が多く、精算する人が多く、時間帯が集中して1時間も待たされた。今日だけ応援を頼めばいいのにと同情した。 築地なので雰囲気だけでもお寿司だなと思って「すし好」に行った。迎えに来てもらった両親はお正月にぎり、私はアナゴ丼を中心に食べた。アナゴも白焼きににきりをつけた品の良さ、大満足、別に寒ブリとアイナメのにぎりを味わった。もっと食べたいけど慣れてからにしようと思った。 買い物などもして夕方になった。片付けと雑用でこんな時間になってしまった。明日から平常スケジュールで再出発だ。
2005年12月27日
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2005年12月26日退院前日 日曜日の夕方は身内が勢ぞろいした。カツ丼のアタマと野菜スープ、さらに上品な鳥のももを運んでもらった。少しづつ食べても種類があって満腹になった。夕食は一人お膳で食べるのは悲しすぎるので、うるさくても誰かがいてくれたほうが楽しい。 19時に面会が終わり夕食も終わり。普段の生活ではまったくありえない。21時に消灯でまわりの電気を消されるが、私は個室なのでつけていても許される。普段なら考えられないが、0時には電気を消し7時間連続してたっぷり寝た。クリーンルームは湿度も調整されているので快適そのもの。口も渇かないし薄着で十分だし、絶対風邪ひかないと断言するのもわかる。 強烈な下痢が終息し、今度はまる4日お通じがない。はった感じもしないがレントゲンを撮りに行く。上のほうまで便がたまっているらしい。栓のようにつまっているらしく浣腸を使った。 入院中に保険の請求関係の書類を揃えようと思って電話をする。ある保険会社は契約者番号を言えという。手元にあるわけもなく事情を説明した。登録した住所に関係書類を送るだけなのになぜそんな細かい事を聞くのかと不思議に思った。名義や契約内容の変更などなら理解できる。電話で済まそうとしたら万全を期さなければならない。 普段から気に食わない事があった。契約するまでは何度も足を運ぶくせに、契約したら顔も出さない。真剣にやっている人には悪いが、女性は全く信用できない。送って下さいとお願いしているのに、出来ませんといわれてアタマにきた。言葉遣いには気をつけたほうが良い。調子にのると噛み付かれると言う事を習ってこなかったようなので、言っても仕方ないと思ッたが、自分の怒りを抑える為に犠牲になってもらった。公衆電話なのでつとめて冷静に振舞っていたので、そうとうイヤミな言い方になったろう。 重要な事は、全国どこにでも契約に行けるなら、変更も指定されたところに行けばいいじゃないか。度々あることじゃないし。逆にいろいろ質問したが、会社の都合ばかりを優先し、契約者の事を実は自動振込機ぐらいにしか思っていない事がはっきりした。自分達は個人情報保護法をしっかり守っていて、なんかあったら責任を果たしていたと言いたいだけだ。さらに自分達はそうしておいて、郵便は書留ではなく普通郵便だという。契約者番号を調べなければ遅れないような重要書類なのに、郵送料が勿体ないと思っているだけじゃないか。ポリシーもなにもない。保険金は払いたくない事が見え見えじゃないか。結局上の人間は出てこなかったので、やめてあげた。最終的に名前と生年月日を確認してもらい登録の住所に送ってもらう事になる。電話に20分。このブログに1時間も時間を裂いてしました。読み返すのやめよう。もう寝なきゃ次の日に読み返してみた。すごい怒っているいじるのはやめてそのまま載せちゃおう。まあ怒るくらい元気になったたので良かった。
2005年12月26日
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2005年12月24日クリスマスイブ 水分も、栄養も取れているので点滴がなくなり、行動は自由になった。今年のクリスマスイブは汐留で食事をする予定だった。昼間に銀座で食事をしたので、とりあえず気は済んだ。外出の時間は限られているので「3丁目の夕陽」を見ようと思って早めに行った。しかし「ただいまの時間立ち見です。」と言われてあきらめた。 銀座4丁目の文明堂でお茶にする。一度立ち寄ってみたかった。ホット抹茶に、コーヒーと小豆などをのせたチョコレートケーキ(金粉がふってある)とても品があってリッチな気分になる。野暮な話だがランチを食べるよりいい値段がする。2005年12月24日夕食 夜ご飯はセンターで食べた。骨付きの鳥のももにショートケーキまで出た。見た目豪華なだけに一人で食べたら寂しいだろうな。外出時にキッシュパイなど買っていたので、連れとクリスマスイブを祝った。私が半分も食べられる訳でもなく、いろいろな物を少しづつ口にして終わりなので、連れの胃袋に次々に収まった。 クリスマスイブの夕食は、前回2年前と比べものにならない。これだけ違ったら、ひきこもりになるのも無理はない。世の中に食べれない人もかなりいるのだな・・・と思いつつ、感謝しながらよく味わって食べた。 2003年12月24日夕食 私の場合数日間食べなくても全然平気慣れたものだ。時間に対する感覚も1週間なってすぐだからと思える。仕事しながらならは無理だと思うが、普段から内臓を休める意味で夕食を抜いたりする。食べる事が一番の薬であるとすると、私にとって同じくらい断食も薬であるようだ。 断食道場へお金をかけて行くぐらいだったら、検査もしてもらって、空調なども整った病院で医学的にやってもらうのも良いと思う。外に出ないという事は、それだけで体が休まるし、蓄積された疲れも取れてリフレッシュになる。でも退院してから蓄積されている仕事を考えると心は休まらない。全てがうまくいくことなんて、都合の良い話はないんだよな。
2005年12月24日
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2005年12月22日食事がはじまった。 昨日で一応の検査は終了。昨晩から食事をはじめた。内視鏡が終わり4時間たったので、カフェラテを250ml飲んだ。ほぼ一気飲みだったので気持ち悪くなった。吐き気止めを1本点滴で落としてもらうが気持ち悪さが取れない。実はビスケットも少し入れたのでお腹も痛くなってきた。6日間の絶食のあとは、やはり重湯ぐらいからはじめて、お粥にもっていかないとダメだ。耐え切れなくなて吐き気止めもう1本追加してもらった。 しばらくして5分粥の夕食が来たので、味噌汁と上澄みだけお腹に入れた。なんとなく調子が整ったようだ。 横になって安静にしていたら、珍しく10時前に寝てしまった。そんなに寝れるわけもなく2時半には起きてしまった。電気をつけるのも気が引けたのでDVDを見た。見回りの看護婦さんは、夜中起きているの私を見て「いつも起きていたよね」と思い出したようだった。 朝は全粥だった。しかしおかずがいただけない。お粥を食べる人は体の弱っている人だろう。油っぽいものは食べたくないはずだ。いくら湯がいても、がんもどきの煮物に、油あげの味噌汁では、食欲なくすだろう。汁と粥だけ7割食べた。全部食べられるが大事を取った。 昼は常食で中華丼になった。マヨネーズ味が濃いが好きなマカロニサラダがでた。良く噛んでゆっくり食べた。2割はやめておいた。 午後はイスに座って机で作業していた。食事をとると気力が出る。昨日まではビタミンとカロリーだけで、やる気がうせていた。やはり人間食べれる事が大事だと改めて思う。 夕食は、両親がトン汁を運んで来てくれた。栄養ある汁気が一番なのでニンニクもきかせてもらった。センターの食事もおいしいが、ご飯も半分おかずも半分で、あと半分は二人につまんでもらった。 今日は冬至1年で一番好きな日だ。だってこれから日が1日1日と伸びていく。冬至といえば「冬至かぼちゃ」これは夕食に出ると思っていた。センターのもよそゆきな味でいいが、やはり家庭の味が良い。さらにうれしいことに田舎のおばちゃん特製のかぼちゃあずきを持って来てもらった。トン汁にかぼちゃあずきが非常においしく体の隅々に届くのがわかる。こうして私の体は、元気になっていくみたいだ。
2005年12月22日
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2005年12月21日 内視鏡の検査は、早くて苦痛を感じる暇がない。最初ののどへの麻酔が気持ち悪いだけで、終わりまで20分とかかっていない。今回も3箇所から組織をとったらしい。いつも見てもらっている先生に、きれいでしたよと言ってもらえた。 CT検査はしばらく待っていて、時間がかかった。CTの検査室は以前はひどい所だと思ったが、私とみんなでガンガン言った甲斐があって、非常に丁寧になった。もどってくると引っ越しが終わっていた。 キャンドルサービス。新人の看護婦さんが合唱隊になって歌う。そういえば去年は見なかったけど、丸2年すごしてなかったんだなと思った。病室にも、先生ふんするサンタクロースがやってきた。名前の書かれた小さな手紙には、応援メッセージが書かれている。前回は長かったので特別感動して今でも残っている。
2005年12月21日
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2005年12月20日 最終回を病院のベットで見た。先週は入院するとは夢にも思わなかったので、人生何が起こるかわからない。 全編しっかり見て力強い言葉の数々が心に残った。「私役に立ったんだ」・・・言葉で他人を励ました。「私の体使ってね。同じ病気の人の役に立ちたい。先生の役に立ちたい。」人の役に立ちたいと願う亜也さんに、自分の不甲斐なさを恥じた。 原作の言葉の力強さはどうしてなんでだろうとずっと思っていた。お母さんの言葉ではっきりした。「あの子は日記に自分を励ます言葉を探していたんです。」 原作が180万冊発行されているという。単純に100人に2人は読んでいるとすると日本の未来も希望が持てる気がした。私も時々原作を読み返し言葉を噛みしめようと思った。
2005年12月20日
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2005年12月20日 昨晩21時にプルセニド2錠飲んだ。5時に目が覚めた体重は57.7キロと変化なし。お腹も動きそうな気配はない。6時から経口腸管洗浄剤を飲み始める。「ムーベン」(レモン風)は初めてで、2リットルのボトルを見ただけでもゾッとする。味はマグコロールの方がポカリスエットのような感じがするだけましだ。絶食した胃には異様に気持ちが悪く感じる。気分として内視鏡検査の前に飲む泡消し剤と同じで、想像するだけでも吐き気が起きる。 飲み初めて90分、700ccは飲んだ。おなかは動かない。吐けないけど気持ち悪くてテレビ見て横になっているしかない。「1.5リットルは飲んで下さいね」って言われたけど無理。目盛りが1リットルを少し越えている。すごく弱っている時、300ccくらいで勘弁してもらったけど、大好きなスタバのカフェラテでも2リットルは飲めない。500ミリのペットボトル4本なんて飲めない。瓶ビールでも3本だろう。1本ならサウナから出て一気飲みだけど・・・。 9時いきなりぞろぞろ人が来た。サーッとカーテンが明けられた。そこには血液内科のT先生がにこやかに立っていた。私の病名を決めてくれた血液疾患の権威だ。久しぶりにお会いしたが、私の事を覚えていてびっくりした。まさに白い巨塔の総回診のような大名行列だ。年に2回とないはずだからすごいタイミングだと思った。 10時を過ぎても通じがない。11時になっても気配がないので先生も見にきて、浣腸しましょうということになった。11時30になって一様あったが、1.5リットル飲んでこれだけって感じだった。あと500ccがんばって飲んで出し切ることにした。しかしこの時間では体調不良ということで上部の内視鏡は中止になった。こんなに気持ち悪い思いしたのについでに頼むよと思ったけど・・・、必然的に食事がもう1日伸びることになった。 14時が予定だったが延びている。あきらめてイスに座って作業していた。15時に出したけどまだ黄色かった。まだ出ないので16時にマグコロールを500ccのミネラルウォーターでうすめて飲んだ。こんな時間に追加して大丈夫かと思ったけど、上から押し出すように多少出た。16時40分に呼ばれた。受付の若い子に「久しぶりです」って言われ、看護婦さんからはこっちこっちと手招きされる。「トイレまだ出るよ」と言ったら「吸っちゃいますから」とさりげない。 説明ナシで着替て部屋に入るといつものK川先生のチームだった。私の専属の先生だ。早速横になって、簡単に下痢の経過を説明している間に準備が済んですぐ始まった。全く痛くない、苦しさも不快感もない。動きに無駄がなく「きれいですよ」と言いながらどんどん進んでいく。「少しとっておきますから」と3回コードを入れて大腸の組織を採取した。これらの様子をデジカメで撮ってもらった。上部内視鏡に比べて吐き気もないし、下剤での洗浄がメンドクサイだけでありがたい検査だと思う。 着替えて時計を見たら17時20分だった。実際20分くらいしかやってないだろう。惚れ惚れするほど手際が良い。明日上からやれるようにしますからと話をしてもらって帰った。まだ麻酔が効いていてふらつくので、車椅子で迎えに来てもらった。そのまま寝てしまった。なんかのどは渇くのに、下剤がお腹でぐるぐるしていて少し痛む。検査の時のエアと薬品が大量に残っていた。 担当の先生が来て「上から見てなんともなかったら食事を始めますから。年内の退院を目指します。」と言ってた。今週中の間違いでしょ!金土日3連休だから来週か。木曜日に退院するのと比べるとすごい大問題ジャン。 病棟のみんなにお疲れ様でしたと言われた。お世話してもらっているのはこっちなのに、すごく大事にしてもらっているのでありがたかった。
2005年12月20日
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2005年12月20日 アモバンがよく効いて7時間ぐっすり眠れた。体温36.4度、体重57.7キロ(パジャマと上着含む)、血液検査7本、ルートからでなく刺して採血。腹部のレントゲンに呼ばれる。 歯科はもともと予約してあったので見てもらう。奥歯が虫歯になっているが、少し歯石を削って終わり。乾燥してるから口を開いているのがつらい。経過観察で治療は今後考えていくとした。ピーナツ入りのチョコが歯に詰まると激痛なんだよね。 血液検査は細かい項目が増えた。LとかHのマークがなんか普段より増えると嫌な感じ。不健康そうに見える銀座のお姉さんの血液データを見てみたい。私より健康的とはどうしても思えない。 金曜日から丸3日72時間は何も食べてない。火曜日から6日間ほとんど食べれてなかったから、胃はだいぶきれいになったと思う。食欲の峠を過ぎたと思っていたが、猛烈に食べたい時がたまにある。ソフトクリームやチーズケーキが食べたい。食事なら良く煮た稲庭うどんかタラバガニの雑炊がいい。 ベットって机と違うから物書いていると肩がこる。イスじゃないから長時間起きてられない。1階ロビーは机になっているが寒いので、それなりの格好しなければない。輸液ポンプで行動を制限され、食事してないのでおとなしくなってしまった。 絶食は肥満の人へならわかるけど、標準体重がマイナスでも関係なく私には標準治療になりつつある。ブドウ糖にビタミンを入れてもらえるので生きてはいける。点滴をつけるより、ご飯をしっかり取るほうが力が出る事をあらためて感じた。元気どころか気力もなくなって、集中して本も読めない。こま切れの時間を合わせて年賀状を作って発送した。
2005年12月19日
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2005年12月18日 腹部レントゲンを撮って終わり、点滴をつなげるだけだった。昨日のレントゲンでは腸閉塞気味だったという事でしばらく様子を見るらしい。ゆっくり出来たのは午前中だけ、午後は身内が勢ぞろい。治療じゃないんだからおおげさなと思うが、心配してもらえてありがたい。 夜ネットにつなぐようにしたかったが、しばらく公衆電話からしてないのでダイラルアップが出来なくなっていた。1日300円らしいが病院のキーボードのないパソコン環境は面倒くさかった。うまく出来ない事がわかったので、しばらくあきらめることにする。 せっかく築地にいるのに、なんか美味しい物を食べられないことが多い。病院だからあきらめるか・・と思いながらも、食事を取らないのでイライラしていた。食べれなくても良いが、カフェラテが飲めないのは悲しい。水とお茶ばかりで気力がなくなってきた。飲み比べてみて伊藤園の黒豆玄米茶はおいしい。 私が大人になったかと思ったが、連れは私の対処法をうまく心得ていて、イラつかない方向へ話をもっていっていた。よく考えるとけっこう上手にあしらわれていたと思う。深夜になって空腹感はない。やる気もなくなった。
2005年12月18日
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2005年12月16日入院前日 昨晩は食事の量を加減したおかげで、目が覚めたらお腹がすいている感じがした。普通に食べれそうなので、お茶碗に軽くご飯を盛って、おかずも茶碗蒸しや煮物をそれなりに食べた。お昼には出かけようと思っていた。家で作業をしていたら胸焼けのような感じがした。 12時半位にお昼に呼ばれたが、調子が悪く私だけ好きな時間に食べるからと告げ、お茶だけ飲んだ。出かけるのはやめようと思った。 14時半になって多少空腹感を感じたので、お粥を作ってもらうことにした。お粥を頼む時点ですでに異常である。全粥にお湯を足して五分粥にして茶碗に半分食べた。 食事後1時間後くらいからお腹がはり始めて、だんだんパンパンになるのでこれはやばいと思った。 17時少しになってとうとう耐え切れなくなって横になりながらセンターに電話した。このまま膨れ続けたら破れそうな感じがした。週末だし、夜中に緊急で診てもらえないかもしれないので、何かあったらお願いしますと断っておきたかった。 発病時そのような前兆はなく、下痢が3ヶ月くらい続き一瞬息をこらえた時に破れて腹膜炎になった。腹膜炎は破れた瞬間から痛く、十数時間も我慢できない。5,6時間で意識が遠のくほど痛い。そんな事を思い出しながら電話を話して今日の様子を先生に伝えた。先生は「なんとなく予想していました。でもがっかりさせたくなかってのでもう2,3日様子を見ようと思っていました。」と言いながらすぐにベットの手配をしてくれた。それから食事をせずに明日の確認してから来るように言った。 電話を切ってから、大学など予定のあるところに連絡を取った。このままでは行けないが、食事さえしなければ元気にいれることはわかっていた。しばらくするとガスが出始めた。しかも大きく量のある屁である。音も臭いもすごい。連絡が一段落ついた18時頃には、屁が出続けてそのたびに顔色がよくなるのがわかった。 20時頃にはお腹は痛くなくなった。空腹感はあったが緑茶だけ飲んだ。本田美奈子の特番をやっていたが、私だけが見ていて、両親も連れも途中風呂に入ったり何かしていた。治療のため無菌室に入るわけではないが、「明日から入院するし顔には出さないが心配しているんだ」と父が言っていた。家の家族は悲壮感は全くない。私なんかまったく心配してないもんね。まったく強がっている訳ではなく、「本気で思っているから無理するんだよね」と連れに言われた。
2005年12月17日
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来週の月曜日に外来の予定だったが、気持ち悪さとたまに不快なお腹の痛みで昨日にしてもらった。午後3時過ぎに来てくれということで行くと、まだ10人くらい待っていた。これは遅くなるなと思い、受付に17時にまた来ますと伝えたら、先生から17時30分過ぎでいいですかと聞かれた。先週外来を休んだので外来2回分になってしまったらしい。私は予定外だったのでこんな日に悪いなと思いながらスタバにお茶しに行った。 検査するかもしれないと思い、朝から食事をしていなかった。食事の後が特に痛んだり気持ちが悪くなる。気持ちが悪いとやばいなと思うし気力がなくなる。食事をしなければ気持ち悪くなる事はない。気持ち悪くなければ、元気そのもの何も問題はない。 なんて事を連れに話しながらスタバで大好きなラテを飲んだ。しばらくすると、消化されないクリームのゲップが出て、やはり少し気持ち悪くなった。 待合室は18時になると電気と暖房が消される。普段なら17時にはだれもいなくなっているから、がんセンターとしては特別だったかもしれない。18時50分から診察室に呼ばれた。私が最後だった。10日前くらいからマグネシュウムがなくてもトイレが毎日あった事。3日前から水のようなものに変わった事、昨日の夜38.5度の熱があった事を伝えた。 採血のデータは悪くないと言いながら、「腎炎ですね」と言われた。確かにケトン体も+だしそうかも。まあがんじゃなければ問題ないって事らしい。お腹の音が良く動いていて、「しばらく止まんないかもかもしれませんね」。そうそうに検査の予約をするが早く出来ないらしい。早く見てもらうにはそれなりの理由が必要なので、まずすぐ出来るバリウムで見る事になった。2,3日で治る事もあるし少し様子を見て火曜日にやって、それから上から内視鏡を入れる予定になった。 連れにマッサージをしてもらった。足裏のツボをゴリゴリやるのだが痛くて逃げ回っている。足のツボを順番に「膀胱が腫れている」「大腸小腸もこっている」などはじめ痛みを感じないほどこっていた。疲れているのかなと思った。たまにやってもらうと助かる。気持ち悪くはないが下痢はとまらない。
2005年12月16日
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先週の月曜日から便秘ではなくなっていて、毎日お通じが規則正しくなっていた。マグネシュウムを飲まずにゆるくなっていた。2日前からお腹が痛いと感じたが、今日は発病前のように便座を汚しそうな下痢だった。胃は潰瘍っぽい感じがする。 気が張っているから少し無理をしていたのか、疲れかも知れないがいかんせん気持ちも悪いし、寝ようと思ってもトイレに行きたくなる。 今日も1リットルの涙を見ながら、涙が止まらなかった。歩けなくなんて自分に耐えられるかちょっと頭をよぎった。来週の月曜日外来だからそのときまでに、下痢が続くようだったら検査してくれと言おう。 頼むから、咳き込んでいる人は、電車に乗らず家にいて欲しい。こっちは湿度20%で常に水分を口に含ませないと、舌が割れてくるんだから。乾燥はインフルエンザウィルスが大好きな状態なのだから。 脇に体温計はさんで5分たった。36.8度平熱だな。
2005年12月13日
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-戦争に消された2つの大震災- 太平洋戦争中に2つの大震災があった。静岡・愛知・三重県にわたる東南海地震と、愛知県南部を中心とした三河地震である。戦時下であり、しかも戦局が厳しさを増す中での大震災だったので、その実態は日本国民には知らされることがなかった。情報統制で厳しく報道が制限されていた時代であったと思うが、名古屋で報道関係の仕事をしていた自分も知らなかった。確かに歴史的に注目されることはなかったと思われ、どれだけの人が知っているのだろうか。 東南海地震の規模は、マグニチュードが7.9もあり海溝型の巨大地震であったために、東海地方の広範囲にわたって被害がでた。名古屋周辺の都市は軍需産業の工場も多くかったが、耐震の配慮がされておらず多くの若い命が奪われた。また熊野灘沿岸には大津波が襲来し壊滅的な被害をもたらした。これほどすさまじい震災被害をもたらしたにもかかわらず、国民にはほとんど知らされることがなかった。戦時下で厳しい情報統制が行われていたからである。太平洋戦争では、軍部による各戦線の成果をさらに誇張し勝利だけを伝えた。しかし、日本国民はうすうす敗北に気づきはじめていていた。 1944年11月24日米軍のB29 爆撃機が初めて東京を空襲した。いよいよ本土が空襲に見舞われるという危機感が、国民の間に広がりはじめた。12月7日に東南海地震が発生したのである。このような空気の中で、日本の軍需産業の中枢にあたる地域が、大震災に見舞われたことを公表すれば国民の戦意喪失につながるのではないかと軍部は考え、被災者には口止めをし、「軍機保護法」によって新聞やラジオに報道を差し止めた。 さらに約1ヵ月後の1945年1月13日に、今度は三河地震が起きた。典型的な内陸直下型地震であり、マグニチュードは6.8と東南海地震の1/40分ほどのエネルギーにすぎなかったが、犠牲者の数は1000人ほど多かった。震源が浅く局所的に激甚なゆれをもたらした。大きな被害であるのに知られていないのは、東南海地震の時と同じ理由であった。さらに、局所的な被害であったことが大災害を隠す上で好都合であった。 こうして戦時中に起こった2つの大災害とも、国民には真相を知らされなかったのである。新聞でも過小評価した記事を書いた程度で、大災害の実態は覆い隠されてしまった。こうして戦後のどさくさもあり広く知られる事がなく現代の状態になっているのである。 地震の体験は、普段からくどいくらい教育しなければならない。明治の地震学者今村明恒(1905)は、大震災には周期があると思われるが、災害予防のことは一日も猶予するべきにあらず」と警告している。寺田寅彦(1935)は関東大震災のあとに襲ってきた大火災の原因について「ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰するべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘症な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。」と述べ、一般大衆向けに対する科学教育に深い関心をもち、「民衆一人一人の科学知識のレベルが不意の災害に遭遇したときの被害を軽減する。」という事実を繰り返し説いていた。 私自身あまり、地震について考えもしなかったが、多少読んだだけでも地震について感心を持てた。科学的知識を常に身につけ、正確な判断をしなければならないと改めて思った。忘れやすい日本人ではあるが、機会あるごとにマスコミや研究機関の情報に注目して欲しいと感じた。出典伊藤和明 2004 月刊地球/Vol.26,No.12,
2005年12月06日
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2,3日前、ふと思った「ガムを噛んだらどうなるかな?」思いは具現化されるか、第六感かもしれないが通じるもの(思いが通じた?)で、久しぶりにガムを口にした。リンパ腫になる前は、タバコを吸いながらガムを噛んでいた。放射線治療で唾液が出にくくなってから、ガムは口の水分を吸収するので、やめてしまっていた。今日は口の中で引っ付くことはなく、じょじょに口の機能が復活している事を知った。 研究室にかわった木の枝があった。細い枝の先が棍棒状に膨らみ、握りこぶしをつくり手首を曲げたような変わった形をしていた。においを嗅ぐと、ほのかにチューインガムのような香りがした。果実の中に光沢ある硬い種がある。「ケンポナシ」という植物の枝先で、甘いもののなかった時代に、子供達がこの実を集めてよく食べたらしい。実際口に含むとほのかな甘みがあった。 「ケンポナシ」はクロウメモドキ科の植物で、浅い山や野に生える落葉紅葉樹である。日本名は多分「手棒梨」のなまったもので、小枝の先についた果実の形が、らい病の患者の手に似ているからという説もある。ケンポナシの実は果実酒にしたりする。ちなみにケンポナシの抽出物を含むチューインガムがある。飲酒後にこのガムを噛むとアルコール濃度を、無添加ガムに比べて10%程度低下させるという。確かに含有成分として「ケンポナシ抽出液」と記されていた。 まさにチュウーインガムは、ケンポナシのかおりだった事を知った。おまけに海藻の「フクロノリ抽出液」とも記されており、健康食品とうたっていないが、天然成分を使っていて良心的だと思った。ケンポナシで検索するとけっこうページがあるのでけっこう楽しませてもらった。
2005年12月02日
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