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澱町(よどみまち)広瀬川に架かる澱橋の向こう側が、かつての澱町。澱橋が架かる町なので、「澱町」と呼ばれたようです。かつての澱町は今、仙台市青葉区角五郎一丁目(昭和42年11月1日住居表示)と、広瀬町(昭和45年2月1日住居表示)という町の、それぞれ一部になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕澱橋を渡った先の左側が角五郎一丁目、右側が広瀬町。全国的に住居表示がほぼ街区方式で行われたので、ここでも道路を境に町名が分かれています。角五郎一丁目側には、澱橋の下に回り込むように、交通量の割にかなり広いT字路がありました。この道について、こんな趣旨の記載を見つけました。"広いT字路交差点。旧澱橋があった頃は橋とつながる十字路だった。昔の澱橋は明治22年の洪水で流失。川内の軍関係施設と市街地を結ぶ強固な橋を築造することになり、明治25年、鉄橋(旧澱橋)に架け替えられ、この交差点も幅広に。昭和36年にやや東側に架け替えが行われ(今の澱橋)、やがて鉄橋は姿を消し、十字路はT字路に変わった。"〔せんだい市史通信第28号(仙台市博物館市史編さん室・平成24年7月31日発行)より〕なるほど…T字路のガードレール(写真の右端)の先に鉄橋(旧澱橋)があって、元々は広い十字路だったのですね。明治25年から昭和36年まで使われた旧澱橋の跡は、今もこのT字路の先、澱橋の隣に残っています。(対岸にも同じような痕跡があります。この画像では見えにくいですけど…)広瀬川沿いの旧澱町。正面奥で澱橋をくぐっています。旧澱町の通り沿いに建つ「澱不動尊」澱町はだいたいこの赤いラインの範囲だと思います。先ほどのT字路には「中島丁/角五郎丁」の辻󠄀標が建っていたので、角五郎一丁目側の澱町は橋の西側のほんのわずか。このT字路までだったのだろうと思います。
February 17, 2024
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良覚院丁(りょうがくいんちょう)かつて良覚院というお寺があったから「良覚院丁」。今は仙台市青葉区一番町二丁目、大町一・二丁目、片平一丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕この公園は良覚院の庭園を残すために作られたそうです。公園の東隣は「緑水庵」という茶室。ここにも良覚院の庭園が残されています。公園から少し離れた青葉通の晩翠草堂前には「良覚院丁/元荒町」と記された辻󠄀標が建っていました。(辻󠄀標19番。昭和54年設置)良覚院丁は広い町だったようです。辻󠄀標の資料には、良覚院丁について次のように書いてあります。「本山修験東北一の大先達良覚院の北と西をT字に囲む通りであった。良覚院は政宗以来仙台以北を霞としたが、明治初年修験宗は禁止され実業家佐助が保存して市に寄附した庭園(良覚院丁公園)に名残をとどめている。北側の通りは青葉通に吸収された。」※「霞とした」とは、仏教の修験道で、山伏たちの支配地域のことのようです。そして、公園の説明板にはこのように書いてありました。「良覚院丁は、昔、京都の聖護院の末寺で良覚院という修験の寺があったことに始まる。良覚院の始祖、日林は修験者であって、伊達家の祖、朝宗(正治元年、1199年没)に従って常陸国中村(茨城県)から伊達郡(福島県)に移り、以来、世々伊達家に仕え祈祷の事をつかさどってきた。その後、政宗が岩出山から仙台に居を移した慶長7年(1602年)一緒に従ってきた良覚院の修験者がこの地を賜ったのである。この修験寺は、藩政時代藩内の修験の元締めとして、政治や軍事、事業あるいは日常の吉凶運勢について祈祷をした場所であり、代々伊達家の信頼が厚く一門格の待遇を与えられ、領内山伏の総触れ(連絡や伝達を図る役)として当時は威勢をふるっていたという。明治5年修験道の廃止で廃業」「仙台市の復興事業により、この由緒ある庭園が南北に分断される形で区画街路が計画されたが、地主と市民の間から名園であるので残して欲しい旨の申し入れがあり、計画が変更され公園として残されることになった」伊達家の信頼が厚かったと…。なるほど。良覚院が仙台城にかなり近い場所に置かれた理由がわかったような気がします。そして、地図を見ると「五ッ橋通」が良覚院丁公園を避けるように、ちょっと不自然に曲がっている。これがおそらく、戦災復興事業の時の保存活動の成果なのでしょう。山伏のお寺がここに…勉強になりました。
February 11, 2024
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地下鉄南北線五橋駅から仙台一高や薬師堂に向かって東に延びるこの通りが、かつての連坊小路(れんぼうこうじ)。通りの左側(南側)は戦災を免れたのでしょうか、住所は今も「連坊小路○番地」となっていて、住居表示は行われていません。とはいえ、通り沿いの多くでは昭和50年代に住居表示が行われ、今は仙台市若林区五橋三丁目、新寺三・四丁目、連坊一・二丁目、二軒茶屋(以上昭和57年7月5日住居表示)、木ノ下一丁目(昭和50年5月1日住居表示)という住所になっています。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕地下鉄連坊駅と仙台一高の近くに「連坊小路/長泉寺横丁」と書かれた辻󠄀標もありました。(辻󠄀標35番。昭和58年設置。設置場所:かつてのモリヤ洋菓子店前)今の住所は連坊二丁目、ですね。辻󠄀標の資料には、連坊小路についてこんな記載が…「陸奥国分寺二十四坊のあった木ノ下に通ずるため、この名を持つ。開府の後、足軽町とされ、背後に寺院が置かれた。明治二十年、鉄道が町を横切り、その後、一高・二女高が建った。表通りの商店街も戦災を逃れて活気を増し、近年は道路拡幅が進められて、次第に様相を変えつつある。」〔仙台市文化財パンフレット第23集(1990年)より〕確かに、鉄道(JR東北本線と東北新幹線)が東西に延びる通りを南北に横切っていました。東北本線を跨ぎ、新幹線を潜っているのは「連坊小路跨線橋」そして、仙台市のウェブサイト「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」には連坊小路についてこんな記載が…「東七番丁角から木ノ下薬師堂方面に下る道及び道沿いの町を指す。陸奥国分寺隆盛の頃、門前からこの小路に沿って塔頭24坊が連なっていたことによるという…(中略)。仙台八小路のひとつ。寛永年間に割り出され、足軽や小人が配置されていた。」同じく仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」にはこんな記載が…「(前略)連坊小路から六十人町にかけて住んだ足軽たちは禄(ろく、藩から支給される手当て)が少なく貧しかったため、自宅の庭で野菜をつくり、河原町の青物市場で売りさばいたりした。(中略)内職のためここでつくられる筆は特産品で、町内のほとんどの家が筆づくりをしていたらしい。明治時代には玉光軒という大きな筆問屋が連坊小路と長泉寺横丁角にあり、奈良から職人を講師として迎え、筆づくりの学校を開いていた。今も三百人町などに残る筆屋はここの出身者が始めたという。明治時代以降は連坊小路小学校や第一中学(いまの仙台一高)、東華中学校(宮城二女高を経て現在の仙台二華中・高等学校)ができて文教地区となった。また、東北線が通りを横断したため、町が陸橋で東西にわかれ、五橋寄りの西部を上連坊、東部を下連坊と呼んだ。現在は道路が拡張され車の往来が激しい通りになっている。」比較的新しい案内板にも「連坊小路」の表示があって、学校の名前にも「連坊小路」の名前が使われてました。
February 3, 2024
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