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きのう1月30日、ミュージカル『タイタニック』を見てきました。第2幕の中ほど近くで涙腺ダムが決壊してしまった。さすがトニー賞受賞のミュージカル。でも、第1幕があまりに退屈だったので、もう1度見ようという気にはなれなかったんですね。(じつはわたし、気に入ってしまったミュージカルは、けっこう2度目を見るんですが。)(↓ 関連サイトはこちら)http://www.musical-titanic.jp/第2幕、「ボートに乗るのは女性・子供だけ、男は漕ぎ手のみ」と宣告されて、長年愛してきた夫と船に残ることを択んだイーダ・ストラウスを演じる諏訪マリーさんの、万感こもっていながら実にさわやか、さわやかな台詞まわしに、涙がひゅっと湧いてしまった。(諏訪マリーさんって、パンフレットを見るとぼくが小学生のころのNHK「ステージ101」のレギュラーだったんだそうで。それからもう、35年以上経ったんですねぇ。)涙の向こうの舞台は一気に、最後のボートを前にした人々の思いを全開させ、凝縮された人間模様が展開する。このミュージカルの第2幕は俳優さんのちからを実力以上に引き出せる脚本構成だ。船主、船長、主任設計士が本音を出してなじりあう迫力のナンバー「誰のせいだ (The Blame)」から、愛し合う老夫婦の絶唱「いつまでも (Still)」などをはさんで、最後の全出演者によるフィナーレ「神の進ませたまうタイタニック (Godspeed Titanic)」に至るまで、怒濤のようにすぎていった。歌唱力の点では、ボイラー係を演じる岡 幸二郎さんの声量が一頭地ぬけていた。今回の出演者のなかでは、岡さんの歌だけは別格で、歌のちからだけでぼくのからだを電流が駆けのぼった。はじめてのミュージカルで「主任設計士」の主演役を射止めた、ロック歌手の松岡 充(みつる)さんも、とても気合いがはいっていた。奇矯なエンジニア。人々から少し離れたところに常に自分を置き、やがて狂気の一歩手前まで自分を追い詰める。そういうトーマス・アンドリュースを好演していた。最後のボートに乗りこむ子供に、タイタニック号の模型をささげもつようにしながら手渡すところなんか、よかったなぁ。史実では、この天才的エンジニアは35歳だった。だから松岡さんが演じても年齢的にあまり差はないのだけど、松岡さんがもともと若く見えすぎるのが難点といえば難点だろうか。たぶん、20世紀初頭の35歳は、もっと老成していたろうから。ぼくのだいじなアシスタントに『タイタニック』を見にゆくと言ったら、「あ、それって SOPHIA の松本 充が出るミュージカルでしょ」。ごめん。ぼくは、松本 充さんのこと、知りませんでした。でも、今回の出演をみて、これからも楽しみな人だと思ったなぁ。それに比べると、第1幕はそっちょくに言って退屈だった。まじめな「歴史の授業」みたいで、木戸銭を払って芝居を見にきた当方には期待はずれだった。氷山との衝突にいたる出来事の流れを、ミュージカルという制約のなかでできるだけドキュメンタリー風に追っているのだけど、詩でもドラマでもなく、単なる報告になってしまっている。あまりにも有名なできごとであるタイタニック号処女航海だけに、今さらこれでもかこれでもかと氷山の存在を警告する電報を無視しつづけ、速度を上げつづける、いかにも「運命の航海」たる過程の出来事を連ねてみせる意味があったのだろうか。たしかにそういう第1幕だからこそ、第2幕の「誰のせいだ (The Blame)」というナンバーの伏線になるのだけど、「伏線」でしかない第1幕ではつまらない。≪史実を綿密に組み立てた、リアル『タイタニック』ストーリーがここにある。≫と宣伝ビラにもうたっているのだけど、そうやって作った第1幕は人物描写もじつに散漫で、心に残るものがなかった。むしろ第1幕では「史実」にこだわらずに氷山衝突前の豪華客船内のそれぞれのドラマを創作してくれたほうが、楽しめる劇になったのじゃないかと思う。たとえば三等船客ジム・ファレル(浦井健治)とケイト・マクガワン(紫吹 淳)の恋をぞんぶんに歌わせるとか、もっとめりはりがほしい脚本構成だった。これはもう、トニー賞受賞の原作がそうなっているから、仕方ないといえば仕方ないのだけど。……と、辛口批評をしましたが、カーテンコールの最後で standing ovation モードになったときは、ぼくも立ち上がって心からの拍手をつづけました。どうも東京国際フォーラムの客層は、ミュージカル慣れしている人たちの比率が低かったのか、立ち上がった人はパラパラで、ちょっと残念でしたね。カーテンコールのあと、俳優さんの対談が用意されていて、これはとってもいい企画でした。1月30日は、『ダンス オブ ヴァンパイア』でも好演した浦井健治さんと、今回 楽士団のバンドマスターを演じた浜畑賢吉さんでした。==このミュージカルは、CherryCY さんが充実した劇評を書いている。http://plaza.rakuten.co.jp/happycherryCY/diary/200701250000/
Jan 31, 2007
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安倍政権を何とか盛り立てたいと思っているのだが、そして長年の懸案だった「防衛省」実現といい、教育基本法改正の実現といい、平成維新のステップを短期間で前に進めたことは高く評価するのだが、それだけに大臣人事のお粗末さが際立つ。小泉政権の大臣人事はいま思い返してもまことに絶品だった。とにかく政権の足を一番ひっぱったのが田中眞紀子で、それを辞めさせたら支持率が下がったというおまけつき。総じてみごとな人事だったのだ。安倍政権の大臣らが次から次へとボロを出しているのは、小泉政権以前の内閣を思い出せば、いつもの自民党内閣に戻ったということにすぎないが、小泉政権の絶妙レベルに慣れてしまった国民には、安倍内閣がことのほかプアな大臣人事と思える。内閣発足時、ダーティーな噂まみれの松岡氏を農相にしたことに、大丈夫かね? と思ったが、(そして結構、案の定だった。よくもっているものだ。)初代防衛相の久間さんが、俺はガス抜き役だとばかり、ここまで調子に乗るとは想定外だった。極めつけは柳沢伯夫厚生労働相で、あの1月27日、松江市での≪15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない。≫という発言は、たとえ即座に訂正したとしても、厚生労働政策担当の大臣としては即死である。恋愛でも夫婦仲でも、絶対に言ってはならない言葉というか、いかに訂正しようとしても後戻りのきかない言葉というのがある。今回の柳沢氏の発言はまさにそれなのだが。この瞬間、安倍内閣は女性票を決定的に敵に回している。その、ことの重大さに気がつかず、柳沢氏からかかってきた電話のなかでチューイするていどで済ませようとする安倍晋三首相は、歯がゆいほどに甘すぎる。ここで柳沢氏を直ちに辞めさせれば、「安倍さん、ひとの気持ちをよく分かってるじゃないの。決断力あるじゃないの」ということでもって、内閣支持率は10%上がっていたろうに。今からでも遅くはない。1日でも早く辞めさせたほうがよい。柳沢氏を厚生労働相に据えたままでは、ほんとに政権がもたない。安倍政権に長期政権になってほしいから、言っているのだ。こういうことは、動物的な「勘」で決めなければダメ。小泉純一郎さんには、そういう勘があった。政治家は、商社マンよりもずっとずっと「客商売」のはずだが。
Jan 29, 2007
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中国軍がミサイルを発射して軌道上の自国の衛星を木っ端みじんにして宇宙ゴミをまき散らす軍事実験に成功したのが1月12日。(米国時間では1月11日のうちだったので、米紙では1月11日となっている。)以来いろんな評論を読んだが、内容はほぼ2つに分かれる。が、そのどちらにも属さないユニークな評論を読んだので、ご紹介したくなった。まず多数派の評論は(ニューヨーク・タイムズ紙を含め)「宇宙空間の軍事利用禁止条約の締結にこれまで米国は消極的だったが、これを機に方針を転換して、中国を含めた諸国と条約締結交渉に入るべきだ」というもの。して、少数派は「それ、見たことか。中国軍に対抗できるよう、軍事技術に磨きをかけよ」というもの。これにひきかえ、1月25日付『ウォールストリート・ジャーナル』紙が載せた Bruce Berkowitz 氏の評論には一味ちがったバランス感覚があった。軍事利用を包括的に禁止する条約など無意味だ、というのだ。むしろ、宇宙ゴミ発生を規制する条約の締結を目指せという。その心は?じつは、敵国の衛星を無きものにしようと思えば、地上からミサイルをぶっ放す以外に、キラー衛星を接近させて捕獲ないし無力化するというやり方がある。キラー衛星の技術というのは「ランデブー」「ドッキング」「燃料補給」など、非軍事利用衛星にも共通する。他国が打ち上げている衛星が通常の衛星かキラー衛星かは、区別のしようがないのだという。宇宙の軍事利用を禁止する条約を結ぼうというなら、とうぜんキラー衛星も禁止対象になる。しかし、他国がキラー衛星をほんとうに打ち上げていないかどうかは検証のしようがないというのだ。>(守られているのか確かめようのない内容を規定した条約を結ぶくらいなら、何の条約もないほうがよい。なぜって、へたに条約を結んで、ありもしない規制がゆきとどいているかのような幻想をいだくほうがよほど危険だからだ。)それにひきかえ、宇宙ゴミを出さないことを規定した条約であれば、検証は容易だし、中国でさえも異論のないところだ。ゴミだらけの宇宙空間になったら、中国だって困るのだ。宇宙ゴミが飛ぶ速度は、秒速7キロ、時速25,000キロ。ちょっとしたカケラでも当たれば、衛星はダメになってしまう。宇宙ステーションだって大きなダメージを受けよう。宇宙遊泳中に宇宙ゴミに遭遇すれば、一巻の終わりである。中国と議論するなら、実質的に諸外国に対してひどい迷惑をふりまいた宇宙ゴミ問題にしぼるのが得策だ、というのだ。むかし勤務先で中国国内で自動車ラリーを行う仕事を手伝ったことがあった。フランス人、中国人、ロシア人、日本人の混成部隊で日ごとにキャンプを張ったのだが、フランス人は朝になるとキャンプ中のゴミをポリ袋につめて、それを土に埋めた。あとはきれいに、何も残っていなかった。ところが中国人はすべてのゴミをそのまま野原に散乱させたまま出発した。「こうやってこの大陸はやがて全てゴミで覆われるのかねぇ」と同僚と話し合ったものだ。1月12日の宇宙ゴミ事件の報道を聞いて、まず思い出したのがこのことだった。
Jan 28, 2007
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台湾へ10日間出張して、帰国してみたら、あれほど流されていた 小中学校の「いじめ」関連報道も、いじめ対策の議論も、メディアから消えていた。学校のなかの実態が劇的に改善されたわけではなかろうに、ホットにキャンペーンしすぎた反動で、このまま忘れられてしまいそうな気がする。ぼくの印象からいえば、「いじめ」議論は精神論に終始していたように思う。前世紀の日米戦争を精神論で戦おうとしたのと同じで、これでははなから負けている。いまどきの役所でわがもの顔の存在に「人権」があるが、ここは毒をもって毒を制すで、「人権」殿にご登場いただく。各学校内にいわば警察官のような「人権委員」をおいて校内を巡回させ、「いじめ」や学級崩壊の実態把握と応急措置に当たらせる。人権委員は、校長に直属するのでもなく、教育委員会に属するのでもなく、市役所・町役場の人権課ないし厚生課に属するものとする。要すれば、「教育長」「教育官僚」「教育委員会」「校長」「教頭」「学年主任」のネットワークで出来上がっているとしか思えない隠蔽体制、ことなかれ主義を打破するには、別の組織体が、泣く子もだまる「人権」擁護という観点でもって、未熟なる児童・生徒に対峙(たいじ)するしかないと思うのだ。校長や教頭にとってみれば、学級崩壊やいじめの発生があっても、それを外に報告すると一層面倒なことになるから、隠蔽し放置することになりがちなのだと思う。対策には、まったく別の組織がこれに当たるべきだ。企業のなかで、営業部門とは別のところにコンプライアンス対策の部門や監査部門を設けて、営業とは別の観点からチェックを入れるのと同じだ。「人権委員」のなり手は、世の中にあふれるフリーターや団塊の世代などから公募して研修をうけてもらう。準失業対策。ないし、学科を教えるのはヘタだが子どもの扱いは慣れているというような教師を配置転換する。適材適所。事件や事故が起きると、警官や消防士がいっせいに駆けつけるように、問題の多い学校には人権委員が応援に入り、たとえば学級崩壊した教室には人権委員が常駐するといった対応を行う。これをやるには、当然、カネがかかる。教育官僚からの反対も予想される。「カネの工面」と「組織間調整」が必要だから、首相官邸の出番なのである。学校内を巡回する人権委員さんたちは、異動を頻繁に行い、校長・教頭との癒着を防ぐ。人権委員さんには定期的に市役所の所轄課に来させて報告会を行わせる。それによって、自分が学校側の教職員とは別の組織体から派遣されているという意識が保たれるようにする。
Jan 27, 2007
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1月20日の夜、台北(たいほく)市の国家戯劇院(ぎげきいん)でラヴ・コメディー『巴黎花街』を見てきました。(関連サイト↓)http://www.godot.org.tw/台北でも1月28日まで上演。そのあと、台中、高雄、台南、新竹を巡業。おすすめの一品です。日本語に訳すと『巴里の歓楽街』というあたりか。いや、ちょっと古臭いな。『パリはアブない恋の街』というあたりが適訳でしょうか。Billy Wilder 作の“Irma la Douce”という劇を若干改作して台湾人が演じた中国語劇です。なかに若干のアカペラ コーラスがありますが、基本的にストレート・プレー(話劇)。何てったって、ほとんどつねに舞台にはかわいい女性たちがスキャンティな格好で出てますから、華があります。テーマもノリもミュージカルにぴったりですが、それでもあえてミュージカル仕立てにしなかったのって、なぜなんだろう。(わたしなりの解釈は、この後半で。)まずは、ネタばれにならぬ範囲であらすじから。「わたし、パリ音楽学校でピアノの修行をしていたのよ。ショパンやドビュッシーみたいになりたかったわ。でも、はじめての演奏会のとき、ピアノの蓋がいきなりわたしの指にかぶさってきたの。夢は消えたわ。いまはこうしてわたしと子犬を養っているだけ」というイルマ(Irma、愛瑪)。歓楽街の取締りをするうち、彼女を愛してしまった警官のバルドー(Bardot、巴杜)は、まじめに取締りをやりすぎて職を失い、イルマの住いに転がり込むのですね。「男を養えないようじゃ、女の沽券(こけん)にかかわるわ」といって、大泣きするイルマの勢いにおされて、ホテルで客をとるイルマの仕事を「やめろ」と言えないバルドー。あるときイルマがとった客が「金持ちの英国紳士」で、イルマの半月分に相当するようなカネをぽんと支払う。その英国紳士どのにバルドーは行きつけのバーで遭遇してしまうわけです。イルマが好きで好きでたまらず、でも客をとるのをやめろと言えないシャイなバルドーはこれにヒントを得て、自分が金持ちの英国紳士に化けてイルマの客となり、イルマに十分なお金を払うことでもって、イルマを自分だけのものにしようとするのですね。バルドー役の男優 唐従聖(とう・じゅうせい)さんがこの金持ち英国紳士に化けたところが熱演で、英語がかった中国語でイルマを口説くようすは盛んに笑いをとっていました。このいわば劇中劇的1人2役の面白さがこの劇のひとつのハイライト。(設定がちょっとオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』みたいですね。)歌で盛り上がってしまうと、バルドー+偽(にせ)英国紳士の話劇としての面白さの印象が薄れてしまうから、あえてミュージカル仕立てにしなかったんだろうな、というのがわたしの解釈です。バルドーはというと、英国紳士に化けてイルマに支払うための大金を稼ぐために、夜勤につぐ夜勤でぐったり。そんなバルドーのことを、浮気してるにちがいないとイルマは疑い、偽英国紳士のほうに本気で恋をしてしまう。……この辺でバルドーが真相をしゃべってハッピーエンド、というくらいの単純なストーリーだったら、ミュージカル仕立てにできたと思うのですが、劇のほうはもうひと山、ふた山あるので、話劇にせざるをえなかったのでしょう。(それでもわたしとしては、1曲2曲ほしかったなぁ。)さぁて、イルマとバルドーの恋仲はどうなるか……。ネタばれ になるので、あらすじ紹介はこの辺で。心温まるエンディングでした。あっと驚く演出をいうと、「偽英国紳士」がほんとにびしょびしょのずぶ濡れになって舞台中央からせり出して現れるシーンにはびっくり。舞台で靴を脱いで、靴のなかの水を舞台に落としてみせるのだから、ハンパじゃないっす。この『巴黎花街』を制作した劇団「果陀劇場」は昭和63年に発足。『真夏の夜の夢』を中国的に翻案したミュージカルや、シラノ・ド・ベルジュラックの正統派ミュージカル、さらにはロックミュージカルと、レパートリーの広い、劇団四季のような存在ですが、日本で劇団四季を支えているほどの広範な観劇人口にめぐまれずにいるのがちょっとかわいそうです。こんかい、この「果陀劇場」の主な公演のさわりを収録した記録DVDも買ったのですが、演出がしっかりしていてレベルの高い劇団でした。昭和63年7月のはじめての公演は『動物園的故事(動物園物語)』。観客はわずか 120 名だったのだと。(あぁ、わたしが1月14日に北千住でみた劇だ。)http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/200701140001/それから19年ちかくで40作以上を手掛けています。それら中国語台本のうちの選(よ)りすぐりを教材にして大学でゼミをやったら面白いだろうなぁと発作的に思いました。今回は前から4列目の中央の席がとれて、役者さんたちの魅力は堪能させてもらったのですが、舞台がはじまっても一向に私語をやめない右隣の女性2人を2度にわたり注意; 大団円が近づいたところで奥さんに何やら大声でしゃべりかけはじめたバカ男がすぐ後ろの列にいて、これまた振り向いて鬼の顔してギロリと睨んで注意……と、あいも変わらず忙しい台北観劇でした。いちいち書いていませんけど、劇場に行くと日本でも2回に1回は、ごく少数のルール破りのバカに悩まされるものです。大音響の映画館と同じ調子で観劇する、マナーの悪い客のことを、いったいどう教育すればいいのやら。この辺がどうしようもない文化程度というか、いわゆる「民度」なのでしょうが。===調べてみたら、"Irma la Douce" はもともと昭和31年に台本 Allexandre Breffort、音楽 Marguerite Monnot でパリで初演されたミュージカルでした。英訳版がロンドンとニューヨークで上演され、好評を博します。なぁんだ、もともとミュージカルだったんだ! どうりでね。そしてそれを Billy Wilder がコメディー映画に改作したのが昭和38年ということなのだそうで。今回の台北の公演は、Billy Wilder の台本をさらに改作したものだ、とパンフレットに書いてありました
Jan 25, 2007
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「一瞬“過激”に思える、ある台湾独立派の教授の話」と題して、許慶雄(きょ・けいゆう)教授の国家論を紹介するコラムを書きました。ご感想はこちらへお書き込みください。
Jan 23, 2007
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文化入門書+観光書としては、それなりによくできた本。たぶん一定のファンをお持ちの著者なのでしょう。台湾を詩的に紹介した功績は認めたいです。しかし、あまりに媚びた文体が鼻につく。若い女性が好きそうな像を結ばせるべく色ガラスを通して見た台湾。猥雑みがそがれていて、ちょっと嘘っぽいのですね。それなら読まなきゃいいんだけど、それなりに文化アイテムが網羅されていて、ためになるから完読してしまった。自分も好き放題を書いた本を2冊も出している手前、ひとさまの本をけなすのは気がひけるが、どうもほうっておけない気がして辛口の批評を少々。台湾観光書を文字だけで少女漫画にしちゃった本、と言えばいいだろうか。著者・亜洲奈(あすな)みづほ さんの自己陶酔の才能は半端じゃないのである。たとえば 143ページの「大河 白い気に満ちた場所」。台北市の淡水河の記述の締めのあたりを見てみようか。≪河ぞいのマングローブの聖域には変わることなく、音もなく純白のサギが舞い、はるかかなたの関渡大橋はくっきりと紅のカーブを夢のように刻む。もしかしたら彼岸に最も近い岸なのではないか。そう信じたくなってしまう。≫3つの文があるが、このうちの第1文で締めていれば、よかった。過不足なく詩的である。十分に達意である。ところが、さらに「もしかしたら彼岸に最も近い岸なのではないか」ときた。著者の得意げな顔が浮かんでしまう、高校の文化祭で売っている文芸雑誌的ロマンチシズムなのですね。でも、この第2文で締めていれば、まだ許そう。「そう信じたくなってしまう」で、読んでいて恥ずかしくなってしまうのですね。この急速なる自己陶酔についてゆけないわけです。88 ページの「牛肉麺」の記述の締めのところの文章。3つの文からなりますが。≪濃厚なスープになじんだ角煮は、ほっこりとほぐれて、麺と脂身と絶妙なコンビネーションをかもしだす。≫う~ん、牛肉麺の肉のかたまりって、やわらかだけど、ギシギシ、ムニョムニョしたところもあって、そういう野性味が持ち味なんじゃないの?「ほっこりとほぐれて」は端正なる和風すぎて、実態とずれている。≪たったの1杯で、たいらげたという満足感を残してくれる。≫ここはたぶん筆がすべったのだと思うけど、汁かけ麺を2杯も3杯も食うのは普通ではないでしょう。1杯食えば満足するのが普通です。「たったの1杯で満足感を残してくれる」と、感慨深げに書くのは、ちょっとね。実態としての牛肉麺は、たしかに牛肉のかたまりがデカいことによる満足感はある。それとともに、じつは1杯平らげるころには濃厚な味に飽きてきて、それで2杯目が食えないのです。≪私たちふたりづれはしばらくの間、食いいるように見つめあう ―― のも忘れて、ひたすらに汗をかきかき牛肉麺に食い入っていた。≫おのろけ、ごちそうさま、というか、ここまで自己陶酔してものを書けるとは……。何かこう、読むだけでこちらまで恥ずかしくなって汗が出そうになるんですね。オチのつもりで書いたのでしょうが、この1文がなければどんなによかったか。……というわけで、ためになったのは事実ですが、完読するのにとっても疲れた本でした。この本を読んだ感想でもって、性格判断ができるだろうと思うくらい、好き嫌いが分かれる本でしょうね。
Jan 23, 2007
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1月22日朝にコラムを配信します。ご感想はこちらへお書き込みください。
Jan 21, 2007
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今年の米国北東部はたいへんな暖冬で、January ではなくて June-uary だ、と言われているらしい。このシャレを日本語にすれば、「睦月(むつき)というくらいだから、六月なみだねぇ」となろうか。聞き手に古典の教養がないと、白けてしまいそうだ。『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙の1月18日の報道によれば、暖冬で節約できた暖房費を他のことに使えるおかげで、この冬の国内総生産(GDP)は 0.5% アップが期待できる、のだとか。さて、地球温暖化の防止のためには樹を植えて二酸化炭素を減らそう! というのが常識と思われるが、じつは熱帯地域以外では樹を植えれば植えるほど地球温暖化に貢献してしまうのだそうだ。『ニューヨーク・タイムズ』紙1月16日号に When Being Green Raises the Heat(緑化でますます気温が上がる)という記事があって、びっくりした。人工衛星から地球を眺めるつもりで考えてみよう。たしかに、牧場(草地)や農場に比べて森林のほうが黒く見えるだろう。そう。草地は太陽光を反射するけれど、森林は太陽光を吸収してしまう。つまり、森林は輻射熱を吸収してしまうわけですね。平地に雪が降れば、一面真っ白になるから太陽光をひたすら反射する。ところが、森林に雪が降っても、よほど降らないと一面真っ白にはならない。真っ白でない、ということは、そこに太陽光が当たると熱を吸収しやすいということ、なのだそうだ。へぇぇ……。「トリビア」番組に投稿するといいとも?そんでもって、熱帯林がなぜ気温を下げるほうで貢献するかというと、熱帯林の場合は樹木が地中の水分を吸い上げて蒸散させる量がハンパじゃなくて、森林があることによって大気中の水蒸気量が増えて雲ができやすくなるのだ。雲ができると、太陽光を遮ってくれるので、温暖化防止に役立つというわけ。……てことは、大陸中国のように大気汚染が進むと、これも太陽光の地表への到達を妨げてくれるから、温暖化防止に役立つのか? というのは、おじゃらけです。念のため付言するとニューヨーク・タイムズ紙はこう締めています。「だからといって寒帯から温帯にかけての森林を伐採しろと言っているのではない。よりよい自然環境のために森林は必要であり、植林は奨励されるべきだ。二酸化炭素削減のためには風力・太陽光発電や原子力発電の奨励こそ大事だと言いたいのだ。」
Jan 18, 2007
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どうせ次の大統領選で盧武鉉(ろ・ぶげん)が負ければ、韓国もまともな国に戻るだろう……と楽観していたのだが、甘すぎた。盧武鉉政権への支持率はいまや韓国内でも10%そこそこ。それなのに、北朝鮮を批判することがひろく韓国民のあいだでタブーになってしまっている。そこには根深い心理的背景があるのだ ―― という、興味深い指摘を読んだ。日経のコラムサイト「NET EYE プロの視点」で鈴置高史(すずおき・たかし)編集委員が「孤立する韓国」と題して書いている。http://www.nikkei.co.jp/neteye5/suzuoki/20070115n5a1f000_15.htmlこのコラム↑はお奨めです!ぜひお読みいただきたいですが、キモの部分は以下:≪(大韓民国の)建国以来、そして朝鮮戦争後はさらに、韓国では「統一」は国是だった。だが、冷戦体制崩壊後に経済大国ドイツさえも「統一」で苦しむのを見た韓国人は、「せっかく我々が努力して勝ち取った豊かさを失いたくない。何とか統一を先送りしたい」とひそかに思い始めた。ただ、内心ではそう思っても、建国以来の「国是」であり、社会的規範にまで昇華していた「統一」には反対しにくい。 その本音を上手に拾い上げ、普通の人を心情的に救ったのが、金大中前大統領の「太陽政策」であり、盧武鉉大統領の「包容政策」だった。両政権は「北朝鮮を吸収する意思はない」と明言して北への援助を拡大した。「吸収する意思はない」の部分は、表面的には北朝鮮の疑惑を解くために強調されたのだが、実は、同時に韓国人に対しては「統一の建前は降ろす」という安心感も与えた。 こうした政策には「民族共助」という美しい名分も与えられ、「統一」の放棄あるいは延期に対し韓国人が抱く決まり悪さも、心情的な糖衣で包んでくれた。実際、融和政策の一環として大規模な援助も始めたから、「飢え死にしかけの親戚を見捨てたわけではない」と、世界には言い訳できるようになった。≫ ああ、そうか、そういう屈折があったか。韓国民が「統一」を本気で考えていた時期には、北が攻めてくるなら堂々と戦勝して統一を実現してやる! という元気があった韓国。しかしその元気がもう韓国にはない、と鈴置さんは指摘する。いまの韓国を理解するための、貴重な補助線を与えてくれた。
Jan 17, 2007
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金沢大学は肝臓医療の研究がたいそう進んだところなのだそうだ。これからかかる確率の高い肝臓病のことを、人ごとにその遺伝子を調べて予見することができそうなのだという。現在、遺伝子検査は米国の技術に依存していて、検査ごとに米国企業にカネを貢がねばならぬので高価だ。ところが、金沢大学が開発した技術を実用化して健康保険の適用ができるようにすると、どうなるか。癌がらみの込み入った検査でも1件あたり千円ていどでできるようになるのだとか。いい話である。これを『北國新聞』が1月17日の社説で取り上げていたのでご紹介したい。紹介のまえにひとこと苦言を述べておくと、社説のなかで「肝臓DNAチップ」の仕組みの説明が短かすぎて、さっぱりイメージがわかない。1件あたり千円でできるということは、まさか肝臓の切片を使用するわけはなく、血液なり口腔表皮なりを使うのだろう。試験試料として何を使うのか一言ふれるだけで、読者の頭のなかにイメージが鮮明にうかんだろうに。自戒のつもりで言うのだが、科学技術のポイントを分かりやすく伝えるのは難しい。==≪肝臓DNAチップ 転ばぬ先の杖にする仕掛けを 金沢大学(金大)発のベンチャー企業「キュービクス」が、同大学がデータベースとして保有する約80万件の肝臓遺伝子情報を基礎に、将来発症する可能性を予見する診断用DNAチップ(数センチ角の薄いガラスに遺伝子を張り付けてつくった基板)を開発、実用化を目指すことになった。癌など肝臓で将来発症するいろんな病気の可能性を前もって遺伝子から探ろうとするものであるから、いうなれば「転ばぬ先の杖(つえ)」づくりであり、それを機能させるためにクリアしなければならないことが大きく分けて2つある。1つは高品質のチップをつくり、臨床試験をしっかり行い、厚労省の認定にパスして健康保険の適用を受けるものにすることである。わが国の遺伝子検査は米国の技術に依存し、そのために特許料がかさみ、保険適用外になっているが、この壁をぶち破りたい。北陸にチップをつくれるところがないのが残念だが、健康保険がきくようなものが開発されれば、費用がかかるといわれるがんの検査でも千円以内でできるのではないかという。もう1つは、元気でぴんぴんな人を検査する仕組みと仕掛けを金大自身がつくることである。いかに優れた発明でも、それを実際に使いこなす仕組みや仕掛けをつくらないと、宝の持ち腐れになるのだ。とりわけ大学病院というのは病気になった人を診たり、治療したりで手一杯だといわれ、金大附属病院もその例に漏れない。そのため、小紙(『北國新聞』)は元気な人を診るための人間ドックを同病院にも備える必要を指摘したことがある。開発の基礎となる同大学のデータベースは世界最大級といわれ、肝臓研究の世界的な拠点化を目指すプロジェクトもすでに始動している。そのデータベースを使っての開発である。医薬関連の大学や企業が集積している北陸から医療と産業の在り方を変えていくような研究開発が生まれることを期待したいということも指摘してきたところである。今度の診断用チップの開発はまさにそうした期待にこたえるものであることを強調しておきたい。≫
Jan 17, 2007
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きのうも台北の駐在員と話していて、台湾の政治があまりに内向きになりすぎていることへの懸念を聞いた。以下、≪ ≫ のなかが駐在員氏の発言の要約。なるほどと思ったので、まとめてみた。≪北朝鮮をめぐる6ヶ国協議の枠組で各国の往来が盛んで、北朝鮮をのぞく5ヶ国の政治家・外交官どうしが気心の知れた人的ネットワークを作りつつあるのに、ここに台湾は入り込めない。そうすると、この地域のことは何でもこれら5ヶ国が話し合って決めてゆくという既成事実ができてしまい、ただでさえ影のうすい台湾の存在感がますます希薄になる。当然、北京はそこも狙って6ヶ国協議を主導しているのだろうけど。台湾がこれに対抗してゆくには、どうしたらいいのだろう。せめてたとえば北朝鮮による拉致問題などで、もっと積極的に日本への支持を発言・発信するなどして、存在感を示すことを台湾政府は励行すべきでないか。そうやって、日本や米国など価値観を共有する国々で台湾ファンを増やしてゆかないと、まずいことになる。北京政府が拉致問題で日本と同一歩調に立つようなジェスチャーをしてみせているときに、台湾政府が何もせず何も発言しないでいると、存在感が決定的に薄くなる。≫じっさい台湾の新聞を読んでいると、政治面は完璧に民進党と国民党の勢力争いのことばかりで、じつに内向きだ。日本の政治も悲しいほど内向きだけど、台湾の政治は多分それに輪をかけて内向きで、地方新聞の県政面を見ているような感がある。台湾が置かれている状況からすればやむをえない面はあるけれど、それだからこそ外交を“演じる”マインドがもっとあるべきなのでは?国交をもつ国がすくない台北政府であってみれば、逆に“しがらみ”も少ないわけだから、水戸黄門よろしく「東アジアのご意見番」として理想論を発信しまくるという生き方もあるのではないだろうか。
Jan 17, 2007
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きのうから台北に来ている。昨年9月以来、久々の出張。現地スタッフのひとりが、「あした高雄に出張するので新幹線の切符を買おうとしたけど、売り切れだった。仕方がないから飛行機で行くよ」と話しているのを聞いて、台湾新幹線が現実の存在であることを実感する。仕事が終わると、さっそく台湾料理屋だ。ヤッホー!メンマにつかうような筍を、モロミ味噌にちょっと唐辛子をまぜて炒めたのなど食べながら、清涼飲料水のような(=苦味のうすい)台湾ビールを飲む。台北に来たなと思う。じつはぼくはビールは苦いのが好きで、だから去年の台北生活前半はあまりハッピーじゃなかった。でも、こんかい台湾ビールを飲んだら、うまかった。ちなみに、きのう行ったのは新生北路一段146号の小珍小食店(電話 2542-1404)。このお店、ちょっと目には、小料理屋風のインチキ日本料理店みたいに見えるのだけど、「うん、そうだね、これってまさしく台湾料理だよね!」というものを出してくれた。(わたしのいう「うまい台湾料理」の定義は、「台湾で食べるうまいもののうち、日本料理でもなく、大陸で食べたことがないもの」です。)さて、ここで現地スタッフ2人といろんな話をしたわけですが、ホテルに戻っていちばん考え込んだことを書きます。金門県のこと。福建省厦門(アモイ)市の対岸にある大金門島、小金門島などからなる群島で、総面積153平方キロ、人口7万3千人。かつて中国共産党軍と蒋介石軍のあいだで激戦があり、蒋介石政権が“中国大陸領有者”の象徴として占有権を死守したところですが……あるスタッフ曰く ――金門島に駐屯している台湾軍2万人は、台湾海峡有事には体(てい)よく大陸側に捕虜にされてしまい、この2万人の兵士の親戚らの“世論”によって「台湾独立」は断念せざるをえなくなるだろう。だから、台湾独立のためには、いっそのこと金門島の台湾軍は撤退させたほうがいい。だが、台湾軍を撤退させようとすると、これが台湾独立につながると悟る中国共産党が、なんとしても撤退を阻止しようとするだろう。(なんというパラドックス!)ビールを大瓶3本近く飲んだ頭で、ふんふんと聞いていたのだが、ホテルに戻って考えてみると台湾軍2万人を救おうとすれば、むしろ台湾は独立宣言するしかないのではないか。中国共産党の捕虜になった台湾軍兵士だが、台湾が独立国でない限り戦時国際法は適用されず、単なる叛乱暴徒の扱いを受ける。裁判で死刑判決をうけて、即日全員銃殺、ということになるかもしれない。「重火器をもって北京政権に歯向かおうとする2万人の暴徒」と解釈すればね。ところが、台湾が独立宣言すれば、台湾軍兵士には戦時国際法が適用されるから、北京政権としては国際法を遵守する限りはこれを捕虜として公正に待遇せざるをえなくなる。……というわけなのだが、やはりこれも吹けば飛ぶような屁理屈か。
Jan 16, 2007
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消費者金融のいわゆる「グレーゾーン金利」の適用がなくなることで、合法的な高金利融資が成立しなくなり、その分だけ貸し手が減って、かわりにヤクザによる闇の貸し金がはびこり始めている、と『ウォールストリート・ジャーナル』紙が1月12日の社説で書いている。題して Japanese Credit Squeeze(日本の貸金業締めつけ)。
Jan 16, 2007
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たぶんどこの会社でも、30代後半にいわゆる「管理職」扱いの職位に就くと、残業代は出なくなる。そこに至るまで、がんがん働かざるを得なくて、残業もものすごく多かった。その時期、仕事の配分の不合理を会社に訴える手段といえば、残業時間の申告くらいしかなかった。だから、ホワイトカラーの残業代をなくして、成果主義の固定給にするというのは、若い世代の福利悪化に直結すると思う。ぼくは大反対だ。さいわい、事務系の仕事の残業代廃止をもくろんだ「ホワイトカラー・エグゼンプション white-collar exemption = 事務系職分例外扱い」なるものの法制化は見送りとなった。この件、ぼくのような者がもっと議論に暴れるべきだった。反省している。『北國新聞』1月12日の「時鐘」から ――≪「ホワイトカラー・エグゼンプション」は「規制除外」などと日本語も併記される制度だが、政府・与党は法案提出を見送る方針のようだ。一定の年収以上の勤め人には労働時間規制を適用しない制度である。人、モノ、サービスが変化し、労働時間で成果を評価できない仕事も増えた。余暇を生む選択肢の一つとして評価されてもいい面もあろうが、このカタカナ表記では国民の理解は困難だ。野党などは「残業代ゼロ制度」「過労死促進法」と反対する。表現の妥当性は別としても、分かりやすさで言えば勝敗は明白だ。第一、カタカナ用語を減らして、言い換えを推奨しようとの、これまでの各界の努力が水の泡となる。折も折、塩崎官房長官の横文字連発が話題になっている。「センシティブ」(微妙)「ウィン・ウィン」(双方有利)などきりがない。記者から日本語訳を問われて立ち往生したというオチまである。安倍首相から注意がないことも問題だ。「ホワイトカラー・エグゼンプション」も、成立させたいなら普通の日本語に直せと注文する常識人がいなかったのか。これは安倍内閣の意外と深刻な課題ではなかろうか。≫
Jan 14, 2007
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きょう、北千住駅西口のシアター1010で、演劇『動物園物語』を見てきた。(シアター1010のサイト↓http://www.t1010.jpじつはわたし、テネシー・ウィリアムズ Tennessee Williams の有名な『ガラスの動物園 The Glass Menagerie』のつもりで切符を買ってしまったのですが。(嗤ってやってください…)これはエドワード・オールビー Edward Albee 作の The Zoo Story で、たった2人の掛け合いがつくる緊迫した空間です。1時間ほどの公演だったけど、2時間ものの演劇をみたような充実感。話劇の醍醐味を楽しませてもらいました。劇場の、奥行きのある舞台の上に、六角形の演技空間をしつらえて、周囲の6辺のうち5辺に、5列の階段座席を設けた。じつに comfortable な小劇場空間。ひゅるひゅると鳥の鳴き声がするところに観客は案内されて、演者の到来を待つ。5本の樹が直立し、上を見上げると緑の葉がジャングルのように垂れ下がって、気持ちのいい木漏れ日を作っている。じつに寡黙な幕開けからは想像もつかないような饒舌がほとばしる。満ち足りた社会人として休日のベンチにたたずむピーター役の、市川段治郎。歌舞伎役者。そこにふらりとやって来て突っ込みをいれる、川平慈英(かびら・じぇい)さんばりの饒舌男、ジェリー役の貴水博之(たかみ・ひろゆき)。ロック歌手。ジャングルのように思えた空間は、じつはニューヨークのセントラル・パークで、ベンチはピーターが毎週末を過ごす場所だった。ここに闖入してきたジェリーは、一級のストーリーテラーに思えた。彼の、日常のなかの非日常を語る語り口。きょう、ジェリーは動物園に行ってきた。どうだい、動物園で起きた出来事のことを聴きたくぁないかい?ジェリーとピーターが言葉で切り結びながら、やがてそれぞれのコンプレックスを逆なでする部分に突き当たる。どうしてそれが逆なでになるのか、観ている者には分からない。でも、確実に、そこにあることばが目の前の人間を逆なでしている。そして、ジェリーが動物園のどんな出来事を語ろうとしたのか、それもついにわからないまま。木漏れ日の下で、ここまで不条理な会話が成り立ちうるのか。最後の5分間の加速度はものすごい。会場アンケートに書いておいた。貴水博之さんのセリフのほとばしりは実にいいのだけど、手振りのジェスチャーを始終続けているのは目障りだと。いわゆる空手チョップ的ジェスチャー、ないし人差し指で突っ込みを入れるジェスチャー。セリフを言うとき、これを入れると躍動が高まるような気がして、学生劇などではこの手振りジェスチャーがやたら目立つのだけど、それを貴水さんはやってしまった。それがなくなれば、さらにいい味の小品になると思いました。お奨めの劇です。1月21日まで、北千住で上演中。
Jan 14, 2007
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きのう日生劇場へ『スウィーニー・トッド Sweeney Todd』を観に行った。(関連サイト↓)http://hpot.jp/sweeney/さいきん市村正親(まさちか)さんづいていて、昨年の『ダンス・オブ・ヴァンパイア』(「教授」役)、『ペテン師と詐欺師』(「アメリカ人のペテン師」役)に次いで、またまた力強いイチムラ光線をぎんぎんに浴びせてもらいました。カーテンコール挨拶で市村さんが「いろいろ嫌な事件が続く昨今ですが(会場・笑)、どうか皆さま、人に恨みを買うことのございませんよう(会場・爆笑)、今年もよい年でありますように!(拍手の嵐)」と言って、うまく閉めてくれました。このミュージカルは、最愛の妻を奪われ娘の運命までもてあそばれる悲運な理髪師、自称スウィーニー・トッドの復讐劇で、生業(なりわい)の銀のかみそりで客の首を切り裂いてゆくのですね。これを人肉パイにするのを思いついて、そして大当たりをとってしまうのが、大竹しのぶさん演じる Mrs. Lovett なる、したたかな中年女。台詞をあやつるのは、はまり役と言っていいほどでしたが、歌はやはりちょっと難があるなというところ。大竹さんがミュージカルに大役で出演するのは初めてなのだそうで、無理もありません。ミセス・ラヴェットは、あばずれ女的なところがあって、ブロードウェイのオリジナル・キャストのCDを聴いても(わざと)ひん曲げた声の歌でしたが、それでももちろんメロディーはしっかりとらえている。大竹さんの歌を聴いていると、いかにも猛練習の成果は感じられるのですが、準主役格の歌いとしては合格点はつけられない。ちょい役だったら、存分に褒めてさしあげたいところですが。たしかに大竹さんを出せば、世間に対する集客力はあると思いますが、さて、どうだったのか。知名度を無視して、歌唱力も含めた実力で選ぶなら、乞食女を演じたキムラ緑子(みどりこ)さんにミセス・ラヴェットをやってもらい、大竹しのぶさんに乞食女をやってもらったほうがよかったと思う。ところがそのキムラ緑子の演ずる乞食女も演出に問題ありだったと思う。狂って妖気ただよわす じゃじゃ馬ババアという役作りになっていて、劇中の登場人物のなかでは市村トッドと双璧と言ってもいい名演に見えましたが、自宅に戻ってブロードウェイのCDを聴いたら、この乞食女の歌は透き通るようなきれいな声で歌われていました。この乞食女のある「過去」に思いを致すと、たしかに彼女の歌は透き通るような声でなければならない。ところが、宮本亜門さんの演出は、彼女を典型的アングラ劇的乞食老婆役に終わらせてしまった。演出への不満といえば、冒頭で男ふたりが客席後方から何かわめきながら舞台へ上がってゆくのも(演劇でよくやる手ですが)、そのあととうまく繋がらず、浮いていました。ブロードウェイのCDを聴くと、しずかにホラーな曲で始まっていて、ト書きに「2人の墓掘り人が現れ、墓穴を掘り始める。掘るにしたがい、地中に消えてしまう」とあるわけですが、そういう謎めいた始まり方のほうがよかったのじゃないか。「ロンドンの下町の喧騒」なるものを冒頭から意識しすぎて、いろいろ詰め込みすぎ、分かりにくくなったような気がします。舞台セットには満点をさしあげたい。錆びた鉄の重厚さがあって、色彩の統一感もよかった。移動させて使うセットも、無駄なく、不足なく、市村トッドが首かききった客を床下に落す仕掛けもじつにうまくできていた。(今回、2階席の左端舞台寄りで見たので、舞台セットの妙が楽しめました。)2人の若い男役には、ぼくはちょっと不満を感じました。水夫役でトッドの娘を愛する Anthony Hope を城田優(しろた・ゆう)さん、頭の弱い助手 Tobias Ragg を武田真治さんが演じていましたが、歌の強さというかエネルギーがいまひとつでした。彼らの歌うナンバーは、このミュージカルの聴かせどころの恋歌なのですが、感動を与えるという域にはまだまだ達していないように思えました。公演の後半戦に期待したいところです。それにしても、今回の日生劇場、観客のマナーが悪かった。第1幕の冒頭など、わたしのいた2階席の中央付近から、数十名がビニール袋をぱりぱりいわせる音が響き続けて、舞台から気が散ることといったら。劇場へ行くと、入り口で宣伝ビラの束をビニール袋にいれたのを渡されるわけですね。劇場に来慣れている人は、自分のバッグに入れてしまうか、床の上に置くかして観劇するのですが、慣れない人たちはこれを膝の上に置く。すると、観劇中にちょっと指がさわったり、からだをもぞもぞさせただけで、ビニール袋がしゃかしゃかと乾いた音を立てます。これが、上演中のホールではじつによく響くのですな。幕間に、劇場の女性マネージャーにお願いをしました。「第2幕が始まる前に、携帯電話を切るよう注意の呼びかけをするとき、手元のビニール袋を床に置いて見るよう、言ってくれませんか」。そしたら、第2幕開始前に、「……。また、上演中は手元のお荷物で音を立てることのないよう、ご協力をお願い申し上げます」と言ってくれて、それだけのことで第2幕は格段に静かな客席になって、ようやく舞台に集中することができました。演劇も商売ですから、劇場入り口でビラ束をビニール袋に入れて配るのは結構ですが、演劇に来慣れていない人のために、この手の注意アナウンスがほしいですね。昨日は、DCカード貸切公演でした。だから、日ごろ演劇にあまり来ない人たちが観客に多数混じっていたのだと思います。
Jan 14, 2007
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さすがに何かみやげはあるはずで、それもけっこうサプライズがあるはずで、帰国後それを一生懸命にひけらかすのは間違いないけれど、帰国してきて何を発言しても、「北朝鮮のふりつけ」と言われるだけで、政治家としても評論家としても終わりのはずだが、その辺のいのちを救うのがテレ朝やTBS系のワイドショーや共同通信のヨイショ記事ということになるのだろうか。しばらくの間、彼を出せば視聴率がかせげることは間違いないからね。マスコミも我慢できずに、次々に山崎 拓 氏をスタジオに呼ぶんだろうなぁ。フジテレビの「とくダネ!」にだって出るかもしれないね。スタジオに呼ぶからには、ヨイショもするだろうし、売国キャスターたちはさっそく男娼するだろうし。(漢字変換の間違い。「談笑」でした。)平壌の広告塔としては十分使えるだろう。(使い捨て。)朝鮮国側には、失うものはまったくない。平壌に5日間もいるらしいが、おそらく1日24時間美女攻勢をかけられることは間違いない。“あの”山崎 拓 氏が我慢できるとはとても思えないが……。いささか品がないけど、「山崎氏は平壌で我慢し通せると思いますか」で電話アンケートをとってくれるテレビ局はないか?大晦日であそこまでブレークしたNHKあたり、もう羞恥心は要らない、電話アンケートしてみませんか。ぜったい受けます。でもって、名誉毀損で訴えることは恐らく不可能。彼が帰国後に「山崎氏は平壌で我慢し通せたと思いますか」と電話アンケートする手もあるね。
Jan 10, 2007
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『北國新聞』1月4日号社説でふたたび、安易に「道州制」推進のフリをする安倍政権へ警鐘を鳴らしていた。記録の意味もこめて全文転載させていただく。ちょっと前半がたるいが、後半はよく書けている。本気で道州制へ「乗り換え」るコストをかける余裕が、いったい今の日本にありますか? ということを、想像力をフルに働かせて自問せよということだろう。教育基本法にからめて「愛郷心」に言及した末尾もいい。「道州」は、愛郷心の対象にはなりえないのである。拙著『日本の本領(そこぢから)』でも指摘したとおりだ。≪道州制を再び問う 首相の「姿勢」に懸念を覚える安倍晋三首相が導入の道筋をつけようとしている道州制について、今年も年頭に問うておきたい。私たちは昨年来、道州制を非現実的で非効率な構想と指摘し、北陸の知事たちも導入には反対ないし慎重な姿勢を示してきた。ある意味では憲法改正よりも困難で、膨大なエネルギーがいる道州制に突き進もうとする安倍首相の「姿勢」に懸念を覚えるからである。安倍首相にはまず、足もとの体制とともに、官僚や与党国会議員らの“本心”をしっかりと見定めることから始めるようお勧めしたい。安倍首相は、地元新聞社の新春インタビューで「〇七年は道州制ビジョン策定に向け始動する重要な年にしたい」と述べ、有識者による「道州制ビジョン懇談会」を早期に立ち上げる考えを表明した。その有識者懇談会を取り仕切るはずだった道州制担当相の佐田玄一郎氏が昨年末、政治資金の虚偽記載問題で辞任し、急きょ後任に渡辺喜美氏が起用される一幕があった。政権発足以来、支持率が急落してきた安倍首相だけに、所信表明演説で意欲を示した道州制を、早く次の段階に進め、求心力を取り戻したいとはやるのは分からないでもない。が、道州制自体も「もろ刃の剣」と心得てほしいのである。先の臨時国会で成立した道州制特区推進法に基づき、特区となった北海道への権限移譲の中身を見れば、まず、国省庁の官僚たちの道州制への思惑が透けて見えてくる。13分野33項目の権限移譲を求めた北海道に対し、特区推進法が認めたのは2級河川や開発道路の国直轄事業など、いわば小粒な8項目に過ぎなかった。財源も国負担金が、交付金に名前を変えただけで、国のヒモ付きのままと言ってよい。国交省の出先の北海道開発局との二重行政も解消されず、道の裁量権が増したのは、事業個所の選択程度である。各省庁が権限や財源の移譲にいかに抵抗したかが如実であろう。先行モデルがこの程度では、これまで指摘して来たように、道州制が国の行革の隠れミノとして使われている側面が見え隠れしようと言うものだ。本紙加盟の日本世論調査会の昨年末の調査でも、道州制反対が賛成の2倍以上の62%に達した。国民も道州制の持つ危うさに気付いてきているのである。安倍首相が次に心しなければならないのは、国会議員の「我が身を切る覚悟」である。一昨年の衆院選では自民、公明の与党と民主党が道州制を政権公約に盛り込んだ。表立って異論がないのも、推測ではあるが、多くの議員に「どうせ自分の現役時代に導入できるはずがない」という意識があるためではないか。内政は基本的に道州に移すという地方制度調査会答申の道州制の理念に基づくなら、国省庁も国会も、解体的な規模縮小が必要だ。国会議員の多くも職を投げ打つか、新たな道州議会議員に立候補するか、要するに今の地位に連綿としない覚悟がなければ道州制は成り立つ話ではない。これは都道府県知事や県議会議員にも当てはまる。地制調の区割り案に従えば、全国で三十以上の都府県庁の道州都への移転、それに伴う公務員の大異動、都道府県議会の解体と国会・道州議員の選び直し、議員宿舎や公務員宿舎の整備等々、ハード、ソフト両面で国全体をひっくり返すような作業と税の投入を、安倍首相ははたして現実的と見ているのだろうか。今の国会に、とてもその気があるとは思えない。安倍首相は、道州制がいかに困難で、足もとをすくいかねない構想であるかに気付いてほしいと思う。先の臨時国会で成立した地方分権改革推進法と道州制特区推進法は、小泉前政権の三位一体改革に続く分権改革第二幕の軸に位置づけられているが、このままでは「二兎を追う者は一兎を得ず」になる可能性はいくらもある。それこそ、多くの官僚たちが描いているはずの「現状維持」の思うツボではないか。道州制によって、行政が格段に効率的になり、住民福祉が向上するという保証はない。むしろ逆になるとさえ思える。年明けから道州制に関した集中論議をする予定の全国知事会の積極派も、いい加減、道州制の本質に気付いてもらいたい。知事会も二兎を追わず、地方分権に絞って政府に迫るのが筋だろう。教育基本法改正を果たした安倍首相に最後に問おう。「国と郷土を愛する態度」を養うのに、今と道州制のどちらが適していますか、と。≫愛郷心を云うなら、断然「都道府県」である。中央官庁の出先機関が「地方」単位に設けられて何十年経っても、「地方」はしょせん、お役所仕事のための区割り以上のものとはなれず、ふるさと感覚の情緒がともなうのは「都道府県」の区割りだ。府県合併を推進すべき、というわたしの持論の所以(ゆえん)もここにある。
Jan 4, 2007
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きのう1月2日、NHK総合で『青海(せいかい)チベット鉄道 ~ 世界の屋根2000キロをゆく』を見た。大晦日に乳首を描いたボディースーツを着て女の子たちが踊ってくださったのには、退屈な辞書で粋な例文を見つけたときのような喜びにひたってしまったけれど、21世紀の満洲鉄道と言ってもよろしい、中国のチベット殖民地支配の象徴たる青海チベット鉄道の車輌疾走シーンに、こうもうきうきと軽やかな音楽を配してしまってよいのかね、NHKよ。NHK特集で昭和十年代の日本を描くときにも、同じく軽やかな音楽をぜひお願いしたいものだね。海外のテレビ局としては、青海チベット鉄道取材の一番乗りだったらしい。アナウンサーがこれを誇らしげに語っていたが、それって「NHKは畏れ多くも中国共産党さまから<名誉の別働隊>の認定を受けました!」と言っているようなものだがね。わたしを含め心ある日本国民たちが支払っている受信料によって、中国共産党のために制作されたプロパガンダ番組によれば、青海チベット鉄道は平成13年から18年にかけて4,500億円をかけて建設され、青海省西寧(せいねい)市からチベット・ラサ市まで2日に1本、定員900名の列車が26時間半をかけて走っている。2等寝台車料金が1人8,000円、2等座席車が3,500円。つまり、この鉄道でラサと西寧間を往復するのは、上り・下りを合わせて1日あたり900名。2等寝台車料金で計算しても、旅客収入は1日当り720万円。1年で26億2,800万円。100年で2,628億円。旅客料金以外に貨物運搬収入もあろうが、いずれにせよ建設費の4,500億円は、絶対にペイしない。「あら、それじゃぁ何のために鉄道なんか作っちゃったの?」と家内が訊くから、「よくぞ訊いてくれた。もちろん、これというときに、チベットへ迅速に大軍を送り込むためだよ」と答えた。五体投地(ごたいとうち)しながらラサをめざす、土埃(つちぼこり)まみれのチベット人の巡礼者らが鉄道車輌を眺める。鉄道を見てどう思いますか、というNHK取材班の問いに対して、困ったような、嘲笑するような、沈黙ののちにぼさ~~っと「わかりません」「面白いですね」「変な感じがします」と言わせた。この1分ほどの画像をまもりきるために、ぼくらはNHKの受信料を払っているのだと思った。それにしても、ラサ駅は巨大な伽藍だった。2日に1本しか出ない西寧行きの列車のために。
Jan 3, 2007
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ことしの在京紙の元旦社説は、退屈なものが多くてがっかりした。天下泰平の証か。こういうのを元旦に読みたかったな、と思ったのが『北國新聞』1月3日の社説だ。省庁再編論なのだが、国の隅っこにたまっている滓(かす)を掻き出してくれるような、ついでにこちらの脳の埃(ほこり)まで吹き払ってくれるような快感があった。所論の「文化省」には興味はない。文化を豊かにするのに役所が腕まくりせねばならぬようでは二流国ではないのか。興味を引かれたのは社説の後半で、「治安省」の創設と教育所轄官庁の充実に関する部分。これらは役所の役目が大きい。所論に賛成である。≪防衛省もいいけれど、「美しい国」には文化省がいる日本の戦後の来し方を振り返り、国のあり方とそれを担う省庁の姿について提案したいことがある。文化の国づくりという戦後日本の建国の理念に沿って、新たに「文化省」を設けることである。中国や欧米の文化を受け入れて発展してきた歴史から、日本人はとかく、優れた文化は外から入って来ると思いがちである。しかし、浮世絵が西洋絵画に多大の影響を与えた例などを持ち出すまでもなく、日本独自の伝統文化は世界に誇ってよい。近年は、豊かな伝統文化の土壌から生まれたアニメーションや映画、ゲームソフト、音楽、小説など日本の現代文化が高く評価され、世界の若者らを魅了している。安倍晋三首相がめざす、品格のある「美しい国」づくりとは、一つには、こうした自国の文化に自信を持ち、一層磨きをかけることにほかならない。・建国の理念実現を 一国の「国力」は通常、軍事力と経済力によって測られるが、文化力もまた国力の大きな要素である。最近はソフトパワーという言い方で、外交における文化の力が一段と重視されるようになっている。ソフトパワーとは、例えば世界の人々に「日本に来てみたい」とか「日本のまねをしてみたい」と思わせる魅力のことである。「文化国家」の建設という戦後の日本の目標は、「武」や「金」よりも、「文」の魅力によって世界に存在感のある国をめざそうということである。そのために必要な文化政策を強力に展開するべき国の機関(文化庁)が、文部科学省の「外局」にとどまっている現状は心もとないと言わざるを得ない。現在の文化庁を「省」に格上げすることは、日本の国づくりにとって、ある意味では防衛省昇格以上に重要である。歴史ある欧州の国々をみると、フランス、英国、イタリアなど多くは文化省を置いて文化政策に力を入れている。フランスは昔から「文化大国」であったわけでなく、第二次大戦後に文化省を設置し、作家のアンドレ・マルローを文化大臣に抜てきするなどして文化政策を戦略的に展開した結果である。そこには、「文化は国力になる」という明確な認識があった。大戦に敗れた日本が文化国家を標榜しながら、経済成長の追求を優先したのはもっともなことであった。豊かな文化は生活の安定があってこそであり、たゆまぬ努力で「経済大国」を実現したことは、大いにたたえられてよい。しかし、経済的な豊かさを得た後も、「文化立国」という国づくりの理念がわきに置かれたままの状態であり、文化力を国力に高めていこうという政府の覚悟も戦略も不十分に見えるのは残念である。安倍首相には、省庁再編によって「美しい文化国家」の実現をめざしてもらいたいと思う。・「治安省」の創設も 戦後日本のもう一つの旗印である「平和国家」への歩みは、自信を持って語ってよいことであり、国内の平和―治安の良さは世界有数のものとほめられてきた。それでも、危機管理の甘さは否めず、凶悪犯罪の多発など安全性において不安を覚えずにはいられない状況になってきた。そこでもう一点、「治安省」の創設を提言したい。社会の安全を確保するための国家機構をみると、ばらばらで非効率なのに驚かされる。警察庁は内閣府の外局である国家公安委員会が管理する特別な機関であり、海の安全を守る海上保安庁は国土交通省の外局である。さらに、法務省の外局として公安調査庁が置かれ、厚生労働省の地方組織のもとに麻薬取締官が配置されるという状況である。関連する組織がこのように分散化されたのは、警察から土木、厚生、自治までを統括した戦前の内務省が解体されたことに伴う結果であるが、これらの組織を統合し、より精強で効率的な「治安省」にした方が、国民生活の安全の維持、向上のためはもとより、行財政改革のためにもよいのではないか。また、文化省を創設するなら、文部科学省を総務省と一体化させるのが望ましい。教育行政が国と自治体の共同責任であることを考えれば、何ら不都合はないはずだ。旧郵政省と合体した総務省に文科省を統合するなると、またぞろ旧内務省の復活といった批判が聞こえてきそうである。確かに戦前の内務省は利権と警察権力がつながって弊害もあったが、警察組織を外してしまえば、そうした心配は無用であろう。≫
Jan 3, 2007
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「さっぱりと雑煮で」と題してみて、雑煮が“さっぱり”というのもおかしなものだと思ったけれど、ほかの諸々がこってりしてしまったから、雑煮がいちばんさっぱりしているのだ。ことしのうちの雑煮は、ぼくが干渉しなかったので、醤油と味醂でまとめて三つ葉を載せた、さっぱりした雑煮になった。ここ数年、やたらと台所に干渉して、チキンスープに白味噌をいれた変り雑煮に家族をつき合わせてきたのだけど、ことしの正月は静かに過ごすことにしたのでした。北國新聞1月3日号の「時鐘」も、さっぱりといただきました。≪「隣り雑煮」と言われる。一軒隔てただけで、見た目も味も違うのが雑煮で、究極の家庭の味と言えるだろう。石川は具は控えめ、富山は逆に具だくさん、と隣県では極端に違う。豊富な魚介類を石川では裏方のだしに惜しげもなく使い、洗練されたうまみを自慢する。富山では魚介類も主役の座が与えられ、甘エビやブリの切り身が豪華に椀を彩る。お国柄の違いを映す雑煮は、飛び切りのふるさとの美味によって、さまざまに土地の色も加える。よそではまねできない雑煮もある。奥能登では、厳寒の岩場で採った岩のりを寄せた「ぼたのり」が入り、海の香りを漂わせる。雑煮ツアーなど企画したなら、堂々の主役になる一品だろう。家の味に飽きたころ、一工夫加えるのが「代え雑煮」。飽食の時代には、こんな風習も姿を消していくのだろうか。加賀藩前田家伝来の雑煮の作法を教えてもらった。セリなどの青菜を必ず入れ、それを真っ先に食べる。残してはいけない。菜は「名」。名を惜しむな、虚名を残すな、という新年の覚悟を菜と共にかみしめる。家の味に続くお国自慢の代え雑煮として、広めたいものである。≫ 「代え雑煮」とは、新年早々いい言葉を教わりました。
Jan 3, 2007
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