今日は、古川の小泉子ども会さんの、科学実験講師をしてきました。
テーマは、スライムの大研究です。
ありとあらゆるスライムに挑戦します。
ひとつ、スーパーボールスライムづくりが、私のミスでうまくいかなかったんですが、
まあ、全体に喜んでいただけたと思います。
父兄の皆さん、そして、アシスタントをお願いした
中学生の純平君、ありがとう。
ところで、講師料のことを聞かれると、私は、
「道楽でやっているので、料金表はありません。
団体さんの、予算の範囲内でいいですよ。
その中で、いっぱいください。」
「つまり、カンパと考えてください。」
とどこでも言っています。
これは、本気の本気でして、
本当に予算の無いところには、完全無料で出前しております。
もちろん、しっかりしたところからは、それ相当をいただいておりますが。
ある意味、どうでもいいような、講師料の決め方ですが、
ここには、私の活動の生命線が隠されています。
それは、お客様にお金で雇われているわけではない、
ということです。
私が、その団体で、講師をしたいから、させていただいているのです。
もちろん、団体さんの意向はよくお聞きしますし、
喜んでいただけるように全力を尽くします。
しかし、絶対に、仕事だから、今ここに私が立っているのではないのです。
面白くて仕方がない、こんな面白いことを伝えずにはいられない、
だから、何とかして立たせていただいているのです。
こと、プロとアマと区別して考えるなら、
私は断然、アマであり続けたいと思うのです。
スポーツの世界をはじめ、
何でも、アマよりは、プロの方が偉いと思われています。
しかし、創造性を必要とするところ、
好奇心が生命線のところでは、
プロになることは、逆に大きなハンデです。
誰かに雇われているということは、
自分の職務の範囲を決められていることです。
縄張りができてしまいます。
それを犯しても、犯されても、反撃してしまいます。
これでは、研究の自由も、好奇心の自由も無くしてしまいます。
その点、道楽仕事だと、割り切っている人は、
誰からも支配されることがありませんから、
自由に研究できるのです。
つまり、自分が自分の主人公であることができるかどうかなのです。
教師という仕事も、私は本来、アマチュアであるべきだと思います。
「私はお金のために、君とつきあっているんだ」
、って言えますか?
言ってほしいですか?
そういう人もいても悪くはないでしょう。
しかし、正規の学校の先生こそ、
みんなアマチュアであるべきだと、
私は素朴に思います。
それでこそ、人に影響を与えられると思うのです。
これは、極論かもしれません。
でも、たとえ、表面的には、お金をもらっていても、
お金で教師が動くことだけは、あってはならないことでしょう?
お金で動くことは、反面、お金に縛られることです。
その制限のもとでしか、心を動かせなくなるのです。
教育こそ、心が大切です。
その子をいかに大切に思うか、思ってやるかです。
そこに、お金の論理が、上位にあっては、なりません。
科学研究の場合には、好奇心の視野の広さが
とても大切なことが多いです。
だから、アマチュア科学者の方が、大企業のプロよりも
良い仕事をすることが多いのです。
また、科学研究というのは、あまり細分化すると
全体への見通しが悪くなります。
かえって、進歩しなくなります。
プロは、細分化の道を進みがちですが、
アマチュアは、科学研究の楽しさを追求しているのですから、
一番おいしい、そういう全体像を見失う心配が少ないのです。
昔、寺子屋の時代には、
善意だけで教えている教師も結構いたのです。
だから、自分の教えたいことを教えることができました。
ところが、明治になって、
国の教師となって、月給をもらい、生活が安定する代わりに
束縛されるようになったのです。
どっちの教師に教えてもらいたいでしょう?
子ども達の喜ぶ顔が見たい、という気持ちだけで動いている
アマチュアではないでしょうか?
そういう人たちには、子どもたちを強制したり
脅したりする力はありません。
だからこそ、授業の中身で引きつけなければならないのです。
だから、研究するのです。
だから、私は、この活動以外から、収入を得て
アマチュアでい続けられるように、奮闘しております。てか!?
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