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「俺が子供の頃来訪した。南極始まって以来の大イベントさ。気づくと彼(ビッグZ)が・・・波の上に。まるで空中に浮かんでるかのように。大勢いたのにまっすぐ俺のとこへ来てこの“ビッグZ・ペンダント”をくれたんだ。そしてこう言った。“あきらめずに道を探せ。それが勝者だ”彼は最高だった。」この作品はペンギンが擬人化されていて、ちょっとしたドキュメンタリー風のストーリー展開になっている。パッとしない生活をおくっている者が、何か一つ光るものを見つけてそれに情熱を注ぐというサクセス・ストーリーは、わりとありがちだが、それを“ペンギン”という可愛い動物に置き換えたのがユニークだ。例えば、ウディ・アレン監督の「ギター弾きの恋」は、主人公エメット(ショーン・ペン)が天才ギタリスト・ジャンゴを崇拝していて、自分も少しでもそこに近づきたいと願うジャズ・ギタリストの話だった。これも実際にはエメットなどと言うギタリストは存在しない、架空の人物なのだが、エメットと接点のあったと言われる人物たちが取材に応じてその人となりを語る・・・的なドキュメンタリータッチの作風になっている。そういう前例があるとは言っても、「サーフズ・アップ」はユニークな脚本・演出・CGで作品を完成度の高いものに仕上げている。ペンギンのコディは、子どものころから“ビッグZ”を神様のように尊敬していた。ビッグZとは伝説のサーファーで、コディもビッグZのようなサーファーになることを夢見て、家の仕事もろくにせずサーフィンに情熱を注いでいた。そんなある日、“ビッグZ記念杯”という大会への出場をスカウトされたコディは、大会の舞台となるペングー・アイランドへと出向くのだった。テーマはいたってシンプルだ。それは、趣味は趣味として楽しもうということ。そこに勝ち負けや実益などが絡み合うと、趣味ではなくなってしまうという警告でもある。人はいつだって勝負根性や利害に囚われてしまう浅はかな生きものである。だが、自分が心から楽しみたいと思ったら、欲を捨て、己を解放して打ち込むことが大切なのだと教えてくれる。子どもに限定しない、大人向きでもあるアニメ映画なのだ。2007年公開【監督】アッシュ・ブラノン【声の出演】コディ・・・シャイア・ラブーフ、ビッグZ・・・ジェフ・ブリッジスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.29
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「朕の望みは日本国の統一だ。強力にして独立を誇る近代国家を確立したい。我々は鉄道や大砲や西欧の衣服は手に入れた。しかし・・・日本人たることを忘れてはならぬ・・・この国の歴史と伝統を・・・!」この映画の公開時にはかなり話題にもなったので、ぜひとも観てみたいと切望していた。 なにしろハリウッド俳優であるトム・クルーズと日本の渡辺謙が肩を並べるというのだから!トム・クルーズという役者さんは、人間としての生き様を見つめ直す、あるいは自己分析を果たすキャラクターを演じることが多いようだ。そういう意味で、「ラスト・サムライ」では願ったりのキャスティングを与えられたに違いない。望むと望まざるに関わらず、一たび戦場にかり出された兵士は敵を殺戮していくのが仕事。一人でも多くを殺した者が英雄になるのだから。トム・クルーズの役柄はアメリカの軍人で、南北戦争においてはインディアンらを殺戮した過去を持つ兵士として登場する。その異国人が、日本の伝統、武士道と出あった時、果たして何を感じ何を考えるのか? この作品のテーマは、おそらくその辺りがポイントになっているかと思われる。南北戦争時代のアメリカ。北軍の大尉として参軍したオールグレンは、アメリカ先住民族であるインディアンらと戦う。だが、インディアンの子どもや婦女子に至るまで無益な血を流すことに疑問を持ち、良心の呵責に苛まれる。一方、日本では明治維新の樹立とともに、近代国家建設のため西欧諸国から様々な文化、技術が取り入れられていた。それに伴い、アメリカから軍隊の指揮官を招くことになった。そこで、日本の実業家からオールグレンに対し、多額の授業料と引き換えに軍隊の調教を依頼される。何が泣けるかって、とにかく音楽が煽る煽る!「泣いてくれ」と言わんばかりの効果的なメロディーであった。桜のシーンは今一つで、生意気を言わせてもらえば、はらはらと散りぎわのシーンを撮影していただけたら申し分なかったであろう。あるいは平家絵巻などを部分的に挿入し、“忠度都落ち”のくだりなどをテロップを入れて紹介するのも一興だったかもしれない。たとえば、“さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな”~薩摩守忠度・句~などと吉野山の一面の山桜を背景にテロップを出すのだ。・・・余談恐縮。何はともあれ、親日的なサムライ映画で違和感なく楽しめる作品であった。2003年公開【監督】エドワード・ズウィック【出演】トム・クルーズ、渡辺謙また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.27
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「(ガウンの)前を開けよ。」「イヤよ。見せるなんて。なぜ?」「別に。君を見たい。」「イヤよ。」「15秒でいい。見せてくれ。」「何を見たいの? なぜ?」「なぜって・・・いいだろ? 愛してる女の体を見たいんだ。」恋愛映画にはお決まりのパターンみたいなものがある。それは例えば、家柄の違いによる悲恋であったり、どちらか一方が白血病で余命いくばくもなかったり・・・。最近多いのは、女性側に何か辛い過去があり、もうこれ以上傷つきたくないからと恋愛に対して臆病になっている・・・的なストーリーである。「恋のためらい」も例外ではなく、後者のパターンだ。しかし、主役の二人が一流俳優だから最初から最後までたっぷり見せてくれる。脛に傷を持つ男が実によく合うアル・パチーノ。作中、花をバックに濃厚なキス・シーンがあるのだが、もうなんだか貪るような接吻だ。 正直、これだけで恋愛映画としては大成功と言える。刑期を終えたジョニーは、出所後ニューヨークのとあるカフェのコックとして働き出す。 ウェイトレスのフランキーは、いつも見るたびに殻に閉じこもっているような印象を受け、ジョニーと同様の孤独を抱えた寂しさが感じられた。そんなフランキーに惹かれ、ジョニーは猛烈にアタックを続ける。ジョニーに心動かされたフランキーは、少しずつ自分を語るようになり、やがて体を重ねる関係となる。吟遊映人はアル・パチーノびいきなので、もはやどんな作品においても彼の演技力と立ち位置を評価したい!ミシェル・ファイファーとのラブ・シーンなんてもの凄い迫力で、思わず画面に釘付けになってしまったほどだ。(笑)見どころは、これでもかこれでもかと愛を語りかけるアル・パチーノの堂々とした口説き文句。ニコラス・ケイジの甘いマスクと違って、アル・パチーノは牙を隠した野生のオオカミのような、粗野で乱暴なイメージがあって、それはまたそれでアリかなと。顔の筋肉が弛むのを抑えられない吟遊映人なのである。(ハート)1991年公開【監督】ゲイリー・マーシャル【出演】アル・パチーノ、ミシェル・ファイファーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.25
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「どっちが強いかマヌケ牛に教えてやろう!」「生意気な子供から食おうぜ。」「その前に私を倒していけ!」休日は子供といっしょに何かを楽しみたい・・・そう考えておられる世の親御さんたちは、キャッチボールをしたり、公園に出かけたり、あるいは買い物に出かけたりと、その都度家族のライフスタイルに合った休日を楽しまれているに違いない。だがもしもインドア派なら、やっぱりお茶の間でDVD鑑賞をおすすめしたい。「ライアンを探せ!」は、専ら子供向きなので、いっしょに観る大人は退屈を味わうことになるかもしれない。だが、吟遊映人は気付いてしまった。子供のころに見たアニメと、大人になってから見るアニメでは、その印象も感想も全く異なるものになることを。例えば小さいころ読んだ絵本。覚えたての字面を追いつつ、ドラマチックな挿絵にわくわくしながらページをめくったものだ。そして大人になってから読む絵本。それは、癒しとノスタルジアを求めて童心に返る。そう、我々はいつだって少年の心を忘れてはいない。「ライアンを探せ!」は、少年時代の夢と冒険を思い出させてくれるアニメ映画なのだ。 ニューヨーク動物園に暮らす仔ライオンのライアンは、父ライオンであるサムソンから野生時代の武勇伝をいつも聞かされ、励みに思うのと同時にコンプレックスも抱いていた。なぜなら、11歳にもなるというのに、いまだ父のような勇ましい雄叫びができず、他の動物たちからバカにされており自己嫌悪に陥っていたのだ。そんなある晩、ふてくされていたライアンは野生の世界へ行けるという緑の箱(コンテナ)に入ってしまう。コンテナを積んだトラックは、動物園から走り出し、それに気付いた父親サムソンは慌てて追いかけるのだった。サムソンの声を担当しているのは、キーファー・サザーランド。キーファー・サザーランドと言えば「スタンド・バイ・ミー」で、名前は忘れてしまったが不良グループのリーダー役を演じた役者さんだ。なんだか声だけの出演というのは残念な気もするが、その低音で落ち着いた声はアニメと言えども充分に存在感を発揮していた。絵本の世界がそのままアニメになったような印象を受ける、ファンタジーにあふれた作品なのだ。2006年公開【監督】スティーブ・スパッツ・ウィリアムズ【声の出演】サムソン・・・キーファー・サザーランド、ライアン・・・グレッグ・サイプスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.23
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「父がそのぅ・・・嫁をもらいたいと、こう申しておりますので。」「何、嫁?」「いい年をして何を・・・全く情けないと申しますか・・・恥知らずと申しますか・・・。」「あ・・・いや、してその相手のお方とはどのような・・・?」「それが・・・茶屋の女なのでございます。」作品を盛り上げるために、とりわけ効果的な手段の一つに音楽の挿入がある。例えば「スター・ウォーズ」では、ダースベイダーの登場とともに流れるダースベイダーのテーマ曲。あるいは「ゴッドファーザー」で流れるテーマ曲。このようなインパクトのある音楽の効果的な使用により、作品はより重厚で存在感のあるものに完成される。「鬼平」においてもエンディング・タイトルとして流れる曲は定番で、作中でもここぞという時に効果的なBGMとして使用されている。ジプシー・キングスの“インスピレーション”という曲なのだが、実に良い。フランスの音楽バンドで、根強いファンに支えられている。有名なところで、キリンビールのCMでお馴染の“ボラーレ”も、このジプシー・キングスの作曲なのだ。長谷川平蔵のいとこに当たる、三沢仙右衛門親子が平蔵宅を訪れる。何やら仙右衛門の長男が言うには、父親がいい年をして再婚したいとのこと。しかも相手は茶屋の女だと。相談を受けた平蔵は、ひとまず山吹屋という茶屋に出向き、仙右衛門が一目惚れをしたお勝の人柄を見て来ることを約束。さっそく平蔵は、家臣である木村忠吾を伴い、山吹屋に出向くのであった。久しぶりに吉田栄作を見たような気がした。今回の作品では、利八という盗人稼業から足を洗い、鬼平の配下で“狗”となって働く役柄として登場しているが、以前の印象とはだいぶ違って見えた。吉田栄作と言えば、世間がバブルに沸いたあの時代、ルックスとスタイルを買われてモデルから俳優に転身を遂げた、華々しい経歴を持つ人物だ。加勢大周・織田裕ニらとともにトレンディードラマの常連俳優であり、“平成の御三家”とも呼ばれていたこともある。そんな吉田栄作も、一時期廃れて芸能界から身を引き、渡米していたブランクもあるのだが、そういう充電期間をフルに活用して今の吉田栄作に変身を遂げたに違いない。「鬼平」においても、なかなか味のある役者として立ち回っていたように思えた。「鬼平」のすごいのは、そんな“脛に傷を持つ”役者らが一堂に会し、見事な時代劇を完成させていることだ。お茶の間で老若男女、時を忘れて楽しめる作品なのだ。2005年フジテレビ系列にて放送【監督】石原興【原作】池波正太郎【出演】中村吉右衛門、吉田栄作また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.21
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「親父、あの女に酒を。」「へい。」(夜鷹、被り物を脱ぎ、色目をつかう。)「ハハハ・・・俺も年でな、そっちの方はいけねぇんだよ。まぁこっちへ来て、体のあったまるものをゆっくり飲んで行きな。さぁさぁ・・・」「旦那・・・。」後に万感の想いで直木賞を受賞した池波正太郎だが、正統派歴史小説家として直木賞選考委員に海音寺潮五郎が名を連ねていた時は、その辛辣な酷評のもとに直木賞を逃していたのだ。しかし、池波作品は大衆から愛され、「読み易い」との定評があり、時代小説家として確固とした地位を確立した。池波正太郎の代表作に、「鬼平犯科帳」は言うまでもないが、「剣客商売」や「真田太平記」などがあげられる。「真田太平記」は天才軍師・真田幸村を扱った作品だが、機知に富み、天文・知略に通じた真田家の登場人物を生き生きと描いている。ちなみに真田家の居城は長野県上田市にあり、10年ほど前だったか“池波正太郎・真田太平記館”なるものが開館し、話題を呼んだ。老いてすでに盗人稼業から足を洗っていた九平は、故郷の加賀国へと向かっていた。途中、通り雨に見舞われて御堂で雨宿りをしていたところ、後から3人の男がやって来て軒下で何やら密談を始めた。それは、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵の暗殺計画であった。3人は御堂の中の九平に気付かず、雨があがるとすぐに立ち去ってしまった。頑固で臆病者の九平は、その話を聞かなかったことにして、その1年後、江戸で居酒屋を開くのだった。やっぱり勧善懲悪の時代劇は安心して観ていられるから嬉しい。特に鬼平役の中村吉右衛門の圧倒的な存在感はどうだ!この人がいるからお江戸の町は安心なのさ・・・的な雰囲気さえ漂ってしまう。通りすがりの夜鷹でさえ鬼平に恋してしまうのだから、このキャラクターの魅力って一体・・・?極悪非道の網切の甚五郎という悪役は、大杉漣が好演。血も涙もない悪いヤツとして演じてくれた。「鬼平」を観た後のこの爽快感! これがまたたまらない。暗く陰鬱な時代劇なんか、どれほど芸術的価値があるか知らないが、やっぱりこうでなくちゃ。勧善懲悪、これにて一件落着!2006年フジテレビ系列にて放送【監督】井上昭【原作】池波正太郎【出演】中村吉右衛門、小林稔侍また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.19
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『僕の人生は小さな失敗の連続のように思える。愛せなかった女たち、つかめなかったチャンス、逃してしまった幸福、結果がわかっているのに当たり馬券を買えなかったレース。悲惨な運命のおかげで僕は自分の本質に気づいたのか。』幸いにして自分は健常者であっても、家族の誰かが闘病中であったり、ハンディキャップを背負っているなどの当事者の方たちは、この作品をどのような思いで鑑賞されたことだろうか。吟遊映人の父親はすでに亡くなっているが、肺に黴ができるという稀な奇病に冒され、その晩年は本人も家族も非常に苦悩した。毎晩のように激しい咳込み、コールタールのような血の塊を洗面器に吐くのだから、それはそれは壮絶な闘病生活だった。「潜水服は蝶の夢を見る」も、ファッション雑誌“ELLE”の編集長が実際にその身に起きた体験談を手記にまとめたものである。ある日突然の発病から、それまでの一切合切の自由を奪われた男の、ただただ生かされるだけの人生に対する自虐的な、あるいはあきらめの境地とも言える自己反省録なのだ。病室でおぼろげに光を感じた。ぼんやりとした意識の中で、看護士らしき人物が慌てて医師を呼びに行くのがわかった。 ジャン=ドーは、意識が回復して初めて自分の置かれた立場を認識した。脳血管障害により首から下は麻痺状態で、唯一動かせるのは左目だけ。それまでのジャン=ドーは、雑誌“ELLE”の敏腕編集者で華やかな世界にどっぷりと浸かっていた。だが今の彼は、唇の端から流れるヨダレさえ拭くことのままならない状況であった。スペイン映画「海を飛ぶ夢」が尊厳死をテーマに扱っていたのに比べ、「潜水服は蝶の夢を見る」はもう少し穏やかなテーマかもしれない。“希望を捨てない”とか“夢をあきらめない”とか、そういう人間的な彩りが感じられる。時折、氷山が音を立てて崩れ落ちる映像が出て来るが、この描写も言葉に出して表現できないジャン=ドーの心情だったのかもしれない。このような重厚な作品を観るにつけ、ふだんは忘れがちな健康のありがたみをつくづく感じさせる。そして、生きていくこととは一体何なのかを考えさせられる。2007年(仏)、2008年(日)公開【監督】ジュリアン・シュナーベル【出演】マチュー・アマルリックまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.17
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「酔って落ちたのか自殺か分からないけどさ、ここに捜しに来なきゃ死なずに済んだのに。」「(養子にもらわれた後に)僕のママが来たら?」「名字が本物なら捜せる。施設での命名なら絶望。駅で拾われた僕は絶望だ。」映画に限らずテレビドラマにも言えることだが、子どもが健気にがんばっている姿とか、動物が過酷な自然の中で生き抜く姿とか、人間のメンタルな部分に訴えかけるものは概ね成功率は高い。そういう弱者を作品のテーマに掲げられたら誰も酷評できないし、否が応でも“ガンバレ!”とか“お幸せに!”みたいなエールをおくってあげたくなるものなのだ。例外でなくこのロシア映画「この道は母へとつづく」も、人間の良心がくすぐられる名作だ。真冬のロシア。孤児院では多くの子どもたちが身を寄せ合って暮らしていた。貧しく過酷な生活から抜け出す術は、裕福な養父母に引き取られていくこと・・・。白羽の矢が立った6歳の男児ワーニャは、イタリア人夫妻から気に入られ、養子にもらわれる段取りが整えられようとしていた。そんなある日、すでに養子として孤児院から巣立って行ったムーヒンの母親が突然孤児院を訪ねて来た。一度は捨てたはずの息子だが、我が子への愛情冷めやらず、必死に捜し出して来たのだった。だが院長から母親失格の烙印を押され、追い返されてしまう。そんなようすを遠巻きに見ていたワーニャは、自分がイタリア人夫妻のもとへ引き取られた後、実母が孤児院を訪ねて来たらどうしよう・・・と、母親への憐憫の情と恋しさが募るのだった。生きるためとは言え、まだ成人してもいない少女が娼婦となって稼いでいる姿は、正直、閉口した。また、就学年齢に達しても読み書きすら教えてもらえないのかと思うと、社会主義国家の闇を見たような気がした。あるいは孤児院という特殊な環境にある者たちだけが味わう社会の過酷な運命なのか。 ラストは、主人公ワーニャがやっとの思いで実母と対面するところでエンディングなのだが、果たしてその後の生活がどうであるかは分からない。ただとりあえず、母のぬくもりとあたたかい部屋と、まだ冷めていないスープにありつけたのだろうと、想像するばかりだ。2005年(露)、2007年(日)公開【監督】アンドレイ・クラフチューク【出演】コーリャ・スピリドノフまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.15
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【レッド・オクトーバーを追え!】「私もこれに似た故郷の川で祖父から釣りを習った。“海は人々に新しい希望をもたらす”“眠りが夢を運ぶように”・・・コロンブスの言葉だ。」「新しい世界へようこそ。」冷戦時代末期、当時ソビエトの体制に不満を抱くインテリ層は、こぞって西側へと亡命を果たした。映画はそんな社会的世相を鋭く反映しているから頼もしい。この作品「レッド・オクトーバーを追え!」も、ソビエト海軍の優秀な逸材である艦長が、多くは語らないけれども国家に対する何らかの不満を抱き、アメリカへ亡命するという内容だ。まぁ製作者がアメリカ人なので、西側に肩入れしているのは仕方ないとしても、事実、当時東側からの亡命はある種の社会問題にまでなったのだから否めない。いよいよ社会主義体制の崩壊を予感していたに違いない。(無論、資本主義体制が完璧であるとは言えないけれど。)ソビエト海軍の最新鋭ミサイル原子力潜水艦レッド・オクトーバー(※)が、ムルマンスク港を出航。艦長は、世界の軍事関係者の誰もが一目置いているマルコ・ラミウスであった。だがラミウスは、ソ連の体制に不満を持ち、アメリカへの亡命を画策していた。一方、アメリカではソ連軍の動きを警戒し、レッド・オクトーバー撃沈の命令が下されようとしていた。しかしCIAアナリストであるジャック・ライアンは、ラミウス亡命の意図を読み、命を懸けそして英知を持ってラミウスと連絡を取ることに成功する。映画というのは大衆の娯楽でありながら、同時に社会史の記録でもあるのだとつくづく感じた。1990年に公開されたこの作品を、20年近く経過した現在観たところで、この物語の背景を知らなければまずピンと来ないだろう。多くの映画に馴染み親しんでいる若き視聴者の皆さんは、こういう作品とたくさんめぐり合って、その歴史を知ることで映画のテーマを探っていただきたい。日本史・世界史離れと言われて久しい現代、せめて映画というメディアを通じて楽しく歴史を学んでいこうではないか。映画が永遠に大衆娯楽であり続ければ、自然とそこに“政治性”“社会性”が絡んで、我々にとって最も親しみ易い教材と成り得るに違いないからだ。※レッド・オクトーバー・・・「十月革命」にちなんで付けられた名前。【参照:ウィキペディア】1990年公開【原作】トム・クランシー【監督】ジョン・マクティアナン【出演】ショーン・コネリー、アレック・ボールドウィン
2009.01.13
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「(そんな物ばかり食べてると)動脈硬化になるぞ。コレステロール(たっぷりだ)。献立を作ってやろう。」「ムショでな。」「なぜそんな物・・・。」「うまいから(食べるの)さ。」傑作と言われ世間の評価も高く、見よう見ようと思って今日まで見逃していた「ミッドナイト・ラン」。待ち焦がれていた人とやっとの思いで対面した気分だ。まずこれだけゲラゲラ笑ったのは「オーシャンズ」シリーズを観て以来だ。声を出して笑うことがこれほど気持ちの良いこととは!この作品は今年のベスト3に入りそうな勢いだ。(←吟遊映人独断の勝手なベスト3のこと)飄々としたデ・ニーロの演技がまたイイ!ここでは警官くずれの賞金稼ぎという設定だが、マフィアのドンをやらせても一流だし、逆に刑事をやらせても一流だし、とにかくオールマイティな演技を披露してくれる役者さんなのだ。シリアスとコミカルを見事に使い分け、セリフの間の取り方、視線の投げ方、立ち居振る舞いが実に洗練されているではないか!こういう作品は安心して観ていられるから時間が過ぎるのが早い。あっと言う間に終演というのが実感だ。一匹狼で警官くずれのジャック・ウォツッシュは、保釈金融会社と契約を結んで賞金稼ぎをしていた。今回の依頼は、シカゴの麻薬王セラノのもとで会計士をしていたジョナサン・マデューカス(デューク)を捕まえることであった。デュークはセラノの金を横領し、あろうことか慈善事業に寄付してセラノに追われる身。 そんなデュークをウォルッシュはロサンゼルスへ連れ戻す仕事を引き受けたのだった。 おもしろいのはFBI捜査官のモーズリーがぬっと現れるシーン。本来なら颯爽とカッコ良くのはずが、ジャックに裏をかかれているせいか、今一つFBIとしての威厳が見られない・・・そんなコミカルな演出がとても効果的だ。また、ジャックが途中シカゴで9年ぶりに別れた妻子のもとへお金を借りに立ち寄るシーンがあるのだが、この時の娘との対面は正に名演技。父に会えた喜びをかみしめる娘に対し、成長した娘に何と声をかけて良いのか戸惑う父。 こういう細部に渡る役者の演技力に脱帽だ。やっぱりどうせ観るならこういう映画をたくさん観たい。決して視聴者を裏切らない、ほのぼのアクション・コメディ・・・世知辛い現実を生きる我々に“笑い”という福を与えてくれる、正真正銘の娯楽映画なのだ。1988年公開【監督】マーティン・ブレスト【出演】ロバート・デ・ニーロ、チャールズ・グローディンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.11
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「父親を失って心から同情するわ。大きな喪失感ね。でも事故は天の摂理よ。過去は戻らない。もう済んだことよ。・・・もっと自分を自由に表現したら? 言葉を使わずに。」「ちびまる子ちゃん」でおなじみのさくらももこさんのエッセイに、インド取材旅行についての記事があった。『インドはおもしろいけど疲れますね。(中略)毎日がほんとうに疲れました。街がゴチャゴチャしてて人や車が多いでしょ。インド人のなかにいるだけで、あの混乱したパワーで疲れるんですよ。』とある。どうやらインドの国民性に振り回されてしまったらしいさくらさんだが、中にはそんなインドにどっぷり浸かって身も心もガンジス川に内包されてしまいたいと言う人もいるのだ。それだけに神秘的で、だけど混沌としたインドの刹那的な光景は“自分さがしの旅”にもって来いなのかもしれない。今回観た「ダージリン急行」も、個性の強い兄弟3人が“心の旅”をするためにインド旅行に出発するというストーリーなのだ。父の死後、1年間絶交していた兄弟3人が、長男フランシスの呼びかけでインド旅行に出かける。それは、インド北西部を走るダージリン急行に乗って心の旅に出発するというものだった。というのも、3人はそれぞれに問題を抱え、苦悩しており、“自分さがし”を必要としていたのだ。冒頭から派手な展開もなく、インドを舞台に淡々と進んでいく。“心の旅”と言うと、何か傷心旅行を連想しがちだがそうではなく、もっと漠然としていて捉えどころがなく、取り留めのない旅行だ。自分を見つめ直し、自己を改善しようと試みるのかと思いきや、旅の目的そのものが希薄で行き当たりばったりというムードに包まれている。仕切り屋の長男、ナイーブな次男、自由奔放の三男、この個性豊かな3兄弟がささいなことで口論をしたり、父の死を悼み、母との関係に悩み、プライベートで揉め事を抱えながらのドタバタ劇。インド旅行で3人が見つけたもの・・・。それは、あるがままの三人三様のあり方を受け入れたことであろうか。誰を責めるわけでもなく、非難するわけでもなく。インドの混沌の中ではそれこそが自然体であり、“死”を迎えるまでのひまつぶしの人生のようにも思えた。笑いと、ほんのりスパイスの効いた人生哲学のような作品であった。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】ウェス・アンダーソン【出演】オーウェン・ウィルソン、エイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.11
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「(このヤマから)外れるわ。」「なぜ?」「犯人像も分かったし、私はもう用済みよ。」「マーティンの心理は誰が分析する?」「彼が容疑者よ。」「逮捕がまだだ。・・・本当の訳(理由)は何なんだ?」「別に何も。」うん、やっぱりサスペンス好きだな。偏りがあってはいけないと思い、様々なジャンルから週末に観るDVDをチョイスしてはいるけど、改めて“サスペンス好き”の自分に気付いてしまった。今回観た「テイキング・ライブス」においても、猟奇的な殺人事件が題材になっているのだが、コワさを煽るカメラワーク、視聴者の裏をかくシナリオ、うるさくならない程度のBGMは正にバランスが取れており、安心して鑑賞することができた。FBI特別捜査官のイリアナの日常は実に良かった。仕事に対するプロ意識とは、こうあるべきなのだ。彼女は常に犯人の意識下に入り、思考をめぐらし、分析する。それは一分一秒さえ無駄にしない努力の連続でもある。自宅で夕食を摂る時でさえ、自分の向かい側のイスに現場の壮絶な写真を貼り付け、じっと凝視しながらサラダを食べ、ワインを飲むのだ。さらには腐敗した死体の掘り起こされた現場に自分自身が横たわり、死者の意識をめぐらす。これほどのプロ意識がなければホシをあげることなどできないのだ。1983年カナダで、マーティン・アッシャーという少年が交通事故で死亡するというニュースが流れる。ところ変わって現在、モントリオールのとある工事現場で腐敗の進んだ死体が発見され、連続猟奇殺人を疑った警察はFBIに捜査協力を要請。女性特別捜査官のイリアナが派遣されるのだった。そんな中、次なる殺人事件が発生。唯一の目撃者であるコスタの証言に、信憑性があるか否かを確かめるために、イリアナが尋問する。犯人の顔を見てしまったコスタは、この次は自分が狙われるのではと不安に駆られ、怯えるのだった。女性蔑視とか職業の優劣意識による嫉妬心など、どこの社会にもあることなのだと思った。こんな場面が出て来る。それは、FBIの女性捜査官イリアナと地元警察の二人の男性刑事がカフェで朝食の最中。二人の男性刑事は同席のイリアナに分からないようフランス語(モントリオールはフランス語圏)でセクハラまがいの冗談を言い合う。これは、よそ者でしかも女性という立場のイリアナに対する不快感の表れである。こういう社会風刺はさすがにアメリカだけのことはある。思うに、役者の熱演とか圧倒的な存在感より、映像や編集テクニックにより緊張感や恐怖感を煽る・・・・これこそがサスペンス映画の醍醐味であろう。2004年公開【監督】D・J・カルーソー、ブルース・バーマン【出演】アンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホークまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.09
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「空って大好き。広くて・・・果てしない。」「そうだな、とても大きい。」「“大きい”なんて言葉、空には小さすぎるわ。空を表すのにはもっと大きな言葉を(使って表現しなくちゃ)。」この作品を観た後、自分の過去が走馬灯のように駆け巡った。誰のせいでもないからよけいに腹立たしい。家庭に問題があるなどと認めたくはない。自殺した父親に過食症の母親、重度の知的障害を持つ弟。だが世間は奇異の目で見る。“あの家庭よりウチはまだマシなほう”“お気の毒に、あんな生活でしあわせなの?”色眼鏡で見られることに慣れているとは言え、毎日が針のむしろだ。手かせ足かせなんて、身体の一部に同化してしまえばそれほど大した問題ではなくなるのだ。重要なのは、皆が自分を認識(注目)しているということ。(たとえ自分が相手のことを知らなかったとしても。)誰も自分のことを知らない町へ行ってしまいたい。都会の孤独が楽園に変わる瞬間だ。この作品は、とても文学性の高い内容なので、翻訳された日本語では追いつかない表現もあるかと思われる。だが、各人の精一杯のイマジネーションと文学的センスを生かしてこの作品を堪能していただきたい。アイオワ州の田舎町に暮らすギルバートには、知的障害を持つ弟アーニーと、過食症で肥満体型の母、それに二人の姉妹がいた。父親は7年前に自殺して、一家の稼ぎはギルバートにかかっていた。彼は町の小さな食料品店に勤めながら、毎日必死でアーニーの面倒をみていた。そんなある日、町を通り過ぎるはずのトレーラーが故障のためしばらく留まることになった。そこでギルバートは、旅の途上にあったベッキーと出会う。この作品にはいくつかのキーワードとなるセリフがある。中でも重要なのは、“僕らはどこへでも行ける”だと思う。親を亡くし、家を失くし、何一つ満足なものなんてないけれど、自由を手に入れた悦び。 この“自由”とは、大きな代償を払って手に入れたものであり、決して気楽で贅沢なものなんかではない。だが、「どこへでも行ける」自由な立場とは、しらがみのない、孤独との闘いであり、鏡に映る豪華な食卓のようなものだ。あなたはこの作品を観て、何を感じ、何を伝えたいと思っただろうか?人生とは一体、何なんだろう?1993年(米)、1994年(日)公開【監督】ラッセ・ハルストレム【出演】ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.07
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「人は死ぬ。」「(でも私は医者だから)助けなくては。」「肉体が力尽き、死が訪れる。」「患者を救うのが医者の役目なのに・・・(私は死なせてしまった)。」「君は悪くない、マギー。」「救いたかった。」「魂は生きている・・・肉体は滅んでも。」いつもニコニコ、ニコラス・ケイジ。貴殿の詩的で甘美なセリフの言い回しに、世のお嬢様方はもうメロメロですよ!よくもまぁ、照れなく恥じらいもなく、愛を語ることこの上もない。よっ! ニッキー、カッコイイ!!(←ニッキーとは吟遊映人が親しみをこめて呼ぶ愛称なので、あしからず。)お正月はお汁粉食べて、安倍川餅食べて、いただきものの源吉兆庵・季節の和菓子に舌鼓を打って、もうこれ以上甘い物は・・・なんて言わせない。ニコラス・ケイジの甘い視線と甘い囁きと甘いムードにどっぷりと浸かって、もうその甘い蜜漬けの中からはい上がれなくなってしまおう!「彼女が最近冷たくなった」「妻と会話がない」「今年ボクらは別れるかもしれない」などと、天を仰いで嘆いている世の殿方よ!ぜひともニコラス・ケイジから学んで欲しい。何を学ぶかは各人にお任せしたい。まずはこの作品「シティ・オブ・エンジェル」をご覧あれ。心臓手術の執刀医であるマギーは、患者の容態の急変により死なせてしまう。マギーの手落ちではなかったものの、医者としての限界を感じて苦悩する。人の死に目に立ち合う天使セスは、本来生身の人間に見られることはない。だが、健気で美しいマギーに恋に落ち、セスは自分の姿を現してしまう。天使であるセスは、永遠の命を約束された身とは言え、人間ではないため、愛するマギーに触れて愛を感じることはできない。そこでついにセスは人間となることを決意するのだった。この作品の挿入曲はとてもステキだ。特に、これから二人が愛を育んでいこうとする矢先にマギーが交通事故に遭い、虫の知らせでセスが駆けつけるシーン。その後、降りしきる雨の中、黒い傘をさした弔問客らとマギーの棺が上空から撮られる。 BGMでさりげなく使用された楽曲は、元ジェネシス・ピーター・ガブリエルの“I GRIEVE”だ。ここで吟遊映人は思わず号泣。(←実は吟遊映人、ピタ・ガブの大ファン)「現実にありえない」などと冷めた感想を呟く前に、彼女の手をそっと握り、「君、われを愛し給わば、この世の花全て君に贈らん」(←ハイネ詩集より抜粋)などと、ニコラス・ケイジに成りきり、彼女の耳もとで囁いてあげては。あるいはお二人の別れの危機を、乗り越えられるかもしれない。(?)1998年公開【監督】ブラッド・シルバーリング【出演】ニコラス・ケイジ、メグ・ライアンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.05
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「ギャングは子供たちにこう言う。“いい子にしろ、ソゼが来るぞ”と。彼は幻だ。」 「お前はそう思うか?」「キートンは言ってた。“神は信じないが神は怖い”と。おれは神を信じる。だがおれが怖いのはカイザー・ソゼだ。」お正月も三が日が過ぎたころになると、お雑煮やらおせち料理にも飽きて来て、どういうわけだかカレーなどが食べたくなる。それは映画にも同じことが言えるかもしれない。ほのぼのとしたラブ・ロマンスや、夢のあるファンタジックな作品が続くと、気分だけはお腹いっぱいに満たされる反面、久しぶりにスパイスの効いた映画をチラ見したくなるのだから不思議だ。それだけに人間という厄介な動物には飽くなき煩悩が渦巻いているという証拠なのか。 今回観た「ユージュアル・サスペクツ」(重要参考人の意)は、実に良かった。まんまと脚本家に裏をかかれた気分で口惜しいのだが、こういうタッチのストーリー展開は個人的に大好きだ。カリフォルニア州のサン・ペドロ港で、殺人事件が起こる。9100万ドルのコカインが積まれているというアルゼンチン船の上での激しい銃撃戦、そして爆発・炎上。死傷者多数。一体事件の発端は何なのか? 目的は何か?捜査官は、この大規模な事件で唯一生き残った身障者のキントの調書を取ったところ、謎の人物である“カイザー・ソゼ”の名前を口にするのだった。この作品の見どころは、ギャング間の小競り合いなどではない。姿なき影の黒幕に怯える人間の心理。相手に個人的な情報・記録が渡っている場合のこちら側の立場的弱さ。反対に、相手に関する情報が皆無の場合における恐怖感、焦燥感。“灯台下暗し”とは言ったもので、人間の見ている視界はほんの一部に過ぎず、全体を見渡すのは不可能に近いということ。(自分の目の前に犯人がいても、つい見逃してしまうものなのだ。)そんなところをこの淡々としたストーリーから汲み取ることができたら、脚本家も本望なのではなかろうか。作中、身障者の詐欺師キント役で出演しているケヴィン・スペイシーは、この作品で見事アカデミー賞助演男優賞を受賞している。地味だが、サスペンス映画として秀逸の作品なのだ。1995年(米)、1996年(日)公開【監督】ブライアン・シンガー【出演】ガブリエル・バーン、ケヴィン・スペイシーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.03
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「王子・・・好きですか? ご自分が。」「当然だ。」あけましておめでとうございます。新年お初にご紹介させていただくのは、コレ。「魔法にかけられて」である。夢も希望もないと将来を悲観する前に、まずは自分が魔法にかけられてみようではないか。その魔法は、もしかしたら“自己変革”と呼べるものかもしれない。ディズニーが送るミュージカル映画「魔法にかけられて」は、アニメと実写のコラボ、しかも現代とおとぎ話の世界をミックスして、それはそれは摩訶不思議な世界観をかもし出している。なるほどミュージカル映画はアメリカのお家芸ではある。歌とダンスと演技が見事に融合し、華やかさ、艶やかさをスクリーンいっぱいから撒き散らしてくれる。1965年に公開された「サウンド・オブ・ミュージック」を彷彿とさせる作品に仕上げられている。アンダレーシアというおとぎの国に住むジゼル姫は、エドワード王子と出会い、その日のうちに婚約する。だが、エドワード王子の継母であるナリッサ(魔女)は、アンダレーシアの支配をもくろみ、永遠の愛を誓おうとするジゼル姫とエドワード王子を突き放そうと企む。そんなわけで、ナリッサの企みによりジゼル姫は、「永遠の幸せなど存在しない世界」現代都市、ニューヨークへと魔法の力で突き落とされてしまうのだった。年に一度のお正月、家族団らんのお正月。そんな時こそディズニー映画は持って来いなのだ。笑いあり、ちょっぴり涙ありの心あたたまる作品。「子どもに見せるついでに見る」などと言わず、いっしょになってハッピーな気分を味わっていただきたい。小さなお子さんに枕もとで絵本を読み聞かせる時のことを想像してみてほしい。おそらく、親子で同じおとぎの国の世界を味わっているはずだ。「魔法にかけられて」は、実は、夢を忘れかけた現代の大人たちへの応援歌なのかもしれない。吟遊映人は、今年も“映画”という魔法にかけられながら、夢と希望を皆さんと分かち合いたいと思っています。2009年も、何とぞよろしくお願い致します。2007年(米)、2008年(日)公開【監督】ケヴィン・リマ【出演】エイミー・アダムス、パトリック・デンプシーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.01
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