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朝早くブキティンギに到着した。目をこすりながら、肌寒い中、最北端のバンダアチェを目指すバスを見送る。バスの後ろにはスマトラ島の地図が描かれていた。四十時間共にしたバスに見捨てられた気がした。不快で厳しい移動といっても、バスの中は既知の場という点で安心感がどこかにある。次の地への楽しみが九割以上を占めているのだが、宿を探したりする煩わしさや見知らぬ土地への不安感はどこかにある。小学生を卒業し中学生になる時の心境のようだ。あれだけ早く着いてくれと、鼻血が出そうなむさ苦しさのバスの中で半寝の虚ろな状況で思っていたのに、目的地に近づくと、もうちょっと乗っていてもいいかな、などと、「早く着け」の合唱は力なく収束してゆく。 後、三十キロで赤道。坂の町。かび臭いがベッドの三つある部屋にチェックインし、世界地図を広げる。赤道を指でなぞる。 世界第六位の島、スマトラ。世界第三位の島、ボルネオ。世界第十一位の島、スェラシ。太平洋、ナウル。ガラパゴス諸島。エクアドル首都キト。南米第四位の山、チンボラソ山と五位のコトバクシ山。コロンビア。ブラジル。世界最大の水量アマゾン、その河口。ロマンシェ海溝。ガボンの首都。コンゴ。世界第二の水量、コンゴ河を二回。アフリカ第三の標高、ルウセンゾリ山。ウガンダの首都カンパラ。ケニア。世界第三位の大きさ、ビクトリア湖。アフリカ第二位の標高、ケニア山。アフリカ最大の首都、ナイロビ。ソマリア少々。 なかなか、絢爛である。そういえば、北京、サマルカンドを結んでいけば、世界中の主要都市に辿りつくという不思議。赤道もなかなか手ごわい。 坂道沿いに二件、西洋人が集まるレストランがあり、そこのフルーツサラダは、何が違うのだろうか、今までで一番美味かった。美味さは時を経ると、どうそして何故美味かったのか忘れてしまい、その感覚だけがうっすらと持続している。そこに一人だけインドネシア人がいた。ブキティンギで一緒にバスを降りたの彼をこのレストランに誘ったのである。彼は、ソワソワしている。ここは彼の町で彼の国というのに、地元の人が入らないなんて。 かつてタイのビーチのレストランでいろんな国の人々と飲み食いをしていて、西洋人が「インターナショナルテーブルだねえ」と微笑んでいった。しかし、そこにいた中産階級の息子はボソリといった。「でもタイ人は俺だけだ」 小さな植民地での居心地が悪そうだったので、店を後にし、彼の家に招待されることになった。その家のおばあさんは、四十数年ぶりに鬼畜日本人を見た。ニコニコして得意気に日本語を話してくれる。「ワタシオカネアリマセン」「キミガヨワー、チヨニヤチヨニー」「キヨーツケー」彼女の微笑の裏に憎悪が見えた。私は苦笑いをした。他の家族も意味が分からないので、ニコニコ微笑んだ。 かつて、韓国の友人宅でお世話になっていた。そこの父は日本語を話す。心から親切に話しかけてくれるのだが、日本人も品を落とすような言葉を教えたものだ。「オマエ、タベル」「キサマ、ネル」「オマエ、マタ、クル」正直なところ、戦争には実感がない。沖縄を除く直接敵の顔の見える位置から殺された経験のない本土の人々にとって、ヨーロッパもそうだが、アジアの人々にとっても日本人との戦争体験はかなり違ったものなのに違いない。 国というものは、攻撃的なものだ。人々を翻弄し、洗脳するものだ。規制し強制するものだ。 家での居心地が悪いのを、彼は察し、ミニバスで遠足に行くことにした。母系社会であるミナカンバウ族の村でお祭りがあるというのだ。 彼は、べスパ二人乗りの女の子達に話し掛けた。そして四人でお祭りに行くことになったのであった。いいのかなあ、イスラムにしては随分軽い。下心のかけらもなさそうだが、ノリがラテンだった。祭りの後、女の子の家に泊めてもらうことになり、家に行く。父親に挨拶しようとするが、父は出てこない。祈りの時間であった。皆様無事でいてください。それではいってきます
2004.12.29
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昨晩は、眠れぬ夜で、本を2冊読み終えてしまいました。うとうとしてたら悪夢にうなされました。きっと「パッション」を観たせいでしょう。肉片が飛び散る。 アジア地震津波ではおそらく5万人はいってしまうのではないでしょうか。不思議なものです。かつて、行ったことがあるような所がそうなってしまい、何故自分が助かったかというのは時間の違いで、何とも不思議な感じがします。 阪神大震災からでしょうか。運が悪ければ家の下敷きになっていたでしょう。何故生かされたかも分かりません。震災で電車が不通となり、大阪に通勤できない不憫な私を、会社は一時的に東京に赴任させてくれました。そこで、あのサリン事件。あの周辺を通ることはなかったでしょうが、すぐ近くでの出来事だったのです。 実は、アジア行きを画策していたのですが、これも時間的なもの。冥福をお祈りします。 では、明日からシアトル、バンクーバー方面へ行ってきます。
2004.12.28
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スマトラ沖で起こった地震、津波で大変なことになっている。スマトラ島最北端のバンダアチェでは3000人とも5000人とも死者がでているという。アチェ州はインドネシアでも一番イスラム臭が強く、独立のために暴動が起こったり戒厳令が敷かれたりと物騒といわれる地域である。 私は、当時、スマトラ島の北端、バンダアチェまで北上するつもりであったが、再三、あそこは危ないから行くなと言われ、特にキリスト教の多いトバ湖周辺では、本気で心配してくれたりなんかして、その手前のメダンという都市で、北上を諦め、そのままマレーシアのペナンに船で渡った記憶がある。そのペナンも今回、津波による被害を受けている。知らない所は、どうしても知っている所より心配になるのは当然のことか。住民の方々には、何ともいえないが、ご冥福を祈るばかりである。
2004.12.27
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昔、強化拷問合宿と称して、数名で奈良県と三重県の県境である高見山を征服しに行くことにした。高見山は、樹氷でまあまあ有名で、簡単に観光ツアーも組むことができる平易な山であり、標高も1200メートル程度であり、足慣らしにはまずまずの所であった。どこの駅で降りたかは忘れたが、長時間バスに乗り、バス終点近くになると、我々だけになってしまった。 そこに、小学生が2人乗り込んできて「今日は、乗っている人多いなあ~」とタマゲていた。そしていよいよ終点間際に乗ってきた爺さんが森田さんであった。 終点に着くと、犬が走ってきた。森田家の犬である。運転手は言った。「森田のじっちゃん、財布忘れたんか、また今度でええで」 我々はほのぼのとした空気の中、SWATばりの重装備で、犬をびびらせたのであった。村には、この時代にありながら、恐ろしくも、家の門に「穢多入るべからず」と札が貼ってあり、我々の背中から冷や汗が垂れた。早くこの村を離れなければえらいことになると、危険察知能力に長けた我々は、早速登山口を探し出し、逃げるように山の中へ入って行った。 計画は無謀ではなかったのであるが、後輩の体力が無謀であった。高校時代にテニスで鍛えたとホラを吹く後輩Sは、みるみるうちに顔が高潮し、体が硬直し始め、たった25キロの無駄なものの入った拷問ザックが肩に食い込んでいた。 彼のせいで、夕刻は早々と迫り、秋口だというのに、計画を大幅に遅れ、ついに日が暮れた。私の同期と私のありがたい叱咤激励にも関わらず、2番目を歩いていた彼は、ついにダウンし、カエルのようになり、犬のように腹を見せて降参の合図をした。 その瞬間である、1番先頭を歩いていたYが叫んだ。「頂上に着きましたよ~」なんとも暢気な声であった。2番目を歩いていたSは頂上5メートル前において、ダウンし、今後30年間そのことについていびられることが決定したのである。 今年も、そろそろ、いう時期が来た。「あと5メートル歯を食いしばっていたらこんなことにならなかったのに。アホやなー」そうやって酒の肴伝説は量産されていくのであった。
2004.12.26
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私は、働き者である。いわゆる労働者である。私は、クリスチャンではない。今日は、コプト教の記念日である。決してキリストの誕生日なぞではない。びしっと、よれよれの背広に身を包み、咳を、コホン、と大きくした瞬間、腰が曲がり、そのまま、ギックリ腰になった。 一度は外に出てみたものの、ヘナヘナ状態となり、部屋に戻り、寝たきり青年に成り下がったのである。来週には、私には重要な使命があるというのに・・・正月休みという重要な使命が・・・ 明日、きっと、復活するだろう。
2004.12.25
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私は、顔に似合わず、時々、イタリアンを食する人種であり、鑑定もどきをするような下衆な人間でもあったりします。そんな訳で今日は大阪のイタリアンを紹介しますが、決して参考にはなりませぬ。ボンテベッキオ何を隠そう、まだ私は本場フィレンツエのポンテベッキオ橋には行ってません。ベネチアのリアルト橋は行きました。食事は美味いが、高い。調子に乗って食後酒にグラッパを飲んだらまた1000円ぐらい取られた。 ピアノピアーノウニパスタがウニウニして美味かった。ここには十数回行ったが、甘いのが人気の秘密かもね。ピアノの伴奏はないです。トイレの水を流すボタンが足で踏むのが楽しいです。ピアンタウニパスタがウニウニして美味しかった。気軽に行ける店で、ビジネス街にポツンとある。デキャンタでワインを頼むと変な容器で出てくるのがシブイ。ラムネーナ こじんまりした店だが、店内が南欧色でナントも酔っ払った気分になり、いい感じ。 イルソーレ 行ったけど忘れたボランチャ 行ったけど忘れたコロッセオ 農林会館にはヤボヨウでよく行く。アンジェロ 以前は食材を生かしたちょっと高い店だった。店が移転してからも美味い。リーガロイヤルホテル うまくもまずくもない検索してたら疲れてきたからまたいつか紹介するよ、参考になったかな。あ、ならない・・・実は評論家なのでもっと行ったけど、食べただけで忘れたんだよ。
2004.12.24
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探し物をしていたら、新入社員の時の手帳が出てきた。訳の分からないメモを抜粋。ノンポリは空気のように漂うのみ。拡張と隠蔽。気取りもどき。正論のもどかしさ。敗者の感傷。(入社日)7月1日梅田飲。2日伊丹飲。3日西宮飲。4日須磨名谷飲。5日三宮飲。7日難波飲。12日梅田飲。13日三宮飲。14日十三飲。17日難波飲。20日梅田飲。22日六甲山飲。24日梅田飲。26日新地飲。27日三宮飲。28日難波飲。30日三宮飲。31日ルーリードコンサート。(そりゃ貯金でけんわ)8月5日ジャズアンダーザスカイ万博公園。8月12日バンコク9月15日、キナショーキチ 十三10月28日 ネルソンマンデラ講演会バーバリーコート30万円婦人の仁、匹夫の雄。孫子ムム、今、宅配便が届いた。22時から24時を指定できるようになって、益々宅配便業者は大変になったのだなあと思う。
2004.12.23
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まずは、バビエしっこ様にお詫びのお歳暮しときます。 でも、僕は、いつもこんなの読んでいるわけではないからね。探すのに日記書くぐらいの時間かかったから、今日の日記はこれでおしまい。
2004.12.22
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昨日、世間の皆様に悪いなと思いつつ、一皿3,000円の上ロースや3,000円の上骨付きカルビを食べた。一口300円であった。個人的に肉を食べにいくことのない私でも、さすがに舌でとろけていく肉を食い、快楽に溺れていってしまったのであった。 1991年にイタリアのアルプス山中で、凍り付いた状態で見つかった5000年以上前の男性、通称「アイスマン」の胃の内容物を調べた結果、死亡する直前、シカやヤギの肉や穀物を食べていたことが分かったという。大昔から肉を食っていたヨーロピアンはさすがに狩猟民族だけあって、その後、世界を征服していった訳である。しかし、農耕が始まる前のアジア人も結構、征服の歴史であったのだろうなと思う。家畜を意味する英語の「キャトル」と資本の「キャピタル」が同じ語源で、牛は商品になっていった。牛はもともと草食動物であるが、穀物飼料を食べた牛の肉は脂肪を多く含み、柔らかくなり、いわゆる霜降り肉になる。霜降り肉がありがたがれるのは、日本だけと聞いたこともあるが、イギリスの貴族や地主階級も好んでいるのであろう。NHKの番組によると、世界のトウモロコシ年間生産量 約六億トンのうち、約四億トンまでが穀物飼料に使われており、その穀物飼料の一割でも人の食用に回せば、世界から餓えはなくなるという。もしそうした場合、肉の生産量 は減るが、それは米国人と日本人が五回に一回、肉料理を減らすだけでしかないという。牛を一キロ太らせるには八キロもの穀物が必要です。世界中に13億頭ともいわれる牛の全体重は、地球上の60億人の人類の体重の合計よりも重いことを考えると、凄い穀物消費量と言わざるを得ない。世界中にマクドナルドができると世界が滅びるというのもあながち嘘ではなかろう。牛の放牧地をつくるために、日々膨大な面積の緑が失われており、中南米で飼育された牛から100グラムのハンバーガー1個を作るのに、20~30種の植物、約1000種の昆虫、何十種類もの鳥類、哺乳類、爬虫類など、およそ75キロもの生物が犠牲になっているという。途上国の熱帯雨林を焼き払って肥育すると、企業にとってはコストの節約になるらしい。こう聞くと、猛省せざる得ない。すみません。ちなみに、ニューデリーのマクドナルドのマハラジャマックは羊肉であった。ヒンズーの聖なる牛、タブーであるイスラムのブタに対応したあものである。申し訳ないです。
2004.12.21
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「リクエストはマイウエイ!」「またか」と私は思った、が、うんざりしていた訳ではない。日和見と決断力の無さぐらいが、取り柄の私は、カラオケが苦手である。場所はフィリピン、マニラ郊外のカラオケバー。「いいところ連れていってあげるよ」と泊めさせてもらっていた家の人が連れて行ってくれた先は、無理矢理日本から持ってきた中古カラオケセットの入った渋いカラオケ屋であった。リクエスト曲は、ほとんどが日本語で、全員、勿論、場末のバーはチンピラ風ピリピン人か酔いどれ風ピリピン人か、じゃぱ行き帰り風ピリピン人か、普通のピリピン人だけであり、エリート風草履日本人は私だけであった、っていうか日本人は私だけであった。 しかしながら、私は、フィリピンに来たからといって、イキナリカラオケが好きになったり、得意になったりする訳でなく、リクエスト表を見ても、日本語を解するのは、どう見ても私だけのような気がするし、もとより、誰もリクエスト本を見ていないのである。フィリピン人は小学校でも国語以外は英語で授業があり、小学校に行った人(経済的に小学校に行けない人もいっぱいいる)は、基本的に英語を話すことができる。すれ違い様にぶつかったら「エクスキュース」と言っている。「マイウエイ」そうである、リクエスト本を見る必要はないのである。皆、リクエストは、そのカラオケセットで唯一英語の曲、Fシナトラのマイウエイしかないのである。「マイウエイ」次のリクエストは「マイウエイ」その次のリクエストは「マイウエイ」そのまた次のリクエストは「マイウエイ」そのまたまた次のリクエストは「マイウエイ」もう少しで、セックスピストルズの「マイウエイ」を歌いそうになった私であるが、レコードの針が飛んで同じ所を回っているだけさ、と気持ちを入れ替えて、サンミゲルビールをお代わりする。カラオケセット自体は、隣の部屋にあり、酒場とは、四角に繰り抜かれた壁の穴を通して、リクエストの紙を受け取る。曲を準備するにいちゃんが、その穴から顔と手を出し、リクエストの紙を受け取り、紙に書いた文字を読む。読む必要はないような気がするのだが、と私は思いながら、更にピッチャーでサンミゲルビールをリクエストするのであった。ゴーイングマイウエイの人生でなくて良かった。
2004.12.20
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「これを飲んだらそのままポックリ、そんな薬を与えられたら救われますわ」と深夜タクシーの中で、取引先の初老の男性は真剣なまなざしで言った。 流れ行く高速道路の橙の電灯を眺めながら、バンコクでヘロインの量を間違えて(いや、故意なのかも)死んでいったHのことを思い出していた。 バンコクの歓楽街パッポンで知り合った女性とホテル暮らしをしていた彼は、知り合った時には既になかなか部屋から出ることも少なくなり、すごく真剣な眼差しで(といっても完全にいっている目であったが)「最近、ピピピピという音がして、私を監視している奴がいるんですよ。日本大使館にも行きましたが、全然相手にしてくれず、全く酷いものですよ。だんだん頻繁になって追い詰められていくんです」と何度も話すのであった。 一度日本に帰って、ドラッグから離れた方がいいと私は一応話していたのだが、時折、ヘラヘラ笑うだけで、話は聞いていないようだった。 私は、先に帰国したのだが、遂に、その日はきてしまったのであった。風の便りでそう聞いた。そうでしたか・・・私はそれ以上何も語ることはできなかった。 寝る、食う、出すという3原則の他に、遊んだり仕事したり快楽に溺れたり趣味に没頭したりしている。 出すことについては、なかなか密室性が高いため、その性癖は秘密のベールにがんじがらめにされており、時々、酒の席やふとしたことから漏れて大議論或いは大爆笑となる。例外なのは、アジアでは金隠しのないトイレが多く、ドアに向かってしゃがむか、ドアに尻を向けてしゃがむか、ぐらいなものである。 私の会社でも俄然和式派の方がいて、洋式でも、便座の上に足を乗せてしゃがむのだそうである。その娘は、物心ついた頃からウォシュレット(TOTOの商標ですが)に慣れ親しみ、それのないところでは、便意も引っ込んでしまうそうである。 その他にも、大人になってもズボンを脱がないと出せない人とか、朝ごはんをトイレでしゃがみながら採る人とか、ご飯食べた瞬間にもよおす人とか、千差万別であることが判明した。 真面目で、臭いことが苦手なことが、取り柄の私がいうのも何だが、中国のチベット平原で人が全く見受けられない所をバスは走り続け、トイレタイムになったときのことを告白せねばなるまい。 標高4000メートルに、地平線まで広がる緑と石、その向こうに聳え立つ雪の山々、生き物が走る姿が、せいぜいヤクしか見受けられない中、突如、石造りのトイレが現れ、バスは止まり、私も、トイレに入った。 そこには、単に、床に穴の開いただけの囲いもなにもないトイレがあり、見事に、大便が、その穴から、チョモランマのごとく円錐系にそびえたっていた。 おまけに、漢民族がその穴に、またがり、大便にあたらないように中腰になりながらしゃがんでいるのである。そして、仕切りがないので、隣どおし談笑しているのである。 私は、生まれて初めて、他人の肛門から大便の出る姿を目撃し、即、人間の尊厳について考える哲学者になってしまったのである。 勿論、私は、表に出て、外で用を足したのであるが、その後、数十年私の頭を悩ますトラウマとなったのであった。
2004.12.19
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「ただ今、入場制限を行っております」私は、別に、神戸スイーツハーバーに行こうとした訳ではないのだが、その行列を見て、そうなのかそうだったのか、とつぶやいて、行列を作っている人々を見て、すごいなあと思っただけで、また歩き始めた。今日は、ちょとだけ映画を見ようと、マイナーな映画をよくやっているシネカノン に出かけたのであった。しかし、せっかくハーバーランドに来たので、歩いてみたが、人通りの多さ、観光バスの多さに圧倒され、取り敢えず、何もせずに帰ることにした。ちゃんと寂れた所に行きたくなり、JRの高架下モトコウをしょぼく歩いた。その後、ほんとか知らないが元ドイツ大使館跡に建てられたと言う、震災で一度潰れたミュンヘンで1杯だけ、ビールをイッキ飲みした。外に出ると、神戸ルミナリエでまたもや大行列が見られたので、これは大変と、並ばずに家に帰った。しまった、映画を見るという当初の目的を忘れてた!痴呆症の「ああ」だ。
2004.12.18
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真面目だけが取り柄の私であるが、今日は、否、今日も忘年会に参列させていただいた。私は、一向に、カラオケ嫌いであるのだが、一応、レパートリーはあって、どうしようもないときに歌い、机を壊しそうにシャウトする。レパートリーは15年間ちっとも変化はなく、はっきり言って歌い飽きているという可能性もある。 今日も、ステッペンウルフの「ボーンツビワイルド」とクイーンの「ウエアザチャンピオン」を叫び、顰蹙をかって、重要な顧客を黙らせた。カラオケセットも火を噴いた。 20代の頃は、朝まで飲んでしまうぞってことも何度もあったそのある日、私たちは訳の分からないバーに入ったのは午前3時であった。カウンターにはどういうわけか、イギリス人の船員が数人いた。彼らは、カラオケというもので歌ったことがないらしく、それではいっちょう日本文化ということで、彼らのためにビートルズを入れた。彼らはとても喜び、英日友好のためにマイクを交互に握った。そこで分かったことは、カラオケを歌ったことのない彼らはカラオケのシステムがよく分からないため、音程が外れまくり、歌になっていないということであった。英検4級の私より3倍程度は下手糞であった。 こんな私でも、大学時代の気の合う友達となら、カラオケに行くことも、20代の前半にはあった。ボックスに入ると、礼儀正しい我々は、正装のため、すぐさま服を脱ぎ、生まれたばかりに限りなく近い野郎達になるのであった。注文を聞きに来た人は、ドアを開け、取り敢えず、無言でドアを閉めるという失礼なウエイターもいた。 注文のこない我々には、机がステージに見えたので、そこに数人乗り、取り敢えず「ハイウエイスター」で踊り、「ジャンピンぐジャックフラッシュ」で躍った。 学生時代は、器物破損もあったのですぐ出入り禁止になったが、大人になってからは、そういう犯罪行為はしなくなった。しかし、今は、もう節度ある模範的な人間になる年齢になったと思われるので、カラオケボックスに行くのは、緊急ミーティングぐらいの時だけだ。勿論、歌は歌わない。何せ、会場費が安いものだから。
2004.12.17
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ちょっとばかし、ツーテンカクに行ってきた。今まで何度か行ったが、そのときは、フィンランドでお世話になったアメリカ国籍のロバミエミ大学教授のジョンと息子エイモスが急遽日本に来ると言うことで、私はホテルを予約してあげ、その日、ホテルに向かった。「ドコカ行きたいところはありますか」と私が訪ねると、おもむろに通天閣の写真を取り出した。私は、当時、日本製ポルシェに乗っていたので、それをぶっぱなし、通天閣見学を行い、そのまま、お好み焼きを下で食べ、何故か私は「ピッグは食べますか」とポークを間違えていい、そのまま大阪城に行き、そのあと道具屋筋に意味なく日本風お土産を探しに行き、最後は立派に焼肉を食った。 私は、こうみえても、ピチピチギャルにはもてないが、英語圏以外の西洋人と子供とおばちゃんにはちょともてたりする。理由は簡単で、その国の文化を名刺単語でおぼえるだけであり、例えば、彼らに会う前には一夜付けでアキカウルマスキ監督の映画を見たり、サウナに入ったり、アルバーアアルトの写真集を見たり、カレワラ(ラップランド)のことをちょことしったかぶりするだけで、大歓迎なのさ。 ああ、そんなことを思い出しながらも、何故ぎょうざはいっぱいつくるしたくさん食べられるのに、しゅうまいは一杯食べられないのか、疑問に思いつつあるいていたのであった。
2004.12.16
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日本の会社は、至れり尽くせり個人まで干渉してくるものである。しかし、税金が返ってくると言うならば、干渉も歓迎である。ロクでもないものに税がつっこまれている日本では、ほとんどの人が嫌々血の労働を搾取され続けるものに憤慨し、取りやすい所から取ると言うか下手な泥棒根性に腸が煮えくり返って、ヘソで茶を沸かせてしまうほどだ。 私は、毎年、恒例のように、生命保険会社から送られてくる保険料支払いの為の税控除の書類を紛失しては、年末には保険会社に怒りの電話をする。「すみません、今年もなくしたので、持って来ていただけませんか」しかし今年は、対応に出た女性の反応が違った。「あのう、保険の受取人が姓の違う他人様になっていますので、税金の控除はないんですよ」私の背中に戦慄が走った。おまけに顔面から血の気が失せていくのが分かった。私は、受取名義人を100年前には変更したものだと思っていたが、まだ1つ前の嫁の名前のままだったのだ。勿論、彼女は、この保険のことを知らないので、この数年間に私が死んでいたら、保険会社丸儲けだったのだ。「よ、よかった、この数年で死ななくて・・・」私はつぶやいた。同時に疑問が頭をよぎった。「昨年まで紛失していたと思い続けていましたが、始から送られてきてなかった訳ですか」対応に窮した女性は言った。「はあ。そうですね」「でも、昨年まで、証明書でてましたけど、何故ですか?」「何故でしょう。分かりません」結果的に、私は税務署を知らないうちに騙していたわけだが、取り敢えず急いで受取人名義変更をした。これで安心して死ねる。いや、違った、受取人の父も、自分が受取人であることを知らないはずだ!死ぬまでに知らせておかなければ。保険会社丸儲けで大笑いされる訳にはいかない。近くにある神社に取り敢えず、お参りにいっておいた。
2004.12.15
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何を昨日まで隠そう、私は、滋賀県大津草津辺りで3年間程労働した経験があり、琵琶湖とは、少しばかり友達以上昔の恋人以下ぐらいの均衡の関係を保っている。 人生という即興演奏に失敗しつつも、信号の少ない琵琶湖湖畔道路を滅多切りに走り、警察に仲良くされたのもこの頃であった。 トイザラスが進出し、セルフのガソリンが現れだしたのもこの頃で、その為の渋滞には泣いたような気もする。 ここでは、滋養の為に、貴重な仕事時間を割いて、散歩した近隣を紹介して今日は終わることにする。 ここは、多分、この辺りでは大津プリンスホテルと並び最もいい感じのロイヤルオークホテルであろう。何度かお茶を飲んだが、決して、さぼっていた訳でなく、多分、商談でもしていたように思う。有名な三井寺もある。敷地が広くて、四季の散歩が楽しい。きっと、ここで一息入れて仕事のアイデアがざっくざっく出た、に、違いない。瀬田の唐橋と夕照の道は、いまや、東海道とはいえ、ただの車道である。日本の三大名橋といわれ、言われなければ通り過ぎてしまうこともしばしである。 阪神大震災の為、このホテルには100泊ぐらいした。震災割引を勝手に自分で設定して、ホテルに交渉につぐゴマスリで何とかいくらか安くはなった。職場からこそっと戻り昼寝なんかは、勿論、したことはない。紫式部とも縁の深い、石山寺。きっと、ここで一息入れて仕事のアイデアがざっくざっく出た、に、違いない。琵琶湖は、確か流出する川はここだけである。南郷の洗堰の方が唐橋よりは風情がある。ゆっくり思索していると、事務所に戻る時間も忘れそうだ。いや、決して忘れていない。ひょんなことから、ここに高校の先輩が住んでいることが判明して2度びびった。立命館大学理工学部草津キャンパスには、先生のふりをして社用車を転がし、学食で安いメシを食い、老けたニセ学生のフリをして、館内をうろついた。きっと産官学交流に役立ったに違いないと自負している。栗東の、馬、トレーニングセンターではタケ豊もブラブラしているのではと思ったが、その雄姿を見ることができなかった。ちなみに14番が武豊が買ったとされるバブルの塔クサツウエストロイヤルタワーまだまだ、一所懸命、仕事をしたところはあり、盛りだくさんなのだが、紹介していると夜が明けるので、また機会があれば(思いついたら)記することにして筆を置く(っていうか、PC打ち込みを終える)ここまで、仕事熱心な私の雄姿は、会社には黙っていて欲しいと願う。滋賀県滋賀郡志賀町ってところがあるんだから。
2004.12.14
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おおよそ80キロの彼方、名神高速120キロぶっぱなし、ドアトドアで80分、兵庫県大阪府京都府を彗星の如く駆け抜け、辿り着いた地は、滋賀近代美術館であり、本日「オノヨーコ展」最終日であった。何を隠そう、私は、この近くで3年近くも労働した経験があり、滋賀県の大津市や草津市のことは、自慢ではないが、ちょっとばかり五月蝿い。 この美術館は広大な公園の中にあり、かつてはロイリキテンシュタインやRメイプルソープを観に行ったこともある。 私は、海外では、美術館でのレストランというのが、なかなか好きで、実際にいい感じの所が多いのであるが、どうも日本の美術館併設のレストランやカフェはしょぼくて、少しばかり不満であるが、ここはまあまあである。ただし、メニューの内容と味はなかなかしょぼいままでる。偉そうに言って申し訳ないが、スーパーただの普通カレーが900円であり、おもいっきり普通ランチが1500円である。 オノヨーコの作品は、触ったり参加してナンボのもんや、という作品が多いのだが、ご多分に漏れず、さわっちゃだめ、と張り紙されていたり、線が入っていて、ここからはいっちゃ駄目よ、という按配になっていた。 しかしながら、そこに奇声を上げながら走ってくる男がいた。精神の病気に侵されているその男は、おもむろに、作品にパンチを浴びせ、驚いた付き添いの常人が止めに入り、血相変えた見張りの学芸員らしき人が飛んできた、というハプニングがあった。 まさしくハプニングアートであり、インストラクションであり、アバンギャルドであった。酒場は終わった!
2004.12.13
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勤め帰りに、何となく、淀屋橋駅で降りてみたら、何かルミナリエ縮小版のようなものが、大阪市役所の脇で催していて、寂しいながらに、家族連れか、恋人達が集まっていた。一人なのは、カメラおっさんばかりなので、私も、急いで、デジカメを取り出し、カメラ小僧のふりをした。http://www.geocities.jp/doiyoh1127/nakanosimakokaido.JPG 川の向こうのビルに映る電光掲示板は8度を示しており、川に映し出された電球のイルミネーションの風景には、少し温かい気がした。 「午後7時より、イルミネーションが点滅するコンサートがありますよ~」と警備員が拡声器で叫ぶ。今日は、いや、今日も一体ナニをしていたのか、考えてみた。行きの電車の中で「写真で見る20世紀」みたいな本を20分で終えてしまう。途中地下鉄で、北朝鮮の本を読んでいて、降り過ごす。お客様と面談するが、口紅の色が特殊な色だなあ、と思う。別のお客様と面談するが、顔がにこやかで、口調が怒っているなあ、と思う。62歳の人と話をしているが、よく喋る。ホント、世の中の多くの人はよく喋るし、声の大きい人が多々勝つし、かしこいなあと思う。何故私は、長く話していたら、最初に話していたことを忘れ、起承転結がなくなるのかなあと思う。パソコンに向かっていたら仕事している感じになるけど、何面も画面を出して、疲れたら次の画面の仕事をして、ナントも集中力がないなあと思う。業者と打ち合わせしたら、何でこんなに話を聞くのが億劫になるのだろうかと思う。今日は用事がありますからなんて言って、先に帰りながら、今日は早く終わったなあと思いながら、古本屋に寄っててなんだかなあと思う。そんでもって読みもしないのにまた10冊程度本を買ってしまい、カバンがパンパンに腫れてかわいそうだなあと思う。3日ほど連続で忘年会だったが、つくづく飲みに行くの飽きたなあと思う。若い頃は家に帰るのが面倒で、飲みに行くとすぐ電車の時間が終わり、血管が破裂しそうになりながらサウナで一人我慢大会していたが、今なら本当に破裂するかも知れないなあ。銀行振り込みの収入って、数字だけで、リアリティがないなあと思う。若いのに家でゴロゴロしてたら何だか気が滅入るし、親も苛々したり心配するから旅に出たのかあと思う。無責任になれるからなあ。物事をやってみるって、なーんだこんなものかって実感するためだっていうのが多々あるよなあ。大学なんて最たるものだ。で、実際、凄いことを成し遂げたら、その時点で自分にとってそのことは全然、すごい事じゃなくなってしまうんだなあ、と思う。クリーニング代、よく考えたら毎月、5000円以上は使っているんだなあ、なんだかなあと思う。実は、本に熱中する以外にも、地下鉄で寝てしまい、降り過ごしたんだなあ。秘密だよ。
2004.12.12
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扇風機が、停電により、自動的に止まり、遂に睡眠持続は不可能になった。階下では既にバンドの練習が始まっていた。「巡るめく失われた感情が・・・」とノートに記した頃、ノートを覗いたオカマが何かいてるのさと尋ねた。「感情を無くしてね」「それはどういうこと?楽しくないの?」「いや、これは、えーと、えーっと、そうだ、詩だ」と答えておいた。しまった、発言してしまった瞬間に詩になってしまった、これはなかなか大変だぞっと思った。トイレの扉に丸い穴が開いていた。中指を入れてトイレのドアを開けようと、引っ張った。カサカサと何かに当たった。体一直線に寒気の戦慄が走った。さーっと何か音がした。油虫を潰してしまったようだ。朝には、予想される場所に油虫は死んでおり、蟻がたかっていた。そんなことを、河豚の宴会中に思い出した。駄目だ、酔っ払って、なかなかやる気のない日記だ。失礼・・・
2004.12.11
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あなたは待っていてくれなかった。しかし、私は憶えている。浮き沈みする音を拾い上げて、空中に乗せていく作業を。二回ほど、誰かが、微かに頷いてくれた。形容矛盾をおこす頃。昼頃になってレンタルバイクに乗って、島を走る。わたしのものを受け取って。ハッピーになれるわ。でも分かっている。皆が快楽を祈っていることを。わたしにものを頂戴な。ハッピーになれるかも。明日の同じ時間、風景も、私の感情も変わっていない。でも、私には時間がないわ。時間の概念が。マジックは終わり。行ってしまいなさいよ。まだ始まったばかり。優しさが伸びている。何のためにパラダイスに来て、何のためにここに倒れて、何人かの人々が、トリックにはまり、何人もの人々が、まだ始まったばかりだと思う。彼は縛られ、倒れて、まだ始まったばかり。彼女は微笑みかけ、倒れて、まだ始まったばかり。何故、何故、と問う、そういう時期かも知れない。子供のことを尋ねても、親はトーストを食っているだけ。昨日と変わらない朝に、誰かが誰かと世界規模で知り合い、昨日とは違った世界を生み出していくかも知れない。バイクは30バーツで3.7リットル入った。何曜だか何日だか分からない状態を活動中。朝の空気は朝から。肌はカラカラ。蝉が飛ぶようにブンブンと、島を回り、ジャングル的未来田舎。既知の行為。本は面倒。笑っている。環境が変わり、人が変わり、時代が変わった、ふりふりふり。見ることから始まった青い海、そんな午前。感傷は味方ではない。
2004.12.10
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ニセブランド品の本を読んでいて、ふと小川君のことを思い出した。 小川君については、下の名前や住所等は知らない。 初めて会ったのは、インドのカルカッタではサダルストリートにあるパラゴン もモダンロッジもいっぱいで、安宿のマリアホテル に宿泊したことがある。 しかし、部屋はなく屋上でゴロ寝という状態にあり、たったひとつ空いていた ベッドは宿の主が先約があると断られた。 数時間後、そこには女性が寝転んでいた。先程、カルカッタに着いたという。 彼女のパートナーである小川君は、屋上ゴロ寝隊に組み込まれていた。3人は意 気投合し、いろいろ話をしていて、そのまま「よい旅を」と言って別れたのだ が。 数週間後、ネパールのポカラを散歩していた。前から小川君らカップルが歩い てきた。再会を喜び、早速彼らの宿屋に行く。窓から8000メートル級のアン ナプルナ山系や7000メートル近くのマチャプチャレ(魚のしっぽ山)が雄大に見 えるのだが、その窓の上の壁に同じ風景のポスターが貼られていたのが印象的で あった。 今回は、私は、早朝便でポカラを去ったので、挨拶なく別れることになった。 数日後、インドの聖地バナーラスで、飯を食っていたら、小川君カップルが道 を歩いていた。ポカラで会った時に、私がここの話を散々していたので、24時 間バスに乗ってやってきたのであるという。早速、私は宿泊しているホテルにお 誘いして、再会を祈った。 1年後、私は、バンコクのカオサンロードを歩いていた。前から歩いてきたの は、やはり小川君カップルだった。1年ぶりの再会を喜び合って、早速、彼らの 部屋に行き、積もる話もした。 あれから1年、小川君は、日本に帰り、ニセモノブランドバッグを大量に仕入 れ、小学校や中学校に突然訪問をかけ、先生方に売りまくるということで割と ガッポリ旅行資金を貯めました!ってことだったらしい。 ヨーロッパでは人口の1~2割ぐらいの人々が持つブランド品を、日本人は一 点豪華主義か自分というものがないのか、たいていの人が買いたがるという傾向 があるのは周知の事実。ニセモノと分かっていても、なんぼでも売れますわ、と いう人懐っこい罪のない彼の顔が脳裏に焼きついた。
2004.12.09
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立ち寄った場所は新勝寺の古文である大阪の成田山であった。かつて住んでいた近所ではあるが、行ったのは3回目であった。自動車の交通安全を祈る変わった神社である。大阪から見て鬼門の方向であるので、方違い神社の役割も果たしていると何かで読んだ記憶があるのだが、正しいかどうかは知らない。車の交通安全を守るといっても正月は、交通規制がかかり、入ることはできず、住民向けの通行許可書がポストに入っていたような気がする。正月向けに、トンカチしている風景が見られた。灯篭の火口部分にある言葉を発見した。「大日如来 オン バサラダトバン」中学校の時、立ち読みして、私に合ったおまじないの言葉がオンバサラダトバンであった。意味も分からず、繰り返し覚えた。金剛界毘盧遮那如来 真言であった。妙に感心してその場を去る。その後、安全祈願祭に参加した。神主は、祝詞をしばし間違える。よく見ると、虫眼鏡を使って読んでいた。聞くところによると、86歳という。長生きして欲しいものだ。後継者がいないのだろう。
2004.12.08
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走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れゴールゴオオオオオール ケ?
2004.12.07
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子供の頃(25歳前後まで)水炊き、すき焼きやクエなべ等の鍋物があまり好きでなかった。理由は簡単で、自分の皿に入れるのが面倒だったに過ぎない。大学にもなると、外で飲む際に、しゃぶしゃぶや、スキヤキ等のナベをつつく機会がでてきた。そこで驚いたのは、肉を血眼になってとっていく輩が多いことだった。私は、はじめから最後まで野菜ばかりを取っていた。今は、なべは好きだが、相変わらず、野菜メインだ。まあ、そんなことは別にどうでもいいが、先日、仕事で、大阪府門真市に行った。門真市というところは、豊田市や日立市と同様、松下電器産業の企業城下町である。数年前、ニューヨーク出身で、日本人の女の子と同棲しているというアメリカ人Nの家に招かれたことがあった。どういう訳か、彼はほとんど日本語を理解しないし、彼女は英語が分からないのに、同棲していたのであった。意思疎通の不都合からか、喧嘩が絶えず、彼はいつも文句を言っていたが、家に行くと、さすがに二人は仲良くしていた。今後、難しいだろうなあ、という素直な感想は控え、大いに飲んだ覚えがある。そういえば、私は、以前、カナダ人Sと仲良くさせてもらっていたことがあるのだが、彼女の恋人は、韓国人Kであり、二人の会話は日本語であった。まるで、南洋(現在のパラオ共和国、グアムなど北マリアナ諸島連邦、ミクロネシア連邦(旧南洋諸島)、ナウル共和国、核実験場となったビキニを含むマーシャル諸島共和国。東西5000キロ、南北4000キロに及ぶ広大な空間は1920年から1945年の敗戦まで25年間にわたり日本領だったため)の共通語になりかけた日本語のことを思ってしまうプチ光景であった。旅行にいきたくなってきたなあ
2004.12.06
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夜。ホーりーナイト。屋上で、満月を拝み続ける。夜中の三時というのに、テレビを見ている人が見える。テレビを外に出して、簡易ベッドに横たわっている。この時間でも騒がしい。来るべき早朝には鐘の音でもっと賑やかになるだろう。 夜の通りは、人より牛の方が多い。目が光っている。ガンジスのほとりに散歩する。蛙が鳴いていた。乞食は何事もないように眠っていた。考えて、求めていく程に、人間は不自由になっていった。人間以外の生物は万能だ。当たり前も基準もなく疑問も不満もなく。私は喘ぎながら、黒い河を見ている。朝日をこのまま迎えるつもりだ。 身ひとつで、死に場所である聖地を訪れ、そのまま所持金を使い果たし、物乞いになり、布施を受けて生き続ける人々の横に座り。 カント駅。列車の昇降口から見る夕暮れ。インド独自の瓶詰オレンジソフトドリンクの色だ。しかも太陽の半分下はドス黒い。平原の森林のすぐ上に浮かんでいる。刻々と明るさと色が変化していき、闇が刻々と染まっていく。カント駅で、何度も私の足に頭をあてて、物を乞う子供のボロ着とダブる。私は何も気づかないふりをして、時刻表を眺めていた。すえた臭い。祈り。数回繰り返しては、見上げる。もうやめてくれ、私はお金を渡す。急に、にっこりし、近くにいる母のところまでお金を見せながら走っていった。救われたと、思った。したたかさ、というものが何となく大切なものであるような気がした。
2004.12.05
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インド全土のホーリー祭りの中でも最大規模を誇る地に、早朝、私は駅に着いた。駅から危険な状態であった。 前日、ネパールでバスは何度も子供たちに止められ、色水をかけられた。 前夜、インドに入ってゴラクプルやラクナウといった町でも色水をかけられた。バラーナスに向かう列車の中で、色水を作り昇降口から線路沿いを歩く人々に水をかけ、我奇襲に成功せりといい、予兆を楽しみ始めてはいた。しかし、ここでは、既に暴徒と化している雰囲気があった。外国人は格好の餌食だ。リキシャーは危険なので、位置の高いタンがー(馬車)に乗り、ホテル前に到着したときには、既に、服と荷物は赤い色に染まっていた。馬糞さえついていた。宿の主は宿泊客に外出禁止令を一方的に発令したが、もうドロドロの私はどーにでもしてぇ的気分。 その宿は二階に広いルーフバルコニーが表通りに面しているので、バケツ一杯の色水を何度も通りにぶちまける。 人々は次第に、足を止め、宿の前は人もすり抜けられない程の人だかりとなり、次第に暴徒と化し、馬糞や石や罵声をこちらに向かって投げ始めた。最初はげらげら笑っていた人々も、次第に笑顔が消え、険悪な空気になる過程。上から投げる、見下ろすという特権に、大衆意識として、次第に憤慨し始めた。祭りの基本的意味を理解していない外人に苛立ちを感じ始めたのだ。 宿屋の主は、このままでは、施錠を壊され、ホテルを壊されかねないと考えたのだろう、バルコニーから宿泊客を退散させた。 私は、雰囲気を確認して、少し落ち着き始めた頃、通りに出てみた。笑顔のまま揉みくちゃにされ、服は引き千切られた。これでいいのだ、と思った。再度、色粉を買い、肛門から歯茎までドドメ色となった。祭とは、命を懸けることなのだ、と悟った。
2004.12.04
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夕刻、ガンジス河に行き、沐浴を行い、体を洗った。宿に戻ろうとすると、すぐに色を浴びせられ、結局、河のほとりに座り続ける。 沐浴場の階段で、神の歌を謳う一団。五、六人の男たちは、サドゥ(聖者)を取り囲んでいる。一団の民間人は、こざっぱりした格好をしており、話し方もスマートで、社会において地位の高い職業に就いているものと思われる。私は招き入れられた。サドゥを囲んではいるが、聖職者なのか、彼には何も話し掛けないで、皆、雑談している。隣の男は、ハシシをこねながら、私と日本の話をしていたが、突然、サドゥに向かって話し掛けた。「ババ、用意ができました」彼は、ハシシの入ったチュラムパイプを手渡す。サドゥは、熱さ防止と、煙を冷やして喉に負担をかけないためと、煙以外のものが口に入るのを避けるためのガーゼを取り出し、階段を降りて行き、ひんやりとしたガンジスで清らかにガーゼを濡らした。そのガーゼをパイプの吸い口に巻き、神に祈る。男が火をつける。サドゥは、ほんの一口、それも強力にしなやかに吸うと、ガーゼを取り、男にパイプを渡す。男は改めて、鞄からガーゼを取り出し、水に浸し、パイプの吸い口に丸めて、吸う。後は、輪になった我々にパイプが順番に回ってくる。自分専用のガーゼを持つダンディなサドゥは、最初の一口しか吸わない。何度か、作っては吸い、トリップした頃、サドゥはようやく私に気づき、英語とも何とも分からない早口で、私に、表情を変えず、二、三言話し掛けてきた。目には特に敵意も親しみもなかった。ただ、鋭く光っていた。
2004.12.03
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電車に乗っていたら、座っていた二人の会話が聞こえてきた。「わあ、携帯の電池きれそうや、どうしよ。ねえ、あなたの家で充電して帰ってもいいかな」少し、迷惑そうな顔をしたのを私は見逃さなかった。「うん、いいけど、私の家、駅から20分やで、いいの?」「いいよ、いいよ。電池切れたらえらいことやねん。私、携帯がないと死んじゃう」彼女がここからどのぐらい遠い所に住んでいるのかは分からなかったが、腹立たしくもあり、悲しいとも思った。腹立たしかったのは、その子の顔の表情が、年齢に合わず幼稚に見えたこと、悲しかったのは、本当の友達いないんだなあってこと。勿論、私も、本当の友達がいるかといえば、分からないが、きっとこいつはちょとだけでも私の事気にかけてくれてはいるだろうなんて勝手な妄想が自信になっていて、だからいつもつながっていないと不安になるということもない。「行方不明の愉しみ」ってないのかなあ。今日は、羽田空港第2ビルがオープンということだが、沖合いにあるのだから、利権で成田なんかに造らずに、羽田に滑走路をどんどん増やせば良かったんだよね。女性天皇はどうなのか、ってニュースで言ってたけど、単純にあれは予算の問題だよね。せっかく雅子さんが天皇制反対で皇室に入ったというのに・・・
2004.12.02
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肉体的フェティシストは語る「気持ちいーいぃ」女王様は語る「今日も暇だわ」下僕は語る「抜け出したい、抜けたい、抜きたい」言語紛失者は語る「ア・・・・ウン」アナーキストは語る「これぞ連合主義よ」カールマルクスは語る「世界制覇はここまでか」コンパスは語る「くるくる回るだけさ」ソトロベリースコッチフィールズは語る「どっちにするのよ」ナイロビの娼婦は語る「花よ緑よ」両切り煙草は語る「貴方の唇借ります」坂口安吾は語る「ジャズを聴け、ジャズを・・・・あ、中上建次だった」同級生は語る「俺、昔、足の臭さがたまらなく快だったなあ」幼馴染は語る「俺、昔、足の臭さがたまらなく快だったなあ」タンポポは語る「今だって、足の臭さは快だよ」常務は語る「俺は、今でも子供だよ」センチメンタルジャアアニー。
2004.12.01
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