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【ドローン・オブ・ウォー~Good Kill~】「テロリストは我々を、我々は奴らを殺す。一瞬でも考えたことがあるか? もしも我々が殺しをやめれば奴らもやめるか? どちらが先だろうと悪循環だ。奴らは決してやめない。だから我々も(攻撃を)やめられないのだ」久しぶりに見ごたえのある作品と出合った。若者ぶって言うなら、「チョーヤバイ」という感想。戦争って、こんなもんだっけ?と、これまで描いて来た悲惨でむごたらしい戦争に対するイメージが一変してしまう。これは実に大変なことになった。 世間ではポケモンGo!が大流行していて、若い世代を中心にゲームの楽しさを謳歌している中、水を差すようで恐縮だが、このゲーム感覚というのがクセモノのような気がした。作品のタイトルにもなっているドローンとは、遠隔操作で精巧な動きを可能とする小型無人飛行機のことである。(皆さん周知のとおり。)最近話題になった例で言えば、首相官邸の屋上にドローンが落下した事件や、長野県善光寺の七年に一度の御開帳の際、たくさんの観光客や関係者で賑わう中、ドローンが落下したというトラブルがあった。本来は軽荷物の輸送とか、カメラを搭載して上空からの見事な絶景を撮影したりと、とても便利なツールの一つなのだ。ところがあろうことか、一方では戦場における兵器として使われているのだ。 『ドローン・オブ・ウォー』は、対テロ兵器であるドローンの操縦士が抱える苦悩を描いている。ストーリーは次のとおり。 アメリカ空軍のトミー・イーガン少佐は、ラスベガスの基地に設置されたコンテナで勤務していた。1万キロ余りも離れたアフガニスタン上空に、衛星中継で遠隔操作してドローンを飛ばし、自分自身は命の危機もなくタリバン兵の集う場所にミサイルを発射するのが任務だった。ドローンが空軍に導入される前は、イーガン自身が戦地に赴き、死と隣り合わせで戦闘機に乗っていた。ところが今は、モニターに映し出されるタリバン兵らを、まるでゲーム感覚で音もなく吹き飛ばしていた。現実感が欠落したまま基地と自宅を往復する毎日に、少しずつ違和感を抱き始めるイーガン。そんな中、CIAが主導する対アルカイダ極秘作戦が決行されることになった。CIAの命令は絶対的なもので、容赦がなかった。テロリストとその周辺の一般人を含め、次々とドローンからミサイル攻撃を仕掛けていった。多少の一般人の犠牲など厭わなかったのだ。イーガンのワン・クリックで、遥かかなたの異国で何十、何百もの死傷者が出る一方、勤務を終えるとあたたかなマイホームで2人の幼子のパパになるというギャップに、段々と耐えられなくなり、許せなくなっていくのだった。 ドローンを導入するということは、アメリカ兵に命の危機を覚えさせることなく「簡単に」テロリストたちを攻撃することができる。これは、画期的なことには違いない。半ばゲーム感覚でモニターに映し出される敵をロックオンしてミサイルを発射するだけなのだから。でも、常識的に考えると、背中にうすら寒いものを感じる。戦争って、もっと絶望的なものではなかったのか?こんなに簡単であっけないものなのか?もはや戦闘機のパイロットは不要になる時代に突入したかもしれない。 主人公イーガン少佐に扮したイーサン・ホークが熱演。戦場には行かないのに人を殺せるという現実感の乖離に苦しむ主人公を見事に演じている。代表作に『いまを生きる』などがある。現在は俳優業だけでなく、監督としてもキャリアを積んでいるようだ。 作品のラストは、何とも言えない複雑な気持ちになった。ドローンを操縦するイーガンのモニターに映し出されたのは、タリバン兵に何度となく乱暴される一般女性の痛ましい姿なのだが、任務とは関係がないためスルーしていた。だがイーガンはその女性が気の毒で仕方がない。自分がその場にいれば、タリバン兵から女性を救ってやることも可能なのに、今いるのは遥かかなたのラスベガスの基地である。ところがある日、イーガンは同僚らが傍にいないことを確認すると、違反を承知の上で、モニターに映し出された女性をおもちゃにするタリバン兵をロックオンし、ドローンから攻撃し、殺してしまう。この行為はスカッとする瞬間でもあるのだが、そんな自分が恐ろしくなるラストシーンでもあった。 さて皆さんは、現実のこととしてこの映画をきちんと受け留められるだろうか? 2014年(伊)、2015年(米)(日)公開 【監督】アンドリュー・ニコル【出演】イーサン・ホーク
2016.07.31
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【横山光輝「三国志」第十二巻】「私は少年のころ南の島で、奇怪な老人から奇門遁甲の秘策を伝授されました。風を呼び雨を招くことができます。私が東南の風を吹かせてみましょう。」世界は今、悲鳴をあげている。民族紛争に始まって、イスラム原理主義者によるテロ行為、国家に対する不満からクーデターが起こったり、とにかくありとあらゆる負のエネルギーが充満し、そこかしこで爆発している。だが、たいていの人々は戦争のない平和な世の中を望んでいる。それは、二千年前の中国だって同様なのだ。世の中が乱れに乱れ、どうにかしたいと思ったとき、天下統一を目指して誰かが立ち上がる。それがたまたま曹操であり孫権であり劉備なのだ。軍師・孔明は、ムリヤリの天下統一を避けるべきだと説いた。ムダな血を流さないため、まずは魏・呉・蜀と三国が鼎立するべきだと。互いの利益を守りつつ、バランスを取りながら共存・共栄していこうではないか、というのが孔明の「天下三分の計」であったのだ。 現代に置き換えてみても、その考え方に概ね間違いはない。世界がそれぞれの国家を重んじ、バランスを取りつつ共生していくのが望ましい。だが、ここへ来て日本は気づいてしまった。他の先進諸国と明らかに大きな差異があることを。そう、日本国憲法第九条の存在である。 とはいえ、今どき自衛隊を撤廃してやっていけるとは、とうてい思っていない。私のような政治オンチ、無学の者でもそれは分かる。しかし、どう考えてみたところで自衛隊というものは軍隊である。つまりここに、憲法の矛盾が生じるわけだ。これはやはり、苦渋の選択とはいえ、憲法を改正するしかないだろう。こういう簡単な理屈を、私みたいな一般大衆でも理解できるのに、とくにインテリたちは「護憲」を死守しようとしている。「九条を守ろう!」と声高に唱えることが当然のような顔をしているし、有名人らもそれに賛同してドヤ顔でいる。 他の先進国、たとえばイギリスには労働党がり、フランスには社会党があるけれど、一度だって軍隊の廃止、撤廃は主張していない!当然である。(日本の社民党、共産党は自衛隊の撤廃を声高に言っていた。最近ではそうでもないが。)これだけ日本近海で負のエネルギーがフツフツと音を立てているときに、無防備ではいられない。 私たちが言論の自由を与えられているのも、信仰の自由、表現の自由を与えられているのも、今の日本国家が統治してくれているおかげなのだ。好きな芸能番組を見たり、美味しいスイーツを食べたり、政治家の悪口をさんざん言えるのも、今の日本国家があってこそなのである。もし、社会主義国、共産主義国に攻撃され、この国の領土を占領されてしまったら、その自由はない! 有名人が口々にする「九条を守れ!」というのは、キレイゴトすぎはしまいか。現代日本の置かれた現状をしっかり把握すべきではないか。GHQによって日本が占領され、統治能力を欠いていた時代とは違うのだから。 三国志は、わけのわからない勢力があちこちで反乱を起こし、国としてのまとまりがつかなくなった戦乱の世を描いている。どれほどの農民が被害を受け、罪なき者たちが戦争の犠牲者になったかが行間から感じ取られる。そんな中、劉備のような統治能力に優れた者の下で、バランスの取れた政治手腕を発揮し、兵法家として活躍する孔明という存在があってこそ、対外への抑止力にもなり、国家が安定する。私たちは、劉備や孔明の代わりに、矛盾のない憲法の下で、優れた機能と防衛力のある自衛隊を保持し、対外への抑止力としていかねばならない。 三国志第十二巻では、次の3話がおさめられている。 第45話 鳳雛 連環の計第46話 赤壁の戦い(前編)第47話 赤壁の戦い(後編) あらすじはこうだ。呉の周瑜が指揮する水軍に対し、曹操軍百万の大軍がいつ押し寄せて来るか分からない危機的な状況にあった。だが、この期に及んで周瑜は体調を崩した。すかさず孔明は周瑜を見舞い、苦しい周瑜の胸の内を察した。孔明は紙と筆を借りると、周瑜の病の基となっている原因をさらさらと書きつけた。 曹操をうち破るためには火攻めを用いるがよろしい万事 用意は整ったがただ東の風だけが足りない 周瑜は一読するやいなや、脱帽した。火攻めに必要な武器十万本の弓矢も用意し、苦肉の策を用いて黄蓋をわざと曹操に寝返らせもした。だが、肝心の風だけは、季節柄、西の風しか吹かない。この状況下で火攻めを決行したら、逆に味方に被害が及んでしまう。何としても東南の風が必要だったのだ。すると孔明は、涼しげな顔で「私が東南の風を吹かせてみましょう」と言う。聞けば、孔明はその昔、風変わりな老人より「奇門遁甲の術」を授けられたと言う。周瑜はわらをもすがる思いで、孔明に天を祀らせ祈願を施してもらうことにする。 この後、孔明は南屏山に七星壇を設けさせ、心身を清め、道士の服をつけ、天を仰いで祈りを捧げるのだが、アニメ版ではこのシーンはカットされている。この時、果たして本当に孔明が妖術などを使えたのか?ということである。もちろん、神でもない人間孔明が、風を呼び雨を降らせることなどできはしない。天文学に通じていただけのことで、天気の予測をつけることが可能だったに過ぎない。 ここで大切なのは、「抑止力」である。風を操り、雲をおこすことができる人物だと知られれば、必ず皆が一目置く。ヘタに手出しのできる相手ではないと、警戒をされる。これが孔明の目的だったのだ。自分を防御する、これこそが戦略の第一歩である。二千年も前の歴史から、これほど多くのことを学ばせてもらえるのは、この「三国志」をおいて他にはないだろう。 横山光輝のマンガは15年という長きに渡って連載された大作である。黄巾の乱に始まり、劉備が登場し、三国が鼎立し、やがて蜀が滅びるまでが淡々と描かれている。(全60巻)小説では吉川英治の「三国志」があまりにも有名だが、なかなか活字を読む習慣のない人にとってはツラいものがある。そういう方々には、横山光輝のマンガ、あるいはアニメ版でぜひとも三国志の壮大な歴史ロマンに触れていただきたい。最高にして最良の人間ドラマなのである。 【原作】横山光輝【監督】奥田誠治ほか【放送局】テレビ東京系列【声の出演】劉備玄徳・・・中村大樹、関羽雲長・・・辻新八、張飛翼徳・・・藤原啓治、諸葛亮孔明・・・速水奨、ナレーター・・・小川真司※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ第十巻はコチラ第十一巻はコチラ
2016.07.24
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【横山光輝「三国志」第十一巻】「曹操軍がいつ襲って来るか分からないという大事なときに、たかが十万ほどの矢を用立てるのに十日とはかかりすぎというもの。三日あれば充分です。」世の中、自慢をするのが好きな人はたくさんいるが、自信を持っている人はたくさんいるのだろうか?自慢と自信は決して=(イコール)では結べない。自慢好きの人がみんな自信のある人かと言えば、そうではないからだ。意外にも、自慢する人ほど人には言えないコンプレックスの持ち主だったりする。自信がないからこそ去勢を張って、つまらないことを自慢したりするのだ。一方、自信のある人は、たいていが努力家であり、勉強家である。積み重ねて来た経験をムダにすることなく、知識と教養に支えられ、成長を遂げてゆく人だ。 さて、天才軍師・孔明。この人の知略は並大抵のものではない。兵法だけに才があるわけではなく、天文や地理に通じており、日常から多方面に渡って勉学に勤しんでいた。だからこそ、ここぞと言うときに胸を張って意見することができるのだ。漲る自信はその場しのぎのハッタリなどではなく、積み重ねて来た努力の賜物なのだ。 三国志第十一巻では、孔明が単身で呉の孫権のもとに行き、玄徳軍と同盟を結ばせることで、曹操軍に対抗するまでが描かれている。第十一巻には次の4話がおさめられている。 第41話 周瑜の殺意第42話 秘策! 水上大要塞第43話 十万本の矢第44話 黄蓋・苦肉の策 あらすじはこうだ。水軍大都督である周瑜は、決して愚鈍な将ではなかったが、孔明の知略を恐れ、また嫉妬もしていた。周瑜は上手い口実を見つけて、孔明を亡き者にしてしまいたかった。ある日、曹操軍との合戦を間近に控え、周瑜は軍議を開いた。そこに孔明も招いた。周瑜は、水上の戦にはどんな武器が適しているかをわざわざ孔明に向かって問うた。孔明は「弓矢が最適」だと答えた。すると周瑜は、呉軍には矢の数が不足しているとウソをつき、孔明に十万本の矢を調達して欲しいと依頼する。孔明は快く了承し、期日を問うた。周瑜は「十日以内で」と答えた。この時、周瑜は職人たちに言い含めて、仕事を請け負わないように根回ししていた。期限までに矢を揃えることができなかったという理由で、孔明を斬ってしまおうと企んでいたのだ。ところが孔明は「三日で」十万本の矢を揃えると言う。場内がざわつき、将軍たちが皆、顔を見合わせた。だが周瑜だけはほくそ笑んだ。孔明がまんまとひっかかったと思った。自分から死を求めたようなものだと、憐れみすら感じた。一方、孔明には自信があった。この三日のうち、深い霧が出ることが分かっていた。この濃霧を利用し、十万本の矢を用立てようと考えていた。果たして孔明は、三日後、ゆうに十万本を越える矢を揃えることができたのだった。 第十一巻の見どころは二つある。一つは、孔明が十万本の矢を三日というわずかな期限にもかかわらず用立てるくだり。もう一つは、老将・黄蓋が一世一代の芝居をうち、曹操に偽って降参するというくだりである。(「苦肉の策」という格言のもとになった逸話でもある。) いよいよ三国志も大詰めに迫って来た。次回は最終巻である。マンガや小説においては、話がまだまだ続くのだが、アニメ版では赤壁の戦における大勝利でエンディングとなっている。乞うご期待! 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】速水奨、石塚運昇※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ第十巻はコチラ
2016.07.17
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【横山光輝「三国志」第十巻】「奥方様、阿斗様、いずこに? この趙雲、天に昇り地を這ってもお探し申す。さもなければ戦場の土となるも覚悟。」最近は大切な日本語が簡単な横文字に置き換えられたり、口にされたりすることが多くなった。もちろん、カタカナの方が分かり易いこともあるので、ムリヤリ日本語表現することもないのかもしれないが、それでもあえて、日本語で表現したいときがある。 エフエム放送で流れる J-POP の爽やかで軽快な歌に耳を傾けていると、心の代わりに「ハート」とか、魂の代わりに「ソウル」が使われていたりする。それらはまだしも、「ウォンチュー」「ゲッチュー」「メイク・ラブ」などは、ほとんど感覚で歌っていて本来の意味など考えてはいないのかもしれない。 そんな中、日本人の DNA として受け継いでいるはずの「恥」は、カタカナにできるのだろうか?文字通りの「恥しさ」=「shame」とは少しニュアンスが違う。とても崇高で清廉なる精神である。 三国志第十巻では、玄徳軍が曹操軍に追われ散り散りになってしまうところから始まる。玄徳の妻とその子・阿斗を預けられていた趙雲も、戦いのさなか、見失ってしまった。趙雲は「恥」を知る武将である。大切な主人の奥方と若君を預けられた身でありながら、戦のさなかとはいえ、むざむざ単身、玄徳のもとに戻るわけにはいかない。趙雲はただ一騎で、曹操軍の群がる敵地へと引き返し、探し回るのである。趙雲は「誇り」高き武将であり、決して「プライド」の高い武将ではない。 さて、三国志第十巻は次の4話がおさめられている。 第37話 曹操怒りの逆襲第38話 大暴れ! 子守り剣士第39話 孔明大舌戦第40話 美丈夫・周瑜 あらすじはこうだ。曹操軍は、いったんは孔明の策略に破れもしたが、玄徳軍とは兵士の数からいっても比較にならなかった。全軍を率いて玄徳軍に迫って来た。新野から玄徳を慕って付き従う領民たちが足かせとなり、玄徳軍はなかなか早く前進することができないでいた。とうとう玄徳軍は曹操軍に追いつかれてしまった。江夏に援軍の要請に行った関羽はいまだ戻って来ない。玄徳は、趙雲に己の妻とその子・阿斗を預け、自らも死にもの狂いで戦った。趙雲も夜を徹して奮戦した。ところが奥方と若君の姿を見失ってしまうのだった。 アニメ版では、玄徳夫人は納谷のようなところで痛々しく横たわり絶命するのだが、小説においては、深手を負った夫人は阿斗を趙雲に託すと、己は足手まといになってはならぬと古井戸に身を投げるというくだりになっている。涙なくしては読めないシーンだ。 三国志第十巻は、現代人が忘れかけている「恥」そして「誇り」の精神がもりだくさんに描かれている。中国の歴史物語でありながら、日本人にたくさんの三国志ファンがいるのは、高潔さを彷彿させる武士道にも通じる精神性が描かれているからかもしれない。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】小杉十郎太、井上喜久子※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ第九巻はコチラ
2016.07.10
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【横山光輝「三国志」第九巻】「私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものなのだ」まったく意図が分からないのだが、この第九巻からオープニングとエンディングのテーマソングが変わった。最終巻まで見終わった今も、この第九巻からの変化によってどんな効果があったのか、謎である。可もなく不可もなし、と言ったところか。 それはともかく、この第九巻ではお待ちかね天才軍師・諸葛孔明が大活躍する。この孔明という逸材を引き入れるために、玄徳がどれほどの骨を折ったか想像してもらいたい。二千年も昔のこと。孔明という人物がもの凄い兵法家だと噂があったとして、現代のようにすぐにグーグルで検索して調べた情報ほどの信ぴょう性はないはずだ。せっかく孔明のもとに足を運んだところで、世間の噂が過大評価で、とんでもないデマだったらどうなっていたのだろうか?!玄徳は孔明の屋敷を三度も訪れ、やっと面会が叶うのである。もし、孔明が大した人物ではなかった場合、玄徳にとっては時間と労力の無駄に終わってしまうのだ。 しかし、物語はこうした努力の積み重ねと千載一遇のチャンスによって華やかに展開する。 さて、三国志第九巻は、次の4話がおさめられている。 第33話 徐庶の母第34話 三顧の礼第35話 孔明・初陣第36話 孔明大手柄 あらすじはこうだ。しばらく玄徳のもとで軍師として仕えていた徐庶が、都から届いた母の手紙を読み、にわかに玄徳のもとから去ることになった。人情に篤い玄徳は、親子の間こそ真の恩愛だと言い、関羽や張飛が引き止めるのを却下し、徐庶が許昌へと出向くことを許す。徐庶は去りぎわに、次のように玄徳に進言した。「この近くに優れた人物がいます。姓は諸葛、名は亮、あざなは孔明と申します」玄徳は、その孔明という人物こそが水鏡先生の助言にあった「伏龍」であることを知り、躍り上がらんばかりに喜んだ。後日、日を選び、玄徳は教わったとおりに隆中の孔明の庵を訪ねた。ところが孔明はあいにくの不在。わざわざ草深い隆中まで玄徳について来た関羽、張飛もがっかり。二度目に訪ねた時は、冬のさなかで寒気が厳しく、雪が行く手を阻むほどの荒れた日だったにもかかわらず、孔明は不在。張飛は孔明が居留守をつかっているのではと激怒する。そこをどうにかなだめ、いったん新野城へと戻った。そして三度目にようやく願いが叶い、玄徳は孔明と面会を果たすことができたのだ。 不思議なもので、三国志はこの人が主役なのではと思うほどに、孔明の登場によってがぜん面白くなる。玄徳軍のわずかな兵力で、曹操軍百万の大軍を討ち破る戦術などは、胸の空く思いだ。第九巻の見どころは、何と言っても「三顧の礼」であろう。雨の日も風の日も雪の日でさえくじけずに礼を尽くすという努力。それをアナログなやり方だと誰が批難できよう。 人の心を動かすのは熱意しかない。そして、いかにその人を必要としているかを、誠意を持って口説くのである。今、東京都知事に誰を立てるかでだいぶもめているようだ。三度礼を尽くしてでも立てたい候補者という存在は、さて、出て来ないものなのか。今後の成り行きを見守りたい。 【発売】2003年【監督】奥田誠治ほか【声の出演】中村大樹、速水奨八、藤原啓治※ご参考横山光輝「三国志」の第一巻はコチラ第二巻はコチラ第三巻はコチラ第四巻はコチラ第五巻はコチラ第六巻はコチラ第七巻はコチラ第八巻はコチラ
2016.07.03
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