「どうして、こんな数学をやらなくちゃいけないの?」
「こんな計算、絶対、使わないって!」
生徒の口から、漏れてくるフレーズです。
子どもたちは、呪いの言葉を吐きながら、
嫌々ながら、勉強しています。
そして、卒業したら、決して、もう二度と、数学や科学の本を
手に取らないぞ!
と固く、固く、心に誓います。
9年間または、12年間通して身につけさせた
教育の成果は、卒業後の不勉強の決意になのです。
学習意欲の低下が叫ばれています。
でも、考えてみれば、昔だって、好きで勉強していた人はどれくらいいるでしょうか?
昔の先生の授業が上手だったとも思えません。
かの有名な二十四の瞳の大石先生は、卒業したばかりの
な~んにもできない先生です。
もし、今の教育現場に、ぽっと配属されたら、
間違いなく「不登校」でしょう。
それでも、島の子どもたちは、先生を慕います。
それは、先生の人柄のせいでしょうか?
もちろん、それもあるでしょう。
でも、それよりも、教育環境が恵まれていなかったことが、
相対的に、教師の価値を高めていたのではないでしょうか?
よく、昔の子ども達は、恵まれない環境なのに、
意欲的に勉強した、と言います。
しかし、この言い回しは、もしかしたら、逆なんじゃないでしょうか?
恵まれない環境だったから、学習意欲が高かったと言えるのでは?
教育環境が整ってきているから、学習意欲は減退していると言えるんじゃ?
学習意欲の低下は、もしかして、自然なことじゃないだろうか?
当たり前のことなんじゃないだろうか?
高学歴社会になって、社会全体の教育水準が上がったから
学習意欲が衰退しているのです。
なぜなら、世間一般が、学習そのものが困難だった頃には、
その困難を乗り越えて学んだ暁には、
素敵な未来が約束されていたからです。
勉強それ自体は、辛くても、
それを乗り越えた自分をイメージすることができました。
その楽しさを頼みに、自分を叱咤激励することができたのです。
しかし、高卒なんて、あったりまえ。
大学を出ても、保証なんて、何にもないということがわかってくると、
将来をエサにしていたものが、プツンと切れてしまいます。
ちょっとやそっと、難しい知識をもっていても、
すぐに、ネットや専門家に聞くことができます。
お金さえもっていれば、みんなやってくれるんです。
こんな現代に、昔と同じ学習意欲を
これまた昔ながらの、脅しと競争で、湧き立たせて
「学力向上」を狙う方が、どうかしている、と思いませんか?
逆に、素直にその調教師の言うとおりに走り続けている生徒がいたら、
その子どもこそが、心配じゃないでしょうか?
この子は、将来、世の荒波をどう乗り越えていくんだろうかって。
現代に求められているのは、
新しい教育原理です。
学習意欲のシナリオです。
決して、昔をなつかしんで、タイムバックすることでは、解決しないのです。
カンボジアに、学校を立ててやったときの、
子どもたちの目の輝きを
日本で期待する方が無理というものでしょう。
道徳や倫理でつなぎとめる?
じゃ、どんな道徳?
道徳もどんどん変化しています。
とにかく、明治大正と基本的に同じ教育原理を使っていることに
根本的な問題があることに、
教育界はどうして気づかないのだろう?
または、気づいても、本腰で取り組まないのだろう?
この怠慢さの原因は、
教育界全体が、本当の競争時代に入っていないからだと思います。
制限された、檻に囲まれた中の競争です。
国家の権威という、枠を取り除いても、
それでも、生き残れる教育かどうか、
厳しい目で自分たちを見つめ直していきたいと思います。
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