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クロニクル ハワイ沖で田中・ニクソン会談1972(昭和47)年8月31日44年前のことです。この年7月7日に組閣し、田中内閣を発足させたばかりの田中首相が、この日ハワイに飛び、ニクソン米大統領との会談に臨みました。会談の中身は多岐にわたったものと推測されていますが、田中首相の訪中(1カ月もない、9月25日の訪中が決まっていました)についても、突っ込んだ話し合いがもたれたものと思われます。はっきりしていることは、日米貿易摩擦に絡んでの日本側の輸入拡大策の一環として、ニクソン大統領は、田中首相にロッキード社のトライスター機の導入を持ちかけたことです。この事実が、後に日本の政界を揺るがすことになる、ロッキード事件に繋がって行きました。
2016.08.31
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クロニクル 王選手800号1978(昭和53)年8月30日38年前になります。この夜ジャイアンツの王貞治一塁手が、通算800号の本塁打を放ちました。太洋ホエールズとの試合の第3打席、投手は左腕の大川投手でした。王選手は、入団4年目の1962(昭和37)年に荒川コーチの指導を受けて1本足打法を取り入れて才能が開花、この年38本塁打で本塁打王に輝き、以後引退まで1本足打法を貫きました。王選手が始めて1本足打法で打席に立ったのは、1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でした。この試合の第2打席で稲川投手からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残したことが、1本足打法に確信を深め、不世出の本塁打王を生むことに繋がりました。
2016.08.30
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クロニクル ツェッペリン号世界一周に成功1929(昭和4)年8月29日2ヵ月後には、アメリカ発の世界恐慌が始まる。87年前の今日は、そんな時期でした。そんな中で、この日、ドイツの飛行船LZ 127(ツェッペリン伯号)が22日間での世界一周飛行に成功し、帰還しました。
2016.08.30
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クロニクル 日本テレビ本放送を開始1953(昭和28)年8月28日63年前のこの日、日本テレビが先陣をきって、民放初のテレビ本放送を開始しました。放送時間は1日6時間でしたが、スタジオや現場からのナマ放送中心でしたから、スタッフの苦労も大変だったようです。コマーシャルもまた現在のようにあか抜けたものではなく、何となくたどたどしいものでした。土・日はナイターではなく、デーゲームで行なわれていましたので、後楽園球場で行われるプロ野球の巨人戦や、力道山のプロレスがドル箱でした。しかし、当時一般家庭には高額商品であるテレビを買う資力などなく(この点は、人気になった「三丁目の夕日」をご覧になると、当時の雰囲気がわかります)、実況中継中は、テレビのある床屋さんなどが、満員の盛況になるのが常でした。
2016.08.29
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クロニクル 三越事件新展開1982(昭和57)年8月28日三越事件というのは、1982(昭和57)年に連続的に明らかになった、当時の百貨店業界の雄、三越に絡んだ一連の不祥事の総称です。事件の発端は、6月に明らかにされた優越的立場を利用して、取引業者に強制していた「押し付け販売」や「協賛金の強制」などが、優越的地位の濫用に当るとされたことにありました。そして、34年前の今日、事件は新展開を見せました。この日の朝日新聞が、三越で開催中の『古代ペルシアの秘法展』の展示物の大半が、贋作であると報じたのです。信用を旨とする百貨店業界にとって、贋作を見抜くことが出来ずに展示していたことは、致命的な痛手でした。ここにいたって、岡田ワンマン社長の言いなりだった取締役会も動き、約1ヵ月後の9月22日の会議で、岡田社長の解任を決議する、社内クーデタが決行されたのです。
2016.08.28
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クロニクル 不戦条約調印1928(昭和3)年8月27日この日、フランス外相ブリアンと、アメリカ国務長官ケロッグの呼びかけで、パリに集まっていた63ヶ国の代表(その殆どが外相)が、戦争を否定する条約を結ぶことで合意、呼びかけ国の仏・米に加え、英・日・伊など15ヶ国が、この日のうちに調印しました。88年前の話です。呼びかけ人の名を採って、ケロッグ=ブリアン条約とも言われます。不戦条約の締結は、前年のジュネーヴ海軍軍縮会議が、何の成果も得られずに解散するしかなかったことを踏まえ、この年4月にフランスのブリアンが、アメリカに対して軍備の削減ではなく、戦争そのものを否定することを提案したことから、始まった動きでした。提案を受けたアメリカのケロッグが、それならばと他国へも呼びかけ、パリに集まった結果、この日の合意となったのです。しかし、この条約は、戦争を禁じながらも、精神的な規定に留まり、条約違反国への武力行使や、自衛権の行使は例外として認めるなど、多くの問題を含んでいました。そのため実効性の乏しい条約となり、その後の第二次世界大戦の勃発に際しては、全く歯止めの役割を果たすことが出来なかったのです。
2016.08.27
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クロニクル 長屋王邸跡の発見1988(昭和63)年8月26日特に考古学分野に属する歴史上の大発見は、しばしば偶然のいたずらが作用することがあります。28年前の今日が、まさにそうでした。ところは、奈良市の二条大路南一丁目の、奈良そごうの建設現場でした。平城宮跡は奈良市中心部を少し外れた所にありますが、何しろ奈良市は、古の都の隣接地ですから、大型建造物の建設には、事前の発掘が義務付けられます。24年前の今日も、奈良文化財研究所による発掘作業が淡々と続けられていました。大学の夏休み中ですから、博物館学芸員の資格を取ろうとする学生たちが、実習を兼ねて、先輩の学芸員の指導の下に、発掘に参加するため、例年各地の発掘現場とも、作業がはかどるのが、この時期の特徴です。この日もそんな1日でした。既に、貴族の邸宅跡と分かる大型の住居跡が姿を現していたのですが、この日の発掘中にいくつかの木片が出てきたのです。周辺を慎重に掘り進めると、出るわ出るわ、大量の木簡が発掘されたのです。いわゆる「長屋王家木簡」の発見です。この木簡の解読から、この地が長屋王の邸宅跡であることが明らかになったのです。(長屋王は、藤原不比等の4人の息子たち(聖武天皇夫人の藤原光明子の兄たち)との政争に敗れ、無実の罪で逮捕され、自殺に追い込まれた悲劇の人物として知られる、天武天皇の孫の1人です。)事情を知った地元や研究者は、木簡のみでなく遺構の保存を強く訴えたのですが、文化庁の動きは鈍く、そごうは頑なに建設を続行、遺構の大部分は破壊されてしまいました。文化庁の弱腰が残念でなりませんでしたが、建設を強行したそごうにも天罰はくだりました。奈良そごうは89年10月2日に開店したのですが、御存知の通りのそごうの倒産で、2000年12月25日に閉鎖となり、現在はヨーカ堂の奈良店となっています。ところで、発見された木簡は、奈良時代の貴族生活の一端を知る貴重な史料として、重用されています。
2016.08.26
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クロニクル チキンラーメン登場1958(昭和33)年8月25日58年前というと、ジャイアンツの終身名監督の長嶋茂雄さんが、プロ野球選手としてデビューした年です。この日、日清食品が世界初のインスタントラーメン、日清のチキンラーメンを発売しました。85グラム入り35円(当時の物価参考:大卒初任給13,467円、国鉄初乗り10円、銭湯の入浴料16円)でした。大阪・梅田の阪急百貨店うめだ本店で試食販売が行われ、評判になりました。以来今日まで58年、売れ続けているのですから立派です。日本初のインスタント食品であるインスタントラーメンは、大ヒット商品となり、今日では世界各地に普及しています。チキンラーメンに限っても、アメリカ合衆国、ブラジル、ハンガリー、インド、インドネシア、中国(広東省)などに工場があります。
2016.08.25
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クロニクル ゴルバチョフ書記長辞任1991(平成3)年8月24日あれから4半世紀ですか。25年前のこの日、ゴルバチョフ氏が、ソ連共産党書記長の職を辞しました。前年3月に就任したソ連邦の大統領職にはとどまりましたが、19日の保守派のクーデタで、ゴルバチョフ書記長自身共産党に見切りをつけたことと、保守派の行動に世論が厳しく反対し、共産党の影響力が小さくなっていたことなどから、翌日の25日には、共産党自身が、党の解散を決議するに至りました。当時、事態の変化のスピードは、予想をはるかに超えていました。
2016.08.24
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クロニクル 独ソ不可侵条約締結1939(昭和14)年8月23日77年前の今日。ファシズム国家ドイツと、社会主義国家ソ連とが不可侵条約を結ぶという驚きの報道が世界を駆け巡りました。スターリンがドイツへの接近を決めたのは、ミュンヘン会談で英仏がソ連の安全保障にも大きな影響があるチェコスロバキアをドイツに渡した結果でした。英仏の、ドイツがソ連を攻めてくれれば有難いとする姿勢は、手痛いしっぺ返しを受けたのです。日本では、8月28日に「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発表して、平沼内閣が総辞職しました。冷徹な国際政治の現実についてゆけない情けない内閣だったことを、自ら白状したというわけです。
2016.08.23
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クロニクル 『モナ・リザ』盗難にあう1911(明治44)年8月22日レオナルド・ダ・ヴィンチの名作『モナ・リザ』は、晩年のダ・ヴィンチを暖かく迎え、厚遇の限りを尽くしたフランス王フランソワ1世に譲られます。その後、フランスの至宝として大切にされてきました。国外に出たのは、ニューヨークと東京に1回づつの2回だけです。その『モナ・リザ』が、105年前の今日、盗難にあったのです。フランスでは、前年から美術品を傷つける行為が頻発、『モナ・リザ』も保護ガラス付きケースに収められることになったのです。そんな『モナ・リザ』が、まんまと盗み出され、消えてしまったのです。フランスはもちろん、世界各地で話題となったのですが、『モナ・リザ』の行方は、ようとして知れませんでした。ところが、行方不明となって2年後の1913(大正2)年12月12日に、保護ガラスを取り付けた職人,ヴィンチェンツォ・ペルッジャ(Vincenzo Peruggia)という男によって、フィレンツェの画商に売られようとしたところを発見されたのです。発見された『モナ・リザ』はイタリアで展示されたのち、フランスに返還されました。こうして『モナ・リザ』は、現在もルーヴル美術館に展示されているのです。戻ってよかったですね。
2016.08.22
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クロニクル 生麦事件1862(文久2)年8月21日154年前の出来事です。幕末は益々遠くになりました。大名行列の「した~にー、した~にー」と言ったところで、日本語のわからない外人にわかるはずがありません。しかし、おそらくは外国人をはじめてみたであろう、薩摩の田舎侍には、そんなことはわからないでしょうから、大殿さまの行列に、下馬して見送ることもしないとはけしからんと、激高して切り付けたことも、良くわかります。こうして、幕末の日本を彩る生麦事件は始まったのです。横浜の開港場に近い生麦村を、江戸を経って帰国の途についた、薩摩藩の島津久光の一行は、生麦村付近で騎乗姿の4人のイギリス一行に出会いました。彼らが下馬して見送ることをしなかったため、薩摩藩士が彼らに切りつけ、2人が死傷する事件が起きたのです。時刻は、午後2時頃のことでした。この事件に、横浜に滞在した外国人及び外国政府は、野蛮な行為と一斉に反発し、幕府と薩摩藩に謝罪と賠償の支払いを求めました。幕府は英国の要求に屈し、賠償支払いに応じましたが、薩摩藩は応じなかったことから、翌63年には、薩英戦争に発展します。
2016.08.21
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クロニクル イラン・イラク戦争停戦1988(昭和63)年8月20日28年前のこの日、戦争中のイランとイラクは、停戦に合意した旨を同時に発表しました。以後両国の間に、本格的な戦火が飛び交うことはなく、ここに、1980(昭和55)年9月9日に始まった両国の戦争は、約8年を経て、ようやく終わりを迎えることが出来たのです。79年のイラン・イスラム革命の成功を受け、クウェートやサウジアラビアなど、なお王政を続けるアラビア半島の国々は、イランによる革命の輸出方針を脅威と受け止め、イラン・イスラム革命に対する防波堤の設置に頭を悩ましておりました。そして、アメリカもまた、前政権擁護の姿勢をとって、イラン革命政府と対立、テヘランの米大使館が、イラン学生に占拠、封鎖されて、大使館員全員が人質とされたことで、イラン政府と犬猿の仲にありました。イラクでフセインが大統領職に就き、政権を掌握したのは、1979年7月、イラン革命の約半年後のことでした。フセインは、アラブ諸国や米国の反応を知り、隣国イランとの国境問題を、自国有利に解決するチャンスと考え、80年9月に対イラン開戦に踏み切りました。この戦争では、イラクの戦費の大半は、サウジアラビアやクウェート等からの借金で賄われたため、イラクは無尽蔵に近い資金を抱え、米国や英国から空軍機やミサイルを、中国・ロシアから戦車や地雷を、そしてドイツから毒ガス兵器や製造工場を購入するなど、イラクにはアラブと欧米の応援団がしっかり就き、圧倒的にイラク有利の形が出来上がっていました。それでもイラクはイランに勝利することは、出来ませんでした。フランス革命における対仏大同盟との戦いにおいて、革命の祖国を防衛しようとする国民の強い意志が、国内をまとめ、劣勢を挽回する重要な契機になったのと同じく、イランの国民は一致団結してイラク軍に向かい、ついに痛み分けの形で、戦闘の終結を迎えることになったのです。そして、このイラン・イラク戦争で、イラクが入手した近代兵器こそが、その後のイラクを中東の鬼っ子、制御不能の暴れ馬にした最大の原因を構成したのです。90年代からのフセインを作ったのは、米国であり、ドイツ(当事は西ドイツ)であり、そしてEUやアラブの金持ち国だったのです。
2016.08.20
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クロニクル 新宿駅西口バス放火事件発生1980(昭和55)年8月19日36年前のこの日、午後9時過ぎのことでした。新宿駅西口の20番バスのりばで、発車待ちで停車中の京王バス中野車庫行きに、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両の後方へ投げ込みました。火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う大惨事となりました。犯人(犯行当時38歳)は北九州市出身、5人兄弟の末弟で、全国を建設作業員として転々としていました。1972年に結婚したのですが、長男の誕生後に離婚。子供を児童施設に預け、各地などを転々としながら現場作業員として働き、毎月子供に仕送りをしていたそうです。事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところを、通行人にここから出て行けと言われてカッとなり、犯行に及んだのだそうです。死亡した6人の中には、後楽園球場(当時)のジャイアンツとスワローズの試合を観戦帰りの父(40歳)と子(8歳)や、子供の運動靴を買うために、勤務先からの帰宅途中にわざわざ新宿に立ち寄ったがために、事件に遭遇した母子家庭の母などがおり、当時盛んに報道されました。判決は1、2審とも無期懲役となり、刑が確定したのですが、犯人は1997(平成9)年10月に、服役中の千葉刑務所内で首吊り自殺を遂げました。55歳だったそうです。
2016.08.19
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クロニクル 第1回全国中等学校優勝野球大会始まる1915(大正4)年8月18日101年前のこの日、大阪朝日新聞の主催で、第1回全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権)が、大阪府の豊中グランドで幕を開けました。出場校は10校で、全国を10のブロックに分け、72校が予選に参加しました。10校は夫々予選を勝ち抜き、この日選手権はスタートしました。出場は、秋田中、早稲田実業、山田中、神戸二中、京都二中、和歌山中、鳥取中、広島中、高松中、久留米商の10校。会場の豊中グラウンドは、2年前に完成したばかりで、広さは約2万平方メートルでした。観客席もあり、約400名が収容できたそうです。開催期間は6日間とされ、優勝は京都二中、準優勝は秋田中でした。会場が現在の甲子園球場に移るのは、1924(大正13)年の第10回大会からです。 甲子園球場の完成は、この年大正13年の8月1日でした。
2016.08.18
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クロニクル CDの登場1982(昭和57)年8月17日やがてレコード界に革命的変化を齎すことになるCD第1号が発売されたのが、35年前の今日でした。発売元は、オランダに本拠を構える多国籍企業のフィリップス。発売したのは、スウェーデンの男女混成の4人グループのミュージシャンABBA(アバ)のアルバム、THE SINGLES -The First Ten Yearsでした。CDは再生用の機器が必要なため、発売当初はその費用負担がネックとなって,売れ行きは鈍かったのですが、レコードとの音質の違いから、普及のピッチが上がり、とりわけ84年にソニーが5万円を切るポータブルCDプレーヤーD50を発売してから、普及に勢いがつきました。なお、日本でのCDの発売は、82年の10月1日でした。
2016.08.17
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クロニクル フジヤマの飛び魚活躍1949(昭和24)年8月16日フジヤマの飛び魚とは、古橋広之進氏に米国のジャーナリズムが贈ったニックネームです。古橋広之進氏、年配の方は御存知と思います。水泳日本を代表する自由形長距離の名選手でした。敗戦国の日本、ドイツ、イタリアが国際スポーツ団体への再加盟を許可されたのは、この年1949年のことでした。そのため前年48年のロンドン五輪には出場できなかったのです。そこで、日本水連は、ロンドン五輪の水泳競技の日程に合わせて日本水泳選手権を行い、古橋、橋爪両選手は、400m、800m(五輪にはなし)、1500m自由形の3種目で、いずれも世界新のタイムを出しました。しかし、国際水連にも復帰できずにおりましたから、記録は公認されませんでした。そして67年前の49年、国際水連に復帰が認められた日本水連に対し、米国からロスアンゼルスで開かれる全米水泳選手権への招待状が届けられたのです。招待を受けた日本から古橋、橋爪両選手らが参加、この日400m自由形の決勝が行なわれたのです。最初からリードした古橋選手が4分33秒3のダントツの世界新記録で優勝、橋爪選手も世界新で2位となったのです。2人はその後、800m、1500m自由形でも、同じく1,2位でゴール。どちらも驚異的な世界新記録を出したのです。小学校1年生だった私も、良く覚えています。2位の橋爪四郎選手は、古橋選手の影に隠れたかたちになりましたが、米国のジャーナリズムは、2人、特に古橋選手を「フジヤマの飛び魚」と讃えたのです。敗戦で息沮喪気味の日本人にとって、2人の米国での活躍は、まさに胸のすく思いであり、2人の活躍は、日本人の自信回復に大きく貢献したのです。古橋選手は2009年に81歳で亡くなりましたが、橋爪選手はなお御健在です。
2016.08.16
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クロニクル 文世光事件1974(昭和49)年8月15日今年も、敗戦の日(8/15)が巡ってきましたが、今年もまた、ポツダム宣言の受諾=日本の降伏は、取り上げずにおきます。本日取り上げたのは、42年前に起きた文世光の事件です。当時の大観民国大統領朴正煕の暗殺未遂事件です。8月15日は、日本にとっては連合軍に降伏し、敗戦を受け入れた日ですが、朝鮮半島の人々にとっては、1910(明治43)年から35年間続いた日本の植民地支配からの、独立記念日(光復説)にあたります。この光復節の祝賀行事に参加していた朴大統領が、在日韓国人青年文世光に銃撃されたのです。大統領自身は無事でしたが、夫人の陸英修さんが頭部を撃たれて死亡しました。このとき、文世光が使用した拳銃は、日本で警察官を襲撃して、奪ったものでした。また文世光のバックには、朝鮮総連の関与が指摘されていたのですが、当時の日本政府(田中角英内閣です)は総連を擁護する姿勢を見せたため、一時日韓間には、緊張が走りました。朴大統領は、この事件では無傷でしたが、5年後の1979年10月26日、側近の金KCIA部長によって、暗殺されました。
2016.08.15
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クロニクル パキスタン独立1947(昭和22)年8月14日69年前のこの日、イギリス領インドの一部が、東西パキスタンとして独立しました。パキスタンとは、清浄なる国土を意味し、インド亜大陸の東西の両端に位置して相互に約2000kmも離れたイスラームの共和国でした。ガンジーらのインド独立運動が、非暴力の抵抗を旗印に、大きなうねりを生んで行く中で、イギリスは、分割して統治するを合言葉に多数派のヒンドゥーと少数派のイスーラムの仲を裂き、相互に争わせることで、独立要求がひとつの大きなうねりになることを避けようと目論んだのです。狙いは見事に的中し、ムスリムは、全インドムスリム連盟を組織して、インドからの分離独立を追及し、インド独立を翌日に控えたこの日、東西パキスタンとして、独立を達成したのです。 このうち、ベンガル地方中心の東パキスタンは、1971年12月、バングラデシュとして、西パキスタンから分離、独立しました。
2016.08.14
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クロニクル ベルリンの壁建設始まる 1961(昭和36)年8月13日ベルリンの壁と言えば、皆さんは、今から27年前のベルリンの壁のあっけない崩壊を思い浮かべるでしょうね。ですが、本日取り上げますのは、そのベルリンの壁の建設物語です。第二次大戦後のドイツの扱いは、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談で決められました。ご承知の通り、ドイツは東西2つに分割され、さらに東ドイツの領域に収まるベルリンについては、そこがドイツ帝国の首都であったがために、米英仏の管理する西ベルリンとソ連の管理する東ベルリンとに、分割されることになりました。こうして西ベルリンは、東ドイツの内部にポッカリ浮かぶ離れ小島のような存在となったのです。東西ドイツが相互に自国の素晴らしさを宣伝し合っている内は、特に問題はなかったのですが、50年代の半ばにかけて、西ドイツの経済復興が進み、東ドイツとの経済格差が目立つようになると、次第に西ベルリン経由での、西側世界への亡命が無視できない数となってきました。ここに東ドイツ政府は、西ベルリンを東ドイツから隔離するために、西ベルリンの周囲全てを、壁で覆うことを考えたのです。こうして、55年前のこの日、午前0時を期して、一斉にベルリンの壁を築く作業が始まったのです。まずは、当日昼までに、西ベルリンに通じる道路という道路がバリケードで封鎖され、交通が遮断されたのです。ついで、ブロックで補強され、最終的にはコンクリート製となりました。この壁は東西ベルリンの接触範囲のみでなく、西ベルリンの周囲全てに建設されたのです。総延長は155キロメートルに達しました。ところで、離れ小島の西ベルリンとの交流はどうしたのでしょうか。高速道路は東ベルリン区間には、インターチェンジを設けずに、国境の検問所だけで通行できましたし、ノンストップの特急電車も通っていました。また、西ドイツのルフトハンザは運行できませんでしたが、米・英・仏・蘭などの航空会社は西ベルリンへの便を運行することも出来たのです。また壁は東西の国境線の上ではなく、いくらか東ドイツ寄りに入ったところに建設され、さらにその内側に第2の壁が作られました。こうして西ドイツへの亡命を防いでいたのですが、65歳以上のお年よりは例外で、亡命を申請すると、すぐに許可されたのです。これは、年金受給者が亡命してくれると、支払額が減って助かるからでした。この壁1989年の11月に、あっけなく取り壊されました。
2016.08.13
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クロニクル 日中平和友好条約調印1978(昭和53)年8月12日38年前のこの日、日中平和友好条約が結ばれました。時の福田赳夫首相が、自ら訪中して道を開き、大筋をまとめたものでした。この6年前、田中角栄首相が訪中して、日中の国交回復を実現した時、福田赳夫氏は、佐藤栄作前首相と並ぶ、親台湾派の親分的存在で、台湾擁護の急先鋒だったのです。「時移れば、人変わる」なのか、「立場が人を換える」のか、おそらくはその両方なのでしょう。「警戒すべきは中国よりソ連」という空気も、背中を押しました。ソ連からは、この条約締結に対する強力な横槍もありましたが、詰めは園田直外相に任され、彼が訪中して、この日の調印となったのです。中国では、建国以来の英雄、周恩来と毛沢東が、1976年に相次いで亡くなっており、第二世代が、日本側との交渉を担当したのです。ここに2000年代に、日本経済の苦境を打開する大きな援軍となった、日中の経済的結びつきが、大きな一歩を記すことになったのです。 しかし、最近の中国はあちこちで暴走しており、ブレーキ役も見当たりませんから、少々心配ですね。私はマスコミ報道とは反対に、習均平さんの権力基盤が、かなり脆いものなのではないかと疑っています。
2016.08.12
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クロニクル 中国政府一人っ子政策発表1979(昭和54年)8月11日37年前のことです。中国政府はこの日、「人民日報」紙上に、副総理が論文を寄稿し、「一人っ子政策」の推進を提唱しました。この年の中国の人口は、9億7千万人でした。新中国誕生の1949年には、総人口5億4千万人でしたから、30年で4億3千万人増加したことになります。年平均1400万人以上の増加です。このままのペースで人口の増加が続くと大変なことになる。こう考えた中国政府は、抜本的な人口抑制策を発表したのです。一人っ子夫婦の顕彰と、子供が3人以上の夫婦には、経済的な制裁を加えることなどが、発表されました。その後、この政策は強化され、1984年からは、二人っ子にも厳しい制裁が課されるようになりました。こうした政策を総動員して、ようやく13億数千万人という数字で、人口増加に歯止めがかけられたのです。 そして、1人っこ政策の導入から30数年。中国は日本以上に深刻な人口減少社会に突入し、最近になって、政策転換を打ち出したのですが、なお当分の間、労働人口の減少が続くことになります。
2016.08.11
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クロニクル 森永,インスタントコーヒーを発売1960(昭和35)年8月10日インスタントコーヒーの発明史は、細かなことが分からないのですが、意外なことに20世紀のはじめに、シカゴ在住の加藤博士と言う日本人研究者が絡んでいるのですね。彼は、緑茶を即席化する研究の途上、コーヒー抽出液を真空乾燥する技術を発明。1901年にニューヨーク州のバッファローで開催されたパンアメリカン博覧会で「ソリュブル・コーヒー」(可溶性コーヒー)と名づけて発表した記録が残されています。しかし、緑茶にしか関心のなかった彼は、特許を申請しなかったようです。インスタントコーヒーは、抽出した液体を乾燥させて粉末化するのだそうですが、大量生産の技法を確立したのが、スイスのネスレ社でした。1937年のことです。1929年に始まる世界恐慌の最中のことですが、コーヒー豆価格の暴落と在庫に悩んだブラジル政府が、ネスレ社に対して余剰のコーヒー豆を用いた加工食品の開発を依頼したのです。ネスレ社はこれを受けて研究を開始、1937年にスプレードライ法によるインスタント・コーヒーを完成させました。製品は翌1938年に、お馴染みの「ネスカフェ」の商品名で売り出され、インスタント・コーヒーの代名詞として知られるようになりました。なお、現在の製法の主流であるフリーズ・ドライ法は、1960年代にアメリカで登場し、風味に優れることから、人気がでました。日本には、50年代末になって、インスタントコーヒーが輸入されるようになり、国産メーカーでは森永が先行し、56年前の今日、森永製のインスタントコーヒーが発売されました。しかし、あまり売れなかったようですね。マクスウェルとネッスル日本が、当時の日本のインスタントコーヒー市場を、二分していたように記憶します。
2016.08.10
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クロニクル 国旗・国歌法成立 1999(平成11)年8月9日17年前のこの日は、71回目の長崎原爆忌でもありました。そんなこの日、国旗・国歌法がようやく制定されました。日の丸と君が代です。「日の丸」については、8年前の春に10回程度の短い連載をいたしました。しかし、法制化したからといって、役所という役所、さらには公立学校の式典時には、式場に日の丸を掲示し、君が代の斉唱を強制するのは、いかがなものでしょうか。われわれ世代は、日の丸は、旗日に各家庭で掲揚するものとばかり、思っていたものです。だからこそ、祝日は旗を出す日なので、旗日でした。今や、民家で祝日に国旗を掲揚する家庭など、ほとんどありません。しかし、五輪やワールド杯等では、日の丸をふることを忘れません。公立学校に国旗の掲示を強制するのは、全体主義国家や一部独裁国家しかありません。今や日本は、そうしたし思想傾向を持つ、独善的で強権主義に傾斜しそうな政治家が跋扈する国に、なりつつあるようです。残念なことですが…。ちなみに。私は日本にとって、国歌が君が代というのは、良い選択だったと思っています。これは、宮中や公家社会で流行っていた、ざれ歌でした。ノンビリした恋の歌です。一般に、どの国でも、国歌は、軍歌か革命歌がほとんどです。勇壮なマーチこそが、国歌に相応しいとでも言うかのように、、、、。ところが日本の君が代は、マーチとはまったく違います。平和主義の憲法に相応しい、穏やかな国歌です。この精神を世界に発信する努力を誓える記念日になると良いのになぁと、そんなことを考えています。
2016.08.09
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クロニクル 郵政解散断行2005(平成17)年8月8日11年前の今日も月曜日でした。この日参議院は、郵政民営化関連法案を、反対多数で否決しました。かねて「郵政法案」が国会で否決された場合、「郵政民営化が本当に不要なのかどうか、直接国民の信を問いたい」と話していた小泉首相は、直ちに閣議を開いて、解散の意向を伝えました。このとき、4人の議員が、解散に異議を唱えました。首相は、異議は唱えたものの、最終的に解散を認めた中川昭一経済産業相(イタリアでの酔っ払い会見で辞職,その後自殺したあの人です)を除く、3閣僚を別室に呼び、個別に説得にかかりました。この中の1人が、現財務相の麻生総務相でした。「自分は、郵政民営化に賛成ではなかった」と語ったのは、この事実に照らすとき、明らかに彼の本心を吐露したものでした。首相は、自身の個別説得にも応じなかった島村宜伸農相を罷免し、自らが農水相を兼務して、解散を断行したのです。この結果、9月11日を投票日とする、あの選挙がスタートしました。郵政民営化に反対の議員の選挙区に刺客を立てたあの選挙です。自民党の意地悪を逆手にとって、無党派旋風を巻き起こし、大差で都知事選に勝利した小池百合子氏も、この時の刺客の1人でした。その後の展開については、皆さんご存知の通りですが、郵政民営化はまだ道半ばというか、現在も迷走中で、今後も紆余曲折を経るように思えてなりません。
2016.08.08
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クロニクル トランジスタラジオ発売1955(昭和30)年8月7日ソニーの前身、東京通信工業(創業1946年)は、61年前のこの日、世界最初のトランジスタラジオを発売しました。名詞を少し大きくした、定期入れ程度の大きさで、厚さも1cm程度だったでしょうか。発売直後から父が気に入り、朝な夕なにイヤホンを装着しては、1人悦にいっていました。同社が社名をソニーに変更したのは、3年後の1958年、株式上場に際してのことでした。
2016.08.07
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クロニクル 旭川市で最初のホコ天1969(昭和44)年8月6日47年前の今日のことです。この日北海道の旭川市で、車の交通を遮断して、歩行者が車を気にせず、自由気ままに歩ける「歩行者天国」が登場しました。日本で最も古い「歩行者天国」が始まったのです。ただし、このときはテストケースとしての位置づけで、この日から12日間だけの限定実施に終りました。それから3年、旭川市は、全国に先駆け、72年6月1日から、旭川市内の平和通り買い物公園一帯に、恒久的な歩行者天国を実現しました。 旭川市を先頭に、一時は野火のような広がりを見せた歩行者天国(通称ホコ天)も、秋葉原の事件以降、縮小が続いているのが、少々残念です。昨日更新出来なかった、6日分の日記です。
2016.08.06
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クロニクル 四国連合艦隊下関砲撃1864(元治元)年8月5日152年前のことです。この日、英・仏・米・蘭、四国の連合艦隊が、長州藩の下関砲台を砲撃、僅か1時間の戦いで砲台を占領、圧倒的な戦力差を見せつけました。この砲撃は、前年の5,6月に、長州藩内の尊皇攘夷派の久坂玄瑞らが、幕府が朝廷に約した期限が来たことを理由に、下関海峡を封鎖し、米・仏・蘭の艦船を予告なしに砲撃し、さらに海峡封鎖を続行したことに対する報復でした。長州藩の理不尽を怒った英国を加えた4国は、イギリス公使オールコックを中心に計画を練り、準備をすすめたのですが、藩命で密かに英国留学の旅に出ていた、伊藤俊介(博文)と井上聞太(馨)の2名が、この情報を得て、ロンドンから大急ぎで帰国し、オールコックに、藩説得のための、しばしの猶予を願い出たのです。オールコックは申し出を喜びましたが、二人の説得も藩内の保守強硬派には、届きかなかったのです。こうして、四国連合艦隊は、17艘の艦船に5000名の兵士を積んで下関を攻撃したのです。長州藩の久坂ら尊皇攘夷派は、ほとんど何も出来ずに終りました。武士の軍隊が全く役に立たない事がここに明らかになったのです。この戦い以後、長州藩も、欧米列強と戦う無謀を認識し、開国へ向けて、大きな路線転換に踏み込んで行く事になったのです。
2016.08.05
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クロニクル ベルリンの奇跡 ~日本サッカー、スウェーデンに勝利~1936(昭和11)年8月4日日本時間では明日ですが、現地時間の今日、サッカーのオリンピック代表チームがナイジェリアと対戦、リオ五輪が実質的に開幕します。ここではそのサッカーに因んで、80年前の出来事を記します。ベルリン五輪で、五輪に初参加した日本のサッカーチームはこの日、イタリア、ドイツと並んで優勝候補と言われていたスウェーデンとの第1回戦に臨みました。当然試合前の予想は、スウェーデン断然有利で、日本の新聞記事も、善戦を期待する程度の記事が殆どでした。試合はスウェーデンの優勢で進み、前半を終えて0対2と、スウェーデンのリードで後半を迎えました。ところが、この後半に日本代表チームは3点を取って3対2と試合をひっくり返し、逆転されたスウェーデンの逆襲に耐えて、試合を終え、奇跡の逆転勝利を得たのです。日本のマスコミは、そろって「ベルリンの奇跡」とこの勝利を讃えました。しかし、2日後のイタリアとの準々決勝では、0対8と大敗してしまいました。日本サッカー界にとって残念だったことは、このベルリン大会で活躍した選手達の多くが、その後の日中戦争や太平洋戦争の過程で戦死、戦病死してしまい、後継者育成に活躍してもらうことが出来なかったことです。戦後のサッカー界は、1からのやり直しになってしまったのですから…。
2016.08.04
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クロニクル 少女マンガ雑誌『りぼん』創刊1955(昭和30)年8月3日61年前の今日から、現在まで正月発行号を除いて、毎月3日発売を守っている月刊少女マンガ雑誌『りぼん』が、この日創刊されました。現在の発行部数は18万部程度のようですが、80年代末から90年代初めにかけての最盛期には、250万部以上の売り上げを記録しました。発行元は集英社。少女漫画が苦手な私が知っている『りぼん』の連載は、「チビまる子ちゃん」と「ひみつのアッコちゃん」くらいです。
2016.08.03
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クロニクル イラク軍クウェートに侵攻1990(平成2)年8月2日あの年に生まれた子ども達、もう26歳なんですね。26年前のこの日未明、イラク軍は戦車と空軍機を中心に、クウェート領内に侵攻を開始、約9時間でクウェート全土を制圧しました。制圧後暫定自由政府の樹立を発表、6日後の8日には、クウェートはイラクの1州であると主張して、その併合を宣言、イラク国内及びクウェートに在住する日本人を含む、西側の男性を人質として軍事施設などに収容する強硬措置をとりました。こうした突然の出来事に、世界中に唖然とした空気が広がりました。というのは、1981~88年まで続いたイラン・イラク戦争に際して、クウェートはサウジアラビアと並んで、資金面で強力にイラクを支援した国だったからです。それなのに何故?これが当初の疑問でした。疑問は間もなく解けました。イラン・イラク戦争当時、イランによるイスラム革命を輸出されては困る軍事小国の湾岸諸国やサウジアラビアにとって、イラクは自分たちに代わってイランと戦ってくれる頼もしい存在だったのです。ですからサウジは勿論、UAEやクウェートも、資金面の協力は惜しまず、多額の借款をイラクに与えたのでした。イラクは対イラン戦争の勝利を狙ったのですが、革命防衛に燃えるイラン民衆の戦意は高く、イランの堅陣を抜くことは遂に出来ませんでした。その結果の終戦は不本意なものに終り、戦争による甘い汁はゼロに終ったのです。そのため、イラクはサウジや湾岸諸国に借款の援助への切替え、あるいは返済の無期限延長を要請するにいたりました。これに対し、サウジやUAEは好意的に対応したのですが、クウェートだけは、500億ドルの借款の早期返済を譲らず、イラク・クウェート国境にまたがる開発中の油田の採掘を強行したのです。国境にまたがる油田の開発は、地下の油脈が国境を跨いで広がっているため、双方合意の上で同量を採掘するのが基本ですから、これはいかにもイラクの弱みを突く、闇金的な手法でした。怒ったイラクのフセイン大統領が、怒りのあまり軍事行動に出たというのが、クウェート侵攻の舞台裏でした。クウェートのジャビル首長はサウジ経由でエジプトへ亡命、約半年の亡命生活を送ることになります。この出来事の後遺症が、その後のイラクの荒廃に繋がったことも事実です。
2016.08.02
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クロニクル 山谷騒動1960(昭和35)年8月1日56年前のこの日、午後8時過ぎ、東京台東区山谷の、通称「マンモス交番」の警官が簡易旅館街(通称ドヤ街)で、酔って騒いでいた男性を、交番に連行しました。これに反発した山谷の住人達が騒ぎ出し、これに野次馬も加わって約3000人の集団が、マンモス交番を包囲、未明まで投石などを繰り返す騒ぎとなりました。浅草署は警官500人を動員して、13人を検挙しましたが、警官と消防士44人と、群衆や報道陣数名が重軽傷を負いました。マンモス交番は、山谷地区の警備を強化する目的で建てられた、全国初の鉄筋コンクリート3階建ての建物で、署員34人、私服刑事6人が配置された、大型交番でした。ここには、山谷を危険地区と見なし、力で抑え込もうとする警察の方針が、露骨に示されていました。当時、誰もがそう感じていたのですから、日夜眼前にマンモス交番を見つめる山谷の住人達が、交番に監視されていると感じ、交番に反発するのは、無理からぬことでした。暑い夏の世に、酔漢の連行事件を通じ、そうした住民達の鬱憤が、一挙に爆発したものでした。騒動は、1日おいて、3日、4日と続いて起こり、その都度負傷者や検挙者が出ました。ドヤ街の住人を危険分子と見なし、山谷地区一帯を封じ込めようとする、警察の力の政策が、住民の反発を招き、大きな騒動を生み出しました。こうした山谷の事情を突き詰め、山谷の住人を人間として認め、自作の曲として歌い上げたのが、岡林信康の『山谷ブルース』でした。「今日の仕事は辛かった~。後は焼酎をあおるだけ~」と歌う彼の曲は、この出来事の数年後に登場し、やがて来るヴェトナム反戦を格としたフォークブームの時代にも、ずっと歌い継がれ、異彩を放っていました。
2016.08.01
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