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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク鎌倉市大町の住宅街を東に向かって進む。「花咲橋」を渡る。下を流れる川は「逆川(さかさがわ」。更に進むと左手にあったのが「花ヶ谷花咲地蔵尊」。石の祠の中に安置され、さらに屋根が懸っていた。鎌倉市大町4丁目14−8。扁額「花咲地蔵尊」。「花咲地蔵尊縁起」碑が建っていた。「嘉禄元年(1225年)足利直冬ガ祖先ノ菩提ヲ弔フタメニ此ノ谷ニ慈恩寺ヲ建立シ境内ニ四季花ノ絶エナイヨウニ植エタノデ花谷ト呼ブ此ノ地蔵尊ハソノ境内ニ祀ラレタモノト伝エラル昔ヨリ多クノ里人ガ親シク信仰セラレマシタ」。大町花ヶ谷にあった慈恩寺は、足利尊氏の子直冬の菩提寺だったといわれている。「足利直冬」👈リンク の生年はわかっておらず、没年は1387年とされている。幼名は新熊野(いまくまの)。足利尊氏の次男として生まれ、兄に竹若、弟に義詮、基氏らがいる。尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した時、鎌倉にいた竹若、直冬は命の危険にさらされる。1332年、竹若は北条の手にかかり殺害されてしまうが、東勝寺の喝食をしていたとされる直冬は生きながらえた。そのため、実質的な長子と考えられる。境内には、数百種の草花が植えられ、四季を通じて絶えることなく花が咲いていたため、慈恩寺のあった谷を「花ヶ谷」と呼ぶようになった。慈恩寺は、1323年(元亨3年)にはその存在が確認されていることから、鎌倉時代後期には創建されていたものと考えられている。開山は桂堂士聞という説もあるが定かではない。花ヶ谷の花咲地蔵尊は、慈恩寺の境内に祀られていたと伝えられている。ズームして。祠の左後方には五輪塔が並んでいた。更に進むと大町4丁目にあった橋の袂にあった案内板。真っ直ぐ進むと「釈迦堂口切通」👈リンクであったがここも以前に訪ねており、現在でも通行禁止になっているようであった。そして右に行くと「黄金やぐら」。200m先の「黄金やぐら」に向かって進む。「逆川」に沿って進んで行った。前方左に青のフエンスが現れた。事前チェックでこの場所が「黄金やぐら」のある場所と確認済み。「黄金やぐら「やぐら」とは、13 ~ 15世紀に鎌倉地方で流行した墓の一様式です。やぐらの内部の水中に光ごけが発生し、のぞくと黄金色に輝いたことから黄金やぐらと名づけられたといわれています。」鎌倉市大町7丁目。「凹地」の隅に「やぐら」らしきものが確認できた。入口には雑草が生え、「やぐら」の中は確認できなかった。そして来た道をひたすら戻ったのであった。そして正面に「山門」らしきものが見えて来た。「ここは妙法寺」と。そしてここが「妙法寺」の「山門」入口。鎌倉市大町4丁目7−4。「妙法寺(みょうほうじ)ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き打ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。のちに護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる)(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。● 宗 派 日蓮宗● 山号寺号 楞厳山妙法寺(りょうごんざん みょうほうじ)● 建 立 延文2年 (1357)● 開 山 日蓮聖人(中興開山 日叡上人)」「妙」の漢字が入る鎌倉市内の日蓮宗関連の寺は妙法寺、妙長寺、妙典寺、妙隆寺、妙本寺、妙法寺(大町)、妙法寺(山崎)、妙伝寺、妙信教会、妙法教会の十寺。臨済宗建長寺派の寺として、妙高院、浄妙寺のニ寺 があるのだ。「境内案内図」。 【https://omairi.info/2018/08/29/myouhou-tpl-keidaisanpo/】より「文学案内板 妙法寺境内〇 汾陽(カワミナミ)昌子句碑 鵯されば笹子しづかに来てをりし 晶子 昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立 晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)〇 星野立子句碑 美しき苔石段に春惜しむ 立子 昭和58年6月 妙法寺四十四世日新建立 立子(1903-84、『玉藻』主宰)〇 桃林坊・日慈・牛長句碑 当山参詣の折柄御宝前の鏡に、富士山のありありとうつりまししを拝して 露しぐれはれて鏡にむかふ富士 桃林坊 小春となりの海のおだやか 当山三十三世 日慈 松か枝のさか行月にかり寝して 二世 牛長 嘉永元年8月 東都駒込高崎屋本店建立」「松葉谷御小庵霊跡 妙法寺」碑。前方右手に拝観受付。コロナ禍の影響で閉まっていた。臨時休業のお知らせ本日はご参拝いただきまして誠にありがとうございます。この度当山は、新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への観光をお休みいたします。朱印・首題もお休みします。参拝の皆様 檀信徒 従業員 寺族の安全を確保するための処置です。ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。 当山山主その先の寺務所にも同様な掲示が。汾陽(かわみなみ)昌子句碑「鵯(ひよどり)されば笹子(ささこ)しづかに来てをりし 晶子」昭和63年8月 妙法寺四十四世日新建立晶子(1922年生まれ、虚子門下。青苔句会主宰)「本堂」。鎌倉に入った日蓮が結んだ庵は「法華堂」と称され、その後、本国寺として創建された。その本国寺は、鎌倉幕府滅亡後、第四祖日静の代に足利尊氏のすすめによって京都に移され、その跡地に日叡が妙法寺を建てたのだという。現在の「本堂」は、肥後細川家が江戸時代に建立したもの。格天井や板戸の画は当時のままだといわれる。鎌倉妙法寺とは、日蓮「松葉ヶ谷草庵」跡を自称している日蓮宗寺院。楞厳山妙法寺という。日蓮の「松葉ヶ谷草庵跡地」としては、鎌倉・「安国論寺」以外にも、いくつかの説があり、そのうちのひとつがここ鎌倉・「妙法寺」である。見事な「本堂」の向拝の彫刻。「本堂」の扁額「楞厳山」。寺務所。そして「惣門」。この日は閉まっていた。隙間から「仁王門」への参道、石段を見る。そしてこの日は新型コロナウイルス感染拡大の防止の為、当分の間、奥の院(苔の石段等)への観光をお休みとのこと。よって、数年前の同じ時期?に訪ねた時の写真を掲載します。「大覚殿」「大覚殿」の内陣には、中央に釈迦如来立像、向かって左に妙法稲荷福禄大明神、向かって右に木造加藤清正公坐像が安置されている と。加藤清正公坐像は、もともと熊本城天守閣に安置されていたが、加藤家の後に熊本藩主となった細川家より寄贈された と。「仁王門」。「仁王像」(右)。「仁王像」(左)。「扇塚」。仁王門の傍らに建てられた塚。「扇塚」の字は、作家里見弴の筆によるもの。4月には、使い古された舞扇を持ち寄って供養し、歌舞の上達を祈念する扇供養が行われているのであるが今年も・・・・?。「苔の石段」の斜面には、鎌倉で過ごした俳人・星野立子の句碑があった。「美しき 苔石段に 春惜しむ 立子」。そして「苔の石段」仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」、「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止めとなっており、脇に新しい階段が作られているのであった。「化粧窟」。左に「苔の石段」、右手の「法華堂」への石段を上って行った。「仁王門」を裏側の石段の上から見る。「法華堂」。「法華堂」を横から。「日叡上人御手植えのソテツ」。法華堂の隣、苔石段の上部正面には、釈迦堂跡があり、釈迦堂跡前を真っ直ぐ進むと鐘楼があった。「奥の院御小庵趾」。釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。「南の方御墓」。 南の方は日叡上人の母。「楞厳山親王日叡上人御墓」。「日蓮聖人塔」が手前に。「護良親王(大塔宮)御墓」後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である護良親王の墓。小庵趾より右手に登った山頂にある。なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の「理智光寺跡」👈リンク にもあり、そちらが正式な墓として宮内庁管理下にある。護良親王御墓は、後醍天皇第三皇子の御墓。御年二十八と若くして亡くなってしまった。護良親王御墓から先は行き止まりなので、階段を下り御小庵趾まで戻り更に石段を下ったのであった。そして「妙本寺」を後にして、「安国論寺」へと向かう。「妙法寺道」の四辻の両脇には石碑が。右に「高祖御小庵之本土」碑。題目碑「南無妙法蓮華経」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「逆川橋(鎌倉十橋)」を後にして、鎌倉葉山線に出て逗子方面に進む。左手にあったのが以前訪ねた「別願寺」👈リンク。鎌倉市大町1丁目11−4。「時宗 稲荷山 別願寺」は「本堂」の新築工事中であった。「別願寺」の前にあったのが、ここも以前訪ねた「上行寺」👈リンク。鎌倉市大町2丁目8−17。「上行寺」の南150m程の場所には、「本興寺、辻の薬師堂」👈リンクはあったが、ここも以前に訪ねたので、この日は立ち寄らなかった。そして次に訪ねた寺は、ここも以前に何回か訪ねた「安養院(あんよういん)」👈リンク。鎌倉市大町3丁目1−22。ツツジで人気の寺で昔訪ねた時の写真。安養院に咲くツツジは、オオムラサキツツジ(大紫躑躅)という品種で、関東大震災後に植えられたとのこと。 すでに樹齢は100年近くで、枝も太く、よそのツツジとは風格が桁違い。 花付きも抜群で、葉っぱが見えないくらいに咲き、目も眩むほど。この時はゴールデンウィーク後半であっただろうか。正面に「坂東第三番田代観音 安養院」碑。右面には「浄土宗名越派根本霊場」と。「山門」。「山門入口」は未だ閉ざされていた。正面に「本堂(観音堂)」が見えた。その手前に「これより先 写真撮影お断り致します。」と。以前はこの様な掲示板はなかったが。「安養院」案内板と石碑。「安養院(あんよういん)尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した「祇園山長楽寺」が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に「善導寺」の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。延宝8年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。● 宗 派 浄土宗● 山号寺号 祇園山安養院田代寺● 建 立 嘉禄元年 (1225)● 開 山 願行上人● 開 基 北条政子」そして次に「安養院」の墓地を訪ねた。「高井直哉君碑」石碑(大正14年9月鎌倉町青年団小町支部)。安養院墓地前に建っていた。鎌倉青年団の一員だった高井直哉の碑。高井直哉は、1923年(大正12年)の関東大震災の犠牲となった。鎌倉青年団は、鎌倉の史跡を分かりやすく紹介するために「史跡碑」を建てる活動を行った団体。鎌倉には、およそ80基の石碑が建てられているのだと。そして墓地の入口の上段部。下段部。そして『世界のクロサワ』の墓を訪ねた。黒澤明は国際的に著名な映画監督(1910〜1998)。東京の生まれ。ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、国際的評価を受ける。文化勲章受章。没後、国民栄誉賞受賞。代表作「羅生門(らしょうもん)」「生きる」「七人の侍」「影武者」「乱」など。そして次に「大寶寺」に向かって進む。「酔芙蓉」の花が既に赤く染まり始めていた。「大寶寺」に向かって鎌倉市大町3丁目6の住宅街を進む。正面に「大寶寺(だいほうじ)」入口が姿を現した。「佐竹屋敷跡」碑。「此所ハ佐竹四郎秀義以降 代々ノ屋舗跡ト云フ 昔当所ニ佐竹氏ノ霊社アリシガ 後年村内天王社ニ合祀ス 後ノ山ヲ佐竹山ト呼ブ 其ノ形 扇ノ地紙ニ似テ 中ニ三本ノ畦(あぜ)アリ 左右ヲ合テ五本骨ノ如シ」【この場所は佐竹秀義(さたけひでよし)が最初で、それ以降の佐竹家代々の屋敷跡と伝えられています。昔ここに佐竹家の社(やしろ)がありましたが、後に村の天王社に移されてそこに祭られました。後の山を佐竹山と呼び、その形が扇の紙形に似ており、山の中央に三本の尾根があり、左右合せて五本骨の扇のように見えます。参考までに述べますと、佐竹家の家紋は頼朝から授かった日の丸の入った扇です。】「日蓮宗 大寶寺」「大寶寺このあたり一帯は、御家人佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が、兄の源義家とともに奥羽の戦乱「後三年の役」を鎮めた後、この地に館をかまえて以来、佐竹氏の屋敷となったと伝えられています。応永六年(1399)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家し多福寺を建立した後、文安元年(1444)日蓮宗の高僧一条院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福山大寶寺となりました。境内には、義光が信仰した多福明神社があります。また、本堂には子どもたちの無事成長を護る「子育鬼子母神」が奉られています。●宗 派 日蓮宗●山号寺号 多福山大寶寺(たふくさんだいほうじ)●建 立 応永6年(1399)●開 基 佐竹義盛」「本堂」への参道を進む。左手に井戸があった。「寺務所」。「大寶寺」の境内。「十三重石塔」。「境内供養塔」。「法界萬霊」と彫られた台座石の上には地蔵尊が建ち、両側には「報国殉難戦死者之霊」の石塔と「大震災火災横死者之霊」の石塔が並んで建っていた。下にも地蔵尊が建ち並び、一風変った延命子育地蔵尊も。「本堂」。大宝寺は神奈川県鎌倉市大町三丁目にある日蓮宗の寺院。この地は、源(新羅三郎)義光が奥州での後三年の役が終わった後に館を建て、自身の守護神多福稲荷大明神を祀った場所とされ、その後佐竹氏(義光の子孫)が居住し、佐竹義盛は1399年(応永六年)に多福寺という寺を建てたが、早くに廃れてしまっていた。そこへ開山の日出が1444年(文安元年)に寺を再建し、大宝寺と号したのが当寺の始まり(山号の多福山は多福寺に基づく)。本堂には、本尊の三宝祖師や、新羅三郎義光像、子育鬼子母神、出世大黒天神、日出上人像などを祀る。また境内には新羅三郎義光の墓と伝えられる宝篋印塔がある。扁額「多福山」。「本堂内陣」には本尊の木造日蓮上人坐像が。「多福稲荷」。「森羅三郎義光守護神 大多福稲荷大明神人皇第七十三代堀河天皇の御代、奥州地方は清原の家衡・武衡・眞衡一族の隔執の為非常に乱れた。當時陸奥守である八幡太郎義家は之を平定しようとする、家衡・武衡等金沢柵に立ちこもりて降参せず官軍苦戦に陥った(後三年の役)京都にいた弟の新羅三郎義光は兄義家の苦境援けんと官を辞して従軍し、善戦善勝三年にして之を鎮圧する(後三年の役)此の間日頃信仰していた御守護神の霊顕あらたかで、或る時は雁の伏兵を知らせ、時には御神火となって奇瑞を顕す。三浦平次郎為次、鎌倉権五郎景政など當時の勇士である。後、義光は甲斐守となり、長男義業は常陸に住する、義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を勧請する。其の後、八雲神社に合祀したので毎年七月七日には門前に神輿を据えて古式に則る祭式を行い、神霊を慰めてから町内の御渡を行うを例とする(相模風土記)。一四九九年(明應八年)、松葉谷日證上人の霊夢により本地たる現地に再勧請し大多福稲荷大明神と稱する。毎年二月には大祭を嚴修して神霊を法楽し、世界平和國運隆昌を祈願する所以なり。」石造りの「拝殿」。「本堂」の裏にあった「新羅三郎義光の墓」。義光が永保三年(1083)の後三年の役の時、兄・源義家とともにこれを鎮め、甲斐守となってここに館を構えた。以来佐竹氏の居館となった。「大寶寺」を後にして、鎌倉市大町3丁目6の住宅地を進む。山が迫って来た。正面に「案内板」が見えて来た。ここが「六方井」。「六法井(六方の井)の由来縦三・六メートル、横四・五メートル、深さ十五メートルの井戸で古い石に囲まれています。いつ誰が掘ったかわかりませんが、伝説では弘法大師だともいわれています。昔から鎌倉は水の少ないところで、水を売りに来る人の姿をよく見かけたと、年寄の人は言います。日照りのたびに鎌倉の人は水ききんに頭を痛めたものでしたが、一八八四年(明治一七年) の日照り続きの際も、近所の人々は、この井戸へ水を汲みに来たということです。井戸をのぞくと側面にちょっとでっぱったところがあリます。竜頭といいますが、水がこの竜頭まで減ると、雨が降り出すと付近の人はいっています。なお、この井戸は比企ヶ谷(ひきがやつ)の蛇苦止明神にある蛇形の井と通じており、井戸の主である蛇は、六法井(六方の井)と蛇形の井を行ったりきたりしているといいます。六法井(六方の井)の由来はわかりません。この井戸のある山の反対側には妙本寺があります。」小さな社。1203年(建仁3年)に起こった比企の乱の折、二代将軍源頼家の側室若狭局は、家宝を抱えてこの井戸に身を投げたといわれている。その先には古い井戸ポンプとやぐらがあった。「六法井(六方の井)」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「妙本寺」を後にして南に進むと左手にあったのが「常栄寺(じょうえいじ)」の山門。鎌倉市大町1丁目12−11。この寺は別名「ぼたもち寺」の名で知られている。この寺の裏山は源頼朝が由比ガ浜を眺めるための桟敷(展望台)を設けたところといわれている。以前に何回か訪ねた「常栄寺(ぼたもち寺)」👈リンク であったので、この日は境内には入らなかった。その次に訪ねたのが「三神山妙法教会」。鎌倉市大町1丁目9−15。この日は、まだ門が閉まっていた。日蓮宗寺院の妙法教会は、三神山と号す。妙法教会は、円妙院日弘が大正5年に創建したと。その先にあったのが「八雲神社」。後三年の役の際、源義家の弟、新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)が京都祗園社の祭神を勧請したのが起源といわれる「八雲神社」👈リンク。厄除けの社として地元の住民に愛されていると。そして次の「教恩寺」に向かって鎌倉市大町1丁目の住宅街を進む。T字路を右に曲がると正面に「教恩寺」の「総門」が現れた。鎌倉市大町1丁目3−4。「時宗 教恩寺」。「教恩寺」は山号寺号が中座山大聖院教恩寺と言う時宗の寺院。鎌倉に時宗の寺院は少なく、十二所の「光触寺」、西御門の「来迎寺」、山ノ内の「光照寺」、材木座の「向福寺」「来迎寺」、大町の「別願時」とここ「教恩寺」の七寺院である。「総門」の欄間に見事な十六羅漢が彫刻されていた。裏面には牡丹の彫刻が。ズームして。「掲示板」。「掲示板」には手書きの「時宗 教恩寺」の案内が書かれていた。「時宗 教恩寺この寺のあらまし【宗旨】時宗(じしゅう) 一遍上人がお開きになった宗派で、「南無阿弥陀仏」のお念仏をお唱えすることを 本分とします。 総本山は藤沢の遊行寺です。【本尊】阿弥陀三尊 (神奈川県指定文化財) 阿弥陀如来・観音・勢至菩薩の立像で源頼朝が平重衡に、平家の菩提を弔うように 与えられたと伝わる。【山門】 正面に十六羅漢・裏面に牡丹の彫刻が施してあるのが見所である。【開基・開山】 開基は北条氏康(小田原北条の三代目)で、開山は知阿上人と伝わる。 その昔は、浄土宗大本山である材木座の光明寺境内にあったが、延宝6年(一六七八年) 貴誉上人の時に現在地に移されたと伝わっています。「平重衡とのゆかり平重衡は、平清盛の子(五男)で、その容姿を牡丹の花に例えられ、ユ一モアのセンスもある優しく爽やかで、しかも凛々しく武勇を誇る平家の副将軍だったといいます。重衡は、源平の合戦で、平氏が敗れ、撤退の際、梶原景時に捕らえられ、捕虜として鎌倉へ護送されたのですが、源頼朝の尋問に対しても、武将らしい堂々たる態度と優雅な物腰の立派な人柄は、頼朝を感嘆させ、捕虜の身でありながら、特別な待遇を受け、頼朝の仕女である千手を侍らし酒宴を許されたという。この酒宴が縁で、重衡と千手のニ人は恋に落ち、重衡が護送されるまでのつかの間、癒された日をごす事が出来たといわれます。やがて、重衡は奈良へ護送され、文治元年(ー一八五年)六月ニ十三日、木津川のほとりで斬首処刑されたのですが、その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏し、そのまま生涯を閉じたとも、又出家したともいわれ、消息不明となってしまったと言われる儚い悲恋の逸話があり、その酒宴を催された場所が今の教恩寺と伝わる。」「静かな住宅地に佇む 中座山教恩寺」。「祈 一日も早く元の生活が戻って来ますように祈願します 当山主」。「山門」を潜ると、参道に覆いかぶさるようなタブの木があった。参道脇に、瓦葺きだった頃の「本堂」の立派な「旧鬼瓦」が保存されていた。中央部には時宗の宗紋が。時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られた。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じなのである。参道脇の「動物供養塔」。参道脇に「墓石」が並ぶ。「無縁塚」であろうか。「勝軍地蔵尊」が下半身を土の中に嵌り(はまり)、立っておられた。境内の石仏。「歴代和尚之塋(はか)」。教恩寺本堂の屋根の蕾付き牡丹の飾り瓦が保存されていた。「本堂」。向拝虹梁上の見事な龍の彫刻。木鼻。木鼻とは木の先端という意味の《木端(きばな)》が転じて《木鼻》に書き換えられたもの。木鼻の取り付けられた場所で一番多いのは、向拝正面の水引虹梁が向拝柱の左右へ頭貫した部分、虹梁が向拝柱を頭貫し前方へ飛び出したところである。山号の「中座山」。「本堂内陣」。本堂に安置されている阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の物で運慶作と伝えられている(県重文)。「鎌倉三十三観音 第十二番 聖観音菩薩立像」。永代供養塔「和敬塔(わけいとう)」。「本堂」の横にも墓石が並ぶ。寺務所・庫裡。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十二番 教恩寺」の「聖観世音」の御朱印です。そして以前に訪ねた「金子サト記念碑」👈リンク を再び。「滑川」にかかる「大町橋」からJR横須賀線、斎場・カドキホールを見る。「おおまちばし」。「滑川」鎌倉・葉山線を東に進み「大町四ッ角」交差点を左折するとその先にあったのが朱の橋・「魚町橋」。「いをまちはし」。「魚町」(いおまち)の地名は、1265年(文永2年)に指定された小町屋の中の一つにその名がみられ、1850年(嘉永3年)版の「鎌倉一覧之図」には、大町四ツ角の南に「魚町橋」と記されている と。小さな流れの「逆川(さかさがわ)」流れを「逆川」というのは、北から南へ流れることが普通である鎌倉市内の川が、この近くでは地形の関係から南から北に向かって流れていることによるのだと。その先右手にあったのが「町屋阯」碑。「此邊ハ往昔ニ於ケル鎌倉繁榮當時ノ賈區ニシテ其中央ノ通衢ヲ大町大路ト呼ビ其他米町辻町魚町名越等ノ區分アリ夫々町屋ノ在リシ所トオボシク其ノ稱ハ屡々東鑑ニ見エ今ニ其名ヲ存ス昭和十一年三月建 鎌倉町青年團」【この辺りは、昔の鎌倉繁栄当時に商売屋が多く集まった所であり、その中央の大通を大町大路と呼んでおり、その他には、米町、辻町、魚町、名越などの区域がありました。それぞれの町屋のあった所と思われ、しばしば吾妻鑑(あずまかがみ)に書かれています。 現在でもその名前が残っています】そしてすぐ先ひだりにの路地に入ると鎌倉十橋の一つ「逆川橋(さかさがわばし)」があった。これが「鎌倉十橋 」の一つかと目を疑うような規模の橋なのであった。「逆川橋」。鎌倉の川は山から海へと、北から南へと流れているのが多い。逆川の場合は地形の関係か ら川の一部が南から北へと他の川とは逆方向に流れ、その後は大町と辻町の境の魚町橋より南西に向きを変え、上河原付近より滑川に合流している。この様な事 から逆川なる名が付いたと考えられている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク境内の左手には、寺内を見守るように立つ大きな「日蓮大聖人像(永縁廟)」。「比企谷 妙本寺 永縁廟」碑。しずかな佇まいの妙本寺祖師堂前にある永代供養墓。お顔をズームして。数々の法難に遭う以前の、若さ溢れる表情なのであろう。更に。台座には「ながくふかい縁にみちびかれてこのお寺で日蓮聖人に出会い法華経を信じお題目を唱えて今生を力いっぱい生きた人達ここにやすらぐ」と。「日蓮聖人鎌倉開教聖地」碑。鎌倉の地たる洵に聖地なるかな宗祖この山に憩ひこの町に叫びこの海より流さる潮音耳を打てば今猶此経難事の聲あり街衢塵を揚ぐれば杖木瓦石の響きあり嗚呼この地を過ぎこの地に住む者其れ宗祖當年の忍苦を偲び粛然奮然信仰を増進せよや 塚本柳齋」八重の花の咲くドクダミの群生地であったが、この日は既に花は終わっていた。以前に訪ねた時の写真。そして「祖師堂」に向かって右の山裾にあったのが「比企能員一族の墓」。 『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。しかし、1203年(建仁3年)、比企能員は、北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡した。「比企能員公一族之墓」碑。石垣で一段高くなった所に五輪塔が4基並んでいた。その、右側のものは妙本寺開基の日学夫妻(大学三郎能本夫妻)の供養塔、左側のものは比企能員夫妻の供養塔。日学は比企能員の末子能本の法名であると。「寿福院(じゅふくいん)の逆修塔」。比企氏一族の墓の並び右手に立派な大五輪塔があった。これは寿福院(じゅふくいん)の逆修塔(ぎゃくしゅとう:生前に死後の冥福を祈って建立した供養塔)。塔の各部に「妙・法・蓮・華・教」の五文字が刻まれ、側面に「加賀太守宰相卿之御母公 寿福院殿日栄逆修」とある。(1624建立)寿福院は千代といい、加賀前田家藩祖の前田利家の側室で利常を産んた。利常が藩主(三代藩主)になると、慶長19年(1614)藩主の生母として、芳春院(利家の正室「まつ」)と入れかわりに人質としてに江戸へ下った。その後、寛永8年(1631)江戸藩邸にて没した と。。「比企能員一族の墓」の横の石段を上る。「若狭局の墓」。大五輪塔(寿福院の逆修塔)の背後の一段高い所、一幡の袖塚を見下ろす所、市の天然記念物に指定されているイチョウの古木の下にあったのが若狭局(わかさのつぼね)の墓といわれている供養塔があった。墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」と。讃岐局(さぬきのつぼね)と若狭局は同一人物と考えられていると。若狭局は比企能員の娘で頼家の側室となり一幡を産みました。比企氏の乱(建仁3年(1203))のおり、我が子一幡と運命をともにした。「讃岐局蛇苦止霊之墓」と刻まれた石碑。小さな石碑が二基。立入禁止の苔生した石段の上にも石碑が。「高祖四百五十年忌妙題十萬・・・」と刻まれた石碑。「手水舎」の後ろにあった「一幡(いちまん)の袖塚」。鎌倉幕府二代将軍の源頼家の嫡男一幡の廟所。祖師堂の右側手前、二天門寄りの竹垣に囲まれた所。比企氏の乱(建仁3年(1203))のあと、小御所(比企邸内にあった一幡の住居)の焼け跡からみつかった6歳の亡骸に一幡の小袖の模様がわずかに焦げ残っていて、その遺骨を拾い供養したと。そして「祖師堂」に向かって左側にあった城の形の墓石。その近くの石段の横にあったのが「万葉集研究遺蹟の碑」「萬葉集研究遺蹟:篆書で書かれた文字。此地ハ比企谷(ひきがやつ)新釈迦堂 即將軍賴家ノ女(むすめ)ニテ將軍頼經ノ室ナル竹御所(たけのごしょ)夫人ノ廟(びょう)ノアリシ處ニテ 當堂ノ供僧ナル權律師(ごんのりっし)仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ 適(まさ)ニ堂ノ須彌檀(しゅみだん)ノ直下ニ當レリ 堂ハ恐ラクハ南面シ 僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟(いわや)ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 悉(詳し)クハ 萬葉集新考 附録 萬葉集雑攷(考)ニ言ヘリ昭和五年二月 宮中顧問官井上通泰撰菅 虎雄書鎌倉町青年團建碑」【この場所は、比企谷(ひきがやつ)の新釈迦堂(しんしゃかどう)があった所で、将軍頼家(よりいえ)の娘であり、また将軍頼経(よりつね)の妻でもあった竹御所(たけのごしょ)夫人の墓のあった場所であります。 この堂の僧である仙覚(せんかく)が万葉集について立派な研究を行ったのは、この堂においてでありました。現在の夫人の墓として、大石が置いてあるところは、ちょうど堂の仏壇の直下に当ります。 堂は多分南に面し、僧侶の住む建物は、西に面していたと思われます。西の方の崖下の岩屋は、仙覚など代々の僧侶の骨を埋めた所と推定されます。詳しいことは、「万葉集新考 附録 万葉集雑考」に書かれています。】石段から入り、途中、右に行くと、祇園山ハイキングコースとなっているようだが、左方向に更に石段を上って行った。石段を上り切ると妙本寺境内の背後には墓地が拡がっていた。真っ直ぐに進む。墓地内の木々に消毒が行われていた。この墓地がある場所が、竹御所跡と考えられるが墓地の奥の正面には石垣が組まれ、一段高くなった墓所が「竹御所の墓」。「竹御所」は鎌倉幕府二代将軍源頼家の娘で、母は源義仲(みなもとのよしなか:木曾義仲)の娘ともいわれていますが不詳です。比企氏の乱のおり難を逃れ、その後も比企ヶ谷に住んでいたと思われます。その後、邸内に竹が生い茂り、ゆえ「竹御所」と呼ばれるようになったと。健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女になった。実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、京の九条家から九条(藤原)頼経(よりつね)が迎えられ4代の将軍になった。頼経はそのとき9歳であった。将軍頼経が13歳になった時、竹御所は28歳、2人は結婚させられた(寛喜2年(1230))。その4年後男子を死産し、自身も没した(文暦元年(1234))と。妙本寺の寺伝に従うと、「源媄子(みなもとのよしこ)墓」と言う事になる。「鎌倉幕府二代将軍源頼家公の息女で四代将軍源頼経公の夫人である。文歴元年(一ニ三四」九月二十七日 三十ニ才で逝去 尚當地は新釈迦堂の地である。」「源媄子墓」を後にして石段を下り、「祖師堂」を見る。「手水舎」、「二天門」を見る。「擬宝珠」。台座には笹竜胆の寺紋・源氏紋が。「日蓮大聖人像(永縁廟)」の横を奥に行き再び別の石段を上る。こちらも広い墓地が拡がっていた。様々な形の墓石が。正面の石垣の上中央に五輪塔が。「上村海軍大将之墓」。明治時代の軍人上村彦之丞(かみむら ひこのじょう)[1849~1916]。明治12年海軍少尉に任官。日清戦争には秋津洲(あきつしま)艦長として出征。海軍教育本部長をへて第二艦隊司令長官となり、日露戦争では蔚山(ウルサン)沖でウラジオストク艦隊を撃破。43年大将。「妙法蓮華経」の文字が。大きな貝殻が。二枚貝の中で最も大型となるシャコガイであろうか。脇にあった石碑。「芳光院善◯日秀童子」と刻まれていたが。様々な形の墓石が。和型三段墓の上に立派な屋根を載せたいわゆる「大名墓」。宝篋印塔(ほうきょういんとう)。宝篋印塔は、もともとは宝篋印心咒経(ほうきょういんしんじゅきょう)という尊いお経を収めるための宝塔。五輪塔が仏舎利を守るのに対して、宝篋印塔はお経をお守りするための塔。今から千年ほど昔の中国の王様が長寿を祈願したのが始まりで、その後日本にも伝来した。基部・塔身・笠・相輪で構成され、笠の四隅には隅飾りの突起がある。五輪塔と同じようにお墓としても建てられているが、庶民から貴族まであらゆる階層の人々に用いられていた五輪塔に比べ、宝篋印塔はより身分の高い人々が建立していたと。そして「二天門」前から参道の石段を見る。モミジの緑葉が輝く。「二天門」、「祖師堂」を振り返る。ズームして。秋になると(ネットから)。 【https://twitter.com/hashtag/%E7%A5%96%E5%B8%AB%E5%A0%82】より承久の乱(じょうきゅうのらん)から約800年、鎌倉幕府滅亡から約700年、鎌倉武士たちの悲喜こもごもの歴史が詰まった「比企谷(ひきがやつ)」を後にし「妙本寺」の「総門」に向かって進み「妙本寺」を後にしたのであった。以前頂いた「比企谷 妙本寺」の御朱印です。以前頂いた「比企谷 妙本寺」の御朱印です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.28
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「方丈門」の前を左手に進み「蛇苦止堂(じゃくしどう)」への道を進むと、右手の短い石段の上にあった小さな社殿。稲荷神社であろうか。更に進むとこちらは長い石段が。更にその先の石段を上って行くと「蛇苦止堂」の屋根が見え始めた。「蛇苦止堂」の境内の右側には、「観音堂」と「「蛇苦止ノ井」(蛇形井)」が。手水鉢は閉ざされていた。正面に「蛇苦止堂」と右手に「観音堂」。「蛇苦止堂(じゃくしどう)」。1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱(比企能員の変))。二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。『吾妻鏡』によれば、1260年(文応元年)、北条政村(のちの七代執権)の娘は、比企判官能員の娘に祟られ(たたられ)、蛇のような狂態を見せるようになったが、鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復した。のちに北条政村は、比企氏の邸跡に、若狭局を蛇苦止明神として祀る社を建立したという。それがこの「蛇苦止堂」といわれている。扁額「蛇苦止明神」。「蛇苦止堂」の「内陣」。ズームして。「南無妙法蓮華経 大明神尊霊」碑。「観音堂」「蛇苦止堂」横の池。緑色の抹茶の粉のようなアオコが表層を覆い尽くしていた。「蛇苦止ノ井」が堂の中に。二代将軍源頼家の側室であった若狭局(比企能員の娘)は、比企の乱の折、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。その井戸と伝えられているのが妙本寺の鎮守蛇苦止明神の前にある「蛇苦止ノ井」(蛇形井)。この日に訪ねた大町にある「六方井」と通じているといわれ、若狭局が蛇身となり、井戸の中で家宝を守っているのだという。これも「稲荷社」であろうか。観音像。台座には「先祖源氏肉親相刻 宿業一切罪障消滅」と刻まれていた。「宿業一切罪障消滅」とは、前世に行い、現世にその応報を招いたすべての善悪の行為を、懺悔し、改心を誓うということ。「観音像」をズームで。小さな石祠や五輪塔が並んでいた。そして「方丈門」を潜り「本堂」への石段を上って行く。石段の上之両脇に石柱が。右に山号の「長興山」。左に「妙本寺」。左手に立派なトイレ。「事務所」・「書院」。大正の大震災に倒潰し、昭和七年日雅上人代に再建された。「妙本寺事務所」。「本堂」を斜めから。「本堂」。身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺。旧本堂は大正十ニ年の関東大震災に倒潰し、現本堂は、1931年(昭和6年)の第七十五世日雅上人代に新築された。釈迦牟尼仏、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩、日蓮聖人像を安置している。鬼子母神・十羅刹女・徳叉迦も祀られている。日蓮聖人の弟子、日朗上人にゆかりの深い「朗門の三長三本」の三ヵ寺。山号に長、寺号に本の字が共通している と。長興山妙本寺(鎌倉市)長栄山本門寺(東京都大田区)長谷山本土寺(松戸市)。妙本寺本堂向拝の唐破風屋根。鬼瓦と棟瓦にも笹竜胆の寺紋・源氏紋。「本堂内陣」。更にズームして。「本堂」の「天水桶」。「歴代墓所」碑。「歴代墓所」。中央には「五輪塔」。「長興山妙本寺歴代墓誌開山 日蓮大聖人二祖 日朗聖人三世 日輪聖人・・・・・」第八十世まで歴代聖人は皆さん長寿なのであった。一段高い場所には「鐘楼」があった。本堂と祖師堂との中間、小高い丘にあり昭和九年(日雅上人代に再建された朱塗りのものである。しかし鐘楼への石段はこの日は閉鎖されていた。別の場所から梵鐘を見る。古来よりあった梵鐘は元禄十七年両山ニ十ニ世日玄上人代に鋳造されたものであったが、惜しくも大東亜戦の際供出した。現在の梵鐘は、昭和三十五年第七十六世日如上人(後に日威と改む)代に再鋳された。銘に和歌あり。「篤信の 誠の籠もる 鍾の音は 妙の御法を とはに伝へん」。正面に朱塗りの「二天門」が姿を現した。「二天門」の右側には持国天(じこくてん)、左側のは毘沙門天(びしゃもんてん)=多門天(たもんてん)が安置されていた。嘉永元年(1842)頃の建造ともいわれている。中央の見事な、色彩豊かな龍の彫刻。二天門への石段の下には、杉の巨木が2本あって、その横で二天門を見上げながら手を拍つと、一瞬遅れて、こだまとなって帰って来たという。また、この彫刻の前で手を拍つと龍が鳴き声をあげるという「鳴龍」の伝説も残されているのだと。龍の彫刻(右)。龍の彫刻(左)。右側の持国天。金網が全面に有るのでカメラの設定を変えて。斜めから。右手には槍状の武器である戟(げき)を持つ。多聞天。左手に金剛杵(こんごうしょ)を持つ。外道悪魔を破砕し煩悩(ぼんのう)を打ち破る象徴として用いる法具。横下から。「二天門」を斜めから。「霊跡 妙法寺」碑。「田辺松岐の漢詩碑」が手水舎の右側奥の植え込みの中にあった。妙本寺は古くから大きな海棠があり、毎年春に美しい花をつけ、海棠を目当てに寺を訪れる人の目を楽しませている。昭和13 ( 1938 )年、第七十五世日雅上人(島田勝存)は海棠についての歌がないのを遺憾とし、松坡に詩を依頼したのだと。日雅上人自身「東水」と号して漢詩をよくした。同年10月20日に松社同人による竣成式が挙行された と。海棠花下吟 海棠の花の下に吟ず嫩葉穠葩緑擔紅 嫩葉穠葩緑(どんようじょうは)紅を擁す祇園雨霽洽光風 祗園の雨霽れて(ぬれて)光風洽し(あまねし)山僧説法花陰午 山僧法を説く花陰の午髣現閻浮七寶宮 髣(ほのか)に現ず閻浮(えんぶ)七寶の宮「手水舎」。「二天門」をくぐると正面に立派な「祖師堂」が建ち、開けた庭が広がっていた。天保年間(1830-44)の再建といわれている。堂内には木造日蓮聖人坐像が安置されていると。この日蓮像は身延山・池上本門寺の像とともに一本の木から刻まれた「一木三体の像」として知られている。十三世紀から十四世紀頃の作と。 「祖師堂」の左側手前に「霊宝殿」があった。「妙本寺」の寺宝のいくつかがこちらに移され安置、保管されていると。向拝が見事な彫刻の「祖師堂」。「祖師堂」は十二間四方の建物で、一間幅の回廊があり、正面には更に幅が広く二間の奥行きがある。これは、大きなお寺ゆえに大勢の参拝者があるので、できるだけたくさんの人が上がってお参りできるようにという配慮からだと。履物を脱がないでお参りできるようになっていた。「祖師堂」の「内陣」。正面の回廊から「二天門」を見る。「海老虹梁」を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.27
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクこの日は8月4日(水)、「古都「鎌倉」を巡る」の12回目の散策に早朝出発して鎌倉駅に向かいました。「鎌倉駅」に7時過ぎに到着。ロータリー脇にあった「自転車による鎌倉巡り」案内図。名所間の自転車による所要分数が記載されていた。「鎌倉駅舎」東口を見る。「鎌倉駅入口」交差点を渡る。この日の散策は主に鎌倉市大町にある寺社仏閣を計画。横断歩道を渡ると正面に「大巧寺」山門。「安産子育 産女霊神(うぶめれいじん、うぶすめれいじん) 長慶山 大巧寺」碑。本尊は、産女霊神(うぶめれいじん、うぶすめれいじん)。産女霊神を祀る安産祈願の寺として知られている。「おんめさま」とよばれている。「日本の道100選 若宮大路」碑。「大巧寺(だいぎょうじ)初め「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、大巧寺」に改めるようになったと伝えられています。室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために、「産女霊神」を本尊としてお祀りしました。今も安産祈願の寺として、「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。● 宗 派 日蓮宗系単立寺院● 山号寺号 長慶山大巧寺● 開 山 日澄上人」単立(たんりつ)とは、包括宗教団体に属さない独立した宗教団体(寺院・神社など)のこと。単立であるというのは、あくまで法制度上の問題であって、単立だからといって必ずしも思想・信条的な面で独自性があるとは限らない。○○宗単立、○○派単立などというように、教義・儀礼は伝統宗派や教派に則っていることも珍しくない。人事・財務を巡る争いから包括宗教法人を離脱し単立となる例が多いとのこと。鎌倉長谷寺も単立寺院であるとのこと。境内に咲いていたシュウメイギク。シュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。キンポウゲ科の植物で、花の形はアネモネに似ている。シュウメイギクは「貴船菊」、「秋牡丹」などの別名でも呼ばれ、欧米ではボーダーガーデンや日本風のガーデンには欠かせない植物となっていると。女郎花(おみなえし)和名の由来は、同属で姿がよく似ている白花のオトコエシ(男郎花)に対する「女郎花」で、全体にやさしい感じがするところから名付けられたとされる。「オミナエシ」の読みの語源はよくわかっていないが、一説には「エシ」は「圧し(へし)」であり、花の姿の美しさは美女を圧倒するという意味だとする説がある。漢字で「女郎花」と書くが、これは漢名ではなく、日本では「敗醤」を当てていた。花を室内に挿しておくと、やがて醤油の腐敗したような匂いになっていくことに由来する と。蓮の花も。「大巧寺」の「本堂」。安産祈祷は毎朝住職が本堂で産婦の安産を祈願する祈祷で、出産予定日まで続けられる。産婦に授与される安産お守りはお札、腹帯守、麻紐、秘妙符から構成される。このうち、腹帯守は腹帯に入れるお守りで帯祝いの時に使う。また麻紐は産後、産婦の髪を結ぶお守りになる。秘妙符の中には粒が3つと折り紙が入っている。粒のうち1つは出産予定月の朔日に飲み、他の二つは陣痛が始まった際に飲む。折り紙は色によって性別を占うものといわれており、赤だと女子、白だと男子が生まれるという伝承があるのだと。犬はお産が軽く安産であるという伝承から、犬を縁起物として扱っている。このため戌の日は吉日として安産祈願者で混みあうことが多いと。私も、近くでは5年前に長男のパートナーの出産前に、ここの「安産お守り」👈リンクを頂いたのであった。そして「大巧寺」を後にして、裏門から出て「小町大路」を右手に進むとカーブの右手にあったのが「本覚寺」👈リンク。佐渡流罪を解かれた日蓮聖人はここにあった夷堂(えびすどう)に滞在して布教を再開した。永享8年(1436年)、このゆかりの地に足利持氏(もちうじ)が日出上人を開山として創建。身延山久遠寺にあった日蓮聖人の遺骨を分骨したことから、「東身延」と呼ばれる。境内には夷堂が建ち、鎌倉七福神の一つとして正月はたくさんの人出でにぎわう。前方の橋の名は鎌倉十橋(かまくらじっきょう)の一つ「夷堂橋(えびすどうばし)」。この橋が大町と小町の境になるのだ。橋の手前に本覚寺、橋を越えると妙本寺方面へと至る。かつてこの橋のあたりに源頼朝が鬼門除けのために夷神を祀った御堂があったといわれている。明治になって神仏分離により夷神社は現在の蛭子神社に合祀されたが、1981年(昭和56年)に本覚寺境内に夷堂が再建されたのだと。下を流れる川は「滑川(なめりかわ)」。鎌倉市十二所の朝比奈峠付近を源流とし、鎌倉市街を流下して由比ヶ浜と材木座海岸の間で相模湾に注ぐ全長5.6kmの川。かつては上流から下流にかけて胡桃川・滑川・座禅川・夷堂川・炭売川などの別名で呼ばれ、河口付近では閻魔川と言われていたと。かつては全域が神奈川県の管理下にあったが、2008年度(平成20年度)から鎌倉市小町3丁目の東勝寺橋下流端より上流部分についての維持管理が鎌倉市に移管されているとのこと。「夷堂橋」を渡ると正面に「妙本寺」の参道が。題目碑「南無妙法蓮華経 妙本寺」。台座には「唱題随喜衆」?であろうか。唱題とは、文字通りに法華経の題目を一心に唱えること。随喜とは他人のなした善い行為に随い順じて、これを心から喜ぶことを言い、特に随喜する僧侶を随喜衆というと。左面には「高祖大士六百遠忌之塔」、右面には「閻浮提内本化最初霊窟」と刻まれていた。日蓮聖人・高祖大士は1222年(承久4年)2月16日、安房国小湊(あわのくにこみなと=現在の千葉県房総半島の南端)で誕生。 弘安5年(1282年)10月13日亡くなったのでよってこの題目碑は1882年(明治15年)の建立であろうか。「閻浮提内本化最初霊窟」の意味は?「閻浮提」とは仏教の世界観で、人間世界のこと。この世。現世。世界の中心である須弥山 (しゅみせん) の四方にある大陸のうち、南方にあり、閻浮樹が生えているとされ、もとはインドをさしたのだと。正面に「総門」、右手に「比企谷幼稚園」。鎌倉市大町1丁目15−1。比企谷は地名、其の起りは頼朝公の乳母比企の尼は、頼朝公が伊豆へ流罪の身となってからも、心を頼朝公に寄せ、尼の娘夫婦安達藤九郎夫妻は終始頼朝公に随身し、尼も亦常に頼朝公をお見舞いしていた。鎌倉開府に及び、頼朝公は尼の老後を慰めるため家を造って呼び住まわせたのが、現在の祖師堂の地点である。頼朝公の妻政子懐妊するや、尼の許に安産したのが、後の頼家将軍である。のみならず、尼の比企家の跡取は夫婦養子で比企能員(よしかず)と云い、頼朝公に重用され、現在の妙本寺庫裡の地点に住って居た。これ等のため此の谷を比企谷と云う。「総門」の前には石碑と案内板が。題目碑「南無妙法蓮華経」。「南無妙法蓮華経」題目碑の裏万には「法界萬霊」と彫られていた。鎌倉に覚園寺以外にも「法界萬霊」はあるのだった。「妙本寺(みょうほんじ)この寺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やかな花をつけ、静かな境内を彩ります。● 宗 派 日蓮宗● 山号寺号 長興山妙本寺 (ちょうこうざんみょうほんじ)● 建 立 文応1年 (1260)● 開 山 日蓮聖人● 開 基 比企大学三郎能本(ひきだいがくさぶろうよしもと)」「比企能員邸址」碑。「能員ハ頼朝ノ乳母比企禅尼ノ養子ナルガ 禅尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ此ノ地比企ヶ谷ノ名アルモ之ニ基ク能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト称シ子一幡ヲ生ム建仁三年頼家疾ムヤ母政子関西ノ地頭職ヲ分チテ頼家ノ弟千幡ニ授ケントス能員之ヲ憤リ蜜ニ北條氏ヲ除カント謀ル謀泄レテ卻ツテ北條氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル大正12年(1923年)3月 鎌倉町青年團建」【比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ひきのぜんに)の養子であり、禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのもこのためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡(いちまん)という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。】「文学案内板 妙本寺境内」であったが・・・写真からは解読不能。ネットから以前の写真を。「文学案内板 妙本寺境内◯仙覚万葉集研究跡 鎌倉時代前記の万葉学者僧仙覚が、万葉集の校訂や本文統一などの偉業をなしとげた跡で、 祖師堂の左にある「万葉集研究跡」の碑文を参照。◯国木田独歩の詩「鎌倉妙本寺懐古」 夕日いざよふ妙本寺 法威のあとを弔へば 芙蓉の花の影さびて 我世の末をなげくかな(以下略) 独歩(一八七一~一九〇八、小説家・詩人)◯田辺松坡漢詩碑 「海棠花下吟」 海棠の花の下に吟ず 嫩葉穠葩緑擁紅 嫩葉穠葩緑紅を擁す 祗園雨霽洽光風 祗園の雨霽れて光風洽し 山僧説法花陰午 山僧法を説く花陰の午 髣現閻浮七寶宮 髣に現ず閻浮七寶の宮 松坡居士 松坡(一八六ニ~一九四四、教育者・漢詩人)◯小林秀雄の「中原中也の思い出」 鎌倉比企ヶ谷妙本寺境内に、海棠(かいどう)の名木があった。(中略) 晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。(後略) 英雄(一九〇ニ~八三、文芸評論家) 中也(一九〇七~三七、詩人)◯林不忘(一九〇〇~三五)墓 小説家。本名長谷川海太郎。筆名に林不忘、牧逸馬、谷譲次の三つを持つ。」 【https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483444279.html】より「総門」。ニ門(総門とニ天門)、ニ堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。総門の扁額「妙本寺」。掲示板には「法華経は女人の成仏をさきとする」と。「近年女性の地位向上が大いに叫ばれていますが、実はお釈迦さまはすでに3千年前に法華経を通して男女平等を宣言されていました。ひと昔前までは洋の東西を問わず男性優位の考え方が当たり前でした。しかしその男性も母親がいなければ生まれません。どちらが欠けても世の中は成り立たたないのは自明の理です。再度根本に立ち返り考えて下さい。男(ひと)は女(ひと)があっての人なのです。」とネットから。ここは「妙本寺」。総門の右奥にある「比企谷幼稚園」。寺の建物かと見まがいますが、妙本寺の支院があった地に建てられた「比企谷幼稚園」の夢殿を模した八角形の建物。九老僧日伝上人庵室の旧蹟にして寺号を大円坊と呼ばれていたが、大正十ニ年閂頁大震災に倒潰した。昭和十ニ年(日雅上人代)八角堂の園舎を建立して妙本寺経営による幼稚園を開設し現に存続している と。「比企谷幼稚園」。笹竜胆の寺紋の中に「幼」と。別の角度から。「昭和10年の頃、大正12年の関東大震災によって倒壊し、その復興を待ち望まれた、当時比企谷妙本寺の支院であった大円院境内に建築工事が始まり、昭和12年3月八角形の夢殿を模した見事な建物が完成された。これは、当時の比企谷妙本寺貫首島田勝存上人の発願による、宗教的情操を基盤とする幼児教育の殿堂、比企谷幼稚園で、昭和12年4月開園始業し明るく楽しい歓声があふれ、その活動が開始された。妙本寺の緑あふれる幽遂な境内は、園外保育、観察、運動等に随時活用され、春の花、秋の紅葉を賞でつつ大自然の営みの中に壊かれて、幼な心にその感性を深め、御本尊に合掌しては敬いの心を養い、友と交わりては信と和の必要性を自覚し、明るく楽しい活動が展開され今日に至っております。初代園長島田勝存先生から、昭和33年第二代金子弁浄先生が御辞任になり、更に昭和50年第三代蒲田行静先生が御辞任なさいましたが、昭和56年1月にお亡くなりになられ、初代島田園長先生と共に比企谷の霊域より御見護り下さって居ります。その間園舎の増築、八角堂屋根の葺替等が完成し、現在に至って居ります。」とネットから。「妙本寺周辺観光案内図」。ズームして「現在位置」を。「総門」を潜り参道を進む。進むと左手に「方丈門」があった。「日蓮宗 本山 比企谷 妙本寺」案内図。ここにも笹竜胆の寺紋が。冠木門に似た「方丈門」を正面から。屋根付きの門であり高麗門(こうらいもん)と呼ばれるものであろうか。その先に「本堂」への石段が。この石段は上らずに、まずは「方丈門」前を左に進んで行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.26
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今年も、我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されてきた芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くありません。その数少ない園芸品種の一つが『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に仏教の縁を重ねるのは私だけでしょうか。この日・8月23日の朝、真っ白な花が咲いていました。時間は6:45。そして8:30過ぎには僅かに外側がピンクに染まりだしました。そして10:30前には花片全体が淡いピンクに染まり始めました。花びらがピンクに染まり、中心の円周上に濃いピンクの点が。時間は13時前。そしてすっかり酔った『酔芙蓉』。時間は15時過ぎ。そして花片も閉じかけて。時間は16時前。そして16:30過ぎには萎んで。酔い潰れている『酔芙蓉』の前には未成年で飲酒禁止の若者が群れを成して。酔い潰れた花の背中に突然の雨が。そして翌朝には酔いつぶれて二日酔い状態。既に地面に落下しているものも。この日の我が夕前につかの間の急な雨に、そして我が家の『酔芙蓉』も雨に濡れて。弱弱しい花片に雨滴が留まり、安らかに和ませてくれる『酔芙蓉』の花。自然の法則に季節も忘れず、既に秋の兆しに『酔芙蓉』の花は夏とも別れを告げる準備に。小さな蕾が少しずつ大きくなり、とある朝、命満ちて開花し、色を変化させながら、一日の寿命を終える『酔芙蓉』に何故か親近感を覚え始めた70過ぎの前期高齢者なのです。そして『酔芙蓉』👈リンク と言う歌のある事を今知ったのです。歌:島津悦子作詞:坂口照幸作曲:大谷明裕苦しまないでね 私のことで男が曇れば あとを引くいいの 最後の 逢瀬でも酔えるひと刻その刻だけをせめて私に 下されば花はひと咲き 酔芙蓉(すいふよう)男の好みに 女は合わす日陰の恋なら 尚更に帯はくれなゐ しじら織りどうぞその目に 残して欲しい今日を限りの 一夜咲き咲いて一生 越えもするあなたの接吻 火の接吻で女の命を 閉じらせて夜をこのまま 裂かれても肌のすき間に あなたが匂う夢の果てまで 一緒です花はひと咲き 酔芙蓉
2021.08.25
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「杉本寺」を後にして、金沢街道を「浄妙寺」に向かって進む。右手に「報国寺」への橋「華の橋」。「浄明寺」バス停の先の路地を左に曲がり「浄妙寺」の「山門」に向かって進む。正面に「浄妙寺」の「山門」が。鎌倉市浄明寺3丁目8−31。寺の名前は「浄妙寺」ですが、このあたりの地名やバス停の名前は「浄明寺」と表記されており、漢字が異なる。地名を決めるときに、「浄妙寺」に遠慮してあえて真ん中の字を明に変えて「浄明寺」としたとの説があるのだと。「浄妙寺(じょうみょうじ)源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼が、退耕行勇を開山として建立しました。行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧です。鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院でした。現在は総門、本堂、客殿、庫裡が残っています。茶室・喜泉庵と枯山水の庭は平成三年に復元されました。本堂の奥にある鎌足稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされています。● 宗 派 臨済宗建長寺派● 山号寺号 稲荷山浄妙寺(とうかざん)● 建 立 文治4年 (1188)● 開 山 退耕行勇 (たいこうぎょうゆう)● 開 基 足利義兼」歴史を感じさせる石塔が左手に。寺号標石「稲荷山淨妙禪寺」。「浄妙寺」は、鎌倉市にある臨済宗建長寺派の仏教寺院。山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさんじょうみょうこうりぜんじ)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位、鎌倉三十三観音第9番の寺、札所本尊は聖観世音。「山門」。「山門」の扁額は「稲荷山」。左側にある拝観受付所で拝観料 100円を支払い境内へ。「稲荷山 浄妙寺 境内ご案内」。石畳の参道を「本堂」に向かって進む。浄妙寺は、鎌倉五山の一つとして栄えた寺。かつては広大な土地に、多くのお堂が建つ大寺院であった。残念ながら、火災により大部分を焼失し、現在ではいくつかの堂が建つのみとなっている。参道の両側には白砂の敷かれた庭園が。前庭の改修で「光悦寺垣(こうえつじがき)」が誕生していたのであった。正面に大きな屋根を持つ「本堂」。銅板葺で威厳のある建物なのであった。参道の左手奥にあった「花塚」。年に一度、花の供養を行っていると。「光悦寺垣(こうえつじがき)」の庭を振り返る。「本堂」。寄棟造の銅板葺きで「起り(むくり)」と呼ばれる、膨らむような形の屋根が特徴の建物。平面は方丈形式の六間取りとする。堂内には南北朝時代に作られた鎌倉十三仏の一つである本尊の「木造釈迦如来坐像」、木造淡島明神立像」、開山の退耕行勇坐像(南北朝)〔重要文化財〕が安置されています。現在の本堂は宝暦6年(1756)に再建されたと伝わる。御詠歌:(鎌倉三十三観音霊場第九番)聖観世音菩薩『はるばると まゐりておかむ 観世音 ほとけのおしへ 弥陀の浄土へ』内陣には「方丈」と。「本堂」を斜めから。右手に「寺務所」。「石窯ガーデンテラス」に向かって石段を上って行った。鉢の蓮の花が。「石窯ガーデンテラス」案内板。浄妙寺境内の高台に、80年近い歴史を刻んだ洋館を改装して、石窯で焼くパンを提供するカフェ&レストランとして 2000年5月にオープン。イングリッシュガーデンを望める洋館のテラスで楽しめるアフタヌーンティー。 「https://tea-magazine.net/afternoontea/26868/」より前庭の花壇。シモツケ草に似ていたが。その先に「足利直義公の墓」案内板があった。前方に「延福寺跡」のやぐらが姿を現した。「延福寺」は、足利尊氏の異母兄高義が母契忍禅尼の供養のために建てた寺で、開山は足庵和尚と伝えられている。一説には、高義の菩提を弔うために建てられたとも(高義の法号は「延福寺殿」)。浄妙寺境内の西北が延福寺のあったという場所。1352年(文和元年・正平7年)2月26日、足利尊氏によって幽閉されていた足利直義(高義・尊氏の弟)は延福寺で病死したと伝えられている。尊氏に毒殺されたとの説もある と。「延福寺跡」には3つの大きな「やぐら」があった。一番手前の「やぐら」には多くの「宝篋印塔」が安置されていた。「足利直義墓」。足利直義は正平七年(1352)2月26日に甥にして養子である足利基氏の元服を見届けた翌日に亡くなった。享年46歳。この直義の死の原因について足利尊氏による毒殺説が有力だが、『観応の擾乱』の著者である亀田氏は病死(一説では肝臓癌?)であったとしている。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政がはじまってから20年近く、尊氏・直義兄弟は戦乱の世を休む暇なく、ともに走り続けてきたのだが、決定的に仲たがいすることはなく、心の底ではお互いに信頼していたと。「宝篋印塔」をズームして。真ん中の「やぐら」には多くの「五輪塔」が。「五輪塔」をズームして。一番右の「やぐら」にも「五輪塔」が。「五輪塔」をズームして。「足利直義公の墓」を後にして坂道を下り、「浄妙寺」の墓地を見る。更に墓地の中を進むと「足利貞氏公墓所」案内板があった。「足利貞氏」の「宝篋印塔」。近づいて。「足利貞氏」は「浄妙寺」の中興開基。八幡太郎義家から数えて八代目の子孫。室町幕府を開いた足利尊氏の父。「足利氏略系図」。「足利貞氏公の墓」。足利貞氏の墓と伝える明徳三年(1392年)銘の宝篋印塔。基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。中央部には「宝生如来」が浮き彫りされていた。「源将祖先裔廟」碑。その奥には小さな多くの「宝篋印塔」が。「足利貞氏公の墓」の前から「浄妙寺」の「本堂」を見る。手前にあるのが「開山堂(かいさんどう)」堂内には、「木造退耕禅師坐像」、「木造藤原鎌足像」、「木造三宝荒神立像」、「伽藍神倚像(がらんじんいぞう)」など寺宝が安置されていると。「本堂」裏にあった「開山堂」を横から。「鎌足桜」。「鎌足桜藤原鎌足公ゆかりの八重桜」。2008年(平成20年)2月19日、藤原鎌足の伝承が残る「鎌足桜」が、同じく藤原鎌足の「鎌槍伝説」が残されている浄妙寺に寄贈された。「鎌足桜」には、藤原鎌足が木更津市の高蔵寺(高倉観音)を参拝した際に、持っていた桜の木の杖を地面にさしたところ、それが根づいて桜の木となったという伝説が残されている(木更津市の天然記念物)。「鎌足桜」。【https://blog.goo.ne.jp/sakuramusubi-gs/e/5f989c815c135b5b375d3df0e2dcc254】より「浄妙寺周辺公衆トイレ案内図」鎌倉市の公衆トイレには、このような現在地周辺のトイレ案内図が掲示されていた。そして「茶堂 喜泉庵」を訪ねた。未だ雨戸は閉まっていたが。前回訪ねたときは白砂に雪が残っていたが。白砂青松の枯山水庭園。水流を表す砂紋を白砂に描いた枯山水の庭園は杉苔の描く曲線も美しく。次に訪ねたのが「熊野神社」。一の鳥居を潜り急な石段を上っていった。そして、息を切らしながら「熊野神社」の「社殿」に到着。かつてこのあたりには「大休寺」があったと。「浄明寺地区の鎮守さま 熊野神社の祭神神楽について相模風土記稿に熊野神社は村の鎮守なりと記録されてあります。このお宮は古くから浄明寺地区の氏神様として信仰されてきました。社伝によれば応永年間(1394〜1427年)及び永正年間(1504〜1520年)に社殿を再建したと伝えられています。明治6年(1873年)には国より正式に浄明寺地区の鎮守として公認され昭和27年には宗教法人として登記され現在にいたりました。祭神は、天宇頭女神、伊弉諾命、伊弉冊命の三柱です。七月の祭礼(夏祭り)には神楽が奏されますが「湯花神楽」「鎌倉神楽」といわれ地元の人々から愛されていました。然し最近では数年おきにおこなっています。火の神水の神を招神して感謝し、除災招福を祈り弓矢の威力で悪鬼調伏を行います。 平成八年十月吉日」最後に「浄明寺」の「山門」前を右に行くと「三宝荒神像」を祀った「本寂堂」があった。しかし、この時は石段は閉鎖されていて「本寂堂」には近づけなかった。「本寂堂」をズームして。「三宝荒神像」は、三面六臂で仏・法・僧の三宝を守る神(浄妙寺鎮護の神)。帰ってからネットで調べると、かって「浄妙寺」には、足利義兼が発願し、北条政子が造らせたという荒神像、不動像を安置する「本寂堂」があったと。現在伝えられている「木造三宝荒神像」は室町時代のもので、「開山堂」に安置されている、と。三宝荒神は、三面六臂で仏・法・僧の三宝を守る神(浄妙寺鎮護の神)。「開山堂」に安置されている三宝荒神像は、このようなもの。(非公開)。 【https://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/0309taka/syasin.htm】より「鎌足稲荷神社」を訪ねるため、更に坂道を上って行った。道の突き当りを右に曲がると、小さな石の階段が続いていた。境内への長い階段を上って行った。そして前方に「鎌足稲荷神社」が見えて来た。稲荷大明神を祀る。ご利益は商売繁盛・殖産興業・家内安全・心願成就・厄除け・開運。浄妙寺には、鎌倉の地名の由来ともされる藤原鎌足の「鎌槍(かまやり)伝説」が残されている。昔、藤原鎌足は、鹿島神宮参詣の途中で由比の里(現鎌倉)に宿泊した。すると、夢に現れた老人から「鎌槍をこの地に埋めれば天下はよく治まる」というお告げを受け、白狐に導かれるまま所持していた鎌槍を浄妙寺の裏山に埋めたのだという。鎌倉という地名は、この鎌足の「鎌槍」から生まれたという説がある のだと。以前に頂いた「鎌倉五山第五位 稲荷山浄妙寺」の御朱印です。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場第九番 稲荷山浄妙寺」の「聖観世音菩薩」の御朱印です。そしてこの日の「古都「鎌倉」を巡る」の予定の散策を終了し、往路と同じく「浄明寺」バス停から鎌倉駅へ。そして大船駅から東海道線、小田急線を利用して帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.25
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一昨日(8/22)は満月の日であり、我が部屋から雲に見え隠れする満月そしてその上に木星の姿が。ネットによると「8月22日・この日の満月は、英語で「Sturgeon Moon(スタージェン ムーン)」と呼ばれます。これはネイティブ・アメリカンが農耕や漁業の目安として名付けたもので、スタージェン(Sturgeon)とはチョウザメのこと。チョウザメはこの時期に成熟するため、漁を始める好機となっていました。」と。時間は20:30過ぎ。我デジカメで最大にズームして。21時03分に最も月が満ちた状態になるとのことでしたが、その時間には雲が手前に。そして木星もズームして。もちろん「木星の環」は全く判りません。望遠鏡を使えば、木星の縞模様の詳細に見えるのでしょうが。そして我が家の前の農家の温室の屋根には月の光が。ズームして。この日・2021年8月22日は、旧暦(太陰太陽暦)の7月15日。旧暦で7月15日といえばお盆です。「お盆って8月15日では?」と思うかも知れません。現在のお盆は「月遅れのお盆」といって。旧暦で7月15日にしていたのを、月を8月に変えたもの。8月22日が旧暦のお盆になります。旧暦(太陰太陽暦)では毎月15日は必ず満月になります。そのように作ってある暦だからです。だからこの日・旧暦のお盆(旧暦7月15日)も満月!!
2021.08.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク金沢街道・県道204号線を西に進み「杉本寺」に到着。「杉本寺」入口。鎌倉市二階堂903。左右に木製の提灯スタンドが新設されていた。「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の準備か。「盂蘭盆会」とは、旧暦の7月15日を中心に7月13日~7月16日に行われる祖先の冥福を祈る仏事のこと。「本尊十一面観世音菩薩」碑。三体の十一面観音様をご本尊とし、鎌倉・坂東三十三観音霊場第一番札所である鎌倉最古の寺院。「坂東札所第一番杉本寺観世音」碑。「杉本寺伽藍復興大勧進御案内」。「縁起にありますように、当山は天平6年(734)光明皇后の御願により、行基菩薩が開山となられ自ら一刀三礼され、十一面観世音菩薩を本尊として奉安し創建されました。爾来坂東第一番の観音霊場として日夜祈念修法されて参りましたが、鎌倉・室町時代の大火・兵火に遭い、 江戸期に於いては一時期無住の時もあり、後の明治の廃仏毀釈、又震災等により寺運も衰微し、七堂伽藍も観音堂等を除き、悉く焼失倒壊していしまいました。昭和48年より伽藍復興大勧進の一つとして茅一束運動を進めて参りましたが、全国はもとより遠くハワイ欧米の方々も含め多くの皆様のご協力、ご協讃により浄財を得まして、 左記のごとく円成の運びと相成りました。これもひとえに御本尊の御加護と皆様の御信仰の賜物と住職並びに世話人一同厚く御礼申し上げます。引続き勧進を進めて参りますので、今後とも皆様のご協力ご協讃を切にお願い申し上げます。」「境内配置図」。 【https://kamakuratrip.com/sugimotodera/】より「杉本寺(すぎもとでら)鎌倉幕府が成立する500年も前の奈良時代(八世紀)に、行基が開いたと伝える鎌倉最古の寺です。行基は奈良の大仏造営への貢献や貧民救済の社会事業などで知られています。その後、光明皇后の寄進で本堂が建てられたと言われています。本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。坂東三十三観音霊場の第一番札所で、8月10日の縁日は参拝者でにぎわいます。● 宗 派 天台宗● 山号寺号 大蔵山(だいぞうざん)杉本寺● 建 立 8世紀● 開 山 行基● 開 基 光明皇后」「拝観受付所」、「仁王門」に向かって石段を上る。無人だったので「拝観受付所」で300円を置く。「仁王門」への石段の両側には「十一面杉本観音」の幟が。「仁王門」を見る。茅葺の屋根が趣ある作り。両側に「仁王像」が。「仁王像」は運慶作と伝えられている。正面に扁額「大蔵山」。多くの「千社札」が貼られていた。阿形像(右側)。お顔をズームして。目力がかなり強めの仁王像。横から。吽形像(左側)。お顔をズームで。横から。「杉本寺本堂茅葺替・大勧進のご案内当山は、鎌倉でも数少ない茅葺きの御堂で御座居ます。茅葺きの屋根はおよそ十年から十五年ごとに葺き替え工事を必要としております。この度、平成二十五年十月に着工し平成二十六年八月十日 円成の運びとなりました。皆様のご協賛に厚くお礼申し上げます。坂東観音霊場第一番札所として、この茅葺き屋根の御堂を永く後世に伝え、本尊と皆様との御結縁をより深めて頂きたいと、ここに巡礼・御参拝の皆様へ引き続き御協賛・御支援を賜りたく、浄財勧募のお願いを申し上げる次第でございます。 合掌 茅一束 二千円 受付は堂内寺務所へ」仁王門を抜けると、深い緑色に染まった「苔の石段」があらわれた。鎌倉の山の石を切り出して作られた階段は長い年月をかけてすり減り、そこが苔に覆われていき、情緒ある景観をつくりだしているのであった。現在は苔の保護のため立ち入りが禁止されていた。「苔の石段」をズームして。さらに。「仁王門」の茅葺きの屋根を振り返る。茅葺きの屋根にも苔が生えて。「仁王門」をくぐると右手にあった「大蔵弁財天」。石鳥居の扁額は「大藏辨財天」。正面に「大香炉」と「大蔵弁財天」。「大香炉」。「大蔵弁財天」。「宝篋印塔」。参道左手には「弁天池」。「大蔵弁財天」と「弁天池」。石段の手前の左奥にあった「書院・庫裡」。「苔の石段」の左手にある別の石段を「観音堂」に向かって上って行く。石段の途中右手にあった像。若き日の「日本武尊(やまとたける)」の像のような感じがしたが??祈りの像も。「観音堂」。杉本寺の本堂(観音堂)は、棟札に延宝6年(1678年)とある茅葺の建物で、県の文化財に指定されている。内陣と外陣に分けられた中世密教本堂形式のもの。内陣には本尊の「木造十一面観音立像」が安置されている(行基・慈覚・恵心作の三体:三尊同殿)。「回向柱」には「お手綱」が。「お手綱本尊十一面観音様のお指から糸で繋がっております。御縁をお結びくたさい。感染予防の為、手指の消毒に御協力ください。」「本堂(観音堂)」前から「苔の石段」を見下ろす。「本堂(観音堂)」を正面から。本尊は十一面観世音菩薩三体で、寛和2年(986)恵心僧都作,仁寿元年(851)比叡山慈覚大師作、及び市指定重文の天平6年(734)行基作の木造の観音立像である。これらは国の重要文化財に指定されている。そして「お手綱」が「本堂内陣」へと。ここにも左右に木製の盆提灯スタンドが新設されていた。「鐘楼堂」。「梵鐘」。これは「鐘楼」関連の石碑であろうが解読不能であった。尾崎迷堂の句碑表「春潮や 南海補陀落 山の下」裏「手をかざし 見けるは秋の 燕かな」尾崎迷堂:1891年(明治24)~1970年(昭和45)、大正から昭和時代の俳人。1913年(大正2)、天台宗の僧となり、杉本寺や大磯の慶覚院などの住職を務めた。僧侶のかたわら俳句に精進し、土地の人々と俳句を通じて交流を深めた。なお、荏柄天神社の大銀杏の下にも句碑が建てられているのであった。「五輪塔群」。杉本寺のある大蔵山は山城があった所で、南北朝時代に北畠顕家との合戦で杉本城城主の斯波家長を含む兵300全員が討ち死にした。かつて城塞の一部でもあった境内には、多数の供養塔が残されているのだ。「七地蔵尊」。「六地蔵」と右の「身代地蔵」。「地蔵菩薩像」。「本堂」右奥にあった、「熊野大権現」、「白山大権現」。扁額「熊野大権現」、「白山大権現」。「社殿」。やぐらの中に石祠も。再び「本堂(観音堂)」前に。「本堂(観音堂)」前の「大香炉」。「本堂(観音堂)」左手にあった墓地。再び「苔の石段」を見る。「五重石塔」。工事中であったこの建物は茶室「福寿庵」。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場第一番 杉本寺」の「十一面観世音・大悲殿」の御朱印です。以前に頂いた「鎌倉二十四地蔵尊霊場第四番 杉本寺」の「身代地蔵尊」の御朱印です。以前に頂いた「鎌倉二十四地蔵尊霊場第六番 杉本寺」の「尼将軍地蔵尊」の御朱印です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.24
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「明王院」の入口まで戻る。「五大堂 明王院」碑が参道入口に。「不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉」の五大明王を祀り、それぞれの明王に大きなお堂があったことから「五大堂」とも呼ばれている。鎌倉で五大明王を祀るのは明王院のみであると。「五大堂 明王院」碑の下にも五輪塔と石碑があった。そして「山門」に向かって進む。「冠木門」。「明王院(みょうおういん)鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が、将軍の祈願寺として建立しました。幕府の鬼門の方角にあたるため、鬼門除け祈願寺として本尊の五大明王が大きなお堂にそれぞれ祀られていたことから、古くから五大堂と呼ばれていました。五大明王とは不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王で、鎌倉市内で祀られているのは明王院だけです。毎月二十八日には護摩法要が行われ、この時だけは誰でも本堂に入ることができます。● 宗 派 真言宗御室派● 山号寺号 飯盛山寛喜寺明王院 (はんせいざんかんきじみょうおういん)● 創 建 嘉禎元年 (1235)● 開 基 藤原頼経● 開 山 定豪 (元鶴岡八幡宮別当)」石畳の参道を進む。石灯籠。そして藁葺き屋根の「本堂」。宗 派 真言宗本 尊 不動明王(五大明王)創 建 1235年開 基 藤原頼経札 所 鎌倉三十三観音第8番、鎌倉十三仏第1番「護摩法要明王院は鎌倉時代から続く祈願寺(供養ではなく、祈願を主とする寺院)です。現在、毎月ニ八日(本尊不動明王の御縁日)午後一時より、どなたでも参加していただける護摩法要(本堂内で火をたいて祈願する法要)を奉修しております。」「本堂内陣」。不動明王坐像(鎌倉時代) 寄木造像高84cm 肥後定慶作? 国指定重要文化財。 【https://butszo.jp/2013/12/1570/】よりお顔をズームで。 【https://butszo.jp/2013/12/1570/】より境内の石仏と石碑。「南無大師遍照金剛」碑。「地蔵菩薩像」。「寺務所」。「寺務所」入口。美しい茅葺屋根と趣のある佇まいを残した寺院。「客殿」。「鐘楼」。境内右手奥のこの建物は?明王院の東側・胡桃山の山道を上り、瑞泉寺方向に向かうハイキングコースの途中に弁天様の祠(ほこら)があり、そこを左に行くと頂上には大江広元の墓と伝わる五層塔が。広元邸の山頂に墓を建てたと。石層塔で高さは1m70cmほどで、椎(しい)の木の側に建っていた。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第八番 五大堂明王院」の「十一面観世音」の御朱印です。以前に頂いた「鎌倉十三佛 第一番 五大堂明王院」の「不動明王」の御朱印です。「明王院」を後にして、滑川沿いを「明石橋」に向かって進む。「明石橋」。「明石橋」交差点を渡る。滑川沿いを東に進むと右手前方に石碑があった。「大江廣元邸址」碑。「大江氏 奕世(えきせい:累代)学匠トシテ顕(あらわ)ル 嘗(かっ)テ匡房(まさふさ) 兵法ヲ以テ義家ニ授ク 広元ハ其ノ匡房ノ曽孫(ひまご)ナリ 頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ来リ 常ニ帷握(いあく:中枢)ニ持シ 機密ニ参画ス 幕府創定ノ功 広元ノ力与リテ多キニ居リ 相模毛利荘ヲ食ム(俸禄ス) 子孫依リテ毛利ヲ氏トス 而 (しこう)シテ因縁奇シクモ 此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ 王政復古ニ倡首(しょうしゅ:先導)タリ 此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖(始祖) 大膳大夫ノ邸址ナリ」。【大江(おおえ)氏は、代々学門の家柄です。大江匡房(まさふさ)は、そのむかし源義家に、兵法を教えたといわれており、大江広元は匡房のひまごにあたります。広元は頼朝に招かれて鎌倉に来てからは、常に政治の中央におり、 幕府を創るのに当っての功績は広元による所が大きいといわれています。そして神奈川の毛利に領地をもらって、毛利を名乗りました。しかし皮肉にも、この鎌倉幕府を創った功績者の子孫は、700年後の明治維新の時、天皇制の復活運動に活躍しております。この場所がその毛利の先祖の家の跡であります。】そして再び橋を渡り「金沢街道」に戻ると、正面の道の先にあったのが「イエズス会日本殉教者修道院」の入口門。「NPO法人 アルペ難民センター」👈リンクの文字が。神奈川県鎌倉市十二所80。来日した難民に対して、情報提供、難民認定手続き支援、定住支援に関する事業を行い、難民が自立して日本社会で生活し、地域社会とつながり、寛容性と多様性にあふれた多民族・多文化共生社会づくりを行っている と。「ここは修道院(黙想の家)です。関係者以外の立ち入りはご遠慮下さい。」と。ここまでとし、引き返したがネットより「イエズス会日本殉教者修道院」を。 【https://rubese.net/gurucomi001/?id=2768283】よりそして金沢街道を戻ると左手にあったのが「十二所公民館」。その先の路地を右手に折れると、その先の路地の角にも石碑が。「大慈寺跡」碑。「大慈寺ハ建暦二年(1212) 源実朝ノ創建ニカカリ 新御堂ト号ス 建保二年(1214)七月二十七日 大供養ヲ行ハレ 尼御台政子及ヒ将軍実朝 大ニ儀衛(格式)ヲ張リ之ニ臨メリ 後正嘉元年(1257) 征夷大将軍宗尊親王ノ時 本堂 丈六堂 新阿弥陀堂 釈迦堂 三重ノ塔 鐘楼等悉(ことごと)ク修理ヲ加ヘラレ 荘厳ノ美殆ント古跡ニ軼(過)タリト 東(吾妻)鑑ニ見 ヘタリ 当時ノ盛観以テ想フベシ 爾来(以後)星霜七百年 布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メス 桑滄(滄海桑田)ノ変嘆ズベキ哉」【大慈寺は、1212年に、源実朝(さねとも)が建てた寺で、またの名前を新御堂(しんみどう)と言いました。1214年7月27日に、大がかりな供養(くよう)が行われ、頼朝の妻の政子と将軍実朝が、格式張って参列いたしました。 その後1257年に、将軍宗尊(むねたか)親王の時、本堂、丈六(じょうろく)堂、新阿弥陀(しんあみだ)堂、釈迦(しゃか)堂、三重の塔、鐘楼(しょうろう)などことごとく修理を加えられて、その美しさは、ほとんど前の建物以上である、 と吾妻鑑(あずまかがみ)に書いてあります。 当時の素晴らしさが目に浮かぶでしょう。 その後740年過ぎた現在、ひとかけらの礎石(そせき)をも見付けることができません。本当に時代の変化の大きさには驚かされます。】再び金沢街道の「明石橋」交差点を通過する。道端には「クレオメ」の花が。和名は「西洋風蝶草(セイヨウフウチョウソウ)」風に蝶が舞うような花姿から。または「酔蝶草(スイチョウカ)」。クレオメの花が蕾のときは濃いピンク色で、咲き進むにつれてだんだん白っぽく変化する様子を酔った蝶に見立てたことから。酔芙蓉と色の変化は反対。そして「浄明寺」バス停まで戻ると、「浄明寺周辺観光案内図」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.23
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我が家の横の菜園の朝顔の花です。スナップエンドウのネットを使って、タネを撒いて朝顔を育てました。紫の「キキョウ咲き朝顔」。こちらは「大輪咲き朝顔」。「曜白(ようじろ)大輪朝顔」。赤紫の地に白い筋模様が入った朝顔。小柄な青。こちらも「曜白(ようじろ)大輪朝顔」。「覆輪朝顔」。花弁の外周部が、白い帯状になる模様を指す。ピンクの大輪朝顔。「車絞(花笠)朝顔]。色地に、覆輪が花弁の中央近くまで流れ込み、星形の模様になる。流れ込んで模様がぼやけているものは花笠と呼ぶ。やや淡い青の小柄な朝顔。そしてこれは朝顔ではなく、我が庭の早朝の「酔芙蓉」。
2021.08.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「足利公方邸旧蹟」から金沢街道まで戻ると右手にあったのが「日本キリスト教団 鎌倉泉水教会」。「鎌倉泉水教会」へ入る橋。「虹の橋」。橋の名の由来は??「鎌倉泉水教会」 👈リンク は 日本基督教団 に属するプロテスタントの教会。昭和30年(1955年)2月が起源で、市内東部の浄明寺地区で伝道するために鎌倉教会の青年会と家庭集会(メソジスト教会の「組会」)に集った信徒の祈りから始まった と。鎌倉市浄明寺5丁目4−2そして引き返し金沢街道を更に進み「泉水橋」交差点を右折する。「滑川」に架かる「泉水橋」を渡る。「滑川」に架かる橋の名を確認できた。そして次の目的地の「曹洞宗 松久寺(しょうきゅうじ)」の案内表示が。鎌倉市浄明寺の住宅街の路地を右に折れ進む。そして前方に「松久寺」の境内が見えて来た。「曹洞宗 長盛山 松久寺」。右手には駐車場が。「佛の十戒一、生きとし生けるもの生命を大切にしなければならない。ニ、盗みや不正を犯してはならない。三、夫婦の道を乱してはならない。四、うそ偽りを言ってはならない。五、迷いの酒や思想に溺れてはならない。六、他人の過ちを言い触らしてはならない。七、おのれの自慢ひとの悪口を言ってはならない。八、物でも心でも与えることを惜しんではならない。九、激しい怒りで自分を失ってはならない。十、佛陀の教えを疑ってはならないこれはわれら佛教徒の生活信条である。」「松久寺」の参道入口に向かって進む。参道入口には巨岩が門の如くに。鎌倉市浄明寺5丁目9−36。「曹洞宗 松久寺」の「掲示板」。「告諭いま、私たらは多くの苦難に直面しています。新型コロナウイルス感染症の全世界的な拡大により、多くの尊い生命が失われ、人びとは深い悲しみの中にいます。また、戦争、貧困、格差などの社会不安、近年頻発する自然災害は、私たちに大きな痛みをもたらしています今日、曹洞宗の信仰に生きる私たらは、どのような生き方を目指すべきでしようかお釈迦さまは、人生における苦悩の中で、菩提樹の下、坐禅を重ねられ、お悟りを開かれました。その御教えは、祖師方によって相承され、いま、私たちも頂くことか出来ます。身を調え、息を調え、心静かに坐りましょう。仏さまの智慧と同じ正信心により、ものごとを正しく見ることが出来ます。その時、おのずから他者を思いやり助け合う慈悲のこころが育まれるのです。私たちの社会ではさまざまな分断が現出しています。感染症の広がりにより人間関係のさらなる希薄化が進む中、いまこそ、一人ひとりが菩提心を発し、人と人との温かなつながりを深めていかなければなりません。お互いに手を携え、四摂法の「同事」のおさとしを行じてまいりましょう。すべての人びとが救われることが御仏の願いであります。日々の生活の中で、仏さまに掌を合わせ、世界中の人びとが安らかに暮らせるよう祈り念じ、皆ともに菩薩行を進めてまいりましょう。 合掌。南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)南無高祖承陽師道元禅師(なむこうそじょうようだいしどうげんぜんじ)南無太祖常済師瑩山禅師(なむたいそじょうさいだいしけいざんぜんじ)」参道の坂の両脇には石仏が。何故か今の管長(上の写真)に似ている!?こちらは、歴史を感じさせる石仏。石灯籠も。更に石仏が並ぶ。祈りの石仏。「觀窓如空童子」、「宝永六己丑年(1709)二月十三日」と刻まれた石仏。小さなやぐらの中にも。参道のモミジ葉の緑を楽しみながら更に進む。寺務所・本堂への入口が見えて来た。寺号標石「曹洞宗 松久禅寺」。本堂への入口扉には「梅鉢紋」が。ここが「山門」なのであっただろうか。そして現代的?な彫刻も。「衹管打坐(しかんたざ)道元禅師は、座禅に目的や手段を設定せずただひたすら座りそのまま仏道の実践であると説示された。」「寺務所」内。寺務所の「天井画」は祈りの手の姿が。作家・木下晋さんの「無」という作品とのこと。「山門」を入ると左手には「木の根置物」が。「山門」から「本堂」を見る。「本堂」には五色の幕が。「五色の幕は、「五正色幕(ごせいじきまく)」・「五間色(ごけんじきまく)」などといい、寺院における特別な行事が執り行われる際に本殿の正面に取付けられる幕で、寺院にによっては「赤・青・黄・白・緑」の五色であったり、「赤・白・黄・紫・緑」や「青・赤・黄・白・紫」などの五色であったりと多少色が異なることがありますが、古くは中国から伝わった陰陽五行説の五行配当色の「赤・青・黄・白・黒」からきており、「緑・紫」などはその中間色となっています。」とネットから。松久寺は、1655年(明暦元年)、心霊牛道(暉山吐光禅師)が開いた曹洞宗の寺院。山号は長盛山。本尊は地蔵菩薩。東京都港区芝白金にありましたが、1966年(昭和41年)にここ鎌倉に移転。境内にあった「稲荷社」。そして帰路の参道からも「稲荷社」を見る。駐車場隅にあった歌碑。「濁りなき 心の水に すむ月は 波も砕けて 光とぞなる 光とぞなる」道元禅師の仏足石歌であると。「濁りなき心の水にすむ月」とは、坐禅の心に宿る月と考えられます。坐禅の心で日常生活に向きあうとき、悩みや迷い、とらわれや邪な念い、煩悩といった「波」が砕けて「光」となる。すなわち、行じ続けて深まりゆく坐禅の心が、ゆるぎない安らぎへと導かれることである と。そして再び金沢街道・県道204号線の「泉水橋」を渡る。「泉水橋」。県道を朝比奈切通しに向かい、ハイランドへ分かれる「明石橋」交差点の手前の左側に十数個の石塔が並ぶ一角があった。五輪塔、無縫塔、石仏、供養塔、庚申供養塔などが建つ塚(墓地)。金沢街道と滑川に囲まれた場所であり、奥に「泉水橋供養塔」と彫られた供養塔や、手前には中央に「大阿闍梨法印辨算‥」と彫られた弘化2年(1845年)銘の石碑と無縫塔が建ち、無縫塔と石仏が2列に並び、端にたくさんの五輪塔が置かれている。この地は大慈寺の丈六堂の跡地と考えられる辺りで、この丈六堂は江戸時代までが存在していたが、その後廃絶になった。この辺りは三代将軍源実朝が創建した広大な境内を持つ大慈寺があったとされ、滑川を渡った側には「大慈寺跡」石碑も建っている。大慈寺跡にあったお墓に江戸時代までに渡って石碑や供養塔、石仏が建てられてきたのであろう。無縫塔が並ぶ。鎌倉市十二所934−1。中央に「大阿闍梨法印辨算‥」と彫られた弘化2年(1845年)銘の石碑。10基前後の石仏が並ぶ。別の角度から。石仏・庚申塔がコの字型に並んでいた。こちらが「二ツ橋児童遊園」側の「庚申塔塚」への入口。「二ツ橋児童遊園」の中を歩き「二ツ橋」を渡り進む。かつて橋の下に2つの石があって、橋から落ちても怪我をしないので「けがなし石」と呼ばれていた。この石は、五大明王を祀る五大堂に使われていた礎石の一部だったという。正面に「明王院」の石碑、参道があったが、ここは帰路に訪ねる事とし手前を左に進んで行った。そして、山道を進んで行くと左手には「やぐら」の如き姿が。この「やぐら」には何も安置されていないようであった。その先、右手にあったのが「salon de 酔鯨館」👈リンク。美術館で芸術家・石丸雅通の自宅アトリエを「Salon de 酔鯨館」として公開している。収蔵品は、石丸雅通の大型レザーアート作品をはじめ、長男の運人の作品も展示。また「Salon de 酔鯨館」では、室内楽のコンサートや舞踏ステージ、映画のロケにも使用されている と。玄関脇の巨大サメがお出迎え。振り返って。左手が館の入り口。正面のモニュメント。芝生の横庭。庭には一頭の巨大鯨が。ベランダ。ベランダの壁のモニュメント。これは何を表現??次に訪ねたのが「梶原井戸」。山の斜面に小さな石の祠があった。笹の葉が生い茂り、井戸らしきものは見当たらなかったが。ここが「梶原井戸」の場所であろう。隙間から僅かに水面が見えたのであった。そして帰路にあった「八百善」👈リンク。鎌倉十三仏詣の一つである明王院の敷地内にある、本格的な江戸料理専門店。創業は江戸中期の1717年。11代将軍徳川家斉や勝海舟らも食したという高級店として東京都内で代を重ねていたが、同寺院内にあった旧財閥の別荘を借り受けたことをきっかけに、ここ鎌倉の地に開いたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.22
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクこの日は7月29日、「古都「鎌倉」を巡る」の11回目。小田急線、東海道線、横須賀線を利用して鎌倉駅に到着。鎌倉駅から京急バス・金沢八景行きを利用。そして「浄明寺」バス停で下車。この日は、前回訪ねなかった「報国寺」の周辺の社寺、遺跡を巡ったのであった。まずは少し戻り、前回訪ね忘れた「報国寺」入口の「華の橋」の麓にあった石碑群を訪ねた。「華の橋」。この橋の奥に前回訪ねた「旧華頂宮邸」があるのだ。この屋敷が建てられる時に、現在のような近代的な橋が掛けられたと。『鎌倉市文化財資料 第7集 としよりのはなし』によると、「華の橋」のあたりには橋はなく、川に飛石が置かれてこれを渡っていたと。現在の県道ももっと低く、「旧華頂宮邸」が奥に別荘を建てたときにできた橋だから「華頂宮」の「華」をとって「華の橋」というようになったのだと。大きな桜の樹の下の石碑群。「文字庚申塔」碑。頂猿型角柱の道標。角柱の頂部に三猿が。正面には、上部に、日月を浮き彫りし、中心に「庚申供養塔」と刻んでいた。右側には「ーばんすぎもと道」左側に「二ばんいわどのはしより入」とあり、坂東三十三ケ所観音霊場巡礼の一番杉本寺と二番「岩殿寺(がんでんじ)」👈リンクを示す道標であると。この碑は寛政十二年(1800)に立てられたものと。二番岩殿寺(がんでんじ)は逗子市久木5-11-7にある曹洞宗の寺。徳道上人と行基菩薩が開き、花山法皇、後白河法皇が参詣し、そしてとりわけ頼朝が篤い崇敬を寄せた観音霊場。1300年という歴史に思いを馳せることができる希有な寺であると。右から石仏と庚申塔二基。「聖観音」は素朴なお顔。「未開敷(みかいふ )蓮華 (れんげ)(蓮の花の蕾)」を持つ庚申塔。「庚申塔」。天保三(1832)の文字が。「五輪塔」。そして金沢街道に戻り「滑川」に沿って、遊歩道を進む。左手に「浄妙寺」の駐車場そして「浄妙寺」への路地が見えた。この寺の開門は9時からの為、帰路に立ち寄ることに。川底は岩に覆われた「滑川」。川床をなめるように流れていることから付けられた名といわれているのだ。右手にあったのが「一条恵観山荘(いちじょう えかん さんそう)」の脇門。「一条恵観山荘」案内板。「一条恵観山荘 国指定重要文化財 ◀30m先入口」と。そしてこちらが「正門」。「国指定重要文化財 一条恵観山荘」案内板。「国指定重要文化財 一条恵観山荘(いちじょうえかんさんそう)👈リンク江戸時代初期の寛永年間から正保年間にかけて、皇族の一条恵観の別邸として京都西賀茂に創建された茶屋である。戦後、鎌倉に移され、国指定の重要文化財となった。江戸初期の朝廷文化を今に伝える建物として、京都の「桂離宮」に並ぶ貴重な遺構である。その外観は田舎家風であるが、茅葺屋根の内側には杮葺の屋根が葺かれ、自然の形を活かした建材の数々と細工のなされた建具、モダンに描かれた杉戸絵など、皇族の雅で自然を愛する趣向が随所に盛り込まれており、風雅な好みを感じさせる。庭の枯山水・飛び石も合わせて移築されており、一部は茶人の金森宗和の好みと伝わる。 一条恵観(いちじょうえかん)慶長10年(1605年)~寛文12年(1672年)江戸時代初期の皇卿。後陽成天皇の第九皇子。五摂家のひとつ一条家の養子となる。名は兼遐(かねとう)と称し、のちに昭良(あきよし)と改める。摂政・関白を二度ずつ務め、兄である後水尾上皇を支えた。後年、落飾して智徳院恵観となる。和歌をはじめ書や茶の湯に長け、能楽や絵画、立花、香など数々の文化芸能に精通し建築の知識にも優れており、自ら山荘の造作について全て指示したという。茶の湯については金森宗和に学び、山荘と庭園造営に際しては助言を得ていた。」「庭園一般公開 ならびに 喫茶店舗 臨時休業のお知らせ」。「庭園案内板」。「庭園案内図」。「庭園写真」👈リンク。「浮かせ花」・「花手水」の数々の写真。「花手水」は「花を浮かべた手水舎のこともともと、水がないときに草花や草花においた露で手を清めたことを「花手水」と指していましたが、2017年に京都府の楊谷寺(ようこくじ)が手水舎に紫陽花を浮かべたことで、その美しさから全国的に存在が認知されました。」と。更に右側に川を見ながら進むと前方に橋が見えて来た。石橋の下を流れる川は「滑川(なめりかわ)」。橋の名は「青砥橋(あおとばし)」。「青砥橋」の先の民家の竹垣は「光悦寺垣(こうえつじがき)」であろうか。光悦寺垣は反弓形になだらかな曲線を描く、とても優雅な仕切り垣。寛永の三筆の一人である本阿弥光悦の創作であることが名前の由来と言われているが定かにはなっていないようだ。その先の民家の生け垣の中に石碑が。鎌倉市浄明寺5丁目2−1。鎌倉幕府時代から室町幕府時代中頃まで住んでいた「青砥藤綱邸旧蹟」碑。「鎌倉執権ノ美績ヲ談ズル者 概(おおむ)ネ先ズ時頼 時宗ヲ称ス 蓋シ(けだし: 恐ラク)其ノ間 両代ニ歴任セル青砥左衛門尉藤綱ガ捕益ノ功ニ負フ所ノモノ 亦(また)必ズ少ナカラザルベキナリ 藤綱逸話ニ富ム 嘗(かっ)テ夜行キテ滑川ヲ過ギ 誤リテ銭十文ヲ水ニ堕(落)ス 乃(すなわ)チ五十文ヲ以テ炬(たいまつ)ヲ買ヒ水ヲ照ラシテ之ヲ捜レリトノ一事 特ニ最モ人口ニ膾炙(かいしゃ:話題)ス 此ノ地ハ其ノ藤綱ガ居住ノ旧蹟ナリト言フ」【鎌倉の将軍の善い行いを言う時、大体まづ北条時頼(ときより)、北条時宗(ときむね)の名前がでます。しかしその間にあって、両将軍に仕えた青砥藤綱の業績が大きく貢献していることを忘れてはなりません。藤綱には、逸話が多くあります。ある夜のこと、滑川(なめりがわ)を渡るとき、失敗してお金十文(じゅうもん)を川に落としてしまいました。そこで、五十文でたいまつを買って、水を照らしてお金を探したと言う話は、特に多くの人々が話題にしました。この場所は、その藤綱の屋敷の跡であると伝えられています。】「青砥藤綱(あおとふじつな)は鎌倉時代の武士で「青砥左衛門尉」という名で史料に見られるが詳細は不明である。執権の北条時頼に仕えたとされる。藤綱に関する文献として『弘長記』という書物があるが、後世の偽書の可能性がある。この石碑に書かれている話は『太平記』に見えるもので、他にも裁判の公正のため賄賂を受け取らなかった、自らは倹約質素につとめ、執権時頼を諌めた、など逸話が多いが、いずれも後世の創作と考えられている。この橋のあたりは昔は大きな屋敷があり、付近はうっそうとした雑木林に囲まれていた。また、関東大震災で倒壊した後、移築された英勝寺の山門もこの近くにあった。現在は屋敷は宅地として分譲され、山門も復興工事のため解体の上、英勝寺に移されている。」とのネット情報。再び「青砥橋」に向かって引き返す。金沢街道を「十二所」方面に向かって進む。左手の路地の先の民家の前に石碑があった。鎌倉市浄明寺4-3付近。「足利公方邸旧蹟」👈リンク 碑。「頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来二百数十年間子孫相嗣イデ此ニ住ス尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ伝フ子孫京都ニ比擬シテ公方ト僭称ス享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃虚トナル」【足利義兼(よしかね)が、源頼朝が幕府を開いた時に、この場所に家を定めました。その後ニ百数十年間、この地に子孫が代々住みました。足利尊氏(たかうじ)が権力を握り、京都に移った後に、その子の義詮(よしあきら)が2代将軍となって、京都の家を継ぎました。そして義詮の弟の基氏(もとうじ)が関東管領(かんれい)となって、軍の指揮をこの家からとりました。こうして、足利家は子孫に引き継がれました。子孫は京都にならって、公方(くぼう)と名乗っておりました。1455年に公方成氏(なりうじ)は、上杉憲忠(のりただ)と仲たがいし、下総(茨城)の古河(こが)に移ったために、ついに足利公方邸は廃墟となりました。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「報国寺」の竹林の散策を続ける。五重石塔。「竹林」の中には苔生した巨岩が。前方に「茶席・休耕庵」の案内板が見えた。「茶房 休耕庵抹茶 ご希望のお客様は抹茶券を拝観受付でお買い求め下さい。」抹茶券は600円。敷石を進むと「茶房 休耕庵」。抹茶と茶菓子が供される。 竹林で抹茶を一服。一度この場所で抹茶を楽しんだがその折は500円ではなかったろうか。元々この場所には塔頭「休耕庵」があって、現在「迦葉堂」にある「開山天岸慧広座像」(鎌倉市指定文化財)が安置されていたとのこと。女性のお客の姿も。こちらも休憩しながら竹林の光景を楽しめる場所。ここも有料らしい。竹林に陽光が射し込み、竹の葉が光り輝く。竹林の中に石仏などが配置された幽玄の世界。自然下での竹類の分布は、気候が温暖で、湿潤な地域、あるいは熱帯に限られており、アジア東部と南部、それにアフリカと南アメリカに多く、日本が北限とされているのだ。(小型の笹類の北限は、サハリン)。冬季が寒冷だったり、降水量の少ないヨーロッパや北米では、大型に育つ竹類の自然分布は、殆ど知られていない為、欧米人にはこの報国寺は人気の寺なのである。散策道には小さな木橋も。青空に映えて。石灯籠の先にも石仏群が。陽光の射し込まない空間も。こちらは陽光が射し込み。竹林の中は静かな空気が流れているという不思議な空間。竹林越しに「休耕庵」を。竹の葉の囁きも聞きたかったが、この日は風もなく・・・。視覚のみならず、風が竹林を通り抜ける際のざわめきは日本人の耳には心地よく響き、風情を感じさせるものとして俳句や和歌などに歌われ、多くの文学者、画家などの想像力を刺激してきた。旧環境庁の「残したい日本の音風景100選」(京の竹林)👈リンク にも選ばれるなど日本人の感性を象徴するものの一つとも言えるのであった。石仏群。建武元年(1334)創建の銘が。手向けられた花はヒメヒオウギズイセン (姫檜扇水仙)であろうか。青々と天に向かって真っ直ぐに伸びる竹林を眺めていると、この場所は心洗われる空間、時間なのであった。雑草の姿は全く無く。竹は繁殖力が強いうえ、成長が速く地表への日光入射を妨げるため竹藪には他の植物が生えにくく、竹が密生した独自の景観を作ると。林床には竹の葉だけが一面に広がるが、一般の樹木の葉のように黒っぽくならないため、竹林全体がほの明るい印象となることが多いと、ウィキペディアより。そもそもなぜ竹には節があるのだろうか。インターネットで調べてみると、『「竹は、高く伸びるために節がある」と書かれたサイトが多く見受けられた。竹の節について研究した大学の発表によると、「竹は中身が空洞で、ところどころに節を持つことが知られているが、多くの植物の中で竹だけがこうした特徴を有しており、互いに隣り合う節と節の間隔が、ある一定のルールに従うよう絶妙に調節され、結果として、野生の竹が『軽さ』と『強さ』を併せ持つ理想的な構造を『自律的に』形成している」と。この自然が生み出すバランスが竹を高く伸ばし続け、その集合体を「竹林」と呼ぶ と。』そしてこんな文章も。『ロシアの作家アントン・チェーホフは、人生を竹に見立てて、「大きな出来事は竹の節であり、節と節の間にある生活の連続こそが人生である」と語ったそうです。何げない日々を繰り返す中で、あるとき節目がやってきて重要な選択を求められることがあるかもしれません。人のライフスタイルや価値観の多様化が加速していく令和の時代。節目を迎える時期もひとそれぞれでしょう。節に辿り着いた時に一息ついて、過去の節目を振り返り、「よし!」と気合いを入れてまた歩みを進める。その積み重ねが、心豊かな人生を送る秘訣なのかもしれません。』と。オリンピックそしてコロナ禍が終結した下で、その後の価値観の多様化が加速する中で、新しい人生の節目を迎え、残された人生を更に楽しみたいのであるが、如何に・・・。「竹の庭」の散策を終え出口へと向かう。孟宗竹ではなく、細い竹の群生場所も負けじと。「報国寺」の墓地。屋根には草が生えた木と竹のコラボの脇門。本堂の石段の横の細い石の坂道を下る。「迦葉堂」前でモミジ葉が輝く。モミジ葉も竹林の葉にも負けじと青空に映えて。陽光に反射する苔を狙ったが・・・。以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十番 報国寺」の「聖観世音菩薩」の御朱印。「大悲殿」は「聖観世音菩薩」がいる場所の意味。特に御朱印を指定しない場合、こちらの御朱印になるようであった。駐車場横の山は「歴史的風土特別保存地区」。「歴史的風土特別保存地区指定図」。鎌倉市内にはオレンジ色の場所が拡がっていた。この槇の老木は下葉が枯れていたが、頑張って欲しいのであった。そしてこの日のシメに「報国寺」の薬医門の「山門」を振り返る。そして車に戻り、鶴ケ岡八幡宮、建長寺、円覚寺の前を通過し、大船駅近くを通り帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクそして、今まで何回も訪ねている寺である「報国寺」をこの日も訪ねることに。山門である薬医門は、奥に続く参道をあたかも額縁のように切り取っていた。鎌倉市浄明寺2丁目7−4。「報国寺(ほうこくじ)足利、上杉両氏の菩提寺として栄えました。開山は五山文学を代表する天岸慧広(仏乗禅師)です。仏乗禅師(ぶつじょうぜんじ)は、中国より招聘された円覚寺の開山・無学祖元に師事し、のちに中国へ渡って修業した高僧です。開山自筆と伝えられる『東帰集』や、自ら使用した「天岸」、「慧広」の木印は国の重要文化財で、鎌倉国宝館に保管されています。孟宗竹の竹林が有名で、竹の寺とも言われています。● 宗 派 臨済宗建長寺派● 山号寺号 功臣山報国寺 正確には功臣山報国建忠禅寺(こうしんざんほうこくけんちゅうぜんじ)と。● 建 立 建武元年 (1334)● 開 山 天岸慧広(てんがんえこう) (仏乗禅師)● 開 基 足利家時」寺号標石「報国建忠禅寺」。「~ 鎌倉の旧地名 ~ 宅間(たくま) (現在の浄明寺二丁目)報国寺と旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)がある奥深い谷戸の旧名です。鎌倉幕府の絵師、宅間為行がこの地に住んでいたことから、この名が付いたとされます。為行の父 為久は、源頼朝の命を受け京都から来た人物で、頼朝の父 義朝の菩提を弔うために創建された勝長寿院の壁画を描くなど、幕府と強いつながりをもっていました。報国寺は、建武元年(1334)に創建されました。創建に深く関わった上杉重兼の一族は「宅間上杉氏」と呼ばれ、この谷戸に屋敷を構えていたとされます。鎌倉幕府滅亡後、上杉氏は、関東の支配を補佐する関東管領の職に代々就きました。この谷戸は当時の政治や文化にかかわりを持つ人々が居住する空間であったようです」鎌倉市航空写真(2019年6月撮影)境内の苔生した山門脇の庭には「石灯籠」。「謹告(境内での注意事項)・境内すべて禁煙です。・お静かにお願いいたします。・お持込の飲食はご遠慮ください。・写真を撮る時は、他の人の迷惑にならぬようご留意ください。 尚、「一脚、三脚、自撮り棒」等、撮影補助機材の使用は ご遠慮ください。・「千社札」は固くお断りいたします。・盲導・聴導・介助犬を除くペットとの入場はご遠慮ください。・各所に防犯カメラを設置しております。ご理解を賜り、心静かにお過ごしくださいますよう。」白砂で砂紋を描く「枯れ流れ」を取り入れた石庭風の前庭。それは、京都と比べればいかにも小ぢんまりとしているが、山門とは絶妙に調和。白砂の先の石仏。日本の石仏というより、なんとなくインド風?の外観。厳しい眼。石灯籠。前方右手に「念佛供養塔」と「地蔵尊」。「地蔵尊」は純日本風。「念佛供養塔」。「本堂」への石段の手前の池には湧水が流れ込んでいた。石段の先には「本堂」が見えた。「石段」は登らずに真っ直ぐに坂道を上る。こちらもなんとなくシルクロードを渡ってきたような石仏。手前に小さな「五輪塔群」。鐘楼に続く径にある竹の一群は、奥にある幻想的な竹林を彷彿とさせるのであった。その先に、大きな「五輪塔」。下部は苔生して時の流れを感じさせるのであった。鐘楼は藁葺き屋根。「鐘楼」。別の角度から。「報国寺」の「本堂」。1334年(建武元年)、天岸慧広の開山により創建されたとも、あるいは上杉重兼(宅間上杉家の初代当主)ともと伝えられている。宅間法眼作と伝わる本尊「釈迦如来坐像」が安置されている。南北朝時代のもので市指定の文化財。関東大震災までは本堂も茅葺だったと。本堂の扁額「報國禅寺」。見事な蟇股の龍の彫刻。「内陣」。「迦葉堂(かようどう)」。本堂の右手には、仏陀の弟子、迦葉から名をとった「迦葉堂」と呼ばれる2階建ての建物が。ここには、仏乗禅師坐像、迦葉尊者立像などが祀られていて、日曜日には日曜座禅会が開かれていると。ただし、普段は公開されていないようであった。「竹の庭 入口」案内板とその先に「竹の庭」拝観受付、そして右に「本堂」の天水桶。拝観券:300円 を購入し有名な竹林を散策に。拝観券の裏には「由来記報国寺は、建武元年(1334)に創建された、臨済宗・建長寺派の禅宗寺院です。開山は天岸慧広(仏乗禅師)、開基は足利家時(足利尊氏の祖父)です。本尊は釈迦如来坐像(市指定文化財)で、仏師宅間法眼作と伝えられています。他に開山仏乗禅師像(市指定文化財)1347年作や、迦葉尊者像などを御堂に安置し、さらに、開山著書「東帰集」(国指定重要文化財)や、開山使用の木印(国指定重要文化財)は、鎌倉国宝館に保管されています。休耕庵という塔頭の跡に孟宗竹が生え、現在の「竹の庭」になりました。どうぞ、心静かに、御参拝下さい。 合掌」の文字が。竹林を背景に「拝観券」を 遊んでみました。「竹の庭 入口」。ぐるりと径をめぐって本堂裏に出た。竹の庭だけではなく美しい枯山水の庭園も愉しめる「報国寺」なのであった。中央の石から砂紋が広がるが如き光景。新緑に囲まれ美しい庭園。砂紋をズームして。左手には、池が。防鳥網で覆われていたが。「竹の庭」へ入ると涼しい空間が拡がっていた。「本堂」裏手にある孟宗竹林の「竹の庭」が報国寺が「竹の寺」と呼ばれる由縁。竹寺の魅力である竹林を散策。広い境内にはところどころに石仏や苔のあざやかな緑があり、こちらも写真を撮影するのにはもってこいのスポットなのであった。美しい緑の苔に囲まれた石仏群。七体の石仏が。中央の石仏をズームで。散策道の分岐に立つ石碑。木下利玄の歌碑。木下利玄は、明治から大正にかけて活躍した歌人。この寺に墓があると。「あるき来て ものゝふ果てし 岩穴の ひやけきからに いにしへおもほゆ」(歩いてきて、武士が果てた岩穴が、冷え冷えと感じられるだけで、昔の出来事が思われることだよ)。足利一族のやぐらであると。開基足利家時と「永享の乱」の折に自刃した足利義久らの墓と伝えられている。 「やぐら」の中には多数の「五輪塔」が置かれていた。こちらの「やぐら」には「宝篋印塔」も。「五輪塔」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「光触寺」を後にして次に訪ねたのが「旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)」。「報国寺」の駐車場に車を駐め徒歩で向かう。正面に「旧華頂宮邸」の入口が見えて来た。「旧華頂宮邸」正門。「旧華頂宮邸」案内板。「旧華頂宮邸旧華頂宮邸は、昭和4年(1929)に華頂博信侯爵邸として建てられたもので、県内にある戦前の洋風住宅建築としては鎌會文学館とともに最大規模の建物です。外観はハーフティンバーと呼ばれる西洋の民家調で、極めて整然かっ古典的な意匠になっています。建築物の内部は、玄関ホールの小ヴォールドと呼ばれる珍しい天井や洋室にあるマントルビースなどが魅力的な空間を演出しています。フランス式庭園では、バラやアジサイなど四季折々の花や緑を楽しむことができます。」案内板の「旧華頂宮邸」の庭園からの全景の写真。正門から入る。正面に玄関。平成8年5月鎌倉市が取得し、平成18年4月には市の景観重要建築物、同年10月に国の登録有形文化財(建造物)に指定された。「日本の歴史公園100選」にも選ばれている。●建設年:昭和4年●構造:木造3階建て、洋小屋組●敷地面積:約4500平方メートル●建物述べ床面積:577.79平方メートル●屋根:銅板葺き●外壁:木骨モルタル塗り「旧華頂宮邸」一階平面図。「旧華頂宮邸」ニ階平面図。前庭越しの建屋の東側を見る。「旧華頂宮邸」内部は春と秋に数日一般公開されるとのことだが、昨年からのコロナ禍の影響で「一般公開」👈リンク は中止されていると。テラス側に廻り込む。正面に円形テラス。フランス式庭園は無料で散策できた。芝生の間に通路があり、車いすでも散策可能。敷地面積は約4,500平米で敷地内の奥には茶室もあった。前庭にはバラが植えられていた。「旧華頂宮邸」をテラス側の庭から見る。庭を散策しながら。テラス前の池には水はなかった。テラスから芝生の庭を見る。ガラス窓越しに、玄関ホール、洋館のマントルピースを。サンルーム。別の部屋のマントルピース。一階食堂。西側から見る。東側の崖の近くは立ち入り禁止。そして茶室「無為庵」への山門。茶室「無為庵」。場所を変えて。そして再び「旧華頂宮邸」に入って石灯籠を。崖には「やぐら」も。「旧華頂宮邸」を後にして、「報国寺」方面に戻る。「金剛窟地蔵尊」を訪ねるために、「巡礼古道」を右に入る。「巡礼古道」。「巡礼古道」を進む。石段を上って行く。荒れ果てた山道。この「巡礼古道」は鎌倉・逗子ハイランドへ通じる道。坂東観音三十三箇所の巡礼者が、杉本寺(第一番札所)から逗子市の岩殿寺(第二番札所)に」向かうための巡礼道であったと言われているとのこと。【https://blog.goo.ne.jp/cookie_milk/e/ad54ad24a64c5924c06d653a071bd377】より狭い石段の山道を上ってい行った。板碑の庚申塔のようであった。金剛窟地蔵尊(こんごうくつじぞうそん)が「やぐら」の中に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク十二所神社に入る金沢街道沿いの「地蔵尊」。今から176年前の弘化2年(1845年)と刻まれていると。「鎌倉ものがたり 十二所鎌倉市の北東端に位置する地域で、昔は「十ニ郷ヶ谷」ともいわれたようです。十二村の村だったのでこういう名前がついたのだとか、熊野神社の十二社があったからだともいわれています。十二所には落ち着いた雰囲気の社寺や果樹園があり、ここから東へ進んだ先の朝夷奈切通しは、鎌倉の自然を象徴するスポットの一つです。その名は朝夷奈三郎義秀という武士が一夜でこの峠を切り開いたという伝説からついたと言われています。漫画「鎌倉ものがたり」の中ては、多くの謎を秘めた一色家のばあや「大河原キン」が住む、「鎌倉の秘境」として描かれており、山の神に人身御供を捧げる行事や、裁きに手心を加えてもらうために閻魔大王に袖の下を送る「冥途講」など独自の文化が残る地域として描かれています。」そして次に訪ねたのが「十二所神社(じゅうにそじんじゃ)」。古い石灯籠の先に石段がありそこを上った先に石鳥居。拝殿が見えた。鎌倉市十二所285。石灯籠(右)。石灯籠(左)。「石鳥居」と「拝殿」。「拝殿」。十二所神社(じゅうにそじんじゃ)は十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)・十二天明神社、または熊野十二所権現社とも称された。創建年代は定かではなく、弘安元年(1278年)との伝承があるが、寿永元年(1182年)8月11日の条には北条政子の出産に際して、奉幣使が派遣されたとの記述が(『吾妻鏡』)、さらに8月13日の条には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨が記されている(『吾妻鏡』)ことなどから、遅くとも12世紀末までには確立していたと見られる。古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』)が、天保9年(1838年)に現在地に再建された。当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と土木開墾の奉仕によるものであるという。明治新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、1837年(明治6年)、十二所地区の鎮守として村社に列せられた。神社の名前は「じゅうにそう」だが、この神社の名を元にしたとされる周辺地域の地名は「じゅうにそ」であり、何故違うのかは不明。とウィキペディアより。御祭神 天神七柱 地神五柱 境内末社 山の神 疱瘡神 宇佐八幡 地主神九月第一日曜日十時より例祭が開催されると。 蟇股の見事な彫刻。「ウサギ」の彫刻。鎌倉市内の神社で、この部分に龍神や鳳凰などが彫られていることはよくあるが、「ウサギ」が彫られているところは、珍しいのでは。なぜ「ウサギ」なのか、理由はわかっていないが、熊野神社・熊野十二所権現社等の熊野神社系だと柱のどこかに彫っていることはよくあると。十二所神社は元々「熊野十二所権現社」と言われており、熊野神社系統であった。鎌倉市内であれば、大船の熊野神社にも正面ではなく、横ですがウサギが彫られているとのことであるが・・・記憶にない。扁額「十二所神社」。「地之神社(大地大神)」と書かれた木札が。舞殿「十二所神社」には4つの境内社があった。下の写真左端の境内社は山の神。右側の石の祠にある宇佐八幡と並んでいるのは疱瘡神。当時天然痘が流行り病だったために村人が祈りを捧げたと。境内社「山の神」。「山の神」の社の横にやぐらの中に入っている石の小祠が「疱瘡神(左)」と「宇佐八幡(右)」とされていると。疱瘡神は「ほうそうしん・ほうそうがみ」と読み、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種とされていた。今でこそ天然痘は根絶されたが、江戸時代後半までは非常に怖い病気であったのだ。「宇佐八幡」は、三大八幡宮の1つであり八幡神を祀っている。拝殿の左側に少し離れて小祠があった。これが、地主神(地土神社・大地主神)。「拝殿」を斜めから。そして車を駐めさせて頂いていた「峰本」で昼食をとる。鎌倉市十二所154−1。店の入口。「天ぷらせいろ」を楽しんだのであった。そしてこの先にあった「大江稲荷」も訪ねた。県道204号線・金沢街道から少し入った場所に朱の鳥居が見えた。鎌倉市十二所114。入口にあった案内板。「大江稲荷祭神は大江広元公である。源頼朝が鎌倉府を開いた際、政所の初代別当(長官)として頼朝の右腕を務めた人物。初午祭では、神主ではなくご本尊の大江広元木像を祀る。十ニ所の五大堂明王院のご住職が、読経供養する。」朱の鳥居のある石段を上って行った。赤地に白抜きの「正一位 稲荷大明神」と書かれた幟が並んでいた。二の鳥居。扁額「大江稲荷」。社殿の前に石灯籠が。社殿。政治行政の面から源頼朝を支えた右腕、大江広元を祀っている。この十二所には、この大江稲荷に祀られる大江広元、源頼朝の右腕であった梶原景時といった智将、頼朝挙兵成功の立役者、上総介広常らの有力御家人が屋敷を構えていたと。内陣。狐様が大小ニ体ずつ。大江広元の墓と伝わる五層塔。そして車に戻り、次に訪ねたのが「光触寺(こうそくじ)」。手前には「滑川」に架かる「光触寺橋」が。「光触寺橋」。「滑川」上流側。「滑川」下流側。そして前方に「光触寺」の「山門」が姿を見せた。寺号標石「時宗 光触寺」。「鎌倉三十三観音霊場 第七番札所、鎌倉二十四地蔵霊場 第五番札所」碑。「山門」。「山門」は文化年間(1804年~1818年)に村民が建てたものとされ当初は茅葺屋根であったが大正12年瓦葺きに吹き替えられたと。「山門」手前の右手の石碑。「頬焼阿弥陀」碑。『頬焼阿弥陀縁起』二巻(国重文)は、比企ヶ谷にあった岩蔵寺の阿弥陀如来像の霊験を描いた伝説の絵巻物。その阿弥陀如来像が現在の光触寺の本尊だと伝えられ、「頬焼阿弥陀」と呼ばれている。縁起によると、1215年(建保3年)に鎌倉へ下向した運慶が、町局(まちのつぼね)の依頼で彫ったのだという。『新編鎌倉志』によると、縁起二巻の筆者は藤原為相、絵は土佐光興。下巻奥書には、僧の靖厳が所持していたが、光触寺に伝説の阿弥陀像が安置されていることを知って、1355年(文和4年)に寄進したことが記されているらしい。「本堂屋根改修記念」碑。「山門」の「時宗 光触寺」木札。左側には「重要文化財 頬焼阿弥陀」木札。扁額「岩蔵山」。「山門」を潜ると石畳の参道が前方に。両脇には新旧の墓石が並んでいた。正面にあったのが時宗開祖「一遍上人」像。「光触寺」は弘安元年( 1278年)に創建された寺院で、開基は"時宗開祖一遍上人"、開山は"作阿上人"と言われている。作阿上人はもともと真言宗の僧であったが、一遍上人が弘安5年3月1日遊行の途次、鎌倉へ入られたとき聖人に帰依して時宗に改めた。光触寺は以来およそ700年、念仏の道場となって今日に及んでいる と。祈る姿を正面から。一遍本人や弟子たちを”時衆”といい”時宗”となったのは江戸時代以降のことであると。時宗は浄土宗の一宗派で阿弥陀仏への信・不信を問わず念仏を唱えれば、往生できると説いたと。お顔をズームで。「宗祖 一遍上人像」碑。「光触寺(こうそくじ)時宗の開祖・一遍上人が開基(寺の創立者)と伝えます。本尊の木造阿弥陀如来及び両脇侍立像(頬焼(ほおやけの)阿弥陀)には、盗みの疑いをかけられた法師の罰の身代わりになり、頬に焼印が残ったといわれる伝説があります。本堂の前の「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」は、六浦(現・横浜市金沢区)の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびにお地蔵様に塩をお供えしたといい、いつも帰りには無くなっていたところからその名の由来があります。昔は金沢方面から塩が入ってきたことが分かります。●宗派 時宗●山号寺号 岩藏山光触寺(がんぞうざん こうそくじ)●開基 一遍上人(いっぺんしょうにん)●開山 作阿上人(さくあしょうにん)」「本堂」。扁額「光觸寺」。内陣。光触寺の本堂に安置されているのが、本尊阿弥陀如来三尊であり、その厨子は関東管領足利持氏が奉納したもの。来迎仏と申し、阿弥陀仏を中心に、左に観音、右に勢至菩薩を祀ります。阿弥陀仏は一般に「頬焼阿弥陀」として知られており、寄木造りで漆箔が施され玉眼入りです。阿弥陀仏は一メートル、脇侍観音が60センチ、勢至菩薩が60センチで、阿弥陀仏は僅か左足を前に出して来迎印を結んでおります。観音は蓮台を捧げ、勢至は合掌をしており、この様な形式の仏像は鎌倉時代の初めから多く造られました。観音像は快慶、勢至像は堪慶作で、運慶の阿弥陀如来像とともに国重要文化財となっています。「本堂」を斜めから。歴代上人の墓石群であろうか。「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」が祠の中に。「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」碑。六地蔵背後の大きな像が「塩嘗地蔵」。今から176年前の弘化2年(1845年)と刻まれていると。元々は近くの県道沿いにあったのだと。六地蔵の前には塩の袋が奉納されていた。境内の小さな池。以前頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第七番札所 光触寺」の「聖観世音」の御朱印です。以前頂いた「鎌倉二十四地蔵霊場 第五番札所 光触寺」の「塩嘗地蔵尊」の御朱印です。境内の脇の道に出て「光触寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクそして次に訪ねたのが鎌倉七口の「朝比奈切通し」。赤実線-----が今回往復したルートである。「朝比奈切通し」への旧道を進むと左手の一段高い場所にあった「切通庚申塚」。別の場所から。裏側から一段高い場所に上がって左から。阿弥陀如来像、そして奉造立庚申供養、延宝四年(1676)丙辰十一月吉日の文字。下部に三猿 施主 拾二所村 廾二人 敬白 と。こちらは青面金剛碑(弘化5年(1848年)銘)。日月雲台 青面金剛(文字塔)三猿 萬延元年(1860年)庚申十一月吉日 台石:五大明王院 十五人馬頭観世音(元治2年(1865年)銘)。更に進み、道路脇に車を駐め散策開始。三代執権北条泰時によって開かれたこの道は「塩の道」と呼ばれたと。清流沿いの砂利道を徒歩で上って行った。「梶原太刀洗水」は鎌倉五名水であると。梶原景時が上総介広常を討った後、この湧き水で太刀の血のりを洗い流したという伝説が残されていると。朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。広常は、源頼朝の挙兵の際に2万騎の兵を率いてに従った武将。1183年(寿永2年)、頼朝の命を受けた梶原景時に暗殺された。景時が広常の屋敷に赴き、酒のもてなしを受け、二人で双六に興じているときに、景時が広常に襲いかかって首をとったといわれているとのこと。小さな池の如き場所も。そして前方に岐路が現れた。左 「朝夷奈切通」、右 「十二所果樹園」。「国指定史跡 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」案内板。「国指定史跡 朝夷奈切通朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七ロの一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点てした。「吾妻鏡」には仁治2年(1241)に、幕府執権であた北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これが造られた時期と考えられています。その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代頃の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。」右手に「朝比奈の滝(三郎の滝)」と左手に鎌倉青年團の石碑。「朝比奈の滝(三郎の滝)」朝夷奈切通を一夜にして切り開いたという伝承が残る大力武勇の猛者「朝比奈三郎義秀」に因んで名付けられた名であると。朝比奈義秀は、源頼朝の下で侍所別当を務めた和田義盛の三男。生母は木曽義仲の妾だった巴御前とも伝えられているが、詳しいことは不明。二代将軍源頼家の小坪遊覧では、頼家に「泳いでみよ」と命じられ、断るわけにもいかず海に入り鮫を3匹捕まえてきたのだとか。父の和田義盛が起こした和田合戦においては、幾人かの敵をたおし微傷すら負わなかったというが、和田義盛が敗れるとどこかに姿を隠したのだという。角度を変えて。3m程の落差の滝であっただろうか。「朝夷奈切通」「鎌倉七口ノ一ニシテ 鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ当リ 大切通 小切通ノ二ツアリ土俗(民話)ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ 其名アリト伝ヘラレルモ 東(吾妻)鑑ニ仁治元年(1240)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿(かいさく:切開)ノ議定アリ 翌二年(1241)四月 経営ノ事始アリテ 執権北条泰時 其所ニ監臨(かんりん:監督)シ 諸人群集シ 各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ 此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料(しりょう:推測)セラル」【この坂は、鎌倉七口(ななくち)のひとつです。鎌倉より六浦を結ぶ重要な道で、大切通(おおきりどうし)、小切通(こきりどうし)の二つがあます。土地の人の話では、朝夷奈義秀(あさひなよしひで)が、一夜の内に切り抜いたので、 その名前が付いたと伝えられています。吾妻鑑(あずまかがみ)によると、1240年11月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、1241年4月に、工事が開始され、執権(将軍の代理職)北条泰時(やすとき)もそこに出かけて監督しており、 多くの人が集まって、土や石を運ぶのを見たことが書かれています。従ってこの切通は、その時に開通したものと思われます。】「朝夷奈切通」前を十ニ所果樹園方面に少し進むと、左側にあったのが「上総介広常屋敷跡」。1183年、関東の最有力御家人上総介広常は太刀洗水の近くにあったこの屋敷で梶原景時に討たれたのだと。頼朝に対して下馬の礼をとらなかったからとか、関東独立の志があったなどその理由は諸説あると。そして、分岐まで戻ると、この先の「朝夷奈切通」への道は、湧水が流れて路面が全面的に濡れていた。大雨が降ると川に変身するのであろう。濡れた路面に注意しながらゆっくりと上って行った。この切通しは鎌倉七口の切通しの中でも一番の長さを誇り、切り通しの雰囲気がよく残る古道。かつての姿をそのままとどめて、まさに800年の歴史を超えた世界の入り口の如し。切通しの坂の途中にある「石地蔵像」。朝比奈切通には江戸期の石仏や庚申塔、道路供養塔などが多く見られたのであった。『新編相模国風土記稿』に「峠坂 村中より大切通に達する坂なり延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す、」とあるのだと。この写真の石地蔵像がここで語られている地蔵ではないかと伝えられてていますが真意は定かではないのだと。岩に刻まれた仏様・磨崖仏のお姿が。鎌倉の旧態を残す他の切通し路同様に石切り跡が随所でみられた。峠坂のピークには地蔵と思われるレリーフが施されていた。切通し沿いに安置されている石像・石塔などと同様に造道中に亡くなられた方を供養したものなのであろうか。両側の石切場跡は岩壁がむき出しになり、今にも武士が出てきそうな雰囲気が。近づいて。最も切り通しらしい場所、岩盤に仏が掘られていて中世の雰囲気が。これは磨崖仏(まがいぶつ)と言われる仏様。その先右手に「熊野神社」への参道があった。右手に「熊野神社」碑。ここには帰路に訪ねることとした。更に進むと、左手に土砂崩れ跡が。更に進むと両側に断崖が現れた。高さは15m以上あろうか、これぞ「切通し」。こちらが「大切通」と呼ばれる場所であろう。崖には木々がへばり付き。そして前方には横浜横須賀道路 の高架橋が姿を現した。横浜横須賀道路下を通過。そして横浜市側の入口に到着。「朝夷奈切通 左熊野神社」碑。横浜市側の「朝夷奈切通」案内板。朝夷奈切通の名前は、この道を造ったとされる朝夷奈三郎義秀の名前から取られたものと。完成した時期ははっきりしていないようだが、あまりに早く完成したので、朝夷奈三郎義秀が、一夜でこの峠を切り開いたという伝説があるのだと分岐部にあった案内板と同じ内容が再び。「国史跡 朝夷奈切通(昭和44年6月5日指定)鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北條泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されています。鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(うしとら)(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。鎌倉七口の中、最も高く嶮阻(けんそ)な道です。」そしてここまでとして、鎌倉側に向かって再び「朝夷奈切通」の路を引き返したのであった。入口の表示案内。その先にあった「庚申塔群」。庚申塔(延宝6年(1678年)銘)。地蔵立像庚申塔で建立年は不明。左手に二基の石仏、右のものは腐食が激しく。そして再び横浜横須賀道路下を通過。「朝夷奈切通し」を再び通過。こちらが「小切通」と呼ばれる場所であろう。崖に挟まれた古道を再び。土砂崩れ現場を再び通過。再び「熊野神社」分岐まで戻り、ここを左折して「熊野神社」に向かう。ほとんど、最近人が歩いた跡が感じられなかったのあったが・・・・。左手に「案内板」が。「朝比奈鎮守 熊野神社御祭神 速玉男命、伊邪那岐命、伊邪那美命御由緒古傳(古伝)に曰、源頼朝が鎌倉に幕府を開くや朝比奈切通の開墾に際し守護神として熊野三社大明神を勧請されしと。元禄年中地頭加藤太郎左衛門尉之を再建す。里人の崇敬亦篤く安永又嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云う弥」右手に「熊野神社」碑。暫く進み、案内碑に従いここを右折。「カラーコーン」が至る場所にあったが・・・。そして、季節が進むと「オオスズメバチ」等が飛び交う場所となるのであろうが。足元の崖崩れ箇所を慎重に進む。杉の木に覆われた参道を進む。前方に石鳥居が見えて来た。ヤブミョウガ(薮茗荷)が一面に白い花を。前方に石鳥居が見えて来た。石鳥居・一の鳥居の先に石段。掲示板には境内での注意事項が書かれていた。そして石鳥居を潜り、拝殿への石段を上る。「手水舎」。二の鳥居とその先に「拝殿」。「拝殿」。現在の拝殿は、平成元年御大典を記念して造られたと。横浜市金沢区朝比奈町578。「拝殿」横の境内社。境内社の社殿。「拝殿」裏の「本殿」への石段。「石段」上から「拝殿」を振り返る。「本殿」。安永年間(1772年〜1780年)と嘉永年間(1848年〜1854年)に修築が行われた。昭和53年(1978年)には、「本殿」が新築され、現在に至っている。祭事は、祈年祭が春祭りとして3月第1日曜日に、例祭が9月17日に湯立神楽が奉納され、新嘗祭が秋祭りとして12月第1日曜日に開催される と。扁額「熊野神社」。鎌倉市内の5個所目の「熊野神社」であろうか。「本殿」脇の「境内社」。「境内社」の社殿。歌碑。「朝日さす 熊野の杜のみやばしら うじこまもりて 鎮座まし満寸」か。裏面には「拝殿新築記念 責任役員小池幸平 平成三年九月十七日」拝殿を新築した記念に、作られた歌碑であろう。石段を下りると、「拝殿」の裏横にあった「石祠」。そして単独行動、静けさからやや不安になる気分の下、「山奥」の「熊野神社」を独り占めし楽しんだ後は、濡れた路面に注意しながら車に向かってひたすら引き返したのであった。長年の水の流れで岩も穿たれて。これぞ「点滴石を穿つ」。近寄って。雨垂れのような小さな水滴でも、長い間同じところに落ち続ければ、ついには堅い石をも溶かす!!そして、ここもすれ違う人もなく鎌倉七口「朝夷奈切通」、「熊野神社」を完全に「独り占め」して約1時間の散策を終え車に戻ったのであった。今日、ブログアップしたこの記事・写真を再読して、自己責任とは言いながら、警告文を無視して危険な個所を歩いていた事を反省しています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.16
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ブログアップが遅れましたが、今年も7月24日(土)に、今年の最初の趣味の養蜂のハチミツ絞りを行いました。ところで、働きバチが花から集めた花蜜は、実は、ハチミツではありません。巣へ持ち帰った花蜜が働きバチたちによって変換・熟成・濃縮されて、はじめてハチミツとなるのです。まず、働きバチは、「口吻」と呼ばれるストローのような口で花の蜜を吸い胃のそばにある蜜胃(みつい)というところに花蜜を貯めて巣に持ち帰り、巣の中で待っていた別の働きバチに口移しで花蜜を渡すのです。ミツバチの分業作業です。働き蜂は群が必要とするほとんどの仕事をしますが、この仕事の種類は成虫になってからの日数を追って変化していきます。おおまかに内勤と外勤とに分かれていますが、内勤の間では、育児(ミルク分泌)、造巣(蜂ろう分泌)、貯蜜(酵素分泌)の3つが体の生理状態の変化を伴う大きな流れとなります.また外勤蜂が一番日齢の進んだものとなることで、働き蜂が減りにくい分業構造となっています.また内勤のうちは24時間体制で仕事をしますが、何交替かあるようで,1匹あたりの労働時間は6-8時間程度という観察があります。外勤蜂は日中は花に通い、夜間は巣の中でじっとしている(休息?)ことが多いようです。 【http://www.beekeeping.or.jp/honeybee/partnership】よりミツバチをはじめとするハナバチ類は、いずれもその栄養源のすべてを花蜜と花粉に頼っています。花蜜はハチミツとして、花粉はハチパンとして巣に蓄えられるのです。下の写真の巣の中に白や黄色、ピンクの色の付いている部分が、ミツバチが集めた花粉。光っている部分が貯めたハチミツなのです。ハチミツはミツバチが花から集めた花蜜をそのまま巣に蓄えると思っている方もいると思いますが、花蜜と蜂蜜は全く違うものです。ミツバチが花から採ってきた花蜜(ショ糖が主成分)は、働きバチの体内の「酵素」によって蜂蜜(ブドウ糖・果糖)に変換されるのです。よって蜂蜜の主成分は、上記のブドウ糖と果糖。それに各種のミツバチ由来の酵素・植物由来の花粉・ビタミン・ミネラル・その他が混ざっているのです。ネットに「はちみつの話」👈リンク というページがありましたのでリンクさせていただきます。はちみつの糖分。 【http://www.e-shigenoya.jp/honey/honey.html】よりこの日の我がミツバチの巣箱のひとつです。この群の群勢は高く、この日までに3段の巣箱としていました。巣箱の入口には多くの換気係?の働き蜂の姿が。下にある白い容器は、予想外の長梅雨のために外に出られないミツバチの為に砂糖水を1回与えたものがそのままになっていました。一昨年、10年以上使っていたプラスチック製の遠心分離機が壊れてしまったため、新たに同じ型式の遠心分離機を購入しました。採蜜は我が家の部屋の室内縁側で。外でやるとミツバチがアッという間に集まって来るからです。今年も天候不順により、ミツバチたちが溜めてくれたハチミツの量は例年の半分くらい?になっていました。蜜蜂と格闘し、巣にいた蜜蜂嬢を刷毛で払った後、蜜のぎっしり溜まった巣碑を巣箱に入れて自宅に持ち帰りました。この日は2群より8枚の巣枠を家に持ち帰りました。一輪車に載せ自宅に持ち帰り、早速ハチミツ絞りの実施。持ち帰るものは、巣枠の殆どが蜜の濃縮を完了し、蜜蓋で覆われているものとしています。蜜蓋のないものも絞れますが、濃縮が完了していないので、濃度が薄く、天然ハチミツ特有の味が薄いと感じているのです。梅雨の中で、外に出られないミツバチは、貯めていたハチミツを食べるのです。所々に白い蜜蓋がなくなっている場所が貯めていたハチミツを食べた場所だと思います。今年も妻が事前に遠心分離機や包丁、濾過網等を熱湯消毒しておいてくれました。妻が熱湯で暖めた包丁でこの蜜蓋を剥ぎ取ります。巣蓋を剥ぎ取ると、今年もハチミツが溢れて滴り落ちて来たのでした。きれいに蜜蓋を剥がし終わった状態です。そして次の巣枠を。ハニカム部の色で、この巣枠の歴史が解るのです。ハニカム部が白いものは、今年になって蜜蝋(みつろう)で巣を盛り上げて作ったもの、茶色くなっているのは数年前に盛り上げて作ったものなのです。こちらも蜜蓋の除去が完了。白い蜜蓋をズームで。これを四角く切り取ったものが「巣蜜(コムハニー)」として売られているのです。「巣蜜(コムハニー)」はその年の蜜蝋(みつろう)で巣を作り、ここにハチミツを貯めたものを言います。「巣蜜(コムハニー)」は鮮度や風味はバツグン。一般的なはちみつとは異なり、スプーンですくって口に入れた瞬間じゅわっと広がる自然な甘みは、一度は味わっていただきたい体験です。最後にガム状のミツロウが口に残りますが、まだ新しいミツロウなのでそのまま食べることが出来るのです。この白いガム状の物には、巣を外敵から守るために作られたプロポリスが豊富に含まれています。プロポリスには高い抗酸化作用のある豊富なフラボノイドが含まれているので、積極的に蜜と一緒に食べるのがおすすめなのです。ズームして。我が家の「コムハニー」です。スプーンで楽しんだのでした。ハチミツ店では木箱に入れて販売されていることが多いのです。 【https://www.kanohachi.jp/SHOP/GF-KS-01.html】より遠心分離機には2枚を入れて、回転させます。1枚ですとバランスが壊れ、遠心分離機の破損に繋がってしまうからです。そして蜜が次第に遠心分離機の下に溜まって来ました。次々に新しい巣枠を遠心分離機にかけました。表面、そして裏面を、更に表面を見て、蜜蓋の残っている場所はフォーク等で穴を開け、もう一度両面を、都合4回の遠心分離操作を行ったのです。そして8枚の巣枠の遠心分離機による採蜜は全て完了しました。もう少し量が多いと良かったのですが、長雨の影響でしょうか。それと、今年はほとんど分蜂しなかったため、蜂の群数が増えなかったのです。次にハチミツの濾過の開始です。今年も網目の大きさの異なる2段に重ねた金網で濾過。出口を開けると周囲にハチミツの香りが更に拡がって来ました。 琥珀色の濃度・糖度の高いハチミツがダラーーーと。遠心分離機で剥ぎ取られた巣房の欠片もきちんと濾過。近寄って。さらに。濾過され容器に移したハチミツ。そしてこのまま1週間以上放置し、更に容器の底に沈んだ不純物や浮上した不純物らしきものがあれば、これも熱湯殺菌したスプーンやストローでコマメに除去。妻が通販で購入した容器もようやく届きました。購入したガラス瓶を大きな鍋に入れ熱湯消毒、蓋も同様な方法で。プラ容器では、この熱湯消毒が難しいのでやはりガラス瓶が良いのです。そしてゆっくり自然乾燥させた瓶にハチミツの充填作業を。瓶が水道水で濡れていても、雑菌が入る可能性があるからなのです。そして瓶詰め作業も完了。これらパッケージング作業は全て妻がやってくれたのです。ラベルも印刷して瓶に貼り付けて。『Jinさんちのおいし~い蜂蜜』住所、名前、採取日、注意書きも記入してあります。これは内容量600gのもの。もちろん添加物、加熱操作の全く無い100%天然の超濃縮ハチミツ。そして1本1本ビニール袋に入れてパッケージングの完了です。今年も多くの友人、知人からリピート予約を頂きましたが、趣味の素人養蜂家ですので、毎年採蜜出来る量は安定しないのです。全てがミツバチ嬢の頑張り次第なのです。今回も4本、5本等の予約の御連絡も頂きましたが、出来るだけ多くの方にお分けし、楽しんでいただきたいので、今年もお一人様MAX2本とさせていただきました。秋にはもう1回、量は今回よりは少ないでしょうが絞れるのではと期待している素人養蜂家なのです。そしてお陰様で全て発送、手渡し済みとなりました。ご予約いただいた皆様、どうか100%完熟の天然ハチミツをお楽しみください。今年のハチミツの味はいかがでしょうか?この小さじ一杯がミツバチ一匹が一生に集めるハチミツの量なのです。「はちみつがコロナウイルスに効く」といった根拠のない?内容を標榜する例が、相変わらずインターネット上で後を絶たないとのことです。「コロナに効く」というキャッチコピーに踊らされることなく、「三密」を避ける、手洗いをするといった基本動作のさらなる徹底で、長引くコロナウイルスから身を守りたいと思っているのです。「三密」は避けなければいけませんが、「蜂蜜」は楽しんでいただきたいのです。
2021.08.15
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「今泉不動・称名寺」を後にして、次に鎌倉湖畔に向かう。「鎌倉湖墓苑」の駐車場に車を駐めさせていただく。「鎌倉湖墓苑」。鎌倉市今泉3丁目943−1。現在は「有限会社みどりの杜」が墓地霊園の管理、運営しているとのこと。駐車場の周囲には「小倉百人一首」が。「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき 猿丸太夫秋が深った人里離れた寂しい奥山。土石に散り積もった色とりどりの紅葉を踏み散らしながら、妻を恋しく思ってか、切々と鳴くお雄鹿の声。この声を聞くときこそ、とりわけ秋の悲しみが深く心に、沁み入ってくる。」奈良後期または平安初期の伝説的歌人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。三十六歌仙の一人。古今集の真名序にその名がみえる。「世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも鎌倉右大臣世の中は無常だというが、永遠に変わらず、いつの世も穏やかであってほしいものだ。この渚を、漁夫が小舟に引き綱をつけてゆっくり引いていくさまは、しみじみと心動かされる眺めであるよ。」鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝は歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。「高砂の 尾上(をのへ)の桜 咲きにけり 外山(とやま)の霞 たたずもあらなむ前中納言匡房(ふり仰げば)はるかに高い峯々の桜も、ようやく開花したようだなあ。人里近い山の霞よ、せっかくの桜が見えなくなってしまうから、どうか立たないでおくれ。春ももう過ぎ、なごり惜しまれることだ。」前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ・長久2年~天永2年 / 1041~1111年)は大江匡房のことで、赤染衛門の曾孫にあたる。八才で史記、漢書を読み、詩をつくったと言われ、幼い頃より神童と呼ばれていた。東宮学士に三度も選ばれるなど学問に優れ、正二位権中納言になっている。また、八幡太郎と呼ばれる武家の棟梁・源義家の兵法の師でもあり、「野に兵が隠れていると、飛んでいる雁が列を乱す」と教えたことは、よく知られている と。「秋風に たなびく雲の 絶えまより もれ出づる月の 影のさやけさ 左京大夫顕輔吹きわたる秋風によってたなびいている雲の切れ間から、時折もれ射してくる月の光の、なんと清らかで明るく澄んでいることであろうか、だが「、たちまち白雲の中に月は隠れてしまう・・・。」藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ)は、平安時代後期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季の三男。官位は正三位・左京大夫。六条と号す。小倉百人一首では左京大夫顕輔。六条藤家2代。「めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな 紫式部久しぶりにめぐり逢ったのに、月であったかどうかの見分けもつかないうちに雲に隠れてしまった夜半の月、その月のように、ゆっくり懐かしむ間もなく、あなたはあわただしく姿を隠してしまいましたね。」平安時代中ごろの女性作家、歌人。「源氏物語」の作者。中古三十六歌仙の1人。藤原為時のむすめで、幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で 漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。藤原道長に認められ、一条天皇の きさき、彰子 (藤原道長の長女) の家庭教師役として仕え、少なくとも1012年頃まで奉仕 し続けたようである。54帖にわたる大作 「源氏物語」、宮仕え中の日記 「紫式部日記」を著した。家集 「紫式部集」が伝えられる。 「鎌倉湖墓苑」の前の鎌倉湖畔通りの坂道を上って行くと右手に「散在ガ池森林公園」の入口があり、ここから公園内に入った。今泉台にある「散在ガ池森林公園」は、「鎌倉湖」と呼ばれる池を中心とした風致公園。「のんびり小径」「馬の背の小径」「パノラマの小径」「せせらぎの小径」の4種類の散策路が楽しめると。ここを下ると「せせらぎの小径」に出られるのであったが・・・・。「立ち入り禁止」のバリケードが。「通行止めのお知らせせせらぎの小経は、集中豪雨の影響により、土砂が堆積している為、当分の問、通行止めとさせていただきます。こ利用の皆様にはご迷惑をおかけいたしますが、ご理解・ご協力をお願い申し上げます。 散在ガ池森林公園」止む無く下に降りずに山道を進む。「木材を生産する森」案内板。その先に「散在ガ池森林公園」案内板が。「みなさんこんにちは散在ガ池森林公圓にようこそ、この森林公園はみなさんの憩いの森として、また鎌倉の自然のしくみを理解する場所として整備したものです。散在ヶ池を中心に東西に広がるこの公園は、小面積ながら、起伏に富んだ地形と静かな森、そして四季圻おリに姿をかえる自然のさまは、都会の生活に疲れた心をきっといやしてくれることと思います。市と県では、この残された貴重な森の利用を図ると同時に、未来の子供達にのこしたいと考え、荒廃した林地などへ植栽を行とともに、みなさんが安心して利用できる必要最小限の施設を整備しました。都市化が進んでいくなかで残された貴重な森を、大切に守っていけるよう、みなさんのご協力をお願いいたします。それでは、この自然と心静かに心ゆくまで語り合ってください。」「散在ガ池森林公園」地図。見にくいのでネットから。「管理事務所 便所」、「のんびり小径」、「馬の背の小径」案内。その手前には「マムシに噛まれたら」説明板。「マムシに噛まれたら」。そして「鎌倉湖」。「鎌倉湖(散在ガ池)」は、大船や岩瀬の水田を潤すために江戸時代に山を切り開いて造られた人造湖。「鎌倉湖(散在ガ池)」は、大船や岩瀬の田を潤すために造られた池で、堰を築いて造りあげられた。堰が切れたら水田が全滅してしまうという心配もあって反対する者もあったようだが、水不足による争いも絶えなかったことから造られたのだと。「管理事務所の案内」。「管理事務所」を見る。そして車に戻り「散在ガ池森林公園」の「南側入口」を訪ねたが、同じ案内板が設置されていたのであった。そして次の目的地の「鎌倉霊園」にカーナビをセットして進む。今泉台住宅地は約2100世帯、5140人が住んでいると。今泉台住宅地を赤線---のルートで縦断し、その後は山の狭い坂道・明月院通りを下り、「明月院山門」前に出て、県道21号線で建長寺前、鶴ケ岡八幡宮前を通過し金沢街道・県道204号線に入り、約30分かかり「鎌倉霊園」に到着したのであった。「鎌倉霊園」入口。「霊園内全体案内図」。「詳細図」。「鎌倉霊園」は4万基以上の墓が並び、その面積は50万m2以上に及びぶとのこと。おなじみ、東京ドームの大きさで言うと、東京ドーム11~12個分にあたるのだと。 【https://www.anzaisekizaiten.co.jp/kamakurareien/】より「鎌倉霊園」内の道路を走り、「観音堂」下で車を駐める。富士山の勇姿が確認できた。ズームして。僅かに残雪が確認できた。「鎌倉霊園 合葬墓 やすらぎ」案内板。前方の芝生の下にある地下室に設置されたロッカーにご遺骨を骨壷のまま納めるお墓であるようだ。「やすらぎ」碑。骨壷1個用 1,000,000円骨壷2個用 1,800,000円 であると。「鎌倉霊園」の最高地点にあった「観音堂」を見上げるしかし「観音堂」への道は閉鎖され近づけなかった。ズームして。手前に「休憩所・売店・管理事務所」。広大な「鎌倉霊園」を見下ろす。車がないと墓参りは難しそうな広さなのであった。再び墓地越しに富士山を見る。「鎌倉霊園」内の帰路を望む。「鎌倉霊園」内の「私道」を走る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.15
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今日14日(土)に我が実家のお盆のお参りに行って来ました。我が実家では13日(金)に迎え日(盆入り)を行い、15日(日)に送り火(盆開け)を行います。8月14日13時過ぎにに我が実家に帰り、盆参りをしてきました。といっても我が実家は我が家から徒歩にて数分の場所。お盆は地域によっても違いますが、我が実家では8月15日を中心として8月13日~15日の3日間、故人を偲び、ご先祖様や精霊が家族のもとに帰って来て一緒に過ごす日なのです。13日の日に夕方早めに迎え火で故人を招き、15日には夜遅くに送り火で見送りをします。お盆は仏教行事としての正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、「お盆」は盂蘭盆会から変化して現在では親しみやすくそう呼ばれる様になったようです。我が家の周辺では、お盆の迎え火は、家の門の近くの屋敷内に小さな四角の土の盆塚(祭壇)を造り、その周囲にオガラを刺し、盆花を添えて準備をして、この土の盆塚(祭壇)の近くで、藁とオガラを燃やし、お迎え火としています。私が子供の頃は、この盆塚を作るのが私の仕事でした。畑の土を持って来て、土を箱に詰めるのではなく、四角く土を固めここに上る坂道も造った事を今、懐しく想い出しています。オガラとは麻の茎の皮をむいたもので、オガラの火に向かって煙に乗って先祖がやってくると言われています。8月13日のお盆の始まりの夕方に焚くことでこの世に帰ってくる時が来たよ、帰る場所はここだと知らせているのです。迷わず帰ってこれるようにと目印を出しているのです。併せて、この場所に、キュウリとナスで造った精霊馬(しょうりょううま)を置きます。精霊馬とは、お盆に飾られるご先祖様をお迎えしたり、お送りしたりする乗り物のこと。ご先祖様は東から来ると言われているので、迎え火、送り火の時はキュウリは西向き、ナスは東向きに置くというのが我が実家のやり方です。ご先祖様がいち「早く」家にたどり着いてほしい願いを込めて、キュウリを足の速い馬に見立てて作ります。我が家でゆっくりしていただいたあとは、あちらの世界にお戻りいただかなくてはいけません。名残り惜しい気持ちを込めて、「ゆっくり」と帰っていただくために、ナスを牛に見立ててご先祖様をお送りするのです。また、様々なお供え物をあちらの世界に持って行っていただくように、牛に荷物を持たせるという意味合いもあるとの事です。蓮の花の盆花です。蓮の花を供えると、祖先が花びらを舟にして帰ってくるのだと昔、祖母から。今年の我が実家の盆棚(精霊棚)です。カメラを横にして。我が実家は「日蓮宗」。「南無妙法蓮華経」と書かれた掛け軸。明治27年の文字が。そして仏壇右側のお供物。キュウリと茄子で作った精霊馬と呼ばれる馬と牛が。キュウリとナスに麻幹(麻がら、おがら)を挿して作るのです。お盆には亡くなった人が足の速いキュウリの馬に乗ってやって来て、帰りにはゆっくりと景色を眺めながらナスの牛に乗って別れを惜しんで帰っていくと言われています。 地域によっては、行きも帰りもキュウリの馬に乗り、ナスの牛には旅の荷物を載せて運ぶのだとも言われているようです。 なぜキュウリやナスなのか、その理由ははっきりしないようです。おそらく夏の時期に多く採れる野菜のため手に入りやすく、またどこでも収穫できる野菜であったことから、広く全国的にキュウリとナスが使われているものと考えられているとのこと。そして水の子(馬牛の餌?)、我が家はナスを刻んで里芋の葉の上に。本来は里芋の葉ではなく、蓮の葉が用いられるのでしょうが。私が子供の頃は、ナスはもっと賽の目に刻んでいた記憶が。餌が新鮮さを保つように、香の葉(樒(しきみ)の葉)を束ねて清水と共に。あの世で飢えに苦しみ渇いたのどに少しでもらくに通るようにとの祈りをこめたものでもあるようです。樒の葉は香りが強く毒もある為、仏教では魔除けや獣除けにも用いられ、お墓参りの際に生花に変えてお供えする事もあるのです。我が農園の収穫物のスイカも奉納。位牌が並ぶ。中央に我が両親の位牌が。日蓮聖人像。仏壇左側には各種夏の野菜・果物とご飯も。私が子供の頃には、祭壇を設けた台の両側に葉のついた青竹を立て、竹の上部にしめ縄を張っていました。 そしてそのしめ縄にホウズキ(鬼灯)や枝豆、昆布等をぶら下げていた記憶も。精霊が迎え火や提灯の灯りを頼りに帰ってくるといわれることから、ホウズキ(鬼灯)を提灯に見立てて盆棚に飾るのだと。 また農作物の収穫が少なかった時代には、鮮やかな赤のほおずきをお供えすることによって、お供え物の不足を補う意味があったとも。そして今年も我が兄弟姉妹の4夫婦が全員揃った頃に、檀家寺の住職がお盆法要に来て下さいました。8人全員で住職の後ろに座り法要に参加し、寛永年間(1630年代)から続く我が先祖を供養しその霊に感謝したのでした。住職が小型の木魚を持参して。そして今年も「新型コロナウイル ス 感染症対策分科会提言」として「多くの人が帰省をお考えになっているかと思い ます。お盆休みに帰省した場合、高齢者と接する機会や飲酒・飲食の機 会も多くなることが考えられます。したがって、新型コロナウイルス感染が 広がっている現状では、帰省する場合には、「基本的感染防止策(手指 消毒やマスク着用、大声を避ける、十分な換気など)」の徹底や三密を極 力避けるとともに、特に大人数の会食など感染のリスクが高い状況を控 えるなど、高齢者等への感染につながらないよう注意をお願いします。 そうした対応が難しいと判断される場合には、感染が収まるまで当分の間、オンライン帰省を含め慎重に考慮していただきたいと思います。また、そもそも、発熱等の症状がある方は、帰省は控えて下さい。感染リス クが高い場所に最近行った方は、慎重に判断して下さい。」と。しかし、お盆は日本の風土に根付いた年中行事であり、観光旅行の是非と同列には論じることはできない。地域によって感染の状況は異なる。帰省をするかどうかは最終的にはそれぞれの自己責任で話し合って決めるしかない。そんな中で今年も、何のはっきりとした見解も示さず、「自己責任で」という無責任な態度には違和感を覚える人が多かったのでは。自己責任論が強まれば、帰省に踏み切った人への差別や中傷を招きかねない。いや招いているのである。このような事態を避けるためにも、政府は、お盆の帰省ばかりでなく行動指針ついてもっと明確なメッセージを発信するべきであったのではと今年も。
2021.08.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「称名寺」の散策を続ける。「弁天堂」。「本堂」の先、ほたる池をはさんで弁天堂が建っていた。直誉蓮入(じきよれんにゅう)が江ノ島の弁財天のお告げでこの地に来たということから、弁財天を祀っていると。扁額「辨財天」。不動堂への石段上り口にあった高さ1m余の大きな「不動明王像」何故か上半身に比べ、下半身の彫りが浅いのであったが・・・。下部は未完成だったのであろうか。祈りの石仏像。様々な石碑が。「今泉不動」は称名寺本堂より奥の、階段を登った先にあった。石段は鎌倉石であろうか、参拝者の行き来によって滑らかに削られており、歴史を感じることが出来たのであった。「不動明王」碑。「藤澤 御花講」碑。「石段改修記念碑」。石段の曲がり角の石碑群。右から「念佛供養塔」碑、「馬頭観世音」碑、苔生した石灯籠。「地蔵尊」。石段の曲がり角より「陰陽之瀧」を見下ろす。「今泉不動」へと至る石段の途中にある「地蔵尊」。石段を上って行った。弘法大師空海が開いたという「不動堂」。扁額「不動尊」。内陣には「不動明王像」。「不動堂」の背後には大日如来の従者である「三十六童子像」があり、その上には「大日如来像」が。ちなみに、不動明王は大日如来の化身、もしくはその内証(内心の決意)を表したものであるとされています。参拝時に唱える不動明王の真言は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」中段に「制多迦童子」(左)と「矜迦羅童子」(右)。大日如来像の前は、立ち入り禁止で近くまでは寄れないのであった。「三十六童子像」(右)。「三十六童子像」(左)。「不動堂」背後にある「三十六童子像」の上に鎮座する「大日如来像」。「三十六童子」碑。石段を下り「辯天堂」前に。「陰陽之瀧」に向かう。正面に「陰陽之瀧(おんみょうのたき)」の石碑・「陰陽瀧」が見えて来た。「陰陽瀧(おんみょうのたき)」碑。諸国を遍歴していた空海(弘法大師)は、ここ今泉の地に辿り着いた。すると男女の仙人が現れ、不動明王を彫ることを空海に命じ、空海は不動明王と大黒天を彫り上げ、村人とともに祈りを捧げていた。そこへ再び仙人が現れ「人々が水に困っている。不動明王にお願いしなさい」というので、岩肌に二つの穴を穿ち、三日間祈祷をすると、二つの穴から水が湧き出し、2本の滝になったと。 それが男滝(おたき)と女滝(めたき)。この日は男滝も2筋の滝が。男滝をズームして。更に。そして「陰陽の滝」(女滝)。二筋の水量が少ない滝であったがいつもは???女滝と男滝の間・石碑の斜め上には、不動明王像が鎮座。滝の近くのやぐらの中にも石像が。「不動明王像」であるが、無残にも頭部が下に安置されているようであった。「本堂」下の墓地。「庫裡」を最後に再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.14
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク次に鎌倉、今泉にある 「称名寺」を訪ねた。「称名寺」は金沢文庫、そして昨年の10月に訪ねた「函館」👈リンク にもあった。ここ「称名寺」は鎌倉アルプスと呼ばれる北鎌倉(鎌倉市の北部)の山の中腹にあり、「今泉不動」とも呼ばれている。駐車場に車を駐め、山門に向かって進む。鎌倉市今泉4丁目5−1。入口にあった「称名寺墓苑」碑。「鎌府 金仙廟(れんぷ こんせんびょう)」。「鎌府」とは神奈川県鎌倉市の鎌倉幕府が開かれたところのこと。今泉不動の草創は弘仁9年(818年)頃で、弘法大師が金剛峰寺を開いてから2年後と伝えられている。大師は神仙の棲む金仙山と云うことを悟り、この山に踏み入ると忽然として現れた翁と媼からお告げを聞いて、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に一尺二寸の大黒天を彫り伽藍の守護神として祭った。その後、再び現れた翁と媼は傍の岩を穿ち陰陽の滝を流し水に困っていた村里に水の恩恵を与えた。以後金仙山を改め今泉山と称することとなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる。この縁起ではどのくらいの期間を金仙山と号していたかも不明ではあるが、金仙を今泉(こんせん)と書くようになり、さらに「いまいずみ」と読むようになったと伝えられている。今泉は村名になり、金仙は戦後になって今泉台の団地造成の際に出土したお地蔵さまの名や寺の新しい廟名になっている。「鎌府 金仙廟」の宝塔を正面から。「南無阿弥陀佛」の文字が。「動物供養塔」碑。「称名寺墓苑」。「今泉不動 称名寺案内板」。ズームして。今泉不動の開山は弘法大師(818)と伝わっています。今泉不動の別当 円宗寺(1192)を直誉蓮入上人が再興して今泉山一心院称名寺を増上寺より授けられ(1705 ~ )現代に至っています。宗旨 浄土宗 本尊 阿弥陀如来聖衆来迎像。この板には???。「今泉山称名寺と号する浄土宗のお寺で、開山は直誉蓮入(じきよれんにゅう)、本尊は来迎阿弥陀三尊です。このお寺は弘法大師の創建と伝えられます。境内には石造の大日如来像、三十六童子像があります。」とネットから。「掲示板」。「奉納 不動尊参道舗装」碑。石碑(明治28年)と「南無阿弥陀佛」の石塔。今泉不動入り口の六地蔵正面から六地蔵を。一番左の地蔵菩薩の鼻が、ちょっと異彩を放っていた。何故か異様に大きいのであった。六地蔵横のやぐらの如き場所には石仏が。寄付金碑。「不動明王」碑。そし小石の敷き詰められた境内へ。「勢至丸像」。平成13年(2001年)銘。浄土宗祖法然上人の幼名は、勢至丸と称した。その銅像である。「勢至丸像崇徳天皇の代、長承2年(1133) 4月、岡山県久米南條稲岡の庄の押領使、漆間時国の館に一人の男子が生まれました。勢至菩薩の生まれ変わりとして勢至丸と名付けられ文武の道に長じておりましたが9才の時父時国公は敵の夜討に会い、傷が元で亡くなりましたが臨終の折り勢至丸を枕辺に呼び「父の仇を討つことなかれ、世の中の人の救われる道を求めよ」と遣言されました。その後、勢至丸は父の言葉を守り、「みほとけ」の道を求め比叡山に登り一心に学問に励んだ末、遂に43歳の時「世の中すべての人々が何の差別もなく南無阿弥陀佛のお念仏に依って明るい人生を過ごすと共にやがて極楽国に住生する事が出来る浄土の教え」を開かれました。そしてこの教えにより多くの人々を救い導き建暦2年(1212) 80歳で西方浄土阿弥陀佛の国へ帰って行かれました。この勢至丸こそ、浄土宗を開かれました後の法然上人であります。」「本堂」。扁額「一心院」。内陣。本尊は阿弥陀如来。庫裡。「不動堂」の山門の如き石柱の頂部には石仏が。不動明王に仕える八大童子の中心メンバーである制多迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんがら)童子であろう。裏面には「當山第十七世融誉随翁上人代」と。「大正五年十一月廿五日建之」。頂部の石仏・制多迦(せいたか)童子(左)は手を上げて迎えてくれた。制多迦童子(せいたかどうじ; 梵語: Ceṭaka) は、不動明王の従者八大童子の第8番目である。不動三尊の一人であり、矜羯羅童子(こんがら Kiṃkara)と共に不動明王の脇士を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に配置される。「制多迦童子」とはサンスクリットで奴隷・従者の意。頂部の石仏・矜羯羅(こんがら)童子(右)。矜羯羅童子(こんがらどうじ; 梵語: Kiṃkara) は、不動明王の従者八大童子の第7番目である。不動三尊の一人であり、制多迦童子(せいたか Ceṭaka)と共に不動明王の脇士を務める。通常は不動明王の左(向かって右)に配置される。「矜羯羅童子」とはサンスクリットで、何をするべきかを問い、その命令の通りに動く の意。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.13
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク更に「鎌倉湖」方面に進むと左手にあったのが「白山神社・今泉寺(こんせんじ)」。入口の案内板。ここが「白山神社」、この後に訪ねた称名寺(今泉不動)までは500mと。「禅宗 今泉寺」。「文学案内板天廣丸狂歌碑「くむ酒は 是風流の 眼なり 月を見るにも 花を見るにも 廣丸」天廣丸(宝暦六年~文政十一・一七五六~一八ニ八)本名は磯崎廣吉、別号を酔亀亭と号した人で、大船今泉に生まれました。若くして江戸に出て易学を修め、また、狂歌の道に精進して、高名な狂歌師となりました。廣丸の狂歌の師は唐衣橘洲(からころもきっしゅう)で、廣丸の歌集としては「狂歌千歳の松の葉」・「狂歌都鳥集」・「狂歌玉笹集」・「狂歌三百集」などが知られています。中でも有名なのは「狂歌三百集」に収められている「狂歌酒百首」で、醉亀亭廣丸の面目を表わす代表的なものとして、広く人々に読まれました。廣丸は大変な酒好きで、その号も酒からとっていて、数々の逸話が残されています。「狂歌人物誌」(文政十年刊)には、廣丸は外出する時にも徳利を離さす、衣服には徳利の紋をつけ、著書にも徳利の図をつけていたと記されています。このような廣丸の奇人ぶりがまた、当時の江戸の人々に愛されたと思われます。この碑の狂歌は「狂歌酒百首」の最初に掲げられ、廣丸の名吟として知られたもので、東京墨田区の白鬚神社にある廣丸の碑にも刻まれています。また、東京麻市の善学寺の廣丸の記念碑には「心あらば手向けてくれよ酒と水銭のある人銭のない人」という、彼の時世の歌が刻まれています。廣丸の墓は、今泉の磯崎家の墓域にあり、位牌形墓石に「文政十一子天 九月十五日智法浄慧禅定門 俗名天廣丸」と刻まれ、側面には酒を表わす徳利の図が刻まれています。」参道の「石灯籠」(左)。参道を進む。今泉の住宅地の中、山を背にして白山神社があった。一の鳥居。右手に石碑群。手前から舟型上辺に、3つの種子をつけます。中心に、「キリーク」(阿弥陀を表す梵字)、向かって右が「サ」(観音菩薩)、向かって左は「サク」(勢至菩薩)を表すと。中心に「奉造立庚申像 為二世安楽」と刻む。 下辺に浮彫りの三猿を配す。右に「寛文十二年」(1672)とあり大分古いもの。安山岩、高さ108.5cmのこの庚申塔は鎌倉市の有形民俗資料に指定されていると。隣の石碑。尖塔角柱型中心に「庚申供養塔」と刻み、下辺に三猿を配する。左側面に「寛政四年」(1792)とあります。「牽牛地神」碑。この文字は?「馬頭観音」碑。「馬頭観音」碑。振り返って。庚中塔の反対側にも庚申塔が並んでいた。正面から。真ん中の背の低い石塔に「毘沙門堂」の文字が刻まれていた。「飛沙毛ん天堂」。石段の先に社殿が見えて来た。今泉白山神社の境内にのぼる手前、参道の途中左手にあるこの寺が、「今泉寺」。建物はあったが、人気(ひとけ)は無かったのであった。白山神社下の今泉寺は、かつての毘沙門堂の別当寺だった。昭和のはじめに明月院と合併した後、1983年(昭和58年)に本尊を如意輪観音とする寿福山今泉寺として創建されている。扁額「壽福山」は禅宗の寺。石段を上がると「白山神社」が正面に。建久元年(1190)上洛を果たした源頼朝は鞍馬寺を訪れた際に、行基作と伝わる毘沙門天像二体のうちの一体を賜った。翌年、その毘沙門天像を安置するために建立された毘沙門堂が白山神社の始まりだと伝えられている。鞍馬寺が平安京の北東の鎮護であることから、鎌倉の北東に当たる今泉のこの地に安置されたのだと。境内脇の「石祠」。これも右手に「子守神社」。「子守神社祭神 天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ) (子授・安産・子育ての神)元は水の配分をつかさどる神であるが、このみくまりをみこもりと訛って早くから子守神として信仰があった。豊臣秀吉はその子、秀頼のために祈り、本居宣長はその父母の祈請により誕生したとして参詣を重ねたことが和歌や、「菅笠日記」によって知られる。当地では、初宮詣・七五三詣に先立ってこのお社にお参りするのが古くからの慣わしです。」手水舎。湧水であろうか。神輿庫?「古札納め処」。「拝殿」。見事な彫刻。「白山神社」の石段から「今泉寺」を望む。「亀亭天廣丸の歌碑」。廣丸は今泉で生まれた江戸時代の狂歌師。江戸に出て狂歌の道に入る。酔亀亭という号のとおり酒好きで、出した歌集の中でも『狂歌酒百首』は、世に知られている。金は全て酒に使ってしまい、住んでいた屋敷は雨漏りだらけで、狂歌の会が行われたときには、集まった者が傘をさしながら参加したという話も残されている。「くむ酒は 是風流の 眼(まなこ)なり 月を見るにも 花を見るにも 廣丸」。そして「白山神社」入口の先には「鎌倉湖墓苑」の案内板が。「鎌倉湖墓苑」は「円覚寺塔頭 龍隠庵」が管理しているようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「大長寺」前の道を550m程下り、左折すると「岩瀬山 西念寺」に到着。「岩瀬山 西念寺」入口にあった掲示板。「山門」。1534年(天文3年)、織田信長が生まれた年に創建された浄土宗の古刹。寺を開いた運誉光道という人は、西念寺本堂裏の開山修行窟という岩窟で修行し、布教に務めたと。鎌倉市岩瀬1527。境内には幼稚園が併設されていて、遊具が並び、子供たちの元気な声が聞こえて来た。戦後間もなくできたもので、鎌倉では3つに数えられるほど古い幼稚園だと。「本堂」は平成18年(2006年)建立の白亜の鉄筋コンクリート製であったが。本尊は阿弥陀如来。「本堂」は、庫裡と一体となった「本堂庫裡合造」という珍しい建物であると。扁額「西念寺」。1534年(天文3年)当時は後北条氏2代目、北条早雲の子、氏綱時代の晩年であり、最盛期の関八州240万石という版図(はんと)に向かって着々と支配領域を広げていた。「西念寺」が創建された4年後の1538年(天文7年)に氏綱は隠居し、氏康が当主となった。戦の絶えない激動の戦国時代、この地で修行布教に務めた運誉光道に思いを馳せる。「西念寺」の大旦那である江戸日本橋の大店、木屋の主が西念寺に残した夫妻の像があり、これは首抜け木像という形式で、顔の塗替えをするため首が抜けるようになっており、塗替えのため首を持たされた人が外出した際に旅籠の女中が包みをあけて、生首と勘違いして一騒動起きたのだと。「六地蔵」。20数年前の雨の日に盗まれて、暫く経った雨の日に戻って来たという。そのときに首がもげてしまっていたと。信心深い方が毎年夏に赤い帽子とちゃんちゃんこを作って着せ替えてくだされ、首の補修跡が見えないようにしてあるのだと。「墓石群」・「上の塚」。右手に庚申等が立っていた。右から「馬頭観世音(安政4年(1857年)銘)」。「馬頭観世音(明治20年(1887年)銘)」「馬頭観世音」「石仏(天保7年(1836年)銘)」。2つに割れていた。そして一番左に「石仏3体」。「南無阿弥陀佛」碑。こちらにも「南無阿弥陀佛」碑。更に一段上にあった「水子地蔵尊」。「水子地蔵尊」。近くにも「地蔵尊」が。奉納された多くの「水子地蔵」。墓地。「本堂」の屋根を望む。そして「西念寺」を後にして、「鎌倉湖」方面に更に進む。路地の角には小さな社があった。内部には石祠が。そして道路のカーブには山に登る石段が。この石段を上って行った。墓石が並びだした。「栄泉寺略記天文十一癸卯(1543)歳(鉄砲伝来)二月廿三日 栄泉寺は得蓮社貞誉上人◯龍大和尚問◯今圓山萬徳院栄泉寺と称し今泉地蔵一帯の菩提寺となり三百余年の星霜重ねた。明治十三年十二月時の戸長並びに世話人相寄り今泉山称名寺に引移すこと示談成立。明治十四年再建立本尊再興塔悉く成就明治十五年七月に佛歓吉日称名寺廿五世心蓮社光誉上人◯◯◯◯依り開眼併呑された」ここは1543年に建立され廃寺となった「今圓山萬徳院栄泉寺」跡であるようだ。山の斜面にある墓石。今は、この後に訪ねた「称名寺」の墓地になっているのであろう。そして車に戻る。車の前には古き石塀の立派な民家があった。そして江ノ電バス「福泉」バス停横に車を停める。奥にあったのが「福泉」なのであろう。石仏と緑が見守る「かまくら湧水 福泉」。石仏をズームで。湧水を汲みに、軽トラで6個程のポリタンクを持って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.12
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクこの日は7月21日(水)、「古都「鎌倉」を巡る」の10回目の散策に向かう。この日は梅雨明け後の猛暑とのこと、そしてこの日に訪ねたのは、鎌倉市の北部の岩瀬、今泉地区であり訪ねる場所が散在していたので車での移動とした。自宅から30分でこの日の最初の訪問地・「五社稲荷神社」。鎌倉市岩瀬1399。「石鳥居」とその奥に「拝殿」。右手に「車祓所」と「掲示板」、「五社稲荷神社」案内板が立っていた。「掲示板」。「五社稲荷神社略記御祭神 倉稲魂神(うがのみたまのかみ) 保食神 (うけもちのかみ) 大己貴神(おおなむちのかみ) 太田神 (おおたのかみ) 大宮能売命( おおみやひめのかみ) 御祭日 八月最終土・日曜日由緒建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一太郎義正が当地に居住せし時、五穀豊穣と安寧を願って創建、江戸期には鶴岡職掌、坂井越後が神職を兼ねていたと『相模風土記』にある。岩瀬氏は、常陸国奥七郡を支配していた佐竹孝義の嫡男、義政の近習で常陸国那珂郡大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬)の岩瀬城城主であったが「吾妻鏡」によると治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝による佐竹氏攻めの際、常陸国府中手前大矢橋(現、花園川にかかる大谷橋)で捕えられ、常陸国府中(現、石岡市)の頼朝本陣にて見参した際、頼朝に諫言し、その武勇を認められ家人となり当地に居を構えたと伝わっている。その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威の発揚で飢饉を乗り越え民心を引き締め、神社では粥を張る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。明治六年村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年、神社本庁振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築等行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年社務所の改築を行った。境内社 平島弁財天社御祭神 田紀理毘売命(たぎりひめのみこと) 田寸津比売命(たぎつひめのみこと) 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)御祭日 五月巳の日由緒 寛政九年(一七九七)江の島神社の御分霊を奉齋、平成三年平成天皇御大典奉祝記念として改築した。」「手水舎」。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」五所稲荷神社は、建久年間(1190-1198)岩瀬与一太郎義正が、当地に居住した際に五穀豊穣と安寧を願って創建したといいます。保食・大己貴・大田・倉稲魂・大宮姫の五座を祀り五柱の神を祀っていることから、「五社神社」、「五所の宮」、「五所明神」とも呼ばれ、江戸期には岩瀬村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格していました。「拝殿」正面。「本殿」を横から。「神輿庫」が左手に。「神輿」。境内社の「平島弁財天社」であろうか。内陣には石祠が安置されていた。石碑が二基。左は「華表建設寄付人名」。「華表」の意味は 中国で、宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱のことであるとの事だが「華表」は何処にあったのだろうか。右の「大青面金剛童子」碑。そして石鳥居の左側には「庚申塔」が並んでいた。尖塔角柱型上辺に「日月」、中央に「青面金剛童子」と刻む。下には浮彫りの三猿。文政六年(1823)の銘。駒型上辺に種子「キリーク」(阿弥陀如来)、中央に「奉造立庚申」と刻む。右側に「延宝七天」(1679)、左側は「十二月十五日」とある。下には浮彫りの三猿。唐破風付笠塔婆上辺に「日月」をつけ、中心に合掌六手の青面金剛像。下辺に三猿。寛政十二年(1800)の銘。自然石。中心に「大青面金剛」と刻む。裏に、万延元年(1860)の銘。駒型。上辺に種子「キリーク」を刻み、その下に大きく三猿を刻む。右側面に庚申供養、左側面に天明七年(1787)と。そして次に訪ねたのが「大長寺(だいちょうじ)」。県道21号からほんの少し入ると大長寺の山門が姿を現した。鎌倉市 岩瀬1464。「掲示板」「感謝して今日も一日流す汗」と。「ここは大長寺」。次に訪ねた「西念寺」まで600mと。見事な大きさの「冠木門」。「大長寺亀鏡山護国院大長寺と号する浄土宗の寺で、開山は感誉存貞、本尊は阿弥陀如来です。天文17年(1548)5月に創建され、北条綱成の開基といわれます。寺には北条氏綱室朝倉氏像(市指定文化財)があります。」幅10mほどの大きな石段を上る。「南無阿弥陀仏」碑。この石碑には「馬頭観世音菩薩」と。ズームして。石仏と石塔。石仏。石塔。境内を望む。左手に「宝蔵」が。境内手前のこの「宝蔵」には家康と父廣忠の位牌が祀られており、扉には葵の紋が示されていた。本堂前にはかつて家康公手植えの銀杏もあったと。大長寺背後の山には北条綱成夫人など後北条一族の墓と言われる石塔が残っていると。他にも北条氏康寄進による倶利伽羅龍の図や北条綱成寄進による銅雲盤など後北条一族寄進による寺宝が数多く残されているとのこと。「宝蔵」の唐破風。見事な彫刻の上には葵の紋があった。扉格子にも葵の紋が。そして「本堂」。大長寺の近く、大船駅の北側一帯は里見、徳川、上杉を阻んだ名城として知られる後北条の南関東の拠点、玉縄城があり、北条綱成はその第3代城主でした。地黄八幡の旗印を掲げ北条随一の闘将として恐れられるとともに、外交にも手腕を発揮した知勇兼備の北条綱成は、北条氏の宿老として知られた大道寺政繁の甥であり、出家して浄土宗の僧侶となった感誉存貞を尊崇しており、氏を迎えて大長寺を創建したのだと「本堂」は1882年(明治15年)に消失し、しばらく時を経て1911年(明治44年)に再建された。扁額「大長寺」。蟇股(かえるまた)の見事な彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。鎖樋と天水桶。寺務所。寺務所を別の場所から。鐘楼。廻り込んで。梵鐘。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.11
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「田楽辻子のみち」を東に向かって進み、直ぐに右に曲がり南に向かって歩を進めた。前方左手にフェンスに囲まれた場所に木々がある場所が現れた。多くの石碑が立っていた。ここが「勝長寿院跡」。源頼朝の父源義朝は上総曹司と呼ばれ、三浦・千葉・上総氏を支配下におさめていた。保元元年(1156)の保元の乱(後白河天皇vs崇徳上皇)では、平清盛とともに後白河方として勝利する。平治元年(1159)の平治の乱(後白河上皇vs二条親政派)では、藤原信頼と源義朝は平清盛と対立し敗北した。文治元年(1185)、勝長寿院は源頼朝が父源義朝の供養のため、阿弥陀如来を本尊として建立した寺院で、惣門、本堂、弥勒堂、五仏堂、三重塔などがあった。建保7年(1219)、鶴岡八幡宮で暗殺された三代将軍源実朝も火葬のうえ当寺のかたわらに埋葬されたという。鶴岡八幡宮・永福寺と並ぶ三大寺院に数えられると。数度の火災に遭ったが、室町時代の後期頃まではここに「勝長寿院」所在していた と。鎌倉市雪ノ下4。「勝長寿院旧蹟址碑」であっただろうか。「勝長壽院舊蹟(しょうちょうじゅいんきゅうせき)」碑。頼朝の造った鎌倉3大寺社の一つで、源頼朝が父、源義朝の菩提を弔うため1184年に建立した大寺院。源氏の菩提寺であったためその姿は壮麗極まりなく、成朝(奈良仏師)に彫らせた金色の阿弥陀仏を本尊とし、藤原為久による浄土瑞相二十五菩薩壁画が描かれ、運慶による五大尊像も安置されていたと。「鎌田政家之墓」と書かれた石碑の両脇に五輪塔が2基。鎌田政家は源義朝の腹心の家来。義朝が長田(おさだ)親子に討たれる前日に長田の息子影致(かげむね)によって殺害される。妻は夫政家の亡骸のそばで政家の短刀でのどを突いて自害したのだと。「勝長壽舊蹟」碑。「院ハ文治元年(1185) 源頼朝ノ先考(亡父)義朝ヲ祀ランガ為ニ草創スル所 一(いつ)ニ南御堂(ミナミミドウ)又大御堂(おおみどう)ト言ウ 此ノ地ヲ大御堂ガ谷(やつ)ト言ウハ是ガ為ナリ 実朝及ビ政子モ亦(また)此ノ地ニ葬ラレタリト伝ヘラルレドモ 其墓今ハ扇ガ谷寿福寺ニアリ」【勝長寿院は1185年に、頼朝が父の義朝(よしとも)を祭るために建てた寺であります。別の名前として、南御堂(みなみみどう)とも、大御堂(おおみどう)とも言います。この辺りを大御堂が谷(おおみどうがやつ)と言うはこのためです。頼朝の子の実朝(さねとも)と妻の政子もこの地に埋葬(まいそう)されたと伝えられていますが、現在それらの墓は、扇が谷(おおぎがやつ)の寿福(じゅふく)寺にあります。】以前は上記石碑の右側に「勝長寿院と源義朝主従の供養塔」の案内板があったがこの日は見当たらなかった。以下、ネットからその案内板に書かれていた内容を。『勝長寿院と源義朝主従の供養塔由来文治元年(1185)、源頼朝は父・義朝の菩提を弔うため、この地に勝長寿院を建立し、同年九月三日、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頚を埋葬した。石碑の背後の五輪塔は、主従の供養のため源義朝公主従供養塔再建委員会(代表・鎌田丙午氏)の方々の御厚意により建てられたものです。勝長寿寿院には、定朝作の本尊・金色阿弥陀仏像を始め、運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が立ち並んでいました。鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって護持されましたが、十六世紀頃に廃絶したと思われます。ここに集められた礎石は工事等で出土したものですが、柱を据えるための整形跡や火災で焼けた痕跡が認められ、勝長寿院の歴史を語る貴重な遺物です。平成八年三月六日 鎌倉教育委員会源義朝公主従供養塔再建委員会の協力により之れを建てる。』と。そして同じ道を「金沢街道」まで引き返し右手に折れ進むと、左側の石段の上に大きな朱の鳥居が。社号標石「荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)」。「金沢街道」側の鳥居であり、ここから「荏柄天神社」への400m近くの長い参道が続いているのであった。「庚申供養塔群」が左側に。次に「大倉館推定地(北条義時邸跡)」に向かって進む。しかし何の案内板も見つからなかった。この辺りが「大倉館推定地(北条義時邸跡)」であるようなのだが。第二代執権北条義時の大倉の邸宅(屋敷)。杉本寺の西にあったが、その場所は不明である。大倉亭には、将軍の館があったし、大蔵幕府は焼失しそこにいた北条政子が来たから、 政子と将軍と執権が住んでいた。そして「大倉亭」が仮御所となって、嘉禄元年(1225)12月20日 宇都宮辻子に幕府が移されるまで6年間続いた。義時は小町にも北条執権邸を持っているが、大倉亭が本来の家である と。そして「金沢街道」に戻り、さらに杉本寺方面に向かう。前方にあったのが「歌の橋(うたのはし)」。橋の下には二階堂の谷より流れ来る二階堂川が流れ、滑川に合流しているのであった。「歌の橋」。「二階堂川」。ここにも「歌の橋」碑。『「歌の橋」とは優雅な名称が付けられた橋である。実は、この橋の名の由来には謀叛と言う恐ろしい事件が隠されてい る。今を去る事、約七百八十数年前の建保元年(1213)二月のことである。千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえ、第二代執権北条義時に差し出した時から事件は始まった。この僧侶の名は安念と称し、安念法師の自白により謀叛のことが発覚した。謀叛のこととは、信濃の国に泉親平と称す者が、源頼家の遺児の栄実(頼家の三男で幼名を千寿丸)を担いで将軍とし、執権の北条義時を倒そうとの陰謀を企んだ。この陰謀の一味に、和田義盛の子息の義直・ 義重及び甥の和田胤長が組していた事から、三ヶ月後の五月に起きた和田合戦の発端ともなった。さて「歌の橋」の由来であるが、この謀反の一味二百人の中に渋川刑部六郎兼守と称す御家人がおりました。渋川兼守は捕らえられて安達景盛(筋違橋で始まった宝 治合戦の首謀者)に預けられる身となった。いよいよ明日朝に処刑されるとの事を聞き、大変に悲しんだ兼守は十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納した。ところが、たまたま昨夜より天神社に参篭していた工藤祐高と称す御家人が、帰りがけに兼守の奉納した歌十首を受取、この歌を幕府御所に差し出しました。幼少より和歌に関心の深い将軍実朝が、この歌を見て大変に感動して兼守の罪を直ちに許されました。この恩赦に感激した渋川兼守は、将軍の恩に報いる為に二階堂川に橋を架けて寄付した。このようないわれから橋の名を「歌の橋」と呼ばれる様になった。新編相模国風土記稿の記述に、歌の橋の規模は長さ三間(約5.5m)と述べている。現在の橋の長さは同じく約5.5mで昔と変わらない規模と考えられる。』とのネット情報から。「歌之橋」碑。「鎌倉十橋ノ一ニシテ 建保元年(1213)二月 渋川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅(チュウ:殺)セラレントセシ時 愁イノ余リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄天神ニ奉献セシニ 翌朝 将軍実朝伝聞セラレ 御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦(ユルサ)レシニヨリ 其ノ報賽(礼参)トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 似テ神徳ヲ謝シタリト伝ヘラレ此ノ名アリ」【鎌倉十橋のひとつです。1213年2月に渋川兼守(しぶかわかねもり)が、謀反(むほん)の疑いで処刑されそうになったとき、無実の思いを十の和歌にこめて荏柄天神(えがらてんじん)に納めました。次の日、将軍の実朝(さねとも)は、その歌を聞いて感心して罪をゆるしました。兼守は神に感謝して、そのお礼としてこの場所に橋を造り納めました。これがこの橋の名の由来であります。】そして次の路地にあった案内板。ここを左折して進むと「鎌倉宮」、「永福寺跡」方面へ。直進すると「杉本寺」、「報国寺」方面へ。路地の角にあったのが「弘法大師道標石」。鎌倉市二階堂933−1。更に進むと右手にあったのが「鎌倉青少年会館・フレンドリー鎌倉」。鎌倉市二階堂912−1。この日の「古都「鎌倉」を巡る」はここまでとし、「杉本漢音」バス停から鎌倉駅方面に向かってバスを利用した。そして「段葛」まで戻り「八幡宮」バス停で下車。バス停の前にあった「人力車」の「えびす屋」。「人力車」はこの日の出番を待っていたが、このコロナ禍の影響で・・・。「若宮大路」を中心にした鎌倉の古刹、神社のレトロな地図を発見。最後に訪ねたのが「800年前《鎌倉時代》遺構保存展示中」。ビルの中の通路を奥に進んで行った。「北条泰時邸跡」案内ポスター。「WELCOM to KAMAKURA!!」とかかれた外国人を意識したガイド。英語が上に、日本語が下に、ここ鎌倉を代表する人物が紹介されていた。発掘調査で出土した「北条小町邸跡」を一般公開している遺構展示ビル。見学は無料。鶴岡八幡宮が目の前となる若宮大路沿いに建つ、M's Ark KAMAKURA(エムズアーク鎌倉)と言うビルの1階にあり、隠れた観光スポットになっているのであった。かつて、鎌倉幕府の有力武士「北条氏」の屋敷が多く建っていた場所で、当時の住居跡や道路跡などを見ることができるのであった。また、2階も一般開放されていて観光案内スペースや有料トレイがあるようであった。床の一部がガラス張りになって遺構が保存されていたのであった。床のガラスには案内も記されていた。「鎌倉時代選跡①芥穴 生活ごみなどが発見され、その中に陶器のかけらや骨などもありました。②柱穴 住居の柱、または溝護岸を支えた柱などの穴と考えられます。③溝護岸土台材 現在の擁壁にあたるもの。 若宮大路と住居土台を支えたものと考えられます。④溝護岸羽目板 羽目板とは羽目(はねめ)にった張った板。⑤鎌倉時代前期の若宮大路道路面鋼」実際の発掘調査で出土した陶器などを使用してリアルに展示。ビルの中で営業している戦国幕末ショップ「侍気分」がその横に。「鎌倉彫 安斎」。そして「鶴岡八幡宮 三の鳥居」越しに「舞殿」、「拝殿」を望む。ズームして。鎌倉駅に向かって「段葛」を歩く。右手に老舗の酒店「三河屋本店」。「段葛」を歩く人の姿はほとんど無く。鳩サブレーの店「鎌倉 豊島屋 本店」。そして鎌倉駅に到着。帰路にも「鎌倉駅旧駅舎時計台」を見る。時間は14:20過ぎ。帰路は梅雨も明けたようなので、江ノ電を利用。車窓から湘南海岸、江の島の姿を楽しむ。ズームして。2021年7月23日に開幕する東京オリンピック・セーリング競技の会場がここ「江の島ヨットハーバー」周辺。「江の島ヨットハーバー」でおこなわれるセーリング競技は7月25日にRS:X男女、レーザー男女から始まり、日毎に種目が増えていき、休息日を挟みながら進行する。セーリング最終日の8月4日は470級男女の決勝メダルレースがおこなわれる予定と。波型の屋根の建物は「ヨットハウス」。中央に「江の島セーリングセンター」。「江の島セーリングセンター」は、東京 2020 オリンピック競技大会・セーリング競技の運営施設となる建物。円滑な運営を図るとともに、オリンピックまでの期間は日本人選手の活躍を支援する施設。そして「小動岬」手前から。そして小田急線に乗り換え帰宅したのであった。この日の歩数は「25,761歩」であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「宝戒寺」を後にして、寺の横の道を歩き「宝戒寺」の裏に進む。「本堂」の裏にある寺務所・庫裡等の入口ゲートには北条の家紋「三つ鱗」が。伝説によると北条時政が江の島(現在の神奈川県藤沢市)にある弁財天の祠で、子孫繁栄の祈願を行った夜のこと、時政の前に、高貴な身なりをした女性が現れます。すると「あなたの子孫は日本を支配する」などと言い残し、大蛇なって海に消えたそうです。そして大蛇は3枚の鱗を残していき、これを北条時政が家紋にしたのだと。江島神社の御神紋も「三つ鱗」・「ミツウロコ」。道なりに進むと前方に橋が。「宝戒寺橋(ほうかいじはし)」。下を流れる川は「滑川(なめりかわ)」。この後渡った「東勝寺橋」をズームで。「宝戒寺橋」を渡り更に進むと右手の草むらの中の電柱に「紅葉山(もみじやま)やぐら」の案内表示があった。草むらの先にあったのが「紅葉山やぐら」。「紅葉山やぐら」は昭和10年に発見され、五輪塔や納骨、十六井が発掘されていると。このあたりは北条得宗家の屋敷敷地内あったことなどから、北条一族ゆかりの納骨場であったと。現在は施錠された柵がつけられていて、中をみることはできない。鎌倉は平地が少ないため、多くの谷戸にある岩肌をくりぬいた史跡がたくさんありある。地層が柔らかく彫りやすいのだと。平成11年(1999年)に崩落したが、その後の県教育委員会の調査でも十六井が確認されている。この後の復旧で現在のような、山肌を鉄筋コンクリートで覆った、史跡とはとても思われないような姿に変わっている。最も、この奥にある穴は防空壕になっているが、この「紅葉山やぐら」の姿は60数年前ならば喜ばれたかも知れない。「史跡 紅葉山やぐら」史跡「紅葉山やぐら」は、昭和10年(1935)に発見され、五輪塔や納骨、それに"海蔵寺十六井"と 全く同じものが出土しておりますが、その時代考証からも、北條執権ゆかりの納骨といわれております。 平成11年(1999)の大崩落後の神奈川県教育委員会の調査でも"十六井"が再確認されています。 鎌倉付近では、山腹の岩(第三紀層の凝灰岩質)をくりぬいて作った穴を「やぐら」と呼んでおり、 鎌倉時代から室町時代における上層階級の墳墓とされております。 この奥にある穴は、第2次世界大戦時の防空壕の跡ですが、 鎌倉西口駅前公園にあるラングドン・ウォーナー博士(1881-1958、米国)の顕彰碑にもあるとおり、 若かりしころ、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に留学、 岡倉天心に私淑した同博士(テオドル・ルーズベルト大統領の女婿)は「文化は戦争に優先する」と、 京都・奈良・鎌倉の三古都を中心に「日本の重要文化財リスト」を作成。 そのおかげで、多くの重要文化財が戦禍から救われました。 この地域は、鎌倉幕府の実力者・旧跡「北條執権邸」(歴史的風土特別保存地区)内にあり、 平成13年(2001)のNHK大河ドラマ「北條時宗」(第8代執権・1251-1284)生誕の地ともいわれ、 文永・弘安の役の二度にわたる蒙古襲来を撃退。 "神風"とともに、日本の歴史に名跡を残しました。もののふの 諸行無常の 鐘の声 永久に眠らぬ 紅葉山やぐら 萩村」案内板の前には「ヤブミョウガ」が生い茂っていた。花は可憐であったが、雑草の除去が必要と感じたのであった。引き返し突き当りまで進むと「東勝寺跡」、「北条高時腹切やぐら」の案内表示があった。左に折れると前方に橋が見えて来た。橋の名は「東勝寺橋」。その手前左に鎌倉青年團の「石碑」が。「青砥藤綱舊蹟」碑。「太平記ニ拠(ヨ)レバ 藤綱ハ北条時宗 貞時ノ二代ニ仕ヘテ 引付衆(裁判官)ニ列リシ人ナルガ 嘗(カッテ)テ夜ニ入リ出仕ノ際 誤ッテ銭十文ヲ滑川ニ堕(落)シ 五十文ノ続松(松明)ヲ購(買)ヒ 水中ヲ照ラシテ銭ヲ捜シ 竟(遂)ニ之ヲ得タリ 時ニ人々 小利大損哉ト之ヲ嘲(笑)ル 藤綱ハ 十文ハ小ナリト雖(イエドモ) 之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖(イエドモ) 亦(マタ)人ニ益ス 旨ヲ訓セシトイフ 即チ其ノ物語ハ 此辺ニ於テ 演ゼラレシモノナラント伝ヘラル」【太平記には、次のような話が書いてあります。「青砥藤綱は、北条時宗(ときむね)、貞時(さだとき)の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文(じゅうもん)を滑川(なめりがわ)に落したので、たいまつを五十文で買って、水の中を照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭(さと)しました。」この物語は、この辺りであったことと伝えております。】「鎌倉市景観重要建築物等第23号 平成14年4月1日指定 東勝寺橋 Toshojibashi Bridge東勝寺橋は、鉄筋コンクリートが積極的に導入された震災復興期の大正13年(1924)に建造されたアーチ構造の橋です。太く安定感のあるアーチリング、V字型の谷間との微妙なバランスなどその美しい姿は多くの人に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されました」この石碑には「東勝寺橋」と刻まれていたのであろうか。そして「東勝寺橋」を渡る。「滑川」の下流側。この辺りの「滑川」の河床は岩が剥き出しになっていた。「滑川」の上流側。橋を渡ると右側にあったのが「東勝寺橋ひぐらし公園」。「東勝寺跡」、「北条高時腹切やぐら」まで200mと。更に坂道を上って行った。そして左手にあったのが「東勝寺跡」。「東勝寺跡」案内板。「国指定史跡 東勝寺跡(とうしょうじあと)東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により、得宗(北条氏嫡流)家の氏寺として創建されました。様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに、周辺の地形と一体となった防御のための城郭的な機能を持っていたと考えられています。元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、幕府の最高権力者であった北条高時は、東勝寺で一族郎党とともに自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。平成8・9年(1996・1997)に行われた発掘調査では、幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡と、それを覆う10数cmの炭の層が発見されました。焼失後まもなく、東勝寺は禅宗寺院として再興され、室町時代には関東十刹に列せられましたが、16世紀後半ごろには途絶えたと考えられています。 注 意この史跡に対して、みだりに現状変更(掘削、工作物の設置等)や保存に影響を及ぼす行為を行うことは、文化財保護法により禁止されています。」「祇園山ハイキングコース」案内板。スタート地点はここ「高時腹切やぐら入り口」と「八雲神社入り口」の2箇所。「現在地」。「祇園山ハイキングコース」案内表示板。しかし、この祇園山ハイキングコースは、令和元年の台風15号・19号の影響により倒木や地滑りなどで大きな被害を受け、現在も大変危険な状況となっているため、現在も全面通行禁止となっていた。「腹切やぐら」碑と奥に「東勝寺舊蹟」碑。「東勝寺舊蹟」碑。「元弘三年(1333)五月 新田義貞 鎌倉ニ乱入スルヤ 高時 小町ノ邸ヲ後ニ 父祖累世ノ墓所東勝寺ニ篭(コモ)リ 百五十年来殷賑(隆盛)ヲ極メシ府下邸第(宅)肆廛(シテン:商店)ノ 今ヤ一面ニ焔煙ノ漲(ミナギ)ル所トナルヲ望見シツツ 一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス 其ノ北条執権史終局ノ惨澹(サンタン)タル一駒ハ 実ニ此ノ地ニ於テ演ゼラレタルナリ」【1333年5月に、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入ると、北条高時(たかとき)は、小町の屋敷を出て、先祖代々北条家の墓がある東勝寺にこもりました。そして150年間賑やかに栄えた鎌倉の町の屋敷や商店が、一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、 一族の者870人以上が共に自殺し果てました。北条の政治権力の歴史が終わりとなる、この悲惨な場面は実にこの場所で行われたのです。】そして帰路に訪ねたのが「鎌倉レデンプトリスチン修道院」。「聖母マリア像」。近くにあった「大神宮」。この後、来た道をひたすら下り、「小町大路」まで戻り右折して「金沢街道」に向かって進む。道路脇の店頭にあった鬼灯(ホウズキ)。そして「金沢街道」の「岐れ道」交差点の手前の路地を右折して進むと再び橋が。同じく「滑川」に架かる「大蔵稲荷橋」。下流側を見る。橋を渡ると正面に「大蔵稲荷」の朱の一の鳥居が現れた。大蔵稲荷の第1鳥居をくぐると、すぐ左に8基の石仏が並んでいた。庚申塔は6基。多くは駒形文字庚申塔であった。手前の石仏は「了因」、「文政ニ年(1819年)」と刻まれていた。右端の「猿田彦太神」弘化2年(1845)9月自然石(平板)裏 面「弘化二乙巳年九月吉日」台 石「大蔵町 講中」・10人の名草むらの中を進むと二の鳥居が。更に草むらの中の石段を上って行った。そしてようやく前方に三の鳥居そして「大蔵稲荷」社が姿を現した。「大蔵稲荷」の覆屋。「大蔵稲荷」の覆屋内の「本殿」。そして来た道を戻り「金沢街道」迄戻り右折して進む。左手の「金沢街道」の岐れ道にあった「庚申供養塔(右大師道)」。そして更に進むとあったのが「関所橋」。その先に「關取場跡」碑。「黨所ヲ里俗せきばト称ス 往時ハ関取場ト称セル由 天文十七年(1548)北条氏 関ヲ此処ニ設ケ 関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造営ノ料ニ充テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書 今ニ蔵セラレテ荏柄天神社ニ在リ」【この場所を土地の人は「セキバ」と呼んでいます。昔は「関取場」と呼んでいたとのことです。1548年北条氏が関所をここに設け、通行税を取って荏柄天神(えがらてんじん)の修復費に当てさせた所です。その掟(おきて)書の文書が現在も荏柄天神社に所蔵されています。】横にあった「庚申塔」。角柱型で、正面に大きく「青面金剛」と刻み、慶応二年(1866)の銘が。 覚園寺の信徒が道標として立てたものだと。すぐ横に小学生が書いたと思われる解説が掲示されていた。「関取場跡石碑についてこのあたりに戦国時代小田原城にいた北条氏康関所をおき、ここを通る商人やお参りの人から関銭(交通税)をとり、荏柄天神社の社殿を造る費用などにあてたそうです。荏柄天神社に伝わる古文書には、そのころの掟書が残っており、「商人の麻・紙・布などの荷物は十文、あい物(乾物)馬五文背負い荷三文、お参りの人で馬を利用している場合は十文、単に行き来をしている僧侶や庶民、里民からは関銭をとってはいけないなどと記されています。」更に「金沢街道」を進み「大御堂橋」交差点を右折した。「滑川」に架かる「大御堂橋(おゝみどうばし、おおみどうばし)」。「滑川」には大きな鯉が悠々と泳いでいた。「大御堂橋」を渡ると正面には鎌倉青年會の石碑が立っていた。「文覺上人屋敷迹」👈リンク 碑。「文覚俗称ヲ遠藤盛遠ト云ヒ モト院ノ武者所(むしゃどころ:警備所)タリシガ 年十八 想ヲ左衛門尉源渡(みなもとのわたる)ノ妻袈裟御前(けさごぜん)ニ懸ケ 卻(反っ)テ誤ッテ之ヲ殺シ 愴恨(そうこん:後悔)ノ余リ 僧ト為ル 其ノ練行甚ダ勇猛ニ 邪寒盛暑林叢ニ露臥シ 飛瀑ニ凝立シ屡々死ニ瀕ス 養和二年(1182)四月 頼朝ノ本願トシテ弁財天ヲ江ノ島ニ勧請(かんじょう:創設)シ 之ニ参籠スル事三十七箇日 食ヲ断ッテ祈願ヲ凝ラセリト 此ノ地即チ其ノ当時文覚ガ居住ノ旧迹ナリ」【文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、以前は院の警備をしていましたが、18歳の時に、源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ、源渡を殺そうとして、間違って袈裟御前を殺してしまいました。 これを深く後悔して僧となりました。その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝、日々滝に打たれて何度も死にそうになったといいます。1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天(べんざいてん)を建て、 ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。】そして碑の向かい、「大御堂橋」近くには「田楽辻子のみち」道標が。金沢街道の裏道。鎌倉時代から親しまれる小道。バス道(六浦道)と平行に走るこの路地は、「田楽辻子のみち」と呼ばれているのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.09
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「妙隆寺」の前にあった案内板。後に訪ねた「宝戒寺」まで300mと。「小町大路」を北に進み左折し進むと正面に石碑が。鎌倉市雪ノ下1丁目13−26。鎌倉町青年會の「若宮大路幕府舊蹟」碑。「鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシカv嘉禄(かろく)元年(1225)政子ノ薨(コウ:死)ズルト共ニ将軍藤原頼経(よりつね)之ヲ宇都宮辻(うつのみやつじ)ニ遷シ 後十一年ニシテ嘉禎二年(1236)再ビ此ノ地ニ遷ス 爾来九十八年頼経以後六代ノ将軍 相繼ギテ政ヲ此ニ聽ケリ元弘三年(1333)新田義貞ノ鎌倉ニ亂入スルニ及ヒテ 廢絶セリ」【鎌倉幕府は初め大蔵にありましたが、 嘉禄元年(1225)頼朝の妻の政子が死ぬと、将軍藤原頼経は幕府を宇津宮辻に移動させました。その11年後の嘉禎二年(1236)には更にこの場所に移動させました。それ以後98年間、頼経以後六代の将軍が相継いでここで政治を行いました。1333年新田義貞が鎌倉に攻め入ったことにより亡びました。今は石碑があるだけです】「大佛茶廊」。若宮大路の東側の住宅街に、「天皇の世紀」「鞍馬天狗」の昭和を代表する作家、大佛次郎(おさらぎじろう)の別荘があった。以前は土曜・日曜・祝日に親族の方がカフェを開いていたが現在は閉鎖中。大正時代に建てられた、「おもてなし」をするために建てられた日本家屋。そして再び「小町大路」に来た道を戻り「宝戒寺」に向かうと左手にあった石碑は「土佐坊昌俊邸址」碑。「堀河館ニ義経ヲ夜襲シ利アラズシテ死セシ者 是土佐坊昌俊ナリ 東(吾妻)鑑文治元年(1185)十月ノ條ニ 此ノ追討ノ事人々ニ多ク以テ辞退ノ気アルノ處 昌俊進ンデ領状(承諾)申スノ間 殊ニ御感(感歎)ヲ蒙ル 巳(すで)ニ進発ノ期ニ及ンデ御前ニ参リ 老母並ニ嬰児等下野(しもつけ)ノ國ニ有リ憐憫(れんびん:憐情)ヲ加ヘシメ給フベキノ由之ヲ申ス云々トアリ 其ノ一度去ッテ又還ラザル悲壮ノ覚悟ヲ以テ門出ナシケン此ノ壮士ガ邸ハ 即チ此ノ地ニ在リタルナリ」【土佐坊昌利は、堀川の館にいる源義経(よしつね)を夜におそいましたが、逆に殺されてしまいました。吾妻鑑(あづまかがみ)によると、この事が次のように書かれています。義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに、 この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は、大層喜びました。そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり、下野(しもつけ:群馬)の国に残して行きますので、 もしもの事があれば情けを掛けてやって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。一度行けば、帰ってこれないと言う、悲壮な覚悟で門出した武士の屋敷が在ったのは、この場所であります。】そして右手に「宝戒寺」の入口が現れた。「鎌倉 大聖天」碑。「宝戒寺」は秘仏である大聖歓喜双身天王(だいしょうかんぎそうじんてんのう)(歓喜天・聖天様(かんぎてん・しょうでんさま))をお祀りしているのだ。「天台宗圓頓寶戒寺」碑。「宝戒寺」の山院号は金龍山釈満院。詳名は「金龍山釈満院 円頓宝戒寺(きんりゅうざん しゃくまんいん えんどんほうかいじ)」。参道を進む。「宝戒寺」境内配置図。 【https://hokaiji.com/%E5%A2%83%E5%86%85/】より「北條執権邸舊蹟」碑。「往時此ノ地ニ北条氏ノ小町亭在リ 義時以後累代ノ執権概ネ皆之ニ住セリ 彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴筵(えんえん:宴会)ヲ張リ 時ニ田楽法師ニ対シ列座ノ宗族巨室(重臣)ト倶ニ 直垂(ひたたれ:礼服)大口(おおくち:大口袴)ヲ争ヒ解キテ 纏頭(てんとう:褒美)ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ 元弘三年(1333)新田義貞乱入ノ際 灰塵(かいじん:灰)ニ帰ス 今ノ宝戒寺ハ 建武二年(1335) 足利尊氏ガ高時一族ノ怨魂忌祭ノ為 北条氏ノ菩提寺東勝寺ヲ此ノ亭ノ故址(こせき:旧跡)ニ再興シ 以テ其ノ号ヲ改メシモノナリ」【昔この場所に、北条氏の小町亭がありました。北条義時(よしとき)以後代々の執権(将軍代理職)はたいていここに住みました。あの北条高時が、朝に夕に宴会をして、ときには田楽法師に対して、列席している重臣と共に、 ひたたれや袴(はかま)を投げ与えて褒美(ほうび)の山を築いたというのもこの場所であります。1333年に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入った時、戦火で焼けて灰になってしまいました。現在の宝戒(ほうかい)寺は、 1335年に足利尊氏(たかうじ)が建てたものです。この寺は高時一族の恨みを鎮めるために、北条氏の菩提寺であった東勝寺を、この屋敷跡に建てて名前を変えたものであります。】「北條九代屋敷 頼経公已後代将軍家鋪」と刻まれた石碑。北條九代とは北條得宗家のことであろう。北條時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時 の9人。しかし「頼経公」はこの中にいない。源氏三代が果てたあと執権義時が京の公家から迎えた四代将軍「藤原(九条)頼経」の邸宅がこの場所にあったのだろう。「金龍山寶戒寺伽藍復興大勧進御案内」当山は今より凡そ六百八十余年の昔、後諟醐天皇みずから開基となられ、勅願により五代国師慈威和上を開山とされ、征夷大将軍足利尊氏公に命じ鎌倉幕府北条氏一門慰霊、並びに鎮護国家、円頓大戒弘通(一隅を照らす人の養成)四宗兼学(円・蜜・禅・戒・念・法華経を中心とし、台蜜を修し、参禅に努め、戒律研鑽し、お念仏を誦す)の道場として、七堂伽藍、三ヵ院、数拾坊をゆうした大寺で、日夜祈念修法されてまいりましたが戦国時代の兵火、江戸期に於ける大火、明治の廃仏毀釈又震災者等により七堂伽藍ことごとく消失し、昭和期に五十六世慈潤大僧正の代より再建をはかり、今日に至って居りますがこの度左の様に復興運動を計画いたしましたので、皆様の御協力、御協讃を切にお願い申し上げます。・・・・・以下略・・・・・」「宝戒寺新田義貞の鎌倉攻めにより、この寺の南東にある「腹切りやぐら」で、最後の執権・北条高時をはじめ北条一族八百七十余名が自害したと伝えられています。滅亡した北条氏の霊を弔うため、また修行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条氏の屋敷があったとされるこの地に寺を建立させました。境内には四季を通じて花が咲き、九月には白いハギで理めつくされる「萩の寺」として有名です。●宗派 天台宗●山号寺号 金龍山円頓宝戒寺●建立 建武2年( 1335 )●開山 五代国師(円観慧鎮)●開基 後醍醐天皇」「掲示板」。右手にも山門が。「廣林庵」。「宝戒寺」関連の建物であろうが非公開であった。左手にあったのが「庚申塔」群であろうか。鳶職の人たちの「慰霊碑」。「聖德太子堂」。聖德太子様をお祀りしている。聖德太子様は仏教を深く信仰され、仏教の保護に尽力された。また優れた工芸技能者の育成を図ったといわれ、これにちなみ諸職人の守り神として信仰されていると。毎年1月22日に聖德太子講が厳修(ごんしゅう)されるとのこと。内陣。聖德太子像であろうがお顔は見えなかった。石製の絵馬掛所(えまかけどころ)。扁額「聖徳皇太子」。こちらは「德崇大権現(とくそうだいごんげん)」。鎌倉幕府執権北条高時公を德崇大権現(とくそうだいごんげん)としてお祀りしている。鎌倉幕府が滅亡した5月22日には北条氏鎮魂の為、毎年大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)が厳修(ごんしゅう)されると。「十三重塔」。「柏槇(びゃくしん)」。東久邇宮の御手植の「柏槇」の碑。そして「大聖歓喜天堂」。秘仏である大聖歓喜双身天王(だいしょうかんぎそうじんてんのう)(歓喜天・聖天様(かんぎてん・しょうでんさま))をお祀りしている。毎年5月23日には諸願成就を祈念し大聖歓喜天供(だいしょうかんぎてんく)が厳修(ごんしゅう)される。扁額「大聖天」。内陣。「本堂」横の「平成水琴」。柄杓で水を流してみたが、美しい音色が聞こえて来たのであった。そして「本堂」。内陣。御本尊と右手に脇立の「梵天(ぼんてん)」・県重要文化財。中央に本尊の「子育経読地蔵大菩薩(こそだてきょうよみじぞうだいぼさつ)」(鎌倉二十四地蔵尊 札所第一番)貞治四年・三條法印憲円(さんじょうほういんけんえん)作 明治三十二年国宝指定現在重要文化財 。中央に御本尊「子育経読延命地蔵尊」と書かれた赤い提灯。「鎌倉霊場 地蔵尊廿四所順拝」碑。「宝戒寺」のご本尊は鎌倉二十四地蔵尊の第一番とされる子育て経読み延命地蔵様。この石碑は?「宝篋印塔」。1333年滅亡した北条氏並びに鎌倉合戦東勝寺(とうしょうじ)戦没諸精霊を供養する慰霊塔。鎮魂の祈りを込めた写経、写経石が納められていると。鐘楼。梵鐘。墓碑であろうか。「宝戒寺」の墓地。井戸と石灯籠。「銘木 無患子(むくろじ)」。境内にある無患子(むくろじ)の実を用いて作られた『無病御守』が頒布されていると。無患子には病魔を追い払うという言い伝えがあり、このお守りは病気を患わないように祈願されているのだと。無患子の実は真っ黒で、かなりの硬さがある。この実は羽根突きの羽根にも使われていたと。近くに小さな石地蔵尊が。以前に戴いた「鎌倉三十三観音第ニ番 宝戒寺」の「佛母准胝観音尊」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉二十四地蔵第一番 宝戒寺」の「子育経読地蔵尊」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉・江ノ島七福神 宝戒寺」の「毘沙門天」の「御朱印」です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.08
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク鎌倉市小町2丁目15と16の境の住宅街の道を進み「宇津宮辻子幕府跡(うつのみやずしばくふあと)」に向かう。そして角にあった「宇津宮辻子幕府跡」に到着した。鎌倉市小町2-15-19。「宇津宮辻幕府舊蹟」碑。「鎌倉幕府ハ初メ大蔵(オオク ラ)ニ在リシガ 嘉禄(カロク) 元年(1225)政子薨(コウ:死)ジテヨリ之ヲ他ニ遷(移)サントノ議(論)起リ及(スナワ)チ時房(トキフサ) 康時(ヤストキ)等巡検評議ノ末 同年十一月此ノ他ニ造営 十二月将軍藤原頼経(ヨリツネ)此ニ移リ住ス 爾後(以後)嘉禎(カテイ)二年(1236)頼経再ビ之 ヲ若宮大路ニ遷(移)セルマデ 天下ノ政令ノ此ニ出ズルモ ノ凡(オヨ)ソ十二年ナリ」【鎌倉幕府の場所は最初大蔵 (おおくら)にありましたが、 1225年源頼朝の妻政子が亡くなった時に別の場所に移すことが検討され、北条時房(ときふさ)、北条康時(やすとき) などが議論の末、同じ年の11 月にこの場所に建設され、12 月には将軍の藤原頼経(よりつね)がここに移り住みました。その後1236年に頼経が更に幕府を若宮大路に移すまでの12年間は、幕府の政治はここで行われました。】「宇都宮稲荷神社 由緒宇都宮の名称は、下野(しもつけ・現在の栃木県)の宇都宮朝綱に由来します。朝綱は宇都宮二荒山神社の神職で在地の武士でもありました。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時、朝綱も当地に屋敷を構え、宇都宮より御霊を分霊して祀ったのが当稲荷です。朝綱の孫 頼綱は、元久2年(1205年)謀反の嫌疑を受け出家、今日の小倉山麓に隠棲して藤原定家(鎌倉前記の歌人「新古今和歌集」などを編纂)と親交を深め、和歌の道で活躍しました。当社では今も2月初午の日を例祭日として、講中・地元の有志等に守り継がれています。」正面に「社殿」。1190年前後に宇都宮二荒山神社(末社・初辰稲荷神社から?)から分霊を受けて創祀。ご祭神:稲荷大明神(稲荷神)ご利益:商売繁盛、五穀豊穣、安全祈願。幟には「宇都宮稲荷大明神」。そして「若宮大路」に出ると右手にあったのが「カトリック雪ノ下教会」。鎌倉市小町2丁目14−4。「カトリック雪ノ下教会」の建物。この後、段葛から再び。壁にはイコン・「絶えざる御助けの聖母」が。そしてその手前・隣りにあったのが「鎌倉彫資料館」👈リンク。鎌倉市小町2-15-13。 室町時代〜現代までの名品および資料約50点を展示。制作工程の映像も常時上映している。2時間彫刻体験も人気があり、専任講師による丁寧な指導で初心者でも気軽に楽しめる と。(HPより要事前予約/有料)。この後段葛から。そして「二の鳥居前」交差点まで戻る。角には二基の石碑があった。「大國主神 猿田彦之神 少毘古那神」碑。「猿田彦大神」碑。そして交差点角から二の鳥居を見る。「鶴岡八幡宮」碑。「狛犬」、「二の鳥居」、「段葛」を正面から見る。「段葛」案内板。「段葛ーノ島居より八幡宮までの一直線の参道を若宮大路と称し、京都の内裏に至る朱雀大路にならって造られたと云われる。二ノ鳥居より三ノ鳥居に至る中央の一段高い参道を特に段葛と呼び、別名「置石」ともいわれるこの道は古くは海岸まで続いていた。養和2年(1182)3月源頼朝公は妻政子の安産を祈って、従来の参道を整備した。この普請には頼朝公自ら指図をし、北条時政を始めとする武士達が土石を運び、葛石を積んでこの道を築いたのである。段葛は鶴岡八幡宮境内の一部で、鎌倉だけに残る形式の古道として現在は国の史跡に指定されている。参道としての威厳と史跡の保全、桜並木の景観回復等を目的として平成28年(2016)大正時代より100年ぶりの整備工事を行い、花の季節には特に美しい景観となる。」大きな白マスクをした狛犬(右)。鶴岡八幡宮の本宮(上宮)楼門に掲げられた額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されている。これと同じものがこのマスクにも。大きな白マスクをした狛犬(左)。「二の鳥居」。「段葛」を見る。「段葛」碑。「段葛(ダンカズラ)一(イツ)ニ置石(オキイシ)ト称ス 寿永(ジュエイ)元年(1182)三月 頼朝ソノ夫人政子ノ平産(安産)祈祷ノ為メ 鶴丘(八幡宮)社頭ヨリ由比海浜大鳥居辺ニ亘(ワタ)リテ之ヲ築ク ソノ土石ハ北条時政(トキマサ)ヲ始メ源氏家ノ諸将ノ 是ガ運搬ニ従ヘル所ノモノナリ 明治ノ初年ニ至リ二ノ鳥居以南其ノ形失ヘリ」【段葛(だんかずら)は、置石(おきいし)ともいいます。1182年3月に、頼朝は、妻の政子の安産の願いを込めて、鶴丘八幡宮の前より由比が浜の大鳥居の辺まで、この参道を築きました。その土や石を北条時政(ときまさ)をはじめ、源氏家の多くの武将たちが運びました。 明治はじめに、二の鳥居から南の方の道が無くなりました。】「段葛」をほぼ独り占めして八幡宮方向に歩く。右手に「カトリック雪ノ下教会」を再び。更に「段葛」をほぼ独り占めしながら進む。そして「段葛」を降り、案内に従い商店街の左手路地に入っていった。「⬅北条時房邸跡」との案内が最上部に。「摂津守小池民部太夫藤原久時邸跡 相糢守連署六波羅探題北条時房邸跡1 源頼朝の招請に依り、摂津守小池民部太夫藤原久時治承四年鎌倉に下向、比の地に住す。 代々鎌倉神楽の伝承家として鷓岡八幡宮の社官たリ2 後年.数代の間相糢守連署六波探題北条時房(政子・執権義時の弟) 一族の居館どなるも、 七代小池民部時芳以降民部屋敷として旧に復し今日に至る当時の邸地は、約ニ千坪と 推定される」この場所が「邸跡」なのであろう。「鎌倉幕府将軍の事 代 将軍名 父 母一代 源頼朝 源義朝 藤原季範 女ニ代 源頼家 源頼朝 北条攻子三代 源実朝 源頼朝 北倏攻子四代 九條頼経 九條道家 藤原掄子五代 九條額嗣 九條頼経 藤原親能 女六代 宗尊親王 後嵯峨天皇 平 棟子七代 惟康親王 宗尊親王 藤原宰子八代 久明親王 後深草天皇 藤原房子九代 守邦親王 久明親王 雅康親王 女記一、鎌倉幕府は、大蔵幕府、宇都宮辻幕府、若宮大路幕府の総称である。将軍は源氏三代、 公家ニ代親王四代である。一、当時段葛の東西両側は幕府及び幕府の重臣屋敷が宏壮な構えを成し、幕府の中心地であった。一、次の略図は古文書、口伝、文化財発掘調査等による。」「若宮大路」両側の幕府、邸宅配置図。「五重石塔」と「鎌倉神楽伝承家 摂津守小池民部 藤原久時邸」案内木柱。そして次に訪ねたのが、「若宮大路」を横断し「小町大路」近くにあった「妙隆寺」。「山門」。鎌倉市小町2丁目17−20。「鎌倉江の島 七福神」と書かれた白い幟。「妙隆寺(みょうりゅうじ)この辺り一帯は、鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。第二祖の日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい『立正治国論』で室町幕府六代将軍・足利義教の悪政を戒めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」とよばれました。本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。● 宗 派 日蓮宗● 山号寺号 叡昌山妙隆寺(えいしょうざんみょうりゅうじ)● 建 立 至徳2年 (1385)● 開 山 日英上人(にちえいしょうにん)● 開 基 千葉胤貞(ちばたねさだ)」「手水舎」。「本堂」。「妙隆寺」は日蓮宗総寺院。一帯は鎌倉幕府の有力御家人だった千葉常胤の子孫・胤貞の別邸跡と伝えられ、一般には「千葉屋敷」とも呼ばれている。「妙隆寺」は胤貞が祖先追福のため、至徳二年(1385)、七堂伽藍を建立して妙隆寺を創建し、中山法華経寺の日英上人を開山に迎えたと伝えられる。妙隆寺は中山門流の中心となった。本尊は日蓮上人。千葉胤貞の念持仏と伝えられる木造釈迦如来像や日拓、日英、日親の曼荼羅本尊も安置。「本堂」に近づいて。本堂の扁額「叡昌山」。「本堂」の屋根。題目塔「南無妙法蓮華経」。鎌倉七福神のひとり寿老人(長寿の神)が鎮座する妙隆寺の祠。中国宋代の人であり長寿の神様。欅(けやき)の一本造りの尊像が祀られる祠。「鎌倉・江の島 七福神寿老人 妙隆寺当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤(つねたね)の子孫 千葉大隅守平胤貞(たねさだ) の旧地で、至徳2年(1385)七堂伽藍を建立し、妙親院日英上人を迎えて開山しま した。応永34年(1427)の冬、第二祖・日親上人は21才の時、当寺に来て堂前の池で 寒百日間、水行などの修行を積み、京へ上り立正治国論の一書を足利義教将軍に献じて、 政道を諌(いさ)めようとしましたが捕えられ、拷問の末、ついには焼き鍋をかぶせられる極刑を受けました。 後年、『なべかむり日親』と呼ばれるように成りました。世の為、人の為ならばいかなる苦難にも屈しない日親上人ゆかりの妙隆寺には、﨔の一木造りの寿老人の尊像が安置されています。人々の安全と健康を守り長寿を司る福神です。 お供の鹿はその使いで、三千年の長寿を象徴しているのです。」﨔の一木造りの「寿老人」の尊像。以前頂いた「鎌倉江の島七福神 妙隆寺 寿老尊」の「御朱印」です。「鍋冠日親上人五百遠忌御報恩塔」碑。「当山第二祖 なべかむり日親上人行法御池之霊跡応永34年(1427)の冬、上人が21才の時、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの尽力を試さん」と寒中、雪の日、氷張る早朝霜踏み、この池に身を浸すこと百日間、毎日自我偈百巻、お題目、千遍を日課として法華経を弘通されました」歴代上人の墓石か。祠の中の「日親大上人像」。二代日親は、開山の日英の甥にあたる。妙隆寺二代の日親上人は、室町幕府六代将軍足利義教に日蓮宗への改宗を試み、『立証治国論』を直訴したことから拷問を受け、焼けた鍋を頭に被せられ「鍋かむり日親」として知られている。また激しい修行をした池が碑とともに伝えられているのだと。「なべかむり 日親大上人像」。寺務所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.07
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「鎌倉駅」までバスを利用し、次に駅前の「大巧寺(だいぎょうじ)」に立ち寄る。大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉で、境内に祀られている「産女霊神」を指す。「山門」を潜り参道を進む。このピンクの花は?「イワフジ(岩藤)」であると。別名ニワフジ(庭藤)とも。そしてこちらはハイビスカスに似た「ハマボウ」であろうか。黄色の花。オクラの花にも似て。「本堂」。長慶山正覚院大巧寺(ちょうけいざんしょうがくいんだいぎょうじ)。大巧寺の詳しい歴史は今でも不明点が多いが、鎌倉幕府の源頼朝が祈願所としたことがわかっており古くから鎌倉にある寺院の一つであると。大巧寺の創建当初の開山は不明ととされているが、日蓮宗へと改宗を行った日澄を開山と捉えることが多いとのこと。日澄は日蓮の弟子であった僧侶。はじめは十二所の「大行寺」という真言宗の寺で、源頼朝がある戦いのときこの寺で練った作戦(戦評定)により大勝したため「大巧寺」と改めたろ。1320年(元応2年)にこの小町に移転したのちに、時の住職が日蓮上人に帰依し日蓮宗に改宗したと。鎌倉市小町1-9-28。現存する本堂は関東大震災以後に再建されたもので、おんめさまを祀る、5世住持の日棟が難産で苦しんで死んだ秋山勘解由という人物の妻の霊を供養して成仏させ、その後お産に苦しむ人のために産女神霊を本尊として祀ったのが始まりという。「ヒメノカリス」の花。「ヒメノカリス」の仲間は、中南米と西インド諸島に25~30種が分布。アサガオの花のような副花冠(花弁の内側にある付属物)とクモの脚のように飛び出した6本の花弁が特徴で、そのユニークな姿からスパイダーリリーと呼ばれているのだと。オニユリ (鬼百合) 。そして裏側から出ると石碑が。「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩」。そして右に折れて「小町大路」を進むと左手にあったのが既に何回か訪ねた「本覚寺」👈リンク。鎌倉市小町1丁目12−12。「本覚寺本覚寺のあるこの場所は慕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといニ代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。鎌倉の住人、名刀エ・正宗の墓が境内にあります。」・宗派 日蓮宗・山号寺号 妙厳山本覚寺・建立 永享8年( 1436 )・開山 日出山門(仁王門)の阿形像。お顔をズームで。山門(仁王門)の吽形像。お顔をズームで。以前頂いた「鎌倉江の島七福神 本覚寺 夷神」の「御朱印」。「夷堂橋(鎌倉十橋)」。「夷堂橋(えびすどうはし)」碑「鎌倉十橋ノ一ニシテ 此辺ハ往昔夷堂アリシトイフ 此川ハ上流ニテ胡桃(クルミ)川ト イヒ 浄明寺門前ニ至リ滑 (ナメリ)川ノ名アリ 文覚(モ ンガク)屋敷ト伝ヘラルル辺ハ坐禅(ザゼン)川ト唱ヘ 此辺ハ夷堂川ト呼ビ 延命寺ノ 傍ヨリスミウリ川ト名ツケ 閻魔(エンマ)堂址ノ辺ニテハ 閻魔堂川トイフ」【この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった と言います。この川は現在は滑(なめり)川といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。上流では胡桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命 寺の辺りはスミウリ川とい い、閻魔(えんま)堂跡の辺は 閻魔堂川といいました。】「夷堂橋」を渡ると正面にあったのが、ここも何回か訪ねている「妙本寺」👈リンク の題目碑。題目碑「南無妙法蓮華経」。横側には「閻浮提内本化最初霊窟」と。「閻浮提(えんぶだい)」=仏教の世界で須弥山(しゅみせん)の南方にあるとされる島。「本化(ほんけ)」=仏の教えの意。すなわち「この世で釈迦の教えを最初に伝える寺」の意であると。正面に「総門」。「妙本寺(みょうほんじ)この寺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やか花をつけ、静かな境内を彩ります。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:長興山妙本寺 (ちょうこうざん) ● 建 立:文応1年 (1260) ● 開 山:日蓮聖人 ● 開 基:比企大学三郎能本」「比企能員邸址(ひきよしかずていあと)」碑「能員ハ頼朝ノ乳母(ウバ)比企禅尼ノ養子ナルガ 禅尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ 此ノ地比企ガ谷(ヤツ)ノ名アルモ之ニ基ヅク 能員ノ女(ムスメ) 頼家ノ寵(チョウ)ヲ受ケ若狭局(ワカサノツボネ)ト称シ 子一幡(イチマン)ヲ生ム 建仁三年(1203)頼 家疾(病)ムヤ母政子関西ノ地頭(ジトウ:庄官)職ヲ分チテ 頼家ノ弟千幡(センマン)ニ授ケントス 能員之ヲ憤リ蜜(ヒソカ) ニ北条氏ヲ除カント謀(ハカ)ル 謀泄(漏)レテ 卻 (反)ツテ北条氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル」【比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ひきのぜんに)の養子であり、禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのもこのためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡(いちまん)という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。】この案内板には何が書かれていたのであろうか。「文学案内板 妙本寺境内」のようであったが。この日は「蛇苦止堂(じゃくしどう)」のみをを訪ね、境内は後日とした。蛇苦止堂は若狭局(わかさのつぼね:讃岐局(さぬきのつぼね)と同一人物と。)を祀っている。1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱)。二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。後に文応元年(1260)のその日の夕刻、後の執権・北条政村の娘が突然錯乱しそして語り始めた。娘の口をかりて話始めたのは「讃岐局」を名乗る怨霊。「われは大きな角の生えた大蛇となって比企ヶ谷の土中で火炎のごとき苦を受けている」と。その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたと。その後政村は経典を写し讃岐局を供養した。また加持祈祷をして政村の娘を癒したと。そこで妙本寺建立にあたって、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、蛇苦止大明神として祀ったと。次に訪ねたのが近くにあった「琴弾橋(ことひきはし)」。小御所山とは、二代将軍源頼家の子一幡の館があった山の名。一幡の館が「小御所」と呼ばれていたことから「小御所山」と呼ばれる。この山には、風がわたると琴を弾くような音がしたことから名付けられた「琴弾の松」という名木があったといわれている。蛭子神社の脇を流れる滑川には、小御所山の「琴弾の松」にちなんで、「琴弾橋」が架けられている。鎌倉市小町2丁目22−1。「ことひきはし」。下を流れる川は「滑川」。上流側を見る。下流側を見る。そして次に訪ねたのが「蛭子神社(ひるこじんじゃ)」。鎌倉市小町2丁目23−3。「小町大路」沿いにあった「蛭子神社」の石鳥居。扁額「蛭子神社」。この案内板も・・・・。「手水舎」。美しい木彫りの「本殿」。かつて本覚寺山門、夷堂橋のあたりに源頼朝が鎌倉幕府を開く際に鬼門の鎮守として建てた天台宗系の夷堂があり、これが蛭子神社の起源です。佐渡配流から帰った日蓮が1274年(文永11年)頃にこの夷堂に滞在して布教の拠点としたといわれている。室町時代の1436年(永享8年)に日出が夷堂を日蓮宗に改宗して現在の本覚寺を創建した。明治に入って神仏分離令により本覚寺と分離し、七面大明神、山王大権現(北条氏の守神)を合祀して蛭子神社となり現在の地に移った。その後1981年(昭和56年)に本覚寺境内に夷堂が再建されていると。本殿は1923年(大正12年)の大震災で倒壊し、1933年(昭和8年)に再建されたのだと。扁額「蛭子神社」。「蛭子神社」には壮麗な神輿があり、ガラス張りの神輿庫に入っていた。巨大な神輿が二基安置されていた。「社務所」。そして「小町大路」に出て北方向に向かうと右手にあったのが「日蓮上人辻説法跡」。扉には鍵がかかり、中に入ることはできないようになっていた。「日蓮上人辻説法跡日蓮上人は建長五年(一ニ五三)、安房(千葉県)ら鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。文応元年(一ニ六O)、五代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。」「日蓮上人辻説法図」。「日蓮大士辻説法之霊」碑。日蓮宗(法華宗)を開き、1254年(建長6年)に鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵をむすび、小町大路を中心に辻説法を行った。日蓮は、この場所で熱心に法華経の布教に努め、他宗を「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として厳しく批判した。辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学が整備したもの。智学の研究によると、実際に日蓮が辻説法を行ったのは、蛭子神社のある辺りとされている。大町の本興寺も日蓮が辻説法を行った場所とされ、「日蓮辻説法の碑」が建てられている。中央に題目碑「南無妙法蓮華経」碑。明治34年5月12日建立の漢文の石碑。彫も薄く、柵の外からは碑銘も読めない。上が欠けていた。「日蓮聖人辻説法之阯」碑。「此辺ハ往昔ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地点ニ位シ 幕府ニ近キコトトテ 殷賑(隆盛)ヲ極メシ所ナリ 建長五年(1253)五月 日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ松葉ガ谷(ヤツ)ニ草庵ヲ結ビ 日ニ日ニ此辺リノ路傍ニ立チ 弘通(グツウ:布教)ノ為メ民衆ニ対シ獅子吼(シシク:強声)ヲ続ケシ址ナリトテ 世ニ辻説法ノ旧蹟ト伝ヘラル」【この辺りは、屋敷町と商家町との間にあって、幕府に近いことから大変にぎわっていた場所です。1253年5月、日蓮聖人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て松葉が谷(まつばがやつ)に住み、民衆への布教のため、 毎日のようにこの辺りの道端に立って、大声を張り上げていた場所であるといわれています。一般に辻説法の跡といわれています。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.06
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクそして、次に鎌倉大佛の裏に向かうと、左奥にあったのが「観月堂」。高徳院のこの「観月堂」は、もともと、孛氏朝鮮の漢陽(現在のソウル)の王宮にあった建物だと。その名の通り月を眺めるための建物で、おそらくは今よりも広々とした場所に、優雅に建っていたのであろう。しかし、ある時、借金の担保として朝鮮拓殖銀行に受け渡されてしまったと。その後、朝鮮拓殖銀行の経営危機に際して山一合資会社(廃業した山一證券)が融資を行った際に、銀行から山一合資会社に提供され、日本に渡ったと。日本に来てからは、東京都にあった旧山一證券の創業者杉野喜情氏の私邸にあったが、1924年(大正十三年)、同氏によって高徳院に寄贈されたのだと。「観月堂と観音像丹青に彩られたこの建物は、もとはソウルの朝鮮王宮にあったもので、1924 (大正13 )年、杉野喜精氏によって当山へ寄贈されました。鎌倉三十三覬音霊場2 3番札所ともなっている当山では、今日、この建物のなかに江戸後期の作品とみられる木造の観音薩立像を安置しています。」多くの「大仏殿礎石」が地面に置かれていた。「大仏殿に使われた礎石高徳院の境内には、大仏殿礎石59個が残されています。礎石は不整形な円盤型の根府川産の安山岩製を加工したものです。大仏殿の礎石は、建久3年(1192)に建立された永福寺の礎石とは異なり、礎石の表面は平坦になるようにきれいに加工されています。この加工技術は、東大寺大仏殿造営のために招聘された中国人の石工による石材加工技術とされ、鎌倉大仏を鋳造する鋳物師の技術と同様に、石材加工にも中国の技術が持ち込まれていました。」「大仏殿礎石配置推定図」。現在も大半は発掘された位置に置かれていると、朝の清掃を行っていた係の方から。「湘南工科大学によって再現されたCGの大仏殿」。歌碑であろうか。これは判読できず。「大佛道」碑。【裏】大正十五年十月重建 鎌倉大佛殿 轉法輪行念「國寶鎌倉大佛殿道」【裏】明治四十年四月建之 大佛殿別當轉法輪行(念)勲七等功七級轉法輪戒(門)【右】鎌倉の大ぶつ三丁余 鎌倉権五郎社左ヱ二丁長谷の観音二丁余 星月夜乃井左ヱ三丁【左】梵字鎌倉乃大ぶつ三丁余 鎌倉権五郎社左ヱ二丁長谷の観音二丁余 星月夜の井左ヱ三丁見事な石灯籠。「与謝野晶子 歌碑」「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 晶子」【左】鎌倉大佛造立七百年記念奉讃 昭和二十七年四月 味の素株式會社鎌倉大仏は実は「釈迦牟尼」ではなく「阿弥陀如来」。そして「美男」も作者・与謝野晶子の間違いであるとネットから。与謝野晶子歌碑は見にくいので、その説明であろう。右手は、与謝野晶子の実筆なのであろうか?裏にあった小さな石仏。近寄って。これも石灯籠であろうか。内部には仏様?の姿が。そしてトイレでタオルを濡らして頭を冷やす。「国宝 銅造阿弥陀如来坐像 昭和33年2月8日指定国指定史跡 鎌倉大仏殿跡 平成16年2月27日指定高徳院本尊の「銅造阿弥陀如来坐像」は鎌倉大仏とも呼ばれ、国宝に指定されています。日本有数の銅造大仏で、建長4年(1252)に鋳造を始めたと史料にみえる「金銅八丈釈迦如来像」がこの大仏であるとされています。完成時期はわかっていませんが、文永5年(1268)ごろまでには大仏殿も建てられていたと考えられ、管理していた寺院は大仏殿、大仏寺、鎌倉大仏寺などと呼ばれていました。大仏殿は災害により何度か倒壊し、その度に大仏の修理が行われたようです。境内では平成12年(2000)と13年(2001)に発掘調査が行われ、桁行(横) 145尺(約44m)、梁行(縦) 140尺(約42.5m )を測る五間裳階付の大仏殿であったことがわかりました。また、中世の瓦が出土しないことから、大仏殿は瓦葺きではなかったと推定されています。このほか、大仏に向かって斜めに高くなるよう堆積している地層が確認されており、大仏の鋳造過程を示すものと考えられます。大仏は15世紀末以降、現在と同じように露坐となり、相次ぐ災害によって荒廃しました。高徳院は、正徳2年(1712)に増上寺の祐天上人、浅草の商人・野嶋新左衛門らが大仏の復興を発願して建立した寺院です。復興された大仏の開眼供養は、元文2年(1737 )に高徳院住職の養国上人によって行われ、今に至っています。」「浄土宗 開宗八百五十年」ポスター。スイカと生花を再び。この日の「梅雨明け」の空を背景に。お顔を再び。穏やかな慈悲に溢れて。螺髪(頭の丸)の数は656個あるといわれています。螺髪は髪を丸めて作るので、656個も丸めるにはたくさんの髪が必要。大仏様が実在したら相当髪の長いお方ということになると ネットから。螺髪が左回りであることが解ったのであった。正面から再び。「露座の大佛」。大仏殿は建武二年(1335)と志安二年(1369)の台風で倒壊。更に明応四年(1495)の大津波で押し流され、以来、現在の様な露座の大仏となってしまったのだと。そして大仏様の前から境内・入口方面を望む。「梵字 武皇■源頼朝大禅定門尊儀」碑。【裏】大仏造立發願主右大将源頼朝御法師正治元未年正月十三日死去御壽五十二紅葉も美しいのであろう。「鎌倉・江の島名所図会」。大佛の腕の上で記念撮影する外国人の姿の写真.「外国からみた鎌倉大仏江戸時代の慶長18年( 1613 )に英国人ジョン・セーリス、元和2年( 1616 )に英国商館長のリチャード・コックス、明治時代には、フランスの東洋美術蒐集家であるエミール・ギメ、エメ・アンべールら外国の人々が高徳院を訪れ、日記に大仏を見た様子を記しています。日記には、大仏の大きさに圧倒されるとともに、象徴的な姿に感嘆した様子がうかがえます。大仏を見た外国の人々は、長い年月を経ても変わらず日本の人々に尊ばれ、親しまれる姿を称賛しています。」と「鎌倉歴史文化交流館」👈リンク にて頂いたパンフレットから。以前頂いた「鎌倉観世音 第二十三番 高徳院 聖観音」の「御朱印」です。そして「鎌倉大仏・高徳院」を後にして、バスで鎌倉駅に向かったのであった。バス停前には「鎌倉病院」が。明治32年(1899年) 当時の内務省医務局長、中浜東一郎との共同経営で現在地に鎌倉病院を開設し、日本橋病院の分院として多くの結核患者を収容したのだと。鎌倉市長谷3丁目1番8号。「鎌倉大仏・高徳院」を初めは独り占めしての見学であった。そしてこのブログを書きながら「鎌倉大仏」について多くを学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.05
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク奈良には東大寺の大仏、その昔、京都にも、東福寺や方広寺には大仏があったと。そして、鎌倉にもこの大仏。平城京、平安京に並んで、鎌倉も大きな都だったのだ。。その大仏、奈良の大仏と比べてみると、異なる点がいくつか。その1:鎌倉の大仏は民衆の浄財を集めて造られた。奈良は天皇の詔から。その2:鎌倉は阿弥陀如来、奈良は盧舎那仏。その3:鎌倉の大仏は基本、造られた当時のもの。奈良の大仏は4つの時代(奈良・鎌倉・ 室町・江戸)のパーツ?が組み合わされている。 (奈良時代のものは、台座、ひざ頭の一部のみ)その4:鎌倉の大仏の印相は上品上生。 奈良は、与願印、施無畏(せむい)印という来迎印。その5:螺髪に関して、鎌倉の大仏の螺髪は本体と同時に鋳造されているが、奈良の大仏は螺髪 を別に鋳造して、あとから埋め込んでいる。 ちなみに鎌倉大仏の螺髪は656個。奈良は492個(うち2016年には483個確認 残りは欠損) その6:鎌倉は露座の大仏(1498年から)、奈良は、大仏殿の高さ49.1m (鎌倉は礎石から40m位)お顔をズームで。目を閉じているように見えるが、よく見るとうっすら眼を開けているのが分かるのだ。薄目で万物を等しく見守ってくれていると。完成当時は金箔が施され、屋根のある大仏殿に安置されていたが、度重なる天災の影響により、現在のような露坐(屋根のないところに座ること)となっているのだ。手の指で「輪」を結んでいる印相は最も格式が高い「定印(じょういん)」・上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)と呼ばれ、仏様が深い瞑想に入られている姿を表しているのだと。座り方は「結跏趺坐(けっかふざ)」。結跏趺坐は左右の足の甲を反対の足のももの上に交差し、足の裏が上を向くように組む座法。 特に禅宗では座禅の正しい姿勢としている。現在の大仏の阿弥陀如来は、着衣として衲衣(のうえ)をまとっていて足の姿は見えないが。 【https://butszo.jp/2014/01/1971/kanikyodo04/】よりこの日は、大きなスイカが奉納されていた。ズームして。その後に生花も飾られたのであった。大佛を横から見上げた。ちなみに、螺髪(頭の丸)の数は656個あると。螺髪は髪を丸めて作るので、656個も丸めるにはたくさんの髪が必要。鎌倉大仏の螺髪は左回りと。大仏様が実在したら相当髪の長いお方ということになるのだと。そして前面の中心には肉髻珠 (にくけいしゅ、にくけいじゅ) と呼ばれる円盤状のものが載っています。螺髪のほかの印象的な特徴といえば「おでこの突起物」。 これは「白毫(びゃくごう)」と呼ばれるもので、 螺髪のように長い毛が螺旋状になっていて、悟りを開き、高い知恵を有していることの象徴とされる。螺髪は「右回り」の螺旋状になっているものが多いが、鎌倉大仏など一部の仏像は「左回り」となっていると。なぜ少数派の左回りなのかは諸説あり、はっきりしていないのだと。伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)あるとされる。鎌倉大仏の白毫の直径は0.18mであると。再びスイカと一緒に見上げて。左側から。右頬の周辺に微かに金箔が残っているが、かつては全身が金箔で覆われていた名残とのこと。青銅造の鎌倉大仏は下から上に8層に分けて鋳継いで造り、最後に背中の窓から鋳造に使った土を掻き出したので、内部は空洞になっていて胎内の拝観も可能。お顔の頬の場所に繋ぎ目の線も確認できた。顔だけが金色だった可能性もあるのだと。耳たぶに穴があいていて、長く垂れ下がっている。大きい耳で世の中の声を聞く力があるということを表現。耳の長さは1.90mであると。「国宝鎌倉大仏由来記この大仏像は阿弥陀仏である源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王候が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(一ニ三八)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(一ニ四七)に大風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(一ニ五ニ)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として、大野五郎右ェ門や丹治久友の名が伝えられる。大仏殿は建武元年(一三三四)と応安ニ年(一三六九)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明応七年(一四九八)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正十ニ年(一九二三)の大震災には台座が崩れ仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正十四年(一九ニ五)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和三十五・三十六年(一九六〇~六一)の修理では、前傾している頭部を支える頸部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は台座と仏体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては初のものである。 鎌倉大仏 (奈良大仏)像高(仏像のみの高さ) : 11.312m (14.98m)台座 : 2.05m 台座を含む高さ : 13.35m (尺貫法では約4丈)顔の長さ : 2.35m (5.33m)目の長さ : 1.00m (1.02m)眉毛の長さ : 1.24m ロの長さ : 0.82m (1.33m)耳の長さ : 1.90m (2.54m)親指まわりの長さ : 0.85m白毫(びやくごう)の : 直径0.18m (0.21m) 直径・高さ 高さ(前に飛び出た長さ0.15m )螺髪(らほつ)の : 直径 0.24m (0.22m)直径・高さ 高さ 0.18m (0.21m)螺髪の数 : 656個 (492個)膝間の長さ : 9.10 m仏像の重さ : 121 t (250t)「奈良の大仏」(左)と「鎌倉の大仏」(右) 【https://www.nippon.com/ja/features/h00353/】より鎌倉大仏の裏手に廻る。背中側をじっくり見たのは今回が初めてか。やや猫背。頭を大きく造り、猫背にすることで、正面にいる参拝者から見ればバランスのいい姿勢になるよう設計されているのだと。背中に2つの窓が開いていた。背中の窓は大仏製造当時に開けられたものと。製造方法の都合上、穴をあけて大仏内部の土などを取り出すために使われたのだと。大仏の後ろの山は後光山といって光背の代わりとして名付けられたと云いますが、元々は大仏殿の中にあったわけですし…かつては光背があったのであろうか。それとも、8層に分けて鋳継いでいるので、吊り下げ用に使われた突起か?そして六観音御施主増上寺演誉大僧正 「南無阿弥陀佛」碑。【右】梵字金五百両明蓮社大僧正顯誉祐天大和尚金五百両光寿院殿明誉月清貞松大姉金五拾両雄蓮社大僧正松誉詮察大和尚金五両本山五十七主学誉上人冏鑑大和尚【左】梵字右者 増上寺演誉大僧正御世話 山一ヶ所享保元丙丁申酉両年之内御寄付 施■■仰蓮社信誉上人法察和尚金三拾両光安院殿浄屋養清大姉正徳壬辰十二月十四日金十五両御両人松誉春香院■産■「萬世の平和を祈り願ふごと やすらかに見ゆ 長谷の大佛 富三島幸永贈」休憩用の石のベンチも。「松香長與先生紀功之碑」。鎌倉大仏の左側の木立の中にある「松香長与先生紀功之碑」と刻まれた石碑は、1919年(大正8年)、町制25周年の記念事業の一つとして、日本衛生行政の基礎を築き、鎌倉の発展に貢献した長与専斎の功績を長く伝えるために建てられたもの。題の篆書(てんしょ)は日本銀行を設立した松方正義、撰文は医学博士の土肥慶蔵、 碑文の文字は一高教授の菅虎雄の揮毫。長与専斎は、文部省医務局長、東京医学校校長、内務省の衛生局長を歴任し、 医学教育、医療制度、衛生行政の整備・拡充に貢献した人物であると。「松香長與先生紀功之碑鎌倉之地三面負山南接滄溟黒潮近流恒信風遠至冬暖夏清頗適於養生而覇業之¥陳跡与未高僧之遺琮宛然接於眉睫之前一邱一壡一樹一石皆●以与八百年前之史籍相邱證故近年縉紬豪富多治第構墅於比異邦之観光者亦佇足徜徉於山陬海澨之間注時寒畑蒼涼黍離参秀之境令則為画棟朱甍車馬喧闐之區而開其風気之先實為松香長與先生先生通称専齋●肥前大村藩医也明治維新後歴任文部内務両省久為衛生局長凡医制之更革衛生法規之創定其拜先生所擘画者盖寡後任貴族院議員更拜宮中顧問官晩年養痾於豆相間所至以衛生之道撕導世人最愛鎌倉風土甞与横濱人近藤良薫茂木惣兵衛等謀相地於由比濱剏立海濱院葢傚泰西養生院制也於是世間益知海郷氣候之有裨于人身而鎌倉遂至令曰之盛町之士民深徳先生欲卜町制施行後満二十五年樹碑長谷大佛傍紀其功績請予文予富受先生知遇義不可辞乃日諸子不志先生之恵思■以表襮於後世其意可謂盛矣惟以風光之麗時気之龢史蹟之冨如此而衛生之施設猶未周備其拳ニ於先生者非修治道路鏧濬溝洫引上水流下水俾斯土蔚為天下名勝鳥●以竟先生之志乎先生歿後朝廷授嗣子男男以追録前功事蹟詳家乗銘日鎌臺古府 盤欝植基 海潤山迊 蘊霊地維 元氣坱圠俗敦而愿 遺風所蕈 聿存往憲 偉兮哲人 蚤流仁聲力抿翅弊 扶辱救儜 觥二厥功 烈二其略 帝納嘉猷錫之以爵 閭民懐恵 勒銘貞珉 於虖吉士 其祀弗湮大正八年三月正二位大勲位侯爵松方正義篆額東京帝国大学医科大学教授正四位勲三等医学博士土肥慶蔵撰第一高等学校教授正五位勲六等文学士菅虎雄書井亀泉刻「国宝銅造阿弥陀如来坐像 、国指定史跡鎌倉大仏殿跡」案内板。「国宝銅造阿弥陀如来坐像 昭和33年2月8日指定国指定史跡鎌倉大仏殿跡 平成16年2月27日指定高徳院本尊の「銅造阿弥陀如来坐像」は鎌倉大仏とも呼ばれ、国宝に指定されています。日本有数の銅造大仏で、建長4年(1252 に鋳造を始めたと史料にみえる「金銅八丈釈迦如来像」がこの大仏であるとされています。完成時期はわかっていませんが、文永5年(1268)ごろまでには大仏殿も建てられていたと考えられ、管理していた寺院は大仏殿、大仏寺、鎌倉大仏寺などと呼ばれていました。大仏殿は災害により何度か倒壊し、その度に大仏の修理が行われたようです。境内では平成12年(2000 )と13年(2001)に発掘調査が行われ、桁行(横) 145尺(約44m )、梁行(縦) 140尺(約42.5m )を測る五間裳階付の大仏殿であったことがわかりました。また、中世の瓦が出土しないことから、大仏殿は瓦葺きではなかったと推定されています。このほか、大仏に向かって斜めに高くなるよう堆積している地層が確認されており、大仏の鋳造過程を示すものと考えられます。大仏は15世紀末以降、現在と同じように露坐となり、相次ぐ災害によって荒廃しました。高徳院は、正徳2年(1712)に増上寺の祐天上人、浅草の商人・野嶋新左衛門らが大仏の復興を発願して建立した寺院です。復興された大仏の開眼供養は、元文2年(1737)に高徳院住職の養国上人によって行われ、今に至っています。」。「奉納大藁草履(ほうのうおおわらぞうり)」。大仏像に向かって右側の回廊内壁に常陸太田市松栄町に活動拠点を置く松栄子供会によって奉納された長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgに及ぶ藁草履があります。この草履の制作・奉納は、戦後間もない昭和26年に「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供たちによって始められ、松栄町会では昭和31年以降も3年に1度、藁草履の制作をして寄進を続けていると。大藁草履の近くに寄ってみると、その大きさが際立つのであった。「大仏様の藁草履常陸太田松栄町(旧郡戸村)の松栄(まつざか)子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ藁草履です。この草履の制作・奉納は、戦後間もない1951年、「大仏様に日本中を行脚し万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供達によって始められました。松栄町会はその事績も後世に伝えつつ、1956年以降、3年に一度巨大な藁草履の制作を試み、当院への寄進を続けておられます。」。鎌倉大仏の背後に並べられた4枚の「蓮弁」(れんべん)は、江戸時代中期のもので、台座の修復の際に鋳造されたもの。当初は32枚の蓮弁が鋳造される予定だったそうだが、完成したのは4枚のみだったのだという。※「蓮弁」は、ハスの花弁を形にしたもので、仏の台座の装飾に用いられているもの。手前から奥に。表面には寄進者の名前が刻まれていた。[南無阿弥陀佛]増上寺大僧正祐天(花押)【右】稲多野殿 建長五癸丑年五月二十三日【左】白土忠左衛門南無阿弥陀佛伝誉道悟山本長衛門【裏】松誉誓心信女南無阿弥陀佛結衆 方誉西孜 正誉直念常誉蓮孜 覚誉転入体誉至白 専誉西蓮信誉是心 清誉須人風誉通年 西順善誉无白 須孜立誉直生 念西念誉一夢 直念初誉専未 唯称本誉壇涯上人是心建久6年(1195)、奈良東大寺再建供養会に参列した源頼朝が、鎌倉にも大仏建立を発願したが果たせずに没し、その後、源頼朝の侍女であった稲多野局が頼朝の意思を引き継ぎ、僧浄光が勧進して造ったといいます。鎌倉の大仏は内部見学をすることもできるのだ。大仏内部への入り口は、大仏の左手そば。午前8時から午後4時30分までの間ならいつでも入ることができると。拝観料は別途20円必要。しかし、この時期はコロナ禍対策で一般公開されておらず鎖が手前に。直営売店。壁には、既に訪ねた「鎌倉歴史文化交流館」で開催されている「鎌倉大仏 ~みほとけの歴史と幻の大仏殿~」のポスターが貼られていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク藤沢鎌倉線を先に進むと前方に「大仏前」交差点が。左に入り「鎌倉大仏殿・高徳院」の「仁王門」に向かって進む。鎌倉市長谷4丁目2−28。「聖武帝草創 東三十三箇国 総国分寺 大佛」碑。【右】享保元 丙申 稔九月二日再興開闘【左】本尊仏腿1庫裂並仏具器財等建主施主野島氏 三界万盆同生極楽 高徳院浄泉寺【裏】天照山五十六主南無阿弥陀佛演巻智願悔阿(花押)と刻まれた石碑が参道左側に。参道右手にあった石碑には「鎌倉大仏坂記鎌倉之為地南瀕海環東西北皆山也有七路鑿山通之其西北之路曰大仏坂最険且隘負擔過之者不数歩而口喘背汗矣郷父老三矯小左衛門矢澤小左衛門徳増七三郎等二十餘名相謀募金修之官嘉其志賜以金百圓明治己卯夏五月興役至庚辰春三月竣功凡五町之間削両崖三丈畳石以防崩壊而得平坦者八十餘歩廣可容二軌用工二千三百五十餘人費金一千餘圓昔之口喘而背汗者今則謳歌而過焉衆皆徳之夫施恵於人者金帛為小修道路為大以其迨于久遠也小左衛門等二十餘人能擇其大者率先成功可謂偉矣余及記其事以勤石郷人之志也明治十四年五月 阿波 伊藤士龍撰並書」と刻まれているのだとネットから。そして正面に「仁王門」高徳院(鎌倉大仏)の「仁王門」は、18世紀初めに他所から移されてきたものと考えられ、安置されている仁王像も同時期のもの考えられている。再建年:1758年(明和五年)頃建築様式(造り):八脚門大きさ(幅):約7.3m (中央約3.3m、両脇各約2m )屋根の造り:切妻造、銅板葺(ニ重虹梁大甁束式)「高徳院境内図」。「仁王門」の両側には朱の「仁王像(金剛力士像)」が。残っている史料によると、高徳院がほぼ全焼した江戸時代の1742年(寛保ニ年)の火災や、同じくほぼ全壊した1923年(大正十ニ年)の関東大震災の際も、この「仁王門」は失われず、その形を留めたと。扁額は「大異山(だいいざん) 」。高徳院の正式名称は「大異山 高徳院 清浄泉寺」。仁王像は、平成23年秋に吽形像の頭部が破損したため、阿形像ととに修復が行われた。約2年の修復作業を経て、平成26年春、再び「仁王門」に戻って来たと。「仁王像」(金剛力士像)・阿形像。制作年:江戸時代中期( 1742年(寛保ニ年)頃か)仁王像の造り:木造寄木造阿形像の大きさ:250.0cm、重さ:195kgお顔をズームで。横から見上げて。吽形像吽形像大きさ:242.2cm、重さ:187kg。お顔をズームで。横から見上げて。大佛側から見た「仁王門」。裏側の間口には何も置かれていなかった。「文学案内板高徳院境内境内にある文学碑について紹介します◯与謝野晶子歌碑かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 晶子与謝野晶子 歌人 一八七八年堺市生、一九四ニ年没。新詩社の社友となり『明星』て活躍。「みだれ髪」の奔放自由な歌風は一世を風靡した。〇星野立子句碑大佛の冬日は山に移りけり 立子星野立子 俳人 一九〇三年東京生、一九八四年没。高浜虚子の次女。父の薫陶を受け「ホトトギス」で活躍。俳詩「玉藻』を主宰。〇金子薫園歌碑寺々のかねのさやけく鳴りびびきかまくら山に秋かぜのみつ金子薫園 歌人 一八七六年東京生、一九五一年没。落合直文の門に入り、和歌革新運動に参加。〇飯室謙斉句碑春の雨かまくらの名も和らぎて飯室謙斉 医師 一八八三年山梨県生、一九ニ八年没。高浜虚子から俳句を学んだ。〇吉屋信子句碑(高徳院墓地)秋燈下机の上の幾山河 信子吉屋信子 小説家 一八九六年新潟県生、一九七三年没。「海の極みまで」で文壇的地位を確立。代表作に「花物語」「徳川の夫人たち」がある。」「鎌倉市観光案内図」。「私たちの宗旨名稱 浄土宗宗祖 法然上人[源空](西暦一一三三~西暦一ニ一ニ年)開宗 承安五年(西暦一一七五年)ご本尊 阿彌陀佛[無量壽佛]稱明 南無阿彌陀佛教え 阿彌陀佛を深く信じてひたすら南無阿彌陀佛と稱えるだけで、どんなに罪深い人でも 必ず救われて明るい毎日を送り浄土に生まれることができる教えです。お經 お釈迦様が説かれた無量壽經、観無量壽經、阿彌陀經の三部經をよりどころとします。」正面の門の名は「??門」手前には「阿吽」ではなく「阿阿」の狛犬一対。由来記には『1979.4月中華民国台中西北扶輪社(ロータリークラブ)の一行が鎌倉西ロータリークラブとの友好倶楽部結縁を記念して当地に来訪された際、大佛の慈愛と尊嚴さにいたく感銘を受け高徳院大佛殿に台湾特産の白色大理石に依る呵、吽狛犬一対寄贈の意向を表明された。1980.5月完成し開眼供養除幕式を行った。大佛殿護持佛心の絆を以って国際親善、両クラブ友好の象徴として末永く鎮子することを祈念する。』と。受付・参拝券券売場。御参拝券。「鎌倉大佛の名で親しまれてる高徳院の本尊、国宝銅造阿弥如来坐像は、一ニ五ニ(建長四)年から十年前後の歳月をかけて造立されたとみられる。制作には、僧淨光が勧進した浄財が当てられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右街門の名を記す史料もあるが、原型作者を含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、一三三四(建武元)年と一三六九(応安ニ)年に大風で損壊したらしい。ー五世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。台座を含む総高約十三.四m、仏身高約十一.三m 重量約一ニ一t鎌倉大佛殿 高徳院」と御参拝券の裏には。「手水舎」はコロナ対策で閉鎖中。ここにも「高徳院案内図」。「鎌倉大仏」を正面から。外部からは全く見えない大仏の姿がようやく目の前に。そして左にあった木々の下には様々な石碑が立っていた。大きな松の樹。「暹羅國皇太子殿下御手植之松」碑。【裏面】明治三十五年十二月廿七日植樹 鎌倉大佛殿別當 轉法輪行念建碑「タイ王室来院記念樹明治35(1902)年12月27日に来院されたタイ王国皇太子Maha Vajiravudh毅下(のちのRamaⅥ世)はここに松の木を植樹されましたが、惜しくも同紀年樹は2009年9月に虫害に遭い、手当ての甲斐もなく枯死に至りました。この松の木は、タイ王国Bhumibel Adulyadej国王陛下の勅命に生り、2010年7月3日、Virasakdi Futrakul駐日夕イ王国特命全権大使が植樹された代替木に当たります。」「タイ国皇太子殿下 御手植松」。「タイ国皇太子殿下 御手植松 昭和六十ニ年九月二十五日」「タイ国のワシラロンコーン皇太子が昭和六十ニ年九月二十五日に御来院を記念に御手植された松」と。まだ細いこの木は。「シュリ・チンモイ・ワンネスピース・ツリー(世界平和のために捧ぐ)染井吉野」。「飯室謙斉 句碑」 春の雨 かまくらの名も 和らぎて【裏面】奉寄進境内敷石五十七間 為種杏院殿遜窓謙斉大居士菩提 鎌倉町大町塔之辻百八十番地 故医学士飯室立遺族 昭和八年四月十九日建立「暹羅國皇帝陛下御手植之松」碑。【裏面】昭和六年四月九日 暹羅國両陛下御手植 材木座石工 杉山簾次「シャム(現タイ王国)のプラチャティポック国王陛下(ラーマ7世)が昭和六年四月九日にランパイパンニー王妃殿下と共に御来院を記念に御手植えされた松」。「六観音御施主増上寺演誉大僧正 南無阿弥陀佛」碑。【右面】梵字金五百両明蓮社大僧正顯誉祐天大和尚金五百両光寿院殿明誉月清貞松大姉金五拾両雄蓮社大僧正松誉詮察大和尚金五両本山五十七主学誉上人冏鑑大和尚【左面】梵字右者 増上寺演誉大僧正御世話 山一ヶ所享保元丙丁申酉両年之内御寄付 施■■仰蓮社信誉上人法察和尚金三拾両光安院殿浄屋養清大姉正徳壬辰十二月十四日金十五両御両人松誉春香院■産■「金子薫園歌碑」寺々のかねのさやけく鳴りひびきかまくら山に秋かぜのみつ昭和七年十一月 金子薫園【裏】昭和七年十月 雑誌「光」十五周年に際し記念として門人等相計り之を建つ「梵字 南無阿弥陀佛源家一門無縁諸霊位」碑。【裏面】大正八年三月 鎌倉大佛殿別當轉法輪行念「奉寄進境内敷石 施主江戸飯田氏女」【右面】法名清浄院宣誉得法大師【左面】維時安永九庚子歳四月造立之【裏面】當山現住彰誉然的代 石工江戸八丁堀伊勢屋丁右衛門そして大佛に向かって進む。「國寶 鎌倉大佛」碑。【裏面】眞覚院釈圭浄居士一周忌志 大正十季十月二十三日建立「大仏様」をズームで。建造当初は金色に輝いていたと推定されている鎌倉大仏。金箔とも鍍金(メッキ)とも言われているのだ。大きな青銅製灯籠一対(左)。大きな青銅製灯籠(右)。灯籠(左)奥に十三重石塔。蓮の彫刻と大佛のコラボ。大仏前の蓮常花(三世の蓮)一対(左)三世の蓮はそえぞれ蓮の実(過去・前世)、花(現在・現世)、蕾(未来・後世)を表すのだと。蓮の彫刻(右)。「阿弥陀三尊香炉」。大仏前の「阿弥陀三尊香炉」には、阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)の観音菩薩(左)と勢至菩薩(右)のレリーフが。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.03
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「浅間神社」を後にして、市役所通り迄戻り左折すると、直ぐ目の前に「長谷隧道」が現れた。「長谷隧道」石彫銘板。「長谷隧道昭和48年(1973)3月延長120M 幅員9.3M鎌倉市施工 KK熊谷組」鎌倉市道にあるトンネルで、一番長いトンネルであると。」そして120mを通り抜けて長谷地区から常磐地区に入り「長谷隧道」を振り返る。次に一向堂バス停先を左に入り「一向堂公園公園」を訪ねた。ここ常盤は、北条泰時の要請によって「一切経」の校合に関わったという浄土真宗の開祖親鸞が逗留した地と伝えられている。1309年(延慶2年)、親鸞の孫の唯善(ゆいぜん)は、大谷本廟の親鸞像と遺骨を持ち出して常盤に住み、唯善の庵は一向堂と呼ばれていたのだという(浄土真宗は一向宗とも呼ばれる。)。親鸞の像は「常盤の真影」と呼ばれ、浄土真宗が広まっていったのだとか・・・。かつて、鎌倉には浄土真宗の寺が多くあったが、戦国時代に後北条氏の弾圧を受けたため、 ほとんどの寺が鎌倉の外へ移転。現在では、成福寺が唯一の浄土真宗の寺となっている。親鸞が逗留した坊舎や唯善の一向堂があった正確な場所は不明だが、常盤には一向堂という地名が残されているのであると。そして元の道まで戻ると、右手に拡がっていたのが「北条氏常盤亭跡」。第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝であるここ常盤に別邸を構えたのだと。大仏切通の北に位置し約11万平方メートルが国の指定史跡となっている。史跡内では、「法華堂跡」や「やぐら」が確認さているとのこと。「常盤」の名は政村の「常盤院覚崇」に由来。現在、「円久寺」👈リンク が建てられている辺りが常盤亭の入口に当たる場所で、昔から「殿入」と呼ばれていた。また、常盤亭辺りには、『新編相模国風土記稿』にも書かれている親鸞の弟子唯善の草庵「一向堂」があったといわれ、現在でも地名として残されている。鎌倉市常盤924−1。そして案内に従い「タチンダイ」に向かって山道を進む。タチンダイとはこの広場奥の一段高くなっている平場の事であると。ネットには「タチンダイ」(館の台)の文字が。「タチノダイ」が転化して「タチンダイ」と呼称される様になったのであろうか。狭い山道を進んで行った。シダの生い茂る場所も。途中の「タチンダイ」案内板。この正面が「タチンダイ」。しかし前方には道が消え、雑草が生い茂っていた。しばし草を踏み分けて進んだが、ズボンの膝下はビッショリと朝露?前夜の雨?に濡れてしまった。そして道が全く解らなくなってしまったので前進を諦め、近くの高い場所に上がる。何とか「やぐら」の如き姿が見えた。こちらにも。「国指定史跡 北条氏常磐亭跡「タチンダイ」北条氏常磐亭は、鎌倉幕府の第7代執権・北村正村を始めとする、北条一族の有力者の別邸があた所てす。「タチンダイ」というこの平場付近の地名は、中世居館と関わりがあることを示しています。この平場は細長いV字型の谷を造成したものて、東西北を人工的な崖(切岸)で囲まれています。周辺で実施された発掘調査では、建物跡などが良好な状態で残っていることも確認されました。また、この平場の北西隅には鎌倉時代ごろの墓所で、鎌倉周辺に多く見られる「やぐら」とよばれる岩窟も残されています。「タチンダイ」の周辺の谷戸には切岸や、土地造成が行われる前の地形なども良好に残るなど。北条氏常磐亭跡は、鎌倉時代に政権を担当した武家の屋敷跡と、これを取り巻く中世からの地形をよく伝えています.」引き返して、下を見ると、こちらにも人が歩いた道の如き場所が。そして「長谷隧道」からの道に出て西に進むとここにも案内板があった。「国指定史跡 北条氏常磐亭跡北条氏常盤亭跡は、鎌倉切通の一つである大仏切通の北に接する要所として、鎌倉時代に第七代執権北条政村などの北条一族の有力者が別邸をかまえていたことが、吾妻鏡などの文献によリ知られています。昭和52年の発掘調査によて建物跡が確認されてその存在が証明されたため、鎌倉時代の武家屋敷跡をとどめる貴重な遺跡として国の史跡に指定されています。史跡内は、山や谷を切リ開いてつくった平地に門柱跡や「やぐら」、法華堂跡と伝えられている場所が有リ、歴史的にもきわめて貴重な史跡です。」そして「仲ノ坂」交差点を左折する。そして、直後に斜めに折れ住宅街の道を進む。県道32号線・藤沢鎌倉線に合流しここを左折すると「火の見下」バス停があった。その先にあったのが「大仏切通」への案内板。民家の塀の脇の小路を左手に入って行った。道なりに進むと現れる分岐点。ここは左へ。なんの表示もなかったが。すると山の入口には足場パイプで仕切られた入口が設置されていた。「ここは、国指定史跡 大仏切通 です。史跡の毀損(きそん)・占有をしないように注意してご利用ください。」と。坂の小路を進んで行く。道の両脇には「ヤブミョウガ」の花が咲いていた。家の裏を抜けて100mほど東に進むと、「大仏切通」案内板があった。「国指定史跡 大仏切通大仏切通はいわゆる鎌倉七ロの一つに数えられ、梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常磐亭峯の存在や、朝比切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が洲崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが『太平記』に見えていることから、この地も戦場になった可能性があります。大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場や、ここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、そして切岸などと共に、かっての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。」そして一段高い場所に上がっていく階段があった。岩崖には四角形の「やぐら群」が。しかし「やぐら」の中には何も安置されていないようであった。こちらの「やぐら」にも。そして案内板の前を右に向かって進む。この先から急に勾配がキツくなって行った。そしてこれぞ「切通」の場所が前方に。幅は1~1.5mの切通し。路面には岩が露出して凸凹と。豪雨の時には、この「切通し」が川のごとくになるのであろうか。「大仏の切通」を独り占め。そしてその先には平坦な坂道が上り、下りに。途中の道路標識。高徳院(大仏)の文字が。歩いて来た道を振り返る。更に進む。「大仏切通」の全行程で一人の姿にも出くわさなかったのであった。書き忘れたが、「大仏切通」に入った直後に持参した虫除けパーカーを着たのであった。更に進むと、倒木した木々が道の正面に。さらに右に左にと。この辺がトンネルに一番近い場所か。赤線---が「大仏切通」のルート。このルートを歩いていたのであった。そしてこの先は、比較的整備された階段が始まった。下り階段が始まる。山の斜面に張り付く民家の姿が。「葛原岡・大仏ハイキングコース」の源氏山公園・銭洗弁財天方面への分岐点を通過。道案内板。高徳院(大仏)まで400mと。「葛原岡・大仏ハイキングコース」地図がここにも。そして眼下に「鎌倉藤沢線」の道路が見えて来た。最後の石段を下って、「大仏トンネル・大仏隧道」を振り返る。「葛原岡・大仏ハイキングコース」案内板。鎌倉のシンボルである長谷の鎌倉大仏から源氏山公園・葛原岡神社を縦断して北鎌倉の浄智寺とをつなぐみどころ満載のハイキングコース。2019年9月の大雨や台風の影響により、「葛原岡・大仏ハイキングコース」は倒木等により通行できない箇所があり通行禁止でしあったが、2020年6月30日から通行可能となったと。 【https://airisu745.info/kamakura-hiking/】より右の石段が「大仏切通」そして「葛原岡・大仏ハイキングコース」への入口階段なのであった。この日で、鎌倉へ入る七つの入口・鎌倉七切通しの内、6箇所を制覇したのであった。すなわち名越(なごえ)・朝比奈・巨福呂(こぶくろ)坂・亀ヶ谷(かめがやつ)坂・化粧(けわい)坂・大仏坂・極楽寺坂の七つの切通しをいうのだ。この時点で未制覇は「朝比奈切通し」だけなのであった。そしてトンネルに続く遊歩道を振り返ると、入口に銘板が確認できたので、ズームして。「大仏トンネル The Daibutu Tunnel 2009年3月 神奈川県県土整備部延長L=129.5m 巾W=7.0m 高さH=4.5m 施行:大成・都特定建設工事共同企業体「解説鎌倉切通しの一つである大仏坂切通しに代わる新道として、明治40年頃には素掘りの隧道が掘られ、大正10年に、煉瓦積み覆工が行なわれました。昭和32年には、藤沢方面の通行に供するため、コンクリート張りの新大仏隧道が(南側)が開通しました。平成4年には、坑門を坑火石にするなどの修景工事が行われ、平成21年には隧道拡幅工事を行い、築造当初の煉瓦覆工からコンクリート覆工に改めています。(煉瓦について)坑口両脇にピラスターを配した標準的な大正期の煉瓦隧道でした。工事に使用された煉瓦は、小菅集治監(現東京拘置所)で造られた煉瓦で、桜の刻印が押されています。」と。そしてその先、左側にあったタイル張りの建物。「旧神奈川県営湘南水道鎌倉加圧ポンプ所」。神奈川県営の水道事業の最初の遺構であり、戦前の鎌倉の水道施設の希少な遺構。また、全面スクラッチタイル張り外観は、大仏坂トンネル近辺の景観の大きなポイント的要素となっている。ポンプの機械設備そのものは残っていませんが、建物内には、クレーンも残されており、大仏坂トンネルとあいまって、鎌倉の戦前の産業遺構群を形成しているのだと。鎌倉市長谷4丁目6−12。1965(昭和40)年でポンプ場の役目を終えて後、鎌倉市が神奈川県から借りて、体育館に改装した。その際、外観はなるべくいじらないような配慮をしたのであろう。その体育館も2002年3月で閉館になり、建物は県に返還されたとのこと。構造規模 鉄筋コンクリート造平屋、一部2階建て 延べ床面積/348.44平方メートル 屋根/陸屋根 外壁/スクラッチタイル張り、腰部モルタル塗り擬石仕上げ玄関入り口にはポンプ場時代の「清泉霑萬戸」と刻まれた石板がそのままに。「全ての家(萬戸)をきれいな水(清泉)でうるお(霑)す」の意であろうか。そしてこの建物は、神奈川県企業庁が、旧鎌倉加圧ポンプ所の土地・建物を一般競争入札で売却し、これを「熊澤酒造株式会社」が落札したとのこと。レストラン兼販売所兼ビール醸造所として令和5年にスタートするための改築工事が行われるとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.02
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は7月16日、私の誕生日であったが「古都「鎌倉」を巡る」の10回目の散策に早朝に自宅を出発し、小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継いで鎌倉駅に到着。この日も、西口に出てロータリーを進む。「鎌倉駅旧駅舎時計台」の時計は7時過ぎを示していた。「鎌倉駅西口」を見る。「市役所前」交差点を渡り市役所方面に向かう。「現在位置」を示す地図。「ちはやぶる 伊豆のお山の 玉椿 八百万代も 色はかはらじ 源実朝 詠」鎌倉幕府三代将軍 源実朝が伊豆山神社に参詣した際に詠んだ歌で『金槐和歌集』の和歌であると。鎌倉市役所前にあった「鎌倉市民憲章」碑 制定 昭和48年11月3日前文鎌倉は、海と山の美しい自然環境とゆたかな歴史的遺産をもつ古都であり、わたくしたち市民のふるさとです。すでに平和都市であることを宣言したわたくしたちは、平和を信条とし、世界の国々との友好に努めるとともに、わたくしたちの鎌倉がその風格を保ち、さらに高度の文化都市として発展することを願い、ここに市民憲章を定めます。本文一 わたくしたちは、お互いの友愛と連帯意識を深め、すすんで市政に参加し、住民自治を 確立します。一 わたくしたちは、健康でゆたかな市民生活をより向上させるため、教育・文化・福祉の 充実に努めます。一 わたくしたちは、鎌倉の歴史的遺産と自然及び生活環境を破壊から守り、責任をもって これを後世に伝えます。一 わたくしたちは、各地域それぞれの特性を生かし、調和と活力のあるまちづくりに努めます。一 わたくしたちは、鎌倉が世界の鎌倉であることを誇りとし、訪れる人々に良識と善意をもって 接します。「鎌倉市役所」の「本庁舎」が左手に。鎌倉市御成町18−10。その先にイチョウの巨木があった。「平和の木昭和24年(1949)5月3日の憲法記念日に全国にさきがけて開らかれた鎌倉平和集会を記念し、小牧近江らの提案で鎌倉駅前に1本の銀杏の木が植えられました。フランス大革命の「自由の木」にちなみ、二度と戦争を繰り返さないという決意をこめて、「平和の木」と命名されました。この木は、一時駅前整備のため旧市役所庁舎前に移植されましたが、昭和46年(1971)、現市役所庁舎のこの場所に移され、現在に至っています。「平和の木」は今後も、鎌倉市民の平和への取り組みを励まし続けることでしょう。戦後50年をむかえ、平和な世界が永久に続くことを願い、この木の由来を記します。 平成7年( 1995 ) 8月10日」そして前方にトンネルが姿を現した。トンネル手前右手にあったのは、以前訪ねた「諏訪神社」。そして「御成隧道」が正面に。「御成隧道抗口工平成11年3月延長10.0m 幅員10.9m」これは鎌倉側の隧道を延長した際の銘板であるようだ。旧隧道と追加隧道部分に段差があることが確認できたのであった。「御成隧道」を振り返る。竣工 昭和37年(1962年)延長 44.9m 道路幅 10.8m。そして「鎌倉児童ホーム」の前庭にあった石像と石碑。鎌倉市佐助1丁目6−6−6。「初代園父 佐竹音次郎翁像」。「初代園母 佐竹熊子像」。「文学案内板 佐竹音次郎歌碑われ死なば 死骸は松の 根にうめよ我がたましひの 松のこやしに 音次郎 (昭和十五年六月建立)佐竹音次郎は高知県に生まれ、社会事業、保育事業の推進につとめ明治・大正・昭和期の日本社会の近代化の過程で、児童福祉事業の先駆開拓者として、その功磧を高く評価された人である。鎌倉霊園の墓前碑文によって、略歴を紹介します。音次郎は、元治元年高知県竹島に生まれ、明治ニ十六年に医学専門学校済世学舎を卒業し、翌年腰越に医院を開業した。同ニ十八年沖本くま子と結婚。ニ十九年に医院内に小児保育院を設立、三十九年鎌倉佐助に鎌倉保育園を建設して医業を廃し、以後夫婦協力して専心孤児たちの父母として終生奉仕した。この間旅順、大連、京城、台北、北京等に支部を設け、異国の不幸な子供たらに、愛の手をさしのベ。その保護を受けたものは一万ニ千余名に及んだ。その功績に対して、没後従六位を贈られた。音次郎は、昭和十五年六月に没したが、同十三年より、鎌倉の歌人太田水穂に師事して短歌を学び、同年十一月に辞世の歌と称する碑面の歌昭和十五年六月、旧鎌倉保育園正門前、橋の袂の松の傍らに歌碑が建てられたが、その後園の改築に伴い、平成ニ年に正門横に移設された。」この「歌碑」には「われ死なば 死骸は松の 根にうめよ 我がたましひの 松のこやしに 音次郎 」。「小児保育園みち」碑。「日本キリスト教団 鎌倉恩寵教会」がその先に。鎌倉市佐助1丁目9−3。鎌倉市佐助1にある「日本キリスト教団鎌倉恩寵教会」は、鎌倉雪ノ下教会副牧師であった内藤協牧師をはじめ、開拓伝道を志す信徒?関係者37名が集い、昭和43年(1968年)3月に最初の礼拝を行い、伝道所として新しい教会の活動が開始された。同年のクリスマスには現在の敷地と家屋を購入し、昭和48年(1973年)には教会となり、昭和57年(1982年)2月に新会堂の献堂式を行っている。さらに「新佐助隧道」方面に向かって「市役所通り」を進む。右手にあったのが「蓮華寺阯」碑。「蓮華寺ハ仁治元年(紀元一九〇〇)北條経時ノ創立ニカゝリ、僧良忠ヲ開山トセシガ、寛元元年(紀元一九〇三)之ヲ材木坐ニ遷シ、寺號ヲ光明寺ト改メシ由傳ヘラル。又一説ニ蓮華寺ハ経時ノ菩提ノ為、建長三年(紀元一九一一)北條時頼之ヲ建立シ、後弘安二年(紀元一九三九)ノ頃、武州ヘ遷セリトモイフ。此谷ヲ佐介ケ谷ト唱フ。」【蓮華寺は仁治元年(1240)、4代執権の北条経時が建立したもので、僧(然阿)良忠を開山としたが、寛元元年(1243)に、材木座に移し、光明寺と改めたということが伝えられている。また、別の説では蓮華寺は経時の菩提を弔うため、建長3年(1251)に北条時頼が建立し、弘安2年(1279)に武州に移したともいう。この谷を佐介ヶ谷と呼んでいる】現在寺が残ってない場合は、廃寺、または、移転があるが、蓮華寺は移転とのこと。しかも、それが、鎌倉を代表する大寺院「光明寺」なのであると。ただ、現在石碑の建てられている場所は、本当の跡地ではないとも伝えられているのだと。北条経時(1224-1246)は鎌倉幕府4代執権。3代執権「北条泰時」の嫡男だった「北条時氏」の長男。母は松下禅尼。5代執権「北条時頼」は同母弟。23歳で死去。そして「北条経時の墓」は光明寺の近くに立派な宝篋印塔として残されていたのであった。僧良忠(りょうちゅう、1199-1287)は鎌倉時代の僧。浄土宗第3祖。関東に広く布教して、鎌倉に光明寺(蓮華寺)を創建。記主禅師とも。「鎌倉税務署」。鎌倉市佐助1丁目9−30。「現在地」地図。「佐助一丁目」交差点を渡り更に進む。その先に「新佐助(しんさすけ)隧道」が見えた。「新佐助隧道」を通過する。新佐助隧道竣工 昭和50年(1975年)延長 80m 幅員 9.5m。前方に「長谷大谷戸」交差点、その先に「長谷隧道」が姿を現した。「浅間神社」を訪ねるために「長谷大谷戸」交差点を左折する。長谷5丁目11と12との間の道を進む。ここが「浅間神社 (せんげんじんじゃ)」への入口。石段が始まる場所に案内板があった。「浅間神社」案内板。鎌倉市長谷5丁目11。狭い石段の坂道を上って行った。ジグザグの石段を進む。そして中央に足場パイプで出来た仮設手摺のある石段を上る。その先に石鳥居の姿が。「天保九如大正四年十一月十日御即位の大典を挙げさせらる之が記念として鎌倉町長谷乃有志百二十一名相謀り字大谷に於ける其の共有地ニ万余坪に松桜能若木数万本を植ゑ遊園を開き以て衆庶能逍遥散策に供せり今より後数年を出でず志て満渓の桜花翠松に隠映し烟霞錦の如き美観を呈せんこと期して待つべきなり由来鎌倉の地たる名勝故蹟に富むと雖も公園の設少く人口年を逐ふて増し遊客亦日に多きを加ふるに方り一の闕点たる免れざりし際茲に此の事ありたるは吾人の感喜措かざる所にして将来町の発展に資すること甚大なる者あらむ有志者報国の誠意大に称すべく而して当町が此の絶好の娯楽地を得たるは洵に昭代の賜なり頃日園中に形勝の地を相し石を建て題字を松方侯爵に乞ふ侯天保九如の四大字を書し与へらる余亦嘱に応じ数言を叙し以て此の美挙を後昆に伝ふと云爾 伯爵陸奥廣𠮷誌」「浅間神碑奉遷紀念辭浅間神碑ハ天保年間ノ創立ニシテ嘗テ大仏坂上ニアリ附近ノ祭神タリシカ近時ニ至リ草木繁茂詣道為ニ没スルヲ憂ヒ長谷青年会ノ諸氏相謀リ多数ノ賛助フ得テ新ニ大谷七ロノ地ヲ卜シ共有地一部ヲ開拓シテ遊園地トナシ森林雑草ヲ刈除シ植ルニ緑樹花木ヲ以テシ道路ヲ設ケ神碑ヲ奉遷シ大正四年参月七日起工同年四月参日竣成同年五月壱日奉遷紀念ノ祭典ヲ挙行セントス諸氏ノ労以テ多トスへク神霊亦長へニ守護アランコト期シテ待ツへキ也茲ニ因由ヲ略叙シ以テ後世ニ伝フト爾云大正四年乙卯年四月中旬 藤原親忠 撰書」石段を上ると、石鳥居の先に社殿が見えて来た。小さな浅間神社「社殿」。近づいて。「大天狗 小天狗 小御岳石尊大権現」碑。富士講の石碑であろう。葛原ヶ岡・大仏ハイキングコースの入口。「葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース入口」案内板。坂を下って行くハイキングコース。「浅間神社」社号標石が何故か社殿の裏に。境内から石鳥居を見る。「大正十四年六月一日建之」「長谷氏子中」とあった。そして同じ石段、坂道を下り「浅間神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.08.01
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