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「ライオンズクラブ」。国際的な民間社会奉仕団体で、地域社会や福祉に役立ついろいろな活動をしている。よく誤解されるらしいが、この「ライオンズ」は実は動物のライオンでは無い。自由を守り知性を重んじ、我々の国の安全をはかるという意味の"Liberty, Intelligence and Our Nation’s Safety"の頭文字「LIONS」なのである。そうとは知らずに、小学生低学年の時に、学校で、ライオンズクラブから木を植えようぜキャンペーンかなにか知らないが、きんもくせいの苗を貰った。それを家の裏庭に埋めて、そのまま私は忘れた(母は忘れていなあいが)そして時は流れ15年、木はまだあった。そしてまたさらに15年程がたとうとしている。先日、実家に帰った時に見たらまだあった。幹が随分太くなっている樹齢30年になるきんもくせい。この子は面倒もみてやってないのによく育ったという感じであった。メインとサブの入れ替わり先日、家の近くにあるすごく美味しいトンカツ屋があるというのを知人に紹介されてたので、探していってみた。黒豚は鹿児島のこだわり豚であり、味はまずまずであった。が、とりたててうーんとうなる程ではなかった。が、味噌汁がうーんと唸る程に美味かったんであった。そんなことって多くないかい?昔京都に仕事に行ってた頃、近くにあった寿司やのうどんが無茶美味かった。(寿司ははっきりいって不味かった)サブが意外といけてたり、あげくにメインになったり。でも動いて試しているからだよね、多分。
2003.07.31
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ヘルシンキからバルト海を渡ってほんの四時間。バルト三国のひとつ、独立して間もないエストニアの首都タリンを散歩する。今日、この旅行で初めて太陽を見た。インドの五十五度の大地を焼き尽くす太陽を感情的に恨んでみたりもしたが、やっと会えたなと今頃反省してみたりする。新しくそして近代的でガランとした港を後に、尖塔を目指してゆっくり近づき始めた。いきなり交通機関を利用してイッキに進むより、徐々に目的地に迫って行くっていう方が気持ちにワクワク感があっていい。(そしてその目的地が面白くかったら、その失望感もまたいい)このパターンがどこであれ止められない。線路を横切り、舗装状態の悪い道を、車の運転の乱暴さが、譲り合いのなさが、情けない程に若々しく感じる。 そしていつものことだが、スーパーマーケットがあれば、価格の把握や、どんなものを売っているのか入ってみることにしているが、その行動パターンも変わらず入ってみる。そして意味もなくスーパーを駈けずり回り、適当な品物を購入。何故私はチーズとビールとタバコを買ったのか、勿論、私の哀しき昼食の為である。何を隠そう、過去、私はタイで意味もなくリカチャン人形を買ったことは重要機密である。勿論、そのリカチャン人形をこねくり回したはずがない。宿の部屋の片隅に飾っておくだけなのであった) 城内に入り、石畳に変わり、中世の街になる。パリやミラノといった西ヨーロッパの昔の建物を意識して残しているのとは違い、結果的にはいいことなのだが、ロシアに併合されて、貧乏になって、街は昔のまま残ってしまいました、という感じがある。あの暗黒時代の強制移動の産物なのか、そういう歴史だったのかは分からないが、いろんな民族が交じり合っていて、いろんな顔が見られる。そして混血のおかげで美人美男子が結構見受けられる。どうもフィンランドの人々は、そういえば割と、何か実務的な顔をしていて顔が平均的であったなと思う。同時に、アジアやアラブでもあるまいのに、東洋人が珍しいのか結構見られている空気がある。人は注目されると、ついついナルシストになってしまう。んーん、マンダム、なんてポーズを取っている。 それにしても、経済状況が芳しくないのだろうか、十年前に独立の先陣を果たした国ということを考えれば少し若々しさというか活気がない面を感じてしまう。何か元気そうなのは対岸七十キロのフィンランドを主とした観光客らしき人々だけだ。そうはいってもライティングにはやはりヨーロッパらしく力が入っていて、教会や聖堂、そして奥の細々道は趣きがある。 丘の上からは、街が一望でき、そしてバルト海が広がっていた。http://home.att.ne.jp/wave/TABIPLUS/sub3-24eesti.htm
2003.07.30
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実は生牡蠣がはじめて美味しいと思ったのはNYだった。NYにはセントラル駅にオイスターバーというとても有名な店があるが、実はそこではなくって、ブルックリン橋が見えるところにシーポートと言う所があってそこの手前あたりのシーフードの店で食った時にカキのうまさが開花した。実は、それから日本ではそう機会もなく過ぎ去り、次にパリでカキ三昧。パリでのカキは昔、ある年に病気でカキが全滅に近くなり急遽日本のカキを輸入したらしい。だから広島かどっかのカキの子孫がいっぱい残っているらしい。確かに半分は日本でみかけるカキであった。それから日本に帰ってきて、テレビにそのパリでの店の番組が一時間かけてやっていた。そこのカキ剥きのおじサン物語であた。カキ剥き一筋数10年、一瞬にしてかきを開き並べる、朝から晩まで。その職人芸は凄かった、が、あまりうらやましくなかった。だってたべるほうがいいから。
2003.07.29
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中学生の頃、性教育の発展した国、アバの国といったイメージしかなかった国、スエーデンのストックホルムを散歩する。 イミグレーションオフィサーに「何、ストックホルムに2日しかいない予定だって?それは良くない」と笑いながら呆れられたことを思い出しながら、ちょっとわざとらしい旧市街ガムラスタンをまず歩き始めた。この都市は島で構成された公園の多き水庭都市であり、この旧市街以外は、やたら前向きの近代都市という感じで、その辺りが多少つまらないという面がある。湖の中にある首都という格好良さは否めない。水は流れ、風を起こし、気温2度というのになかなか厳しい寒さだ。旧市街はなかなかいいが、メーンストリートはどの都市の例に漏れず観光化はなはだしく陳腐な土産物屋が続く。何故か結構人は外で煙草を吸い、室内に気を使っているのか不思議な気がする。旧市街であるが、ずっとイスタンブール、スペイン、イタリア、フランスと北に来るにつれて何かどこか新しいというイメージがついて回る。 3時を回り、暗くなり、3つの博物館美術館を経た後、1つの中学生時代の疑問を思い出した。例の性教育のことだ。早速夜を待ち、またシティガイドや目クラ滅法怒涛徒歩行進で、何かヒントになりそうなものを探したが、せいぜいナイトクラブぐらいしか分からず、勝手に、性が開けっぴろげなのではなく性教育が一般の事象と同じ様に健康的に明るく実施されているだけだったのだな、ジェンダーの問題が発達しているのだな、と勝手に結論づけた。 それにしても、身体障害者が街に多く出ている。一瞬、割合が高いのかと誤解するぐらいであるが、結局バスや公共施設がそう対応していて、人々もそういう意識であって、さすがに福祉国家なのだなとすぐ分かる。そして、ここ最近のその福祉政策の行き詰まりを何とか、それでも推し進めながらも発展してやろうという意気込みを感じる。変に考えると、フィンランドと比較してであるが、過去の歴史なのだろうか、常に支配でやってきたからなのか、何となく強い、と感じてしまうのであった。>
2003.07.28
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ひとことクリシュナムルティやバグアンの言葉に少しはまったことがあったなあと思った。本をペラペラ久し振りにめくってみた。懐かしいし、どっかで覚えているんだな。「あなたはいつも答えを自分の外に探している。他の人間や宗教に求めたり、本に頼ろうとしたり。まるでインスタントな答えがあるように。そんなものはない。今まであなたが信じ込もうとしていたそういうものは間違っている。グルはすべてまやかしものだ。精神世界に段階も階級もない。あなたが今、何故不幸なのか、それを理解して克服するのは、あなた以外に誰にもできない」
2003.07.27
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20歳、夏、私はタイのパンガアン島のに滞在していた。当時そのビーチには対岸のサムイ島から二日に一回の往復ポンポン船しかなかった。すっぽんぽんの西洋人、陽気な従業員、日が沈むと少しの間はバッテリーを回してくれるが、しばらくするとそれもストップ、闇夜と静寂と波の音。月がまぶしい。私は暇にまかせて島をぶらぶら歩く。私は岩場をジャンプする。私は枝があ突き出ているのに気が付かず、足をする。鮮血が飛び散った。枝の先に私の肉が幾許か残し、私はジャンプを終えた。「体重数グラム減ったやないか」とやたら現実的なことを思いながら着地した私。太陽がまぶしかった。遠浅で怖いくらいに綺麗な海。バリ、スマトラ島トバ湖、マレーシアペナン、を巡ってここに来たことを思い出した。午前中、私の体重は数グラム一瞬にして減った。そして血がおちて更に数グラム体重は軽くなった、と、思う。人間は死ぬときに、恐怖よりも、何てちっぽけなものなんだって悲しみに暮れるのかも知れない。きっと気が付くはずだ、人生は大いなるコメディーだったのだと、自分のちっぽけな存在に大いに笑ってしまうのではないかと。
2003.07.26
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まっすぐな道でさみしいそれが高校の時の卒業時に担任から贈られた言葉だ。う~ん、深い!それに比べ中学校校長先生の卒業時の言葉は、我未だ山麓にあり。う~んありきたりの言葉だ。しかしご多分に漏れず、男むつかし漢字好きの傾向として山麓の麓ちゅうのはシブイ漢字やなあと思ったものである。ちなみに私はほぼ毎日山麓線という道を今は走っている(関係ないか)そういえば私は限りなく中学生の頃はジェームスディーンに傾倒した訳であるが、その俳優の名を知ったのは、甲斐バンドの「ヒーロー」の一説に「ジェームスディーンのように」というフレーズがあり、素直な私は母親に聞いたのであった。「お母さん、ジェームスディーンって誰?」ビデオのなかった時代、TVで彼の3作を見るのは容易ではなかった、が、2年の間に3作とも見ることができたのであった。ジャイアンツは2回も見て、母親は「私はロードショーで見に行ったわ」とのたまうのであった。もしかして私も24歳の9月30日に自動車事故で死ぬのかしらんまで思っていた私が、もうそれから10年も長く生きながらえている。不思議なものだ・・・(えっ?不思議じゃない?)ジェームスディーンのポーズはエゴンシーレが描いた男の(自画像)のポーズにそっくりやなあ行きたい所行かねばならぬ所私は、行かねばならぬところがある。例えばインドネシアでは、スエラシ島のメナドとスマトラ島の沖合いにあるニアス島。どちらもご機嫌のビーチがあるようだ。出会った旅人に聞いた地。日常生活では出てこない地名。遠い思い。メナドを紹介してくれた彼は、何度も泊まったよ、成田に帰ってくる度に。ニアスを紹介してくれた彼は、カルカッタで出会った2週間後ポカラで再会し、半年後、バンコクで偶然再会した・・・重い腰をあげて行きたい。忙しいからそれ以上のことはできないという人がいる。忙しいから世の中に必要とされている人なんだろうか。暇で仕方ない人は世の中でほされている人だろうか。ちなみに私はどうなりたいのか尋ねられて「世捨てビト」と答えてほされた前科のある人間です・・・じゃあ、でかけてきます・・・
2003.07.25
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16年前の上海のこと私は船で上海に上陸したが通関に90分。関税の申請にニコンのカメラに何故か200円で買ったタイの真鍮の腕輪。50時間の列車の料金は980円。上海博物館1元。ラーメン0.7元(20円)。ジーパン買ったら120円。どしゃぶりでも傘をささずに歩く人1割以上。そうだ。そんなことを思い出してたら一人の高校生の事を思い出した。彼は失恋で、上海まで何故かやけくそできた高校生。しかし海外が怖くて仕方なく、上海到着当日私をみつけてまとわりついてくる。私も当時は19歳、弟のように感じた。私は「チベットにいく」とだけ伝言を残して別れた。そして2週間後ぐらいだったか、彼はチベットの首都ラサに現われた。それも数人引き連れて。「土居さんがいいっていうから来ましたよ」って。そして数年後、日本で彼は私の家に遊びにきた。「土居さんがフィリピンも面白いっていってたこと分かりました。はまってます」っていっていたあれから会っていないが、今、彼の行方を探してみることにした。名古屋だったはず・・・
2003.07.24
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上海のこと。16年前は立ち食いで餃子や西瓜を食べた。今回は上海蟹を食べた。16年前はバンドはライトアップなんかされてなかったし、川の土手は土だった。今回は整備されており対岸も高層ビル群やテレビ塔がすごい。16年前はタクシーは1台しか見かけなかったが、今回の夜の移動は全てタクシーであった。16年前は浦江ホテルに泊まるだけに1日を要し、野戦病院のような部屋に案内された。今回は見に行くとナンとまだドミトリーが残っていたがレイアウトは完全に変わっておりどこだか分からなかった。16年前は上海大廈というホテルができたばかりでなんてでかいんだと思っていたが今回見ると15階建てでちっさくなっていた。今回は世界第3位の高さを誇るハイアットホテル最上階88階にエレベーター3回乗り継いで行った。450メートルからのバーの眺めは、霞んでおり、50階くらいからの景色のほうがいいかも。今回は小室徹也プロデユースという上海一番人気のディスコに行ったが、なかなか普通だった。16年前は知り合ったおかまに連れていってもらったあ最新のデートスポットの喫茶にはプレートにみかんとコーヒーとコーラが乗っていた。何か意味分からなかった。16年前にも今回も和平飯店オールドジャズを覗いた。ここぐらいか変わらぬ風景はって感じであった。とにかく上海はすごいことになている。要はいわゆる欧米日本が発展してきた途中段階を抜かして、最新鋭先取りという感じ。いわばラジオから民放飛ばして衛星、手作業からローテク飛ばしていきなり最新鋭のハイテク技術、地震がないからごっついインテリジェントノッポビルを農地から建てる感じ。共産圏でもあるから、いきなり1ヶ月で100万人を立ち退きさせて、そこに緑地、そしてビル群。世界最大の人口、いけどいけど建設ラッシュ、どこまでいっても集合住宅。
2003.07.23
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「アタックナンバーハーフ」という映画が笑えた。タイ映画でオカマのカマさんバレーが実話を元にして全国大会に進んでいく笑えるそして最後はチャップリンよろしくばりの物悲しさ。それにしてもタイのおかま懐かしい。フィンランドの首都ヘルシンキの前衛美術館「キーアズマ」(中央駅から徒歩5分くらい)は楽しい。(ちなみに夜はシベリウスを聞きながら散歩するのが馬鹿のヒトリヨガリオシャレ~です)久し振りに(2年ぶりくらいか)日曜日も休めるようになって、出かけたらどこでも駐車場入り待ちでやっぱり日曜日に休むのは損だと思うようになってきた。そういえばどこ行くにも高い時期にしか休めないなんて寂しいというか損というか。10年近く前にニューヨークに年末に行ったときも会社(上司)に相談(にはなっていない)した。「私は1日働いても1万円やそこらの給料です。でも1日出発を遅らせることによって2万円ずつくらい飛行機代が上がっていくのです。よって私はクリスマス前出発のチケットを取りました」と。会社にとって意味ないなあ。
2003.07.22
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さっき帰る時、家の近くのカラオケ屋の前で若い女性が携帯電話で話ししながら号泣していた。青春なのだろうか。でも夜中の2時過ぎているんだけどなあ。そういえば今は知らないがマレーシアのペナン島ジョージタウンでの映画館は喫煙可能だったなあ。初めてバリに行ったのは19歳だったよ。バンコクからバス、船を乗り継いで、マレー半島スマトラ島、ジャワ島を経て2週間でバリ島についた。計画ではバリから、ロンボク島、スンバ島、ティモール島などをパラレルしてオーストラリアに行こうとしていた。が、私はバリで、いわゆるチンポツした。それほどバリは良かったのかと言われると、そう詳しく覚えていない。私の宿は映画館の近くにあり、分かる人には分かるでしょうが、マジックマッシュルームを置いてあるレストランの隣の宿であった。その横の屋台で毎日ナシゴレン(焼き飯)を食べていた。その宿はいわゆるロスメンという名の安宿で、宿泊客はインドネシア人、スエラシ島やスマトラ島からの旅行者もいた。私がつるんでいたのはインドネシア人ばかり・・・懐かしいじゃん。
2003.07.21
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新しく完成した安藤忠雄作の県立美術館では昨年秋にゴッホ展が催されていた。日本でのキーポイントは、私自身人のことはいえないのだが、いかに有名人を引っ張ってくるかということだ。すでに名声のある人物の催しは凄い。平日というのになんだこの込み具合はあという感じであった。私の今までの3大込み具合だ。作品が見えない進まない。(あとの2回は渋谷でのピカソ展、パリオルセーでの入場の長い行列2時間)本場アムステルダムのゴッホ美術館はすごい。ナンか記憶があやふやだが、エントランスが国立美術館の裏くらいからこそっと入るのがまたシブイ。はっきりいって本物は違いますってイミテーションや本や雑誌でみるのとは全く違うことを再認識しました。ファイヤー!!の画家ですよ正に。あの黄色が目にボヨンボヨンに飛びこんできましたわ。(今回のゴッホ展は多分、ゴッホとテオ展といいたかった)
2003.07.20
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国内自給率百パーセントを達成し続ける国デンマークの首都コペンハーゲンを散歩する。コペンハーゲン子は北欧髄一の大都会だと自認しているという。実際街はそう大きくはないのだが、道が広い。四車線が主となり、気温も多少上がってきていることもあり、自転車軍団の大行進だ。平面の土地、環境問題への真摯な取組み、健康思考がそうさせるのであろう。駅の中にさえ、貸し自転車屋があった。ただ、勿論、ここも海に面した都市、風が冷たい。福祉の国、ビールの国、チーズの国といったイメージ通りである。世界初という約一キロに亘る歩行者天国をひょこひょこ歩く。ここに来て圧倒的にアジア人が増える。それもどうも住んでいる様だ。間違いかも知れないが、結構ベトナム、カンボジア人などが多いのかも知れない。難民を寛容に受け入れているからだ。それに東洋系観光客も何故か増え、私は完全に都市の色に埋没していく。今は歩行者天国というのは一般化しているので、何かアムステルダムのショッピング歩行者天国と変わらない気がした。 コペンハーゲンは確か北欧では結構古い街で、これはどこも同じだが建物の保存に力を入れている。ただ、色がカラフルで楽しめ、同時に古いという感じがあまりない。 夜になって、いろいろ歩き回っているとゴーゴーバーやナイトクラブ、エスコートクラブ?というのも、これがなかなかお盛んであることが分かる。世界で初めて性解禁した意地とでもいうものだろうか。なかなか愉快である。私が積極的にそれらに参加したかどうかは,永遠の謎であるところで、北欧は結構酒が税金で高いのか、船とか乗って国境を越えようとすると免税店があって、乗客の荷物があっちこっちでビールや酒の瓶の音がガチャガチャ鳴ってました。耳に残っています。デンマークのコペンハーゲンからスエーデンのマルメという都市まで船で30分なのですが免税店があって皆酒買ってるのですよ。また、マルメからベルリンまでの列車は、途中船に乗るのですが、それが、船の中に列車(車両)を直接入れるのでびっくりでした。トンネル掘らずの発想にたまげました。勿論免税店はありました。
2003.07.19
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インドでのこと。師匠が死ぬことになった。変な表現かもしれないが、最期に近いことを予感できる人もいる。大きな木の下でそれはころがっていた。そこにあった。土まみれで自然に還って行く無駄のない肉体があった。それは大木が地表に出た根っこの一つの様であった。彼は死ぬ3時間前に簡素な言葉で遺言を残したという。「私は死ぬ。葬儀は簡素に。借金なんかはするな。でも葬儀方法は妻のやりたいことを最優先させてやってくれ」そういって彼は戻っていったそうである。なんてダンディな奴なんだ。「ダンディズムとはデカダンスにおける最後の英雄的光景だ」とボードレールは語った。意味を間違えても、彼の最後に近い一枚の写真を見て、生きざま、そしてそれ以上に、死にざまを感じさせてくれる者は、明白にいうとダンディだと思う。 亡骸の前に、連れ添って生きてきた妻は、音楽を奏でながら踊るように見えたという。ヒンドゥには墓がないと思っていたが、埋められた所に石を置く。日本でいう墓の概念とは違うのだろうか。「この抜け殻である肉体は土でさらし、雨に打たせよ」という台詞が似合いそうな気がした。間違えていればすまん。 格好よく死にたいな。そのためには格好よく生きたいよ。
2003.07.18
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あまり意味はないかも知れないが、今日車の速度を180キロ出してみた。そんな世界があるんだなと思って走らせた。その時のスピードを思い出した。小学生の同級生が、私が大学時代に限定解除取り(今はない)750CCかそれ以上の単車を買った(900か1100だったかも知れない)そのタンデムシートにつかまって、160キロを出されたとき、魂を後ろに置きっぱなしにしてきた気がした。自分が運転してないだけにそしてバイクならではの加速に驚いた。私は暴走族の音は大嫌いだし、角材投げても罪に問われなくてもいいとさえ思っているが、静かに単独でスピードだけはいいと思う。迷惑かけないなら。死ぬのも勝手だよ。事故処理で迷惑かけるのは困るけどね。仕事アルで・・・こわ~いおっさん引っ越してきてから映画館にちょこちょこ行くようになた。映画館にはビデオとは違う魅力が当然ある・・うーん、私は名古屋の映画館で「レインマン」を途中からみたことがある。そのとき成田発バンコク行今は亡きイラク航空、バンコクよりダッカ経由インドのカルカッタいきバングラディシュ航空に乗るため(長いな)に東京に向かう夜行列車の時間合わせの途中下車で名古屋で3時間ばかり時間を潰すことになったのであった。満員で休むつもりが立ち見で余計に疲れたし、途中からでよく分からないし、ダスティンホフマンがぶらぶら歩く姿が自分にやたら似ている感じがした。というのも、私は真冬の2月というのに、夏らしい格好をしていたから。いかに成田までを薄着でいくか。それは不釣合いな姿であった。おまけにこれからはじまる1ヶ月のインドネパールの旅をショルダーバッグひとつ(ノートペン歯磨き下着1枚タオル石鹸のみ)を始めようとしていたわけだから、今考えたら、翌朝上野駅で、声をかけられたのも仕方ない。「にいちゃん仕事あるで」「いや、いや別に、今から海外にいきますから・・・」「にいちゃん、嘘つかんでええ。寒そうな格好して・・・仕事せへえんか」足早に私は京成線普通電車に乗ったのである。成田まで寝る為に。
2003.07.17
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約三十キロある荷物を担いでバンコクから飛んできた。慣れたふりをして、空港から少し出た所からバスに乗り、パサイ地区へ行く。以前、カエルの様な生活だ、と従兄弟に呆れられていた無職青年アリエルは、ミンダナオからワイフを連れてきて生活を始めていた。彼は無職のままだった。アリエルの新婚生活は、近くの家の階段下をベニアで仕切った三畳弱のスペースにベッドを入れて始まっていた。二人のいうままに私は泊まり込むことになった。着いて暫くした夕方四時、ラジカセのテープをセットした瞬間、床の上で不意に眠ってしまった。私は二つの髑髏に挟まれながら、海の中で必死でもがいている夢にうなされ喘いでいた。バックにクラプトンが流れている。不意に目覚め、時計を見ると、また四時だ。十二時間が一瞬に過ぎた午前、スプリングの悪そうなベッドを見ると、アリエルのワイフが涙を流しながら、「アイラブユー」を繰り返しつつ、彼の耳たぶを舐めていた。彼女に近くのレストランでウエイトレスをさせておいて、自分は夢だけを語っているだけの仕方のない野郎だなあ、と私は考えていたのだが、それでも彼女は彼のことが好きなのだな、と一瞬思ったが、「取り込み中に何なんだが、さっきクラプトンかけてた?」と尋ねた。その後、返ってくる見込み一パーセント以下のお金を、彼が企てたアンダーグランドの商売のために貸しつけると、彼、得意の悲し気な目をして微笑んだ。荷物はそのまま預け、ディパック一つ担いで、ジプニーを乗り継ぎ、カローカン地区へ行く。以前、親しく話もしなかった日本帰りの髪の長いサリーの家に泊まり込むことになった。フィリピンでは彼女は無職のままであった。サリーは妹のダリーと彼女の父親不明の赤ん坊とバンド仲間の男役レズの子と、どう関係があるのか全く分からない小学生男女二人の六人で二部屋のアパートで暮らしていた。部屋で暇そうにしていると、サリーが「日本語読む?」といって手紙の束を見せてくれた。タガログ語か英語で書けばいいのに、彼女の読めない日本語は、どの人も文面がほとんど同じで、赤面する程稚拙な文章。姿は想像できる。部屋で暇そうにしていると、ダリーが「ちょっといい?」といって以前働いていた店の話をしだした。その店の女の子達の八割がシャブ中毒なのだという。彼女もそうだった。私とて、連日連夜の大量アルコール摂取で疑似肝炎状態になり、目が少し黄色くなってきたことは棚に上げて、彼女の何の楽しみもなさそうな陰りのある目を見て尋ねた。「君は君の人生が嫌で嫌でしょうがないのかい?」彼女はにっこり微笑んで、少しばかり口を尖がらせて「嫌よ」と答えた。私はタイの山岳で、つらい昼間の畑仕事の疲れや厭世観(?)を癒すために夜な夜な阿片に溺れる中毒者の老人達のことを思い出していた。彼らは、それを止めない限り、禁断症状はないので、多少の弊害があっても十分に生きていける。阿片なので、やり続けてそのままボロボロになっても、なかなか死んでいくということもない。そうやって一生を終えていく。私は上海で、ひとりの日本人高校生キヨシに出会ったことを思い出していた。初めての海外旅行で、一人という彼は上海に到着したとたんに不安で不安で仕方なかった様であった。私を日本人と認めるやいなや「兄貴、兄貴」といって離れない。日本で待つ彼女にはお土産に毛皮を買いたいとのたまい、私につきまとう上海オカマに対して「オカマは非常識だ」とのたまう彼であったが、私と別れる日に彼はいった。「実は、親父への反抗旅行なんです。親父はフィリピンで芸能斡旋業みたいなことをしていて、何だか不潔なんです。フィリピンに行ってみろと、何度も父親にいわれてるんですが、それを拒否して中国に来てみたんです。ここに来た理由なんて、上海バンスキングって映画見たからなんですよ。本当はどこでも良かったんです。フィリピン以外なら。うーん。兄貴のくれた西瓜うまいですねえ」そして彼は、どしゃ降りの雨の中、上海駅まで送ってくれて、また機会があればな、って別れたのに、一ヶ月後、日本人軍団と共にチベットにやってきた。「いやー。兄貴がチベット行くっていってたから、この連中説得してここまで来ましたよ。一週間もかかりましたよー」なんて、ちょっとかわいいことをいっていた。三年の音信不通の後、急に彼から電話があった。彼はすっかり落ち着いて、当時の幼い面影もなく開口一番「兄貴が、フィリピンいいぞー、っていってた理由が分かりました。僕も、ラテン系かも知れません。結局、父の仕事を引き継いでいるんですよ。面白いですよ」そうやって彼も一生を終えていくのかも知れない。私は、部屋に泊めてもらいながら食費と部屋代を支払っている私のことを思っていた。ダリーは女というよりも幼い母。職がない、父がいない、そして二十歳。サリーにも職がない、二人の小学生達の養育、そして二十三歳。私は結構な経済力を持ってして、ふしだらに出現し、この部屋で、明日空き瓶を返すからと約束して屋台で買ったビールを飲んでいる。違いは、と答えるなら、「国籍ですね」としかいいようがない。そうやって、しょぼくれて一生を終えてしまう私かも知れない。翌日、ディパックも置いて、手ぶらで、バスを乗り継ぎ、マカティ地区に行く。以前は、商業地区をぶらぶら歩いたものだが、今回は地区外れの簡易移動式遊園地兼賭博場を訪れ、そこの簡易掘っ立て小屋に泊めてもらうことになった。毎晩三時まで飲み、ビンゴー台の上で眠り、朝、それなりに起きても、手ぶらなのですることもなく、行き交う人を見ているだけだった。誰も、私のポケットに札束が入っていることなど、知らないと思う。時が経つことを、ただ黙々と待っている状態。道で暇そうにしていると、「シャワー浴びたらどう?」といわれ、どこにそんな所あるのかな、と思っていると、水一杯のバケツと一回分使用の石鹸を手渡された。そして、指示された二畳程の掘っ立て小屋に入ると、その四分の一程度つまり半畳分だけカーテン一枚で仕切られ、「じゃあ、ごゆっくり」といわれる。「床が腐ってしまうよ」というが「いつもやってるから大丈夫」といわれる。ためらうのは、実はそういったことではなく、残り四分の三、カーテン一枚越し三十センチ向こうにじいさんと若い女の子と子供がいるので、恥ずかしいのだ。結局、談笑が直接聞こえる中で、素っ裸の私はちょろちょろと水を流した後、カーテンを開けると子供を抱いた女の子が、罪のない笑顔で「気持ちよかった?」と問い掛けてきた。道で暇そうにしていると、賭けしよう、と誘われ、ビンゴー等をしていたが、何かのきっかけで、「リッチマン・プアーマン(大富豪)」を教える羽目になり、それが、賭け事となってゆく。結局、赤子の手を捻るように勝ってしまい、何だか誰がリッチマンでだれがそうでないのかが、凝縮されているようで気分が滅入ってきた。勝った金額分、酒に代えて皆で飲んだのだが、何となく居心地の悪い空気が流れた。いや、流れる方向を変えてしまった様な気がした。潮時だと思った。道で暇そうにしていると、誰かが私の仮面を見破ったのだろう。手招きし、近くの中産階級の家庭に連れていってくれ、シャワーを借りてくれた。おそらく、彼はシャワーを借りる際に、「日本人」という言葉を使ったに違いない。丁重にシャワーを借りた後、負け犬の様にこの地を去った。カローカンに戻ると彼女達のお金は底をついていた。私は財布ごと渡し、好きなだけ使ってもいい、といった。彼女たちは、必要な金額しか抜き取っていなかった。パサイに戻って、アリエルに貸した金のことを尋ねると「皆におごって飲んでしまった」と、いって得意の悲しげな目をして微笑んだ。そして、次第に私も、悲しげな目をするコツを覚えていった。フィッリピン 1泊2日グルメの旅 当地の人々は、栄養が悪い人が多く、結構、不健康に腹が出ていたりなんかする。フィリピン料理は、ココナツやパティスという醤油を使った料理であり、辛いものは、基本的になく、甘かったりすっぱかったりって感じである。おおよそ、手で食べるか、左手にフォーク、右手にスプーンで食べる。スプーンはナイフの役割もしていて、肉や、魚を切るのにもスプーンを使う。道端で売っているBBQは、タレに、7UPやスプライトといった炭酸飲料をかけている。コーラはダメだ。意味は分からない。肉は、豚か鶏だ。ちなみに牛は、タガログ語で「バカ」というので、昔、日本のヤクザの前で言って半殺しにあったフィリピン人が半殺しにされたという噂もあるほどだ。
2003.07.16
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それは私が小学2年つまりおおよそ30年程度前の話でございます。確か小学1年の時は女子も男子も同じ白い短パンでした、体育の時間。そして、小学2年の時、ブルマがでたのです。そこでどう考えても不可解な事件が起こりました。私の母は何を勘違いしたのか、男の私にブルマを買ったのです。そして、学年の合体(ひえー懐かしい言葉~、学年全員で運動場に出てきて体育をする授業ね)のとき、私はブルマをはいていったのです。そのときはまだ移行期で女の子にも数人短パンの子はいました。しかし男でブルマをはいている子はいませんでした。そしてそんなことしたら指摘されるかいじめられるか笑われるはずなのに、誰も、先生でさえも、それは女の子用だよとは言わなかったし、むしろ誰も気が付かなかった感じでした。それが女の子専用のものだとは、幼い児童には分からなかったのでしょうか。私は男子があ誰もはいていないことに気が付き、家に帰り、首をかしげながら母にもうこの紺色のははかないよといいました。母も首をかしげながら、あらそうというようなことをいいました。普通ならせっかく買ったんだからはきなさいといいそうなものなのに。ブルマの黎明期だったのだろうか。
2003.07.15
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江戸時代の浪人でプラプラしている人が開発したからテンプラとなったという一説もあるが多分誤解であろう。私は、2年ぶりに日曜日を昼間仕事休んだのであるが、(冠婚葬祭支離滅裂以外で)日曜って出歩く人が多いんだねえとびっくりして、世間からのズレにも少々びっくりしました、が、まあそれはどうでもいいことで、昼間にとある埋立地の方に天下のプラプラ人をしにいきました。公園をプラプラ歩くだけです。野球なんかしてて、ふーんといいながら試合の経過を眺めているのです。公園でふと思い出しましたが、スペインバルセロナのガイディの作ったグエル公園に行ったときに、公園から一軒のアパートが見え、その一室の窓だけがヘビメタのポスターはりまくりだったのです。それがかのガウディとマッチしてたのでおもしろかったなあ。ピピンバ 静かな転倒昼飯に石焼ビビンバを食べた。個人的に韓国でも何度かビビンバを食べたこともあるが、どちらかというとビビンバよりはレーメンのほうがいいか、でももうおなかいっぱいだから本当は食べたくいけど、仕方ないから食べるというのがビビンバの消極的な私の食べ方であった。おごりとか食べ放題とかぐてんぐてんに酔った後に何故か皆で食うとかばかりで、今日は昼間にそれも普通のビビンバより110円高い石焼に挑戦。カリカリ感が何ともうまくて、食べるごとにお焦げができてきて、そいつがうまいなあと静かに感じていたら空になった。満員電車で女性の方が急に倒れた。本当に崩れるようにであり、目を開けたままだった。その目はどこも見ていなかったがすごく寂しそうに遠くを見つめているようだった。まわりの人々に支えられたが「大丈夫ですか」には何の反応も示さず、手が硬直していて手すりから手が離れなかった。何か見てはならない目をみた気がした。とても静かに倒れていった。スローモーションのようだった。
2003.07.14
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昨年西新宿のパークハイアット東京で朝食をいただきました。客室は42階からはじまる。日本でも贅沢な気分にさせてくれるホテルのひとつ。西の雄がリッツカールトン大阪としたら東はこれかもしれない。ここの客単価は4万円以上らしい。ちなみにモーニングセット2500円也
2003.07.13
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防衛庁の契約実績上位20社(1999年度) 件数 金額(百万円) 調達額 構成比(%) 三菱重工業 279,669 22.1 川崎重工業 132,192 10.5 三菱電機 112,084 8.9 東芝 53,809 4.3 石川島播磨重工業 53,524 4.2 日本電気 42,567 3.4 小松製作所 37,051 2.9 日立造船 34,449 2.7 日産自動車 27,337 2.2 日本電子計算機 25,525 2.0 マリンユナイテッド 24,675 2.0 日立製作所 21,765 1.7 富士通 16,619 1.3 山田洋行 16,002 1.3 ダイキン工業 13,364 1.1 日本製鋼所 12,747 1.0 伊藤忠アビエーション 12,023 1.0 冨士重工業 11,246 0.9 新明和工業 10,689 0.8 沖電気工業 10,433 0.8 やっぱ三菱BKの一人勝ちに例をみてもわかるように三菱というのは、すなわち日本なんだああろうなあ。
2003.07.12
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大粒の雨が目立って仕様がない。勤め帰りに人々が雨に打たれながらも家路を急ぐ様子を眺めるのは悪くない。家路を急ぐことのない人生は悲しいか。ドラマも一過性。風景は捏ね繰り回し。 私は、そこに居た。砂は共鳴し、花は祭と死体と女の傍にあった。波は高く、一筋縄で真似することさえできなかった。 月に椰子は陳腐な程、お似合いで、太陽光線は裸体と悲しい程、調和していた。 砂浜でさえ喧騒なバリに居た。体は静謐であった。私は、夜明け前に散歩し、外的なものと内的なものはけたたましく振動していた。視界はバネのように伸び縮みしていた。 次に起きた時には、テラスのテーブルには冷え切ったバリコピとバナナが置かれていた。宿の主が寝坊の私を嫌な顔一つせずに何か言葉を発してくれた。2杯目のコーヒーはいつも前の屋台で啜っていた。屋台の裏の雑貨屋の娘は、私が来ると、いつも嬉しそうな笑顔を私に与えてくれた。その雑貨屋ではいつも誰かがたむろしていて、その誰かが、私をどこかへ連れていってくれた。 概ね、1ヶ月の宴の後、バリ北部に向った。乗合タクシーは段々のライステラスを通り抜け、峠を越え、木で出来た橋を渡り、霧を抜けた。濃淡な緑を一貫して通り、窓を開けると深く深呼吸が出来た。北部の町シンガラジャに抜けた。再び海が現れた。 穏やかな海。火山灰の為、砂は黒っぽく、海に注がれる小川と相性が良く感じた。夕暮れになり、砂浜を歩く村人に宿を尋ね、小奇麗なロスメン(宿)を紹介してもらった。 宿に落ちついてから、することはなくなり、バナナを中心とする森を、夜な夜なヘッドランプをつけて歩いていると、1件の家があり、オヤジが外で何かをしていた。親父は少し驚きながらも珍客を歓迎してくれた。同時に商売熱心でもあり、明日の早朝、是非沖合いの珊瑚礁を見にいかないかと誘われた。 朝の水温は静かで張っていた。細いバンカで数百メートル沖合いに出た私は、潜水艇になり、目という司令部から幻想的な光景を観察した。悪党的に、圧倒的に美しい自然に触れると、世の中というのはあまりに単純で、理に適っていることが体感できる。そして些細なことが馬鹿馬鹿しくなる瞬間が訪れる。私はただ浮いているだけであった。自失状態で珊瑚礁群を眺めているだけであった。
2003.07.11
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神戸市東灘区すなわち私の家の近くの1934年に建てられた1600坪の敷地を持つレストラン蘇州園に飯を食いにいった。私はついに禁煙したのだが、そこにはシガーバーがあり、ついつい、一服シガーを選んで吸いたくなったよ。それはダンディズムかのう。おおむね25年ぶりに京都府日本海にある日本三大松原と呼ばれる天橋立に行った。勿論朝起きて急に思い立って、車をぶっとばしたまでである。25年前の記憶との擦り合わせをしようとしている自分がいた。
2003.07.10
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ラクダを買う為の一時金として300ドル両替。日本大使館に行くと、私あてにアフリカ旅行中の知り合いから手紙がきていた。宿のマスターにビールを頼むと、ラベルが剥がされ、かつふたの空いたビール瓶が届き、不審ながら飲めば、酒酔いとは違う酔い方をして倒れる。明日、沙漠に出発だというのに・・・シーツのめくれたベッドの上には、私の財布、空気枕、万能ナイフ、食器、トイレットペーパー、読みかけの本。よくあることなのに、女乞食二人が手を差し出した。結局、私は通りすがりのもの。いい加減な立場。アイスクリームが猛烈に当たり、翌日、凄い下痢となることも知らずに夜はブラブラしている。馬鹿みたいな旅行またしてみたい。スケジュール帳を埋めることに安心感を求める生活から抜け出したい。鶴見緑地先日大阪市鶴見区の鶴見緑地公園に行った。1991から2年頃の花博以来だが、跡地かどうかも覚えてはいなかった。とにかく毎日の通り暑く、熱帯植物園コーナーは足早に通り過ぎ、高山植物コーナーで涼むといっただけの散策であった。花博は4月に行ったのだが、3月はボルネオ島のジャングルにいて、何だかあああという感じがした。丁度アトラクションも何かロープが切れた時期であったような気がするし、自分のパピリオンの川に賽銭がいっぱいたまり所有権を巡って主催者とパリリオンのネパールかブータンが争っていた季節でありました。
2003.07.09
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20歳の8月23日インドのデリーにいた。大学の同級生の誕生日に味噌煮込みを屋上で料理した。夕方に市場に野菜をかいだしに出かけた。当時、食費500円くらいの晩餐えあった。当時の旅行の1日予算はインドで500円位であった。調理器具は、はるばる日本からチベット高原を越えてインドまで運ばれてきたものを使用。なべは、当時日本人の溜まり場ハニーゲストハウスの床に転がっていたものを拝借。夕食を食べ、非国民ソングを勝手に作り歌い、ミネラルウオターを中心に壊れかけのボンボンベッド2台に4人は座り、神を求めてすすり泣く私、やたら音をたてて五月蝿いH、1口しか吸わないY、そして誕生日の主役クレジーボン・・・
2003.07.08
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カルカッタ1(1986) 六年前と変わらない風景。フィルターを通した「歴史」「悠久」「哲学」といった美しい言葉とは裏腹に絶対的な現実が、肌にのっぺりと圧し掛かってくる。絶対的現実って何だろうか。ひとつは「剥き出しの生と死」ではないだろうか。「死」が掘っ立て小屋やお茶を立ち飲みする人、ごみ、路上のポンプ、乞食、排気ガス、汚れた建物の壁、瓦礫、鳥、何度も剥がされたポスター、映画館の前に群がる人々、胡座をかいて煙草を売る主、パパイヤを刻み売りする少年、音の割れたスピーカーから流れてくるインド音楽、壁に直接描かれた広告、人力車、そういったものの中に埋もれている中に「死」が隣合わせになっている。死にむかって生がまっしぐら。日本で唯一、残存するタブーである「死」でさえ、隠蔽されずに現実にある。 建物は、厳しい気候と爆発的人口増加と激しいインド的使用方法によって急速に老朽化している様にみえる。インド髄一の栄華を誇ったの植民地時代の建物と、その後その上に積み増しして建てられた建物、相変わらず仲良く破壊的な経年変化。 しかし、人は変わったような気がした。相変わらず剥き出しの生は見せてくれるものの、死の影は薄く隠蔽されつつあるような印象を受けた。私がすぐにカルカッタに慣れたのか、私の立場が変わったのか、実際に変わってしまったのか、一介の旅行者には分からない。都市は生き物で生物(なまもの)だから、多分、ありとあらゆる方向で変わっていっているのであろう。その土地をいつかは逃げられることができる鈍感な者が、思い出を変えて欲しくないと愚鈍する。 ガンジス河の支流フーグリ河に架かるハウラー橋を歩いてた。大袈裟な髑髏に似た橋だ。その髑髏に蟻が這う様に人や物が行き来する。この街はこの河で分断されているというのに、近年できた有料の橋とこの橋しかないので、この五百メートル程に人も荷物も車も集中し、歩道を越えて人やリキシャーで渋滞を常に起こしている。橋を渡り終えたところで、、駐車中の車や荷台を擦り抜け、路上で体を洗っている人の水飛沫を避け、道の真中でお茶を飲んでいる人にぶつからない様にし、寝ている乞食を踏みつけない様に注意しなければならない。信号待ちや渋滞で停まっている車はエンジンを切るので、運転中なのか注意し、クラクションに悩まされ、暑い排気ガスの滞った空気を肺に入れなければならない。こちらがお茶を飲めば、歩いてくる人に気を配らなければ、お茶を汗まみれの服に零してしまう可能性もある。この異様な力のベクトルはどこに行くのだろうか。個人は小さくまとまっているのだろうか。ただ、バラバラな中で、いわゆる雑踏の孤独という感じには襲われず、不快極まりない散歩も結構愉快なのである。これは、私が一介の生活者でない訪問者に過ぎないからか、ここが私との現実の生活と乖離しすぎているからかも知れないし、ベンガル的な風土のなせる技なのかも知れない。ただ、今だけでもどっぷりこの世界にはまり込んで彷徨できるものと思っていたのに、不意にこれが仮の姿に過ぎないということを思い出してしまった。港を捜し求める小舟に過ぎない。今、この瞬間がどこであろうと現実であると考えてが、堕落分子である。私は手を挙げて、タクシーという個室空間に逃げ込んだ。カルカッタ2(十九歳) 1986年2月に18歳大学1年だった私は、インド、コルカタ(カルカッタ)のダムダム空港にいた。エアインディア、香港、バンコク経由カルカッタインデリーアウトのチケットは16万円であった。勿論、最安値の格安チケットであり、そのため香港、バンコクで1時間のトランジット。 今もあるのだろうか、DSTツアーというのがあって、主催は「地球の歩き方」であり、それはこの飛行機のチケットにカルカッタとデリーでそれぞれ1泊ついている(空港送迎つき)のツアーで、実は、このエアインディアには100人以上の学生がこれを利用しており、まさに貧乏学生飛行機といったおどろどろろしい若気の漲ったフライトであった。 カルカッタに着いたのは夜中であり、建物に掲げられたヒンドゥ語のオレンジ色っぽい電光文字が暗闇の中におぼろげに浮かんでいる。そのツアーの正体を知らなかった私は、「うわー100人以上が空港で寝る訳なの?」などと考えたのであるが、100人は、バスに順次乗っていき、先ほどのどよめきが一気に消えた。空港で残され、寝袋を敷いてごろ寝をした我々学生は、東大生、東北大学生、早稲田大学大学生、一ツ橋大学生、そして私に、大阪芸術大学生であった。はなぢが出そうな頃、カルカッタ郊外のダムダム空港に。夜中。建物に掲げられたヒンドゥ語のオレンジ色っぽい電光文字が暗闇の中におぼろげに浮かんでいる。頭の中に未解読の音楽が流れ、タラップが開いた瞬間、生暖かい空気が澱んでいた。まず、迎えてくれたのが「わしらマラリアもっとるけんね」とでもいいたげな眠た気な蚊が数匹。体が重くて仕方ないらしい。力なく漂っている。「きっと、日本の蚊やゴキブリは殺虫剤の免疫耐性ごっこを繰り返しているから、やたらすばしっこくて、やたら頑丈なのだよね。ね、ね」といい、「インド初めてだから、そう理解してもいいよね。ね、ね」と慰める。両足で、大地の一歩を。今宵を空港でごろ寝。数人を残し、国際空港とは思えぬ閑散さ。長く、震える夜を過ごした。北インドが結構この季節冷えるとは情報を仕入れていなかったなあ、思った瞬間、ほとんど何の情報も仕入れていなかったことに気がついた。ただの田舎出身無防備野郎だったのだ。サリーを来た女性が歩いて行った。「おおお、空港の中までサリーなんてサービス満点」などと思っていたのであった。ヒンドゥ教の女性は上流階級から土木作業員までほとんどがサリーだったのだ。汚れきったサリーを着て、頭にレンガを乗せるのさ。私は、風土に合った服、つまり着物論者に単純に転向したのである。朝靄。ちょっとインドを垣間見てやろうと、空港と扉をエッチな気分で少し開けてみた。痩せこけた牛が一匹止っている。牛は視線を感じたのか、一応こちらを見たが、焦点が定まっていなかった。「なんだ。人間か。食えねえな」タクシーの中からカルカッタ郊外をビデオでも見るようにお上りさん感覚で眺めている。牛乳缶を自転車で運ぶ人。川沿いにいつまでも続く貧民街。路上生活者にムシロ。路上のポンプで体を洗う子供達。褐色の痩せて棒のような手足。光った体。はっきりしている。視覚的に。よく見える。理解など、できないが、日本よりは隠されていない。エネルギッシュだ。タクシードライバーとも目的地に着けば、交渉決裂。店のおやじや通行人や乞食も集まり、何やら大声でわめき散らす。どうやら、我々乗客の味方は我々だけらしい。救世主か、チャイ屋のおやじがチャイを両手に持ち現れた。「さあ、疲れたろう、これでも飲んで交渉ゆっくりしたまえ」空港から二十七ルピー。公園の中にあるお茶屋。子供に勘定を頼む。子供は初めての外国人に戸惑い、少し考えたふるをしておどおどしながら指を三本出す。こちらも何もいうつもりはなかった。騙される楽しみもいいじゃないか、と。隣で一部始終を見ていた老人の客が、子供を叱った。子供はすぐさま二本の指を折りたたんだ。老人は頷き、「一ルピーだよ」と笑顔でいった。カルカッタ 3空港から六十ルピー。裸電球の明かりに照らされて、彫りの深い顔が更に顕著に浮かび上がる。人を何度も引きそうになってタクシーは進む。影は美しくはっきりしているが、照らされた風景はおぼろげである。人々は蠢く。おおよその思考が頭の中で想像する描写についていけなくなり、自分の意志を持って思うことがあやふやになっていき、思考は歪み、画像だけが自動的に進んでいく。描写は私の意志からどんどん乖離してゆき、飲み込まれ、滅裂になってゆく。ついに意識が突然消える。熟睡。そして、朝。カラスの大軍。屋上で眠っていた。肌寒い。屋上から路上を見ると、歩く人、人、人。カラスが群がるゴミ捨て場にばあさんが壮絶に挑んでいる。じいさんも。擦り切れたシャツを着た子供も。救世主は来世まで。牛は参加していない。牛は。迷子の愉快。管理されることに慣れすぎると迷子になる為の地図でさえ必要になってしまう。もし、荷物がなければ、そこに戻る理由が薄らいでしまう。今回のテーマはそいつで、私の荷物はショルダーバッグひとつ。貴重品と着替えのシャツパンツがひとつづつ。タオル一枚。歯ブラシ歯磨き。ノートとペン。荷物はそれだけだ。人生そのものが所有の限りなく少ないものならば、そこに留まる必要がどこにあるのだろうか。流れ行くことが日常になってしまう旅行。何と、気楽なんだろうか。バナナを一房買い、次に来たバスに乗り、喉が渇いたら降りる。ここはどこだ。悟りも悲しみもない、ただの路面電車君。バス君。ただ、いづれ、どうせ私は、そこへ帰るのだ。路上生活者と知り合った。というより、私がぼんやり彼らの生活ぶりを眺めていたら食事に招待してくれたのだ。「食べるかい?」こんな時外国人にタブーはない。それに得体の知れないものでもない。青年は「これはチキンカリーだ。五ルピーした。これで家族五人分だ」といいながら、飯のついたチキンを汚れた手でかざした。彼はバングラディシュから仕事を求めてカルカッタにやってきて路上生活者となった。十八歳と主張する彼の頭髪には白髪が目立ち、顔の表情や皺から見て四十歳を超しているように見える。チキンを私が齧ると彼は微笑んだ。彼は裏にある博物館に行かないかと私を誘った。案の定、私達が館内に入ると見学者は我々を奇異の目で眺め、そして避けた。穴があちこちに開いた薄汚れた服に片足の青年が、腰巻き巻いた外国人と歩いている。彼は民族別地図の前で立ち止まり、民族衣装の人形を指差し、ベンガル我が故郷、といった。私とて、ニューマーケット内で一コンマ五ルピーのカリーを食っていたが。私とて、安宿の屋上の床の上に寝ている。それも便所への通り道ときたものだから、寝ている頭の横三十センチを時折人が通るのだで迂闊にも熟睡できないのだが。ただ、優柔不断のまま、好きでやっているのだが。カルカッタ再び 空港からタクシーに乗るが、もめて、空港に戻ってもらう。金は払わない。もめる。「うーん。インドだなあ」と思う。タクシーに乗り直して街に向かう。車や通行人ギリギリの所を猛スピードですり抜け、安っぽいスリルを味わうことができる。安全の中に隔離された遊園地のスリルを味わうアトラクションに乗っているようだ。空港から百ルピー。タクシーを降り、すぐさまうろついているおっちゃんと知り合いになり、ぶらぶら歩きながら会話をする。「先日、カルカッタで大きな祭りがあったんだ」「へえ、そういえば、俺もバラーラスでホーリー祭のときに行ったなあ」「あそこは良くない。町中色を掛け合うなんて汚れて最低じゃないか」「今回はBBDバッグ地域に宿を取ったけど、昔はサダルストリートに泊まっていたんだよ」「あそこは汚くて最低だな」自分の住んでいる地域が一番なのである。「うーん。インドだなあ」と思う。そして、ふと気がつく。予定調和と確認作業のためにここに来たのだろうか。かつての印象から抜けることができないのだろうか。いきおい、ヒルトンホテルの様に、部屋の中はどの国に行ってもそんなに変わらないというマニュアル化したホテルチェーンに安堵を覚えてしまうのではないだろうか。そのうちハワードヒューズみたいに世界中どこへ行っても机の配置から同じにさせることに安心感を覚えてしまったらどうしよう。 少しでも富める者は、貧しい者に布施をするという考え方はインドだけでなく、結構多くの世界で見ることができる。ただ、その貨幣価値を崩壊させる様な行為はタブーである。短期間では、そのあたりがよく分からないのである。つきまとわれた乞食の子供に粉ミルクを買ってあげる行為。乞食とて、たいていプライドを持ってやっているので、あまりに小額だと怒り出すこともある。私が粉ミルクを買ってあげたことを、その女性は「いいカモだった」と忘れてくれることを願う。一過性のものなのだ。 ここにいると背広は乾燥して寒い季節での服つまりヨーロッパのための服なのだと感じる。日本の真夏の冷房は背広向けのものだ。まだ冷房が高級であるという意識から抜け出せないでいる。東南アジアの寒くてたまらないデラックスバスと同じである。豊かさは高級化贅沢化を産み、更に金がかかる。マグロを食うために何匹のイワシが必要か。肉を食うためにどれほどの穀物が必要なのか。日本は重くなっていく。会社員になってから一度インドに行った。で、会社員になったから、でもないけど、家庭もあったど、やぱり、学生のときみたいに1日の予算が500円という訳ではなかった。 そんな訳で、私は自分でも、そして紹介や招待でも、なかなかいいものを食べた。大変うまかった。 私は、途中、カルカッタに戻り、カルカッタのダムダム空港にインドを見てみたいという実の妹を迎えに行った。そのとき、ふと気が付いた。まわりには何も商店や店がないのに、(空港内にはレストランの類はあるけど)タクシーの運転手なんかが炎天下の中で客待ちをしている。「なあなあ、俺、腹減ってん。きみら、昼飯どこで食ってるの?」と私は思わず声をかけた。我が意を得たりと、タクシードライバーが、ついて来いとばかり、炎天下を歩き出した。空港の端の溝沿いに、その店はあった。というより、そこには日よけもない(時間によっては建物の影にはなる)なべを3つだけと皿コップ水を置いた店であった。何人かの運転手らしき人が飯を食っていて、外人の到来に目を丸くしているが、すぐに親しい目をしてくれた。私も、溝に足を突っ込み、「なべは何?」と興味深そうに指差すと給士の少年は、なべを3つ私の持ってきて、魚、肉(チキン)、米といった。私は魚を頼み、そして、ドライバー達の注目の中で食った。からくてまずかった。が、生きていた。生きている実感があった。俺はこれを求めていたのだ、なんて勘違いもした。今日、無茶辛いインドカレーを食べながら、そのことを思い出した。勿論、腹を下すのに1日かからなかった・・・ カルカッタのハウラー駅は相変わらず今まで見た中で最もカオス的な駅であった。何度来てもどの番線から発車するのか、どのコーチ番号なのかを発見するまでにかなりの時間を要する。そして駅には、乗客以上に住みかとして構える生活者が床を占めている。 キオスクで購入したお菓子の余りを、足のひん曲がった子供の乞食に手渡した。その子は、大きな優しい目で輝くような純粋さを持って見つめてきた。私は神ではない。むしろあなた方のほうが神に近い。この世で世界の八割以上のものを、我々五パーセント未満の者が享受している。擦り切れた衣服とは対照に、目が澄んでいる。いまだ、貧しい者は美しい、を理屈で理解できないでいる。いまだ、こちら側から傍観している。甘い感傷にとどめを。子供は立ち上がることができない。目線が常に私の下にある。乞食達が一斉に何故か私を見た。駅構内でモグリの仕事をしている男達が、何か大声で叫び、私から遠ざけるために彼らを蹴散らす。 乞食は案外臭くない。毎日路上で水浴びをしているのかも知れないが、人間、何日も体を洗わないと臭くて不潔で気分が悪くなってくるものなのだろうが、案外体が純化していくものなのかも知れない。気候や湿度も関係するだろうが、不純物は昇華してしまうのか体の一部として取り込んでしまうのか。下手に洗濯を中途半端にしたり、体を洗うと余計に細菌がばら撒かれ、臭くなってしまう。そういうものなのかも知れない。 そして清潔や不潔に基準がないのと同様、臭いにも基準がなく自己設定しなければならない。そしてその標準は場所と時代によって変遷していくものなのだろう。臭いは視る聴く話すよりは生活には重要ではないが、もし見る聴く話す臭うで、一つ捨てるとすれば、案外、臭いは捨てがたい。カオスは続く。求道 (今は国内線となった)ドンムアン空港であるが、ここのよい所は、大きな道を挟んで、ドンムアン村があることであった。小さな村であるが、空港の近くに集落があるのは、嬉しいことである。いつも、帰国前には、ここで、最後の晩餐や昼食を採っていた。そこには、空港の非日常性と違い、庶民の生活が隣り合わせになっていて、空港との陸橋を渡った下にある食堂で、焼き飯を食った後、甘ったるいアイスコーヒーを飲みながら、ぼやぼやとしながら、歩いていく人々や、屋台でせわしく動く人々の風景を眺めるというのが好きだった。村は、5分も歩けば終わるが、立派なタイ式の寺もある。 この屋台で一度、酷い目にあった。足の裏を何か、ムカデか毒蜘蛛のような蚊ではないものにやられたのである。やわらかいゴムぞうりでさえ、歩くと、足の裏が腫れて盛り上がっているのが分かる。痛さを更に痛さで誤魔化すため、大地を蹴りながら歩いて空港に戻ったのであった。飛行機の離陸する時刻まで1時間を切る頃に、ゆっくり腰を上げ、近代的で冷房の効いた空港建物に向かうのであった。求道 数時間後、中級であるが、心なしかお湯が出ないホテルに既にチェックインしている。しかし、いつものインドの通り、ここまで来るのに前途多難な道であった。 最初に、機内で、隣に座ったインド人が、断りもなしに、私のシート前のポケットに自分の新聞紙や私物を入れたり、ゲロ袋を持っていったりして、目が点になった。 そして、税関で空港からなかなか出られない。いつもの非効率。並ぶ入国者たち一人一人に、「私へのお土産は?」と尋ねているのだから仕方ない。 次に、タクシーに乗れば、いきなり料金で喧嘩、空港へ帰れ!といい本当に帰りだし、金も払わず、途中の村で降りて、乗り換えた。 そして、車内から、やがて視覚をはじめ五感に響く強大なエネルギーにいつも圧倒される。 道に続く掘っ立て小屋 何度も剥がされたポスター跡の壁 喧騒クラクション 道端での食事 パパイヤの刻み切り売り 靴磨き屋 破裂したポンプ 乞食 屋台 クーリー 演説 直接壁に書かれた宣伝 胡坐をかいてタバコを道端で売る人 パーン売り 米屋 インド音楽 排気ガス 人都市が巨大な映画セットのようである。シティオブジョイ(歓喜の町カルカッタ)やサラームボンベイといった社会派インド映画を思い出したが、遥かに映画セット的である。 更に、ホテル横の靴磨き屋が、瞬時に、自称ガイドになり、靴を磨きにきた人を断っていた。頼んでもいないのに、私のガイドになるという。「おい、隣の靴磨き屋には5人も並んでいるぞ」といったところで、「5時になれば、雨が降る。靴磨きは意味がない」と嘯き、職務放棄し、私にしつこくつきまとい、無視しながらも歩きながら、30分程でまた私はホテルに戻る。彼は、後ろから30分勝手について来ただけなにの、ガイド料を寄越せと、喧嘩する。勿論、ビタ一文払わなかったが、もう表の門から出ることができなくなった。 そうして、この植民地時代に建てられたホテル内を歩くもすごい人である。フロントに私の相手をする人間が4人はいいとしよう。ポーター、エレベーター操作おじさん、エレベータ内掃除人、各フロアに立っているホテルマン、部屋に入ってくると、ノックがしてまた別のホテルマンが入ってきて、水を運んでくる。各フロアとは別に、数室ごとに何か待機しているホテルマン。チェックインからベッドに座るまでに、10人ものホテルの人と相手したのであった。 ここまでは、前途多難な道であった。バンコクから近いのに、インドに来ると、遠くに来たなあといつも思う。そしてタイに戻ると、まだ日本まで飛行機で6時間というのに、もう帰ってきたな、と思う。求道 やっとシャワーを直してもらい、少し休息して、ライトの美しい夜を歩こうと思い、それまで少し横になると、本格的に眠ってしまい、起きると、夜中の0時であった。何が何だか分からなかったが、視聴覚はインドエネルギーにやられていたようである。求道0時半、ロビーに下りてみると、レストランは開いていた。薄暗く、客はいないが、24時間のようであり、椅子に座る。しかし、従業員は全員、テレビに夢中である。警備員もテレビに夢中である。高いが、外ではもう食事はできないので、仕方なくしばらく座っているが、一向に注文も取りに来ない。テーブルには、人を楽しませるために存在している枯れ掛けの薔薇。業務用大型扇風機が、レストラン全体のテーブルクロスの端をひらひらさせている。ビディは、6本目、薄暗いレストラン、まだ注文は取りに来ない。
2003.07.07
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例えば手足を切断してしまった人が、ないのにかゆく感じたり、痛く感じたりすることがあるそうですね。それの緩いバージョンといいますか、先日1日だけ眼鏡を喪失。眼鏡無にぶらぶら1日を過ごしたのですが何度か、眼鏡がずり落ちている感じがしてフレームを触ろうとする、ないないと気がつく。タバコを辞めて1週間が過ぎた。1時間に10回思い出していたのに、今や1日10回に減っている。意思が弱いからタバコを辞めれるのではという逆説的に考え始めている。その理由は次回。有るもの、当たり前だったものがなくなるのは辛い。そうそう残る者と去る者(旅立つ者)もどちらが寂しいかというと、残されるものは環境が変わらないままそこだけ失うという喪失感に陥るが、残す者は、環境が全部変わっていく訳だから寂しいひまがないかも知れない。昔高校のときに同級生が何人家に遊びにきて騒いだ。そして皆が帰り、机に座ってなんか虚しいなと思っていると、ノートに鉛筆で「今、むなしいやあろ」と書かれていた。教訓逃げ道をつくっておいてあげる、それが大人の喧嘩ちゃうん?独り言・・・・・・・・逃げ道をつくっておいてあげる、それが大人の喧嘩ちゃうん?独り言・・・・・・・・破綻同然の「本四連絡橋公団」総裁の報酬は年2400万円、本州四国連絡橋公団の職員の平均年収(平均年齢40.0歳)は834万円。他公団はJH736万円(39.6歳)、首都高公団851万円(41.1歳)、阪神高速821万円(41歳)破綻同然の「本四連絡橋公団」総裁の報酬は年2400万円、本州四国連絡橋公団の職員の平均年収(平均年齢40.0歳)は834万円。他公団はJH736万円(39.6歳)、首都高公団851万円(41.1歳)、阪神高速821万円(41歳)
2003.07.06
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今でこそおさまっていますが、国際都市神戸なんかといいながらポートピア81なんかやってた頃には、公立中学は全員男子丸刈りでした。今考えると恐ろしいことです。私は、丸刈りが嫌なので、小学校6年のときに、私学に入るべく受験勉強をしたものでした。(しかし希望の私立六甲中学という所も丸坊主だたので意気消沈)まず、確認しておくべきは、個人は自由であるべきというのが日本国憲法の原則ではないんかい。人に迷惑をかけない限り、すなわち他人の権利や自由を侵害しない限り、何をやろうと自由であり、これを不当に制限することは、憲法違反ではないかい(逆にいえば、他人の権利を不当に侵害する行為は制限されます)。ただ、学校生活においては、集団教育の実効を挙げるために、普通の社会よりも強い制限が許されることもあるでしょう。また、未成年者の場合、心身ともに未発達で判断能力も未熟なので、本人の成長のために一般の大人よりも強い制限が課されることもあります(「たばこを吸ってはいけません」「廊下は走ってはいけません」「先生をしばいてはいけません」「靴下は白でワンラインまで」など)。そのため、一般社会よりも強く個人の権利を制限する校則も、直ちに憲法違反だとはいえません。ただ、個人は自由であるのが原則なのですから、校則による制限も、必要最低限のもののみが許されるというべきでしょう。頭を丸刈りにするということについてみると、生徒によっては非常に強い精神的苦痛を伴なうものですから、とても必要最低限の制限とはいえないでしょう。また、丸刈りにする目的は、勉強への集中・生徒の不良化の防止ということなのでしょうが、丸刈りにしたからといってこのような目的に効果があるかどうかも疑わしく、そもそも丸刈りにする必要性はあまりないでしょう。軍隊を経験もそてないのに思い出して嫌になりますわな。そもそも頭を守る為に毛が生えている訳で、それを剃ってどうするの。もとより頭の形が変なのも発見してしまったではないか。その後高校時代に、短距離メンバー達が校内運動会部対抗リレーでバトンを落し、サッカー部に負け、連帯責任で長距離の私達も丸刈りを強制された。その後大学時代に、中国からチベットネパールへ抜けて行く旅行の際に、和尚のフリをするために、初めて自らの力で丸刈りにした。でもよく考えたら和尚のフリをする必要は全くなかった。あーあ。
2003.07.05
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そういう映画を見たことがあるのですが、ベトナム反戦の映画ですが、その中で、ベトナム戦争で半身不随になりやけになってメキシコで自堕落な生活を送る日々の場面があるのですが、蛆虫が一匹入ったテキーラ(ラベルの蛆虫君がキュート)の中の蛆虫を自慢気にすする場面があり、やけに印象的でした。もうひとつインデフェンデンスディという映画は飛行機の中でみたのですが、あんなアメリカ帝国至上主義みたいな映画を国際線でやってもいいのかしらん、と思いました。7月4日、独立記念日に生まれて。とか何とかいっているうちに7月7日の七夕なのである。何故7月7日なのかは忘れたが10月10日の体育の日は1年で一番晴れの確率が高い日ということで選ばれたということですな。(今は体育の日は流動的やけど)
2003.07.04
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その日のデリー その1早朝、外に出ると暑い季節独特の一時的な涼しさを感じる。実は明日の予定はあっても今日の予定はない。もう一眠りできそうだ。昼過ぎ。意味のない散歩がてら、カレーを食べることにする。英語で書いたメニューが一つしかなく、気を遣ってくれた支給係が壁に掛かっているそれを外して持ってきてくれた。突然、私は二年前にもここに来たことがあるぞ、と思い出した。支給の顔を凄い勢いで振り返った。彼はすかさずウインクをした。彼は「君のことは覚えているとも」という顔をした。私はメニュー表のことしか覚えてなかったというのに。切っていないジャガイモが一個と豆がポツポツ入っているカレーを頼む。爪の中が黒くなっているのは、敢えて無視して、攻撃的に手で食べる。手も味わっているかのように。自分の手だけが他人と共用できない。口に入れる箸や匙を共用しないことが、徹底した身分制度であり、習慣なのであろうか。五ルピー。マンゴーシェイク大を別の店で注文。機械的に一気に、体内に入っていく。この氷で腹をこわさないかという緊張感がたまらない。まとわりつく蝿五匹が、体を這いずり回ってこそばい。五ルピー。かつて友人がオカマにじゃれ付かれたホテルの前を通り過ぎ、やがて商店はなくなり、民家脇を通り過ぎる。雲行きが怪しくなってきたので、急いで引き返す。珍しく、涼しい風が幾度か体をよぎって行く。察知した店主たちは、先程ののんびりさを捨て、道に出た商品を仕舞うなり畳むなりし始めていた。ある青年から青ボールペンを買った。ニルピー。ある子供からバンダナを買った。三ルピー。こういった気取らない買い物が何か嬉しい。「ハロー、ティー?」と青年に呼びかけられる。凛々しい顔つきが気に入って、入ってしまう。ゆっくりチャイを飲む時間をインドから中近東を経て北アフリカまで、何億という人々が飲んで暮らしているのだな、今は私もそのひとりなのだなと考えると連帯感を感じる。雨はドカンと降ってきた。窓のないホテルに戻ると。首都というのに、、毎日恒例の停電となる。窓のない部屋や廊下は闇に包まれる。都会でさえ、階段で膝を打つ程の濃い闇を失っていない。明日はパキスタンをめざす。その日のデリー二日本へ帰るという朝、六時。最後に活発な朝の営みをもう一度、と道端に座り続けている。寒くて腰巻を体に巻きつけている。ちょうど、隣に台車を転がしてきたみかん屋が止まった。ここで営業するつもりらしい。早速おっちゃんにお金を渡す。朝一番の客におっちゃんは仰々しくお金を頭の上に挙げて目礼した。今日も一日やるぞ、という意気込みを感じた。目の前を、リキシャー人人人リキシャーオートリキシャー牛人人人。犬二匹が喧嘩をおっ始めた。そこをゆっくり歩いていた牛が、突如犬目掛けて走りだし、喧嘩を止めさせた。犬の喧嘩の仲裁をしたことより、インドの牛が走ったことに驚く。目の前にポンプがあり、人々が水を汲みに来る。そのおじさんもそういった人々のひとりであった。バケツに水を汲み、脇に置いて、もうひとつのバケツにポンピングして水を入れている間に、密かに牛が忍び寄り、ごくごく置いてあったバケツの水を飲んでしまい、しなやかに素知らぬ顔をして歩いていってしまった。そのおじさんが振り向いて、あれっという顔をして私を見る。漫画の世界か。インドでもある薬用成分のある棒を歯ブラシに使う。次に来たおじさんは、得意そうに私を見ながら、にやけながら歯を磨いていたのだが、歯磨きに集中していなかったのか、棒を喉奥に突っ込み過ぎた。オエー。彼は吐いた。君はコメディアンか。感傷的観賞であった。寒いのは続くので、暖かいティーを飲むことにして近くの掘立て小屋に行く。朝から数人座ることのできる店は繁盛している。そこに乞食かクーリー(苦力)か、無茶苦茶汚れた服を着た、垢か地か分からない真っ黒な顔をした男が、本当に大事そうに一杯のチャイを啜っている。ゆっくりゆっくりと。彼は、飲み干すと、汚れた小さな財布を出した。一ルピー硬貨が五、六枚見える。もし、これが彼の全財産なら、何てダンディな奴なんだ。彼は、一ルピーを渡して、雑踏の中へ消えて行った。デリーとニューデリーのハザマでデリー駅とニューデリー駅は約4キロ離れている。インドで大きな町では大抵駅を出ると多くのリキシャワーラー(人力車夫)に囲まれる。鋭い目つきでぼったくれる外国人をみるやいなや「乗れ乗れ」攻撃を執拗に繰り返してくる。 都市とは、概ね、排除を元に成り立っている。特に生き物の排除。そこに許されるのは愛玩動物しかいない。しかしインドの面白い所は、たいていの都市部にでさえ、聖なるノラ牛、聖なるノラ猿、ブタ、鶏、いたち、そしてさすがにノラではないが象まで、いろんな動物が雑多に混じりながら都市を形成している。そこに人間が混じっている。 そんな中にリキシャワーラー。供給過多になっているのを気づいていないのか無視しているのか、我も我もとたった一人の私に値段交渉だのすぐに乗れだの囲んでくる。私は奥にひっそりたたずみ売り込み攻勢をかけてこない男を指差した。「おまえでいく、値段は4ルピーだ」気の弱そうに見えた諦め顔だった高杉晋作似の彼は「何でボクが」とでもいいたげであり、猛攻をかけてきたワーラーたちの罵声とときに高杉晋作の頭をこづく奴まででてきた。 高杉晋作はしなやかな腕を上げ、首を縦に振り、アチ(いいよ)、と言った。ガムチャ(手ぬぐいのようなもの)で汗を拭き、彼はペダルを漕ぎ出した。他のワーラー達の罵声が背後に聞こえる。まだ5ルピーなんていってる奴もいる。時に、荘厳で命をすり減らす乗り物である。
2003.07.03
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ある絵本がありました内容を思い出しました。タイトルはナンだっけ、大木と人かな?子供のとき、大木にむかって言いました。「どう遊んだらいい?」大木は言いました。「私を登ったりするといい」子供はそうしました。大木はそれはそれで嬉しかった。青年のとき、大木にむかって言いました。「どう稼いだらいい?」大木は言いました。「私になる実を刈取って売るといい」青年はそうしました。大木はそれはそれで嬉しかった。大人のとき、大木にむかって言いました。「どう家を作ったらいい?」大木は言いました。「私の枝を切りとって使うといい」大人はそうしました。大木はそれはそれで嬉しかった。中年のとき、大木にむかって言いました。「どう旅に出たらいい?」大木は言いました。「私の幹を切りとって船にするとといい」中年はそうしました。大木はそれはそれで嬉しかった。老人のとき、大木にむかって言いました。「結局全て失敗の人生だったよ?」大木は言いました。「私の切り株に座ってもの思いにふけるといい」老人はそうしました。大木はそれはそれで嬉しかった。てな内容だったと思う。(かなりゆがんでるかな)キリスト教的に考えるまでもなく、何となく大木のいいたいことが分かるよね。大木は貨幣にできない報酬を得ているよね。人生ゲームhttp://www.tnc.ne.jp/oasobi/oasobi01/05jinsei/index.html チュッパチャップス今日コンビニでチュッパチャップスを見た。かつてTV宣伝していたことをふと思い出した。ひとつ30円という破格に高いあめちゃん。しかし30分もつので1分1円。チュッパチャップスは、スペインに行った時初めて、それがスペインからの輸出品ということを知り、何となくへええといった。思わず、20年ぶりくらいに舐めてみる気になった。○1958年エンリケ・ベルナートがスペインのバルセロナで創業。○日本に上陸したのは1977年の事。○1969年ダリがチュッパチャプスのロゴを考案。○ロシアの宇宙ステーション「ミール」で持っていかれ、○世界ではじめて宇宙で食べられた棒付きキャンディ。○世界164ヶ国で販売。○全部で50種類以上のフレーバー。○1997年には販売本数が400億本を突破。○私は20年以上食べていない
2003.07.02
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時効だから警察と親には黙っていて欲しいのですが、好奇心から小学5年生の時にタバコを2本吸ったことがあります。とてもまずかったです。どうやって入手したかというと拾ってきたのです。それから18歳になり、大学に入ってから、何か吸うものなのかなと勘違いして何度か吸いましたが、まああんまりうまいもんでもないから止めるかと思っていた矢先の5月か6月の強制拷問大峰山系縦走。それは35キロの荷物を背負いひたすら景色のない山道を何日か歩き回るというもの。そして厳しい合宿が終わり、山を降り、廃寺で休憩したときに、タバコを1本もらった。くらくらきた。うまいと思った。そしてその夏に初めて海外旅行に行った。フィリピンの主なタバコはアメリカのマルボロだ。それで、私のメインの銘柄は決定された。(勿論日本でのマルボロはライセンスを取っているだけで似せた味の日本の葉を使っているから免税店や海外で買うと味が違う)そうやって、それからずっと吸っていて、遊びで禁煙大会を1、2度してみた以外に禁煙をしたことがなかったが、今回することにしました。決断!というより何気なしに止めちゃった、にもっていこうと思います。何故禁煙か?いつかいつかすると思っていたから。今、「吸いたいな、おっ、もうタバコないんやった」を1時間にほんの 10回くらい思い出していました。アルコールについては、時効なので母を許すが、中学2年の時家族旅行で信州車山高原に行ったのであるが、そこでビールをコップ1杯夕食時に母に勧められた。そのときに初めてビールを飲んだが、1口で「にがあ」といって終わってしまった。 それをみた母は「私なんかあんたぐらいの年齢のときがぶがぶ 飲んでいたわ」といったが多分ウソであろう。タバコは運動していたのでやらなかったが、ビールやウイスキーは高校に入ってから年に数回(誰かの家に集まった時など)、大学に入ってからはいきなり毎日となった。 しかし学生時代には日本に居る時は毎日だが、海外に行っている時に飲まないので肝臓が休まった(アルコールの安いフィリピンと中国のぞく)学生なので朝も昼も飲んでみたりと散々であったが、まあ学生だから仕方ない。社会人になると、毎日欠かさず飲むようになった。10年間ほとんど1日も欠かしてないと思う。ただしほとんどがほろ酔いで終わり。多分、軽傷のアル中だろうと思っていた。しかし3年くらい前に、何の意味もないのだが飲まない日が週にポツポツと出てきた。単に早く寝たくなったのである。そんな訳で、今は家にアルコールがない日が続いている。ある日はなくなるまで飲む。イヌイットのようだ。
2003.07.01
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