先ほど、洗脳という言葉を使ってしまって、・・・・・・実は、
どうしても、意識してしまう体験があります。
(洗脳という言葉を使うには、語弊があるかもしれません。
しかし、どんな宗教も善し悪しは別として、
その機能は、「洗脳」だという意味で、 使わせてもらいます。
どんな教団が良くて、どこが悪いという意味では一切ありません。
特定の宗教指導者を非難してるのでも、一切ありません。)
まだ、高校生の時です。
演劇部で演出を担当していた寅さんは、
ある日、好きだった主役候補の子から、宗教活動のために
日曜日、ダメだから、下ろしてくれと言われ、
ショーゲキを受けました。
宗教なんて、徹底的にバカにして、
(当時、愛読書は、毛沢東の遊撃戦論など)
自信の塊の私は、浅はかにも、
彼女を救い出してやろうと、
その教会に、ネギカモで入ってしまったのです。
そこで、常識を徹底的に、糾弾され、非難され
そして、反対に孤独な心を「理解」され、硬軟織り交ぜられ、
典型的な洗脳パターンに入り込んでしまいました。
きれいな「一本!」でした。
その後の七転八倒は、この世の地獄でした。
地獄よりも地獄らしいところになりました。
でも、その苦しみさえも、美しく感じてしまうのですから、
フィルターを替えるということは、スゴイことです。
普通なら、もうそれで、一生その教団に吸い取られてしまうところだったでしょう。
どうやって、抜け出せたのか???
それは、偶然だったのです。
演劇公演当日、私も、日曜日の礼拝のために、
何と、休もうとしたのです。
これは、私にとってもすごい葛藤でした。
それに対し、部員が、全員ストライキをかけてきたのです。
私は土下座をして謝りました。
信仰的には、敗北だと打ちひしがれました。
ところが、教会では、予想に反し、軽い言葉で、
「それは責任上、公演に行くべきですよ。」
と言われたのです。
教会のその指導は、正しかったでしょう。
何の落ち度もありません。当然のことでしょう。
落ち度があったのは、私の方です。
しかし、その瞬間、ハッと、覚めたのです。
そして、フィルターの恐ろしさ、おぞましさを
ブルブル震えるくらいに感じたのです。
私が愛して愛して止まない演劇、
それをも捨てる覚悟で臨んだのに、
それをあっさり間違いで否定される。
こんな怖いもの、恐ろしいもの、人にすすめられるわけがない。
と思いました。
熱いお湯の沸騰状態が、一気に手を入れると「つめた~~い!」状態に。
しかし、すぐに抜け出ることはできませんでした。
そのまま、そこを出たら、何も無くなってしまうのです。
空っぽは、人間、どうしても耐えられないようです。
そこで、苦労の末、
私は、180度違った仮説を導入したのです。
「この世は、ただの遊びだ。」
という。
この間、半年くらいの期間の出来事です。
しかし、私はとんでもなく成長しました。
そして、学校に行かずに、自学で、現役で大学に入りました。
学校や学歴体制も、鼻で笑うことができるようになったのです。
そこから、またフィルターを二転三転させるのですが、、
とにかく、あの瞬間が、寅さんのスタートでした。
なぜ、あのとき、私は、疑問をもつことができたのか?
それは、演劇と演劇部のメンバーを愛していたからです。
心から愛していたからです。
人間の論理なんて、はかないものです。
愛情の土台の上へなら、何でも立ててしまうのです。
無理矢理、理屈を引っ張って来れるのです。
やはり、愛です。
その意味で、寅さんの場合、家族の愛は、
そこまでの引力は無かったのです。
家族は、愛していたのでしょうが、
本人は、理解された愛だとは、思っていませんでした。
本当の私には、関心が無いと思ってました。
だから、簡単に引きずりこまれたのです。
子どもの土台を作るのは、
理解してやることだと、つくづく思います。
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