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中は熱いけど、外は、全く感じないわ。降り積む雪が、息を潜め、斜陽する体、希薄になるつつある意識を意識して、そおっと消え行く。消え行く面影。安定してゆく。隙間を埋めていく無。自由な軌跡を描き回る運動が閉じられて行く。無への促進を保証して行くシュプール。カタストロフィー的猛烈人間の永劫。またかという諦め。 居場所のないトランジット人生。流転しつつあるのは時空と匂いとの錯誤。薄目をしながら、爪と皮膚に挟まった血痕を眺めながら、麗しく思う。薄目を擦ると、指に、目やにに交じった砂が数粒、何だか、かわいらしく思う。 旅する言葉。雪の白さ。そして恣意的に自己撞着。透徹の雪に全面敗北。自己吟味する力もない程の心地よさ。記憶と想像の配分は3対1。それも加速度的に反比例して行く。全てを無駄にする余裕と、破壊する欲望と権威を無視する優雅さの訪れが、強くゆっくり降りてくる。スライム状に流れ落ちて、スラッシュ状に留まる。 もはや立ち上がれない程の疲労と超意識的な徒然と獰猛な勢いでやってくる腎虚の混在。 安らぎの幻覚が、緩やかに最期を照らしてくれる。余剰で過剰な思い出が、核にあるエネルギーを消費させて行く。初めてエネルギーを発散以外に使う。そして最期の集中。 怪しさの隆起。胡散臭さの没落。初めての偶発的自由の排除、必然的自由の到来。暫くして、体は物質となり、物質として扱われる。もはや物事に意味や味を付加する必要もなくなった。いとも簡単に枠を超えて行った。正直の否定が情熱を高めるという虚偽も消し飛んだ。 初めて、真実も見ず、恐怖に安心する人間を逸脱した。心のパラフィン紙のフィルターが破れ、幾つもあった道が統合され、一直線という最短距離になった。 生きてきたのは、イメージの産物であった。 横にいる女は冷たい。息はない。7日前に知り合い、7日間の逃避行の連続の結果が、これか。洗いざらい吐き出し、貪って、これだ。降り積む雪が、重なって、思考は輪郭がぼやけ、重なって、重なって。少し、疲れたようだ。少しだけ、休ませてくれ。「先日この近くで若い男女の心中があったの知ってる?」「知っているよ。有名な話よ。すごいブスとブオトコが死んだ話でしょ」まだ行けてません
2004.04.30
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チベットで5300メートルの峠を越えた瞬間、俺は俺なりの詩人になった、と強烈な高山病からくる頭痛と眠気から錯覚を起こした。詩人だからといって詩を作るつもりはさらさらなかった。下界インドに南下して、「詩人になっちゃったんだけどいいかな」と出会った者に宣言してみたが、あざ笑い又は失笑。 一生懸命積み上げてきたものの先が見え始めた時、一気にぶち壊してしまいたくなる衝動に駆られて、その快楽に酔いしれてしまう今宵。本当に必死で守っているものがないなら、捨てちまいな。初期化のボタンを押して過去がスーっと真っ白になるとどんなに愉快だろうか。閑吟の人クプクプは市井の人ピーターと対話を収録した。「そんなこといったっても世界の半分は飢餓状態ですぜ旦那」「このお地蔵サン、国籍は朝鮮だってさ」「人が殺されるのはいつも不当な権力からの弾圧によってです」「環境不適応者の続出です。飛ばし過ぎです。一億総分裂病で二倍、二倍~」「人の毛をとってな、人の毛を取ってな、ホウキにしようと思ったんじゃ」「新種の病気、戦争、人工爆発、ジンルイメツボウの3種の神器です」「どこへいけばいい」「SOMEWHERE OUT THERE」「嬉しい手紙だよ。個人的な小さな喜びだよ。自然に対するいいようのない不安だよ」「幕を開けろ、トリックスター」「もっとバイキンを。消毒し過ぎ、もっとバイキンを!アチョー」裸足の上からスリッパはおって、6日間風呂を抜かして、Tシャツは水色を基調に黒いミミズよ。そいつうの上からGジャンはおって、7日間同じ格好して、Gパンは水色を基礎に花が飛び散るのよ。とても気持ちが良い日差しの日には、部屋にこもって、TシャツもGパンも俺の体もくしゃくしゃになりながら起きることを拒否する。朝には全く起きる必要がなかった。もはや朝には全く寝る必要もなかった。満席。リズムに合わせて、右手を挙げる。左手を挙げる。視線を投げる。櫛は不要。机上の理論。飲みかけのコーヒーが底にたまったマグカップ。内側にワッカができている。不要な櫛。落書用マジックインキ。倒産したブテックから貰ってきた鉛筆削り。開けもしないDM封筒。Dは言っていたな。初めての日本での給料が月300ドル。2回目が月500ドル。2回目は2年間オーバーステイして、その間にヤクザとの間に子供を産んだ。現在その男はは麻薬取締法違反で刑務所在住。そんなDは、祖国に帰ってきて言ってたな「毎日、毎日何もしないで生きているだけだ。疲れる」と。コップは一度しか洗われていない。劇は永遠に続くが、残念ながら私は有限であった。峠は決定を強いる所だが、ゆっくり小便をする所でもある
2004.04.29
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1日の稼ぎはチップだけのウエイトレスでえ~す。全部、という言葉の乱用、全部する側とさっれる側。Good girls can go to heaven, Bad girls can go anywhere.(マニラ・ジプニーの中の落書)苦あれば更に苦あり、楽あれば更に楽あり。生への衝動。安定と惰性の差は?ジェンブで20ルピーネ。不必要に清潔。ウインドサーフィンとテントとバタック族の家は基本的に同じに見えるワ。時々、猛烈に吐きたい。臭いものにはフタをしろ、しかし、身もふたもない。自分の体から排泄さっれたものは体から離れた瞬間に、やたら汚いものに感じる、他人になる。電気をいきなりつけたら頭がキュン。楽しめ、強制的に楽しめ。If you can shit, you can clean toilet except you are a big pig.(ジャンキーの集まる某ホテルのトイレの落書)時は金なり時々傲慢な臭い。赤い蟻を指で押して殺してしまった一瞬の快楽の為に。いいかげんな立場。催眠・脅迫・腐敗・徴兵という国家悪。隣人は泥棒だった(スールー諸島の船。又はドンムアン国際空港)子供がうんちをしながら手を振ってくれた(インド)ノープロブレムのあとにいつもフォーミーと聞こえた感じがした(インド)人の抜け殻としてのズボン。誘惑瞑想説得。ここは深いよ。カッコイイシャワーの浴び方考えろ。煙草を吸っている時に煙草を吸いたいと思ったことが何度あったことか。鼻をかむという大きな仕事を終えた快感。文字は時々紫の牛に豹変する。煙草は尖塔。眠たい感情、決して悪くない感情だ。ウソの塊がフワフワと歪んでら。舌が唇を探している。肌見せたら鞭打ちだぞ(イラン)社会動向に感情が混じって歪んでら。マニラとはこれまた唇が分厚いというイメージであるわな。目のレンズの潤いとその波をみた。気分は立派な正義。自分が正義。成田上陸寸前はアジアの田園風景。痩せこけた牛の屍を食う犬(旱魃地帯インド)暇を潰す為に生きてます、でも退屈ではありません。思い込みが自信です。シェラピンじいさんの白い労働作業着を下さい。だまされる悦び。妄想よ理想よ過失よ狂気の処女よ明るい憂愁よ浮遊状態の均衡よ別に用はないよ。一番汚くなるもの、洗濯しない布の財布。山があるとしよう、人がいるとしよう、道をつくるとしよう、自然は破壊される。びろんびろんで楽しい世界もある。私はカラチでアラビア海のほとりで髭を剃ったことがある。題のついた夢をタイの列車の中でみた「流星になったポケット」ガンジス川対岸まで泳ぐ。風がなければ蚊取り線香の煙は夕闇をまっすぐ上がる。手抜きキスより安っぽいキスの方が、軽薄さゆえにまだましだろう。蟻の歩いていった後をマジックでなぞっていった。少し嘯いて。吸い終わり、投げ捨てた煙草が偶然壁の割れ目に突き刺さった。万事裏腹。蝋燭、ホウキ、ビールはビーチ3種の神器。恋でもすればデカダンス。
2004.04.28
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ボクはどうせピエロさ、真面目なピエロ、ピッピッピッ。道化師だよ道化師だよ、ヨッヨッヨッ。拭き掃除も得意なのさ、サッサッサッ。泣こうぜ嬉し泣き、キッヒヒヒッ。 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがウイークリーマンションに住んでいました。分不相応ですが、家賃は大変で年金だけでは生活がギリギリという状態でした。2人は密かに革命の勇士を目指していましたが、何を思ったのか、少ない生活資金からマッキントシュパソコンを購入し、入力作業の勉強を始めました。3年の月日が流れ、型番も古くなり始めた頃、おじいさんはやっと1分間に30文字をブラインドタッチで打つことができるようになりました。おじいさんはネットサーフィンにうつつを抜かしていたので、芝刈りを怠ってました。というより芝はどこにもありませんでした。でもそれは言い訳で、おじいさんは実は5年前に芝刈りに出かけたのですが、芝のあるところ迄行くには電車賃が掛かり過ぎましたし、銃刀法違反で捕まったり、山の所有者に窃盗容疑で訴えられたりと懲り懲りだったのです。それ以来、いじけてキーボードを叩いています。時々1日がかりで脅迫文を作成してみたりするのですが、印字から型番等が漏れる可能性が高いということをニュースで知り、へっぴり腰になっています。 おばあさんは川に洗濯に行きたかったのですが、生活廃水や工場廃水、そしてゴルフ場からの農薬、更には酸性雨の為、衣類が余計に汚れるだけでなく健康にも良くないということを学び、コインランドリーの操作方法を2年がかりでマスターしました。 そんな2人も、ロシアルートを利用して、トカレフ銃を手始めに武器弾薬を手に入れるのですが、これを元に革命を起こす準備を着々と進めていたのでした。マスコミと皇居の占領、海底ケーブル等海外通信網の遮断、インターネットのスパムメール等いろいろ検討していました。 ところで、2人には医学の進歩により高齢出産で生んだ桃太郎という子がいました。しかし、まだ5歳にもなっておらず、託児所に預けて革命を決行したのでした。 おじいさんはマシンガンをもって放送局に、おばあさんはダイナマイトを腹と頭に巻いて国会議事堂に行きました。同士は、インターネットのホームページで募ったのですが、猿とかキジとか犬とかろくでもないものばかりが集まりました。キジはいつの間にか天然記念物に指定され、人間以上に監視される生活で、人目を避けるやりくりが大変だったみたいですし、猿は、動物実験最右翼として新薬開発のために大量に中間が殺され続けてましたし、犬は、犬種差別が酷く、雑種の立場は非常に低く妬みや逆差別等に苦しんでいたようでした。それでも彼らの働きもあり、無事革命は成功しました。 しかし、革命後は政治から経済になるので、高尚なおじいさんと妖艶なおばあさんは経済に疎いので、一線を引き、また元の年金生活に戻りましたとさ。おまけに動物たちにはキビダンゴの一つも与えるのをケチった為、年金の振り込み先から居場所がばれたのだとは思いますが、動物たちのチクリで首謀者としてじいさんばあさんは捕まりました。「じじいは死すとも自由は死なず」といったとかいわなかたとか。 その後、託児所に預けぱなしで忘れられていた桃太郎は、親の愛情も知らずに大きくなり、勝手に平和に暮らしている鬼が島に出かけ、略奪と殺戮の限りを尽くし、鬼からの略奪品で一生を贅沢に暮らしたそうであったのでした。めでたしくないめでたしくない。
2004.04.27
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香港といえば、摩天楼であるが、香港島の南部、スタンレー半島は高級住宅街とマーケットで有名だ。もともと漁師町だったところがマーケットになったので、曲がりくねった路地に小さな店がびっしりと並んでいる。中国料理屋台や青果、シルク製品、ブランド品、骨董品、みやげ物、パチモノなどが人気だ。欧米人相手のマーケットとして始まっただけに、ほかの露店と違って英語が通じる。海沿いの道にはなかなかおしゃれなレストランやバーも並んでいる。ここに着く前にはて元香港提督邸やジャッキーチェン邸宅の前を通り、海沿いの道をぐにゃぐにゃ行くのが愉快である。マーケットは私にはあまり興味の引くものはない。海へ出ると、金持ちの子供達がバスケットボールをしていた。海岸通は、どこかに似ているようでどこにも似ていない感じで、あえて言えば瀬戸内海の家島諸島か。海岸通でゆっくりできれば心地よい筈。 スタンレーマーケットの海岸通から夕日を望む。1級資料。1日だけアルバイトと賃金ポートアイランド 三井倉庫内 キウイの袋開けコメント:嵐で入船が遅れ、バイト中止、慰謝料として3000円くれる。ラッキーというべきか。入船後連絡あり行く。17時~24時 8500円国際展示場 マネキン人形の運搬コメント:途中でマネキンが足りなくなり、バイクなど移動手段のある者数人がが本社倉庫に移動し、倉庫から取り出すハプニング付。18時~21時30分 4000円ダイエー 店頭にて殺虫剤フマキラー販売コメント:レジがなく金銭管理が適当。千円札は信頼されてないからかこまめに店長が回収に来る。家の近くだったので、同級生や高校の先生が通りがかり、勝手に値引き販売してしまった。こんなことでいいのか。9時15分~21時30分 7000円北野の高級ブチックマネキン配置コメント:運搬屋と私で、ちゃっちゃと仕事をやっつけてしまう。盗まれるものがないのか、ブテックでの社員じゃないのに鍵を持っていた。9時30分~12時 3000円。スーパー改装工事コメント:埃まみれになる。9時~18時 7000円スーパー店頭野菜売りコメント:大声出して売る。割と売れる。立ちっぱなしで偏平足の私はしんどい。最後の6皿は勝手に半額にした。最後の1皿は、店長は捨てた。16時30分~20時30分 3500円水道管修理助手コメント:工具を社員に渡すだけで、楽チン過ぎた。8時30分~17時 6000円マンションの配管洗浄コメント:前述と同じ会社で楽チンかと思えばハードであった。マンション管理会社に委託を受けたようだ。1件1件廻り、配管を洗浄していく。私は薬を風呂場に撒くのと、領収証を切っていくのが仕事。8時30分~17時30分 6460円百貨店内厨房改装工事コメント:ぼーっと立って観てるだけ。7時~17時 8250円 (うち移動時間3時間 及び 11時30分~14時まで休憩)病院の引越コメント:多分病院側のミスであろう。きっといっぱいあると思ってバイト雇いすぎ。17時までであったが午前中で終了。2,30回した引越バイトでも一番楽であった。9時~11時 6000円マンション屋上の受水層内の掃除コメント:無茶苦茶暑い、無茶苦茶汚いこんなん飲んでるのかとびびる。8時~18時 6840円 (帰りに暑くて飲みに行き7000円使う)工場内食堂厨房の大がまの移動コメント:化学工場内の古いでかい釜を取り外して、脇によせる(だけで1日がかり)。メインのおっちゃんが昼飯時に喫茶店でアイスコーヒーのことを「レーコ」といった。その時初めて冷コとう単語を聞いた。8時~15時 6000円スーパー廃材運搬コメント:それまでのバイトの人がほとんどやってしまっていてメシ食っただけ17時~22時 3800円淡路島イベント撤去コメント:神戸からタクシーで淡路島南淡町まで行く。実質労働時間3時間。7時30分~16時30分 6000円新築戸建の窓サンについたゴミ取りコメント:・・・スーパー改装工事コメント:ひたすら壁のクロスをはがす。一晩中はがす19時~5時 10000円+ロイヤルホストで夜食地下鉄内清掃コメント:若いバイト数人とシルバー数人のコラボレーション18時~5時 10000円+カップラーメン道路小学校前グリーンベルト舗装工事コメント:唯一、形に残った感慨深いバイト。20時30分~4時30分 8000円+弁当某家電大手手伝いコメント:営業について手伝い。助手席に乗って仕事に行くかとおもいきやいきなり喫茶店。いきなり営業マンたちの溜まり場でびびる。町の電気屋2,3店回るが、仕事は特になかった。何故雇われたか不明。9時30分~17時30分 12000円大丸残業伝票整理コメント:課長ずっと電話に振り回されている。この人、いつ休むんやろ。16時30分~18時30分 4000円
2004.04.26
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時間ができたので、レイトショーで半額近くになる映画館へ行ってきた。本日公開のキルビル2を見た。http://movie.goo.ne.jp/special/killbill/1作目越えるか同等であったという映画は今の所、「ゴッドファーザーパート2」か「フレンチコネクション2」しか思いつかない。残念ながらこの作品もそうであった。ストーリーは前作より分かりやすくなっているが、Qタランティーノの笑い声が伝わってこないのが悲しい。キルビルも映画としてはいまいちであったが、本当にタランテーノがゲラゲラ笑いながら映画を作っているのが伝わってきた。今回も、ストーリーなんかいいから、もっとハチャメッチャして欲しかったわ。それにしてもこんな暴力映画に、デートでも来るねんなあ、と感心もした。何か、車で観に来て、日時が変わった頃にまた車に乗って帰るなんて何となくニューヨーク以外のアメリカーンスタイルゥみたいな感じであった。シネコンだし。イーグルスは名曲をいっぱい生み出したが、「ホテルカルフォルニア」が名曲過ぎて、これを越えることがついにできなかった。売れすぎた為に秀作でありすぎたために解散したバンドかと思っている。70年代全部集めても多分一位に選ばれるのではないだろうか。そこまでいっては何だが、タランテ-ノは「パルプフィクション」「レザボアドッグス」といった10年前の作品を越えられないでいるような気がするのであった。私は、http://www.02.246.ne.jp/~ftft/movie2-5.html フロムダスクティルドーンもまあまあ好きですけど。ジョージクルーニーもでてくるけど、タランティーノも出てて、彼の足フェチが愉快でした。お下品な映画ですヨ。http://www.jcci.or.jp/machi/9909ishigaki.html千林商店街に行った。千林商店街は豊臣秀吉が大阪から京都にいたる淀川沿いの京街道の一環のして存在し、今でも賑わいを見せているが、ここを有名にしたのは、ダイエー発祥の地ということだろうか。聞いた話を書こう。主婦の店ダイエーは、スーパーマーケットの走りで、百貨店を出し抜いて、N社長が展開していったのであるが、当然安く売られては百貨店が困る。そこで問屋に百貨店はダイエーに下ろすなと圧力をかけたみたいだが、これには消費者である主婦達の顰蹙を買った。消費者にダイエーは救われたのである。勿論、卸問屋に対し、値切り値切り倒し、金払いが悪くて有名であったとも聞くのだが。そんな破竹の勢いで既存の常識を破っていったダイエーだったが、次世代についていくことができなかった。アメリカからセブンイレブンが提携先を求めて日本にやってきたとき、まずはスーパー王ダイエーに話を持ちかけた。N社長は、コンビニといっても定価でモノが売れるはずがないと、提携を断ったのであった。そしてイトーヨーカ堂に話をもっていかれたのであった。時代は、豊かになる、距離や時間が需要を生み出すということにN社長は気がつかなかったようである。生活スタイル(時間帯)の多様化にも気がつかなかったようである。(普通は気がつかないが)コンビニの土地を探している仕事をしている人に聞いたことがあるが、やはり商圏は400メートルぐらいで5,600世帯がないと検討もできないといっていたが、逆に言えば夜中に小腹がすいても昔は我慢していたがちょっと夜中に2,3分歩いていけるなら買いに行ってしまおう、ついでに雑誌も、と需要を生み出していったのである。コンビニのオーナーとも話をしたことがあるが、土地の持ち込み、土地建物持込、まったくなしではロイヤリティ(売上の中からどれだけ看板代を払わなければならないか)が死ぬほど違うみたいだ。駐車場の有無、道路の遠くから見渡せること、など売上に左右されることをいくつか話してくれた。話はそれたが、セブンイレブンの躍進にびっくりしたダイエーは急いでアメリカに渡り、ローソンと提携に持ち込んでいったのであった。 ちなみに、ダイエーというのは、日本の高度経済成長における不動産屋でもあった。商品の売上だけでなく、時代の流れつまり不動産の低迷がダイエーの没落にも直結していると考えられる。ダイエーは駅前の、発展してない方の土地を買いまくった。それも店舗の2倍の土地を。そしてダイエーをオープンさせると、人々の流れが変わる。駅の反対側で安いスーパーがオープンしたのだから。そうすると土地値は上がっていく。そこで隣の駐車場などで置いていた余っっていた土地を売却したりして利益を得ていくのであった。しかし、バブル経済がはじけ土地、特に商業地の土地値は逆に下がり、この商法は終焉を迎えたのであった。次の時代は、もっち近く、つまり家にいながら簡単に買い物ができるという時代が来る。失われた風景~マニラの下町より それをノスタルジーといわれても別に構わない。だが、その光景は私の幼い頃には既になかったものであった。経験していないのに懐かしい?遺伝的記憶?映画の映像や書物の描写に自己同化させているから?下町の光景。 それは今をもってアジア各地で見ることができ、どこか懐かしいと感じずにはおれまい。経験もないのに何故か心が和むのはどうしてか、日常的なものに。 夕刻、常夏の国の下町、グラデーションをかけるようにスローモーションのように薄暗くなっていき、セピア色になる。人々が、ボコボコになっている舗装道路の道端に出てくる。椅子を持ち出す者、蚊にかまれて腕を掻いている者、佇むだけの者、世間話をするおばちゃん連中や若い女ども、怪し気にたむろする若い男達。サンミゲルビール片手に上半身裸で取り留めのない話をする親父。まだ走り回る子供達。1本からばら売りで売っている煙草売りの兄ちゃんや駄菓子売りのあんちゃん。たむろする人数分の煙草だけを買う男、子供に買い与える駄菓子を買う女。もうエンジンがいかれちまったバイクはスピードも出ず、爆音だけを鳴らしてゆっくり進む。 子供が裸足のまま萬屋(サリサリストア)で1本の煙草を求め、火をつけてもらって、親父の元に走る。近くで見ていた女どもが、「あんなに小さい子が煙草買って」と驚き、数十メートル離れた親父に煙草を渡すのを確認して「なーんだ」と笑みをこぼす。 排気ガスの為、空気は暑さに混じり、モワモアで息苦しく、おまけに澱んでいる。町の壁は煤がついて黒く汚れている。混沌として危険な雰囲気を漂わせている。白い制服の女学生の服が煤で汚れていくのを見るのは忍びない。口にハンカチを。 「汚れ」に基準はない。「清潔」には標準がない。生活が見える、剥き出しの生活が。武器の不携帯を証明し、草履に下着姿が無防備を包容する。 「汚れ」に基準は必要ない。「清潔」に標準の必要はない。そこでは、家から1分以内にお店があり、家から1分以内に交通手段があり、家から1分以内に同級生が住んでいる。 呆然としていようが、ぐずぐずしていようが叱られることはない。私はそういうところで育った覚えはない。しかしながら懐かしい。懐かしいという意味は心和ませる何かという意味ならば正しい。 人気のない整備された閑静な住宅街で育った。それが日本が発展してきた恩恵だった。そこから噴出す問題は数値化されないことばかりだったので、問題はなかったと見なされた。 現風景はどこか。どこへ。
2004.04.25
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1994年1月17日午前4時35分、ロサンゼルス大地震。死者約60名。第一報がクリントン大統領に入ったのが発生15分後。1時間後には、州兵1万人が出動、その7分後に消火活動開始。消防ヘリコプター、陸海空軍、ドクターとにかく何でもかんでも許可云々関係なく総動員された。テレビや映画でも見たことがあると思うが、トリアージドクターというのが、死んだ人、軽症の人、ヤバイ人にそれぞれシールを貼り、ほっとけ、病院行くな、最優先で病院に運べ、を判断していき、後からくる救済活動を敏速化させた。負傷者は多かったが死傷者は少なかった。しかしながら、黒人や韓国人の間で発砲事件を始とする暴動があった。1995年1月17日午前5時17分、阪神大震災。死者約6400人。第一報が村山首相に入ったのが発生110分後。行政経験もなく、それを知ってもなすすべがなかった。会議を開き、最高責任者は国土庁長官になった。自衛隊のへりは社会党は自衛隊反対の見地から出動がすぐできず、航空法で民間のヘリも着地できない。世界で3番目にヘリを保有しているというのにヘリでの救出は20人に満たない。病院は怪我の重度でなく、到着が早い者順の治療となった。圧死、窒息死。そういえば、外国からの救助犬も検疫か何かにひっかかってたっけ。総理は、当日「新春文化人懇談会」に出席して時間オーバーするほどに歓談していた。しかしながら世界が感心したのは、人々の落ち着き振りであった。火事場泥棒の少なさ、暴動どころか、助け合い、コミュニティが自然発生的にできあがっていった。当時の日本銀行神戸支店長は英断した。どうせ義捐金が入ってくるからと、金庫にあった現金を全部持ち出し、一番被害のすくなかった銀行に持ち込み、彼の責任において支店を開き、お金は十分にあることを伝えた。お金は、通帳がなくても払い戻し可能、ハンコなくても母音OK、定期の解約は即OK,焼けた金は即交換など、パニックを回避したのであった。確かにそうであった。私も、心理的に、安心感を覚えた記憶がある。これは関東大震災の教訓だという。このすべて反対のことをした関東大震災ではこれも要因のひとつとなり暴動や略奪が起こった。また400万円分の小銭を用意して、自動販売機等で使ってくださいと無償でばらまいたにもかかわらず、半数近くの人々が、紙幣を差し出して両替対応したという。今回のイラク誘拐騒動に無理やりこじつけるとしても、何となくつながる部分があるように思える。
2004.04.24
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隠し砦のこの前来てなかった5悪人 調子に乗って、先日飲みに来ていなかった大学の超硬派クラブに所属していた他の極悪メンバー同輩後輩の暴露することにした。(先輩の暴露はもっとスザマジいので後日に譲るとする) つきあいも15年前後になってくると、いくつかそれぞれの人間に面白いエピソードはいっぱいでてくる。卒業後その後、を思いついたものをひとつだけ紹介。 H.何を思ったか田舎出身の彼女は、私の見る限り、稀に見る酒豪であり、学生時代は、私と何度も朝まで飲み、その量一人ビール5リットルであったが、卒業後、大手航空会社機中支給士になってからは、更に酒癖が悪くなり、ついに一晩でワイン5リットルという金文字塔の記録を打ち立てていた。特に、緊急の場合に備えて家に待機しなければいけない日には、朝からドリンクカー、リビングドリンカー、コタツドリンカー、であった。そんな彼女も、ちゃんと飲食関係の人と結婚して、ちゃんとただ酒密か酒を飲んでいる。稼いでも稼いでも利益が上がらないのは彼女が店のワインをがぶ飲みしているからだということを旦那は知る由も無い。 S.高校時代のあだ名はメタ子と言われ、先生に絶対無理だと言われた大学に無事合格した、部屋に髑髏を飾っている恐ろしい女だが、学生時代に恐山に行き、石を持って帰ってきて、祟られたのか、翌日から目がお岩さんになるだけでなく、実兄の眼もボッコンになり、エエ加減にしてくれと叱られっぱなしであったという経験を持ちつつも、いまや更正し、大手雑誌社で腰掛のつもりが10年以上勤めている。結婚もし、子供も産んだが、まだときどきお祭りみたいな服装はしている模様だ。 もうひとりのS。男性諸氏には喜ばしいことだが、彼女の好みははげであった。おまけに鷲鼻が好みであったようだ。どういう人生を歩んできたか不明であるが凄まじく食い意地がはっており、ある会合では、初めの挨拶の間、目の前にある寿司を一点の曇りもよそ見みなく見続け、涎をたらし、食べていいときに3秒で食ってしまった実績を積んでいるが、今や、移住先のオーストラリアでは、家を購入して毎日DIYしている様である。結婚式に夫に「星」をプレゼントしてもらったと喜んでいたが、限りなく似合っていない。 またもうひとりのS.病的な太り方をしては、私はスポーツ心臓だと、心臓肥大を勘違いしてほえ続けた彼も、ある洞窟合宿にいったとき、ラダー(はしご)で暗闇を50メートル下っていく途中で怖くなって「足がすくんで動かんのですよ」といい一晩中はしごの中間で固まった実績を持つ。彼は大学6年のときに、ワタシは、何をしているのかと聞いたことがあるが、スイミングプールで泳いでいるとの返事があった。彼が大学7年のときに、ワタシは卒業できそうか聞いたことがあるが、まだフランス語1と英語1を履修していた。ワチャー。その後の消息は不明である。ワタシは1回生のとき15単位であったが、彼は8単位であった。放校は私のせいではない。 もうひとりのH.彼も、休学して世界一周旅行に出かけたはいいが、半年たっても、まだ1カ国目のタイ、それもバンコクから動いていなかったという栄光の実績を誇る。その後、彼は決意し、インドに飛び、バナラシに半年、ついに1年で2都市で終わってしまったようである(ビザの関係でマレーシアやネパールに数日は行ったみたいだが)何をやっていたのかはこの場では書くことははばかれるが、日本に戻ってもペースが掴めず、薄気味悪い笑いを浮かべていた。電波系になってはいたのだが、そんな彼も無事、頼み込んで卒業し、大手商社に勤務したが、多分、スマッグラーでもしているのではないだろうか。得意技は他人の顔にタバコの煙を吹きかけることだが、まだ無礼なままだろうか。 ああ、おそろしや。
2004.04.23
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先日、大学の超硬派クラブに所属していた数人の同輩後輩達と会った。焼肉を食った。時々会うのだが、つきあいも15年前後になってくると、いくつかそれぞれの人間に面白いエピソードはいっぱいでてくる。卒業後その後、を思いついたものをひとつだけ紹介。O君。学生時代長髪だった彼は、その理由でシンガポール入国拒否され、ジャカルタかクアラルンプール当たりに追い出されたこともあったが、無事大手証券会社に就職し、ある顧客の信頼を得たところ、預かった1億円の運用をわずか3日で半額にし、取り返すべく手は出してはいけないといわれるハイリスクハイリターンのジャンク債に手を出し、4日目には10分の1にしたという実績を持っており、そのとき、顧客にネクタイを引きちぎられたそうである。また、クルーザーに乗せて貰う約束も反古となったのであった。そんな彼も、今は、子供を3人も産み、私を神とあがめているようなので、素晴らしい教育方針であると推測される。M君。彼は順調に大学を退学(もしかしたら除籍か放校かも知れない)した後、単身北海道に渡り、牛の世話をした。牧場での話はいっぱいあるのだが、彼は家賃が1万円以下、収入は入るが、支出がほとんどないという状況に陥り、友人に闇金融業を始めた。返済が滞ると、彼は何故か、その人たちが持つバイクやギターを取り上げていたのえあった。そのため、牧場生活5年目にはすでに1200CCを筆頭に、バイクが5台、ギターを3本持つ男となり、バンドを結成した。牛を扱うものの会話は農協から借りる莫大な借金自慢も多く(「越えたか、うちは越えたで」というのは借り入れが1億円のこと)彼らにとって、Mが貸していたお金は屁の突っ張り程度だったのだろうか?そんな彼も、夢半ばで帰阪し、プログラマーになり大手ソフトウエア会社で勤務している傍ら暴利でプログラマーの講師をしている。Y君。彼は就職した大手印刷会社を数秒で退職し、自らの転職となる写真の道に入った。彼は、芸術的な写真を撮るという志はなかったようだが、独立してからというもの、機材の購入費が半端ではないようである。割と自由が利く部分もあり、去年上海にわざわざ2泊3日で大阪から船で(鑑真号)行ったようである。そして現地に2泊して、また2泊かけて大阪に船で帰ってきたようでる。意味はない。彼は学生時代、韓国自転車縦断の旅に出て、釜山より1日目にして挫折した苦い経験を持つが、そんな彼も今はマウンテン自転車でエキサイティングしているようである。S君。彼は学生時代入部してばかりの時に無人島合宿にて、共産党宣言してアジった挙句、貴重な酒瓶を割り、我々からボコボコにやられた経験があるが、卒業する頃にはボコボコにする方に回ったのである。但し対象は人間でなく、コンクリートやシャッターであった。そのため彼の拳はボロボロになるのだが、こんなんなんじゃいといいながら街を闊歩していた。翌日、学校食堂で包帯をぐるぐる巻いた彼の雄姿を見たものだ。そんな彼も、大手ビールメーカーに入ってからは一度だけ脱糞したこと以外は、まあまあ真面目に仕事をするフリをしているようである。H君。彼は卒業後大手スポーツ店に修行の為就職したのであるが、その後、会社の醜さや社員を不幸にするというシステムに嫌気がさし、数年後退社し、世界1週の旅に出た。期間は3年と思っていたようである。まず、アメリカに渡った瞬間に実父の体調が悪くなり、夢半ばにして日本に引き返されたのであった。大学の頃は、酔っ払って、やくざのつれた犬を蹴り上げて、ボコボコにされたこともあるが、そんな彼も、今は立派に跡継ぎして社長をしている。しかし会社内容は芳しくなく、もっぱら営業外利益(彼の株の運用益)で会社を存続させているという噂である。また飲みに行こう。責任感だけなら、うつろな愛親密さだけなら、ただ好きなだけ恋心だけなら、単なるのぼせ親密さと恋心だけなら、ロマンチックな愛恋心と責任感だけなら、実態のない愛責任感と親密さだけなら、友情的な愛3つそろえば、うーん、分からん。エチケットとは、トイレのないと言われたヴェルサイユ宮殿で、外で用を足す人々に、「ちょっとこんなところではやめてね」という立て看板のことらしい。
2004.04.22
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サクラ フィリピンにサクラという賭け事がある。嫁サン働かせて日々プラプラしているダバオ出身のAと一緒に賭博場を覗いた。暫く様子を見ていたが、たまらなくなったのか横から手を入れて最低賭け金額5ペソ(当時のレートで40円)1枚を台の上に置いた。勝負は5秒で終わり、彼は、私の方を向いて、眉毛をハの字にして精一杯の情けない顔をして「負けた」と呟いた。嫁サンの1時間分の時給を5秒で失える。家族の夕食のメニューが1品減る。私は、損失補填するつもりはさらさらなかったが、やるせなくなった。その夜、彼とその嫁サンをディスコに招待してあげた。3人で360ペソ(当時のレートで2880円)であった。メシを馬ほど食い、サンミゲルビールに、売出しキャンペーン中のマニラビール、そして何故だか、舞台ではヌードショー。周りを見渡しても、家族連れやカップルやグループで食事に来ている。そして気が向けば踊り、踊りの間にショータイム。さすがサリサリ(なんでも)の国であった。 死ぬことをフィニッシュという印度人がいた。それって宗教観なのか?
2004.04.21
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金(キン) 私が小学生の頃までだろうか、金歯のおばちゃんがやたら多かったような記憶がある。もしかしたら、金歯が光っているからやたら印象に残っているだけかも知れないが、授業参観でも何人かは笑顔からエカテカの金色が漏れていたような記憶がある、ような気がする。あの頃は、考えてみれば、日本の繁栄と発展の最終段階ぐらいの頃で、金はその象徴として時代を闊歩していた、ような気がする。私の母も何を思ったのか、一度私が虫歯になったときに、金歯を歯医者に要望してくれたのだが、猫に小判、豚に真珠、私に金、という具合に、私にはその価値、価格は分からなかった。金歯を入れてもらった翌日私は、ミルキーあめちゃんを食べた。そして金歯がくっついて取れた。そして、捨てた。数日後、別の歯を見てもらいに行ったときにに歯医者が言った「あれ、この前入れた金歯がないぞ」私は子供心に知らんぷりをした。歯医者は、無料で、銀歯を入れてくれた。 それから私は、恐らく、順調に成長し、ロシアや南アで多く産出されることを知り、電流を速く流したり、酸化しにくいことを習い、概ね、金は金属の王様らしいということを学習した。 タイでは道端の露天商から高級デパートの中にまで金行というのがはびこっている。金色のネックレスから指輪から店内は金ぴかで、悪趣味だが、賑わっていて楽しそうだ。王宮も金ぴかである。何だか楽しい。あーたのし・・・いとわろし
2004.04.20
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ロックンロールただの呟き! システム手帳がぎっしり埋まることに安心感と安定感を得られる退屈な多忙さより、嬉しいほど暇で時間を無駄に使う優雅さを味わいたい、そう思っていた。官僚出身のゼミの先生でさえ、「学生時代というのは勉強よりも、その自由な時間を持ったことで今後の人生でそうではなかった人との差がでます」と言っていた。その頃、私は、大学の先生というのは、単に知を売っているだけの職業かと思っていた。そんなことでいいのか。来た道を、突然、意味なく振り返る寛容さを。柵に囲まれた退屈な平和の中で、管理され、漂白されていくのか。そんなことでいいのか。「出逢い」「すれ違い」「別れ」から「傍観」「磨り潰し」「引き延ばし」へコンテクスト変更!ひきつけを起こすぐらいつっぱろうぜ、ワナワナ…いいよ、いいぞ、目が血走っているのがいいよ、いいぞ…動く耳、宇宙人的で素敵じゃないか、拍手は3つ、1,2,3…ガキのジャンパーの手首は鼻水乾いて光ってるのがいいぞ、テカテカ…左右対称の笑顔が菩薩だね、いいね、アルカイックスマイル~…痛けりゃ、痙攣しようぜ、ピクピクピク…リゼリク酸ジエチルアミドクチャクチャ噛んで、ワッハッハー…背中掻きすぎて、血流そうぜ、ボリボリダラダラ…笑ってこけて、他人の歯の裏の虫歯の治療後見てしまおうぜ!オー…頚動脈3分押えたら、どっかへいっちゃた、ホエホエ…自己暗示にかけたら体が熱い熱い、あっ、ついつい…禁煙したから、煙草の灰を落とすことなくなった、ボーッとしてたら火事の元…その逆もまた真理である、BYブッダ…以上、老婆心ある愛でした。屈折とは呼ばないで。でも、鼻血でも結構です。 香港のビクトリアアピークに行くと写真屋が待機しており、「あんたらのカメラならこんなにキレーに夜景写らんけんね、ホラコレ見本、私が写したら夜景ばっちり彼女ばっちりと、ホラ見てごらん比較してごらん」といった比較写真を飾った写真屋にきっと巻き込まれることだろう。ああ在りし日の九龍城おお慕情
2004.04.19
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ムスメに自転車を買ってやった。「幼稚園に入ったら」と、以前から約束していたからだ。 (息子である私が、最初に自転車を買ってもらったのは3歳のときであった。特に約束はしていなかったが、3歳から記憶が始まったとはいえ、断片序章状態である。)自転車を買うまでは、ムスメは毎日愛用の三輪車に乗っていた。 (残念ながら私は三輪車を所持した経験がなく、その前は赤いスポーツカーであった。それは写真の中でしか確認できない。写真のバックの障子はすべてアナーキー状態である。そして自慢げに赤いスポーツカーを漕ぐ私の雄姿があった) センスの良い義父母が買ってくれたエンジ色の三輪車は外国製で、デザインはとてもクラシカルでお洒落なのだが、全身鉄製のそいつは車輪が廻るたびに「ギィコ、ギィコ」と鈍く重厚な音を立て、幼児が乗るにはさぞや重かろうと思っていたのだが、ムスメはそれをものともせず、毎日ものすごいスピードでペダルを漕ぎまくっていた。しかし最近になって、さすがに伝動効率の悪さに不満を覚えはじめたムスメは、近所の大きな子供たちがスイスイと自転車で走り去るのを見ては「自分も自転車が欲しい」と要求するようになったのだ。(私の初めての自転車は決して100万円の、フェラーリ製ではなくデザインもやはり今から見れば30年以上前の型なのでそろそろクラシカルでお洒落に見えなくもない。当時は大きかった自転車も、順調に小さくなっていったのである。恐らく12インチではないだろうか。私は大変気に入っており、高校になっても2号機として、活躍まではしないまでも保管されていたのである)記憶にある中で自転車に乗った最初の想い出は、幼稚園の年少の頃だ。ワタシは3人兄弟の真ん中で、上に3歳違いの兄がいた(今もいるけど)。ワタシが幼稚園の年少当時すでに小学生だった兄は、これまた近所のお兄さんから譲り受けた、小学生にはかなり大きめの自転車に乗っていた。 (私には兄がおらず、(今もいないけど)なのだが、大学の時、フィリピンに自転車持って行くことにして大阪の知り合いに無償で譲り受けたのだが、さて飲んでいたのも手伝い、大阪から30キロの道のりを夜な夜な運転すると頭と尻が痛くなり、ついに途中より押して歩いた記憶がある。ようやく朝方に自宅に着いたが、もう嫌になってフィリピンを持っていくことをヤメタ訳。そうしておきぱなしにして半年、隣の子が自転車使っていないなら頂戴ということであげた。その子にしてみれば、そのドロップハンドル自転車はかなり大きかったのではないだろうか) ある日ワタシは何を思ったのか、兄にも大きいその自転車に勝手に乗り、「乗る」というよりも万歳の格好でハンドルにしがみつくようにして、足はなんとかペダルを回しながら、ひとりで勝手に家を出た。(2回目の自転車はほとんど覚えがない) 家の前の路地を50mほど走り、車の往来の激しい通りに出た。30年以上前のその通りの両サイドにはフタのない下水路が流れていた。転倒ギリギリのバランスで蛇行運転をしていたワタシの自転車は、通りをさらに100mほど走ったところでついにバランスを崩し、ワタシは自転車もろとも深さ1mほどの下水路の中に落ちて行った。水量は大したことはなかったのだが、転落したショックと自分の上にある自転車の重みで身動きがとれない。途方に暮れて泣いていると、幸いにも通りに面した米屋の親父がたまたま転落の瞬間を見ていて、ワタシと自転車を引っ張りあげてくれたのであった。(実は、私もドロップハンドルで運転中に、「もしかして左右の手を交差して運転したら面白いのちゃうの~」とグッドアイデアが脳裏をかすめた。そしてすぐ、実行、そしてすぐに右側の深さ1mほどの下水路の中に落ちそうになってハンドルを右に切り、すぐ自転車ごと落下したのであった。幸いにも意識を失いことなく、顔に傷を作りながら私だけが這い上がった。自転車はどうやって引き上げたか記憶はない) その後、小学生になって初めて親に買ってもらった自分の自転車は、なぜかピンク色だった。とても気に入っていたのだが全速力で走っている最中に突然ハンドルがスッポ抜けて、顔から地面に叩きつけられたのを覚えている。(私の初めての5段変則であった。しかし友達の買ってもらった電子フラッシャーが羨ましかった。後ろの荷台には勉強道具をぐるぐる巻きにして塾(当時は別勉といった)に行ったものだ。小学4年のとき友達3人と甲子園球場まで自転車で出かけた。10駅以上向こうである。信号は全部無視して、また右側左側通行関係なく走り続け、バイクや車には大層迷惑であっただろう。しかしながら幸いにもハンドルが抜けたことはない。サドルが抜けてカンチョーされたこともない。鍵を落として困ったことは3回だけある) 小学校の高学年の時には、変速機のついた自転車を買ってもらった。当時は日本海に面した町に住んでいて、砂浜に靴を脱いで裸足でテトラポッドに登って遊んでいたのだが、夕方帰ろうと思ったときには満潮で靴のあった場所はすでに海になっており、ワタシの靴は海の藻屑と消えていた。仕方なく、裸足でペダルを漕ぎながら家に帰った記憶がある。 (ついに小学校5年生にはオレンジのボディをしたドロップハンドル10段変速を購入。照明ランプの豆球をオレンジや青に変えるのが1人で流行っていた。タイで自転車を購入したとき、最後、あまりにしんどくなり、南国の海に投げ捨てて、海の藻屑としようとしたが、やはり自転車は売る方がいいと思い、海から引き上げてきたという記憶がある。宿屋の親父が3泊タダにしてくれて自転車と交換した) その後、中学、高校とさらに2台ほど壊れたり盗られたりしながら乗り継いできたが、やはり幼い時ほど自転車との関係が濃厚だったように思う。ロクでもない出来事ばかりだったような気がするが、あとになってみればどれも懐かしい想い出ばかりである。(中学では2回乗り換えたが、乗り換えるときに同級生に譲ることにした。そのとき母に「あんた絶対売ったらイカンよ、ただであげなさい」と厳命されていたにもかかわらず、2000円で売ってしまった。私の生まれて最初の商売であった。おまけにテープ1本をせしめたのであった。中には何故だか「愛はかげろう」が入っていた。春休みや夏休みも隣の駅の塾まで自転車で通っていた。そんなわけで、何故かパトカーによく停められ、盗難車チェックされた。中学校の時は塾が終わるのは23時だったので、海沿いのカップラーメンの自動販売機で数回カップヌードルを食べた。)(大学にはいるやいなやバイクの免許をとってバイクも購入したが、自転車は自転車でまだまだ活躍していた。後は、飛ばすが、結婚時代も坂のない街に住んだので、自転車を持っていた。今は持っていない。) だから、そのマイ・ファースト自転車、大事にしてくれぃ、ムスメよ。「モノにも、想い出」なのだよ。(私からもお願いしとくよ、心斎橋氏の娘よ)
2004.04.18
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王子動物園、春終わる http://www.kobemap.com/sakura/s_data/056.html最近この近くのカフェにはまってる。http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/9987/kobe-takeya.html月に一度は食べに行くラーメン屋。今日は、ここに食いに行ったら旨かった。http://www.bea.hi-ho.ne.jp/tadahiro/toubei.htmウマイどころかいつも行っているラーメン屋の隣にチェーン店があった。驚愕した。http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/9987/kobe-tobe.html今日郵便局から年賀状お年玉葉書4等のレターセットが届いた。4等(下3桁)が当たったのは初めてだが、これは、はっきりいってしょぼい。5等の切手シートのほうが約18倍ぐらい良い。こんなところで人生のラッキーを使いたくない。 さて、本題に入るのでありますが、本日は自慢か意志薄弱かよく分からない告白というか事実というか甘さというかを報告申し上げたい。私は、高校時代、9クラスある中で理系2クラスの内の中の一構成員でした。私は、それは某国立大学理学部又は農学部しか興味がなかったのです。これでも私は隔世遺伝の色弱であり、様々な本や指導の中で技術者、工業系、マスコミ、アパレル、公務員その他色を扱うものは駄目といわれました。それは真っ赤な嘘であることに気がついたのは、働いてからでした。http://www.pastel.gr.jp/sodan/kkss.htmそんな訳で、私は、就職試験のときに聞かれました「あなたは色弱のようですが、いままで困ったことはありますか?」「はい、あります。就職試験のときにです」と。しかしながら実は、一度だけ色弱と意識したことがあります。色弱というのは微妙な色の連続の変化していく様子が分からないだけで、色の違いは分かるのです。しかし、ある山で登山をしているときに、沢にでて、その大きな岩にマジックで矢印が入っていたのです。それが剥げてきていて岩の色と変わらなくなってきて、あたかも色弱試験のような形相を帯びていたのです。そのとき、他の隊員は分かったが、私は、かろうじて何かがあるのが分かっただけであった訳で、「生まれて初めて実生活で自分が色弱であることを実感した、スゲエ」と言った鈴鹿山脈であったのです。 ああ、そうだった、さて、前置きはそのぐらいにして、私は、理学部数学科か農学部農芸化学いわゆるバイオテクノロジー科に行きたかったのでありました。勉強はある程度したのであるが、志望校もまあまあ共通一時テストでは、行けそうな気配はあったのであるが、それにとどまらず、ナポレオンヒルの「思考は現実化する」を読み、イメージトレーニングを欠かさなかったのです屈。ついでに伸運動も欠かさなかったのです。(おそらくイメージが間違えていたのであろうが。大学に入って研究を重ねる自分を想起するのではなく、苦しい受験勉強から抜け出してアソビほうけている自分をイメージしてしまっており、現実、そうなったのです)。それだけでなく、オカルトには興味はなかったのであるが、立ち読みで読んだ背後霊に関する呪文を覚えて口走っていたりなんかもしていたのでありました。確か、今でも覚えてます、オンバザタザラトバン、です。意味は、分かりません、念仏のようなものです。そして、私は、例に漏れず、滑り止めというのも検討しなければならないことに年明けに気がつき始めたのでした。そういう訳で、例に漏れず、私学を併願することにしました。当時は、グローバリズム反対人間で、下宿することも考えたことがなく、近くの理学部のある大学を受けることにして、本屋に願書を買いに行ったのでした。例に漏れず、そういった訳で、夜中に夜な夜な願書を開けたのですが、これが、不思議なことに全学部の願書が入っていたのであり、その時は、純粋にして無垢な性格であったため、まさか学校の受験料や入学金を得るための拝金主義いや、資本主義の原則に気がつかず、「こんなに願書いっぱい入ってたら何かええやんか」と思ったのでありました。早速、私は、文系でこの大学を受けるという高校の同級生(身長150センチしかし親父顔、走るのが異常に速い)に電話をしたのでありました。「なあなあ、願書ようけあまってんねん、俺、文系もイッコ受けてみる気になってん、一番難しいといわれてる学部教えてくれや」そういってしまったのが運のつきでありました。本命も滑り止めも順調に理系は不合格となり、このおまけのみ(経済学部)が合格となったのでありました。選択は二つありました、浪人してワンランク上の学校を狙うか、ここで数理経済学をやるか。 私は、受験勉強はもう勘弁してくれ状態でした(薄っぺらですが)。そうして私は、数学系の経済の科目ばかを履修したのでありました。入学して、一瞬にして履修した科目は断念され、1年生の成績は栄光の15単位でした。このままでは卒業に10年かかるという危機感を感じつつ、その翌年の春を迎えたのでした。
2004.04.17
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かつて、バンコクでフラフラになりながら夜遊びを始めようという頃、バンコクの夜景を見に行こうということになった、が、行くところが分からないのだが、格好の餌食として、建設中のビルがあった。旅行中知り合ったその男(名前も顔も忘れてしまいました)とパッポンストリート近くの20数階建てのビルによじ登った。完成も近いようでがらんどうのオフィースからの夜景が綺麗であった。しかし、そこにやってきたのは、警備員。しかしそこに正体不明の不良外人野郎2人が夜景を楽しんでいるのを、何となく気がひけてしまったのだろうか、曖昧な笑顔を含んでその場を去った。「彼の、何となくという気落ちは分かるよ、あまり言葉の通じない不良外人、(そしてもしかしてホモ)にはあまりかかわりたくないよ。夜景なら好きなだけ見たらいいし、何か変な行為起こすならおこせばいい、しかし、私を巻き込んではヤーヨ」とその警備員はいっているのさ」と私は言った。バンコクの夜景もなかなか綺麗だった。働け。 私は、こうみえてもまあまあ真面目に受験勉強などしてきた方ではないかと思っている。しかし、それはゲームのようで面白かったのだが、受験勉強というのは表層的なものなのだなあと思う、というか、学生以降暇になって、そうだったんだという事態がいくつもでてきた。 例えば、化学。電子は陽子と中性子からなる原子核の周りを回っていると習い、そんなモデルの絵を覚えたものだった。しかし、量子力学では、このようなミクロの世界で、電子は回っているのではなく、そこに存在し、そこに存在しないのである。突然電子は消え、突然それも消えると同時に現れるのである。いわゆるワープするのである。それはあたかもタオイズム(道教)に通ずるものがあるなんていえばニューサイエンスになってしまうが、私は、はっきりいって感動した学生時代であった。粒子であると同時に波動である、何かカッチョイイ。 例えば、世界史。世界史は完全にヨーロッパ史であった(それプラス中国史+おまけ史)。しかし、それは現在の話であって世界の舞台はアジアだったのである。よく地球史の10大出来事にグーテンベルグの印刷術というのがでてくるが、その1400年前に後漢の蔡倫が紙を発明している。インド航路を発見したとされるバスコダガマも、それはアラブ商人の航行を習ったもので、1500年頃であるが、明の鄭和はその100年前にヨーロッパにでかけている。バスコダガマもコロンブスも3隻100名前後の船で出かけたのに対し、鄭和は200隻5万人で出かけた超ド級だったのである。 例えば日本史。私は、井原西鶴「好色一代男」とだけ覚えたのであるがこれがとんでもないエロ小説。7歳から死ぬまで交わった女が3700人、特に34歳の時に引き継いだ遺産が100億円。これをありとあらゆる放蕩の限りをつくすという羨ましい物語。 でも、私は、好きだった数学は信じているんだな。綺麗だから。例えば、円柱の体積といえば底辺×高さ。底辺はパイアールの2乗。そして円錐の体積は1/3×底辺×高さと小学校の時に習った。その時はずっと、1/3というのはだいたいの数字なんだろうな、円周率みないなものなんだろうなと思っていた。しかし高校2年で積分を習った時、この1/3というのが限りなく正確に正しいということを知り感動した。同じ高さの円錐は円柱のぴったり1/3なのである。tokorode3人の解放、無事で何よりでした。(今日も自転車のkと書けなかった。昨日もそう思った)「世界の教科書は日本をどう教えているか」(朝日文庫)は面白かったです。(私は単行本で読みました。泣きそうに高いです)
2004.04.16
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昭和の時代が間もなく終わる頃、私は商品の出し入れするアルバイトをして、いわゆるインド資金を貯めていた。折りしもバブルの頃、時給はなかなかよかった。(いわゆるとは何がいわゆるかは私しか分からない。時給もなかなかいいといっても1250円であった) ある日昼食にすぐ横の古びた定食屋に入った。そこのおばさんは、夫に浮気されたあげく逃げられましたが女手ひとつで2人の子供を育てました、というような人生裏街道気質を醸し出した人であった。(勝手なこといってすみません)十分に人生悩み疲れましたよ、暗い部分見え隠れしますが堪忍してというような顔をして(勝手なこといってすみません)注文を取りにきた。何ヶ月か前の雑誌アエラを読みながら昼食を終えた私は、勘定をお願いした。そのときであった。おばちゃんは、流しの横に這い出てきたゴキブリを、右親指でプチュっと潰したのであった。そして何事もなかったように私にお釣りをよこしてくれた。昭和天皇はそのとき亡くなった。私はその店に二度と行かなかったが、私の昭和の終わり方は、ゴキブリプチュが刷り込みされてしまった。 その後、昭和天皇には弔問外交と称して援助を求める多くの国々、世界最高の163カ国から葬式に参列した。それまでの最高は120国、チトー大統領であった。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と俗に言われていたように、これをユーゴスラビア一つにまとめられていたのはチトーによるところが大きい。その後の戦争や分裂は歴史のみるところである。チトーというニックネームは「あれやれ!これやれ!」という語尾がチトーというところからきたらしいぞということを学生のとき聞いたことがある。今ネットで見てみたら、チトー(Tito)という名前は、「お前(Ti)があれもこれ(to)もしろ」という横柄な文章から取られたもので、冗談のネタになることもあった。、とい一節を発見した。 この天皇という微妙な地位であるが、外国人にも分かりにくい位置づけでああるが、一応、世界唯一の現存する皇帝であろう。国際礼儀上では、皇帝、ローマ法王、国王・女王、大統領・中国書記長、首相の順列で大切に扱うものらしい。あのアメリカ合州国でも内心は知らないが、最高の出迎えである空港ホワイトタイで迎えるのは、日本天皇、バチカンローマ法王、英国女王の3人だけらしい。ナンだか不思議なことである。http://www.mediagiga.com/totsugeki/taihou/本日の夕食はコチラでした。私に近寄るでない。臭いから。ここ1週間の100円古本ショップ購入品「不思議現象のトリックを見破る」未読。「地球の歩き方フィリピン」何を思ったのか100円だったんで2002年度版購入してしまう。初めて行った時、地球の歩き方は、アメリカ、ヨーロッパ、インドの3冊しかなかった。3冊目にインドが入っていたところがすごい。今や200冊前後あるのではないだろうか。「ラーマーヤナ上下」レグルス文庫というのは、タゴール関連以来である。マハーバーラタがあたかも核による世界最終戦争のような形相に対し、こちらはラーマのの一生物語でアジア各地にも伝えられている。「思考スピードの経営」ビルゲイツ。似合ってねえ。「憩いのロビーで」青木保。この方の本は「タイの僧院にて」という自らタイで僧になったときの話を本にしたもので、当時、タイ関係の本はあまりなく、こういったものや梅棹忠夫先生の「東南アジア紀行」のような学術的なものとかを読んではご満悦していた若き時代であった。「石川文洋のカメラマン人生」今でも多分、持っている文庫本で一番分厚いのは「戦場カメラマン」ではないだろうか。弾が飛んでくる中、兵士よりも最前線に行きシャッターを押す、地面に伏せる自分があと1センチでも伏せることができたらといつも思っていたところにリアリティがあった。沢田教一や一ノ瀬泰造等有名なカメラマンだけでなく、当時ベトナムには自称戦場カメラマンがホーチミンにゴマンといたようで、たくさんの単なるヒッピーのような輩も多く含まれていたようである。私もその時代にいたら、多分、外見だけの臆病者だったに違いない。http://my.reset.jp/~magarisugi/bm/世の中には変な祭りもありますなあ(今日も自転車のこと書けなかった)
2004.04.15
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2004年4月9日の日記、その後1979年6月30日(金)・・・ボクは「交代なんかするんか、いややなあこの百貫デブのオオタをもちあげられるかなあ」と思った。←子供の頃は、時々、学校の友達や知り合いの苗字が変わるのが不思議でならなかった。更に不思議に思っていたのが、それでは何故名前も変わらないかということだった。苗字が変わった友達に対して、私は、純粋に親切心から、今までと同じ苗字で呼んであげようや、と平気で言っていた。またどうして苗字が変わったのか聞いても、皆、一様に寂しそうに下を向くのがどうしてなのか分からなかった。これ以上つっこんで聞いてはいけないということは分かった。少なくとも自分の意思でではないことは分かったが。子供の頃は、時々、私自身も苗字を変えることができたらなあ、と苗字の変わった子達を純粋に羨ましく思っていた。今の苗字の好き嫌いでなく、あんな苗字つけられたらなあこんな苗字いえたらなあと、半白昼夢の子供時代であった。私は、離婚というものが当り前にあるという事実を知ったのは中学生以降だが、何故か苗字とは結びつかず、高校の同級生が卒業したときも苗字が変わり、彼も苗字変わったのかいいなあと思っていた遅春であった。今、彼が何をしているか知らない。←先生評;次回クラス全体でも頑張ってください。(はい)1979年9月5日(火)2学期2日目に席替えをして違う班になったけど、前の班の方がましだった。前のが明るいという感じがするからだ。この班はあまりいいことはないのでしゃべることもない。←このとき一緒だった奴は、中学生に入り転校していった。あの頃は(今もかも)ドラマチックというより、ドッラマテックにするのが好きで、彼の乗った夜行列車を線路沿いから見送ったり、修学旅行先が彼の住む近くだったりして、船に乗る旨伝えたら、学校だから行けないが、自転車を埠頭の端に置いとくから船から見てくれなんて戯れていた。彼は1時間目にアミラーゼの実験があるということで、唾液提供係りになったのだが、朝来てから一言も喋らず、ついには口いっぱいに唾液をためてしまい我慢できなくなり、4階の教室の窓から唾液を一気にこぼした。そこにH先生(顔が雑巾に似ていた。子供って残酷)が通りがかり、頭からコップ1杯分以上の唾液シャワーを浴びたのであった。彼はその後神戸の繁華街で黒服男となった。今はちゃんと働き結婚もして家も買ったのである。時々携帯電話に電話するのだが夜遅くなので嫌がって出ない。←先生評;あなたの頑張りと工夫がクラスを明るくさせます。(皆さん、十分に笑いで明るくさせてくれますよ)1979年10月6日(金)ボクは給食係りだ。・・・。前は重い方2人、軽い方1人だった。しかし、今はじゃんけんで2倍持つ人1人と軽いの持つ人1人、手ぶら1人になった。階段ごとにじゃんけんして決める。これは楽しい。←このときの友達は、特に中が良いという訳ではなかったのだが、小学校6年間で5回も同じクラスであったという因縁の男であった。この私をして、友達に、「どの子とまた同じクラスになりたい?」と終業式前に言われては、彼の名前を出していたのを覚えている。「あいつと一緒のクラスになったら、記録更新やからな、あいつだけは同じクラスなりたいわ」と訳の分からないことを言っていた。今、彼は何をしているか知らない。←先生評:遊びながら持って運ぶと事故を起こす可能性があります。それと後片付けもしてください。(卒業式の時、先生が1人ずつ握手していったのであるが、この先生私には抱きついてきて「私、キミが好きなの」と言われた。(恋愛感情じゃないですよ)私は、そろそろ反抗期またはそれに近いもの、或いは単なるイライラが芽生え始め、当時卒業時に皆で回し合ったサイン帳に(私は恥ずかしくて持ってなかった)嫌いな先生欄に、その担任の先生の名前を挙げていた。その年の春休み、誰かのサイン帳を先生は見たようである。そこで私の書き込みをごらん頂いて涙したらしいのであった。私はそれを聞いて何か悪いことをした気分になった。)
2004.04.14
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ハウラー駅 カルカッタのハウラー駅は相変わらず今まで見た中で最もカオス的な駅であった。何度来てもどの番線から発車するのか、どのコーチ番号なのかを発見するまでにかなりの時間を要する。そして駅には、乗客以上に住みかとして構える生活者が床を占めている。 キオスクで購入したお菓子の余りを、足のひん曲がった子供の乞食に手渡した。その子は、大きな優しい目で輝くような純粋さを持って見つめてきた。私は神ではない。むしろあなた方のほうが神に近い。この世で世界の八割以上のものを、我々五パーセント未満の者が享受している。擦り切れた衣服とは対照に、目が澄んでいる。いまだ、貧しい者は美しい、を理屈で理解できないでいる。いまだ、こちら側から傍観している。甘い感傷にとどめを。子供は立ち上がることができない。目線が常に私の下にある。乞食達が一斉に何故か私を見た。駅構内でモグリの仕事をしている男達が、何か大声で叫び、私から遠ざけるために彼らを蹴散らす。 乞食は案外臭くない。毎日路上で水浴びをしているのかも知れないが、人間、何日も体を洗わないと臭くて不潔で気分が悪くなってくるものなのだろうが、案外体が純化していくものなのかも知れない。気候や湿度も関係するだろうが、不純物は昇華してしまうのか体の一部として取り込んでしまうのか。下手に洗濯を中途半端にしたり、体を洗うと余計に細菌がばら撒かれ、臭くなってしまう。そういうものなのかも知れない。 そして清潔や不潔に基準がないのと同様、臭いにも基準がなく自己設定しなければならない。そしてその標準は場所と時代によって変遷していくものなのだろう。臭いは視る聴く話すよりは生活には重要ではないが、もし見る聴く話す臭うで、一つ捨てるとすれば、案外、臭いは捨てがたい。カオスは続く。
2004.04.13
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イラク情勢予断を許さないままだ。先ほど、コンビニに行くとおじいちゃんがレジにいた。オーナーも大変だなと思ってバッチを見たら、研修中と書いてあった。定年後かリストラ後か。このあたりの年齢は難しい。私などはいかにアーリーリタイアできるか望んでいるのに私の父は、定年後することがなく、また何でもいいからといって働き始めた。週2、3日でいいといわれているのにもっと働かせろとシルバーセンターに詰め寄っている。 最近私が興味を持っている人物は中国の明の開祖、朱元璋(太祖洪武帝)である。日本で言えばさしずめ豊臣秀吉である。規模からいえば秀吉は「日本の朱元璋」か。元の末期、紅巾の乱のなかから頭角をあらわした朱元璋は、農民出身である。中国史上、農民出身で皇帝になったのは、漢の劉邦と朱元璋の二人だけである。 おまけに朱元璋の家族は貧農で餓死しており、1人残された彼は寺に引き取られそれでも食えず、乞食坊主として3年にわたり放浪生活で生き延びたようである。寺に戻ったら元に搾取されなくなっていた25歳。紅巾の乱が勃発すると紅巾軍の一派のもとで頭角をあらわしたのは、。他の造反軍がただ食料欲しさの目の前の事しか考えない行動に比べ、自分の出自を逆に活かし、貧民の味方と言う立場を打ち出し、元軍の中の無理に徴兵された農民達を取り込む事によって力を増していったようである。 その後、同じ農民出身である劉邦のまねをするといいというアドバイスに従い、皇帝になる野望を本当に抱き始めたようだ。 また、明は、江南から興って中国を統一した中国史上唯一の王朝である。秦・漢・隋・唐・宋・元などはすべて華北から興り、江南を征服して中国統一を達成した王朝であるが、明が江南から中国を統一していったのである。すべてを支配したい妄想にかられたのか、ライバルは殺しに殺しまくった。統一後は知識人も殺しに殺しまくった。そして一皇帝一元号を制定。(今の天皇制と同じだけど)重農政策やいろいろやったが、彼は40歳で中国統一したのであった。ボルネオの続きアップしました。何故なら、一緒に行った隊員の1人が昨晩このHPみたから
2004.04.12
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3部作最終編 追憶の1987年方向性はまたなくなってきました。1987年6月30日(木)徹夜バイトの連続と試験前の苦しさが身動きできないほどのものではないのも、海外逃亡目前の為。過去は馬鹿馬鹿しい。ボブデイランを聴いている、時代は変わる。タイ領事館へいった。インナースペースを観た。1987年9月5日(土)インド、デリー抜け出せない、抜け出す気もないのか。ゲロは水平に、下痢は垂直に。1987年10月6日(火)タイ、コサムイ抜け出せない、抜け出す気もないのか。学校も始まっている。体重も順調に下がってきた。1ヶ月以内にはここを出たいと思う。
2004.04.11
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前回までのあらすじ1979年の方向性のない自分から方向性は出てきたがつまらなくなってきた自分があった。1982年6月30日(水)水泳の授業で600メートル泳がされてHARDだぜ。昼から部活でグランド小石拾いでハード。昨日MがTに告白をして成功とのこと。今日はS(あだ名サール)がOに照れながら告白した。記念に「キル ザ サイール」という曲の歌詞を作ってみた。1982年9月5日(日)昼に起きてラーメンを作って食べていたらNとHから電話があり、ええもんやるからおいでよ、とのお誘いにチャリンコで名谷パティオまで行った。Mも呼びつけて板宿に行き、レコードをみたりギターを弾いたりしているうちに夜の7時になり帰った。帰ってからええものもらうの忘れてたことに気がついた。1982年10月6日(水)寝坊。毎週水曜5時間目の理Bは必ず睡魔と闘う。マラソンコース2週14キロ走る。規則正しい生活で大が3時30分に出る。いつも別棟の理科室の横のトイレで便器を割っている。駅伝の市大会は区間賞は十分狙える。ジュースで100円使う。1983年6月30日(木)23度大人になったら幸せに暮らしていけるようにならなきゃいけないんだよね、かったるいよね。柔道のテストはささえつりこみあし大外狩り一本背負いと決まった。Sは背筋してて力み過ぎて屁をこいて皆に笑われた。Mは一本背負いしてて力み過ぎて屁をこいて皆に笑われた。今は日記を書きながら思い出し笑い。あぜ道を走り、カブトエビをたくさん見た。問題集を購入。昨日偶然会ったスケタベーキチとまた駅で会い、一緒に帰る。席替えで一番後ろになったので気がねなくこそっとエスケープできる。1983年9月5日(月)19時55分29度今日から日記をボールペンでつけることにした。これで青春の傷跡は誰にも消せないという仕組みになりました。早朝練習でダボ暑。昼飯時に椅子壊す。書道は墨汁忘れる。練習は3000,2000,1000,2000,1000の2本レペテーション、オー、クライフォーザネーション!1983年10月6日(木)足が痛くて故障中のまま朝練も見学のみ。現国は睡眠、化学は熟睡、E2は爆睡。家に帰ると、ラッキーにも不幸の手紙が来ていた。明日学校の掲示板に貼って自慢するつもり。Kにビリージョエルとマイケルジャクソンのスリラーを借りる。Mにマイケルシェンカーグループを借りる。1984年6月30日(木)20時30分25度物理実験。6時間目は同和教育で映画を見る。我々若い世代はそんな古い差別は意識しない。はっきりいって差別は面白いからする、しかし差別の対象は自分自身で決めさせろ!昼休みは進路指導室に行き、旺文社摸試代1500円を払う。帰り、バッテイングセンターに寄るが、休んだだけ。加速度的に6月終了。時は金なりって何でも金に換算しよってからに。1984年9月5日(火)雨が降ったので学校をさぼった。中学校は1度も休まなかったし、高校も今日まで1度も休んだことがなかった。オーメン(前兆)。昼から図書館に行く。夜心配してFが電話をくれた、友情を感じ涙ちょちょぎれた。1984年10月6日(土)体育大会。Y,K,Tと俺の4人で組んだ冗談スエーデンリレーチームが決勝に出てしまった。アンカー400メートルの俺は、決勝は断トツのビリから何とか1人抜いた。300メートルのTは俺が「全員ヌイタルからバトンよこせ」といった言葉を信じて頑張って走ったよといってくれた。女子玉入れは籠持ち役でやたら玉を頭にぶつけられた。書道部の宣伝に駆出され、墨汁を顔に塗って走った。騎馬戦は俺のチーム4人ともB型であった。ちゃんとチームワークのかけらもなくすぐ大敗した。
2004.04.10
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1979年6月30日(金)ボクは、組体操があまり好きではなかった。それは走り回ったり、ボール運動のように活発に動かないからだ。今日、テストのようなものがあったが、別に何とも思わなかった。そして(二人一組の)サボテンをやっているときに椎名先生が「交代しなさい」といったとき、ボクは「交代なんかするんか、いややなあこの百貫デブのオオタをもちあげられるかなあ」と思った。そして順番が回ってきた。そしてまず倒立を簡単にやって、サボテンのボクが乗るほうを先にやった。そして問題のところにきた。おおたくんは「持ち上げられるか?」といったが、ボクは「ああ」と強がりをいっていた。そして持ち上げられた。ボクは「やった」と心の中で思った。そしてだいたいうまいことできた。ボクは「よかったよかった」と思った。しかしビリだった。←先生評;次回クラス全体でも頑張ってください。1979年9月5日(火)2学期2日目に席替えをして違う班になったけど、前の班の方がましだった。前のが明るいという感じがするからだ。この班はあまりいいことはないのでしゃべることもない。だから勉強時間の時などはしゃべらないので勉強に集中できる。今日、給食時間にボクは笑われた。何故かというと、上品そうに食べていたからだった。しかしボクは少し明るくなってよかったと思う。←先生評;あなたの頑張りと工夫がクラスを明るくさせます。1979年10月6日(金)ボクは給食係りだ。はじめは消毒係にしよかなと思ったけど、楽なので牛乳にした。牛乳係ならエプロンを着なくていいからだ、洗濯で持ってかえるのを忘れたり、持ってくるのを忘れたりする心配がないからだ。前は重い方2人、軽い方1人だった。しかし、今はじゃんけんで2倍持つ人1人と軽いの持つ人1人、手ぶら1人になった。階段ごとにじゃんけんして決める。これは楽しい。←先生評:遊びながら持って運ぶと事故を起こす可能性があります。それと後片付けもしてください。
2004.04.09
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雨が降っているので、花見も見納めかと思い、麻耶ケーブル駅近くの桜トンネル通りというhttp://homepage1.nifty.com/rosennomori/html/shasou/fuukei/sakura/sakura.htmところに酒を持って先ほど(零時より)出かけた。雨は上がりつつあったが、桜の吹雪は止まず、車の屋根やフロントガラスはピンクに染まってきた。狂っているという感覚が愉快だ。そろそろ世間では入学式なのだなあと思う。私の実家の前の家も一本の桜があり、新学期や入学式には激しい桜の嵐がたった一本でありながら吹き荒れていた。 自転車は現在持っていないが、自転車は子供の必須アイテムとして3歳の時から持っていた。実家は、駅までの2キロメートルの間、ほとんどが坂と言うこともあり、徒歩で駅まで20分、駅からも20分、自転車やバイクで駅まで5分、駅から自転車で15分、駅からバイクで5分という100万人都市としては特異な地域かも知れないが、そいつは楽しかった。来週からさくらトンネルは毛虫トンネルになる。自転車を思い、タイの自転車旅行をアップ
2004.04.08
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絶対当たる心理サイトを発見http://www.usiwakamaru.or.jp/~doraemon/jyuku/magic/magic3.htmカラオケボックスとはいいところだ。安くて打ち合わせができる。歌?それはわざわざ歌う必要はない。会議室と考えればなかなか安いものだ。そんな中、何となく思い出していた。友人の作った歌(踊りつき)1987年上海、今とは全然違う。共産圏の人々は全身全霊で働きたくない意思を明確にし、面倒と販売を嫌い、給料の平等性を能力関係なしに尊重する。超事なかれ主義。神戸港から鑑真号に乗って2日後上海に到着。没有(メイヨー)鑑真降りたら速攻で、メイヨープージャンホテルに走ったさ、メイヨーおっさんひとつ部屋をくれ、メイヨー一番ドツボの安い部屋、メイヨーひまわり種噛む服務員、メイヨー口をとんがらせ言ったのさ、メイヨー部屋はすべて満室じゃ、メイヨー仕事をするのはうっとうしい、メイヨーこれがこれまた不思議なメイヨー物語闇両替した人民元を握り締め、メイヨー列車のチケット買いに行ったのさ、メイヨーおっさんウルムチまでひとつ売ってくれ、メイヨー一番ドツボの硬座でいい、メイヨーえらく不細工な服務員、メイヨー鼻くそほじりながら言ったのさ、メイヨーアナタ外人だから売れないよ、メイヨーCITS行きなさいメイヨーとのかくここではメイヨーメイヨーメイヨー音頭 若かりし5厘刈した私。しかし、1本だけ髪の毛を伸ばしており、これは5年間延ばし続けた。辮髪・・・
2004.04.07
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でれんでれんむるしりむるしりからたらつるむるり~。 近年日本で生まれた婚外子は2%しかいないそうだ。大正時代はおおらかで7%。昔、インドのバラナシの1泊45円の宿で、志賀直哉「暗夜行路」を読んでいた。加筆や推敲を重ねすぎ10年の歳月をかけたため前半後半が多少ちぐはぐになっているところが渋い、渋い渋いなんかいってたら干していたパンツを野生の猿にぱくられた。これでいいのか。
2004.04.06
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2004年4月4日PM4時44分 運転中。雨。トンネルに入るとコンピューターの塊である車は、ワイパーの速度を自動的に調節してくれる。しかし、それは一瞬スゴイと思うが、自分でワイパーをとめるのにどれだけの手間だというのか。手放すまで例え10年としても、この機能によって車両価格が1万円アップするならなくてよい機能のような気がする。500円なら検討するかな、と考えていた。しかし機能ではなく見栄で数百万円も多く払っているところが不条理というものだなあと思ってしまう、虚栄心の満たされた4の連続の時刻。期間限定花見
2004.04.05
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先ほど、午前零時、夕食の為、居酒屋に行ってきました。http://www.doma-doma.com住んでいる家の1階に鳥料理の店が入った。1階ロビーはナツメグの臭いが漂っている。若かりし20代前半はチャレンジャーでもあった。リーガルなもので何を摂取したら異次元にいけるのか?やたらめったら試してみた季節であった。キノコ、サルビア、チョウセナサガオ、トケイソウ、サボテン等。しかし、一番意識が遠くまでいってしまったのがナツメグ。インドカレーには様々な香辛料が入っている。日本のつまりイギリスから輸入されてきた片栗粉カレーではない。そこにナツメグを大量に入れることにした。ナツメグはパウダー状のものではいけない。必ず、玉(塊)で用意する。それと一人では心もとないので、同行者(犠牲者)も用意する。私は香辛料を混ぜたり米を炊いたり、いわゆるカリーの用意をしていき、犠牲者(できるだけいうこと聞く奴でトリップ経験者)には4つのナツメグをひたすら下し金ですってもらう。パウダーになったナツメグは結構山になる。みるからにおぞましい。音楽と、映像は用意した(何故かホラー映画を用意いてしまった。音楽はブライアンイーノ)カレーにナツメグパウダーの山を混ぜて、食う、まずい、一口目から死ぬほど、まずい。ゲップがでると、更にまずい。腎臓をいわすのでやらないほうがいいと思いながら二人は根性で食う。はっきりいって視神経にきて、恐怖映画というのにゲラゲラ笑っている。腹の気分は悪く、げっぷが出てそれはくさい。視神経、明らかに肝臓をいわしている。歩くと、雲の上を歩いているようで、笑いがとまらなくなってくる。効いているのではという発見に対する経験的酔いも交じってはいるだろうが、気分が悪いのと意識が面白い所を彷徨していた。よい子の皆さんはまねしてはいけませんよ。強烈な二日酔いになるかも知れませんよ。
2004.04.04
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古都イスファーン 空気が澄んでいる。静かな印象は、細い直線的な緊迫した空気が張り巡らされているためなのだろうか。体が不具になり乞食になり、道端に座りこむ若者達にこまめにお布施をする市民。おだやかに軍服で歩く男。煙草の配給所に群がる人々。壁に描かれた戦争シーンの絵とホメイニ師。検問。 インドから東に国を進める程に、乞食が減り、子供の労働を見るのが減ってくる。 バス、止められる。全員荷物と共に外に一列に並ばされることが何回もある。銃を持った兵士達。検問の順番が回ってくる。他の国のように、そしていつものようにニコニコして、心から最大限の友好を示し、友達でーすとノー天気になる。すると、彼らはニコニコ笑って対応してくれるどころか、銃を貸してくれたり戦車に乗せてくれたりという国があるというのに。イランの兵士は、ピクリとも笑わない。苛立ちながらペルシア語を捲くし立てる。戦時下の国。 否応無しの認識を持たされる。相手のいっていることをびびりながら、相手のいっていることを勝手に予測して、私もまくしたてる。「ジャパン(国籍)」{テヘラン(行先)}「サイトシーング(観光)」三点セットのいずれかが該当したのであろう、怖い顔のまま頷いた。そして。荷物の手を緩めることはない。闘争は真面目だ。末端の兵士になればなる程。 その日、三大出来事。一.竜巻を見た。石油の国イランのバスは豪華だ。一列三席。主要道の舗装状況もしっかりしている。休憩所についても、どのバスもエンジンなんか切りはしない。戦争してて、財政大変だけど、油ならなんぼでもあるでぇ、と主張しているかの様だ。闇両替のため、バスはそれで、八時間走って、一ドル。塩湖、砂漠の中の舗装の一本道、竜巻を見た。バスは平然と走っている。巻き込まれる心配はないのだろうか。紙や木くずのようなものがぐるぐる回っている。今までのバスからは考えられない近代的なバスの中から、改めて自然の猛威を見せつけられた。二.五ドルで高級ホテルに泊まった。(闇両替のため)宮殿。バスタブを真っ黒にする快感。三.イラン女性に微笑まれた。レストランのテラスで夕食を採る。ひとつ隔てたテーブルに女性達が食事をしていた。イランは案外、若い女性はチャドルの下にジーンズをはいていたり、ヒールをはいていたりと、パキスタンより服装に関して緩いのだろうか?と思っていた。その中の紫のスカーフを羽織った女性と目が合って、微笑みあってしまう。ペルシャ人の女の目はすこぶる怪しくて魅力的だ。彫りの深い顔だ。あの目に一目惚れしてしまった。四.橋の下にある渋い茶店に行った。太陽は沈みつつある。もう二時間太陽を見ている。河の橋の下。水パイプで肺の中を煙で充満させてから二時間、太陽は本日最後の断末魔的美を空に描きながら、雲を褐色に染め抜き、河の向こうの都市の向こうの山の向こうに消えてゆく。私は、下品に腰に手をやり、足を蟹股にして突っ立っている。私の花柄のズボンが少しずつ闇に消えてゆく。チャドルの女性達の黒が、闇に紛れ、分かりにくくなってゆく。 イランはかなり楽しかった。親切だった。しかし、イランを抜けるとホッとした。 翌年、イランイラク戦争の終結ニュースをタイの田舎町で知った。
2004.04.03
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石川淳「山桜」、梶井基次郎「桜の樹の下には」、坂口安吾「桜の森の満開の下」の三つで三大桜小説と呉智英が言っていたなあ・・・「桜の樹の下には屍体が眠っている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜があんなにも見事に咲くなんて信じられない事じゃないか。」そうかも知れない。ソメイヨシノはすごいと思うが、自分で実をつけることが出来ない人工的な種で、人が接木したり挿し木したりして増やしていくらしい。いわゆるクローンなので、よわっちい、寿命も短い、しかし、クローンゆえ、咲く時期も枯れる時期も同じで一挙に咲くからキレイ。桜の季節、10年近く前であっただろうか、京都の某寺でドイツの映画監督ビムベンダースの写真展を見に行った。徹底してロードムービーを作っており(自分の会社名もロードムービー)ちょっといまいちやなあというのもあるけど、「パリテキサス」「アメリカの友人」「都会のアリス」そして「ベルリン天使の詩」辺りは傑作だった。ああ、ライクーダー聴きたくなってきた。ナースターシャキンスキー綺麗だなあ。中学校のときから好きね。あの唇何ともいえませんね。パリテキサスでも十二分に綺麗でした。 あ、話はそれてきてしまったが、写真は空の色、沙漠の大地の色が印象的であった。そして、時折、開かれた障子の向こうに見える桜入りの庭が音を吸収していて静かであった。素直に腰を下ろして見入ってしまうのであった。写真展に来ているのか、お寺に来ているのか分からないゆったりした時間が流れていたのであった。初めてニューヨークに行ったとき、夕暮れ時に摩天楼の下、ブルックリン橋の方を眺めた時に見えた空は、まさしくあの写真展の空と同じ色であった。この雨で、桜は少し散ったのではないだろうか。そういえば、日本映画で私には似合いそうにない映画であるが「桜の園」(チエホフの「桜の園」を毎年学園祭で出し物にする2時間前の女子学園物語で桜が凄く綺麗に撮られている。)をまた見てみたい気分になってきました。
2004.04.02
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何を隠そう、私はある店頭株を500万円分つぎ込んで、見事20倍になった時点で売った。その金は、危うく元妻にばれそうになって、何やかんやと理由をつけて離婚した。オカネとは怖いものだ。 宝くじ当たった人のほとんどの人々が幸福にならないように、努力しないで目的目標もなく入ってきた金は、加速度的に出て行く。そのことを知っている私は、ある場所に隠している。ついに取りに行く日が来ました。何に使うかが決まったから。 そんなわけで、楽天の皆様、ありがとうございました。日記は今日で終わりです、私を探さないで下さいさようなら。桜は散るからこそ美しい、日本語で一番美しい言葉のひとつサヨナラ。 芦屋川にて、2004年3月31日
2004.04.01
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