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…ってキャンディーズ(古い!)じゃないんだけど。(^^ゞ2月3日は節分。その翌日は立春。旧暦の元日はもう終わったものの(1/22)、節分は旧暦の大晦日に当たるそうな。だから、東洋占術では立春から新しい年が始まると考えるわけね。まだまだ寒いけど、これから少しずつ春めいてくる、と。関西では東大寺のお水取りが終わってから本格的な春が来る、と言う。お水取りは3/1~3/14まで行われる有名な行事だ。知り合いが東大寺のある坊にいたことから、泊まりこんでこの行事を見せてもらったことがある。12日の大松明が有名だけど、実は毎晩大松明は出るらしい。12日だけ他の日より1本多く出るのだそうだ。たくさんのお坊さんの読経と、松明の炎が部屋の中で走り回るのは迫力あったよぉ。京都ではお水取りではまだ春は来ないんだ、と京都人から聞いたことがある。「比良八講の荒れじまい」と言って、比良八講という行事がある頃に季節風が吹いてから、やっと春が来るそうだ。いわゆる寒の戻りらしい。比良八講があるのは旧暦2/24だから、今年は4/13に当たる。確かに京都の底冷えはきついもんなぁ。なかなか春も来ないのね。でもたくさんの人に立春大吉が来ればいいなぁ。私も2月は派遣の仕事が入ったので行ってきます。
2004.01.31
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精神世界ビジネスの続きは明日以降に書くとして、今日気づいたことを書くことにした。魂はいろんな体験をすることを望んでいる。魂に終わりはない。永遠のいのちである。ということは、どんな悲惨な体験であったとしても、それは魂にとってわずかな時間の中の、一つの体験でしかないということだ。それ以上でもそれ以下でもない。体験したことから魂はたくさんのことを学ぶ。幸せな体験からも悲惨な体験からも。そのために魂はわざわざこの不自由な肉体を持つことを選択している。人間には自由意志がある。幸せになるという選択も、不幸になるという選択も自分次第であるはずだ。しかし、魂は幸せでも不幸でも構わない。どんな状況の中でも学びはあるのだから。ただ、中途半端な学びしかできなければ、魂はまた後の人生で同じことを繰り返すかもしれない。せっかくの体験なのに、そこから本来学べるはずのテーマを完全に学び終わっていなければ、学び足りない魂はまた同じ状況を作り出して学ぼうとするのではないだろうか。。。とするならば、どんなに辛く悲惨な状況であっても、それを100%味わうことが大事なんじゃないか。楽しめれば一番良いのだろうが、凡人に不幸を楽しめと言ってもなかなか難しい話だ。悲しい時には思い切り泣けばいい。辛い時や苦しい時には、とことん落ち込めばいい。人生のどん底なら、そのみじめささえも味わい尽くす。そういうことが大事なのかもしれない。100%今を生きるとは、そういうことなのかもしれない。“Here,Now.”「今、ここ」とは有名な言葉だけど、それは必ずしもHappyな状態だけを言うのではないのかもしれない。少なくとも、今の私自身にはそういう解釈がピッタリくる。今の自分を味わい尽くすこと。何かに逃げないこと。そんなことを感じた1日だった。
2004.01.25
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最近では「癒し」や「波動」、「言霊」などに興味を持つ人は増えてきたような気がするが、霊能力やチャネリング、浄化、浄霊、パワースポットとかいうことになると、とたんに引く人も多いに違いない。だがそういったいわゆるディープな精神世界ファンも当然いて、かく言う私もそういう話はかなり好きな方である。(^^ゞで、このディープな(マニアック?笑)精神世界ファンの世間はかなり狭い。そういう関係のセミナーやワークショップに行くと、必ずと言って良いほどどこかで見かけた人に出会う。直接の知り合いではなくても、誰かの友人の友人だとか、どこかで繋がっていたりするのだ。この狭い世界では、あのチャネラーはこんな人だとか、○○セラピストはこんなセッションをするらしいとか、こういうヒーリングを受けて良かったよとか、あの神社の気はかなり強いらしいとか、いわゆる口コミ情報が威力を発揮する。一方、セラピストや、チャネラー、霊能者、占い師といった人達(ここでは一応ヒーラーと総称することにする)にも様々な人がいる。もちろん、そういった職業に就くからには「人を癒したい」というのが本来の目的であるはずだが、中には本人自身も気づかずに、自分の抱えている問題を投影するヒーラーがよくいる。完璧な人間などいないので、それはある程度無理もない話なのだが、人間的に未熟で自分自身を客観視できない人ほどそういう傾向が強いように思う。中でも一番問題だと思うのは、目に見えない世界を語ることで、他人をコントロールしようとするヒーラーである。普通の人には見えない・感じられない世界だから、相談者(クライアント)はヒーラーの言うことを信じるしかない。「参考程度に聞いておいて最終的には自分で判断する」という地に足のついた相談者なら良いのだが、「藁にもすがる」という切羽詰った状態であったり、「自分では判断できないから誰か権威者に進む方向を決めてもらいたい」という依存心の強い場合も多いので、ヒーラーの性格(品格と言った方が正確か)次第で相談者は振り回されることにもなりかねない。まぁ、「どんな現実も自分自身が創造しているのだ」という考えに立てば、そういう人は振り回されたがっているとも言えるのだが。この続きはまた次回に。。。
2004.01.24
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精神世界については前にも書いたが、少し違う方向から書いてみたい。精神世界というのは、平凡な普通の生活からはかけ離れたところにあると思っている人の方が多いかも知れないが、私自身はそうは考えていない。肉体を持っている以上、誰でもこの肉体を養う物理的な日常生活がある。起きて寝て、食べて、排泄して、仕事して、家事や子育てをして、セックスをして、いろんな人との付き合いもあって、という現実的な日常生活。でも一方で私達は、夕べ見た夢が気になってその意味を考えたり、リラックスしている時にふと画期的なインスピレーションを得たり、身内や友人の死を虫の知らせで感じたり、知り合いのことを考えていたらその人から電話があって驚いたり、ウトウトしていた時に見たヴィジョンが現実のものになったり、悩んでいる時に聞いた誰かの体験談やたまたま開いた本の中の一言に救われたり、疲れを癒すために音楽を聴いたりマッサージを受けたり、先祖供養に心の安らぎを見出したり、という精神活動も同時にやっている。そういった日常の中の精神活動も、広い意味で精神世界に含まれると私は思う。こういう精神世界への関心は、私達の生活を豊かにしてくれるものであり、目に見えない世界への畏敬や感謝の念を持つことは、精神的な安定をもたらすものではないだろうか。しかし、多くの人にとって違和感のない程度のこういった精神世界とは別に、もっとディープな精神世界というのも確かに存在する。この続きは明日書きます。。。
2004.01.22
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私は友人達とアロマや癒しの会報誌を作っている。年3回の発行で、それをもう丸7年続けてきた。ここ数日、また編集作業に追われていたのだが、今日やっと印刷を終え、ほっと一息。実は紙メディアでの発行は今号で最後となり、次回からはメルマガに移行することになったのだ。ということで、7年という時間にしばし思いを馳せた一日だった。それにしても、イラク派兵に続いて報道規制などというニュースが流れている。これはなんだ!自衛隊を戦争に行かせるということすら馬鹿げた行為だと思うのに、メディアによる報道の自由もないなんて。誤った報道による混乱を避けるため、なんて政府は言ってるけど、政府による報告なんて誰が信じられる。第二次世界大戦中の嘘で固めた大本営発表と同じことにならないと誰が言えるのか。税金を使って存在している自衛隊の行動を、自由な報道によって国民が知らされないということ自体がおかしい。人道支援だというなら、尚更どういう支援活動をしているのか、広く世の中に知らしめるべきだろう。これは人道支援などではない。戦争への参加である。それを政府自体が一番よくわかっているから、報道規制などするのだろう。まさに第二次世界大戦前夜を彷彿とさせる状況である。日本は一体これからどこへ行くのか。。。
2004.01.20
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オーストラリアから来ている義弟が、父のPCにネットとメールができるように設定していたので、今日は一日それを手伝っていた。メール接続がなかなかできなかったので疲れた。しんど~。。。(´ο`)ところで、文章というのは恐いものだ。できるだけ誤解のないようにと、自分ではかなり気をつけて書いているつもりでも、なぜかうまく伝わらないことも多い。文章は自分の手を離れた時から一人歩きを始めるものだ。それはよーくわかっているのだけど、なかなかこちらの真意が伝わらず、また説明なり訂正できる関係や状況なら良いが、そうでなければ誤解されたままで感情の行き違いが生じる。意思や感情を伝達するためには言葉という道具そのものに限界があり、文章はそれ以上に限界がある。表現の仕方が未熟という面もあるだろうが、書き手の表情や雰囲気が文字で伝わるわけでもない。誤解を生じるのを恐れるならば、いっそのこと表現しなければ良いのだが、如何せん、人間とはどうしても表現したい動物だ。どんな形であれ、自分というものを表現するために人間は生きているのではないだろうか。生命活動そのものが自己表現であるとも言える。しかし、やはり文字による表現は不自由だなぁ、とつくづく感じた一日だった。
2004.01.18
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もうずーっと昔、ある友人に「私は自分のことが嫌いだ」と話したことがあった。ところがその友人は、「なんで?誰に好かれてなくても、自分だけは自分のことを好きになってあげんとかわいそうやんか。」と言った。彼女は家庭的に恵まれているとは言えないのに、とても明るくて前向きな人で、その言葉に私は参ってしまった。正直、そう言える彼女の強さが羨ましかった。自分のことを好きになりたいとは思っている。好きにならなければ何事もうまくいかない、幸せにはなれないということもわかっている。だけど好きになれない。・・・そういう迷路に私は長いことはまり込んでいた。自分の足りないところばかりが見えて、自分をかわいいとかよくやってるとか素敵だとか、そんな風に思えたことは一度もなかった。あの頃の私の自己イメージは、なりふり構わず髪の毛を振り乱しながら息せき切って走っている姿だった。周りの人達がいつもゆったり優雅に見えて、まるで遠い世界のような気がした。考えてみれば、「自分を好きになる」ために私は長い間旅をしてきた。あちらで頭を打ち、こちらで頭を打ちしながら、ずっとさ迷い続けてきた。出口がなくて、どこにも光は見えず、たた息苦しく、この肉体は重かった。私が必死に走っていたのは、親の期待や世間の常識に追い立てられていたからだった。そして自分の中で作り上げてしまった理想の自分に。それは私をどこまでも縛り、窒息させてしまっていた。だけど自分探しを続けるうちに、少しずつそういうことがわかり始め、少しずつ私は自由になることができたように思う。バカなことも随分やったけど、その度に少しずつ私は自分を好きになることができてきた。そしてある人との出会いによって、私は自分が自分でいることを本当に許せるようになった。もう頑張らなくても良い、今のありのままの自分で良いんだ、と思えるようになった。これまでも頭ではわかっていたけど、それとハートや魂で感じることとは別物だ。今でも自分を縛る固定観念(私の頭の中だけにある)は残っているし、相変わらず欠点もあるけど、「こんな私も結構かわいいじゃない!」と思える自分がいる。それもこれも、大切な巡り会いのお蔭である。亀みたいな歩みだけど、進歩はしていってるんだね。感謝!
2004.01.15
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夕食の時に何気なくTVを見ていたら、ある住宅メーカーのCMに目が留まった。女性が言う。「私、ゼロからやり直したいと思ったことがあるんです。でも今は、ゼロに無限の可能性を感じるんです。」「ゼロには無限の可能性がある」この言葉が私の心に響いた。起業したいが、今の私達には何もない。お金も人脈も。そしてこれまでの経歴も役にはたたない。まさに「ゼロ」の状態だ。過去の積み重ねから出発することが、私達にはできない。それがこの1年間の試行錯誤の中でわかったこと。しかし、「ゼロ」は「マイナス」ではない。確かに「無限の可能性」を秘めている状態とも言える。それなら、徹底して「ゼロ」になるべきなのかもしれない。先日、新聞のあるエッセイに「問題は革新的な考えを得ることではなく、いかに古い過去の古い考えを捨てるかということだ」という言葉があった。「なにかを始めるには古い因習、習慣、しきたり、さらには価値観。まず捨てることから始まるのである。」と。私達も古い過去を捨てよう。古い考えを捨てよう。パソコンに古いフロッピーを出し入れするような日常は捨てよう。まったく新しい見方、新しい方向性、新しい出会いを目指そう。「ゼロ」の無限の可能性を信じて。
2004.01.12
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私は空が好きだ。空を見上げるのが好きだ。空の色、雲の形、太陽の光、果てのない視界。刻一刻と色を変える朝焼けや夕焼けは、いつまでも見飽きることがない。どの季節も良いけれど、特に秋の高い空が好きだ。ブラシで一刷けしたような絹雲が出るから。それは風が空に作り出す芸術である。私はそんな空を見上げるたびに、この地上のことをしばらくの間忘れる。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、空を見上げるとしばらく心は地上を離れる。まるで魂が故郷を懐かしんでさまよっているように。高校生の頃はそれが特にひどかった。誰かに呼ばれても、しばらくは気がつかないこともよくあった。一日中空を見上げて過ごしたい、とよく思った。そんなこと、やろうと思えばいつだってできるはずなのに、結局一度もしたことがない。今日、電車の窓から、しばらくぶりに空を見上げた。光が空に溢れていた。それだけで、私の心は少しあたたかくなった。
2004.01.10
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たまたま見つけた楽天のエンマさんhttp://plaza.rakuten.co.jp/enmasato/ のサイトに、中国占星術のことが書いてあった。私の日干(本人の性質を表す)もパートナーの日干も同じ庚金、つまり陽の金性で、書いてある内容に思い当たることが多いので、ちょっと笑ってしまった。おまけに私達は天中殺(空亡)同志の相性なのだ。良いんだか悪いんだかわかんないんだけど。(^^;昔、そういう相性を鎖縁(腐れ縁ではない)という、と聞いたような気がするが。で、算命学でいうと、どちらも身強という性質らしい。しかもパートナーの方がとりわけ身強らしい。この身強というのは、車で言えばダンプカータイプだそうで、大きな荷物をたくさん積めるけれど、小回りがきかない。たくさんの荷物を乗せてひたすら走り続ける。逆に言うと、たくさんの荷物(苦労)がないと本来のよさが出ない、という性質らしい。とりわけ身強というパートナーのことを考えると、なるほどねぇと思ってしまった。でも苦労、ねぇ。。。もう十分してきたじゃない?良い加減、このお荷物みんな手放したいよね。ほんと。いや、私達に縁のあるたくさんの人が、笑って幸せになるための苦労ならしても良い、かな?楽しい苦労、って言ったらおかしいけど、なんかそんなお荷物なら背負ってもいいよ。私達にそれだけの器があるのなら、きっと神様が活躍の場を与えてくださるよ、ね。この肉体を選んで、この現実を創り出しているのが私達自身なら、もっと楽しい苦労を引き寄せようね。いや違うな。楽しいんだから、それは苦労じゃなくて、きっと楽しいゲームかパズルみたいなもんだね。今のこの人生も、魂にとっては一つの体験ゲームなんだから。
2004.01.09
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今日からまた簿記2級の勉強を再開。2月に試験なんだけど今度で2回目だからね、なんとか合格したいもんです。ところで梅田の学校に行った帰り、駅の待合室に70歳前後の老人がいた。ホームレスではないにしても、どうも普通の家庭のある人には見えない。小奇麗にはしているが、ハンチング帽をかぶった頭はほとんど白髪で、外での労働が多かったのか、浅黒い肌には深い皺が刻まれている。引っ張る取っ手のついた買い物用のキャリーバッグをそばに置いていた。ちょうどそこに3歳位の2人の男の子を連れた母親と祖母らしき人が入ってきた。老人は子供たちに何度も手を振っている。「イスから落ちたら危ないよ」などと声もかけている。そのうちマッチ箱を取り出し両手の指で操りながら、軽快なリズムで音を立てて子供の注意を引き始めた。付き添いの大人達は、老人の言葉やしぐさに笑顔を作りながらも、ためらいは隠せない。老人はそんな大人達の様子には構わずに、子供を喜ばせようというのか、ずっと軽快な音をたて続けていた。やがて電車が来て親子達が出て行ったあとも、老人はしばらくの間やはりマッチ箱を両手で弾いていた。本を読むふりをしながら、私はこの一コマの情景に老人の人生を見ていた。年老いた者にとっては、幼い命はひたすら愛しく懐かしいものに思えるのだろう。この老人にも、実の孫がいるのだろうか・・・。孤独が道連れというように見える老人の姿に、私は何か切ないものを感じて待合室を出た。
2004.01.07
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さっき、「えぐら開運堂」というTV大阪(関東ではTV東京かな)の番組を見ていた。スピリチュアルカウンセラーの江原氏とコメディアン(?)の名倉氏の出ている、江原氏の霊視番組だ。深夜なのでいつも見ているわけじゃないんだけど、結構おもしろいので私は楽しみにしている。今日は年初めのせいか、今年のキーワードとか開運アイテムなんかも江原氏が話していたので、それを書こうと思う。今年のキーワードは「底力・行動力」だそうだ。自分自身は自分自身で、マイペースでやっていく、というのが良いらしい。開運アイテムは「新聞や雑誌や本」で、もちろん持ち歩くためではなく、いろんな先人の知恵を参考にすることが大切、ということだそうだ。今年は大手企業の倒産とか地震とかの可能性もあるそうだが、そういうことがあるととかく世間全体に慎重ムードになってしまうが、そういう時にこそ先人の知恵を参考にしながらも、自分の底力を信じてマイペースで行動した方が良いとのこと。これまで蓄えてきた自分自身の「底力」を、江原氏は強調していた。広く情報収集はしながら、周りの状況に振り回されることなく、自分自身を信じて断乎としてマイペースで行動することが大切なのね~。ふ~ん。この情報も参考にしながら、今日一日を大切に生きよっと。v(^^)v
2004.01.06
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今日のアクセスカウンターはおかしい。動かなくなってる。で、修正したのはいいけど、800のキリ番自分が踏んでしまった。777も自分が踏んでしまった。これって良いのか悪いのか?(- -;ところで、今日は「おすもうくまちゃんのイレズミ」の話だ。うちの家の姪っ子達は、皆おじいちゃん(私にとっては父だが)と銭湯に行くのが大好きだ。もちろん家風呂はあるんだけど、時々父に連れていってもらうのを楽しみにしている。お風呂のあとのジュースも大きな目的らしいのだが。一番上の姪っ子がまだ2~3歳の頃に、銭湯から帰ってきて、「今日は体にお絵描きしている人がいたよ」という。大人ならすぐにソノ筋の人だとわかるが、初めての姪っ子には物珍しかったらしい。「どんな絵が描いてあったの?」と誰かが聞くと、「おすもうくまちゃん」と答えたので皆で大笑いしたことがある。そのころ通っていた保育園で、「おすもうくまちゃん」という童謡を習っていたらしい。それにしても「おすもうくまちゃん」のイレズミを見せてすごまれても全然恐くないよね。(^_^;)愛嬌があって平和な世の中になりそうな気がするんだけどなぁ。
2004.01.05
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今日は友人と、奈良の大神(みわ)神社に初詣に行って来た。結局近所の氏神様にも初詣に行かないままになってるのに。。。……氏神様、ごめんなさい。(-人-)……今日はもう4日なので空いてるかなと思ったのに、まだ結構混んでいて、テキヤさん達はまだまだ稼ぎ時という感じ。本殿にお参りした後、奥の方にある狭井(さい)神社にお参り。ここでご神水をいただく。ここのお山には一度だけ登ったことがあるけど、かなりきつい山道なので、さすがに今日は登らずに帰ってきた。一緒に行った友人が、「ここには悪い気が大分あるね。というより、沢山の人が悪い気を落としていって、それをここの土地が浄化しきれずにいる、という感じ。ここの土地自体が“助けて!”という悲鳴を上げているみたい」と言った。確かにそうなのだろうな、と思う。人がザワザワいるその雰囲気に、土地の聖なる力はすでに感じられなかった。信仰心や畏敬の念から神社仏閣にお参りするというのが本来の行為だと思うのだけど、最近ではそういう目に見えないものへの敬いの気持ちはどんどん失われて、初詣も恒例のイベントと化している。敬う気持ちもないのに、神様にお願いばかり押し付けているというのが、大方の人間の実態なのだろうと思う。時代が悪ければ悪いほど、人間の様々なエゴや欲望が聖域には渦巻いているのかもしれない。そう考えると、その土地の神様や祀られている神仏も、悲鳴を上げて逃げ出したい気持ちだろう。聖域やパワースポットと呼ばれる場所が、だんだんと有名になり観光地化された時点で、俗化していくのはよくあることだ。いや、人の気が入った時点で、その土地は俗化する。たくさんの人が集まれば集まるほど。昔話で、鬼が「なんだか人間臭いぞ、誰かいるのか!」と隠れている人間を探す場面がよくあるが、これはただ人間の体臭がするというだけではなくて、人の気配(=俗気)というものを鬼(=異形のもの)が感知するという意味なのではないかと私は常々考えている。時間がたてば自然の浄化力が働くけれども、浄化できないほど人が頻繁に訪れれば土地のエネルギーのバランスは崩れ、回復は難しいだろう。神や自然に対する畏敬の念を持ち、厳粛な気持ちで訪れる人達ばかりなら、まだそれは最小限に抑えられるのだろうけど。和歌山の奥に、私の好きな小さな神社がある。名前は結構知られているが、そこはとても交通の不便な土地なので、幸いそれほど俗化の波にはまだ洗われていないようだ。といっても、数年前にたった一度訪れただけなので、現在の様子はよくわからないのだが、足を踏み入れるのがためらわれるような、静謐で清らかな雰囲気を持った場所だった。また、島根県といえば出雲大社が有名だが、そこから少し離れた場所に、これまた小さな古い神社がある。確か出雲大社よりも古くて格も上だと聞いた。それなのに管理の人の姿もそこにはなかった。古色蒼然というか、神さびたという言葉がピッタリくるような神社で、神様がそこにはいらっしゃるという感じを強く受けた。大きな神社仏閣に人が集まるのは、ある意味仕方がないとは思うけど、私の好きな小さな聖域までもが人の気で荒らされることのないようにと願うばかりだ。
2004.01.04
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昨日行った「三尺三寸箸」(つまり1mのお箸ですね)の店名の由来が、紙のランチョンマットに書いてあった。**********************************************************昔、ある人が、極楽の食事の様子を垣間見たところ、おいしそうなたくさんのご馳走を前にして、三尺ほどもある長い箸が用意されていた。どうやって食べるのだろうかと見ていたら、そこにいた人達は皆、料理を自分の口にではなく、お互いに他の人の口に運んで、それはそれは楽しそうに、和気藹々と食事をしたのだった。**********************************************************これは仏教説話にあるそうで、自分のためにではなく、他の人のために何かをすることの大切さ、尊さを教えたものであるらしい。そういえば十数年前、ある自己啓発セミナーを受けた時に、同じようなゲームをしたことがあったのを思い出した。お弁当が一人ずつ与えられるのだが、「自分の箸は使わずに食事をするように」と言われるのだ。最初はどうしたらよいかわからずに皆考えこむが、誰とはなしに、自分の箸で他の人に食べさせ始め、そのうち皆ワイワイ言いながら楽しく食事をすることができた。食事が終わった後、「天国の食事と地獄の食事」の話を聞いて、なるほどなぁと思った覚えがある。地獄の食事は、その長い箸で料理をなんとか自分の口に入れようとするから、ポロポロとこぼれていつまでたっても食べられず、みんな不平不満だらけなのだ。他の人を喜ばせるために何かをすれば、自分も楽しいし自分も他人から喜ばされるということだろう。現実にはなかなか難しいことだけど、日々心がけたいものだと思う。
2004.01.03
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昨日、つまり元旦に、近くの氏神様に初詣しようと妹と出かけたが、結局拝まずに帰ってきてしまった。だってあんなに小さな神社なのに、お賽銭箱に行くまでにかなりの人が列を作って並んでるんだもの。驚いてしまった。今日こそ行くつもりだったが、昼前から梅田の「三尺三寸箸」に大人5人チビ4人の大人数で朝食兼昼食に出かけた。やっぱり早い時間に行くのがベストね。待つこともなく、料理も充実していた。この前、夜に行った時には、オーダーストップが近いような時間だったので、料理もショボかったし、よもぎ茶も薄くてお湯みたいだったもんね。私達が店を出る頃には、何組もの人が待っていた。できるだけ早い時間に行くべし!今回は味も良かったし安いしで、みんな大満足でよかったよかった。チビ達はデザートも食べ放題で喜ぶ喜ぶ。(^^)でも何回か来ている私は、メニューがほとんど変わらないのでちょっと飽きてきたかな。季節が変わればまたメニューも変わるのかなぁ。帰宅したあと、妹と実家の商売用のHPを作る相談をしているうちに気がついたら夜になり、またまた初詣には行けずじまい。年賀状もまだ一枚も書いていない。郵便局もまだ休みだしね、と自分に言い訳。(それでええんか?>自分)・・・という無精な正月2日目でありました。(汗)
2004.01.02
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新しい年、2004年がやってきた。カバラ数秘術で言うと、今年は6の年。6は「愛」「芸術性」「創造性」を表す。地球的なレベルでも個人的なレベルでも、打算のない無私の愛や創造性がキーワードになるのではないかと思う。せちがらく、きな臭い世の中だけど、私達はどのように世界に愛を示すことができるだろう?身近な家族に愛を示すことができるだろう?そして、私達は私達の中に眠る創造性や芸術性を発揮して、この世界を必ず変えることができるはずだ。何気ない日常の中にも、愛と創造性、遊び心を忘れないようにしたい。歩みは小さくても、毎日毎日少しずつ。。。
2004.01.01
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