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今日、霧雨の中、高速道路を走ってたら、まだ事故したてほやほやの車が、壁にぶつかっていた。ボンネットがなかった。一瞬にして通り過ぎたので、分からなかったが、死というものが近接にあった。日本の社会において、死というものが隔絶されて、どちらかというと、汚いものになってしまっている。江戸時代には、そこらじゅうに死があったという。そして、今の時代にしてもなお、少なくとも、インドでは剥き出しの生死が見受けられた。そういった訳で、私は、日本人の中でも、まだ、死に対して、インドの体験的になんとなく直面できる奴だと思っていた、が、去年の東京中央線で、おばさんが自殺をして、私の座っていたちょうど下で列車が止まり、私は、もろにそれを見た。ロウニンギョウのようであった。それから、私は、そのシーンにはまってしまい、翌日、新宿に飲みに出かけて、何か恐ろしくなって、はまってしまい、中央線に乗れなくなってホテルに泊まった。それでも、何か寝たらこのまま死んでしまうのではないかと、不安になった。多分、憑依現象ではなく、自己暗示だとは思うのだが、蝋人形のリアリティが無茶怖かった。そんなことを急に車の中で思い出し、もろいものだ、と思ったのでありました。
2003.09.30
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地下鉄で切符を買おうとしたら、ふらふらとなかなかシックな感じの女の人が近寄ってきて、私に気があるのではと一瞬危惧しなかったのであるが、「1日フリーパス券あげる」といって去っていった。私は、彼女の後姿に向かってありがとうと中くらいの声でいい、200円浮いたぜ、と微笑ましく地下鉄に乗った。この幸せを次の人にリレーションしなくては、と思い、自動販売機に向かった。裏を見ると、乗り方が無茶苦茶なので、今日という1日を無茶苦茶に人の手に渡っているのだろう、それもきっと男女男女男女男女男に違いないと思い、女性に声をかける。彼女は私の軽快な挨拶に警戒もせず、かといって、何を手渡されたかにもよく分からなかったようで、お礼のひとこともなかった。でもいいんだ。地下鉄会社への謀反などではなく、軽薄な庶民の英知であった。そうやって今日買った、本4冊のうち、文庫本の沢田教一本が10年ぶりぐらいにでたので、写真集をぱらぱらめくっていた。前後のの酔っ払いのおっさんが鬱陶しい。「ベトナムをみよ」と私はちょっとだけ叫びたい気分になるのを、ぐっと我慢。ひとつ思い出していた。何かの講演会で本多勝一がいままででもっとも感動したシーンのひとつは?という質問に対して。ベトナムの村で、戦車や兵士が村で銃撃戦を始めたのですが、ひたすらその村の住民であるおばあさんは、その出来事を無視して、田んぼの農作業に従事していたシーンです。と。自分の家が焼き尽くされて、それも戦争が日常で、どんな思いで無視していたのでしょうか。平和ボケした私には分からないわ。
2003.09.29
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あれは、たしか21歳の夏のことでした。私は無事でもないけど、タイ自転車縦断の旅なんちゅうのを終え、その後、バンコクにて豊富な資金源(約20万円)にものをいわせて、旅行代理店を巡っていたのでありました。私の予定では、バンコク-ブルネイ-マニラ-台北という飛行機のチケットを購入し、台湾から船で沖縄県に入る予定だったのです。私の夢は膨らみ、私の心は脹らみ、してたら、ふとした拍子で金をぜーんぶ、取られてしまい、なくなく、金借りてマニラ経由のみで日本に帰国したんでありました。そんな訳で、遥かなる沖縄だったのです。それから10年後、やっと10年の月日を経て、沖縄に到着し、夜な夜な飲み屋街に出かけたのであります。そりゃポンビキが寄って来る寄ってくる。ほとんどアジア状態でした。「どこから来たのですか」「大阪」「あー、大阪ね。友達いますよ」という会話はほとんど、アジア各地で交される会話でありました。安いのは安いがぼられてるのかどうかさっぱり分からないので、居酒屋「養老の滝」に避難し、店員に相場とぼったくるのかどうか聞いてみたが、別にぼったくるということはあまりないとのこと。そんでもって、いさんで、ポンビキにつかまり、飲み屋に向かったのでありました。飲み屋はウイスキーの変わりに、ちゃんと泡盛がでてきて、うーむ沖縄って感じー。そんでもってアジア的なのはもうかってるかどうかはナンか度外視でいつまでも(朝まで)適当に店を開けているってことで、子供も遅くまで適当に起きているようで、夜中になてくると、結構酔っ払って、ナンか薄暗い店内で「なんだかなー」状態になった。次の日は早起きして宮古島に向かった。飛行機で40分。スキューバだ、といって張り切ったが、台風の後でスンゲイ海は荒れていて、中止となり、レンタカーを借りて、何がナンでも何となくとにかく島一周というのをした。おおよそ120キロ。泊まっていたのが街外れのリゾートだったので、夜の徘徊はなし。ほんと、ビーチリゾートって何もすることがなくって最高ですな。予定がないっていいなあ。スケジュール埋める毎日からはやく脱却したいものですわ。2日目は、台風も夢の後となり、絶好のスキューバ日よりとなった。ブーゲンビリアが咲き乱れ、蝶々が飛び交う庭なのだが、匂いが、アジアンリゾートと日本のアイの子みたいで、どうもしっくりこない。アジアに片足つっこんでまっせ、って感じであともうちょっと、つないで、つないでーって感じ。そういえば、前の夜にローカルニュースを真剣に拝見したところによると、ボタニカルガーデンで捕らえられた蝶々にマーキングが施されており、三重県から1週間かけて飛んできたことが判明し、自称植物指導者である眉毛の濃いおじさんが、まんざらの顔をして鼻高々と蝶々を見せていたのが、繰り返し報道されており、なんともほのぼのって気分になっちまったものであった。私は、これでも世界最高級にシックなリゾートホテルのアマングループのファンなのだが、テレビが置いていないところがナンともおしゃれなのだ、と鼻息を荒立てた瞬間にいびきをかいてベッド深く眠っていったのでありました。まあ、それはいいとして、スキューバでなくシュノーケリングをして、海は綺麗な大きいなーといって終了。そして、着替えて、1時間程ゆっくりビールをビーチで飲んで空港に向かったのであった。オリオンビールを片手に、直行便は関西を目指すのでありました。
2003.09.28
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シンガポールでミッキ-ロークの「ナインハーフ」見たんだよ。かの国では上も解禁されてないから、何や分からん映画でした。彼が「セックス」というと、字幕に「快感」とでました。ちょっとだけ興奮した・・・下どころか胸も出してはいけないので、まったく何をやっていてどんな行為をしているのか不明だったのが更に興奮を誘った。
2003.09.27
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18歳。 無知と高慢と偏見の季節だった。ほんの4ヶ月前前まで、私は受験生であり、どこに行くのか決まってなかった。高校生なりに、英語もロクに話せないし、外の世界は興味がないし、未知の世界は怖いし、外国にはできれば一生行きたくないと考えていた、いや、考えてなかった。行く大学も決まってなかったので、それどころではないという狭い世界に住んでいた。 海外初夜はフィリピンで迎えた。ホテルのボーイ、ルウさんにディスコに誘われた。ディスコには行ったことはなかったし、踊りも知らなかった。気乗りはしなかったが、連れて行ってもらうことにした。タクシーで「ディスコ タバスコ」へ。一番前のいい席に座った。舞台があり、ショータイムがあった。客は、皆、それなりに着飾っていた。ビキニ姿で踊るダンサーのラテン仕込みの熱くなるほどの腰の振りを見て、私は、驚いた。数人が踊り、それぞれのダンサーが空のビアグラスを持って、それぞれ適当にテーブルに行き、ビールをついでもらい、踊りながらステージに戻り、一気に飲み干し、そして、ヌードになった。ヌードになるのがディスコなのか、と私は思った。客は、半分は女性であり、着飾っているのに、こういうものかと私は驚いた。私は、常夏仕込みにぴったりあったサンミゲルビールを鬼のように飲んだ。旨い。感心し、若さに任せて、酔うほどに飲んだ。トイレに行くと、トイレの中には数人の男達がたむろしており、肩を揉み、蛇口をひねり、おしぼりを出してくる。こいつはボラれたは困ると思い、思わず、5円玉を出し、「穴が開いている硬貨は珍しいだろ。価値があるんだぜ」と訳の分からないことをほざき、たむろする男を喜ばせた。馬鹿にしているような自分に辟易する。タバスコの商権を日本で持っているのはアントニオ猪木だ。タバスコを買えば、彼の口座にチャリンといくらか自動的に入る。プロレス業界に貢献だ。真ん中のフロアでは客が踊っている。しかし、ショータイムは永遠に続く。ダンサーが寄ってきて日本語で聞いてきた「アナタ、ナンサイ?」「18」「ワカイネー、ハンサムボーイ、コレ、アゲル」といって、股に手を入れ、そっと手渡してくれた。1本の陰もうだった。私の初海外初夜はそうして始まった。初めての海外旅行は高校を卒業した年の夏休み。フィリピン。 実は、ワタシはハンバーガーというものをそれまで死ぬほど食ったという経験がなかった。ワタシの高校生時代というと、やたら腹を減らした小汚いが野望に満ちた羊であった。そして、いつも腹を減らしていた。部活動が終わり、駅前のショッピングセンター(ダイエー等)を通る時、背中とお腹がひっつきそうになるのを我慢して帰ったものだが、たまには、ハンバーガーショップ(ドムドム等)に寄り、少ない小遣いの中から、今日は1個食べるべきか何とか家まで我慢すべきか検討に検討を重ね吟味し、清水の舞台から飛び降りる断腸の思いでハンバーガー一つを購入してみたり、閉店30分前に半額になる模擬店の焼きそばを閉店3-分前まで模擬店前でひたすら待ち続けるのボレロになっていたのであった。 そういう切なくも逃れられない高校時代の制約の中から、急に自由という「おもちゃ」を与えられたことと、物価の安さと言う未体験ゾーンに突入したことにより、ハンバーガーへ不満と欲求を満たす、止揚状態へと進んでいったのであった。フィリピンにはマクドナルドの様な外資系は勿論入っているが、ジョリビーという国産ファーストフードもあり、そこに入国1日目にしてハンバーガーを6つ頼んでみた。ワタシの復讐の胃袋では可能かと思ったのだ。店員は心配そうな顔をして、本当なのかと再三尋ねられた。そしてワタシは高校の時の存分にハンバーガーを食ってやるという夢を果たした。かくてハンバーガーはたった3つしか食えなかったことも同時に判明したのであった。こうしてワタシは、人生、はまっていくのであった。モシモシパーラーもスーパーに変わっていた。Bサントスもいなかった。下町夕刻。常夏の国の都会、裏通り。辺りが徐々に暗くなっていくのが良く分かる頃。 近所の人々は夕涼みと称して、ボコボコに亀裂の入ったコンクリートの道端に簡易長椅子や塀脇に座り込んだり、佇んだり。蚊にかまれながら腕をボリボリ掻きながら世間話をするふわっとした服を着たおばさんたち。ビール瓶片手にパンツ一丁で、とりとめのない話をしながら、ごく簡単なルールの賭博に興じるおじさんたち。怪しげにたむろして、コソコソ話をする若い男たち。走り回るボロ着の子供たち。ばら売り煙草を売る青年や、バロットという孵化直前のゆで卵を売る青年はうろうろし、時折、青年の代表か使い走りが人数分だけ煙草を買い求める。寿命寸前のエンジン搭載したやたら大きく割れた音を出すバイクが、力なく、排気ガスだけ好き放題撒き散らしながら、ノロノロ通り過ぎる。 個人商店何でも屋サリサリストアに、裸足の小さな子供が煙草一本を買い求める。「まあ、子供なのに火をつけてもらっているわ」と話に夢中だったおばさんの一人が目を丸くして指差す。子供は一吸いだけして、少し走って行き、ギャンブルに興じる父親に渡す。「なーんだ」と残念そうにいうが、目は安堵。 やがて、限りなく橙色に近い夕日は、消え、通りは、急に暗くなる。 排気ガスが混じった空気は、暑さと融合しモワッっと薄暗く澱んでいる。この混泥は少し危険な雰囲気を生み出し、モワッの中に漂わせ続ける。生活は苦しいが、そのモワモワ感に紛れ、生活臭には嫌悪感がない。貧乏であっても、皆が一様に貧乏で、等身大であるために貧乏臭さがない。「汚れ」に標準がない。「清潔」に、同様、基準がない。 皆が道端に出ることによって、武器の不携帯を証明し、草履姿や身軽な格好が、無防備を立証している。そこでは、基準は必要なく、馬鹿な煽動者が入り込む余地はなく、いや、煽動したがる者をも抱擁してしまうかも知れない。そこでは標準がなく、家から1分以内に何でも日用品は売買するところがあり、1分以内に交通手段を利用でき、1分以内に同世代の友達がいた。 日本の戦後から昭和30年代ぐらいまで。こんな経験はしていないというのに、何か懐かしい光景。 日本の戦後から昭和30年代まで、日本は、経済成長の夢と明るい将来があった。ここにはそれがないというのに、どこか明るい。 近年の日本の子供たちに、明るい将来を抱いていない。もしかして、懐かしいというより、将来の日本を見ているのか。そんな錯覚に襲われる。サリサリストア。何でも屋。洗剤や塩やソースを小分けして売っている。勿論、金のない近所の人は、サリサリストアに小額の借金をして、そういう日用品を少しずつ買う。少し金がたまった人は、すぐに、サリサリストアを開店させる。下町以前、ずっととめさせてもらっていたパサイシティの下町ルトンダにも行ってみる。左側にあった家はなくなっている。皆、島に帰ったという。しかし、相変わらず子供たちはいっぱいいた。あの頃、ここで遊んでいた子供たちも今は、20代だ。どこにいるのだろうか。左のサリサリストアはまだあったが、人と建物(掘っ立て小屋)が違った。ここではいつも、25円のビールを飲んでいた。コカコーラも25円だたので、ついついビールを頼んでしまう。息子のノエルは、ひょうきんないい奴だった。妹のディジーは、初めていったとき引っ込み思案だったが、次に行くと、じゃぱ行きさんになっていて日本語を話した。姉のテスはフィリピン人にしてはえらく真面目で、ちゃんとファーストフードの店で働いていた。時給40円。右側は、今は、駅の入り口になっているが、当時は1階がレストラン「マブハイ」だった。社長5人に囲まれビールを飲んだこともある。なんだか様子がおかしいと思ったら全員オカマだった。2階は、ディスコ「スターゲイザー」であった。結構格式あるディスコで草履はダメだったが、外国人なので、何故かOK。しかし、こんなところ外国人なんか来ない。男女ワーワー踊ってビール飲んで、一見普通なのだが、何故だか、ショータームがあり、ヌードダンサーがでてきたりなんかするのだが、男も女も、そんなの見ていなくて、はやくショータイムが終わって自分たちが踊る時間を待つことでウズウズしているのが面白い。下町左の建物の1階の階段の下に扉を設けた2畳の部屋で新婚生活を始めたアリエル夫妻の部屋にも泊めてもらった。2畳に3人はなかなかきつい。下町 アリエルは、結婚してもやっぱり無職のままで、新妻がレストランマブハイで働いていた。寝ていて、私は、何かにうなされ、起きると、新妻が泣きながら、「マハルキタ、マハルキタ(ILOVEYOU)」を繰り返しながら、アリエルの唇をかんでいた。 きっと、その前に「ねえ、私たち、これからどうするの!」といって軽い喧嘩をしていたのだろう。でも結局、愛してるわ、で終了なのだ。
2003.09.26
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ロッテルダムで途中下車したことがある。何故かというと、たわいないことだけど、神戸と姉妹都市であるということだけだった。小学生の頃、確か神戸は横浜に次いで2番目に輸出入量の多い港だったと思う。ロッテルダムも大きな港を持っており何か港にたたずんでみたい気分になったのだ。駅前はヨーロッパに似合わず近代的な建物であまり面白くなく、とにかく港を目指した。港でこんな言葉を思い出した。オランダの6割か八割は干拓地で埋めたてられた土地だ。ポルダーっていったなあ確か。「世界は神様が創った。でもオランダはオランダ人が造った」今でもオランダはその気になれば国土を何割か増やすことができる。そうなんだなーといいながら港でタバコを吸っていた。ロッテルダムを6時間訳もなく無言で歩き続けて、疲れた。
2003.09.25
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海外で酒の自動販売機、これは見たことないよなあ。日本人は年間90万人あまりが死ぬ。飛行機墜落で死ぬのは22人(H10)風呂場で足を滑らせて死ぬのが3000人浴槽内での居眠り等の溺死が3200人海水浴での溺死1500人プールでの溺死26人海外での殺人被害は18人国内犯罪被害者は1350人階段から落ちて死んだ人690人蛇口からの熱湯に接触してショック死120人農薬等有害物質の不慮の中毒560人自然の高温や爆風等980人交通事故13000人自衛隊の殉死2人警察官4人癌275000人心疾患140000人脳血管疾患138000人肺炎78000人自殺23000人腎不全17000人水不足0人食糧不足78人(35歳以下は0人)自宅での臨終148000人マレーシア・スペインの自動販売機自動販売機 多すぎる。道路にはみでている。私は、かつて、タイからマレーシアにバスで入国した。しかし、それはシンガポールまでのトランジットでしかなく、おおよそ1日というもの、マレーシアドル(リンギット)がないまま、何も食えない状態であった。そのとき偶然にもジュースの自動販売機を休憩場所で発見。しかしやはりマレーシアドルがなかったから買えなかった。腹減った。煙草の自動販売機というのはあまり見たことがないが、スペインでは結構見受けられた。私は何度かじっくり選んで、そして値段も分かるので、買ってみたが、どうも自動販売機ごとに値段があ違う。あとで聞けば、置いている店主が結構高めに設定して置いているらしく、店で買った方が安いことが判明、ちょとだけ泣いた。
2003.09.24
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この前、海を見ながら食事がしたくなって、ちょっと車を転がして明石大橋の近くの市営のホテルで食事をした(実家の上の道から大橋が見える)あの技術というのは、コンマ何mmを扱う仕事らしいですね。2、3キロ続く橋、その柱などの精度というのは誤差コンマ何mmの世界で、その筋の職人しかなかなかできないらしい。だから明石大橋を作った会社や職人はそのまま瀬戸大橋やなんやの日本中の大橋を手がけているらしい。はっきりいって無駄なあ橋があ多く、採算の取れない橋だらけで不要なのだが、技術の伝承という意味ではこういった橋を作り続けないと、技が途絶えてしまうらしい。難しいものだね~モンタージュ写真台風にはハリケーン、タイフーン、サイクロンと呼び名があって、どこからくるか(発生源)に寄って呼び名が違う。外の風が強いなあ。モンタージュ写真のデータ元は、人権上の問題もあって、全て警察内部の人間。だから組み合わせ方次第ではどこかのおまわりさんにもなるという。しかし昔のぎこちないモンタージュ手配写真からは技術が進み、今ではコンピュータ処理が施され、なるべく違和感の無いように仕上げられている。そのぶん、データ元の人物を作り出すのは至難の業らしいが…。ところが最近は似顔絵が多く使われる。モンタージュだとリアル過ぎるぶん、少しでも違うと「別人」と思われてしまう。3億円事件はモンタージュを使ったが為に迷宮入りになったという話まである。一方で似顔絵はパッと見た時の特徴を少し強調することが出来るし、見比べる側も少し想像を膨らませ、許容範囲が広くなる。そんなわけで、似顔絵の方が検挙率が高いと言われる。そう言えば、三億円事件はモンタージュでなく何故か実在の死亡した人の写真が使われた。何故だかは分からない。
2003.09.23
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アフガニスタンからカイバル峠を超えた国境の街ぺシャワール。インド首都デリーで世界地図を広げていたら、やたら響きのいい街があった。それも国境。私はそこがなかなかの紛争地帯であることを知らず、早速、パキスタン北部のこの街に行くことにした。ぺシャワールは、涼しい街だった。純正ヘロインが世界で一番安い街ということも知った。市場で女性を一度しか見なかった。車が先程歩いて来た道、100メートル後ろで爆発した。静かだった。冷静に壊れた車を見ていた。いい街だったなあ。パキスタンはぺシャワールの駅前。駅前には大きな道が走っており、ひっきりなしに車が行きかっている。ペシャワールの駅は、ときどきこういう都市があるのだが、駅は街の一番端っこにあり、寂れている。おそらくバス等列車以外の移動手段がメインなのだろう。当然、車最優先の社会に、5分という尊い時間をかけて、道を渡る。中央分離帯を過ぎ、やっと駅側に行くと、笛をピィいいィと鳴らす音がし、振り返ると、警官が、先ほど渡ってきた反対側の側道にいて手招きしていた。「横断歩道渡らなかったからか?」と私は思い、ついてないなーと思いながら車を擦り抜け、5分で警官の元に。「ジャパニ?オー、トキョーイズビグシティ」よくある光景。もうええわ。殺意とは、不条理から生まれてくる。そんなことを思い出しながら、テレビのチャンネルを回してみる。むかついてきたといえば、その後、ペシャワールから夜行列車に乗ったのであるが、夜中寝ている時に、見回りの警官に呼び出された。「ちょっとこい」といわれ連結部分に呼び出される。身体検査は急所までも。麻薬検査と称して何かと調べやがるのだ。ちなみにペシャワールは当時ヘロインが世界一安い場所として有名であった。そしてついにワタシの財布を発見、丁寧に札束を数え、半分よこせと。そこからワタシはおだてたり怒ったり懇願したり、そして寝ている誰かが起きてくることを祈りながら、ついに1銭もとられずに解放、無血帰還(木製寝台ベッドに)。ああよかったと思い、喉を潤すためにガムをかもうとして、乗り込むときに買ったガムを見たら韓国製だった。
2003.09.22
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狂牛病で牛が売れなくなった頃、スーパーは、密かにニヤニヤしていたらしい。牛の利益率は豚や鶏に比べて低いかららしい。あけび今日、あけびを食った。硬い皮をめくるとそこから巨大な透明の芋虫現るという感じ。それがすごく甘く、透明の中に黒い粒がありそれがまさしく種であり、苦いのがまた、甘さとのハーモニーがヘゲモニーであった。なんのこっちゃ分からんが、漫画課長島耕作のラストで前会長がなくなる前に、「あけびが食いたい」といって死んでいったのを思い出した。昨日、あと二日で車で10分の県立美術館で催している「クリムト展」が終わるので急いで1時間だけ足を運んだ。黄金と退廃、貴族趣味・・・何ともいえず昔から好きであったが実物は初めてであった。しかし何故か、絵を見ながら違うことを考えていた。「はじめて貴族以外の市井の絵を描いたのはレンブラント、オランダ人。「夜警」は一般の庶民が金を出し合って注文した作品らしい。自由やのうオランダ。アムステルダム国立博物館を入るといきなり「夜警」であった・・・・オランダといえば、今オランダの安楽死事情の本を読んでいて、生死感を考えさせられているところです(うそです)
2003.09.21
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昔、韓国の空港で泊まるつもりで、OBビールと焼肉を知り合った軍人におごってもらってたらふく食ったのであるが、その後の宿泊代が当然無くって、いやもともとなくって、空港に夜中の最終バスで到着して入ろうとしたら、駄目と言われた。準戦時国家では空港に入れないのだ。警備員に金(ウォン)はないといっても通じず、追い返された。しかし私には武器があった。テントという。しかし、私は鳥目なのか周りが良く見えず、テントを張るスペースがどこにもなくて道端で困っていると雨が降ってきて余計に困って、ありゃーというと見事に空間が現れ、そこにテントを張った。大雨が降り、蚊に悩まされた。それに臭いもなんか強烈。朝方、私はおじさんにテントをこずかれ、起きた。そこは壮大なる金浦空港のゴミ焼却場であった。夏だというのに寒い空に感じた。いそいそとテントをたたみ、歩いて空港に向かい、バンコクへと旅だったということを思い出した。その後、バンコクからソウルへ館 バンコク、ドンムアン空港の床でで目覚めた小生は、所持金が1,000円である現実に対して、韓国5日間をどう対処していくか、それが目下の課題であった。 正確にいうと、日本円1,000円以外にも、タイバーツで数百円分あったことは、心の支えでさえあった。私の乗る大韓航空で、頑張って明後日の分程度まで飲みまくり、フラフラしながら、ローカルバスでソウル市内に向かい、そして、大学の前で下車したのであった。 当時は、何を隠そう、小生、西ノ宮市民なら誰でも知っている大学に通う大学生であったので、大学生的特権を使うことが得策と考えられた。何を隠そう、その大学は実名で出すと、東国大学という大学であり、すかさず、私は学生課に向かって言ったのである。勿論、髭面である私の風貌に、あまり髭を伸ばす習慣のない韓国人は驚き、何故か私の事をアメリカ人と間違えたようなのであるが、まあそれはよい。小生は、日本の学生を代表して、御大学を表敬訪問しました!と高らかに宣言したのである。きっと、日本の大学生は全員ヒッピーなのだと思われたかもしれないが、学生運動が吹き荒れる政治の季節である大学当局のシンパシーを得たことは間違いない。というか、もしかしたら乞食或いは物乞いと思われたのかも知れない。 しかしながら、韓国の大学は大変親切かつ親切かつ親切なのであった。1時間後には、大学の正門を出て一番近い中国料理店にて、学生数人と酒盛りをしていた冷静沈着な私であった。そこには、教授まで飛び入り参加し、私は本当に親善大使のような気がしてきた。しかし、親善で訪れたことに誤りはない。ただ飯に預かろう、誰かに泊めて貰おうなんていう浅ましく、卑しい考えは、小生の心の奥底にしかなかっただけなのであった。しかし、心の奥底でなく、体の胃袋は、最近1日1食という健全たる食生活を数日送っていたために、小さく小さくなっており、豪華絢爛満漢全席酒池肉林状態の中華料理をほんのちょっと食べただけで、小生の胃はパンパンに腫れ上がり入らなくなったのである。 韓国人は、私にお金を一銭も払わせようとしない。そんな訳で、5日間特にお金を使うことはなかった。そして毎晩、朝方まで飲んで飲まれて胃腸がおかしくなった。昼間は、夜の飲み会に備えて、二日酔いを少しでも抑えるために夕方まで泊めさせてもらっている家で眠るのみであった。まるで、狼が傷を癒すように、じっと時が過ぎ、体が癒えていくのを持っていたのみであった。館そして、ソウルから、我が祖国ニッポン(全4回シリーズ終了)館 自分は、昨日の日記で、調子にのってソウルで昼間は一日中寝ていたと嘯いてしまいましたが、1度は、散歩に連れて行ってもらいました。泊めて貰っていた学生の後輩であり、彼女を連れてきており、学校では日本語も勉強しており、日本語を少しばかり話す人でした。名前は伏せておきますが、ドンボーという名前でした。泊めて貰っていた親父に日本語で毎日、「オマエタベル」とか戦中の名残で怖い言葉で更にニコニコしながら片言の日本語を話してくれていたために、ドンボーの日本語は敬語が散りばめられとても優しく感じました。ソウルタワーに行きました。 ドンボーの彼女は日本語と英語が出来なく、自分は英語と韓国語ができないので、ドンボーの彼女はニコニコしているだけでした。そこで、素早くドンボーはニコニコしながら日本語で言いました。「私の彼女は、あまり、うつくしくありません」自分は少し顔が引きつり、ドンボーの彼女の顔を見ました。ドンボーの彼女は微笑み返しで、更にニコニコっと笑っていました。 すこし、顔が凍りついた自分に気がついたドンボーは、更に得意の日本語でいいました。「そのベンチで、アンパン食べましょう」ドンボーは、誠にオカネのない自分がいうのも何ですが、彼自身も学生の分際でお金の持ち合わせが少なく、自分に食糧を供給するのに苦労していたようです。是非、日本に来られた時には、酒池肉森全漢千席の世界にご招待したいと心から誓ったのでした。 ソウルタワーからの景色のことは、今ではすっかり忘れてしまいましたが、そこで声をかけてきた女性が、今まで会った日本語を話す外国人で最も日本語が流暢な人でした。顔もアジア人なので、日本に紛れ込んでも、絶対にガイコクジンとは分かりません。分かったとしても絶対在日韓国人と思われるぐらいの熟練度でした。 結局、自分は、その帰りに、レコード屋でストーンズの「エモーショナルレスキュー」を買うほどの余裕ブリを発揮しました。700円でした。残りは、300円です。 そんなこんなで、自分は、空港までわざわざ送ってもらい、凱旋帰国を果たしたのでありました。大阪空港では、自分は、金がないのどうすべきか考えていたのですが、外に出る一番近い税関検査の所に並びました。他人が自動ドアから出て行くのを見ると、自動ドアの向こうに2人の友達が自分なんかの溜めに迎えに来てくれていました。そして、他の列の人々はどんどん税関を抜けていくのに対し、自分は犯罪者被疑者非国民の如く、唾棄されるが如く、目の敵にされるが如く、税関員にあれこれ拷問質問を受け、荷物を事細かにチェックしていただくのでした。他の人々がどんどん出て行き、そのたびに自動ドアが開き、2人は、最初は手を振ってくれていたのですが、そのうち心配そうな顔になり、仕舞いには大笑いしていました。税関員の人も気がついたようです。「お連れ様ですか?」そんな自分もようやく、税関無事抜け、2人に再会し、開口一番、帰りのバス代がないことを赤裸々に告白し、韓国ウォンを両替して、その201円を2人に前金として渡すのでありました。館
2003.09.20
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投資についてどんな質問をすれば良いのでしょうか?分からない事なら何でも納得するまで。何を質問すれば良いのかわからないときには以下の質問をぶつけると良いでしょうとのこと。私がプロでも答えにくいけどね。●この商品は私の投資目的にふさわしい商品ですか。 どういう点が私にふさわしいのでしょうか。●購入時、投資期間中、解約時と全部合わせて、どれだけの コストがかかりますか。●手取りの受取りが、支払った金額と同じ金額になるまでに は、この商品はどの程度の運用成績が必要ですか。●この商品の流動性は高いですか。必要な時に換金できます か。換金するときにはどんなコスト、ペナルティがかかります か。●どのようなリターンが得られますか。 金利のが変動すると、どうなりますか? 景気が後退するとどうなりますか? 競争が激化するとどうなりますか? 為替が変動するとどうなりますか?●どんなリスクがあるのか、どれくらいのリスクがあるのか 具体的に教えてください。●本当の運用の責任者は誰ですか? 運用の責任者は私に損をさせたらペナルティが与えられる 仕組みですか?●あなたは、私がこれを買うとどれだけの手数料が貰えます か。あなたには、この商品を売るノルマがどれだけありますか。 あなたが薦めるこの商品は、他の商品と比べて手数料は多 いですか。あなたの会社はいくら儲かりますか。●この商品をあなたは、どれだけ持っていますか。 あなたの資産の中でどのくらいの割合ですか。●投資についてどのような哲学をもっていますか。●典型的な顧客のタイプを教えて下さい。長期にわたって取 引している何人かの顧客の名前と電話番号を教えていただけますか。●会社は国民生活センター等の消費者機関に何件の苦情がが ありましたか(米国証券委員会のホームページより引用)質問をした時には、必ず答えと、それに対し自分がどうしたかを書いておきましょう。記録をしていることを販売担当者に知ってもらいましょう。あなたがまじめな投資家であることを知り、いいかげんなことは言わなくなるでしょう。駄目元で聞いてみるべきことは、●もっと手数料等割引きできないのですか。
2003.09.19
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歯ブラシは愛の尺度であると私は思う。パートナーの歯ブラシで平気で歯が磨けるであろうか?ちなみに男のくせに私の歯ブラシを平気で取り上げて磨いた奴がかつていた。そういうのは愛とはいわず単に無頓着というのであろう。七人の侍1983年私が高校に入った年。国語の先生(実名:春名先生)が授業の前に皆に言った。「昨晩、9時から七人の侍やってたの見た人は?」「あっ、誰も見てないの?みんな何やってるの馬鹿だね、こんな映画もうテレビで10年はしないよ」「みんな名作も見ないで勉強でもしてるの?勿体ない」「ところで遠藤君(実名)は映画見るの?」遠藤君「はい見ます」「最近は何が面白かった?」「はいエクスタミネーターが面白かったです」(ターミネ-ターではない。あれは確か86年か7年くらい封切りだったかな。)「なんですかその映画は?」(私の心の中)つまらない映画だったなあ、何で遠藤(実名)はそんなしょうむない映画出すんだろうか。春名先生(実名)のとおりTVではあれから登場してない(または私がチェックしてない)しかしビデオではでたが。今日10年ぶりに「七人の侍」をみた。懐かしいな最後ノセリフ「勝ったのは百姓だ。我々ではない」
2003.09.17
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駅前にカラオケボックスがあり受付がガラスバリになっていうので見えるんだが、先程、通りがかると夜中というのに女性が受付をしていた。最近よく見かける。大学の頃、お菓子工場で働いたことがある。女性もいっぱい働いているのだが、制服が同じで、髪の毛も衛生上帽子の中に隠しているので、後ろからみると老若が全く分からないのが驚きだった。フランスに行くと、これがまた道端歩く女性の後姿が年齢不肖。老若関係なく背筋が伸びているし、服装が若々しい。後者は前から見れば一目で老若が分かったが、前者は前から見ても老若が分からない場合があった。おーこわ。
2003.09.16
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師匠が死ぬことになった。変な表現かもしれないが、最期に近いことを予感できる人もいる。大きな木の下でそれはころがっていた。そこにあった。土まみれで自然に還って行く無駄のない肉体があった。それは大木が地表に出た根っこの一つの様であった。彼は死ぬ3時間前に簡素な言葉で遺言を残したという。「私は死ぬ。葬儀は簡素に。借金なんかはするな。でも葬儀方法は妻のやりたいことを最優先させてやってくれ」そういって彼は戻っていったそうである。なんてダンディな奴なんだ。「ダンディズムとはデカダンスにおける最後の英雄的光景だ」とボードレールは語った。意味を間違えても、彼の最後に近い一枚の写真を見て、生きざま、そしてそれ以上に、死にざまを感じさせてくれる者は、明白にいうとダンディだと思う。 亡骸の前に、連れ添って生きてきた妻は、音楽を奏でながら踊るように見えたという。ヒンドゥには墓がないと思っていたが、埋められた所に石を置く。日本でいう墓の概念とは違うのだろうか。「この抜け殻である肉体は土でさらし、雨に打たせよ」という台詞が似合いそうな気がした。間違えていればすまん。 格好よく死にたいな。そのためには格好よく生きたいよ。気のいいチンピラ、アカイのこと 命を磨り減らして仕事をしている姿を目のあたりにする乗り物。リキシャ。太陽に照りつかれても、雨に打たれても、この尊大なる乗り物は、走るほど速くなく、歩くほど遅くなく、ヨタヨタという感じで進む。 浅黒く細い足は汗で光り、何度となく座席を降り、ガムチャ(万能布)でサドルを拭き、そのまま顔を拭って、汗をふき取る。ルンギー(腰巻)を締め直す。 「チョロー(どけ)」といいながら道中、人をかき分ける。しかし、大抵は歩行者に無視され、道を空けてくれようとはしない。 目的地に着くと、また値段交渉のやり直しもしばし。乗客との喧嘩が始まる。 かつて、リキシャマンと交渉して、1日リキシャマンをしてみた。勿論、客を取るのではなく、そのリキシャマンに座ってもらって、私が適当に漕ぐのだが、ペダルは重く、少しでも上りの傾斜になると、立ち漕ぎしないと進むことが出来ない。汗が涙の如く噴き出て、髪の毛が火傷する程に熱くなる。体全体を重しにして、私はいつもここでは客、あなたはいつも漕ぎ手という構図に少しやるせなさを感じながら、また明日からは、私は客になることができるのだな、金持ちの感傷に過ぎないなと思う。 インド、ベンガル地方の郊外の村。夜に、鉄格子の入った窓を開けて寝ていると、寝ている間に、鉄格子の隙間から棒のようなもので引っ掛けて、物を盗んでいく泥棒がいるから気をつけろ、と元泥棒に聞かされていたので、そのことが気になっていたこと、蚊取り線香が切れて、蚊の猛攻に曝されていた頃、けたたましい程に鳥が鳴き出した朝方、私の名を小声で呼んでいるような気がした。 ボルプール最後の朝、もう一度、ベンガル語で私の名を呼んでくれていたのは、元泥棒、現リキシャマンのアカイであった。 情けないことであるが、下痢にやられてしまったため、普段の身の回りのことは、頼んでもないのに、彼が何でもしてくれて、どこかに案内してくれても手際よすぎてよく憶えていないが、マッサージをしてくれたことは憶えている。彼らは、恒常的に薬を買ったり医者に診せる資金もないし、第一、周りに病気の人が多すぎるのだ。栄養からくるものだと思うが。そのため病人の扱いには手馴れたものであり、距離の置き方が絶妙に感じた。彼らのできることは、祈ることだけだ。 彼がマッサージしてくれることにより、プラシーボ効果か、どこか安心できた。しかし、アカイの厚い手と私の熱いおでこが摩擦して、垢がでると恥ずかしいなと思いながら。
2003.09.15
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チェコの作家クンデラの作品「存在の絶えられない軽さ」は映画も良かったが、私は、本をチェコからアムステルダムまでの飛行機の中に忘れてきたことを告白しておく。(意味のない告白である)最近、ココ半年で煙草を止めてから10キロ近く太った。反対に存在が軽くなったようで、不思議なことに、自動ドアに反応してくれないシーンが数回あった。偶然かも知れないが、少しショックではある。人間は行動を起こす際にとても大切な事柄も、感情を中心に決めてしまう事が多い。いや、殆どと言っていいくらい感情的に決めている。やるべきだと分かっていても「やる気」がおきてこないと行動を起こさない、なんて事はよくある事。というよりやる気がないと重要なこともできない。人間はより楽しくて楽な方に、より苦痛の少ない方に流されるように生きている。行きたくもない会社に私は毎朝起きてキチンと行っている。しかしそれは論理的に行っているわけではない。もし会社に行かなかった時の苦痛と、会社へ行った時の苦痛を比べている。会社に行かなかった時の苦痛(収入減・仲間の後ろ指など)の方が大きいからしかたなく出社する。苦痛と苦痛を比べているなんとも不幸な人生だ。幸せと幸せと比べている幸せな人生を送ってやるぞ!(存在の軽さの話しようと思ってたのたのにな~)有名人今日、大阪難波駅を出ると、人だかり、何かと思うと、選挙カーの上に小泉総理。吠える。(そういえばAギンズバーグ詩集クジラの邦題は誰が訳したのか「吠える」だったなあ。くじらだっちゅうの)不思議なのが、若い女の子も携帯カメラで頑張ってあの政治家をバシバシ撮っていたこと。学生のとき、三ノ宮で飲んでいたら野坂昭如と飲み屋ビルのエレベーターで一緒になった。声をかけると「君たちどこの学生?」と聞かれ、いうと「ふーん馬鹿大だねえ」とべろんべろんに酔った野坂はノタマッタ。そりゃ日本の最高学府は早稲田文学部フランス語学科除籍かんも知れんけどなあと思った矢先、「おいお前ら飲みにいくぞ~」と野坂先生は喜ばしいことをいった。しかし付き人に引っ張られてのん兵衛はどこかに連れ去られたのであった。社会人になって1年目か2年目にネルソンマンデラが日本の大阪に講演会に来た。確か扇町プールであった。その中でアパルトヘイト問題や長い監獄生活の話をするのかとおもいきや、いきなり「A国は南アフリカに○○ドル、F国は○○ドル、D国はいくらの援助を南アにしてくれた。しかしこの金持ちの国である日本はたった○○ドルぽっちしか援助がない」と力説しておった。
2003.09.14
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エストニアのタリンから客船でスエーデンにストックホルムに向かう出航。その時のタリンの風景が、何故か国道2号線から見る広島の呉の夜景に似ていると思った。いろんな記憶の引き出しが欲しいと思った。
2003.09.13
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何を実は隠そう、昨夜はいろいろあって40分の睡眠であり、正直いって、本日の昼間は何度か意識を一瞬失い、手に持っていた書類を落した。そんな訳で今日はもう早いが寝る準備をしている。不眠不休で楽しんだってのは、こんなこともあった。あれはギリシアのアテネからの飛行機。一睡も出来ず、飛行機はパキスタンのカラチ。ここで乗り換え12時間待ち、でヨーロッパ帰りの日本人数人が、何時の間にか私の後に。唯一アジアを知る私は皆を先導し、普通車のタクシーに9人乗り!そして12時間後、飛行機はタイ、バンコクへ。機中は話し込んで寝ることもなかった。バンコクに到着したのは夜中で、朝まで空港のベンチに座っている。寝るつもりだったが、あきらかにスリのような奴が何度も往復するので、バッグを抱えたまま朝を迎える。朝、市内に行き、フィリピン大使館、パスポート増刷のために日本大使館と巡り、更にパキスタンエアラインに行き、チケットを取る。おまけに南国ビーチ行きの列車チケットを取った。その列車の発車30分前、不意に私は力尽きた。概ね60時間不眠であった。眠ったのではなく気を失ったのであった。しかし奇跡的に目が覚め、列車に乗ったのであった。列車で焼き飯を食べた後、本格的に私は気を失った。
2003.09.12
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大学1年のときの冬、私は高校同級生と1泊旅行に城崎のほうへ出かけた。その同級生の名前を瀬沼としよう(あれっ、実名だしてもた)まあ何故か我々は香住駅というところで降り、列車の待ち時間15分というのに、飯を食いに出かけた。雪はシンシンと降り始め、とても暗い印象で、2,3百メートルいったところに一軒だけ丼の店が開いていた。ここしかないからここに入ろうということで入ったのであるが、この親子丼が18年間生きてきた中で一番うまい親子丼であり、卵のとじ方が岸恵子調にいうと絶妙なバランスのハーモニーであった。おかげで、列車に乗り遅れそうになり、走った走った。我々は陸上部長距離、それも瀬沼は大学に入っても現役のままであった、が、無情にも列車は出発し、次の列車はほんの2時間後であった。暗い駅であった。ほんの数駅先のユースホステルに泊まるつもりだったので、歩いていくことにした、が、道は峠になっており、我々は決定をしいることもなく、吹雪の中暢気にそして不安に滑らないように歩いていた。一台、車が停まってくれ、我々は、クラッシクの流れるおじさんの車でユースホステルまで乗っけてもらった。私達は感謝した。他に客はほとんど泊まっておらず、我々は素泊まりであった。風呂に行くと、列車ヲ摂るのが趣味であるカメラ兄ちゃんがいて、やたら列車とカメラの話をしていた。私はあと2ヶ月以内にインドに初めて行く予定だったので興奮して、インドの話をし、話がかみ合わなかった。そこで、瀬沼に話をふろうとしたら、いつの間にか風呂から出てしまっていた。そんなことを今日昼間に親子丼を食べながら思った。私は木の葉丼が好きだ。どちらかというと肉が入っていないほうが良い。
2003.09.11
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また最高級リゾートアマンホテルに泊まろうかと思っている。今日また懲りずにクレアトラベラー「アマンリゾート進化論」(「アマンリゾートのすべて」に続く第2弾)を買ってしまった。アンコールワットに最近できてんねえ。私がかつてステイしたバリ島ヌサドゥアのアマンヌサの思い出を少し。全部屋34スイーツ(全部スイート)で、私の泊まったコテジはプールスイート(個人プール付)1泊8万円だった。そこで1流とは何かを瞬時に学んだ。豪華さではなくサービスホスピタビリティなんやなあと。名前を覚えてくれる チェックインは部屋の中、従業員が他の従業員を呼ぶときフレンドといっていた。ウエルカムドリンクのシャンペンはカウチで開ける。イタリアンテイストのシックなコテジ、渋いのはテレビがない。壁はガラス張りで開放感があるが、うまく外からは見えにくく設計されている。そしてプライベートプール底からはライトアップ。朝起きて、外に出ると、草刈をしていた草刈専科の従業員おっさんがこちらを振り向くや笑顔で「グッドモーニング、ミスタートイモイ」といってくれた。何で俺の名前知ってるねんと。座敷わらしがいるようで、5分外にでると掃除されている。石鹸(イギリス王室御用達)を出ることに自分のかばんにしまうのだが、新たにまた石鹸がおかれている。取り合いと置き合いの競争だ。プール指し度やレストランに行っても部屋番号聞かない。余計なことは話してこないが皆私のなまえと顔を一致させているようだ。(当然、チェックアウトで一括清算)34部屋なのにライブラリーにレストランが2つ。どこでも食事セットをしてくれ食事できる。従業員は5人かがりでひとつのコテジを担当している感じ。すごい。泊まった後は、「いい子になろう」ときっと思う。
2003.09.10
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いくつかの世界をしばらく歩かれた方なら分かると思うが、日本が世界のほぼ常識から外れている文化がドラッグ文化かと思う。ドラッグは宗教から歴史から、結構根の奥深いものがある。割とどこに行っても感じるし、これは幻想的幻覚的というものは聖書にも仏教にもみられる。当然ヒンズーなんかはイってしまっている。なんでもかんでも大陸から取り入れてきた日本も、ドラッグと宦官制度だけは輸入しなかった。ここに面白いことを聞いた。今や脳内麻薬、ドーパミン、エンドルフィンを生み出すことは常識となっている。元来、ドラッグは悪いものとされていたが、実は麻薬や大麻はこの脳内麻薬の真似事に過ぎないということなのかも知れないと。つまり、日本人はハイになる名人だったのかも知れない。だからドラッグが大陸からいろんな文化やモノと一緒に伝わったとき、こんなものつまらないと思ったのかも知れない。そう考えると、現在の多少のドラッグ流行は脳内麻薬を出す能力の低下、つまりいわゆる西洋化なのかも知れない。それにしても日本人はアッパー系だなあ。
2003.09.09
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昔、戦後、確かタバコのクズを集めて、タバコ一本を作って売っていた戦争孤児がいっぱいいましたよね。7本のタバコのしけもくから1本のタバコができるとしたら、49本のタバコを吸ったら、何本のタバコができるでしょう。数学的答えは、答えは8本ですな。49本から7本できて、その7本から1本できるからね。しかし、現実は、そんなに苦労して作ったタバコなら100%吸ってしまいそう。ああ、悲しき熱帯。パリのサンジェルマンデプレにあるお店。そういえば、数年前の冬に、サンジェルマンにあるカフェフローラに行ったら、トなりにパコラバンヌがシブイ顔をしていました。化粧品か何かの構想かと思って、ちらりと見ると、クロスワードパズルをしていた。なんかいい感じぃぃでした。
2003.09.08
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本日、カレーを食べました。会社員になってから一度インドに行った。で、会社員になったから、でもないけど、家庭もあったど、やぱり、学生のときみたいに1日の予算が500円という訳ではなかった。 そんな訳で、私は自分でも、そして紹介や招待でも、なかなかいいものを食べた。大変うまかった。 私は、途中、カルカッタに戻り、カルカッタのダムダム空港にインドを見てみたいという実の妹を迎えに行った。そのとき、ふと気が付いた。まわりには何も商店や店がないのに、(空港内にはレストランの類はあるけど)タクシーの運転手なんかが炎天下の中で客待ちをしている。「なあなあ、俺、腹減ってん。きみら、昼飯どこで食ってるの?」と私は思わず声をかけた。我が意を得たりと、タクシードライバーが、ついて来いとばかり、炎天下を歩き出した。空港の端の溝沿いに、その店はあった。というより、そこには日よけもない(時間によっては建物の影にはなる)なべを3つだけと皿コップ水を置いた店であった。何人かの運転手らしき人が飯を食っていて、外人の到来に目を丸くしているが、すぐに親しい目をしてくれた。私も、溝に足を突っ込み、「なべは何?」と興味深そうに指差すと給士の少年は、なべを3つ私の持ってきて、魚、肉(チキン)、米といった。私は魚を頼み、そして、ドライバー達の注目の中で食った。からくてまずかった。が、生きていた。生きている実感があった。俺はこれを求めていたのだ、なんて勘違いもした。今日、無茶辛いインドカレーを食べながら、そのことを思い出した。勿論、腹を下すのに1日かからなかった・・・
2003.09.07
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16年前は立ち食いで餃子や西瓜を食べた。今回は上海蟹を食べた。16年前はバンドはライトアップなんかされてなかったし、川の土手は土だった。今回は整備されており対岸も高層ビル群やテレビ塔がすごい。16年前はタクシーは1台しか見かけなかったが、今回の夜の移動は全てタクシーであった。16年前は浦江ホテルに泊まるだけに1日を要し、野戦病院のような部屋に案内された。今回は見に行くとナンとまだドミトリーが残っていたがレイアウトは完全に変わっておりどこだか分からなかった。16年前は上海大廈というホテルができたばかりでなんてでかいんだと思っていたが今回見ると15階建てでちっさくなっていた。今回は世界第3位の高さを誇るハイアットホテル最上階88階にエレベーター3回乗り継いで行った。450メートルからのバーの眺めは、霞んでおり、50階くらいからの景色のほうがいいかも。今回は小室徹也プロデユースという上海一番人気のディスコに行ったが、なかなか普通だった。16年前は知り合ったおかまに連れていってもらったあ最新のデートスポットの喫茶にはプレートにみかんとコーヒーとコーラが乗っていた。何か意味分からなかった。16年前にも今回も和平飯店オールドジャズを覗いた。ここぐらいか変わらぬ風景はって感じであった。とにかく上海はすごいことになている。要はいわゆる欧米日本が発展してきた途中段階を抜かして、最新鋭先取りという感じ。いわばラジオから民放飛ばして衛星、手作業からローテク飛ばしていきなり最新鋭のハイテク技術、地震がないからごっついインテリジェントノッポビルを農地から建てる感じ。共産圏でもあるから、いきなり1ヶ月で100万人を立ち退きさせて、そこに緑地、そしてビル群。世界最大の人口、いけどいけど建設ラッシュ、どこまでいっても集合住宅。16年前の上海のこと私は船で上海に上陸したが通関に90分。関税の申請にニコンのカメラに何故か200円で買ったタイの真鍮の腕輪。50時間の列車の料金は980円。上海博物館1元。ラーメン0.7元(20円)。ジーパン買ったら120円。どしゃぶりでも傘をささずに歩く人1割以上。そうだ。そんなことを思い出してたら一人の高校生の事を思い出した。彼は失恋で、上海まで何故かやけくそできた高校生。しかし海外が怖くて仕方なく、上海到着当日私をみつけてまとわりついてくる。私も当時は19歳、弟のように感じた。私は「チベットにいく」とだけ伝言を残して別れた。そして2週間後ぐらいだったか、彼はチベットの首都ラサに現われた。それも数人引き連れて。「あなたがいいっていうから来ましたよ」って。そして数年後、日本で彼は私の家に遊びにきた。「あなたがフィリピンも面白いっていってたこと分かりました。はまってます」っていっていたあれから会っていないが、今、彼の行方を探してみることにした。名古屋だったはず・・・友人の作った歌(踊りつき)1987年上海、今とは全然違う。共産圏の人々は全身全霊で働きたくない意思を明確にし、面倒と販売を嫌い、給料の平等性を能力関係なしに尊重する。超事なかれ主義。神戸港から鑑真号に乗って2日後上海に到着。没有(メイヨー)鑑真降りたら速攻で、メイヨープージャンホテルに走ったさ、メイヨーおっさんひとつ部屋をくれ、メイヨー一番ドツボの安い部屋、メイヨーひまわり種噛む服務員、メイヨー口をとんがらせ言ったのさ、メイヨー部屋はすべて満室じゃ、メイヨー仕事をするのはうっとうしい、メイヨーこれがこれまた不思議なメイヨー物語闇両替した人民元を握り締め、メイヨー列車のチケット買いに行ったのさ、メイヨーおっさんウルムチまでひとつ売ってくれ、メイヨー一番ドツボの硬座でいい、メイヨーえらく不細工な服務員、メイヨー鼻くそほじりながら言ったのさ、メイヨーアナタ外人だから売れないよ、メイヨーCITS行きなさいメイヨーとのかくここではメイヨーメイヨーメイヨー音頭若かりし5厘刈した私。しかし、1本だけ髪の毛を伸ばしており、これは5年間延ばし続けた。辮髪・・・上海日帰り旅行KIX-PVG-KIX 6時45分、無事起床するのであった。そして、税関の印象を良くする為、カウンターの方の心証を良くして間違ってビジネスクラスにしてもらえないだろうかという淡い期待を込めつつ、ラルフローレンのチノパンに、ミヤケイッセイのジャケットでばっちり決め(ジャケットはサイズが大きいのを間違って買ったのでこの10年で5回ぐらいしか羽織っていない)、7時7分の電車に乗り込むのであった。そして、大阪発7時40分のリムジンバスは、渋滞もなく、私が熟睡している間に、50分の歳月をかけて、関西国際空港に着いてしまったのであった。国内線は15分前、国際線は40分前の少し前に到着することをモットーにしているのだが、国際線は最近込んでいるので、できるだけ早く行くことをモットーにしつつある。さすがに、チェックインに30分の歳月を並び、チケットを貰った時には、既に9時30分という時刻を指していた。 再び、エックス線検査が、今までない程の行列では合ったが、胸に、便名を書かれたシールを貼られてしまった威力が発揮されることもなく、順調に、機内に入ったのは、出発10分前であったことは、ここだけの話であり、本日は、旅行霊的ステージをワンランクアップさせるべく、気合が入っているように見えながらも、既に、お絞りをもらうまでもなく、眠ってしまったのである。飛んでいる時間は、ほんの2時間35分であり、その間に、2本目の赤ワインに突入していたのであった。 おまけに、ミールのトレイを返す時に、客室乗務員の方に「あれれ、パンダのお菓子食べられないんですか」と突っ込みを入れられ、「いえいえ、食べます、食べます」と言って、前のポケットに入れるのであった。(しかし、後からかばんからそのお菓子を出すと、パンダの原型を留めていなかったので、路上の物乞いに上げたのであった。というか、原型を留めていても、あげるつもりであった)プドン(浦東空港)に到着するやいなや、私は、取り急ぎ、4階の出発チェックインカウンターに向かい、がら隙の中、チェックインしたい旨を伝えたのであるが、チェックインは14時半からですと言われ、あえなく退散し、即座に、タクシーにも乗り合いバスにもリムジンバスにも路線バスにも列車(ないけど)にも乗らず、リニアモーターカー乗り場に向かうのであった。 30キロ程離れていようが、7分20秒で到着するのである。まるで、太陽光線が地球に届く時間、8分19秒のようである。料金は片道50元(1元=約15円)であるが、当日往復すると、往復で80元である。迷わず、ラウンドトリップと言って、往復を買うが、切符売り場のあんちゃんは、「えっ?今日だけだよ、有効なのは」と怪訝な顔をするので、私は大きく頷き、しなくていいのに、指を往復のつもりで2本上げたのである。おまけに、間違って何故か200元渡してしまったのであった。(両替したばかりで、少し良く分かっていないというかボケていた)。そして、何故か、切符を4枚貰い、まだ気がつかず、リニアモーターカーに乗ったのであった。時刻は1秒の狂いもなく、11時45分に出発し、もう一度切符を見た時に初めて、2人分を意味なく買っていたことに気がつき、ああ、とうなだれながらも、速度と景色に注視するのであった。2分後には、既に時速200キロを超え、あれよあれよと言う間に、300キロ、400キロを超えていくのであった。そのスピード感たるや、あまり感じることもないのだが、リニア同士のすれ違いは、正に時速400キロVS時速400キロの800キロの死闘となり、4両あるにもかかわらず、時間にして0.1秒ぐらいなにか、衝動があって終わりである。地上での最速を人生で体験した訳であるが、400キロを超えている時間は3分もないぐらいで、速度を急速に落とすと、300キロでもすごくトロく感じてしまい、200キロ新幹線なみともなると、なんだか、傷ついたアヒルの行進のように感じられてしまい、慣れとは恐ろしいものだと実感せざるを得ないのであった。 しかしながら、リニアモーターカーは、まだ中心部まで行っておらず、1秒の狂いもなく、到着し(しかし、ドアが開くまで5秒かかった)、地下鉄2号線に乗り換えるのである。19年前に来たときは、地下鉄はおろか、タクシーでさえ走っていなかったというのに、乗ってくる人は背広のビジネスマンであり、オシャレした若い女の子なのであった。思わず、背広男や、化粧女をジロジロ奇異の目で見てしまう。見てばかりもおれずに7駅15分の時を経て、人民広場に降り立ったのであった。中略(ソレは明日を待て)猫じいさんのところにお伺いするということにしていたのだが、思わぬハプニング(ソレは明日以降を待て)で時間が迫り、決断を迫られる所であった。直ぐにタクシーが捕まれば、5分程度なら挨拶する時間があるなと思い、タクシーを拾おうとする。しかし、いつもの癖で、1台目はなんとなくやり過ごすのである(何となく、日本でもそうなのでが、1代目はぼったくられるのではないかという意味のない恐怖が私の暗い心を満たしている)のであるが、2台目の空車が5分たっても何故か、来ないのである。全部が全部客を乗せているのである。そんな訳で、お土産の大吟醸を持ったまま、空港に戻ることにした。前回、マニラで空港に余裕を見て2時間前に到着すると、チェックインに55分、イミグレに55分待たされて、出発5分前にやっと、エックス線を超えて焦った思いもあったので、それを教訓として、今回も、1時間半前に到着したのであるが、何故か名古屋行きには行列なのだが、大阪行きには誰も並んでいない。あれれどういうことかと思ったが、あっさり、チェックインできたのであった。上海郵便局に行き、猫じいさんに、大吟醸を送ろうと試みたが、中身は何と聞かれ、無視した。何なんだなんだと言われ、(中国語だけど、そういっていると分かった)、頑張って無視したのであるが、結局包みを開かれてしまい、割れ物はダメ!(中国語は分からないがそういったと意味が分かった)と、品物を返されてしまったのであった。どうしよう、困った。上海 仕方ないので、空港を出て、路上で、一気に意味なく大吟醸を飲む私であった。何で、液体は機内持ち込みできないんだよお、俺の胃袋に液体つめるだけじゃねえかよお、といいながら、排気ガスもイッショに吸って、酔っ払うというより、一気飲みも重なり気分が悪くなってきた。このままでは、機内に乗るまでに倒れてしまうんではないかという疑問を呈しつつ、エックス線コーナーに向かうのであった。 これがまた、エックス線もイミグレも何故だか、拍子抜けするぐらいガラガラで、1時間5分前には、搭乗口に到着してしまったのであった。これは暇だ、おまけに、少しだけ元も余っているので、上海蟹1匹と残り買えるだけチンタオビール(2本)を購入。店の売り場の人には、「1つだけ?」とバカにされたような言い方をされたが、威厳を持って、元を使い果たすのであった(と言っても、5元残った)。 そんな訳で、機内に入った時には、かなりのヘベレケに近い状態にて、客室乗務員の方に、限定パンダ商品をあるだけ下さい(ヤフオクで売るから)と言ったのであるが、短距離便にて取り扱いがないんです、ゴメンネといわれたのであった。18時45分に出発した飛行機も、ほんの1時間半で関空に到着、思わず、沖縄より近いのである。沖縄より近いが、さすが国際線、飯はでるわ、飲み物はでるわ、免税はあるわのテンワヤンワであった。(テンワヤンワなのは客室乗務員で、私は殆ど寝ていた) そんな訳で、日帰り海外旅行の金の字塔を建てたのと同時に、海外で(空港でのアルコール以外)何も食べなかった旅行なのであった。・・・ああ、明日仕事だ、23時25分に帰ってきた私は急速に憂鬱になっていくのであった。
2003.09.06
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今日、車を高速道路で走らせていたら、急に、対抗車線の車がよたついて、壁を擦って、こちら側に寄ってきた。心臓ばくばくものである。ほんと、不意に死が訪れることもあるのだなあ、と思い、いつ死んでもいいように生きとかなあかんねんなあ、と思った。昔、マニラのお通夜にでたことがあって、仏さん(カトリックだけど)が楽しく天国に行けるために、棺おけの前で飲めや、マージャンの大騒ぎ。酔い潰れて、地べたに倒れた。隣は棺おけ、反対隣は博打テーブルでガヤガヤ・・・
2003.09.05
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1.3年前、とある大きな駅(日本一利用者が多いのは新宿だけど、この駅は4番目だったと思う)の駅のトイレでシャンプーしてた人がいた。風流だねえ。ちなみにシャンプーは「植物物語」であった。2.13年前のことだが、とある大きな駅のラッシュ時に、プラットフォームでぶつぶついいながら、歯を磨いているおばサン発見。横に置いていた歯磨き粉はサンスター。3.15年前のことだが、通学している駅構内で猛烈に嘔吐する情けない男を発見。学生達が後ろで「見るな見るな」といっている。冷たい視線。多分、強烈な二日酔いのためであろう。具はソーメンだった。辛かったなあ~・・・似非路上睡眠昔、何度か駅とか外で寝たことがあった。インドとか韓国とかインドネシアとかタイとか・・・そうそう今年の正月なんか、宿がなくって、チェコのプラハ野宿でっせ。寒くて泣きましたね。俺、一応、社会人及び会社員でっせ。不安で、そして寒かったり、蚊にやられたり。なんか懐かしいなあ。また、やられに行きたくなったなあ。そういえば伊香保温泉の竹やぶでも野宿した。
2003.09.04
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ご存知「プラハの春」とうのは、1967年に民主化の動きがあって、ソ連を中心としたワルシャワ機構の軍事介入により抑えつけられてしまった忌まわしい事件です。それで、プラハなどの都市に進攻してきたチェコスロバキアの人々がとった行動は「対話による説得」でした。進攻してきた方は反革命を制圧するという命令によってやってきていました。それで、群集は戦車を止め、「どこに反革命があるの?」「友達を歓迎します」とかいった。また若い女性は、何日も着の身着のままのソ連兵に向かって一斉に鼻をつまんだ。通信網は遮断されたが、自発的に大使館などに目を盗んでスイッチを入れたり切ったりした。また竹の子の様に地下放送や地下新聞が乱立。そして、かく乱作戦及び指導陣をかくまうために、たった一夜にして街の一切の標識という標識、表札という表札をはがしてしまった。すべての道路標識はペンキで塗られ、その上に「モスクワまで1200キロ」と書かれた。戦車は民間人に道を聞きまくった。民間人はオシになるか出鱈目を教えた。また学生指導者は、ベトナム戦争でタイ僧などが抗議した方法、焼身自殺をもって抗議したあのでした。結局、ソ連に連れ去られたドプチェクら党指導部一向は、ブレジネフの脅迫に耐え切れず自らの手で、プラハの春を終わらせたのでした。20年を経て、ソ連崩壊の波を受け、ビロード革命のときハベル大統領の下(この人も芸術家なのですね)閑職に粛清されていたドプチェクは中央政権に復活したのでありました。
2003.09.03
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浄水器を購入してから、ペットボトルに入れて冷やした水をガバガバ飲んでいます。冷蔵庫には小さなペットボトルが何本も入っていて愉快なのですが、食糧が少なくなった時にはたと思い出しました。かつてマニラの民家に居候していた頃。その家では、周辺では自慢の冷蔵庫がありました。居候の身ではありますが、ただで、ただただねぐらをお借りしているだけという状態です。ときどき、1ヶ月の電気代や食費等の生活基本資金をねだられるだけで、(結構滞納してたりなんかして大きかったりしたけど)基本的には何の契約もしていなくて、ただ床でごろんと寝ているだけ。そんなある日、そこには住んでいない私の同じ歳の男が居間で私に問い掛けた。「暑いね。何か飲むか?」「そうだね。ありがとう」彼は冷蔵庫を開けた。自慢の冷蔵庫の中には1リットル瓶が数本入っていた。その瓶の中は水であった。その他には何もなかった。いや、もうひとつだけあった。缶に入った濃縮牛乳。彼は、それを取りだし、チューっと飲んだ。目はどこを向いているか分からなかった。「おまえも飲むか?」と人の家の缶に入ったミルクを勧められたが、「いや、いいよ」と私は答えた。もとより、ちょっとだけ死にたい気分になった。その旅の帰りに私は横浜の親戚の家に泊めさせてもらった。夜も遅かったので「お風呂入って寝てね」といわれ、皆は寝静まった。私は、何気なしに冷蔵庫を開けた。あふれんばかりの食糧にカルチャーショックを受けた。私達は冷蔵庫をステータスとしてではなく、ほんとに使いこなしているんですねえ。
2003.09.02
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@ @@@ @ ・ @ ε ̄凵 ̄з _└  ̄ ┘_ ( m 人 」 ) (_ノ щ_) (___ Ω ___) [ωω:::::::::::ωω]ブッダ。分かっちゃった人っていう意味だよね。
2003.09.01
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あたしは、快調に阪神高速池田線を走らせておった。曲は、懐かしのルーリード「ベルリン」ベルリンの動物園駅には大晦日の早朝に着いた。私のとってのベルリンのイメージはルーリードの「ベルリン」とベンダーすの映画「ベルリン天使の歌」だった。私は、ベルリン天使の歌の塔を目指し、無き壁を目指した寒い冬の朝だった。そんなことを思い出しながら走っていると、車自体までが、やたらリズミカルになってきて、どうしたんだい、こんなにのっちゃって、なんか思ってたら、パンクした。ナンとか、頑張って、ゆっくりと出口を見つけて、ガソリンスタンドにつっこんで、タイヤ交換、スペアタイヤをつけた。80キロ以上だすなよ、おい、こら、とドイツ語と英語で書いてありました。そして帰りは、高速の途中から、消防車がサイレンならして、乗ってきた。当然ただでのってるんやろなーと思いながら、いっちょついていったろかと思って後ろにぴったりつくと、最高速度70キロしかださずで、こんなに遅くていいのかしらん?なんて思いました。その横を猛スピードでパトカーが追い抜いていったので、はっはん、高速の上で、吉原炎上状態やなあ、と思って神経が高ぶった。
2003.08.31
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今日、喫茶店で、ぼやぼやしているとですねー。席の後ろに怪しい男と若い女の子が二人座りました。話し声が入ってくるのだなあ。「君達はこの業界初めて?」「何見て知ったの?」「御客サンと終わったら、必ずお店に電話してね」「マンションまで迎えに行きますから」「勤務時間は24時から6時まで」「帰りは店の人が送って行くから」私は、トイレに行き、二人の若い女性をちらっと見た。不細工で、何故だか、良かったぁと思った。イカン差別主義だ・・・昔といってもほんの昔、日本人ちゅうのは単純ヘルペスってウイルスを持っていたらしいね。だから子供の頃にちょっと罹って、耐性を作るみたいけど。そういうのがいっぱいあって、抗菌主義や無菌主義に陥った日本人は危ないぞ、ってことですなあ。バリのコレラ事件って200人も日本人ばっかり出たらしいなあ。今後、おたふくや水疱瘡やはしかってのが、子供のときにかからなくなったら、怖いねえ。大人になって罹るとドエライ目に会うらしいじゃん。ウイルスや寄生虫と共存してきた訳ね。そういや、回虫がいなくなってから、アレルギー体質が増えたというし、海外援助で、清潔にし過ぎたら、暫くして、かえって重たい病気になってしまったり。モヘンジョダロって、遺跡が突如風化してしまったのは、もしかしたら、上水道が完備されすぎていたから抵抗力がなくなったのではないかという説もあるそうな。確かあそこは、宮殿(中心)のなかった異質な遺跡ですね。何を隠そう、10年前にヘルペスに罹ったのです。勿論、単純ヘルペスです。あのときは疲れてたからねえ。そんで、今でも、顔に傷が残ってしまってますんでねえ。でも、「また2,3日したら来てくださいね」といわれてたけど、次の日、わたしゃ、インドに行っちゃったんだね。何故か、すっと直ってしまったどいようでした。
2003.08.30
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あさ、あさ、あかるい、あさ。そういうのを小学校1年の国語の教科書の1番最初に習いましたね(英語のデスイスアペンと同じか)その前の表ページは朝日が虹色になってたんですよ。担任の徳尾先生が、一番下の色は何色ですか?なんて質問してたなあ。今もそうなのだろうか?その後、小学校の低学年で覚えているのは「チックとタック」馬頭琴の出てくる白い馬のシーホース?赤いスポーツカー。みかんのなる寺、は4年生だったっけ。中学校1年生の最初の国語は「龍の子さんたろう」だった。おいおい、三年ネタロウか?漢字が急に大人になっちゃって「駆り立てる」なんて文字がでてきたな。その後、詩が出ました。まかべじん。「峠は決定を強いるところだ。峠は決定のための明るい憂愁が流れている」先生はいった。「テープで朗読を聞きましょう」朗読は寺尾アキラだった。ルビーの指輪が流行っている頃だった。朗読って魅力あるんですよね。
2003.08.29
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シンガポールを三日間滞在した後、高速艇はインドネシアのタンジュンピナンにたった三十分で到着した。空路以外の入国はビザがいると聞いていたので、イミグレーションオフィサーが何かいう前に、有り金を全部見せるという子供だましの手段に訴えた。笑いながら、パスポートにスタンプを押してくれた。木の突堤に足を踏み入れると、ガラム煙草の丁子の匂いが国を充満しているのが分かった。暑い国では甘さを許容してしまう。その匂いに加え、土の湿った臭いがしてくる。生まれて初めて水を買った。先の船旅に備えて。異郷の地で食べ物が合わないのは我慢できるが、水が合わないのは致命的だ。いくら慣れ親しんだ料理でも味付け以前に味が違う。浴びる水に対する体の反応も。全長十メートルの船は体操座りが辛うじてできる程の乗客を乗せて出港した。マラッカ海峡の上で、私は同じ質問を何度も受け、延々と答える。名前、出身、仕事、インドネシアの感想、年齢・・・・朝、起きると河に入っており、私はまた同じ質問を何度も受け、延々と答える。二回目の夜はついにたまらなくなり屋根に登り、寝袋に潜って眠る。三日目の朝、靄がかかり両脇の陸から木々がかすかに見える。寝袋は朝露でべったりしている。円錐形の葉をぎっしり詰められた両切りの煙草の煙は、船の速度にぴったりだ。一メートル下では重なって人々がまだ眠っており、もはや、質問はなかった。昼。石油の出るだけの退屈な町で。個人経営のパン屋兼八百屋兼冷凍食品店兼お菓子屋といった感じの店があった。ザリガニ釣りのために、いつも竹輪一つ買って、ザリガニも嫌うと信じられていた皮だけ食べて赤いバケツに放り込んで、池に向かうという少年達の一人が私だった。それから十年近くの間に、町は奥へと造成されていき、その中にスーパーができ始めた。また、我々の古い家周辺も庭を壊してガレージを造り、車やバイクを購入し、行動範囲を次第に広げていった。私は高校生になっていた。文化祭の用意のために急遽林檎がひとつ必要になり、その店を思い出し、十年ぶりにその店に訪れた。店の面積は縮小され、奥は食堂になっており、引き戸の隙間からちゃぶ台のようなものと家族が見えた。何かいけないものを見たような気がした。奥からきっちり十年分年をとったおばさんが出てきた。林檎は三つセットで売っているものが一つだけあった。私は恐縮して自信なさそうに「ひとつだけ欲しいのですけど」とおばさんの目を避けて林檎を注視したままいった。おばさんのため息が聞こえてきたような気がした。そして、おばさんの手がためらう様に、林檎に伸び、ゆっくりパックからひとつだけもぎ取り、素早く価格から三を割り、端数切り捨ての値段をいい、私に林檎をゆっくり差し出した。それから暫くして、店仕舞いと同時に家族さえも引っ越していった。時代の速度は、相変わらず速いままだ。意識でさえも。そんなことを考えながら、六時間後に出るバスを待ちつつ、街の小さな市場を歩いていた。小さいながら等身大の市場だ。サランラップに巻かれて窒息しそうな綺麗なだけの食料が並ぶスーパーマーケットと違い、ドリアンの強烈な臭いを筆頭に、濃厚な空気が充満している。時折、子供にからかわれてみたり、店の人に呼ばれて試食してみたりする。朝には海沿いの町パダンに到着した。シャツはすっかりバスシートを掃除して黒ずんだ。顔は汗を何度も流しては乾かし、その度に夜風を受けたために塩と砂を交えてざらついていた。潮で体を拭きたいと思った。そのまま泳いでみたいと思った。とにかく町外れまで歩いてみた。川があった。幅十メートル程の濁った川。橋はなかった。渡し舟が一艘あった。当然商売なんかになる筈のなさそうな人通りのない道端。川向こうにはあぜ道が続いているのが見える。一日いったい何人がこの舟を利用するというのだ、とは思ったが、船頭のおやじは苦虫を潰したような顔を一向に崩そうともせず、私を獲物と見据えると、「乗れ」と合図した。乗船時間十秒、三漕ぎ。運悪く、私は五百ルピア(四十円)札しか持っていなかったので仕方なく渡すと、そのままくしゃくしゃにお札を丸めて、苦虫おやじのポケットの中に吸い込まれていった。その表情を崩さぬまま「早く行け」と手で追い払われる。「おいおい、お釣、お釣をくれ」と私は呆れながら手を出すと、「ぼったくってやったぜ」という後の急に優しくなったり怒りっぽくなったりした態度にはならずに、「道はあっちだ」と私を追い払う。もう一度催促してみたが、相変わらず苦虫を潰し続けている。「参ったよ。苦虫ポーカーフェイスじいさんよ」私は頭の中で、頭をポーンと叩いてあぜ道を歩き出した。すぐ丘の上に中国人墓地に辿り着いた。剥げ落ちた水色の墓が急斜面に散在し、その先の絶壁の向こうは荒波の迫るインド洋が広がっていた。海は遠くに行く程青さを増し、空と海との境界線をあやふやにしていた。近くに亀のような島がひとつ。直径三十メートル程で、木が覆い茂って地肌を隠していた。脇道から砂浜まで降りてゆき、十数キロある荷物を降ろし、椰子の側に置き、全服をその上に置き、荒波に向かって行った。スマトラ中部のパダンからバスでスマトラ島を南下し、ジャワ島に入ることにした。道は年々良くなっているのだろうが、相変わらずスマトラバスは世界有数の厳しいバスだぞ、と聞いていた。バス会社は多くあちらこちらで客引きをしている。世界六番目の島(七番目が本州)というのが、何となく親近感が持ててしまうのだが、赤道直下のジャングルの島で、山がインド洋まで迫っているという瑞穂の日本とは趣をかなり異にする。瑞穂っていうのも恥ずかしいものだ。ジャングルというのも木材や鉱山乱伐で恥ずかしいものだ。もともとプランテーションや木材を運ぶための道路を改造したに過ぎない道路は雨季乾季の繰返しで凹凸し、ジャングルのせいでカーブばかり。遠方を見渡せるという景色はなく、ただバスは一晩中カーブを続け、ひたすら頭をぶつけながら何かを考えるしかない。初め少なかった乗客も、徐々に増え、通路に人が無理矢理座っている。私の足元には私の足を枕に子供が寝ている。足の組み替えさえできない私の足には、お漏らしでべたべたになり、おまけに通路に座っている母親はそれに気づきながらも、「私達も耐えているのだから、あなたも耐えなさい」という目で訴えてきた。道はいつまでもくねっているが、私の体力は続かず、不快のまま、カーブの度に体をフラフラ動かしながら自分が眠っているのが分かる。右に頭が寄る度に、隣の母の手によって頭をポーンと押し戻されているのは分かっているのだが、体は寝てしまっていて、自由にならない。左に頭が寄る度に窓枠に頭をぶつけているようだが、割れないことをひたすら祈っている。窓ガラスは片面しかなく前後の客で数分ごとに罵詈雑言と共に引っ張り合いをしているようで、数分間風は入らず熱く、あとの数分間は砂埃が入ってくる。旅行者として一番バス慣れしている私でもこの状態である。カーブの連続によって半数の人々は既に嘔吐し、バスに積まれている鶏と穀物とガラムの臭いと交じって、いよいよ終末感を醸し出していった。私の目は、既に魚の目。一方、運転手は二人、車掌は三人、車掌の一人は休憩。二人はバス昇降口前後に身を乗り出し、カーブする度にバスの側面を叩き、奇声をあげて安全を確認する。運転手は一人は睡眠、一人は目を血走らせねがら、大音響で夜中の三時であろうがテープをかける。それに応え、車掌達はバスの側面を叩いてリズムをとったり奇声をあげる。つまり安全確認なのかノリノリなのかは不明だ。不快な夢の入口で音の割れたインドネシアンポップスが流れている。眠れないのに起きられない状態を続け、カーブで頭を打ち、目を開けると運転手もハンドルを切りながら、ハンドルを叩いてリズムをとっている。食事時間だけが休憩時間で、交代する二人の運転手の疲労度の都合で停車する。一日三食。朝食は朝の四時だったり、夕食が昼食の三時間後であったりする。夜中の三時。暗い食事以外に止ったのは、スマトラ島ジャワ島間スンダ海峡のフェリーと、バスのすれ違いどきにお互いの後部がぶつかって運転手同士の喧嘩が長引いた時だけであった。第一次欲求というのは強い。どんなに不快でも眠気には勝てない。常に振動があって頭を打ったり座席から尻が浮いたところで、脂汗をかきながら眠ってしまう。そんな中だからこそ、自分が眠っていると強く意識する。自分の不快そうに眠っている姿も容易に想像できる。起きることができない状態から起きる理由がないという状態に変っていく。七十時間後、朝のラッシュに少しだけ巻き込まれた末に、バスはジャカルタ。私の頭の中は、多少、ネジが狂い始めていたのかも知れない。あんなに厳しかったバスの移動も終点に近づけば、少し残念な気になってきた。赤道を超え、さらにかせいでいく旅。私はそのまま、今度は、ジャワ島中部スラバヤ行きのバスチケットを購入しのであった。そしてジャワ島バスバスステーションの端で洗濯をした後、バスを乗り継いだ。運転手の許可を得て、洗濯物を運転手の横で干させてもらった。うとうとして、通路に落ちて転がった。八月十七日独立記念日が近づき、旗が至る所で見受けられる。ここ数日、何度も「俺は日本を許しているよ」といわれた。戦争責任。戸惑う。もし、責任者としての申し子ならば片腕を切り落とさなければならない。例えば、インドネシアで何をしたのか、何も教えてもらったことはない。どんな時代だったのか、自分で本等を読むまで知らなかった。知らないことに対して、「そんなこといわれてもねえ」と思ってしまうのは正直なところなのだが、無知は罪である、ということは何となく分かってきた。もうひとつ。例えばどの国でも「チノー」とか「チニー」とかいって中国人と間違えられて、馬鹿にされる。はじめ、「ノー、ジャパン」「ジャパニ」なんていちいち反論していた。それって、私自身、そう思っているから言い返していたに違いない。次第に何といわれてもいいや、って感覚に陥ってゆく。具体的被害にあいそうなら別かも知れないが、何人でもいいではないかという諦めに似た境地が訪れ始めた。素晴らしい奴はどこにだっているし、下らない奴もどこにだっていることを理解するには結構実感がいると思うし、できた奴や下らない奴がいるからこそ、面白いってことはなかなか分からないことではないだろうか。夕暮れのドライブイン。賑やかであった。私はその中に静かに座り、人々の表情や情景を見ながらゆっくり飯を食っていた。ついつい出発時間を聞くのを忘れていた。バスが目の前を通りすぎた。私はまだ静かなままだった。今日から荷物のなくなる現実を受け入れなければならないのか?夕暮れの道は寂しい。少なくとも、私は運転手横、最前列に座っていた。バスは軍艦マーチのテーマと共に、ライトをアップにして戻って来た。車掌は身を乗り出して、私を見つけると、「オー、コリアー」と叫んだ。午前二時。ジャワの中部の主要都市マゲラン。バスの終点と知ったのは乗客が全員降りていった後だった。こうなったらジャワ島を抜けてバリまでいってやる、何て更にやけくそな気分になっていた。そこで登場したのが、自称天文学者ボビー。中年太りのインテリにしてホモセクシュアル。インドネシア各地を毛布と十数冊の書物と共に流浪している。国の奨学金で旧宗主国オランダにまで留学していたこともあるという。おまけに、ほぼ文無し。「宇宙が二つあるという説の話はこれくらいにして、疲れただろうから、僕の肩を枕にして眠るといいよ」と優しく揺れるバスの中でいった。そう、興味深々で彼にしばらく同行することに急遽決定したのであった。そして、どうやら枕にされたのは私の肩のようであった。ジャワの中部、スカンでバスを降り、夜が明けるまで彼の朝の講義をコーヒー一杯で聞いた後、彼の導きで山に入ってゆく。彼は太っているからか、徐々に遅れ始めた。宇宙を駆け巡る思想を持ちながら息を切らして歩いている男を何故か寂しく思った。インテリに完璧を求めるのも変なことだが、痩せ我慢して歩いて欲しいと思ってしまった。インテリは、穴があるからこそ突出している部分がある天才とは違い、完璧性が欲しかった。人は見栄だけでも結構やっていける筈だ。いい訳はよして、歩け。恥ずかながら命令口調で思ってしまった。せめて、優雅に歩いて欲しい。インテリなら。村人が迎えてくれた。天文学者と村人との関係は分からなかったが知り合いのようであった。私は納屋で一週間ぶりに動かぬ大地の上で、巨木の香油の下、昼寝をした。天文学者は隣で持参の毛布で寝ていて危険ではあるが、生理的欲求を優先せざる得ない。熟睡は夢をもみせてくれることはなかった。村。コルト。タンガー。バス。町ウノソボという町。夜、全寮制の身体障害者の学校へ招待され、のこのこ出掛ける。比較的軽度の子供たちが卓球をしている。「かかってこい」私はラケットを握る。あまり容赦しない私、大人、外国人、という三要素が彼らの闘争心に火をつけたようだ。子供たち列を成す。私は変化球なしで、徹底的に彼らを叩きのめした。負けるのは失礼だから。真剣な彼らの眼差しに敬意を示し、スマシュ、はい次、スマッシュ、はい次。中国人の家に泊めてもらっていたのだが、その前の道で万屋を営むマレー人がいた。幅二メートル奥行き一メートル程度の小屋には洗剤やらガムなどがぎっしり詰っていた。ある夜、小屋を隙間から覗くと、そのマレー人主がキョウツケの姿勢のまま眠っていた。中国人によると、彼の家はこれで、トイレはその中国人の家を拝借しているそうだ。そのあとで、「中国人が店を開くと(但し漢字は御法度)その前にすぐマレー人が屋台を開くのさ」と付け加えた。海抜二千メートルのディエン高原に散歩に出掛けた。ボロブドゥールより古いチャンディ(寺院)が点在。空を見ながら歩いていると泥沼に足をつっこみ、抜くのに苦労する。泣かない女はいない、ボブマーリィを何故かかけながら、ビマテンプルや、温泉を巡った。
2003.08.28
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にフィンランドに行ったから目につくのだろうか。本当に流行っているのか、スカンジナビアンテイストのシンプルデザインのインテリアが目につく。光の国で、工業デザインに優れた国です。地球の温暖化の原因になるうちの20%がメタンだという。メタンの15%が牛のゲップであるという。つまり牛のゲップは地球の温暖化に3%程寄与してしまっている。家畜が増えた?確か4人に1頭でしたよね。世界総牛口割合。インドの聖なる牛はどうなのだろうか?ありゃ、食わないといっても、食えねえなあ。20人の人間を養う豆を牛1頭が食らう。京都環境技術研究所では、先進国で牛肉を2割減らせば、二酸化炭素を9%減らせる」と発表。牛減る→牛の呼吸が減る。飼料生産減る。牧草地が森林になるという図式らしい。何か桶屋の話のような気もするが。ところで、インドの牛はどうなんだ、インドの痩せた牛は?海賊の今昔、海賊で有名なバジャウ族を訪れたことがあるが、皆、仲良く友達ごっこしてくれた。今やアジアの海というのは海賊天国になっているらしい。国際シンジケート化され、携帯電話パシパシ、マシンガンビシビシ、最新通信システムに衛星方位システム、無線システムのハイテク設備導入で、中国などの役人あげくに船主までからんでやっていることもあるらしい。
2003.08.27
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近郊列車が走るようになる。電車は空きっぱなしで、人が列車からはみ出ている。半分以上はみ出ている人もいる。スラムを通り抜け、駅のホームに入る。列車はまだ止まらない。が、人は飛ぶ。サリーを着た女性も跳ぶ。跳ぶインド人女性。駅を出る。リキシャーがない。すべてタクシー。民族衣装でないインド人女性の大軍。「インド門へ」仕方なくタクシーに乗った私は告げる。タージマハルホテルというインド最高峰に属するホテルがある。しかし、静かで豪華なロビーから一歩出ると、足がないため手で漕ぐ三輪車に乗る乞食や、ブラウンシュガー(くずヘロイン)売りの男、もわもわもわーっとした空気、排気ガスにクラクションの連続、ぼろぼろのアコーディオンを奏でる乞食の子供、真鍮バケツに氷と水を入れてジュースを売る少年、単に暇つぶしをしているシク教徒、外人を見てはバクテンをしてお金をせびる女の子らが、一挙にドバドバドバーっとよってくるわ拠ってくる輪で、最高峰から最低辺まで僅か五メートル。じぇんぶでインドなのだ。ボンベイは貧富の差が激し過ぎて、悲惨な状況を生み出している。街並みこそ、ロンドンだというのに、気候と路上の風景の違いは壊滅的でさえある。そうはいっても、私は幸いにも、ある程度上からある程度下までは行き来できる分際なのである。私は迷惑にも、日本人旅行者を騙し、タージマハルホテルのバスタブを使わせてもらえる許可を得たのである。収入一日百円程度のインド人から見れば、一泊年収を越える部屋というのは、極刑に値するのではないだろうか。冷房済みの部屋の中ではテレビで「トムとジェリー」を放映中。ベランダに出る。十五階からは、都市の喧燥が無秩序に交じり、ワーッという生活音とムワーっとした生活臭が天に揺らめいて昇っていく様を感じることができる。時折周波のずれた車のブレーキ音やクラクションの音がとび抜けて不協和音として耳に入ってくる。しかし、ベランダから部屋に入ったときの衝撃のほうが強い。この静けさ、フワフワのベッド、四十日ぶりのバスタブ、テレビ。インドを差し置いて。部屋は快適性のためか多少圧迫感を感じ、非人間的なものを感じるが、涼しいといえば誤りで、暑苦しいといえば誤りの世界で、平均的インド人一生分の快適を味わってしまったのではないかと不安になる。同時性の微笑を。ボンベイロンドンを散歩する。公衆トイレの掃除人。薄暗いトイレ内の片隅に三人の男が向かい合い中座になって飯を食っていた。トイレの中で生活しているのだろうか。太陽の日を浴びることがないのだろうか。、何故外で飯を食わないのか。終末感をださなくてもいいではないか、こちらも気が滅入ってくるではないか、と思わずには折れない。時間の存在というものが分からなくなってくる。狂気、あるいは非日常を柔らかく体験するだけでも、正気が何たるか少し感じることができる。小奇麗な格好をしたおじさん、抱えていたアタッシュケースをおもむろに開けると、ケースいっぱいの大きさの体重計。通りに置き、道に座り、不動。三十分経過。客はない。信じているものが通らない。通らない。足のない売人。スケボーに乗って移動する。彼は、西洋人とヘロインの価格の折り合いが付かなかったようだ。散々文句をたれた売人は、西洋人に張り手を食らい、スケボーごと吹っ飛んだ。西洋人は去り、罵声を浴びせながらスケボー台車を転がしていく売人。アスファルトをガガガガーと転がしていく音を残して、ジャンキーを追う。部屋では、隣室で黒人が口笛を吹く。多少インド音楽の影響を受けている。カラスが同調する。
2003.08.26
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今日は、目覚し時計の鳴っているのに全く気が付かず大遅刻。でも、こちらは生身の人間だというのに、何故、日々機械に起こされているのだ?と思うとちょっと悲しくなった。それに誰が、秒針までつけた訳?まいっちゃうなあ。時計が一般になって世の中が忙しくなったのだ。もー。マルクスの私生活トホホマルクスといえば、ニ十世紀に最も大きな影響を残した思想家であったことはご存知かと思います。共産主義イデオロギーの教祖でありますが、彼自身はリーダーとして君臨したことはないですよね。特にロンドン亡命時代は資本論など執筆に明け暮れる毎日。彼はイギリスで友達作りやパブ馬鹿騒ぎもせず、ひたすら独学者。何しろ生涯で自分で稼ぐってことがほとんどなかった訳で、金持ちのおかあちゃん、何故だか貴族玲嬢との結婚、そして有力で唯一のパトロン、エンゲルス。すごい思想家のくせに自分の経済生活は無頓着、そして女中にまで子供を産ませたりとだらしない一面も。ナンだか凄いなあ。ちなみにエンゲルスは、工場経営者で財を成した、共産主義の資本家だったのだわな。ナンだか変だねえ。歴史にもしもはタブーだけど、エンゲルスがいなかったら、マルクスは貧乏で憤死、ソ連もなかったってか。
2003.08.25
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洋子山、村の男中国内陸の都市、西寧。駅の裏に見える山が洋子山である。二時間並んで、留学生と偽ってやっと手にした列車の切符。人のいないところに行きたいぞ、と呟く。上を向くと山があった。よし、この禿山にでも登ってみるか、と安易で幼稚な考えを実行に移すことにした。食料と飲み物だけは買い込んで、岩剥き出しの山に登り始める。賛同者はいない。三十分で山頂予定であったが、単なる騙しの峰。更に奥へと山は続いている。羊の放牧をしている少年を一度見掛けたが、誰もいない。というよりも確かな道がない。登りやすい所を見つけては登り続ける。しばらくして、岩肌が不意にも窪み、日陰になっている所に一人の青年が休息の様なものをとっていた。彼はニヤリと笑って敵意のないことを示した。私も敵意がないことを示し、住所氏名年齢の筆談を行う為、ノートとペンを差し出した。筆談の結果、彼の名前は李逢月、年齢二十一。住所は洋子山西寧と判明。住所は山の名前だけなのかと聞くと、彼は静かに頷く。彼は、深山にひっそりと住む仙人的存在なのだろうか。ちょっと渋いのではないかい、と私は思った。彼に付いていくことに急遽決定。彼の隠遁生活の神秘のベールをちょいっと覗かせてもらおうと、無言で二人は山を登り始めた。一時間後。盆地が広がった。黄色い花が一面に狂い咲きしていた。綺麗で退屈そうな天国だった。彼は、花の中に入って行き、私の方を向いて手招きする。「食えよ」それはエンドウ豆であった。生で食べるのはいまいちであるな、と思ったが、これも仙人食その一かと思い、また彼の好意を無駄には出来ぬと思い、彼の名誉と私の登竜門として、パカパカ口に放り込む。彼は、洗礼と受け取った様子もなく、私の決意を感じ取った様子もなく、更にエンドウ豆を摘み、更に私に与えてくれる。なだらかな傾斜を更に登って行くと頂上に大きなパラボラアンテナを備えた工場らしきものがあった。その工場以外に工作物は一切なく、中国弁公室、国防情報局の牙城の様な雰囲気である。私も内閣調査室のスパイの様な気がしてきて、ちょっとヤバイな、と思ったが、草履のスパイなんていないか、と笑い飛ばそうとしたが、現地に溶け込む諜報員スリーパーと間違われては拿捕されて拷問受ければたまらないと思い、さっと緊張した。更に、彼の後を追って平坦になった道を歩き続ける。登り始めてから四時間後、忽然と村が出現した。泥の池を中心に二十件程の土で出来た家と家畜と防空壕。三千メートル程の高度、乾ききった家の土壁の色と泥池の色と地面の色がほとんど同じ色彩。彼は、精一杯の好意からパンと水を出してくれた。パンは歯が砕けそうな程カチカチで、水は泥池の水を一度沸騰させただけと思われた。彼の名誉と好意の為、私は口に入れる。仙人の道程はまっすぐではない。日が暮れるまでに帰ることにする。途中まで彼は送ってくれ、そこに木があった。私はナイフを取り出し、私の住所国籍氏名年齢を彫った。彼は、その横に自分の名前を彫って、最後に「友」という字を彫った。
2003.08.24
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デンマークって国、4.3万平方km(日本の1/9)しかないのに、グリーンランド領は217.6平方kmもあるんだってね。首都コペンハーゲンも島にあるんだ。行って分かった。話題は変わるが、私の行きたい国のひとつにアイスランドがあるのですが、今日の新聞によると、火山と氷山に囲まれたこの国は石油消費ゼロを目指し、水素エネルギーを開発していくらしく、将来有望な国であるらしいっす。先日、飲み屋さんの隣にたまたま座った人と、イキトウゴウして、次の日その人の家に飲みに行った。なんだかアジア的な感じでしたわ。しかし、盛り上がったのは北欧とプラハの話題だったのだけど。おまけに駐車禁止まで取られたあ。
2003.08.23
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気温はマイナス25度だった。ゲレンデにはスキヤーが私を除き2人、スノーボーダーが2人。太陽はでないので、夜スキーのよう。自転車のごとく体は覚えていた。が、しかし、リフトは棒を股に引っ掛ける奴で、すってんころりんと渋くこけた。その後、ようやくスキーになれてきたので、スピードを楽しむために直滑降をすると、いきなりカキゴオリイッキをしたように頭が割れそうになった。体感温度が何かの線を越えるようだ。何度か挑戦したが、ある一定以上のスピードは出せない。勿論、コースを外れるのは即、死が隣り合わせにあるために、緊張がある。結局、30分、ボーゲンを繰り返し、近くのホテルでコーヒーを飲んだ。熱いコーヒーカップを手で覆っても全く熱く感じられなかった。
2003.08.22
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北欧は結構酒が税金で高いのか、船とか乗って国境を越えようとすると免税店があって、乗客の荷物があっちこっちでビールや酒の瓶の音がガチャガチャ鳴ってました。耳に残っています。デンマークのコペンハーゲンからスエーデンのマルメという都市まで船で30分なのですが免税店があって皆酒買ってるのですよ。また、マルメからベルリンまでの列車は、途中船に乗るのですが、それが、船の中に列車(車両)を直接入れるのでびっくりでした。トンネル掘らずの発想にたまげました。勿論免税店はありました。
2003.08.21
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旅行には一応ノートを持って行き、何かをメモする。1ページ目には、墨で書いたたった2行。マイナス31度マイナス33度私はその中を40分歩く。通行人はほとんどない。走る車から奇異の目で見られるのが多少恥かしい。100円ライターのガスが半分凍り、火がつかない。昇らぬ太陽。川は水蒸気を発す。夕焼け状態。でも、人は住んでいる。近代設備の中で。防寒具の中で。バーに入り、世界地図を広げてみる。日本と一番近いヨーロッパ。民族博物館に入り、地図を見る。地図の中心は北極。ロシアとアラスカとグリーンランドとカナダがすぐそこにある。森林の最北端、生活の最北端が地図に色分けされている。ここは、まだ北極圏に入ったばかり。寒さは痛さ。あやふやな北極圏
2003.08.20
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確か、女子大生がグランドキャニオンに旅行に行って、いいアングルの写真を撮ろうとして、バックしているうちに谷底に落ちたという事件がありました。日本ではある筈の柵がなかっただけの話です。 例えば、エスカレーターや駅のアナウンスは五月蝿いですね。何でそんなお節介なことまで放送するのかなと思うじゃないですか。そのくせ、多分つながっていると思うのですが異常な程の潔癖症というか清潔感。事実としてばい菌をある程度飼っておかないと、別の病気にすぐやられてしまう。バリで日本人だけにコレラが蔓延したことがありました。無菌室にいすぎた訳で抵抗がない訳ですね。何か閉塞感を感じます。もー、あー、ぶっこわしてー。それから、感動について。最近、感動感激しましたか?考えてみれば、その感動感激がメディアによってなされていることが多くないですか?映画とか本とか演劇とか。何か他人との関わりや言動や感動的光景風景や体験経験でってのが少なくなっていることを危惧します。一番初めに自分の子供に「悪魔」という名前をつけたのがナニを隠そう仏陀だったわけですね。フーララといって、迷信時代、日蝕月食なんかで太陽や月を食べてしまう悪魔のことでうすね。すごいね。ブッダの凄いところは、何の不満もないのに(彼はご存知、今で言うネパールの王子様(シャカ王国の)だったわけですから)親どころか妻も子も捨てたところですね。様は不良というか極道ですね(極道とは仏教用語)。怖いですね。凄いですね。ちなみに奈良の大仏はパンチパーマですな。指は5本あるけど。何の話や・・・姫路城 コンセプト先日、私はちょっと姫路に行った。親戚の家があるから。姫路城は相変わらずであったが別名白鷺城といわれるだけあってなかなか美しい。数年ぶりに訪れた城下町であったが、ナンだか寂しいのはヨーロッパやインドのお城の堀は商店や民家も城内にあるのに、日本は商店や民家が堀の外にある。武士、殿様って民衆のことをどう考えてたのかな。
2003.08.19
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ヘルシンキの夜、ホテルでテレヴィを見ながら、ウォッカをチビチビやっていた。映画ばかりやっているチャンネルがあり、夜中に「パピヨン」が始まった。実は「パピヨン」を見るのは3回目だ。内容はスティーブマックイ-ン扮する主人公がガイアナのほうの孤島の監獄に入れられ、何度も脱獄を繰り返し、失敗し、最後に老人になり、それでもあきらめずについに成功するというなかなかシブイ映画だ。実は、中学生のとき、私は一年間に映画を100本見るという楽勝のノルマを課し、ついでに受験勉強をおまけにするといった3年生。ただ、ビデオもなかったので、テレヴィの映画を頑張って見るって世界。その年の12月、冬休みで受験追込み等という私は、その日4本目の映画を見た。3本目はメルビルの「白鯨」そして4本目が「パピヨン」この映画でもう一人の主人公ダスティンホフマン、彼の演技に感激した。そして、何故か台詞まで憶えていたりなんかして。「どれだけ、誘惑に耐え切れるかによってその人の価値は決まる」
2003.08.18
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アジア最大の米軍基地だったフィリピンのルソン島クラーク基地は、ピナツボ火山大爆発を期に撤退した。その後、残された人々は米軍がもたらす金銭や雇用がなくなり、困窮し、将来を心配されていた。その後、経済特区に指定され、この不況化でも、まずまずうまくいっているのだという。米軍向けバーも、以前マニラにあった歓楽街の店のオーナーが移ってきているらしい。浄化一掃で、マニラのエルミタ地区にあったバーなどは次々と廃業に追込まれた。オーナーはほとんどがオーストラリア人だったと聞いたことがあったが、新聞にも移ってきたのはオーストラリア人とアメリカ退役軍人が中心だと書いてあった。 かつて、エルミタの歓楽街を歩いていたとき、一人の男に道を聞いた。その男の後ろ髪の毛は一束だけ10センチ程伸びていた。それは何だい?と私は尋ねると、「ボントック」といわれた。「俺も今日から伸ばしてみるよ」といい、以後4年間一束伸ばすこととなった。ボントックとはフィリピンの一民族で、ピナツボ火山近くに多く住んでおり、後ろ髪を一束伸ばす習慣があることが分かったのは、ずっと後になってからだった。
2003.08.17
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ベルリンに向かう列車の中、キースリチャ-ズそっくりの危ないドイツ男に捕まった。彼の席は、既にドイツ語を話せないスエーデン在住のクロアチア人であった。ドイツ男のコートはいろんな派手な布でめったくたに貼りまくられ、ピチピチの皮かなんか原型を留めぬパンツ、これまたピチピチの嬉しくなる程悪趣味の蛇皮ブーツ、目を抑えたくなるほど素敵で安っぽいアクセサリー。どこに置いてもこれ以上汚くなりようのナイ鞄。右ポケットからは無尽蔵に缶ビールが飛び出し、私に勧める。優しい奴で、クロアチア人に席を譲り、自分は床にごろ寝するいい奴だった。アル中なのだが、何故か私を仲間意識で話しかけてきた。三国同盟の名残であろうか??そういえば、チベットで会ったドイツ人は、コカコーラ缶にお湯を入れて飲むのが至福の喜びという変なゲルマン人だったのでヘンゲルと名づけておいた。ふぉふぉ。
2003.08.16
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今日、生まれて初めて霊柩車2台がすれ違う光景を見た。霊柩車はファンタステックだ。外国人がチャーミングというのも無理はない。いったい、私はどんな車を所有したいのか、自転車に乗りながら考えていた。「そうだ、消防車だ。シブイ。消防車をサイケデリックに塗って、時々放水してみたりなんかしたり、梯子に登ってみたりして。どうやって買うのだろうか。車庫も大変だ。免許の種類は?」と思っていると、消防車が通りすぎた。キザに「フッ、シンクロニシティかい」と呟いた。夢がイッコ増えたな・・・ふっ。
2003.08.15
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ご存知「プラハの春」とうのは、1967年に民主化の動きがあって、ソ連を中心としたワルシャワ機構の軍事介入により抑えつけられてしまった忌まわしい事件です。それで、プラハなどの都市に進攻してきたチェコスロバキアの人々がとった行動は「対話による説得」でした。進攻してきた方は反革命を制圧するという命令によってやってきていました。それで、群集は戦車を止め、「どこに反革命があるの?」「友達を歓迎します」とかいった。また若い女性は、何日も着の身着のままのソ連兵に向かって一斉に鼻をつまんだ。通信網は遮断されたが、自発的に大使館などに目を盗んでスイッチを入れたり切ったりした。また竹の子の様に地下放送や地下新聞が乱立。そして、かく乱作戦及び指導陣をかくまうために、たった一夜にして街の一切の標識という標識、表札という表札をはがしてしまった。すべての道路標識はペンキで塗られ、その上に「モスクワまで1200キロ」と書かれた。戦車は民間人に道を聞きまくった。民間人はオシになるか出鱈目を教えた。また学生指導者は、ベトナム戦争でタイ僧などが抗議した方法、焼身自殺をもって抗議したあのでした。結局、ソ連に連れ去られたドプチェクら党指導部一向は、ブレジネフの脅迫に耐え切れず自らの手で、プラハの春を終わらせたのでした。20年を経て、ソ連崩壊の波を受け、ビロード革命のときハベル大統領の下(この人も芸術家なのですね)閑職に粛清されていたドプチェクは中央政権に復活したのでありました。
2003.08.14
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今日、コンビニエンスストアに寄ると、バナナが売られてました。「高い」と思った0.5秒後、「食いてえ」と9年ぶりに思い、7年ぶりに購入しました。多分、フィリピンバナナだろう。12年前に読んだ名著「バナナと日本人」(鶴見良行著)によると、台湾バナナにとって変わられたフィリピンバナナはデルモンテ等大手アメリカ食品メーカーがミンダナオ島を中心に一大プランテーションを展開、地元民の食べない品種を大量生産、日本にバンバン送りました。しかし、後年、高級だったバナナも、値段は下がり、日本人はだんだんバナナを食べなくなってきました。 その後、日本はアジアの海や池で海老を根こそぎ捕獲したり養殖し始めました。そのうち日本人は海老を食べなくなってくるのだろうか。 あ、バナナの話でした。ニューデリーの銀行でバナナをカウンターの上に置き、怒られた過去を持つ男です。考えてみれば、無礼なことをしたと思うが、その銀行員は、私の見せたパスポートに挟まっていた飛行機の搭乗券の裏に印刷された電気剃刀の性能と値段を執拗に聞いてくるのだった。最後には「プレゼントしてくれないか」まで言われたので、彼のほうがもう少し無礼だったかも知れない。それにしてもバナナとは面白い発音だ。まさにバナナという感じだ。ちなみにヒンドゥ語ではケーララといい、屋台のバナナ売りが「ケーラ、ケーラ、ケラララッラー」なんて謳うように売っていると、思わず買ってしった過去を持つ男です。
2003.08.13
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ベニスの仮面カーニバル(2月中旬)に出掛け、大いにエキサイティングしたのだが、そのカーニバル参加の一環として、密かに持って行った、100円豆の袋についている子供だましの画用紙でできたしょぼい鬼の面を、恥かしくてリュックから出すことが出来なかった実績をも有する。皆、気合と金の入った衣装に身を包んでいたのに、失礼極まりない程情けないお面であった。勿論、かぶるときは輪ゴムを耳に引っ掛けるのである。次回カーニバルに行くとしたら、羽織ハカマぐらいの気合と荷物背負いの根性がなければ世界的カーニバルに失礼だと、その日から思いつづけているのであった。
2003.08.12
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以前横田基地にでも行ってみるか、と思った。八高線というのに乗る。東福生駅で降りると、駅前には何もなく、50メートル程歩くと16号線にぶつかり、道沿いに永遠と壁が続く。壁の向こうに9階建ての同じ形の空軍宿舎が連なっている。5分おきに飛行機がびゃんびゃん飛んで行く。16号線沿いには米軍を相手にした土産物屋やリサイクルショップ、東南アジアのリゾートにありがちな木造のポップなイタリアンやインディアンのレストラン、米軍払い下げグッズ屋、パッチワークの店、バプチスト教会などが延々と続く。が、人通りはほとんどない。子供を連れた黒人の前を通りすぎるときに「わからないねー」と日本語を子供に喋っているのが聞こえた。子供はハーフ間違い無し。第2ゲートからサングラスをかけた白人の女性が颯爽と日本車を走らせて出て行った。
2003.08.11
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