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県道59号線・伊東西伊豆線を国道414号に向かって更に進む。そして国道414号に出て左に折れ「浄蓮の滝」方面に南下する。国道414号の天城大橋手前から左に入り旧道「踊り子ライン」に入る。この道路は「連続雨量150mmを超えると通行止め」になるとのこと。この道を通るのは、約半世紀ぶりなのであった。青ーーードライブルートと旧天城トンネルーーー。国道414号の天城大橋から旧道に300mほど入った左手の杉林の中にひっそりと立つ「川端康成文学碑」を車窓から。1981(昭和56)年に天城山隧道に向かう旧下田街道沿いの林のなかに建てられた。二つに切り左右を少しずらしてつけた?巨大な自然石に「伊豆の踊子」の冒頭部分と川端のレリーフがはめ込まれている。小説「伊豆の踊子」の有名な冒頭。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」と作者自身の手書きの文字が刻まれていた。そして左側には、川端康成の横顔のレリーフが。砂利道の狭い遊歩道「踊り子ライン」をSさんの巧みな運転で車は進む。幸い対向車は全く来ずに進めたのであった。「旧天城トンネル」の天城側入口の手前にあった「江藤延男追慕の碑」。氏は『天城を守る会』の初代会長として、環境省の地域環境保全功労で大臣賞を受賞。『昭和の森』で定期的に自然観察会を続けるとともに、学校や地域住民への環境教育にも力を注いだ人であると。旧天城隧道北口 国内最長・最古の石造道路隧道は幅4.12m、距離445.5m。1998年9月に国の登録有形文化財、2001年には道路として初めて国の重要文化財に指定されているのだ。「天城山隧道」の文字がなんとか確認できた。「天城山隧道」案内板と石碑が。「天城山隧道日本の道100選(昭和61年8月)登録有形文化財(平成10年9月)重要文化財(平成13年6月)天城山隧道(田方郡天城湯ヶ島町~賀茂郡河津町)ー天城湯ヶ島町と河津町をつなぐトンネルである。陸の弧島を嘆く南伊豆の人達の熱い思いによって、総工費10万3 , 016円の巨費を投じて明治38 ( 1905 )年に開通した。地元上河津村では1万2 , 361円余(実際には郡費補助の名目で賀茂郡が支出)を負担した。さらにトンネルまでの道路工事費も1万円余を負担した。このトンネルの完成によって北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消した。延長 446.00m有効高 3.50m幅員 3.50m 標高 708.74m 切り石巻工法工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われた。」 「重要文化財 天城山隧道この隧道(トンネル)は下田街道の改良工事の一環として、明治34年(1901年)に貫通、同37年に完成した。全長約444.5m、幅員約4.1m、トンネル両端の坑門及び内部全体が切石積で造られ、川端康成の小説『伊豆の踊り子』をはじめ多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。平成13年(2001年)6月15日、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治後期を代表する道路隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。」「仁科峠、八丁池、天城峠」への案内が。「天城山隧道」の横の階段で始まる山道を登って行くのであった。トイレが設置され、その横に四阿(あずまや)と案内板が。「旧天城トンネル北口園地 自然歩道案内ここは「旧天城トンネル北ロ園地」です。トンネル周辺には、天城の豊かな自然を満喫する様々なコースがあります。これよりトンネ横を登って行くと、数々自然歩道の分岐点でもある「天城峠」へと出ます。峠を左へ行けば「八丁池」へ、右へ行けば「二本杉峠」を経て「仁科峠」へと続いています。事前計画を十分たててから利用してください。」「旧天城トンネル北口」。川端康成の小説『伊豆の踊子』や、松本清張の小説『天城越え』に登場するこの有名なこのトンネルは、正式名称を天城山隧道(あまぎさんずいどう)と称し、1904年(明治37年)に完成した。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のもの。1998年9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録され、2001年6月15日に登録有形文化財の登録を抹消したうえで、同日に「天城山隧道」として道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されたのだと。私とOさん二人は歩いて「旧天城トンネル」を抜ける事にしたのであった。出来れば、吉永小百合や山口百恵と一緒ならばと・・・・・。工事は石を積み上げていく「切り石巻」工法で施工されていることが確認できたのであった。伊豆の交通史上重要な役割を担ってきただけでなく、石職人たちが技術の総力を結集して造り上げた完成度の高い構造物としての価値が認められ国の重要文化財に。トンネル内には湧水が漏れ出していた。古くは近くに「氷室(ひむろ)」と呼ばれる製氷池や氷の貯蔵庫があり、氷が盛んに造られていたのだと。石積みも湧き水に濡れて。そして全長約444.5mを徒歩で抜けて「旧天城トンネル 南口園地」へ。乗用車はすれ違いの出来ない狭さであったが、幸いSさんの車も対向車も来ずに通過でき、Sさんが出口で待っていてくれた。」南口のものは「天城山隧道」の文字がはっきりと。ふと、気になって下記を調べて、ネットから「「トンネル」「随道」「洞門」「覆道」の違いについて」👈リンク はこちらを。「踊子歩道 案内図」👈リンク。「旧天城トンネル 南口」にも石碑が。「登録有形文化財 旧天城隧道この隧道(トンネル)は明治38年に築造され、川端康成作「伊豆の踊り子」のトンネルとして広く親しまれている。トンネル入口や馬蹄形をしたトンネル本体とともに総石造構造のものは珍しく重厚な構えとなっている。明治末期を代表するこのトンネルは国土の歴史的景観に寄与しているとして、平成10年9月25日有形文化財に登録された。」「登録有形文化財」プレートが埋め込まれていた。「昭和の森 寒天車道」碑。バス停「寒天橋」の横にあった日本の道100選「天城路」の碑天城路は建設省(現・国土交通省)が1986~87年に選出した「日本の道100選」のひとつ。具体的には下田から旧天城山隧道を経由して天城湯ヶ島へ向かう約19kmの区間を指すのだと。「寒天橋」は石川さゆりの名曲「天城越え」👈リンク にも登場する小さな橋。橋名の由来は、この近辺に寒天工場があったからと。そして国道414号に出て「河津七滝」近くを通過して「河津七滝ループ橋」に差し掛かる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.28
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この日は2月14日(日)。テレビのニュースで 静岡県賀茂郡河津町の「河津桜」が満開の時期を迎えているとのことで不要不急の外出自粛を求められている中ではありましたが、いつもの旅友3人でマスク常時着用で「行っちゃいました」。常に、体は「散密」、心は「密に」を心がけての行動でした。今年も自分の車で茅ヶ崎のSさん宅まで行き、Sさんの車に乗り換えて二宮のOさん宅を目指す。予定の6:30前にOさんの御自宅に到着し合流。そして西湘二宮ICから再び西湘バイパスに。そして西湘バイパス「橘料金所」を通過する。車窓の左側、相模湾の水平線の上には、雲の隙間にオレンジ色の帯が。「早川IC」で西湘バイパスを降り、左折して国道135号を利用して伊豆半島に向かって進む。相模湾・小田原海岸沖の「定置網」👈リンク。そして「大島」の姿がはっきりと見えた。「大島」の手前には「真鶴半島」が姿を現した。そして今度は、「大島」の手前に「初島」が姿を現す。「初島」の上には朝の陽光の筋が。日出直後の太陽を隠した黒雲から太陽光が海を照らしていた。熱海市泉元門川分248-2付近の河津桜も五部咲きか。そして「熱海サンビーチ」手前から。2月8日(月)に訪ねた「糸川」沿いの「熱海桜」👈リンク はこの日も花をつけていた。そして「熱海城」をズームで。「初島」。「宇佐美海岸」からの「ホテル サンハトヤ」とその先に「伊東」の海岸が見えた。そして、この日は「伊東大川」の手前で右折し、県道12号線・伊東修善寺線そして県道59号線・伊東西伊豆線を利用して「浄蓮の滝」方面に進む。老舗旅館「東海館」の前で車を停める。「東海館」は、伊東温泉の中心部に位置する木造3階建の温泉旅館。当時の地元材木商により東海道線が熱海駅まで開通した昭和3年(1928)に建てられたと。平成9年に温泉旅館としては廃業したが、伊東市に寄贈され平成13年に観光施設となり、現在は「自由に見学」👈リンク (入館料200円)出来るとのこと。当時の材木商が金に糸目を付けず建築した東海館。館内各所に職人たちの手工を凝らした建築美が生きていると。現代ではその建築美を見ようと建築家も注目する東海館。入口から見事な朝日と鶴の彫刻がお出迎え。地元の彫師・森田東光によるものと。「東海館」の玄関。そして「伊東大川」側から見ると 【https://mapio.net/pic/p-120627096/】より「伊東市指定文化財 旧木造温泉旅館東海館種別 有形文化財(建造物)指定年月日 平成1 1年3月3 0日東海館は伊東温泉を流れる松川河畔にある大正末期から昭和初期の温泉情緒をいまに残す木造三階建て温泉旅館群の一つです。昭和3年( 1928 )に創業、昭和13年頃(1938)、昭和24年頃(1949 )に望楼の増築など、幾度かの増改築を行いながら旅館業を営んでいましたが、平成9年(1997)、70年近く続いた旅館の長い歴史に幕を下ろしました。その後、伊東温泉情緒を残す街並みとしての保存要望もあり、所有者から建物が伊東市に寄贈されることになりました。平成11年(1999)には、昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として文化財的価値をもち、戦前からの温泉情緒を残す景観として保存し、後世に残す必要があるという理由から市の文化財に指定されました。平成11年から平成13年にかけて保存改修工事が行われ、平成13年(2001) 7月26日、伊東温泉観光・文化施設「東海館』として開館しました。創業者の稲葉安太郎氏が材木店を営みながら、国内外の高級な木材を集め、この旅館を建てる際に形や木目などの美しく質の良い木材などをたくさん使っています。昭和13年頃に建築された部分では3人の棟梁を各階ごとに競作させたこともあり、廊下の飾り窓や階段の手すりの柱などにそれぞれ違った職人の技と凝った意匠を見ることができます。他にも、玄関の豪快で力強い彫刻や書院障子の組木のデザイン、照明器具などもみどころです。」次の機会にはゆっくりと内部を見学したいと。そして海岸を離れ、県道12号線を山に向かって進む。さらに県道59号線の坂道をひたすら進んで行くと「光識寺」の「大聖観音」が現れた。ここもゆっくり訪ねたい寺であったがこの日は立ち寄らず。「冷川峠」を越え「伊豆市」に入る。箱根連山から連なる山と天城山地との境にあり、他の伊豆半島を横断する亀石峠・十国峠・山伏峠などに比べて標高が低く緩やかな「冷川峠」。この静岡県道59号伊東西伊豆線が切り通しで峠を越えているのだ。樹木が多く、見通しはききにくい。新東海バスの冷川峠バス停があった。伊豆市側へ4km弱下ったところに伊豆スカイラインの冷川ICがあった。「大見川」沿いには「山葵田(わさびだ)」が左手に。伊豆市貴僧坊51−1付近。更に進むとここにも「山葵田」が。夏場は上部の遮光ネットで覆うのであろう。そして更に進むとヘアピンカーブの場所に大きな「山葵田」があったので車を駐めしばしの散策。車を降り進むと「山葵田」が山道の両側に拡がっていた。「案内板」。「世界農業遺産:静岡水わさびの伝統栽培筏場のわさび田わさびはアブラナ科の植物で、日本固有種です。私たちがすりおろしてよく食べている部位は、根茎という茎部分です。葉や葉柄にも辛味があり、加工用に利用されます。今も受け継がれている静岡県で発展した「畳石式」などの水わさびの栽培方法は、環境にやさしく、多くの生物を育んでいます。この伝統的な栽培は、未来に継承すべきものとして世界的価値が認められ、2018年、国連食糧農業機関(FAO)によって世界農業遺産(GIAHS)に認定されました。わさび栽培にかかせない豊富な湧水:天城山がはぐくむ地下水伊豆半島には年4000mmにもなる多量の雨が降ります。天城の山は数十万年前に噴火した火山で、多孔質の火山岩でできています。そのため雨水は山体に浸み込み、山裾ではわさび栽培に最適な温度の地下水を利用したわさび田が続き、ここ筏場(いかだば)は静岡水わさびの代表的な景観です。棚田のひみつ:畳石式によるわさび栽培伊豆の棚田状のわさび田は、1892年頃に平井熊太郎が伊豆で開発した畳石式という仕組みでできています。下層から上層へと大きな石から小さな石へと徐々に積み重ねることで田の表面と内部両方に水が流れるようにし、水温を安定させ、養分や酸素を供給することで太い根茎のわさびが栽培できます。また下段の田へも清水を十分に供給でき、高品質なわさびを安定的に生産しています。」「畳石式によるわさび栽培」方法の断面図。下層から上層へと大きな石から小さな石へと徐々に積み重ねることで田の表面と内部両方に水が流れるようにし、水温を安定させ、養分や酸素を供給することで太い根茎のわさびが栽培できます。また下段の田へも清水を十分に供給でき、高品質なわさびを安定的に生産しています と。 【https://hellonavi.jp/attraction/shizuoka/mizuwasabi.html】より「筏場のわさび田総面積・・・・・14.7ha棚田等の枚数・・1500枚平均標高・・・・365m国土環境保全:洪水防止・水のかん養優れた農業土木:大堰提・畳石式のわさび田造成故事来歴・民話:戦国時代の落人が当地を開拓豊かな生態系:ガクアジサ・アマゴ,ホタル カワゲラ・モリアオガ工ル・ルリミソサザイ・ヤマゼミ」上流側。棚田の周りには木が覆いかぶさるように生えていたが、これは先人の知恵。わさびに陽があたりすぎないように日除けの役目をしているのだ。下流側。「筏場のわさび田」は『静岡県の棚田10選』にも選出されていると。全国有数のわさびの生産量を誇る伊豆半島。その中央に位置するここ伊豆市筏場は「日本一のわさび田」と呼ばれる約15haのわさび田が広がり、伊豆特有の風景が見られたのであった。国道414号沿いの急斜面に拡がる「わさび田」は何回か見たが、こんな山奥に「日本一のわさび田」と呼ばれる場所があることを初めて知ったのであった。苗は塩ビのパイプの中に植え付けられていた。1976年頃か ら塩化ビニルや樹脂製のパイプを田に埋め込み、その中に苗を植えるパイプ栽培が普及した。パイ プ栽培は、代表品種の「真妻(マズマ)」の退化予防の他、流水と苗が パイプによって遮断されるために、浮遊物の多い 下流でもワサビ栽培が可能となる効果があるのだと。植えつけからおよそ2年で収穫ができるようになるのだと。わさびは、2年半位たつと子イモが成長し、親イモが腐敗しやすくなるので、一般的には2年前後で収穫するのだと。そして寒くなった晩秋から冬にかけてが旬とのこと。棚田が上に向かって拡がっていた。湧き水が上段から下段に流れ落ちて。山葵(わさび)の白い花。ズームで。花わさびや葉わさびと呼ばれるものは根茎部分を指す「わさび」の葉や花芽の事。ワサビは根茎部分だけでなく、葉柄の部分や花芽も食用として収穫されているようです。花わさびとは花を咲かせる前のつぼみ状態の若い花茎を収穫したもので、春を訪れを告げる食材の1つ。わさび特有の鼻に突き抜ける爽快な辛みと、独特の苦味やシャキシャキとした歯ごたえが特徴とのこと。そして、先日友人と思い切って!! ・・・つづく・・・
2021.02.27
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「中山晋平記念館」を後にし、入口方面に向かって進むと右側にあったのが「根なし梅」。この近くの梅は未だ蕾。「根なし梅野梅性の実梅(長束・ナヅカ)の一種で、昭和四十七年の台風により倒れかけていたものを起こしたもので、その際根元が半分幹から裂け、上半の根元は根が切れてなくなったことから「根なし梅」と呼ばれてる。」左側にあったのが「供養梅」。「供養梅有難や 熱海栄えの 人柱熱海の今日の繁栄は東海道線丹那トンネル開通に起因するといわれておりますが、この梅の木の直下で大正十四年の丹那トンネル工事中落盤事故により十七名の殉職者がでました。これを含め昭和九年の竣工まで六十七柱の尊い犠牲者に対し(敬虔なる)感謝の意を表し、昭和三十五年ここに梅の木を植え、供養梅と名付け市民の意を体し顕彰したものです。」「石割り榊」「月光は 流れに砕け 河鹿なく 羽多野光雨(はたのこうう)」。再び「梅見の滝」をズームで。紅梅のトンネル。紅梅・白梅のコラボ。小さな広場では「猿回し」が。「ゆずぽんず」コンビの大道芸パフォーマンスであった。再び「澤田政廣記念美術館」をズームで。ここの紅梅は満開に。元熱海市長の「小松勇次像」。「澤田政廣」の作品であると。「香浮橋」を見る。「石乗りもみじ」。美しく輝く白梅。「雨宮翁碑」。「軽便鉄道の創設者 雨宮敬次郎翁碑甲州の人 雨宮敬次郎翁は資性豪邁にして不言実行の人 翁はことの外熱海を愛し明治四十四年一月二十日病を得て此の地桜ヶ丘の別荘にて逝く。享年六十六才。翁は熱海をこよなく愛し熱海の街の発展を思うことから「熱海ー小田原」間の人車鉄道 軽便鉄道の開拓にのりだし困難を排除して遂に実現させたのであります。今日の熱海伊東線・東海道線開通の糸口も翁の先見性と絶大な努力がなかったならば熱海の今日の発展はなかったでありましょう。もって翁の恩恵が熱海のためにいかに大きなものであったかをうかがい知ることができるのであります。因みに翁の生家は山梨県東山梨郡奥野日村です。」この路線は、少なくとも「人車鉄道」なる、人間が客車を押すという際だった特徴を持つ鉄道の中では、全国一有名なものと。人道鉄道は明治29年(1896 )に小田原~熱海間に開通した鉄道で、4~6人を乗せた客車を2~3人の人夫が押して走るものであった。そして明治40年(1907 )、人車鉄道は蒸気機関車の軽便鉄道に変わったと。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より「熱海鉄道の軽便列車」。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より紅梅を背景に白梅を追う。ここにも「中山晋平先生追憶の碑」。「中山晋平先生追憶の碑について明治20年( 1887年)長野県に生まれ、明治45年( 1912年)東京音楽学校一現東京芸大)卒業。今向名曲として伝わる「カチューシャの唄」でデビュー以来歌謡曲ては独特の「晋平節」を確立。多くの劇中主題、童謡、新民謡を作曲した。昭12年( 1937年)以来熱海市西山に住居、熱海に関する数々の作曲をされた。「熱海節・熱海とろりこ・梅祭りの唄・丹耶トンネルの唄・熱海第一小学較校歌(熱海国民学校)」がそれらてある。代義的な歌曲としては、島村抱月と相馬御風の「カチューシャの唄」北原白秋の「さすらいの唄・別れの唄」吉井勇の「ゴンドラの頭」等でその後「東京音頭・船頭小唄・波浮の港・東京行進曲・銀座の柳・雨降りお月・諸城寺の狸囃子・てるてる坊主・あの町この町」等々数多くの名作を残し、その数3000曲を超える。昭和27年(1952年)12月30日、熱海市西山で逝去。没後西條八十先生を会長とする中山晋平顧彰会を中心に昭和36年(1961年)1月建碑・碑面には「熱海節」の譜を理め込み、「熱海の風光を愛しここに不朽の名曲を生めり中山晋平追憶碑・西條八十誌」と彫りこんである。」今度は紅梅を背景に蠟梅を。白梅を追う。山茶花であろうか。万両。そして入口まで戻る。「観光案内所」の壁には「MOA美術館」👈リンク の「名品展 国宝「紅白梅図屏風」」のポスターが。国宝「紅白梅図屏風」は、江戸中期の絵師・尾形光琳の最高傑作。背景を省略し、右隻に紅梅、左隻に白梅を配して、梅の木の間に流水をクローズアップ。紅梅は画面いっぱいに描きながら、白梅の大部分は画面外に隠され、左右対照の妙を見せながら、中央の流水を未広がりに描いて微妙な曲面をつくり上げた構図は、光琳の独創性の賜物。MOA美術館のコレクションを、左上から国宝 手鑑「翰墨城」奈良時代~室町時代重文 平兼盛像(佐竹本三十六歌仙切)鎌倉時代重文 色絵桃花文皿 鍋島 江戸時代重文 洋人奏楽図屏風 桃山時代重文 山水人物蒔絵手箱 鎌倉時代国宝 色絵藤花文茶壺 野々村仁清 江戸時代。重文 聖観音菩薩立像 奈良時代。出口右手にあった紅梅。そして白梅。「熱海梅園」を後にし「来宮駅」に向かって坂を下っていくと前方に熱海の海が現れた。そして「来宮駅」前にはパインツリーが2本。その下の花壇。「来宮駅」。駅前の広場に埋め込まれたタイル案内板。「JR来宮駅」。そして「熱海駅」の電車に乗る。「初島」が車窓から。そして「熱海駅」で東海道線に乗り換え帰路に。真鶴駅前から模擬天守のようなものが見えたが・・・。「荒井城址公園」で11世紀に活躍した荒井実継の居城跡の公園。そして熱海駅で東海道線に乗り換える。車窓から西湘の山の姿が。そして「西湘バイパス」の「早川IC」横を通過したのであった。そして小田原駅手前で瞬間的に小田原城の姿が現れるのであった、上手くタイミングが合わなかったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.02.26
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「韓国庭園」を後にして、隣りにあった「中山晋平記念館」に向かう。ここにも丁寧な案内板が。「熱海梅園」の奥の方が開花が進んでいるのではないだろうか。白梅を追う。ズームで。「中山晋平記念館」手前より「下界」の絶景を楽しむ。旧中山晋平邸は、戦前に多くの童謡や流行歌を生み出した作曲家・中山晋平の旧宅。昭和19年(1944)に熱海市西山に建てられたもので、現在は熱海梅園敷地内に移築され「中山晋平記念館」として一般公開されているのだ。主屋の西側に玄関棟が設けられていた。「弓削皇子(ゆげのみこ)」が「額田王(ぬかたのおほきみ)」に送った歌。「いにしへに 恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の 御井(みゐ)の上より 鳴き渡りゆく」過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます と。 「弓削皇子」は天武天皇の第六皇子で長皇子の弟。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸された時に同行した弓削皇子が、大和(藤原京でしょうか)にいる額田王に贈り与へた一首です。この鳥は不如帰(ホトトギス)のことで、中国の古事に蜀の望帝が退位後に復位しようとしたが死んで叶わずホトトギスとなり、「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いているのだという伝説をもとにしてのものだそうですが、その故事と天武天皇の在世当時の昔を偲ぶ想いを掛けて詠んだ歌かと思われます。天武天皇が生きていらっしゃったあの頃にはもう帰れないのだろうとの寂しい想いとともに、天武天皇にゆかりの多い吉野の宮で、亡くなった天皇の魂を慰めようとする鎮魂の意思も感じられますね。あるいは望王の古事のように、弓削皇子は鳴きながら吉野の空を渡り行く不如帰に父である天武天皇が「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている姿を感じ取ったのかも知れません…」とネットから。「中山晋平記念館」案内板。建物は木造二階建て、屋根は入母屋造銅板葺で、各階とも南・東面は一面ガラス張りになっていた。玄関内部。柱やそれに繋がる横柱に皮付丸太を使用し、数寄屋風としているのだった。「中山晋平記念館当記念館は、作曲家・中山晋平の別荘として昭和10年に熱海市西山町に建設されました。昭和19年に東京は空襲が激しくなった為、熱海に移住し.昭和27年65才で亡くなるまで、ここで多くの作曲をして来ました。この建物は日本ビクター株式会社様より熱海市が寄贈を受け、平成3年4月、当時のままの姿で、この梅園に移築したものです。」玄関から上がり左に折れた玄関棟西側の和室は、広さ4畳半とこじんまりとしていた。中山晋平が使用していたピアノや蓄音機が展示されていた。このピアノは、中山晋平先生が昭和27年12月、熱海で逝去されるまで愛用されていたもの。「明治12年(1879)ニューヨーク・コーラー・アンド・チェイス社製で、大正8年~10年ごろ購人されたものです。」このピアノから生まれた曲は今でも歌い継がれている「船頭小唄丿(大正10年)、」「しゃぼん玉」(大正10年)、「波浮の港」(大正13年)「あの町この町」(大正13年)「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭(昭和8年)等々で数多くの名曲が残されております。」「中山晋平」の写真。「蓄音機」。「カチューシャの唄」の楽譜の掛け軸。長野市松代町清野947の林正寺境内にある松井須磨子演劇碑の拓本であると。「かみにねがーひを(ララ)かけーませうか」「日本の歌謡史に偉大な足跡を刻んだ作曲家 中山晋平 明治20年(1877)3.22~昭和27年(1952)12.30」作曲家。長野県生れ。教員生活1年ののち明治38年( 1905)上京。島村抱月家の書生を務めながら、明治45年(大正元年・1912)東京音楽学校本科器楽部(ピアノ科)卒業。小学校教員となる。大正3年(1914)抱月主宰の芸術座公演<復活>(松井須磨子主演)の劇中歌<カチューシャの唄>(抱月・相馬御風作詞)を作曲して好評を博した。つづいて同座公演の劇中歌<ゴンドラの項>(吉井勇作詞、1915)、<さすらいの>(北原白秋作詞、1917)などを作曲、一躍名声を得た。以後、野口雨情の詞によるく船頭小唄〉(1921)、(須坂小項〉(1922 )、<波浮の港>(1924)、時雨音羽の詞による<出船の港> (1925)、く鉾をおさめて>(1926)、西条八十の詞による<東京行進曲>(1929)、東京音頭(1933)などヒット曲を生み出した。また<證城寺の狸囃子><砂山><てるてる坊主>などの童謡でも親しまれた。昭和3年(1928)以後ビクター専属。昭和23年(1948)から日本音楽等作権協会会長を務めた。没後「中山普平記念音楽賞」が設けられた。作品総数は3,000余曲に及び、曲集として出版されたものに<中山晋平集>(1952 )、<中山晋平作曲全集>(童謡篇上下2巻、1956。新民謡篇1巻、1963)がある。彼は鋭い感覚で日本民謡の特徴を把握し、音階、リズム、日本語の扱い方などにそれを活用して、独特の明快な日本的・庶民的な歌のスタイルを作り上げ、「普平節」といわれた。童謡運動や新民運動に重要な役割を果たし、日本近代の大衆歌曲の道を開き、そのスタイルを確立した。」こちらは白いピアノ。西条八十・中山晋平がこのピアノで熱海節を作詞作曲した(昭和初期熱海で最初のピアノ)。「熱海 梅まつりの歌」の楽譜、歌詞の展示コーナー。欄間の彫刻も見事であった。居間の東側に座敷があった。8畳の広さで、雪見障子を隔てた東側と南側には縁側が設けられていた。この床の間にも「銀座柳の碑」の掛け軸が。「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けば春風紅傘日仐けふもくるくる人道り」。この掛け軸は、長野県中野市の「中山晋平記念館」にある記念碑の拓本を表装したもの と。縁側の歪みのある大正ガラス?が。作詞 西條八十歌手 佐藤千夜子作曲 松竹蒲田音楽部(中山晋平)「愛して頂戴」👈リンク の楽譜(左)とひと目見たとき好きになったのよ何が何だかわからないのよ日甞れになると涙が出るのよ知らず知らずに泣けてくるのよねえねえ愛して頂貮ねねえねえ愛して頂貮ね作詞・海野厚、作曲・中山晋平「背くらべ」👈リンク の中山晋平直筆の楽譜(右)柱の傷は おととしの五月五日の 背くらべちまきたべたべ 兄さんが計ってくれた 背のたけ昨日くらべりゃ 何(なん)のことやっと羽織の 紐(ひも)のたけ表彰状や色紙、年賀状等々の展示コーナー。付書院板欄間の透かしも美しく。1階の茶の間。 妻・嘉子(新橋喜代三)も火鉢の前に座ったのだろう。「妻・中山嘉子は、鹿児島でも評判の芸者で、それは美しい女性でした。中山晋平とは昭和6年(1931)に出会い、晋平の勧めで上京して「小原良節」「よさこい節」を日本ビクターでレコーディング。同年に新橋芸者となり、昭和7年に新橋喜代三(しんばし きよぞう)という芸名で、ポリドールの専属歌手となります。昭和11年(1936)晋平の妻・敏子が病のため45歳で亡くなり、翌年に中山晋平と結婚、引退します。この熱海の邸宅で晋平と共に暮らし、晋平の死後、日本ビクターの歌手として復帰しましたが、熱海での暮らしを続けました。昭和38年(1963)3月23日に病により59歳で他界。」とのネット情報。縁側からの光景。ガラスの歪みに梅の花も揺れて。開いたガラス戸から玄関前を見る。狭い階段から二階へと上がる。二階・十畳の座敷。床の間の掛け軸。「三笠山には つつじが咲いて 赤き心もしげくなる 雨情」板欄間や障子の組子には、一階とは異なる、これも見事な意匠が施されていた。正面から。しばし、寝転がっていたい眺め、空間であったが。「中山晋平」の案内ビデオが上映時間約10分で流れていた。2階からの「熱海梅園」の光景をしばし楽しむ。「熱海梅園」の静かなたたずまいの中に、落ち着いた木造建築がとけあい、 心にしばしのやすらぎを与えてくれるのであった。上部に「東京行進曲」👈リンク の直筆の楽譜の複製品。「♪あだなとしまをだれがしろ♪」「中山晋平」作曲目録がガラスケースに所狭しと。内部の見学を終え外に出て、玄関前のシシオドシ(鹿威し)を見る。門を内側から。そして趣きのある門を出て振り返る。こちらが正式の入口。「中山晋平記念館」と書かれた表札が掲げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.25
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「梅園橋」の向こうに「澤田政廣記念美術館」案内板が。「梅園橋」を渡る。前方に苔むした岩肌にも似たユニークな外観を見せる「澤田政廣記念美術館」の姿が。「梅園橋」を渡りながら絶景を楽しむ。再びズームして。「澤田政廣記念美術館期間展示館蔵品展令和2年12月30日から令和3年4月18日まで美術館所蔵の澤田政廣作品を中心に展示いたします。間館時間 9 : 0 0~16:30休館日 月曜日(祝日は開館) ※うめまつり中は無休」建物を取り囲む大きな壁にある穴からは女性像が。地中深く埋もれていた大きな岩の魂が突然地上に現れたが如き壁の姿。大きな壁を廻り込んで像の正面から。「ろうそく」を灯した皿を持つ女性像。ズームして。「ともしび 昭和21年(1946)」。二人の裸婦が近寄って。何かヒソヒソと語り合っているのであろうか。「黄泉のしこめ(よみのしこめ)昭和31年(1956)」タイトル「しこめ」の意味は「醜女」?やや痩せた裸婦の姿。背中に羽が。瞑想中?「蒼穹(あおぞら)そうきゅう 昭和35年(1960)」横たわる男の姿。「傷つける武人 昭和35年(1960)」「沢田政廣記念美術館」を横から。一見、廃墟の如き姿であるが。「沢田政廣記念美術館」入口を横から。入口正面に人魚の如き裸婦像。髪が風になびき。後ろ姿を。「海の賛歌 昭和38年(1963)」そして館内へ。館内は撮影禁止のため、以下の写真はネットから。入口天井のステンドグラス「飛天」。このステンドグラスの下で手をつなぐと、いつまでも幸せになれる、と人気であると。私は自分の両手を重ねて・・・???赤御影石の床に映る「飛天」も美しく、頭上と足元の両方でステンドグラスを楽しむことができるのだと。様々な彫刻作品が展示されていたのであった。以下はパンフレット&ネットから。政廣が昭和44年(1969)75歳のときに作った木彫「人魚」。別の角度から。「隠者」という作品であると。主要作品。①木彫「銀河の夢」大正13年( 1924 ) 30歳。②木彫「白日夢」昭和2年( 1927 ) 33歳。③木彫「紅衣笛人」昭和16年( 1941 ) 47歳。④木彫「救世太子」昭和18年( 1943 ) 49歳。⑤ブロンズ・レリーフ「三尊佛」昭和28年( 1953 ) 59歳再び⑥木彫「人魚」昭和44年( 1969 ) 75歳。⑦プロンス「長嶋選手像」昭和45年( 1970)76歳。⑧木彫「蓮華」昭和58年( 1983 ) 89歳。6年前の他の方の「ブログ」👈リンクに内部の作品が紹介されていました。そして「沢田政廣記念美術館」を後にして、「熱海梅園」の散策を続ける。白梅。柊の葉も紅葉して。ピンクの梅の花。竹林を背景に紅梅を。「三ツ子樟」なる大木も。梅園を開いた明治19年当時、直径40センチ程度だったが、大木になった為、梅への影響を考えて、根元から伐採されたが、切り株にひこばえを出して三本の樟となったのだと。そして「韓国庭園」へ。平成12年9月23日、当時の森喜朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中大統領の日韓首脳会談が熱海で行われ、翌日、両首脳が梅園内を散策し歓談された。それを記念し、平成14年8月29日大韓民国の伝統的様式と手法を取り入れた庭園が完成したと。周囲には「瓦張り土塀」。「瓦張り土塀瓦張り土塀は瓦で施工された壁で、下部は玉石張りにしています。塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」瓦を挟み込んだ背の低い韓国風の石塀。上部には鬼瓦も。瓦の積み方が信長塀より粗いのであった。北側の「玉石張り土塀朝鮮時代の伝統的な塀には、自然石を積んだものから土壁の塀、玉石や瓦を使った塀が見られます。玉石張り土塀は、玉石で細工された塀で、塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」「韓国庭園」案内図。「噴泉」。「噴泉韓国庭園では水が大切に扱われ、特に水の噴出部には意匠がこらされています。形態は「陰陽思想」を表現したものが多くあります。」塀の先に山門が。「友好平和記念碑 友 好 平 和日本国内閣総理大臣 大韓民国大統領 森 喜 朗 金 大 中 」「友好平和記念碑2000年9月23日に熱海で日韓首脳会議が行われ、翌24日に両国首脳が熱海梅園を訪れました。碑は日韓の絆を深めたこの会談を記念して設置されました。碑の刻字は、森総理大臣(友好)と金大統領(平和)の直筆です。」「方池円島「方池」は正方形または矩形の中央に円形の島をもつ蓮池で、円島には景石以外に松・柏・柳が植えられます。一般的に四辺の護岸は花崗岩の切石積みで、一辺の中央には、方池にせり出した亭が設けられ、両班(ャンバン)住居の大門部外周辺、または別堂(主人専用の離れ)近くに設置されます。池の方形は地の陰を、円島は天の陽を象徴したもので、陰と陽の均衡を保ち家勢の繁栄を願った庭苑施設です。」「韓国風建物」。朝鮮時代初期( 16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式。奥には韓国衣装で書き物をしている人物の姿が。「堂貴族階級(両班)の方が、世俗より隠遁し、山中において詩歌を吟じ、哲学を愛する学者の生活空間として造った建物です。小さなスケールですが、台所(女性の部屋)や使用人の部屋も付き、四季を通じて全ての生活が出来る様になっています。建物の様式は、朝鮮時代初期( 16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式を保ったスタイルです。マルと呼ばれる四方に壁のない開放的な部屋には自然との一体感が感じられます。この建物は「縁の家」と命名されました。又、内部には韓国文化院より寄贈された家具も展示してあります。」「煙家」「煙家オンドル(床暖房施設)の煙突で、その形状から「煙の家」と称されています。中には、壁面に長寿を象徴した動植物等を描いたものもあり、一般に花階に設置されています。」「堂」の裏には大きな壺が並んでいた。「チャントッテ 高台味噌、醤油、漬け物等の壺を置く場所で、台所に近い後庭に造られます。規模の大きさが家勢を表すものとされ、現在の一般家庭でも見られます。」「台所。台所は韓屋では一番独特な処で、料理をするだけではなく、暖房の役目もはたすところです。かまどの熱は、床下を通り煙家から出てゆきます。床下には平らな石が敷き詰められていて、この石を暖めて床と部屋をあたたかくするオンドル(床暖房施設)の役目をします。」そして「大門朝鮮時代中期の四柱門の様式で、「友好・平和」記念硬の正面にあることから格式を高く、大きな建物としました。梁の上部にある雲の形をした「雲板」は主人の精神住が雲上の如く高いレベルに達していることを表現したものです。また、入口部の柱の下部(根本)に彫られた図案は三太極という「天・地・人」の宇宙の構成原理を表現したものです。」ここ瓦張り土塀に庭園の名称が埋め込まれていた。「熱海梅園韓国庭園」。塀の途切れた場所にあったのが「朴飛行士記念碑」。「思いは遥か故郷の大空 朴敬元女史は、1901年大韓民国慶尚北道大邸府に生まれました。1925年に日本飛行学校へ入学して飛行機の操縦を学び大韓民国最初の女性飛行士として二等操縦士免許を取ると、かねてからの希望であった故郷への訪問飛行を計画し、1933年8月7日その日を迎えることになりました。飛行機は単発小型機で「青燕号」と命名されました。女性としては初めての長距離飛行となり、羽田空港では官民多数の盛大な見送りを受け、午前10時35分離陸しましたが、気象変化の激しい箱根上空で密雲に阻まれ方向を失い熱海市側の玄岳頂よりわずか50メートル下の山腹に激突し、不幸にも33歳の若さで墜落死してしまいました。翌8日、女史の遺体は地元の多賀村の人々に手によって、荼毘にふされ、翌年8月7日には元多賀村長西島弘氏が、私費で墜落現場に鳥人霊詩碑を建立し、そして1981年春には地元町内会の手で朴敬元嬢遭難慰霊碑が建立されました。地元の人々は、夢半ばにして破れた朴敬元女史の心安らかな事を願い、毎年定期的に墜落現場までの草刈や慰霊碑の保全を行う等、大切に護持しています。国を超えた人道的なこの地道な活動は、今日の友好と平和を祈念する多くの人々の思いでもあり、親切と文化を標榜する熱海市にとりましても、おもてなしの心を育む原点でもあります。熱海市は、朴敬元女史の墜落死と地元の人々の活動を永く記憶に留め、これまでかかわってきた多くの人々の友好平和 のあかしとして、日韓首脳会談を記念して建設された韓国庭園の一角に記念碑を建立するものです。」瓦張り土塀には紋章の如き瓦も埋め込まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.24
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「初川」の流れに焦点を合わせたつもりであったが・・・・。前方に「四阿」が姿を現した。四阿(あずまや、しあ)、東屋(あずまや)とは庭園などに眺望、休憩などの目的で設置される簡素な建屋。「四阿」の「阿」は棟の意味で、四方に軒を下ろした寄棟、宝形造などの屋根を持つ建造物を意味すると。「四阿」。「四阿」越しに梅園を見る。「腰掛欅(こしかけけやき)」。「腰掛﨔岩の上の草の中に生えたこのけやきは、後ろと左右の土が洗い取られ、根は前の土に太くのびて腰かけた形となった。」そして左手に「梅見の滝」。岩壁より3つの滝が流れていた。岩には穴が開いており、岩の中から滝を見ることも出来るようであった。ズームでして。人工の滝なのであろう。「梅見の滝」碑。滝壺を。園内案内板。「香浮橋(こうふばし)」。「香浮橋」から「初川」を見る。「香浮橋」の袂の見事な紅・白梅のコラボ。近寄って。更に。「梅見の滝」を振り返る。白梅をズームで。青空を背景に白が輝く。「茂木氏梅園記碑」篆額は伊藤博文の手によるとのこと。「茂木氏梅園記碑文の日本読」。「茂木氏」とは梅園造成に携わった横浜の豪商・茂木惣兵衛のこと。「茂木氏梅園記の要約初代総理大臣 兼 宮内大臣 従ニ位 伯爵 伊藤博文 篆額温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩分や鉄分にばかり頼らず、適当な運動をするからである。もし、一日室内にいて温泉に入浴していたら飽きもし、疲れもして、養生にならない。山に囲まれ、東南に海を臨む熱海は、温泉で知られている。人々は斜面を削って家を建て、そこに住んでいる。また、東京から遠くなく、その上、気候が温暖なため冬から春にかけて多くの都会人が来浴する。私は、初めてこの地に足を運び、山を巡ってまちの西側を散策すると、起伏に富んだ景色のよい場所を見つけた。そこは清流が乱石にぶつかり、その発する音は風雨のようで、分れたり、合流しながら勢いよく葦藪の間を流れ下っている。清流の西側に松や檜がうっそうとした丘があり、そこに登って休んだ。振り返って見るとあたりはのどかに落ち着き、しばらく帰ることを忘れていた。明治十八年(一八八五)四月、岩倉具視大臣の命令を受け、噏滊館を落成させた。私は、「この地の温泉の効用は顕著であり、今、この館が完成して療養施設は備わったが、保養の場所がないのが残念である」と人々に説いた。そして、前に見つけた場所について話し、そこを造成することを提唱した。すると、中山保次郎神奈川県議会議員が進んでこれに賛成し、横浜の茂木惣兵衛にもちかけた。すると惣兵衛は喜んでこれに応じ、中山氏及び地元の日吉、小松、露木の諸氏と相談してその事業に乗り出した。草木を伐採し、穢れを流し、地形にならって梅三千株や松・杉・楓・柳を植栽した。すると、清流は益々清く、趣のある岩もたくさん出てきて、山水花木、四季の眺めも美しくなった。高みに四阿をつくり、流れには小橋を架け、遊園の設備も整った。人々はここに集まり、酒を酌み、詩を吟じ、全てを忘れ、心なごみ、楽しむことができる。これでこそ、初めて温泉養生の効用を完全に引き出したといえよう。梅を最も多く植えたので、「茂木氏梅園」といわれる。茂木氏は豪商でありどんなことでもできるだろうが、彼はそうせず、私財を投じてこの事業をおこない、それを私することなく大衆のために開放した。実に偉いではないか。さらに、この花木泉石の名勝は、単に風雅な遊びに適しているばかりでなく、国のために尽くしている人々の疲れを癒し、志気を壮大にし、発想をあらたにさせることができる。その効果は非常に大きい。以上を記し、来園者に伝える。」「梅園橋」と左手に「澤田正廣記念美術館」。「梅園橋」周辺の梅の花を楽しむ。「梅園橋」を潜って。「椿の花」。ピンクと白のコラボ。ズームして。「梅園橋」とその先に「澤田正廣記念美術館」を見る。「澤田正廣記念美術館」の「詩情あふれる彫刻の美術館」案内。「梅園橋」から「初川」の下流側を見る。「絶景」かな。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.23
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「初川」にかかる来宮神社の「社宮神橋(しゃぐうじんばし)」を渡る。そして「来宮駅(きのみやえき)」の前に出る。「来宮駅」は、静岡県熱海市福道町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)伊東線の駅である。東海道本線のすぐそばにあり、地理的には伊東線がここから分岐している状態であるが、ホームがあるのは伊東線のみである。並行して走る東海道本線上には、東京方面から熱海止まりの列車が折り返すことができる2本の電留線がある。そのため熱海止まりの電車が熱海から回送となり東海道本線を経由して「電留線(でんりゅうせん)」に入線し点検・整備を受け東京方面へ折り返していく。「電留線」は、鉄道駅などにおいて一時的に電車を停めておくための線路で、側線の一種であると。これから向かう「梅園開花状況」案内板。「来宮駅」前の「熱海桜」は満開中。熱海函南(あたみかんなみ)街道前の「来宮駅」から少し登った左側にあったのが「弁財天女堂」。この「函南」の由来ですが、温泉地箱根の南に位置しているからと。 もともと箱根は「函嶺」と書かれていたようで、「函嶺の南」がいつしか「函南」へと転化したとのこと。ここの「熱海桜」もほぼ満開。「無縁仏」の塚であろうか。「本殿」。「本殿」の前の左右にはチベット仏教の「マニ車」の如きものが立っていた。「マニ車」・輪蔵を右回り(時計回り)に回転させると、回転させた数だけ内蔵されたお経・真言を唱えるのと同じ功徳があるとされているのだ。「弁財天由来記伝説に依れば其の昔弘法大師が江の島にて弁財天法の秘密護摩修法し其の灰を以って弁財天と十六童子の像を御造りになった。この伝説の通り明治維新前江の島神社には弁財天が𫝆祀されてあったが時の神佛分離令により廃された。その弁財天がいつ頃かこの地に祭祀されてあり維新の功臣右大臣岩倉具公、太政大臣三條実朝公、島津久光等高位顕官の信仰厚く来熱入湯の節は必ず御参拝になられた。其の後年と共に熱海弁財天様として知られる様になり広く庶民信仰の的となりました。そもそも弁財天とは吉祥天女の別名であり我邦の古画にも吉祥天女像画室(奈良博物館蔵)がありその美貌は古美術古佛画中の最高の美像であります。その利益は一切世間を饒益し貧窮を救い財殻を支えるものとされています。所謂、招徳円満富貴の佛神であります。その従へる十六童子は印鑰童子(いんやくどうじ) 麝香童子(じゃこうどうじ)とも言う官帯童子(くわんたいどうじ) 赤音童子(せきおんどうじ)筆硯童子(ひつけんどうじ) 香精童子(こうせいどうじ)金財童子(こんざいどうじ) 召請童子(しょうどうどうじ)稲籾童子(とうちうどうじ) 大神童子(だいしんどうじ)計升童子(けいしようどうじ) 悪女童子(あくにょどうじ)飯櫃童子(はんきどうじ) 質月童子(しつげつどうじ)衣裳童子(いしやうどうじ) 除哂童子(じょきどうじ)蚕養童子(さんやうどうじ) 悲満童子(ひまんどうじ)酒泉童子(しゆせんどうじ) 密跡童子(みっしゃくどうじ)愛敬童子(あいきやうどうじ) 施願童子(せがんどうじ)生命童子(しやうみやうどうじ) 臍虚空童子(せいこくうどうじ)従者童子(じうしやどうじ) 施無畏童子(せむいどうじ)牛馬童子(ぎうばどうじ) 随令童子(ずいれいどうじ)船車童子(せんしやどうじ) 光明童子(こうみょうどうじ)善財童子(ぜんざいどうじ) 乙護童子(おとごどうじ) 」「永代供養塔」。内陣の弁財天。そして更に坂を上り「熱海梅園」前の「梅園前」交差点に到着。ここが「熱海梅園」入口。「熱海梅園 梅まつり 開催中」の横断幕。梅園前の植栽が、赤、黄色、ピンク 、白の葉や花で迎えてくれた。梅ではないヒバ?の黄色と赤のコラボ。前方に「熱海梅園」の入場ゲート。ゲート前では、紅白に咲く梅が迎えてくれた。その中央に「梅園」碑。「第77回 熱海梅園 梅まつり」案内板。令和3年1月9日~3月7日で開催中と。ゲートの横にチケット売り場があった。300円のチケットを購入し、「熱海梅園」に入る。正面にも「熱海 梅園」碑。近寄って。更に。「梅園の由来明治十八年(一八八五 )わが国初の温泉療養施設「噏汽館(きゅうきかん)」開設に伴い、内務省衛生局長 長与専斎の遊歩公園造成提唱に応じた横浜の茂本自ら選定したこの地一万坪に早咲きの梅 初雁、冬至梅など紅白百種をこえる梅三千株と松、桧、楓を配し、三亭、五橋をもって翌十九年完成し「茂木氏梅園」と令名、「熱海梅園」と通称され当初より公開された。その後、皇室財産、国有財産を経て、昭和三十五年熱海市に譲渡された。長与専斎 略歴天保九年(一八三八)長崎県大村の藩医の家に生れ、十六歳で大阪の蘭学塾、緒方洪庵の「適塾」に入門、のち長崎で直接蘭医に学び長崎医大の前身、精得館、長崎医学校の学頭をつとめ近代医学の導入を図った。明治四年岩倉具視の米欧使節団に随行、国民の健康保護、医事行政、諸施設に深く啓発され、明治六年文部省初代医務局長のあと自ら案出した「衛生」のことばを用いた内務省初代衛生局長となり、在任十八年わが国医制、公衆衛生の基礎をつくった。明治三十五年(一九〇ニ)死去。」ゲートを振り返る。「熱海梅園のご案内」。右手に「夫婦松(めおとまつ)」。樹齢400年以上と推測されるという「夫婦松」。二股に分かれていた。「 雨風に負けず寄り添う夫婦松」の句碑が横に。梅の開花率は5部弱か。こちらの白梅は8部咲き。マスクをしていることもあり、梅の香は・・・・????。「熱海梅園」の中を流れる「初川」。水量は豊かに。「中央広場」近くの案内板と紅梅。「第77回熱海梅園梅まつり行事案内」板。期間中には「大道芸パフォーマンス」が行われると。「熱海梅園 配置案内図」が日本語、英語、中国語、韓国語で。見事に開花中の白梅。紅梅はこれから。梅まつりのパフォーマンス会場舞台は寂しそうに。右の白梅は「貫一の梅」、左の紅梅は「お宮の梅」。白梅の手前にはエピローグを迎えた蠟梅の姿が。白梅を青空を背景に。ここでも「メジロ」を発見。「松尾芭蕉」句碑。「梅が香に のっと日の出る 山路かな」と。「松尾芭蕉の句碑梅が香に のっと日の出る 山路かな「梅が香に・・」の句は元禄七年、芭蕉が五十一歳の時、七部集の第六集として、門人が発刊した「炭俵」の上巻に納められている。これは門人である「志太野波」、「小泉狐屋」、「池田利牛」、「服部乱雪」等が、翁の旅立ちを記念するための句会の席上、連句の主座として発句したもので、翁の「むめ(梅)が香にのっと日の出る山路かな」のあとを、野波がすかさず「ところどころに 雉の啼きたっ」と付けている。その野波が「家晋請を 春のてすきに とりついて」と続け、これに芭蕉が「上のたよりに あがる米の値」と付けている。芭蕉が熱海に来たことがあるかは分からないが、梅園に隣接していた撫松庵(ぶしょうあん)の高台から見た光景が思い描ける句である。」ピンクと白のコラボ。白と赤のコラボを追う。青空に映えて。花壇にはパンジー、縮れ葉牡丹が。右手に「迎月橋」。朱の「駐杖橋」。「梅園五橋」のうち、この「駐杖橋」という橋は、赤く塗られていて優雅な形をしていた。「武田鶯塘(たけだおうとう)」句碑。「錦浦観潮 夏すでに 漲る(みなぎる)汐の 迅さかな」。このほか、梅園内には下記の句碑があったのだ。「梅が香にのっと日の出る 山路かな」(松尾芭蕉)「月光は 流れに砕け 河鹿なく」(波多野光雨)「梅園や 湯あみの里の 出養生」(石田春雅)「梅一輪 南枝一輪 また一輪 (詠人不知)「三界の さとを出あるく 頭巾かな」(斧 三休) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.22
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県道11号線・あたみ梅ラインに向けて坂を上っていくと、正面に見えて来たのが「海蔵寺」。熱海市水口町17-24。寺号標碑「臨済宗 妙心寺派 海藏寺」。「坪内逍遥(つぼうちしょうよう)先生御墓所 正面丘上」碑。「杉本苑子(すぎもとそのこ)先生御墓所 階段上り裏門出て正面右奥」。石段の途中に、可愛らしい「六地蔵」が小堂の中に。参道の先に「山門」が見えた。「山門」を潜る。「本堂」横の掲示板と石仏。掲示板には「にくむ心にてひとの非を見るべからず」と。たしか、道元の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の一節。他人の悪い事や間違いに関わったり、欠点をあげつらってはいけない。また弟子たちに「誰にでも欠点や過ちはある、憎む心ではなく、温かい心で見なさい」と戒めた言葉。今の日本では、ある意味で、読み返し考えたい一節と感じるのだが・・・。本堂前の大きな「石灯籠」と本堂前の真新しい休憩所? 「本堂」。「臨済宗 妙心寺派 錦峰山 海蔵寺」。扁額は「錦峰山」。「坪内逍遥 杉本苑子先生墓所」の手書きの案内板が、寺務所の入口に。紅梅であろうか。「本堂」を斜めから。 禅宗特有の鐘が本堂の回廊上に。境内に「力石」があった。「逍遥先生景慕之碑」「景慕」とは仰ぎしたうこと と。「井上省三」の胸像。官営毛織物模範工場千住製絨所の初代所長。「海藏寺と井上省三との関係井上省三は明治一九年十月ニ日、東京大学教師であったドイツ人医師ベルツ博士のすすめにより熱海へ転地し、当時一流の温泉旅館だった真誠社に宿泊して療養に専念した。しかし、病気(肺結核)は重く、寿命を悟った省三は、かねて親しい日吉又四郎(旅館出人りの貸本屋。自宅は現在の上宿町)に美しい海を見渡せる墓地を求めるように依頼した。そこで又四郎は前から懇意にしてもらっていた海蔵寺の第九世宗琢和尚に相談し、省三を駕篭に乗せて海蔵寺へ案内し、宗琢和尚に引き合わせた。和尚は、一見して省三の人柄に打たれ現在の墓地を選び、又四郎と共に省三を墓地まで手をひいて案内した。その好意に、省三は感涙を流したと云う。戒名「智光院明道省三居士」も生前に選ばれた。明治十九年十ニ月十四日没」「毛繊工業創始の父 井上省三弘化ニ年(一八四五)十月十五日 山口県下関市王喜町草場の素封家、伯野瀬兵衛常英、さとのニ男として出生。 幼名竹之助。三歳の時、同県厚狭群山陽町殿町の井上半右衛門、ふきの養子となる。 文武の才幹あリ。慶応ニ年 四境戦争に功あり。慶応三年 山口兵学校に入り簡学を修む(ニ十三歳)。明治三年六月(一八六八) 木戸孝允に伴われ上京しドイツ学を修む(ニ十六歳)。同年十ニ月 北白川宮能久親王御渡欧留学の随従を命ぜられ横浜出帆、アメリカ・イギリスを 経由ドイツのベルリンに留学し兵学を学ぶ。約ニ年後日本に最も必要なものは産業の 発展であると痛感し明治五年(一八七ニ) 断固として決意し、兵学を止めベルリン南東のザガン市、カール・ウルプリヒト 毛織物工場に一職工として入社(ニ十八歳)。 文字通り不眠不休の努力を重ね技術の修得に専念、明治七年四月留学期間満了後は 自費で研究を続け明治八年十月 全技術を修得し帰朝(三十一歳)。明治九年一月(一八七六) 内務省御用掛を命せらる。同年三月 羅紗製造所建設の允許が下る。同年五月 製絨機械の注文、工師雇い入れの命を受け急ぎドイツへ差遣さる。明治十年八月 サガン市グスターフ・キョウンクニ女 ヘードビヒ( 二十五歳)と結婚す。 (三十三歳)同年十ニ月 夫人と共に帰朝、直ちに沙羅製造所の建設、諸機械据付等創立の事業に徒事。 東京都荒川区南千住六丁目明治十ニ年八月(一八七九) 製絨所完成し試運転に成功。我国最初の毛織物生産さる。同年九月 千住製絨所長に任ぜらる。明治十四年四月 千住製絨所 農商務省の所管となり、農商務省御用掛を命ぜらる。明治十六年十ニ月失火によリ主工塲焼失。明治十七年 一身を投げ出して再建に没頭。明治十八年 再建なり、生産高十六年のニ倍半となる。明治十九年(一八八六) 数年前よリ肺結核あり。火災後の心身の過労が病勢を悪化せしめ、 七月よリ伊香保に転地。更に十月熱海(銀座町十四番)真誠社に移って 静養中遂に第中に十ニ月十四日 遠大の抱負を胸に秘めつつ長逝す。 享年四十二歳。 法名 智光院明進省三居士 海藏寺に葬る。明治ニ十年ニ月 夫人へードビヒ、長女ハナを伴って帰国す。初期の目的通り兵学を専修すれば本人の立身出丗は意のままであったにもかかわらずその一切を放棄して文字通り製絨に一身を捧げ、然も志半ばで他界された事は誠に惜しみ余りある痛恨事である。死に臨み彼の胸中は如何ばかりであっただろうか。二十六歳で上京以来遂に一度も故郷の土を踏むことはなかった。我等は今日の繊維産業の隆盛は総べて彼の偉大な恩恵を受けている事を忘れてはならない明治ニ十一年 千住製絨所は陸軍省の所管となり、以来毛織技術のリーダーとして拡大を重ねたが昭和ニ十年八月(一九四五) 第ニ次大戦の敗戦によリ陸軍と運命を共にした。胸像の作者は井上省三の甥の高須俊彦(帝国芸術院会員 朝倉文夫の門下)昭和十ニ年一月十九日除幕式墓は本堂裏の道路を渡り左奥上です。」「本堂」横の庭園。作庭にもこだわりを感じるのであった。黄色の花が境内に。ヤマブキに似た花であったが。雲南黄梅にも似ていたが。坪内逍遥の墓に向かって境内を案内に従い進む。右手にあったのが「弁財天」。「坪内逍遥先生御墓所」案内碑。「南無阿弥陀佛」碑。そして階段を上がって行くと左手に「坪内逍遥墓碑」。法名は「雙柹院始終逍遥居士」と。「坪内 逍遥」👈リンク(つぼうち しょうよう、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に如く(しく)ものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。晩年はこの後訪ねた熱海市に建てた「双柿舎」に移り住んでいたと。墓碑には「逍遥坪内雄蔵夫妻墓」と刻まれていた。本名は「坪内雄蔵(つぼうち・ゆうぞう)」であると。残念ながら、「坪内逍遥」の作品を読んだ記憶はない。そしてその奥に海藏寺歴代住職の墓碑が並んでいた。正面から。塔身が卵形という多くの「無縫塔」が並ぶ。歴代和尚「連芳碑」。更に奥の祠にも石仏が。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)であろうか。そして愛犬の墓碑も。次に境内を裏門から出て、墓地の中にある「杉本苑子(すぎもと そのこ)」の墓地に向かう。こちらは墓地の左側奥。「杉本苑子」墓。「杉本苑子」は日本の女性小説家、歴史小説家、文化勲章受章者。2017年5月31日、静岡県熱海市の自邸にて老衰のため死去。「91歳没」👈リンク。「杉本苑子」墓碑には「苑」と刻まれていた。墓誌には戒名が「彩文院苑智慈光大姉」と。「杉本苑子 略歴一九ニ五年 東京に生まれる一九五ー年 サンデー毎日懸賞小説に入選 吉川英治に師事一九六三年 「孤愁の岸」で第四八回 直木賞受賞一九九七年 熱海市名誉市民となるニ〇〇ニ年 秋の叙勲で、文化勲章を受けるニ〇一七年 九十ニ歳で生涯を閉じる著書 穢土荘厳、散華、杉本苑子全集 他」。そして墓地の入口まで戻り先程利用した「海蔵寺」の裏門を見る。「海蔵寺」を後にして進むと直ぐに右手に竹垣が現れた。ここが「双柿舎(そうししゃ)」。熱海市水口町11-17。樹齢300余年と言われる柿の大樹が2本あることにちなんで「双柿舎」(そうししゃ)と呼ばれるようになったと。入口は全て閉まっていたので竹塀の上そして隙間にカメラを構えて「双柿舎」の庭を撮影。「シェークスピアの翻訳家としても有名な明治の文豪、坪内逍遙が、1920年(大正9年)から1935年(昭和10年)に亡くなるまでの15年間を過ごした住居。坪内逍遥は、約9年間、荒宿(現在の銀座町)に住み、シェークスピア劇の翻訳や、戯曲「名残の星月夜」、「義時の最後」などを著しましたが、閑静だった荒宿が騒がしくなり、執筆活動に専念できなくなったことから、水口町に新しく建てたのがこの双柿舎です。樹齢300余年と言われる柿の大樹が2本あることにちなんで「双柿舎」(そうししゃ)と呼ばれるようになりました。邸内には、塔の形の書屋や筆塚があり、また、会津八一の筆による門の扁額なども見どころとなっています。」とネットから。2階は書斎であったと。こちらが入口の様であったが閉まっていた。「早稲田大学「双柿舎」ご案内双柿舎は坪内逍遙の別荘として建てられました。逍遙は、早稲田大学創立の功労者、文学部の開設者であると共に、明治・大正・昭和の三代にわたる、文壇・劇壇の偉大な開拓者であり指導者でもありました。文学では「小説神髄」「当世書生気質」を著わして、わが国の近代小説の端緒をつくり、演劇では「桐ー葉」「沓手鳥弧城落月」等をもって歌舞伎に新風を吹きこみ、あるいはシェークスピアに傾倒して、その全訳「シェークスピヤ全集」四十巻を完成しました。逍遙は早くから熱海の風土を好み、明治44 ( 1 9 1 1 )年には荒宿の地に小さな別荘を営みました。しかし熱海町の発展につれ、そのあたりは繁華な町となったため静けさを求めて、大正9 (1920 )年に山の手の水口村(水口町)に居を移しました。この地は、うしろに四季折々その趣ををかえる山々を背負い、眼下には熱海の海と市街がひろがる景勝の地でした。敷地には、ニ百余年を経たかと思われるニ本の老柿があり、逍遙はこれに因んで「雙柿舎」と命名し、以来ほとんどここに起き伏して著述や研究につとめ、ここで生涯を終えました。双柿舎はすべて逍遙自身の設計です。建物はもちろんのこと、庭のたたずまい、泉石の配置、一木ー草に至るまで、逍遙の細心の注意が行届いており、さながら一つ創作々品をみるようです。逍遙書屋は昭和3 ( 1 9 2 8 )年に建てられましたが、これも逍遙の苦心の作で、和漢洋を折衷した特異な景観をもち、塔上には、シェークスピアの句から思いついた鋳金の翡翠の風見が掲けられています。昭和5 ( 1 9 3 0)年、この土地建物は財団法人・国劇向上会に寄付されましたが、逍遙は昭和1 0 ( 1 9 3 5 )年2月2 8日、7 7歳で逝去、またセン夫人も昭和24 (1949 )年2月21日85歳で長逝されましたので、同会から早稲田大学に寄贈されました。」「双柿舎」内部の配置図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.21
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「糸川」に沿って上流に向かって戻る。「桜橋」から。再び「メジロ」を追う。ネット上にはこんなページが「ウクイスとメシロの違いとは! ?写真て比較してみた! !」👈リンク花も「散って」。 ・梅・・・こぼれる ・萩・・・こぼれる ・椿・・・落ちる ・桜・・・散る ・菊・・・舞う ・牡丹・・崩れる ・朝顔・・しぼむ ・薔薇・・枯れる ・紫陽花・・しおれる日本語は語彙、表現方法が豊富なのだ。これぞ日本語の「美」。日本人はマスクをしていても、目で相手・対象を見つめながら相手の感情、自然の現象を詳らかに出来る「sensibility・感性」を持つ民族なのである。蜜を求めて逆さになって。ブーゲンビリアも負けじとピンクの花を。「糸川」の御成橋から糸川橋間(約180m)には、川を覆うようにブーゲンビリアが植えられていた。ブーゲンビリアは南米(ブラジル) 産のオシロイバナ科の熱帯性低木。南国では一年中咲いているが、日本では5~10月に咲く。花のように見えるのは、実際には、苞(ほう)と呼ばれるもので、苞が3枚集まったその中心に咲いている小さな白いものが花。苞には、葉脈があり、葉の形をしている。苞は肉厚が薄いので、風に吹かれてヒラヒラと舞う。苞色には、赤や白、桃、橙、黄色、それらの複色があるのだと。上手くピントが合いました。私の素人カメラマンへの思い遣りでメジロ君もしばし動かずに。前方に「ドラゴン橋」。「瓦斯燈」。実はこれ、本物のガス燈であると。点火のほうはタイマーによる夜間自動点火との事。依然、ここ糸川の「熱海桜」の夜桜を見に来た時の「瓦斯燈」の写真です。更に「御成橋」に向かって。座布団の模様のごとくに。掌の如き水鉢そしてその上に。「アンコウ」であろうか?これは「蟹」。ブーゲンビリアとのコラボ。こちらも花のピークは過ぎていたが。再び「メジロ」を。やわらかな花を芽吹き、丈夫な枝を持つこの生命の一本は、何年もかけて培ってきた命の証。この季節しか咲かないこの花は、人々を魅了すべく、今日も満開の花で曇天を彩っていたのであった。花の深い部分は、紅に染まり、それが集まって一つの淡いピンク色の木となる。そしてこの後に、枝の先からは、緑色の芽が噴き出て、新しい命の始まりを告げるのだ。「ヒラメ」が風に舞い踊った「熱海桜」の花びらに囲まれて。既に命の終わったこの花びらは、この後に色も変わり、本来の花の華やかは失うが、そこからは、やがて川に流れ込み、浮かぶ花びらが渦を造り、そして春色の流れが「熱海桜」終焉の美しさを見せてくれるのであろう。そして「御成橋」に近づいて。「糸川」の流れを覗き込むように。そして「御成橋」から今年の「糸川」の「熱海桜」も見納め。次の目的地の「熱海梅園」に向かって徒歩で進む。「熱海市消防署」では梯子車の点検中か?そして「御殿稲荷神社」に立ち寄る。静岡県熱海市中央町1-1。「御殿稲荷神社 御由緒江戸時代初頭の寛永年間(一六二四年~四四)三代将軍徳川家光公は徳川家康公が湯治をしたというこの熱海に湯治御殿を造営した。その際に御殿の鬼門除けのために京都伏見稲荷神社より分祀して湯治御殿の地に建てたのがこの「御殿稲荷神社」である。以来、熱海大湯の湯は頻繁に江戸城本丸、西の丸に届けられ熱海の湯は将軍家のご用達となった。明治二十二年(一八八九年)、この地に御用邸が造営され冬の避寒を目的として、大正天皇、皇孫三殿下(昭和天皇、高松宮、秩父宮)がご滞在された。御殿稲荷神社は春には桜花も美しい徳川家ゆかりの社である。毎年、ニ月と九月に例祭を行い、商売繁盛(出世の湯)、不老長寿、無病息災を祈願し多くの方が参拝されている。」「社殿」。創建 享保 八年? (1723年)改修 平成 二十四年 (2012年)鳥居 昭和拾年(再建) と。内陣。「総合庁舎入口」交差点を渡る。熱海新聞というローカル紙が入っているビルの前庭に二頭の馬が丸太の囲い越しに如何にも草でも食んでいるような風情で佇んでいた。ビルのオーナーの父親が馬が大好きで、かつて所有していた馬にそっくりの馬のオブジェであると。毛の色もそっくりに塗ったと。馬は今でもどこやらで乗馬用として健在だという。場所はちょうどマックスバリューに行く角で、熱海新聞など入るビル。そのビルの管理会社もなんと父親が所用していた馬の名前からとった名称とか。後ろ姿も。そして更に坂道を上って行った。「初川」に沿って進む。「初川橋」から「初川」の流れを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.20
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国道135号を渡ると、その先には「渚親水公園」があった。「スパ・マリーナ熱海」の先には「熱海後楽園ホテル」とその奥の山の稜線上に「熱海城」が。「熱海城」。「熱海城は海抜120m余、名勝地錦ヶ浦を脚下に控えた天与の要塞地にあり、築城には最適の地とされていたと。戦国時代の昔、関東・東海地方に威をふるった小田原北条氏歴代の名将たちも水軍の根拠地として築城を希望しながら果たし得なかったと伝えられていると。熱海城天守閣の建築様式は日本の築城建築が発展の頂点に達した桃山時代、慶長初期の様式にのっとり、外装5層、内部9階の高層建築で昭和34年に築城された と。反対側には「真鶴半島」が。その先に想い出深い!!「三ツ石」の姿が。中学生の頃、浜辺から約200mに渡って続く岩礁の先に、3つの巨大な岩が顔を出していたこの「三ツ石」に、干潮を利用して徒歩で渡り外海に向かって釣りに熱中していたのであったが、振り返って見ると・・・・・!!!!!。そして「恋人の聖地」のモニュメント。そして「スカイデッキ」を「熱海サンビーチ」方面に歩く。光る海の先に「初島」👈リンク が確認できた。「伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯である。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住している」とウィキペディアより。首都圏から一番近い離島 「初島」とあったが、「離島 」の定義は?「ムーンテラス」を見る。熱海ムーンテラス 恋人の聖地のモニュメントをズームで。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。「ムーンテラス」を正面から。夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。早朝には水平線からのぼる朝日がビーチや街を染める美しい景色を見ることができる場所。その後ろに立ち並ぶホテル・マンション群。毎年見る度に白き高層ビルが増えていくのである。 白き高層ビルの先にダイヤモンドヘッドの如き山が見えれば、これぞハワイ・ホノルル・ワイキキビーチ。しかしこの日は「熱海サンビーチ」には人の姿はなし。そして2本の「熱海桜」の間にあったのが「釜鳴屋平七(かまなりや へいしち)夫婦像」。この像は、文化勲章を受章した熱海市名誉市民である澤田政廣の作「釜鳴屋平七夫妻像」。安政時代の義人、平七と妻の像。不況で網元が漁民に賃金を払わなくなり、平七たちは一揆を起こし、代官所へ命がけの直訴。平七は首謀者として八丈島流しとなるが、虐待により途中の大島で死去。35歳だったと。平七夫婦は現代の海を見ながら何を思っているであろうか。「釜鳴屋平七夫妻像」そして「熱海桜」を見上げて。ズームで。台座には「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起こった漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳 武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元側から脱退、漁民に味方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七らは漁民250余人とともにムシロ旗を立て韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川太郎左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら7人は捕らえられ、首謀者と見られた平七は島流しの刑を受け、文久3年10月〈1863年〉江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島に降ろされ、11月4日35歳で亡くなりました。漁民たちは平七の意志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露100有余年、今もなお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」「釜鳴屋平七夫婦像」の「熱海桜」をズームで。横の階段の壁は水族館の如くに魚たちが泳いでいた。花壇には「熱海ムーンテラス」の文字が。「ユリオプスデージー」の花であろうか。茎葉は春菊に似て。「スカイデッキ」下の遊歩道を歩き糸川方面に戻る。再び「スパ・マリーナ熱海」越しに「熱海城」を。「熱海港防波堤」の先の「初島」を見る。そして再び「熱海渚橋」。「糸川」沿いの「熱海桜」を楽しみながら「御成橋」に向かって上って行く。「柳橋」。ズームして。この樹はこの日が満開のピークか。橋の欄干の波の上にはカモメの像が。桜の花びらが川床の岩に取り残されて。「糸川橋」。「柳橋」を振り返る。再び「熱海桜」の原木を。いつまでも頑張って欲しいのであった。そしてこの後は、しばし「熱海桜」に戯れる「メジロ」の姿をカメラで追う。棘のある枝で羽を休める「メジロ」の姿。こちらは「ヒヨドリ」であろうか?メジロの特徴は、目のまわりの白いフチドリ(これも短い羽毛)。からだのあざやかな黄緑色から、ウグイスと間違える人もいるのだが。花びらに陽光が当たるとピンク色が映えて。怪しい雲が上空に。照明の座も芸術品であった。青空がなかなか姿を現さなかったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.19
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コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの少ない、屋外の散歩としてマスクの完全着用の下で、2年ぶりに「あたみ桜 糸川桜まつり」に東海道線を利用して向かったのであった。熱海駅を振り返る。「熱海駅前平和通り名店街」に進む。人の数は少なかった。そして「糸川」に架かる「御成橋(おなりばし)」に到着。「梅まつり」と「あたみ桜 糸川桜まつり」の今年のポスター。「御成橋」の名は、家康公が熱海を訪れた際、この橋を通って「御成り」になったことに由来し、橋には家康公が詠んだとされる句が刻まれていた。徳川家康熱海入湯句碑「春の夜の夢さへ波の枕哉」 慶長9年3月3日 徳川家康。「春の夜は短くすぐ明けてしまうのにそのはかない夢にもこの地・熱海の波が現れて来たのだ」か。慶長9年(1604年)3月、家康は2人の子供、義直、頼宣を連れて熱海に7日間滞在、本陣今井半太夫の湯亭に逗留した。関ヶ原合戦前の慶長2年(1597年)3月にも訪れ、熱海の湯で天下取りへ心身の疲れを癒した。計2度訪れたと。熱海市中心部を流れる糸川沿いの遊歩道(糸川遊歩道)には、57本のあたみ桜が植栽されている。1月には咲き始めるため、「日本でもっとも早く咲く桜」と言われているのです。熱海市以外ではほとんど見かけることはなく、「門外不出」の桜として知られている。昭和52年(1977年)には熱海市の木に指定されたのだ。御成橋から糸川沿いの300m程の遊歩道を下っていくと、最終的に海沿いの国道135号線(下り)へ出ます。その間、御成橋 → 新柳橋 → ドラゴン橋 → 桜橋 → 糸川橋 → 柳橋 → 渚橋 と糸川に架かる橋を右手に見ながら進んで行った。橋のデザインはそれぞれ違い、個性的で見ていて楽しいのであった。しかし、「かつて赤線地区だった一帯のイメージを変えたかった」が様々な橋のデザインの当初の目的の一つであった事を以前にネット情報から知ったのであった。下流に向かって左側の道を進んでいく。すると、今にも動き出しそうなタコの姿が。糸川の水面には既に花びらが落ち静かに流れていた。「あたみ桜」は既に満開のピークは終わっていたが、まだまだ・・・・。そして「新柳橋(しんやなぎはし)」へ。「しんやなぎはし」と。「新柳橋」の欄干のモニュメントには揺らめく柳の葉の姿が。熱海桜は花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長で、カンヒザクラとヤマザクラとの雑種と推定されているのだと。熱海桜はもともとは日本の桜ではなくてインド原産の寒桜の一種。そして次に「ドラゴン橋」に。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。欄干がドラゴンの骨格のように。「ドラゴン」の後ろから。「熱海桜」を飲み込むが如き「ドラゴン」の姿を。「龍」・ドラゴンを題材にした迫力ある欄干。「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。」亀とマンボウのオブジェ。上部は波の姿か。ズームして。「桜橋」の手前には「坪内逍遥 歌碑」が。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいたのだと。碑文には、「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう」 と。再び「熱海桜」を見上げて。そして「桜橋」へ。花びらが吹き溜まりへ。「熱海桜」碑。「糸川橋 」の麓、これが「糸川あたみ桜 基準木」。「糸川あたみ桜 基準木」案内板。「糸川あたみ桜 基準木」案内柱。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年( 1 8 7 1年)頃イタリア人によって、熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植我されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました。」海の方に向かって開花が進んでいた。ズームで。「糸川橋」を見る。欄干には白きカモメの姿が。更に海岸に向かって進む。陽光も射し込んで。「柳橋」。花びらが海へと。朝の陽光が差し込み。「柳橋」の先に海が見え初める。大きな波の姿か。そして「渚歩道橋」。山の尾根の上の「熱海城」が姿を現す。そして国道135号に架かる「熱海渚橋」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.18
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク更に「蓮光寺」の境内散策を続ける。「十三重塔」。そして「水子地蔵」。「赤子像」。「本堂」前には8体の仏像が並ぶ。左から阿弥陀如来 西方極楽浄土にあたってすべての人々に往生を約束する。不動明王 優しい導きを拒む愚かな者をおそろしい顔付きで𠮟り、救う。左から大日如来 宇宙の果てを突き抜けてあらゆるものを照らし続ける。勢至菩薩 智慧の光であまねく人々を照らし智慧の力で救う。左から普賢菩薩 幸福を四方八方に行き渡らせあらゆる御利益をもたらす。文殊菩薩 「三人よれば文殊の智慧」優れた智慧で教えを説く。左から虚空菩薩像 人々の罪を取り除き、幸福と智慧 超人的な記憶力を授ける千手観音菩薩 千本の手と千個の眼であらゆる願いを見届け、かなえる。そして「子育延命地蔵堂」。内陣。本堂は昭和62年改築され、内陣にあった欄間彫刻など地蔵堂内に保存されていたのであったが・・・・・。ネットより「欄間彫刻」を。 【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/hp/page000018300/hpg000018230.htm】より。「子育延命地蔵縁起堂内のお地蔵さんは江戸時代に信心深い人々が相寄リ造像され廻リ地蔵として上土棚の地域戸数およそ百戸を戸毎にニ、三泊ずつしては人に背負われて巡廻し、地域の人々の厚い信仰を得ていた。昭三十年代後半よリ地域の開発が進み戸も増加し、戸毎に廻ることが困難となリ本堂内に安置されていた。昭和六十三年に本堂が改築され勝縁によリこの地蔵堂が建立されここに安置された。〇堂内には市指定文化財である旧本堂内陣欄間が収納されている。」「薬師如来堂万病を治し、寿命をのばし衣食を満たす願いをかなえる。」「合妃墓 月影之苑」。「合妃墓 月影之苑についてどなたでもご利用できます。お気持ちのある方は、寺までご相談下さい。」阿弥陀如来像。ズームで。「無縁仏」の墓石群であろうか。「本堂」を横から見る。「蓮光寺七福神恵比寿天、大黒天、毘沙門天、弁財天、市袋尊、寿老人、福禄寿の神様の総称です。「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの災難が際かれ、七つの幸福が授かるといわれてます。七福神の信仰は、室町時代の末期の頃より生じ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育てられてきました。特に農民、漁民、商人の信仰として今日まて継承され、今もなお素朴な信仰として私たちの生活の中に生き続けています。」「恵比寿天七福神の中では唯一の日本の神様。 鯛を釣る姿は元々豊漁の神だったが、やがて海上交通の護り神として商家などにも信仰が広がり後に商売繁盛の神として信仰されています。」「大黒天全身真っ黒な福の神。元々古代インドのシヴァ神の化身だったが日本に伝来すると大国主命と神仏集合し、大地を掌握する農耕の神として、また福徳開運の神として信仰されています。」「毘沙門天四天王の一人(多聞天)で古代インドの神。唯一武将の姿をしており七福神の護衛役として七福神の一員として迎えられた。邪気を追い払い、疫病、災害を除く神として信仰されています。」「弁財天七福神唯一の女神は、元々古代インドの水の神。川の水音が音楽にたとえられ、古代の神になり、音楽の神になり、雄弁な語り口からやがて智慧、学問、幸運、財宝、子宝を授ける神として信仰されています。」「布袋様中国時代の禅僧。弥勒菩薩の化身とされ、いつも笑顔を絶やさず、大きな袋にお布施を入れていたからこう呼ばれるようになる。笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰されています。」「寿老人不老不死の仙術を極めたとされる神。中国の道教が起源とされ、右手に長寿のしるしの桃を持ち、同じく長寿を象徴する鹿を連れている。長寿延命、富貴長寿の神として信仰されています。」「福禄寿人生の三大目的とされる福(幸福)・禄(出世)・寿(長寿)のすべてを持つ道教の長寿神。右手に経巻を結びつけたり杖、左手に宝珠を持ち、招徳人望の神として信仰されています。」「七福神」を振り返る。七福神のうち唯一日本の神は土着信仰の神である恵比寿だけ。仏教の布袋、道教の福禄寿・寿老人などは中国から。そしてインドのヒンドゥー教から大黒天と毘沙門天。紅一点の弁才天(弁財天)もインドのヒンドゥー教から。よって室町時代以降、人々は別々に信仰されていた7つの福の神を集め、七福神としてグルーピングして信仰を始めたのだと。再び「本堂」を見る。巨大な「本堂」の屋根。徳川家の用いた「丸に三つ葉葵」が。「観音菩薩」。「観音菩薩 この世に有って無限に変身して人々の願いを見、聞き入れ救う。」そしてこの日の最後に「蓮光寺」の墓地を訪ねた。「市指定文化財 遠山氏累代之墓石群」碑。「遠山氏累代の墓碑群清水山徳泉院蓮光寺は、遠山佐左衛門安則により文禄三年(一五九四)に建立された浄土宗の寺院で、遠山氏累代の菩提寺です。当寺には安則をはじめ、歴代の当主及びその妻子等の墓碑が三十七基あります。遠山安則は徳川家康に仕え、天正一ハ年(一五九〇)九月、上土橋村など三百石の所領を与えられ、その後、二代安次の代には五百石の所領を持っ旗本になり、それ以後、幕末まで上土棚村全域を支配しました。遠山氏累代の墓碑群は昭和五十六年より市の指定文化財です。」遠山氏略系図安則ーー安次ーー安忠ーー安算ーー安速ーー安英ーー景澄ーー景寿 ❘ー利安 ❘ー景之ーー景利 「遠山氏累代の墓碑群」。そしてこの日で「綾瀬市」内の主要神社仏閣等の散策をほぼ制覇終了し帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.02.17
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそしてこの日の最後に訪れたのが「蓮光寺」。綾瀬市上土棚中2丁目15-43。「宗歌「月かげ」月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ 法然上人御作」以下 ネットから。ある時、子どもさんが「月かげというのは、お月さまにより出来る影ですか」と聞いてこられました。「月かげは、月の光という意味で影ではありませんよ」というお返しをすると、「いたらぬさとはなけれども、はどういう意味ですか」と。「届かないところはないという意味だよ。山も丘も私達の村も、みんな月に照らされているのだよ」と答えました。すると「影になるところは光は照らしていないのではありませんか」と。良い質問だなあと思いました。「その通り。この光というものは必ず影を作りますね。ところが、このお歌の月かげは遮ることができない光で、影のできない光です。だから私達のいのち・こころの一番奥にある、日ごろ気づかない世界まで、この月の光は照らしてくださっているのですよ」と。道路脇の「お掃除小僧」。この「お掃除小僧」は左利きなのであろうか?「浄土宗開宗八百年記念 浄土宗 蓮光寺」碑。「六地蔵」。六地蔵縁起仏祖釈迦如来が入滅されてから弥勒菩薩があらわれるまで、多くの苦しむ者を救ってくれた仏として地蔵菩薩は信柳されている。六体の菩薩を六地蔵と言い、六道のそれぞれのところで苦しんでいる者をお助けくださり、また子育て延命地蔵として人々をお守りくださる仏とされ、お地藏さまは多くの人に信仰されている。 六地蔵菩薩(持ち物) 六道 一、大定智悲地截(錫状) 地獄道 ニ、大誌清浄地截(加意) 餓鬼道 三、大光明地截(数珠) 畜生道 四、清浄無垢地截(合掌) 修羅道 五、大清浄地截(春炉) 人道 六、大堅固地截(衣服) 天道 掲示板には「小さな継続 大きな実り」と。コッコッど日々努力を続けること。その先にはきっよい結果が待っています と。「清水山といい浄土宗芝増上寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来てす。文禄三年(一五九四)地頭遠山佐左衛門安則により開基され、僧念誉上人を迎え開山されました。境内の地蔵堂には子育て延命地蔵(回り地蔵)が安置されてあり、市指定文化財の旧本堂の内陣欄間彫刻もこの堂内に保存されています。また、地蔵堂の上にある遠山氏累代の墓碑群も市指定文化財になっています。」「唯物是真」と刻まれた石碑。世間(せけん)虚仮(こけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)の一部。この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるということ。天寿国曼荼羅 (てんじゅこくまんだら) に記されており、聖徳太子の言葉という。 「弁財天堂」。案内板。内陣には弁天様が。左手に石仏群。一番左の「徳本六字名号塔」文化十四(1817)年七月徳本の石塔を境内に建立。徳本上人(1758~1818)は文化十二年・十四年相模国を巡回。中央は「地神塔」であろうか。「五穀護神」等の文字が。右は「清水山蓮光寺 南無阿弥陀仏」の文字が確認出来た石碑。そして「山門」。扁額「清水山」。「仁王像 阿形像」。お顔をズームで。「仁王像 吽形像」。お顔をズームで。「金剛力士(仁王)は、いつもお釈迦様の身近にあって釈迦の身辺を護る単身の守護神でした。後に、中国で寺門の左右に安置されて一対(ニ王=仁王)のものとなり寺院の守護神となりました。金剛力士は門前にあることから私たちの目に触れることが多く「仁王さま」と呼ばれて親しまれています。健康の象徴として病を治すために、紙つぶてを自分の患部と同じ箇所に投げて当たれば願いが叶うとか、健脚の神とし崇められ、大きな草履を奉納するなどの庶民の信仰を集めている。口を開いた像が「阿形」、口を閉じた像が「吽形」で「阿」はすべてのものごとの始まりを「吽」はものごとの終わりを意味し、「阿吽」で宇宙全体を表しています。ちなみに、息がぴったり合うことを「阿吽の呼吸」という言い方は仁王さまの「阿形」、「吽形」からきたものです。仁王さまは「素直な心をもって、仏の教えに帰依するように」と門前から私たちに説かれているのです。」「蓮光寺」の大きな「本堂」。中央に「ただ一向に念佛すべし」と刻まれた石碑。合掌している手の姿であろうか。この灯籠は・・・。「南無阿弥陀佛 佛子源空」の文字が。「源空」は「法然」の諱(いみな)・実名。「この灯籠は浄土宗開祖法然上人八百年遠忌を迎えるに当り、法然上人のご遺徳を偲び「念仏のみを教え、報恩のともしび」を檀信徒の皆様にお伝えいたしたく、建立したものです。制作は造形美術家・日展参与三橋國民先生の創作によるもので、神奈川県内三十カ寺の浄土宗寺院に建立された貴重な灯籠です。法然上人のご命日に当る二十五日夜には、ろうそくに明かりを灯し、私たちの心に明るさと暖かさを灯し続けていきたいものです。」「摩尼車」。「摩尼車摩尼とは摩尼宝珠とも如意宝珠とも言い宝珠(摩尼)には不幸災難を除き、濁水を清澄にするなどの徳があると言われています。そこから、宝珠は仏さまの徳やお経の徳にたとえられるようになりました。摩尼車を一回転させるとお経を一巻読んだのと同じ功徳が得られるといわれています。この摩尼車には『般若心経』が刻字さされています。摩尼車に軽く手を当てて、手前に回して下さい。その時、次の経文を唱えて下さい。『羯諦 羯諦 波羅羯諦(ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい) 波羅僧羯諦(はーらーそうぎゃーてい) 諦菩提薩婆訶 般若心経(ぼーじーそーわーかー はんにゃしんぎょう)』「旅立ちの法然さま」像。「法然上人像」。お顔をズームで。蓮華弁から流れ落ちるニ条の清水の「手水場」が「本堂」前にも。湧き水を循環していると下記の如くに。反対側には石碑も。「当寺は清水山徳泉院蓮光寺と称し、文禄3年(1594)徳川家康公の家臣で旗本遠山佐左衛門安則によって創建された浄土宗の寺です。依頼、法然上人の専修念仏の法灯を受け継ぎ今日まで約410年の歴史を刻んでいます。「清水さん」の山号の由来は、400年来枯れることなく湧き出している清水に依るものと思われます。平成17年初夏、渾渾と湧き出る清水を循環、濾過させる全国の寺院でも例を見ない天水桶・手水鉢の寄進の縁を得、ここに竣工の慶事を見る事ができました。御参拝の皆様、蓮華弁から流れ落ちるニ条の清水で心身共に清々しい気持ちになられてご本尊阿弥陀様、ご先祖様にお参りをなされますように。」「本堂」にお参り。扁額「南無阿弥陀佛」。「本堂」の内陣。中央にご本尊の「阿弥陀如来」。本尊の脇侍は聖観世音菩薩像と勢至菩薩像。彫刻も見事。木鼻(右)。木鼻(左)。禅宗寺院の花頭窓(花灯窓)、鐘、風鈴も。本堂前から境内、山門を見る。それにしても境内に、仏像、石碑が溢れている「蓮光寺」。まだまだ続くのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.16
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク「神崎遺跡」を後にして「御岳神社」に向かう。吉岡交差点角にあった神社。綾瀬市吉岡東5丁目5-33。鳥居の奥に社殿が見えた。鳥居横にあったのが、ネットフェンスに囲まれた安政3年(西暦1856年)建立の「不動明王像」とその隣に「庚申塔」。「不動明王像」。長年この場所に鎮座しているのであろうか?道路脇であるために排ガスの影響があるのだろうか、像の腐食・劣化が激しいのであった。「不動明王像」の台座部。「不動明王」と刻まれていたのであろうか。「庚申塔」。造立は天保九年(一八三八)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれていると。「社殿」の前に「御神木」。小さな「社殿」と「境内社」。「御岳神社」の「社殿」。「境内社」。「御即位紀年樹 楠五本 大正四年十一月十日」と刻まれていた。「御岳神社祭神は大己責命(おおなむちのみこと)ら六柱で、明治ニ十七年(一八九四)に遷宮・造営されました。鳥居の右にある不動明王は、安政三年(一八五六)の造立です。その手前には庚申塔があり、造立は天保九年(一八三八)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。」そして吉岡交差点角の反対側奥にあった「妙法稲荷大明神」へ。綾瀬市吉岡東2丁目11付近。覆い屋正面から。鞘堂の中の「妙法稲荷大明神」御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)。隣の境内社。そして「落合稲著社(おちあいいなつきしゃ)」を訪ねた。一の鳥居の石鳥居の扁額は「稲著社」。ここ下落合には、1662年寛文2年5月大吉に建設され、約350年に渡り地域の守り神である「稲著社 (いなつきしゃ)」が鎮座。「落合稲著社」への石段から境内を見る。綾瀬市落合南5。右手に「手水舎」。社号標「落合稲著社」。細かい文字の書かれた石碑。「鳥居保存之碑一八五四年、嘉永七年九月吉日参道先端に鳥居として当時の氏子中にて奏献せられたるものなり。何時の日か倒れ永年に亘り放置されていたるを天皇御即位を記念してここに保存する。平成二年十一月 氏子中」これが先代の鳥居。「稲著社祭神は蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)で、穀物の神とされています。ほかに猿田彦命・大宮売命が祭られています。棟札には、寛文ニ年(一六六ニ)比留川左近と山田ハ左衛門によって造立されたと書かれています。昔は古道がこの地を東西に通っていたといわれ、また中世の在地領主渋谷重国の孫、落合六郎重貞の居館は、このあたりにあったと伝えられています。」境内の横には「キツツキの森」が拡がっていた。「落合キツツキの森」案内板。「明治百年ヲ祝福 御即位記念植木」碑。正面に「社殿」。近づいて。扁額「稲著社」。「神楽殿」。そして神社の横の林にあった「綾瀬市の貴重な野草」案内板。「希少野草の開花予想時期」案内。そして次に訪ねたのが坂の途中に鎮座していた「正一位稲荷大明神」。綾瀬市上土棚中1丁目9。「内陣」。石碑「正一位稲荷大明神」。そして次に「熊野社」を訪ねた。綾瀬市上土棚中5丁目11-18。石鳥居の扁額は「熊野社」。石鳥居の下には多くの石碑が。「庚申塔」。造立:天保八丁酉(1837)年林吉日(右面)正面:文字庚申塔 庚申塔台座正面:講中「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」。「青面金剛」。造立:寛政五癸丑(1793)天(正面右面)正面:文字庚申塔 青面金剛正面左側:十二月吉日弁財天か…?合掌した天女のように見える。右側面:文政九戌(1826)十一月吉日とある。左側面には廣田治郎エ門「拝殿」への石段を進む。正面の拝殿。狛犬(阿形像)。享保六年(1721)の銘があった。このあたりでは、かなり古いものだ。狛犬(吽形像)。「手水舎」「鐘楼」。「銅鐘」。「拝殿」は、茅葺であった。御祭神は・伊邪那美命 ( いざなみのみこと )・黄泉津事解男命 ( よもつことさかのおのみこと )・速玉男命 ( はやたまおのみこと )頭貫 上の彫刻も見事。扁額「熊野社」。「賽銭箱」には三色の団子、お神酒が奉納されていた。内陣。境内社「豊川だ枳尼眞天」。扁額「奉納 正一位神寿」。「社務所」。「神輿殿」であろうか?「神楽殿」。境内の眺め。「熊野社概要」。「御祭神 ・速玉男命 ( はやたまおのみこと ) ・伊邪那美命 ( いざなみのみこと ) ・黄泉津事解男命 ( よもつことさかのおのみこと ) 御神紋 丸ニ左三ッ巴 御社殿 御本殿 神明造り 幣殿 拝殿 神楽殿 境内地 四八〇九平方米 境内社 八坂神社 祭神 須佐之男命 稲荷社 祭神稲葵魂命 由緒 当社は天文八年に当地の鈴木内匠たるもの発起して和歌山県本宮町熊野本宮大社より 御合霊をこの地にお祀り申し上げ、御社殿をご造営したと伝えられている。 その後、寛文十一年に再建があり、現在の御社殿は文政十三年の九月にご造営なった ものでありまた昭和五十七年に拝殿の改築があり、昭和五十九年には御本殿、社殿の 増改築を幣殿の屋根の葺変りがなされている。 鐘楼は昭和四十一年に、鳥居は昭和四十六年にそれぞれ再建されている。 相模風土記依れば上土棚鎮守とあり、地頭遠山清右ェ門 先祖佐左衛門一門の寄進の 灯籠があり、他狛犬の石像もある。 明治六年に村社に列せられ、現在は神社本庁傘下の宗教法人の神社である。 新年祭 二月十八日 新穀感謝祭 十二月三日 大祭九月二十七日 七五三祝祭 十一月十五日」そして「丸山大神宮」を訪ねた。綾瀬市上土棚南5丁目1付近。境内左の石碑群。奥羽出羽三山の供養塔。「享保十七年(一七三二)造立の青面金剛像(庚申塔)」。その隣の石碑。更に右にも台座のみが。「社殿」。「丸山大神宮恵比須大明神とも呼ばれ、祭神は恵比須神てす。昭和九年(一九三四)、上土棚の現やぶね公園付近にあった丸山の大神宮をここに移築したものてす。境内には享保十七年(一七三二)造立の青面金剛像(庚申塔)や、奥羽出羽三山の供養塔があります。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.15
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク更に「神崎遺跡」の散策を続ける。「1号住居跡」前から南方向を見る。右手奥に「神崎遺跡資料館」を見る。「7・8・9・13・14号住居跡」案内板。「平成2 1年以降に発掘調査したこの一群の住居跡は遺跡保護のため、発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、13号住居跡は確認のため、一部を掘り下げたところ、予想外の発見がありました。3種類の形の土器が住居の床の上から出土したのです。弥生土器は使い方により形が異なりますが、主に甕形土器(煮炊き用)、壺形土器(貯蔵用)、高坏形土器(供え用)の3種類からなります。13号住居跡の床からは、当時の生活の復元に必要なこのセットが発見されたのです。残る未調査部分には何が眠っているのか期待できる資料にもなりました。出土土器は資料館に展示しています。」「現在地」。前方に「13・7・14号住居跡」が発掘調査終了後に埋め戻され、コンクリートで養生されていることが理解できた。「15・16・17・18・19号住居跡」案内板。「平成2 5年に環内の南端部の状況を確認するため発掘調査したところ5件の住居跡が見つかりましたが、遺跡保護のため発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、この確認により、環濠内全体に住居が作られたことが明らかになりました。また、19号住居跡は古墳時代後期のもので、弥生時代とは異なり、かまどが備えられています。神崎遺跡は弥生時代後期以降、近世まで無人の地であると考えられていましたが、この住居跡の発見により、環濠集落廃絶後、500年ほどして一時期人が住んでいたことがわかりました。」「現在地」。「16・19号住居跡」。「移住者のムラ」案内板。「今から1,800年前、前方に見える東海道新幹線の向かって右方向200先(駅名でいうと浜松、豊橋あたり、現在の愛知県から静岡県にかけての地域)に住んでいた人々が、集団でここに移住し、環濠集落と呼ばれるムラをつくったことが発掘調査により明らかになりました。発掘調査により土器等モノの移動が明らかになることはよくありますが、人の移住を証明できることはほとんどありません。神崎遺跡は出土した土器の95 %以上が東海地方の土器に酷似していること、しかも、その土器は神崎遺跡周辺の土でつくられていたこと、さらには、竪穴住居の形も「横長型」という地元のものではなかったことから、日本列島内での集団移住が明らかになりました。」「神崎遺跡」👈リンク に棲み着いた神崎住民の故郷はなんと、『発掘された土器の特徴から、東海地方(今の浜松・豊橋付近)から集団で移住した人々が作った集落である』という事まで判ったのだと。この説明板では、海上に点線があるが、海上を移動して来たのであろうとのこと。「静岡県浜松市伊場遺跡出土土器」(左)と「神埼遺跡出土土器」(右)「神崎遺跡AR体験。神崎遺跡ではAR (拡張現知)による復元CGを楽しむ事が出来ます。遺跡内でスマホをかざしながら歩くことで、弥生時代の生活を見たり、当時の住居の中をのぞくことが出来ます。」「神崎遺跡」の東側からの風景。前方に以前訪ねた藤沢市内にある「寿昌寺」の大きな屋根が見えた。手前の「目久尻川」の中央が藤沢市と綾瀬市の境界。そして「11・12号住居跡」手前から復元された「1号住居跡、2号住居跡」を見る。「11・12号住居跡」案内板。「長期間にわたり同じ場所に住み続けると、人々は古い住居を壊して新しい住居をつくります。発掘調査では、このような場合、新旧の住居跡が重なっ確認されます。これを住居跡の重複といいます。神崎遺跡からは平成25年の発掘調査で初めて居跡の重複が確認されました。出土土器からは時間の変化が読み取れなかったため、集落の継続期間は短いのですが、住居を建て替える必要があるくらいの年数は、人々はこの地に住んでいたようです。」更に、墓域が形成されていないことから比較的短期間で廃絶したと考えらているのだと。「現在地」。「10号住居跡」の復旧状況。柱が有った場所等が判るように復旧されているのであった。そして「神崎遺跡資料館」の裏側を見る。「国指定史跡 神崎遺跡公園」案内板。そして閉館していた「神崎遺跡資料館」の内部の様子をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.14
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に県道22号線・横浜伊勢原線の近くにある「神崎遺跡公園」内にある「神崎遺跡(かんざきいせき)」を訪ねた。綾瀬市吉岡3425-5。「神崎遺跡資料館」の前の駐車場に車を駐めて「神崎遺跡」の散策を開始する。「神崎遺跡資料館」入口。しかし「新型コロナウイルスの感染予防のため、2月7日(日)まで、臨時休館します。」と。そして3月8日(月)まで延長されているのだ。「綾瀬市 神埼遺跡資料館」パンフレット(1/2)「綾瀬市 神埼遺跡資料館」パンフレット(2/2)そして「神崎遺跡資料館」の後ろにある「神崎遺跡」に向かう。神崎遺跡は今から約1,800年前の弥生時代後期の環濠集落。環濠集落とは弥生時代特有の周囲に深い溝を巡らしたムラのこと。平成23年2月7日に市内で初めての国指定史跡になったとのことであるが、今までこの「神崎遺跡」については全く知らなかったのであった。「国指定史跡 神崎遺跡」案内板。「1 名称 史跡神崎遺跡 2 指定年月日 平成23年2月7日 3 指定理由 国家の成立にむけて日本列島が揺れ動く弥生時代に、東海地 方から関東地方へ200以上を人々が集団移住したことを示 す遺跡であること、及び、環濠集落全体がほぼ完全な形で残っ ていること。 4 遺跡の内容 弥生時代後期(約1 ,800年前)の環濠集落。集落の形は楕円形で、 規模は南北103m、東西65m、面積は約5 , 000m2。 環濠(周囲を巡る溝)は幅、深さともに約2mで、断面はV 字形。これまで実施した発掘調査は遺跡の一部で、確認できた 弥生時代の竪穴住居跡は18軒。 5 その他 史跡の隣接地に神崎遺跡資料館が平成28年5月に開館。 館内には出土遺物や環濠の復元模型が展示されているほか、 2階からは環濠集落を一望できる。「遺跡全体図(赤線内が指定範囲)」「神崎遺跡復元想像図(環濠の内側に竪穴住居がつくられている。」「神埼遺跡公園」案内板。「現在地」。「神崎遺跡公園神崎遺跡は平成元年に初めて発掘調査され、ここに弥生時代後期(今から約1800年前)の環濠集落があったことが明らかになリました。環濠集落は周囲に深い溝を巡らせたムラです。弥生時代特有のもので、各地から発見されていますが、当時、ムラ同士が緊張関係にあったことを示しています。さらに神崎遺跡の環濠集落は東海地方からの移住者によリつくられたこともわかり、日本の歴史を考えるのに必要な遺跡とされました。また、遺跡全体が良好な状態で保存されている点も高く評価され、平成23年2月に国史跡に指定を受け、遺跡公園として整備されました。これまでの発掘調査から、1 8軒以上の住居跡があることがわかっています。現在では住居跡や環濠は地中に保存されています。公園には全長270mにわたる環濠(ムラ周囲の溝)とこれまでに確認された住居跡の位置が表示されています。」発掘中の「神崎遺跡」全景。【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/hp/page000029900/hpg000029895.htm】より「史跡 神崎遺跡」石碑とその先に「神崎遺跡」の復元された「竪穴住居」の姿が。「環濠」跡。「環濠弥生時代になると、日本列島にムラの周囲に溝を巡らした環濠集落が出現します。環濠集落は弥生時代特有のムラですが、環濠は攻撃から自分のムラを守るための防御施設と考えられています。集落間の争いの原因は、弥生時代になって使い始められた鉄製品が、国内で生産できない貴重な輸入品だったために、入手をめぐり、争いが多発したと言われています。しかし、関東地方では武器などの直接的証拠が見つかっていないため、住民が一致団結するために環濠をつくったという考えもあります。神崎遺跡の環濠は地点によって異なりますが、幅、深さともに2mほどで、断面はV字形ですので、外部からは容易に侵入できませんでした。なお、未調査部分に橋などの出入口施設があった可能性があります。神埼遺跡資料館には実物大の環濠復元模型が展示されています。」「環濠復元模型」展示。 【https://ojisanpo.blog.ss-blog.jp/2018-05-04】より「現在地」。復元された「竪穴住居」が2棟。「1号住居跡・2号住居跡」案内板。「現在地」。「1号住居跡と2号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。1号住居跡は4.6mx3.5mの隅が丸い長方形で、ほかの住居跡よりも小型です。炉跡は見つかりましたが、柱穴はありませんでした。2号住居跡は6.3mx5.4mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。出土遺物には神崎遺跡の住民の故郷であった東海地方に特徴的な「ブランテーグラス」と呼ばれる土器、使いみちがはっきりしない球形土製品、儀礼(まつりごと)に使われた銅鏃(銅製のやじり)が出土しています。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。「1号住居跡・2号住居跡」に近づいて。「1号住居跡」。「2号住居跡」。「入口」から内部を見る。「10号住居跡」案内板。「1 0号住居跡は平成25年の発掘調査で確認された竪穴住居跡です。神崎遺跡の主な調査は、平成元年の市史編集事業に伴う調査、平成22年の国史跡指定にむけての調査、平成25年の史跡整備による調査となります。平成25年の発掘調査は、それまでの調査では不明だった、環濠集落中央部の様子を確認することが目的でした。そのため、中央部を東西に横断する4m幅の発掘調査を実施し、発見されたのが10号住居跡です。この住居跡の発見により、中央部は広場ではなかったことがわかりました。平成22年以降の発掘調査では、住居跡が確認できた場合、掘り上げないで発掘を終了しています。したがって、IO号住居跡の規模は推定となりますが、7.5mx5.5mほどの隅が丸い長方形と思われます。」「現在地」。上空には海上自衛隊の飛行機が海上自衛隊 厚木航空基地から飛び立って行った。「3号、4号、5号、6号住居跡」案内板。「3号・4号・5号・6号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。3号住居跡は5.9mx4.8mの楕円形です。炉跡と4本の柱穴がありました。4号住居跡は6.3mx6.2mの隅が丸い方形です。炉跡と1 0本の柱穴が確認されました。一見、不整形に見えるのと、柱穴が他の住居跡より多いのは住居の建て替え(増築)のためです。5号住居跡は5.2mx4.7mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。6号住居跡は遺跡保護を優先としたため、住居跡の有無の確認にとどめました。そのため、規模は推定となりますが、5.5mx5.5mほどの隅が丸い方形と思われます。」「現在地」。「4号住居跡跡」横から「1号住居跡・2号住居跡」を見る。「土器捨て場」案内板。「平成元年の最初の発掘調査で、この周辺(南北約15m、東西約6m )から土器の破片が多量に集中して出土しました。一般に、多量の遺物が出土すると、住居などの建物跡が確認できることが多いのですが、ここからは発見されませんでした。出土した土器には完全な形のものはないため、破片を廃棄した場所と推定し、「土器捨て場」と呼んでいます。ここからは多量の土器の破片に混じり、鉄鎌も発見されました。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。」「現在地」。「土器捨て場」横から「1号住居跡・2号住居跡」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.13
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそして「綾瀬市役所」前を通過。「綾瀬市」は全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やか、気候は比較的温暖である。「緑と文化が薫るふれあいのまち あやせ」を市の標語に掲げている。神奈川県内では最も新しい市で、市内の18%強が在日米軍と海上自衛隊の厚木基地になっており(同基地総面積の約78%に相当)、市長選では常に騒音問題が争点となる。一般国道と鉄道駅はないが、市南端部には東海道新幹線、北部には東名高速道路が通っており、小園地区に綾瀬スマートインターチェンジが設置される予定である。現在の人口は約84,000人。そして近くの道路脇の広場にあった「綾瀬ふれあい大釜」。屋根付きの建物の下に巨大な鍋が鎮座。五右衛門風呂の如き異様な大きさ。「綾瀬ふれあい大釜一、容量・・・2160リットル(ドラム缶約12本分)一、寸法・・・内径1350mm一、深さ・・・1260mm一、重量・・・釜0.7トン 釜戸2.60トン一、材質・・・鋳鉄一、由来この大羽釜はまわし型という手法で型が鋳造されたもので、畜産をはじめ歴史ある綾瀬農業の発展を願い、市内畜産農家60名から寄せられた浄財をもとに、全国でニ番目の大きさを誇る大釜として、平成2年9月に完成したものです。同年10月のあやせ市民まつりにおいてこの大釜の名前を募集し農家の人々とのふれあいのシンボルとしての願いを込め「綾瀬ふれあい大釜」と命名されました。市氏まつりの日には、この大釜で綾瀬地場産の新鮮な豚肉や野菜をふんだんい使ったとん汁を作りまつりの名物として多くの人々に喜ばれました。」そして山道の脇にあった「江川天神社」へ綾瀬市早川8812-2近く。「社殿」。「江川天神社祭神は菅原道真と平成輔。享保十五年(一七三O〇)に建てられた古碑があり、それには「平宰相成輔卿祠社」と彫ってありました。平成輔は京都の公卿て、後醍醐天皇の親任を受け、鎌倉幕府討滅を計画しましたが、失敗して捕えられ、鎌倉に護送される途中、元弘一一年(一三三二)五月、早川河口て殺害されました。その故地は小田原市に現存し、同市指定史跡となっています。早川という昔の村名が、たまたまこの早川と同名なのて、後世ここにも祭ったものと思われます。境内の涌き水は社によって大切に保護され、飲料水や農業用水として利用されてきました。」そして「せせらぎ広場」へ。綾瀬市吉岡1763。「新武者寄橋」より見る「目久尻川サイクリングロード」と「せせらぎ広場」。「せせらぎ広場」案内板。「目久尻川」に架かる「新武者寄橋」。その名の示す通り、橋が架かる場所は近くに早川城があったころの武者の集合場所であったと。現在の橋の構造は、4径間連続鋼鈑桁橋で、橋長134mの道路橋。昭和59年に建設された。欄干に取り付けられた橋の銘板に、往時をしのぶことができるのであった。そして南に下り、「吉野橋」の袂に車を駐める。この近くにあった清流「清水川」。流れに沿って進むと右側にあったのが「わさび田」。綾瀬市吉岡1296付近。ネットにはこんな記事が。「高座郡綾瀬村(現・綾瀬市)の篠崎源蔵は明治年間に養蚕指導員として県内各地を歩き、指導に当たっていました。その時に、愛川村半原の染矢九一、成井泉に出会い、綾瀬村にワサビを導入しました。そして、綾瀬村吉岡地区では明治時代半ばから、篠崎源蔵らは4戸の農家と共に栽培を始めました。篠崎家には、1915(大正 4)年に行われた「高座外四郡農会聯合農産物品評会」で入賞した賞状が自宅に飾ってあります。ワサビ田は、綾瀬市早川の台地の裾を流れる目久尻川の側流「清水川」沿いに、最盛期には 40㌃ありましたが、現在は、 篠崎家のみが 7㌃程度栽培しています。導入当時の品種は、愛川から導入し、青軸の系統(半原種?)や紫の系統でしたが、収量性などの問題から伊豆から 品種を導入するようなり、現在は「達磨」などを購入しています。仲間と共に生産に励み、築地のワサビ問屋に出荷し、 品質の良さと伊豆での不作時には高価で取引されたそうです。最近では源蔵の孫・徳治さんの長女・玲子さんが父親の 情熱を受け継ぎ、共に栽培に励んでいます。そして、販売は、JAさがみ・わいわい市寒川店と海老名グリーンセンター で主に花ワサビとして、2~4月に販売しています。 栽培管理は、日照の管理が重要で、夏期は黒寒冷紗で遮光し、秋には落ち葉の堆積を防ぐためにネットに張り替えて います。2014 年春の豪雪時にはネットに積もり、ネットの骨組みが倒壊する出来事もありました。」とやや古い情報ではありますが。目久尻川周辺には湧水が流れ出す個所がみられ、今では貴重になりつつあるわさび田。湧水を集めて流れる「清水川」の水面も陽光を反射して。「清水川の自然を大切にしましょう」と。そして再び目久尻川に架かる「吉野橋」を渡り4~500m先にあった「吉岡神明社」へ。綾瀬市陵西1808。社号標「吉岡神明社」。吉岡神明社は、小島左衛門尉源忠重が当地土着に際して康和4年(1102)に勧請したとも、元和2年(1616)春日局が伊勢神明天照太神宮を勧請して創建したともいい、いずれか確かか不詳ながら、江戸期には吉岡村の鎮守社であったと。「吉岡神明社」掲示板。「配置案内図」。鳥居。参道脇の「大松樹記念碑」。参道の先に「社殿」が見えた。そして参道右側に「手水舎」。「手水鉢」には「洗心」の文字が。その先に小さな「弁天池」。その横に「弁財天社」。「弁天様もどはインドのサラスバティ川の女神。仏教では弁舌、音楽、学問、智慧、財福などを司る神とされる。手には琵琶や武器を特っ。七福神の一つとして知られている。俗に紅一点の才能のある女性。」「神明社辨天池改修記念碑」。御神木の杉の大木。正面に「社殿」。「神楽殿」。「社務所」。そして「社殿」。「社殿」の「内陣」。扁額「神明宮」。「神明社神明社は、天照大神、豊受大神がられています。社殿は本殿・覆殿、拝殿、及び幣殿で、他に社務所と神楽殿があり・境内社に琴平神社、稲荷社、弁財天社があります。元和二年(一六一六)に、三代将軍物川家光の乳母であるお福(春日局)が勧請したとされる棣札が残されています。昔は当社の付近に、瀧岡寺(ろうこうじ 寿宝院)という別当寺がありました。」「神明社屋根替奉賛御芳名」碑。「神楽殿造営工事落成奉祝記念碑」。「石垣改修 社寺拂下 記念」碑。相模鉄道(株)の境内整備「記念碑」。先代の鬼瓦であろうか。境内の左手にあったのが「琴平神社」。「琴平神社」。「琴平神社」の「内陣」。「金毘羅様カンジス川に住む鼻の長いワニがもとになった仏法の守護神。航海安全や大魚祈願また厄除けと、船舶関係者を中心に信仰を集めている十ニ神將のうちては宮毘羅(ぐびら)に当る。」宮比羅(くびら、ぐびら)は、仏教の水運の神で、天竺霊鷲山の鬼神で、薬師如来十二神将の筆頭である。宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書く。「済運寺」を訪ねた。綾瀬市吉岡1783。寺号標「吉岡山 済運寺」。「本堂」。「本堂」右手。境内池には「しょんべん小僧の姿が。大きな石灯籠。屋根には北条家を代表する紋「三つ鱗」が。鎌倉・建長寺の末寺であるので、建長寺の開基(創立者)・鎌倉幕府第5代執権・北条時頼から「三つ鱗」なのであろう。「済運寺済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。本尊は木造釈迦如来坐像で。貞和五年(一三四九)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(一六一ハ)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。三代将軍徳川家光の乳田である春日局が化粧料として吉岡・用田等に三千石の所領を与えられ、このあたりに屋敷を建て、大山参脂の宿泊所にしたといわれています。済運寺には春日局の御位版とともに、局が使用したと伝えられる茶臼・茶が寺宝として大切に保管されています。」「延命地蔵尊」。「延命地蔵尊」も防寒対策、コロナ対策も万全か。六地蔵尊。左から地蔵菩薩、宝掌菩薩、宝処菩薩。中央に釈迦如来坐像。左から宝印手菩薩、持地菩薩、堅固慧菩薩。そして次に500mほど南下した場所にあった「正福寺」を訪ねた。綾瀬市吉岡1006。浄土宗寺院の「正福寺」は、「廣養山 直到院」と号す。寺号標「浄土宗 正福寺」。参道左側には石仏群が。手前には「六地蔵」。「六地蔵縁起仏祖釈迦如来が入滅されてから弥勒菩薩があらわれるまで、多くの苦しむ者を救ってくれた仏として地蔵菩薩は信仰されている。六体の菩薩を六地蔵と言い、六道のそれぞれのところで苦しんでいる者をお助けくださり、また子育て延命地蔵として人々をお守りくださる仏とされ、お地蔵さまは多くの人に信仰されている。六地蔵菩薩 持ち物 六道一、大定智悲地蔵 (錫杖)……地獄道ニ、大徳清浄地蔵 (如意)……餓鬼道三、大光明地蔵 (数珠)……畜生道四、清浄無垢地蔵 (合掌)……修羅道五、大清浄地蔵 (香炉)……人道六、大堅固地蔵 (衣服)……天道勉強になりました。左から上記一から始まる「六地蔵」を。その先にも石仏が並んでいた。「本堂」。「浄土宗正福寺」は、白受(天正18年1590年寂)が開山、小田原北条氏に仕えていた加藤傳次郎某(法名光誉念信、永禄2年寂)が開基となり創建したと。境内左手に大きな「観音像」。お顔をズームで。勢至丸(法然上人)像。勢至丸の立像で「旅立ちの法然さま」。本尊は「木造阿弥陀如来立像」。「正福寺正福寺は山号を広養山と称する浄土宗の寺院です。本尊は木造阿弥陀如来立像です。善誉空阿白受上人を開山、小田原北条氏に仕えたという加藤伝太郎広信を開基として、天文元年(一五三ニ)に建立されました。その後、慶長三年(一五九八)を最初とし、元禄八年(一六九五)に二度目、現在の本堂は、天保十一年(一八四〇)に三度にわたり再建された建物です。開山以来の伝えが書き残された羽目板が大事に残されています。」「本堂」の扁額「正福寺」。「本堂」前の境内。再び山門から「正福寺」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.12
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に「正福寺」の直ぐ南にあった「日吉山王社」を訪ねた。綾瀬市吉岡935。社号標「日吉山王社」。吉岡地区にある「日吉山王社」は、綾瀬市吉岡にある神社。吉岡山王社の創建年代は不詳だが、寛文13年(1673)再建の棟札があるといい、1673年以前の創建と推定できると。右手には竹藪が拡がっっていた。参道を進むと正面に「社殿」が。「社殿」祭神は天照大日孁命(あまてらすおおひるめのみこと) 豊受姫命(とようけひめのみこと)「社殿」の「内陣」。「山王社参道拡張記念碑当社の参道は狭隘にて毎年例祭の都度講中役員は参詣者の為、常に心痛の處篤志家加藤一由氏並びに下林茂氏の好意に依り、従来の参道を拡張することになり昭和五拾四年より順次着工、講中各位並びに篤志協力者の深大なる好意を受け順調な運びとなり、第一期工事を五拾四年に着手し仝五拾六年に第三期工事を以って完全竣工、現在の整備された参道となる。 昭和五十七年五月建之 山王社講中」。二つの境内社。「不動明王」。ズームで。素朴な石碑も。「山王社祭神は大山昨神(おおやまくいのかみ)で、安産・子育て、縁結びの神とされています。ほかに牛頭天王(ごずてんのう)が祭られています。寛文十三年(一六七三)六月再建の棟札があります。社殿・鳥居・神輿など、たびだび、改築や塗り替えが行われ、地域の人々に信仰されてきました。また、境内には文政ハ年(一ハニ五)造立の不動明王が安置されています。」そして次に訪ねたのが「蟹ヶ谷公園(かにがやこうえん)」。案内板は汚れていて・・・。ネットから。【https://www.city.ayase.kanagawa.jp/ct/image000030400/a.jpg】より低地部の湿生園では、吉岡地区から湧き出る湧水を水源として利用し、カキツバタやハナショウブなど約19,000株があり、見晴らし台からは富士山や丹沢が一望できる。ハナショウブが見頃になる時期は、毎年、6月中旬から7月上旬頃。また、ハスの見頃となる時期は、毎年、7月から8月頃に楽しめると。木道の遊歩道をしばしの散策。公園低地部の湿生園では、吉岡地区から湧き出る水を水源として利用した流れが。野鳥がツガイ?で。カルガモの雌であろうか?陸に上がって。そして再び水面をスイスイと。この蛇のような模様の鳥は「アリスイ」?そして次に訪ねたのが東海道新幹線の南側の「最上稲荷山 示現寺」。昔も見た景色であったが、今調べてみるとこの寺は綾瀬市の寺ではなく藤沢市の寺であった。以前も訪ねたことがある寺なのであった。藤沢市用田1035番地の43。入口の石仏、石碑。子安観音像であろうか?お顔をズームで。「五輪塔」。「善哉廟」と刻まれていたが。「最上位経王大菩薩交通安全守護○○」と刻まれた石碑。参道の石段を上って行く。「本堂」示現寺は永禄3年(1560年)10月8日、当時の豪族伊東孫右衛門祐矩公により永禄山観生寺(禅宗)として開かれ、人々の信仰を受けていましたが、第二次大戦後に継承者不在の為、衰退の道を辿りました。その後数十年間廃寺となっていたこの寺を、平成元年5月に前住職(自修院日得聖人)により新たに開山し寺号を示現寺(日蓮宗)として改宗復興、その後単立宗教法人を取得し、平成16年4月山号を法華山と定め「法華山示現寺」として歩んでいると。多くの石灯籠が境内左手に。「最上稲荷山 示現寺」。「お薬師さま」。「本堂」の「本陣」。「手水鉢」と「水口」には水はなく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.11
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に訪ねたのが深谷通り沿いの高台にあった「日枝神社」。綾瀬市大上1丁目4-45。何故か鳥居と社殿が微妙にズレていたのであった。街の郊外にあった小さな「社殿」。「深谷通り」を南下し、そして右折し「市役所南通り」を西に進むと左手にあったのが「長龍寺」。綾瀬市深谷中4丁目3-1。曹洞宗深谷山長龍寺の「山門」。寺号標「曹洞宗 長龍寺」。「山門」の彫刻を見る。そして「山門」を潜り境内へ。左手にあった3体の地蔵尊。「六地蔵」。「大般若経」と刻まれた大きな石碑。江戸時代に深谷村を治めていた旗本の「大橋氏一族の墓碑群」。「大橋氏一族の墓碑群深谷山長龍寺は、室町時代に蛭川越後によって建立された曹洞宗の寺院で、大橋氏一族の菩提寺です。大橋氏は、寛永十年(一六三三)、深谷村などに知行を与えられ、寛永十六年(一六三九)には千石の加増があり、ニ一ニ〇石の所領を知行した旗本です。大橋五左衛門親善は、徳川秀忠に仕え、大阪の陣に従軍し、寛永十六年(一六三九)には千代姫(徳川秀忠の養女)の用人となりました。大橋氏は、宝暦ハ年(一七五ハ)まで旗本の細井氏(本家・分家)とともに深谷村を支配しましたが、当時勘定奉行であった大橋近江守親義が郡上藩(岐阜県郡上市)の宝暦騒動に関連して所領を失い、以後深谷村の大橋氏所領は幕府領になりました。大橋氏一族の墓石詳は昭和五十七年より市の指定文化財です。」隣りにあった「合祀慰霊塔」。「合祀精霊碑」。その横にも小さな社が並ぶ。境内の大きな銀杏の樹。「水子地蔵尊」。そして「本堂」。扁額「長龍寺」。「本堂」の「陣内」。ご本尊の「木造釈迦如来像」をズームで。「本堂」の雨樋の装飾も見事。「本堂」の向背を横から見る。もともとは、宗教建築に向拝は無かったのだと。中世頃の仏教の教えが庶民の心を引きつけ、仏教が生活の中に浸透していった事により、寺院に人の出入りが多くなって行く。そして、雨の日に参拝する方の為に雨除けの向拝を設けることが多くなっていったのだと。「鐘楼」。「梵鐘」。「本堂」前から境内を見る。「本堂」を斜めに見る。「寺務所」。そして境内の庭の前で「蕗の薹」を発見。「長龍寺」を後にし、「比留川」に沿って南下し「中原街道」沿いにあった「大法寺」を訪ねた。寺号標「大法寺」。日蓮宗の寺で、本尊は日蓮上人図顕大曼荼羅 。日蓮上人が佐渡流罪の時、この地に立ち寄ったという縁により、日叡上人が応永2年(1395年)に開山した寺と。「掲示板」には「新春の慶賀 自他 幸甚 幸甚」と。日蓮聖人の佐渡配流が赦免となり、身延山にお入りになられた翌年の正月、信者に出された手紙の書き出しには「新春之御慶賀 自他幸甚々々」と述べられていたのだと。山門横には「宗祖六百五十年 遠忌報恩 南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石碑が立っていた。「山門」を潜る。手水場の水鉢にが「洗心」の文字が。「開山六百年 本堂、客殿、庫裡 建立記念碑」。「鐘楼」。廻り込んで。「梵鐘」。「開山六百年記念 本堂、客殿、庫裡 建築篤志者連名」「本堂」を見る。反対側から。そして青面から。扁額「法鏡山」。向背の見事な彫刻を追いかける。木鼻(右)木鼻(左)。「日蓮聖人像」。見上げて。お顔をズームで。「真観清浄観 (しんかんしょうじょうかん)と台座に刻まれた石仏。お顔をズームで。「真観清浄観」。「淡島明神堂」。「日蓮上人が江ノ島で処刑される際、首を切ろうとした侍の刀に雷が落ち一命を取り留め、日蓮上人が佐渡に流される途中で休まれた『淡島明神堂』が、大法寺の由来」と。「南無日蓮大菩薩碑」。「十三重塔」。「客殿・庫裡」であろうか。そして「瀬谷通り」と「中原街道」の交差点角にあった巨大ピラミッドが大小2基。日蓮宗大法寺(菊池重忠住職)が建立した永代供養塔で、内部に納骨室と礼拝空間があるのだと。明るい色の白河石を百段(5メートル)積み上げ、地下には逆三角すいの穴(非公開)を設けるなど実際のピラミッドに見られる特徴も取り入れているのだと。傍らにある小型のピラミッドはペット用の納骨塔と。駐車場から墓地越しにピラミッドを観る。半世紀ぶりのエジプト訪問?であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.10
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク「子育て観音」前の比留川沿いの道を北上し次の「報恩寺」へ。曹洞宗寺院である「陽廣山 報恩寺(ようこうさん ほうおんじ)」。綾瀬市寺尾南2-10-1。見事に手入れされた生け垣のある「宝恩寺」の参道を進む。入口の2本の銀杏の大樹も完全に葉を落として。正面に「本堂」、左に「鐘楼」。生け垣の間にはいくつもの石柱が。その中の削り込んだ空間に石仏が安置されていた。これも「おたすけ観音」なのであろう。ズームして。反対側にも。ズームして。「山門」前。左手の門柱には「おたすけ観音」の文字が。山門横の掲示板。「前後際断人は過去、現在、未来という時間の中で生きています。それらは連なっているように見えますが、じつはそうではありません。それぞれ断たれているのです。現在という瞬間は過去の「後」ではないし、未来の「前」でもないのです。できることはその現在を精いっぱい生きることしかありません。過去を悔やんだり、未来を憂いたりしていたら、肝心の「今」がおろそかになります。」「山門」前左側の石碑群。解読不能。「南無阿弥陀仏」碑。右側にも石仏と六地蔵碑が。「六地蔵」角柱の三面に二体ずつ肉彫りされており、ひとつの蓮華座に乗った地蔵は持ち物以外は同じ衣の模様ですっきりして印象的。文化九壬申四月吉祥日。「石仏」。「本堂」前には手入れされた松が。「手水場」はこじんまりと。「おたすけ観音」。日中戦争・大東亜戦争の開戦とともに「おたすけ観音」「弾除け観音」として信仰を集めた。これも「回向柱」と言うのであろうか。「本堂」報恩寺は、慶長7年(1602)8月28日曹洞宗の寺院として開山されました。御開山は朝岩存夙大和尚(ちょうがんそんしゅく)(1618卒)、開基は後藤右近(ごとううこん) 心宗永伝居士(しんしゅうようでんこじ)です。御開山の朝岩存夙大和尚は、本寺 藤沢市遠藤の宝泉寺の六世であり、当山二世悦堂存怡大和尚(えつどうそんい)(1648卒)は宝泉寺七世になります。報恩寺の開山は小田原北条氏の家臣であったとも伝えられ、当山の末寺 大和の宗昌寺、寺尾の常久院の開山である、当山三世林室宗茂大和尚(りんしつしゅうも)(1648卒)は、師匠とその師匠を勧請開山とし三世になられたと思われる鎌倉時代の領主渋谷氏の法音寺を継承した寺と考えられている。慶安2年(1649)には江戸幕府から寺領8石の朱印地を寄進されている。境内にある蓼川観音堂は、もとは蓼川にあったが、昭和14年(1939)厚木基地の新設に伴い当寺に移築された。ここには五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の位牌がまつられている。さらに石造観音像も多く現存しているが、第二次世界大戦中には「弾除け観音」として参詣する人も多かったと伝えられている。扁額「金毘羅」?。境内には数えきれないほどの「おたすけ観音」が集められ、その多くは神奈川県内の様々な場所から集められたと。寺の27世となる太嶽洞源(たいがくとうげん)和尚は幼少の頃から非常に観音信仰が篤かった方だと。しかし多くの国民の例に漏れず軍隊へ徴兵されて台湾へ出征された。その際、多くの戦友が敵の銃弾に斃れていく中で、観音様のご加護を受けて無事に帰還出来た事に感激され、「おたすけ観音」を建立されたのだと。「平和観音」。「寺務所」。「弾除け観音」。台座には「報恩」と。「鐘楼」。「梵鐘」。「歌碑」。「みめくにの ふかきおたすけ かんせおん 大悲の恩に 報いまつらん」。右手に六角形の「観音堂」。2009年12月24日(木) 午前1時50分ごろ、観音堂から出火、木造平屋約30平方メートルを全焼し建て直されたのだと。ここにも大きな「観音像」が。お顔をズームで。尋常高等綾瀬小学校初代校長「笠間友作先生頌徳碑」。「喜色動乾坤(きしょくけんこんをうごかす)」。「喜びに満ちあふれた天地を動かすほどの力があるという意味です。誰でも腹の虫の居所が悪いときがある。そんな人と関わるときこそ、この「力」を活用してください。喜びがにじみ出てくるような穏やかで明るい態度と接したら、その雰囲気が相手を包み込んで不機嫌さの源になっている心のしこりを溶かしてしまします。素直な心の交流がそこに生まれるのです。」境内から「本堂」を振り返る。墓地への坂道の左側にあった石仏群。「地蔵菩薩」。反対側にも。「永代供養墓」であろう。永代供養墓正面の梵字は(サ)聖観音さまの梵字。「釈迦如来像」。「鐘楼」越しに銀杏の大木を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.09
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク次に訪ねたのが「龍洞院 (りゅうどういん)」。綾瀬市早川1766。曹洞宗寺院の「龍洞院」は、一澤山と号す。「龍洞院」は、香山重菰が開山となり慶長5年(1600年)に創建したと。「本堂」に向かって進むと左手に「蠟梅」の黄色い花が。香り豊かに。青空に映えて。そして「本堂」への山門。かつての愛甲郡玉川村龍鳳寺の末寺として慶長年間に創建された。明治12年(1879年)に火災で本堂が焼失したが、昭和3年(1928年)に建て替え前の本堂が再建され、現在は市内外合わせ300件の檀家を抱えていると。「龍洞霊園」と刻まれた石碑。「龍洞院復興紀年」碑。「本堂」。「本堂」の「内陣」。「本堂」前の観音像。大きな「龍洞院観音」。お顔をズームで。「龍洞院観音」の裏にも。横にも小さな観音様が2体。「龍洞院観音」を横から。ズームで。そして次に訪ねたのが「五社神社」。神奈川県綾瀬市早川1603。「神奈川県神社庁 献幣使参向神社 五社神社」碑。「献幣使というのは神社本庁よりの幣帛(神前へのお供え物類の総称)料をお供えするための役目で、ご神威を発揚しご神徳の宣揚と神社の興隆を願う目的を持って参向すること」であるとネットから。入口にあった「道祖神」碑。「郷社 五社神社」碑。明治~昭和21年まで、神社は国の管理下のものであったと。おおまかに社格制度の格で表すと下記の図の通り。社格は官社と諸社に大きく分類されますが、登録されていない(登録されようとしていない)無願神祠(無願神社)もあり、3つに分類されていた。官社は神祇官(国家機関=今でいう国家公務員に近い)が祭ることになっており、諸社は地方官=今でいう地方公務員に近い)が祭ることになっていた。なお無格社は格が無い神社ということになり厳密には社格制度からは除外すべきだが、神社であることは認められていた(認定されていた)神社となると。認定されていないと無願神祠(無願神社)となったと。 【https://sapporo-jinja.com/shakaku/】より「鳥居」。扁額は「五社神社」。「玉垣造成記念」碑。「五社神社 由緒五社神社は、日本武尊東征の折に当地に五朶の榊を樹て、地神五代を創祀して五頭の宮と崇められたのが創始だと伝えられ、正和2年(1313年)、三井の門徒浄覚大徳が社殿を再建、五社明神社と称したといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より社領13石の御朱印状を受領、明治6年村社に列格、昭和12年五社神社と改称・郷社に列格したといいます。」。「御神木 銀杏」。江戸時代中期に植樹されたものと。樹齢300年?参道を進む。途中、参道の左手にあった「境内社八坂神社」。「八坂神社」社号標。その向かいには日本武尊の腰掛石、石標と石を祀る社があった。石標「日本武尊 腰掛石」。「腰掛石」。景行天皇の四十年夏、日本武尊が天皇の命により東征。東方に五色の瑞雲が激しく動き、亀居山(現在の五社神社)で雲気が収まり辺りを見ると五朶の榊と大石があり、石に奇瑞を感じ息を休め、五朶の榊の因縁にまかせ地神五代の神霊を草創し五頭の宮とした。この大石が日本武尊腰掛石といわれ、五頭の宮は五社神社のことです。「手水舎」。自然石を刳り貫いた水鉢には水がなく。正面に「拝殿」が見えて来た。ご神木の楠木がその前に立つ。「神輿殿」が左手に。「境内社」。左から「渋谷神社」と「疱瘡稲荷社」。「狛犬」阿形像。「狛犬」吽形像。「拝殿」。御祭神は・天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )・天忍穂耳尊 ( あめのおしほみみのみこと )・天津彦火瓊瓊杵尊 ( あまつひこほのににぎのみこと )・彦火火出見尊 ( ひこほほでみのみこと )・鵜草葺不合尊 ( うがやふきあえずのみこと )社名は上記5柱の神を祀るという意味で、何らかの理由により5社を統合した神社や、元々1社に5柱の神が祀られている神社などにつけられているのだと。棟札によると、造営の大工は鎌倉の円覚寺大工高階隼人道直であり、鎌倉大工の伝統的技術を窺うことができるのだと。向背の見事なの彫刻。ズームで。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)に龍の彫刻が。「木鼻」の彫刻。拝殿内。御神体の「鏡」。神社における「鏡」は一般的に太陽を指していると。理由は「鏡」で太陽の光を反射するのを正面からみると「鏡」が太陽のように光り輝いて見えるから。日本では太陽神である「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」を最上の神としてお祀りするので、太陽を象徴する「鏡」をご神体として神社に祀るのだ。また、「鏡」に映った自分自身の姿から自分の行動を自覚するという意味もあるのだと。「神楽殿」。無人のおみくじ販売場所。おみくじが結んである「おみくじ掛け」。「祈願受付所」。境内右手から見ると「本殿」とその奥の森が眺められた。「拝殿」屋根を横から。懸魚(げぎょ)の彫刻も見事。再びご神木の楠木を入れて。次に「五社神社」の裏にある「尾ノ井」を訪ねる為に坂道を下る。坂の途中左にあったのが「尾ノ井」。「尾ノ井五社神社の境内の形が亀の形に似ており、池がその尾の位置にあるので、亀ノ尾ノ井が尾ノ井と呼ばれるようになりました。高い所にある湧き水の池で、古くは飲み水になったり、田の用水になったり、雨乞行事に用いられたりしました。また、これにまつわる昔話なども伝えられています。」池には金魚の姿も。池の上の斜面には小さな祠があった。石灯籠も置かれていた。次の「城山公園」は昨年「早川城」👈リンク を訪ねた際に一通り散策したのでこの日は訪ねなかった。そして「子育て観音」へ綾瀬市深谷13-4205-1。「IIMURO GLASS 綾瀬市民スポーツセンター」の近く比留川西側の御堂。「子育て観音」碑。「子育て観音本尊は十一面観音坐像です。本尊の胎内にも小さな十一面観音坐像が納められています。生まれた子供が元気に育って欲しいという願いを込めて「子育て観音」と呼ばれています。胎内の観音坐像は明治三十年、鎌怠扇ヶ谷の仏師、後藤斎宮慶廣の作です。数回の移転を経て、当地へ安置されました。毎年、釈の誕生日である四月ハ日に開帳され、地域の人が集まり大数珠を回しての念仏が奉納されます。」「本堂」。扁額「子育観音」。本尊の「十一面観音坐像」をネットから。観音像は1897年、鎌倉の仏師・後藤斎宮慶広の作。坐像の胸の中に本尊となる小さな仏像が安置されているのだと。 【https://rarea.events/event/28114】より子育て観音前の庚申塔が左に。造立は寛政四年(1792)と。三猿に主尊の青面金剛は六臂で日輪、月輪、武器を持ちショケラをぶら下げていた。「本堂の裏にも朱の鳥居が。」。石造りの社。「平成十四年九月十六日 区画整理事業之為 此処ニ移転」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.08
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンクそして次に訪ねたのが「小園子之社(こぞのねのしゃ)」綾瀬市小園273。長い急な石段の参道の先に鳥居が。ユニークな形状の社号標「小園子之社」と「道祖神」碑。社号標「小園子之社」。長い石段を上がると正面に立派な鳥居。扁額は「子之社」。「庚申塔」。「地神塔」。その年の稲の豊作を願い、農業に関係の深い土地神様(とちかみさま)を祀る為のもの。参道を進む。木々に囲まれ右側には小さな広場が。「本殿」。小園子之社は金子重昌が願主となり、慶長10年(1605)に勧請された。本殿は小規模な宮造りの建物であり、彫物は精緻で、各部の造りも丁寧で質の高い建物。「本殿」に近づいて。「本殿」の「内陣」をガラス越しに。「子之社小園の鎮守様で、大国主命(大己貴命)が祭られています。社殿は本殿をおおう覆殿と拝殿、それと幣殿が連なっています。他に神楽殿と社務所ガあります。子とは北の方位をいい、子之神とは北方をつかさどる神のことをいいます。慶長十年(一六〇五)に勧請されたという棟礼ガあり、現在の本殿は文久元年(一八六一)に建造され、さらに大正十五年(一九ニ六)に再築されたものです。」「神楽殿」。「社務所」。「神輿殿」。「本殿」左手の「境内社」。右手に「正一位稲荷大明神」。そして近くにあった小さな寺「東光山延命寺」を訪ねた。正式名称は「東光山延命寺」で、小園地蔵堂とも呼ばれ、相模国分寺の末寺として建てられた物。相模国分寺の隠居の僧が住んだと伝えられている。約1200年前に建立されたものと。現在の地蔵堂は昭和47年に老朽化改築されたもの。過去には江戸時代初期再興、明治時代に焼損再建が行われたと。「東光山延命寺 寺子屋跡」の表示板。相模国分寺の隠居寺とつたえられていますが創建年代は不明。本尊は木造の地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)でそのために地蔵堂の名で通っている。像の台座裏には「中尊運慶之作」と墨書銘があるが、作風からみて室町後期の作と思われ、市内に残る中世の本格的な作例であると。同じく堂内の木造涅槃釈迦如来(ねはんしゃかにょらい)像は江戸時代の作で、寝釈迦様(ねじゃかさま)と呼ばれて親しまれていると。扁額「延命寺」。東光山延命寺の「本堂」の「内陣」。観音扉が閉まっており地蔵菩薩坐像(本尊)のお姿は見ることが出来なかった。「釈迦涅槃像(小園の寝釈迦様)」。江戸中期の作で、当時の僧が霊夢によって、東京・芝の増上寺より、奉遷(移された)されました。250年以上前とのこと。「本堂」の隣りにあった「いぼとり地蔵」。小さな祠の前に石があるが、その石で、いぼをこするといぼが取れるという伝えがある。いぼが取れると違う石を納め、お地蔵様にお礼参りをする。(戦前には、丸い石がたくさん置かれていたと)。「いぼとり地蔵」。そしてその隣に歴代住職の墓。「相模國分寺の末寺 東光山延命寺歴代住職之墓」碑。そして近くにあった「お銀さまの墓」を訪ねた。お墓の下にあった小さな公園には「お銀さまの墓」の説明板があった。「お銀さまの墓この上の墓地の中に、お銀さまの墓があります。お銀さまは本名を「まち」といい、江戸時代後期に早川村の佐藤家に生まれました。後に江戸の田原藩下屋敷に奉公に出て藩主三宅康友の寵を受け、友信を生みましたが母の急死で帰郷し、その後小園村の大川家に嫁ぎました。渡辺崋山が少年期に世話になった、この「あこがれのお銀さま」を天保2年(1831)に訪ねた様子は「游相日記」として今に残っています。」後に家老にまでなる、田原藩士であり画家でもあった渡辺崋山は、少年期に世話になったお銀さまにあこがれていたと。そして崋山はお銀さまを訪ね、涙涙の再会を果たしたのだと。反対側の目久尻川沿いに回って民家の脇を上り一段高くなった墓地に向かう。墓地には多くの墓石が。「お銀さまの墓石」には「皈元開外全修大姉」文久2年11月15日と読めたが・・・・。小さな墓石の裏には碑が。「お銀さまの墓」と書かれた碑。そして次に訪れたのが東名高速道路下にあった「東名公園」。入口には可愛い小鳥のモニュメントが。ネットで調べて見ると「柵を製造・販売しているサンポールに確認してみると、商品名は確かに「ピコリーノ(小鳥付きアーチ)」。そもそもこのピコリーノは、1981年にサンポールから車止め商品第1号として発売されたロングセラー商品。ピコリーノという名前の由来は「とても小さくてかわいらしいもの」という意味のイタリア語「piccolino(ピコリーノ)」。小鳥のモチーフはスズメだと言われますが、特に種類は決まっていません。」江ノ電の江ノ島駅にも同じものがあった事を想い出したのであった。東名公園の片隅に神社があった。綾瀬市早川2980-160。東名高速道路に向かって建つ神社。フェンスとの間に回り込んで。稲荷社手前の写真右側の木角柱に「奉 合祀 藤美神社稲荷社二社 蚕影社一社」平成四年二月十二日 初午 内藤組合の銘 があった。この近くにあり、東名高速道路建設時に移設し合祀されたものなのであろうか。横幅が広い?神社。そして次に「長泉寺 曹洞宗 崇福山 長泉寺」を訪ねた。綾瀬市早川3146。「長泉寺山号を宗福山といい曹洞宗(禅宗)の寺てす。本尊は釈迦如来で、寛永十一年(一六三四)亡の僧格雲守存により開山されました。かってここには、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。渋谷庄司重国の孫、曽司五郎定心(入来院氏)とのゆかりも考えられる一帯と言えましよう。」「山門」。「崇福山」。「長泉寺」。山門を入った右側の石仏群。左側の石仏群。「半跏思惟像」に似て。こちらは「六地蔵」であろうか。<青面金剛庚申塔であろうか。境内への石段の参道を上る。階段上から「本堂」と「石灯籠」を見る。「本堂」。扁額「崇福山」。「本堂」の「内陣」。本尊は釈迦如来。この建物は?建物の「内陣」。「寺務所」。「客殿」であろうか。そして次に訪ねたのが「大六天神社」横浜市綾瀬市早川1875付近。正面鳥居と扁額「第六天神社」。社号標「第六天神社」。「社殿」。「社殿」の「内陣」。「第六天神社祭神は神道でいう天神六代目にあたる、面足尊(おもたるのみこと)、惶根命(かしこねのみこと)の夫婦神であろうと思われますが、創建年代はわかりません。かっては地域の人々に信仰が厚く、当社を中心としたここは桜の名所として、祭日には大変にぎわったところです。」「第六天神社」前の角の石碑。「不動講中供養塔」である。お不動さまだ。横には「相州高座郡土早川邑」とあり、左側面には「嘉永元戊申七月吉日建之」とも…1848年で江戸後期の造立による石塔である。神奈川県水道の消火栓マンホール蓋。イチョウ、ヤマユリ、ユリカモメのデザイン。そして山の中、竹藪の中にあった「稲荷社。」綾瀬市早川1802付近。昔からのムラの守り神なのであろう。そして「済運寺」へ。綾瀬市吉岡1783。「吉岡山済運寺」。臨済宗建長寺派寺院の済運寺は、栢庵宗意禅師大和尚(貞和5年1349年寂)が開山となり創建、渋谷庄司重国の子孫渋谷平次郎某が中興開基したと。吉岡・用田等は江戸時代に春日局の化粧料として充てられていたことから、春日局の御位牌、局が使用したと伝えられる茶臼・茶釜が残されていると。「本堂」。春日局の位牌及び茶臼・茶釜。三代将軍家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)(お福)が、将軍家光から化粧料として吉岡・用田等8ヶ村に三千石の所領を与えられ、済運寺の南に春日屋敷を造ったときに、観音領として畑10石5斗と山林・竹林の地を寄進したと伝えられている。春日屋敷は局が大山参詣の際の宿泊所として利用していたと。相模川が雨で増水し、足止めとなったときは、春日局は済運寺に宿泊したといわれている。春日局は済運寺には7度ほど参拝に訪れている。済運寺には春日局の御位牌とともに、春日局が使用したと伝えられる茶臼・茶釜が寺宝として大切に保管されている。「寺務所」であろうか。境内の池には水はなく。「小便小僧」?大きな石灯籠。「本堂」の屋根には北条家を代表する紋・「三つ鱗」が。「済運寺済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。本尊は木造釈迦如来坐像で、貞和五年(一三四九)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(一六一八)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。三代将軍徳川家光の乳冊である春日局が化粧料として吉岡・用田等に三千石の所領を与えられこのあたりに屋敷を建て、大山参詣の宿泊所にしたといわれています。済運寺には春日局の御位牌とともに、局が使用したと伝えられる茶臼・茶が寺宝として大切に保管されています。」「延命地蔵尊」。防寒対策は十分、しかしマスクは?「六地蔵」。左から地蔵菩薩・・・地獄道から救済してくれる宝掌菩薩・・・飢鬼道から救済してくれる宝処菩薩・・・畜生道から救済してくれる本尊の「釈迦如来坐像」であろうか。お顔をズームで。左から宝印手菩薩・・・修羅道から救済してくれる持地菩薩・・・・人間道から救済してくれる堅固意菩薩・・・天上道から救済してくれる「本堂」を横から見る。墓地の入口にも「六地蔵」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.07
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【綾瀬市歴史散歩 目次】👈リンク私の住む藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの少ない、屋外の散歩としてマスクの完全着用の下での隣接市の神社仏閣を訪ねることを始めているのである。先日は横浜市戸塚区、泉区にまたがる「鎌倉古道」を歩いたがこの日は、隣接する「綾瀬市」の神社仏閣を訪ねる目的で我が車で向かい無料駐車場に車を駐め散策のスタート。最初に訪ねたのは綾瀬市の最北に近い東名高速道路に近い「弁財天」。綾瀬市大上9丁目25。綾瀬市立北の台小学校の南側にあった小さな社の「弁天社」。鳥居の扁額は「弁才天」。「社殿」の扁額は「亀甲山白糸七面大天女」。「弁財天亀甲山白糸七面大天女といい、明治の末ころに造立されました。当時の綾瀬では養蚕が盛んであり、この下の低い場所に建てられた製糸工場に蛇が入り込み白くミイラ化したものを真綿でくるんで祀ったのが初まりといわれています。現在は、山野講中で大切にされています。」「お願い 賽銭を盗ないで下さい 弁天様管理者一同」と。何重にもチェーンが巻かれ南京錠が。その中に賽銭箱が納められていた。世知辛い世の中ですが、これも新型コロナの影響か。この写真を撮っている私の姿を、通りかかった自転車のオバチャンがじっと見ているのであったが・・・・。幸い尋問等はなかったのであった。東名高速に架かる橋を渡ると「蓼川神社(たでかわじんじゃ) 」が左手に。綾瀬市蓼川2-12-42。「社殿」。御祭神は大山祇命 ( おおやまつみのみこと )、菅原道真( すがわらみちざね )。「蓼川神社(たでかわじんじゃ)蓼川は上下に分かれていましたが、上分の鎮守は大山祇命を祭る山神社と素盞男命を祭るハ坂神社、下分は菅原道真を祭る天満宮てした。それが明治四十二年(一九〇九)に合祀されて蓼川神社となりました。境内には、享保二十一年(一七三六)造立の双体道祖神をはじめ数多くの石造物ガ安置されており、また庚申堂には正徳三年(一七一三)に造立された青面金剛像(庚申塔)が祭られています。」江戸後期天保十四年の「地神塔」が境内に。こちらは天保十五年の「地神塔」。そして道を戻り、次に訪ねたのが「安産子育出世地蔵」。「安産子育出世地蔵 願文山法正寺」の寺号標。扁額「願文山法正寺」。格子窓から内陣を。中央に「青面金剛像(合掌・六臂)・三猿」。寛政8年(1796)10月。多くの「庚申塔」を中心とする石碑が並んでいた。そして県道42号線・藤沢座間厚木線を南下し「風車公園」に立ち寄った。綾瀬市大上2丁目にある公園。複合遊具が揃う遊具広場、少年サッカーや少年野球などでも使うことができる多目的広場、テーブルベンチなど休養施設か設置されたふれあい広場の3つのエリアにわかれていた。「風車公園」案内板は・・・・・。遊具広場。遊具広場内で一番大きな遊具の頂上には風車がついており、ハンドルを回すことで子ども一人で自由に動かすことが可能とのこと。ツリー型のジャングルジム。ロープウェイ?。そして綾瀬市の雨水・汚水マンホール蓋。市の木「ヤマモミジ」を描いた雨水用マンホール蓋。下部に「あやせ」「あめ」の文字。こちらは、市の花「バラ」を描いた汚水用マンホール蓋。下部に「あやせ」「おすい」の文字。次に訪れたのが「子之神神社(ねのかみじんじゃ)」。綾瀬市寺尾中1ー3ー38。社号標「寺尾 子之社」。石段を上り参道を進む。「手水舎」。「本殿」と手前に「御神木」。「石灯籠と狛犬」(左)。「石灯籠と狛犬」(右)。「拝殿」。御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)[別名]大国主命(おおくにぬし)。綾瀬市早川にある五社神社の兼務社となると。慶長十年(1605)に勧請されたという棟札があり、現在の本殿は文久元年(1861)に建造され、さらに大正十五年(1926)に再建されたもの。向拝の見事な彫刻。木鼻の彫刻。扁額「子之社」。子とは北の方角をいい、子之神とは北方をつかさどる神のことを言うのだと。「拝殿と本殿」。「御大禮紀年改築碑」。「御大禮(ごたいれい)」とは、天皇の即位にともなう一連の儀式の総称。昭和天皇の御即位の時のものであろう。「神輿殿」。こちらにも御神木のクスノキ。「社務所」。歴史を感じさせる石碑。「子之神神社」を後にし、西に進むと「目久尻川」に架かる「伊勢下村橋」が。「伊勢下村橋」の欄干には河童が2体。「昔むかし、いつのころからか海老名市を流れる目久尻川(めくじりがわ)に河童(かっぱ)が住みつきました。目久尻川の河童はしだいに数を増やし、食料不足となってしまいました。そのため、河童たちは夜になると川の近くの農作物を盗むようになりました。始めのころは隠れて盗み食いをしていたものの、やがて手当たり次第に田畑を荒らすようになりました。しだいに河童による農作物の被害は拡大し、村人たちも頭を悩ますようになったところで、田畑を荒らしているのは河童の仕業だということがわかりました。怒った村人たちは手に手に鎌などを持ち、河童を退治するために目久尻川へと向かいました。村人たちは次々に河童たちをとらえ、最後まであばれていた河童の親分も取り押さえることに成功。処刑のさいには親分を川のほとりの砂の上に引き据えて、今までの恨みをこめて河童の目を刃物でくじり取り(えぐり)ました。この河童の目を「くじり取った」というところから、川へ目久尻川という名前がつけられたというのが、目久尻川の名前のひとつだといわれています。」とネットから。冬支度姿、マスクをかけた、河童とは判らない完全防備の姿で。こちらは男の子と。欄干には様々な姿の河童君の姿が。そしてこちらはカッパの「女の子」であると。町の方が四季折々、お色直しをされていると。橋の上流側の欄干の両端に。「目久尻川」とその先に「相鉄本線」の線路を見る。「目久尻川」を再び渡る。小園地区の目久尻川にかかる「小園橋」の脇にある「かっぱ伝説」。橋のたもとには3匹の河童たちの姿が。石の上で膝をかかえた河童と、その前で寝そべる河童。水面から半身をのぞかせている河童と、どの河童像も個性豊かなのであった。「小園橋昔は目久尻川改修前の位置に架けられ、国の費用で工事をしたので、国役橋と呼ばれていたようです。ここには浜田の駅(うまや)からひさご塚に出て、俗に四十坂と呼はれる急坂を下った古道が通っていました。」 ・・・つづく・・
2021.02.06
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「三柱神社」を後にし、「境川」に沿った東の道を南下する。横浜市泉区上飯田町190付近の旧家・宮崎家長屋門の前を通過。道路向かいに、日産自動車の配送センターがあったが、以前にはここが「宮崎製糸場」👈リンクがあったところであると。「宮崎製糸場」は、大正時代には女工330名を擁する大製糸場であったのだと。そして「美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)の地」👈リンク に到着。「美濃口春鴻」は享保十八年(一七三三)に、下飯田村の美濃口源左衛門の子として生まれた。幼時は虎松、のち源吾次(げんごじ)と称した。美濃口家は代々名主を勤め、また村制が布かれてからは村長も勤めた家柄であったから、人の出入りも多く、また公私を問わず外出することもたびたびで、世間の文人との交流も多かったのだったと。横浜市泉区下飯田町1744。立派な長屋門に圧倒されたのであった。飯田の鎌倉道は「上(西)之道」と呼ばれ、新田・足利ゆかりの地や信濃方面と鎌倉を結ぶ重要な道でした。美濃口家は代々名主や村長を勤め、当家出身の春鴻しゅんこうは芭蕉の流れを汲む蕉門の俳人で、関係資料は横浜市地域有形文化財(歴史資料)になっています。(一般の家屋のため、門の中の見学はできなかった。)また、近くに持田・美濃口両家の氏神と伝えられる日枝神社があった。玄関の南側を見る。玄関の北側を見る。「横浜市地域有形文化財(歴史資料)美濃口春鴻関係資料一括 二十三件美濃ロ春鴻は、亨保一八年(一七三三)相模国鎌倉郡(現泉区)下飯田村の美濃ロ源左衛門の子として生まれ、幼名は虎松、のち源吾次と称しました。下飯田村は、旗本筧(かけい)家領にあり、美濃ロ家は、代々名主を勤め、また村制がしかれてからは村長も勤めた家柄です春鴻は、江戸時代中期の相模を代まする俳人で、はじめは舂江と号し、明和ニ年(一七六五)松露庵鳥酔に人門、戸塚宿のニ之日庵鶏父の連に属していました。後に、関東の蕪村と称された舂秋庵白雄の門人となり、白雄の八大第子の一人に数えられました。寛政五年(一七九三)には、白雄追善集「冬瓜汁」を出版しています。また、相模俳諧の長老として鴫立庵(現大機町立鴫立庵)を後見しました。(鴫立庵は、江戸時代中期に大淀三千風が中興した俳諧道場で、明和四年(一七六七)鳥酔が入庵し再興しました。京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。)春鴻は、享和三年(一八〇三)六月七日、七一歳で没し、追悼集に門人雉啄(ちたく)編の「鴫の井」があります。美濃ロ家には、「芭蕉翁百年忌追棹の巻」(写)をはじめ句会での記録が数多く遺されています。これらは、江戸時中期の相摸の俳諧の様子を知る上で貴重な資料です。」そして近くにある「日枝社」の入口を探したが漸くここであることに気がつく。案内等は全く無く。丘の上に向かって参道を進んでいく。正面に「社殿」が現れた。横浜市泉区下飯田町1750。「馬頭観世音菩薩碑」。新しい鳥居、社殿も。「美濃口」と書かれた表札の家が交通量の多い道路側に。こちらが現在のお住まいなのであろうか。美濃口春鴻の墓は下飯田の生家の東方、道路沿いの美濃口家一門のこの墓地にあるようだ。そして境川に架かる木製の「渡戸橋」を渡って帰路に。下飯田町と藤沢市高倉を結ぶ「渡戸橋」。当初は自動車・歩行者兼用であったが、その後、隣に新しい橋が架けられ、写真の橋は歩行者専用になっていた。そして我が市内に入り進んでいくと、左手に「子育地蔵」が。「子育地蔵南北朝時代の一三〇〇年代に創建されたという臨済宗円覚寺派寺院・点燈山東勝禅寺、その古刹の境内北西角に建っ立派な御堂、この御堂に祀られているお地蔵様が下高倉の「子育地蔵」です。堂内は色鮮やかな千羽鶴や飾り玉で所狭しと飾られ、御堂の前には「奉納・子育地蔵菩薩」と書かれた数本の真っ赤な幟が風にはためいています。この御堂が面している四ッ角(現・三叉路)は、地元では「坂上十字路」と呼ばれる交差点で、付近は今でも昔懐かしい農村の風景を残すところです。このお地蔵さまは、江戸時代中期の延享三年(一七四六年)に七ッ木村の観音講の人々により造立されたと銘文に記されています。お地蔵様のまわりにはたくさんの白い小さな石が置かれていて、この石で子供の切り傷や、おでき、やけど等を撫でさすると早く治り、また赤ちゃんの歯固めに用いると丈夫な歯が生え、誕生餅とともに背負わせると強い足腰を育むと言われています。なお、借りた小石はお礼の気持ちを込め、倍にしてお返しすることになっているとのことです。この「子育地蔵」にはそんな我が子を思う親たちの感謝の気持ちが込められ、今でも地域の人々の信仰を集めています。(中島淳一氏著『湘南のお地蔵さま』より文章の一部を引用させていただきました。)」。祠に入った子育地蔵尊。延享3年(1746)の銘がある地蔵尊で、地域で大事にされているのだと。毎月24日が地蔵様の日になっていると。地蔵尊の左右には色鮮やかな千羽鶴が何本も奉納されていた。そして地蔵尊は黄色いTシャツを着ていた。数多くの絵馬札には願い事が。この日の散策はここまでとし、長後街道より北にある上飯田町等の散策は次回としたのであったそして、この後国道467号・町田街道を進み、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.05
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「長福寺」を後にして、「和泉川」沿いを北上し「いずみ中央駅」前の「曙橋(あけぼのばし)」に到着する。この「曙橋」の周囲は和泉川「地蔵原の水辺」と呼ばれているのだ。「和泉川 お散歩マップ」。左から、この日に訪ねて来た「県立境川遊水地公園」、」「天王森泉公園」周辺。「四ツ谷湧水」、「泉中央公園」周辺。そして現在地の「いずみ中央駅」前に辿り着いたのであった。「地蔵原の水辺」。そして次に訪ねたのが県道22号線・長後街道沿いにある「神明社」。横浜市泉区和泉中央南4丁目5-12。ここにも「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---神明社---」碑。「社殿」。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。勧請年代は不明ですが、須賀神社と同様、建暦2年(1212)、泉小次郎親衡ちかひらが館を築いた折、その鬼門除け守護神として当社を勧請したと伝えられている。昭和10年(1935)11月、氏子の寄付により社殿が修復された。神明社の隣には、農家の経済を支えた養蚕にちなんだ蚕霊(さんれい )供養塔(横浜市登録文化財)があった。そして「神明社」の下の石碑群。県横浜市泉区和泉中央南4丁目5。左から「蚕御霊神塔」、「庚申塔」。「横浜市 有形民族文化財 蚕御霊神塔」碑。正面の文字は「蚕御霊神」、右側面と裏の文字は判らなかった。「蚕御霊神塔現在、泉区和泉町三六九六番地に所在する本塔は、明治一一年(一八七八年)に造立された角柱塔で、その規格は、高さ七〇・五cm、幅三三cm、厚さ三一cmを測ります。塔の背面には、慶応ニ年(一八六六年)三月に、霜害のため桑が枯れてしまい蚕を育てることができなくなり、蚕を地中に理めてしまったことが記されているとともに、台石には、六十余名の連名が見られることから、一村あげて、その時の蚕の慰霊を行ったことを知る貴重な資料です。」この蚕霊供養塔は大山道の道標も兼ねていて、塔の向かって左側面に「大山道」の文字とともに二本指で方向を示した手の線画が刻まれている。正面の文字は「蚕御霊神」。そして長後街道沿いにあった「中和田村役場跡地公園」を訪ねた。「史跡 鎌倉郡中和田村役場跡地」碑。「旧中和田村の有志により横浜開港百五拾年を記念しこも碑を建立します。」横浜市泉区和泉中央南4丁目5。碑の裏面には「中和田村役場跡明治ニ十二(一八八九)年の市制及び町村制の施行により、鎌倉郡の一部、中田村、和泉村上飯田村、下飯田村の四カ村が合併して鎌倉郡中和田村が誕生、明治三十四(一九〇一)年四月、当時小高いこの地に、中和田村役場が建設され、村の行政事務が執り行われた。昭和十四(一九三九)鎌倉郡中和田村が横浜市に編入され戸塚区となり、中和田村役場は、戸塚区役所中和田地区事務所となった。昭を二十六(一九五一)年に戸塚区役所中田出張所と改称され、昭六十一(一九八六)年十一月三日、横浜市泉区が誕生する行政事務が執り行われた。そして長後街道を相鉄いずみの線に向かって進む。「和泉川・地蔵原の水辺」案内柱。その先に相鉄いずみの線の高架が。相鉄いずみの線の高架を潜り進むと道路の反対側に石仏を発見。「庚申塔」であった。横浜市泉区和泉町5丁目12。長後街道沿いにあった「中和田公園」に立ち寄る。横浜市泉区和泉中央南5丁目1。公園に入った右の松の樹の下の石碑。「明治三十七八年戦役紀年林」と刻まれていた。「明治四十二年十一月 日」に設置されたようだ。正面と左側に各種の石碑が。「中和田公園この公園は明治3 8年に持田製糸工場の社主、持田初治郎氏の寄付した土地を公園としたもので、かっては招魂社(しょうこんしゃ)と呼ばれました。境内には西南の役から第ニ次世界大戦までの忠魂碑、地域の青年集団「北部金蘭会(きんらんかい)」の教育に尽力した石井広助の碑があります。さらに中和田小学校の初代・2代目校長を務めた山田専成、山田豊治郎や養蚕・生糸の改良・普及に尽力した持田初治郎の各氏の顕彰碑が立っています。」公園の南側には複数の大きな石碑が。「石井広助之碑」。「石井広助之碑」は、明治三十八年十一月に建てられたもので題額は陸軍大将乃木希典の書。石井広助陸軍少尉は、上飯田町柳明に生まれた人で、父仁左衛門は神奈川県会議長をつとめた人であるとのこと。「忠魂碑」。「忠魂碑」は、日露戦争で有名な陸軍大将乃木希典の筆によるもので明治四十二年に建てられた。終戦後取り壊されたが、昭和二十九年十一月に中和田忠魂碑再建会により再建された。再建された碑の正面の題字は、元中和田小学校長山田豊次郎の筆である。その後連合町内会主催で招魂祭が行われていた。合祀されているのは、西南の役、日清、日露戦争、日中戦争から太平洋戦争までの二百三十四柱である。「持田初治郎君頌徳之碑」「持田初治郎君頌徳之碑」は、大正六年(一九一七)十一月に建てられたもので、題額は大正十三年に総理大臣になった清浦圭吾の書である。持田初治郎は、先進的な創業者、父角左衛門の志を継いで、蚕種の改良を図り全国に普及させ、事業の拡張にも努めたので「相模国の産額諸州に冠たり」と刻まれている。初治郎が共進会、博覧会に出品した生糸は優秀で、県内はもちろん、他府県からも金杯、銀杯、銅杯、賞状等が数十贈られている。また、伊太利国(いたりあ)万国博覧会では金賞が授与されている。社会に尽くした名誉職、寄付行為も数多く、県知事より、褒状、木杯、賞状が授与されている。「山田先生紀徳㞢碑」。「山田先生顕彰碑」。「和泉坂上」交差点を渡り進み、「三柱神社」を目指す。途中右側に塀で囲まれた空き地にポツンと鎮座していた石碑を発見。光背観音立像+三猿の「三猿庚申塔」であるようだ。そして南に向かって折れ「三柱 ( みはしら )神社」に到着。横浜市泉区上飯田町840。「三柱神社の由来当社は、上飯田下組みといわれた地区内に古くから祀られていた三つの神社を大正元年十ニ月に寄宮して、三柱神社としたのが、初めである。(中和田郷土誌より)祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと 山王社)、豊受姫命(とようけひめのみこと 稲荷社)、菅原道真(天神社)が祀られています。山王社上飯田町字島廻一八八番地に祀られておリました。稲荷社上飯田町字溝下三八八番地に祀られておリました。当時、大きな赤松があったと伝えられています。今、稲荷坂と呼ばれているところてす。天神社上飯田町字天神山一一一八番地に祀られておリました。大正元年十ニ月、持田初次郎、宮崎芳松、持田寿作、持田元治、麻生喜作、中野林之助、野渡儀兵衛の各氏が古くからあった三社を現在の地に寄宮しました。地域の人々が集会所と呼んでいる三柱神社です。各氏は、境内に記念碑を建て、次のような文面を後世に伝えています。当部落統一上、集会所設置の議が熟し、各氏は敷地の選定に苦しんだが、地主の利益を捨て、便益に資せんと、土地を譲与されました。その徳を頌し、併せて一般寄付の方々の名前を記し、紀年としました。畑・・・一反四畝ニ十九歩(一四八六m2) 持田寿作畑・・・四畝四歩(四一〇m2) 中野林之助現在の鳥居と参道は昭和三十一年、拝殿と奥の院は昭和四十四年氏子の寄付によって再建したものてす。」「社務所&町内会寺務所」。「上飯田南町々内会寺務所」。「三柱神社」👈リンク の「社殿」。社殿の右側に石碑が並んでいた。「蠶(蚕)霊神鎮座」碑。「蠶(蚕)霊神鎮座」碑を正面から。「上飯田下組」の文字も。右側面には「明治廿九年申一月吉日/相州鎌倉郡中和田村」と。左側面には「宇氣母智命」。角柱型文字「庚申供養塔」。光背型六手合掌青面金剛+二鶏三猿・・1722(享保7)年。角柱型文字「庚申塔」・・道標:「此方 かしを道」「此方 大山道」、1861(文久元)年。「庚申塔」の先に御神木が。この石碑は「集会所建設記念碑」。近くにあった「持田初次郎」の眠る持田家の墓地に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.04
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そして次に訪ねたのが「中之宮左馬神社(なかのみやさばじんじゃ」昔から「相模七左馬(鯖)の一社」と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記されていると。横浜市泉区和泉町3253。参道とその先に「本殿」。祭神は左馬頭源満仲(さまのかみみなもとのみつなか)・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)で、中和泉地域の鎮守様。和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で、源家隆盛の頃の勧請とのこと。明治6年12月に和泉村の「村社」に列せられた。寛永2年(1625)12月、和泉村の領主となった松平勝左衛門昌吉は、この神社を村の鎮守として再興し、能見(のみ)松平家の累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、文化13年、天保6年の棟札が残されている。平成16年にその本殿を保護する総けやき造りの社殿が新築された。境内には木食觀正碑(もくじきかんしょうひ)・庚申塔・西南の役の忠魂碑などがある。扁額「中之宮左馬神社」。「本殿」の右側にあった境内社。「本殿」の左側にあった左から「光背型青面金剛塔+三猿」・「庚申塔 1861(文久元)年」・「木食觀正碑」・「地神塔1861(文久元)年」が。中央は「「盡忠(じんちゅう)報国」碑・・1877(明治10)年の西南の役の戦死者2名の慰霊碑、裏面に「招魂」の文字、1888(明治21)年。」右手にも小さな境内社?が二基。「神楽殿(かぐらでん)」。そして次に「泉中央公園」に向かって細い坂道を上って行くと左側に小さな神社が。横浜市泉区和泉中央南4丁目32付近。そして「泉中央公園」に到着。横浜市泉区和泉中央南4丁目22。「泉中央公園案内図泉中央公園は昭和61年に、泉区誕生と同時期に開園した近隣公園です。水と歴史を活かした公園として長年、親しまれて来ました。泉中央公園の敷地には、中世の城郭である空堀や土塁の一部が残っています。鎌倉時代の武士、泉小次郎の館跡とも言い伝えられ、また公園内には「泉小次郎馬洗いの池」と呼ばれる池があり、泉小次郎の伝承地として知られています。再整備により平成28年3月に再オープンした。この地は鎌倉時代の武将泉小次郎親衡の館跡と伝えられている。遺構として、東側と南側に空堀と土塁が残っています。公園の周辺には歴史ある寺院や神社などがあり、かっての面影を残しています。」「泉小次郎親衡の館跡(いずみこじろうちかひらのやかたあと)」の南側を見る。1213年(建暦3 年)に起きた北条義時打倒未遂事件(泉親衡の乱)の首謀者・泉小次郎親衡の居館とする伝承がある。横浜市地域史跡。城跡は南北400m、東西200mを測り、曲輪と見られる平坦地は現在「泉中央公園」となっている。公園東端には南北に走る高さ1mほどの土塁が残り、埋没しているがV字に掘られた空堀も見つかっている。「空堀」の如きものが確認できたがこれがそうか?「泉中央公園の館跡」案内板。「泉中央公園の一帯は、鎌倉時代の武士の泉小次郎親衡の館跡と言い伝えられていますが、ニ重堀や板碑の紀年などから、南北朝時代のものではないかともいわれています。公園の西側は和泉川を天然の水堀とし、東側と南には箜堀と土塁が残っていま。現存する土塁は基底が約3m、高さlm、空堀は幅が約4 ~ 5m程であり、遺構は、南北400m東西200mに及びます。東側の土塁は堀の前面にあり、土塁前が道路になっていることから、ニ重堀があったと推定されています。」「堀敵の侵入を防ぐために城の周りに造られる防御施設のひとつです。水を引き込んだものを水堀といい、水のないものを空堀といいます。中世の城郭の多くは、山城と呼ばれる山の地形を利用したものであったため、ほとんどの堀は水のない空堀でした。水堀を設ける場合は一定の堀幅を必要とするのに対し、空堀は幅が狭くても深く掘ることで威力を発揮するため、山城においては有効な防御手段でした。掘り方により底面はV字型、凹型、丸型など様々なものがあります。土塁土塁は地面を掘って、その土を盛り、つき固めて造った塁壁で、城郭の防衛線として造られました。城郭の最も外側にかれ、傾斜ができるように土を盛ることで、外部からの敵の侵入を防ぐことが主な役割でした。戦国時代末期から江戸時代の城には土塁を石で覆った石垣が多用されるようになりました。」西側は斜面の下は平らな場所であったが。「泉」が湧き出していた。園内には、空充秋(そらみつあき)の彫刻「門」が立っていた。銘板には「空充秋」の名が。「泉小次郎馬洗いの池」「泉小次郎馬洗いの池」案内板。「この池は、「泉小次郎馬洗いの池」といわれ、泉小次郎が馬を洗ったと伝えられています。その昔から一年中水が枯れたことがなく、昭和20年頃まで、干ばつの時には、近隣の農家の人々により、池の水が汲み千され、雨乞いの行事が行われてきました。この池の底に沈んでいた小さな島には貞和三年( 1347 )造立の五輪塔があったといわれ、池のほとりには数基の板碑もありました。公園の北西に隣接する長福寺は泉小次郎が道場として創建したもので、守護神として祀ったのが須賀神社であると伝えられています。また、中和田村役場跡地公園西側にある神明社は、泉小次郎が館の鬼門除けとして勧請したものであると伝えられています。長福寺の西方約200m先に祀られている不動尊は、泉小次郎の守り本尊といわれています。不動尊の左右には「男瀧」「女瀧」があったので、土地の人々はこの付近を「の前」と呼んでいます。板碑(いたひ)板碑は、石塔婆の一種で、板状の石で製作された供養塔です。発見された板碑の中には、「元徳(1329 - 32 )」、「建武四年( 1337 )ニ月」、「康永元年( 1342 )」「貞和四年( 1348 )」「延文六年( 1361 )」の銘が刻まれた鎌倉時代末期から南北朝時代のものもあり、貴重なものとなっています。五輪塔(ごりんとう)仏教の五大思想の教えによる宇宙観を表した地・水・火・風・空の五つの元素から形成されているという考えから発したもので、石造物としては平安末期頃から造立されました。泉親衡(ちかひら)の乱泉小次郎親衡は、鎌倉時代の武士で信濃国(長野県)の住人だったといわれています。親衡は、ニ代将軍頼家を幽閉、殺害し幕府の実権を握った北条義時を討っため、建保元年( 1213 )ニ月、頼家の遺児千寿を擁し、旗上げを計画しました。しかし、計画が事前に発覚し、多くの御家人が捕らえられました。鎌倉にいた親衡は、計画が露見すると、逃亡し行方をくらましたことが「吾妻鏡」に見えます。計画に加わった御家人の中には、幕府実力者であった和田義盛の子や甥もおり、それが元で、後に和田合戦に至りました。この戦で北条氏により和田義盛一族は減亡させられました。」そして坂道を下り「泉小次郎親衡の館跡」の下にある「長福寺」を訪ねた。臨済宗天王山(てんのうざん)長福寺は、円覚寺末で本尊は釈迦牟尼(しゃかむに)仏。泉小次郎親衡(ちかひら)が道場として創建したと伝えられている。泉小次郎は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して北条氏を打倒しようとしたが、その計画が事前に発覚し、逃亡したと伝えられている。隣の須賀神社は小次郎が鎮守神として祀った神社といわれているのだ。横浜市泉区和泉中央南4丁目18-11。「長福寺」の白の漆喰塀が続く美しい光景を振り返る。「山門」。扁額は「天王山」。「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---長福寺--」碑。「本堂」。長福寺は、鎌倉時代の武士泉小次郎が創建した道場だといい、大覚禅師の法弟・空山円印禅師が開山、円覚寺102世大雅省音禅師(応永26年寂)が円覚寺派として応永2年(1395)に中興開創したといいます。自然石から彫られた手水鉢には湧き水が。「六地蔵」。美しい枯山水の庭には蓮の大きな鉢が並んでいた。別の場所からも。「ネット」👈リンク より。次回は蓮の花の時期にと。「本堂」に近づいて。扁額「長福寺」。長福寺の境内に南北朝期の年代(1300年代)が記された「板碑」が立っていた。泉中央公園を整備したとき、池のほとりから出土したものであると。「板碑」は、石塔婆(せきとうば)※1の一種で、死者の追善(ついぜん)※2及び生前の逆修(ぎゃくしゅう)※3供養の塔で、本興寺墓地・無量寺・密蔵院・東泉寺の宝物殿(非公開)などに多くあります。板碑は、泉区域の石造物では、最も古いものです。※1石塔婆:石で作った供養塔※2追善:亡くなった人の冥福を祈ること※3逆修:生前にあらかじめ自分のために死後の冥福を祈ること。「長福寺の歴史---伝承泉小次郎親衡縁起大凡長福寺の歴史を遡るに鎌倉時代泉小次郎親衡の創建道場と伝う。開山は大覚禅師の法弟・空山円印洋師なり。中興の祖は円覚寺百二世大雅省音禅師にて応永ニ年(一三九五年)開創し以来 法燈連綿として今日に至る。泉小郎郎親衡は信濃の国(上田市小泉)の住人にして信濃源氏の嫡流なり。建暦三年(一ニ一三年)ニ代将軍源頼家の遺児千寿を擁して、執権北条家打倒(源氏再興)を企てるも事前に発覚し追手を討ちて行方を晦ます。小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆三百三十余名に及ぶ。この泉親衡の乱がロ火となり侍所別当和田義盛の乱起り、北条体制に不満を持っ相摸武士団が挙兵する(吾妻鏡より)泉小次郎の行方については諸説あるも、唯一川越市最明寺縁起に鎌倉退出後諸国を転々とした後、武蔵の国三芳野(川越市)の豊田源兵衛を頼り千寿と共に出家、名を静海と改め文永ニ年(一ニ六五年)八十八歳で没す。現在川越市小ヶ谷の墓所は戸泉氏を名のるニ十五代当主守れり。当寺裏山中央公園には、小次郎館跡・馬洗いの池と呼ばれる史跡あり。また隣接の須賀神社に守護神を奉斎、鬼門除けに神明社、守り本尊として滝の前不動尊を請したとの伝承ありここに祀りし板碑は南北朝時代(元徳・建武・康永・貞和・延文等)の墓石で豪族や武士が供養の為建立せしものにて古き歴史を物語る。この度長福十開創六百年を迎えるにあたり泉小次郎親衡の伝承を記すと共に有縁 無縁三界万霊安らかならんを事を祈念するものなり。」そして「長福寺」の直ぐ隣りにあった「須賀神社」を訪ねた。横浜市泉区和泉中央南4丁目18-14。社号標「須賀神社」。「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---須賀神社--」碑がここにも。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「社殿」。明治の神仏分離までは牛頭天王社と称しており、現在も「和泉の天王様」とも呼ばれている。扁額「須賀神社」。広場から「長福寺」の山門と「須賀神社」の石鳥居を望む。「長福寺」境内の大銀杏も美しいのであろう。境内広場の石仏・石碑。左は「六道能化地蔵菩薩」であろうか。右の石碑横には「昭和八年吉日」と刻まれた石碑も。そして「長福寺」を出て右に折れると「宮沢果樹園」の見事な生け垣が。手前はモチノキの生け垣であっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.03
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「横浜市営地下鉄線ブルーライン」、「相鉄いずみ野線」の下をくぐり北上する。そして「左馬神社」に到着。境川沿いに多く見られるサバ神社の一社。祭神は左馬頭源義朝で、平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われている。天正18年(1590)に領主となった筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復した。境内のイチョウは市指定の名木古木。他に堅牢地神塔・庚申塔などがある。横浜市泉区下飯田町1389。木製の一の鳥居。「鯖社境内払下記念碑」。二の鳥居脇には「供養塔」、「不動明王」?。「馬頭観世音」碑。「庚申塔」。石造りの二の鳥居の扁額は「左馬神社」。前方に社殿。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されており、中でも横浜市の名木古木にも指定されている大イチョウは自然と畏怖の念を覚える迫力があるのであった。社殿創建は平安末期とも小田原北条時代とも伝えられ、以前は「鯖神社」と表記されたと。この付近には「鯖神社」、「左馬神社」、「佐婆神社」といろいろとあるのであった。扁額は「左馬神社」。「境内社」。そして再び「和泉川」に戻り「和泉川親水広場」を進む。そして和泉川沿いにあった「宝心寺」を訪ねた。寺号標「和泉山 松雲院 浄土宗 宝心寺」。台座階段部分含めた総高5m近く、先のほうに車輪のような石の輪っかがついていた。「車塔」とよばれるものだと。石の輪っかの下に「南無阿弥陀仏」の文字が。側面に歌が刻まれていルとネットより。『昨日みし 人はと問えば 今日は無し 明日は我が身も 人に問われん』『末遠く 思ふうちにぞ 近くなる 身のたねまきよ 日の暮れぬ間に』十八世住職の頃、明治四年に約60名の寄付者によって建立。「宝心寺と松平家宝心寺には、江戸時代の和泉村領主松平氏の墓があります。松平氏の先祖の光親(みつちか)が三河国額田(ぬかだ)郡能見に住んだことから能見松平を名乗り、その6代目が和泉村領主松平昌吉(まさよし)です。松平は徳川家に仕え、後に2000石余の領地を与えられました。旗本になった昌吉は慶安4年、和泉村に菩提寺として宝心寺を創建し、父昌利の墓を改葬して以後松平家の墓としました。境内には、岩舟地蔵、廻化地蔵(地域文化財)、大山道道標になっている庚申塔があり、また明治初期には和泉学校が置かれました。 泉区役所」。境内との石垣、そして立派な桜の木々が。「南無阿弥陀仏」と刻まれた無縁仏供養塔?であろうか。その後ろには、無縁仏となった古い墓石が集められていた。正面に白き「本堂」。「鐘楼」。近づいて。境内を進むと、古そうな石碑に、馬頭観音が刻まれていて…これが先程の由緒書きにあった大山道道標になっている「庚申塔」であっただろうかと?「故陸軍歩兵一等兵 勲八等 山村柳助之碑」。日清・日露戦争に従軍したが、明治38年5月20日清国鉄嶺の西方九里遼河の右岸籃楳保子にてコサック兵の襲撃にあい戦死された、本村和泉田中徳左衛門の二男・山村柳助さんの慰霊碑。昭和12年3月20日、遺族によって建立されたと。境内を更に進むと、フェンスがされている覆い屋が。「和泉廻化地蔵(いずみかいかじぞう)と岩舟地蔵尊(いわふねじぞうそん)」「和泉廻化地蔵和泉廻化地蔵と呼ばれる「安産子育諸願成就」の木像で金塗りの地蔵尊である。昔、この地蔵尊は三家から下和泉までの和泉町全城の各戸を、休むことなく一晩泊まりを原則に廻されて安産や子どもの健康を願いお参りされていた。赤ん坊を抱いて蓮華台に座ったお地蔵さんは、漆塗りのお厨子に安置され、幅約七十cm、高さ約九十cm、の背負式のお堂に納められ、後部の背負いひもで背負って隣家に廻した。春と秋のお彼岸には廻って当たった家を宿として、和泉全域の地区世話人がお賽銭を集め、ご詠歌連も加わって賑やかに供養したものであった。お堂の横にはよだれ掛けやぼうしなどが作って下げられ、また「奉納南無廻化地蔵尊・住所・子供の名」が書かれた赤や白の一m程の幟旗(のぼりばた)が宿の道案内に各所に立てられた。供養当日配られるお札地域住民の増加と共に次第に廻すことが困難になったので、昭和四十六年秋に取り止めになった。翌年春、宝心寺の住職の計らいもあり、四百数十戸の寄付により、境内の岩舟地蔵尊のお堂を建て替えてそこに並べて安置することになった。また、供養当日配られるお札を印刷した版木の裏には、「明治三庚午年四月日、十六世長福寺文道拜写」とあり、明治三年に版木を作り替えていることからも、この信仰が江戸時代から続いていたことがわかる。春秋の彼岸に供養していた和泉廻化地蔵尊も、昭和四十七年にお堂に安置されてからは、岩舟地蔵尊と共に宝心寺の住職を中心に、春の彼岸に賑やかに供養されている。」「岩舟地蔵尊岩舟地蔵尊(舟乗り地蔵尊)は、長さ一mの石造りの舟の上に起立している。今から二百数十年前の享保年間に下野国岩舟山高勝寺より伝えられたと思われるもので、台座の石の舟には「享保四巳亥年十月二十四日 岩舟山相州和泉村念佛供養」と彫られている。また、この地蔵尊は、こぶやいぼ取りの信仰もあって、額などにこすってくぼんだ跡が見られる。」「横浜市指定有形文化財(石像建造物)岩舟地蔵尊所有者 宗教法人宝心寺時代 江戸時代寸法 総髙一ニ三・五像高 七九・五cm舟全長 九七・〇cm 岩舟地蔵像は、石彫の舟に乗る地蔵菩薩立像で、舷側に「享保四己亥年 相州和泉村 岩舟山 念佛供養 十月ニ十四日」の刻銘があり、この石像が栃木県下都賀郡岩舟町の岩舟山高勝寺の地蔵尊を奉請供養したものと知られています。享保四年(一七一九)、岩舟山地蔵尊の信仰が一時に昂揚して、関東及びその周辺にまで広まり、各地で念仏衆の信仰によって石仏が造立供養れました。当時の岩舟地蔵像はそれらのうち最も早く造立されたもののひとつとして、貴重な石造文化財です。」境内にあった「名木古木指定 イトヒバ」。寺務所であろうか。「手水舎」。「閼伽(あか)」の文字が刻まれていた。ネットで調べて見ると「仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。 サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される。」と。現在の仏壇にお祀りされている物は、水、花、線香、ご飯、ロウソクの五種類が一般的ですが、お大師様はこれに塗香(体に塗る香)を加えた六種類のお供えが大切であるとのこと。そしてこれら六つのお供え物は、一、閼伽(水)二、塗香(体に塗る香)三、華鬘(花)四、焼香(お線香)五、飲食(ご飯)六、灯明(ロウソク) でこれを「六種供養」と呼ぶと。 「本堂」宝心寺のおこりは、泉小次郎が菩提寺として建立した泉竜寺という禅寺であった。小次郎の末孫が絶え堂も大破してしまったのを領主の松平勝左衛門昌吉が慶安四年(一六五二)浄土宗として建立し、昌吉の法名「松雲院殿業蓮社定誉法心庵燈居士」から松雲院宝心寺となった。現在の堂宇は、昭和四十四年に再建されたものである。境内には昭和四十九年に横浜市の名木古木に指定された数本の大木が立ち並んでいる。扁額「和泉山」。左手の墓地への入口。完全防備の地蔵尊九体がマスク姿で。コロナ終息、仏の力で-。境内の地蔵が愛らしいマスク姿で並び、新型コロナウイルスの感染拡大防止を祈っていたのであった。墓地の奥の方、「本堂」の裏に進むと、石積みに囲われ整備された墓域があった。ここが「旗本能見松平家の墓所」。能見松平家の墓域に入らせていただいて。墓域入口正面の墓石(写真右)は大きくて、供花もされていたが。反対方向からも。墓石には、立派な長い戒名が刻まれていたが、どなたになるのか、判明せずに。「横浜市地史跡 旗本能見松平家(のみまつだいらけ)の墓所和泉山松雲院宝心寺のおこりは、鎌倉時代の武将泉小次郎が菩提寺として建立した泉竜寺という禅寺です。その後、小次郎の末孫が絶え、廃寺となり、慶安四(一六五一)年に、鎌倉郡和泉村の領主てある松平勝左衛門昌吉が、再建しました。松平勝左衛門昌吉は、次郎左衛門光親に始まる三河国能見松平家の六代目で、宝心寺を開基した際に能見の観音寺から五代庄右衛門昌利の墓を宝心寺に移しました。以後、ここには五代(但し墓石は確認出来ない)・六代(昌吉)・七代(昌秀)・八代(昌永)・九代(甫昌)・十代(親喜)・十一代(光寛)・十ニ代(親遂)・十三代(光福(親福) )・十四代(親鈞)・十五代(光哉)までの歴代当主とその妻などの親族の墓石など計21基(五輪塔を入れると22基)があり、「宝心寺の殿墓」と呼ばれています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.02
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「四ツ谷の石仏」を後にし、環状4号線の「赤坂橋」交差点に向かう。「赤坂橋」交差点手前にあった小さな社。「赤坂橋」交差点の工事の際に近くから移設されたのであろうか。横断歩道を渡った「赤坂橋」交差点角に案内板が立っていた。「中和田小学校南部分教場跡この地は、中和田小学校の前身の中和田小学校南部分教のあったところです。明治六年頃、中田村に中田学舎、上飯田村に飯田学舎、和泉村には和泉学舎が置かれ、和泉村と下飯田村の子どもは和泉学舎で学びました。明治八年、学舎は学校と呼ばれるようになり明治十五年の記録によれば、和泉学校には上泉分校と四谷分校があったことがわかります。明治二十二年、中田・和泉・上飯田・下飯田の四ヶ村が合併して中和田村となり、翌二十三年には中田学校、飯田学校、和泉学校の三校も合併して中和田学校になりました。中和田学校は、明治二十五年一月に、地蔵原(現在のJA横浜和泉支店)に本校として新築移転し、中田に東部分教場、上飯田に北部分教場、そしてこの地(字鍋屋九七三番地、現在この地の大部分は環状四号線の道路敷地となっています)に南部分教場が置かれました。案内板の写真はこの頃の南部分教場の写真です。大正五年頃には、南部分教場は、二教室複式学級で、尋常小学校一年生から四年生まで百二十二名の子どもが学んでいました。南部分教場は、大正十年、現在の中和田南小学校のある字赤坂九八七番地に、建物の柱などをそのまま移転し、昭和四十三年に中和田南小学校として独立するまで、南分校(南部学校)と呼ばれ、親しまれてきました。」明治から現在までの「学び舎」の変遷。明治25年頃の南部分教場の写真。そして「下飯田」交差点を右折し「東泉寺」を訪ねた。以前は境川沿いにあったが、度重なる水害で、天正18年(1590)頃、当地の領主の筧為春(かけひためはる)によって移転されたと伝えられている寺 と。曹洞宗で鎌倉龍宝寺の末寺。山号を巨木山(こぼくさん)と称し、山門前の大イチョウは市の名木古木に指定されている。また、境内の薬師堂には飯田五郎家義の守本尊と伝えられる薬師如来像のほか、相模国準四国八十八ケ所五十九番札所の弘法大師石像が安置されている と。「禅 曹洞宗巨木山 東泉寺」寺号標。東泉寺の門前は鎌倉道(上之道)。鎌倉と越後、信濃、上州と結ぶ古道で、江戸時代には鎌倉街道と呼ばれた。参道の石段そして山門が前方に。「相模国準四国八十八ケ所 第五十九番札所」碑。山門前の樹齢四〇〇年ともいわれる一対の大イチョウは市の名木古木に指定。「名木古木指定 イチョウ」。「東泉寺本堂再建記念碑」。本堂は、大正12年9月の関東大震災での倒壊後、再建されたものだと。「山門」には禅の言葉が書かれていた。「吾唯知足而(われただたるをしりて)」意味は『わたしは、満ち足りていることだけをしっている。』不満を感じず満ち足りた気持ちを持つことが大事だと、そんな意味がこめられた言葉であると。位富楽安穏 ( ふらくあんのんにいく ) 『心が豊かで安穏としていて、天上ではなくこの世界にいても安楽を得ることができる。』すなわち「足る事を知る人は不平不満が無く、心豊かであることが出来る。足るを知ることは、欲望が制御され、煩悩妄想による迷いも消え、心清き態でおれる。逆に、足ることを知らぬ者は常に不満足の心が支配し、例え冨があったとしても、不平が多くその心は貧しい。」との禅の言葉であると。扁額は「巨木山(こぼくさん)」。「天明門縁起天明三年(一七八三)七月ニ十三日建立。当山十一世春長義天大和尚普山の年。屋根裏の書付によれば、この年、浅間山が噴火して、当地にも昼夜地震が八日間、雨天が一ヶ月も続いたとのこと。各地で飢饉に見舞われ、多くの被害者が出たため、世の平安を願ってこの山門が建てられた。この世情を記したのは、色蕉門下、春秋庵白雄の門人で後に大磯鴫立庵にも関わった当地の俳人、美濃ロ春鴻(露柱庵)で、佛句五首も肘木に記してある。句碑にある「人もかく老て秋たっ眉毛哉」は、春鴻四十九歳の自筆である。平成五年(一九九三)に、中和田建設株式会社(加質宏子社長)の寄進により修復再建。解体工事に際して右記のことが判明。柱の聯は、大川武夫氏寄進。当山廿七世慧雲宗孝大和尚の揮毫で「吾知足而位富楽安穏」とあることより、別称「知足門」ともばれている。山号額「巨木山」は、宗孝和尚の本師、品川海震寺野口蓮生師の揮毫で、福島栄子氏により修復寄進された。」「本堂」開創は不明であるが、当地の言い伝えによれば、以前は境川べりにあり、川の氾濫により再三流されたため現在の地に移されたといわれている。もとの土地は、「寺分(てらぶん)」という呼称で下飯田町四九〇番地付近に今なお一部が残っている。中興開基(復興の祖)と呼ばれる人は旗本の筧助兵衛為春であり、天正十八年(一五九〇)より知行地として当地を治め、間もなくこの寺を再興したと思われる。なお、同時期に薬師堂も境内に移転している。「東泉禅寺」の扁額は、明治三十一年に、当時の名僧として誉れ高かった、鎌倉円覚寺管長、釈宗演(しゃくそうえん)禅師によって書かれたものであるとのこと。可愛い地蔵さんと犬も仲良くもマスクを着けて。「薬師堂」👈リンク。「薬師堂」は、鎌倉時代の当地の地頭職飯田五郎家義が、字本郷の通称「薬師薮(やくしやぶ)」(下飯田町一三七一番地)と呼ばれる所に建立したことに由来する。山田豊次郎著『中和田史話草案』によれば、飯田家義は鎌倉二階堂にあった永福寺(ようふくじ)薬師堂の薬師如来を信仰しており、社寺のなかった飯田の地に、この薬師如来を勧請して薬師堂を建立したとされている。「堂内に安置されている薬師如来は、鎌倉時代、飯田五郎家能が信仰し、武運や災害、人々の平和と安寧を祈願して参りました。コロナ禍が心配される中、この度守護神十二神将を勧請いたしました。」「人もかく 老て秋たつ 眉毛哉」が刻まれた石碑。江戸中期に活躍した俳人で同寺とゆかりのある、美濃口春鴻(みのぐちしゅんこう)の句。石仏が並んでいた。墓石群。中央に「飯田五郎家義供養塔」👈リンク。平安末期に、この地を治めていた飯田五郎家義は、治承(じしょう)四年(一一八○)、源頼朝が兵を挙げたとき、平氏側大庭景親(おおばかげちか)らの兵とともに、石橋山の合戦に参じたが、多くの相模武士団の若武者と同様に、源氏の再興を望んでいたと思われる家義は、意を決し、頼朝軍の味方をした。また、合戦の際に頼朝が紛失した数珠(じゅず)を家義が拾って届けたところ、頼朝は大いに喜んだ。家義は随行を申し出たが、敗走に際して目立つといけないという土肥実平の進言から、涙ながらに別れたということが『吾妻鏡』などの史料に記録されている と。「薬王院殿家興順能大居士」の戒名。「延命菩薩」。ズームで。そして隣接していた「琴平神社」。水難除け治水の守護神を祀った琴平神社は、江戸期には東泉寺が別当を務め、飯田の金毘羅様として親しまれてきた。明治2年(1869)の神仏分離令によって、大物主神と崇徳天皇を祭神とする琴平神社として独立している。境内には天満宮、八坂神社などが祀られていた。横浜市泉区下飯田町742。石灯籠の扁額にも「琴平神社」。石灯籠にも瓢箪の彫刻が。「琴平神社」境内から「東泉寺」の「本堂」、「薬師堂」を見る。道祖神・庚申塔群であろう。この石碑は?「琴平神社」の「社殿」が階段上に。「琴平神社」👈リンク の「社殿」。琴平社は、当地の領主寛助兵衛為春が天正18年(1590)に菩提寺として東泉寺を創建、東泉寺鎮守及び字元木の鎮守として当社を勧請したと。祭神は大物主神、崇徳天皇。扁額「琴平神社」。境内社の「八坂神社」。扁額「八坂神社」。そして「琴平神社」の近くの道路沿いの石垣の窪みに安置されていた「双体道祖神」。「双体道祖神(そうたいどうそじん)道祖神は、厄除、災害の防止や子孫繁栄を祈願するために村の守神として主に道の辻に祀られてきた民間信仰の石仏です。地域に災いが入り込まないようにという意味で'塞の神、道陸神などともいった。この道筋は、「鎌倉上之道(かまくらかみのみち)」と呼ばれる主要古道であったため、旅や交通安全の石仏としても信仰を集めたものと思われます。また正月の民俗行事の一つである道祖神祭りの「さいと焼き」は、セイトヤキ、・ドンドヤキ・ダンゴヤキなどとよばれて、この道祖神の前で昔から盛んに行われてきました。ここに祀られてい男女和合と村の平安を願った双体道祖神は、泉区内では数が少なく、貴重な石仏であります。(文・郷土の歴史を知る会)多くの花が手向けられて。道を戻り南下していくと正面の窪地の青いパネルの前に石碑が。横浜市泉区下飯田町636付近。これも「双体道祖神」のようにも見えたが。横浜市泉区下飯田町 636付近。更に進み「下根広町線」を渡った場所にあった小さな稲荷神社。横浜市泉区下飯田町 650近く。そして横浜市営地下鉄方面に北上して次に訪れたのが「富士塚公園」。横浜市泉区下飯田町1015-1。大きな石碑には「富士塚」の文字が。「富士塚公園」何子供たちの姿はなく。「富士塚城址」と刻まれた大きな石碑。この碑の裏には「ここは源頼朝延命の恩人飯田五郎家義の館跡の地である。治承四年(一一八〇)四月頼朝関東に挙兵、僅か三百余騎で石橋山に陣を構えたが、一夜大庭景親伊東祐親の軍三千三百余騎の夜襲を受け惨敗した。家義は景親に追われ、すでに危うく見えた頼朝を救い、夜陰風雨の中を箱根山に導き、厳しい敵の目をくぐり奇蹟の安房脱出に成功させた。さらに同年十月、頼朝の黄瀬川出陣に従い、平維盛数万と対戦した時、一子太郎は射殺されたが奮戦して怯まず、敵伊藤小次郎を追い、その首級を頼朝に献じた。「前にはわが命を救い、今また戦功をなす、本朝無双の勇士なり」と賞され、この地を与えられた。家義は鎌倉に近い相模野の要地に館を定め、一族の墳墓とした。以来この地を飯田と称し、さらに中田、和泉を含めてその一字づつをとる中和田は、現在小中学校の校名として残っている。」と刻まれていると借りて来た本から。「富士塚城址公園建設賛助者芳名」碑には400人にも及ぶ名前が刻まれていた。「富士塚公園公園の周辺は、源頼朝が石橋山に兵を挙げたとき、平家側関東総大将大庭景親に従いながら、頼朝を助けた飯田五郎家義の館があったといわれるところで、公園には富士塚城址碑が建てられています。明治32年、五輪塔や納骨瓶の出土を機に家義を偲び公園裏の竹藪に「古賢大菩薩」の石塔が建てられました。近くの東泉寺境内には「薬王院殿家興順能大居士」と刻まれた家義の供養塔や家義ゆかりの薬師堂があり、薬師如来像にまつわる伝説も残っています。」「古賢大菩薩」の石塔が近くの竹やぶの中に建てられたとあったので探しに行く。倒れた姿の石碑を発見。「奉納古賢大菩薩」の文字が刻まれた石碑。「明治三十年四月二十五日再建」の文字も。こちらにも「奉納古賢大菩薩」の文字が刻まれた石碑が。昭和五年一月一日 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.01
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