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六軒丁(ろくけんちょう)今は仙台市青葉区錦町二丁目の一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕かつての六軒丁あたり。「錦町二丁目3」と書かれた住居表示板が通り沿いにありました。六軒丁について「仙台地名考」(菊地勝之助・著 宝文社 1971年)には次の記載があります。「延宝六・八年(一六七八-八〇)製作の絵図では、真中に横丁が通り、幾軒かの小屋敷に割られている。この地を六軒丁といったようである。(中略)現在六軒丁と呼んでいる通りは、北一番丁の南裏、二本杉通の南端、空堀丁の北端から新小路に通じている横丁である。寛文八・九年(一六六八-六九)の絵図によれば、既にこの頃大小数軒の侍屋敷に割られている。(中略)北六軒丁と称している。」六軒丁には幾軒かのお屋敷があったとのこと。察するに、幾軒とは六軒だったのでしょうか。そうすると一軒一軒がかなり大きなお屋敷だったように思います。今も広い区画に大きめの住宅が並んでいるように感じました。JR仙台駅から徒歩圏内なのに、とても閑静な住宅地でした。
January 27, 2024
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六十人町(ろくじゅうにんまち。仙台市若林区)第二次世界大戦中、六十人町周辺は仙台空襲の被害にあわなかったので、藩政時代からの道筋が変わることなく残っています。そして、戦後、全国的に実施された住居表示もここでは行われず、今もこの道筋の両側の町名は、藩政時代のまま「六十人町」になっています。六十人町の通り沿いに城取神社という小さな神社がありました。神社には、おそらく地元の町内会の方々が置いてくれた、六十人町の解説がありました。「六十人町由来」五十人町から百米南に六十人町がある。畳屋町の東端から東に延びている通りである。足軽が六十人居る故に名付けられた。世臣録によれば総数六十人内十九石二十四石各一人他は十六石宛とある。旧東街道から東へ約八十米のところに城取神社がある。城下と旧南小泉村境に祀ったもので寛永三年(一六二六)町割りの綱張りの縄を埋めたので城取明神と称したといわれる。この足軽たちは微禄な生活を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た。身分は士分であったので腰には一刀を差し編笠で面部を押し隠して天秤棒を担いで野菜を運んだという。これら足軽を檀方といい足軽町は檀方町と読んだという。〈郷土史研究家 三原良吉先生講演抜粋〉斎藤悌二 記そして仙台市のウェブサイトには六十人町についてこんな記載があります。畳屋丁※から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645-1646)では「中間(ちゅうげん。武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた。町の鎮守として城取神社が祀られている。(仙台市HP 町名に見る城下町)※畳屋丁は「地番入仙台市全図大正15年度最新版」には畳屋町と記載されています。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)〕
January 27, 2024
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北海道江別市にあるJR大麻駅。大麻はタイマ、ではなくてオオアサと読みます。大麻は札幌のベッドタウンとして発展した住宅地。僕の叔父さん一家は、もともと真駒内の近くの社宅に住んでいたけど、大麻に自分の家を建てた。もう40年くらいになるだろうか。いつもは従姉弟が駅まで車で迎えに来てくれるけど、今回はテクテクと歩いてみた。雪道だったせいか、歩くには少し遠いかな…、と思った。この日は風雪が強くて、ちょっと大変だった。年々、バスの本数も減ってきて、札幌まで出るのも大変になってきた、と従姉弟達は言っていた。まち全体で高齢化も進んでいるとのこと。郊外の住宅地は今、どこも似たような感じだよね。全国的に。大麻は、たしか大泉洋さんが育った街でもある。大泉さんが紅白で歌った塔が建っていた野幌森林公園もほど近い。札幌方面に向かうホームに立って、昔のことやらあれやこれやをぼんやりと考えていた。
January 20, 2024
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