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しんら さぶろう あしがらやま しょう ふ ず だい しのざきしょうちく 新羅三郎足柄山に笙を吹くの図に題す 篠崎 小竹 すいしょう ひ つた とお けい した かよ せんねん さんげつ あき吹笙 秘を伝え遠く兄に従う 佳誉 千年 山月 明らかなり。あしがら ちか つら こしごえ えき そそん けんかく せきれい じょう足柄は近く 連なる腰越の駅 祖孫 懸隔す鶺鴒の 情。 ○鶺鴒の情=兄弟が救難の時に助け合う。鶺鴒には助け合う性格があるという。 詩文説明源義光が豊原時元から伝授された笙の秘曲を戦陣に臨むにあたり、時元の子に授ける時、その笙の音は足柄山の月に冴えて、りょうりょうとこだまする。この状況は、真に千古の佳話であるが、足柄山に連なっている腰越駅は、源頼朝が義経の功績を奪い斥けた恨みの土地である。同じ源家の兄弟が一つは助け合い、又一つは背きあう、何と大きな相違であろうか。 1、新羅三郎義光は豊原時秋に笙の秘曲「広陵散」を伝授する 2,笙(楽器の形を示すため作成)を吹いてる人新羅三郎(源義光)1045~1127 ( 感得2年~大治2年) 平安時代の武将。河内源氏2代目の棟梁源頼義の3男。長男は八幡太郎義家。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服して新羅三郎と称した。弓馬の達人で合気柔術の開祖ともいわれる。笙は豊原時忠(時秋の祖父)に師事する。 「後三年の役」で兄義家を救援に行く為、義光は東下に赴くが途中豊原時秋が後を追い戦場に同向をお願いするが、ここ富士山の見える足柄山の月明りの山中で笙を吹きその笙の美しい音色は山々にこだました。義光は時秋に笙の秘伝を伝授し、この秘曲が耐える事のないように時秋を説得し時秋を都へ帰らせた。昔から伝わっていたこの話の場面の絵を見て作者は作詩した。豊原時秋管弦の家柄で父祖伝来の秘曲を祖父から伝授されていなかった(父は幼少の時死亡)が、その笙の秘曲「広陵散」を祖父の高弟新羅三郎から伝授された。 1、頼朝・義経兄弟の対面。義経は黄瀬川に駆けつけた。●後三年の役(義光の兄義家は雁が飛び立つのを見てその下に敵の伏兵が 居るのを見破り勝利を収めた(先に八幡公・頼山陽作)を先記してます。 ○同じ源氏でも義光兄弟の仲の良さと片や頼朝は義経が功績を遺したにも拘らず信頼で きず死に追いやった。義経はくしくも腰越まで来て兄に嘆願状で自分の潔白請うている。○腰越駅は江の島近くで足柄山の麓にある地。現在江の島電鉄線に腰越駅がある。 1、高館(義経堂) 2、燃える高館(義経堂)前で仁王立ちで矢を浴びる。 3.頼朝の命で泰衡義経を寝返る。戦う義経主従。作者 篠崎小竹(1781~1851)天明元年~嘉永4年)徳川中期の儒者。名は弼。幼名金吾、通称長左衛門、字は承弼、号は小竹。別号畏堂、南豊、退翁。本姓は加藤氏。医を業とした。天明元年大阪に生まれた。9歳で篠崎三島に学び、養子となる。19歳で江戸に遊び、尾藤二洲に師事した。23歳の時九州四国に遊び、各地の碩学を訪問した。28歳で再度江戸に遊び、古賀精里に嘱望さらた。33歳の時、三島の跡を継いで家学を教え名声四方に轟く。仕官を喜ばなかったが、安中候、洲本候、の賓師となった。資性闊達で洒落、吹笙、横笛を得意とした。頼山陽とは莫逆の友で山陽没後その2児を世話した。嘉永4年病没。 1、高館(義経堂) 2、燃える高館(義経堂)前で仁王立ちで矢を浴びる。 3.頼朝の命で泰衡義経を寝返る。戦う義経主従。
2013年07月26日
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ふ じ さん むろ きゅうそう 富士山 室 鳩巣 じょうてい こうきょ はくぎょくだい せんしゅう せきせつ ほうらい よう 上帝 の 高居 白玉台。 千秋 の積雪 蓬莱を擁 す きんけい いあく じんかん よる かいてい こうりん かげ と きた 金雞 咿喔 人寰の 夜。 海底 の江輪 影を飛ばして来る 詩文説明富士山の山頂は、天帝の高居である白玉台のごとく、千年以上もあろうかという永年の積雪に取り囲まれて、仙境を形作っている。頂上では天鶏が鳴いていて、すでに暁を告げていても、下界(人の住む世界)の方はまだ暗い。しかし今しも海底から紅の車輪をめぐらすように、太陽ははるかに湧き出でて、光を飛ばして山頂を照らすに至るのである。 1、絶景の富士山 2、江戸末期~明治にかけての古い写真。(写真技術が日本に入ってきた頃の富士山)。昔から日本人が崇拝し、崇高を誇っている富士山です)写真1、2、千年以上もあろうかという永年の積雪に囲まれ仙境を形造っている富士山、何処から見ても美しい。1、太陽は遥かに湧き出て光を飛ばして山頂を照らすが下界はまだ暗い。(実は私の数年後に頭が光り輝く事を想定して太陽に見立てる。光り輝く太陽がホンワカホンワカと昇り出て富士山山頂「頭」を照らす)2、頂上では天鶏が鳴いて暁を告げるが下界はまだ暗い。(富士山本営浅間大社を富士山の頂上の上帝の棲む高居に仕立て、鶏の頭に冠をあしらい口をあけて時を告げてる様子を作成。) 作者 室鳩巣 (1658~1732)万治1年~享保17年。江戸中期の朱子学派の儒者。名は直清、字は帥禮、通称新助。号は鳩巣・別に滄浪。備中の人。父は玄撲といい医を業とした。幼にして総悟m14歳で加賀藩主、前田綱紀に仕え「大学章句」を講じ、綱紀を感嘆させた。命により京都に遊学木下順庵に師事した。1711(正徳元年)新井白石の推挙により幕府の儒官となり、八代将軍吉宗の侍講となり、政治の諮問にも備えられた。。朱子学者としての維持をはかり「貞観政要」の布及にも努めた。政治・経済論に優れていた。享保17年8月12日病没。
2013年07月05日
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