全35件 (35件中 1-35件目)
1
【海老名市歴史散歩】 目次「真光寺」を後にして西に進むと、「下谷津」交差点の角右手の道路脇にあった「地神塔」。「地神塔」とは、大地の神・農業の神を祭った塔である。 春分・秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日には、田の神と山の神が交代するので、農業の始まりと終わりであるという信仰から、鍬(くわ)、鋤(すき)を休ませて田畑を耕さないという地神講が行われていた と。海老名市本郷467。県道22号線・横浜伊勢原線に合流し横断歩道を渡る。海老名市本郷の住宅街を進むと右手にあった小さな社。朱の鳥居の先に社が。「稲荷社」であろう。内陣には狐様が。そしてその先にあったのが「石造宝篋印塔石灯籠」。本郷の高台から目久尻川沿いの低地に下りる坂道の途中にあり、すぐ横は竹林になっていた。海老名市本郷3067。海老名市指定の重要文化財。石造の宝篋印塔は高さ3.19mで承應3(1654)年に建立された。台座の銘文から大阪堺の僧不休をはじめとして摂津住吉、海老名の本郷を中心とした近郷、近在の130人からの援助により建てられたことがわかっていると。石灯籠は、高さ1.65mで建立時期や発起人も宝篋印塔と同じ。「海老名市指定重要文化財常念寺(現在廃寺)石造宝篋印塔石灯籠」「記念碑この地に安置されている釈迦立像宝篋印塔 石塔篭等の石造物は今から三百四十年程前 栄えた常念寺(通稱お釈迦様)の面影を偲び我々の先祖を語る貴重な遺物です。この度周辺道路の拡幅工事が行われるにあたり、釈迦堂の再建と境内を整備し、この遺物が後世に末永く伝承されることを念じ、記念碑を建立す。」「御堂」がその横に。内部には石仏がニ体。「阿弥陀如来像」であろうか。「大日如来」と刻まれていたが。歴史を感じさせる石仏。「ここに掲示されている和鏡と鉦は、昭和51年5月23日(1976)この地に安置されている」宝篋印塔 の下から出土した室町時代のもので、用途としては神(信仰の対象)としての和鏡装飾宝物としての鉦といわれる貴重な文化財です。この度境内整備を行うにあたり往時を偲び元の宝篋印塔の基に納めたので模写品として掲額す。」「石灯籠」と「石造宝篋印塔」を振り返る。その奥にも石碑が並んでいた。直ぐ西にあったのが「毎日新聞首都圏センター」。毎日新聞東京本社の、神奈川県、埼玉県、福島県、宮城県、山形県で発行される新聞を印刷する工場、並びにその運営会社(株式会社毎日新聞首都圏センター)である と。そして次に訪ねたのが「本郷神社」。直線的なこの鳥居は「神明鳥居」。海老名市本郷2257。社号標石「村社 本郷神社」。狛犬(阿形像)(右)、大正6と刻まれていた。狛犬(吽形像)(左)。境内右手にあったのが「本郷天満宮」。海老名市本郷2657。社号標石「本郷天満宮」。「拝殿」。「絵馬のいわれ絵馬は本来神の馬 神の乗り物に考えられ馬または木馬の代わりに神前に捧げられたものです。祈願のとき願いごとがかなったときお礼として馬などの絵を描いた板額を奉納する風習が現在に至っております。お参りの際にはその年の願いごとをお掛けください。」近づいて。「本郷神社末社天満宮祭神 菅原道真公・天満大自在天神・大威徳天天神さんの呼び名で親しまれ合格祈願の受験生でにぎわう学問の神でもあります。もともと天神とは地神に対する天神のことで天から降臨された神のことですがこれが平安時代に菅原道真公の霊を祀ったことによりだんだんと全国に広まっていきました。この度本郷神社氏子の総意にて神社合祀より百年を記念して境内社として社の祠に奉斎されていた天満宮を新たに御造営し文化の神・学問の神として崇敬し地域人材の育成と発展を願いここに荘厳な御社殿が御造営されました。なお本郷神社御本殿に合祀されました。天満宮もここに御遷座されました。」「本郷神社」の「手水舎」。「神楽殿」。扁額「聖徳無窮」であろう。歴代天皇陛下のご聖徳をしのび、皇統の無窮を祈り自然を慈しみその恵みに感謝する意でると。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。そして「本郷神社」の「本殿」。見事な彫刻。扁額「本郷神社」。境内の大きな樹。「海老名市自然緑地保存樹木第166号 平成17年7月1日指定樹木名 ケヤキ幹の囲囲 3. 00メートル所有者又管理者住所 海老名市本郷2567番地民名 本郷神社」お顔を補修された石仏他が並ぶ。「西国秩父坂東順禮」碑。「此方 大山道」碑大山道道標。弘化四未年(1847年)造立。「郷土かるた 「ほ」」「本郷の 遺跡から出た 小銅鐸」に立ち寄る。富士フイルムビジネスイノベーション(株)から有馬小・中学校まで広がる大規模な遺跡で、発掘調査により縄文時代から江戸時代までの遺構や遺物が出土しています。本郷遺跡では、古墳時代前期と推定される玉作り工房や小銅鐸などが出土しています。小銅鐸は、高さ約8センチメートルで、個人の祭祀に使用されていたのではないかと考えられています。本郷中谷津遺跡でも、玉作り工房が発見されていて、玉作り拠点になっていたのではないかともいわれています。奈良時代から平安時代にも大規模な集落が営まれ、梁行き4.4メートル・桁行き23メートル以上という長大な掘立柱建物跡や、数多くの墨書土器・大型掘立柱建物跡群などが発見されていることから、一般的な集落ではなかったと考えられています。富士フイルムビジネスイノベーション(株)巨大駐車場角には比較的新しくしっかりとした御堂が。堂の中に「不動明王坐像」と「二十三夜塔」が祀ってあった。海老名市本郷2263。「廿三夜供養塔」碑。「不動明王」仏。ここの道は大山への参詣者が通る道「大山道」のひとつである柏尾通り大山道であり、大山寺の本尊が不動明王と言う事で、道沿いにはあちこちに不動明王像があるのだった。不動明王光背の火焔が色鮮やか。「南一之宮道 北かしおみち ふじさわみち」と刻まれ、大山道道標を兼ねていた。像の台座には「大山 不動明王」と。微妙にズレた四つ角には「通行自主規制 FUJIFILM関係車両」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.30
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「本郷ふれあい公園」を後にして100m程の場所にあった「寿閑寺」を訪ねた。道路沿いの石段の上に「山門」が見えた。海老名市 本郷3453。寿閑寺入口階段の下にあった「海老名郷土かるた「ゆ」」「ゆかりある 蘇生延寿の 鐘かえる」。題目碑「南無妙法蓮華経」。「石段供羪塔」碑。石段を上って行った。「南無妙法蓮華経 當山山門再建碑」。「山門」。」扁額は「念濟山」。山門をくぐると「日蓮聖人像」が迎えてくれた。「五重石塔」。「南無本化上行日蓮大菩薩第七百遠忌御報恩謝徳念濟山壽閑寺大本堂再建記念碑」。「鐘楼」。「梵鐘」。「壽閑寺梵鐘の由来念濟山と号す。創建は弘治三年(一五五七)五月。開山成就院念濟日意聖人。本山妙純寺宿老と伝う。梵鐘は延宝三年(一六七五)乃木希典将軍先祖源頼朝の重臣佐々木高綱の後裔(こうえい)乃木壽閑居士の寄進に依る。」この幻の名鐘を「蘓生延寿(そせいえんじゅ)の鐘」と称す。「本堂」「新編相模国風土記稿」では、山号を念斎山、妙純寺(厚木市金田)の末寺とされています。本尊は一塔両尊で、題目塔の脇に木造釈迦如来坐像と木造多宝如来坐像を配しています。両像は作風から、江戸時代前期作と考えられています。この他、文殊・普賢両菩薩坐像や四菩薩立像、元禄16年(1703)作の不動明王坐像と愛染明王坐像、四天王立像、鬼子母神像、十羅刹女像などが安置されていて、近世日蓮宗において信仰されている尊像が一通り安置されています。また、天和2年(1682)に鎌倉扇谷の仏師・三橋伝之丞によって造立された木造日蓮聖人坐像や、元禄11年(1698)に鎌倉の仏師・三橋重郎兵衛が造立した木造大黒天立像なども安置されています。寿閑寺は、日意によって開山され、円応院寿閑日到(?~1673)が開基と伝わることから、江戸時代前期頃に建立されたと考えられます。「本堂」前の石灯籠。「本堂」の扁額は「壽閑寺」。御堂の中に石仏が。石仏の名は?浄行菩薩?台座にタワシが置かれ、願い事をする人はこのタワシで浄行菩薩を洗い清めるのであろう。「十三重石塔」。岩積みの中にも石碑が。西側にも山門が。こちらの山門の扁額は「思親門」。掲示板には「善悪の全ては自身の中にある」と。壽閑寺所蔵の海老名市指定重要有形文化財の「脇侍二菩薩」案内板。「日蓮宗のお寺には「南無妙法蓮華経」という題目を書いた宝塔を中心に、『法華経』の世界をあらわすたくさんの仏像を配置するのが一般的です。この脇侍二菩薩像はその中の二体です。普賢菩薩は象に、文殊菩薩は獅子に乗る姿にあらわされます。ニ像とも本体はヒノキ材割矧ぎ(わりはぎ)造りで表面は金泥塗り・漆箔。眼には水晶の玉眼を嵌(は)めています。像内に墨書があり、天和四年(一六八四)鎌倉扇谷の仏師である三橋伝之丞(宗三)の作とわかるのが貴重です。」「普賢菩薩像 総高一〇八・八センチ、像高三一・ニセンチ」「文殊菩薩像 総高一〇九・ニセンチ、像高三一・七センチ」西側の駐車場から「壽閑寺」の「本堂」を見る。上空には海上自衛隊機が厚木航空基地から飛び立って。「壽閑寺」の「本堂」と西側の山門・「思親門」を振り返る。「壽閑寺」を後にして更に西に進む。城・寺の如き民家が右手に。「自然と歴史のさんぽみち」この道は「大山道」であると。ここは海老名市本郷3 4 3 9番付近であると。路地の角に「道祖神」。海老名市本郷3439−11。その先の路地の角にも大きな石碑が。「花蓮港廳巡査勲七等出井奥次郎墓」碑と。花蓮港庁(花蓮港廳、かれんこうちょう)は、かつて台湾の地方行政区分だった五州三庁の一つで、現在の花蓮県にあたる。そして「真光寺」の路地の角にあった石碑群。道祖神等を集めたのであろうか。「道祖神」の文字が確認できる石碑もあった。そしてここが「真光寺」の山門。「如法山 真光寺」。「地蔵堂」。「如法山真光寺境内地蔵尊縁起地蔵尊は三体あり 五輪塔一体前方左右に法塔二基中央奉造立地蔵菩薩魚而縁等為憲順菩提当村施主石川氏寛延四年天朔日右錦覚寿音信士宝暦五乙亥六月十一日菩提也 施主 出井氏敬白当村上村俗名出井佐五右衛門 行年 三十六歳前方五輪塔 岩船地蔵尊相州高座郡恩馬根新宿中前方右南無阿弥陀佛徳本 念佛講中文政八酉年十月大吉辰雲晴院浄誉相頓居士 杉久保村藤左衛門事先祖代々後世安楽上河内村大貫光菊事香誉得入伯秀禅定門宗 石川左衛門事左辨誉上人安永八年九月十七日当山十四世前の右先祖代々後世安楽本宿村前右衛門安藤茂右衛門 本郷村庄右衛門門主祐林 〃 忠左衛門志世話人 下河内村弥左衛門上河内村大貫半兵衛 新宿講中門沢橋村治右衛門倉見村友右衛門此の地蔵尊は高座郡は二十四ヶ所の札所の内二十ニ番目に当りその御詠歌はたておきし誓いをたのみめぐりきてまことの光拝むこの寺子育て子供の非行防止に霊験あらたかであり近隣の信仰を集めている。近年堂宇老朽化が激しくなり為に柤徒石川富司氏が私財を投じ自作する。平素佛心に厚く見上げた心情である。落慶式は平成十一年十一月に勤修」三体の地蔵尊。地蔵尊前に「観音像」と独特の書体の「徳本念仏塔」が立っていた。左手の「観音像」。「辨誉上人」と。右手の石碑が「徳本念仏塔」。「本堂」。海老名市本郷462−1。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.29
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「吉祥寺」を後にして竹林の中にある山道を東に向かって上って行った。途中左折して北に向かうと、右側にあったのが「海老名市立 本郷コミュニティセンター」。本郷地区は海老名市内南東端に位置し、相模野台地から相模平野にかけて広がる。北で中河内・上河内・杉久保南、東で綾瀬市吉岡および藤沢市用田、南で藤沢市宮原および高座郡寒川町倉見、西で門沢橋・中野とそれぞれ隣接する地域。これまでに訪ねて来た社寺の名前が。そして田園の中のT字路の「自然と歴史のさんぽみち」案内板にはこの後訪ねた社寺の名前が。「金剛寺」に向かって進む。収穫前の水田が一面に拡がる。「金剛寺」まで500mとの案内表示が坂道の下に。「自然と歴史のさんぽみち」案内板の向かいの道路脇にあった「石碑群」。中央には「不動明王」と刻まれた石碑が。左右には「道祖神」と。海老名市本郷4197付近。さらに本郷地区の坂道を上って行った。Iphoneの案内に従い進むと畑地の前にある「金剛寺」に到着。「真言宗 大覚寺派 瑠璃光山 金剛寺」と。左手に「金剛寺」の「山門」と「本堂」が現れた。寺号標石「瑠璃光山 金剛寺」。「本堂」。瑠璃光山薬師院金剛寺と号す。金剛寺の創建年代等は不詳ながら、歴代住職のうち僧賴圓は元和9年(1623)に寂していることから、江戸時代初期には既に創建されていた と。本尊は薬師如来像。1階は鉄筋コンクリート作りでありその上2階に「本堂」があり現代的か。海老名市本郷3391。掲示板には「魂を彼岸に遊び心を道場につなぐ」と。2階の「本堂」への石段の横奥には石灯籠、石仏が。石灯籠の間に石仏が2体。「聖観世音菩薩」像。「子安地蔵尊」。「本堂」の左奥・境内には稲荷神社が。扁額「稲荷大明神」と。「社殿」。小さな五輪塔。「本堂」の扁額は「瑠璃光山」。2階の「本堂」前から朱の「山門」を見る。筋塀(すじべい)には3本線が。この横方向に何本か入っている線がある土塀は、必ず皇室と関わりのあるお寺にしか許されていないことを知ったのは、鎌倉の寺に関するブログを書いていた時。この所謂『定規筋』にもその格式の高さにより三本、四本、五本の三種があり、五本の筋が入っているものが最も格式が高いとされているとのこと。この「金剛山」と皇室との具体的関係は?必ずしも皇室と関係ありとは言えないものもあるようだが・・・。筋塀の前に石碑が。石碑には「鐘堂趾」と刻まれていた。そして再びIphoneの案内に従い未舗装の山道を進む。県道43号線に出て右折して進むと我市の「江の島 藤沢」の道路案内標識が姿を現した。神奈中「根恩馬(ねおま)」バス停前を通過。目久尻川を挟んで左手が藤沢市、右手が海老名市でその間を綾瀬市が細長く続く場所。この周辺は恩馬郷と呼ばれていたそうで、段丘の尾根の付け根に位置することから「根恩馬」という地名になったのだと。そして左側に見えて来たのが、綾瀬市の「神崎遺跡公園」内にある「神崎遺跡資料館」👈リンク。ここは綾瀬市の散策の際に訪ねた場所であった。「用田橋際」交差点を直進する。ここは県道43号線・藤沢厚木線と県道22号線・横浜伊勢原線の交差点。右手にあったのが「本郷ふれあい公園」。海老名市本郷 3611番1。2020年にできた新しい公園。公園の近くに目久尻川が流れ、東海道新幹線の線路があるので、運が良ければ新幹線が通る様子を見ることができる公園。鉄道好きの子供にはたまらないお出かけスポット。「目久尻川」に架かる「用田橋」を渡ると我が市「藤沢市」なのであった。広域水道企業団目久尻川水道橋が横に。この水管橋は伊勢原浄水場を発し海老名市の有馬、本郷の給水地点、ここ用田を経由し藤沢市の稲荷給水地点へ向かう酒匂川系統の送水管路線である。美しく整備された公園。総面積約1万1千平方メートルの敷地内にはもともとあった樹林地と調和した花壇や散策路、ベンチが設けられ、四季の草花を鑑賞できるほか、東海道新幹線を望める見晴らし台を整備。そのほか子ども向けの遊具をはじめ、ぶら下がりや腕・脚伸ばしなど、健康増進に役立つ健康遊具もあり、多世代が楽しめる環境となっている。公園の前の石碑群。中央の石碑の上部には石仏の姿が。「養蚕守護金色大天女」と刻まれた石碑。中央は頭が失われた石仏であろうか。案内碑には「養蠶供養塔 明治二十ニ年五月六日創建 大正九年拾月六日再建」と刻まれていた。この公園は昨年4月に稼働したごみ処理施設「高座クリーンセンター」の建設に伴い、近隣住民から「周辺整備として市民に親しまれる公園を作って欲しい」という要望のもと設置されたもの。住民と協議を重ね、豊かな自然環境を生かしながら「広域避難場所」としての機能も併せ持つ施設として建設されたのだと。折しも新幹線下り線が通過。「本郷ふれあい公園」案内板。近くにある「高座クリーンセンター」をズームで。海老名市本郷1−1。海老名、座間、綾瀬市の広域的なごみ処理を担う高座清掃施設組合(海老名市本郷)のごみ処理施設。廃棄物処理と廃棄物発電、マテリアルリサイクルなどを行う。廃棄物焼却施設では三菱重工環境・化学エンジニアリング(横浜市)が建設したストーカ式焼却炉を使用しており、19年4月に稼働開始した。焼却時に発生した蒸気により発電を行い、施設の運営に使用するほか、余った電気を売電している。焼却灰は鉄、灰、飛灰処理物に分け、リサイクル会社に搬出する。粗大ゴミや不燃ゴミはマテリアルリサイクル施設で破砕、選別し、アルミ類や鉄類をリサイクル施設に搬出している と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.28
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「貴日土神社」を後にして、南に進み、直ぐ左折して海老名市立有馬小学校の前を進む。有馬小学校の右手向かいにあった石碑群。この場所も有馬小学校向専有地のようであった。左から「忠魂碑」 海老名市中河内1785-2。趣旨(英霊) 表面:日清日露、日独戦役(推測)における戦没者の慰霊顕彰 裏面:太平洋戦争における戦没者150有余の慰霊顕彰 碑文 大正15年4月1日 有馬村 有馬村在郷軍人会 建立* 元帥陸軍大将子爵 川村 景明 書裏面) 大東亜戦争における戦没者150余柱の慰霊顕彰 ・殉國英霊 ・御芳名刻印 昭和22年8月1日 有馬村遺族後援会 増刻(再建?)「かながわのいしぶみ」から大正12年に有馬村より忠魂碑建立の指示があったが、大正震災の影響で延期されておりました。しかし、大正15年に建立され、有馬村長、三橋崎造氏により除幕式が取り行われました。終戦時には、軍国教育禁止令前に、地元郷友会により碑を本覚寺境内の竹薮に隠し、その後昭和22年頃、有志が集まり碑を再建しました。現在の維持管理は、地元郷友会の手で春秋彼岸2回行われています。隣中央に「義勇奉公」碑。海老名市中河内1785-2 有馬小学校向専有地趣旨(英霊) 西南役、日清日露、暴徒鎮霊、大正3年乃至9年役独、尼港事変、霧社事変における従軍者の顕彰碑文 各戦役毎に従軍者138名の御芳名刻印 大正12年 建立 有馬村在郷軍人会* 陸軍大将 鈴木壮六 書従軍者氏名 趣旨(英霊) 各種戦役における従軍者428名の顕彰碑文(表面) 従軍者の御芳名 刻印 (地区毎)(裏面) 明治6年徴兵令が施行され国民皆兵となり 我等が先輩は各戦役に参加大いに国威を宣揚した。昭和20年大東亜戦争の終結により70年の歴史を閉じたが、その遺勲を顕彰するため、有志相諮り明治百年記念事業として茲に従軍者の名を刻し後世に伝える 昭和四十四年七月 海老名郷友会「海老名市立有馬小学校」の校門。そして右に折れて進むと次に訪ねた「阿妻山 本覚寺」が見えてきた。「阿妻山 本覚寺」の山門。山門にあった「海老名市指定重要文化財 本覺寺 大日如来坐像 昭和五十ニ年十月十ニ日指定」檜(ひのき)材寄木造、玉眼嵌人(かんにゅう)で像高は43.7cです。像は、結跏趺坐(けっかふざ)した状態で法界定印(ほうかいじょういん)を結んでいることから、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来に分類されます。目鼻立のとおった写実的な作風は鎌倉様式をもっていますが、台座の銘から江戸時代中期の正徳元年(1711)に、江戸仏師法橋石見(ほいきょういわみ)によって造像されたことが知られ、その基準作といわれています。」「大日如来坐像」。寺号標石「真言宗 本覺寺」。「毘沙門天王」の幟が並ぶ、相模七福神の一つ、「毘沙門天王」の寺。「五重石塔」。「毘沙門天」堂。「広目天」、「増長天」、「持国天」碑。「水子地蔵」。「聖観音菩薩」像であろうか。お顔をズームで。「寺務所」。宗祖「空海(弘法大師)」像。お顔をズームで。「石造供養塔」。「青銅灯籠」「本堂」。本覺寺の創建年代等は不詳ながら、15世紀半ばには既に創建されていたと考えられています。「新編相模国風土記稿には阿妻山と號す、古義眞言宗(岡田村安楽寺末)本尊大日(坐像長一尺六寸、往昔中河内村吾妻坂の地を掘て得しと云、)又毘沙門の像を置く(弘法大師作、長三尺八寸、)寺寶に弘法大師筆心經一巻あり、鐘樓。延宝四年鑄造す」 と。扁額「阿妻山 」。境内のベンチで休憩、水分補給。「青銅灯籠」一対と五重石塔を見る。そして次に訪ねたのが「真言宗 吉祥寺」。「吉祥寺」の境内入口。寺号標石「真言宗 東榮山 吉祥寺」。「山門」。「真言宗 大覚寺派 東栄山 吉祥寺」。「本堂」。吉祥寺の創建年代等は不詳ながら、歴世僧に善慶(慶長2年1597年卒)がいることから、少なくとも安土桃山時代には既に創建されていた と。本尊は「不動明王」海老名市中河内1709。扁額「吉祥寺」。「鐘楼」。梵鐘は享保二年(1717)造と。「六地蔵」。先代の「六地蔵」か?こちらにも。「宝篋印塔」。無縁塚か?「真言宗 東榮山 吉祥寺世代塔」と「聖観音菩薩」像。近づいて。境内の高台から。大きな墓地の先に大山の姿が。「本堂」を見る。「真言宗 東榮山 吉祥寺世代塔」と「聖観音菩薩」像を上から。多くの墓石、石像が並ぶ。下に下りて再び「本堂」を振り返る。寺務所。「童水子地蔵」。「童水子地蔵この世の中には、墓もなければ位牌もない、流産、中絶など悲しい迷える水子の霊がたくさんあります。お地蔵様を建て、自分の水子の霊を供養して下さい。子供の家庭内暴力や、体の病弱な人、心配事の絶えないひと、安産、子育、受験合格などお地蔵様に願(がん)をかけて下さい。苦しみや悩みから必ず救われるでしょう。」「吉祥寺」を後にしてIphoneの案内に従い、墓地の脇の道を山に向かって進んで行くと左手にあったのが「双体道祖神」像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.27
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「椿地蔵」を後にして、直ぐ北側にあった「杉久保第一児童公園」に立ち寄った。ここにあったのが「有馬水道記念碑海老名町旧有馬地区は往時から良質な地下水が存在し、井戸水が滾滾と湧く自然水の恵みに浴してゐたのであるが社会開発の進むにつれ急速に枯渇しはじめ日常飲料水にもこと欠く事態となり。生活上由々しき問題となった。昭和三十四年の夏当時の部落区長及び町議会議員の職にある者相寄り相謀りこれが対策のため日夜談合を重ね種々方策を講究した結果地区内に浄水場を有する横須賀市水道からの分水による簡易水道布設が最も適切な処置であるとし関係当局に実情を訴え地域住民を啓発しこれが促進を期するため今年十一月有馬水道期成同盟会を結成し実行委員会挙げ計画の策定既設地区度の視察地域内の実地踏査を行い数度に亘り町県当局及び厚生省に接渉した◯にして横須賀当局のご理解もあり漸く昭和三十五年からニヶ年継続事業として給水人口五〇〇〇人を見込み総事業費三七四ニニ千円を以って町営実施の運びに至らしめた。これと同時に期成同盟会を切替えることとし加入者を会員する有馬水道組合を組織組合長に期成を推進して貰った役員の中から金指喜代治氏を推し◯組合長以下の役員を選出自主的に事業に協力することになり爾来住民福祉の向上と事業の円滑な運営に努力を傾けて来た結果当初加入約八〇〇戸から一五〇〇戸を超える規模ににまで生々発展し水道事業とする域にまで成長した。ここに於いてこの事業が〇〇と確固たる基盤を有するに至った事を認め当初有志の目的を充分達しものとして昭和四十二年十ニ月発展解消することにした。茲に組合」解消に当たり発◯起当初数々の御苦労と輝やかしい功績を積まれた実行委員各位の名をささやかな碑に託し後世に残さんとするものである。」海老名市杉久保南2丁目4。公園内には小さな社が。稲荷社であろうか。大山の勇姿がはっきりと。そして県道43号線の「杉久保南四丁目」交差点を渡り、次の目的地の「定国寺」に向かって進む。そして「定國寺(じょうこくじ)」山門に到着。「臨済宗建長寺派」。「明寶山 定國寺」。正面に立派な本堂が。「水子地蔵尊」。ズームして。更に。「六地蔵尊」。「庚申塔」が並ぶ。「本堂」「定國寺」は、圓模(永享3年1431年卒)が開山したと。本尊は釈迦如来像。「本堂」は六間四方で、三面がガラス張り。海老名市上河内1086 扁額「定國禪寺」内陣。内陣の扁額は「明寶山」。墓地。「畜霊の塔」。「馬頭観世音」碑。こちらも「馬頭観世音」碑。石祠。「聖観音菩薩像」か。お顔をズームで。寺務所。巨大な屋根には「卍」紋と 北条家の家紋「三つ鱗」が。そして次に訪ねたのが「有馬浄水場」。「横須賀市水道局有馬浄水場」。有馬浄水場は、海老名市中河内にある横須賀市の浄水場。旧海軍の浄水場として創設されたが、第2次大戦後、旧軍港転換法により横須賀市に無償譲渡され、数次の拡張事業などを経て、現在は、日量73,900m3の水道水を造り出すことができる浄水場。有馬浄水場は、相模川の表流水を水源として、約2km離れた社家の相模大堰から取水し、浄水した水を約29km離れた横須賀市内まで送水している。有馬浄水場では、粒状活性炭を用いた高度浄水処理を採用し、急速ろ過方式により浄水処理を行っている。有馬浄水場の敷地面積は46,500平方メートルで、沈でん池、活性炭吸着池、ろ過池、調整池、天日乾燥床などの施設を配し、これらの施設の運転について管理本館内の中央管理室で24時間常に集中管理するとともに、浄水工程や水源の水質検査なども有馬浄水場で行われている。また、有馬浄水場では、神奈川県内広域水道企業団が持つ浄水場のうち、酒匂川を水源とする伊勢原浄水場で浄水された水を受水し、有馬浄水場で浄水した水とあわせて横須賀市内まで送水しているのだと。門は閉まっていた。門の脇には横型ポンプが展示されていた。「管理棟」。上空から見た「有馬浄水場」。そして「有馬浄水場」の脇の道を西に進む。左手に「海老名市立有馬中学校」海老名市本郷4601。その隣に「海老名市立有馬小学校」海老名市中河内1784。突き当りを左折して進むと左手に「吾妻坂」案内柱があった。むかし、この坂修復工事の際、仏像が掘り出され今も近くの本覚寺に安置されています。この寺の山号を吾妻山ということから、この名がつけられたようです。また別名「泣き別れ坂」ともいわれ、悲しい歴史を持つ坂でもあります。その手前にあった石碑群。「泣き別れ坂」にあった石仏には言い伝えがあるとのことだが・・・。石碑には「・・・神位」とあるが解読不能。供養塔のようであるが。そして「吾妻坂」を下って行くと右手奥にあったのが「貴日土(きびと)神社」。「貴日土神社」の参道を進む。「鳥居移築」碑。「大東亜戦争陣地構築の廃土 基礎埋没につき移築改修」と。狛犬(阿形像(右))。狛犬(吽形像(左))。石鳥居を潜る。右手奥にあったのが「御獄大神」。小さな「社殿」。境内の左手に「中河内自治会館」が。「拝殿」。明治8(1875)年10月に、中河内村内の弁財天・稲荷・金比羅の3社を合祀して創建されました。神体は丸石です。社殿は、金比羅社(旧河内村の鎮守)の本殿を充当したものといわれています。境内に文久2(1862)年8月に、佐藤八左衛門が寄進した手水鉢がありますが、これは合祀以前の3社のいずれかのものと思われます。トタン屋根の社殿であった。「貴日土(きびつ)」の社名は、中河内村の寺子屋の師匠植田佐兵衛が、農業にとって大切な「日を貴び、土を貴ぶ」という意味で名づけたといわれています。明治24年に改築されています。また、境内には武州御嶽大神を祀った社があります。「 貴日土神社 所在地 海老名市中河内一七四三番地 祭神 稲荷社(宇気母知命・倉稲魂命) 享保六年辛丑十一月、勧請。 厳島大神(市岐島姫命) 宝暦六年丙子九月、相殿。 琴平宮(大物主命) 秋葉大神(火之迦具土神) 東照宮(徳川家康) 文化十三年三月。 山王宮(日枝大神・大山咋命) 文化十三年丙子相殿。 明治八年十月合併、貴日土神社と改称。明治二十四年九月、改築。 明治二十七年八月、台風により倒壊・復元。 昭和五年四月、改築現在に至る。 境内神社 御嶽大神(日本武命) 武州御獄山を勧請」境内の石碑群。境内から大山を見る。富士山の姿も。丹沢山塊の東端、宮ヶ瀬ダムの東側に聳える山々であろうか?「馬頭観世音」碑。「自然と歴史のさんぽみち」ここは「貴日土(きびと)神社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.26
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次海老名市杉久保北4丁目2の住宅街を東に進む。そして前方に前回訪ねた「杉久保富谷横穴墓群」があった「杉久保富谷児童公園」が見えて来た。「杉久保富谷児童公園」の角を左に曲がり更に東に進むと左手に「海老名市消防団 第10分団」の建物があった。シャッターには「非常用飲料水」や「災害対応型自販機」、「防災倉庫」の場所を見える化した「防災マップ」が描かれていました。相鉄バス「杉久保住宅」バス停前を通過。「海上自衛隊 厚木航空基地」への着陸態勢の海上自衛隊機の姿が上空に。そして「かぶき場の坂」手前の路地まで進む。ここが「かぶき場の坂」。「かぶき場の坂」案内柱。「坂を上がった南側の斜面が「かぶき場」と呼ばれており、そこへ上がる坂であるためこの名がついたと考えられます。「かぶき」は、傾くという意味の「かぶく」が訛りかぶきになったといわれています。」坂を上がった南側の斜面が「かぶき場」。一面にキャベツ畑が拡がっていた。そして「神奈川県立かながわ農業アカデミー」の敷地内を歩く。県立の農業者研修教育施設。 各県の農業大学校と同じである。人事院規則により、生産技術科は卒業時に短期大学2年卒相当の 資格を得られるのだと。直売所にもなっている建物。「情熱直売所」の文字が。そしてこちらが「神奈川県立かながわ農業アカデミー」の正門。「神奈川県立かながわ農業アカデミー」。郷土かるた 「ち」「地の利えて 館構えた 遠馬氏」縄文時代早期の落とし穴状土坑と炉穴、弥生時代の環濠の一部とされる溝状遺構と方形周溝墓の溝が発掘調査により出土した。環濠と推定される溝からは、深鉢と壷の合口土器棺が発見されている。出土した土器の年代等から弥生時代中期と考えられている。かながわ農業アカデミーの敷地内に渋谷一族の遠馬氏が館を構え、遠馬城があったと伝えられているが、発掘調査などでは今のところ見つかっていない と。次の目的地の「有馬のはるにれ」に向かって県道406号線・吉岡海老名線を南に進む。この道路沿いは、産廃物の中間処理・リサイクル工場が左右に並んでいた。ひたすら前方に向けて歩いたのであった。途中、右手にあったのが「社会福祉法人中心会 えびな南高齢者施設」。7施設の老人ホームを展開する社会福祉法人 中心会が運営する2000年4月1日に開設された定員45名の特別養護老人ホームであると。隣に「社会福祉法人星谷会 星谷学園」。知的障害者支援施設であると。いずれも立派な建物が並ぶ。そして右側に大きな石碑があった。「驢庵半井瑞壽館阯之碑」。「有馬のはるにれ」。海老名市本郷3881。この碑には「名木 なんぢやもんぢや」と。裏側には「昭和十一年十二月建立」、「有馬村史蹟保存協会」と。郷土かるた 「な」「なんじゃもんじゃ そびえる 驢庵屋敷跡」。江戸時代の御典医・半井驢庵(なからいろあん)が朝鮮半島から持ち帰り、屋敷の門の両側に植樹されたうちの一本と伝えられ、樹齢は300年以上と考えられています。当時ハルニレは大変珍しい木であったため、木の名前がわからず「なんじゃもんじゃ」の木と呼ばれるようになったといわれています。「県指定天然記念物 有馬のはるにれ」和名:ハルニレ(ニレ科)このハルニレは、徳川幕府の御典医であった半井驢庵が、寛永年間にこの地に構えた屋敷内にあったと伝えられています。樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ、親しまれてきました。昭和59年1 2月には「かながわの名木1 OO選」に選定されている。樹高 1 5メートル 胸高周囲 8.6メートル樹齢 約350年以上(推定)ハルニレは北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。」多くの支柱に支えられていた。そして幹の下部は腐食した部分を切り取って殺菌した後、木の表面をコーティングし、治療されて木が枯れるのを防いでいた。そしてIphoneの道案内に素直に従い畦道を進む。イノシシが出てきそうな道を案内され進む。畑にポツンとあった「道祖神」碑。海老名市杉久保南4丁目27付近。レタス畑であろうか穴空きマルチに一面に。そして路地の角にあった「椿地蔵尊」に到着。海老名市杉久保南2丁目6−12。「椿地蔵尊供養日 秋季彼岸中日祈願成就●子授 ●安産●子育 ●進学●家内安全夫婦仲よく良い子は育つ母が拝めば子も拝む拝む心の美しさ久光山善教寺」「史跡 玉椿地蔵」碑。手前には何故か首を落とされた地蔵尊が並べられ、この世の無常を全身で代弁しているかのようであった。「玉椿地蔵由緒」碑。「時恰も(あたかも)元禄の初め、きさらぎの風荒むここ杉久保村、千躰寺門前に旅装いの母娘づれが通りかかり 突如娘が傍の大松の根本に病の為立ちすくんだ母御の驚きと焦りは譬えようなく、伝え聞いて里人達が馳せつけ 共々介抱に手を尽くしたがその甲斐なく、夕闇迫る頃遂に帰らぬ旅路の人となった。居合わせた者の助力を得 亡骸を寺内に移し通夜が営まれる。江戸の屋敷にニ人だけの侘び住まいと云うのみで母なる人も他は多くを語らなかったが高雅な気品を備えた人柄がそれとなく誰にもしのばれた 曽て御殿勤めのおり 知遇を受けた将軍家の侍医半井驢庵を頼り この所まで来た途上の出来事と知れた花なら蕾、寄る辺なき僻地に於て、あたら無常の風に誘われた妙齢の見目美しき可憐な顔ばせは 並居る人の眼裏に強く焼きつき香煙供花の絶える事なき幾日か続いた たまたま供えし一枝が根付き成木したのが現在の椿である。以来幾星霜 この悲運の乙女心を心として咲くを待たずに落ち尽くす 唇に僅か紅を綻ばせ はかなく地に帰る この事実を常の習わしとして今に及んでいる。」石碑の前に祈りの石仏。「椿地蔵のツバキ椿地蔵のツバキは、樹高4・5メートル、言い伝えによれぼ樹齢約三百年。この木は、つぼみがふくらんで色づきますが、遺伝子的な理由からか、っぽみのまま落ちてしまうので、「玉椿」と呼ばれています。この木には、次のような話が伝わっています。今から三百年ほど前のこと。さる武家の母娘が、娘の長患いを治してもらうため、江戸から当地に滞在する名医半井驢庵を訪ねてきました。しかしその途中、杉久保にあった千躰寺の前を通りかかったときに、娘が苦しみ出し、村人や母の介抱のかいなく、亡くなってしまいました。不憫に思った村人は、娘を手厚く弔って地蔵堂を建て、椿を供えました。やがて、その一枝が根付いて成長しましたが、不思議な事に、椿はつぼみを持つのに花が咲きまん。村人たちは、若くして花咲くこともなく亡くなった娘の霊が乗り移ったのだろう、と話し合いました。この話は、海老名のむかしばなしとして、広く市民に親しまています。」「椿地蔵のツバキ」。「椿地蔵堂」。「椿地蔵尊」。そして近くには相鉄バス「椿地蔵」バス停があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.25
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「浄光寺」を後にして、再び産業道路に出て「運動公園入口」交差点を渡る。交差点の角にニ社が鎮座していた。左手前は「稲荷社」で右奥が「山王社」。海老名市中新田5丁目20−7。「稲荷社」。内陣には石祠と狐様の姿が。そして「山王社」。内陣。産業道路の歩道脇にあった「道祖神」。そして次の目的地の「東林寺」に向かって海老名市今里3丁目の住宅街を東に進む。道路脇にあった比較的新しい石仏。県道43号線に合流した角にあった「道祖神」碑。「昭和四十六年四月吉日 道祖神 今里下講中」と。「今里」交差点を通過し「東光寺」に向かって更に北に進む。県道43号線・藤沢厚木線を北上して行くと「禅宗 東林寺」と書かれた案内板が。左手に入ると「東林寺」の本堂が見えた。「郷土かるた 「か」」「唐金の 如来静かに 東林寺」。「海老名市指定重要文化財 大日如来坐像東林寺は、臨済宗鎌倉円覚寺末寺で、鎌倉扇ケ谷にありましたが、天正十三年(一五八五)、禅師の芳菊により、当地に移転再建されたと伝えられています。本尊の大日如来は、密教の最高位の仏で、宇宙そのものをあらわし、諸仏の王とされています。仏像は、高さ四六・五センチの銅造、中は空洞で、冥想に人って思惟(心で深く考える)する法界定印を結んだ像となっています。像容は、鎌倉時代の特徴を伝えますが、天文四年(一五三五)の銘文があることから、室町時代に製作されたと考えられます。」二つの御堂があった。この御堂の名は?「内陣」。こちらは地蔵堂か。地蔵尊が2体。歴史を感じさせる石碑が並ぶ。「手水舎」。「冥加」とは気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵。また、思いがけない幸せの事 と。「本堂」。臨済宗円覚寺派寺院の東林寺は、明徳山と号す。東林寺の創建年代等は不詳ながら、芳菊禅師(元和5年1619年寂)が天正13年(1585)鎌倉扇ヶ谷から当地へ移転して開山、慶安2年(1649)には寺領7石2斗の御朱印状を受領したといいます。本尊:大日如来像海老名市今里3-10。扁額「明徳山」。「東林寺」を後にして県道43号線・藤沢厚木線を更に北に進む。神奈中「神社前」バス停の先に石鳥居が見えて来た。「今里正八幡宮」の石鳥居。「拝殿」は屋根の塗替え工事中であった。海老名市今里1-3「鐘楼」には鐘の姿はなかった。神楽殿。「今里正八幡宮」の創建年代等は不詳ながら、相州高座郡渋谷庄の長山本六之蒸吉家が、延宝9年(1681)に金幣を献上、今里村の鎮守社だったと。「正八幡宮由緒所在地 海老名市今里一七四番地祭神 應仁天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと)) (仲哀天皇の第三子、母は神功皇后)」由緒 古は渋谷庄長山本六之蒸吉家の守護神であったが延宝九年(一六八一)相州 高座郡渋谷在今里村の総鎮守となる。宝物 金幣 延宝九年山本六之蒸吉家 献上 大正十四年八月改築大祭 四月二十日」七福神の大黒天と恵比寿天が拝殿横に。「境内社」は「稲荷社」であろうか。内陣。「正八幡宮」を後にして、東に向かって進む。左手遠くに「海老名プライムタワー」が見えたのでズームで。海老名市今里1丁目6近くにある「大谷南側」交差点を横断して進む。そして次のT字路を右折して「地蔵尊」を訪ねたが・・・。地図の表示場所には石だけが転がっていたが「地蔵尊」の姿は見つからなかった。そして引き返して、T字路の信号を右折した。前回の散策時にも、ここまで下って来た「清水坂」を再び上る。かなり急坂であったが前方に案内柱が。「清水坂この坂は,かつての坂の上りぐちの左手から清水が湧き出て、一坪(3.3平方メートル)ほどの泉が清冽な水を湛えていたのが、坂の名の由来といわれています。」その奥に石碑群が。「角柱型道祖神」。側面には「道路改修記念/昭和四十五年四月二十五日建之 大谷杉久保講中」と。隣には「山状角柱型 道祖神」。側面には「大正九年(1920)十一月建設」と。その横には「舟形光背型 双体道祖神像」が辛うじて。モルタルで補強されたのであろうか。右「延享三歳」(1746)左「寅正月惣氏子十八人」と。更にその先にも「庚申塔」が。唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛像 邪鬼(?) 三猿。「清水坂」案内柱と「双体道祖神」と「青面金剛像」を見る。「清水坂」を上って行った。そして「清水坂」を上りきる。この道は県道407号線・杉久保座間線。更にこの道を進んで行くと、正面に東名高速道路が現れ、そのコンクリート壁には杉久保小学校のみなさんの絵が!!東名高速の下を潜って行った。このトンネルも県道407号線の一部。そしてトンネルを潜り終えると、右手に前回訪ねた「不動明王」が。更に進み「釜坂川(かまさかがわ)」に架かる橋を渡った。「釜坂川」。橋の名は「釜坂橋」。更に進み「リエイトS・D 海老名杉久保店」を左に見ながら坂を上って行くと路地の角にあった石碑群。墓地であろうか。「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑が並ぶ。海老名市杉久保北2丁目16−25近く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.24
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「三島社」を後にして「宇治山」交差点を左折して北東に進む。150m近く進むと右手にあったのが「常在寺」の「山門」。「本興山 常在寺正和年間(西暦一三一ニ年頃)鎌倉小町に日蓮大聖人の法孫了性房日乗上人が開創しました。本尊 十界曼荼羅佛寶 久遠之釈迦牟尼佛法寶 妙法蓮華経僧寶 日蓮大聖人」「アツバキミガヨラン(厚葉君が代蘭)」であろうか。釣鐘状の花は 大きいもので10㎝くらいに。境内の「宗祖 日蓮大聖人」像。近づいて。お顔をズームで。右手に「鐘楼」と「堂宇」。樟・楠(クスノキ)の大木。「海老名市自然緑地保存樹木第205号 平成20年2月13日指定樹木名 クスノキ幹の周囲 2.80メートル所有者又は管理者住所 海老名市社家3746氏名 常在寺」「妙音院誌 南無妙法蓮華経」碑。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。「手水舎(ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ)」。参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のこと。水盤舎(すいばんしゃ)、御水屋(おみずや)とも呼ばれる。作法は一般的には次の通り。右手で柄杓(ひしゃく)を取り、手水を掬(すく)う。その手水で最初に左手を清める。次に柄杓を左手に持ち替え、同様の動作で右手を清める。次に口をゆすぐためもう一度右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに手水を溜めて口に含む(柄杓の椀に直接口をつけない)。音を立てずに口をゆすいで清め、そっと吐き出す。先の動作で左手をもう一度清める。最後に柄杓の柄を片手で持ち、椀部が上になるよう傾け、柄に手水をしたたらせて洗い流す。柄杓を元の位置に静かに戻す。「寺務所」。「本堂」。日蓮宗駿州富士郡北山本門寺末。「風土記稿」によれば、創建は文保年間(1317~18)とされています。江戸時代には慶安2(1649)年に、土地9石1斗について朱印地(将軍名の「朱印状」発給による寺社領地で、年貢や課役の免除が保証される)とされていました。海老名市社家3746。扁額「常在寺」。「内陣」。本尊は十界勧請大曼荼羅。また延宝7(1679)年に奉納されたと思われる木造子安鬼子母神立像(像高49センチメートル)、日蓮宗大荒行堂にて感得された木造大黒尊天神(像高36センチメートル)等が祀られていると。木造日蓮聖人坐像(像高35.7センチメートル)が最奥に。内陣にも「立正安国」の扁額が。本堂内の「日蓮聖人一代記」の欄間彫刻。富士市本市場住の彫師「板倉聖峯」師の作品であると。立教開宗・・・建長5年(1253)初めて清澄山頂にてお題目を唱える。伊豆流罪・・・弘長元年(1261)法華経の辻説法で鎌倉幕府により流罪となる。伊豆法難・・・弘長元年(1261)前年の松葉ヶ谷法難に続く四大法難の2番目。星降之梅・・・文永8年(1271)佐渡流罪の前に厚木で星が降ってきて梅の木に架かったと いう逸話。御入滅・・・弘安5年(1282)10月お題目を唱えながら61才の生涯を閉じる。こちらも見事な龍の彫刻。伝左甚五郎作の龍の彫刻であると。この龍が池の弁天様と遊んで参詣人を驚かせたため目に釘を打たれて釘付けとなり、後改心して、お寺や客人を守ってきたとの言い伝えが残っているのだと。「天水桶」。鶴をあしらった紋・鶴丸紋が。日蓮宗といえば「井桁に橘」だが、宗派や寺によっては鶴丸紋を使用しているようであった。「本堂」前の老木。「柏の樹この柏の樹は、常在寺が今よりおよそ四八〇年前、大永三年(西暦一五ニ三)に開創地である鎌倉小町より、当海老名社家に復興移転したおり、時の住職日在上人が法華題目の流布記念としてお手植えされた樹と伝えられているものです。」日蓮聖人が富士宮黒田存の本光寺に来て説教されたとき、村人が柏餅をこしらえて供したところ、聖人が大層喜んで食したという故事に因んで植えられたともいわれています。「海老名市自然緑地保樹木第58号 昭和62年8月1日指定樹下名 カシワ幹の周囲 2.80メートル所有者文は管理者住所 海老名市社3746氏名 常在寺」「鐘楼」を正面から。白のシュウメイギク。狸像も。樹木葬墓地とのこと。道路沿いにあった「永代供養墓」。そして次の目的地の「浄光寺」に向かって進む。産業道路の「宜山南(むべやまみなみ)」交差点を右折する。次の目的地の「浄光寺」にIphonesのGoogleマップをセットし進むが、「浄光寺」の東の道で「目的地に到着しました」とのメッセージが流れたが入口はなし。ストリートビューで確認すると、入口は反対側の道路であることが判明。案内に従って進むと右手にあったのが「十王堂」。海老名市社家1198。「十王堂」の祠。中には、頭に“王”と記された冠(?)をかぶり、厳めしい顔つきの石仏が鎮座。「閻魔大王」であろう。両側には石碑が。そして南西に向かって進むと左手にあったのが「浄光寺」。「浄土真宗 本願寺派」。「浄光寺」。正面に「本堂」。浄光寺は、歸命山遍照院と号す。浄光寺は、足利義晴に仕えていた日野三郎信忠が義晴没後仏門に入り浄觀と改め、天文元年(1532)鎌倉扇谷に創建、その後寛永年間(1624-1645)に今里村へ移転、さらに万治年間(1658-1661)ここ海老名の当地へ移転したと。海老名市社家3873。扁額「浄光寺」。内陣。本尊は阿弥陀如来像。境内の太い欅の木。親鸞聖人像。境内墓地。多くの墓碑が並ぶ。無縁仏塚。境内のピンクのシュウメイギクシュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。キンポウゲ科の植物で、花の形はアネモネに似ているのだ。こちらは白。名前にキクが付くが、キクの仲間ではなくアネモネの仲間であると。「アネモネなどと同様、プロトアネモニンを含み有毒。乳液に触れるとかぶれを引き起こす」とネットから。民家の庭に余り咲いていないのはこれが理由なのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.23
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次右手にあったのが「三島社表参道」案内板。近づいて。「郷土かるた 「み」」「三島社の 不動明王 いかめしく」道祖神他の石碑群。参道の脇にあった石燈籠一対と「地蔵堂」。 子供の守り神・子育て地蔵尊のようです。涎掛け・帽子を被り美しい着物を羽織った地蔵菩薩が祀られていた。更に参道を進んで行った。正面に石鳥居と社殿が見えた。「自力敢行」碑。「海老名町社家土地改良事業完成記念碑」と。石鳥居。左手に「鐘楼」。「梵鐘」。狛犬(阿形像、右)。狛犬(吽形像、左)。「手水舎」。「奉祝平成御即位記念奉納手水舎」碑。「不動尊堂」が右手に。「不動尊お堂建立の経緯三島社では明治以来不動明王立像ニ體等御躰と両界曼荼羅一対を護持しており、毎年七月二十八日には不動尊祭礼を行い供養してきました。これらの仏像等は、江戸時代中期の作とされ、当三島社境内に存していた別当寺しての正明寺が所有していたものです。この正明寺は高野山真言宗の末寺でしたが、明治初期の神仏分離により廃寺となった為、これらの仏像等は三島社が保存してきました。これらの仏像等は、祭礼時のご開帳以外はほとんど人目に触れることもない状態となっていました。このことから、地域の遺産としての仏像等を適切に保存管理し、かつ多くの方々に常に拝観することの出来る「お堂」を、氏子の寄進によりここに建立したものであります。北のお堂には五體の仏像が安置されております。向かって右から弘法大師坐像 一躰 正観世音立像 一躰薬師如来立像 一躰不動明王立像行基作 一躰不動明王立像 一躰」「内陣」向かって右から弘法大師坐像 一躰正観世音立像 一躰薬師如来立像 一躰不動明王立像行基作 一躰不動明王立像 一躰その先に「社家地域交流センター」。正面に「三島社」の「社殿」。創建年代不詳ですが、旧社家村の里正2名が記した元和9年(1623)棟札と再興の棟札が残され、寛永11年(1634)には本殿の改築が行われています。 天保12年(1841)の「新編相模国風土記稿」によると、別当・石井山正明寺の本尊「薬師如来」を祭神としていました。又、御神体「武者姿の画」は、昭和23年(1948)の火災で焼失している。地名「しゃけ」は、古くよりこの地に多くの神職が居住していたことに因むそうですが、今も当社から東南にかけ多くの寺社が点在しています。海老名市社家3392番地1。扁額「三島社」。源頼朝が伊豆三島社を勧請した鶴岡八幡宮の末社で 、神主家には海老名氏の庶流阿藤氏が就き、下海老名郷領家職を社領としていました。「大震災記念塔」関東大震災で破損した先代の石鳥居が保存されているのであろう。境内社の「稲荷社」であろうか。欅の老木。「海老名市自然緑地保樹木第159号 平成16年2月20日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 2.3 0メートル所有者又は管理者住所 海老名市社家3392番地1氏名 三島社横に廻って「本殿」を見る。そして「三島社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.22
コメント(0)
今年も、我が家の横の菜園の隅にある皇帝ダリアが満開を迎えています。秋の台風での強風で倒れかけている幹ものもありましたがそこにも多くの花が。ダリア属の植物は、メキシコから中米に27種が分布しており、茎が木質化する3種がツリーダリアと呼ばれています。皇帝ダリア(Dahlia imperialis、D・インペリアリス)は、そのなかでも特に茎が太くなり草丈が高くなります。皇帝ダリアは、日が短くならないと花芽ができないので、開花期が遅く11月下旬から咲き出します。近くに街灯や電灯があると日が長いと感じ、花芽をつけないとのこと。今年もよく成長し3~4mにも達しています。このことから「皇帝」と名付けられたとのこと。晩秋のこの時期、空にそびえて立つ姿は圧巻なのです。花はピンク色で直径約20cm程の大輪の花が茎の頂上につけています。細い茎を持つことから皇帝ダリアは別名「木立ダリア」とも呼ばれます。皇帝ダリアは、竹のように膨れた節のある茎を生やし、互い違いに生えた葉っぱと、8枚の花びらをつけます。花言葉は「乙女の真心」「乙女の純潔」など女性の心や気持ちを表すものばかり。見た目は強がっていても、中身は人一倍女性らしい方にぴったりな花かも??寒さに弱いため、霜が下りるとあっという間に葉っぱが黒くなってしまいます。冬になると球根だけが残って地上より上の部分が枯れます。そして翌春になるとまた新芽が芽吹き出すのです。先日、九州を旅した折に道路脇に咲いていた皇帝ダリアの八重咲き。八重の皇帝ダリアは 開花が一重の皇帝ダリアより遅いのです。これぞ皇帝「ダリア」の名にピッタリの花の姿だったのです。
2021.11.21
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「相模大堰管理橋」を後にして、東に進むと前方にJR相模線の踏切が現れた。路地の角には「道祖神」碑があった。「新道踏切」を渡ると左手・JR厚木駅方面に見えたのが「海老名ジャンクション(JCT)」。海老名JCTは、東名高速道路と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)を結ぶジャンクションである。茅ケ崎方面を見ると踏切の横にあったのが「JR社家駅」。「少なくとも江戸時代には高座郡社家村が成立しているので これ以前にはこの名前があったものと思われます。調べてみると社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである。社家は奉職する神社の近くに家を構えることが多く、社家の家が集まった所は「社家町(しゃけまち)」と呼ばれた。」ネットより。近くには、この日に訪ねた「三島神社」があったが・・・それとも寒川神社?。「社家駅入口」交差点を左折して北に進む。正面を横断しているのが「東名高速道路」。その場所が「社家高架橋」。「東名高速道路」下り線から「圏央道」八王子方面への連絡道が上部に。「海老名JCT」下を通過すると正面の路地の角には「火の見櫓」が姿を現した。「火の見櫓」の下に「浄土真宗大谷派 清谷山 法閑寺(ほうかんじ)」の案内板があった。案内に従って100m程進むと正面に「法閑寺」が。「真宗大谷派」。「法閑寺」。「本堂」。「清谷山 華臺院 法閑寺」法閑寺は、祐信(延宝3年1675年寂)が開山したと。本尊は阿弥陀如来像海老名市社家2998。掲示板には「人生思い通りにならないことばかり。そのことが私に大切なことを気づかせてくれる」。「本堂建立記念碑本寺院は永禄十一年(一五六八年)釈祐寿の開基にして、関東大震災後大正十三年に再建した本堂も四十余年の歳月に破損甚だしく住職私財を以て庫裡を南方に寄せ新築すると○○○がる本堂を再建しようとの声が〇〇としておこり四十五年八月十○○○の建設委員を選出して九百万で瓦葺四十ニ坪の本堂が河原口小林材木店に依頼し雑費併せて一千二百五十万円の目標割当額と決して再建の賛同を得ることが出来ました。工事は四十六年四月より始まり六月五日に上棟式を行い十一月の中旬には全く完成を見ることができました。ついで仏具の修理、参道の整備も完了し名実共に新なる寺院の出現がなりました。四十七年四月十九日東京○○所長の臨席を仰ぎ落慶法要を盛大に執行し七十余名の稚児行列のもとに部落をあげての行事となりました。これ信仰のもとづく所五十余戸の壇徒の献身的努力の賜ものの結果でありここにその業を永久に伝える。 昭和四十七年十月吉日 十月吉日 十五世住職 大住真澄」「墓地整備記念碑銘一望千里の丘や台地に墓所を定めることはわたくしたちの祖先以来の習慣であった。平安時代に山岳佛教が興るに及んで「俗界を離れし山岳こそ御魂とどまる場所なれ」と感じ都塵を去る地に多く終焉の地を求めるようになった当山十四世住職この精神に則り墓地に植林八十余年を経てうっそうたる森林を呈するようになった時代の変化は陽光さんさんと映える平地こそ永眠の地なりと墓地改修を切望する声高まり数度に亘る檀徒総会を開き整理委員を選出し三十余戸の檀徒一丸となり巨木の伐採開墾、ブロック塀の建設と一ヶ月有余の日月をついやし延べ人員二百五十人寄付金弐拾万円を以って近代的墓地の出現をみるにいたった。これ一えに信仰のいたすところ数少ない門徒の献身的労力きよ金により此の事業の完成をみたのである。ここにこれを記念し碑を建てその業を永久に残す。昭和三十八年三月二十一日 当山住職 大住眞澄」境内の「萬霊塔」。「英霊供養碑」。六名の戒名が刻まれていた。山門前から境内を振り返る。「海老名JCT」方面に戻り、「法閑寺」の北側にあった「明窓寺」に向かって進む。「真宗大谷派 明窓寺(みょうそうじ)」が前方に。「明窓寺」の「山門」。寺号標石「真宗大谷派 光室山 明窓寺」。「真宗大谷派」「光室山 明窓寺」。「本堂」。「光室山 旭登院 明窓寺」。明窓寺の創建年代等は不詳ながら、捧珍(慶長18年1613年寂)が中興したと。本尊は阿弥陀如来像。海老名市社家3377。扁額「光室山」。「本堂」前の天水桶。紋は剣梅鉢(けんうめばち)、寺紋であろうか。掲示板には「自分こそ絶対に正しい 誰もがそう思っている しかしこれ人間の最大の欠点なり」と。「殉國」碑。十二名の戒名が刻まれていた。「愛玩動物合墓」「倶會一処(くえいっしょ)」碑。「倶會一処」とは「倶(とも)に一つ処(ところ)に会う」という意味である。ただし仏教では「極楽浄土に往生して人びとと一カ所に集う」という意味で使われている言葉で、浄土教の根本聖典である浄土三部経の一つである阿弥陀経に典拠がある。現在、浄土真宗系の墓や共同墓に刻まれていることが多いようである。「境内」を振り返る。屋根の紋は真宗大谷派の宗紋・八藤紋と学友から。そして次に「三島社」に向かう。「宇治山」交差点を左折する。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.21
コメント(0)
昨夕の我が家の裏からの夕焼けです。時間は16:47過ぎ。空一面が真っ赤に染まっていました。そして富士山の姿。右手の建物は「日本大学生物資源科学部」の「本館」。地下2階、地上14階の学部で一番高い建物で約74m。富士山をズームして。そして真っ赤に染まった西の空をズームして。そして東の空には1881年以来140年ぶりの「ほぼ皆既」月食が始まって来た。今回の月食は既に欠けた状態で月が昇り始める「月出帯食(げつしゅつたいしょく)」と。約98%欠けたほぼ皆既月食に近い状態になったのであった。雲の間から時々姿を表す月の姿をデジカメでズームして。時間は16:51。昨夜の140年ぶりの「ほぼ皆既」月食・部分月食の見えるチャンスのある国内の予想地図をネットから。我が地域は「バッチリ見える」範囲であったが・・・。 【https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1367738.html】より「ほぼ皆既」月食・部分月食の詳細情報。月の出は16:27、そして食の最大は18:02、部分月食の終わりは19:47と。 【https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1367738.html】より昨日の部分月食が面白いのは、その時間の長さであったと。NASAによれば、今回の月食では月が地球の影の薄い部分に入る「半影月食」は6時間1分、地球の影の濃い部分に入る「本影月食」は3時間28分続いたのだと。昨夜の月は軌道上の遠地点(地球から一番遠い点)にあり、その分長時間天文ショーを楽しめるのであった。途中、再び雲の隠れ見えなくなってしまったが、再び姿を現してくれた。時間は17:11。17:50。徐々に右下の輝きが狭くなって来た。皆既月食と同じように全体的に赤みを帯びながら、わずかな一部分だけが白く光る満月が見られるであった。17:53。なぜ影に隠れる月は真っ暗にならず、赤く見えるのか? 「太陽光が地球の大気中を通過する際に屈折してわずかながらに月を照らすためです。 光の成分のうち、波長の短い青い光は大気に散乱させられるため、ほとんど月まで届きません。一方、赤い光は散乱されにくいので、月まで届いて月面を照らします。これが、月食のときに月が真っ暗でなくほんのり赤みを帯びて見える理由です。 月食では大気中の塵(ちり)や水蒸気の量によって、月面の赤みが濃く見えたり濃い茶色に見えたりもします。場合によっては明るいオレンジ色に見えることもあります」とネットから。ズームして。昨夜の地球の影に対する月の動き。「本影」と「半影」の説明図。 【https://optica.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-756e.html】より半影月食は、月の表面に太陽光が届いている。月は若干暗くなりますが、輝いて見えます。地球から見たとき、明るさの比較の対象もありませんので、ほとんどわからないと。18:00直前。そして食の最大、18:02。友人から送られてきた写真です。皆既月食では、月が完全に影の中に入ると、月が赤黒い色になって見えることが多いが、部分月食では通常そうした現象はみられないのだと。しかし、今回の部分月食では、月の大部分が影に入るため、食が最大になる時間には、影の部分が色づいて見えるのであった。食の最大を終わって。18:03。そして月の輝きが増して来た。18:22。ズームして。18:34。19:01には、半分近くまで復活。19:26。そして部分月食の終わりの19:47を過ぎて満月が姿を現したのであった。この写真の時間は20:34であったので、満月が見えたが未だ「半影月食」中なのであった。そしてこの写真は21:19、よって半影部分も出た後の月のウサギの模様がはっきりとした満月の姿なのであった。今回のように日本全国で97.8%以上月の大部分が隠れる月食が見られたのは、1881年12月6日以来、140年ぶりの珍しい現象であると。次回の“ほぼほぼ皆既月食”を多くの地域で見ることができるのは2086年11月21日になると。次回起こる日は先になり見ることが確実に出来ませんが、来年2022年11月8日には全国で皆既月食が起こり、2023年10月29日は全国で部分月食が見られるのだと。知人からは岐阜城との見事なコラボ写真が送られて来ました。チェーンメールとなっているようであるが心を奪われる写真なのである。 【https://grapee.jp/1037003】よりそしてテレビのニュースでは、エンゼルスの大谷翔平投手のア・リーグMVP獲得を祝福するため、同投手の背番号「17」にちなんで昨日17時17分から17時まで東京タワーを“エンゼルスカラー”の赤色、白色、青色にライトアップしたと。「祝 17」の文字も。昨夜は、皆既月食、部分月食、本影・半影について多くを学んだのであった。
2021.11.20
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「中野八幡宮」の散策をさらに続ける。境内社の「白山社」。社殿。扁額「白山社」。再び境内の「大銀杏」を見る。こちらは欅。「海老名市自然緑地保存樹木第71号 昭和63年8月1日指定樹木名 ケヤキ幹の周囲 2.90メートル」拝殿奥の「本殿」を見る。そして隣りにあった「盛福寺」を訪ねた。「中野堤外共有地の由来」碑。「この相模川県堤共有地は、古くから続く歴史があり、絹や食糧の生産など地域の共同体の核として我々に恩恵を与えてくれた。それは中野の文化として根づき守られてきた。江戸時代には、河川敷に開かれた耕作地は「流作場(ながれさくば)」と呼ばれ幕府が管掌し、面積は明和五年(一七六八)の記録によれば一町四反四畝二十八歩(約一万四千四百平米)とある。天保十二年(一八四一)には洪水で相模川の流路が二筋になったために決められた。相模川は、天保十二年の「新編相模風土記稿」に「平水幅一町余(約一〇八米)堤あり高さ五尺(約一.五米)」とある。明治五年(一八七ニ)に落合瀬兵衛以下五十二名として土地登録がなされ、小字が「鴻敷」(こうしき)と名付けられている。明治三十五年(一九〇ニ)には、荒地の一部を開墾し畑が割り振られた。その共有地は、畑と一段下がった河川敷があり、その段差は玉石が積まれ、「石土手」と呼ばれ、松林があり増水時に畑が守られていた。明治時代には、一部には住居付近にも流路があり、民有地の畑や宅地が流れに削られたためその内側に堤防が築かれた。その他の地域は自然堤防のかさ上げが行われた。大正時代関東大震災(一九ニ三)後から、建設用の砂利や砂の採取が河川敷で行われ、しだいに河床が下がった。昭和十年(一九三五)代後半まで帆掛け舟が行き来し、畑は大部分が桑畑で大水の時には桑の先端が見える程度まで増水し、堤防の保守や警護を地域で行った。その後食糧難になり桑畑は開墾され薩摩芋や麦などの増産に貢献したが大水などで生産は不安定であった。昭和三十八年(一九六三)ま砂利や砂の採取が行われ畑まで水位が上がることはなくなった。昭和五十八年(一九八三)地域の働きかけにより、河川敷共有地が「海老名市立中野多目的広場」として整備され、昭和六十年(一九八五)「サイクリングロード」も設置され利用者に喜ばれている。昭和六十三年(一九八八)には、共有地河畔に桜が植えられ堤外地組合で管理がされ大勢の花見客で賑わった。同年社家取水堰建設により、取水堰下流の堤防用地や堰の保全用として一部は売却された。またさがみ縦貫道路・第二東海自動車道・両者を接続するジャンクション・新堤防・相模川グリーンラインの計画が発表され、堤外共有地も計画用地となり対応が急務となった。特に将来まで影響を受ける景観や環境の変化は危惧され大きな問題点であった。粘り強い交渉を続け平成十二年(ニ〇〇〇)共有地売却に応じ契約に至った。交渉は十三年間に渡り、売却面積は共有地面積の四割余りであった。九十七本の桜も新堤防用地内に入り伐採された。交渉の間、堤外共有地は先祖が大切に守り受け継がれてきた貴重な地域の財産であるとの認識のもとに、由緒ある氏神様を祭る八幡宮の「平成の御造営」に奉賛することが、組合員全員の賛意により決定され、御造営を推進し寄与することとなった。平成十五年(ニ〇〇三)に念願であった新堤防が「石土手」付近に構築され、整備が行われたが、高規格道路の建設等に関連し、堤外共有地の利用を含めた新しい地域づくりが必要で、それらの対応を常に心がけることが責務となっている。ここに、堤外共有地の由来と成立の経緯を記し、それによる恩恵を記憶にとどめ、併せて維持管理者にご尽力された歴代役員や組合員各位に感謝すると共に堤外地組合の地域共同体としての精神が後世に長く伝わることを願い由来碑を建立するものである。平成十五年十月吉日 中野堤外地組合」「水子地蔵尊」。正面から。「水子地蔵尊」の横の石碑。「大圓鏡智 勤修大施食法會 無縁供養塔」と刻まれていた。「大圓鏡智」とは大きな丸い鏡が万物の形を映すように、すべてを正確に照らす智慧の事と。「施食法會」とは「施餓鬼(せがき)」のことで、そして、餓鬼(がき)とは、生前に悪行を行い地獄に落ちた魂や生前食べ物を粗末にしたり、俗世で供養してもらえなかったりして無縁仏となってしまった霊が、地獄に落ちて鬼となってしまったもののことです。餓鬼の世界のことは「餓鬼道(がきどう)」と言い、六道の一つとなります。餓鬼は地獄で、常に飲食をすることができないため、飢えと渇きにもがき苦しんでいるため、食物や飲み物をお供え物として捧げ、法要を執り行います。言い換えると、地獄にいる餓鬼に対して施しを行い、この世にいる自分たちの極楽往生を願うのが施餓鬼・「勤修大施食法會」となります とネットから。寺号標石「曹洞宗 中野山 盛福寺」。」「盛福寺」の「本堂」。「盛福寺」は、能山(元和6年1620年寂)が開山、中野八幡宮の別当寺を勤めていた。別当寺(べっとうじ)とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義 と。ご本尊は観世音菩薩像。扁額「盛福寺」。寺務所前の石碑。「勲八等功七級 故海軍一等水平 市川𠮷蔵之碑 」碑。「盛福寺」境内から「中野八幡宮」を見る。「故陸軍砲兵 曹長勲七等 平本清蔵之墓」碑。「大山」の山頂をズームで。最後に再び「中野八幡宮」の境内を見ながら後にする。そして相模川川岸に向かって進むと、斜め後ろには「中野八幡宮」と「盛福寺」の姿が。相模川の左岸堤防に着くと前方に富士山が現れた。富士山山頂をズームで。そして前方にあったのが「相模川水管橋」。相模川に架かる水管橋で、形式は「鋼管トラス構造(またはパイプトラス構造)」。小田原市の酒匂川にある「飯泉取水堰」で汲み上げた水を「伊勢原浄水場」で浄水し、海老名市の「有馬浄水場」へ送水する途中。橋は青色で塗装されていた。鋼管内径は1350mm。銘板。竣工は昭和50年(1975)8月。「相模川水管橋」の先に「大山」の姿も。NTT東日本 岡田電話局のアンテナ塔の先に大山の姿が。相模川の上流に向かって「神奈川県道409号相模川自転車道線」を進む。前方左に見えたのが「相模大堰管理橋」。「相模川水管橋」を振り返る。堤防にはススキが風に揺れていた。セイタカアワダチソウ(背高泡立草)の姿も。再び「富士山」と「大山」をいれて「相模川水管橋」を。斜め頭上には「圏央道」が。「富士山」とNTTアンテナ塔。厚木アクストメインタワーが「相模大堰管理橋」の先に。高さが117mあり、付近においては唯一の高層ビルとして神奈川県央におけるランドマーク的な存在の高層ビルとして知られる。「相模大堰管理橋」手前まで来る。相模大堰(さがみおおぜき)は、神奈川県内広域水道企業団の相模川水系建設事業のひとつとして、1995年(平成7年)に工事に着手し、1998年(平成10年)に完成した、相模川の取水堰である。河口から12キロメートル上流にあり、左岸は海老名市社家地先、右岸は厚木市岡田地先に位置している。2020年(令和2年)3月31日より、併設されている「相模大堰管理橋」が一般歩行者・自転車通行に対して開放されたのだと。「相模大堰管理橋の通行止めについて」案内板。相模川左岸堤防の先には「神奈川県内広域水道企業団社家導水ポンプ場」スクリーンと除砂装置が見えた。「相模大堰管理橋」。対岸は厚木市岡田で堰の長さは495m。「相模大堰」。幅42メートルのゲート4門、水道用取水および河川維持流量の制御のためのフラップ付き幅40メートルの2段調整ゲート2門と、フラップ付き幅21メートルの2段土砂吐ゲート1門の計7門のゲートがある。大山北尾根を見る。手前に「相模川橋」と奥に秩父の山々。相模川左岸堤防から見た取水門。「相模大堰」を振り返る。傍らに水利使用標識が掲げてあった。毎秒7.190㎥とありました。日量621,000㎥。横須賀水道分も合わせて取水しているので毎秒8.106㎥、日量約700,000㎥になると。再び「相模川橋」。相模川左岸のサイレン設備。「この施設は、城山ダムから放流する時 危険を呼びかけるための施設です。」「危ない!! ダムの放流による増水に注意この川の上流二十四・八キロメートルのところに城山ダムがあり、ときどきダムに貯まった水を流し、この川の水が急に増えることがありますから注意してください。また、ダムに貯まった水を流すときは、左記のとおりサイレンやスピーカーなどで知らせますので、そのときは危険ですから河原に降りないで下さい。サイレン吹鳴方法 20秒サイレン➡5秒休止 の繰り返し。」そして相模川を離れ東に進むと右手にゲートがあった。「社家取水管理事務所」。近くにあった「海老名運動公園案内板」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.20
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次この日は10月11日(月)、この日・10月11日は祝日でなく平日。10月の第2月曜日は例年、「スポーツの日」として祝日となるが、今年は東京オリンピックがあった関係から、10月11日は平日になったのであった。我が部屋のカレンダーは皆11の文字が赤く祝日表示になっているのであった。この週末に「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の3回目を予定していたが、週間天気予報では海老名市は火曜日以降週末まで天気が安定しないとのことで、急遽この日を決断したのであった。JR茅ヶ崎駅からJR相模線を利用してJR門沢橋駅まで向かい、この駅からの「海老名市の寺社旧蹟を巡る」の3回目スタート。駅横の県道22号線・横浜伊勢崎線を相模川方面に向かって西に進む。前方に見えて来た高架道路は「首都圏中央自動車連絡道」いわゆる「圏央道」。ここ「戸沢橋東」交差点を右折して「東名高速道路」方面の散策に向かう。この道を真っ直ぐに進むと相模川に架かる「戸沢橋」があるのだ。「住みたい 住み続けたいまち 海老名」と書かれた掲示板には、「海老名中央公園」にある「相模国分寺」の「七重塔」の姿が。奈良時代の海老名にあった「相模国分寺」の「七重塔」を1/3に縮小して再現したもの。前方に「新東名高速道路」、「第二東海自動車道」の「海老名南ジャンクション(JCT)」。一番外側の大きなカーブの道は「圏央道」の「茅ケ崎JCT」方面への導入路。右折したT字路の角には「地蔵尊」の姿が。海老名市門沢橋2丁目24。「記念碑この地を跡堀と称す。この地に有史以来五戸の集落有り。この度第二東名及び相模縦貫の道路建設に伴い収用移転を余儀なくされた地蔵尊・道祖神の再建と共に記念碑を刻し後世に伝える。平成十六年七月吉日建之」「建立(こんりゅう)」も「建之(これをたつ)」も同じ意味で、石碑等を建てた年月日、人を指す。石碑、墓石や記念碑などに彫られることが多く、普段の生活の中ではなかなか見慣れない言葉なのであった。移設された「地蔵尊」像。「道祖神碑」。そしてその先にあったのが「若宮八幡宮」。海老名市門沢橋2丁目14。社殿には大きな南京錠が。扁額「若宮八幡宮」。ウィキペディアによると「社名の通り「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るものである。他に、「八幡宮本宮から迎えた新宮」の意味の「若宮」もあり、この場合は応神天皇が祀られている。源氏、ひいては後の武家全体の守護神たる八幡宮から分祀され、日本各地に存在する。」と。「若宮八幡宮若宮八幡宮は門澤橋字八幡の地に鎮座されておりましたが、日本道路公団施工第二の東海自動車道と相模縦貫道とのジャンクション用地として土地を提供しその代替地として当地門澤橋字跡堀七一〇番地に再建された神社です。」ジャンクションの高架橋のカーブの下奥に「富士山」の姿が。「大山」の姿も。「海老名南JCT」を背にしながら、海老名市中野1丁目29の住宅街を北上する。二度左折して進むと「妙泉寺」の角にあった石碑。長年の歴史による風化で判読不能であった。そして「妙泉寺」の入口に到着。海老名市中野1丁目6−5。山号は「正蓮山」。「妙泉寺」。「本堂」。「正蓮山 妙泉寺(しょうれんざん みょうせんじ)」。日蓮宗、妙純寺(愛甲郡金田村(現在の厚木市))の末寺であると。本尊は三宝祖師で、元和8(1622)年、正蓮院日養上人が起立した。大正12(1923)年、関東大震災で全壊した本堂と庫裡を再建。昭和6(1931)年、三宝尊像を修復。昭和57(1982)年、本堂と庫裡を再建し、宗祖700遠忌報恩事業とした。また、宗教的行事で使うだけではない、市民に親しみを持ってもらえるような開かれたお寺作りを目指し、寺子屋や映画鑑賞、婚活行事、チャリティーイベントなどを開催しているとのこと。東日本大震災以後、東北の復興活動に力を入れ、大量の物資を運搬するのみならず、福島県南相馬市の子どもたちと海老名市の子どもたちの交流キャンプの開催地にもなっていると。扁額「正蓮山」。墓地の入口にあった歴代上人の墓石。現在は二十八世の住職であるようだ。塀の裏にも小さな「御堂」があった。「相模川」に向かって進むと路地の角には「海老名市消防団 第十三分団」の建物があった。シャッターには桜の木と真白き富士山の姿が描かれていた。そして次に訪ねたのが「中野八幡宮」。海老名市中野1丁目1−1。桜の老木の下の石碑には「???」。入口の真っ赤な社の中には大きな石仏2体と小さな石仏が1体安置されていた。近づいて。左手には大きな石碑が二基。「記念碑竿石(さおいし)の由来について此の石は康平年間(八百五拾年以前)当地の太守海老名源八季定邸の敷石に使われていた拾参枚中の壱枚にて其の後中野部落の田圃の用水路の石橋として使用していたが工事の完成と共に不要となる此の石を後世にのこすため敢えて竿石とする。海老名氏は居を河原口に営み関東武士として武勇を天下にとどろかせたが永享拾ニ年(五百三拾年以前)の乱に鎌倉の上杉軍に加担して一家は滅亡した。海老名町文化財保護委員◯島鉚造の記録より」「郷愛 土地改良事業完成記念碑」正面の石鳥居越しに境内を見る。「村社 八幡宮」碑。狛犬(阿形像 右)。狛犬(吽形像 左)。石鳥居。扁額「八幡宮」。「海老名市指定重要文化財 中野八幡宮 本殿」案内板。「中野八幡宮は、旧中野村の鎮守で、本殿内にある慶長八年(一六〇三)の古札ニ枚と、神体の木造将軍地蔵騎馬像の作から、室町時代後期に遡ることができ、同年に本殿と覆屋を新造したことが分かる。このため、勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。本殿は、中規模の一間社流造りの内宮で、覆殿内部に安置されている。建設年代は、十八世紀前期ごろと推定される。大きさは、間ロ五尺、奥行きは母屋が四・一尺、向拝出が三・九尺で、母屋の柱には直径五・八寸の丸柱が用いられている。母屋の正面、黒漆塗りの桟唐戸は、草花の幾何学文を彫り、彩色を施した珍しい建具である。正面両脇の小壁には、竹と梅に鶯の彫刻をはめ、中備にあげた本蟇股の脚間にも彫刻をはめる。当本殿は、洗鰊された意匠の彫刻装飾を多用していることが大きな特色である。また、木部をすべて彩色しているうえに、銅製の飾り金具が多く用いられている。かっ、保存状態もよい。以上のように、本物件は、本市における彫刻装飾を多用した初期の貴重な遺構で、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。」「庚申塔」碑。「八幡宮の由来」碑。「当八幡宮の祭神は應神天皇(誉田別命)であり、創建年代は未詳であるが、当地も大化の改新(六四五年)により条里制が整い、この八幡宮も農耕生活の上でなくてはならない守護神として朝野の信仰を篤くした。当八幡宮の別当寺院あった盛福寺の梵鐘文に「延暦」という年号(七八ニ年から八〇六年・奈良から平安時代)も見え、八幡信仰の古さを物語っている。一説に平安時代海老名源四郎親季が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、その後大島豊後守正時公が当宮の宝殿を創建したとある。中野は、上海老名郷であったことから海老名氏との関係も深く、その関係文書に居住地がこの地にあったことや、跡堀・入内島などの地名も出てくる。さらに海老名氏の館の敷石に使われていた十三枚のうち三枚が当地にあり、その一枚が土地改良記念碑として鳥居右側に建立されている。現在の本殿の建立は、棟札や建築様式によれば亨保十年(一七ニ五年)のものであり、その後幾多の修復を経て護持されてきた。御神木の大銀杏も樹齢八百年と推定され江戸期の資料では周囲一丈九尺余り(約六メートル)と記されている。当八幡宮の繁栄と氏子中の平穏無事祈念して、これを茲に建立するものである。」「手水舎」。境内右に「神楽殿」。御神木の大銀杏。11月下旬頃の見事な黄葉が楽しみなのであるが。「御神木(大銀杏)この大銀杏は、古文書や伝承が多く伝えられている。樹木医によると、樹齢は八百年を超えていると診断され古文書の記述が証明している。万治ニ年(一六五九年)に編纂された「鷹倉社寺考」には次のように記載されている。【八幡宮の鎮座時期は、古文書や棟札がないので本当の事はわからない。但し、社殿や神木をよく調べてみると古い時代の鎮座と思われる。】享保十年(一七ニ五年)現在の御本殿造営古文書「鎮守八幡宮歓物之礼」には、【正徳六年(一七十六年)この中野村の鎮守様の八幡宮は、長い間の歳月がたって痛みがひどく寂れてしまった。】村中で再建の話がでていた矢先、次の年の八月十六日に大風が吹き御神木の銀否が本殿の方に倒れ本殿が大破してしまった。これにより、村人の本殿再建の意思は強く固まり、七カ月の計画をたてその努力により金五十九両余りの寄付金が集まった。天保十ニ年(一八四一年)に編纂された「新編相模風土記稿」によると【神木銀杏樹周囲一丈五尺(六メートル)】と記されている。当時には、すでにかなりの巨木であったことを知ることができる。大正八年(一九十九年)十一月に撮影された境内の写真に大銀杏の健全な姿が写されている。雑木で実は付けないが、幹から乳(にゅう)が下がり特異な姿であった。昭和四十年(一九六五年)台風により、根が浮き上がり倒れ拝殿の屋根を破損し、主幹が枯れてしまった。現在の技術があれば、枯れることはなかったと考えられ惜しまれる。折れた枝でまな板を作り氏子に配られた。その後、南側の幹から芽が出て復活し、御神木の生命力の強さが証明された。以前は、境内を蓋うほど枝葉が茂り遠くからも見えたと伝えられている。平成六年(一九九四年)樹勢が衰え樹木医に診断を受け治療が施され、枯れてしまった部分には保存の手当てが行われた。その結果、幹の一部が樹勢を回復した。現在では、枯れた部分を含め八・五〇メートル程である。大銀杏は、樹齢ニ〇〇年を超えると診断され、近代では稀な大銀杏として手当てが施された。また、この大銀杏は平岩弓枝の小説「華やかな魔獣」に登場し「岩とも木ともっかぬ奇怪な塊」という表現が用いられている。この度、平成の御造営を機会に八百年以上に渡り悠久の時を刻み、八幡宮や地域の変遷・発展を見守り中野の象徴・誇りとして尊重され親しまれてきたことが改めて見直された。」「故郷かるた「ふ」」「古銀杏 傾き芽吹く 中野八幡」。1965年に台風により倒れ、枯れかけたが樹皮から枝が成長し現在の様になっていると。「六地蔵」。境内から、隣りにあった「盛福寺」の石灯籠、圏央道越しに大山連山の姿を見る。「中野八幡宮」の社殿。扁額「八幡宮」。賽銭箱の社紋(神紋)は「左三つ巴」。八幡宮の社紋(神紋)がなぜ「左三つ巴」なのか?その理由には諸説あるが、八幡宮の主祭神である応神天皇がお生まれになり、その腕に左三つ巴のようなアザがあった。という説や、弓道で用いる「鞆」という道具を表す絵がこのような紋で「鞆の絵」ということで巴となったという説等いろいろあるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.19
コメント(0)
そして「笠間稲荷神社」の散策を終え、再び「門前通り」へ戻る。正面に酒屋「笹目宗衛商店」。藩直営の酒蔵として日本三大稲荷の笠間稲荷神社の正面に店を構え、御神酒「二波山松緑」を造り続けている。仕込み水に佐白山の地下伏流水を使用。伝承の醸造で造られた酒は、甘・辛・酸・苦・渋の五味がほどよく調和した一品と。蔵の敷地内を観光客に開放し、元は米蔵だった建物は直売店として活用。夏場は蔵見学や歴史紹介を催しているとのこと。「笹目宗衛商店 蔵案内」。創業明治六年 「二波山松緑」蔵元と。「高橋町」案内柱。「高橋町文禄3年(1594)笠間城主玉生(たまにゅう)氏の代に石井の人々を移して町人町として創設された。この町の西端に中世、笠間市氏の館の堀があったので、高い橋をかけたことから町名となった」と。「第114回笠間の菊まつり」ポスター。秋の笠間を華やかに彩る「笠間の菊まつり」が開催されると。今年で114回目を迎える、日本最古の菊まつり。日本三大稲荷の一つである笠間稲荷神社をメイン会場に、艶やかな菊の花約1万鉢が市内全体に咲き誇るのだと。今年度は、コロナウイルス感染防止の観点から、菊人形展の開催はないと。「体験王国いばらき」のポスターも。「茨城県では、新型コロナウイルスの感染防止対策と社会経済活動との両立を目指し、様々な施策に取り組んでいるところですが、この度、コロナ禍で落ち込む県内観光の活力の向上を目指し、令和3年1月12日から、本県の魅力を紹介する動画や話題を提供するPRキャンペーンを開始いたします。「体験王国いばらき」をキャッチコピーとして、知名度の高いデヴィ夫人を女王に起用し、動画やSNS、ポスター掲示などにより、キャンプやサイクリングをはじめとしたアウトドア、海や山や湖などでのアクティビティ、豊富な農産物による食体験など、本県のさまざまな魅力を発信してまいります。」とネット情報から。そして甘さも適度な饅頭を購入し、楽しんだのであった。そして「かさま歴史交流館 井筒屋」に戻り、駐車場から「結城街道」に車を出した瞬間に『事件』👈リンクが起きたのであった。二人共、怪我がなくて良かったのであったが、追走劇は生まれてからの初体験。最初で最後にしたいのである。この車の運転手の猛省、免許返納を願うのであるが。「ドライブレコーダー録画中」が虚しいのであった。そして30分ほどの警察官とのやり取りの後、次の目的地の「大願寺」に向けて更なる安全運転で向かったのであった。途中、最後に訪ねた「石井神社」前の交差点を直進して進む。そして「鳳台院 大願寺」に無事到着。笠間市箱田956−24。「達磨山 大願寺」。「国見山 鳳台院」。境内を入ると直ぐ左の石段の上にあったのが「達磨大師大仏」。大仏は像高が約10m。日本一の大きさを誇る達磨大師様。「曹洞宗 国見山慈眼寺御本尊 釈迦牟尼仏」。目線も足元に立つとちょうど合うようになっていた?「曹洞宗国見山鳳台院 境内図 由緒」案内板。「由緒今から約八百年前、承久年間に国見山の麓に寺院が建てられたが、その後の戦乱により廃墟と化し礎石を残すのみとなり、その後、文明八年笠間領主 笠間朝貞は小田原海蔵寺の覚山見智大和尚を請して再建し、開山に竺翁圓符大和尚を迎えて再興された。文亀元年朝貞が没し、法名を「鳳台院殿以習翰翁大居士」と号し、この寺を国見山鳳台院と寺号が命名された。この寺には、のちのちまで名僧がつづき、曹洞宗の道場となって多くの僧を育てた。江戸時代に入り五石の朱印地が給付され、未寺として笠間藩領に三十五ヶ寺、全国に百十余ヶ寺があったと伝えられている。後に度重なる火災により寺宝はことごとく焼失し、現在は山門(笠間市指定文化財)と石柱が昔の面影をしのばせるだけとなった。三十三世禪雲龍大和尚は、昭和五十年より境内の整備を行い、釈迦如来大仏・達磨大師大仏・五重塔・観音堂本殿・仁王門・客殿を建立、さらには裏参道の整備など現在の壮大な伽藍の完成に尽力し、御本寺より中興の号を授かった。また、花の寺として境内には約二万本の石楠花をはじめ、多くの花が植えられている。」「境内図」。板碑の入った石祠。「本然自空信女㚑位」と刻まれた板碑。「聖観音菩薩像」であろうか。その裏に観音堂。お顔をズームで。「仁王門」。扁額は「達磨山」。「仁王門」をくぐり、進むと右手に「手水舎」。「鳳台院旧本堂」・「観音堂」。「観音堂縁起明治三十五年頃(一九〇ニ)箱田に苗木行商人で中野とくさんが暮らしておりましたが夫の浮気を誤解して当土地内で命を絶ち、実家や知人の助けで鳳台院境内地に埋葬されました。生前に仲の良い老婆が気の毒に思い、墓掃除をしながら「私の眼は何処の医者にも見放され、とても不自由なので是非目が見えるようにしてくれれば毎日墓掃除をしてお守りする」と願をかけたら不思議なことに満願の日に目が見えるようになった。其れ以来お礼の意味で生涯掃除を続けて碑守りしたそうです。其れからは多くの人がおとくさんに願をかけ、つぎつぎとご利益を叶えられますので今尚全國各地から家内安全、商売繁盛、縁談等を始め、諸々祈願に参詣をする信者の絶えることがありません。此の因縁に基づいて祈願祈禱の本尊として千手観世音を奉安し新坂東三十三番札所(亨保年間設定)を興隆発願、笠間観音霊場として建立を致し、皆様の一切苦厄を度させんこと◯うもの也。三十三番御詠歌「やましたじはるばるたづね行を見れば法のあらしに身をやすめえん。」新坂東33番札所である「観音堂 本堂」。扁額「大願寺」。仏舎利奉安の「五重塔」。廻り込んで。「五重塔の縁起多年宿題であった五重塔を檀信徒先祖供養の為に建立を発願した所計らずも此度昭和四十一年十月三日タイ國にて世界仏教徒大會が開催され日本の仏教徒代表として曹洞宗管長高階瓏仙禪師を園長別所龍城老師随行大會終了の際タイ國仏教代表パツトパクナム禪師より高階禪師に仏舎利塔◯◯られそれを別所老師に授与された。永く自坊大泉寺に安置す。法嗣龍海師が、兄、弟子、五重塔建立に感銘し心柱を設置し永く仏法興隆門葉繁榮檀信歸崇を願うものなり。」「仏舎利由来記此の仏舎利は印度アショカ王朝(前三世紀)に印度僧ソーナウカラ両阿羅漢が印度からタイ、スワナゴムに多数仏舎利を安置した。この仏舎利は、同種のものと信じられチェンマイのパヤウより十数年前にサムラン氏により発掘され、タイ國パクナム寺に安置されたものである。」四季咲き桜であろうか。そして「達磨大師大仏」の前には、5月上旬が見頃の約2万本のシャクナゲ(石楠花)が植えられており、人気スポットとなると。「仁王門」、「手水舎」を見る。「観音堂 本堂」から「五重塔」を見る。「寺務所」。「寺務所 玄関」。「観音堂 本堂」と「五重塔」を見る。「仁王門」を再び。そしてこの日の最後に訪ねたのが「石井神社」。笠間市石井1074。木造両部鳥居の扁額は「石井大明神」。「手水舎」。「休憩所」。「休憩所 旧鳥居の土台の石明治三十四年建立の旧鳥居の土台の石を、机と椅子に作り替えました。参拝やお散歩の際に、少しお休みください。現在の鳥居は、平成二十九年に建替えられ、〇〇や手水舎 参道敷石など、さまざまな整備事業も行われました。平成三十年に社奉祝記念大会が行われ、多くの人々で境内は賑わいました。」「拝殿」。「石井神社」案内板。「石井神社(笠間市石井一〇七四鎮座・旧村社)御祭神 建葉槌命(たけはつちのみこと)石井神社の御祭神である建葉槌命は、日本書紀などに記述があり、出雲の国譲りや常陸の国を平定した際に、武甕槌(たけみかつち)神(鹿島の神)と経津主(ふつぬし)神(香取の神)に従って活躍した武神で、「開拓(武運)の神」とされています。また倭文(しず)の里(那珂市)で倭文織(しずおり)(機織り)を伝えていた神様でもあり、織物(芸事・芸術)の神、産業の神としても信仰されています。鎮座の由来神代の昔、天つ神が豊葦原中国を平定する際に、この地方を支配していた天甕星(あめのみかぼし)(香々背男(かかせお)命)だけが従わず、討伐に派遣された武甕槌神・経津主神に対して、巨大な石となり抵抗しました。ニ神の命を受けた当社の御祭神である建葉槌命は、大甕(おおかみ)(久慈郡)の山でその巨石を蹴り飛ばし、天甕星を退治しました。割れて三方向に飛んだ石の一つが石井の地に落ち、天甕星の祟りを恐れて建葉槌命をお祀りしたのが石井神社です。尚、討伐地には大甕神社(日立市大甕町)が、三つに飛んだ石の場所には、石神社(東海村石神外宿)と風隼神社(城里町石塚)が鎮座しています。」「神社の歴史鎖座地である笠間については、奈良時代の初期、和銅六年(七一三)に編纂された常陸国風土記(新治)に、既に「笠間の村」についての記述があります。石井神社の創建については不詳ですが、平安時代初期の大同ニ年(八〇七)に社殿を再建したことが伝えられています。社殿は何度か火災に見舞われ焼失し、現在の社殿は、拝殿に掲げた絵馬に「天明八年(一七八八)」と銘があり、その頃再建したと思われます。境内には各地より神様を勧請した摂社があります。長い歴史の中で、石井の人々が様々な問題から町を守るため、神様のご神威をいただいてきたことがうかがえます。境内について本殿東側には、ニつの摂社があります。右側が青麻神社(病気平癒の神)で、鹿島神社・香取神社(武神)・稲荷神社(産業の神)・樺山神社(茨城国造の祖)が合祀されています。左側が秋葉神社(火防の神)で、琴平神社(海の神)が合祀されています。また神社より南方にしばらく進むと「御手洗」があり、鎮座の由来となった巨大な石が落ちた場所と伝えられます。これは古くは御手洗の場所から長い参道が続いていたことも物語っています。」「天王塚ご由緒天王塚に鎮座する御祭神は建速素盞嗚大神様をお祀り申し上げ、遠く神代の昔 出雲国氷の川上に八俣の大蛇を退治して、天下蒼生の災厄を除き又人民の病難を救助し給ひし神徳広大にして霊験崇高なる大神様であります。天王塚は現在大町に鎮座する八坂神社の古来の社地にて鎌倉時代建長六年笠間初代城主藤原時朝公が下野国、小貫の郷より遷宮し、当地に祭祀した事が起源であります。その後天正年間三所神社に遷宮し、この時代より当地を天王塚と称し社殿を造営し以後毎年祇園祭祭礼には天王塚に御神輿を渡御し祭礼を行って現在に至っております。現在の社殿は当地ご遷座四〇〇年記念として昭和六十年七月氏子崇敬者等多数のご浄財を募り竣工を見、以後当日をご例祭日と定め及平成十二年「西暦ニ〇〇〇年」を祝し当時の総代一同にて鳥居を奉納、建立し盛大に祭礼を斎行致しております。」御神木が本堂の横に。根本には空洞が。「御神木・御神像境内に聳え立つ大欅は、推定樹齢数百年といわれ、古来より、鎮守の森として親しまれています。時代の変遷とともに、欅の本数が激減しました。この大欅は、もともとは二本立ちで、時を経て一方が巻き抱え、一本の大木になりました。春の芽吹き時には、中程の隙間より雫が滴る現象を呈します。洞穴内に鎮座する石庭は天照皇大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に齋庭の稲穂を授けるところです。」本殿背後の欅も、御神木と何ら遜色無いほどの立派な木。「拝殿」の後ろの「本殿」、そして背後の巨木の欅を見る。「拝殿」の後ろに石碑が二基。「記念碑」。「記念」碑。境内社の2社。向かって左側の「秋葉神社」。「秋葉神社」の社殿。琴平神社を合祀。扁額は「秋葉神社 琴平神社」。「境内社 秋葉神社御祭神 火之迦具土神御神徳 火除け・家内安全祭礼等 火は私たちの生活に必要不可欠ですが、一つ間違うと大きな災いとなる大きな力をもっています。歳末の十二月上旬(第一週日曜など)には、火防祭・防火祈願祭が行われ、氏子の防火安全が祈念されます。」「境内社 琴平神社御祭神 大物主神御神徳 海上安全・大漁満足これら二社が合殿でまつられており、その右側には加波山神社本宮渡御の神輿があります。」次も境内社の「青麻(あおそ)神社」。「青麻神社」の拝殿。扁額「青麻神社」。「境内社 青麻神社御祭神 天之御中主神・天照大御神・ 月読神・常陸坊海尊(清悦仙人)御神徳中風退除・病気平癒本宮 青麻神社(仙台市岩切青麻沢)由緒 本宮から勧請した年月など詳細については、天明の火災で社殿や文献などをすべて 焼失したため不詳です。本宮である青麻神社は、仁寿二年(八五ニ)に、山城国から来た 穂積保昌が、その地で麻の栽培を教え、一族の尊崇する日月星の三神を岩窟中に祀った と伝えらえます。 古来より中風病退除・海上安全等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難より のがれる」と言われています。」そしてこの日の散策予定を全て完了し、旅友が近くにあった精肉店でコロッケを購入。私も2個購入した。そしてお土産にと柿を頂いたの半分に分けたのであった。しかし私のコロッケは、何故か旅友にプレゼントすることになってしまったのであったが。そして周囲も暗くなり帰路に。北関東自動車道に友部ICから入る。そして友部JCTに向かって走る。往路、帰路のルート。友部JCTから東京方面に向かって常磐自動車道で。三郷JCTに向かって走る。三郷JCTから首都高速6号線を利用して堀切JCTへ。そして荒川を渡り銀座方面に進む。隅田川に沿って進み、江戸橋JCTから首都高速都心環状線で銀座・横浜方面へ。京橋JCTを通過。多摩川を渡りひたすら順調に進む。金港JCTから高速神奈川2号三ツ沢線を進み横浜駅近くを通過。保土ヶ谷JCTから横浜新道へ進み藤塚ICを通過。国道1号を利用して進む。途中、夕食を取ろうと道路沿いの店に数軒立ち寄ったが皆20時までの営業で入れなかったのであった。そして茅ケ崎の旅友邸に無事到着。時間は20:30愛車に乗り換え、帰宅の途に着き無事帰宅したのであった。時間は21:00前。走行距離は487kmであったと。旅友Sさん、お疲れさまでした。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.11.18
コメント(0)
そして 日本三大稲荷の一つ「笠間稲荷神社」を訪ねた。日本三大稲荷とは、・伏見稲荷大社(京都府)・笠間稲荷神社(茨城県)・竹駒神社(宮城県)であると。大鳥居の高さ 約10m、鉄製。拝殿の色と同じ「笠間朱色」で塗装。平成二十八年(2016)10月完成。巨大な朱の「一の鳥居」の扁額は「笠間稲荷神社」。高さは約10m。朱色は古来魔除けの色とされている。鳥居は神社の内と外を分ける境に立てられ、鳥居の内は神様がお鎮まりになる御神域として尊ばれます と。社号標石「笠間稲荷神社」。「境内案内図」。 【http://www.kasama.or.jp/map/】より「仲見世通り(なかみせどおり)」を進むと荘厳な屋根、見事な彫刻を有する「手水舎」が右手に。「手水舎」の正面の見事な彫刻を見上げて。英文の「Kasama Inari Jinjya」案内板。境内の案内板は殆どが和英併記となっていたのであった。正面に「楼門」。「萬世泰平門(ばんせたいへいもん)」と言い、重層入母屋造で昭和36年に竣工の建物。扁額は当時の神宮祭主、北白川房子様(きたしらかわふさこ:明治天皇の第七皇女)の御染筆によるもの。巨大な灯籠。右側に「さざれ石」そしてその先に「東門(総門)」。入母屋造と言われる建築様式で、文化13年(1816年)に再建されたもの。「塙嘉一郎(はなわかいちろう)大人像」(左)と「塙翁頌徳碑」笠間稲荷神社宮司。明治四十一年(1908)、献穀献繭祭(けんこくけんけんさい)をおこなったとき菊を展示、これが菊祭りの始まりとなった。日露戦争によって荒廃した人々の心をなごめようと、神社に農園部を開園して始めたもので日本で最も古い菊まつりであると。「塙翁頌徳碑」。楼門の下の部分には随身の像(右大臣と左大臣)があって神社を守ってくれていた。向かって右側が「近衛中将 左大臣」、「奇磐間戸神」(クシイワマドノカミ)。向かって左側が「近衛少将 右大臣」、「豊磐間戸神」(トヨイワマドノカミ)。「随身(ずいしん)の像 随身・神域の守り神「右大臣・左大臣」楼門(萬世泰平門)の左右には、矢を背負い、剣を帯びた随身姿の神像が奉安されています。右側が「豊磐間戸神」(トヨイワマドノカミ)で右大臣、左側が「奇磐間戸神」(クシイワマドノカミ)で左大臣といいます。この二柱の神は、稲荷の大神をお守りする門戸の神であるとともに、社殿や神域を守り、清浄にする神です。この随身の御姿は、文久年間に安芸の名工、鷲尾石鸞(わしおせきらん)によって作られました。」「楼門」を潜ると正面に「拝殿」が現れた。昭和35年10月の竣工で、神社建築の美と現代建築の粋を集めた豪壮かつ華麗な建物。御祭神は宇迦之御魂神。創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651)と。その後幾星霜を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、又延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進された。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けた。往古、この地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれている。また第十三代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになった。今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れているのだと。扁額は「稲荷宮」。「拝殿」の「四神」。拝殿の四方の横に、鳥と龍の彫刻が長い棒の先に立っていた。帰ってきて調べると、青竜、朱雀(トリ)、白虎、玄武(ヘビガメ)の四神の彫刻だと。そして「拝殿」の奥に「本殿」。この「本殿」は江戸時代末期の1860年に再建・竣工したもので、全ての部材にヒノキ材を用いた権現造(ごんげんづくり)となっており、柱や壁など至る所に当時の名工による精巧な彫刻が施されていたのであった。昭和63年(1988年)、国の重要文化財に指定された。「御祈祷受付所」、「御朱印帳記帳所」、「御神符授与所」。「御朱印帳記帳所」で「御朱印」を頂きました。「楼門」を「拝殿」前から振り返る。「楼門」の内側には二体の「神馬」の像が奉安されていた。古くは生きた馬を奉納したのだと。色が異なり、白は太陽、黒は雨を表し、五穀豊穣の願いが込められているようだ。白い馬。近づいて。黒い馬。近づいて。「社務所」。右手奥の木には注連縄がかかっていた。御神木の「胡桃の木」。「笠間稲荷神社の概要」案内板。「当社は日本三大稲荷の一つで、正一位という最高の神位を持つ大神様です。笠間藩主歴代の祈願所として藩主の崇敬高く、江戸時代カら「胡挑下(くるみがした)稲荷」「紋三郎稲荷」の愛称で親しまれてきました。総面積約3万坪(約99,000m2)の神苑は、仲見世の商店街で賑わう「商業ゾーン」、楼門・排殿・本殿・社務所など荘厳な社殿のある「信仰ゾーン」、美術館・菊まつりなどが行われる「ふれあいゾーン」で構成されています。●「胡桃下(くるみがした)稲荷」とは当社の創建当時、この地に胡挑(くるみ)の樹が群生し、その大樹の下に稲荷の大神様がお祀りされていたことから、胡挑下稲荷と呼ばれるようになりました。現在でも40数本の胡桃の木が繁っています。なお、この地は胡挑の北限といわれています。」●「紋三郎稲荷」とは一説によると、笠間藩主・井上正賢の一族に門三郎という人がおり、当社の信仰がたいへん篤く、奉仕して徳高く、利根川沿線を中心に笠間稲荷神社の信仰を広め、多くの人に功徳を施したことから、「笠間の門三郎さん」の名声を集めました。その門三郎さんが説くお稲荷さんの信仰から、当社は「紋三郎稲荷」といわれるようになりました。境内案内図。「藤棚」樹齢400年の古木で、茨城県の天然記念物。開花すれば。 「https://blog.goo.ne.jp/konasuke_2012/e/38570778edc5085382dcdef493cedced」より「天然記念物 八重の藤」碑。「八重の藤」案内板。●茨城県指定天然記念物 昭和42年( 1967 ) ●樹齢/約400年 ●樹木の地 上部直径/3.6m●花房の長さ/ 70 ~ 80cm ●総面積/約150m2ニ株の藤樹は、毎年5月10日ごろに花を咲かせます。楼門側の藤は、淡紫色の蝶形の花を付け、150cmにもおよぶ長い総状の花穂を垂らします。また、拝殿側の八重の藤は、濃紫色の葡萄の房のように花弁が集合して咲き、実を付けない珍しい種類です。樹齢400年のニ株は天然記念物に指定されています。これらの藤は、拝殿造営前は池のほとりに繁り、池に映る藤の美しさから、笠間の俳人たちが明治26年に芭蕉の句碑を建てました。「しばらくは 花の上なる 月夜かな」 ばしょう(芭蕉)」ネットから「八重の藤」を。 【https://rtrp.jp/articles/79247/】より芭蕉の句碑。「しばらくは 花の上なる 月夜かな」万葉歌碑(まんようかひ)万葉集 第14巻 3504。作者不明。『波流敝左久 布治能宇良葉乃 宇良夜須尓 左奴流夜曽奈伎 兒呂乎之毛倍婆』『春へ咲く 藤の末葉(うらは)の うら安に さ寝(ぬ)る夜そなき 児(こ)ろをし思(も)へば』東の「瑞垣」の外にあった「聖徳殿」。「聖徳殿」を正面から。「聖徳殿」の左側にあった「聖徳殿新築記念」碑。右側には「聖徳殿」の中に安置されている「大黒天」案内板。●御祭神/大国主神 ●御神徳/福徳成就・財宝授与「大黒様」とも呼ばれて親しまれている七福神の一つの神です。仏教とともに日本に伝えられ、大国主神と習合の神となりました。糧食を司る神で、福徳や財宝を与える福の神として信仰されています。なお、大国主神は、島根県の出雲大社の御祭神であり、日本で一番古い神社として知られている奈良県の大神神社の御祭神、大物主神と異名同一神です。当社では、常陸七福神の一つとして大黒天を祀っています。大黒天といえば、米俵の上に乗った御姿が一般的とされていますが、これは元禄時代以降の御姿で、当社にお祀りされている大黒天は、くくり頭巾、狩衣姿で、左肩に袋を背負い、右手に打ち手の小槌を持った本来の御姿をしています。」「水戸大正千人講」碑。様々な石碑が並んでいた。手前には「歌碑」があった。そして東門(総門)を外から見る。東門(総門)の屋根の見事な装飾。門の左右には、毛綱(けづな:毛髪をより合わせて作った綱)が奉納されていた。大きな木材など運搬するさい通常の綱では切れてしまうので女性信者の長い毛髪と麻縄を撚り合わせて、超強度な綱にするのだそうです。よく社殿造営の際にするそうなので、ここの社殿の造営の際に使用されたものであろう。反対側にも。何故かポーランドのアウシュビッツ強制収容所の髪の毛の山を想い出したのであった。「大毛綱当社社宝として伝わるこの毛綱左右二巻きで長さ八十メートル太さ周囲二十センチメートル重さ九十五キログラムという大毛綱です。約ニ万人の女性崇敬者の奉納に成る頭髪を綱に綯ったもので昭和三十四年八月二十四日に拝殿造営に伴う御本殿移築(後方へ一〇〇メートル)の「お曳き初めの儀」はこの綱によって行われました。」この巨大な貝はシャコガイ(硨磲貝)であろうか。日本では古くは仏教の七宝の一つとして珍重されていた。 沖縄地方で刺身にして食用とし、瓶詰めの塩辛も沖縄食材を扱っている店舗で購入できると。また、殻は置物や宝飾品、水盤などに加工されていたと。「総門●建立/文化10年(1814)江戸時代の笠間地方の多くの農家に見られた、入母屋造りの建築様式を取り入れた総門です。しっくい装飾の屋根瓦の建物は、方八尺の4カ所に区画され、月次祭神璽(つきなみさいみしるし)の御幣、白と黒の木彫の神馬が奉安されており、周囲には崇敬者奉納の各種奉額が掲げられています。当初は左右に随身像が奉安されていましたが、楼簡新築時に移され、総門と称されるようになりました。●神社における鳥居とは神社の鳥居は、「神域を表徴する神門」であり、ここから先が神聖な神域であることを示しています。鳥居の起源、原形については諸説ありますが、語源は、願い事が「神様に通り入る」が転化したものとか、「鶏居(とりい)」との説があります。しかし、鳥居の本義は「鳥がとまり居る処」という意味から来たものです。時計のない時代、日本鶏の鳴き声は、時を知る上で大変重要だったからです。」月次祭神璽(つきなみさいみしるし)の御幣が両側に。「総門(東門)」を潜り再び内部に。「天水桶」が両脇に。明暦の大火の後、幕府は、天水桶の設置を義務付ける「法」を出し、商家をはじめ多くの寺社も設置していたようです。正面に「さざれ石」、右手に「塙嘉一郎大人像」と「塙翁頌徳碑」そしてその先に「楼門」。狐様がニ体。「稲荷神社と狐"お稲荷さん"のご祭神はキツネではありません稲荷の御祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と申し上げ、生命の根源を司る命の根の神様です。殖産興業の神、蘇生(よみがえり)の神(復活の神)、生成発展の神、産霊(むすび)の神、火防の神として、その御神徳は広大無辺です。私たちは常に大神様の御霊のお働きによって生かされており、人間生活に大変関わりの深い神様なのです。そして稲荷の大神様にお仕えする狐や馬は、八幡神社の鳩や氏神様の狛犬(こまいぬ)と同様に、神様のお使いをする「カミノッカイ」「ケンゾク」などと呼ばれる震獣なのです。これは人間が持っているさまざまな欲望を、神様に直接お願いするのは畏れ多いこととして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが中世時代には行われたのです。神道の原形としてみると、山の神は春、山から降って田の神となり、稲作の収穫を終えた秋に山へ帰って、山の神となります。狐も農事の始まる初午(はつうま)ごろから収穫の終る秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる同じころに狐も山へ戻ります。このような神道の原形である田の神、山の神の信仰と、これらの神と同じ時期に人里に姿を見せる狐の行動が、「稲荷」と狐の関係を象徴しています。」そして「車祓所」。「絵馬殿」。休憩所にもなっているようであった。天井を見上げて。長い歴史の中で神社に奉納された大絵馬や額が所狭しと。この絵馬殿は明治32年に造営されたもので、建物にも歴史を感じたが、天井に掲げられた奉納物はかなりの迫力なのであった。絵馬をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.17
コメント(0)
「佐白山麓公園」周辺の案内地図。「佐白山麓公園」の中央近くにあったのが「市指定文化財 [時鐘(じしょう)]」。【製作】安永7年(1778)【形態】高さ142センチメートル、直径74.8センチメートル笠間で時鐘(じしょう)が使われたのは寛文2年(1662)からである。現在あるこの鐘は3代目の銅製であって、中膨らみのない関東型である。側面の池の間には次の銘文がある。常陸国真壁郡田村住 鋳物師 小田部助左衛門 藤原助綿 分家 同苗 庄左衛門助信 鋳物師 同苗 助右衛門包早 同苗 三郎兵衛この鐘は、安永7年に笠間領内真壁郡田村(桜川市真壁町田)の鋳物師小田部氏によって鋳造され今も笠間の時鐘としてうち続けられている。「時鐘」碑と「時鐘」案内板。「市指定文化財 時鐘」碑。四つのテスト言行はこれに照らしてから 1、真実かどうか 2、みんなに公平か 3、好意と友情を深めるか 4、みんなのためになるかどうか と。「笠間市指定有形文化財 時鐘 一口所在地 笠間市笠間一〇一五ーニ指定日 昭和四十八年十ニ月七日製作 安永七年(一七七八)形態高さ 一四ニセンチメートル 直径 七四・八センチメートル時艟は、笠間蕃が寛文ニ年(一六六ニ)に正福寺の梵艟を借り受け、大町の極楽寺(現在の八坂神社)に艟楼を設け艟を撞いたことが発端である。その後、蕃は鐘樓を下屋敷の一角に移して鐘撞人三人を雇い、時鐘を撞かせた。現在の時鐘は三代日で、安永七年笠間領真壁郡田村(桜川市真壁町田)の陦物師小田部家が陦造した。鐘の形は頂上に「竜頭」という鐘を吊るす部分があり、胴体は中ふくらみのなおい関東型である。表面は「帯」といわれる縦と横の装飾の線でいくつかの面に区切られてる。帯が下の方に交わるところニか所にを鐘を撞く「撞座」がある。鐘の響きをよくするために、「乳」とう突起が全部で一〇八個ある。面の中央部に左記のような製作者の名が刻まれている常陸国真壁田村住大工職陦物師小田部助左衛門藤原助綿分家物師師同苗 庄右衛門 助信 同苗 助右衛門 包早 同苗 三郎兵衛なお、鐘楼は昭和四十五年(一九七〇 )に佐白観世音寺(現正福寺)に移され平成十三年(ニ〇〇一)に現在地に新築移転した。」「時鐘」を見上げて。笠間の詩人、田崎秀(たさきしゅう)は、昭和33年「やわらかく 時鐘のひびき 溶けてゆく 盆地の空気 吾も吸うひとり」と。石段を上がっていくと左手には歌碑が。「雨にくれても 村◯あられ 越える佐白の 越える佐白の 山は雪 吉雄」「茨城百景 笠間附近国宝社寺巡り」碑。再び「時鐘」を見る。「旧笠間町立美術館」。正面から。「旧笠間町立美術館この建物は、旧笠間町立美術館である。太平洋戦争後まもなく、笠間町長根本政太郎は笠間の美術団体「常土社」の日本画家田中嘉三、高崎興、海老澤東丘、洋画家の本郷淳らの提案をうけ、笠間町の文化と芸術を核とした街づくり構想を策定し、その一つとして町立美術館建設をきめた。明治三十三年(一九〇〇年)近衛師団の機動小演習が十一月十日から十七日までの八日間行われた。その視察のため、明治天皇は十五日から十七日までの三日間笠間に行幸された。明治天皇の宿泊所が当時の西茨城第一高等小学校の校舎で、その後「行在所」として今の山麓公園に保存されていた。笠間町ではこの建物の一部を現在地に移築改修し「笠間町立美術館」とした。この美術館には当時国宝であった仏像の石膏コピーを安置する方針をたて、町は当時一流の技術者を招き良質の石膏を集め三年近くかけて奈良薬師寺東塔の水煙や興福寺の仏頭等の石膏コピー仏八体を完成させた。昭和ニ十五年(一九五〇年)十一月一日、当時の奈良東大寺管長北河原公海や、後の奈良国立文化財研究所長小林剛ら関係者を招いて開眼式を挙行し公開された。美術館の入口には彫刻家平櫛田中の揮毫による「笠間美術館」の看板を掲げた。その後昭和ニ十八年ニ月には国宝コピー仏三体が加わり内容が充実した。日本初の石膏コピー仏を展示する町立美術館は広く名が知られていった。」「田崎秀歌碑建設由来」碑。「田崎秀歌碑建設由来田崎秀君、大正六年茨城県協和町に生る。同八年笠間市に移住。旧制水戸中学、水戸高等学校を経て、昭和十六年千葉医大卒業。間もなく発病療養生活に入る。昭和十三年より短歌活動を始め三十三年歌友と共に「茨城歌人」を創刊、県歌担の統一をなす。著書「大洗」は茨城文芸賞。昭和五十六年六月十五日没す。君の短歌文芸推進の功績を称え、ここに自筆の短歌を刻し、後世に伝えるものである。」「田崎秀」氏のレリーフ。「やわらかく 時鐘のひびき 溶けてゆく 盆地の空気 吾も吸うひとり」。「旧笠間町立美術館」を再び斜めから。「笠間満州分村懐古之碑笠間分村は昭和十八年三月十二日 元満州国東安省宝清縣南哈嘱地区に笠間町を母体とし 亜細亜五族の協和と日本民族伸展の大理想顕現を目的として建設されし第十二次開拓団 名利広漠たる山野 正に一万四千町歩 不撓不屈之を拓きて百町歩開拓の聖業漸く進みたるも 昭和二十年八月九日建設五ケ年計画の半ばにして戦争大東亜の終結のため幾多尊き殉難者を出し 笠間分村二百戸建設の大業遂に挫折の止むなきに至る 嗚呼残念なる哉 時に団長以下百五十四名 依って 為分村事業記念 為殉難者慰霊 建立」。城の形をした碑、そして開拓のシンボルの稲穂が刻まれていた。「忠魂碑」。「陸軍大将 井上幾太郎書」の文字が。日露戦争の忠魂碑であろう。「駐蹕(ちゅうひつ)遺蹟碑」。「駐蹕」とは天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。「鎮魂碑支那事変勃発直後の昭和十三年の春、吟詠こそ興國の正聲であるとの革新をもって市内の先駆者達は笠間桂吟詠会を創立した。當時の会員は憂國の至情に燃え、道義の昂揚と吟詠報国の大旆を掲げて吟道に情熱を傾けていたがその年の旧八月十五日に第一回忠魂慰霊名吟詠大会を開催し、江湖の共感を得た。爾来終戦を挟んで数年の空白にあったが、毎年旧八月十五夜を期して、一貫してこれを行い慰霊の誠を捧げてきた。往時を追懐するとき無量の感慨を禁じ得ない。而して本年をもって遂に第五十回の聖行を達成した。これを後世に傳えたい一念からこの碑を建立するものである。」「義士顕彰碑」には「誠」の文字が。「義士顕彰碑建立記」。誠は人の道にして古今を貫く大道たり。赤穂義士をして感奮興起せしむるものは己を空しうして尽忠の誠をつくしたるによるなり。わが笠間の地は赤穂義士を生みたる浅野家◯地の在りし所にして彼等の父祖は二十四年にわたり大義名分を明らかにせんとする常陸〇〇に化育せられ子孫をして遂に元禄の快挙を◯しめたり。義士顕賞の碑を建づる所以〇〇は浅野家旧領の縁由たるに鑑がみ義士精神品◯を観光笠間の発展に◯せんとするものにして眞和会十周年事業として義士顕彰会を設立し実行委員を定め、顧問を推嘱し篤志家の応援を求め諸般の計画を推進す。かくて昭和三十八年十一月建碑の功成り、茨城県知事を始め関東東北、北陸各都県の代表有志等八百余人隣席のもと序幕の式典を挙ぐるを得たり。又義士〇〇◯行は萬目を驚かし当時を深く追想せしめた。浅野家が笠間を去って星霜既に三百有余年、当時を追懐させるものとしてはただ大石邸の◯一◯を残すのみ 義士顕彰の碑を建つることの◯に意義深きを思う義士の精神ここに◯りて以って至誠の実を社会に挙ぐるを◯は幸甚ここに遇ぐるものなし」と、赤穂浪士の忠義を称える文面が刻まれていた。「治功神社(ちこうじんじゃ)」石鳥居。佐白山麓の山麓公園山際に、神明鳥居と社名標柱が建ち、その奥に治功神社の社殿が鎮座しています。境内は山裾を削って平地にして約二反八畝歩あり、社殿の外に石灯籠一対、稲荷神社小祠、記念碑二基、歌碑一基が建てられいます。社号標石「治功神社」。「治功神社」の本殿が奥に。本殿は方一間の掘立高床式で高欄があり、戸口一つの平入り形式です。屋根は銅板葺き切妻造で、 千木と五本の堅魚木(かつおぎ)をのせ、左右に棟持柱のある典型的な神明造の社です。拝殿は間口二間、奥行一間半の切妻式造りで内部は壁のない空間になっています。「本殿」。祭神は、笠間八万石の城主、牧野氏の始祖である武内宿禰(たけのうちのすくね) と歴代の当主、及び明治元年(一八六八) の戊辰戦争から西南の役、日清・日露戦争、第一次世界大戦まで、笠間町出身の戦死者二七柱の霊も祀られています。創建は、明治十三年(一八八〇)当時大和田にあった牧野邸(現在の笠間小学校校舎の地)裏手に建立されました。翌年に旧藩士たちが同志会的な「笠間追遠舎」を結成して神社の護持にあたりました。「治功神社修復記」。「修復止碑」。「歌碑」であろうか。横にあった社は「稲荷社」。「稲荷社」を正面から。扁額「正一位 稲荷大明神」。内陣には狐様が。そしてここが「笠間城本丸」への登山道入口。「八幡台櫓跡」へと繋がっている「佐白山ハイキングコース」となっているようであった。「佐白山」案内板。「皆さんに気軽に樹々とふれあい自然に親しんでいただくため、平成10年にいばらき森林浴の道100選が指定されました。笠間市街地の東に位置する佐白山はサクラ、スダジイなど様々な樹々が四季折々の姿をみせ、古い石垣や堀割が静かに往時の歴史をしのばせています。山頂に鎮座する佐志能神社の奥、巨岩が重なり合う石倉からは霞ヶ浦や鹿島灘まで望むことができます。森林浴の道をたどり、自然と歴史にふれあうひとときをお楽しみ下さい。」ハイキングコースのルート図。これも赤穂義士の顕彰碑であろう。「木村翁功徳碑」。「加藤櫻老顕彰會・・・」碑加藤櫻老は常陸国笠間藩の儒学者。名は煕。通称は麟、後に有麟。桜老は号。嘉永4年(1851年)に隠居した後、尊王攘夷運動に参加。三条実美や高杉晋作等多くの志士と交流し、高杉らの推薦により長州藩から明倫館の教授として迎えられた人物と。「佐白山麓公園」内でいなり寿司で腹ごしらえ。そして再び「かさま歴史交流館 井筒屋」に車を駐め「笠間神社」の「門前通り」を歩く。「シエアサイクルポート」。「道の駅かさま」の開業に合わせ、9月16日(木)に運用を開始。「道の駅かさま」を含めた、市内の観光拠点間を移動する新たな交通手段として、活用できる と。「中屋総本店」「ふくふくまんじゅう」が人気の店と。そしてその先「笠間稲荷神社鳥居」の手前右手には神具店「ときわ」が。多くの大小の稲荷神社が店頭に並んでいた。日本三大稲荷の一つ「笠間稲荷神社」のすぐ隣にある神棚・外宮の店「ときわ」。素材にこだわった国内産木曽ひの木・本欅(けやき)の神棚・外宮神具の専門店。その他木彫り、縁起物もいろいろ取りそろえて店内に並んでいた。店の奥様と暫しの雑談を。我が家にも「寒川神社」の神棚があるが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.16
コメント(0)
「笠間城跡」の散策を終え、車で「笠間城下」まで下ると、「笠間日動美術館」の入口近くにあった観光案内板。「笠間市内まっぷ」。「現在地」にカメラを近づけて。更に詳しい地図を。「関東ふれあいの道この道は、関東のすぐれた自然や文化とふれあいながら、楽しく歩けるように整備した首都圏を一周する長距離自然歩道です。県内は、18のコースで結ばれ、水郷筑波国定公園、御前山、間県立自然公園等を通る全長255Kmのふれあいの道です。焼物とお稲荷さんへのみちこの「みち」は、笠間駅から笠間稲荷や佐白山、弥勒堂を経て、石寺へ結ぶ延長12.6 K mのコースです。コース内には、日本三大稲荷の一つである苙間稲荷、坂東23番札所佐白観音、つつじの名所つつじ公園などがあります。佐白山には、笠間城跡や巨岩の石倉があり、ここからの眺望は素晴らしいものです。」「笠間日動美術館」入口付近のモニュメント。1972年(昭和47年)11月に東京・銀座にある日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により、創業45年と金婚式を記念し、長谷川家ゆかりの地である笠間に創設された。日本を代表する画商の系列美術館であり、更に2000年には山岡孫吉(ヤンマー創業者)が収集した洋画コレクションも加わり、西洋の近代、日本の近・現代の巨匠が描いた絵画を中心に3千点を超す所蔵品がある。その中でも、国内外の著名画家が愛用したパレット画コレクションは、長谷川が親交を深めた画家たちから譲り受けた340余点という世界に例のない美術史的にも貴重なコレクションとなっている。「田町慶長期(1596~1614)の初め笠間城主蒲生氏の代、田を埋めて登城路を作ったのでこの町の名となった。寛永期(1624~43)末、浅野長直の代に下屋敷を台地に作り、この町を武家町にした。」そして「史跡 大石邸跡」碑と案内板。「史跡 大石邸跡」碑。「大石邸跡ここは、浅野氏赤穂藩の国家老で「忠臣蔵」の物語で名の知られた大石内蔵助良雄(よしたか)の曽祖父、良勝及び祖父良欽(よしたか)が住んでいた屋敷跡である。浅野氏は、元和八年(一六ニニ)に笠間五万三千五百石の藩主になったが、その頃の笠間城は佐白山頂近くの本九で政務を執っていた。浅野氏はよりよい政治をするため、城下町に近い台地(今の山麓公園)に笠間城の下屋敷として御殿を建て、また笠間城下町を整え現在の笠間市街地の基を作った。笠間藩主浅野長直の家老である大石氏は、御殿の直ぐ下にあたるこの地に屋敷を与えられていた。長直は、正保ニ年(一六四五)に赤穂へ国替えとなったが、その後の代々の笠間藩主もこの地を家老屋敷として与えていた。 笠間市」「浅野家・大石家と笠間市」案内板。「浅野家・大石家と笠間市元禄15年(1702) 12月14日、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士が、亡き主君の浅野内匠頭長矩(たくみのかみのながのり)の仇討ちを実行しました。長矩の刃傷事件と赤穂浪士の仇討ちは、赤穂事件と呼ばれ、後に忠臣蔵として広く知られています。浅野家は、赤穂移封前は笠間藩主であったことから、笠間市も浅野家ゆかりの地の一つといえます。浅野家とは浅野家の出自は、美濃国土岐郡浅野村(岐阜県土岐市)を拠点とした土岐氏庶流の光時を始祖とします。豊臣政権で五奉行を務めていた浅野長政は、嫡子のいなかった浅野長勝の養子に迎えられ、早くから豊臣秀吉に属し、豊臣政権の中枢として活躍します。また、徳川家康とも親交があり、関ヶ原の戦いでは家康に従っています。慶長11年(1606)に隠居領として常陸国真壁・筑波両郡の内5万石が与えられ、真壁藩が立藩します。長政の嫡子幸長は、関ヶ原の戦いの後に紀州藩に封ぜられましたが、嗣子なく死去してしまったため、長政の次子長晟(ながあきら)が宗家を継ぎ、後に広島藩に移封します。長政の三子長重は、赤穂藩主浅野家につながります。」浅野長重と笠間藩長重は、天正16年(1588)に近江国で生まれました。慶長4年(1599 )に江戸に移ると、ニ代将軍徳川秀忠の小姓となります。慶長6年(1601)には下野国真岡2万石が与えられ、真岡藩主となりました。慶長16年(1611)に父長政が死去すると、その遺領である真壁藩5万石を継ぎました。真壁主時代の長重は大坂の陣をはじめ、江戸城半蔵門の修復などの功績があり、加増転封の話がありましたが、父の遺領である真壁の領有を望みました。元和8年(1622) 12月7日、真壁藩5万3000石と同じ石高で笠間藩に入封し、この時、真壁領の一部も笠間藩領となります。寛永9年(1632)に死去すると、長政と同様に伝正寺(桜川市真壁町)に舞られました。」「浅野家略系図」。「浅野長重」(左)と「浅野長直」(右)の肖像画。浅野長直と笠間藩長重を継いだ長直は、慶長15年(1610)の生まれであり、笠間藩主就任の前年に内匠頭に任じられています。長直の時代に、笠間城下町が整えられ、この時につくられた区割りや道路は、江戸時代を通じて大きな変化がなく、現在の笠間稲荷神社周辺の市街地の基となっています。さらに、町人町の「五か町」が完成し、武家町も新設しています。この城下の様子は「常陸国笠間之城絵図」(正保城絵図・国立公文書館蔵)に見ることが出来ます。また、山城である笠間城は、政治を行うには不便なこともあったため、現在の佐白山ろく公園に下屋敷を建設しました。浅野家以後、下屋敷で政務が行われます。正保2年(1645)、浅野家は赤穂藩へ転封となります。幕府の許可なく下屋敷を建設したことが要因であるともいわれますが、赤穂は塩田の収益があり、本家の広島藩にも近い位置になるので、有益なものであったかもしれません。そして移封より57年後に長矩の刃傷事件が起こります。筆頭家老大石家浅野長矩の仇討ちで赤穂浪士を率いたのは、筆頭家老であった大石内藏助良雄(よしたか)です。大石家は近江国栗太(くりもと)郡大石庄(現在の滋賀県大津市)の出身であり、下野小山氏の一族であるともいわれています。戦国期には、大石良信が豊臣秀次に仕えていました。良信の次男の良勝(良雄の曾祖父)は、仏門に入れられていましたが、14歳の時に寺を抜けて浪人となり、真岡藩主であった浅野長重に仕えます。良勝は長重に従って大坂の陣に参戦し、首級2つをとる活躍をしました。長重が笠間藩へ移封になった時も従い、長重の補佐を務め、その功績から1500石を拝領し、家老になります。この頃から内藏助(くらのすけ)を名乗ります。良勝の子良欽(よしたか)も笠間藩時代に出仕しており、赤穂藩に移封後に家老になっています。良欽の子良昭は良雄の父にあたり、通称権内(ごんない)と呼ばれていました。生年は寛永17年(1640)であり、笠間藩時代に生まれたことになります。良昭は32歳の若さで死去してしまったため、家老職に就くことはありませんでした。このように、大石家は真岡藩時代の浅野長重に仕え、義勝、良欽、良雄は筆頭家老として浅野家を支えました。現在の笠間市と赤穂市このように、笠間市が赤穂藩浅野家のゆかりの地であることから、昭和55年(1980) 11月7日、両市は姉妹都市を提携し、現在に至ります。」「大石家略系図」。以前訪ねた「赤穂城」👈リンク の「大手門」。「第二十四回義士親善友好都市 交流会議開催記念」碑。「赤穂四十七士の笠間(藩)生まれの義士たち」案内板。「分家浅野氏の初代長重が元和8年(1622) 12月に真壁藩から笠間藩に入封し、二代長直が寛永9年(1632) 10月に藩主を相続して、正保2年(1645) 6月に赤穂藩へ転封しました。浅野氏の笠間藩在任は約23年でした。堀部弥兵衛金丸(ほりべやヘえかなまる(あきさね))は、寛永4年(1627)生まれで、父は笠間藩士の堀部弥兵衛てす。19歳の時、赤穂に移ったので、義士の中では、唯一の笠間藩士でした。赤穂では300石取りになり、足軽大将を勤め、江戸留守居役に任じられました。文武の道を志し兵法に通じ、長檜の達人と伝えられています。質直て義に厚く、中山安兵衛(堀部安兵衛武庸(たけつね))に懇願し、養子に迎えており、父子て義士になりました。すでに隠居の身でいましたが、江戸の急進派の若い同志を励まし、討ら入りの時は表門を守り、老巧な心理作戦て本懐を遂けました。吉田忠左衛門兼亮(かねすけ)は、寛永17年(1640)に笠間藩士の吉田助兵衛の嫡子として出生しました。赤穂に移転の時、兼亮は6歳で、後に200石取りとなり、藩の足軽頭兼郡奉行を勤めました。刃傷事件の後、大石良雄の参謀として、城の明け渡しから江戸の同志の連絡や統制なとに尽力しました。討ち入りでは、吉良を見つけるために叱咤激励しながら裏門隊の采配をしました。義士の吉田沢石衛門兼貞は兼亮の嫡子、貝賀弥左衛門友信は実弟です。間喜兵衛光延、間瀬久太夫正明、小野寺十内秀和。「間喜兵衛光延(はざまきへいみつのぶ)は、寛永12年(1635)に出生し、父は笠間藩士の間左兵衛です。赤穂に移転の時、光延は11歳て、藩に出仕して、100石取り、勝手方吟味役になりました。勤直で寡黙、古武士の風格があったと伝えられ、山鹿流軍学を学ひました。討ら入りの時は68歳、裏門隊に配属、吉田忠左衛門や小野寺十内と本部を作り、脱出する吉良方を念仏を唱えながら槍を突き付けて戦いました。討ち入りには、長男の間十次郎光興(みつおき)と次男の間新六光風と一家三人て加わりました。間瀬久太夫正明の父は、権太夫といい、寛永18年(1641)に正明が生まれました。赤穂に移転の時、正明は5歳で、赤穂藩では大目付役で200石を給わりました。人柄は非常に厳格て、義挙には嫡子の間瀬孫九郎正辰(まさとき)と父子で加わり、また同志の小野寺十内は従兄弟にあたり、中村勘助正辰(まさとき)は正明の姉の娘の夫で義理の甥であり、一族で参加しました。討ち入りては、半弓を手に最後まて大石良雄の側を離れず、司令部として働きました。小野寺十内秀和の父の又ハは、浅野長重に仕え、秀和は寛永20年(1643)に出生し、3歳の時、赤穂へ移転しました。赤穂藩150石取りで京都留守居役を勤めましに。資性温厚で文学に富み、経学を伊藤仁斎に学び、和歌が堪能て優れた歌を詠んでいます。討ら入りの衣装に「忘れめや百に余れる年を経て仕へし代の君がなさけを」と書き付けて吉良邸へ出向きました。養子の小野寺幸石衛門秀富(こうえもんひでとみ)も義士でした。」「大石邸跡碑」。「水戸 大竹雲夢題赤穂義士大石天◯◯埀絲櫻義士◯中花甞勤春日醉義士◯不歸對花重濺涙」「史跡 大石邸阯」と笠間義士会により建てられた「大石内蔵助良雄像」。「史跡 大石邸阯」。「大石内蔵助良雄像」。「大石内蔵助良雄を統領とする赤穂浪士の義挙は天下に喧伝されて知らない人はいない。その主浅野公が父子ニ代に亘って笠間城を領し、良雄の祖父良欽が家老として此の地に住したことを知る人は寡ない。而してこの銅像建立の地こそ浅野藩邸を経営した由縁の地である。義挙の精神の源流は関東に尚武の気風をもって鳴った当地に発することを信じ、浅野家が笠間より赤穂に移って三百三十年の記念すべき年にこの銅像を建てるものである。」1702年(元禄15年)12月14日、赤穂浪士四十七士が両国本所松坂町の吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷に討ち入り、上野介を討ち果たし、主君 浅野内匠頭の本懐を遂げた日である。浅野家は赤穂藩主になる前、25年にわたり笠間藩主として笠間の地を治めていた事、そして、赤穂に転封後も主君に忠義を尽くした義士3名が、笠間藩出身者であった史実を初めて知ったのであった。その名は吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、小野寺十内(おのでらじゅうない)、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)なのであった。そして「笠間日動美術館」前の案内板にはシルバニアファミリー展が2021 年 10月 2 日(土)~12月 19 日(日)で開催されていた。アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)の作品「アルヴェアール将軍の馬の頭部」。アントワーヌ・ブールデルは、フランスの彫刻家である。オーギュスト・ロダン、アリスティド・マイヨールらと共に近代ヨーロッパの代表的彫刻家。館内入口には別の作品も展示されていた。この作品は?そして「笠間日動美術館」の建物を見る。世界的な彫刻家、流政之氏の石彫「サキモリ」が美術館エントランスに設置されていた。「笠間日動美術館」のエントランス。アントワーヌ・プールデルのブロンズ作品「ペネロペ」。「20世紀を代表する彫刻巨匠の一人。モントーバンに家具職人の子として生まれる。トゥールズの美術学校を経て、1884年パリのエコール・テ・ポザールに進んだが学校に失望し退学した後、ロダンの助手となり15年動めた。その影響下でのロマン主義的な作風は1900年の《アポローンの頭部》を契機に克服される。古代ギリシャ彫刻は彫刻本来の素材と力強さを、その構造に保ったが、プールデルはこれを現代に再現し、その雄々しいモニュメンタリティは現代彫刻に新たな道を拓くこととなった。」ロブスター君の「顔はめパネル」も。前庭の彫刻作品を再び。車に乗り換え「佐白山麓公園」を訪ねた。そして次に「佐白山麓公園」内にある「笠間城主下屋敷跡」を訪ねた。「笠間市指定史跡 笠間城跡」案内板がこの場所にも。「1.笠間城阯の立地笠間城跡は笠間市の北部、西麓に笠間盆地を見下ろす標高205mの佐地し、複雑に入り込む侵食谷により形成される尾根を巧みに利用する山城跡です。旧城下町は、笠間稲荷神社を中心とした市街地になっており、往時の風情を残しています。2.笠間城の歴史笠間城は、宇都宮一族であり、この地域を治めた笠間時朝によって、承久元年( 1219 )に築城が開始され、嘉禎元年( 1235 )に完成したと伝えられています。この時に、築城以前に祀られていた佐志能神社と正福寺の伽藍を破却・整理したといわれており、佐白山は信仰の山であったことがうかがえます。完成後は、笠間氏が歴代の城主を務めました。鎌倉時代に山城を築き居城とすることは考えにくいので、笠間城の原型が出来上がったのは、室町時代以降のことであり、戦国時代にかけて整備されたものと考えられます。天正18年( 1590 )に豊臣秀吉の小田原北条氏の征伐に際しては、笠間氏が主家宇都宮氏の行動に反して、北条氏方として行動したことから、宇都宮氏に攻められ、築城以後380年続いた笠間氏は滅亡し、以後は宇都宮氏家臣玉生高宗が城主を務めました。慶長3年( 1598 )、蒲生秀行の宇都宮移封によって、その重臣である蒲生郷成が笠間城主を務めることになりました。郷成は天守曲輪の整備を行い、城下町や江戸時代に引き継がれる登城路も整備しました。関ヶ原の合戦後は、譜代大名の松平康重が入城し、初代笠間藩主となりました。元和8年( 1622 )から正保2年( 1645 )まで、浅野長重、長直父子が笠間藩主を務めた時に、現在の町割に引き継がれる城下町が完成し、下屋敷(現佐白山麓公園)を建設しました。延享4年( 1747 )に牧野氏が藩主となり、明治維新まで牧野氏がこの地を治めました。明治時代になると、笠間城は廃城となり、天守曲輪にはもともとあった佐志能神社が祀られます。3.笠間城の縄張り笠間城の縄張りは、江戸時代の絵図で確認することが出来ます。佐白山頂付近の①天守曲輪をはじめ、②本丸③二曲輸④三曲輪が展開します。天守曲輪は、蒲生郷成が整備を行ない、櫓を築いたといわれています。本丸には御殿、八幡台櫓、宍ケ崎櫓、城門があったことが描かれており、現地には城門や櫓の礎石が現存しています。曲輪には、白壁の塀が廻らされ、瓦が葺かれている様子が描かれています。⑤大手門周辺には、鍵型に張り出す土塁があり、更に北側には⑥的場丸(通称千人溜)と呼ばれる曲輸がありました(現在は駐車場)。的場丸より道を挟んで北側には、江戸時代の正福寺と侍屋敷が描かれており、的場丸の西側にも侍屋敷が描かれています。正福寺と侍屋敷は、江戸時代には城郭の範囲として捉えられていないものですが、現地には堀や土塁など、城郭遺構が残っており、中世の笠間城では使用されていたものと考えられます。4.石垣について笠間城の特徴の一つとして、石垣を使用した城郭であることが挙げられます。近世城郭では、石垣を構築することがよく見られますが、茨城県内においては、笠間城で唯一採用されています。現在も11か所で石垣が確認でき、石垣の構築年代には時期差がみられます。特に、天守曲輪に残る石垣は、高さ約4.3mであり、笠間城内でみられる中では最大の規模を有します。石垣に使用した石材は、主に花崗岩です。佐白山は、石倉に象徴されるように岩石が露岩していることから、整備に際しては、この岩石が妨げになったことが考えられます。蒲生郷成による天守曲輪の整備の中で、露岩した岩石を切り出し、石垣・石段を構築し、曲輪としての姿を造り上げた可能性が高いと推測できます。5.笠間城跡の調査について平成23年度に「笠間城跡保存整備基礎調査」の実施が予定されておりました。平成23年3月11日に発生した東日本大震災により、天守曲輪の石垣が被災しましたが、もとより計画されていた基礎調査を実施し、その結果に基づき、国指定史跡を目指すこととなりました。平成25年度には「笠間城跡調査指導委員会」を設置し、平成26年度には天守曲輪の石垣の応急処置を施し、国史跡化へ向けた調査を開始しました。今後、航空地形測量によって作成される地形図を元に縄張調査を実施し、現地に残されている笠間城跡の構造や範囲を確認する作業を行ないます。また古文書調査や絵図調査の成果を踏まえて、発掘調査を実施することで、地下に眠る当時の笠間城の姿を確認します。これらの調査成果を積み重ねることにより、国指定史跡の指定を目指します。」「笠間城と城下町の様子(常陸国笠間之城絵図)」。「笠間城跡周辺図(■部分は市指定史跡範囲)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.15
コメント(0)
蒲生氏が築いたとされる高さ4.3mの天守下の石垣。東日本大震災の影響で今もシートがかかっていた近づいて。笠間城の中で一番整っている石垣であると。天守下の石垣には上・中・下の三段があり、下段の隅角部(折れ曲がっている部分)では算木積という石垣の技法が見られるのであった。本丸の北東、堀切を越えると天守曲輪に出た。笠間城が近世城郭として整備されたのは、築城名手としても知られる蒲生氏郷(うじさと)の家臣・蒲生郷成が城主の頃であった。茨城県内は石垣の城がほとんどなく、その中でも要所要所で石を積んでいる笠間城は、石垣を楽しめる貴重な城といえる。なかでも天守曲輪の石垣は見事! 蒲生氏の出身が、石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」のいる近江出身だったこともあり、石垣を構築したのは蒲生郷成の時代だと考えられている。「佐志能神社」への石段を上る。急な最後の石段もズレていた。石垣横の階段を登ると、かつて二重の天守が建っていた天守台がある。現在は「佐志能神社」が鎮座しているのであった。佐白山の山頂部で現在の「佐志能神社」の社殿が建立されている場所は二層天守が置かれていた。その二層天守の土台付近は総石垣造りでその下手には区画された郭と成っていた と。 【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zyousi/ibaraki/kasamazyou/kasamazyoucg1.html】より巨石を刳り貫いた「手水鉢」であろうか。「佐志能神社」は佐白山の山頂(182.1メートル)にある笠間市指定有形文化財「笠間城跡」の天守曲輪跡に鎮座する。笠間県立自然公園の一部(城跡公園)である。中近世の城址であるとともに景勝地であり、「笠間稲荷と佐白山」として「茨城百景」および「いばらき森林浴の道100選」の一部に選定されている。佐白山は「三白山」「佐城山」「佐志能山」とも表記し、城址であることから「お城山」という通称もある。常陸国風土記には、新治郡と那賀郡の郡境に位置する「大山」として描かれている(新編常陸国誌)。佐白山の由来については次のような説がある。佐白山正福寺の伝承では、山の神使が「白馬、白鹿、白雉」(笠間市の説明では「白い雉、白い鹿、白い狐」)であることから「三白」の山名が生まれたとしている。扁額は「佐志能神社」。「内陣」。「佐志能神社拝殿立人について山頂に鎮座しております佐志能神社までの御登拝、誠にご苦労様です。さてこの度、当社拝殿への立入があるとの連絡を受けました。この拝殿は祭典など神事に使用する神聖な建物であり、容易に立ち人ることは関係者以外禁止とさせて頂いております。また、東日本大震災で被災した部分もあり、大変危険な状態となっております。以上のことを踏まえ、今後立人を確認しましたら警察などへの通報も視野に人れ、対応させて頂きますのでご了承下さい。これからも清々しく参拝が出来ますよう、引き続きご協カお願い致します。お帰りの際も気をつけて下山になり、またの御参拝を心よりお待ちしております。」「佐志能神社」裏手の築地塀はなんと天守の瓦でできているのだと。こんなところにもしっかり天守の面影が生きているのであった。「佐志能神社」・天守からの展望。上って来た石段を下る。東日本大震災で崩れかけた石垣を再び見る。この巨石は?「史跡 笠間城八幡台櫓(はちまんだいやぐら)跡」碑。「八幡台櫓跡」周辺の地図。「八幡台櫓跡」から現在の「東屋」を見る。笠間城にあった「八幡台櫓」は明治13年に檀家の方の尽力で真浄寺に移築されたのだと。真浄寺は、井筒屋から北に700mの所にある日蓮宗の寺である。「真浄寺」👈にある「八幡台櫓」は、屋根が二重構造(二重櫓)で、屋根瓦の先端には鯱が乗っている と。非常に立派なもの。黒の瓦と白い漆喰の対比も美しい と。「関東ふれあいの道」案内板。「八幡台櫓跡」から「宍ヶ崎櫓跡」への道には現在は四阿(あずまや)が建っていた。「宍ヶ崎櫓台跡の土塁」上を進む。「いばらき森林浴の道100選 佐白山」碑。そして帰路は駐車場に戻る別のルートで。本丸西側あたりにも横堀や土塁とおもわれるものが。隠れた遺構があちこちに散らばっているのであった。そして駐車場に迷うこと無く到着。「関東ふれあいの道」碑。「関東ふれあいの道」案内板。「関東ふれあいの道関東ふれあいの道は、首都圏に残された美しい自然や歴史遺産を結び、首都圏を一周する全長1 , 799kmの長距離自然歩道です。茨城県コースは、全1 8コースで結ばれ、御前山・笠間県立自然公園、筑波研究学園都市、水筑波国定公園等を通る全長約255kmのぶれあいの道です。4、焼物とお稲荷さんへのみちこの「みち」は、石寺から笠間駅を結ぶコースで、弥勒堂、笠間稲荷神社など巡る延長約14kmの一般向けの歩道です。コース内には、笠間稲荷神社や、ツツジの名所として知られるつつじ公園、笠間城跡のある佐白山、日動美術館などの見どころがあります。笠間焼の産地として知られる市内には、200を超える作家が軒を並べ、江戸時代から続く伝統を受け継いでいます。現存する登り窯の見学、ギャラリー散策や陶芸体験を楽しむことができます。」赤い線が「関東ふれあいの道」。「史跡 千人溜り跡」碑が駐車場入口の左側に。裏側の石碑説明文には「この広場はいざ出陣というとき武士が集結した所で、古圖には駒場丸といい俗にこの称がある」と刻まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.14
コメント(0)
「かさま歴史交流館 井筒屋」で笠間城関連の多くの史実を学んだ後は「笠間稲荷神社」への「門前通り」を散策する。看板商品?の和傘が店頭にカラフルに並んでいたがここは雑貨の店ではあるが、豆乳湯葉アイスや各種ジェラートで人気の店と。そして「きむらや」。笠間稲荷名物『笠間いなり寿司』を稲荷神社のお膝元で作り続けている店と。お蕎麦や胡桃を使った“ちょっと変わり種”のいなり寿司を買いました。そして車に戻り、「笠間城跡」にある「千人溜駐車場」に向けて「笠間城跡めぐり案内」を見ながら坂道を上って行った。左手にあったのが「坂本九歌碑」。笠間つつじ園近くの道路脇にあった「上を向いて歩こう」 の「歌碑」。を向いて歩こう」(うえをむいてあるこう、英題:スキヤキ、SUKIYAKI)は、坂本九の楽曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大、プロデューサーは草野浩二。ビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日付において、2020年9月現在においても日本出身者として唯一となるHot 100週間1位を獲得。同誌の1963年度年間ランキングでは第10位にランクイン。後に数多くのアーティストによってカバーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。坂本九や永六輔のメモリアルソングとしても用いられる。「上を向いてあるこう」👈リンク ♪♪ 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す 春の日 一人ぽっちの夜 ♪♪ ♪♪ 上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜 ♪♪ ♪♪ 幸せは雲の上に 幸せは空の上に 上を向いてあるこう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぽっちの夜 ♪♪ 【口笛】 ♪♪ 思い出す秋の日 一人ぽっちの夜 悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに ♪♪ ♪♪ 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぽっちの夜 一人ぽっちの夜 ♪♪ 【口笛】道路の反対側の竹の生い茂る山の中に住居が垣間見えたが、これが坂本九が生活していた家のようであったが現在は立ち入り禁止になっているようであった。「歌碑」の横にあったのが「弁財天」。近づいて。「弁財天」近くのふくよかな石仏像。そっして道路の先にあったのが「大黒石」。反対側に廻り込み。「大黒石鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。徳蔵寺の曽兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵はあやうく難をのがれることができた。大黒石は、そのときここまでころげ落ちて止まったといわれています。この大黒石の中ほどに小穴があり大黒のおへそといわれ、このへそに小石を三度つづけて投げそのうち一つでも入れば、幸せがあると伝えられています。」そして更に坂を上り、無料の「千人溜駐車場」に到着し、散策開始。駐車場の一番奥にあったのが「佐白山観光道路完成之碑日本三大稲荷で知られる笠間市であるが 市の中央に位し 天を摩す巨木の生い茂る 幽邃にして眺望の良い佐白山を開発し 以つて当市の観光資源にしようとの試みは 市民の永い間の願望であった市議会に於いては 昭和三十八・三十九両年度を以つて 観光道路建設の議決が為され 茲に漸くにして一応の完成を見たことは寔に喜ばしい限りである茨城県に於いても鹿島砂丘の一大開発を図り また筑波山麓には学園研究都市の誕生を見ようとしている秋でもあり 私共のこのささやかな企てが他日当市発展の為めの布石の一つとなることを信じ この事業が未だ不完全ながら 今後このような目的に向つて 代々にわたり多くの後継者の手によつて完遂されることを念願して已まない茲に観光道路完成の記念すべき佳日に当つて この事業に対し多大の御協力と御援助とを与えられた方々に対し 謹んで深甚の謝意を捧げる次第である」。「笠間城跡」案内板は比較的新しかった。「笠間城跡築城年代:承久元年(1219)築城者:笠間時朝 形態:山城概要笠間城は、笠間氏の初代時朝の築城伝承を持ち、中世は笠間氏の居城として使用されました。天正18年(1590)に笠間氏が没落すると、宇都宮氏家臣の玉生氏が、慶長3年(1598)には、蒲生郷成が城主になりました。この郷成が笠間城を近世城郭として変貌させたと考えられます。近世は笠間藩の居城として機能し、政務の利便性のために下屋敷が建設された後も、山城部分は維持されました。茨城県では唯一本格的な石垣が築かれており、当時の姿を見ることができます。保存に向けて平成26年度より、笠間城跡の本格的な調査を実施しています。周辺地形図の作成や考古学的調査など、各種調査を実施しており、これらの成果を蓄積することで、中世城郭・近世城郭の笠間城の姿を解明し、国指定史跡の指定を目指します。これまの調査成果現在まで、天守曲輪石垣の応急処置、周辺地形図の作成、本丸跡地下探査および微地形測量、古文書調査を行ってきました。特に、地形図の完成により、笠間城の縄張の詳細が確認でき、「正保の城絵図」の笠間城の姿と対比することができます。⑦⑧⑨のように、近世は城郭として把握されていない部分にも、城郭関連遺構がみられることが、確認できました。」「笠間城」絵図。頂いた地図から「笠間城跡」案内を。「本丸」に向かって坂道を上って行く。「ミズヒキ」の群生地が現れた。祝儀などで使われる水引きそっくりなことから名がつく。木陰などの暗い場所に育つので、目立たない花だが、わび、さびの世界に通じるのか、茶室の脇などに植えられることも。舗装された細い坂道を上って行く。石碑が見えて来た。「史跡 笠間城大手門跡」。後世に道ができたため破壊されているが、石垣をたどると枡形空間だったことがわかるのであった。そして大手門の正面に見られる石垣は雑草に覆われていたが立派な石垣が確認できたのであった。「大手門」はこの位置に。 【http://napoleone.at-ninja.jp/Ibaraki/Kasama/Kasama.html】より更に上って行った。この辺りから階段が始まった。石段を一歩一歩。「本丸」下の石垣には雑草も少なく立派な石積みが確認できた。そし石段を一挙に上ると。「本丸」跡に到着。正面(南側)の大きな土塁上に八幡台櫓が築かれていた。「本丸」周辺地図。天主西の本丸は山頂部の郭群最大面積の郭で江戸初期の頃まで御殿が置かれていた。その南側は高さ4m程の土塁が連なり北側には小口に対する枡型が設けられていたと。また土塁上とその東側下手には2基の二層櫓が建てられていた とのこと。【http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zyousi/ibaraki/kasamazyou/kasamazyoucg1.html】よりこの様な復元図もネットには。【https://blog.goo.ne.jp/konasuke_2012/e/f543a22e3776185f1986bb6684328e4b】より「笠間時朝公を追慕して」碑。「いま 笠間市民は時朝公の拠れる百佐白山上に立ち文明の炬火を灯さんとして大いなる努力を傾けている。文明の炬火とは何であるか それは平和を求めるが為めの飽くことのない闘いの姿である。山の自然は人の心を和らげ憎しみの心 憤りの心を拭つてくれるものである。山こそ真に平和な姿の象徴である。時朝公歿して茲に七百年 世情漸く騒がしきとき 鎌倉時代にあって能く風流の道を解し また一面佛心◯ことに深く ひたすらに平和な姿を欣求した一代の先覚者 笠間長門守時朝公を追慕するの情切なるものがある。たまたま 時朝公築城七百五十年祭を行うに当たり いささかその遺徳を偲ぶ次第である」この巨石は?歌碑が二基。「藤原時朝あまたつくりたてまつりたる等身の泥仏をおがみ奉りて君か身にひとしとき支し仏尓そ心のたけもあらはれにける 浄意法師」(きみがみに ひとしとききし ほとけにぞ こころのたけも あらわれにける)返事 藤原時朝「心より心をつくる仏にて我身能たけを知られぬるかな (こころより こころをつくる ほとけにて わがみのたけを しられぬるかな)裏には「笠間初代の城主藤原時朝はこの地佐白山上に城を創建し笠間地方の領主となり笠間氏を名乗る 時朝は宇都宮氏の一族塩谷氏の出で鎌倉御家人として活躍する 和歌にすぐれしばしば京都に赴き公家との交わりが深くまた仏道を信じて多くの造像を行ない現に三体の仏像が笠間に有し鎌倉仏の名作として国の重要文化財に指定されている このような文化人である時朝が当地方の基礎を築いたことは郷土の誇りである笠間義士会創立十周年にあたり新・和歌集に遺る浄意法師と時朝との贈答歌を碑に刻み永く時朝の偉業を顕彰する 碑面の文字は会長塙瑞比古の筆である」。「修井碑」文字はピンボケもあり解読不能。「佐白山」案内板。「佐白山」ハイキングコース。「佐白山皆さんに気軽に樹々とふれあい自然に親しんでいただくため、平成10年にいばらき森林浴の道100選が指定されました。笠間市街地の東に位置する佐白山はサクラ、スダジイなど様々な樹々が四季折々の姿をみせ、古い石垣や掘割が静かに往時の歴史をしのばせています。山頂に鎮座する佐志能神社の奥、巨岩が重なり合う石倉からは霞ヶ浦や鹿島灘まで望むことができます。森林浴の道をたどり、自然と歴史にふれあうひとときをお楽しみ下さい。」「指定植物の採取禁止」案内板。「笠間城について」。見にくいのでネットから。「ここ佐白山は、「お城山」ともよばれ、市民に親しまれている。それは今から七百数十年の昔、鎌倉時代に笠間地方初代の領主笠間時朝によって、十六年の歳月を費やして築かれた山城があり、明治の始めまで約六百年間、地方政治の中心地であったからでもある。城の地積は、およそ一万六千平方メートルと推測され、天然の地形を巧みに利用して、「三の曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」「殿守曲輪」を設け、曲輪には白壁の塀をまわし、出入口を城門でかため、要所には「宍ヶ崎櫓」「八幡台櫓」「殿守櫓」を配置し、守るに易く攻めるに難い要害堅固な山城であった。今は苔むした石垣、礎石などが、ありし昔をしのぶようすが残るのみである。想を江戸の昔にはせれば、緑なす木の間がくれに遥かの地から望み見た城の城壁、とたたえるにふさわしい名城そのものでもあった。」 【https://plaza.rakuten.co.jp/canonboy2012/diary/201809060005/】より「笠間城跡」碑。石碑の上部には「文化財愛護シンボルマーク」が赤く。「文化財愛護シンボルマーク」は、文化財愛護運動を全国に推し進めるための旗じるしとして、昭和41年5月に定められたものです。このシンボルマークは、ひろげた両手の手のひらのパターンによって、日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう=組みもの)のイメージを表し、これを三つ重ねることにより、文化財という民族の遺産を過去、現在、未来にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴したものであると。「斗栱(ときょう)」とは 中国の木造建築で柱の上に置かれて軒などの上部構造を支える部材。 組物。 日本や朝鮮半島にも伝えられ、寺院や宮殿建築に常用された と。「笠間城跡」。「ここ佐白山は、古くから正福寺の百坊があって、信仰の山として栄えていた。鎌倉時代の初め、正福寺と徳蔵寺の勢力争いのため、下野国からつかわされた藤原時朝が、正福寺と百坊を滅して城を築き、笠間氏を名乗ってこの地方を支配した。笠間氏は十八代続き天正十八年(一五九〇年)に亡んだ。その後、蒲生、松平、小笠原、永井、浅野、井上、本庄などの諸氏が相継いだが、延享四年(一七四七年)から廃藩まで牧野氏の居城となった。明治初年、本丸下屋敷などのほとんどがこわされ、今は苔むす石畳を残すのみとなったが、自然の要害をたくみに利用した関東地方では珍しい山城の遺跡である。」ここにも石碑が。「ちとせまつ 太田武和書」碑。更に石段を上って行った。東日本大震災により、天守曲輪の石垣や石段が崩壊し、天守曲輪跡へは立入り禁止となっていたとのことであるが、この日は更に進めたのであった。このにも櫓門があったようだ。「天守」周辺の地図を。ここにも句碑があったが・・・。「人の引く 道さえゆけば(婆) さくらかな(可奈)」。隣にも・・・。「佐志能神社」への案内。天主への石段を上って行った。「笠間城天主跡」碑。天守ではなく天主と書くのは珍しいのであった。更に石段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.13
コメント(0)
【海老名市歴史散歩】 目次「土浦城跡」の散策を終え、国道125号を北上し次の目的地の「笠間城跡」に向かって進む。国道6号、県道138号を利用して進み石岡市に入り、前方の「府中橋北」交差点を左折し国道355号を進む。「日本プロゴルフシニア選手権大会」観戦用の駐車場案内板。ここ茨城県石岡市にある「サミットゴルフクラブ」でこの日の翌日の10月7日から開催されるのであった。石岡市内を通過。ひたすら走り北関東自動車道「友部I.C入口」交差点を通過。常磐線・上野東京ラインの踏切を渡る。「笠間市役所」前を通過。「芸術のかおるまち かさま」案内板。そして駐車場のある「かさま歴史交流館 井筒屋」に到着。この日の笠間市内の散策ルート。「かさま歴史交流館 井筒屋」・旧井筒屋本館は、正月の初詣や菊まつりをはじめ多くの観光客で賑わうこのまちのシンボルとして、長年にわたり市民に愛されてきた明治中期建築の木造3階建ての建物。東日本大震災により被害を受けたこの建物は、建築当時の雰囲気を残しつつリノベーションが施され、笠間の歴史や観光情報の発信、市民や観光客の交流の拠点、「かさま歴史交流館 井筒屋」として生まれ変わった と。建物1階は、観光インフォメーション、続100名城112番笠間城スタンプ設置場所、井筒屋カフェを併設。2階は、笠間市生涯学習課による歴史展示コーナーを常設。3階は、貸会議室2部屋があり、市内外に限らず予約申し込みで利用できると。裏は芝生の公園になっていた。人力車が展示?されていた。1階の観光インフォメーションコーナー。「井筒屋から笠間城跡までの道順」が写真入りで丁寧に説明されていた。「日本100名城・続日本100名城 スタンプラリーについてのお願い」。そして歌手「坂本九」が「笠間稲荷神社にて結婚式」を上げた時の写真が。「戦争中の1943年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために母の実家のある茨城県笠間市に向かっていた坂本九は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった」とウィキペディアより。「「上をむいて歩こう」の人気歌手 坂本 九(1941~1985)」。歌手「坂本九」の誕生坂本九は、神奈川県川崎市で昭和16年(1941) 12月10日、港湾土木業の社長、坂元寛と笠間町大町生まれの妻いくの3人目の子として生まれました。いくは後妻で、すでに先妻の子が6人いましたが、9人の子を分け隔てなく育てたといわれています。「九」は本名で「ひさし」と読みます。九が誕生する2日前の12月8日太平洋戦争に突入。やがて戦争は厳しさを増し、ついにアメリカ空軍が市街地を空襲するようになりました。両親は、母いくの実家がある笠間へ疎開することにしました。佐白山の山裾の地に木造平屋建ての一軒家を急いで作り、九が2才のころに移住。終戦後しばらくは、笠間幼稚園に通い、昭和23(1948)笠間小学校へ入学。子供ながら家のために働きました。数年後、川崎へ一家で引き上げました。青年になった九はジャズ喫茶で歌っていたところを見出され、昭和33年(1958)ダニー池田とパラダイスキングのメンバーとして、坂本九の芸名でプロデビュー。その後ソロ歌手となり、昭和36年NHKのバラエティー番組で歌った「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔、作曲・中材八大)が大ヒットし、人気を不動のものとしました。郷土笠間に残した功績九は、歌手だけでなくテレビの司会・映画・舞台と多方面で活躍、ボランティア活動にも熱心に参加しました。特に昭和51年(1976)から9年間、北海道各地の福祉施設を訪ねて障害者に話を聞く札幌テレビの番組で司会者を務め、亡くなるまで5000人以上の人と会って自分の言葉で語りかけました。コンサートで手話を使って歌うことも坂本九がはじまりだといわれています。「笠間は第二のふるさとです」が口ぐせだった九は、笠間幼稚園にピアノを寄贈したり、笠間市役所の建設に協力するため歌謡ショーを開催したりと、笠間のために貢献しました。昭和46年(1971)12月8日女優の柏木由紀子との結婚式を笠間稲荷神社で挙げて市内をパレードし、郷土を大いに盛り上げました。市は感謝して、市庁舎の完成した昭和4 0年(1965)4月1日にあわせて「坂本九歌碑」の除幕式を行いました。昭和60年(1985)8月1 2日、日本航空ジャンボ機が、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落、520人の犠牲者の中に坂本九がいました。43年の生涯でした。笠間では正午の時報に「上を向いてあるこう」、夕方5時に「見上げてごらん夜の星を】の曲を流し、坂本九を偲んでいます。」2階は笠間の歴史を知る「歴史展示コーナー」になっており、笠間城をメインテーマとしており、絵図や復元模型のほか、パネル展示などで笠間城の歴史や昔の姿を紹介。そして笠間市の政治や経済、産業、文化などの分野で大きな業績をあげた先人たちを「かがやく!笠間の先人たち」として紹介されていた。「笠間藩初代の藩主 松平康重(1568~1640)」家康覇権の先兵松平康重は、永禄11年(1568)三河国吉良(愛知県)の東条城で生まれました。慶長6年(1601)、「関ヶ原の戦い」の翌年に、武蔵国騎西(埼玉県)城主であった松平康重が3万石の笠間城主になりました。翌年5月、徳川軍に味方しなかった水戸城主佐竹義宣は、突然秋田(秋田県)に領地がえになりました。康重は、留守になった水戸城のニの丸の守りを命ぜられ、兵士を引き連れ水戸へ出発しました。佐竹氏転封の後始末徳川氏の使いへ城の引渡しが済むと、康重の役目も終わり、一時笠間へ戻りました。ところが水戸ではその留守に、佐竹氏の元の家臣車丹波(くるまたんば)らが水戸城を奪い返そうとする企てがあるとの知らせが康重の耳に届きました。そこで軍を引きつれて急いで水戸へ引き返し、水戸城に駆け付けました。このとき笠間の町人も、武器を持って加勢しました。こうした康重軍と笠間勢の働きで、車丹波らが行動を起こす前に騒動を治め、水戸城を守ることができました。徳川氏は笠間町人のすばやい行動と協力に大変感心し、褒美として笠間城下町のすべての町人が土地の年貢(税金)を納めなくてもよいことにしました。笠間の町人は、その後笠間城主が代わても、この約束を守るよう文書で取り交わして笠間城下町の誉れにしました。幕府の字固めに尽力慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。この時笠間藩としてたまわった3万石の領地は、旧笠間市の大部分、城里町の旧七会村の南半分、桜川市の旧岩瀬村の大部分でした。この笠間藩の領地は、江戸時代終わりまで「笠間の城つき3万石」として扱われました。康重は、笠間藩主になって8年目の慶長13年(1608) 9月に丹波国篠山(兵庫県)へ5万石で領地がえになりました。ここは、幕府が西国をおさえる重要な所です。家康は、多くの大名に命じて篠山城を作らせ、康重を城主にしたのです。康重は、徳川家康を支える大切な武将でした。江戸時代初めに徳川家康の武将である松平康重が藩主になったことから、その後江戸時代を通して笠間藩が続いていきました。康重は笠間の歴史を作った重要な先人と言えるでしよう。」「徳川斉昭から名を与えられた鉄砲鍛冶 阪場志業(さかばむねなり 1833~1911)」鉄砲師になり、水戸徳川家の家臣に江戸時代の後期天保のころ、外国の船がたびたび日本へ来るようになり騒がしくなっていました。水戸藩9代藩主徳川斉昭(烈公)は、海岸沿いの守りを固めるために大砲や鉄砲などを鋳造しました。鉄砲は主に斉昭が駿府(静岡県)から招いた鉄砲師、国友尚志一門の手で製造されていました。鉄砲製造は精巧な仕上がりが求められ、一人前の鉄砲鍛冶になるには、奥儀を修得しなければなりませんでした。そのひとりに阪場志業がいました。弘化3年(1846)、1 3歳になった志業は、志を立て国友尚志の門に入りました。入門した志業は鉄砲について熱心に学び、数年のうちに鉄砲を製造する高い技術を身につけました。19歳のころには、国友流鉄砲のロ伝秘技を習得しました。一人前の鉄砲鍛冶になった志業は、水戸藩の武芸訓練所である神勢館の鉄砲師に迎えられ、家臣として扶持(俸禄)をもらうようになりました。」宍戸に移り鉄砲製造の継続ある日、志業は水戸藩主の斉昭に自作の鉄砲を献上しました。それがよい山来だったため、斉昭から「志業」名が与えられました。元治元年(1864)、水戸藩内の争いが起こり、鉄砲を作ることができなくなってしまいました。そこで水戸藩分家の宍戸藩松平頼位の招きで、志業は家族と共に明治3年4月、水戸をはなれて宍戸(笠間市)へ移り住みました。まず、猟銃の修理を始め、やがて猟銃の製造が認められると、再び製造を始めました。明治後期になると、発動機を動力源に使えるようになり生産は急激に伸びました。製造する銃は、元折単発猟銃、西洋式散弾銃、元折ニ連銃の他にピストルや空気銃・捕鯨銃も作りました。鉄砲に命をかけた志業は、同44年10月6日に78歳の生涯を閉じました。亡くなる直前まで、鉄砲を作る手を安めなかったといいます。鉄砲鍛冶として生きた年月は、実に65年に及びました。志業は「幼い頃より仕事一筋に打ち込むことが、真の職人になれる道だ」という考えをもっていました。徹底して技を身にけることが、次の代に引き継がれていくことになります。」「世界に広まった合気道の創始者 植芝盛平(1883~1969)」盛平の修行時代植芝盛平は明治16年(1883)現在の和歌山県田辺市元町に生まれました。幼いころは体が弱く、本の好きな子どもでしたが、18歳の時、東京へ出て仕事をしながら様々な武道を学び、精神修行に励んで立派な青年に成長しました。大阪の軍隊へ入った時も、隊内一番の銃剣術使い手として「兵隊の神様」と呼ばれるようになりました。同45年、紋別郡白滝村(北海道)へ開拓民として移住しました。そこでも盛平は強靭な精神力を発揮して、新たな村づくりに奮闘し立派にその目的を果たし、村人は盛平を「白滝王」と呼び尊敬しました。そんな折、宗教家の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)と出会い、人間の生と死、人間の生きる道についてて教えられました。この出会いを機会に自分の生きる道を「武道一筋」と心に決め、王仁三郎のいる京都府綾部市の地で「植芝塾」道場を開き、ひたすら武道の修業に励み、自らの武術を「合気武術」として指導しました。時に盛平37歳、大正9年(1920)のことでした。合気道世界へ翔く昭和元年(1926)、厚生省から「財団法人皇武会」として認可され、柔道、剣道と並んで広く世に認められるようになりました。昭和17年(1942)、盛平は60歳のとき、「合気武道」を改め、初めて正式に「合気道」と名乗るようになりました。「合気道を守り伝えなければならない」と考え、かねてから少しずつ土地を手に入れていた岩間町(笠間市)に新たな合気の奥ノ院(神聖な場所)を作ろうと住まいを構えました。盛平はこの岩間の地で、門人たちと合気道の真髄を極め続けました。盛平はこのころから世界に目を向けるようになりました。70歳をこえた盛平でしたが武道を通して世界の人々が仲良くなることを最後の活動としようと精力的に普及に励みました。このような活動が認められ同35年(1960)、盛平は紫綬褒章を受章など多くの勲章が贈られました。そして86歳で東京の自宅にて安らかに息を引さ取りました。「笠間藩政の資料をまとめた寺社町奉行 高橋義方(生年不明~1780)」山外郷百姓一揆を収拾高橋義方は、望月家(他藩の家臣)の次男で、丹治(たんじ)と名乗っていました。享保5年(1720)、延岡(宮崎県)藩主牧野貞通家臣であった高橋義陳の養子になり、延享4年(1747)主君が笠間藩主になるのに伴って笠間に移りました。翌年に義方は寺社町奉行の役に就きました。笠間に移って3年目の寛延2年(1749)、領内で百姓一揆が起こりました。この年は天候不順のために不作で、農民はいつものような年貢を納めることが出来なかったのです。山外郷(桜川市旧岩瀬町の笠間藩領地) 42か村の内、27か村・約1000人の農民が年貢を減らしてもらおうと城下町へ押し寄せました。しかし、このとき藩主の牧野貞通が、亡くなったばかりのうえ、京都所司代という幕府の重要な役についていたので、勤務地である京都から出棺、葬式、法要を行わねばならず、牧野家にとっては大変な時でした。次の藩主貞長が家督を相続すると、幕府の勘定奉行の指導の下、義方を中心とした藩の役人は、一揆の中心者の取り調べを始めました。14日間の厳しい調べの結果、掟を破った名主ら3名を死罪にし、その家族を領内より追放して、田畑や家財を取り上げました。また、村々に一揆の知らせをした農民に10日から15日の入牢を申しわたしましたが、村役人や一揆に参加した農民への責任はなしとして、罰をあたえませんでした。聞訟礎石集の編纂義方は、裁判をえこひいきなくより公平に判断しようと、幕府や藩、あるいは前の藩主の笠間の政治に関することなどを調べて『聞訟礎石集』17巻にまとめました。内容を見ると、訴え状、裁判の判決、刑法など裁判に関すること、村方の行政、領内の事情、証文、農政関係など幅広く記録されています。この書は江戸時代中ごろの笠間の様子を知る誠によい資料です。この書の序文で、義方は「寝ても鴬めても裁判のことに身を置き、えこひいきや秘密の打ち合わせや賄賂をなくし、人間として正しい道を歩むことに心掛けるために」と記しています。よこしまな道に走らず、正しい道を行う役人として忠実に勤めを果たした藩士でした。牧野家が新しい領地に移り、百姓一揆が起るとい最大の危機に誠心誠意職務を行ない、また正しい裁判を進めるために記録をまとめて、藩政の基を築いた先人です。「笠間藩の改革や飢餓対策を記録した藩士 手塚躬保(1777~1852)」藩政改革の記録「十五年来眼目集」手塚躬保(もとやす)は、安永6年(1777)に手塚芳躬(よしもと)の長男として江戸で生まれました。躬保が15歳の寛政3年(1791)に父が病に倒れたので、家督を相続し、藩主牧野貞長の世継ぎだった貞喜は近習役に就きました。このころの農民は重い年貢を納めなければならず、暮らしは大変貧しく、村を離れたり、子供を養育出来ないために生まれたばかりの子を殺したりする農家もありました。また、年貢に頼る藩の財政は大変厳しいものでした。藩主になった貞喜は、これまでの政治を見直して、藩の政治を改革することにしました。この時34歳の躬保は目付の役につき、改革政治がどのように進められたか調べて度々藩主に報告しました。さらに躬保は改革について自分の考えを述べるなど、より良い政治を目指しました。改革政治は文政7年(1824)まで実に16年間すすめられ、次第に農民の暮らしも良い方向に向かいました。躬保はこの間の事情を後世に伝えようと藩政の記録を調べ、『十五年来眼目集』(4巻)にまとめました。天保飢饉の施策「救民記」その後、天保3年(1832 )には24年間勤めた郡奉行の職の覚書として、主君牧野家の領地や幕府から受けた朱印状や村々の石高などが記載された「郡官日省録(ぐんかんにっしょうろく)」をまとめました。天保4年と同7年は、全国的に天候が不順のた農作物が不作で、食料が不足となる大飢饉になりました。笠間藩はいち早く対応し、その中心的な働きをしたのが躬保です。農民の生活の様子を調べ救済米を渡し、米を笠間藩領外へ出すことを禁止し、米の買い付け、飢饉食の指導など次々と対策を施しました。同8年には躬保自ら東北の藩領を訪れ、飢饉の様子を詳しく調べ、対策へ反映させました。その結果領内の被害は少なかったと伝えられています。この飢饉のために行たことを記録したのが『救民記』です。天保4年の『癸巳救民記』が2巻、同7年の『丙申救民記』が5巻、『救民記附録』が1巻で全部で8巻950べージにものぼる大量な記録です。67歳の天保14年に記録が終り嘉水4年(1851)の75歳の時に清書し、藩の役所に提出しました。その翌年、嘉永5年12月16日76歳で亡くなりました。61年間に仕えた藩主は実に6人、その間農政に全力をささげた一生でした。その勤務を後世に役立てようと、根気強く文書を調べて記録した生き様は、まさに家臣の手本と言えましょう。「薩摩藩の和算の指導者 甲斐駒蔵(1810~1861)」師弟で「量地図説」を出版甲斐駒蔵(かいこまぞう)は、文化7年(1810)に甲斐広盛の子として生まれました。笠間藩士の和算(日本独自に発達した算数・数学)の教師松本英映(ひであき)にその手ほどきを受け、恩師が亡くなた後は駒蔵がその跡継ぎとして笠間藩の和算の指導者となりました。一方、江戸の和算の大家の長谷川寛(ひろむ)や長谷川弘の門弟となり、和算の実力を一層高めていきました。4 3歳の嘉永5年(1852)1月に『量地図説』を執筆、編さんして江戸の文会堂・山静堂から上巻下巻を刊行しました。この書は手作りの簡単な測定器を用いて、田や畑・山や川などの地形を測量することができる手引き書です。出版にあたり監修に師の長谷川弘、校正したのは門弟の小野友五郎、序文は長谷川門下生の仙台の安倍勘司安円(あべかんじやすのぶ)、あとがきは駒蔵門人の冨田彦蔵保敬、挿し絵は葛飾北斎の弟子の葛飾為斎(いさい)が受け持ち、多くの人に支えられて見事に完成しました。和算の才能を存分に発揮した刊行書当時は外国船が日本近海にしばしば現れたため、国内では海岸沿いを外国から守る海防が重大問題で、地図の作成が必要になっていました。発刊の翌年、アメリカの艦隊が浦賀に人港して開国を要求したため、多くの関係者が測量の手引書とて『量地図説』を買い求め、今で言うべストセラーとなりました。ほかに『算法通解」という数学の書を編さんしました。この書は長谷川算学道場の発刊書の一つで、和算の新しい問題や色々な和算の解説を10巻にまとめたものです。また、測量の計測を和算で求める方法をまとめた書『算法量地大成』の編さんも行っており、駒蔵が和算の才能を存分に発揮したことがよく分かります.文久元年(1861)駒蔵は、52歳で亡くなり、桂町の玄勝院の墓地に葬られました。駒蔵はすぐれた理数の才能を生かし、指導者として小野友五郎等多くの人材を育て、日本の和算の発展に大きな足跡を残した笠間藩士でした。「幕末の湜乱した笠間藩をまとめた藩主 牧野正倫(1843~1923)」混乱した藩の沈静化に尽力牧野正倫(まさとも)は、天保14年(1843) 5月11日、笠間藩用人の牧野正喬の次男として生まれ、22歳で藩役所の番頭役に就きました。元治元年(1864)3月に天狗党の乱が起こり、尊皇攘夷を目指す人々は、幕府の開国に反対し兵を挙げました。幕府はこれを抑えるため多くの藩に出兵を命じ、江戸に居た笠間藩主牧野貞直(さだなが)もこの命により、笠間へ向かいました。番頭役の正倫は藩主を迎えるために府中(石岡市)まで進みましたが、天狗党に通行を妨げられてしまいました。天狗党に談判の末、なんとか通行が出来るようになりましたが、国元からの伝令により笠間へ引き返しました。笠間に着いた正倫は、藩主の所在や安否を確認するため、供一人をつれて笠間を再び出立しました。そして、土浦城下で足止めされていた藩主一団を探し出し、それまでの事情を報告しました。藩主貞直はその行動と武勇を褒め讃え、正倫を用人見習の重職に就かせました。初代郡長として県政・郡政に尽力明治2年(1869)に正倫は執政(家老の職)となり、翌年9月には大参事に就任し、笠間藩の政治を行う最高の責任ある立場になりました。明治4年(1871)7月に「廃藩置県」が行われ、藩が廃止され県が置かれると、正倫は笠間県の最高職の大参事になりました。茨城県に統合されてからも、県役所の笠間山張所の責任者として職務にあたりました。明治11年(1878)に西茨城郡が成立すると初代郡長として郡役所(当初は笠間小学校前)に務め、その後久慈郡、真壁郡の郡長に転じますが、同19年に再び西茨城郡長となり、同30年まで郡の政治に関わりました。正倫は、幕末の混乱した笠間藩を武勇と知恵でまとめあげ、明治の新制度のもとで20年間郡の責任者として郡政に尽くし、大正12年(1923)81歳でその生涯を閉じました。「笠間城の歴代城主」笠間城の歴代城主は、笠間時朝から天正18年(1590)までは笠間氏が代々城主を務めていました。笠間氏の没落後、守都宮氏家臣の玉生(たまにゅう)高宗が、慶長2年(1597)に宇都宮氏が改易になるまで笠間城主を務め、翌慶長3年には、浦生郷成(さとなり)が城主となります。関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601)に松平康重が初代笠間藩主となりますが、江戸時代中期までは頻繁に笠間藩主が入れ替わり、小笠原家、戸田松平家、永井家、浅野家、井上家、本庄家そして井上家が2度目の笠間藩主を務めます。延第4年(1747)に延岡藩から牧野家が移封されると、牧野家が藩主のまま明治維新を迎えることになります。「歴代の笠間城主」。※ 中世は城主、近世は笠間藩主「笠間氏 城主:笠間時朝、泰朝、家朝、高広、幹綱、綱家など」鎌倉時代から天正18年(1590)まで、約380年に渡り笠間城主を務めたのは、笠間氏です。笠間氏は、宇都宮頼綱の兄弟である塩谷朝業(ともなり)の子、時朝を祖とします。笠間時朝は、鎌倉幕府の御家人として、『吾妻鏡』の嘉禎5年(1235) 6月29日の条に初めて見られます。仁治元年(1241)には検非違使に任じられ、後に長門守になります。時朝は御家人としての活動だけでなく、楞嚴寺(りょうごんじ)の木造千手観音立像、岩谷寺の木造薬師如来立像、弥勒教会の木造弥勒仏立像、京都蓮華王院へ千手観音像2躯など、多くの仏像を寄進しています。また、鹿島神宮に「唐本一切経」を奉納しています。和歌にも長けており、『新和歌集』や私選集『前長門守時朝入京田舎打聞集』の編纂に携わっています。御家人・歌人・仏像寄進、色々な側面が見える時朝は、高度な教養人でした。時朝以後の笠間氏の動向については、断片的に追うことが出来ます。建武4年(1337)、北朝方の佐竹義春は、烟田(かまた)時幹を率いて笠間城を攻めていることが「烟田時幹軍忠状写」に見られ、笠間氏が南朝方であったことが分かります。笠間家朝は応永4年(1397)、一円知行の安堵を受けていた笠間郡12郷と石井郷半分について、鎌倉の宝戒寺子院三聚院による当知行をやめさせ、元のように知行出来るよう訴え出ていることが「笠間家朝訴状案」に見られます。戦国時代の笠間氏は、宗家である宇都宮氏に属して行動をしています。天文18年(1549)、宇都宮尚編と那須高資が衝突した喜連川早乙女坂の戦い(栃木県さくら市)では、笠間高広が参戦していることが戦記物に見られます。笠間幹綱は、同じく宇都宮氏に属していた益子重綱と領地境界のことで度々争っており、江戸時代後期から編さんされた「新編常陸国誌」には、笠間氏と益子氏の戦いについての記載があります。天正18年、笠間綱家は宗家宇都宮氏に攻められる事により笠間氏は没落しますが、その理由は、綱家が小田原北条氏に与した事や過去の宇都宮氏への敵対行為を口実に討たれたのではないかといわれています。笠間氏の動向は、不明な事も多いのですが、市内には笠間氏が創建に関わった寺社や寄進した仏像などが見られ、領主としての笠間氏の一端を見ることが出きます。「蒲生氏 城主:蒲生郷成」慶長3年(1598)から慶長6年まで、笠間城主を務めたのが、蒲生郷成(がもうさとなり)です。郷成は、初めは坂源次郎と名乗っており、柴田勝家に仕えていました。天正11年(1853)に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が減ぶと浪人になり、蒲生氏郷を慕って仕官しています。豊臣秀吉の九州征伐の際に、源次郎は岩石城(福岡県田川郡添田町)攻略の戦功を挙げるなどめざましい活躍をしたことから、蒲生姓を名乗ることを許され、蒲生郷成と名乗るようになりました。以後、蒲生氏の重臣として活動しています。天正18年(1590)、蒲生氏郷は会津へ入封すると、郷成は阿子ヶ島(あこがしま)城(福島県郡山市)や二本松城(福島県二本松市)に配置されます。葛西・大崎一揆や九戸(くのへ)政実決起の鎖圧において、郷成は氏郷軍の一番先手として出陣しています。氏郷の跡を継いだ秀行は、慶長8年に家臣の対立の処遇が不十分であることを理由に宇都宮へ移封させられます。この時、支城の一つであった笠間城に郷成が配される事になります。郷成が笠間城主の時代にも、登城路の改修や城下町の整備などが行われています。水田や湿地であった場所の埋め立てを行い、大町通りから弁才天社へ抜ける登城路を新設し、脇に武家屋敷地を新設しました。現在の田町周辺です。また、城下町の防火、生活用水、灌漑用水として使用するため、涸沼川から分水し、また涸沼川へ戻す用水路を創設しました。この時改められた登城路は、江戸時代を通じて使用され、用水路は一部暗渠化しながらも現存し蒲生用水とも呼ばれています。郷成は笠間城の天守曲輸の整備を行っています。『笠間城記』以下『城記』には「重楼を阿武山に営む」と記載されており(阿武山は佐白山頂の別名)、郷成が櫓を築いたことが、天守曲輪の整備を行ったという解釈になります。この櫓は板造りであることが、後の藩主井上正利が板造りから白壁造り改修している事からわかります。天守曲輸の石垣構築について『城記』には記載がありません。しかし、蒲生氏郷が会津に入封した際に、支城の多くに石垣を構築しており、蒲生氏の出自である近江国出身の石垣技能集団「穴太衆(あのうしゅう)」を動員出来たことを考慮すると、郷成によって石垣が構築されたと言えるでしよう。蒲生郷成が城主を務めた時代は、近世城下町の整備が進みました。また、笠間城は近世城郭として変貌する大きな画期であったと言えます。「永井家 藩主:永井直勝」元和3年(1617)から元和8年(1622)まで笠間藩主を務めたのが永井直勝です。直勝は永禄6年(1563)、家康の父松平忠広に仕えていた長田重元の子として生まれました。三河国碧海郡大浜郷(愛知県碧南市)の出身です。直勝が14歳の時に、家康の嫡男信康に仕えたが、信康の死後は大浜に帰りました。天正8年(1580)に浜松の家康に仕え、30貫の地を賜り、永井姓になりました。天正12年の小牧長久手の戦いに出陣し、羽柴秀吉の配下である池田恒興を討ち取り、その功績により三河国内に1000貫の地を与えられました。小田原征伐の後、家康の関東入国に伴い、相模国田倉、上総国市原、武射三郡の内、5000石の地を賜りました。関ヶ原の戦いでは、家康の近辺を守衛し、戦後には近江国(滋賀県)の内、野州、栗太、蒲生、甲賀の4郡で2000石が加増され、7000石となりました。大坂の役でも家康の近辺守護を務めています。家康没後は秀忠に仕えることになり、元和2年(1616)6月に上野国小幡藩(群馬県甘楽郡甘楽町) 1万7000石に封ぜられ、翌元和3年に3万2000石で笠間藩に封ぜられました。幕臣としての直勝は、幕府体制の足固めの為に下働きに任じました。幕府の使者として、多くの大名取りつぶしの後始末を行いました。例えば、元和5年(1619)に有力な外様大名である広島藩の福島正則の改易の際には幕府の上使として城の明け渡しの交渉を行っております。また出羽国山形藩の最上義俊の改易の際にも宇都宮城主である本多正純と共に正使としてその任にあたりました。そして、宇都宮藩本多正純の改易の際には、所領没収の申渡しをする役目を果たしています。笠間藩政としては、元和6年(1620)前後に領内の検地を行いました。慶長2年(1597)と同13年(1608)に続いて3度目となりますが、その記録については、笠間市内には現存しておらず、旧岩瀬町(現桜川市)犬田にわずか1部が残るのみです。また、天正慶長期に武功のあった諸士を取り立て、領内境界地の守護に当たらせました。笠間藩移封時にはすでに没していた妻の菩提寺として、盛岸院を建立しました。現在、盛岸院の墓地には永井家に関わる墓石などは現存しておりません。直勝は元和8年12月に、下総国古河城7万2000石で移封しました。笠間藩主を務めたのは6年間でした。「浅野家 藩主:浅野長重、長直」元和8年(1622)から正保2年(1645)まで笠間藩主を務めたのが浅野長重・長直父子です。浅野家は、清和源氏頼光流土岐市の庶流の光時を始祖とし、戦国期の浅野長政は豊臣政権で五奉行を務めています。関ケ原の戦いで家康に従っており、慶長11年(1606)に隠居領として常陸国真壁・筑波両郡の内5万石が与えられ、真壁藩が成立します。長政の嫡子幸長は、紀州藩37万6000石で封ぜられたが、嗣子なく死去したため、長政の次子長晟が宗家を継ぎ、後に広島藩に移封します。下野国真岡2万石の真岡藩主となり、慶長16年に父長政が死去すると真壁藩5万石を継ぎました。長重は大坂の陣の活躍、江戸城半蔵門の修復、本多正純の所領没収時には宇都宮城守衛と古河城の守衛などの功績があり、加増転封の話がありましたが父の所領である真壁の領有を望むと、元和8年(1622)12月7日、真壁領の一部を含めた笠間藩に移封となります。寛永9年(1632)に死去すると長政と同様に伝正寺(桜川市真壁)に葬られました長重を継いだのは嫡子の長直です。長直は慶長15年(1610)の生まれであり、笠間藩主就任の前年に内匠頭に任じられています。長直の時代に、笠間城下町が完成し、この時につくられた区割りや道路は、現在の笠間地区の市街地の基となります。大町の西側に新町を新設し、町人町の「五か町」が完成します。山居は上中級武家屋敷にし、法華町にあった真浄寺を現在地に移して鷹匠町を作るなど、武家町も新設しています。浅野家時代の城下の様子は「常陸国笠間之城絵図」(正保城絵図・国立公文書館)に見られます。また笠間城整備の一環として、下屋敷を新設しました。笠間城は山城のため、政治を行うには不便なこともあったため、山城部分を残したまま、現在の山ろく公園に屋敷を建設しました。浅野家以後、この下屋敷において政務が行われました。正保2年に浅野家は赤穂藩に転封となり、長重・長直父子23年間の治世が終了します。「浅野家系譜」。浅野家の始祖 浅野弾正少弼長政(1545~1573.9.26)は秀吉の天下統一後、論功により甲斐国甲府に築城し 二十四万石の大名となる。 秀吉の没後、石田三成と不仲から関ヶ原の戦いでは長男幸長と共に徳川方につき参戦。長男 幸長 関ヶ原戦の論功で紀伊国三十六万六千五百石の大名になるが後継がいなかった。次男 長晟(ながあきら) 大坂夏と冬の陣で武勲を立て、幸長の後を継ぎ紀伊国藩主を経て、安芸国と備後半分の 四十二万六千五百石の広島城主となり明治まで続く。三男 長重 二代将軍秀忠の人質として江戸に住み小姓として仕えて寵愛され、慶長六年(1601)に 下野国真岡に二万石を賜り大名となる。 慶長十一年(1606)には隠居して常陸真壁五万石を賜るが元和八年(1622)に病没。 嫡男の長直が常陸笠間領主を継ぐ。■赤穂藩浅野家初代藩主 長直 名君と謳われる。 常陸笠間領主から正保元年(1644)一月十一日、赤穂五万三千石に転封となり赤穂浅野家が 誕生する。 長直の功績赤穂城の築城「一国一城令」発布後に許可を得て十三年かけて築城新田の開墾 新田を開墾して新田村をつくり、米を増産する塩田の拡張 江戸に於ける塩市場を独占する生産体制を確立する上水道の整備 江戸や福山と並ぶ日本三大上水道を造り上げる山鹿素行を家老待遇(1000石)で招き藩士の資質向上に努める 【https://akoinfo.com/akogisi/asanotosiro/asanoke.html】より「本庄家 藩主:本庄宗資、資俊」元禄5年(1692)から元禄15年(1702)まで笠間藩主を務めたのが本庄家です。本庄宗資は、寛永6年(1629)に摂関家の1つ二条家の家司本庄正宗の子として生まれます。異父姉の「お玉」(桂昌院)は、3代将軍家光の乳母「春日局」の部屋子となっており、5代将軍綱吉の生母です。宗資は綱吉に仕え、綱吉が館林藩主になると、家老次席になります。延宝5年(1680)に綱吉が将軍になると、宗資も江戸城に入り、元禄元年(1688)には、60歳で1万石の大名になります。異父姉が将軍の生母という縁もあり、大名に昇進してからわずか5年で城持ちとなり、元禄5年に笠間藩主になります。宗資の笠間藩における事積については、領内の寺社の保護が挙げられます。元禄8年、明暦の大火以後、笠間城内の寺院の失火や火災を恐れて禁止していた佐白山正福寺の参拝を37年ぶりに再開し50両を寄進して宝塔を修復させました。他にも、福田村の不動堂と阿弥陀堂を金30両寄進して修復させ、岩屋寺にも金30両を寄進して薬師堂を補修させ、大般若経を奉納しました。また、三所神社の社殿の再建を行っており、領民の信仰を高めようとしています。藩政の一環として、孝行を重視しました。領内の孝行者を調べて、表彰することで、領民に考養(親に孝行をつくすこと)を高めさせようとしました。宗資の子である資俊は、万治元年(1658)生まれで、延宝7年(1679)に館林城時代の綱吉に召されており、翌年綱吉が将軍に就任すると、父とともに江戸域に人ります。元禄12年に没した宗資の遺領を継ぎました。在封期間が短いため、資俊の藩政に関する記録については残されていません。家資の異父姉が将軍綱吉の生母であった事から、宗資は叔父、資俊はいとこにあたります。宗資の時代には、将軍の御成(将軍が臣下の邸宅に訪問すること)が度々あり、大変名誉なことでありました。資俊も将軍綱吉と桂昌院の御成もありました。また、家資が没した際には綱吉は2日間、江戸中の鳴り物を禁止し自らも3日間、喪に服していました。小大名に対するものとしては異例の事であり、綱吉と宗資の関係を物語っています。「牧野家 藩主:貞通、貞長、貞喜、貞幹、貞一、貞勝、貞久、貞直、貞寧」延享4年(1747)から明治4年(1871)の廃藩置県まで笠間藩主を務めたのが牧野家です。近世大名の牧野家は、宗家の越後国長岡藩、常陸国笠間藩などがあり笠間藩牧野家は、5代将軍綱吉の側用人となった牧野成貞の後裔であり、下総関宿藩、三河吉田藩、日向延岡藩を経て、笠間藩主になります。笠間藩牧野家の初代貞通、延岡藩時代に幕閣の一員として享保の改革に関わり、後に京都所司代となっています。貞長は大阪城代や京都所司代となっています。貞長は大阪城代や京都所司代を務めた後、老中になっています。寛延2年(1749)、山外郷百姓一揆(旧岩瀬町)が起こり、農民約千名が笠間城下町へ押し寄せています。藩政は次第に衰えていき、人口や米の生産高が減少し、上方の豪商や領内の有力農民、商人から調達金を出させて凌いでいましたが、加賀藩との対立が予測されたので、良水は責任をとって自刃します。文化6年(1809)、藩政改革を実施しました。農民を保護する政策を実施し、倹約令と取締りを行い、家臣の俸禄を削減し質素倹約をさせました。文化14年(1817)、人材育成の場として家臣の秋元純一郎の家塾「欽占塾」を昇格し、藩校「時習館」を創設します。貞幹は、父貞喜の藩政改革を引き継ぎます。藩校時習館を整備し、藩医長谷川宗仙の屋敷を医学所「博采館」として、武術の修行の場として「講武館」を創設します。貞勝の急逝後の天保12年(1842)、貞久を推す門閥派と、貞喜4男の布施重正の子舗三郎を擁立する改革派で相続争いが生じます。貞久は7歳で家督を継ぐと、改革旅は後見役に重正をすえて藩政を改革しようと、儒学者加藤桜老が中立派家老の牧野光保に直訴します。光保は門閥旅の解任と自身も藩政の混乱を招いたとして自刃しました。貞久は16歳で死去したため、舗三郎が養子になり、牧野貞明(後に貞直)として藩主になります。安政6年(1859)、現在の笠間小学校の敷地に「時習館」、「講武館」、「博采館」を統合した藩校「時習館」が開館します。貞寧は版籍奉還後に笠間藩知事に任命され、廃藩置県になると免ぜられました。「小野友五郎と咸臨丸」。安政2年(1855年)8月、測量・航海術および蘭語への精通を買われ、老中阿部正弘からの直命により、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。測量術の実践を16箇月の間学び修了後、江戸へ戻り築地の軍艦操練所教授方となる。万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節派遣が決定されたが、その護衛および航海訓練として軍艦奉行木村芥舟を提督とする咸臨丸も派遣されることになった。小野も同僚で海軍伝習所の同窓生であった艦長勝麟太郎(海舟)を補佐する測量方兼運用方(航海長)となって、アメリカへ航海する。同乗した米国海軍の測量士官ジョン・ブルック大尉は小野の測量術の練達ぶりに感心し、以後親交を結ぶようになった。「小野友五郎年譜」👈リンク「小野友五郎(51歳) 1867年ワシントンにて」。「咸臨丸」のミニチュア。「小野使節団」幕末期の徳川幕府が海軍力を増強するため南北戦争直後のアメリカに軍艦や兵器を購入するため小野友五郎を正史とする使節団をアメリカに派遣した。使節団の顔触れは次の十名であった。正 使 勘定吟味役 小野友五郎副 使 開成所頭取並 松本寿太夫外国方 調役次席・翻訳御用 福沢諭吉 通弁御用出役 津田仙弥 通弁御用御蔵 尺(せき)振八海軍方 小十人格軍艦組一等 小笠原賢蔵 同 岩田平作勘定吟味方 下役 神野信之丞小野の従者 関某、石川某「友五郎使節団」。「小野使節団航路図」小野使節団行程(旧暦表示)慶応3年 1月23日 横浜発(米船コロラド号) 2月26日 サンフランシスコ着 3月19日 ニューヨーク着 3月22日 ワシントン着 5月10日 ニューヨーク発 6月5日 サンフランシスコ発 6月26日 横浜着 「小野友五郎と和算」小野友五郎は十六歳の時に笠間藩算術世話役の甲斐駒蔵に師事し猛烈に一般算術・量地術を学び、その実力を認められて江戸表に転勤を命ぜられ、益々算術に磨きをかけた。友五郎は数年独学で勉強して甲斐駒蔵の勧めもあり関流の一派である長谷川算学道場へ入門する。入門後も算術の進化は目覚ましいもので師の駒蔵と並ぶ伏題になる。ここで駒蔵とともに量地図説という測量の本を刊行する。その後、幕府天文方勤めを命じられる。こでは暦の編集や冬至・夏至・日蝕・月蝕などの天体観測を行う。ここで西洋数学をも学んでいる。この頃、友五郎の住む笠間藩下屋敷の近くに住んでいた江川担庵(太郎左衛門)に砲術や砲台の建設も学んでいた。友五郎は明治維新後も長谷川道場に籍を置き、斎長という最高位に挙げられている。この社有列名には甲斐駒蔵・小野友五郎の外に笠間藩士の富田彦蔵・黒木隆蔵・本郷興助の名前が見える。「(A.ジョンソン)大統領からの口上書小野友五郎松本寿太夫余は足下(資下より上の敬語)等の合衆国政府へ来れるを信実に喜び、且つ大君殿下が安全を祝し我が国民の幸福を祈るとの趣下より述べしは余(大統領)が感謝する所なれば其の意を大君殿下へ報告せらるべし、小野友五郎・本寿太夫合衆国と日本との間に親睦の交わりあらん事を貴国政府において信はますます信を固くし嫉妬は常に疑心より生るものなり、合衆国と日本とは強い友人たらさるを得んや、この両国の間は彼の所有を此れより羨むの理なく徒に事を起こして彼此相害するの趣意なし これ両国の相遠隔せる所なり余は当初に於いて日本国の名代人へ面会するを喜び明次件を告ぐ余が今言う所のことは遠く世界中に達して差し支え無きものなり合衆国の初めて日本へ入るを許されし時より余輩は双方の使を顧す足下の用向きは便利を計りて外国事務執政(国務省高官)へ談判すべし然る上は我が政府に於いては幸いに親友の国へ対する如く意を用い、礼を尽くして其の志願を達する様周旋すべし、且っ又我が政府の能する所にて事柄に差し支えなくば足下へ忠告し足下と相談し足下を扶助するは快とする所なり。」「漢字制限建言書日本では難しい漢字が多く子供の教育発展に支障を与えているので漢字数を制限しようとする建言書を明治ニ十三年十一月に栗本鋤雲とともに貴族院議長の蜂須賀茂韶に提言した。このことで明治三十三年文部省が漢字制限に着手した。」「小笠原群島実測測量小笠原群島実測し測量図を完成小笠原群島の領有権が英米の間で騒がれ始めたため、幕府は咸臨丸艦長として友五郎に小笠原群島の測量を命じ経緯度天測・海岸線測量・水深測量などで正確な実測図を作成した。このことが現在も日本の領土として残ったわけである。」「小野友五郎と鉄道友五郎はニ度にわたる訪米の際、蒸気列車を見てこれからの日本の富国殖産振興には鉄道が必須であると考えていた。明治新政府の民部省に移った友五郎は日本で最初の東京と横浜間の鉄道建設に際し、横浜と六郷川間の測量技師長として活躍した。その後、東海道線と中仙道線の調査測量を佐藤政養と共に行い、東海道線案が採用されている。東京青森間・九州炭鉱鉄道の調査測量も実施している。日本の鉄道史では友五郎を抜きには語れない。」左:東京青森間 { 東北本線 } の調査測量出仕命令書 壬申十一年二日 工務省右:中山鉄道建設調査測量出仕命令書 明治六年三月廿九日 工部省友五郎は東海道線も調査測量し東海道線案が採用された。「長崎海軍伝習所・咸臨丸幕府天文方から出来たばかりの長崎海軍伝習所一期生として派遣を命ぜられ39名の一人として学ぶことになる。ここでは航海術・造船術・機関術などの技術と西洋数学・物理学・天文学を学ぶ同期生には矢田堀景蔵や勝海舟など優秀な人材が多く明治になって活躍した者が多かった。伝習所を終えて幕府所有の蒸気艦観光丸で日本人のみの操船で江戸に戻る。友五郎は築地海軍操練所の8名の教授方になる。その中にはジョン万次郎もいた。1858年日米修好通商条約を締結する使節団を乗せる米艦ポウハタン号の護衛と幕府海軍の実施訓練を兼ね咸臨丸航海長として乗り組み真冬の荒れ狂う太平洋をセキスタント(六分儀)で天測しながら太平洋を横断する。帰国後、友五郎の活躍を知った将軍家茂は艦長の勝海舟を差置き単独で謁見し特別褒章を授ける。将軍へのアメリカ土産は皮の財布とカメラであった。この年友五郎は幕臣となる。咸臨丸乗り組員と荷物軍鑑事行 木村摂津の守喜毅艦長 勝第太郎教授方 佐々倉構太郎 ″ 浜口興右衛門測量方 小野友五郎蒸気方 肥田浜五郎 ″ 山元金次郎、通弁主務 中浜万次郎(ジョン万次郎)右の外、日本人九六名アメリカ海軍大尉 j・ブルック他十一名積み荷は米十一・四トン、醤油四一四リットル、味増六樽、漬物六樽、茶三十kg 砂轤七樽、鰹節一五百本、梅干四嚢 豚ニ匹、鶏三十羽、あひるニ十羽、石炭五十トン、石油一八〇リットルろうそく千本、炭ニ百俵、薪一三五〇束、西之内和紙三百枚、半紙七百枚、美濃紙三百枚、」「笠間城の絵図笠間城について描かれた絵図が多数残されています。大別すると、①笠間城とその城下を含めて描かれているもの、②自然災害によって被害を受けた破損箇所の修復のために幕府へ提出された絵図です。①で代表的なものは、正保城絵図にある「常陸国笠間之城絵図」です。この絵図には、城郭内の建造物や堀などの城郭各部の情報や城下の町割り、山川の形が描かれています。現在の地形測量図と絵図内の笠間城の曲輪の形状は、一致するところが多くみられます。また、江戸時代中期になると、城下まで含まれた笠間城の絵図がつくられています。②では、被害状況、修復箇所について記載されており、江戸時代中期の笠間城の姿が見て取れます。特に天守曲輪の石垣の配置については、現況と一致する所もあります。その他にも、岡山大学池田家文庫に所蔵される絵図や『從行日記』内の笠間城市略図に描かれたものも、笠間城を理解する上で重要なものと言えるでしよう。「常陸國笠間城」。「日本古城絵図 常州笠間城初」。「日本古城絵図 常州笠間城初」国立国会図書館蔵年代:寛文年間~元禄年間頃寸法: 78cm X81cm松平康重が笠間藩主を務めていた時代の笠間城の姿を描いたとされる絵図。旧鳥羽藩主稲垣家旧蔵の城郭絵図集の中の一つであり、笠間城初は松井松平家文書中にある慶長年間の笠間城絵図の精巧な写しと考えられる。笠間城が近世域郭として整備された当初の蒲生郷成時代から松平康重時代の笠間城の姿をうかがわせるものである。曲輸の規模が記載されており、大手口の向かいには正福寺が描かれている」「常陸国笠間之城絵図」。「常陸国笠間之城絵図国立公文書館蔵年代:正保年間寸法: 270cmX278cm (原寸)笠間城と域下町の様子が描かれている絵図。正保元年(1644)幕府が諸藩に命じて作成させた城と城下町の地図。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深など城郭各部の情報や、城下の町割・山川の位置、影が詳細に記載されている。絵図は上書きに「域主井上河内守」とあり正保2年に浅野家に代わって笠間藩主となった井上正利の時代に提出されたことがわかる。この絵図には、本丸南東に櫓があったことが描かれている。」「笠間城」のジオラマ。「笠間城の縄張り①笠間城の縄張りについては、近世の絵図からその範囲をうかがうことが出来ます。絵図から、笠間城の縄張りは佐白山山頂周辺に展開することが見て取れます。①天守曲輸:蒲生郷成によって整備されたといわれる天守曲輪では、残存状況の良い石垣が見られ、山頂には櫓を転用した佐志能神社が鎖座します。北東斜面には腰曲輪、南西斜面には腰曲輪と竪堀が見られます。②本丸:南西側に土塁が配され、特に鍵型に残存する土塁は大規模な高土塁です。土塁上に八幡台櫓の土台となった礎石が残り、玄関門跡にも礎石があります。③二の丸:本丸北側に位置する二の丸は、南北約70m、東西約50mの空間です。西側に土塁がみられ、北東側が窪むような地形は「常陸国笠間之城絵図」と一致します。④帯曲輪 :ニの丸の北西から北側斜面には、帯曲輪が展開します。残されている絵図と比較すると、北側の帯曲輪は道路により一部破壊されていることがうかがえます。⑤大手門辺:笠間城の大手口は、枡形を構築するように土塁が配されています。山城域とは、大規模な堀によって区画されており、木橋か土橋によって渡っていたものと考えられます。周辺には石垣が見られます。⑥的場丸(千人溜):大手門の北東側には的場丸という広大な空間が展開します。軍勢などを集めるための空間であったことが推測され、現在は駐車場として使用されています」「笠間城の縄張り②近世に城郭として把握されていた笠間城の範囲以外に、的場丸北東側や帯曲輪北西側にも城郭遺構らしきものが見られます。⑦笠間城跡北西側遺構二の丸斜面帯曲輪の北西側の尾根筋を利用した曲輪が展開します。一番北西側の曲輪には、土塁と空堀がみられ、虎ロらしき遺構も見られます。この場所は侍屋敷地として絵図に描かれていることから、中世の城郭遺構を引き継ぎつつ利用されたものと考えられます。⑧正福寺跡的場丸より道路を挟んだ北側のピークには正福寺があり、絵図上にも見られます。正福寺跡を取り囲む堀跡は、明らかに防御施設として捉えられるものです。⑨正福寺跡東側の遺構ー正福寺跡の東側にも城郭遺構らしきものが見られます。ピークの平場にはわずかですが土塁跡が確認され、複数の腰曲輸は配置されています。⑦同様に、近世には侍屋敷地として把握されていることから、中世以来の遺構を引き継ぎながら使用されていたものと考えられます」「笠間城の石垣笠間城の特徴の一つとして石垣があげられます。現在、笠間城跡では11ヶ所で石垣が見られます。天守曲輪では頂上の佐志能神社に至るまでに三段の石垣が見られ、笠間城で見られる石垣の中では一番整っています。東日本大震災により一部が崩落する被害に見舞われましたが、現在は応急処置を施しています。また、天守曲輪以外にも、本丸玄関門手前や大手門周辺などにもみられ、積み石の大きさや積み方等の違いから、構築された年代や用途の違いが推測されます。①天守曲輪の石垣笠間城の中で一番整っている石垣。上・中・下の三段があり、下段の隅角部(折れ曲がっている部分)では算木積という石垣の技法が見られます。②玄関門手前の石垣玄関門へ通じる通路にある石垣。切石を隙間なく積んでいることから、天守曲輪の石垣より時代が下るものと推測されるが、用途の違いによる可能性もあります。③大手門裏手の石垣高さ4m以上あり、比較的大きめな石を積んでおり、間詰め石を使用しています。笠間城内の石垣では古いものの一つと考えられます。④帯曲輪西に築かれた石垣敵が侵入のしやすい谷状地形を寸断し、防御するために築かれたと考えられる石垣。天守曲輪下段や大手門裏手の石垣の積み方と似ています。」「笠間城絵図」の複製展示品。「常陸笠間城之図(複製)」。発掘された「笠間城の瓦」。「木造弥勒仏立像 弥勒教会蔵」。「木造弥勒仏立像(国指定重要文化財)弥勒教会蔵年代:宝治元年(1247) 像高: 175.2cm指定:大正9年8月16日弥勒教会に伝わる弥勒仏立像。ヒノキ材の寄木造で、漆箔が施され、玉眼嵌入である。螺髪は各粒を大きめにつくり、各々に旋毛を彫出する。肉髻は低くて地髪の鉢が張り、その髪際はゆるい波形となっている。衲衣の衣文は複雑であり、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された13世紀中頃の一典型である。光背は二重円光で頭光心八葉、台座は蓮肉一材で蓮弁は打付け、敷茄子は二枚矧であり、光背、台座ともに造立当時のものであるとされる。像内墨書銘より、造立の願主として笠間時朝の名前がみられ、右足柄の内側には「ロ時朝同身之弥勒」とあり、時朝と同じ背丈であることがわかる。」「笠間城跡の立地茨城県笠間市は、県の中央部に位置し、首都圏から約100km、県都水戸市に隣接します。笠間城跡は笠間市の北部、笠間盆地を東側から見下ろす標高207mの佐白山頂付近に立地し、独立丘陵の西端部の複雑に入り込む侵食谷により形成される尾根のピークを巧みに使用した山城です。北西には毎年5月に開催されるつつじまつりの会場となるつつじ山公園があります。笠間城は、中世にその起源を持ち、近世は笠間藩主の居城として機能した城郭です。中世、特に戦国時代は、多くの山城が機能していました。しかし近世になると、山城を廃棄して新たに平地に城郭を築くことが一般的であり、笠間城のように山城を使い続けることはまれなことです。笠間日動美術館の近くにある佐白山ろく公園は、かっての笠間城の下屋敷跡であり、笠間藩の政務はこちらで行われていました。笠間城の北側に位置する坂尾には、食い違いの土塁が残っており、坂尾の出入り口を守る虎口になっています。旧城下町は、佐白山の西麓、標高40 ~ 50mの涸沼川左岸に展開していました。現在は笠間稲荷神社の門前を中心とした市街地になっており、城下町の風情をわずかに残します。「五か町」と呼ばれる町人町については、旧町名などで確認することが出来ます。笠間稲荷神社の北側には、笠間時朝が居を構えたといわれる麓城のものと思われる土塁がわずかに残っています。中世・近世にわたって使用・維持された笠間城ではありますが、時代が経るにつれてその姿を変貌したと考えられます。」。「笠間城の歴史笠間城については正徳元年( 1711 )に井上氏の家臣久保整伯によって編纂された「笠間城記』(以下「城記』と省略)に記載されている事項が基礎情報となります。この『城記』に記載された情報を参考にしつつ、笠間城の歴史について見ていきます。笠間城は、承久元年( 1 219 )に築城が開始されたといわれています。築城者として伝わる笠間時朝は、宇都宮一族塩谷氏の出身です。築城以前の佐白山には、佐志能神社や正福寺などがあり、宗教的空間が展開していました。『城記」には、正福寺と徳蔵寺(東茨城郡城里町)との寺院抗争の際に、正福寺の生田坊は宇都宮頼綱に助力を請い、頼綱は甥の時朝を大将として軍勢を送り、時朝は徳蔵寺衆徒の制圧後に佐白山に取って返し、正福寺の伽藍を破却したとあります(築城後に六坊を再建)。同時に佐志能神社も遷座しています。このようにして笠間城の築城に取り掛かったとされ、嘉禎元年(1235)に完了しました。西麓には麓城と呼ばれる居館を構え、笠間氏の拠点となったと考えられます。南北朝争乱期の建武4年(1337)の「烟田時幹軍忠状写」に「笠間城」の文言が見られ、史料上で笠間城の存在が確認できます。実際に山上に城郭を築き始めたのはこの頃と考えられます。天正18年(1590)に笠間氏が没落するまで、笠間氏が城主を務めていたことから、笠間城は長期間にわたって整備・拡張されたものと推測できます。天正18年以後の城主玉生氏は、登城路の整備と町場の建設を行っています。慶長3年( 1598 )の蒲生秀行の宇都宮移封に伴い、蒲生郷成が笠間城主になると、佐白山頂付近の天守曲輪や登城路などの整備を行っています。関ヶ原の合戦後、徳川氏譜代の松平康重が初代笠間藩主となります。江戸時代中期までは藩主が度々入れ替わりますが、延享4年(1747)に牧野氏が藩主となると、牧野氏の下で明治維新を迎えます。元和8年(1622)から正保2年(1645)に藩主を務めた浅野氏の時代に、笠間城下屋敖を建設し、現在の町割の基となる城下町が完成されました。井上氏の時代に、天守櫓が改修されており、牧野氏の時代には、風雨によって崩落した石垣・堀の修復が行われています。明治3年(1871)、政府に笠間城の破却を願い出て許可されることにより、破却・廃城となりました。」来館者の「学習机」であろうか。「続日本100名城 笠間城」のスタンプを頂きました。この日は、このブログに各種説明書きを転記しながら、「笠間の歴史」「笠間の先人たち」、「笠間城」について多くを、頭から溢れ出しながらも学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.12
コメント(1)
さらに「土浦城址」の散策を続ける。「本丸西櫓」土浦城本丸の土塁上の東西には、江戸時代初期四代藩主西尾忠照が元和6(1620)~7年にかけて築いたおのおの二層の物見櫓があった。東櫓は明治17(1884)年に本丸館とともに火災で消失、西櫓も昭和24年のキティ台風で破損し取り壊された。西櫓は昭和24年(1949)のキティ台風の被害を受け、復元するという条件つきで解体されたものを、平成4年(1992)に保管されていた部材を用いて復元された。その後、東櫓が平成10(1998)年に復元された。廻り込んでズームして。「土浦城 西櫓由来本建造物は、十七世紀初頭元和六・七年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。土浦城は、その後土屋氏の居城どして明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。土浦城内の建造物は、明冶以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。そして、この西櫓も老朽化と昭和ニ十四年のキティ台風により、小破し、昭和ニ十五年に復元を前提として解体された。その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎなかったものを、市民の浄財をもどに復元したものである。」歴代藩主土屋家の祖先を祀る「土屋神社」。土屋神社は、江戸時代に土浦城の城主にして土浦藩の藩主であった土屋氏が氏神を祀る社であった。土屋神社の祭神は土屋氏の祖先である 一、土屋惣蔵昌恒公 二、土屋民部少輔忠直公 三、土屋但馬守数直公。廃藩置県の2年後、明治6年(1873年)1月に、太政官符令第84号で土浦城は廃止され、その後土浦城址は旧藩主である土屋氏の個人所有地であったが、旧藩主土屋挙直(土屋氏11代、水戸藩主徳川斉昭の17男)の子正直から、明治31年(1898年)に、当時川口町にあった土屋神社を城内に移すことを条件に、土浦城址を公園とする寄贈の申し出があり、公園化の資金として金壱萬円が添えられた。完成した公園において、土浦城の本丸跡北隅に土屋神社は遷座することとなり、現在もひっそりと鎮座している。歴史を感じさせる石灯籠?「東櫓」下の案内板。「土浦市立博物館附属展示館 土浦城東櫓東櫓は平成10(1998 )年に江戸時代の建築技術を活かして復元され、博物館の附属展示館として茨城県指定史跡「土浦城跡及び櫓門」を紹介しています。」そしてその下には「新型コロナウイルス感染拡大防止のため、入場券の販売・続100名城スタンプの利用は、博物館で受け付けております。」との表示があったがこの時点では気が付かなかった。「東櫓」を見上げる旅友。「ここでスタンプをもらえるのかなあ??」「東櫓」入口。「東櫓」は平成10年(1998)に復元され、土浦市立博物館の付属展示館として公開されており博物館の入場券で入館できるとのこと。入口から垣間見たが木造の大きな梁や柱の迫力に圧倒されたのであったが入場券を持っていなかったので諦めたのであった。そして「続100名城スタンプは、博物館で」とここにも。「霞門」を城内から。「霞門」を潜り振り返る。本丸の裏門にあたる門。土浦城裏門は江戸時代中期の貞享元年(1684)、松平信興が藩主時代に造営された建物。土浦城本丸の東側に位置し、2層の東櫓(平成10年:1998年、土浦市立博物館の付属展示館として復元)と枡形を形成しています。土浦城の裏側(搦手)にあたる事から裏門、又は霞橋と隣接している事から霞門と呼ばれています。切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門形式、袖壁付、門扉に潜戸付。「霞門」から堀を見る。「霞門」の前から「霞橋」の先の「東櫓」を見る。少し移動して。「東霞」の手前は枡形を形成していることが解るのであった。手前は「史跡 土浦城及び東櫓」碑。そして左に曲がり国道125号を「亀城公園北」交差点方面に歩を進める。左手にこれから訪ねる「土浦市立博物館」が見えた。そして堀に沿って進み「土浦市立博物館」に到着。「土浦市立博物館」前の緑地帯には様々な石碑が並んでいた。入口手前の緑の中にあった「土浦領境石」。「従是南土浦領」。「土浦領境石この境界石は、江戸時代に水戸街道に面して、土浦領と他領との領界に建てられていたものです。「従是北土浦領」は現在の土浦市中村に、「従是南土浦領」は中貫にあリ、それぞれ塚が築かれ、その上に設置されていました。土浦藩主の土屋篤直( 1732 ~ 1776 )が描いた『土浦道中絵図』の中にも、この境界石が描かれています。」「従是北土浦領」。「土浦城櫓門の礎石」。「土浦城櫓門の礎石ここにある4?個の石は、土浦城本丸入口にある櫓門の礎石です。昭和62年(1987)の櫓門解体修理の際、発掘調査によって現在の礎石の下から発見されました。おそらくは、明歴2年(1656)と考えられる櫓門建築の時に使われた最初の礎石と思われます。石材は、すべて輝石安山岩(伊豆石)です。大きい方の長方形の石は、扉の両側に使われました。どの石にも柱を差し込む「柄穴」があいています。」柱を差し込む「柄穴」が開いていた。「市指定文化財 真鍋の道標」。「市指定史跡 真鍋の道標」碑。「市指定文化財 真鍋の道標この道標は真鍋坂上の水戸街道ど筑波街道のの分岐点にあった土浦最古の道標である。「享保十七壬子年(一七三ニ)土浦ロ人」「右ふちう(府中、今の石岡市)水戸道」「左きよたき(新治村清滝観音)つくば道」とある。三面の(さく)は勢至菩薩を表す梵字で、ニ十三夜の月の主尊であり、この碑はその供養碑でもある。旅人を助ける道しるべを建て、その功徳によってニ世(現世と来世)の安楽を願うニ十三夜講の人々が建てたものと思われる。」「手野町所在の道標」「手野町所在の道標市内東部の手野町字新堀地内の国道354号沿いにあった道標を、同国道の拡幅工事に伴って移設したものです。正面上方には、梵字「(か 地蔵菩薩)」を配し、「右 とざきむら(戸崎村)」、「中 加も村(加茂村) うしわた村(牛渡村)」、「左 すげのや村(菅谷村) 中つまぎ(中妻木)なるい村(成井村) 田ふせむら(田伏村)」、向かって右側面には、「天明元年 辛丑 四月吉日建之手野村」と明瞭に文字が彫られています。天明元年(1781)は江戸時代後期にあたリます。この道標は、当時の手野村の人々によって建てられたものです。そこには、庶民の地蔵菩薩に対する信仰心も読み取ることができます。※「中妻木」は、かすみがうら市深谷地内の地名です。」そして「土浦市立博物館」の館内に入り「続日本100名城スタンプ」の押印場所へ。「土浦城」のスタンプを頂きました。「御城印」。「土浦市立博物館」を後にして再び城内の「二の丸跡」に向かって歩く。左手に「土浦城 西櫓」が見えた。猿が飼われていた。オスのリョウタとメスのスミレ、つがいとは言い難い奇妙な同居生活を送っているサルで、ともに生年は不明、公園での飼育は2001年にスタートしているから20歳を超えていると。石岡市の野猿公園で群れから排除されたオスのはぐれザルと、笠間市で農作物を荒らし回っていたメスザルが捕獲された。ニホンザルの習性から元の群れに戻すのは難しく殺処分もできないため、県動物指導センターの仲介でこの公園が引き取ることになった。この公園では昭和30年代にミニ動物園を設置、サルやタヌキ、クジャクなどの鳥類を飼っていた施設があったのだ と。次に「聖徳太子堂」に向かって進むと左手に「東櫓」が再び見えて来た。明治17年の失火で本丸御殿とともに焼失。平成10年に復元。そして前方に「聖徳太子堂」が姿を現した。「聖徳太子堂」を正面から。石鳥居の扁額も「聖徳太子堂」。「聖徳太子堂の由来この御堂は、日本文化と日本仏教の元祖てある聖徳太子を祀る。境内の聖徳太子報恩碑は、昭和十一年に土浦の有志により桜川畔に建てられ 次いで昭和四十年、土手の改修工事の為移される事になり、時の市長矢谷辺之助氏の厚意により 土浦五職組合の人々がこの場所に移し、御堂を建て太子御尊像を奉納した。以後五職組合の人々が聖徳太子奉賛会を興し、職祖神として太子をお祀りしている。●聖徳太子の伝記と主な業績◯達天皇三年御生誕(西暦五七四年)父 用明天皇皇太子時代(毋 穴穂部間人皇女) 厩尸豊聡耳皇子、上宮太子とも呼ばれる。祖父 欽明天皇の時代、最初の仏教伝来あり(五三八年) 現代の韓国(当時の百済・高句麗・新羅)より多くの經典・僧侶・大工・鑢盤師・瓦師・ 画エ・来る。 太子は幼時より是等の人々に学問・技術を学び、仏教を大いに信仰し国民に弘める。 ニ十才 推古天皇(叔母)の攝政皇太子となる。 益々、仏教を信仰し大阪に四天王寺を建てる。 推古十一年 冠位十ニ階を制定し人材の登用をはかる(六〇ニ年) 推古十ニ年 憲法十七條を制定し天皇の尊厳並びに豪族の融和をはかる。 現在の中国(当時の隋)とも外交を結ぶ(六〇七年)是等の中国・韓国の国々より建築技術者、仏師・画工、医学博士、暦本天文地理学者、絵具・筆、墨、紙・布、等の製造技術者、楽人・伎楽舞人等を呼び・・・国民に学問研究、寺院建築、仏像彫刻、絵画製作、舞楽の研究、絵具、筆、墨、紙、布、檠品等の製造と販売等を指導し、又、農耕を国是とした。高麗僧恵慈を師とし、百済僧恵聡よりも深く仏教を学び法隆寺を建立する(六〇七年)。三經義疏(法崋經・勝鬘經・維麻經・の注釈書)を著はす。六〇九年よリ六一五年にわたり完成する)。推古三十年ニ月ニ十ニ日 四十九才にて御逝去(六ニニ年)。大阪南河内太子町磯長に御廟あり。現在、太陽暦に換算し四月十一日を御命日とす。当奉讃会に於ては毎年四月中旬御堂前に於て奉讃・法要を行っている。川村歌子 記」「聖徳太子報恩碑」。「聖徳太子堂」。鯱の載る「土浦城 東櫓」を再び。公衆トイレ。公園の入口付近に建つ石碑。「亀城公園之記」。「亀城公園案内図土浦城は別名「亀城」とも呼ばれています。室町時代頃に築かれ、戦国時代には小田氏と佐竹氏の戦いの舞台となりました。江戸時代前期の〔藤井〕松平氏・西尾氏・朽木氏の時におおむね整備され、17世記終わり頃[大河内〕松平氏の時に近世軍学による大規模な改修が行われました。なお土浦藩は江戸時代中期以降に城主となった土屋家の時に藩領9万5千石となり、常陸国内では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇りました。明治時代以降、本丸跡には新治郡役所等が置かれましたが後に移転し、昭和9年(1934)に本丸及びニノ丸の大半を整備した「亀城公園」が完成しました。昭和27年(1952)には「土浦城跡及び櫓門」として茨城県指定史跡第1号となりました。櫓門は明暦2年(1656)に改築されたと伝えられ、本丸に建っ江戸時代の櫓門としては関東地方で現存する唯一のものです。階上に太鼓を置き、時刻を知らせたことから「太鼓櫓」ともいわれます。公園内にはこのほか霞門(現存)、旧前川口門(1980年現在地へ移設)、西櫓(1991年復元)、東櫓(1998年復元)、本丸の土塀(2005年復元)などがあります。」。「亀城公園案内図」。国道125号を南に進むと「中央一丁目」交差点手前手前の「福祉の店ポプラ中央店」前にあった「掃除小僧」の像。「コロナに負けるな」「私の願い 街をきれいにしましょう」そして横断歩道の先にあったのが市指定史跡「櫻橋の跡」。その先が、寄棟造の屋根、押縁下見板張り、漆喰の外壁、そして格子木囲い。当時の建築技術がそのまま残る天ぷら屋の「保立食堂」。土浦市中央1丁目2。「保立食堂」の角にあった「櫻橋」という文字が刻まれた桜橋の親柱・「櫻橋の跡」。現在のここ亀城通りは、かつて存在した川口川を埋め立てたものである。旧水戸街道の川口川渡河地点に架かっていた橋を「桜橋」という。昭和10年(1935年)に川が埋め立て祇園町が誕生するまで、桜橋には船がのぼり、水陸交通が交差する地であった。現在の亀城通りと中城通り(旧水戸街道)の交差点には「櫻橋」という文字が刻まれた桜橋の遺構があった。また、土浦まちかど蔵「野村」の横にも「さくらはし」と刻まれた親柱の姿を見ることができたのであった。そしてその横には「土浦町道路元標」碑。道路元標とは、大正8(1919)年に国道の始まる地点を示すため、当時の道路法にもとづいて設置された標識をいう。現在「土浦町道路元標」がある場所は中城通りと亀城通りとの交差点にあり、かつて桜橋が架けられていたところ。桜橋は水戸街道の橋として、城下町の中心地にあったことが当時の地図から読み取れる。東京の日本橋や大阪の高麗橋と同じように、町の中の主要な橋が街道の基点となっていた例である。そして駐車場に戻り、次の目的地の「笠間城跡」に車を走らせたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.11
コメント(0)
今朝、天気が回復したので、自宅から車で10分弱のボサ菊畑に行って来ました。この畑では、毎年農家の方が咲かせてくれています。今年も満開で迎えてくれました。左のアパートにお住まいの方が羨ましい!!普通の小菊を剪定を重ねて、ドーム状に仕立てたもの。そしてもう一つが、品種改良により、勝手にドーム状に育つものです。現在は、後者の、勝手にドーム状に育つものが一般的だと聞いています。宿根草ですので、来春芽が出て来ますので、肥料を上げ、大きくなったら芽差しをし育てるのです。今年も、真紅、黄色、白の三色がカオス状態で。白色の列。黄色の列。近づいて。白の中にピンクの花も。見事な真紅の色合い。一株当たり1000個から2000個の小菊の花を10月下旬から11月上旬に咲かせてくれるのです。カップケーキの如しと学友からも。ハーフ&ハーフの花も。更に近づいて。農家の方のご配慮で、今年も畑の中に入れました。ありがとうございました。
2021.11.10
コメント(0)
土浦城跡の散策を続ける。「土浦城は小田氏配下の菅谷氏の居城として知られています。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は北条氏と結んだため、佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡しました。徳川家康の関東移封後は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城秀康に与えられ、秀康が北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が入りました。信一とその子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられています。その後、西尾氏、朽木氏、土屋氏と城主が入れ替わりましたが、1687年(貞享4年)に土屋政直が入封して以降は土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新を迎えました。城址は亀城公園および土浦市立博物館として整備され、太鼓櫓門と霞門が現存しています。また、2011年(平成23年)に起きた東日本大震災の影響を受け、太鼓櫓門、東櫓、西櫓とすべての建造物が破損しましたが、元通り修復され、現在は一般公開されています。東櫓内部を博物館の入館券(入館料105円)で見学できます。」と。内堀に架かる橋を渡るとその先の二の丸跡は広場になっていた。「続日本百名城 土浦城址(亀城公園)案内図」。二の丸広場の東側・右奥には門が見えた。正面の堀の先には櫓門の姿が。最初に「土浦城移築前川口門(高麗門)」を訪ねた。二の丸側から見る。武家屋敷であった多計(たけ)郭と町屋との間を仕切る門。 土浦城内の建物は廃城の際取り壊されたり火災で焼けたりして現存するのは、太鼓櫓、霞門、前川口門(高麗門)だけで、東櫓、西櫓は平成の復元。前川口門は、文久2年(1862)年建築、搦手門に通ずる要所にあったが、その後移築を重ね、二之門のあった現在地に建てられた。本柱の後ろの控柱にも切妻屋根を載せた高麗門型なので、高麗門ともいわれていると。なお明治新政府は太政官布告で櫓や門の取り壊しを命じたが、新治県(にいはりけん)では一部払い下げも行われ、移築された門が近在に残っているとのこと。新治県は、1871年(明治4年)12月25日から1875年(明治8年)5月7日まで、日本の太平洋沿岸に存続した県の一つ。現在の茨城県南部と千葉県東部に当たる。県庁所在地はここ土浦町であった。1875年(明治8年)5月7日 - 第2次府県統合により、新治県は利根川を境に分割され、利根川以北は茨城県に編入され、利根川以南は千葉県に編入された のだと。 【https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/kenminnohi/documents/yurai.pdf】より「市指定文化財建造物土浦城旧前川口門 指定 昭和四十六年(一九七一)七月十三日この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。江戸時代末期の建築である。明治十八年(一八八五)に上浦戸長役場(のち町役場)の門として、さらに大正九年(一九ニ〇)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内のニの丸入口にあたる「ニ之門」のあったこの位置に、昭和五十六年(一九八一)移築されたものである。」「亀城公園」碑。「亀城公園」室町時代後期に築かれたとされる、土浦城の本丸と二の丸の一部を整備した公園。城塁が水に浮かぶ亀のように見えたことに由来するとされる土浦城の別名「亀城」から名付けられた。櫓門は城郭建築の遺構としては関東唯一のもので、園内には芝生広場やブランコ等の遊具もあり、市民の憩いの場として親しまれている。また、桜の名所としても知られ、園内には約70本のソメイヨシノがあり、例年の見頃は3月下旬から4月上旬。桜の櫓や堀との調和は格別に美しく、シーズン中には土浦桜まつりの会場にもなる人気の花見スポット。「外丸跡」碑。埋められてしまった堀跡(東側)。堀跡(西側)。再び「土浦城旧前川口門」を潜り「櫓門」、「東櫓」方向を見る。「東櫓」下の堀を見る。「櫓門」方向に進むと、右手には石碑と案内板が。「二の丸跡」碑。「土浦城跡および櫓門」案内所。「土浦城跡および櫓門県指定史跡 第1号土浦市中央1丁目昭和27年(1952)11月18日 指定管理者 土浦市土浦城は、一名亀城ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、武家屋敷や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模をもつものであった。江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移築された旧前川門(高麗門)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わったが、土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。明治以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっている。」「江戸時代の土浦城郭図」(上)「亀城公園現状図」(下)「江戸時代の土浦城郭図」に近づいて。上方に馬出をニつ組み合わせた重ね馬出(北門)、下方に角馬出、左手にも丸馬出(田中ロ)が配置されている。現在は中央の本丸とニの丸部分が残り、亀城公園として整備されている。更に近づいて。土浦城ジオラマ。 【https://blog.goo.ne.jp/yoshiharu-n-goo/e/b7f73da4c64a3b23d060a138e05040dc】より「亀城公園現状図」に近づいて。「プール」とあるが・・・・撤去されたのであろうか。「櫓門」。本丸と二の丸の間の門。明暦2(1656)年建造。土浦城櫓門は、本丸、二の丸の遺跡とともに茨城県の文化財に指定されている。火災や戦災などで各地の城郭建築が失われた今日において、とくに櫓門は江戸時代前期の建物としては関東地方唯一のもので土浦城の象徴でもある。もともと本丸の楼門であったものを、明暦2(1656)年、五代藩主朽木稙綱が櫓門に改築したもので、2階に大太鼓を置き時刻を知らせたことから、別名、太鼓櫓ともいわれる。この太鼓の制作年代は不明だが、現在土浦市立博物館に展示されている。「櫓門」を見上げると「八双金物」が。門扉・板戸などに打ち付ける装飾用の金具。形により、入り八双・出八双・散らし八双などがある。これは突き出した形状の出八双。非常に大きく重厚な作りになっており、補強としての意味合いだけでなく、威圧感を与えることを目的としていることが読み取れるのであった。「亀城のシイ」。「県指定文化財 亀城のシイ天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名は、スダジイ(別名イタジイ・ナガジイ)である。スダジイは福島県と新潟県以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。このシイの胸高周は七メートル、樹高は十六メートル、枝張りニ十一メートル、樹齢は約五百年と推定されている。県下のシイの中でも有数の巨樹である。」「県指定天然記念物 亀城のシイ」碑。そして「高田 保 句碑」「あの花も この花もみな 春の風 保」「高田保は、明治二十八年(一八九五)三月二十七日土浦市内西町(現在の上浦市中央一丁目)に生まれた。早稲田大学卒業後、雑誌の編集や新劇運動に参加し、劇作家・演出家として活躍したが、また小説・評論・随筆にも健筆を振った。中でも昭和二十三年暮から東京日日新聞に連載した随筆「ぶらり ひょうたん」は、人々の共感をよんで保の代表作となった。昭和二十七年(一九五二)二月二十三日五十七歳で没した。墓は市内の高翁寺にあり、市の史跡に指定されている。碑文は、保の句、阿部真之助の筆。あの花も この花もみな 春の風 保碑は、高田保と親交のあった中学同期生ら有志が、昭和三十一年七月に建てたものである。」別の句碑。「公魚の 禁漁解けて 二月尽 」。「原修次郎君之像」。大正・昭和期の実業家、政治家。京都府出身。中央大学卒業。1895(M28)年、台湾総督府の台南県弁務署長となり、のち台湾総督府警視補。 退官後実業界に入り、塩水港精糖監査役、花蓮港電気、朝鮮皮革、花蓮港木材などの重役となった。 1912(M45)年帰国し、第11回総選挙に、妻の郷里である茨城県から出馬し当選(憲政会)。 その後も、大正デモクラシーを背景に、原脩次郎の選挙母体として政治結社、亀城青年会が結成され大勝した。衆議院議員当選5回。 のち立憲民政党総務となり、1931(S6)年第2次若槻内閣の拓務大臣(4.14~9.10)、ついで鉄道大臣(9.10~12.13)となった。従三位勲二等。享年63歳。長男の原彪氏は昭和20年6月26日~昭和22年1月28日の間、土浦市長だったようだ。お顔をズームで。「山村才助贈位紀恩之碑」。江戸後期の蘭学者、世界地理学者。才助は通称、名は昌永。字を子明、号を夢遊道人という。常陸国(茨城県)土浦城主土屋氏家臣昌茂の長男。母まきは市河寛斎の妹。江戸藩邸に生まれた。伯父市河寛斎に漢学を、大槻玄沢に蘭学を学ぶ。玄沢門弟百余名中の四天王のひとりに数えられ、寛政10(1798)年の蘭学者相撲番付に西関脇で載る。達者な語学力でオランダ語の地理・歴史書を読み、『東西紀游』『印度志』『百児西亜志』『亜細亜諸島誌』『大西要録』などを訳述した。幕命により訳した『魯西亜国志』もある。日本の西洋史学の創始者とすることもでき、訳業は伝写されて平田篤胤、渡辺崋山、吉田松陰 など幕末知識人に海外への認識を改めさせる糧となった とネットから。「ひょうたん池」には噴水も。「東屋」。「亀城の泉」。土浦城の跡のある亀城公園の中にある泉。「忠魂碑」。ブロンズ像の装飾は旧陸海軍を示す星に錨、上に羽ばたく鳥は鷲であろう。石碑の鷲の後ろに「忠魂 陸軍大臣 山梨半造」とあった。再び「櫓門」。「史跡 土浦城址」碑。「櫓門」前、左側の堀。「本丸跡」と「東櫓」を見る。「本丸跡」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.10
コメント(0)
「土浦城阯」近くの「中城通り」の散策を続ける。通行スペースの確保や美しい都市景観、防災などを目的に、電線類を地中化する無電柱化が行われていたのであった。左手にあったのが「矢口家住宅」。土浦では、天保12年(1841)9月12日の大火後、町屋が土蔵造に変わっていったが、残存するその代表的な建物。水戸街道に面した土蔵造で、店蔵・袖蔵・元蔵と称する3蔵より構成されている。いずれも2階建で、店蔵は店と居室からなり、袖蔵と接続しており、元蔵は離れている。「平面配置図」👈リンク。 正面から。「県指定構造物 矢口家住宅この建物は土蔵造りで、店蔵(主屋・向かって右)と袖蔵(向かって左)、別に建てられた奥の元蔵より成る。旧水戸街道に面した店蔵・袖蔵の開口は合わせて7間半である。土浦城下の土蔵造りは、天保12年(1841)の大火後、瓦葺きなどと共に防火の備えとして取り入れられたものである。この建物の建築年代は、店蔵と袖蔵が嘉永2年(1849)、元蔵が慶応年間(1865~67)で、県内に現存する土蔵造りの商家建築のなかでは特に貴重なものである。なお、天保9年(1838)以降の家相図が7枚残っており、間取りの変遷を知ることができる価値の高いものである。」「矢口家住宅」案内柱。矢口家住宅の二階袖蔵。「いばらきの見どころマップ」。休憩場所の如き場所の板塀には。「江戸と水戸を結ぶ宿場町の面影残すまち水戸街道十一番目の宿場町でもある土浦宿は江戸日本橋より十八里半に位置し現在の土浦商工会議所と土浦まちかど蔵・大徳の近くに大名などが休憩や宿泊する本陣がありました。このほか商家 旅籠 問屋 船宿などが軒を連ねていました。また土浦は霞ヶ浦湖岸の土地を活かして水運が発達し利根川 江戸川を通じて江戸と結ばれていました。土浦藩の城下町として栄え亀城公園に土浦城の遺構が一部残されています」「矢口家住宅」と向かい合うように「尾張屋」。家具や仏具の店。「世界遺産 屋久杉 千年余の木の肌に手を触れてみてください」。「生蕎麦 吾妻庵総本店」2階の看板も歴史を感じさせるのであった。夜になると灯りが灯るのであろうか。その先に「佐野安」は漆器、陶器の店。その先を左手に折れ進むと直ぐにあったのが「中城天満宮」。「土浦市歴史の小径」碑。「中城天満宮祭神は菅原道真。天神社、天神宮、天満宮などと呼ばれている。この天満宮は、通称中城の天神さまとしてよく知られている。伝説では、源頼義・義家が前九年の役のとき境内で軍馬を閲したと伝えられている。江戸時代には、中城の駒市が境内に立ち3月11日から15日まで開かれ、多い時で700頭も馬が集まったといわれている。4月25日の例祭に開催される書道展は有名であり、現在もなおつづいている。」「中城天満宮」を正面から。石鳥居の扁額は「中城天満宮」。「社殿」土浦市中央1丁目5。「柳沢柳坦の句碑」「柳沢柳坦(りゅうたん)の句碑梅可香耳(うめがかに) やミ裳(やみも) おさるゝ(おさるる) 神乃庭(かみのにわ)柳坦は中城通り天満宮の入り口に薬種店を持ち郷土歴史の研究に非常に熱心で、学童の為の選書会を作った。元治元年(1864)~大正一三年(1924)「獅子山」と奥に小さな「境内社」。稲荷社であろうか。「天神社(天満宮)と駒市」案内柱。創建年代不詳ですが、源義家が奥州征伐の軍馬を閲した伝説があります。江戸時代には三月に駒市(馬市)がたち、沢山の人馬が集まりました。祭神は菅原道真で、書道・学問の信仰を集めています」社殿の扁額も「天満宮」。内陣。絵馬は御祭神:菅原道真公。御神牛(ごしんぎゅう)の姿も。そして「中城通り」に戻って進むと左手に「山口薬局」。山口薬局中城店は2021年01月01日に開局した調剤薬局 と。土浦市中央1-7-11。看板「山口薬局」も老舗そのもの。「御菓子司 ときわ木」。そしてこの先を右に折れて進む。「しるこ」とあるが店の名前であろうか。「(有)三光写真館」。「土浦城大手門跡」の「土浦小学校」の正門?近づいて。「市指定史跡 大手門の跡」碑と「土浦市歴史の小径」碑。「土浦市歴史の小径」碑。「大手門の跡この付近には、土浦城の正門(表門)である大手門があった。それは、ニ門を備えた内枡形であり、外側が単層の門、内側がニ層の櫓門であった。記録によれば、元和8年(1622 )に建てられ、明治6年(1873)に取り壊されたとされる。」「土浦市立土浦幼稚園土浦幼稚園は、明治十八(一八八五)年に土浦西小学校(現土浦小学校)付属幼稚園として、この地に開園しました。当時、茨城県に幼稚園はまだなく土浦幼稚園は県下で最初に設置された幼稚園です。当時の幼稚園は、公私立合わせても全国で三十園程度でした。土浦幼稚園には、ドイツの教育家フレーベル考案の恩物をはじめとする明治期の幼児教育玩具や教材また、昭和ニ(一九ニ七)年に日米友好親善使節としてアメリカから贈られた「青い目の人形」など貴重な資料が残されています。これらの資料は土浦市立博物館て保管し、展示公開されています。平成二十四年(ニ〇一ニ)年四月にいくぶん幼稚園と統合し、新しく文京町に移転しました。」1924(大正13)年に建て替えられた土浦幼稚園舎。ここが「土浦小学校」の現在の正門なのであろうか。城門の如き姿であった。前方に見えて来たのが「日蓮正宗 本妙寺」。「亀城山 本妙寺」は日蓮正宗の寺院。総本山大石寺の末寺であると。亀城山 本妙寺は、大正2年(1913)年4月27日に、日応上人御隠尊猊下(第五十六世)の大導師のもと、入仏式が奉修された「日蓮正宗第二十九号教会所」の発足からはじまります。以来百余年、総本山大石寺の末寺として御開基・日応上人をはじめ奉り、三代にわたる歴代住職を迎え、日蓮大聖人の仏法を正しく受けつぎ、今日に至っています。なかんずく昭和25年7月5日、第六十四世日昇上人より、「本妙寺」との寺号を賜りました。扁額は「亀城山」。「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう) 本妙寺」。日蓮正宗は静岡県富士宮市の大石寺(たいせきじ)を総本山とし、日蓮の高弟で本迹(ほんじゃく)勝劣の説を唱える日興を派祖とする日蓮宗の一派。大石寺はもと興門派の名刹で、明治以後,他の興門派の諸寺院とともに独立したが、1900年大石寺のみ分立して日蓮宗富士派と称し、13年さらに現在の宗名に改めた。創価学会はこの宗派の護持団体であったが、80年以降対立が表面化し、宗門側が学会に破門を通告した。創価学会を含む日蓮正宗系教団では日蓮宗を「身延派」と呼び、距離を置いている とネットから。そして対面にあったのが「土浦市立土浦小学校」。「土浦市立土浦小学校」は元大関・高安関の母校であるようだ。2017年名古屋場所で大関に昇進したが大関在位は15場所で陥落。2021年9月場所では東小結。2020年7月、演歌歌手の杜このみと結婚、2021年2月17日、第1子となる長女が誕生 と。歩道には観光案内用のタイル製のマップ案内が。「本妙寺」の白壁に沿って「土浦城 二ノ丸跡」に向かって進む。「土浦城」の堀に架かる太鼓橋を渡る。「土浦城」の内堀。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.09
コメント(0)
「霞ケ浦総合公園 風車」を後にして、国道125号に向かってポプラ並木の道を走る。国道125号に入り、土浦駅に近い土浦市桜町1丁目を走る。前方は31階建てのウララビル。そして目的地の「まちかど蔵 大徳」前の右手の駐車場に車を駐め、「土浦城阯」の散策を始めた。「土浦城阯」のこの日の散策ルート。「まちかど蔵 大徳」。土浦市の中城通りは、土浦城のお膝元であり、江戸時代より商業の中心地として栄えたエリア。旧水戸街道の宿場町として発展した背景から現在でも江戸情緒を漂わせた建物が点在し、歴史を感じる街並みが残されている。その中心にある土浦「まちかど蔵 大徳」は、まちあるきのアンテナショップの役割も担う土浦観光の拠点。 江戸時代末期に造られた呉服店の見世蔵、袖蔵、元蔵、向蔵の4棟を改修した建物の中には、観光案内所やおみやげ販売コーナーがあり、昔の土浦の暮らしに触れることのできる展示資料館もあった。土浦市中央1-3-16。店の内部には「重陽 いばらきの菊の節句 後の雛」。日本古来の書物によると、3月3日の節句に飾る雛人形に対して重陽の節句に再び雛人形を飾ることを「後の雛」(のちのひな)と言うのだと。店のオバちゃんから「続日本百名城」のスタンプのこの日の置き場は「土浦市立博物館」であることを教えて頂きました。「まちかど蔵 大徳」前、土浦まちかど蔵「野村」横にあった遺蹟を訪ねた。「旧町名 中城町」碑。「由来 田町と同時(慶長九年)に生れた町人町で、土浦宿の代表的な町としてだけでなく、 「中城分」という集落の中心であった。土浦城大手門に近く、参勤の大名を接待する 御使者屋敷もあった。駒市で知られている中城天満宮もこの町の象徴である。」「土浦市歴史の小径」案内碑。ここは土浦まちかど蔵「野村」の横にある神社と寺が並んで建っている珍しい「琴平小径」。歩道は御影石張りで石灯籠が立ち並ぶ。判りにくいので、現場で頂いた「中城周辺 ぶらり歩き地図」を。-----が歩いたルート。「さくらばし(桜橋)親柱」。現在の亀城通りは、かつて存在した川口川を埋め立てたものである。旧水戸街道の川口川渡河地点に架かっていた橋を「桜橋」という。昭和10年(1935年)に川が埋め立て祇園町が誕生するまで、桜橋には船がのぼり、水陸交通が交差する地であった。現在の亀城通りと中城通り(旧水戸街道)の交差点には「櫻橋」という文字が刻まれた桜橋の遺構があった。これが土浦まちかど蔵「野村」の横にあった「さくらはし」と刻まれた親柱。親柱とは高欄・階段・垣根などの両端や曲がり角に立つ太い柱をいう。「桜橋親柱」の裏にはこの後訪ねた「沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡」案内板が。石灯籠が一対。その先にも。そして左奥にあったのが「土浦ツェペリン伯号展示館」。「蔵ギャラリー」入口。土浦ツェッペリン伯号来訪を物語る貴重な史料写真やパネルなどが常設展示されていた。館内には所狭しと展示品が。2005年には現代のドイツに蘇った「ツェッペリンNT号」を土浦に招致、翌年には子ども向けの体験飛行も実現させたのだと。天井近くに吊られたツェッペリン伯号の模型。中央は飛行船の最先端部分の部品で直径2メートルの「ノーズコーン」実物であると。「ツェッペリン関連資料マップ」。「土浦ツェペリン伯号展示館」。昭和4年(1929年)8月19日に土浦の「霞ヶ浦海軍航空隊」に寄港した、ドイツのツェッペリン社が開発したツェッペリン伯号(LZ-127)の写真であると。全長236.6mであったと。様々な歴史が写真と共に説明されていた。「76年前(現在では92年前)に土浦・霞ヶ浦に飛来したツェッペリン伯号(LZ-127)65名の乗員を乗せて、最高速度は時速130kmにも及び時速100kmでの巡航が可能でした。1929年(昭和4年)8用8日にアメリカのレイクハ-ストを旅発ち、9月1日に無事レイクハ一ストに戻って、航空機による世界一周を初めて成し遂げました。霞ケ浦が寄港地に選ばれたのは、第一次大戦で日本が戦利品としてドイツから持ってきた巨大な飛行船格納庫があり、湖畔で風などの気象環境がよいこと、首都東京に近いことなどの理由です。東京に飛来した8月19日夕方、東京の市民は屋根という屋根によじのぽり、窓という窓に鈴なりになって夕日を受けて輝く巨体に歓喜の声を上げました。全長が236mですから、ちょうど高層ビルのサンシャイン60(池袋)が横倒しになって飛んでくるようなものです。翌日の全国の新聞紙面を飾り、『君はツェッペリンを見たか』が合い言葉になりました。停泊した霞ケ浦・土浦には東京から臨時便の列車も出て、自転車やリヤカー・徒歩で集まった人々は当時30万人だったといいます。」このツェッペリン伯号のエンジンには主燃料として「プロパンと水素」を混合したブラウガスと称するガスが使われていましたが、このブラウガスがなければ世界一周はできませんでした。霞ヶ浦ではこのガス燃料の補給が行われたと。1929年(昭和4年)の世界一周航路。 8月 8日 米国・東海岸のレイクハースト(ニュージャージー州)を離陸 8月10日 ドイツのフリードリッヒス・ハーフェン(ボーデン湖畔の都市で同船の建 造地であり母港でもある)に着陸 8月15日 ドイツを離陸(滞在日数6日間) 北欧 → モスクワ上空 → シベリア上空 8月19日 北海道上空 → 東京・横浜上空 → 夕刻、霞ヶ浦に着陸 8月23日 日本を離陸(滞在日数5日間) 8月26日 米国のロスアンゼルスに着陸 8月27日 離陸(滞在日数2日間) 米国を横断 8月29日 東海岸のレイクハーストに着陸(世界一周完) 【https://www.lpgc.or.jp/corporate/webreport/201510contents1.html】「船体 大きさの比較」 【https://www.lpgc.or.jp/corporate/webreport/201510contents1.html】ツェッペリン号の骨組み模型も展示されていた。「1926年、ドイツではエッケナー博士の指導により、第1次対戦で喪失した国民の意識の高揚と大量輸送線の開発を目標にツェッペリン泊号(LZ-127)の製造を開始した。全長237m。乗員60名。」「幻の飛行船LZ-130号の設計図。ヒンデンブルグ号(LZ-129)の爆発炎上の教訓に基づき充填ガスを危険な水素から安全なヘリウムガスに切り替えたLZ-130号が計画されたが、高価なヘリウムガスの使用が採算の面で次代に合わなかった事と、世界中が第2次世界大戦に巻き込まれたために計画は実現を見ず、幻の飛行船となった。しかし現在21世紀の最も安全な乗り物として世界中が飛行船に熱い視線を送っている。」「LZ-126」の骨組み図。様々な写真が所狭しと展示されて。「昭和4年(1929年)8月19日19時頃、欧州格納庫へ無事収容を完了する。」2004年(平成16年)㈱日本飛行船がツェッペリン社から購入した「ツェッペリンNTの紹介」ロ全長・・・・・・・・・・75mロ最大幅・・・・・・・・・19.5mロ全高・・・・・・・・・・17.4mロエンべロープ容積・・・・8 , 225m3ロ乗員・乗客数・・・・・・14名(内乗員2名)ロ離陸最大重量・・・・・・8 , 040kg ( 8.04t )ロ搭載荷重・・・・・・・・1 , 900kg ( 1.9t )ロ推進力・・・・・・・・・(工ンジン3基) 200HPロ最高飛行速度・・・・・・125km / hロ航続可能距離・・・・・・900km口上昇限度・・・・・・・・2 , 600mロ最大航続時間・・・・・・24時間ツェッペリンNTの特徴●ジャンボ機を越える、世界最大サイズ ツェッペリンNTは、全長75mという世界最大の飛行船です。 ジャンボジェット機でも全長は70mですから、その大きさが おわかり頂けます。●大きくても機敏、おどろきの機動力 空中でホバリングしたまま360度その場で回転したり、おじぎを したり、最新の制御機能で従来の飛行船ではかんがえられなかっ た動きが出来ます。最高速度も125kmに達します。●世界中わずか3隻だけという希少性 現在、ツェッペリンNTは全世界で3隻のみ、商業用として使用で きるのは、その内の2隻だけです。●万一の時にも無事に地上に戻る、安全性 ドイツでは2001年の夏以来すでに4万人が搭乗、ご年配の方や お子様も空中遊覧を快適にお楽しみいただいています。この間に 事故は一度もありません。万が一飛行船に不調があっても、ヘリウム ガスの浮力により墜落することがないので安全に地上に戻ることが できます。(船体に直径30cmの穴が開いても、ガスが抜けきるまでに 8時間を要します)●不燃性で、人体にも無害なヘリウムガスを使用 飛行船に充填されるヘリウムガスは、マッチで点火しても燃えな い不燃性のガス。バーティー用の声を変えるおもちやガスに使用 されるなど、人体にも全く無害です。●こく普通に会話が出来る静かなキャビン 乗客ゴンドラから離れた位置にエンジン・プロペラを置してい るため、キャビン内は非常に静かです。ヘリコプターやセスナの ようにヘッドフォンを装着する必要もなく通常のように会話ができます。●地上でも低騒音 ジェット機やヘリコプターなど他の航空機と比べ格段に騒音が 少なく、また下降風(ダウンウォッシュ)も少なく、周囲の環境に 影響を与えません。離着陸に必要なスペースも小さく、長大な滑 走路を建設する必要がありません。●海外でも大人気、搭乗まで1年待ち ドイツでは遊覧飛行に常時1万人以上の先行予約が入っている ほどの人気です。「ツェッペリンNT」。 【https://ysfc.weblogs.jp/chronofile/2005/01/zeppelin_nt.html】よりヒンデンブルグ号(LZ-129)が描かれていた。再びツェッペリン伯号(LZ-127)の飛行写真。そして、「ヒンデンブルグ号(LZ-129)爆発の瞬間」👈リンク。ヒンデンブルク号爆発事故(ヒンデンブルクごうばくはつじこ、Hindenburg Disaster)は、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生したドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発炎上事故を指す。この事故で、乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合わせて36名が死亡し多くの乗客が重傷を負った。映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故などとともに20世紀の世界を揺るがせた大事故の一つとして知られている。 【https://bebemobile.blog.fc2.com/blog-entry-1674.html】よりそして「土浦ツェペリン伯号展示館」入口右には多くの石碑も並んでいた。「墨僊沼尻先生 退筆塚(たいひつづか)」碑。文久二年壬戌(1862)四月建。江戸時代後期に沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)の開いた寺子屋があった場所で、文久2(1862)年、墨僊の七回忌に門弟たちによって学徳を偲んで建てられた退筆塚の碑。碑の台座には「門人立石」と、「門人達が建立した石碑」ということであろう。「指定史跡 退筆塚の碑」。「退筆」とは穂先がちびて使用できなくなった筆のこと。入口にあった「沼尻墨僊の塾(寺子屋)跡」説明板。「沼尻墨僊(一七七五~一八五六)が琴平神社境内に塾「時習斎」を開いたのは江戸時代後期、享和三(一八〇三)年のことてある。墨僊は号で、名を一貞、常治と称した。田宿町で薬種製造を営む中村治助の第九子として誕生し、生後まもなく町医沼尻石牛の養子となった。長じて塾を開き、近隣の子らの教育にあたった。墨僊は太田天錫(土浦藩士)らに師事し、叔父沼尻修平(陸其章)に筆法を学んだ。漢詩・書道・絵画をよくし、天文学や地理学に明るく、「地球万国図説」(市指定文化財)を著し、安政ニ(一八五五)年には傘式地球儀の名て知られる「大輿地球儀」(市指定文化財)を制作・出版している。のちに「天章堂」と改名した塾では読み書きだけてな墨僊の広範な知識をもとに素読など高度な教育が行われた。安政三年に墨僊が亡くなるまで人門する子弟は絶えず、塾生は述べ六百人を越えた。墨僊の没後、塾は子墨潭(就道)が継ぎ、明治四(一八七一)年まで続いた。」「琴平神社」の「本社改築記念」碑。「中城山 不動院」の「山門」。「中城山 不動院」。扁額は本尊の「不動明王」と。真言宗豊山派・中城山不動院光福寺。不動院は、応永年間(1394~1427年)の創建と伝えられ、当時、信太荘土浦郷の豪族、若泉氏によるものだそうだ。現在は中央2丁目の真言宗豊山派寺院、瀧泉寺(齊藤純英住職)が管理している。五色幕が掲げられていた。本堂の右側にあったのが2個の「力石」。「市指定有形民俗文化財 不動院力石」碑と。その奥の石碑群。中央に「光明真言供養塔」。光明真言は23字(休止符を入れると24字)の梵字ぼんじからなり、「オン、アボキャ、ベイロシャナウ、マカボダラ、マニ、ハムドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウム」と読む。これには、「大日如来だいにちにょらいよ、智彗ちえと慈悲をたれてお救いください」との意が含まれ、これを読誦すると一切の罪障が除かれるとされたため、100万遍べん、200万遍と唱えた記念に供養塔が造立されたのだと。正面上部に光明真言を円形に配置し、その下に文字を刻んだこの石塔は、天下泰平と国土安全を願う講中により造立されたものであると。「中城山不動院 年中行事」案内板。そして不動院に隣接して「中城琴平神社」があった。石鳥居を潜って行く。そしてこちらの「琴平神社」と隣の「不動院」の間にある道は「琴平通り」という道路になっているので、この先通り抜けができるようになっていた。左手の鳥居脇には、狛犬(右)。狛犬(左)。右手に「琴平神社々務所」。左手に「井戸端庵」と。「井戸端庵の由来江戸時代の後期、琴平神社境内に「沼尻墨僊」の開いた寺子屋「天章堂」がありました。墨僊は多芸多才で天文学、地理学に業績をあげ、物理学・土木技術にも通じ、漢詩・書道・絵画にもすぐれていました。墨僊は温厚・誠実な人柄で、子弟を懇切丁寧に教えました。そのため遠近から墨僊を慕って入門するものが多く、県南地方最大の寺子屋となりました。また、水利土木技術を使った土浦市街地での井戸掘りにも力を発揮しました。ここは、土浦のかつての ”学びの地” であり、また、地域の人たちが集い、コミュニケーションをとっていた ”共同井戸” があった場所でもあります。それらに由来して市民が愛着をもって集う」井戸端という意味から「井戸端庵」と名付けました。」「琴平神社」の「社殿」。御祭神は、大物主命。俗称は、こんぴらさま。明和2(1765)年、四国金比羅宮より分霊。安永4(1775)年に土浦城下中城町不動院境内に社殿を建立。文化8(1811)年に鳥居再建、天保11(1840)年に手洗鉢建造、慶応2(1866)年には御神燈・唐獅子各1対の奉納。明治22(1889)年には敷石・旗立石等が寄進され、寄進人員は6千余名に及んだと言われている。大正2(1869)年、町内の秋葉・稲荷五社を合祀。昭和10(1935)年、社務所を建設。土浦市中央1丁目12。「社殿」の額には「琴平太神」と。「寺子屋 亀楽」「寺子屋亀楽」についてこの場所は江戸時代の後期に「沼尻墨僊」が寺子屋を開いたゆかりの地です。当時の寺子屋は、主に町人の子弟に「読み」「書き」「算術」などを教える学問の場とされていました。墨僊は、多芸多才で温厚・誠実な人柄から遠近から墨僊を慕って入門する者が多く、やがて県南地方最大な寺子屋となりました。このような歴史的背景を踏まえて、「上浦界隈まちづくり研究会」では、習い事のできる町並みづくりに取り組んでおります。習い事というと敷居が高いイメージいありますが、誰もが日常的に気軽に習い事のできる施設にしたいという思いで「寺子屋亀楽」と名付けました。亀は亀城にちなみ土浦の水の歴史に通じています。そして長寿や縁起の良いものの象徴としてさらに暮らしの豊かさを実感できるスローライフにつながるものと考えます。現代人は、何かと忙しい日々を過ごしていますが、先ずは、亀のようにのんびりと気楽に亀楽に立ち寄っていただければ幸いです。」「寺子屋 亀楽」の玄関。道路に戻ると角にあったのが「土浦まちかど蔵 野村」。正面から。江戸時代後期から明治時代初期に建造された蔵で、袖蔵はそば打ち体験などができる多目的工房となっています。レンガ蔵は喫茶店として活用している。土浦市中央1-12-5。店の内部。「横須賀海軍軍需部所蔵 霞ヶ浦方面海軍糧食品軍納組合員」と書かれた木札。二階の蔵を見る。「中城通り」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.08
コメント(0)
「牛久大仏」を後にして茨城県道34号線を北上し霞ヶ浦湖畔に向けて進む。左手の「阿見町立図書館」&「阿見町民体育館」前を通過。そして左手に「阿見町役場」。「茨大農学部前」交差点、さらに「阿見坂下」交差点を右折すると左手にあったのが「予科練平和記念館」。 茨城県稲敷郡阿見町廻戸5−1。「浦に在り 時を編み 風と遊ぶ--阿見町-- 町のみどころ」案内板。「現在地」にズームして。外観が幾何学的なシルバーの市松模様の「予科練平和記念館」に向かって進む。「予科練平和記念館」入口。東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦航空隊が設置され、「海軍航空の町」として名を馳せた阿見町。 昭和14年には神奈川県横須賀市から海軍飛行予科練習部(予科練)が移転、予科練習教育の最重要拠点となりました。 空に憧れ、パイロットになりたいという夢を胸に、予科練で青春時代の全てを厳しい訓練に費やした少年たち…。 時代に翻弄された彼らの貴重な資料を保存・展示するとともに命と平和の尊さを考えてもらうために設立されました。 記念館は、予科練の制服である「七つぼたん」をモチーフに7つのテーマと空間から構成された常設展示館と、企画展や講演会が開かれる「20世紀ホール」などから構成されています。 建物の1/4が窓になっており、館内から予科練習生たちが憧れた空をよく見られる素晴らしい造りになっています と。しかし、この日はコロナ禍の影響で臨時休館中であった。「予科練平和記念館設立趣旨昭和5 (1930)年6月1日 79名の第一期飛行予科練習生が誕生して以来、終戦までの15年3ヶ月の期間に、まだ幼さを残した少年たちは大空へ飛び立つことに夢を抱き、全国各地から予科練開設の地に参集しました。彼らは優れた航空機搭乗員としての基礎教育修得と人間形成を目指し、日々の厳しい訓練に耐え大きく成長しました。その後、更に次の段階の訓練期間を経て、ある者は戦場で、ある者は特攻隊員として祖国のためにと信じ尊い生命を捧げました。戦後60年以上が経過し、日本は目覚しい発展を遂げ、世界の先進国としての地位を確立しました。私たちは、この日本の発展の背後には戦争という悲惨な歴史の中で犠牲となった予科練習生はじめ多くの戦没者と、戦後復興に尽力した予科練出身者を含む多くの人々の献身的な努力があったことを忘れてはならないと思います。このことに思いをいたし、予科練を中心とした戦争の歴史を正しく次の世代に伝え、恒久平和の確立と、人類の未来の安寧に役立っことを願い、多くの方々の賛同を得て予科練の歴史が刻まれたこの地に予科練平和記念館を建設しました。この記念館が、多くの皆様のご協力によって適切に運営され所期の目的を果たし続けることを願って止みません。」「館内案内」「予科練平和記念館では、予科練の制服である「七つボタン」をモチーフに7つの空間から構成された常設展示室と、企画展示や講演会、研修会等、様々な交流活動を展開する「20世紀ホール」、休憩や図書の閲覧の他、館の収蔵資料などを閲覧することのできる「情報ラウンジ」などがあります。展示を含めた様々な事業を展開し、地域振興を図るための拠点として運営されます。」「七つのボタンと7つのテーマ」。「予科練志望者のあこがれであった「七つボタン」は、世界の七大洋を表したもので、海を越えて大空を駆け巡る大いなる期待が込められています。予科練の代名詞とされ、空を目指した当時の少年たちのあこがれであった「七つボタン」にちなんで、入隊から特攻にいたる7つのテーマによるスト一リーを設定し、施設全体を構成しました。」「昭和20年(1945)土浦海軍航空隊」平面配置図。上部の広い場所は予科練習生の訓練の為の練兵所。下部の練兵場から建物への入口には、昭和天皇行幸記念碑、山本五十六元帥像が立っているようだ。「予科錬の少年たちは特別な少年ではなかった。普通の少年で、強いて違っているところといえば、空を愛し、格別に飛行機が好きであったという位であろうか。彼らは余りに純真であり、それ故にか情にもろく血と涙が多すぎる、そんな体質の少年が多かった。そのような少年たちが、国難に対して献身した、燃えた、そして、八割が戦死した。」「設立趣旨」をパンフレットから。茨城県阿見町は大正時代に、霞ヶ浦海軍航空隊が開隊されて以来、昭和14年には飛行予科練習部いわゆる「予科練」が、神奈川県横須賀からここ阿見町に移転し、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うこととなりました。このように、海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、わが国の近現代史の中でも特別な時代を過ごし、日本が経験してきた戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいます。このような歴史的背景の中で、貴重な予科練の歴史や阿見町の戦史の記録を保存・展示するとともに、次の世代に正確に伝承し、命の尊さや平和の大切さを考えていただくために「予科練平和記念館」を建設しました。「海軍飛行予科練習生」の姿。「予科練」とは。「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧米列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練を行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まって終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の約1万9千人にのぼりました。」「雄翔館、雄翔苑」は臨時休館中であると。雄翔館は、予科練戦没者の遺書・遺品約1500点を収蔵、展示しています。予科練出身者、造族などで構成される財団法人海原会が管理しており、1958 (昭和43 )年に開館。雄翔苑は、予科練の戦没者約1万9千人の霊璽簿(れいじぼ)をおさめた「予科練の碑(予科練ニ人像)」を正面に配した庭園。そして広場にあったのが「特攻兵器「回天」」。訓練艇は上部が白く塗られていたのだと。「回天一型実物大模型「回天」とは太平洋戦争末期に日本海軍が開発した人間魚雷であり、日本軍最初の特効専用兵器です。「回天」は海軍保有の九三式酸素魚雷を人が乗って操縦できるように改造したもので、昭和19年(1944)11月から終戦まで、敵艦に体当たりを行う特攻作戦に使用されました。総生産数は420基。「二型」「四型」「十型」も開発されたが、「一型」以外は量産されることなく終戦を迎えています。「回天」と名付けたのは呉の水雷学校校長だった大森仙太郎中将で、幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名されたと言われています。予科練からは回天搭乗員全体の70%以上を占める約1,000名が着任しており、40名の方が戦没されています。訓練用の回天は、上部が白く塗装されていました。展示の回天はそれを再現したものです。回天一型性能一覧全長:14.75 m (初期一型は14.5 m )直径:1.0m全重量:8,300kg速カx射程:時速3 0ノット(時速約55.6 km ) x 23 km 時速1 2ノット(時速約22.2 km ) x 78 km安全潜行深度:80m頭部炸薬量:1,550kg乗員:1名燃料:灯油、酸素」「回天一型改一の構造図」。 【https://www.shifukunohitotoki.net/entry/2020/08/21/174904】より平・断面図。左右逆であるが。九三式酸素魚雷三型の機関を採用している。純酸素とケロシン(白灯油)を燃料とし、燃焼室に噴射、火管によって点火されると高温燃焼・高温ガスを発生する。そこに霧状にした海水を噴射すると高温高圧の蒸気を発生させ、その蒸気によって二気筒のピストンを動かし、550馬力を生み出すのだと。(この状態を「熱走」と呼んでいた。逆に火が着かず装填空気圧のみで動くことを「冷走」と呼んでいた)。推進力となった蒸気は二酸化炭素を含んでいるため海水に溶け易く、気泡が発生しないので、航跡が発見されにくくなっていた と。 【https://ameblo.jp/oogakaienkiti/image-11470138302-12452546907.html】より。「波切り」に囲まれた「上部ハッチ」を見る。後部のプロペラは二重構造。逆転も可能なのであろう。少し離れて「回天」👈リンク を見る。「回天」は、潜水艦のデッキにバンドで固定して、攻撃目標の近くまで運ばれた。一度潜水艦を離れた回天は、体当たりに失敗しても回収されることはなく、脱出装置も付いていないため、乗り込んだ搭乗員は2度と帰ってくることはなかったのだと。以前、靖国神社の遊就館で現存する回天(実艇、一部復元)を見た記憶があるが。この先が休館・休苑中の「雄翔館、雄翔苑」。こちらに実物大の零戦模型が格納されているのであろう。「零式艦上戦闘機 21型」。 【https://ameblo.jp/raiden21/entry-12617755947.html】より「予科練平和記念館」を後にして、次の目的地の「霞ケ浦総合公園 風車」に向かう。左前方に見えたのが「霞ケ浦文化体育会館」。そして大きな風車の姿が見えて来た。駐車場に車を駐め散策開始。 霞ヶ浦総合公園のシンボルとなっているこの風車は、土浦市市制施行50周年を記念して建てられたもの。動力は電気で、高さ25メートル、羽根の長さ直径20メートル、そして塔の中段には、360度見渡すことができる展望台があった。展望台からは霞ヶ浦や水生植物園を一望でき、ここから見る朝日は格別であると。その反対側にまわると、悠々たる筑波山を背景に土浦市の街並みを望むことができたのであった。そして広場にあったオブジェ「光の輪のむこうに」。「光の輪のむこうに 土浦市制施行50周年記念霞ヶ浦浄化記念碑」湖内水質(COD)の推移が示されていた。裏に廻り込んで。湖畔で釣りをしている少年の姿、その脇に愛犬の姿が。「夢」を釣りに来ているのであろうか。「霞ヶ浦」を見渡せる場所の先では水車が回っていた。霞ヶ浦の湖水が汲み上げられていた。オランダ型風車を再び。直径20mの羽は回っていなかったが。「オランダ型風車この風車は、土浦市制施行周年記念事業の一環として、霞ヶ浦総合公園のシンボルとなるよう建設したものです。風車塔は高の八角形鉄骨構造です。羽は直径20mの4枚羽で、高さの塔中段には霞ヶ浦を望むことができる展望台があります。また、風車塔の中には処理能力50m3/時の連続砂ろ過装置を設置し、霞ヶ浦の水を取り入れきれいに浄化してもとに戻します」「幸せの鐘」。風車の展望台まで歩を進めた。霞ヶ浦とその先にかすみがうら市市街地が見えた。鉄塔がある場所が「陸上自衛隊 土浦駐屯地」。この後に訪ねた「土浦市霞ケ浦総合公園ネイチャーセンター」の方向を見る。そしてる標高877mの「筑波山」。茨城県つくば市北端にある標高877mの山。筑波山神社の境内地で西側(左)の男体山(標高871m)と東側(右)の女体山(標高877m)からなる山。女体山(標高877m)山頂まで「筑波山ロープウェイ」、男体山(標高871m)山頂近くまではケーブルカーがあった記憶が。風車下の花壇。「土浦市霞ケ浦総合公園ネイチャーセンター」。昨年の暮れからの「第9回水郷桜イルミネーション」のポスターであるが今年は行われると良いが。霞ヶ浦総合公園のネイチャーセンター入り口前には「鉄琴」が置いてあった。左から順番に叩いていくと「赤とんぼ」の曲になるのであった。私もTRYしたが・・・。その横には「赤とんぼ」の楽譜が。「土浦市霞ケ浦総合公園ネイチャーセンター」内部はミニ水族館の如き。風車の内部には霞ヶ浦の湖水浄化用の砂ろ過器が設置されているのを確認できたのであった。様々な珍魚の姿を楽しんだのであった。浮遊するビーズと共に淡水魚が。亀?フラワーホーンに似ていたが。ウーパールーパーに似ていたが。水草の美しい水槽。そして外に出て再び水車の姿を。「いばらき」案内板。「いばらぎ」ではなく「いばらき」であることを知ったのは十数年前?であったが。「いばらき 見どころ」。「漫遊空間 いばらき」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.07
コメント(1)
「大杉神社」を後にして国道125号を霞ヶ浦方面に向けて車を走らせる。前方に橋が見えて来た。「小野川」に架かる「新古渡橋( しんふっとばし)」を渡る。この一帯は,昭和25年の茨城百景に「古渡(ふっと)湖畔」として選定された場所。「小野川」は、茨城県南部を流れ霞ヶ浦に注ぐ利根川水系の一級河川。更に進むと左折すると「JRA美浦トレーニング・センター」へ向かう「トレセン入口」交差点を直進する。「JRA美浦トレーニング・センター」は茨城県稲敷郡美浦村にある日本中央競馬会(JRA)の施設(トレーニングセンター)である。中央競馬の東日本地区における調教拠点である。略称は「美浦」「美浦トレセン」「美浦TC」など。上空から見た「JRA美浦トレーニング・センター」。 【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%B5%A6%E6%9D%91】より茨城県道34号線に移り進むと前方に見えて来たのが「圏央道」。ここは「圏央道」の「阿見東インター入口」交差点。「圏央道」の下を通過し300m程進むと、「牛久大仏」➡右折 の案内板。そして車窓前方に巨大な「牛久大仏」の姿が。「牛久大仏」の駐車場に向けてケヤキ並木を進む。そして駐車場に車を駐め、「牛久大仏」の散策開始。牛久大仏(正式名称:牛久阿弥陀大佛)は、日本の茨城県牛久市にあるブロンズ(青銅)製大仏立像で、全高120メートル(像高100メートル、台座20メートル)あり、立像の高さは世界で6番目。ブロンズ立像としては世界最大。浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られた。小動物公園や花畑などがある浄土庭園内にあり、公園墓地「牛久浄苑」との複合施設となっている。総面積は37万平方メートルに及ぶ と。牛久市久野町2083。「牛久大仏建設の事業構想は1983年に関係者によって着手された。1986年に着工、1992年12月に完成した。事業主体は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。浄土真宗東本願寺派の霊園である牛久浄苑のエリア内に造られた。その姿は同派の本尊である阿弥陀如来像の形状を拡大したものである。全高120メートル(像高100メートル、台座20メートル)を誇り、奈良の大仏(像高14.98メートル)が掌に乗り、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある自由の女神像(全高93メートル、手を掲げた姿勢の像高46.05メートル)の実質的な像高(足元から頭頂までの高さ33.86メートル)の3倍近くの大きさである。地上高世界最大の"ブロンズ製"人型建造物(仏像)であり、ギネス世界記録には「世界一の大きさのブロンズ製仏像」として登録されている。地上高最大の人型建造物は、インドのグジャラート州ナルマダー県にある建国の父の1人とされる指導的政治家ヴァッラブバーイー・パテールをかたどった全高240メートル(像高182メートル、台座58メートル)の「統一の像(Statue of Unity)」。なお、近代以前に造営されたものでは、唐の磨崖仏である楽山大仏の像高59.98メートルが世界最大である。」とウィキペディアより。「高さの比較」図。「牛久大仏」は全長120m。インドのグジャラート州で、最近世界一高い像・統一の像(Statue of Unity)。この像は、ガンジーの信奉者で、インドの統一に貢献した政治家サルダール・パテールに敬意を表したもの。つまり、彼を像にしたのだ。建設費は実に約4億2000万ドル(日本円で約476億円)。建設期間は、約4年。高さは182m、台座を含め約240mに達するという。 【https://guardindustry.com/reference/statue-of-unity/】より世界の像高の比較。2位は「魯山大仏」、3位に「牛久大仏」。 【https://narmadatentcity.info/how-to-reach-statue-of-unity-and-tent-city/】より再び「牛久大仏」のお顔をズームで。頭の上に避雷針が。「牛久大仏」駐車場入口から。「牛久大仏」は南南西を向いている。その方角には浅草・本山東本願寺があり、またその先には仏教誕生の地・インドがあると。超巨大な「仏」の姿。「牛久大仏」が結んでいるのが「来迎印(らいごういん)」と呼ばれる印相。親指と人差し指を合わせて輪を作っているのが特徴。来迎とは人々を救うために阿弥陀如来が迎えにくることで、右手は掌を外に向けて胸の前に上げ左手は掌を外に向けて垂れ下げ、両手とも親指と人差し指をつける印相で手が左右逆の場合を逆手来迎印という と。左掌の長さ:18.0メートル親指の直径:1.7メートル 人さし指の長さ:7.0メートル。臨終の際、阿弥陀仏が西方極楽浄土より迎えに来るときのポーズと。「牛久大仏」が正面に見える位置まで道路を進んで行った。そして塀の隙間から「牛久大仏」を。建設施工は川田工業による。建築にあたっては主に高層ビルで用いられるカーテンウォール工法が採用された。まず中央に、大仏全体の重量を支える役割を果たす鉄骨の主架構を組み上げる。次に、主幹の役割を果たすこの鉄骨の周囲に、枝を生やすように、あらかじめ地上で作っておいたブロックを組み合わせていく。高さ100メートルの仏像本体は20段の輪切り状に分割して設計されており、さらにそれぞれの輪切りが平均17個のブロックに分割されている。加えて、各ブロックは平均1.5メートル四方の青銅製の板金を9枚程度並べて溶接し、下地となる鉄骨と組み合わせることで作成された。この下地鉄骨が、複雑な形状をとりながら主架構と青銅板との間を繋ぎ、樹木でいうところの「枝」に相当する役割を果たしている。仏像表面の青銅板は葉のように浮いているだけであり、巨大な質量を支える必要がないため、6ミリメートル程度の厚みしかない。これは、銅板で全体の重量を支える奈良の大仏などとの大きな違いである。特に形状が複雑な両手部分についても、別に地上で組み上げ、巨大クレーンを用いて吊り上げられた。像の表面には、これを覆うための6,000枚以上の青銅板が用いられている とこれもウィキペディアより。そのため、像の表面を注意深く見れば正方形のタイル状の継ぎ目を確かめることができる。これらブロックの継ぎ目部分には隙間があり、台風や地震、気象変化による板金の伸び縮みに対して構造上の余裕を持たせる役目を果たしている 再び「牛久大仏」のお顔をズームで。顔の長さ:20.0メートル、螺髪(らほつ)は総数:480個。1個の直径:1メートル、1個あたりの重量:200キログラム)壁の隙間から「牛久大仏」の頭の縮小版を見つけた。高さは約2mと。「牛久大仏のお顔の大きさは、この縮小の1000個分のボリュームに相当する」と。なるほど、実物のお顔は20mあるので20m/2m=10、体積は3乗に比例するので10☓10☓10=1000個分のボリュームに相当。大仏前の「大香炉」。大仏の前に置かれて いる「大香炉」は青銅製香炉として日本一の大きさであると。壁の隙間から「牛久大仏」のミニチュアの姿も確認できた。その後ろにあるのが「發遣門」であるようだ。牛久市の雨水マンホール蓋。「かっぱの里」牛久市観光協会のマスコットキャラクターである、かっぱの「キューちゃん」。 右手に打ち出の小づち、左手にキューリを持ち、いたずら小僧みたいな表情。 郷土の画家、小川芋銭がよく描く対象がかっぱであると。 右下には水連の葉とカエルも描かれていた。「牛久大仏」の入苑入口に向かって進む。拝観料は大仏胎内入場込みのセット券で800円/人。開苑は9:30、この時の時間は9:22で開苑前であった。「牛久大仏」を再び見上げる。「牛久大仏」の内部は鉄骨構造の高層ビルディングの如きと。 【https://www.eco.kawada.co.jp/blog/on-site/4177/】より主鉄骨の外部はジャングルジムの如く、下地鉄骨が張り出していると。そして下地鉄骨から外装材の青銅板を固定した鉄骨を連結していると。 【https://www.kawada.co.jp/technology/gihou/pdf/vol36/3601_03_01P.pdf】より「牛久阿弥陀大仏頭部鉄骨模型 S=I : 30 (紙製)地上93.5メートルから119.65メートルのお顔内部の鉄骨模型。緑色に塗られている鉄骨が主架構、白色の鉄骨が下地鉄骨。下地鉄骨はお顔の形に合わせ設計されている。架設にはカーテンウォール工法を採用したため、42個のプロックに分かれる構造になっている。プロック1つの量は板を含め約6トン。」組み立てた時の写真を『ネット』👈リンク から。お顔を地上で仮組。 【http://photozou.jp/photo/show/1075137/81249567】よりそして据え付け。 【https://4travel.jp/travelogue/11695451】より大仏の胸部にあたる地上85メートルまではエレベーターでのぼることが可能で、美しい関東平野の景色を展望することができる。ただし、像自体の美観の問題から広々とした展望場所は設けられておらず、胸部からの景色は4・ 5階の「霊鷲山(りょうじゅせん)の間」にある3つのスリット状に設けられた小窓◯から見ることになるのだと。3階は極楽浄土の別名「蓮華蔵世界」で、壁一 面に約3,400体の胎内仏を安置。2 階は写経を行う「知恩報徳の世界」、1階は阿弥陀如来の大きな慈悲を表す美しい光の空間「光の 世界・観 想の間」が広がっているのだと。「展望台」👈リンク4・ 5階の「霊鷲山の間」にある、3つのスリット状に設けられた小窓。 【https://hirakana.hateblo.jp/entry/2020/12/19/230651】より3階は極楽浄土の別名「蓮華蔵世界」で、壁一面に金色に輝く約3,400体の胎内仏を安置。 【https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_650/】より2階は写経ができる「知恩報徳の世界」。心を落ち着けて写経ができる席は全部で77席。 【https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_650/】より周囲には繋ぎ目の線が確認できたのであった。左腕にも小窓が見えた。その外にぶら下がってあったのは風速計?、地震計?桜の時期にはこの様な見事な光景に。「牛久大仏 浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺」と書かれた銘板。「エレベーターで地上85mの展望台へ」案内板。「ようこそ 牛久大仏へ」。「像の基本情報」をウィキペディアより。構造:青銅板張立像全高(地上高):120メートル像高(立像の場合、本体の長さ):100メートル台座の高さ:20メートル(うち、基壇部は高さ10メートル、蓮華座は高さ10メートル・ 直径20メートル)総重量:4,000トン(うち、本体重量:3,000トン、外被青銅版の総重量:1,000トン)顔の長さ:20.0メートル目の長さ:2.5メートル 口の長さ:4.0メートル 鼻の長さ:1.2メートル 耳の長さ:10.0メートル左掌の長さ:18.0メートル親指の直径:1.7メートル 人さし指の長さ:7.0メートル足の爪の長さ:1.0メートル螺髪(らほつ。総数:480個。1個の直径:1メートル、1個あたりの重量:200キログラム)造営期間:1989年 着工、1993年6月 落慶存続期間:1993年 - 現存内部構造と情報内部にはパネル展示等があり、歴史や仏教の世界について学ぶ事ができる。1階:光の世界(Infinite Light and Infinite Life) 観想の間:浄土の世界を観想する(思い描く)空間。2階:知恩報徳の世界(World of Gratitude and Thanksfulness) 念仏の間:毎週土曜日、ここで法話がある。阿弥陀如来への報恩感謝の気持ちを籠めて 写経を行う空間。写経席は77席。3階:蓮華蔵世界(World of the Lotus Sanctuary) 約3,300体の胎内仏に囲まれた金色の世界。「蓮華蔵世界」とは極楽浄土のこと。4・5階:霊鷲山の間(Room of Mt.Grdhrakuta) ここには仏舎利(釈尊の遺骨)が安置されており、参拝できる。 また、四方に窓があり、東西南北を見渡せる。地上に置かれている巨大な右手。 【https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_650/】より平均1.5メートル四方の青銅製の板を繋ぎ合わせているのが確認できたのであった。賑やかなペットボトル飲料の自動販売機。ここにも見事な桜と芝桜の写真が利用されていた。ここが入苑通路。両側には土産物等の売店が並んでいた。そして車に戻る途中に振り返り「牛久大仏」に別れの挨拶を。そして先程、このブログを書いている時にネットから見つけた写真。年に一度の「牛久大仏」の清掃では清掃作業員が大仏の目の部分からロープで垂れ下がり汚れを洗い落とすのだと。 【https://www.sankei.com/photo/story/news/151021/sty1510210007-n1.html】より螺髪の清掃に向かう清掃作業員。 【https://ameblo.jp/kakurekumanomi2008/entry-12635274619.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.06
コメント(0)
そして「社殿」の裏側の道を駐車場方面に進んでいった。右手に「社殿」裏の建物への石段があった。この石段を上って進むと、「相生神社・稲荷神社・勝馬神社」への石鳥居に出るのであろう。大杉神社のすぐ裏手に鎮座する「最勝立身出世稲荷神社」を訪ねた。大杉神社の境内末社となっているとのこと。石鳥居の横には社号標石「正一位 最勝立身出世 稲荷神社」が。石鳥居の扁額は「最勝」。その先の石鳥居の扁額は「立身出世」。「最勝立身出世稲荷神社」参道に多くの奉納鳥居が並んでいた。狛狐が両脇に。正面に「手水舎」。「最勝立身出世稲荷神社」の「社殿」「最勝」「立身出世」など力強い文字が並ぶことから、金運、勝負運に御利益有とされる。社殿の縁の下にも多くの狐様が。扁額は「最勝立身出世 稲荷神社」。同じく大杉神社側の入口となる西側入口鳥居を境内側から見る。こちらの扁額も「最勝」。境内を鳥居越しに見る。御神木の「椎」。廻り込むと、椎の木に宿る馬の精霊として人気の幹の一部が。2019年の台風15号で枝が折れ、偶然にも馬が社を見守るかのような形になったと。「神意が木に表れたのかもしれない」と思いを巡らすのであった。樹齢数百年のシイノキの案内板。そして「勝馬神社(かちうまじんじゃ)」もと馬櫪社(ばれきしゃ)。862(貞観4)年、当時の信太馬牧に馬体守護の社として祀られた。祭神は不詳。 鎌倉時代ごろ大杉神社境内に移された。拝殿内には神猿がひく馬の像が祀られている。「勝馬神社御祭神 不詳もと馬櫪社と称し、貞観四年(八六ニ)信太馬牧に祀られた馬体守護の古社。鎌倉時代ごろ大杉神社境内に遷座された。四月八日は大杉神社の春の大祭で別名駒牽祭と呼ばれている。境内奥山に馬場(現駐車場)があり竸馬が開催された。旧来は馬場を見渡す地に石司として鎮座。農耕馬の消減とともに石祠の存在すら多くの人々から忘れ去られていた。平成十四年篤志家の手によって現在の地に遷座、社殿を建立。JRA美浦トレーニングセンターが近いこともあり、馬主、騎手、調教師といった競馬関係者はもとより競馬ファンの参拝も多い。」「安馬さま」碑。「あんば」には阿波、安馬、安婆、安波など様々な文字が当てられていたことが解るのであった。拝殿内には神猿がひく馬の像が祀られていた。ズームして。さらに。「勝馬神社」の「本殿」を横から見る。次に「捄総社(くぞうしゃ)」。捄総社は、日祀社(ひまつりしゃ、祭神は日女大神=ひるめのおおかみ)、 鵜神社(うなかみしゃ、祭神は鵜神大神=うなかみのおおかみ)、 梶鳥社(かじとりしゃ、祭神は鳥船大神=とりふねのおおかみ)、 神護社(じんごしゃ、祭神は日奉部直神護命)の総称。「相生神社(あいおいじんじゃ)」。祭神は伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)、伊弉冉大神(いざなみのおおかみ)。 男女和合の神様で子授けの神社として知られている。本殿にある男神・男根石に願い紐を懸けて月参し、 子供が授かったら女神・女陰石に叶い紐を懸けて御礼参りする。一般には「金精さま」と呼ばれていると。「えんむすび 子授けの あいおいさま 相生神社」碑。「子授けの願い紐・叶い紐子授けを願う方は男根像に願い事を書いた願い紐を掛けます。毎月願掛けをしますが、遠方でなかなかお参りに来られない方は、社務所に申し出いただくと、決まった日に願い紐を代理でお掛け申しあげます。また毎月御郵送いただいても同様にお掛けいたします。大神様の御利益により子供が授かりましたら安産の祈願を受け、無事の出産を願います。子供が無事授かりましたら、御礼の叶い紐を女陰像に掛けます。誕生後三十日が置ぎた頃に初宮参りの祈願を受けます。御祭神男神(男根像)伊弉諾大神・いざなぎのおおかみ女神(女陰像)伊弉冉大神・いざなみのおおかみ」「相生神社御祭神 伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ) 伊弉冉大神(いざなみのおおかみ)男女和合の神社、子授け(子宝)の神社として知られている。男根石に願い紐を懸けて月参りする。子供が授かったら女陰石に叶い紐を懸け、お礼参りの祈祷を受ける。」「男根石」と「女陰石」が内部に。そっくり?の「男根石」と多くの赤の願い紐が。「女陰石」と紫の叶い紐。「最勝立身 出世稲荷神社」の東側入口の鳥居。手前の石碑群。「御手洗」と刻まれた石碑。「御手洗」という地名の場所があったようだ。歌碑であろうか。こちらは本社の石垣造営の記念碑。そして今回は行けなかった「次郎杉」をネットから。寛政年間(1789~1801)に、西隣の神宮寺村で起きた火災が飛び火して社殿を焼失する事件があったとのこと。その際、社殿の東に立っていた太郎杉も燃えてしまった。社殿西の三郎杉は風上側にあったため助かり、次郎杉は少し離れた低地にあったため、被害が及ばなかったという。霞ヶ浦からは3kmほど離れているのだが、大杉神社の大杉は、霞ヶ浦を航行する際の目印になったということである。 【https://play-life.jp/plans/22898】より駐車場近くで昔の稲敷郡桜川村時代の農村集落排水用のマンホール蓋を発見。2005年(平成17年)3月22日 に桜川村は江戸崎町・新利根町・東町とともに合併し稲敷市が発足。桜川村は消滅したようであるが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.05
コメント(0)
我が家から直線距離で300m程度の場所、国道467号沿いに「JAさがみ わいわい市 藤沢店」があり、その向かいに「コメダ珈琲店 藤沢亀井野店」があり、その前に菜の花の如き黄色い花が一面の咲いていると趣味の養蜂の師匠からSMSで連絡を頂きました。昨日11/3(水)、平塚まで車で出かけた帰りに立ち寄って見ました。既に花のピークは過ぎていましたが、2反≒2000m2以上の広さで一面に黄色の絨毯が拡がっていました。交差点の先、左側が「JAさがみ わいわい市 藤沢店」、国道467号を挟んでその向かいが「コメダ珈琲店 藤沢亀井野店」。「葉」と「花」を撮して、帰宅してネットで調べてみるとこの植物の名前は「ネマクリーン」であるようだ。土壌の線虫抑制や窒素固定を目的として農業用に栽培されるマメ科の1年草、緑肥となる「ネマクリーン」。土壌のネコブ線虫(サツマイモ、ジャワ、アレナリア、キタネコブ)、ミナミネグサレ、ナミイシュクなど各種線虫の密度抑制効果があります。土中に窒素を固定するため地力増進効果が高く、窒素施肥量を減らすことができます。根群が土中1m近くまで深く入り、硬盤を粉砕するとともに有害線虫の生息域を狭めますので、減農薬効果もあります。夏から秋には黄色の花を一面に咲かせ、景観形成効果も素晴らしい品種です と。しかし、我が趣味の養蜂の「西洋ミツバチ」の姿は、菜の花とは異なり見つけることは出来ませんでした。ルピナスの花にも似てマメ科特有の蝶形花。緑肥として鋤き込むのは何時になるのでしょうか。 ・・・おわり・・・
2021.11.04
コメント(0)
次に訪ねたのが「大杉神社」の横にあった「安穏寺(あんのんじ)」。石段の横にあった「天台宗 龍華山 (りゅうげさん) 安穏寺」碑。石段を上って行った。右手にあった「常陸坊海存」碑。文治5年(1189年)に建てられた と。「常陸坊海存」は牛若丸こと源義経一行に同行していたとも言われる人物。文治年間には巨体、紫髭、碧眼、鼻高という容貌の常陸坊海存(海尊)が登場し、大杉大明神の御神徳によって数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展したのだと。「参道」を進む。「参道」は短く20mほどか。両脇には古そうな桜、おそらくソメイヨシノなのであろう。この桜は安穏寺のシンボルのひとつ。約50年前の本にも桜の名所として書かれていると。現在も春には桜の人気スポットなのであろう。「手水舎」。「二十六夜供養塔」。旧暦7月26日(2021年は9月2日)の月見。月の出がだんだん遅い時間になるので、「~待ち」という。真夜中に月が出るのを待ちながら、それまで飲んだり食べたりして楽しむ納涼イベントだったようだ。本来は月待講(つきまちこう)の一つで、この夜の月光のなかに阿弥陀(あみだ)、観音(かんのん)、勢至(せいし)の三尊の姿が現れ、それを拝めるという信仰である。「普門品供養塔」。「普門品(ふもんほん)」とは妙法蓮華経第二十五品(ほん)観世音菩薩普門品(通称観音経)のことで、観音経を信奉する念仏講の人たちが地域の安泰を願って観音経を十万回、百万回と数多く唱え、その達成を記念して建てた石塔が「普門品供養塔」である と。こちらにも石碑群が。「六面観音」。「六面観音」は、六角柱の各面に聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音及び准胝観音像を陽刻してあるのだ と。「不動明王」であろう。「忠魂碑」と手前に「太師堂」。「太師堂」。「大師像」。「忠魂碑」。日露戦争の忠魂碑であろうか。「元帥陸軍大臣 子爵 川村景明書」と。そして正面に「安穏寺」の「本堂」。「本堂」。正式には「龍華山 慈尊院 安穏寺」。本堂は明治11年(1878年)に再建。廃仏毀釈の影響で寺院として存続が難しかったので大杉神社と一体化。寺宝などは末寺の無量院に移すことによって一旦廃寺のようにしたのだと。事態が沈静化してから本堂の再建となったのであろう。向拝の欄間彫刻。扁額は「海存尊」と。「本堂」の裏の壁板にも見事な陽刻彫刻が大杉神社と同様に。太い樹は松であろうか?題目塔「南無妙法蓮華経」。天台宗の寺であるので、区画整理の際などで居場所がなくなった石碑や石仏がここに移されたのでは と。「表功」?碑。「安穏寺再興碑銘」そして安穏寺の縁起等が刻まれていた。歴史を感じさせる「石灯籠」。様々な石碑が並んでいた。これらも区画整理の際などに、居場所がなくなった石仏や石碑がこの場所に寄せられたのではと。大小の石碑が並んでいた。大きな石塔には「寶篋印陀羅尼塔銘」と刻まれていたが。そして右側には「大黒天」堂。その横に「地蔵尊」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.04
コメント(0)
11月に入った昨日は、「そら豆」、「スナップエンドウ」、「サヤエンドウ」の種まきを行いました。まずは「そら豆」、トーホク社の「一寸そらまめ」。ビールのつまみとしておなじみの、大粒のそら豆。草丈1m近くなり、1株で5~6本の茎が伸び、1莢に3粒位入っています。そら豆の種まきの時期は、毎年11月に入ってから実施。余り早く撒くと、苗が成長しすぎて、越冬できない可能性があるからです。そしてもう一種は「ソラマメ 清水一寸」。一寸系品種の中では最も大粒で味が良いと言われる愛媛県の伝統野菜。1粒が約6.5gにもなるので食べ応え抜群で草勢は強く立性で、草丈が1.5mほどになる大型ソラマメ。ただしタネが高価。一粒50円以上。今年もポットに一粒ずつ丁寧に。タネのおはぐろを斜め下方に向けて土に押し込み、タネの頭部がわずかに見えるくらいに浅まきにします。水やり後、土が動いたら土を薄くかけて落ち着かせます。育苗した場合、定植は本葉2~3枚(育苗日数15~20日程度)の頃と考えています。そしてこちらはスナップエンドウ「つるあり あまいえんどう」スナップエンドウは1970年代にアメリカから導入された品種です。当時はスナックエンドウとも呼ばれていたが、農林水産省によって1983年、スナップエンドウと呼ぶことが奨励されました。ただ、現在でもサカタのタネからはスナックエンドウ(エンドウ スナック)という商品名で種が販売されています。これも一つのポットに3粒ずつタネを蒔きました。「早生スナップ豌豆」も。スナップエンドウはグリーンピースの改良品種で、豆が成長して大きくなってもサヤが硬くならず、サヤごと食べられるものです。甘みがあり、パリっとした食感が楽しめます。その食感がスナックを食べるイメージに近いことからスナックエンドウと呼ばれたりもしています。一般的な品種は筋があるので、この筋を取り除いて食べます。「晩生スナップ豌豆」も。「赤花絹さや」のタネも撒きました。さやが平たく、若くてやわらかいうちに早採りするキヌサヤ(サヤエンドウ)。寒さに強く冬越ししやすく、草丈170cm位になる生育旺盛な品種。大きめの莢で、厚く鮮やかな緑色のおいしいえんどうです。今年の春のソラマメです。 ・・・おわり・・・
2021.11.03
コメント(0)
「社殿」の左・西側の奥にあったのが「御神木 三郎杉」。大杉神社には「太郎杉」「次郎杉」「三郎杉」という三本の御神木があるとのこと。太郎杉は火事で焼失してしまい、いまは社殿の東側に残る太郎杉跡にその名残を。そして残る「次郎杉」と「三郎杉」は樹齢およそ1000年、400年という、どちら大きな杉の木。そしてこの二本の御神木がパワースポットであると近年注目されていると。御神木の前でゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着かせることによってよりパワーをもらえるのだとか。「三郎杉」の前には石鳥居が。「御神木 三郎杉」碑。「水占石(みずうらいし)」。この日はコロナ禍の影響で、基礎石には蓋がされていたが。「水占石ごの水占石は亨保十三年(一七ニ八)に焼失した麒麟門跡に建立された鳥居の基礎石です。このくぼみに湛えられた神水に水みくじを浮かべて、事の成就、その方向などを占います。」。おみくじの上に五円玉を乗せて、その沈む様子から自分が求めている「方位」と「時間」を知ることが出来るとのこと。「あんば七福神 毘沙門天」像。「あんば七福神 毘沙門天について毘沙門天は護国授福を司る神様とされ、別名多聞天ともよばれております。北方を守護するとされることから大杉大神のいます本殿北方のこの地に祀られております。」「お福分け」案内板。「膳処「縁(えにし)」では、皆様と大杉神社様の御縁を大切に思い、年間四回の大祭、毎月一日、十五日の月次祭、二十七日の恒例祭(御縁日)のほか、中祭時に神様がお召し上がりになった神饌を特別にお領(わか)ちいただき、この貴重な撤下神饌(てっかしんせん)を食材としてお膳を提供申し上げております。」この後訪ねた「安穏寺」の「本殿」を裏側から見る。この「安穏寺」は大杉神社を守護するために延暦24年(805年)開基され、明治になるまで「安穏寺」が大杉神社を管理していたとのこと。神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた「別当寺」であったと。よって仕切りがなく現在に至っているのだと。「大杉神社」の「社殿」の奥にあった境内社の一つである「葦船神社」を訪ねた。祭神は蛭子命(ひるのみこと)、大国主命。水子供養の神社。鳥居の扁額「葦船神社」。境内右には金枠で補強された歴史を感じさせる石碑が。「拝殿」。古来、数え7歳までの子どもは神の子とされ、7歳になる前に、この世から旅立っていった子は神のもとへ帰ったとして葬式をせず水子として祭られることが多かったのだと。大杉神社の鎮座する一帯でも、そうした子たちすべて水子として丁重に祭った。かつて常陸内湾(江戸時代初頭まで広がっていた利根川か流域、印旛、手賀、牛久沼流域、霞ヶ浦域)に面していた大杉神社には、水子供養のためこうした地域から多くの人々が参詣に訪れていた。数え7歳にいたらずにこの世を去ってしまった子らを祭ったのが、「葦船社(あしふねしゃ)」あるいは「蛭子社(ひるこしゃ)」と称されたこの神社。我が国で、水子の原型とされているのが蛭子命(ヒルコノミコト)と称される神様で、別名エビス大神。あの世へ葦の船に乗せたれて旅立った後、父・伊弉諾命(イザナギノモコト)と母・伊弉冉命(イザナキノミコト)のために富を宝船に乗せて帰ってくるという伝説があり、恵比寿像は必ずと言っていいほど宝船に乗り小脇に鯛を抱える図で描かれている。こうした伝承もあり、水子を祭ることは一家の繁栄と安泰をもたらすとして、江戸時代には多くの地域から大杉神社境内の葦船社に参詣したことも知られているのだ と。拝殿の前には「あんば七福神」の「寿老人(左)」と「福禄寿(右)」。再び「大杉神社」の拝殿の西側の「瑞垣」前まで戻る。石段の上の脇門の欄間彫刻を見る。梅の花に戯れる野鳥の姿が。小判のような開運招福絵馬。様々な願いが。「社殿」の前、左側の「悪縁切りの濟庭(ゆにわ)」。「悪縁切りの齋庭(ゆにわ)左記に示す呪言を心中で唱えながら悪縁切りの土器(かわらけ)を叩き割って、この齋庭に納めます。新たな良縁を求めるには、夢むすびの正五九参り三年祈願を受けます。※詳しくは社務所にておたずね下さい。・・・呪言・・・「我想う 君の心は 離れつる 我も思わじ 君も思わじ」あんなに好きあったふたりなのに今では、あなたの心は私から遠く離れてしまった。あなたが私のことを好きになることはもうないだろうし私ももうあなたのことは考えないようにしよう。たしか、万葉集の中にあった歌では?・・・・学友が調べてくださり、私の記憶違いのようでした・・・・「御種銭(おたねせん)」案内。大杉神社にある悪縁切りの齋庭は呪言を3度唱えてかわらけを叩き割ると、お金にまつわるあらゆる悪縁を断ち切れるとも言われている。金運アップのご利益があるとされる御種銭は明治時代の貧しい行商人だった太田竹次郎という人物がこのご利益で豪商になったという伝説がある。御種銭は賽銭箱の縁に置いて参拝し、財布に入れておけば金運アップのご利益を授かれると。そして「神門」から外に出て「大杉神社」の前を走る「江戸崎神埼線」から「麒麟門」を見る。「茨城百景 阿波 大杉神社」碑。「麒麟門」の名がある随神門(総門)。石段の上に狛犬(阿形像)(右)。石段の上に狛犬(吽形像)(左)。眷属の天狗たちが「麒麟門」を守っていた。こちらは「ねがい天狗」(右)。こちらは「かない天狗」(左)。開かずの扉の見事な欄間彫刻。石段の下から「麒麟門」を見上げる。麒麟は想像上の霊獣で、龍、鳳凰、亀とともに四霊の一つに数えられる霊獣の代表格と言える。体形は鹿に似て背丈は5メートル程あり、牛の尾に馬の蹄を持ち、頭には角を持ち、狼の顔に似て、総体の毛は黄色であるが、背の毛は五色に彩られていると言われている。皇帝が仁ある政治を行うときにのみ出現するとされ、足跡は正確な円を描き、曲るときには直角に曲り、足下の植物や昆虫さえ踏むことを嫌う温厚な瑞獣であるとされるが、不正を嫌い怒りを顕にすると角から雷を発するとも。オスを麒、メスを麟と呼ぶ他、黄色い麒麟に対し、紅色のものは炎駒、青色のものを聳弧、白色あるいは銀色のものを索冥、黒色のものは角端と呼ばれると。扁額「夢顕」。大杉神社が日本で唯一の夢むすび大明神の異名を持ち、多くの人々の夢(願い)を顕現したことに由来していると。そして戻り「参集殿」を訪ねる。左手には「酒樽」が並んでいた。正面が「参集殿」で「御祈祷受付所」の文字が。扁額「参集殿」。奉納された石灯籠が延々と並んでいたのであった。そして境内のトイレへ。これが神社のトイレとは驚きなのであった。共用スペースに「トイレの神様」が鎮座。幸い?利用者が他にいなかったので、カメラをポケットから出して。洗面所と個室トイレ。トイレにシャンデリアが。それぞれ個室に名前がついていて、扉と個室内はその名前に応じた図柄が描かれていた。洗面台の横を利用。こちらはネットから。 【https://lineblog.me/colormstation/archives/1047500.html】よりこちらが境内社への石鳥居。鳥居の扁額には、「相生神社・稲荷神社・勝馬神社」と。その先にはこの先にあった多くの境内社の名前が書かれていた。鳥居を潜って進むとあったのが「ねがい矢」。古来より願いを叶える道具とされている「矢」は、現代でも厄除け・五穀豊穣・無病息災などを願い、矢を放つ行事が日本各地で行われているのであるが、大杉神社では願いを叶える矢を自分で射ることが出来るのであった。紅のねがい矢:厄除け・家内安全・恋愛成就・病気平癒など金のねがい矢:金運・商売繁盛・事業運・くじ運など金の矢は大判の弓、紅の矢は桃の弓でねがい的に向けて矢を射放って下さい と。各1,000円 と。そして、旅友の姿を探したが見当たらないので、社殿の方に引き返したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.03
コメント(0)
「鐘楼」の横から「麒麟門」を見上げる。そして「社殿」を見る。「社殿」の前にあったのが「厄除かわらけ御納処」。「厄除かわらけ御納処「厄除のかわらけ」をこちらでお割りになるか、自宅で割られた土器(かわらけ)の破片をこちらにお納め下さい。”桃の石にはくれぐれもぶつけないでください”」「社殿」の前の一対の「青銅製燈籠」江戸時代、4代将軍徳川家綱公の奉納と。「社殿」を正面から。「社殿」は本殿、幣殿、拝殿を繋げた複合社殿。県内最大の木造社殿で文化13年(1816)に完成。随所に彩色された彫刻が施された豪奢な「社殿」で、「あんば日光」の異名を持つ と。江戸享保期に火災で焼失する以前の社殿群は、いまのそれを凌駕する豪華絢爛なものであったと。「あんば参れば、日光見るに及ばず」と言われたほど と。反対側からズームで。神額・扁額「大杉殿」。木鼻(右)。木鼻(左)。見上げて。この社殿(拝殿)向拝虹梁の丸彫りの龍をはじめとする社殿各部の彫刻は名工磯辺儀左衛門の作と伝えられている と。内部の天狗。「社殿本殿、幣殿、拝殿を繋ぐ複合社殿。規模は県内最大規模で本殿は奥行二間、梁間三間。幣殿は奥行三間、梁間三間。拝殿は奥行三間、梁間五間。本殿は三手先組の折衷様。側面および背面に浜縁を巡らす。妻部は二重虹梁で中備を四霊(龍、鳳凰、麒麟、亀)彫刻が飾る他、多様多種な彫刻が施されている。幣殿は鳴き龍の鏡天井にとなっている。拝殿向拝部の繋ぎ虹梁は龍の丸彫り彫刻となっている。西側の龍尾に(「信秀」磯部儀左衛門信秀)の銘が確認される。現在の社殿は寛政十年(一七九八)享和二年(一八〇ニ)の相次ぐ火災による消失後に再建がなされたもので、文化十三年(一八一六)に遷座が行われた。棟梁は栃木県大平町下皆川の多兵衛。彫刻師は栃木県栃木市常田の磯部儀左門信秀一門。天井画および障壁画は磯部一門の五楽院法橋等随の手になる。本殿、幣殿に廻る瑞垣欄間彫刻は二十四考題材のうち剡子、紅革、仲由を除くニ十三話ニ十三面および本殿腰組中備彫刻七面の彫刻は嶋村遠鉄(円哲)作になる正徳社殿からの転用材。平成十八年(ニ〇〇六)完成当初の姿に復元。ただし本殿腰組中備の復元彩色は宝暦時のそれに従った。また屋根は建立当初杉皮葺きであったが文政五年(一八〇八)銅瓦棒葺きに改められた。昭和五十八年これらに従い復元修復が完成。」「社殿」正面のガラス引き戸の下部の牡丹の花の装飾。「撫桃」。「撫桃(なでもも)挑には悪疫を退散させる効果があるとされていたため、厄除・八方除・星除などに御利益あるとされた大杉神社では、厄難を退散せしめるための儀式の多くに桃が使われます。この桃の形をした石を撫でると厄難が解消されるといわれています。」「社殿」を横から見る。「麒麟門」と同様に瑞垣には欄間彫刻が嵌め込まれていた。瑞垣の二十四孝欄間彫刻群は名匠島村圓鉄の作品 と。「仲由(ちゅうゆう)負米供甘旨(こめをおうてかんしをきょうす) 寧辞百里遙(むしろじしてはるかひゃくり)身栄親已没(みさかえどもおやすでにぼっす) 猶念旧劬勞(なおもとのくろうをおもう)」昔のごとくに貧しい食事をする仲由の姿。「仲由は泗水の生まれのとても勇敢な人でした。家は貧しく粗末な食事をしておりました。人に雇われて百里もの道のりを米を担いで、たいへん苦労をしながら父母を養っておりました。父母が亡くなってから楚の国に仕えておおいなる功績をあげたためたいそう裕福な人となりました。常に贅沢な食器においしいご馳走をたくさん食べることができ、財産を蓄え、外出するのに百輌もの車を従え、家にいるときは錦の立派な座布団に座り、何不自由なく思うに任せぬことのないほど恵まれた生活が送れる立昜の人となりました。しかし仲由はなお昔のごとくに貧しい食事をし、わすかな賃金の仕事にも一生懸命に勤しんでおりました。大いなる出世をした仲由ではありましたがすでに孝行をしようにも父母はなく、このことだけはどうにも叶うことはありませんでしたので、いつも涙をして嘆いておりました。やがて生きている親に十分な孝行を尽くし、死してもなお孝行の気持らを持ちつづける孝徳の噂が孔子の耳に届き、のちに孔鬥十哲の一人とされるにいたりました。」王裒(おうほう)慈母怕聞雷(じぼ らいきをきくをおそれる)永魂宿夜臺(ひょうこん やだいにしゅくす)阿香時一震(あいきょう ときにいっしん) 到墓巡千廻(はかにいたって めぐることせんかい)王裒の父は王義と言いました。あるとき王義は皇帝の怒りを買って無実のうちに亡くなってしまいました。王裒はこのことを恨み、決して皇帝のいる方角には向かって座ることはありませんでした。また王裒が父の墓前に拝礼すると、王裒の目から溢れ出る涙で傍らの柏の木が枯れてしまうほどであったそうです。また母はとても雷を怖がる人でありましたので、母の死後も雷がなると、母の墓に急いで駆けつけ母を慰めたということです。「董永(とうえい)葬父貸方兄(ちちをそうするに ほうひんをかる) 天姫陌上迎(てんき はくしゅうにむかう)織絹償債主(きぬをおって さいしゅにつぐなう) 孝感盡知名(こうかん ことごとくなをしる)董永は幼いときに母と別れてしまいました。董永の家は貧しく、幼いころから人に雇われて厳しい日を送っておりました。董永の父は足を悪くしており、小さな車に父を乗せては田の付近まで連れて行き農作業に勤しんでおりました。やがてその父も亡くなってしまいましたが、父の葬儀を営むお金に恵まれない董永は、自分の身を売って葬儀を済ませることとなりました。葬儀を無事に済ませた董永が身請け人の所へ行こうとする途上に一人の美女が現れました。「私は董永さまの妻となるために、絹を織って身請け人に届けました。ですからあなたは自由の身です。」と言い、やがて美女は董永の妻となりました。時が流れたある日、「私は天の織姫ですが、あなたの孝行な心に感心した天が、私にお命じになりここにやってきた。」と美女は告げ天に帰っていったということです。「丁蘭(ていらん)刻木為父母(きをきざんで ぶもとす) 形容在日新(けいよう ざいちにあらたなり)寄言諸子姪(ことばをよす しょしてつ) 聞早孝其親(はやくきいて そのおやにこうす)丁蘭というひ深く悲しみ母の木像を作って、生きているときと同様に孝行をつくしておりました。ある夜に丁蘭の妻がこの母の木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像の顔は腫れ上がり血が流れ落ちる事態に陥りました。さらにニ日すると妻の髪の毛がすべて抜け落ちてしまったため、妻は何度もお詫びしましたが、症状は一向に改善しませんでした。そこで丁蘭が木像を大通りに移して妻に三年間詫びをさせると、一夜のうちに木造が元の場所に戻ったということです。」「田眞(でんしん)、田廣(でんこう)、田慶(でんけい)海底紫珊瑚(かいていの しさんご) 群芳總不如(ぐんほう すべてしかず)春風花満樹(しゅんぷう かまんじゅ) 兄弟複同居(きょうてい またどうきょ)田眞、田廣、田慶という三人の兄弟がいました。親が亡くなり兄弟は財産を三等分することとしました。家の庭には葉が繁り、花の咲き乱れる見事な紫荊樹という樹が一本ありました。三人はこの木も三等分しようと徹夜で話し合いました。やがて夜が明けたので、木を切ろうと庭にでてみると、昨日まで勢いよく繁っていた紫荊樹はすっかり元気をなくして枯れはじめていました。「草木にも心があり、切られようとする自らの運命を悟って枯れたのではないだろうか。人間であれば尚更のことではないか。なんといたらないことを考えたものだ」といい、木を切ることをやめると紫荊樹はもとのように勢いよく繁りました。」「楊香(ようきょう)深山逢白額(しんざん はくがくにあう) 努力摶腥風(つとめて せいふうをてうちにす)父子倶無恙(ふしともに つつがなからん) 脱身飩ロ中(みをまぬかるる ざんこうのうち)あるとき楊香が父と山に出かけると虎が襲いかかってきました。このとき楊香は天の神に「どうか私だけを食べて、父を助けて下さい」と懸命に祈ったところ、それまでニ人を飲み込もうと怒り猛っていた虎が静かに父子の前から立ち去ったということです。」「案内板」。「黄香(こうきょう)冬月温衾煖(とうげつには ふすまをあたためあたたかにす) 夏天扇枕涼(かんてんには まくらをあおいでふす)児童知子職(じどう ししよくをしり) 千古一黄香(せんこ いちおうきょう)」。黄香は母を早くに亡くしてしまい、父とニ人で暮らしていました。黄香は父にできる限りの孝行をつくし、夏の暑いときには枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒いときには布団を自分の身体で暖めました。これを知った、安陵という所の劉讙という太守(長官)は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えたということです。」「朱壽昌(しゅじゅしょう)七歳生離母(しちさいにして りぼしようず) 参商五十年(さんしょう ごじゅうねん)一朝相見面(いっちょう おもてをあいみる) 喜気動皇天(きけ こうてんをうごかす)朱壽昌が七歳になったときにお母さんと離れ離れになってしまいました。お母さんにひと目だけでも会いたいという思いは五十年たっても変わりませんでした。やがて役人となった朱壽昌朱はある日、安定した役人の仕事を辞めて自分の血でお経を書き、お母さんに会えることを天に祈りました。すると秦という場所にお母さんの居ることがわかり、ついにお母さんに再会することが叶ったということです。これは朱壽昌の志が真っ直ぐで、揺らぐことがなく、母への想いが深かったことによります。」「案内板」。「呉猛(ごもう)夏夜無帷帳(かやにい ちょうなし) 蚊多不敢揮(かおおくして あへてふるわず)恣渠膏血飽(かれがこうけつのあくを ほしいままにし) 免使入親闈(しんいにいれしむことを まぬかる)呉猛の家はたいへん貧しく蚊帳を買う金さえありません。そこで八歳になった呉猛は親が蚊に刺されることなく安眠できることを望み、自分の着物を親に着せ、自らは踝になって蚊の餌食となりました。やがて蚊も孝行な呉猛の心に感心し、呉猛だけを刺すようになりました。」「姜詩(きょうし)舎側甘泉出(そくしゃに かんせんいず) 一朝双鯉魚(いっちょう そうりぎょ)子能知事母(こよく ははにつかうることをしる) 婦吏孝於姑(ふさらに こにこうあり)美詩はとても母に孝行な人でした。母はいつでもきれいな川の水を飲み、鮮度のいい魚で作った膾が食べたいと思っておりました。姜詩と妻は長い道のりを毎日のように通って水を汲み、魚を求めてきておりました。ある日のこと、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が流れ出て、毎日その中から鯉をを得ることができました。」「案内板」。「石棊局(石製碁盤) 」。石棊局(石製碁盤) (健脚・健康)一、授与所で氣御守(男性は紺石、女性は紅石)を受けます。ニ、碁盤の目の上に氣御守(碁石)を起きます。ス、氣御守(碁石)を左足で踏みます。四、碁盤から飛び降ります。五、(紺・紅)石を氣御守袋に入れて持ち帰ります。六、御守は一年間大切に身近に持ち歩きます。「禹歩斎場」は社殿(拝殿)の正面にあり、社殿に向かって歩むようになっていた。禹歩とは古代中国が起源の特殊な歩行法で、日本では「悪魔から姿を見えなくする」と伝えられており、この歩き方をするとあらゆる障害から守られるとされているとただし、禹歩御守りを右手に握りしめて歩くか、右ポケットに入れて歩くそうだ。(1,000円)「禹歩斉場(開運・心身健全)一、授与所で禹歩御守を受けます。ニ、右手(右の腰にさげる・右のポケットに入れる)に禹歩御守を持ちます。三、「初」と彫られた足形の上に両足を静かに置きます。四、正面中央の大杉神社神さまに参拝(ニ礼・ニ拍手・一拝)をします。五、少し腰を落として壹・貳・参・肆・伍・陸・漆・捌・玖の順に足を進めます。六、御守は一年間大切にに身近に持ち歩きます。」私も順番に足形に足をあわせ進みましたが、禹歩御守w購入していないのでご利益は???。「神楽殿」。「神楽殿」前、右側には「あんば七福神」の「布袋様」が。「神楽殿」に近づいて。「神楽殿毎年節分当夜に十二座神楽が行われる。本来庭上に四神幡を立て注連縄を張り巡らせて神楽場とした名残の四神台石が境内に据えられている。神楽殿は正徳社殿群以降幾多の火災に遭い消失。再建された神楽殿も老朽化に伴い傾斜が箸しかったため平成十年(一九九八)に再建。元和元年(一六一五)創業成功祈祷に訪れたヒゲタ醤油の創業者であった田中玄蕃がのちにこの十ニ座神楽を東総地域に拡めた。演目は猿田彦命、素戔鳴命、住古明神、八幡大神、手カ男命、天鈿女命、三宝荒神、恵比須、鈿女、榊葉、田の神、稲荷大神の十二座。これに扇舞、鈴舞の巫女舞が付属する。」「永代太々講」碑。「太々講」とは、伊勢参宮のために結成した信仰集団。旅費を積み立てておいて、籤(くじ)に当たった者が代参する。伊勢講とも呼ばれていた と。「あんば囃子これまで元和三年(一六一七)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたされたとされて言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(一五七三~一五九ニ)に境内で踊られており、初源は天文年間(一五三ニ~一五五五)に遡る。その後下火となったものの亨保十年(一七ニ五)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔払え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保十一年(一七ニ六)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保十ニ年(一七ニ七)永代寺(現江東区富岡禎座の富岡八幡宮境内にあった寺院)境内で出開帳が行われた。この際悪魔払え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。」境内を振り返る。左に「社殿」、右に「麒麟門」。「醤油醸造と大杉神社一般に関東での醤油醸造は元和二年(一六一六)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(一五三二~一五五五)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正二年(一五七四)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などか代表例である。醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周囲に二十軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「※蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名を持って称されるほか「あんぼ参れば日光みることなし」と称されるほどであった。※大杉神社座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後にの混同されることが多くなり。現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。」「大黒神社」。正面に黄金の鳥居が。「大国神社」の「社殿」。内陣には大黒天 と 恵比寿 が祀られているのであった。「大国神社(おおくにじんじゃ)御祭神 大国主命 大国さま 事代主命 恵比寿さま金運・事業安泰・商売繁昌など別名にっこり大国と言われる。多くの人々に巨万の富を与えられた神社。代表的な人物として国分勘兵衛や太田竹次郎がある。」「あんば七福神 大黒天・恵比寿大国神社の祭神てある大国主命・事代主命は別名大黒天・恵比寿とされております。恵比寿は海の彼方から来訪し漁業、商業、また大黒天は農業守護神とされております。また当大黒天は「にっこり大黒」と称され、その尊顔が崩れるほど笑っているように見えた人には莫大な富がもたらされると伝えられております。」「五十瀬神社」。「五十瀬神社御祭神 天照大御神国家安泰・五穀豊穣など中世には大杉神社の鎮座地付近は伊勢神宮の莊園地(伊勢神明領)であったと考えられている。荘園地内に伊勢神宮の分社が置かれたものが五十瀬神社であると考えられる。」「日吉山王宮(ひえさんのうぐう) 御祭神 大己貴神・大山咋神 白山神社(はくさんじんじゃ) 御祭神 白山比咩大神 妙見宮(みようけんぐう) 御祭神 天御中主大神」。「日吉山王宮(ひえさんのうぐう) 御祭神 大己貴神・大山咋神 白山神社(はくさんじんじゃ) 御祭神 白山比咩大神 妙見宮(みようけんぐう) 御祭神 天御中主大神天海大僧正に依って江戸の鬼門守護社と定められた大杉神社には、江戸市中を守護する山王社(日枝神社・日吉神社)の分社が祀られることとなった江戸時代には当地で白山信仰が盛んであった。このため分社が祀られた。日の神を祀るウナカミ王(後の海上国造)の末裔を名乗る十葉県北部域の豪族たちは、中世以降北極星を祀る妙見信仰へと移行。ウナカミ王の祀るあんば神(大杉神社)境内にも妙見宮が祀られた。生活万般の守護・妙見宮は導きと発想の神様として信仰されている。」「四柱神社(よはしらじんじゃ)」。「四柱神社御祭神 天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 天照大御神 神直日神 大直日神国家安穏・平安無事新治県中教院(明治初期茨城県南部及び千葉県北部域に設置された新治県に設置された神祇行政所)神殿に祀られた四柱の神様に神直日神、大直日神のニ柱の神様を合わせ祀った神社」「天満宮」。「天満宮御祭神 菅原道真公合格祈願・学業成就・芸道発展天神様の愛称で知られた神社。道真公が優れた学者であったことから「学問の神様」とされ、多くの受験生が合格祈願に詣でます。「東風吹かば 匂びをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」との和歌が遺されています。」「境内社」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.02
コメント(0)
そして「大杉神社」の裏の駐車場に車を駐め散策開始。時間は7:45過ぎ。「大杉神社」は厄除け(やくよけ)祈願神社・金運神社であるので、今年の「厄」情報詳細が掲示されていた。令和3年・2021年 厄年一覧表。厄年はそれぞれ60歳頃が厄年の終わりにあたりますが、これはかつて寿命がまだ短かかった時代、「還暦まで生きたら儲けもの」と考えられていたことが理由なのでしょうか?人生は80年時代から「100年時代」?へと寿命が延びる中、神社も厄年の見直しをすれば、経営上も・・・と。無料シャトルバス「大杉神社」バス停。「あんば天狗の森」案内板。裏山には天狗の住むと伝えられる森があるのだと。停留場前に建つ社号標石「大杉神社」。「あんば七福神」碑。大杉神社の鎮座する場所は現在の霞ヶ浦、常陸川、利根川下流域、印旛沼、手賀沼、牛久沼、鬼怒川下流域、小貝川下流域を内包する常総内湾に西から東に向かって突き出すような地形のほぼ突端に位置している。『常陸風土記』には安婆嶋(あんばじま)として登場するが、半島状地形にもかかわらず、半島先端に比べ、かなり西側でくびれた地形をしていたため遠くから見ると島状の様子を呈していたため、安婆嶋と呼称されたといわれている と。住所は稲敷市阿波958。現在の地名も阿波(あば)と呼び、その名残を窺えるのである と。「あんば七福神」の「弁財天」像がその横に。「ここに祀られております弁財天は大杉神社秋の大祭の神幸祭に下の御旅所が設けられるダメ池に祀られておりました。その後ダメ池は埋め立てられ保育所が建設され久しく祀られないままとなっておりました。水の神様である弁財天を再興したいとの要望から此の度大杉神社の境内一角でありますこの場所に、石像をもって弁財天を再祀することといたしました。俗に弁財天は芸術、知恵、美の神とされ、音楽、美術、舞踊、学問向上、美貌を願う人々の信仰をあつめてまいりました。」と「あんば七福神 辯財天について」碑には。そして更に進んでいくと右手に「大杉神社」の「一の鳥居」現れた。茨城県内で現存する「大杉神社」の分社は7社で合計8社、全国の大杉神社の総本山である「(阿波)大杉神社」がここ。全国での「大杉神社」と名のついた神社は16社あると、ウィキペディアより。しかし「全国に670社ほどある大杉神社の総本宮」とのページも。「大杉神社」入り口の明神(みょうじん)鳥居の両側にあるのは、狛犬ではなく「天狗」の石像。「大杉神社」配置図をネットから。 【http://welfare.so-good.jp/wheelchairtraveling/shrine/oosugi/】より向かって左側の鼻高天狗は「ねがい天狗」と呼ばれていると。これは、常陸坊海尊が身体が大きく、頬ひげと青い目、高い鼻をもち、想像上の天狗に近い容姿だったことから、「海尊は大杉大明神の遣いの天狗だった」という信じられていたことに由来しているのだと。文治年間にその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属(けんぞく)で、天狗であるとの信仰へと発展したのだと。眷属とは、神様にお仕えしており、神様の神意を人へ伝える役目を持っているのだと。神社で、狐、猿、兎、牛、鼠、鹿、狼などの動物の彫刻等が設置されているのを見かけたがこれも眷属であると。右側の烏天狗は「かない天狗」。文治年間(1185-1189年)、源義経の家来常陸坊海尊が大杉大明神の神徳により様々な奇跡を起こした。ここから海存を通じて願をかけると、大杉大明神が叶えてくれるという信仰が生じた。海存の容貌は天狗に似ていたため、その像を通じて天狗信仰が生じ、鼻高天狗と烏天狗が眷属とみなされるようになった。鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と役割が決まっている。願い事が叶えられるという神徳から、神社は「日本唯一の夢むすび大明神」と称しているのだと。石造りの「一の鳥居」を潜り境内へ。祭りの際にはこの場所は出店で賑わうのであろう。この奥にも厄年案内板が、そしてその奥の高台に鐘楼が見えた。石段の先に朱の「二の鳥居」。石段の左横には「大黒天」。頭巾を被り、左肩には大きな袋、右手には昔話で有名な打ち出の小槌を持ち、俵の上に立っていた。 また、垂れ下がった耳たぶに、満面の笑みを浮かべた顔も癒やされるのであった。「竿代勘之助翁頌徳碑」。この碑は昭和三十年、当時の稲敷郡内の農家や有志の方々の寄付金で建てられた。勘之助はこの地域の農民のために尽力した人物とのこと碑の建立がきっかけとなって、県の功績賞や藍綬褒章(らんじゅほうしょう)も受賞していると。「竿代勘之助翁頌徳碑」の文字は、当時の茨城県知事、友末洋治の筆によるもの と。様々な石碑が石段横下に並んでいた。右には「御鎮座壹千貳百弐拾年記念」碑。石段の両脇には奉納された石鳥居が並ぶ。「二の鳥居」。扁額「大杉神社」。「悪縁切堂」。旧護摩堂。1804(文化元)年の建立。1798(寛政19)年に焼失した社殿に代わり、現在の社殿が完成するまで仮社殿として使用された。 奥2間が本殿、手前2間が幣殿として使われたという。当初茅葺だったがその後瓦葺き、さらに東日本大震災で損傷激しく、銅板葺となった と。「旧護摩堂(きゅうごまどう)文化元年(1804)完成。桁行二間、梁間四間の寄棟茅葺風銅板葺建物。寛政十年(1798)に焼失した社殿に代わって現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に改められた。平成二十三年に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であっため、当初の形状に近似する茅葺風銅板葺の屋根に改められた。当初は社殿東側に並び立っていたとみられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。」破損で消失した場所の文字は、ネットで確認。「悪縁を断ってしあわせな日々を」。悪縁切の人形による護摩火焼滅の悪縁切一、授与所で悪縁切の人形を受けます。二、悪縁切堂内に靴を脱いで入ります。三、堂内手前、左の机に座り人形の裏面に願い事を具体的に記入します。四、書き終わったら、奥の間の護摩壇前まで進んで下さい。五、護摩壇の中央に護摩木を井桁に組みます。六、炉の中心に着火剤を火鋏を使って設置します。七、点火器(チャッカマン)で着火剤に点火して下さい。八、炎が見え始めましたら、井桁中央に人形の正面を上に向けて静かに置いて下さい。九、人形が全体に黒く燃えるまで合掌して願い事を心中で唱えて下さい。十、火が燃え残っていても人形が黒く燃えた時点で合掌を解き、堂内から退出して下さい。悪縁切の人形 初穂料 一体 3,000円」。「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「絵馬掛所」の向かいには収穫した稲束が奉納されていた。そして正面に「神門」。「神門」に近づいて。神門の色彩豊かな見事な彫刻。木鼻の龍の彫刻。蟇股の龍の彫刻。狛犬が神門の檻に入っているが如くに鎮座。狛犬(阿形像(右))。狛犬(吽形像(左))。見上げると、神門の天井から桃が吊るされていた。手水場には、龍が2体いたのであったが、コロナ禍の影響で水は無く。「社務所」前の柱にも見事な黄金の蒔絵の如き装飾が。御朱印場所は未だ開いていなかった。「四方四隅八方守護 皇城鬼門鎮護之社」碑。ここは江戸城、皇居を守る鬼門にあたる方角を固める防御のための神社であると。『茨城の日光東照宮』とも呼ばれる一つの由縁であると。そして境内に一方足を踏み入れただけで、その理由が解ったのであった。「麒麟門」を境内側から見る。この「麒麟門」を閉めきって鬼門を護っているのだと。開かずの門ということか?開く時があるのだろうか?正徳年間に造営がなされた大杉神社社殿群は、「あんば日光」の異名を持つ絢爛豪華な社殿群であったが、享保13年(1728)に焼失。享保20年(1735)に一部を再建、宝暦4年(1754)に全再建を果たした。しかし寛政10年(1798)再び焼失。寛政12年(1800)再建に着手したが、享和3年(1803)再々建途上に焼失。その後文化3年(1806)起工、文化13年(1816)に遷座となった社殿が現社殿である。宝暦年間に存在した社殿群は当時の記録から本殿、拝殿、唐門を5つ取り付けたとみられる透塀をともなった社殿のほかに神楽殿、神輿舎、回廊、楼門、唐門、総門、土蔵六棟などがみられる。また安穏寺関連の建造物としては他に弥勒堂、護摩堂、仁王門等も存在したことが知られている。中でも楼門は麒麟門と称されていたようで、日光の陽明門を彷彿させる威容を誇っていたとされている。平成22年(2010)3月27日、二階建ての楼門「麒麟門」が完成。本殿、幣殿、拝殿を繋ぐ県内最大の複合社殿への正面入り口として、約280年ぶりに再建。「麒麟門」は当時の文献から櫻井瀬左衛門を棟梁に、嶋村円鉄が彫刻を担当した豪奢な門であったことがわかり、これにならって麒麟、飛竜、獏、獅子など檜や楠材を使った200体以上の彩色豊かな彫刻が施されました。二階部分には子孫繁栄、家内隆昌を願って大杉大明神の尊像が安置されている と。門扉に近づいて。木鼻。正面の彫刻。二層中備(写真上)が仙人・偉人・賢人シリーズ、一層中備(写真下)が唐子遊びシリーズ。二層中備の彫刻・仙人・偉人・賢人シリーズを左から。司馬光(しばこう)司馬光( 1019 ~ 86 )は中国北宋時代の学者・政治家。司馬温公といったほうが有名。中国の編年体史料『資治通鑑』の編さん者として有名だが、幼年期の逸話である「司馬温公瓶割り」が有名。司馬光が幼い頃友達が高価な瓶(かめ)に落ちて溺れてしまった。しかし瓶は高価なもので誰も手を出すことができない中、このままでは落ちた子供は死んでしまうと考え、迷うことなく近くにあった大きな石で瓶を割って子供を助けたのが幼少期の司馬光。司馬光は瓶を割って友達を救った。どんなに貴重な物でも人の命には代えられない、人命の尊さを教える故事。呂尚(ろしよう)・周の文王(しゅうのぶんおう)呂尚(紀元前11世紀ごろ)は中国周時代の軍師。呂尚が釣りをしているところに周の文王か来て「これそ太公(祖父)が待ち望んだ人物」と言って呂尚を登用したと言う。そこで「太公が望んだ人物=太公望」となり、釣りの名人を太公望と呼ぶようになった。周の文王(紀元前11世紀ごろ)は中国周王朝の創始者武王の父。一時代は殷(商)王朝末期、紂王(ちゅうおう)の時に当たる。文王は王朝を立てたわけでないが善政を敷き領土を広げ、有望な軍師として呂尚を迎え入れた。『十八史略』『呂尚という者あり。東海のほとりの人なり。窮困して年老い、漁釣して周に至る。西伯(周文王)まさに猟せんとし、これをトす。日く『龍にあらずチ(蛟のこと)にあらず、熊にあらず羆(ひぐま)にあらず、虎にあらずヒ(豹のこと)にあらず、獲るところは覇王の輔ならん』。果して呂尚に渭水の陽(きた)に遇う。ともに語り大いに悦びて曰く『吾が先君太公より日く、まさに聖人ありて周に適(ゆ)くべし、周因りてもって興らんと。子は真にこれなるか。吾か太公、子を望むこと久し』。故にこれを号して太公望という。載せて与(とも)に倶(とも)に帰り、立てて師となし、これを師尚父という。」黄石公(こうせきこう)・張良黄石公は張良との逸話で出てくる仙人。張良(?~紀元前186 )は前漢の高祖(劉邦)に仕えた軍師・政治家。張良がいなけれは漢王朝が成立しなかったとさえいわれている人物。張良と黄石公(老人)が橋で出会い、黄石公が川に靴を投げ捨て、張良に拾わせようとすると、川から龍が現れ張良が剣でなぎ払おうとする。この後黄石公から兵法の秘伝を教えてもらうという話。その下、一層中備が唐子遊びシリーズの彫刻。左:鬼ごっこ「ことろことろ」。中央:川遊び右:乗馬遊び「麒麟門」の向かって左の脇扉の横の彫刻。ズームして。住吉明神(すみよしみようじん)白楽天(はくらくてん)白居易( 772 ~ 846 )は中国唐の時代の詩人で字は楽天。彼の代表作『白氏文集』は日本文化に多大なる影響を与え、平安貴族の教養に欠かさないものとされた。白居易が日本に来訪しそこで年老いた漁夫に会う。漢詩を作ると漁夫は即座に和歌で返した。漁夫は隠れ、再び白居易の前に住吉明神として現われる。舞を見せたと思いきや白居易を神風で追い返すという逸話である と。門の左右には大きな「御幣(ごへい)」が奉納されていた。左側。右側。「神輿殿」の扉の装飾。引き戸の扉のようであった。「鐘楼」には梵鐘の姿はなかった。神仏分離時になくなったのか?それとも戦時中に供出か?見事な「神輿殿」。1728(享保13)年の火災により焼失。その後長く再建されなかったが、20122(平成24)年、校倉造により再建された。「神輿殿亨保十三(一七ニ八)の大火により消失。その後再建されることがなかった。平成ニ十四年(ニ〇一ニ)に校倉造による神輿殿が再建された。大杉祭の渡御祭に駕輿丁によって担がれる神輿が納められている。」そして「麒麟門」を境内内部から見て、正面左側の瑞垣欄間の彫刻群。道路に向かって様々な動物の姿が彫られていた。道路に沿った瑞垣欄間には。この物語の「案内板」は見つからなかったが。「麒麟門」を正面右側から見る。二層中備の彫刻・仙人・偉人・賢人シリーズを左から。許由(きょゆう)・巣父. (そうほ)許由は中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者。尭王は帝位に相応しい人物として許由を候補とした。これを聞いた許由は山籠り、尭王はそれでも許由に位を授けようとしますが、これを聞いた許由は耳を洗い出した。許由にとって位は汚らわしいものでありそれを聞いた耳か汚れたというので耳を洗った許由。巣父は許由とともに中国三皇五帝時代、尭王の治世にいた隠者。許由が尭からの話を聞き耳を洗った川の下流で巣父は牛に水を飲ませようとしていた。しかし許由が汚らわしい話を聞いて耳を洗った水を牛に飲ませるわけにはいかす、牛に水を飲ませないまま帰っていった。位などを求めることなく高潔を保とうとした話として許由と巣父の話はよく語られる。梅妻鶴子(ばいさいかくし)の林和靖(りんわせい)。中国・北宋時代の詩人「林和靖(りんわせい)」が俗世を離れ、清らかで風流な隠棲生活をする人が、妻の代わりに梅を愛し、子の代わりに鶴を愛で一人で清らかに暮らす様を表している。そして「麒麟門」の向かって右の脇扉の横の彫刻。この物語は??琴高仙人(きんこう せんにん)の故事か?自信はないが。琴高仙人とは古代中国の仙人で、琴が巧みで仙術を得意とし、河の龍を捕えるために鯉に乗って水中から現れ人々を驚かせたという。 琴高仙人図は室町時代以降好んで取り上げられた画題で、雪村周継や尾形光琳の作品が有名であるが。「麒麟門」上部の「二層彫刻題材解説」案内板。内容はそれぞれの彫刻に転記済み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.01
コメント(0)
全35件 (35件中 1-35件目)
1