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この日は10月6日(水)、コロナ禍の長引く中で実現できなかった「続日本百名城」巡り。緊急事態宣言が9月30日をもって解除され、「続日本百名城」のスタンプ置き場も再開されたので、この日にいつもの旅友と茨城県の「続日本百名城」の2城・土浦城址、笠間城跡を訪ねることに。加えて時間調整も兼ねて、「続日本百名城」近くの社寺や旧跡も訪ねたのであった。茅ケ崎の旅友宅に5:30に我が愛車で到着。旅友Sさんの車にいつものように助手席に乗り換え出発。国道1号を東京方面に向かって進む。東の空は朝焼けに染まって来た。「横浜新道」戸塚料金所から高速道路に。朝の陽光が眩しかった。「横浜新道」から横浜横須賀道路へのJCTを通過。首都高速方面へ。「三ツ沢本線料金所」を通過。首都高速神奈川1号羽田線の鶴見川に架かる「鶴見大橋」。多摩川に架かる「高速大師橋」を渡る。左手に「大師橋」。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。左手の「大師橋」の道路は、南岸で「高速大師橋」の下を潜るが、北岸で二つの橋は約170メートル離れている。これは、「高速大師橋」が川に対して直角ではなく斜めに架けられているためである。多摩川を渡るに連れて離れて行く斜張橋の「大師橋」。首都高速1号線・昭和島手前を進む。首都高速湾岸分岐線に入り京浜運河を渡る。「大井JCT」手前を通過。「東京湾トンネル」に入る。「東京湾トンネル」内を通過。ここ首都高速道路湾岸線(大井出入口 - 臨海副都心出入口間)のトンネルと、国道357号(東京湾岸道路一般部)のトンネルが存在するのだ。東京お台場前を通過。前方左手にフジテレビ本社ビル(FCGビル(エフシージービル))。左手に「有明コロシアム」。今年の「2020年東京オリンピック」ではテニス競技のメインコートとして使用されたのであった。首都高速湾岸線の京葉線下を通過。「高谷JCT」を「東関東道」方面に進む。湾岸習志野出口を通過。習志野本線料金所。千葉市美浜区若葉附近を通過。「東関東道 成田 鹿島」方面へ。酒々井リサイクル文化センター・焼却場の煙突が正面に2本。成田JCTを通過。左手に進むと成田空港へ。一日も早く、海外旅行への出発でこの成田空港への道を利用したいのであった。「大栄JCT」から「圏央道」に入る。「神崎(こうざき)IC」で出口へ。「圏央道」のルート地図。圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、都心から半径およそ40km~60kmに計画された延長約300kmの幹線道路。横浜、厚木、八王子、川越、つくば、成田、木更津などの都市を連絡し、東京湾アクアライン、東京外かく環状道路などと一体となって首都圏の広域的な幹線道路網を形成する首都圏3環状道路の一番外側に位置する環状道路であり、 首都圏の道路交通の円滑化、環境改善、沿線都市間の連絡強化、地域づくり支援、災害時の代替路としての機能など多くの役割を担っている。圏央道の未開通区間である「横浜湘南道路」(藤沢IC~栄JCT)、「横浜環状南線」(戸塚IC~栄JCT~釜利谷JCT)が2025年開通を目指して工事中なのである。現在工事中の「圏央道」となる「横浜湘南道路」のルート図。我が藤沢市内は現在の国道1号・藤沢バイパスの真下の地下を通過する事が理解できたのであった。そして横浜市瀬谷区の住友電気工業(株) 横浜製作所の手前で地上に出るようである。「神崎料金所」附近の田園には白い野鳥の姿が。「圏央道」の「神崎料金所」から一般道へ。「神崎町」は江戸時代には利根川の水運により栄え、醸造関連遺産は近代化産業遺産に認定されている。平野は関東平野に含まれ、平坦であり水田地帯が広がる。利根川の南岸に位置する町。そしてすぐに右折し利根水郷ラインを進み直ぐに左折し「利根川」に架かる「神崎大橋」を渡る。千葉県香取郡神崎町と茨城県稲敷市を結ぶ橋。利根川では、水郷大橋と圏央道の橋の間にある。最初の目的地の稲敷市阿波にある「大杉神社(あんばさま)」に向かって県道107号線・江戸崎神埼線を北上する。そして新利根川に架かる幸田橋を渡ると「大杉神社(あんばさま)」まで約1.5km。 ・・・つづく・・・
2021.10.31
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【海老名市歴史散歩】 目次そしてこの日の最後に「豊受大神」を訪ねた。石鳥居手前から見た参道。石鳥居は「神明鳥居」。垂直に立つ円柱の上に円柱の笠木を載せて下に貫を入れた直線的な鳥居。海老名市杉久保北2丁目22。「外宮(げくう)・豊受大神(とようけおおかみ)(食物・産業の守護神)海老名市杉久保北二ー二二ー一一、御祭神 豊宇気毘亮大神(とようけびめおおかみ)(天照皇太神の御饌津神)一、御由緒、沿革 聖武天皇の神亀二年(七二五年)勧請、遠馬名神豊受大神と称す。 古来推古天皇の六年豊受皇大神騎馬のの御姿にてご降臨されてより、皇大神御尊行の 処として此地をその鎮の宮と定められた。 江戸時代幕末の社寺改めによって恩馬郷四ヶ村の鎮守豊受皇大神と尊称、明治元年新政府の 社寺分離令により社号を豊受大神と改称した。 始め御陵を御神体と定め拝殿のみであった。のちにこれを改めて内殿の創建が行われたが、 幾多の兵乱に類焼し再建を重ねてきた。 現在の御拝殿は昭和六十年十一月に御造営された。続いて御神輿殿、御神輿が奉献された。一、境内地 一町五反二畝二歩(一五、〇五四平方米)一、御社殿 本殿、幣殿、祥殿一、境内内建物 神楽殿、神輿殿、社務所、手水舎一、境内社 ・内宮社(天照大神)平成三年十二月御造営 ・末社(寄宮五社) ・天満宮 山王宮、琴平宮、三峰宮、厳島大神、秋葉大神一、祭事 歳旦祭、交通安全祈願祭 一月 一日 祈念祭(春祭り) 二月 十一日 例大祭、御神輿渡御 十月 吉日(二日間) 七五三祝 十一月 吉日 神嘗祭(秋祭り) 十一月二十三日 ・奉納絵馬三面(市指定重要文化財) ・例大祭恒例行事としての名物 生姜市施行 平成 八年 宮司 恩馬知秋 著 平成二十八年一月 恩馬菊枝 修復」 「外宮 豊受大神」碑。狛犬(阿形像 右)。狛犬(吽形像 左)。「造園記念」碑。「社務所」兼「杉久保自治会館」。「手水舎」。「神楽殿」。「神輿殿」。そして「社殿」。扁額「豊受大神」。「本坪鈴(ほんつぼすず)」の緒はコロナ禍の影響で上に上げられていた。内陣。「本殿」。賽銭箱には「菊 十六花弁」紋の中心に4枚の葉が。「海老名市指定重要文化財 絵馬(三面)江戸期作 昭和四十九年四月二十三日指定」有馬郷土誌に杉久保の金指桂山(狩野派・弘化三年五月ニ十三日没)が豊受大神に「源三位頼政鵺(ぬえ)退治ノ図」を納めたと記されているのがこれであろう。他のニ面は萩野出身の鳥居派の烏居経国とその門人鳥居経久のものとおもわれます。」「豊受大神」幟。「豊受大神縁起豊受皇大神は古来相模牧遠馬名神の霊跡でしたが推古天皇の六年豊受皇太神騎馬の御姿にてご降臨されてより皇太神ご東行きの処 として此地をその鎮の宮と定められた。これより後聖武天皇の神亀二年勧請遠馬名神豊受大神と称し相模国の名神大社に列せられ のち遠馬二郎時国のとき遠馬十二ヶ村の総氏神として崇められた。江戸時代幕府の社寺改めによって恩馬四ヶ村の総鎮守豊受皇太神と尊称、明治元年新政府の社寺分離令に従い社号を豊受大神と 改称した。御祭神は豊受毘売命またの名を登由宇気大神と申し本宮は伊勢国山田原に鎮座される。大神は天祖伊弉諾尊の御孫和久 産巣日神の媛神で始めは丹波国真井原に鎮座されたが雄略天皇のとき伊勢国に遷座されて豊受宮度会宮と尊称した。のち豊受皇太 神と称され五穀を司る大神として伊勢神宮の外宮に祀られ御饌津神として永く尊崇された。推古天皇の代にこの地は豊受皇太神の御鎮座によって五穀豊穣し丘稜は国華の牧肥馬の地として弥栄えて世に朱金千両黄金千両 と謡われた。また仁明天皇の承和八年後稜より天照皇太神を御遷座した。奉幣は重陽九月九日内宮は九月十日と定められた 当時の 御神域は後稜の伊勢山及び御神林御廟地をあわせて五万六千余坪といわれた御神殿は始め後稜を御神と崇め拝殿のみでしたがのち上宮寺義玄僧正のときこれを改めて内殿の創建が行われた。治承四年七月 渋谷重国と遠馬三郎時国公によって神門社殿其の他が新しく造営され別当上宮寺の七堂も再建された。しかし正平応仁の乱を経て幾多の 兵乱に類焼し再建を重ねてきた。上宮寺もまた義玄僧正、日○上人法印養祐によって法燈がかかげられ永録六年に袖主恩馬内記は本宮 奉持の功によって正六位を叙せられた。豊受大神は恩馬郷総鎮護の神として古来より衣食住等人間生活の根源を開発された親神であり悠久幾千年五穀の豊穣、家内安全、 安産縁結びの神学問の神と、その霊威あらたかなりと信ぜられ崇敬されている」内宮社・「天照大神」。近づいて。扁額「天照皇大神」。「内宮社 天照皇大神」碑。「天満宮」。「天満宮」。扁額「天満宮」。「天満宮」右の石碑群。「天満宮」左の石碑群。境内「寄宮五社」。社殿の横に末社・「山王宮」が並ぶ。祭神は日枝大神、稲荷大神、琴平大神、厳島大神、三峰宮、秋葉大神「おみくじ掛け」。「天照大神」を振り返る。そしてこの日の散策を終え、JR相模線・社家駅に向かって歩く。前方に見えた夕焼けに映える富士山の姿を楽しみながら進む。電線が・・・・・!!。山の端の上の雲も後ろに聳える山の端の如くに。刻々と変わる茜色の雲。県道43号線・藤沢厚木線を社家駅に向かって西に進んでいくと「永池川」が。国分尼寺の近くの浅井の泉が水源といわれ、寒川町で相模川に合流する川。「永池橋」を渡る。「上河内」交差点を渡って更に進む。辺りは暗くなって来た。箱根・二子山であろうか。「鳩川(はとがわ)」に架かる「上河内橋人道橋」を渡ると左手にあったのが「土地改良記念碑」。「鳩川」は、相模原市から流れ出し、古くは籏川(はたがわ)とよばれていました。市内を流れ海老名市で相模川に合流しています。鳩川に沿った一帯は昔から田畑が広がり、春には一面れんげ田となり秋は稲刈りの風景が見られます。このような風景が見られるようになったのは、たびたびはんらんする「鳩川」の改修とともに昭和二十六年から四年余りをかけて行なわれた流域一帯の土地改良事業によるものです。昭和三十九年にはこの大事業への人々の努力と完成を記念した「土地改良記念碑」が下宿の水門の近くに建てられました。」その横には道祖神を含む石碑群が。再び富士山の夕景をカメラで追う。「社家駅」の道路表示が現れた。「社家駅入口」交差点を左折する。そして右手奥に「社家駅」が現れた。「社家駅」入口交差点には信号はなかった。「社家駅」の駅舎。「社家駅」。「社家」の名前の由来についてネット情報から。「少なくとも江戸時代には高座郡社家村が成立しているので これ以前にはこの名前があったものと思われます。「社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。社家は奉職する神社の近くに家を構えることが多く、社家の家が集まった所は「社家町(しゃけまち)」と呼ばれた。」と。相模線社家駅付近には神社は1つ「三島社」だけ!昔はもっと別にもあったのだろうか?無人駅でありSuica改札機が設置されていた。「茅ヶ崎」行きに乗車。そしてJR相模線「茅ヶ崎」駅に到着。JR東海道線への連絡通路にはJR相模線の100周年ポスターが。「一富士 二鷹 三相模」と。「相模線 大正十年九月二十八日開業」と。「相模線はおかげさまで100周年」。そして湘南新宿ライン「籠原行き」に乗車し帰路についたのであった。藤沢駅で小田急線に乗り換えこの日の海老名市内の散策を終え帰宅したのであった。この日の海老名市内の散策ルート。そしてこの日は頑張り過ぎました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく(後日)・・・
2021.10.30
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【海老名市歴史散歩】 目次「妙元寺」を後にして、西に進むと駐車場の角に石碑が二基。海老名市大谷南4丁目5。右側の石碑には「道祖神」と。その直ぐ先にあったのが「真鯨稲荷社」。「真鯨」という小字名も、丘の形が鯨に似ているからだとか、小丘をくじと言うとか、いろいろな説や解釈はあるが、昔、この地にあったという鯨竜山大谷寺の伝承や、出土した石碑がこの地に鯨が上がったことを裏づけているのだと。海老名耕地が入り海であったころというから、国分寺建立前後のことであろう。入り海説は「尼の泣き水」や「船をつないだ杭が根づいた大けやき」などの伝説によって人口に膾炙しているが、相模川の本流はその昔、東側の台地下を流れていた時代があったとみてまちがないのだと。過去2万年間の神奈川県の海岸線の変化。縄文時代前期(6000~5000年前)には海岸線が海老名近くまで入り込んでいたのを理解したのであった。 【https://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking4/french/pleinsj.htm】よりこの先の坂「清水坂」に向かって西に進む。そして「清水坂」入口まで下って引き返す。「清水坂」。海老名市大谷南4丁目1−3。「清水坂この坂は、かって坂の上りくちの左手から清水が湧き出て、一坪(三.三平方メートル)ほどの泉が清洌な水を湛えていたのが、坂の由来となっています。」その先にあった石碑群。左は角柱型「道祖神」、「道路改修記念/昭和四十五年四月二十五日建立/大谷杉久保講中」の文字が。その右に山状角柱型「道祖神」、「大正九年十一月建設」(1920)。そのさらに右に舟形光背型「双体道祖神像」、右「延享三歳」(1746)左「寅正月惣氏子十八人」。その先にも「道祖神」があった。「清水坂」を上りきり進むと右手には一面のキャベツ畑が。そして右にカーブして行くと正面に「東名高速道路」が姿を現した。高架の下の隧道(トンネル)入口には地元の杉久保小学校の生徒の絵画作品が。下り方面のその先の隧道(トンネル)を歩く。右手に折れ進むとあったのが「善教寺」の「山門」。海老名市杉久保北2丁目5−7。寺号標石「浄土宗久光山 善教寺」。「掲示板」。「本堂」。浄土宗寺院の「善教寺」は、久光山浄安院と号す。「善教寺」は、高橋又兵衛尉久教が開基となり、明誉光善大和尚が文禄元年(1592)に開山したとのこと。相模七福神の布袋尊の寺。扁額「善教寺」。内陣。ご本尊は阿弥陀如来像。境内の「シュウメイギク」。シュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。シュウメイギクは「貴船菊」、「秋牡丹」などの別名でも呼ばれ、欧米ではボーダーガーデンや日本風のガーデンには欠かせない植物となっている。英名や学名も日本の植物のように表記されているが、実は中国が原産となる帰化植物で、野山に多く自生しているのだと。「聖観音像」。「この世には、墓もなければ位牌もない。流産、中絶など悲しい迷える水子の霊がたくさんあります。子供の家庭内暴力や、体の病弱な人、心配事の絶えない人、安産、子育、受験の合格など、聖観音様に願(がん)をかけて下さい。苦しみや悩みから必ず救われるでしょう。 合掌 」お顔をズームで。そして「東名高速道路」沿いを「海老名SA (下り)」方面に進むと右手にあったのが「不動明王堂」。海老名市杉久保北2丁目7。「不動明王堂」を正面から。江戸時代、大山は、関東一円の人々から信卿を集め登山客で賑わった。そのため大山への参詣道の辻々には大山道を示す標が建てられた。大山は不動明王を本尊とする寺で、道標にはこの像がしばしば刻まれているのだ。不動明王は厄難除災と煩悩を断ち切ると言われ、その姿は左手に羂索をとり、右手に剱、背に火炎を背負っている。海老名市内にはいくっかの特徴的な不動明王像と多くの大山道標が残っていたのであった。昔は露座で立っていたのであろうが。石仏「不動明王」像。近づいて。更に。そして次の「杉久保富谷横穴墓群」に向かって東に進む。西の空は赤く染まりだしていた。林の横の道を東に向かって進むと前方に小高い山が。そして前方の「杉久保富谷児童公園」に到着。「自然と歴史のさんぽみち」ここが「杉久保富谷児童公園」、「杉久保遺蹟」。「杉久保遺蹟」・「富谷横穴墓群」案内板。「この周辺一帯は杉久保遺跡と呼ばれ、縄文時代の大規模な集落跡が確認されています。発掘調査では縄文時代早期~後期の竪穴住居跡が、約300軒も確認されました。この中でも中期の竪穴住居跡が多く発見され、その形状は中央広場を住居群が囲む環状集落と呼ばれるもので、この時代の典型的な集落形態です。集落は発掘調査区以外にも広がることが確認されており、総数は600軒以上の住居跡があると推定され、この地域の拠点集落であったと考えられています。」「杉久保遺蹟調査全体図」。「発掘調査空撮写真」。「富谷横穴墓群また、古墳時代後期(7世紀代)の杉久保富谷横穴墓群がありました。発掘調査では6基の横穴墓が確認され、その中の第3号横穴墓の奥壁からは線刻画が発見されましたが、意味は不明です。」「出土土器写真」。「杉久保富谷横穴墓群」があった「杉久保富谷児童公園」を望む。そしてこの日の最後に「豊受大神」に向かって進んで行った。夕焼けの色が刻々と変わって行った。「豊受大神」の鎮守の森が森林浴コースになっているようであった。大山三峰山(おおやまみつみねやま)の姿であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.29
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【海老名市歴史散歩】 目次海老名市大谷南3丁目の住宅街を進むと右手前方に緑の鳥居が見えて来た。「山王社」海老名市大谷南3丁目25−12。正面から。境内の「堅牢地神」碑。大地をつかさどる地神で、大地が万物を載せて堅固不動であるところから、堅牢の名がある。 万物を生育し負載するはたらきを神格化したもの。社殿の内陣には庚申等が並んでいた。中央の庚申等は笠付角柱型 日月 青面金剛像 三猿(三面)。下部の三猿は横両面にも有るように見えたが。左の石碑は板碑型 日月 「奉庚申待供養/二世安楽」。次の目的地「妙元寺」に向かう途中にあった、大農家の温室にはスイトピーの花苗であろうか?摘心を行い、わき芽を伸ばすようにしていないようなので豆の栽培か。そして「妙元寺」に到着。海老名市大谷南3丁目29−16。題目碑「南無妙法蓮華経 長秋山妙元寺」。山門右手の石碑群。一番右の石碑には「南無日蓮大菩薩」と。山号は「長秋山」。「妙元寺」。「山門」を入り参道を進む。左手に「手水舎」。「手水舎」横に立っていたのが「水子地蔵尊」。近づいて。お顔をズームで。本堂前に立っていたのが「観世音菩薩」像。近づいて。「観世音菩薩」左手で蓮の花を持って。お顔をズームで。「本堂」前の「常香炉」。「本堂」正面。扁額「長秋山」。「客殿」。「遠忌之碑」。「日蓮大聖人の孫弟子に当たる長興長榮両山三世九老僧日輪上人偶当地に錫を留め豪士秋元刑部大輔に本化の大法を説く刑部一族郎党を率いて聴聞す日を遂うて妙法値遇の大縁を肌に感じ輪上と師弟の契を結び名を改め秋元院日長と賜う。剃髪染衣一宇を創立す。茲に開山輪上自ら払を執り長秋山妙元寺と名付け式を督す日長二世を襲い雲集する信徒と共に法華経廣宣流布の道場と為す時に元弘元年比企谷門流に列せらる。星霜六百余年を閲し時に消長あり。先代日保聖人來往半世紀に及ぶ公務の傍ら門・石塀・書院等を造榮せり。晩年疾を得て再起する能わず。総代法類に後事を託す。熟議の上協力一致し宗祖第七百遠忌を期し、本堂書院庫裡を新建碑文に託し以て後昆に傅持せんとす。一同総力を傾け浄業を支援し乃ち竣る尊き哉。」「日蓮聖人像」。「日蓮聖人御眞筆 立正安国」。近づいて。お顔をズームで。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代西暦一ニ五三年)本尊 久遠の本師釈迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦様の説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖を仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に励み この教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人のしあわせに つながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌」。「この日蓮聖人像は、昭和六十ニ年当時総代であった尾山兼氏が建立したものですが、尾山氏は農家のニ男として生まれ、小学四年修了後豪農に作男として住込み、正月の小遣い一銭から貯金をはじめ、明治、大正、昭和と米寿を迎えるまで貯めた浄財を先祖供養の為に使いたいとの思いから建立に至ったものです。先祖の墓参りの前に先人の偉業に感謝し、宗祖への合掌をお願い致します。」。「六地蔵」。「米寿を迎え墓地完了し墓参り振り返り見し先祖の姿」。「大黒天」像。「大黒天は縁結び、福徳円満の神です。」お顔をズームで。「開山日輪聖人」供養塔。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.28
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【海老名市歴史散歩】 目次次に「今福薬医門公園」に向かって進むが、途中にあったのが「大島記念公園」。「大島記念公園」は、海源寺の開祖である大島氏の末裔の方から寄贈された土地を公園として開園した。公園内には大島家16代当主・大島正博が嘉永元年(1848)に行った花火興行の折に「硝煙解毒材」として植えたと伝わるイスノキの大木がある。このイスノキは地元では「ひょんの木」と呼ばれ、虫によってつけられた葉の穴を使って「ヒョンヒョン」と鳴らしたことからこの名がついたとの説があるのだと。「大島記念公園」と大島家の由来が刻まれた石碑。そして「今福薬医門公園」に到着。海老名市中新田1丁目9−1495番地5。嘉永6 (1853 )年建築の「表門」と「塀」が歴史を感じさせるのであった。「自然と歴史のさんぽみち」。ここが「今福薬医門公園」。「今福薬医門公園」の「表門」を正面から。今福の表門として十ニ代武軸(元芳)により嘉永6 (1853 )年に建てられました。間ロ9尺の比較的小規模な薬医門で、この門の形が「今福薬医門公園」の名前の由来となっています。門は総欅造で両側に袖塀を持ち、左袖塀には潜り戸を設けています。屋根は切妻造桟瓦葺ですが、建築当初は茅葺きでした。今福家の記録から明治27 (1894 )年に瓦葺に改修されたものと思われます。垂木先と破風先は銅製の金具が取り付けられています。妻壁には笈形(おいがた)をかたどった透かし彫りの板を嵌(は)めていることや、天井に鏡板を張っていることが特色です。門の両脇に連なる板塀の建築年ははっきりしませんが、基礎石の風化状況から、当初かそれに近い時期に作られ、後に改修されたものとみられます。土台に柱を立て、柱背面に控えをとっています。目板打ちの縦板壁に、上部は襷掛けの欄間となっています。屋根は波板鉄板ですが、これは大正期に改修されたもので、当初は板葺だったと考えられます。門と板塀が一体となって、旧家の表構えの格式を伝え、景観の形成に多いに役立っています。「今福薬医門公園利用案内」。「国登録有形文化財 旧今福家住宅」のパンフレットを頂く。今福家海老名市中新田は、相模川中流域左岸の低地にあたり、その地名の由来は、「海老名上郷と海老名下郷の間に新しく開拓された田を持つ村」といわれています。今福家は、戦国時代に活躍した甲斐武田氏の家臣てあった今福氏が先祖といわれ、江戸時代には名主も務めた旧家です。寛保3 (1743 )年から農間に酒受売・太物類(綿織物・麻織物)・荒物類(雑貨)・薬種などの商いを始めたとされています。今福家の屋号は「大坂屋」で、寛政11(1799 )年からは質屋も始め、文政8・9 (1825・1826 )年は、相模国高座郡内の近村13箇村(現在の海老名、綾瀬、藤沢の一部)に26名の送り質屋(元質屋からの資金により質物を取り、手数料を取って質物を元質屋に送る質営業のこと)を抱えるほどになりました。十一代当主今福武兵衛(元朝1806ー1879は、天保7 (1838 )年の大凶作の時に困窮した村人に救助米を配り、天保12 (1843)年6月には江戸・湯島聖堂(江戸幕府学問所)に敷石を献上して老中・堀田正睦から紋付小袖を賜るほどの有力者でした。その後今福家からは、自由民権運動に携わり高座郡長を務めた今福元頴( もとひで 1843-1924)や晢学者の今福忍(1873ー1923 ) 、NHKアナウンサー今福祝(しゅく 1912ー1978 )などの政治家・文化人が輩出されています。大正12 (1923 )年の関東大震災て、今福家の主屋や米蔵などは損壊し、その後再建された家屋も今は残っていませんが、嘉永6 (1853 )年建築の表門や塀、弘化4 (1847 )年建築の文庫蔵、大正期の裏門が今も残されています。これらは屋敷林とともに江戸時代の豪農の屋敷構えを残す希少な建築物として、平成30 (2018 )年7月20日に文化審議会から文部科学大臣に国の登録有形文化財に登録するよう答申され、同年11月2日に登録となりました。参考:『海老名市史3 資料編 近世Ⅱ』、『海老名の地名』。「今福薬医門公園」案内図をパンフレットから。今福家の敷地の一部は市に寄贈され平成1 9 (2007 )年に公園として開園しました。園内には、月桂樹や栴檀(せんだん)山茱萸(さんしゅゆ)、黒文字、木大角豆(きささげ)、泰山木(たいさんぼく)、錦木(にしきぎ)、石榴(ざくろ)、三島柴胡(みしまさいこ)、貝母(ばいも)など歴代当主が植えに貴重な樹木や草花が多くあり,四季を通じて楽しむことができます。左手に基礎部分のみ遺されている「米蔵跡」。井戸には手動井戸ポンプが残されていた。反対側(東側)を見る。東側にの母屋跡方面にはフエンスがあり、公園ではないので進めなかった。「今福家 表門 文庫蔵」案内板。「今福家 表門 文庫蔵今福家は、甲斐武田氏の家臣・今福氏が先祖といわれ、江戸時代には名主も勤めた旧家です。寛保3 (1743 )年頃から農業の合間に酒や荒物、薬種などの商いを始めて繁盛しました。屋敷内に貴重な建物や樹木、植物などが残ることから平成16(2004 )年5月に今福美雄氏より1400.38m2の敷地と建物の寄贈を受け、平成19年2月に今福薬医門公園として開園しました。」◯表門【年代】 嘉永6 (1853 )年5月(新築上棟、棟札による) 【規模】 桁行4間9尺(約2.7m )、梁行1間5尺(約1.5m ) 【構造】 薬医門形式、切妻造桟瓦葺(当初は茅葺)、総欅造 ※薬医門 主柱を控柱の中心からずらした位置に棟束を置く建築形式。総欅造りで、9.5寸(約29cm ) x6.5寸(約20cm )角の主柱を冠木でつなぎ、5.8寸角(約17.5cm )の控柱で支えています。梁に棟束の妻飾り、妻壁には蟇股を透かし彫りした板をはめています。内側に鏡天井をはり、内開き板扉と北脇の袖塀に潜り戸を設けています。妻壁に蟇股を透かし彫りするのは珍しい形式です。」「文庫蔵」。◯文庫蔵 【年代】 弘化4 (1847)年(棟札による) 【規模】 桁行24尺(約7.2m )、梁行15尺(約4.5m ) 【構造】 三階建て土蔵、切妻造桟瓦葺、外壁白漆喰 今福家12代・武助により弘化4 (1847)年に上棟された土蔵で、登り梁形式の小屋組で、 長さ24尺(約7.2m )の太い欅材の棟木を両妻の梁に渡し、それと軒桁の間に登り梁を架けた 簡潔にして力強い構造となっています。入口には鳥居形に木眉と方立を造り出し、その間に 外開き土扉を設けています。 内部の壁は各階とも柱に彫った板じゃくりに杉の厚板(厚さ7分:約2cm、幅9寸:約27cm )を 落し込んだ胴羽目で、板の突き合わせは本実継ぎ(ほんざねつなぎ)です。1階の入口脇に 階段を設け、2階と3階には商品を収納できるように戸棚が造られています。 江戸時代の3階建て土蔵はあまりなく貴重な遺構です。「文庫蔵」の前には「く」の字形の小さな池もあった。「蔵跡」。隠蓑(かくれみの)の木。「隠蓑」案内板。葉が3裂するのが特徴。厚く革質で光沢あり大きな葉で「隠れ蓑」がわりにしたのが名の由来らしい。「古記録」明治41年の今福家屋敷図。「主屋と文庫蔵(明治期)」の写真。「用水路と裏門(大正期)」の写真。明治41 (1908 )年の屋敷図には「瓦葺 居宅 七拾九坪」の主屋や土蔵、物置などがみられます。かっては東側水路に橋があり、裏門から出て水路を渡ることができました。敷地北側の半分弱が現在の公園部分てす。そして「今福薬医門公園」の「表門」を出て裏側(東側)を歩く。右手奥に「裏門」が見えた。「裏門」をズームして。「6寸角の凝灰岩の石柱に、同し石材の冠木を乗せ,その上に「今福」の「今」の字をアールヌーヴォー風にデサインした鉄製飾り金具を取り付けています。冠木の背面には藁座の造り出しがあり、かっては両開きの鉄製門扉が取り付けられていましたが、第二次大戦時の金属供出により失われました。門柱の両側には、大正期の写真では竹垣、昭和初期の写真ては板塀が見受けられます。」そして稲刈りの終わった田園風景を楽しみながら南下する。「海老名市立中新田小学校」の角を左折して進み「中新田小学校東側」交差点に。突き当りの先には「いこいの広場 三日月地」。キバナコスモスが満開。そして「大谷水門」交差点を右折。「高座郡海老名町耕地事業竣功記念碑」。「東西2㎞乃至(ないし)0.7㎞、南北約5㎞に及(およ)び櫛状(くしじょう)をなす広大な海老名耕地は、1300年前大化の改新の際、条里制(じょうりせい)を施した湿田(しつでん)であったが、昭和15年3月相模川左岸用排水改良事業の完成により、古来の旱水害(かんすいがい)を全く防止し得るに至ったので、町民は更に暗渠排水(あんきょはいすい)区画整理等を施行して耕地の乾田化(かんでんか)を計った。時、偶々(たまたま)相模川河川統制事業の進捗(しんちょく)に伴い、相模湖底に沈む勝瀬(かつせ)部落の移転とも関連し、同16年1月海老名町耕地整理組合を設立し、県営を以て本工事を進める事となった。然るに忽ち(たちまち)こう古の大戦(太平洋戦争)に際会し、資材の欠乏と労力の不足に依る作業の困難は筆舌(ひつぜつ)につくし難いものがあったが、県営事業所長 船戸廣次(ふなとこうじ)氏、組合長 望月珪治(けいじ)氏初め関係者の不屈の努力は、よくこの困苦を克服し同20年3月 52萬(まん)2千円の経費を以てその工を竣わった。次いで直ちに組合営を以て各田区の整地及び254ヵ所の架橋並びに井堰(いせき)掛桶(かけおけ)伏越等の工事に移り、戦後の苦難に堪えつつ、7年の日子(日数)と急激な物価騰貴(とうき)によって増大した工費1075萬(まん)余円を要して、同27年之を終わり換地登記等の事務も今年8月を以て完了したのである。斯く(かく)て487町2段歩に亙(わた)る海老名耕地は、舊態(きゅうたい)を改めて一大沃田(よくでん)となり、生産の増大は永く郷土の民生を豊かにし、国家の発展に寄与する事となった。茲に(ここ)に沿革の概要を誌して本事業完成の記念とする。」「蔽畔稔泰」の文字が。貫抜川と貫抜川水門「相模川左岸・右岸幹線用水路」案内板。「この水路は、相模原市磯部から茅ヶ崎市室田までの20Kmに及ぶ農業用水路で、昭和の初期に先人達が築き上げた歴史のある水路です。この水は、田植えの時期の4月から9月まで相模川の磯部頭首工から取水して、田んぼを潤すため水を送っています。また、かんがい用水としての目的以外にも、地下水への涵養や地域用水として、私たちの生活環境を守ってくれる重要な働きをしています。」相模川へ流れ込む水路用の水門。茅ヶ崎市室田方面への水路の水門。茅ヶ崎市室田方面への水路に沿って南下する。海老名洋蘭園の角を左に曲がり進むと海老名プライムタワー・107.8m高が左手に見えた。そして県道407号線の「坂下」バス停前を通過。大きく右側に曲がると「坂」があった。「沖の坂」大昔、海老名耕地が入海であった頃、遠くの沖の方まで見える坂であったからだといわれています。6000年前( 縄文時代前期)の神奈川の大地。平塚、茅ヶ崎は海の下であり、海は寒川、海老名まで入り込んでいたのだ。 【https://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_v101.pdf】よりそして「沖の坂」を上り海老名市大谷南4丁目5−8の住宅街を進む。更に東に進むと右手に緑の鳥居の神社が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.27
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【海老名市歴史散歩】 目次「中新田小学校入口」交差点の横断歩道を2回直角に渡り、県道46号線・産業道路を北に進む。これから訪ねる「東興寺」の白塀に沿って進む。白塀の角には「南田の道祖神」碑が。そして「東興寺」に到着。海老名市中新田1丁目13 。山号は「諏訪山」。「曹洞宗 東興寺」。「禁葷酒」。隣は昔の六地蔵の名残りか?「六地蔵」。影が白壁に映り込んで美しかった。「山門」。扁額「諏訪山」。「本堂」への参道。右側には「無縁塚」の中央に五輪塔。「水子供養地蔵尊」。「水子供養地蔵尊」に近づいて。お顔をズームで。「観世音菩薩」像。近づいて。二体の化仏を配置した千仏光の美しい光背の造形。お顔をズームで。石仏群。「お掃除小僧」。墓地。「南無慈悲観世音菩薩」像。「南無慈悲観世音菩薩 真言 おんあろりききやそわか」。近づいて。お顔をズームで。「客殿」。「手水舎」。「本堂」。曹洞宗寺院の東興寺は、諏訪山と号す。東興寺は、等光道覺(応永6年1399年卒)が開基し創建、眞良紋達(弘治3年1557年寂)が開山したと。江戸期には、中新田諏訪神社の別当を務めていた。本尊は釈迦如来像。常香炉には「五七の桐」と「久我竜胆」が重なっていたが。曹洞宗寺院であるので、両本山である總持寺・五七の桐(左)と永平寺・久我竜胆(こがりんどう)(右)の両山紋が施されているのであろう。「報恩塔(十三重塔)」。「報恩塔」。「寺務所」。「佛の十戎一、生きとし生けるものの命を大切にしなければならない。ニ、盗みや不正を犯してはならない。三、夫婦の道を乱してはならない。四、うそ偽りを云ってはならない。五、迷いの酒や思想に溺れてはならない。六、他人の過ちをいゝ触らしてはならない。七、おのれの自慢ひとの悪口をいってはならない。八、物でも心でも与えることを惜しんではならない。九、激しい怒りで自分を失ってはならない。十、佛院(ほとけ)の教えを疑ってはならない。」「東興寺」を後にして、寺の横の道を東に進む。「客殿」の裏側を見る。そして次の目的地「今福薬医門公園」まで50mを確認。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.26
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【海老名市歴史散歩】 目次「諏訪神社」を後にし南下すると直ぐ右手角にあった朱の鳥居のある神社。海老名市中新田2丁目27−50。正面から。内陣には石祠が。そして西に進むとを小さな橋が。相模川に流れ込む水路の名は?左にカーブする場所にも水路が。こちらには水が流れていなかった。そして右手にあった「伊勢宮大神宮 (いせのみやだいじんぐう) 」に到着。海老名市中新田3-7。「伊勢宮大神宮」は、延宝6年(1676)に創祀以来、天明6年(1786)・明治10年に修理され維持されて来たが、神社整理令により明治43年中新田諏訪神社に合祀された。昭和25年氏子中の希望により元の鎮座地に還座したのだと。「社殿」。祭神は天照大神。扁額「伊勢宮大神宮」。内陣。「伊勢宮大神宮」を後にして、南東に向けて進む、左手にも神社が。海老名市中新田3丁目8−20。これも稲荷社であろう。「伊勢宮下」交差点を直進する。次の路地を右に進むとあったのが大きな石碑。「蠶神」と刻まれた石碑。裏面には「神奈川縣蠶業試験場 創立ニ五周年記念昭和十年十一月 神奈川蠶友會建之」。「神奈川県蚕糸技術 発祥の地」碑。神奈川県蚕業試験場の創立25周年を記念して神奈川蚕友会が建立した記念碑。蚕業試験場は明治43年神奈川県農事試験場養蚕部として藤沢町に設置され(本碑の「創立25周年」はこれを指している。)、大正11年、蚕業試験場と改称された。大正14年、支場が中新田に作られ、昭和24年、本所が藤沢町から中新田に移転した。その後、県の養蚕関係機関の再編に伴い昭和42年、蚕業センターに統合され、本所は中新田に置かれた(神奈川県養蚕センター『要覧』1968年)。しかし養蚕業の衰退により、平成7年、神奈川県農業技術センター(本所は平塚市上吉沢)に統合され、跡地は宅地、および公園となっている。その先にあったのが火の見櫓(ひのみやぐら)。「中新田自治会館」。海老名市中新田3丁目25−1。「カンバーランド長老キリスト教会海老名シオンの丘教会 牧師 玉井幸男」案内板。そして次に「川寿稲荷神社」を訪ねた。海老名市中新田3丁目17。入口には松の手入れをされる職人さんの姿が。「社殿」。倉稲魂(うかのみたまのかみ)をご祭神とし、文政8年(1825)、京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請し、中新田の河原宿のとうかの森に鎮座する。川は川原、寿は長寿に由来する。扁額「川寿稲荷大明神」。内陣。境内の「ケヤキの木」。「海老名市自然緑地保存樹木第267号 令和2年9月15日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 1.88メートル」「六刀碑天正十八年七月豊臣秀吉小田原城を」攻略北條氏を降しました。次いで八月関八州の統治を徳川家康に任命され其の家臣高木主水正清秀が伍阡石の海老名郷を治められました。私共先祖六名はその家臣であります。高木主水正正次は元和九年九月河内河南壹万石の領主となり赴任されましたが六名は随行せす此の稲荷の森に刀を納め此の地に土着し農業に精進したので有ります。爾来荏苒(じんぜん)三百六十余年を経た今日その痕跡を明らかにすべく茲に碑を立て永く記念するもので有ります。昭和四十一年丙午師走 子孫敬白」現在も残る「六刀碑」は、その言い伝えを残すために昭和41年(1966年)に子孫の人たちによって建てられたと。碑の末尾からも解るのであった。「郷土かるた 「ろ」」「六刀碑 武士すてさりて 農となる」。「川寿稲荷神社」を後にして、海老名市中新田3丁目の住宅街を北に進む。そしてこの先右手で県道45号線に通じる道を横断。角にあった「稲荷森の道祖神」碑。更に直進する。再び水路を横断。そして次の目的地「東興寺」まで200mを確認。「中新田小学校入口」交差点が前方に見えて来た。そして歩道橋の先に「東興寺」の屋根が見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.25
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に「浄土宗 増全寺(ぞうぜんじ)」を訪ねた。「脇門」を通過し「山門」に廻り込む。山号は「龍池山」。「浄土宗 増全寺」。「掲示板」。「目に見えなくとも大切なもの」。「目に見えなくとも大切なもの現代社会は科学の発展と共に合理的で目に見えるものばかりを追い求めて、目に見えない・非科学的なものは否定される傾向を強く感じられます。しかしながら仏教が説く多くのものは、仏さま、ご先祖さま、ご供養、ご縁、死後の世界・・・「目に見えない」ものばかりです。もし宗教の無い世界であったならば、先祖はただの遺伝子継承にすぎず、「死」は「無」でしかないという、これはど悲しく怖いことはありません。浄土宗のお念仏の教えでは、南無阿弥陀仏とお念仏を称えたならば、この命が尽きた時には必す阿弥陀さまが極楽浄土へお救いくださり、先立たれた大切な方々とも再会させていただくことができるのです。「目に見えない」が、このよりどころがあればこそ私は安心してこの世を送っていけます。今年もコロナ渦で自粛を求められるお彼岸となりますが、秋分の日は国民の祝日に関する法律にも「先祖をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とあります。私たちに命のバトンをつなげてくださったご先祖様に感謝のご供養をするとともに、自身もより一層「目に見えない」ものを大切にする期間として頂きたいと思います。」「本堂」。浄土宗関東十八檀林の武州滝山大善寺末寺で、本尊は弥陀三尊、阿弥陀如来は江戸期初期から中期の作とみられる。 開山は因公学円上人で、嘉応元年7月15日寂(1169)、開基は鎌倉末期の領主・海老名源八衛広綱とされ、法名の無量院殿龍池増全大居士から山院寺号が付けられ、龍池山無量院増全寺と号す。開山当時は密教系寺院であったようであるが、浄土宗へ改宗した時期・経緯等は伝えがなく不明である。境内入口には岩船地蔵享保4年(1719)があり、飢餓に苦しむ村民の延命地蔵として祀られた。 また近年、相模七福神の一つに属し福禄寿を祀る。様々な変遷を経て平成28年に本堂・客殿・庫裏を新築改修し現在に至る。扁額「増全寺」。「本堂 内陣」。本尊は弥陀三尊、阿弥陀如来。境内の石仏、石碑群。「動物霊之碑」。うさぎが持つベンチ。「延命水子地蔵尊」。近づいて。お顔をズームで。「福禄寿尊天」像。中国の道教で理想とされる幸福・俸禄(ほうろく)・長寿命。 七福神の一。 背が低く長頭で長いひげをもち、杖(つえ)に経巻を結び、鶴を従えている。 幸福・俸禄・長寿の三徳をそなえるという。近づいて。長頭で長いひげをもち。「歴代諸上人供養塔」。「納骨堂永代供養」。内部をネットから。「本堂」裏の墓地。この地域の名家の墓なのであろうか。「先祖累代之墓」。「客殿」。「震災横死者之靈碑」碑の正面中央には、大正拾貮年九月一日震災横死者之靈とあり、その両側に氏名年齢順として28人の氏名が刻まれています。氏名末尾には男には君が付加されていますが、女には子が付加されているのでしょうか?碑の背面には、施主 玉城莊全とあり、三十四世と三十五世であった当時の住職が建立したことが分かります。なお、当時の住職が三十四世と三十五世の二つの世を務めたかは分かりませんが、「当山歴代先師尊霊」という墓誌によると、三十四世 ……莊全和尚、三十五世 同右とあります。現在の海老名市は、明治の町村制施行時の海老名村と有馬村がもとになっています。震災当時、増全寺のある中新田は海老名村に属していました。海老名村の被害は、全壊住宅461戸(このうち5戸焼失)、半壊住宅290戸、死者33人(滞在者2人を除く)でした。(海老名市史 8 通史編 平成21年 より)震災横死者之霊碑には、28名の犠牲者名があり、海老名村の犠牲者数の55%程度になります。海老名村は、上今泉、下今泉、柏ヶ谷、望地、国分、上郷、河原口、中新田、大谷から成り、碑の犠牲者は檀家信徒あるいは地区で区切られた犠牲者なのかは判然としません。犠牲者には大島と今福の姓が目立ちますが、両家は中新田の名家と言われています。震災横死者之霊碑が中新田の犠牲者に限られた碑であるなら、中新田は大きな人的被害を被っていることになります。「増全寺」から次の「諏訪神社」に向かう途中、直ぐ左にあった小さな神社。「稲荷社」であろうか。そして「諏訪神社」に到着。海老名市中新田2丁目19−14。社号標石「諏訪神社」。「石鳥居」。扁額「諏訪神社」。「拝殿」に向かって参道を進む。「社務所」。「神輿社」。「掲示板」。「手水舎」。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」ご祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。大化の改新の後、海老名耕地の中央部の開墾に伴って、少なくとも、室町の頃、諏訪明神を勧請して以来、中新田の地域及び住民を守護する産土神社(うぶすなじんじゃ)として、「お諏訪様」と尊称されています。この神社は、風の神・水の神という農業神であり、例大祭のみならず、雹祭・虫除祭・風祭という農事祭が執り行われています。この祭りにあたり、独特な儀式がなされます。案山子(かかし)祭りも有名。見事な彫刻。扁額「諏訪神社」。「諏訪神社御由緒」。「お諏訪様 諏訪神社(すわじんじゃ)は、建御名方命(たけみなかたのみこと)をご祭神とし、海老名市中新田1549番地に鎮座する。 古来、中新田の地域及び住民を守護する産土神社(うぶすなじんじゃ)である。人々はお諏訪様と尊称する。お諏訪様は、武将からの信仰もあったが、本来、風の神・水の神として信仰されて来たものであり、中新田という土地を開発した 農業をはじめとする産業の神といってよい。神社の祭事として、毎年七月二十七日の例大祭、歳旦祭・祈年祭・新嘗祭の外にも、雹祭・虫除祭・風祭という農業祭を斎行する。境内地は、一千坪を超える。右手に手水舎、また、左手に切妻造の神楽殿と社務所を配し、流造桧板葺の本殿を覆う覆殿・両流造 の幣殿・日吉造の拝殿の三棟一宇からなる社殿が真ん中に佇む。御由緒 創建 大化の改新の後、海老名耕地の中央部の開墾によって、中新田の地域は誕生した。その地名は、大縄崎村から 中新田村へと変遷した。この地の草創の頃、住民は、農業の安全と繁栄を祈り、諏訪大明神の神霊を勧請し、諏訪神社をご創建した。室町 永享年間(1429-1440)以前から、厳然として、諏訪神社の鎮座する事を鷹倉社寺考は古志を基に伝える。爾来、中新田の 鎮守社として、別当寺の諏訪山東興寺と共に、住民や領主の崇敬の念篤く社運は隆昌するに至った事を新編相模風土記稿は記す。 明応年間(1492-1500)太守の大島豊後の守正時による社殿造営を社寺考は棟札を基に伝える。江戸 元和六年(1620)、地頭の高木主水政次による社殿造立の棟札が残る。また、元禄十五年(1702)九月、地頭の秋元小左衛門 成朝による宮鐘の寄進を風土記稿は鐘名を基に伝える。社殿の再建及び修理について、明暦元年(1655)、貞亨三年(1686)、享保十三年 (1728)の棟札が残り、慶応二年(1866)の銘が向拝殿の装飾彫刻の裏面にある。明治から大正へ 明治元年(1868)の神仏分離令により、諏訪神社は、東興寺と分離し、明治六年(1873)十一月、村社に列せられた。 明治十五年(1882)、社殿を再建し、明治四十二年(1910)、その設備を完成した。大正四年(1915)九月、神饌幣帛料供進社に指定された。大正十二年(1923)の関東大震災により社殿をはじめ悉く倒壊したが、 翌年には、社殿と鳥居が再建された。 昭和から平成へ 第二次世界大戦の後、諏訪神社は、宗教法人となり神社本庁に所属する。氏子は、心の拠所として尊崇し、昭和 二十八年(1953)七月、境内を西側に拡張し、神楽殿を建築し、また、平成八年(1996)、社務所の再建、平成十六年(2004)、 社殿の修理及び幟竿・狛犬の整備、平成十七年(2005)、神楽殿の再建等、次々と境内の整備を進めた。摂社・末社 境内末社 江戸の頃から「疱瘡神」(ほうそうがみ)を祀る。大戦後、事情により、近辺の稲荷社へ遷座された。伊勢宮大神宮 天照大神をご祭神とし、延宝六年(1678)八月のご創建以来、諏訪神社への一時の合祀を除いて、中新田の 伊勢宮下に鎮座する。川寿稲荷 倉稲魂(うかのみたまのかみ)をご祭神とし、文政八年(1825)、京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請し、中新田の 河原宿のとうかの森に鎮座する。川は川原、寿は長寿に由来する。山王日枝社・稲荷社 日枝社は、大山咋命(おおやまくいのみこと)をご祭神とし、宝永五年(1708)の創建以来、諏訪神社への 一時の合祀を除いて、稲荷社と共に、中新田の山王原に鎮座する。」大正十二年(1923)の関東大震災で被災した石鳥居。「神輿社」を別の角度から。上空には海上自衛隊機が飛行。「秋篠宮悠仁親王殿下誕生記念植樹」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.24
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【海老名市歴史散歩】 目次そして「海源寺」の「山門」前に到着。海老名市中新田1丁目1−22。寺の玄関口の「山門」は本堂正面に当たる南側に設けられていた。山号を「長髙山」、身延山久遠寺(山梨県身延町)の末寺とされている。「海源寺」。「掲示板」「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず」人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また、施しや親切を受けても、その恩を忘れてはいけない と、大隈重信の言葉ではなかったか。境内の欅(ケヤキ)。「海老名市自然緑地保存樹木第67号 昭和63年8月1日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 2.80メートル所有者又は管理者住所 海老名市中新田1-1-22氏名 海源寺」「本堂」への参道を進む。右手に小さな御堂。「手水舎」。「本堂」。「海源寺」は、海老名広治が田邑宗友と領土争いをしていた際、甥の大島豊後守正時に助太刀を依頼、房州より移り住んだ大島豊後守正時は、子のいなかった海老名広治の死後、当地の領主となった大島豊後守正時が長禄・寛正年間(1457-1466)に当寺を創建、身延山11世日朝(明応9年1500年寂)が開山したと。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石の御朱印状を受領した。本尊は阿弥陀如来像。中央には目が光って、迫力ある睨みをきかせる龍の彫刻が「本堂」正面に。扁額は「海源寺」。木鼻の側面は珍しい?象の彫刻。正面は唐獅子の彫刻(右)。木鼻の側面は珍しい?象の彫刻。正面は唐獅子の彫刻(左)。別の角度から。唐獅子の彫刻はかなり手が込んでいたのであった。「本堂」にはこの寺の開基「大島豊後守正時像」の木像がまつられていると。 【https://ebina-kankou.com/%E6%B5%B7%E6%BA%90%E5%AF%BA/】より大島豊後守正時像室町時代、当市は海老名弘治の領地でしたが、隣りの田邑の領主田邑宗友と領域争いをしたとき、房州(千葉県の一部)にいた甥の正時に応援を頼み、これに助けられました。広治の病死後、正時の後継のなかった弘治のあとを継いでこの地を冶め、長禄の頃(十五世紀中頃)海源寺を建てました。正時が死んて当寺に葬られた永正二年(一五〇五)、この木像か置かれたと思われますが、江戸時代に罹災し、現存する座像は宝永七(一七一〇)年につくり直されたもののようです。なお、本市に実在した式将の像としては唯一のもので、この意味において大変貴重と考えられます。大島正時は、室町時代の安房国(千葉県)の武将でしたが、海老名を領有していた海老名広治の招請により、領地争いの救援のために海老名にやってきたといわれています。この合戦の後、血筋が絶えた海老名氏に代わって海老名を領有するようになったとされます。大島正時は、海源寺の開基とされ、正時の死後、永正ニ(一五〇五)年にその坐像が造られたと伝えられています。現存の坐像は、宝永7年(1710)に造られたものです。「天水桶」には日蓮宗の宗紋「井桁に橘」が。「客殿」であっただろうか。御堂の中に祈りの石仏が。近づいて。「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」碑。境内の「日蓮聖人像」。お顔をズームで。ここにも石仏が。お掃除小僧。「清浄心掃けば散り拂えばまた塵つもる 人の心も庭の落ち葉も」「神明宮 八幡宮」。扁額「神明宮 八幡宮」。内陣。この社は?「鐘楼門」は市指定重要文化財。上層階には元文2年(1737)に鋳造された鐘が懸けられていた。この鐘は戦時中にに軍に供出され、現在は復元されたものが懸けられているのだと。西側の入り口から望む「鐘楼門」この鐘楼門は,記録によると大島家第十一代正晴が大願主となって、元文二年(1737年)に寺に銅鐘を寄進し、その後すぐに築造された。関東大震災による倒壊などで改築・修理を余儀なくされたが、旧部材を用いたこともあって創建当時の特徴を残している。建物の概要は、桁行22尺(約6メートル60センチ)、梁間12尺(約3メートル60センチ)の三間鐘楼門で、屋根は入母屋造り、銅板瓦棒葺。軸部や斗栱などに欅材を多用し、上層の台輪以上が新材に替えられたが、他は当初の部材をよく残している。軸部と斗栱に禅宗様の技法を用いているが、細部装飾は少なく、衣装は簡素。外観は、下層軸部の丈が高く、軽快である。海老名市内における近世社寺建築の代表的な遺構である。「海源寺鐘楼門修復記念碑當山の鐘楼門は、記録によると十八世紀中期に創建されたものでありますが、大正十二年の関東大震災によって倒壊しました。幸い災火の難を逃れましたので、旧財を用いて昭和十三年に再建されました。旧部材を用いた事もあり創建当時の特徴を残した近世社寺建築の代表的遺構として平成六年十月に、海老名市の重要文化財に指定されました。しかし、永い年月を軽て来た為、痛みも相当ひどくなっており、文化財指定を機会に、山門の修復を計画しました。修復に際し、本来の姿であろう鐘楼門に戻そうという事となり、元文ニ年(一七三七)に鋳造され太平洋戦争の時に供出となリ消失した梵鐘も再度鋳造する事となりました。修復工事は、日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃、並びに海源寺開山、行学院日朝上人五百遠忌御報恩を記念して行なわれ、檀家の皆様の浄財寄進と御協力により、約一年半の修復期間をもって完成しました。ここに日蓮大聖人か立教開宗の時に立てられた我 日本の柱とならむ我、日木の眼目とならむ我、日木の大船とならむとの誓願を受持し、法華経の御題目を弘め、衆生を佛道に導く事を誓い、立正安国、世界平和、寺門興隆、伽藍相続 殊には檀徒皆様の家門繁栄、家内安全を祈念いたします。」「海源寺鐘楼門この鐘楼門は、記録によると大島家第十一代正晴が大願主となって、元文二年(一七三七)に寺に銅鐘を寄進し、その後すぐに築造されました。関東大震災による倒壊などで改築・修理を余儀なくされましたが、旧部材を用いたこともあって、創建当時の特徴を残しています。建物の概要は、桁行二二尺(約六メートル六〇センチ)、梁間一二尺(約三メートル六〇センチ)の三間鐘楼門で、屋根は入母屋造り、銅板瓦棒葺です。軸部や斗栱などに欅材を多用し、上層の台輪以上が新材に替えられましたが、他は当初の部材をよく残しています。軸部と斗栱に禅宗様の技法を用いていますが、細部装飾は少なく、意匠は簡素です。外観は、下層軸部の丈が高く、軽快です。海老名市内における近世社寺建築の代表的な遺構です。」「海源寺鐘楼門」の構造と名称。扁額は「長髙山」。上層階には元文2年(1737)に鋳造された鐘が懸けられていた。この鐘は戦時中にに軍に供出され、現在は復元されたものが懸けられている と。境内の外から。境内から。「日蓮聖人像」と「本堂」。白亜の漆喰壁に屋根瓦」が。題目塔「南無妙法蓮華経 長髙山 海源寺」。「常殿院宗仁日喜菩提」碑。この方向が「中新田かかしまつり会場」のようであるが、今年もコロナ禍で中止になった模様。 田んぼ一面が黄金色に輝き出せば、いよいよ刈り取りの季節。左手に「中新田コミュニティーセンター」。そして次の訪問地「浄土宗 増全寺」入口が見えて来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.23
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【海老名市歴史散歩】 目次「大谷観音堂」を後にして、「観音通り」を北上して「根下バス停前」交差点まで来る。左側に「観音堂」らしきものがあった。海老名市大谷北2。少し戻り、田んぼの中の道を西に進む。収穫間近の田んぼが拡がっていた。「中部営農組合」に稲刈りを依頼しているのであろうか。手で刈り取られた稲が数束道路脇に。そして別の田んぼにも同様な表示が。右手奥にあったのが「アツギ(株)」のビル。日本の繊維製品の製造・販売メーカー。旧厚木ナイロン工業(株)。海老名市大谷北1丁目9-1会社の所在地は海老名市であるが、社名に相模川対岸の町である「厚木」の名前を使用したのには次の理由がある と。会社設立前に近隣にある厚木基地に連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーが降り立った。そこで創業者の堀氏は「世界中に知れ渡った厚木の名を社名にすれば、いちから宣伝しなくても済む」とひらめいたことから と。ただし厚木基地は厚木市内ではなく、綾瀬市と大和市にまたがった地域にある。所在地に近い厚木駅も厚木市内ではなく海老名市にある。ちなみに発明学会前会長豊沢豊雄の著書によると厚木ではないからアツギ株式会社と命名したとあるのだ と。そして「海老名高校東側」交差点を通過し「海老名市役所」に向かう。更に北に向かって進むと左手にあったのが「海老名市消防庁舎」。海老名市大谷816。「海老名市消防庁舎」の入口玄関。台座に「和」と刻まれた消防士像。玄関から中に入ると様々な消火機材が展示されていた。腕用ポンプ(手押し消火ポンプ)。長岡市から譲り受けたものであろうか。ミニ消防自動車。纏(まとい)。そして様々な種類のミニ消防自動車。梯子車。救急車。交差点の角にあったのが「神奈川県警察 海老名警察署」。更に進むと左手にあった「海老名市役所」に到着。海老名市の市章旗がはためく。「海老名市役所」の駐車場側の玄関から内部に入る。 海老名市イメージキャラクター 「えび~にゃ」が迎えてくれた。名前 海老名市イメージキャラクター えび~にゃ性別 女の子誕生日 平成23年(2011年)1月28日(い~にゃ~の日)住所 神奈川県海老名市勝瀬175番地の1 海老名市役所性格 やさしい性格で、こどもから大人まで仲良くなれる! やんちゃで、楽しいことが大好き!特徴 あたまは「えび」、からだは名産の「いちご」の白ねこ特技 ダンスを踊ること 『EBINAダンス』をいっしょに踊ろうにゃ! 海老名市内をリポートすること その名も“えび~にゃリポ~タ~”!好きな 海老名で採れるいちごや梨などの果物、トマトやレタスなどの野菜食べ物 海老名はおいしいものがたくさんにゃ!えび~にゃのひみつ おなかからいちごの香りがする… ハイタッチをすると、なぜか笑顔になり、幸せが訪れる…経歴 『ゆるキャラ®グランプリ2012』 865キャラ中、第19位 『ゆるキャラ®グランプリ2013』 1,580キャラ中、第18位 『ゆるキャラ®グランプリ2014』 1,699キャラ中、第16位 ※女の子キャラとしては、全国1位!!内部の壁には市民の作品であろうか、絵画等の作品が展示されていた。「七重の塔」のミニチュア。市民からの寄贈品のようであった。「住みたい 住み続けたいまち 海老名」。絵画がここにも。「ともに認め合うまち・海老名宣言 ~かかわり・つながり・ささえあい~海老名市は、 あらゆる障がいへの差別をなくし 、人としての権利が守られ、障がいがあってもなくても、誰もがその人らしく安全・安心に暮らすことができるように、ともに認め合うまちをめざして、次のことを宣言します。一 「障がい」は決して特別なことではなく、誰にでも起こり得ることです。 私たちはお互いに、多様な人格と個性・生き方を認め合い寄り添う社会、偏見や差別のない 共生社会をめざします。一 「障がい」ゆえの生きづらさを抱えながら生活している人が大勢います。私たちはお互いに 勇気を持って言葉かけをしていきます。一 海老名市は、「障がい」について関心を持ち、理解を深め、寄り添う気持ちが持てるよう、 ともに認め合うまちづくりを推進します。 」「海老名市の花 PR中!」。「海老名の特産品」も展示されいた。日本酒「いづみ橋」、「えびなの里」。海老名市内で栽培された米、「山田錦」100%を原料とした、吟醸酒。「七重最中」。「杏の実」と「苺風味の牛皮」の2種類で、国分寺の七重の塔がかたどられた、風味豊かな最中である と。「吟味豚」。豚肉は、国内産で、専門家がじっくり吟味したもの。味噌は、アレンジを加えた特製オリジナル味噌。お肉に味噌の味と香りがしっかりとしみ込み、おかずに、ビールにぴったり と。そしてこちらが正面玄関なのであろう。海老名市庁舎の落成記念として市の発展と繁栄を願って制作されたこの記念像。台湾の彫刻家の朱銘氏の作品で、人が両手を広げ大きな心で温かく迎え入れる姿を太極の十字手に倣って表したものであると。「海老名市役所」を後にして、来た道を戻る。途中「コメダ珈琲海老名大谷店」の角を右折して西へと進む。左手にあったのが「神奈川県立海老名高等学校」の正門。相模川に繋がる水路を渡る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.22
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【海老名市歴史散歩】 目次「観音通り」を南に進むと左手にあったのが「大谷観音堂」。入口左には「大谷はやし連屋台収蔵庫」。「大谷立木観音」と書かれていたが・・・。この日は蓮座のみが。ネットによると本来はこの様に。改修中なのであろうか?住職が二年がかりで彫り上げたとのことであったが。「立木観音像の由来義功和尚の知り合いに霊感豊かな女性がいた。ある日のこと、お堂にお参りに来た。そして、境内に有縁無縁の観音さまがあるといいねといって立ち去った。平成十八年、境内の元の木を枯らしてしまった。枝を伐り過ぎたのである。「すまないことをした」と和尚は悔やんで、この元の木を見ると「すまん、すまん」と手を合わせて謝っていた。ある日のこと夢に立木観音が現れた。「そうだ 観音様を彫るのが元の木の供養になる」と二年かかって完成させた。その後、霊感女性の言葉を思い出した。「この立木観音は、この境内に必要だったのだ」と。不思議なご縁である。」このお地蔵さんの首から上は、復元されたものであろうか。石段の上に「大谷観音堂」。「大谷観音堂」を正面から。「大谷 如意輪観世音の由来今より八百年前、治承四年(一一八〇年)一月一九日、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じて、この地に観世音を祀り、その信仰によって授かった六人の男子は成人して、いずれも智勇兼備の武将となった。一族の知恵袋といわれた四男重茂は大谷四郎と名乗り現在の大谷中学校所在地に館を構え深く如意輪観世音を信仰して朝夕礼拝を怠らなかった。また攻守の備えを万全に施し、自ら大谷城と称した。麻子は後に尼となって堂宇を守り、当観音堂の山号を麻尼山と称した。光重は宝治二年(一ニ四八年)重直のみ渋谷の庄に残し、五人の男子と一族を引き連れて薩摩の新領地に移ったが、麻尼山如意輪観世音はその後も渋谷一族の尊信厚く、代々一族の女子が住職となった。元亀天正の頃、このお堂は小田原の北條を攻めるため相模に兵を進めた武田信玄の兵火にかかり焼け落ち、慶長年間に再建されたという。本尊如意輪観世音は奈良時代の僧行基の作と言い伝えられ、古くより安産と子育ての守り本尊として信仰され、毎月十九日の縁日には近郊近在は無論遠く甲州、武州方面からの参拝者も多かった。正面、虹梁上の竜は彫匠入神の作といわれ、夜毎に池の水を飲みに下りるので、眼に釘を打って虹梁上に止めたという。隣の十王堂の前の疣とり地蔵尊はその足元の石で疣をこすると知らぬ間に疣がなくなるというので祈願する人が多い。疣が取れたら新しい清浄な石を添えてお礼のお参りをすると言い伝えられている。左手の藪の中には、別に当時、清願寺があったが、明治の初期に廃寺となり、その建物は、中河内の吉祥寺に移されて現存している。」「大谷観音堂」。「新編相模国風土記稿」では、寺名を清眼寺、山号を摩尼山、総持院(海老名市河原口)の末寺としています。本尊を地蔵とし、観音堂があったことが記録されていて、現在はこの観音堂のみが残っています。作風から江戸時代作と考えられる如意輪観音坐像が2体、江戸時代中期作と考えられる地蔵尊像が安置されています。また、「笑う閻魔様」として親しまれている木造閻魔王坐像は寛保3年(1743)に江戸中橋一丁目の仏師・渡部によって造立され、天保12年(1841)に江戸浅草の仏師・舛上儀平國信が修理し、嘉永2年(1849)に鎌倉扇谷の仏師・三橋永助も修理したことがわかっています。大谷観音堂には1.水飲み龍、2.枕返しのお地蔵様、3.のぞき小僧、4.相生の榧、5.笑う閻魔様、6.乳房のイチョウ、7.イボトリの地蔵様といった「摩尼山の七不思議」という話が伝えられています。ガラス戸の中には様々な手書きの短歌、俳句が。扁額は「摩尼山」。安置されている、江戸時代中期作と考えられる地蔵尊像、同じく江戸時代作と考えられる如意輪観音坐像、不動明王、弘法大師の写真が展示されていた。「大谷観音堂」の壁には多くの有名人の言葉が、手書きで掛け軸のごとくに。左の3本は住職の手のものであろうか?達磨の姿が。「子供を叱るな来た道じゃ年寄り笑うな行く道じゃ来た道行く道ひとり旅 みんな来た道行く道じゃこれから通るきょうの道 通りなおしのできぬ道」「子供の世話にはなりたくないが、子という字が懐かしい」。「大谷観音堂」の正面の上部には天女の舞う姿が(右)。以前はもっと色彩が豊かだったのであろう。「大谷観音堂」の正面の上部には天女の舞う姿が(左)。「掲示板」。「NHKのテレビ・ラジオで放映・放送された大谷観音堂小林義功住職の法話」の放送年月日が記載されていた。「大谷観音堂のカヤ」このカヤは二股に分かれて聳えている相生のカヤ。その傍らには銀杏の大木もあり、秋には「九里の土手」を背景に黄葉が映え、美しい光景を作り出してくれると。「かながわ名木100選大谷観音堂のカヤ 和名:カヤ(イチイ科)」幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。「相生のカヤ」とも言われて親しまれている。樹高 20メートル胸高周囲 7. Oメートル樹齢 約400年(推定)カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。樹高35メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。」「海老名郷土かるた 「ね」」「根を張った 相生の榧(かや)に 観音堂」。隣りにあった「えんま堂」。正面左の疣(イボ)とりの地蔵様。足元にある小さな石でイボをこすると、イボが取れるとのことであったが小石が見つからなかった。台座には「天保十三壬寅歳(1842)十二月吉日」と刻まれていた。堂内の閻魔様。近づいて笑う閻魔様の姿を。「笑う閻魔様」として親しまれている木造閻魔王坐像は寛保3年(1743年)に江戸中橋一丁目の仏師・渡部によって造立され、天保12年(1841年)に江戸浅草の仏師・舛上儀平國信が修理し、嘉永2年(1849年)に鎌倉扇谷の仏師・三橋永助も修理したことがわかっているのだと。「笑う閻魔様」。観音様の隣りにある閻魔堂には、不思議な閻魔様があります。閻魔様は、うそをつくと舌をぬく、とよくいわれますが、ここの閻魔様は、悪いことをしてもいないのに、悪いことをしたと疑いをかけられた人が無実を訴えると、その人に笑いかけるので「笑う閻魔様」といわれ、昔から村人たちに親しまれています。江戸時代に、天保の大飢饉といって農作物がとれない年が五年も続いたことがありました。大谷に住むまずしいお百姓さんのせがれが、実った稲を盗んだというので、年老いた両親といっしょに村を追い出されることになりました。身におぼえのない若者は、「私はやっていません」と無実を訴えましたが、閻魔堂の前でみんなの裁きを受けることになりました。若者は閻魔様の前に進むと「本当にうそを見破って裁く閻魔様なら、私が稲を盗んだかどうか裁いてください」と訴えました。この時、閻魔様は、大口をあけて笑い、「本当の悪人を今あぶりだしてやる」そういうと、口から火を三メートルも吹き出しました。その炎は一番後ろにいた、いつも「正直者よ」といわれているお百姓さんの髪の毛をぢりぢりと焼きました。その男は苦しみながら「盗んだのは私です」と言うと気絶してしまいました。現在は古くなってしまって、閻魔様の木像も昔のおもかげは見られませんが、そのお顔は、やましい心を持った人が見ると怒っているように見え、心正しい人が見ると笑っているように見えると言い伝えられています。」「直司さんが書かれた話」。閻魔様は、うそをつくと舌をぬく、とよくいわれますが、悪いことをしたと疑いをかけられた人が無実を訴えると、その人に笑いかけています。江戸時代に天保大飢饉といって農作物がとれない年が◯◯・・◯れが実った稲を盗んだというので、年老いた両親といっしょに村を◯◯・・◯せん」と無実を訴えましたが焔魔堂の前でみんなの裁きを受け◯◯・・◯って裁く閻魔様なら私が稲を盗んだかどうか裁いてください」と訴え◯◯◯・・◯やる」そういうと、口から火を三メートルも吹き出しました。その炎は一番後◯◯・・◯ました。その男は、苦しみながら「盗んだのは私です」と言うと気絶して◯◯・・◯見られませんがそのお顔はやましい心を持った人が見ると怒っている◯◯・・◯っては目元口元が何となく笑っているように見えるのは不思議なことです。」「いぼとり地蔵いぼは厄介なもので、なかなか取れないまま数も増えていく。このお地蔵様の足元にある小石を一つ持って帰り、いぼをこすっていると、そのいぼが自然に取れる。取れたら新しい小石をもって御礼を申し上げて地蔵さんの前に置いておくのだといつの頃からか信じられてきた。」。「閻魔堂」と「大谷観音堂」を見る。境内の石仏。こんなアートなものも。'84 す・き・まシリーズ あ・うん 井上玲子 2001年設置 アルミニウム。アルミの芸術作品越しに「焔魔堂」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.21
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【海老名市歴史散歩】 目次「妙常寺」を後にすると、右手にあったのが「旭たちばな幼稚園」。「妙常寺」が運営する幼稚園のようであった。「大谷小学校西側」交差点を右折して進む。「自然と歴史のさんぽみち」。少し進むと右手にあったのが「宇賀神」。海老名市大谷北4丁目13。内陣の石仏。「宇賀神」とは古来、福徳をもたらす福の神たちの総称で、食物神、農業神ともされる。幸福、利益、知恵、財力の神とされている弁財天と合体して宇賀弁財天とも呼ばれ。「宇賀神」はしばしば弁財天の頭部に小さく乗る。海老名市大谷北4丁目4の住宅街を進むと竹藪の中にあった神社。稲荷神社であろう。更に西に進み、南に折れて進むとあったのが「海老名市消防団 第貳(ニ)分団」。海老名市大谷北3丁目32−21。その奥にあったのが「大谷公民館」。海老名市大谷北3丁目32−22。「大谷公民館」案内板。「大谷公民館」前にあった「庚申塔群」。海老名市大谷南2丁目8。カーブの左手、一段高い場所にあった石塔。手前に石祠。更に西に進むとここにも小さな社が。これも庚申塔であろうか。下部に三猿の姿が。さらに次の目的地「大谷八幡宮」に向かって進む。右手に見えて来たのが「大谷八幡宮 (おおやはちまんぐう)」。階段下にあった「鐘楼」。「梵鐘」には「平和の鐘」と。「御大典記念」と。その横にあったのが「招魂碑」。「村社八幡」と刻まれた石碑。石段を上って行った。「社殿」大谷八幡宮の創建年代等は不詳ながら、元禄年間に創建と推定され、下大谷(大谷南)の鎮守として祀られていた。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格した。「大谷八幡宮について祭神 誉田別命(ほむだわけのみこと・応神天皇)本殿は宝暦七年(一七五七年)七月に建立されたものですが、創立は元禄年間と思われます。明治の初め、京都男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧進し、下大谷の鎮守として再建されました。明治六年(一八七四年)十二月村社に列せられました。大正四年(一九一五年)九月十五日に村社八幡宮となり、昭和六十一年三月二十四日に大谷八幡宮と神社本庁より改称許可がありました。」「内陣」。「社殿」の左横にあった石碑群。かなり歴史のありそうな石碑が並んでいたが。地神塔(右)・第六天(真ん中)。「神楽殿」か。コロナ禍前にはこの場所で毎年地元の方々による「大谷歌舞伎」が行われていると。農村素人歌舞伎は、少なくとも江戸時代後期には始まり、各地区で盛んに地芝居が行われていた。昭和初期に中断したが、終戦後昭和21年頃、蛭間座の女形・中村時次を師匠に戦地から復員してきた大谷地区の青年たちが、「文化の灯を」」と復活させた。昭和44年10月に、歌舞伎のほか、囃子と舞踊の3つから構成される「大谷芸能保存会」が結成された。また、昭和50年には「大谷歌舞伎」として市重要無形民俗文化財に指定され、昭和52年には「かながわの民俗芸能50選」にも選ばれた。大谷八幡宮、大谷神明社例祭等での奉納のほか、隔年で「市民文化祭」にて公演されている と。「本殿」を見る。境内には銀杏が所狭しと。「道祖神」碑。「社務所」。道路脇には石祠が。5円玉が奉納されていた。そして県道407号線・杉久保座間線に出て右手に折れると右側に石鳥居が二基並んでいた。石鳥居の奥に石碑群が置かれていたが社の姿はなし。隣側には小さな社が。詳細は不明であるが。ここが「神遊苑(大六天社を含む)」と呼ばれる場所であろうか。海老名市大谷南2丁目3。「内陣」。そして道路の反対側にあったのが「鈴木三太夫霊堂」。貞享元(1684)年大谷村の名主鈴木三左衛門(三太夫は諡号=おくりな)は領主の旗本町野幸重の厳しい年貢に村人が苦しんでいることを見かねて、幕府に直訴を企てましたが、事前に発覚し捉えられ、今里にある代官所で斬首されました。この話は、大谷村で語り継がれてきました。昭和13(1938)年地域の方が「鈴木三太夫頌徳碑」を建てることになり、郷土史家中山毎吉氏が撰文を草稿しましたが、戦時下の当局の圧力で刻まれませんでした。中山氏の撰文は当地の児島家に残され、これを元に小島直司氏が分かりやすくまとめたものにより昭和48(1973)年に大谷自治会によって現在の頌徳碑が建立されました。処刑場跡は、中央農業高校内にあり、記念碑が残されています。その横に石碑と案内石板が。「義民 鈴木三太夫翁之碑」。「義民の伝記この大谷の土地は、昔は海老名郷大谷村と言い、江戸開府以来幕府の直轄地で、水田ばかりでなく肥沃な畑にも恵まれ又平地林も多く、村人たちは富裕で平和な暮らしをしていました。ところが延宝2年、町野壱岐守幸宣が領主となってからは年貢の割り当てが重くなり、その取立ても厳しく、農民の生活はだんだん苦しくなりました。その子幸重の代になると加徴(かちょう)は更に重くなり、打ち続く凶作に苦しむ百姓から情け容赦もなく米を取り上げ、領民は草の根や木の皮で飢えをしのいでいましたが、体力のない老人や子供はばたばた死んでいきました。鈴木三左衛門(三太夫は諱号(しごう))という方はその時の大谷村の名主で、度々殿様に農民の苦しさを訴えて、年貢の取立てを待って貰いたいと嘆願されましたが、聞き入れて貰えず、却って年貢の納められない者は入牢という厳しさとなりました。万策尽きた名主は強訴(ごうそ)という非常手段を計画されましたが、密告する者があって事前に捕らえられ、二之助三之助という幼い二人の子供と共に、貞享元年4月27日今里の処刑場で(現在県立中央農業高等学校々地内)で斬首の極刑を受けられ、夫人は自害して果てられました。菩提寺妙常寺の住職は赦免の嘆願に馬を駆って刑場に走ったが間に合わず、後に父子三人の遺体を寺内の墓地に厚く葬りました。しかし天命というか因果応報というか、まもなく領主幸重は領民を苦しめた罪で領地を没収され家名は断絶しました。そうして元の平和な生活ができるようになった村人達によって、一家をあげて村のために命を捨てられた事実は涙と共に語り伝えられました。一身一家を犠牲にして郷土のために尽くされた鈴木三左衛門翁の功績をしのんで昭和13年大谷の有志が翁の屋敷跡であるこの地に碑を建て、更に昭和27年には霊堂を建ててその霊を祭りましたがこの度浄財を募り霊堂修復するに当り、翁の徳と義挙が正しく後の世に伝わるようその一部を割いてこの碑を建てました。」「郷土かるた 「の」」「農民を かばって義民 三太夫」「義民 鈴木三太夫翁之碑」の裏の民家の庭には子供一同からの「長寿の碑」が置かれていた。「長寿の碑児島スギ 明治三十一年五月十日長年にわたり困難なる時世を乗越えて家業に精励し九十歳の星霜を経たり慈に祝碑を建て之を記念するものなり昭和六十三年十月吉日 子供一同平成十八年三月二十三日 スギ 百九才」「大谷八幡宮入口」を渡り更に南に進む。そしてバス停「大谷宿」前を通過する。この場所は「観音通り」と呼ばれているのであった。大山の山頂がかろうじて見えて来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.20
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に訪ねたのが「大谷神明社」。入口には大きな銀杏の木が。海老名市大谷北2丁目13−22。笠木に当たる部分が苔むした石鳥居。「神明社祭神 天照大御神 豊受大御神このお宮は大永八年(一五ニ八)本願勧進井田入道浄源、大檀那地頭代、須田與三左門吉平等の創立によるものである。往古は渋谷荘大谷郷総社であった。慶安ニ年(一六四九)社領八石の御朱印を附せられ、明治6年(1873)村社に列せられた。創立以来社殿は6回建て替えられている。現在の本殿は昭和4年に再建されたものである。」石鳥居を潜ると右手には「鐘楼」があった。小ぶりの梵鐘であったが。急な石段を上って行った。境内。「掲示板」。建物の中に安置されていた「境内社」。須賀神社、稲荷社、住吉神社、東照宮。こちらにも境内社・「三峰神社」が。「大谷神明社」の社殿。扁額「神明社」。「内陣」。「神楽殿」。「松壽舎」。扁額「松壽舎」。「内陣」。次に隣りにあった「天照寺 福壽院」を訪ねた。寺号標石「大谷山 天照寺 福壽院」。石段を上って行った。「本堂」。慶韵(天文8年1539年寂)が開山となり、当地に創建したと伝えられる。本尊:正観音像海老名市大谷北2-13-25。扁額「福壽院」。「宝篋印塔」。「功徳聚塔」。「仙波乗正殿」碑。「寺務J所」(左)と「神明神社」?(右)。Googleマップには「神明神社」とあるが。裏の墓地の前にも石仏が。観音像。弘法大師像であろうか。「本堂」を墓地から見る。「天神社」。小さな社殿。そして次の目的地の「妙常寺」に向けて海老名市浜田町22−9の住宅街を進む。花が溢れる民家。そして「妙常寺」の墓地側から境内に入る。「貞享元年(1684年)四月二十七日 義民 鈴木三太夫翁之墓」への案内碑。ここにも案内碑が。ここが「鈴木家」の墓。鈴木三太夫は、この相模国海老名郷大谷村の名主であった。本名は鈴木三左衛門であり、死後にその偉勲を称えて三太夫と号せられたとされている。延宝2年(1674年)、もともと幕府領であった大谷村は旗本の町野幸宣に下賜されたことにより、町野幸宣が領主となった。町野幸宣の政は厳しく、増え続ける年貢により民百姓の暮らしは困窮したものの、10年近くたった天和3年(1683年)には子の町野幸重が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しいものとなり、凶作となってもその苛烈さはとどまらず多くの餓死者まで出る有様であったという。これを見かねた鈴木三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てた。しかし、何者かによって事前に密告されてしまったためにあえなく捕えられ、貞享元年(1684年)4月、現在の中央農業高等学校の校内に位置していた今里代官所で斬首の刑に処せられたのである。これが鈴木三太夫の墓石だったのだろうか。鈴木三左衛門には子が2人いたが、いずれも同罪として同じく処刑され、事前に離縁していた妻も自害してしまったとされ、鈴木三左衛門父子の亡骸は近くの妙常寺の住職に引き取られてねんごろに葬られ、今でも墓が残されているのを見ることができるのであった。「妙常寺」の「本堂」。長現山と号す。妙常寺は、常住院日任が文明元年(1469)に創建したと。「掲示板」。「報恩感謝社会のしくみは、自分ひとりではなにもできない。同時に、衣食住のすべてに自の恵みがなかったら一日も生活ることはできない。つつましい心で社会や自然に接する心をそだてよう。」「日蓮聖人像」。近づいて。厳しいお顔。題目塔「南無妙法蓮華経」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.19
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【海老名市歴史散歩】 目次「鳳勝寺」を後にして、すぐ隣りにあった「八坂神社」を訪ねた。「移住記念碑」。八坂神社の創建年代等は不詳ながら、旧津久井郡日連村勝瀬(現在の相模原市緑区日連)で祀られていたが、相模川上流域のダム建設(現在の相模湖)により昭和17年から19年にかけて住民が移住し、旧津久井郡日連村勝瀬で祀られてきた当社も昭和20年に当地へ遷座したと。石段を上って行った。石段の上には石鳥居が。右手にあったのが「八坂神社由緒」。「八坂神社由緒祭神 須佐之男命当神社は、流行病、自然災害、大火等にたびたび見舞われ、これを鎮めるため、また住民の心の支えとして、江戸時代後期に旧日連村勝瀬の地に創建(創建年月は不明)されました。本殿は、一間社流造り柿葺きで、総欅木地仕上げの建物であり主屋両側と背面の壁を日本神話より採った彫刻で、正面両脇壁は上り龍と下リ龍の彫物などて飾られ、大変貴重なものです。明治四十一年一村一社の府令により、日連神社に合祀いたしましたが、神川県河水統制事業の相模ダム建設により、住民の移住が昭和十八年までに終了したことによリ、当神社も昭和ニ十一年五月三十日 日連神社よリ分祀され、神川県高座郡海老名村(現、神奈川県海老名市勝瀬九番一号)に遷座されたのであリます。昭和五十三年覆殿老朽のため改築され、同時期に移住記念碑を建立いたしました。平成三十一年三月十九日宗教法人の認証を受けて宗教団体勝瀬八坂神社より、宗教法人八坂神社として、本来の形式を整えることができました。宗教法人に認証されたのて、氏子一同の厚い信仰と教義の普及に努めるど共に、目黒流太鼓や里神楽等を伝承し、住民の精神文化を伝える役割を果たしてまいります。記一、境内整備工事 (擁壁・階段・参拝通路・駐車場他) 千七百九十万円 同 測量設計費 百四十八万円一、覆殿新築工事 六百八十万円 同、設計管理費 五十六万円一、鳥居建立工事 三百十八万円一、手水舎新築工事 三百七十万円一、神輿舎新築工事 三百四万円一、水道工事 二百五十万円一、外棚設置工事 百八十七万円一、神社用備品他 百二十五万円一、諸経費 四百四十万円一、水神社再建工事 百八十四万円前記工事は、旧勝瀬共有財産管理組合からの寄付 令和元年十一月吉日」石鳥居を潜る。扁額「八坂神社」。「手水舎」。「海老名市指定重要有形文化財八坂神社本殿勝瀬地区は、相模川上流域のダム建設(現在の相模湖)により移住を余儀なくされた旧津久井郡日連(ひづれ)村勝瀬 (現在の相模原市緑区日連)の住民約三十戸が昭和十七年から十九年にかけて当地に移住して村落を存続させた場所で、村社であった八坂神社本殿も、昭和二十年に旧地より移転されました。本殿は、一間社流造り柿葺き、総欅・木地仕上げの建物で、屋根の正面に千鳥破風と軒唐破風をつけ、壁面と小壁を日本神話や物語、龍や松に鷹といった動植物の彫物で飾っています。このような細部意匠などから、江戸時代末期、 十九世紀中頃の建築と推定される良質の建物であり、産土の地である日連村勝瀬より移転した住民の精神文化を伝える貴重な建造物です。」境内にある「御神木 赤松」を見上げる。「御神木 赤松」。「社殿」。扁額「八坂神社」。「旧勝瀬共有財産管理組合の経緯」。「百万遍」碑。郷土かるた 「う」「移り来た 勝瀬とともに 鳳勝寺」。石段を下り、「鳳勝寺」山門入口前を通過すると右手にあったのが「水神社」。「鳳勝寺」、「八坂神社」を後にして「八坂神社」の脇の坂道を上って行った。「山王坂」を上り、先程訪ねた「浜田三塚公園」の前の道に出て、ここを右折して進み次の目的地の「浜田歴史公園」に到着。「自然と歴史のさんぽみち」、ここは「浜田歴史公園」。相鉄バス停「浜田歴史公園」。海老名市浜田町六丁目の「住居表示街区案内図」。「県指定史跡 上浜田中世建築遺構群」案内板。「県指定史跡 上浜田中世建築遺構群この建築遺構群は、南北に伸びた丘陵東側斜面の谷戸地形を利用して、ニ段の造成面に掘立柱建物跡8棟・竪穴状遺構1基・溝状遺構6本・井戸1基・柵列5本・土杭等が造られていました。これらの建物跡は、三回の建替えが行われており、時代的には、中国や朝鮮からの輸入品や国産の陶磁器類等の出土品によって、鎌倉時代から室町時代(1 3世紀中葉~15世紀中葉)にかけて営まれていたことがわかりました。特に掘立柱の建物跡は、主屋・附属屋・厩屋等から構成された複数の建物配置をなしており、これらは当時の武士階級の住居であることを示し、中世建築史を遺構から知るうえでも貴重な遺跡です。また、この地域が中世の渋谷荘に属し、渋谷一族の大谷氏との関連性もうかがわせます。なお、丘陵には、縄文時代の遺構や古墳、奈良から平安にかけての集落跡がありました。」「発掘調査状況」の写真。「15世紀中頃~後半の建物配置」図。建築跡遺構は主屋、付属屋、厩で構成され、鎌倉時代から室町時代にかけての武士階級の住居跡。Googleマップから。「主屋」跡。「主屋」。「厩屋」跡。「厩舎」と表示されていた。「附属屋」跡。「附属屋」上空には海上自衛隊・厚木航空基地へ向かう海上自衛隊航空機の姿が。芝生の中に「柵列」。「柵列」。「井戸」。「井戸」。「えびな郷土かるた 国分寺台・大谷コース案内」板。そして「浜田歴史公園」の角にあった「浜田町」交差点を横断し西方面に坂を上って行った。海老名市浜田町8の住宅街を西に向かって進む。海老名市街が正面に見えて来た。そして左折して「上浜田古墳5号墳(太鼓塚古墳)」に向かったのであったが、案内板は全く無く、角には荒れ地が残っていた。この奥に「上浜田古墳5号墳(太鼓塚古墳)」があるはずであったが・・・。海老名市大谷北2丁目25。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.18
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【海老名市歴史散歩】 目次「上浜田古墳群」を後にして、前にある「鳳勝寺」の墓地への入口(裏門)から入る。寺号標石「曹洞宗 春日山 鳳勝寺」。墓地の中にある坂道を下って行った。裏門は小高い丘の上にあるので見晴らしが良かった。「本堂」は傾斜地の下にあり、傾斜地は棚田のような墓地になっていた。左手にあったのが竹塀の山門。寺の奥の院であろう。垣根は「大徳寺垣」であろうか。孟宗竹の枝を綺麗に左右に裁いて、一ヶ所節を揃える竹穂垣の最高峰の一つ。「随流居」。こちらは「鎧垣根」の如き姿のものが展示されていた。そして左手には「本堂」の屋根が。右手の墓地の高台に「鐘楼」。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。仏の姿が刻まれた多くの石塔が並んでいた。「五重塔」。「六地蔵」。「鳳勝寺百観音」。「鳳勝寺百観音」碑。「観音像」。宝珠ではなく玉を持つ観音像。お顔をズームで。そして左に折れると左側にあったのが「鳳勝寺」の「本堂」。「水子地蔵尊」。お顔をズームで。「覚道水子 妙道水子 法道水子」の文字が。「本堂」。昭和17~19(1942~1944)年、相模湖ダム建設により水没する旧津久井郡日蓮村勝瀬(現・相模原市緑区藤野町)が海老名に集団移転することになった。鳳勝寺は、勝瀬の住民とともこの地に移転。「新編相模国風土記稿」では、山号を春日山、功雲寺(相模原市緑区根小屋)の末寺とされている。本尊は、木造釈迦三尊像で、釈迦如来坐像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩坐像いずれもその作風から江戸時代前期に造像されたと考えられている。また、宗風の宝冠釈迦の形態をもちその作風から室町時代南北朝期(14世紀)に造像されたと考えられる木造釈迦如来坐像、江戸時代後期に仏師宗女によって造像されたと考えられる阿弥陀如来坐像、いずれも江戸時代と考えられる達磨大師像や大権菩薩像、韋駄天像、十二神将像なども安置されている。創建時代は不明だが、開山は法泉(?~1521)と伝えられることから室町時代中頃に建立されたと考えられる とのネット情報。扁額「鳳勝寺」。賽銭箱には「福聚海」の文字が。仏語。観世音菩薩の福徳が広大無量であることを、海にたとえた語。「五重石塔」を境内から。台座の彫刻を追う。自然の姿が描かれていたが・・・。「寺務所」。「春日山鳳勝寺の碑」。「当山の開創縁起倶に審かならず 僅かの記録と伝承とによってその一端を記す 今より約四百五十年前大永年間法泉庵主と稱する人湘南村(現津久井町)より一族を率いて日連庄勝瀬村に移り草庵を結ぶ 庵主輜素の別弁ぜずと雖もこの日とを以って開基と為す 百三十年後本能恵松和尚当寺を建立す開基悟空清頓居士一柑妙純大姉とはこの時の寄進者の芳名なるが 松和尚津久井根古屋功霊寺十一世達燈州演和尚を開山に請す これより当山は曹洞宗に属す 十世大翁峰全和尚の砌り岡部政右衛門氏の寄進により現存の本堂並びに開山堂鐘楼山門を建立す 昭和十六年第二次世界大戦勃発の前後相模人造湖達成の為勝瀬の大半湖底に埋没しこの地海老名に強制移転せしめらる 十四世近藤担山和尚の時なり 担徒三十戸の協力により辛うじて本堂のみを移す この時担徒の七割は離担す 昭和四十五年十七世横浜市法昌寺より普住 直ちに寺有の田地を処分して債権の事に当る本堂の修復並びに書院庫裏を完成す 昭和五十年十月なり次いで相模湖畔に残存せる旧境内地墓地山林を整理して若干の資を得第二期工事に入り山林を造成して新墓地を作り更に本堂の再修復並びに開山堂鐘楼の改築及び客殿東堂寮を新築す 昭和五十九年十二なり 今亦鳳勝寺百観音と五重壽量塔(北尾氏寄進)の建立を見る 本日を以って開眼 法要を営弁す 此れ当山の沿革の大略なり」寺紋であろうか。単弁八葉蓮華紋に似ているが。屋根の最頂部には「山号」の「春日山」が。蟇股には「丸に五三の桐」紋。境内から「鳳勝寺百観音」を再び。寺の女性?が境内の銀杏を拾っていました。どの様にされるのでしょうか?そして「山門」。「山門」の前には多くの石碑が並んでいた。「三界萬霊等」。「三界萬霊等」は、この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのもの。「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界。「欲界」は、もっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域である「六趣(ろくしゅ)」、「六道(ろくどう)」があり、欲界の神々(天)を六欲天という。「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界をいう。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別される。「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界をいう。ここの最高処を「有頂天(うちょうてん)」という とネットから。小さな社。別の小さな御堂の中の石仏。隣にも。「小野澤徳太郎之碑」。「禁山門葷酒」碑。こちらにも石碑が並ぶ。右側。左側。首のない地蔵や馬頭観世音等に交じって自然石の「百万遍供養塔」や文字塔「日本廻国六十六部供養塔」等があった。「馬頭観世音」碑。明治三十年四月の銘が。「百万遍」碑。「岡部翁頌徳之碑」「故舟戸廣次氏頌徳の文」碑。相模川左岸の農業水利開拓に貢献した人物のようであった。「廿三夜」塔。旧暦23日の夜、すなわち二十三夜に講員が宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。三夜様とも三夜供養ともいい、月待行事のなかでも最も盛んに行われた。月待のマチは,神のかたわらに待座する意味らしく、この夜には神の示現があると信じられていた。講は、村の小字、村全体、任意の者などを単位としていたが、女性、とくに嫁仲間で結成されることが多い。地方によっては、二十二夜を女性、二十三夜を男性の集りとする所もある と。そして寺号標石「曹洞宗 鳳勝寺」。「山門」を振り返る。左に石碑群。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.17
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【海老名市歴史散歩】 目次「自然と歴史のさんぽみち」は、ここが「ひさご塚公園(市指定史跡瓢箪塚古墳)」であることを教えてくれた。海老名市国分南3丁目30。海老名市国分南3丁目~4丁目の「住居表示街区案内図」。右手前方に「ひさご塚公園(市指定史跡瓢箪塚古墳)」への石段が現れた。「ひさご塚公園」案内板。石段を上って行った。正面に「瓢箪塚古墳」が現れた。海老名市国分南3-1055。「瓢箪塚古墳相模川とその両岸の平野を見下ろす、ここ座間丘陵上には、7基の古墳が確認され、上浜田古墳群を形成しています。上浜田古墳群は、円墳、方墳・前方後円墳からなる4 ~ 5世紀代にかけての古墳群であり、瓢箪塚古墳は同古墳群内で現存する唯ーの前方後円墳で、市内最大の古墳です。瓢箪塚古墳は、地元では「ひょうたん山」と呼ばれ、古くから親しまれてきました。また、明治4 3年には郷土史家中山毎吉(つねきち)によりその著作『神社名勝古蹟誌』のなかで、瓢箪塚古墳の計測結果が記されるなど、古墳としても古くから認識され、大正8年には、当時の海老名市村が墳丘部分を保存のために購入し、村有地としました。平成8年の発掘調査の結果、神奈川県内では最古級とみられる埴輪片が出上し、4世紀から5世紀初頭にかけて造られた古墳であることが判明しました。造られた当時は前方部がもう少し南に延び、墳長80メートル級の規模であったろうと推定されます。」「瓢箪塚古墳推定復元図」。全長約80m、海老名市内最大の前方後円墳。1996(平成8)年の発掘調査で埴輪片が見つかっている。「郷土かるた 「ま」」「松風に 豪族ねむる 瓢塚(ひさごづか)」。「瓢箪塚古墳」を上って行った。苔が生えて滑りやすかったが。そして「瓢箪塚古墳」の頂上へ。秋葉山古墳群のあとに造営されたとみられる県下でも有数の規模を誇る大規模な前方後円墳。眺めの良さから古墳築造の地に選ばれたものと考えられていると。1933年以降東側を中心に削り取られ、現在前方部先端は失われているのだと。「海老名芸術プロジェクト・甘利真美」のオフィス。「リーフィアタワー海老名ブリスコート」&「同アクロスコート」が見えた。地上31階建て、海老名市最高層タワーマンション。そして次に右手前方の「上浜田6号墳」を訪ねた。県道のひさご隧道の上に位置し、住宅地の中の路地を入ると袋小路になったところにフェンスに囲まれてかろうじて残っているといった感じであった。「上浜田古墳群第6号墳(上浜田6号墳)この付近には瓢箪塚古墳を始めとする6基以上からなる古墳群があり、字名から「上浜田古墳群」と呼んでいます。上浜田古墳群には7号墳の北側や5号墳の南側にも古墳があったといわれ、相模川流域では屈指の古墳群です。上浜田6号墳は、発掘調査により周溝の一部が見つかり、一辺が22m程度の方墳であったと推定されています。出上した壺形上器から4世紀に築造されたこの地域の豪族の墓と考えられています。」上浜田古墳群全体図(地形図は1965年当時)6号墳平面推定図。6号墳の頂上の発掘跡はシートで覆われていた。左手に「海老名プライムタワー」・地上25階、107.8m高。更に南下して「浜田三塚公園」に向かって進む。「自然と歴史のさんぽみち」はここが「三塚公園」であると。「大山」の頂上は依然として雲に隠れていた。ここが、この後に訪ねた「曹洞宗 春日山 鳳勝寺」の墓地への入口(裏口)。左手に目的の「浜田三塚公園」入口があった。「浜田三塚公園」。そして正面が「上浜田1号墳(馬捨塚)」。「三塚(上浜田古墳群 第1~3号墳)」案内板。この付近には瓢箪塚古墳を始めとする上浜田古墳群があります。上浜田古墳群は、4 ~ 6世紀にかけて築造された相模川流域屈指の古墳群です。-------このうち1 ~ 3号墳が近接していたことから「三塚」と呼ばれ、浜田町区画整理事業のなかで1・2号墳が現状保存されて「浜田三塚公園」となっていますが、1号墳(馬捨塚)、2号墳ともに未調査のため墳形や年代は不明です。3号墳は、昭和48 (1973 )年の発掘調査の時にはすでに墳丘が失われていましたが、直径約35 ~ 36mの周溝が確認されました。この周溝から径30m前後の円墳と推定されていますが、出土遺物は無く、築造年代は不明です。平成14 (2002)年の発掘調査て2号墳の西側にあった4号墳は、中世の塚てあったことが確認されています。浜田三塚公園の南側には上浜田遺跡があり、浜田町区画整理事業に先立って発掘調査が行われました。この発掘調査て縄文時代早期の土坑基3基と滑石製缺状耳飾が埋葬した時の状態で出土し、使用方法がわかる事例として貴重であることからこの耳飾6点が神奈川県指定重要文化財になっています。また、奈良~平安時代の竪穴住居跡116軒、掘立柱建物跡1 6棟も見つかり、相模国分寺で使われていた瓦や「進入」と書かれた墨書土器なども出土しています。谷戸の部分からは鎌倉~室町時代の武家屋敷跡と推定される建物群が確認され、中国や朝鮮からの舶来品の陶磁器、国産品の陶磁器などが出土しています。この建物群は、中世武士に関わる貴重な遺構として神奈川県指定史跡(浜田歴史公園)として保存されています。」「上浜田古墳群」の配置図。「上浜田遺蹟」の発掘調査状況と出土品。こちらの「1号墳」を上って行った。「1号墳」の頂上に。1号墳の頂上の発掘跡も土嚢とシートで覆われていた。そして巨大な「鳳勝寺」の墓地が見えた。そしてこちらが「2号墳」。「2号墳」の頂上もシートで覆われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.16
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【海老名市歴史散歩】 目次次に訪ねたのが「国分八景公園」。海老名小学校の南にある公園。台地の一番上にあることから、見晴らしが大変良く、海老名の市街地や遠く大山・丹沢山を望むことができる眺めのよい場所。公園の名前は、この近くにあった龍峰寺に元禄年間に滞在した鉄牛和尚がここから見える景色を「龍峰寺八景」という漢詩にしたことに由来している。海老名市国分南3-1173-1。「自然と歴史にさんぽみち」公園の入口には四阿が。園内には龍峰寺に元禄年間に滞在した鉄牛和尚がここから見える景色を「龍峰寺八景」という漢詩・八景詩を記したモニュメントプレートが8枚あった。「大山の夕照」、「島間の春耕」、「鴨沢の瞑煙」、「菅社の秋月」、「清水の鐘声」、「湘浦の渡船」、「土峰の晴雪」、「祇林の緑樹」。「大山の夕照」。「大山の夕照遠野煙生晩色濃 遥看大麗夕陽春半如錦纈半如黛 滿目滄瓏千里重遠野けぶり生じて晩色こしはるかに見る大麓にタ陽のうすずくを半ばは錦織のごとく半ばはまゆずみのごとし満目滄瓏として千里かさなる訳大山を臨む夕ばえの景は春のように思われる。野末遠く夕もやが立ちこめて夜のとばりはおりようとしている。見はるかす遠方大山の山麓は夕日が沈むのをためらうがごとく半ばは錦や蝋けつ染めのように美しい色彩を呈しながら、はや半ばはまゆずみのように山の端が黒く細く薄れてゆく。見る見る中に見渡す限りの広い野は青黒く変わって行ってその濃淡が幾重にもかさなりつつ全ての景象を暗黒の中に包み込んで行く。」「島間の春耕」。「島間の春耕漠々平田接縁蕪 春鴻落處秩初敷憑誰乞與ニ三頃 兩笠煙蓑了晩途漠々たる平田、縁蕪に接す春鴻落つるところ 秩はじめて敷く誰によってか ニ三頃を乞い与えられなば、雨傘煙蓑 晩途をおえん訳果てしなく広がる、天平の昔を偲ぶ一帯の水田は緑の森につづいている。春になると雁がねが田に下り立つと田仕事がはじまるのである。誰か私に二三頃の田をくれる人があれば、私は雨の日も蓑笠を着て耕作に従事し晩年をおえようが、まさかそんな人もあるまいて。「鴨沢の瞑煙」。石には「雁」の姿が。「鴨沢の瞑煙 鳴澤渺茫沙路脩 夕陽瞑色一堆愁 曾從圓位遺歌詠 千古令人傷素秋鴫(立)沢渺范として沙路ながしタ陽瞑色一堆の愁かって円位の歌をのこせしより千古人をして素秋をいたましむ訳鴨立沢は遥か霧の彼方に薄れて定かにはわからないが、そこに向かうらしい砂浜の道が一すじ長く見える。夕日が沈むにつれて景色はほのぐらくなって秋のかなしびが胸にしみる。昔、西行法師が「心なき身にもあはれば知られけり鳴き立つ沢の秋の夕ぐれ」と和歌を残してから、後世いつまでも俗人の心にまで秋を悲しませている。」「菅社の秋月」。石には「三日月」が。「菅社の秋月海嶽雲收轉桂輪 上方秋色最清新欲求佳句寫幽賞 蘋潦先羞菅姓神海獄雲おさまって桂輪転ず、上方秋色もっとも清新、佳句を求め幽賞を写さんと欲し、蘋潦まずすすむ菅姓の神に。訳海上の彼方の雲も山のべの雲もすっかり消えうせて、まん丸い月のみ中天に輝く、まことに秋の中空は清新そのものだ。よい句を作ろうとこの月夜の幽賞をほしいままにする道すがら、私はこの天神様まで来てしまった。それでまず浮き草やにごり酒といった粗末な供物を捧げてどうかよい句が出来ますようにとお祈りをする。」「清水の鐘声」。「清水の鐘声清水樓臺遠近晴 隔山聽得□華鯨何人能解發深省 送盡百年是此聲清水(寺)の楼台、遠近晴れ山を隔てて聴き得たり□華鯨(華鯨を鏗くを)なに人をかよく解し深省を発する送りつくす百年、これこの声。訳清水寺水堂観音の堂宇のあるあたりは遠く近くよく晴れて、この竜峰寺からは一山隔てているがその梵鐘の音に耳をかたむけることが出来る。この鐘の音で多くの人々が深い反省を以て信心の念をいだいていたことであろう。まことにこの鐘の声はもう百年も鳴り続いているのである。(さぞ多くの人々を度脱させたことだろう)」。「湘浦の渡船」。「湘浦の渡船溶漾滄□水拍天 行人幾度渉湘川早知世路風波嶮 來往可愛艶預船溶漾たる滄ロ 水 天をうつ行人いくたびか 湘川を渡りしつとに知る 世路風波の嶮なるを来往 愛すべし艶預船訳これは夏の景であろう。相模川は水かさも増し、天を打つ程に流れは激しい。旅人達はさぞ幾度かこの川を渡渉したことであろう。この川をかち渡りするのを思うにつけても、世の中をわたる道のまことに風波けわしいことが思いやられるのである。しかし今は幸いに渡し船があって行くも来るもエンヨエンヨとこの急流を難なくおし渡ってくれる。まことに愛すべき存在だ。」「土峯の晴雪」「土峯の晴雪西嶺千秋積雪繁 雲間湧出到銀盆無涯景況一清絶 倚遍欄干占暁昏西嶺千秋積雪しげく雲閭に湧出しては 齦盆に至らんかぎりなきの景況 いつに清絶なり欄千に倚偏して 暁昏を占む訳これは冬晴の早朝の富士の眺めである。西の峯のいただきには千年の雪が降りつもり、その純白の峯は雲の間を抜け出して丸いお月様にまで届きそう。さえぎるものとてないその景色はまことに清絶の一語につきる。寺の欄干によりそうて暁の暗さの中にくっきりと浮かび上がっているその姿。」「祇林の緑樹」。 「祇林の緑樹鬱密幽叢祇樹林 薫風殿閣滴清陰區々紫陌紅塵外 來此應須洗客心うつみつたる幽叢 祇林の林薫風殿閣 清陰したたる區々たる紫陌 紅塵の外ここに来たりて まさにすべからく 客心をあらふべし。訳うっそうと緑樹におおわれた聖域。今やさつきの快い風が寺の建物を包んで木陰も清く緑したたるばかり。市街地の紅塵万丈の雑踏から遠く隔たったこの境内こそ、ここに来ればきっと旅にけがれた心もすっかり洗い落とされることであろう。」次に訪ねたのが「尼の泣き水跡」であったが、その場所は綺麗に整地されていた。[朝日さし 夕日輝く 国分寺 いつも絶えせぬ 尼の泣水]誰が歌ったものかはわかりませんが、この歌とともに「尼の泣き水」伝説が語り継がれています。天平13(741)年、聖武天皇は人々の平和な生活を願って、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるように命じました。相模国では、風光明媚な土地である海老名の地に建てられることになりました。やがて天をつくような七重塔がある国分寺が建てられ、そこから北に500mほど離れた場所に国分尼寺も建てられました。その頃、国分寺の下を流れる相模川で、魚を取って暮らしていた若い漁師がいました。その漁師はいつしか国分尼寺の尼さんと知り合い、たがいに愛し合うようになりました。尼さんは結婚が禁じられていましたので、2人は人目を忍んで逢瀬を重ねていました。ある日のこと、若者が困った顔をしているので尼さんは何か心配事があるのですか、とたずねました。若者はなかなか口を開かなかったのですが、やがて決心し、七重の塔を含めた屋根の飾りがあまりにまぶしく輝くので魚が逃げてしまい、漁をしても魚が取れないと話しました。尼さんはどうすることもできないので、だまってしまい、2人はさびしそうにその場は別れていきました。その夜のことです。「火事だー。火事だー。国分寺が燃えているぞー」漁師のことを思うあまりに尼さんが国分寺に火をつけたのです。一度燃え始めた国分寺は、消すこともできず、一晩のうちに焼けてなくなりました。尼さんは捕らえられ丘の上に生き埋めにされ、竹のこぎり引きの刑に処せられてしまいました。その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出ました。村人は尼さんが罪をわびて流している涙といって、その湧き水を「尼の泣き水」と呼びました。尼の泣き水は海老名小学校の上の台地にあって、昭和40年代頃まで清水が湧きでていましたが、いつとなく枯れてしまいました。またこの場所に供養塔が建てられましたが、薬師堂(現国分寺)境内に移されています とネットから。海老名市国分南1-25-38。書きながら思い出したが、先程訪ねた「相模国分寺」境内にあった、「尼の泣き水」👈リンクと言われる如意輪観音と尼の供養塔が祀られている四阿(下の写真)が、以前はこの場所にあったが、移されたのであろう。「尼の供養塔」。元に戻って、整地された場所の奥には墓石が並んでいた。墓地の左側。墓地の右側。更に南下していくと右手に高さ108.7mの「海老名プライムタワー」が現れた。1995年6月竣工で、地上25階、塔屋1階、地下1階建ての高層オフィスビル。「海老名市立海老名中学校」手前の右手角にあった石碑群。道祖神を含む3基の石塔。そしてその先にあったのが「龍峰寺跡」。龍峰寺自体は先程訪ねた国分北に移転しており、現在は墓地のみがこの場所にあるのであった。海老名市国分南3丁目10。墓地への参拝者用の駐車場の奥には石仏群と石祠が。石鳥居の奥に「大六天社」があった。「六地蔵」が刻まれていた石碑。こちらにも「六地蔵」が並んでいた。その左にも石仏が。この裏の墓地周辺が「龍峰寺跡」であった。そして「海老名市立海老名中学校」の校舎とグランドの間の道を北上した。このグランドのある場所が「真福寺跡」であると。「真福寺」についてネットで調べたが不明。グランドの広さから大きな寺であったことは想像できたが。Googleマップではこの方向が「幻想城」であるが・・・。「幻想城」とは??「海老名市立海老名中学校」の校門。「吹奏楽部」が活躍中である様子。そして引き返し「海老名中学校入口」交差点を左折して坂道を上って行った。「海老名中学校」バス停を通過。「南原隧道」を歩く。上部は公園になっているようであった。「南原隧道」を抜けて石段を上る。「自然と歴史のさんぽみち」次の目的地の「瓢箪塚古墳」まで120mを確認。「海老名キリスト教会」に寄り道し教会前を通過。「四十坂」を上って行った。「四十坂」の案内柱を探したが・・・。古東海道にかかる坂で、相模国分寺志という書に「古老の伝ふる所によれば、往昔はここに関門の設があって銭四十文を徴し、人馬の通行を許したといふ とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.15
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【海老名市歴史散歩】 目次「海老名の大ケヤキ」の脇道を入り進むと50mほどで「国分寺」への入口の石段が現れた。寺号標石「高野山真言宗 國分寺」。海老名市国分南1丁目25−38。掲示板には「ありがとうの一言が幸せの扉を開く」と。「自然と歴史のさんぽみち」案内板。ここ「国分寺」の下には、これから訪ねる多くの旧跡の名前が並んでいた。石段の入口左に「郷土かるた」の擬木柱があった。「る」、「瑠璃光の 如来あらたか 薬師堂」。境内に向かって石段を上って行った。歴史を感じさせる石塔。この碑は?左に折れると正面に「本堂」と「回向柱」が見えた。本堂の手前、右側の光景。「尼の泣き水」と言われる「如意輪観音」と尼が祀られている東屋風の御堂。常香炉には「輪宝紋」の如き紋があったが・・・。「尼の泣き水」は、漁師と恋に落ちた国分尼寺の尼僧が、国分寺のまぶしい輝きが元で付近の川魚が逃げてしまうとの訴えに、国分寺に火を付けてしまい、刑に処せられてしまいます。その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出し、村人は尼さんが罪をわびて流している涙だと云って、その湧き水を「尼の泣き水」と呼んだと云われています。「如意輪観音」。「如意輪観音」のお顔に近づいて。「尼の泣き水 供養塔」こちらは祈りの姿が。右手には「郷土かるた 「わ」」の「若き尼の 恋物語尼の 泣水(なきみず)」。その左には「六地蔵」。「六地蔵」を正面から。正面に見える鎌倉時代に作られた「梵鐘」は、国の重要文化財に指定されている。「郷土かるた「つ」」「釣鐘は 国分季頼(こくぶすえより)の 銘残す」。「梵鐘 国指定重要文化財国分寺建立の頃薬師堂もこの丘陵の上に設けられ、のち火災等の災害により、この地に移転されたのは、室町時代であったろうといわれています。鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光(もののべのくにみつ)に鋳造させ正應五年(一ニ九ニ年 七〇ニ年前)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時寄進されたのが、この鐘であり大正十二年八月重要文化財として國の指定を受けました。尚、鋳工物部國光は鎌倉円覚寺の鐘(国宝)をも鋳造した人であり、この鐘楼は昭和五十一年三月に完成したものであります。」コンクリート製の鐘楼。国の重要文化財の「梵鐘」。海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光(もののべのくにみつ)に鋳造させ正應五年(一ニ九ニ年 七〇ニ年前)国分寺国分尼寺が薬師堂に移されていた時寄進されたのが、この鐘。国分寺が徳川幕府から朱印状を賜っていたことが関係しているのか?朱印状と共に葵紋の使用許可が出されていた?「本堂」を見上げて。山号は東光山。院号は醫王院。本尊は薬師如来。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、相模国国分僧寺(「金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の後継寺院にあたる。扁額は「国分寺」。聖武天皇の発願によって建立された国分寺の1つで、奈良時代の8世紀中期の創建とされる。10世紀には衰えたが、鎌倉時代に入って一旦修復されたと見られる。しかし室町時代から戦国時代にかけて再び衰微し、安土桃山時代から江戸時代にかけ、ようやく再興された。そして幕末から明治初年にかけて三たび衰えたが、明治時代に復興し現在に至っている と。寺務所であろうか。そして境内の裏にあった「相輪(そうりん)」。なぜ「相輪」のみがここに??そして「相模国分寺」を後にして「相模国分寺」前の道を南下し厚木街道の跨道橋を渡る。海老名駅方面を見る。南に向かって細い坂道を上っていくと道端にあった地蔵様。「正一位稲荷大明神」海老名市中央3丁目11。県道407号線に戻り進む。ここが「しんえむ坂」と呼ばれていた坂のようだ。このあたりの地主だった金子新右衛門という人の名を宛てて「新右衛門坂」と呼んだのが、いつのころからかこれが訛って、「新(しん)(右)衛(え)む坂」となったらしい。海老名市国分南1丁目22。厚木街道に出る。左手に折れ、坂道を上って行く。この坂が「音坂」。「国分坂下」交差点から海老名小学校の北西端までの坂。歩道橋の階段下にあった「音坂」案内柱。「この坂道付近に車井戸があり、朝夕それとなく水を汲む音や油の切れた車の音が、竹林を通して良く聞こえる坂だから「音坂」の名が生まれたと伝えられています。」この付近に「稲荷社」があるはずであったが、この日にはマンションに変わっていた。そして再び「相模国分寺」前を通過。そして次に訪ねたのが「薬師堂跡(旧国分寺)」であったが。草むらのみであった。「薬師堂跡(旧国分寺)」は上の台廃寺とも呼ばれ上の台廃寺は、国分寺跡の南東約150メートル、現在の相模国分寺の裏手にあたる丘陵地にあった寺院跡。近年の開発などで本格的な発掘調査が行われることなく失われてしまった遺跡であるが、わずかに瓦などの遺物が残されている。1963年にわずかに行われた調査などから、相模国分寺の塔跡と同じような礎石跡があったことがわかっており、かなりの規模の寺院があったのではないかと推定されている。そのため上の台廃寺は、878年の地震とそれに伴う火災後、相模国分寺が再建されたものとの説もある。上の台廃寺のあった場所には、かつて薬師堂と呼ばれる建物があったと言われている。薬師堂は戦火や災害によって失われることなく古代のままの建物が残っていたと伝えられており、多くの貴重な寺宝、例えば聖武天皇の宸筆との伝承のあった「金光明四天王護国之寺」と書かれた額が遺されていたといわれている。薬師堂はやがて現在の国分寺がある場所に移築され、現在の国分寺の基となったとされるが、1910年の火災によって焼失した とウィキペディアより。「薬師堂跡(旧国分寺)」の裏には、墓地が拡がっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.14
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【海老名市歴史散歩】 目次「相模国分寺」を後にして直ぐに「厚木街道」の左にあったのが「海老名市消防署第一分団」。海老名市国分南1丁目19−32。消防器具置場のシャッターには「相模国分寺史跡 七重塔」が描かれていた。その先には石碑群・「法塔様」。左から「相模国分寺址保存指定地」碑。次に国分の辻の「文字庚申塔」。1850年(嘉永3年)造立の庚申塔に「西 大山 あつ木」と刻まれていた。次に「堅牢地神塔」次に「馬頭観音」。「相模国分寺址保存指定地」碑と国分の辻の「文字庚申塔」。信号を左折し直ぐ右折して進むと路地の角に小さな社が。「稲荷社」。海老名市国分南2丁目8−10。「内陣」。多くの狐様が安置されていた。そして更に進むと道の脇にはコエビソウ(小海老草)、別名ベロペロネが咲いていた。その先には「伊勢山自然公園」があり「伊勢山大神宮」が山の中腹にあった。「伊勢山自然公園案内図」。近づいて。クスノキやヤマザクラ、ツツジなど多彩な木々があり、整備されていた。鳥のさえずりにも癒されたのであった。この鉄製の階段を上がった場所に「伊勢山大神宮」があった。錆ついた鉄製の階段を上がって行った。「鳥居」と「社殿」。「伊勢山大神宮」の「社殿」。内陣。「国分は相模国分寺の所在により天平文化の華開きし処にして何時の頃よりかこの地一体を伊勢山と称す けだし我等の遠き祖先が守護神として伊勢神宮をここに勧請せしに拠るならん爾来 谷戸 日久保 滝之下辻逆川の五最寄その神徳の宏大無辺に崇敬措く能はざりしも移る世の開発の波にに災ひされその安泰も危殆に頻せり たまたま社地の所有者森下一郎君の理解と協力により全敷地永久無償貸与の特志を得たり ここに於て氏子一同相議し相謀り社殿の修復 階段設置の再建事業を完成するに至れり 依ってここに碑を建てもつて後昆に伝ふと爾云ふ」境内にあった石碑。以前は別の場所にあったがここに安置されたと。五角の石柱で、正面に「天照大神」右から「倉稲魂命」「埴安媛命」「少名彦命」「大己貴命」と刻まれていたとネットから。五穀豊穣の地神(ぢじん)様と呼んでいたと。更に東に進むと左手に「御狸堂」があるはずであったが。アルミ梯子を上って行ったが・・・。その上の小屋は壊れていて竹笹に覆われていてこの先には進めなかった。墓石も下から見えたが・・・。そして「伊勢山公園前」交差点まで進む。「伊勢山公園前」交差点の角にあったのが「史跡逆川」碑。逆川は、かつて相模国分寺と相模国分尼寺の中間を流れていた運河。逆川は目久尻川から分水して、国分寺と国分尼寺の間を南東から北西側へと流れ、それから相模川東側の平野部の水路の1つとなっていた。1949年頃に樋口清之らが発掘調査を行い、逆川は奈良時代に造られた運河で、国分寺と国分尼寺の中間付近には船着場とみられる遺構があり、平安時代中期には運河としての機能を失ったとした。その後1990年に行われた発掘の結果、やはり逆川は奈良時代に掘られた運河であり、国分寺と国分尼寺が衰えて寺院として機能しなくなった平安時代中期以降、運河としての機能を失った可能性が高いことが判明している。昭和40年代まで水が流れていたそうだが、現在は埋め立てられてしまっているのだ と。「逆川の由来」碑。「逆川の由来逆川は大化の改新が行なわれたころ、条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。その全長は約二.五キロメートル、ここから凡そ一キロ上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山をよこぎり西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生まれたのでしょう。なお、舟着場と呼ばれたところから下流は日本最古の運河として平安中期まで利用されていたようで、その遺構は今なお地下に眠っています。後世、流れの向きを変えて「新堀」といい、昭和十五年ごろまで国分 ・大谷 ・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田をうるおしていました。現在この地点より先は埋め立てられ舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。」「逆川」周辺の水路図。ズームして。「この石はその昔大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川にかけた石橋の石で大正十二年の関東大震災のとき川に落ちたものを昭和五十二年十二月河川改修のとき引き上げたものです。これには宝暦七年(1757)に國分の重田七三郎翁の企てた石橋勧進帳の木版が残っておりこの架橋のありし日を物語っています。」更に「目久尻川」方面に足を延ばし「目久尻橋」の手前を左折するとすぐ右側、堤防の上にあったのが「石橋供養塔」。「目久尻川」を渡り、ガソリンスタンド横の脇道を左に入ると左奥にあったのが「郷土かるた 「も」」「望地(もうち)から 国分へ架けた 石の橋」。「今から約250年前の宝暦の頃(1751~1764)、国分の谷戸に重田七三郎という翁がいました。目久尻川を望地から国分にかけて渡る木橋がよく朽ちて、旅人が難儀しているのを見かねて、石橋を架けようと「望地村、国分村境石橋勧進帳」として近郷近在に浄財の寄附を募りました。そのかいがあって石橋が完成し、翁の永眠後27回忌の時に、国分村の名主忠兵衛が石橋供養塔を建てたと伝えられています。この供養塔は現在残っていませんが、平成元年に目久尻川護岸工事の際に別の「石橋供養塔」が発見されました。これは文化10年(1813)に改めて建てられたものです。この供養塔は、かつての矢倉沢往還の道筋を示すとともに、翁の義挙を不朽のものとしています。」とのネット情報。そして引き返して、県道40号線・厚木街道を西に坂道を上って行くと道路脇に小さな社があった。社の中には地蔵尊が。更に進むと左手奥に朱の鳥居が。「新道稲荷社」。海老名市国分南1−26−8。江戸期の大山道(矢倉沢往還)が社前を通っていたとされる。扁額「稲荷社」。「内陣」更に厚木街道を進む。左手、「国分寺」入口にあったのが「海老名の大ケヤキ」。海老名市国分南1丁目23。廻り込んで。樹齢580年前後といわれている大きなケヤキ。満身創痍の感はあるが、頑張って欲しいのである。郷土かるた「け」。「県央に さすが海老名の 大欅」。「神奈川県指定天然記公物海老名の大ケヤキ昭和ニ十九年三月ニ十九日指定このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられている。根回り十五・三メートル、目通り七・五メートル、樹高二十メートルに達する大木である。ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地斜面などに自生しているため昔から親しまれてきた。屋敷内に植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。もともとこのあたりでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。昔の人が生活の知恵から打ちつけた杭も、ちょうどこの土地に合ったものを使ったため、現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。郷土を代表する木として、永く保存する必要があり、県指定天然記念物に指定したものである。」目通りとは、目の高さに相当する部分の木の幹の太さのこと。かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり現在に至るとは信じがたいのであった。そしてこの奥にあったのが「高野山真言宗 相模 国分寺」。「自然と歴史のさんぽみち」。「国分寺」まで100mと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.13
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【海老名市歴史散歩】 目次右手に拡がる「相模国分寺跡」を見る。「相模国分寺七重塔跡」の基壇を見る。「史跡相模国分寺跡環境整備事業相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれています。相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校 (現在市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究書にまとめました。こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10) 3月3日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。海老名市では貴重な文化遺産である史跡相模国分寺跡を現状のまま保存するだけではなく、復原・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989)から始めました。1966~67年(昭和41~42 )の発掘調査結果をもとに、1990~1996年(平成2~8)にかけて塔跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえました。基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。具体的には、塔・堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存する礎石は現位置で保存する計画です。」「新編相模国風土記稿」の「国分寺併旧跡図」(天保年間1830~1841年)。天保年間1830~1841年には相模国分寺跡は田園と化し、国分寺も奈良期の相模国分寺址から南東200m程の高台に移転していたことが解るのであった。「史跡相模国分寺跡 整備予想図」。「国史跡 相模国分寺跡」案内板。「国史跡 相模国分寺跡」。「相模国分寺復元図」👈リンク。「奈良時代、聖武天皇は仏教のカで国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります。七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(のりごしがよう 横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(かわらおねがよう 東京都町田市)など焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川(さかさがわ)跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(おおすみぐん 平塚市)国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生(みぶ)氏という同じ氏族であったからではないかとされてます。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、ニ寺が並び立つ様子は壮観だったことでしよう。相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。」「史跡相模国分寺跡の整備状況(2019」。「伽藍配置図」。国分寺の主要伽藍(建物)配置は、奈良県にある法隆寺と同じ、東側に金堂・西側に塔、北側中心部に講堂を配し周囲を中門・回廊で囲む「法隆寺式」という配置をとる。全国の国分寺では大変珍しい配置で数例しか確認されていない。「史跡相模国分寺跡周辺マップ」。「相模国分寺七重塔跡」の基壇を西側から見る。国分寺のシンボルともいえるのが塔跡。ここ相模の場合は、高さ1mほどの基壇上に建てられている。塔跡は現在整備され、当時の基壇の様子が復元されていた塔は古代建築学から復元すると七重で高さが65mもあったと。「相模国分寺七重塔跡」の基壇を正面から。石段右に「案内板」。近づいて。「塔跡こは741 (天平13 )年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七塔の跡です。国分寺の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました1966 (昭和41)年と1992 (平成4 )年に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されています。塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました創建時の基壇は、現在復元されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくりにつくり替えられています石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定され、両方とも凝灰岩質の石です。10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれる礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇よりも約35cm低く復原しました。」「相模国分寺七重塔想定復元図」。「塔相輪部分(相模国分寺模型・部分)」昨日も説明しましたが・・・。「金銅製水煙の破片(塔跡出土)」。「壇正積基壇の模式図」。「発掘された塔跡(平成4年、南上空から)」。基壇上面の礎石。角から。17個の礎石が確認できたが。中央部分。西側から「相模国分寺」の「回廊跡」を見る。中門の東西の回廊の想定CG図。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html】よりここが中門のあった場所。中門の想定CG図。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html】より石碑と案内板。石碑「史跡 相模国分寺阯 大正十四年三月建造」と。側面には「史跡名勝天然紀念物保存法に依り大正十年三月内務大臣指定」と。「中門・回廊跡」案内板。「ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門がありました。1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21 m x南北11m程の土台(基壇)上に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しまた。回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが確認さており、西面についての詳細は不明です。現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。」「中門跡の発掘調査の様子」。「回廊跡の発掘調査の様子」。「礎石に残る柱の跡」。「回廊跡南側で出土した瓦」。「回廊・中門跡」を東側から見る。手前に見えるのは「金堂」の礎石であろうか。「金堂」は塔の東側にあり、塔と同じく版築工法で作られた基壇に礎石が残っており、礎石の上に金堂の建物が建っていたことがわかる。金堂も塔と同じく基壇を切石で覆っていたものと考えられていたが、2005年に行われた金堂発掘の結果、石積みであったことが判明した。また、金堂の建物内に幅2.2メートルの高まりが存在した。これは須弥壇であったと見られていたが、やはり2005年に行われた金堂発掘の結果、高まりは須弥壇ではなく、後世相模国分寺跡が畑地として耕作されていた際に耕作されずに残された場所であったことが判明した と。金堂の礎石の中に石碑が。七重塔と金堂の想定CG図。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zisya,teienn/kanagawa/sagamikokubunnzi/sagamikokubunnzi.html】より 「相模國分寺遺蹟」碑。この石も礎石だったのだろうか?黄色のカンナの花。西洋ミツバチ?も訪花していた。登校する子供達の姿。一列に整列して。コロナ対策からの学校&父兄の指示事項か。おしゃべりしない、密にならない!! 東側から西側に向かって「相模国分寺」を見る。手前に「金堂」の礎石、そして「相模國分寺遺蹟」碑の奥に「七重塔基壇」その先に「温故館」が見える。2011年まであった海老名市温故館跡。巨木が東側に。南東隅にあった「史跡相模国分寺跡歴史公園案内板史跡相模国分寺跡とは相模国分寺跡は、天平13 (741 )年に聖武天皇の詔によって諸国につくられた国分寺の1つです相模では、発掘調査や出土遺物の分析によって8世紀後半には創建されていたことが分かっています」8世紀後半の時期に、聖武天皇は何故、「海老名」のこの場所に「相模国分寺」を建造したのか、その理由について更にその詳細を知りたいと思いながら「相模国分寺跡」を後にしたのであった。「相模国分寺」は元々は現在の小田原市にある千代廃寺であるとして、その後海老名の地に移転したとの説も出されているとのことだが真相は如何? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.12
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【海老名市歴史散歩】 目次この日は9月27日(月)、2回目の『海老名市の寺社旧蹟を巡る』に向かう。小田急線、相鉄線を利用して海老名駅に7時前に到着。海老名駅東口に出るが、工事中であった。相鉄線海老名駅(海老名市)の新駅舎について、2026年度に完成予定と。これに先立ち、小田急線・JR相模線への乗り換え時の迂回(うかい)路は、2022年12月に解消。北口の新改札は2022年度末に供用開始するようであった。ビナウォーク「ViNAWALK」案内図。 ビナウォーク「ViNAWALK」は、神奈川県海老名市に所在する小田急SCディベロップメント運営の複合商業施設。2002年(平成14年)4月19日に開業。施設名称「ビナウォーク」の「ビナ」 (ViNA) は自然礼賛を意味する"ViVA NATURE"の略語であり、ロゴマークの英字表記"Rambling Terrace"(ランブリングテラス)のRambling(ぶらぶら歩き)と組み合わせて「歩いて楽しめる界隈」を意図しているとのこと。また、「ランブリングテラス」は海老名駅と2番館以外の各店舗棟の2階部分を連絡する面積8,000m2の公開街路の名称でもある。単に駅と施設を連絡するだけではなく、海老名中央公園や施設外の市街地も繋ぐ回遊性の高い街路となっているのだ。ランブリングテラスのうち、5番館部分には単なる雨避けにとどまらず、開放的な感覚を生み出す目的で翼をモチーフとした大屋根が配されているのであった。正面に1番館「デイリーセレクトショップ/生鮮市場」、3番館「アミューズメント&ロードサイドレストラン」。3番館をズームして。1番館に向かって進む。1階は生鮮食品等を扱う店舗が5店舗出店している。2002年の開業以来「ビナウォーク生鮮市場」というフロア名称であったが、2012年10月23日に「ViNA ONE FoodS」としてリニューアル開業した。このほか2階にはドラッグストアなどが、3階にはCD販売店などが、4階には書店が出店していると。そして右に折れ3番館方面へ。駅舎方面を見る。そして左手下に「海老名中央公園」を見る。大きな石段を下り「海老名中央公園」へ。「海老名中央公園」を歩く。直径10mの屋外円形ステージ。長引くコロナ禍で人工の小川には水は無く。「ビナウォーク」のタイル壁の絵画。「かたらいの広場」にあった球形の「モニュメント」。作品名は?正面「いこいの広場」にある「七重の塔」が見えて来た。右手には5番館「ファッション&ライフスタイルショップ」が。生活雑貨・ファッション・レストランなどが出店。奈良時代の海老名にあった相模国分寺の七重の塔を1/3に縮小して再現したもの。これは高さ21.97mであるが当時の七重の塔は65mあったと伝えられていると。この後に、この相模国分寺跡の七重の塔の遺蹟に向かったのであった。平成4(1992)年に市制20周年を記念して観光の象徴として建てられた。1/3に縮小したもので、本物の規模の巨大さに驚いたのであった。「海老名市観光シンボルモニュメント七重の塔七重塔は、七四一(天平十三)年聖武天皇の「国分寺建立の勅」をうけて建立された相模国分寺の伽藍の一つです。国分寺の塔には、国家の平和を祈る金光明最勝王経が安置されていました。過去2回行なわれた発掘調査によると基壇(建物の基礎となる土壇)は、一辺の長さがニ〇・四m、高さは一・三mの規模で、残存する礎石から塔の初重の広さは一〇・ハm四方、塔の高さは六五mにも及ぶものであったと推定されています。また、基壇周辺で発掘された石や盛り土から、2回の修理もしくは建て替えが行われたことも分かりました。この塔は、故大岡實氏の復元図を基に実物大の約三分の一のスケールで建設したモニュメントであります。」「歴史のさんぽみち 周辺案内」。これからの散策予定を再確認したのであった。「十五周年記念 贈ヤマボウシ 国際ソロプチミスト海老名 一九九八年 二月」碑。国際ソロプチミスト(SOROPTIMIST INTERNATIONAL)は、4つの連盟(アメリカ連盟、ヨーロッパ連盟、グレートブリテン&アイルランド連盟、サウスウェストパシフィック連盟)で構成され、約121の国と地域に2,947のクラブ、71,199人の会員を有する、女性の世界的な奉仕団体。国際ソロプチミストは、国際親善と理解活動及び友情を通じて・女性の地位向上・高い倫理基準・万人の人権・平等、開発、平和を求めて努力することを目的としている と。「七重の塔」の周囲を廻りながら。反対方向から。「相輪(そうりん)」をズームで。双輪の構造は上から順に・宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。・竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物・水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。・九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる・受花(請花):飾り台。蓮華の花。以下は写真に写っていないが・伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。・露盤:伏鉢の土台。「海老名中央公園案内図」正面に見えたのが6番館「アミューズメント&ロードサイドレストラン」。2階には10スクリーン・2,278席を有するTOHOシネマズ、ゲームセンター、鉄道模型店などが出店するほか、1階にはラーメン店7店舗が集結する「ビナウォーク らーめん処」がある。鉄道模型店「ポポンデッタ with 小田急トレインギャラリー」は小田急電鉄の鉄道資料展示スペースを併設。「天平通り」を北に進みこの先「中央公園前」交差点を右折して「飛鳥通り」を東に進む。交差点の角にあった案内板。向かっている「国史跡相模国分寺跡」まで0.4kmとの表示が。「国分坂下北」交差点を渡り、細い道に入る。坂道を上って行った。前方に「郷土資料館「温故館」(旧村役場庁舎) 国指定 相模国分寺跡」案内板。更に坂道を上って行った。そして「相模国分寺跡」の西側の道に出て左折して北に向けて進む。右手に見えて来たのが「相模国分寺跡」。「相模国分寺跡」の前にあったのが「郷土資料館「温故館」(旧村役場庁舎)」。「市立郷土資料館 海老名市温故館」。「海老名市立郷土資料館 海老名市温故館(旧村役場庁舎)この建物は、大正7 (1918)年に海老名村役場庁舎として建築されたものを一部移築保存し、復元したものです。明治22 (1889)年の市制・町村制の施行により「海老名村議会」が発足し、国分に「海老名村役場」が設置されました。しかし、明治43 (1910)年の国分大火により建物が焼失、薬師堂(現・国分寺)の庫裏を仮庁舎としていましたが、大正5 (1916)年頃から新庁舎の建築が計画され、大正7年に竣工しました。木造2階建て桟瓦葺、外壁は、ドイツ下見張り(※注)で飾り柱を設け、南正面に切妻造りの玄関ポーチがありました。柱には特徴的な柱頭飾り、玄関ポーチにはバージボードと呼ばれる飾り破風、垂飾り、装飾的な方杖が取り付けられ全体として直線的で素朴な装飾の建物となっていました。この建築様式は、郡役所様式と呼ばれるもので明治から大正時代にかけて役所などによく用いられ、海老名村国分の大工・藤井熊太郎が棟梁とな。て建築されました。外観を洋風建築とする一方で、小屋組みや土台、軸組などは日本古来の建築を踏襲した和洋折衷の建物でした。※注 増築部分は、南京下見張りでした。移築後は全面ドイツ下見張りとなっています。●利用案内●開館時間 9 : O O~ 1 7 : 1 5 (人館は1 6 : 4 5まで)休館日 年末年始( 1 2月2 9日~1月3日) ※展示入替などで臨時休館することがあります。所在地 神奈川県海老名市国分南一丁目6番3 6号※入館される方は、次の事項を守ってください。(1)郷上資料館の資料及び施設等を損傷し、又は滅失しないこと(2)資料の模写、模造及び写真撮影を許可無く行わないこと(3)他人の迷惑となるような行為をしないこと(4)その他郷上資科館の職員の指示に反する行為をしないこと※次に該当する場合は、入館をお断りすることや退館していただくことがあります。(1)他人に危害又は迷惑を及ぼすおそれがあると認められる方(2)郷上資おト館の資料・並びに施設及び設備を損傷し、又は滅失するおそれがあると認められる方(3)その他管理上支障があると認められる方」玄関には「海老名市立郷土資料館 海老名市温故館」と。開館時間 9時から17時15分まで (当面の間、感染症予防対策実施のため最終入館は16時30分とします。郷土かるた「と」「土器・石器 瓦や板碑 温故館」。「史跡相模国分寺指定100周年記念展示100年かけて 相模国分寺の謎にいどむ」ポスター。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.11
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【海老名市歴史散歩】 目次「安養院」を後にして、相模川沿いを高架で走る首都圏中央連絡道・圏央道の下の道に向かう。相模川に架かる「あゆみ橋」の姿が見えた。その先にあったのが「弁財天社」。朱の鳥居の奥に石の祠が。海老名市河原口2丁目5。相模川に架かる「あゆみ橋」をズームで再び。この橋の位置には、もともと「相模橋」と称する橋があった(詳細は相模大橋#歴史👈リンク を参照)。現在の相模大橋の開通とともに、相模橋は廃橋となったが、地域住民の要望により、流されてもすぐに架け直せるような簡易な構造の沈下橋「相模小橋」を架けることになり、1966年(昭和41年)5月24日に開通した。それ以後、潜水橋に由来する「もぐり橋」という通称で、地域住民に親しまれた。大雨で橋の一部が流れてしまった場合、海老名市と厚木市が毎年交代で費用を負担することになっていた。しかし、台風が多い年は予算超過となる上、毎年交代での費用負担は不公平に見えることもあった。また、夜間は危険なため、午後7時から午前5時までは人も含めて全ての通行ができないことになっていたが、これは地域住民には不便であった。また、一方通行であり海老名から厚木方面のみに限り通行可能である為に、厚木市民側からは不公平だと言う意見も多かった。このような理由から、恒久的な橋に架け替えることになり、1992年10月から着工、1996年2月1日に開通した。なお、「あゆみ橋」は接続路も含めて、大型車の通行が禁止されており、これら車両は相模大橋に迂回する必要がある とウィキペディアより。「あゆみ橋」からの道を東に進んでいくと路地の角にあった「庚申塚」。海老名市河原口2丁目4。「自然と歴史のさんぽみち」。県道51(46)号線・相模原茅ヶ崎線に突き当たりここを左折して進む。右手に「ハイム河原口」。「海西中入口」交差点を右折して東に進み「JR相模線」の踏切を渡る。「海西中」の前を通過し、敷地の角を右折し、水路に沿って進む。前方に「海老名市民活動センター」が現れた。「海老名市民活動センター」は、市民の自主的で非営利的な活動を支援するとともに 各種活動を通じ相互の交流を深める場として設置される施設。 市民交流、生涯学習、健康増進、レクリエーション等の多種多様な市民活動の場として利用可能。センターは、 ホール・会議室・和室・調理室・実習室などを備えた「ビナレッジ」(交流館)と、 プール・大小多目的室・トレーニングルーム・レクリエーションルーム等を備えた「ビナスポ」(レクリエーション館)の2つの施設で構成されているとのこと。こちらが「ビナレッジ」入口。「海老名市民活動センター」前の道路から「ビナレッジ」の建物を見る。向かい側にあったのが「ビナスポ」。「海老名市民活動センター」前の道路から「ビナスポ」の建物を見る。「海老名市民活動センター」前の道路を北に進み突き当りを右折して進む。前方に見えて来たのが「小田急・小田原線」の高架。高架の手前を左折して小田急の線路に沿って進む。左手の折れ、進むと正面に「海老名市文化会館」。「海老名市文化会館」は、約1,100席の大ホールをはじめ、335席の小ホール、サロン、練習室、リハーサル室などを備え、多目的利用のできる文化施設。そして来た道まで戻り、小田急線の下を通過し「海老名駅」方面に向かう。前方左に「小田急線・海老名駅」のホームが見えた。厚木街道を「海老名駅入口交差点」まで進みここを左折する。すると前方に海老名駅の東口自由通路2階が姿を現した。東口自由通路2階から「ビナウォーク1番館」を見る。「ビナウォーク3番館」を見る。海老名駅(東口)。小田急線・中央通路改札口。更に中央通路を進むと左手に「ロマンスカー ミュージアム」があった。中央通路をJR相模線方面に向かってみる。「リーフィアタワー海老名アクロスコート」。31階建の高級マンション。小田急線とJR相模線の海老名駅間に広がる開発エリア「ViNA GARDENS」内で建設中の、地上10階建て「(仮称)サービス棟」の建物。そしてその先にJR海老名駅。この日は相鉄線で帰ることにする。2019年11月30日に開通した特急新宿行き。専用車両「12000系」が入線中。相鉄線・海老名駅ホーム。「海老名」。そして大和駅から小田急線で帰路についたのであった。この日の散策ルート。この日は久しぶりの40000歩越え、頑張りました。 ・・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.10
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に訪ねたのが「安養院」。海老名市河原口2丁目4。「安養院鎭守三眼六足稻荷社縁起」碑謹んで茲に相模國海老名郷河原口安養院鎮守稲荷明神は其の起源を尋ぬるに極めて古く平安の頃から相模二十三座の式内社として 有鹿岡に鎮座し延喜式内有鹿神社の霊域で其舊蹟は今も尚當院境内に一堆の浄域を存す 往昔この岡に年久しく棲み馴れし白狐あり 常に郷中の田園を守護し時に姿を農夫に化身し諸所の障害を驅除し數々の竒特を具現せり里民その神變不可思議を神使と感得し 畏敬の念を岡邊に集ひて祠を建て稻荷明神と奉祀した これが当社の草創でありこの故事を里人の口碑と共に相模國風土記残本に 明文を傳う有鹿岡有社之南出怪嚴常有數尾之白狐土貢逢蝗蟹之災之時白狐變田夫除其災如神禮立俗崇之如神鎌倉時代地頭海老名尾張守李貞深く信仰し累代守護所と崇め三貫六百文の神田を捧げ加て祭祀を厚くす 降って寛永年間格雲守存 大和尚當院開山に念し右稲荷明神を境内鎮守と仰ぎ即ち稲荷山安養院と號す 其後文化十年山城國紀伊郡稻荷本宮より分霊を奉載し 社格を正一位に進め奉る正一位稻荷大明神安鎮事右於本宮雖爲奥秘因懇望式外神複修行奉勧遷大明神於其清地 相州高座郡河原口村安養院鎮守 斎場○祭祀莫怠於尊信者 豊饒萬福可有守護者仍如件 城州紀伊縣 稻荷本宮祠官 文化十年初春吉辰 從四位○総鎮守奉○親寔 印 印依て新たに今の社地を卜し寶殿の規模を改め恭しく遷宮を遂げ爾来毎歳二月初午の祭祀を盛大にし家内安全五穀豊饒所願成就 商賣繁昌交通安全の祈檮を嚴修し奉り護符を拝受し近来社頭弥栄へ霊験また日々新たにして檀信徒と共に誠に随喜景仰に堪えぬ 次第なり 安養三十一世 壽山德翁敬白」なんともユーモラスなお顔の布袋様が鎮座。「曹洞宗管長 勅賜正應天真禅師 大本山總持寺貫主 岩本勝俊猊下御親化記念 従六位五等瑞寶章受賞 大本山總持寺贈顧問權大教師 黨院三十一世重興壽山 徳翁大和尚品位」碑。山号は「稲荷山」。寺号「安養院」。清源院(厚木市三田)の末寺とされていると。「安養院」の参道。「新編相模国風土記稿」では、山号を稲荷山、清源院(厚木市三田)の末寺とされている。本尊は、木造阿弥陀如来立像で嘉永3(1850)年に修理された記録があることと作風から江戸時代中期に造立されたと考えらる。また、江戸時代後期作と考えられる韋駄天像も安置されている。格雲守存(?~1634)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられると。そして前方右手には石の鳥居一基と朱の鳥居が二基が。扁額「正一位 三眼六足稲荷大権現」。「三眼六足稲荷社」の社殿。さらに近づいて。扁額「稲荷山」。狛狐(右)。狛狐(左)。「三眼六足稲荷大権現」碑。正面蟇股に彫られている三眼六足(両側と頭の上に三眼、前足4本後足2本の六足)の彫刻。三眼六足の名の通り、三つの眼と、前四足後ろ二足の狐が彫られていた。稲藁についたバッタのような虫に牙を向けているが、この虫はおそらくイナゴであろう。神社由緒によれば、このあたりの田圃を守護していた白狐を奉って祠を建てたと。なお、三眼六足という名称は、鎌倉時代に一帯を治めた海老名李貞が、三貫六百文の神田を寄進したことから、三貫六百文が転訛したのではとも。そして「安養院」への参道を進む。「慈母観世音」像。お顔をズームで。赤子には毛糸の帽子が。その先は無縁塚であろうか。多くの墓石が並んでいた。中央上部に「五輪塔」。左手には「六地蔵」が向き合っていた。「六地蔵」を正面から。狛犬(右・阿形像)狛犬(左・吽形像)。「聖観世音菩薩」像。「聖観世音菩薩真言 オン アロリキャ ソワカ」碑。真言とはいつわりのない真実の言葉。密教で、仏・菩薩 (ぼさつ) などの真実の言葉、また、その働きを表す秘密の言葉をいう。明 (みょう) ・陀羅尼 (だらに) ・呪 (じゅ) などともいう。「手水舎」。水盤の奥に石仏の姿が。「安養院」の「本堂」。「十三重石塔」。「大般若塔」の文字が。「安養院 堂宇」。境内の「だるま像」。境内の池。寺務所であろうか。玄関の見事な彫刻(右)。玄関の見事な彫刻(左)。唐三彩馬俑(とうさんさいばよう)の如き置物。海老名郷土かるた「へ」。「ヘラ鹿の 化石を残す 安養院」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.09
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【海老名市歴史散歩】 目次「總持院」の境内の見学を続ける。「本堂」前には「八角燈籠」があった。「八角燈籠」。「東大寺形 八角灯籠平成6年建立 唐金製 高さ2.40m(8尺)この八角燈籠は奈良東大寺大佛殿前の金銅八角燈籠(天平時代建立・国宝)を基に精巧に鋳造製作されました構造は上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基台となり火袋は菱格子を透彫りに四方の扉に獅子をその間の四面には音声菩薩と宝相華唐草を浮彫りにしてあります音声菩薩はそれぞれ笙(しょう)・鈸子(ばっし)・縦笛・横笛を手にそよ風に衣をなびかせ音楽を奏でています」正面から時計廻りに。四面には音声菩薩(おんじょうぼさつ)が菱形格子の透し地に浮彫りされ、その姿は しなやかな体つきで楽器を扱う指先や 風を受けてなびく天衣などが、立体的に表現されていた。「横笛」を奏でる音声菩薩。様々な姿の獅子の透かし彫りが。尺八の如き「縦笛」を奏でる音声菩薩。様々な姿の獅子の透かし彫りが。「鈸子(ばっし)」を奏でる音声菩薩。小さなシンバルの如き楽器。様々な姿の獅子の透かし彫りが。「笙」を奏でる音声菩薩。「本堂」。754年(天平勝宝6年)に海老名の郷司・藤原廣政が虚空蔵菩薩を本尊として創建。創建当時の宗派は不詳。 鎌倉時代の地頭・海老名源八(季貞)ゆかりの「源八矢立の杉」があったとされる。1591年(天正19年)に徳川家康より寺領十石の朱印を拝領。 江戸時代には近隣の相模国分寺、座間の星谷寺、厚木の飯山観音など19末寺を有した。 明治初期に海老名氏の菩提寺であった宝樹寺を併合した。神仏分離までは有鹿神社の別当寺であった。宗派 高野山真言宗宗祖 弘法大師(空海)本尊 虚空蔵菩薩開創 天平勝宝6(皇紀1414・西暦754)年開山 弘吽大徳《略縁起》総持院は天平勝宝6 ( 754)年に海老名の郷司藤原廣政が有鹿明神の霊夢により虚空蔵著薩を本尊として創建したと伝わっています。周目に豪を巡らせた大伽藍で12の坊舎が甍を並べ棟を競っていたため近年まで付近ー帚(現河原口三丁目辺り)は「坊中」と字で呼ばれていました。また明治元年の神仏分離までは有鹿神社の別当寺でありました。元弘の乱(1331 )に鎌倉を攻略した新田義貞の兵火によりそれらの坊舎も尽く焼失し、また永享の乱(1348)では足利持氏がこの地を本陣としたために再び大兵火の及ぶところとなりました。しかし天正年間(1570年代)に慶雄大徳により9間四面の大本堂や6間四面の大庫裡などが復興Eれ小田原北条長氏・氏康らの庇護を受けます。その後豊臣秀吉に小田原北条氏が滅ぼされるや代わりに関東に入国した徳川家康により天正19 (1591)年には早くも寺領10石の御朱印の奇進を受けています。江戸時代には幕府より「不入」「葵の紋所」を許され高座・愛甲・大住の3郡に末寺19ヶ寺を有し中本寺・法談所・古義真言宗関東檀林本寺(真言密教の教学中心寺院)として隆盛を極めていました。明治初年 廃寺になった隣接の末寺「宝樹寺」(現、海老名源八尊霊堂の辺り)を併合しました。然しながら明治維新の神仏分難・廃仏毀釈の嵐の中で数多の貴重な寺宝も失われ、更には関東大震災(1923)では江戸期の大本堂・大庫裡などの建物もほとんど倒壊し現存するのは山門のみとなりました。その時に廃材を利用して建立された旧本堂も役目を終え平成6 (1992)年には新本堂が建立され現在に至ります。と寺のホームページより。扁額「總持院」。「客殿」。「修行大師」像。近づいて。寺務所であろうか。屋根には寺紋?・「金剛杵印」が。旧本堂の獅子口。苔むした石庭。「牡丹」の花の飾り瓦。「無縁塚」。「子育地蔵尊」。石仏がニ体。「「子育地蔵尊」由来記この地蔵尊は、江戸初期の明暦四(一六五八)年二月に、地元の念仏講より宝樹寺の焔魔堂境内地(現在の旧宝樹寺墓地入口)に建立される。その後、閻魔堂は廃堂となり、宝樹寺も明治初年に總持院に合併して廃寺となるも、ご尊体は石仏のため朽廃をまぬかれ、念仏講に路傍に祀られ子育地蔵尊として三五〇年の長きに渉り親しまれ来る。いま、さがみ縦貫道建設に伴う市道新設のため尊堂の移転やむなきに至り、旧念仏講の懇請を黙し難く、にこの地を撰び尊堂を移設しご尊体を安置し永く祀り奉らんとす。平成二十一(ニ〇〇九)(年)六月吉日 海老山總持院第六十七世 現住 宥海記 ここにも歴史を感じさせる「六地蔵」が。「水子地蔵尊」。「水子地蔵尊」碑。近づいて。お顔をズームで。「本堂」前には開花を終えた蓮の鉢が並んでいた。「本堂」前の石庭。「不動明王像」。「六地蔵」、「不動明王像」を再び。「總持院」を後にして相模川方面と進むと右手にあった「有鹿幼稚園」。海老名市河原口3丁目10。次に訪ねたのが「海老名氏霊堂」。入口に「海老名市墳墓入口」碑。海老名氏は、源有兼が永久元(1113)年から4年間相模守として当地に在任し、その当時武蔵・相模の武士団であった横山氏と婚姻関係を結び、生まれた季兼が在地名の海老名氏を名乗ったとされている。海老名氏は「吾妻鑑」や「曾我物語」にも登場する有名な武将で、後に海老名氏、本間氏、国分氏、下海老名氏、荻野氏に分家する。海老名氏は、和田義盛の乱で和田方について敗北し、大きく勢力をそがれる。そして、永亭の乱で足利持氏方についたため宗家は滅んだ。「海老名氏霊堂海老名氏は,村上源氏の流れをくむ武蔵横山党の一派で、平安時代末期の十ニ世紀頃には海老名の地に進出して来ていたと考えられています.中でも海老名源八季貞は保元の乱で奮戦し、曾我物語などにもその名が出てくるなど有名な武士です.海老名氏の菩提寺は,現在は廃寺となっている宝樹寺と伝えられ,その跡地が霊堂のあるこの周辺一帯と考えられています。堂内には、海老名氏縁のものと伝わっている宝篋印塔や五輪塔が安置されています.霊堂周囲にある河原口坊中遺跡からは,十二~十四世紀の建物跡やかわらけなどの遺物が多く出土し、宝樹寺の存在と併せてこの辺り一帯が海老名氏の本拠地であったと考えられています。」霊堂には宝篋印塔や五輪塔の一部が納められているのであった。郷土かるた「え」「海老名市は 鎌倉時代の 名武将」「海老名氏霊堂」前の道路を東に戻って行った。そして有鹿神社から総持院の前を通り南方向に向かうと、すぐに右に向かう道路が分かれる三叉路に出る。この三叉路に次の様な石碑群があり、その一つに信州高遠の石工の名前があった。『風土記稿』河原口村の項に「往還、村の東西に貫くもの矢倉澤道なり、西北に係れるもの八王子道なり〈幅各三間〉」とあり、有鹿神社と総持院の前を南北に通る道は八王子道で、この三叉路を西に向かうと渡船場に通じ、厚木に渡るものと思われる。石仏は向かって左からの3基が元の姿を留め、他に部材の石材の破片らしいものもあった。左から●「角柱道標」正面 此方 厚木向かって左側面 此方 座間背面 此方 厚木 と書かれているのだろうか。●「角柱庚申塔」右側面 松尾大明神正面 庚申墳左側面 相州高座郡河原口邑 催主 中野源六 邑講中 寛政六年歳次甲寅秋八月日(一七九四) 石工信州高遠産秋山甚四郎●「角柱庚申塔(笠らしきものが上部に)」右側面 ??正面 庚申塔左側面 ??再び西に進むと「河原口神武社児童遊園」内にあった「神武社」。海老名市河原口3丁目3。海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社とのこと。社号の通り「神武天皇」を祀っているこの社は「石碑」がご神体のようだ。石碑には黄金色の文字で「神武天皇」と。そして「海老名市立歴史資料収蔵館」前を通過。此の辺りは東西に行ったり来たりしてしまったが。海老名市河原口2丁目27−3。海老名市の歴史、文化等に関する古文書、写真、地図などの資料を収集、整理や保管を行い、郷土の歴史の理解を深める場を市民に提供するための施設として平成22年4月に開館。道端にあった「庚申塔」。この後、この先が通行止めになっていたため、引き返し「海老名市立歴史資料収蔵館」前を通過し次の道を右折し海老名市河原口2丁目10の住宅街を進む。「末日聖徒 イエス・キリスト教会」。いわゆる「モルモン教」の教会なのであろうか。海老名市河原口2丁目10−37。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.08
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海老名市河原口3丁目の路地の角には石碑が。ここが「海老名氏記念碑」。海老名氏記念碑(上郷遺跡)は、畑の耕作中に偶然発見された遺跡であると。発掘調査により、五輪塔や板碑、集石遺構が確認されました。板碑は室町時代の年号が彫られたものが大半を占めており、御屋敷などの小字名や宝樹寺(廃寺)などから、この地を治めた海老名氏に関係する墓地ではないかと考えられています。発掘調査により、五輪塔や板碑、集石遺構が確認されました。板碑は室町時代の年号が彫られたものが大半を占めており、この地を治めた海老名氏に関係する墓地ではないかと考えられていると。海老名市河原口3丁目28−5。五輪塔。「昭和四十六年十二月二十六日海老名市国分一、八八七番地寄贈者 齋藤正」碑「誌河原口 上郷あたり一体の有鹿郷は古くから有鹿神社を中心に一大集落を営んでいたと思われます約八百年以前相模守として当地にまいりました源四郎親季を祖とする海老名氏の一族には 孫の源八季定をはじめ武勇をもって聞こえた人びとが数多く輩出したと言われます今日残っているお屋敷道場前等の名称は海老名氏往時の盛況を物語るものでしょう 時流茫々かかる幾多武勇の士の拠ったゆかりの地も今や世人の記憶からその言い伝えさえ忘れられようとしているときこれらの諸霊を慰めその由来を永く後世に伝えるため海老名市が記念碑を建てるにあたりこれを記します海老名市文化財保護委員 児島視□造 撰昭和四十六年三月二十六日 建之海老名市」更に北西に進む。更に相模川に向かって進み川沿いの遊歩道に突き当たりここを左折した。眼下に相模川の姿が見えて来た。そして右側に見えたのがプラットトラスの「上郷水管橋(水道橋)」。1918年3月竣功とのことで100年以上の歴史が。直径20インチ(Φ500mm)の鋳鉄水道管。既に水道管も使われておらず撤去を待つのみであるようだ。ところで、和歌山市は今月3日、紀の川をまたぐ「六十谷(むそた)水管橋」👈リンク が(全長546m)2本の一部が59mにわたり、水面に崩れ落ちたと発表したのであった。昭和50年(1975)3月完成で、46年目で耐用年数を迎えていないと。この「上郷水管橋(水道橋)」は1918年竣工とのことで103年を経過しているのである。いかにその後のメンテナンスが重要であることが理解できるのであった。そして和歌山の橋はアーチ橋と水道管が一体になった構造で、専門家は橋の部材が劣化していた可能性を指摘しているのである。ここ相模川のものはアーチ橋と水道管がそれぞれ独立しているのであった。 【https://www.sankei.com/article/20211005-3MEO6PFK45M65PWLIAJYXCG5YE/】よりそして「有鹿神社(あるかじんじゃ)」に裏から入り正面に向かう。「自然と歴史のさんぽみち」。「有鹿神社」の正面。「海老名總鎮守 有鹿神社」。「石鳥居」。「手水舎」。郷土かるた「あ」「有鹿社は 式内社にて 水守る」.「有鹿」の名は古代の言葉で「水」を意味し、川に近く豊かな水資源に恵まれた土地に感謝して創建された と。鎌倉時代まで広大な境内を持つ大神社であったが、室町時代に戦乱で荒廃して大きく衰退してしまった。戦国時代後期から復興が始まり、江戸時代には大部分の復興を達成。明治以降も地元・海老名の総鎮守として篤い信仰を受け続けている と。「有鹿神社 御由緒有鹿神社(あるかじんじゃ) お有鹿様は、相摸國で最古の歴史と高い社格を有する。創生 遥か遠い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、これより 流れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が形成された。 縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されてきたが、弥生の頃になり農耕の発展に伴い、 人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を越し、有鹿大明神と称え、有鹿神社を創建した。 有鹿谷の奥宮、鳩川中流の座間の中宮、相模川に合流する地の奥宮である。発展 奈良平安の頃、相模国府は有鹿郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け相模国の 延喜式内社中随一の社格を有した。天智天皇3年(664)、始めて祭礼を行い、 天平勝宝6年(754)8年(756)、藤原廣政の社殿の修理と墾田五百町歩の寄進を受け、 貞観11年(869)、従五位上に昇階し、永徳元年(1381)、正一位の極位となる。 広大な境内に美麗な社殿が建ち、条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大縄(参道)は、 社人の住む社家を経て寒川に至り、一大縄は、相模国分寺に至る。変動 やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり、有鹿神社は、豪族の海老名氏の 崇敬を受けるに至った。その後、室町の二度の大乱を蒙り、海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と 広大な境内や社領も喪失した。 その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説(座間では、鈴鹿明神 創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、農耕を礎とした産業の発展を背景とし、 水引祭りの斉行により、海老名耕地の用水を守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。現代 明治維新となり、県社に列せられたが、郷柱に留まり、神饌幣帛料供進社となった。 第二次大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、水引祭を通し、 瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守り続ける。本宮 大鳥居の跡地(鳥居田)から四百米参道を進むと、鐘楼跡の有鹿姫霊地の碑を傍らに、 松無しの有鹿の森が茂る本宮が鎮座する。鳥居の右側に手水舎、左側に鐘楼と神楽殿、 正面に本殿を覆う覆殿・幣殿・拝殿の三棟一字の社殿がある。本殿の建築と社殿の天井の 龍絵は、海老名市の重要文化財の指定を受ける。社殿の左側に日枝社・稲荷社・諏訪社の三社、 また、社務所の東門近くに有鹿天神社が鎮座する。中宮・奥宮 東方四百米の地に有鹿井(有鹿姫化粧井戸)、更にニ百米の地に有鹿池(有鹿明神影向池)が あり中宮が鎮座する。鳩川に沿って上流に進むと、相模原の磯部勝坂の有鹿谷には奥宮が 鎮座し、その奥には有賀の泉が今も湧き出している。」「鐘楼」。鐘楼が設置されている点も神社としては珍しいポイント。明治時代に神仏分離で多くの神社から撤去されたが、有鹿神社をはじめ海老名・座間周辺の神社は鐘楼が多く残っているとのこと。「梵鐘」。「本殿」創建時期は不明ですが、永和3年(1377)の作成とされる「有鹿明神縁起」では、神亀3年(726)にすでに存在し、天平宝字元年(757)に海老名郷司藤原広政が中心となり再建、鎌倉幕府滅亡時に兵火にかかり、「本殿」以外の付属建物が失われたとしています。「本殿」と拝殿天井画は、市指定重要文化財となっている。「本殿」は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りであった。扁額「有鹿大明神」。「祈祷受付所」。この駅名の如き表示板は?境内左手に「参心殿」と社務所。近年SNS上で話題を集めているのが、有鹿神社の名物「パンダ宮司」。パンダが神職者の装束を着たようなキャラクターで、神社の境内でもたまに見かけることができると。パンダ宮司の「中の人」は神社の禰宜を務める女性で、宮司を務める父の代理として「パンダ宮司」の活動を行っているのだとか。写真の「パンダ宮司」は人形であった。境内にはうっそうと生い茂る社叢があり、ケヤキやムクノキ、イチョウの大木があった。この他にも板根を張ったエノキの大木やカゴノキ、タブノキなどもみられたのであった。そして次に訪れたのが境内社の「有鹿天神社」。「社殿」。学問の神様である菅原道真公をお祀りしていると。入口にあった「郷社 有鹿神社」碑と「相模國十三座内 有鹿神社」碑。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされ、さらに同国の五之宮ともされるが諸説ある。旧社格は県社格の郷社。。中央にあった「有鹿神社誌」碑。鎮座地 海老名市上郷字宮畑ニ七九一番地 祭神 大日靈貴命創建の時代は詳かでないが祭行事等から東国に水稲栽培伝わった頃と推察され古くから延喜式内相模國十三座の一として住民から崇敬されている。相模國古風土記残本に天智天皇三年紀元一三ニ三年甲子夏五月初めに・・・・・「有鹿神社」の前にあったのが「有鹿姫之霊地史跡」碑。悲恋の姫君が相模川に投身すると、蛇体となり海老名の川辺に流れ着いたので、これを不憫に想い、里人が小祠に祀りました。現在、有鹿小学校の敷地(有鹿神社の元境内地)の一角に「有鹿姫之霊地史跡」の碑が立てられていた。以下ネットから。有鹿姫(あるかひめ) 今から約五百年前、愛川の小沢(こさわ)というところに金子掃部助(かもんのすけ)という武将がいました。金子掃部助は、関東管領 山ノ内上杉家の家来、長尾景春が起こした戦に加わりましたが、武運つたなく破れ、小沢城を捨てて敗走しました。この掃部助と奥方の間には、美しい姫君がいました。姫は早くから有鹿の地、すなわち海老名の河原口に住んでいた郷士の青年と婚約中で河原口にある海老名館に来ていましたが「小沢城危うし!」といううわさに、急いで小沢に戻りました。しかし、時すでに遅く、父は戦死、母は行方知れずと聞き、すっかり生きる望みを失いました。覚悟を決めた姫は、見苦しい姿を人目にさらしたくないと、薄化粧をして、まだ燃えている小沢城を後に、天に向かって手を合わせると、ざぶん!と相模川に身を投げたのでした。するとどうでしょう、美しかった姫の体は、たちまち恐ろしい大蛇に変わり、大きくうねりながら下流に向かって泳ぎ出しました。途中、六倉(むつくら)という所で大きく身震いすると、相模川の水が舞い上がり、中津の原に大きな水たまりができました。 さらに水しぶきを上げながら進み、河原口に近づくと、姫は再び人間の姿に戻り、息絶えて有鹿神社裏の河原に打ち上げられました。神社の氏子らは、海老名の地に嫁ぐ日を夢見ていた姫の死を悲しみ、せめてもにと「有鹿姫」の名を贈り、神社の片隅に、そのなきがらを葬りました。現在、有鹿神社と有鹿小学校の間には、若くして散った有鹿姫をしのぶ碑が建てられています。(こどもえびなむかしばなし第4集より)その先直ぐ右手にあったのが「總持院」。海老名市河原口3丁目11−10。山号は「海老山」。「總持院」。前方に「山門」。「高野山真言宗 海老山 満蔵寺 總持院宗祖 弘法大師(空海) 本尊 虚空蔵菩薩開基 藤原廣政 開山 弘吽大行創建 天平勝寶6年(皇紀1414年・西暦754年)第46代孝謙天皇の御字(奈良時代)に海老名の郷司藤原廣政が霊夢により建立した寺で、周囲に濠を巡らせ、12の坊舎が甍を並べ棟を競っていた.そのため、近年までこの地の小字を「坊中」と称した。元弘の乱(鎌倉末期)の新田義貞の兵火により坊舎をことごとく焼失し、足利持氏がこの地を本陣とした永享の乱(室町時代)に再び大兵火の及ぶところとなるが、天正年間(安土桃山時代)に慶雄大徳により9間四面の大本堂や6間四面の大庫裡などが復興され,小田原北条長氏・氏康らの外護の下に発展し,小田原北条氏滅亡後に関東に入国した徳川家康からは特に他の有力大寺院に先駆けて寺領寄進の朱印状とその後の厚い庇護を受ける。江戸時代に「不入」「葵の紋所」を許され,高座・愛甲・大住の3郡に末寺19寺を持つ中本寺(中本山)となって,法談所・古義真言宗関東壇林本寺として興隆を極め、神仏分離(明治元年)までは有鹿神社の別当寺も務める.明治初年の廃仏棄釈の嵐の中で多くの貴重な寺宝も失われ、威容を誇った大本堂や大庫裡などの建物も関東大震災にて現山門を残して全て倒壊したが、順次復興して今日に至る。」「山門」。石灯籠と石碑。参道にはサルスベリの花が。「六地蔵」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.07
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昨日の我が家の庭の酔芙蓉(スイフヨウ)の花です。時間は14時過ぎ。朝には純白だった花が、昼を過ぎて淡いピンクに染まって来ていました。酔芙蓉の特徴は、朝白い花を付け、昼頃からピンク(赤)色に徐々に変化し、午後ピンク(赤)一色となる変わった花。 朝花が咲き、夕方には萎んでしまう一日花で、時間とともに酒に酔っているように見える事から「酔芙蓉」と名付けられているのです。そして2時間後の16時過ぎには一面のピンクに。そして前日に開花した花は、萎んで今にも落ちそうなのであった。こちらは、我が家の近くの金木犀の花。9月中旬に花がついていましたが、昨日は再び満開状態。ズームして。良い香りが辺り一面に。金木犀はモクセイ科の常緑小高木の一種で、元々は中国から渡来した花。その甘い芳香は秋の風物詩になっているのだ。金木犀の開花時期は9月中旬~10月下旬といわれますが、気温の影響を受け、気温が高いほど開花時期は遅くなると言われている。また、9月に一旦花が咲き終えた後、10月に新しい花が開花して下旬まで楽しむことができる2度咲きする樹もあるのだと。台風16号の通過時の気温低下も影響している可能性もあるのだと。
2021.10.06
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【海老名市歴史散歩】 目次海老名市上郷1丁目28の住宅街を進むと右手にあった「石碑群」。海老名市上郷1丁目28−12。この丸い石柱は?「水神八大龍王」碑?右から二番目は「庚申墳 文政二年己卯 村講中」。三番目は「馬頭観音 天保十五甲辰年」。こちらは??舟形光背型「双体道祖神」。??????以上、散在していた石像をこの場所に集めたのであろう。そして「鳩川」沿いの道を進む。上郷一・ニ・三丁目 下今泉一丁目の住居表示街区案内図。右手の橋は「馬船橋」。その袂にあったのが「上郷地蔵尊」。海老名市上郷2丁目1。近づいて。地蔵尊とその横に石碑。後ろには色彩豊かな千羽鶴が。その先の左の空き地の奥にも小さな「祠」があった。近づいて。詳細は不明。更に「鳩川」沿いの「相模三川公園」敷地内にある緑あふれる遊歩道を進んで行った。「鳩川」とその先の「相模川」の間には広大な「相模三川公園」が拡がっていた。橋が見えて来た。「相模三川公園」内の緑地広場のベンチで食事を楽しむ女性達。「鳩川」に架かる「さくら橋」。その袂にあったのが「大藪稲荷神社」。海老名市上郷1丁目21。小さな社殿。「大藪稲荷神社」の前は「神奈川県立相模三川公園わくわくランド」広場では、水遊びも楽しめるのだ。毎時10分間ほど、ミスト状の噴水が散布されていた。水が出てくると、子どもたちが歓声を上げて、広場に集まって来たのであった。様々な遊具を楽しめる公園。「神奈川県立相模三川公園わくわくランド」の東側の道路沿いにあったのが「大日如来堂」。「大日如来堂」を正面から。そして次に訪ねたのが「龍昌院」。「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑。正面に「山門」。「山門」に向かって進む。「山門」前の能山雲元石碑。かなりの歴史を感じさせるのであった。「龍昌院 坐禅会」のご案内。「山門」を潜って境内へ。酔芙蓉の花が咲いていた。「本堂」。曹洞宗の龍昌院は、上郷山と号す。龍昌院は、能山雲元(元和6年1620年寂)が開山となり創建したと。ご本尊は釈迦牟尼佛像。扁額「龍昌院」。墓地の前面にあった「開山 能山恵雲大和尚品位」碑。この建物は?「龍昌院」を後にして海老名市上郷1丁目の住宅街を南に進む。200mほど歩くと左側にあったのが「有鹿神社中宮(あるかじんじゃちゅうぐう)」。石鳥居の前の石碑には「有鹿之池(あるかのいけ)」と。海老名市上郷1丁目12。正面から。「石鳥居」。石造りの「有鹿神社中宮」は、新編相模国風土記稿に「天正三年四月別當総持院現住慶雄夢中に神靈の告ありて、神祠の東北池中に於て、石一顆を得たり」と記載される有賀神社の神体が出現した池の地である と。水の流れはなかったが石造りの小さな太鼓橋があった。中宮はかつて座間市入谷の諏訪明神付近(座間市入谷1-1568)にあったといわれ、衰退して当地に遷座した。安土桃山時代に御神体が出現した池(有鹿の池)は、ここにあったが現在は涸れている。伝承では有鹿比女命が後述する有鹿の井戸で化粧をし、池の水面で姿見をされたという。「有鹿の泉」から湧き出た水は鳩川の流れに通じ、そこから引かれた用水は「有鹿の池」「有鹿の井戸」の水とも繋がり、本宮近くの海老名耕地に注ぐ。有鹿の池から御神体が出現するのも当然の流れなのだ と。更に150mほど進むと同じく左手にあった「三王三柱神社」。海老名市上郷1丁目3。社号標石「三王三柱神社」。「社殿」。三王三柱神社の創建年代等は不詳ながら、山王社として祀られ、当地の総鎮守有鹿神社を守護していたといいます。江戸時代末期には、当地で武州三峯講・伊勢講が組織されたものの、講中全員の参拝が叶わなかったことから三峯社・皇大神宮を勧請して創建、明治末年三社を合祀し三王三柱神社と改めたといいます。「内陣」。「三王三柱神社御由緒」碑。当神社は三王三柱神社と称す。山王明神社を基に三峯神社、皇太神宮の三社からなる総鎮守有鹿神社の下 上郷の鎮守である。当神社は有鹿神社に西向、有鹿明神を守護す。此地に存する有鹿井は、有鹿池と共に、有鹿明神に御縁深き社地である。かくて、山王明神社の御創建は頗る夙く山王信仰に鑑み、鎌倉を下ることはない。現に、江戸期、此地に鎮座することの確証が遺る。新風土記稿及び延宝八年建立の、山王権現の文字塔に示される。江戸末、火難盗難除の為 武州三峯講、又伊勢詣の為、伊勢講の組織を見た。講中全員の参拝を望めず、本社遙拝の為、三峯神社及び皇大神宮の御創建となった。明治末年、此地に鎮座する三社を合祀し、三王三柱神社と社名を改めた。爾来八十有余年を経、当初の御社殿既になく、昭和初年造営の御社殿も老朽化す。平成三年、かかる事態を憂慮し、上郷の氏子は、真心より浄財を以て、御社殿造営並びに鳥居、玉垣、神社碑、敷石等、境内整備をなし、これを記念して石碑に刻む平成三年三月上郷氏子中有鹿神社宮司 謹書「有鹿井有鹿池から出現した神体石をこの水で洗ったので、有鹿の化粧井戸という。いずれも、往古、有鹿森に湧く泉という。 有鹿神社」これが「有鹿井」であろう。境内にあった「道祖神」碑。更に西に進んで行く。道路脇にはケイトウの真っ赤な花と彼岸花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.06
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【海老名市歴史散歩】 目次「足折坂」を上りきり、「浅井の水」手前を左折して進むと「JR相模線」の踏切・今泉踏切があった。「今泉小学校前」交差点を直進する。更に進むと右手にあったのが「神奈川県産業技術総合研究所・KISTEC」。海老名市下今泉705−1。県道46号線・相模原茅ヶ崎線に掛かる「下今泉歩道橋」を渡る。相模大野方面を見る。厚木方面を見る。2差路の先端に道祖神があったがパスした。そして更に西の相模川方面に進み突き当りを左折すると左側にあったのが「宗珪寺(そうけいじ)」。平成20年(2008年)に圏央道建設のため海老名市河原口から現在の海老名市下今泉へ移転して来た寺であると。海老名市下今泉1丁目22−1。「山門」を正面から。山号は「天王山」。「宗珪寺」。「山門」に近づいて。扁額「天王山」。曹洞宗の寺院。「山門」を潜ると駐車場になっており、中央参道には紅白のサルスベリが開花していた。そして正面にあったのが、門の上に鐘楼堂を設けた門「鐘楼門」。2階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たず、2階部分には高欄が配置されていた。「鐘楼門」の扁額は「宗珪寺」。「鐘楼門」前の駐車場広場の壁の角には「記念灯籠建立供養塔」碑。四方を囲む壁の前には見事に灯籠が並んでいた。「禁葷酒入門」碑。そして「鐘楼門」の一階の向かって右には「仁王像(阿形)」が。別の角度から。金剛杵を右手に持って。「鐘楼門」の一階の向かって左には「仁王像(吽形)」が。角度を変えて。こちらも金剛杵を右手に持って。「仁王門」とも言える「鐘楼門」を潜る。「六地蔵」。右手にあった「手水舎」。水口の龍。右手に御堂が。扁額「覚王院」か?境内の見事な松。こちらの大木は?境内の石仏。ズームして。美しい境内の植え込み。こちらは五葉松と巨岩のコラボ。そして「本堂」。近づいて。扁額「宗珪寺」。「内陣」。「天水桶」には「51枚笹?」の紋が。こちらが客殿か。玄関の向かって右側。「本堂」横を通り、裏の墓地へ。「大般若六百巻・・・」碑。石仏が並ぶ。「馬頭観世音」碑。墓地入口。墓地。「仁王門」前から「山門」を見る。再び「仁王門」を。そして「宗珪寺」を後にして、寺の横の道を東に進む。「仁王門」、「手水舎」「本堂」の屋根を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.05
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【海老名市歴史散歩】 目次「龍峰寺」の境内から右に折れ「石坂」を下り振り返る。突き当りを左折して海老名市国分北2丁目11の住宅街を南に向かって進む。広い坂道に合流した場所の先の左側の少し高い場所に石碑を発見。「源頼朝公」と刻まれた石碑。「黨山開基」と刻まれていたが。側面には「天明四甲辰載十月十八日 現住龍峯兼清水寺佑天渓志」と刻まれていた。この坂が「新吾妻坂」らしい。そして相鉄本線沿いの道と合流した場所にあった「自然と歴史のさんぽみち」案内板。相鉄本線と大きなマンション群を見る。そして相鉄本線の踏切を渡り直ぐに左折して坂道を上り振り返る。この坂が「吾妻坂(権現坂)」のようだ。昔は吾妻権現社への参詣の道だったが、今は坂の途中で相鉄線が通り、その先は消滅。右に直角にカーブして南に上っていた。「吾妻坂(権現坂)」が消滅した場所から相鉄線を見下ろす。右に直角にカーブして南に上って行くと左手には大きなマンション群が。グランドレジデンス「ルネ・エアズヒル RENAI AIRSHILL」入口。海老名市国分南2丁目の住宅街を進む。北に方向を変え進むと右手にあったのが郷土かるた「ん」海老名市国分南1丁目15。「運河では 相模最古の 逆川」。逆川跡は、人工の水路といわれ、市立杉本小学校の辺りから、目久尻川の水を取り入れ、伊勢山の南側を回って、国分の台地を経て国分尼寺の小谷戸から海老名耕地に流れていました。後に現在の相模鉄道の手前で西に流路が変更され、これが新掘と呼ばれるようになりました。発掘調査により平安時代以前に作られ、船着場と推定されるような遺構も確認されていることから、運河跡ではないかともいわれています。国分付近では南から北へ、目久尻川流域での低地から台地上へ流れていることから逆川と呼ばれるようになったとされていま昭和40年代までは流れていましたが、次第に埋め立てられ、ごく一部の地形などにその面影を見ることしかできなくなりました。逆川が北へ曲がっている地点に、由来と地図を刻んだ記念碑が建立されています とネットから。県道407号線・杉久保座間線を南に進む。そして右手の魚屋の角にあったのが「旧跡 庚申大権現入口」案内柱。「自然と歴史のさんぽみち」はここが「史跡相模国分尼寺跡」であることを示していた。進んでいくと道路の右手にあったのが「國分尼寺講堂阯」碑。残念ながら全面にロープが張られ立ち入りは禁止のようであった。講堂のあった場所はこの先であろうか?金堂と講堂の間には、東西二鐘楼と経蔵が配されていたと。そして反対側にも大きな緑地が広がっていた。住宅などに囲まれて敷地が保存整備されて残っていた。相模国分尼寺跡は、海老名市城の相模川左岸に延びる河岸段丘上に立地する。天平13年(741)の聖武天皇の詔により、全国に設置された国分寺・国分尼寺の一つで、相模国分寺跡の北方約500メートルに伽藍中軸線をほぼ揃えて配置されている。大正末年に中山毎吉が著した「相模国分寺志」には、当時中門跡は畑と化したが、明治末年頃までは瓦と石が塚状に堆積し、そこに2個の礎石が残っていたこと、金堂基壇上には埋没した16個の礎石が存在すること、講堂跡は明治末年に削平され、その際に礎石が一隅に移動されたことなどが記されている と。右側の白い四角は説明板。奥には庚申堂があった。「相模国分尼寺跡(金堂跡)この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600メートルに位置しています。近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金堂跡のほか、講堂跡と鑛楼跡の基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さいことがわかりました。また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・梁行4間の大規模な礎石建物跡が検出されました。平成3年3月31日 海老名市教育委員会」金堂跡は、東西24.5m、南北19.5m、高さ1mの土壇として残り、基壇上には礎石15個が現存。礎石は1.5m前後の大型の花崗岩自然石を利用しており、金堂の建物は桁行5間(総長21.2m)、梁行4間(総長13.9m)で、正面5間のうち中央の柱間がとくに広く、6.3m。この柱間は東大寺大仏殿を除き、現在確認されている国分寺・国分尼寺の遺構としては最大規模で、金堂の構造上の特異さを示唆している。国分尼寺は国分寺とならび、律令体制下における仏教体制のあり方を象徴する施設として重要であることから、1997年(平成9)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定を受けた。 【http://www.ohoka-inst.com/sagamikokubuamaderaato.pdf】より「相模国分尼寺跡(金堂跡)」から「国分尼寺講堂阯」を振り返る。そして老木の下にあったのが「國分尼寺金堂阯」碑と「庚申堂」。正面から。横から。郷土かるた「に」「尼寺跡に 庚申塔と ひがん花」そして紅白の彼岸花が。「庚申堂」。扁額も「庚申堂」。内陣には「庚申塔」が安置されていた。板碑型、H108×W43全高118cmの文字塔碑文は、「寛文六季 夫神灵(霊?)必有感□□□同心ウン(梵字) 一揆之善男庚申観進結願造視箴聴箴言箴者発願益欲衛二世希望而己午丙三月十六日 三猿 十一人の氏名 国分村 柳田(左)」「庚申塔銘文の意味寛文六年 寛文六年(一六六六年)三四四年前十一人の男、みんなで庚申様をまつり、がんかけをして見ざる、聞ざる、言ざるの三猿(箴・・いましめ)を造る発心の望みは、二世(現世安穏後生善所)の望みを得たいからである。西暦一六六六年三月十六日造立」「庚申堂」前にあった石碑群。舟形光背 H70×W35全高79の庚申塔六臂合掌青面金剛像 邪鬼天保三癸亥(1683)年 三月吉日笠付角柱中区 H87×W25×D15全高106cmの文字塔正面は、(梵字)庚申供養 六人 三猿右側は、宝暦十庚辰(1760)天 金子源七 他2名左側は、九月吉日 金子武衛門 他2名今にも崩れ落ちそうな石碑。笠付角柱中区 H87×W24×D20全高107cmの文字塔正面は、(梵字)為庚申供養也 講中六人 三猿右側は、享保五庚子(1720)年左側は、 十一月吉日 であるようだ。赤の彼岸花。「庚申堂」柱。「庚申堂」を振り返る。近くにあった「相模国分寺跡」と比べると、案内看板も少なく、ちょっと寂しい感じなのであった。そして小田急線の座間15号踏切を渡り、西に進む。「浅井の水」を目指して住宅街を進むと電線工事のトラックの裏にあった「道祖神・庚申塔群」。中央に双体道祖神が。その後ろには文字庚申等が並んでいた。海老名市国分北1−24。そして次に「かがり塚」を目指したが案内板等は一切見つからなかった。「国分尼寺第一児童遊園」が右にあったがこの奥の木々の生い茂った丘が「かがり塚(灯塚)」であろうか。相模野台地の崖際に位置する塚で稲荷の社が乗っているようであった。「かがり塚(灯塚)」という名称は、昔、付近の小運河を通行する舟の目印のために常夜灯を置いた塚であったため「灯塚」または「かがり塚」と呼ばれたと。海老名市国分北1丁目24−7。そして来た道を戻り「浅井の水」に到着。海老名市国分北1−24。「鎌倉時代に清水寺が再興された時に堂前から清水が湧き出したことから清水寺の寺名となったと言い伝えられています。この清水が「浅井の水」と呼ばれ、その中央には水神塔がまつられています。冬の渇水期以外は水をたたえており、永池川の源流点とされています。清水寺は江戸時代に東の丘に移転しましたが、このような由来から地元の人は今でも清水寺本堂(龍峰寺観音堂)を水堂と呼んで親しんでいます。昭和35年頃に水道が引かれるまでは周辺の家の生活用水として利用されていました。」とネットから。池の中には水神塔と呼ばれている石仏の姿が。「浅井の水(浅井の井)」案内板。「「浅井の水」は、相模野台地西端の崖線にある湧水で、その名は元禄3 (1690)年に記された国分村の清水寺縁起にもみられます。この湧水は一級河川「永池川」の源流点とされています。相模国分寺の建立に大きくかかわった、古代の人工水路である「逆川(さかさがわ)」の流路にもつながっていたものとみられ、北西にある「かがり塚」にはこの付近を通る舟のための常夜灯があったとの言い伝えもあります。中央には国分尼寺の銘のある水神塔が建立され、昭和35年頃に水道が敷かれるまで付近の家の生活用水として大切にされてきました。近年は周辺の宅地化の影響か、冬になると水量が少なくなります。」当時の運河ルートと「相模国国分尼寺跡」と「相模国分寺跡」の位置図。「浅井の水」を後にして更に南下するとあったのが「前の坂」。この坂に面して五人組のうちの4軒の家があり、その家の前の坂ということでこう呼んだと。海老名市国分北1丁目14。「前の坂」の石段を上り振り返る。「内出稲成神社」。鎌倉時代の武士団である海老名氏の一族に国分氏がおり、国分の地に館を構えたのではないかといわれている。内出稲荷は、この国分氏の屋敷の鬼門除けとして建立されたとの伝承があるのだ。海老名市国分北1丁目5。入口左に「庚申塔」。社号標石「内出稲成神社」。朱の鳥居。扁額「正一位 稲荷大明神」。「本殿」は鞘堂に覆われて。「本殿」。そして「足折坂」を上って行った。昔はもっと短い急坂で転びやすく足を折るような坂だった。婚礼の際、花嫁は絶対に通らない坂だったのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.04
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【海老名市歴史散歩】 目次「龍峰寺」の散策を終え、隣りにあった「弥生神社」に向かう。「龍峰寺」を背にした参道から右手に入り石段を下る。石段下に右手にあった石碑群。「おみくじ結び」の後方右2基は「彌生神社境内整備記念碑」、「彌生神社改修工事記念碑」。「彌生神社境内整備記念碑」。「彌生神社改修工事記念碑」。「彌榮之碑」。「弥生神社」の由来について、漢字とカタカナで書かれていた。裏口から入ってしまったので、参道を「一の鳥居」まで歩いて、引き返し見学のスタート。扁額「彌生神社」。次の石段に向かって進む。左手に「鳥居再建記念碑」。石段を上り終えると、境内広場があり右手には「社務所」と次の石段下には「手水舎」が。左手にあったのは「舞殿」であろうか。「社務所」には「祈祷(きとう)受付」と。各種御札、御守、絵馬等が並んでいた。広場からは、雲がなくなり大山の山頂が姿を現していた。石段の先には「拝殿」の姿が。「手水舎」。「天皇陛下御在位六十年記念碑」。石段の途中から「一の鳥居」を振り返る。ズームして。「拝殿」への最後の石段を上って行った。石段を上り終えると狛犬が迎えてくれた。真っ赤な口を大きく開けた「阿形像」。「吽形像」。そして正面に「弥生神社」社殿。扁額「彌生神社」。「本殿」。「彌生神社の概略 一、 御祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと) 高産霊命(たかみむすびのみこと) 日本武尊命 ( やまとたけるのみこと) 一、由緒 黨神社は明治四十二年三月旧四箇村に鎮座の四社を合祀してここに 創建された。 一、年中行事 歳旦祭 一月一日 紀元祭 二月十一日 祈年祭 二月十九日 勧学祭 三月 例大祭 四月十日に近い日曜日 天長祭 四月二十九日 夏越大祓 六月三十日 七五三 十一月◯日 新嘗祭 十一月二十三日 大祓祭 十二月三十一日 月次祭 毎月第一・第三日曜日」そして左手奥にあったのが「蚕影神社(こかげじんじゃ)」。かつて当地で養蚕が行われていた名残で祀られている小さな社。子授け・安産の神とされる。「蚕影神社」。「蚕影神社」の「社殿」。この「蚕影神社」は、当地の池田善六という人が、筑波山麓の蚕影山桑林寺から御分霊をいただいて祀ったといわれる。もともと山中にあったものを大正年間に崖上まで移した。毎年正月14日には、木の枝にさした繭玉団子が何組もさげてあった。しかし大正7年に所有者が養蚕をやめたため、弥生神社の現在地に移転。遷座の日は、お宮ごと神輿にして若い衆が担ぎ、各戸にお別れの意味で地域中を練り歩いて大変な賑わいだったという。(海老名むかしばなし第5集)ご神体は陰陽の石二組で、一組は弥生神社境内にあったものを後に納めたという。しかし 「決して開けてはならぬ」 と言われているそうで、権禰宜さんは 「見たことがないんですー」 と ネット情報から。扁額「蠶影神社」。「蚕」は「蠶」の略字であると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.03
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【海老名市歴史散歩】 目次「龍峰寺」の散策を続ける。「本堂」横にあったのが「本堂建設寄付者御芳名碑」。そして「観音堂」の裏にあったのが「吾妻大明神」。石鳥居と朱の鳥居が二基。社殿。「吾妻坂」の由来となった社。「吾妻大明神」碑。その隣りにあったのが「収蔵庫」。「重要文化財 千手観音立像(木彫) 昭和二十五年重文指定榧材の一木造り、玉眼嵌入、左右四十二臂は桧材。千手観音像のうちでも、もっとも例の多い十一面四十臂を持つものだが、左右の一本ずつを頭上に高く掲げて組み、その掌上に化仏一体を安置している。この形式を一般に清水式と呼ばれている。制作期は、全体に古様を模した特色が見逃せないので、鎌倉期再興説としている。像高・一九二センチメートル」「重要文化財 千手観音立像(木彫)」をネットより。 【https://otakaramap.up.seesaa.net/image/2015-01-012001.06.57.jpg】より郷土かるた「せ」「千手観音 仁王が守る 清水寺(しみずでら)」。「清水寺(しみずでら)」とあるが「清水寺(せいすいじ)」では?清水寺の千手観音は国分尼寺より以前にあった官寺の湧河寺に安置されていました。建久五年(一一九四)源頼朝が国分寺を修復の際湧河寺も修理しましたが、このとき清水が湧き出したので清水寺と改め、水堂の観音様として信仰されるようになりました。元禄十二年(一六九九)に現在の丘の上に移されました。木彫り一・九メートルの尊像です。ここの観音堂、仁王門、金剛力士像は市の重要文化財に指定されています。堂には歌川国経筆の絵馬もあり、ともに龍峰寺が保存管理に当っています。昭和四十五年千手観音立像の収蔵庫ができました。毎年、一月一日と三月十七日には開帳されます。この石碑は?「四通」であろうか?「観音堂」の裏にあった石碑群。中央に馬頭観世音碑と欠けた石仏。左にも「馬頭観世音」碑。「源頼朝公」と刻まれているのであろうか?源頼朝公の供養塔なのであろうか?「石工 信州住 伊藤新八」と。「天明四甲辰催十月十八日 現住龍峯兼清水寺〇〇◯・・」と刻まれていたが。「染井吉野桜百本寄贈」碑。「縁起」碑。千手観音像について書かれていた。「客殿」の塀には北条家を代表する家紋・「三つ鱗」が。「龍峰寺」の寺紋は「丸に笹竜胆」と「北条鱗」であるが、前者は清水寺、後者は龍峰寺の元々の寺紋を引き継いでいるのであろう。このように、清水寺と龍峰寺が混在しているのであった。「客殿」。扁額は「瑞龍殿」。「仁王門」の横には「寺務所」への冠木門が。「寺務所」であろうか。扁額「呈?々庵」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.02
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【海老名市歴史散歩】 目次そして「龍峰寺」の「仁王門」前に到着。「龍峰寺」は臨済宗建長寺派の禅寺として、1340(興国元)年開山円光大照禅師によって創建された。かつては少し南の台地、現在の市立海老名中学校敷地の一部にあり、北から南へゆったり流れる相模川の向うに秀峰大山を望む。鉄牛和尚(小田原、黄檗宗紹大寺)はこの絶景をたたえ、龍峰寺八景詩を残している。1928(昭和3)年現在の地に移築した。境内には旧清水寺の本堂であった観音堂があり、国の重要文化財である千手観音立像が安置されている。清水寺はいまからおよそ1300年の昔、国分尼寺境内にあった湧河寺がその前身である。鎌倉時代になって、1186(文治2)年、源頼朝公によって、千手観音立像と共に復興された。その後、1341(興国2)年に龍峰寺開山円光大照禅師によって再建され、さらに、1699(元禄12)年には現在の地に移築された。1989(平成元)年に解体修理が施されている。「龍峰寺」には清水寺の他に、真福寺(天文・南原)、林光庵(慶長・打出)、東福寺(長禄・望地)の末寺があったが、明治維新の廃仏毀釈に遭い、他の末寺は自ら廃絶に帰したが、清水寺だけは寺名や寺格を外されたのみで、境外の仏殿(観音堂)として残る法幸を得、古来より「水堂」の名で親しまれている。今日では、毎年正月元旦と大祭の3月17日の二回、一般公開されている。他に、観音堂、仁王門、仁王像、絵馬などが海老名市の文化財に指定されている と。海老名市国分北2丁目13−40。左手前の小高い場所には多くの大きな石碑が並んでいた。右から「田野口照蔵之碑西南役明治十年四月十一日◯肥後国山本郡萩迫村戦死」と。「芳名碑」日露戦争における戦没者28柱の慰霊顕彰碑文 戦没者の御芳名刻印 大正15年4月15日 建立 海老名村「忠魂碑」。戦没者24柱の慰霊顕彰碑文 本村出身殉国諸士の遺烈を仰ぎ 明治39年忠魂碑を建つ 大二は陸軍大将乃木希典閣下の 揮毫に係る 偶大正12年9月1日 関東大震災は之を倒壊粉砕せり 依て茲に再建の議成るや 幸に の将軍の原書を存せるあり 以て本碑に刻す 山田 嘉毅 謹書 明治39年 建立 大正15年4月15日 再建 海老名村 建立「義勇奉公」碑。碑文 昭和9年5月 海老名村 建立戦没者の芳名 刻印陸軍大将 林 銑十郎 書「英魂不朽」碑。戦没者 181柱の慰霊顕彰碑文 日華事変並びに太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く町民の浄財に依り慰霊の碑を建立 英名を刻み後世に伝え 永く祭祀の誠を致さんとす。 昭和29年4月 海老名町 建立「従軍者氏名」。明治以来大東亜戦争終結までの従軍者の顕彰碑文 明治6年徴兵令が施行され国民皆兵となり 我等が先輩は各戦役に参加 大正15年4月15日 建立大いに国威を宣揚した。 昭和20年大東亜戦争の終結により70年の 歴史をとじたが、その遺勲を顕彰するため、有志相諮り明治百年記念事業として茲に従軍者の 名を刻し永く後世に伝える。 昭和44年7月 海老名町郷友会 建立参道の反対側には郷土かるた「き」「郷土史の 道をひらいた 中山翁」清水寺公園に、故中山毎吉先生の頌徳碑が建っています。先生は明治二十二年から大正十三年まで海老名の小学校訓導、校長をされ、また、青年の育成に努められました。そのかたわら郷土史の研究調査に尽力され「相模国分寺志」などを著し相模国分寺を中心とする郷土の史跡や文化財を顕彰され、わたしたちに郷土を大切にすべきことを示されました。「中山毎吉頌徳碑」。「中山毎吉先生ハ・・・・」と。「中山毎吉は、明治元年(1868)に高座郡国分村に生まれ、尋常高等海老名小学校長のかたわら、文化財や植物の研究を進め、相模国分寺跡などの保存に尽力した人物です。矢後駒吉とともに著した「相模國分寺志」は、国分寺研究の先駆的な研究・報告書として今日でも評価が高い学術書となっています。大正13年(1924)、56歳で小学校長職を退いた後、大正15年(1926)に海老名村が頌徳碑を建てました。撰文は大島正徳、書は鳥海幸助です。中山毎吉は、昭和17年(1942)に享年75歳で永眠されました。」とネットから。そして「仁王門」に向かって進む。寺号標石「臨済宗 建長寺派 龍峰寺」。「龍峰寺境内伽藍配置図」。「掲示板」「船頭が一人しっかりしていれば嵐が来ても船はしずまない」と。嵐=コロナ 船=日本 と読み替えたい!!船頭=新総理 に期待したい!!「気づかい気くばり思いやりそしてほどほどの距離」「子どもには親が望むような才能はなくても 親がわからないような才能があるものです」と。この寺にも「不許葷酒入山門」碑が。ここも禅宗の寺。そして朱の「仁王門」。「仁王門」とこの先にあった「観音堂」は一直線に並んでいた。「観音堂」と「仁王門」は元禄12年(1699年)にこの地に移ってきたときに建立され、現在の「観音堂」は元文2年(1737年)に再建されたものである。また、「仁王門」も寛延4年(1751年)に再建されたもので、かつての清水寺の「仁王門」だったと。「海老名市指定重要文化財 仁王門・仁王像」。「この仁王門は元禄十二年(一六九九)この地に観音堂と共に建立され、寛延四年(一七五一)に再建、昭和五十一年に解体修理されたもので、木造平屋建切妻造りの四脚門です。中の仁王像は密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)で共に魔を払い山内の鎮静を守護する像で像高約ニ一〇センチメートルです。寛延四年(一七五一)大仏師薩磨によって作られた忿怒形でよく整った容姿です。」藤の木が邪魔していて・・・なんとか解読できました。阿形像。下から見上げて。吽形像。下から見上げて。「鐘楼」。「梵鐘」。そして正面に「観音堂」が見えて来た。右手には「手水舎(水屋)」。水盤には「笹竜胆」の寺紋が。水口の龍。宝篋印塔の基部であろうか。こちらにも似たような「宝篋印塔」が。「句碑大山の 大きく坐る 刈田かな 九十五齡 竹ニ」。高台にあり眺めがよく、晴れていれば大山を望むことができるのであった。「十三重石塔」。「寶掌地蔵尊」。合掌した手の中に、宝があるのかもしれません。「寶掌地蔵尊」碑。お顔をズームで。「観音堂」がはっきり見えて来た。そして正面から「観音堂」を。扁額は「興徳山」。旧清水寺の山号であろうか。「海老名市指定重要文化財 観音堂(水堂) 江戸時代中期この建物は、相模国分尼寺に縁のある古刹で、旧清水寺の本堂で現在は龍峰寺の仏殿として使われています。元禄12(1699)年に清水寺が現在地に移転してきた際に建立され,元文2(1737)年に再建されたものです.総欅材で、身舎は単層、桁行・梁行ともに8.25mあり、屋根は向拝付入母屋造、内部天井は格式高い格天井となっています。昭和50(1975)年に市の重要文化財に指定され、昭和63(1988)年に解体修理が実施され現在に至ります。」「観音堂」の「海老虹梁」廻りの見事な彫刻。「観音堂」を横から見る。観音堂(旧清水寺本堂)裏。そしてこちらが「本堂」。石段を上がって。外の扁額は「瑞雲山」。内陣にも「龍峰寺」と書かれた扁額が。「本堂 内陣」本尊は釈迦如来坐像と迦葉・阿難像とのこと。手前の読経座。「内陣」の左側。「本堂」を斜めから。大きな花頭窓が確認できた。そして見事な木組みの下に「殿鐘」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.01
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