吟遊映人 【創作室 Y】
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【村上龍/69 sixty nine】1969年と言ったらまだ私は生まれていない。なので60年代の混沌とした世相みたいなものは、映画や小説、テレビドラマからざっくりと想像するに過ぎない。果たしてそれが古き良き時代として評価できるものなのかも分からない。もしかしたら、そんなものは時代の通過点でしかなく、大して意味のないものかもしれない。村上龍の小説は好きで、わりとよく読んでいる。今回再読した『69 sixty nine』は、村上龍ご本人が1969年、17歳だったころのことをモデルにした青春小説である。最初に読んだとき、「おもしろいなぁ」と思って一気呵成に読了した。それがもう10年以上も前のことだ。ところが今再読してみると、「おもしろいなぁ」という感想とはだいぶ変わった。おそらく私自身、年を経て、とんがっていたものが段々擦り減って、丸くなったのかもしれない。 この作品は1987年に出版されているので、村上龍がまだ三十代なわけで、小説家として様々な手法を試してみたいとギラギラしているころなのではなかろうか。その証拠に文章中、強調したいフレーズ(フォント)をやたら大きくするというチャレンジをしている。ユニークだがその斬新さも、行き過ぎると残念に思えてしまうものである。とは言え、昭和の名残りを象徴するかのようなレトロ感は、ひしひしと感じられる。 あらすじは次のとおり。1969年、長崎県佐世保市の進学普通高校に通う矢崎剣介(ケン)は、3年に進級した。お調子者で行動力があり、級友たちから愛されるケンは、何かを仕掛けたくてウズウズしている。思いついたのはフェスティバルだった。それは、映画も演劇も音楽も全部を融合した催し物だった。ケンは親友である岩瀬とアダマに「フェスティバルをやろう」と持ち掛けた。当時、映画作りが流行っていたこともあり、イージーでしかも最先端の表現方法だと思い、皆は二つ返事でケンの誘いに乗った。主演女優には英語劇部の松井和子が適任だとケンが主張すると、岩瀬とアダマは「それはムリだ」と難色を示す。なにしろ松井和子と言えば「レディ・ジェーン」というニックネームを持つ、他校にも名のとどろく美少女だったからだ。しかしケンはあきらめない。「バリケード封鎖をやろう」と突然ケンが提案する。何か体制に対する主義主張があったからではない、とにかく松井和子から注目をされたい一心でのことである。言わば“ノリ”のようなものだ。こうして3人は「佐世保北高全学共闘」のアジトへと出向くのだった。バリケード封鎖はまんまと成功し、ケンとその仲間たちは青春のピークを迎えようとしていた。そんな中、結局警察に犯行を突き止められ、ケンたちは停学処分をくらってしまう。ところがそれを聞きつけたレディ・ジェーンこと松井和子は、ケンたちに接近し、親しくなっていく。なんだかんだとハプニングやトラブルが次々と起こっていく中で、ようやく停学が明けると、いよいよ今度はフェスティバルの開催に向けて始動するのだった。 村上龍が私小説とも言えるこの『69』を発表したとき、一体どんな思いがあったのかは想像するばかりである。私はバラ色の青春なんてありえないし、そんなものは幻想だと思っているので、明るく楽しく騒々しい青春小説を嫌悪する。もっとどす黒くてベタベタとしていて、目を覆いたくなるような赤裸々な描写が秘められた私小説なら大歓迎なのだが、50歳を目前にした今の私が読んだところで毒にも薬にもならない。青春を謳歌したことは大変結構なことではあるが、作品全体からプンプンと匂う自我自賛的なムードがどうもいけない。主人公がバリ封を計画し、高校を停学したにとどまらず退学となってしまい、その後の転落人生を語る・・・となればだいぶ変わっていたと思う。血の滲むような苦労を重ね、ようやく芥川賞を受賞し、今の地位を築いた・・・的な人生模様なら、拍手喝さいだったかもしれない。『69』は残念ながら私にとって、可もなく不可もなくと言った凡庸な作品でしかなくなった。それもこれも、加齢とともに変化した人生観によるものであろう。あしからず。『69 sixty nine』 村上龍・著★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2018.05.27
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