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しょうしん ろ くご だい たかすぎしんさく 焦心録後に題す 高杉 晋作 ないゆうがいかん わ しゅう せま まさ こ そんぼうききゅう とき 内憂 外患 吾が州に迫る。 正に是れ存亡 危急の秋。 ただ ほうくん ため かこく ため しょうしんさいこつ また なん うれ 唯 邦君の為 家国の為。 焦心 砕骨 又 何ぞ愁えん。 詩文説明内憂外患、ぺりーの来航以来・次から次へと外国船我が国に迫っている。国内は尊王攘夷だと騒ぐ、正に国難存亡の時だ、いまこそ我は砕骨惜しまず藩主の為、国家の為に一身を顧みずに尽くすだけだ。他に何を悩むことがあろう。 解説幕府が政権に固執し、尊皇攘夷派の中に内輪揉めや分裂が生じて国内は混乱し、内外からは軍艦で以て威嚇されるなど、内憂外患が噴出し、正に危急存亡の時に当たって、志のあるものは身分を問わず、心を一つにして事に対処すべきである。と、若い藩士たちに「焦心録」を書いて激励した。その後に作られた詩である。1、四国連合艦隊が下関を襲う。 2、幕府軍長州征伐に向かう3、高杉晋作は武士だけでなく、農民・町民・力士の有志を募り騎兵隊を作った1.長州軍の出兵。 2.長州軍砲撃される 3、第一次長州征伐1、萩城 2、萩の高杉晋作生家。 3、高杉邸庭に立つ立志像 4、功山寺の馬上の高杉晋作像作者 高杉晋作「1830~1867」天保10年~慶応3年)幕末尊攘・討幕運動の志士・長州藩士。通称晋作・東一又は和助。名は春風。字は暢夫、号は東行。変名谷梅之介・谷潜蔵。1857(安政4年)松下村塾に入門、。1862年(文久2年)上海に渡る。1863年外国戦艦の下関砲撃に際し、奇兵隊を結成、身分に関わらない有志による軍事力(奇兵隊)を創設した。その間藩の奥番頭役となったが脱藩。のち1864(元治1年)の4ヶ国艦隊下関砲撃事件に藩の正使として和議を結んだ。その後、藩内保守派の勢力台頭のため、再び脱藩。その暮から翌年(慶応1年)にかけ、諸隊を率いて下関に挙兵。翌慶応2年幕府は大軍を編成第2次長州征伐を行ったが高杉晋作は対岸の九州小倉に渡り幕府軍を潰走させて戦略物資を燃やし翻弄させる。この頃徳川家茂が死去、長州征伐は中止となった。以後藩の主導権を握って長州藩を討幕に振り向けた。1867年4月病死。享年29歳。★高杉晋作が奇兵隊を率いたのは僅か3ヶ月で後は赤禰武人と山形狂介(有朋)へと引 き継がれていった。
2013年05月18日
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