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【海老名市歴史散歩】 目次「常泉院」を後にして坂道を東に向けて上って行くと、カラフルな海老名市のコミュニティバスが私を追い抜く。右折して進むと左手に海老名市立上星小学校の校門。海老名市上今泉1丁目23−1。「自然と歴史のさんぽみち」右手方向が「かいな坂」であると。「かいな坂」を上って行った。途中には防空壕の如き横穴が埋まりかけて。誰もいない「かいな坂」。「かいな坂かって、中世の武将の姫とその家来が敵方の兵に追われこの坂あたりで討たれ、家族たちの不甲斐なさから「不甲斐ない坂」となり、これがつまって「かいな坂」となったといわれています。」途中路地の角、左手のにあったのは、道祖神碑であろうか?海老名市の防火用水槽マンホールの蓋 。はしご車と放水作業中の消防士の耐スリップデザイン。 上部に「耐震性貯水槽」「40」、下部に「海老名市消防本部」の文字。蓋面は黄色に水玉模様、受枠は黄色の地に丸模様が8個、鉄蓋色が交互に色分けされていた。その先をナビに従い左手に折れて進むと右手にあったのが「いちご遊園」。現在地は海老名市上今泉1丁目5。公園のパラソルは巨大なイチゴの姿。さらに海老名市上今泉1丁目12−4の住宅街を北東に進む。そして国道246号・大和厚木バイパスの跨道橋を渡る。国道246号の大和方面を見る。跨道橋を渡り直ぐに左折し、次の目的地の「杉本稲荷社」に向かって進む。途中、急な石段を下って行った。右手にあったのが「杉本稲荷社」。海老名市国分北4丁目6。正面から。社殿の扁額は「杉本稲荷社」。「内陣」。「海老名市立杉本小学校」の前の道に出てここを右折。「杉本小学校南側」交差点を左折し「目久尻川」に向けて進む。右手には石碑が。「振興記念碑」と。ここ杉本地区の土地開発の記念碑であろう。「杉本堰改築記念 大正十二年四月竣工」の文字が確認できた。そして「目久尻川」に架かる「弥生橋」を渡る。「目久尻川」の下流側を見る。その先の路地の先の坂の横にあったのが「子育地蔵」。海老名市柏ケ谷117。この坂道は「堂坂」と呼ばれていたのだと。坂途中の堂山と呼ばれる地に、享保元年(1716)創建の重宝院という修験道の寺院があった。明治5年の修験道廃止令により廃寺となったと。内陣。江戸時代(詳細不明)に作られたと思われる石造りの地蔵塔が祀られていた。横にあった「青面庚申塔」。右上に正徳三年(1713年)と刻まれていた。不動尊供養塔であろうか。ここは「講中」のみ刻まれていた。その横にも。双体道祖神であろう、文政二卯十二月吉日(1819年)と。女神の方は完全に剥離し、姿なし。そして来た道を戻り「杉本小学校南側」交差点を直進し進むと路地の角にも石碑群が。海老名市国分北4丁目3。「道祖神」碑。海老名市国分北4丁目3の坂を上って行った。海老名市国分北3丁目21の住宅街には急な長い石段が。「狐坂」の三角地帯には墓地が。「狐坂」。元は雑木林に覆われた丘の稜線をたどる2m幅の寂しい山道だった。右手(西側)の斜面を狐山といい、狐の穴がいくともあり昭和30年代まで猟師が狐を捕らえて引き返して行く姿をよく見かけたという。海老名市国分北3丁目22。海老名市国分北4丁目3の住宅街を進む。「龍峰寺」への石段を上って行った。海老名市国分北3丁目。こちらが「龍峰寺」の裏口のようであったが、正面から入ることとし更に進み廻り込む。こちらにも「龍峰寺」への石段があった。「清水寺公園」案内板。そして「龍峰寺」の「仁王門」に向かって進む。左手奥にあった観音像?は誰の作品なのであろうか?右手が「清水寺公園」となっていた。桜の名所で有名。公園の名前の由来は、かつてこの地に清水寺(せいすいじ)があったことから。4月になると。 【https://twitter.com/SO04_GORONEX/status/1243739116455378944】よりまた、長さ75mというローラーすべり台があり、子供達に人気の公園と。ここがローラーすべり台のスタート点。長さ75mのローラーすべり台。「自然と歴史のさんぽみち」案内板。「龍峰寺」まで100m、「弥生神社」まで130mであると。左手には池が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.30
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【海老名市歴史散歩】 目次「井戸坂」・「今泉氏の館跡」を後にして次の訪問地の「常泉院」に向かって海老名市上今泉2丁目7の住宅街を進み、県道407号線・杉久保座間線に合流。その手前の右側の民家の前にあった「道祖神」碑。ピンクの緒の草履が奉納されていた。海老名市上今泉2丁目6。そして県道407号線・杉久保座間線を横断し更に斜めに進むと前方に「小田急小田原線」の踏切が。自動車は入り込めない様にポールが立っていた。海老名市上今泉1丁目18と19の境の住宅街の道を進む。コミュニティバス停「17常泉院」を通過。その先、左手奥にあったのが「常泉院」。海老名市上今泉4丁目3−1。「常泉院」入口手前の道路擁壁の下にあった石碑群。寄付金の石碑であるようだ。隣には道祖神と庚申塔か。残念ながらかなり風化して。境内の桜の老木の下には彼岸花が。寺号標石「曹洞宗金龍山 常泉院」碑。「不許葷酒入山門」碑。くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。参道左側にあった石仏。山門に向かって参道を進む。正面に「山門」。「山門」の屋根瓦、特に鬼瓦がかなり凝っていた。扁額は「金龍山」。山門の手前にあった「曹洞宗金龍山常泉院」碑「黨院は文治年中(鎌倉時代)開基白翁法印により真言宗・今泉山福泉寺を創建す。その後廃絶せしを 天文十九年(室町時代、一五五〇年) 厚木市七沢曹洞宗広澤寺第三世勇安賢存大和尚により法燈を掲げ 今の山院号 金龍山常泉院(境内深谷中より、清泉常に湧出するをもって) に改められる。本尊は虚空蔵菩薩を安置し、元和年中(江戸時代) 青山伯耆守忠俊公を開基として伽藍を建立し、境内に青山家寄附により、十一重の寶経塔及び同家数代の位牌が現存している。後方の峰には三ヶ所の塚があり之を秋葉古墳と称す。」秋葉山古墳群は、3世紀後半から4世紀前半までの5つの古墳から成る。 当院から秋葉山古墳群を見ると、前にある3つの古墳しか見えず第4、5号墳は裏に隠れて見えないのである。「山門」を潜ると参道脇にはツツジが綺麗に手入れされて並んでいた。。左手にも風情ある石灯籠の後ろには彼岸花の群生が。ズームして。「宝篋印塔」と「六地蔵」。「宝篋印塔」はどなたかの供養塔であろう。「六地蔵」。「手水舎」。龍の水口。墓地の隅にあった無縁仏塚。立錐の余地なく無縁仏が安置されていた。「水子地蔵尊」。赤子を抱く「水子地蔵尊」。足元にも赤子たちの姿が。「鐘楼」。そして「梵鐘」。「社務所」と「客殿」。「白衣観世音菩薩」像が正面に。曲線が美しく。灯籠とのコラボ。鐘楼を背景に。「白衣観世音菩薩観音さまは、わが国の各地に数多く造立されている仏さまで、宗派に関係なく、親しみやすく信仰されております。観音という意味をわかり易く申しますと、世の人々のなやみや苦しみの声をきいて、慈悲をもって救うことなのです。このような有難いお恵みをいただく仏さまを観世音菩薩と申すのであります。奈良法隆寺の国宝又は重文である仏像のうち、現在東京国立博物館に献納所蔵されております宝物四十八体の仏像の中に、白衣観音像があります。」この地に造立されました観音像は萩原家に所蔵のお身丈二尺五寸の白衣観音像を原型として、京都にて拡大製作されたものです。白衣を頭からまとわれ、清純にして美妙な尊容をたたえられております。お顔は女性であっても男女の性別をこえた象徴的な存在なのでありまして、右手には観音経の巻物を掲げておられます。この観音経の中には人の道を説くすぐれた多くの経文が納められております。私たちはこの世に生まれ、常になやみや、苦労が多いものです。この白衣観世音さまにお参り下され、観音様のご慈悲により救済され、ご多幸な人生が迎えられましたら、まことに喜びにたえないと思います。」そして「本堂」前の青銅灯籠を見る。「本堂」。「内陣」。「本堂」前から「山門」方向に向けて境内を見る。「本堂」脇の墓地。境内から「山門」を背景に「水子地蔵尊」、「白衣観世音菩薩」を見る。白壁と曼殊沙華。今なお清水がわき出している「三日月井戸」と呼ばれる泉があった。常泉院の寺号はこの泉から来ていると。名前の通り三日月形をしており,底まで見透かせる澄んだ水をたたえていた。この井戸は別名「弘法様の井戸」と呼ばれていると。昔、弘法大師がこの地を通りかかった折,水飢饉に苦しむ村人を見かねて、持っていた杖で地面をポンとたたいたところこの泉がわき出たと。また、この付近の民家には井戸がないところが多く,太平洋戦争前ぐらいまではこの泉の水を使っているところが多かったといわれているとのこと。そして駐車場にあったサルスベリの花とその下に彼岸花が。ズームして。そして金木犀も香り豊かに。ズームして。シュロ(棕櫚)の葉の上に花も散り始めて。再び客殿を見る。「常泉院」を後にすると、近くにあった「自然と歴史のさんぽみち」案内板。坂道を上り始めて「常泉院」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.29
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【海老名市歴史散歩】 目次「永珊寺」を後にして県道46号線を南に進む。標識には51号線とあるが?そして「下今泉中通」交差点を斜め左に折れ進むと路地の角に石仏の姿が。大山道標?であろうか。「嘉永ニ(1849年)」の文字が。不動明王像なのであろうか?正面から。右手にも石碑が。右:「此方大山いゝやま阿つキ」(大山、飯山、厚木)左:「此方ほしのや道」(星谷) とある とネットから。風化が激しくて読み取れないのであったが。そして近くにあった「三島神社」。海老名市下今泉5丁目8。社殿の右奥には「住吉神・・」と刻まれた石碑が。昭和45年、国道246線の建設に伴い、「住吉神社」と「三島神社」はこの横の「浅間神社」境内の一角に移り鎮座しているのであった。「三島神社」を斜めから。「三島神社」の横にも石祠と石碑が。そしてその先にあったのが「浅間神社(あさまじんじゃ)」。海老名市下今泉5丁目8−15。社務所。扁額には「浅間大神社務所」と。この石碑は??参道から狛犬、石鳥居を見る。扁額「浅間大神」。手水舎。鐘楼。梵鐘。多くの石灯籠が並ぶ先に拝殿が。「拝殿」。見事な龍の彫刻。拝殿の扁額「浅間大神」。「浅間大神 略詩」。一.鎮座地 海老名市下今泉九五一番地一.祭 神 木花咲哉姫命一.例祭日 八月一日一.神事・芸能 例祭日境内に設ける屋台にて神楽囃子を打つ一.由緒 沿革 延暦元年六月朔日、相模介橘永範富士浅間神社より勧請と傳う。 領主高橋 右近橘重信 別當海老山法印慶義の勧請文に、領主橘重信は住居家門の 辺りに道法三丁五十六間 を退いて神祇を卜すとある社地長さ二十六間、廣さ 九間余、 右に流れあり黄龍の渡るが如く左は 田野を構えて景趣計るべからざるものあり 當時の地点と余り変りはない。文永八年九月日蓮上人 佐渡配流の際、當大神の 加護を感謝し真筆の名號を授けられたので長く懸けてゐた。残存の棟札 に 享保三年再營、安政三年大破損翌年再建明治四十二年本殿修理大正十二年 関東大震災に因り 全社殿倒潰、同十四年再建昭和五十一年本殿改築併て幣拝殿も 銅板葺に替る。明治十三年再建の 鳥居は昭和四十八年再建、正徳元年鋳造の鐘は 戰時供出のため昭和三十九年再鋳奉納する。明治 六年十一月村社に列し大正九年 七月神饌幣帛料供進社に指定された 昭和六十一年十二月吉日 宮司 小島重治記 奉納者 坪井守三拝殿の奥に本殿。「凱旋記念」碑。明治三十七八年日露戦役の地元の出征軍人の名が刻まれていた。手前に「本殿改築・屋根替・鐘楼堂修理」記念碑。奥に參宮記念碑。境内に咲く赤の彼岸花。上から。そして近くにあったのが酒屋。海老名市下今泉5丁目5−1。「泉橋酒造」。創業1857年。神奈川県海老名市にある日本酒の蔵元。地元で山田錦などの酒米栽培から精米・醸造まで一貫して行う”栽培醸造蔵®"。古来より海老名耕地(えびなごうち)と呼ばれる地元・海老名をはじめ近隣地区での酒米作りに自ら取り組んでいるとのこと。入口には「杉玉」が。「杉玉」はおおむね2月~3月に飾られるが、この時期は新酒の季節であり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ」という目印になる。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。緑色(2月~6月頃)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝える。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。俗に一休宗純の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。とウィキペディアより。酒蔵SHOP「酒友館」はOPEN前であった。奥に酒蔵、右手の白い蔵が「酒友館」。「酒友館」「いづみ橋」の文字が。特選生翫純米大吟醸の人気の酒であるようだ。工場。「いづみ橋」のシンボルマークになっている赤とんぼは、泉橋酒造の田んぼを飛び交う姿をイメージしており、酒米栽培における無農薬・減農薬栽培の約束として使っていると。直営レストラン「蔵元佳肴」であろうか。人気の酒「いずみ橋」が後日、海老名市役所を訪ねた折、地元の銘酒として展示されていた。そして近くにあった畳屋。我が家の畳もここ海老名市内の畳屋からのものであるが店の名前が異なっていた。田んぼの先の大きな建物は「神奈川県立産業技術総合研究所(KISTEC)」。海老名市立今泉中学校の横をJR相模線に向かって東に進む。ここは「おあしす通り」と呼ばれているようであった。オアシスあいさつ運動の一環として、「おあしす通り」を設置し、挨拶を通して子どもと大人のふれあいの場を提供。市内6つの中学校区にそれぞれ「おあしす通り」を設定し、自動・生徒が描画した啓発看板を取り付けたと。「今泉中学校前」交差点の先にJR相模線の踏切が見えて来た。踏切を渡るとその先に急坂が現れた。「井戸坂鎌倉時代、この坂の上に「今泉氏の館」があり、坂の下にその館で使用していた井戸があったという伝承からこの名がついたといわれています。」今泉中学校の東方、相模線の「井戸坂踏切」から東に向かって上る坂であり「今泉氏の館」の茶の湯の水を汲みあげた井戸であったと。武蔵七党の1つ猪俣党に属する「今泉氏の館」と推測されている。『吾妻鏡』には、承久三年(1221)の承久の乱で討ち死にした今泉七郎の名がみえる。しかし室町時代に入ると、今泉氏の名はみられなくなる。永享十二年(1440)、前年の永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人であった一色伊予守六郎が、今泉館に立て籠もって抵抗を続けた。関東管領の両上杉氏は、家臣長尾憲景・太田資光を派遣し、今泉館を攻めさせた。伊予守は敗れて下野国へ逃れ、後の結城合戦へとつながった。落城に際して、伊予守の妻の護王姫にまつわる伝承が残っている。護王姫は、伊予守脱出後も館に残っていたが、このとき子を身籠っていた。護王姫も館を脱出して逃れようとしたが、途中で産気づいてしまい、そのまま出産した。その赤子は敵に捕まり、目久尻川へ投げ捨てられた。護王姫は何とか星谷までたどり着いたものの、そこで息を引き取った。この落城により、今泉館は廃城になったものと思われる とネットから。「井戸坂」を上って行った。坂の上の路地の角にあった石碑群。左手には道祖神碑、右手にあったのは庚申塔だろうか。上って来た「井戸坂」を振り返る。石碑群の角を北に進むと左手奥にあったのが「クリオ海老名参番館」この辺りが「今泉氏の館」があった場所のようであった。そしてその先には小さな社があった。この社は「今泉氏の館」と何か関係があるのだろうか?いずれにせよ「今泉氏の館」の遺構は残っておらず、「井戸坂」が唯一の名残なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.28
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【海老名市歴史散歩】 目次次の目的地「おしな坂」に向かって海老名市上今泉4丁目20の住宅街を進む。そして突き当りを左に曲がり進む。この道路は、海老名市と座間市の境界道なのであった。これは座間市の汚水マンホール蓋。平成元年に導入された、市の花「ヒマワリ」がデザインされたマンホール蓋。 カラー仕様は昭和44年に市の花として制定されたヒマワリの枝葉の深緑は、たくましく発展をつづける市を、また大輪の花は、市民が手を結び合い明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴している と。 こちらはノンカラー。小田急線の踏切が前方に。小田原方面を見る。「座間7号踏切」と。そして県道407号線・杉久保座間線を横断し更に進むと、突き当りに石碑が見えて来た。「おしな坂」碑。座間市入谷5丁目と海老名市今泉3丁目の境界にある坂。この坂は、「石名坂」とも呼ばれていたもので「おしな坂」はこれが変化したものと思われるが、地域では、相模川の氾濫から村を救った娘「おしな」の伝説とともにこの坂名が伝えられていると。この道は「府中街道」と呼ばれたと。海老名境の榎戸橋から,河岸段丘を東北に上る坂道。坂上で鎌倉古道と交差する。坂上に行き倒れの巡礼を弔ったと思われる地蔵尊の石仏がある。「お品坂」ともいうが,「いしな」「おしな」の語呂が似るからで、お品という美女がいたことになり、「お品伝説」が生まれたのであろう。「おしな坂」の 坂下方向に進む。更に進む。「ヤブミョウガ」がここにも群生していた。花が終わると初秋にかけて直径 5mm 程度の球状の実を付け、すぐに葉を落とす。実は若いうちは緑色で、熟すと濃い青紫色になるのだ。「おしな坂」の 坂下から歩いて来た坂道を振り返る。この先を右折すると前方にJR相模線の踏切があった。タイミングよくJR相模線の車両が通過。「榎戸踏切」と。18K018Mは茅ヶ崎駅からの距離であろう。JR相模線は茅ヶ崎駅と橋本駅間33.3kmを結ぶ。全線が単線で1991(平成3)年春までは、神奈川県を走る旅客線のうち唯一残っていた非電化路線だった。そうしたローカル線も2027年には橋本駅にリニア中央新幹線の駅ができる予定で一躍、脚光を浴びつつある。現在は全線単線でローカル線の風情を色濃く残すのである。相模線は今でこそJR東日本の路線だが、開業させた会社は相模鉄道だった。さらに現在の相模鉄道のメイン路線とも言うべき相鉄本線は、神中鉄道(じんちゅうてつどう)という別会社が開業させた路線だった。相模鉄道自らが造った路線がJRの路線となり、一方で別会社が造った路線が相模鉄道となっているのである。そして相模線はほぼ相模川沿いを走っている。相模線は相模川の川砂を運ぶことを目的に路線が敷かれた。相模鉄道は1917(大正6)年に会社が創立している。1921(大正10)に茅ヶ崎駅〜川寒川駅間にまず路線を開業された。川寒川駅は相模川に近い現在の神川橋付近にあった駅だ。その後、間もなく1923(大正12)年に関東大震災が起こる。相模線も被災し、路線の復旧まで1か月かかった。一方で復興のため、また東京の山手に新たな住宅地が求められたことなどで、多くの砂利が必要となった。その後に、寒川駅から北へ路線の延長が進められた。当時は砂利運搬用の貨物列車が多く走ったことから「砂利鉄道」と揶揄された時代もあった。とはいえ関東大震災からの復興を目指す東京、横浜には欠かせない路線だったのだ と。踏切横の水路には清流が勢いよく流れていた。この手前に「榎戸制水門」があった。ゲートの下流の白き流れ。その先にあったのが「お松地蔵尊」。海老名市上今泉3丁目4−15。樹木や花々に彩られた土地の中央で、お地蔵さまは微笑みを浮かべ両手を胸前で重ね合わせ蓮台にのる。その頭部は僧形でなく髪を縄状に編んでいるのが特徴で、大きな舟形光背を伴う。寛文2(1662)年鳩川の氾濫を防ぐため治水工事が行われた。この際、村の娘お松が人柱になったことから村人がお松の供養塔(地蔵尊)を建て、かたわらに榎を植えた。地蔵尊は1970年代になくなってしまっていたが、平成5(1993)年に地元の人が新たなお松地蔵尊を建立した。また、この地はお松の榎に由来した榎戸という地名が残っている。お松の碑の周辺の水田にはめずらしい小さなホシクサが生育しており、刈り入れの頃に咲く小さな花は白い星を思わせる と。郷土かるた「す」。「水害から村を救ったお松の碑」。田園越しに「海老名駅」方面を見る。相模川左岸幹線用水路・榎戸制水門を振り返る。彼岸花が咲く。田園の中の道を水路沿いに西に進む。田園風景を楽しみながら。稲刈りも間近に。ペットボトルのゴミ捨て場の如き畑の姿が。鳥避けなのであろうか?異様な光景なのであった。そして見事なシルバーマルチの畝の畑。カリフラワーの苗であろうか。私は黒マルチを使っているが、アブラムシ対策等にはシルバーマルチが有効なのであろうか。そして県道46号線・相模原茅ヶ崎線まで歩きここ「上河原」交差点を右折した。100mほど進むと左手にあった「弁財天社」。海老名市下今泉3丁目5。そして引き返し「上河原」交差点を過ぎて進むと左手にあった「地蔵堂」。海老名市下今泉4丁目2−33。道路を渡って。六基の石仏・石碑が並んでいた。幸いにも石仏・石碑の名前が書かれていた。左から「合掌の地蔵」。「馬頭観世音」。「庚申塔」。「子育地蔵尊」。「岩船地蔵尊」。そして右手前にも「庚申塔」が。「住居表示街区案内図 上四丁目 下今泉ニ・三・四・五丁目」そしてその先にあったのが「曹洞宗 金殿山 永珊寺(えいさんじ)」入口案内板。「永珊寺」入口。海老名市下今泉4丁目2−7。「本堂」と両脇に「仏旗」が。永珊寺の仏旗は「緑、黄、 赤、白、紫」の五色で古くから日本で使われている色。扁額「永珊禅寺」。曹洞宗の寺。「掲示板」。「慈母観音像」。お顔をズームして。赤い大きなよだれ掛けを着けた「六地蔵」。お地蔵さんは子供を守る神様として信仰される事が多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけを奉納するのだと。よだれかけだけではなく、丸い頭にかぶせる頭巾を奉納されることもある。このよだれかけや頭巾、なせ赤色なのか?赤という色は「清く」「正しい」そして「正直な色」と信じられており、魔よけとして赤ちゃんや地蔵さんに赤いものを着せる風習があるのだと。還暦でも赤いものを身につけるが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、地蔵さんや赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られるのだと。右手に「交通安全祈願之碑」、中央に台座に「為供養」と刻まれた石仏、左手には「南無阿弥陀仏」。墓地。寺務所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.27
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【海老名市歴史散歩】 目次「秋葉山古墳群」に向かって進む。大山の頂部には雲がかかって山頂の姿は確認できなかった。「中心荘第一・第二老人ホーム」の前を通り進むと前方に「秋葉山古墳群」の入口が見えて来た。正面に石碑と案内板が。「史跡 秋葉山古墳群」碑。「国指定史跡 秋葉山古墳群」案内板。「秋葉山古墳群は、座間丘陵の頂部に立地し、海老名市内で最も標高が高い場所(標高75~80m)にあります。北から第4号墳、第5号墳、第3号墳、第2号墳、第1号墳と5基の墳墓が地形に沿って連なっています。古墳群から西を望むと現在「海老名耕地」と呼ばれる水田と南北に流れる相模川が一望に見渡せます。また相模川の向こうには、丹沢山塊や大山を望むことができます。このような景勝地であり、交通の要衡であったことからこの辺りを治めていた首長は、この地に歴代の墳墓を築いたと考えられます。昭和63年(1988)から平成15年(2003)までの発掘調査によって3世紀後半から4世紀にかけて継続的に造られたことがわかりました。年代が古い順に第3号墳・第4号墳→第2号墳→第5号墳・第1号墳となり、不整形で低い墳墓から徐々に整った前方後円墳へと変遷していく様子をとらえることができます。中でも、第3号・第4号墳は弥生時代から古墳時代の移行期に造られたと考えれ、東日本では数少ない貴重な遺跡です。これらのことから、南関東における出現期古墳のあり方およびその時期の社会を考えるうえで重要と評価され、平成17年(2005)7月14日に国指定史跡となりました。」1~3号墳は前方後円形墳、4号は前方後方形墳、5号は方形墳であると。配置図。 【https://blog.goo.ne.jp/ueda01/e/19c8cbf20490f72f8805304b6dd20d15】よりまずは1号墳を見る。1号墳には山王社が祀られていたことから山王山と呼ばれていた。後円部に対して前方部が細長くなっているのが特徴で古墳群の中で最も遅い時期に築造された。1号墳は墳長59m、前方部長26m、後円部径33m。前方部の高さは2.8m、後円部の高さは6.3m。周濠は見られないが前方部正面にのみ溝が掘られている。1999年の発掘調査により、整った形の前方後円墳であることが確認された。後円部の大きさは第2号墳とほぼ同じですが、前方部が長くなっている。前方部の南側には古墳を区画する溝がみつかっている。西側のくびれ部からは小型で底の丸い柑(かん)とよばれる土器と、鉄製の鏃(やじり)が出土した。出土した土器から、第1号墳は4世紀代に造られたものとみられる。と海老名市のネット資料から。(以下同じ)【https://www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/tankyusha/bunkazai/1006603/1000694.html】より、以下同じ。1号墳の脇の草むら。「史跡秋葉山古墳群利用案内」。郷土かるた「い」。「今泉 古墳群ある 秋葉山」。2号墳(秋葉山)は3世紀末~4世紀初頭に造られた前方後円形。後円墳の石段を上って行くと墳頂部の正面に大きな石碑が。2号墳頂上は、標高84.6mで市内最高峰であると。秋葉山古墳群は、明治時代頃から広く知られるようになった古墳群で、2号墳に秋葉社が祀られていたことから秋葉山と呼ばれ、これが古墳群の名称となったのだと。墳頂部にあった「憲政碑(けんせいひ)」。憲政碑は、昭和戦前期に立憲政友会に所属して衆議院議員を務めた胎中楠右衛門(たいなかくすえもん)を発起人として、日本近代の憲政における功労者の慰霊を目的に、ここ神奈川県海老名市上今泉の国指定の史跡秋葉山古墳群第2号墳墳丘上と、東京都台東区西浅草の浅草本願寺境内の2か所に建立された碑である。石祠も。2号墳から下り振り返る。2号墳を散策道側から。手前が前方墳、先が後円墳。2号墳は墳長50.5m、前方部長18.9m、後円部径33m。前方部の高さは4.6m、後円部の高さは7.7m。2000年の発掘調査で、後円部に対して前方部の短い前方後円墳であることが分かった。くびれ部を中心に、全国的に類例のない埴輪(はにわ)状の円筒形土製品や、水銀朱(すいぎんしゅ)の付いた片口の鉢などの土器が出土した。水銀朱は真っ赤な顔料で、とむらいの儀式に使われていたようだと。前方部南側には古墳を区画する溝があり、南側のくびれ部では焚き火の跡がみつかった。第2号墳は3世紀末から4世紀初頭に造られたものと。3号墳は3世紀後半に造られた前方後円形(現状は円形)。3世紀後半だから270年ぐらいか?魏志倭人伝によれば西暦247年に女王「卑弥呼」が死去しているので秋葉山古墳群初期の3号墳が造られた時代と大体一致。第15代天皇・応神天皇が即位した時期。こんな太古なものが残っているのであった。墳頂部にあった構造物。これも石祠だったのだろうか?見た目は焼却炉みたいな構造物。石祠の屋根は消失してしまったのか?旗掲揚台の土台。墳頂部を見る。ここにも石祠の如きものが。3号墳を振り返る。3号墳は墳長推定51m、前方部長不明、後円部径38~40m。大正時代の記録から前方後円形であったことが分かっています。現存するのは後円部のみであるが、古くは南西方向に前方部があったことが判明している。1988年~2002年の発掘調査の結果、後円部がいびつで、削平されたと見られる前方部の短い墳形と考えられる。後円部に棺を納めた墓穴がみつかり、マツリに使用されたとみられる水銀朱のついた片口鉢や高杯(たかつき)が出土した。後円部の周りの溝(周溝)からは壷も出土している。第3号墳は弥生時代から古墳時代の過渡期である3世紀後半に造られたものと。白の彼岸花が満開中であった。そして1~3号墳の見学を終え、裏口から出て振り返る。秋葉山古墳群は、昭和30年代までは樹木がほとんど生えていなかったが、現在ではコナラやクヌギなどの多くの落葉樹に包まれていたのであった。裏口の右手の先にはコミュニティーバス停「10 秋葉山古墳群」があった。そして道路を越え、石段を登ると「上今泉自然公園」内あったのが、5号墳で4世紀前半に造られた方墳。一辺約20m(周溝含まず)。周溝がある。小型丸底土器、小型器台、小型壺出土。出土した土器は1号墳と相似した時期とみている。「5号墳」5号墳は約27m×26m、周溝を含む。1988年の発掘調査では西側に浅い溝が確認された。溝からは土器がまとまって出土し、4世紀中頃に造られたことが分かった。4号墳。4号墳で3世紀後半に造られた前方後円墳とのことであるが、この古墳は前方後円墳には見えなかった。円墳に近いと。墳長推定37.5m。2002年~2003年の発掘調査結果から、秋葉山古墳群唯一の前方後方墳と分かった。第3号墳と前後して造られたものと。墳丘は第3号墳と比べて低く、より弥生時代の墳丘墓的要素の強いものであると。赤の彼岸花。そして、4号墳、5号墳のある「上今泉自然公園」を見上げる。直ぐ先左手にあったのが「えびな北高齢者施設」。民家に庭のには涼しげに薄紫の小さな花が咲いていた。初秋の暑い盛りにも爽やかな花にほっと出来るのであった。ルリマツリ(プルンバゴ)であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.26
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【海老名市歴史散歩】 目次私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りは完了した下で、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」👈リンクを制覇しその後「綾瀬市」👈リンクそして「大和市」👈リンク、「鎌倉市」👈リンクを完了し、今回の「海老名市」の『海老名市の寺社旧蹟を巡る』への挑戦をスタートしたのであった。海老名市は神奈川県のほぼ中央に位置し、市域は南北に長い。相模川の左岸に位置し、西部は広大な平地(相模平野)が広がるが、河岸段丘の地形から東部は高台(相模原台地)となっている。北部・西部は鉄道路線が交錯しており、南部は東名高速道路が通過している。・北緯:35度28分38秒~35度23分59秒・東経:139度26分11秒~139度22分09秒・東西:6150メートル、南北8700メートル・海抜:11~84メートル・面積:26.48平方キロメートル・人口:136,371人(2021.9.1現在) と。「海老名市 行政地図」。市(し)のマークとなる市章は、カタカナの「エビナ」をつかって、平和(へいわ)をイメージするような図(ず)になっています。まん中(なか)の形(かたち)は鳥(とり)をあらわし、市が大(おお)きく飛躍(ひやく)するように願(ねが)いがこめられているのだと。 【http://www2.city.ebina.kanagawa.jp/kids/contents/1351216688314/index.html】よりこの日は9月16日(木)、実は翌日の9月17日(金)を予定したが、朝起床してテレビの天気予報を見ていると、台風第14号の影響で雨が早まり、金曜日の午後には雨が降りそうだと。その為、この日に急遽変更を決断し、慌てて支度をして7時過ぎに自宅を出たのであった。小田急線で大和駅まで行き、相鉄線に乗り換える。そして3つ目の駅「かしわ台」で下車し、この日の散策のスタート。自宅から40分弱で到着したのであった。かしわ台駅(西口)周辺案内図。かしわ台駅(かしわだいえき)は、神奈川県海老名市柏ケ谷にある相模鉄道本線の橋上駅。1975年(昭和50年)8月17日 開業と。「2006年(平成18年)にはシンボルマークに替わる象徴としてグループマークが制定された。グループマークはアルファベットの「S」を∞(無限)を想起される形状に図案化し、グループ各社の躍動、融和を表現している。グループマークに使用する2色はグループカラー(コーポレートカラー)でもあり、「SOTETSUブルー」は知性、信頼、安心を、「SOTETSUオレンジ」は活力、きらめき、楽しさを表している。」と。駅西口に出てかしわ台跨線橋から駅前北口のマンション群を見る。そしてかしわ台跨線橋を下り、右手の坂を下っていくと左手下にあったのがコミュニティーセンター「柏ケ谷自治会館」。海老名市柏ケ谷856−3。自治会館前には大きな墓地が。そして急な坂道を引き返す。危うく通り過ぎてしまう場所にあったのがこの坂の案内塔。「念仏坂言い伝えではこの辺り一帯は鎌倉時代の古戦場であり、そのことを知る地元の人々が、念仏を唱えながら坂を行き来したことからこの名が付いたとされています。」この坂から武士の夫人用と思われる櫛笄(くしこうがい)が出土したと。死者の霊魂を弔いながら念仏を唱えこの急坂を転ばないように上り下りしたのであろう。進んで行くと前方に橋が現れた。橋の名は「産川橋(さんかわばし)」。永亭の乱(1438年)のおり今泉館から当主・一色伊予守六郎の室である護王姫が落ち延びる際に産気づき子供を出産したことからこの地名が生まれたとの伝説があると。下を流れる川は・・。「めくじりがわ(目久尻川)」。目久尻川(めくじりがわ)は、神奈川県相模原市南区相武台団地付近を水源とし、高座郡寒川町で相模川に注ぐ相模川水系の一級河川。この川の名の由来はいくつかの説があると「ウィキペディア」より。一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる「伊勢下村橋」👈リンク には河童の像があしらわれているのであった。「産川橋」を渡り、過ぎに右に折れると路地の角にあったのが「護王姫(ごおうひめ)の碑」。海老名市上今泉6丁目20。繰り返しになるが、永享の乱(1438年)のおり今泉館から当主・一色伊予守六郎の妻である護王姫が落ち延びる際の出産にまつわる伝説があると。その護王姫を供養するために江戸時代に建てられた石碑。伝説では落ち延びる当主を追った妻の護王姫が逃げる途中,川べりで産気づいて子を産み落とした(そのためこの地を産川という)。姫はその後,座間の入谷まで落ち延びたが落命したとのこと。また座間市にも「護王姫」にまつわる伝説があるらしいが、一色六郎が義経になっているなど内容が異なっているとのこと。祠の中に石仏が。近所の方が頻繁にお参りしていることが解るのであった。手を合わせている姿がなんとも・・・・。右隣りには「天下泰平 奉納大乗妙典六十六部供養塔 國土安全」と刻まれた石碑が。六十六部供養塔とは、六十六部行者と呼ばれる、諸国を遍歴する行者に結縁して建立された供養塔のことをいう。六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をさし、この巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ と。左隣にあった石碑には???。「海老名の道標」も保存されており、歴史を直に感じるのであった。右 座間入谷ニ至る左 綾瀬村寺尾ニ至る小さな石碑も。中央には「大正八年十二月 妙法馬頭観世音」と刻まれていた。大きな道まで戻ると道路の反対側には清流の流れのある水場が。「産川せせらぎ公園」。海老名市上今泉6丁目10−27。コウホネ(河骨)の花を見つける。絶滅危惧種ではなかったろうか?この時期に見られるとは幸運。そして再び横断歩道を渡ると右手には「産川せせらぎ公園」に流れ込む清流が。一面に川藻が。こちらは梅花藻であろうか?更に進むと右手にユニークな色の鳥居が姿を現した。その先の高架は大和厚木バイパス。「萩原神社」。海老名市上今泉6丁目21。青色の鳥居を見るのは初めてであったが、その目的、理由は?鳥居といえば朱色だ。その理由は「呪術的な意味合い」からきたもので鳥居に使われる朱は、燃える火や沈む太陽、血の色を表している。古くから魔除けに使われた色である と聞いていたが。「社殿」。扁額「萩原神社」。「内陣」。そして「上今泉五丁目」交差点を左折して、次の目的地の「秋葉山古墳群」を目指して坂道を上って行った。ここ海老名市は起伏が激しく、坂の多い街なのであった。上今泉5丁目の住宅街の坂道を進む。海老名市の汚水マンホール蓋。市の木・ツゲ、市の花・サツキ、相模国分寺の七重の塔、 中央に海老名市の市章をデザイン。その下に「おすい」の文字。 再び、市章はカタカナの「エビナ」を図案化し平和と飛躍を表しているとのこと。まん中の形は鳥もあらわし、市が大きく飛躍するように願いがこめられているのだと。 【http://www2.city.ebina.kanagawa.jp/kids/contents/1351216688314/index.html】より。右手に折れて進むとあったのが「上今泉第一児童公園」。そして「自然と歴史のさんぽみち」案内板があり「史跡秋葉山古墳群」まで180m と。左手の坂道を上って行った。この後にも多くのこの案内板が設置されていたのであった。 ・・・つづく・・・
2021.09.25
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小出川の彼岸花の散策を続ける。二本の曲線の帯が。朝の陽光に輝く「曼殊沙華」。ヒガンバナ(彼岸花)の花言葉の一つに「情熱」が。三角形のコラボ。「小出川」沿いの田んぼの一部だけ既に稲が刈り取られた場所も。溢流で倒れ、水に浸かってしまった為急遽の対応か?この場所は例年と変わらぬ光景が。「ヒガンバナ(彼岸花)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。別名は曼珠沙華(マンジュシャゲ)、学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。中国原産で、日本全国の道端や田んぼのあぜなどに群生し、秋の彼岸のころに、花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花だけが咲き、夏の終わりに葉が伸びて秋に枯れるという、多年草としては珍しい性質を持っている。地下の鱗茎(球根)に強い毒性がある有毒植物であるが、かつて救荒作物として鱗茎のデンプンを毒抜きして食べられていた。」とウィキペディアより。「有毒植物として知られており、特に鱗茎に作用の激しいアルカロイドを約0.1%含んでいる。アルカロイドは、リコリン50%、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリンなどを多く含む。リコリンの語源はヒガンバナ属の学名「リコリス」に由来するもので、経口摂取すると流涎(よだれ)や吐き気、腹痛を伴う下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして苦しみ、最悪の場合は死に至ることもある。日本では水田の畦や墓地に多く見られ、人為的に植えられたものと考えられている。その目的は、畦の場合はネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、墓地の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって荒されるのを防ぐためとされる。モグラは肉食のためヒガンバナとは無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まないために、この草の近くにはモグラが来ないともいう。」とこれもウィキペディアより。川沿いの彼岸花の数には濃淡があるが、これぞ「栽培」ではなく「自然の姿」なのであった。この水田の稲も収穫間近に。今年の出来栄えは如何に?「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」!!いつまでもこうありたいが。いや既に「実る」ことには縁が薄くなったが・・・・。小出川には酸素も溶け込んで。2日前の濁水が嘘のように清き流れに。再び富士山の勇姿と彼岸花の咲く田園風景とのコラボ。富士山にズームして。この場所は溢流が激しかったのであろう。箱根・二子山の姿であろうか?秋の実り・稲穂と秋の花・彼岸花のコラボ。それぞれ6個の花それぞれに雄蕊と雌蕊がヒゲの如くに。雄蕊と雌蕊の間を赤い糸、いや蜘蛛の糸が。オシロイバナも負けじと。この場所には幾筋もの赤き帯が。風雨で倒れた稲も。小出川沿いの場所であり。溢流の勢いが激しかったのであろうか。小出川の堤防の外の畦道にも一筋の赤い帯が。再び赤のカーブを追う。畦道に咲くミニひまわり(向日葵)も満開。富士山と。彼岸花と。ミニ向日葵をズームで。富士山を再びズームして。長閑な風景をカメラで追う。これぞ日本の原風景なのであった。カメラの向きを変えて。大山の姿も。そして帰路に。この橋は「追出橋」。横の下流側の巨大な管は神奈川県企業庁寒川浄水場からの水道用管。相模川の寒川取水堰でとられた上水道用の水が横浜市の小雀浄水場へ流れている。水管橋の銘板横浜市水道局「小出川水管橋」昭和44年11月竣工三菱重工業株式会社横浜造船所小出川の上流側を見る。幟が立っているが花の数は少ない場所なのであった。そして帰宅しこの日の朝の我が家の花を。白の彼岸花。コルチカム(イヌサフラン)。植えっぱなしの球根であるが毎年この時期に。朝の酔芙蓉は純白で。コムラサキの実。花期が終わり、この時期になると、紫色の美しい実をつけるのです。 実は最初は緑色の実をしている。 しかし、時間の経過とともに、実の色は変化し、綺麗な紫色に変身。そして紫のサルビアも頑張っています。そしてこの日・9月21日(火)の翌日は「中秋の名月」👈リンク なのであった。 【https://www.pinterest.jp/chiisan1204/9%E6%9C%88/】より『富士山に繋がる帯は曼珠沙華』・・・・詠み人知らず ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.09.24
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この日は9月20日(月)、早朝に、車で20分ほどの場所にある『小出川彼岸花』を訪ねに行ってきました。旅友・そしてブログ仲間のSさんから、ここの彼岸花がピークを迎えているとの情報をいただき今年も訪ねたのでした。今年も小出川(こいでがわ)・「大黒橋」の近くに車を停め、しばしの散策の開始。「大黒橋」には今年も横断幕が。小出川は、神奈川県中央南部を流れる相模川水系の川で、これでも『一級河川』。藤沢市遠藤の笹窪谷戸に源を発し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの脇を流れ、駒寄川(こまよせがわ)が流入し、茅ヶ崎市と寒川町の境界河川となる。新湘南バイパスとほぼ平行して茅ヶ崎市の西部を縦断し、千の川が流入した後、平塚市で相模川の河口付近に注ぐ河川。前日のゲリラ豪雨で小出川のこの場所も溢流したようで、堤防近くの彼岸花は水没したようで無残な姿と化していた。堤防の高い場所にある彼岸花が見事な姿で迎えてくれた。この付近はほぼピークの彼岸花。昨年も同じ事を書きましたが日本では秋の花として親しまれる彼岸花(ひがんばな)。別名、リコリスや曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれ、日本特有の「彼岸」の時期に咲く花として知られている。ネット情報に拠ると様々な名前が。彼岸花(ヒガンバナ)曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)痺れ花(しびればな)天蓋花(てんがいばな)狐の松明(きつねのたいまつ)狐花(きつねばな)葉見ず花見ず(はみずはなみず)雷花(かみなりばな)レッドスパイダーリリーハリケーンリリーマジックリリーなどなど。彼岸花とはヒガンバナ科・ヒガンバナ属(リコリス属)に分類される球根植物。日本や中国に広く自生し、秋の彼岸の期間(秋分の日を入れた前後3日間)だけに花を咲かせることに由来して名付けられたと。9月頃になると赤や白、ピンクなど花を咲かせるのが特徴なのです。今年は開花が昨年よりは10日ほど?早いのであった。小出川 ”彼岸花”の案内板。この付近には白の彼岸花の数は少なかった。ズームして。彼岸花を楽しめる場所は、遠藤の小出川沿いの大黒橋~追出橋の間約3km。おまつりの本会場:遠藤会場 他、打戻会場、おおぞう会場、せりざわ会場(茅ヶ崎里山公園内)山口百恵の歌『曼殊沙華(マンジュシャカ)』👈リンク♫マンジューシャカ 恋する女は~ マンジューシャカ 罪つくり~♫この曲で初めて作詞の阿木曜子が「マンジュシャゲ」を「マンジュシャカ」と発音させたのであろうか。インドの古い言葉(梵語)では「マンジュシャカ」。音写して曼珠沙華。「天上の赤い花」という意味があり、おめでたいことが起こる兆しに、天から赤い花が降ってくるという伝説があるのだと。 川沿いの道を散策。右手には「道祖神碑」が。道端の彼岸花は朝の陽光に輝いていた。路面は湧き水が未だに。今年の「第14回 小出川彼岸花まつり」のパンフレットを通路脇の箱の中から頂きました。9月25日(土)とのことですが・・・・既に9月20日(月)のこの日は開花のピーク。パンフレットの裏側。スタンプラリーも行われるようであった。旅友のブログによると、地元の方々が前日は懸命に清掃作業を行ってくださったとのことであった。白の萩の花も今年も開花していた。ズームして。その隣には紫の萩の花も。ズームして。この先は仮設トイレ・ベンチも設置された休憩場所。柿の実も色づいて。ここにも「小出川彼岸花」の横断幕が。畑の温室越しに富士山の勇姿が。雪の全く無い富士山もそろそろ見納めとなるのであろう。富士山にピントを合わせて。彼岸花にピントを合わせて。これがデジカメでは限界か?小出川と富士山のコラボ。残念がら手前の彼岸花は溢流にやられていた。そして車に戻り、いつもの別の場所に移動した。ここは新道橋(しんみちばし)。この道は県立茅ヶ崎里山公園に行く道。流れる川はもちろん「小出川」。「小出川」の両岸には稲作田園が広がっていた。「小出川 彼岸花群生地」「小出川沿いの彼岸花(曼珠沙華)は、上流の里山などから大水により球根が流れ込み、古くからこの地域に自生していました。平成15年頃から流域の彼岸花保護団体が相次いで組織され。増殖・保全活動に努めています。開花期(9月下旬頃)には、上流の大黒橋から下流の追出橋まで両岸3キロが紅の帯に染まり、西方に望む富士や箱根連山を借景に、絶好の散策コースになっています。毎年、この時期に「小出川彼岸花まつり」を開催し、来場者を歓迎しています。」附近のご案内:宇都母地神社👈リンク 雄略天皇の時代( 466年)厳粛な祭祀が執り行われたと「日本総風土記」に 記されている延喜式内社。 境内に「民具・農機具資料館」(祭礼時等に開放)がある。 (これより北東方向1.5キロ) 盛岩寺 薬師堂 昭和文化館👈リンク 盛岩寺の薬師堂は、築90余年の旧商家を再移築した古建築で、昭和文化館として 活動をしている。 堂内の薬師三尊十ニ神将は、旧東光寺の本尊で、(明治4年廃寺盛岩寺に移管) 「堂の前」の名はこれに由来する。 (これより北西方向0.5キロ)収穫間近の田園には「鳥追いカイト鷹」が飛んでいた。この場所にも横断幕が。下流側には前々日の水位上昇を実感出来る姿が残されていた。この付近の溢流は僅かであったようだ。2本の赤い帯が。これぞ三密状態で。赤のカオス!!堤防上を上流にむけて歩く。ズームして。もっと先まで歩きたかったが。途中から引き返して。この日は水の流れも濁流から清流に変わって。白と赤のコラボ。既に蕾の株は殆ど無く。大山の姿もはっきりと。 ・・・つづく・・・
2021.09.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク私の住む神奈川県藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。我が藤沢市内の寺社旧蹟巡りは完了した下で、長引くコロナ禍で国内旅行、海外旅行が制限される状況から、隣接する6市1町の寺社旧蹟巡りを決意したのであった。そしてこれまでに「横浜市泉区・戸塚区」を制覇しその後「綾瀬市」そして「大和市」を完了し、今回の「鎌倉市」の『古都「鎌倉」を巡る』に挑戦したのであった。我が家から1時間以内で行ける古都・鎌倉。コロナ禍前には年間2,000万人前後の観光客が集まる名刹の町は、世界遺産登録への再びの挑戦も期待されるのです。鶴岡八幡宮を中心に、北鎌倉の円覚寺、建長寺、女性にとくに人気の明月院、東慶寺、江ノ電沿線に佇む鎌倉大仏、長谷寺、それに銭洗弁天、杉本寺、報国寺…と鎌倉市内にある寺社旧蹟を13回にわたって、1回の愛車を除き全て徒歩で巡り、それを141回に分けて我がブログにアップして来たのでした。事前予習と訪問後の復習、ブログアップのために「鎌倉史跡事典」を購入したのでした。そして市立図書館から借りた本や以前から持っていた2冊の本でも予習。下記写真はネットから。2021年4月6日(火)に第1回目をスタートしたのです。ひたすら歩いた【鎌倉の地図】👈リンク です。リンクから拡大してください。同じく鎌倉の寺社の地図。下記の全ての(廃寺・廃寺跡◯を除く)寺院を順不同でひたすら巡ったのです。【鎌倉市内の寺院一覧】出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』鎌倉市域に現存する寺院および、歴史的に著名な一部の廃寺◯について網羅したものである。そして13回めの9月7日(火)に鎌倉市内の寺めぐりを完遂。訪ねた【鎌倉寺院 五十音順 早見表】をリンク(👈リンク)付きで纏めてみました。今後、自分も訪ねた寺を振り返る時にそのブログにアクセスしやすいようにしたのです。EXCELで作りましたが、うまく罫線が張り付きません。どなたか御指導を!! 名称👈リンク読み 霊場 ア行安国論寺 ★あんこくろんじ安養院あんよういん ◎ ■ 雲頂庵うんちょうあん英勝寺えいしょうじ円覚寺えんがくじ ✦ 円久寺えんきゅうじ円光寺えんこうじ円応寺えんのうじ ■ ▲延命寺えんめいじ ◎ ■大船観音寺おおふなかんのんじ カ行回春院かいしゅんいん海藏寺 ★ かいぞうじ ◎ ■ ▲覚園寺 かくえんじ ■ ▲臥龍庵がりゅうあん勧行寺かんぎょうじ帰源院きげんいん教恩寺きょうおんじ ◎玉泉寺ぎょくせんじ久成寺くじょうじ九品寺くほんじ ◎啓運寺けいうんじ桂昌庵けいしょうあん華蔵院けぞういん顕証寺けんしょうじ建長寺けんちょうじ ■■■ ✦光照寺こうしょうじ光則寺こうそくじ光触寺こうそくじ ◎ ■高徳院こうとくいん黄梅院こうばいいん向福寺こうふくじ ◎ 光明寺こうみょうじ ◎ ■極楽寺ごくらくじ ■■▲護国寺ごこくじ金剛寺こんごうじ今泉寺こんせんじ サ行済蔭庵(居士林)さいいんあん西念寺さいねんじ西来庵さいらいあん実相寺じっそうじ収玄寺しゅうげんじ寿徳庵じゅとくあん寿福寺じゅふくじ ◎ ■ ▲ ✦常栄寺じょうえいじ上行寺じょうぎょうじ淨光明寺じょうこうみょうじ ◎ ■■▲成就院じょうじゅいん ◎ ▲昌清院しょうせいいん浄泉寺じょうせんじ正続院しょうぞくいん ■浄智寺じょうちじ ◎ ■ ▲ ✦正伝庵しょうでんあん正統院しょうとういん成福寺じょうふくじ称名寺しょうみょうじ 浄妙寺じょうみょうじ ◎ ▲ ✦常楽寺じょうらくじ松嶺院しょうれいいん青蓮寺しょうれんじ瑞泉寺ずいせんじ ◎ ■杉本寺すぎもとでら ◎ ■■星井寺せいせんじ禅居院ぜんきょいん泉光院せんこういん千手院せんじゅいん ◎蔵六庵ぞうろくあん続燈庵ぞくとうあん タ行大巧寺だいぎょうじ大慶寺だいけいじ大長寺だいちょうじ大宝寺だいほうじ多聞院たもんいん長寿寺ちょうじゅじ長勝寺 ★ちょうしょうじ辻の薬師堂つじのやくしどう貞宗寺ていそうじ天源院てんげんいん伝宗庵でんそうじ等覚寺とうかくじ同契院どうけいいん東慶寺とうけいじ ◎ 東光寺とうこうじ東漸寺とうぜんじ ■ ナ行日本山妙法寺にほんざんみょうほうじ如意庵にょいあん ハ行白雲庵はくうんあん長谷寺 はせでら ◎ 普賢光明寺ふげんこうみょうじ仏行寺ぶつぎょうじ仏日庵ぶつにちあん ◎ ■富陽庵ふようあん別願寺べつがんじ ◎宝戒寺ほうかいじ ◎ ■ 法源寺ほうげんじ報国寺ほうこくじ ◎ ▲宝珠院ほうじゅいん宝善院ほうぜんいん補陀洛寺ふだらくじ ◎本覚寺ほんがくじ ▲ 本行寺ほんぎょうじ本興寺ほんこうじ本成寺ほんじょうじ本龍寺ほんりゅうじ マ行万福寺まんぷくじ妙高院みょうこういん ◎妙隆寺みょうこうじ妙長寺みょうちょうじ妙典寺みょうてんじ妙伝寺みょうでんじ妙法寺(大町) ★ みょうほうじ妙法寺(山崎)みょうほうじ明王院めいおういん ◎ ▲明月院めいげついん ◎黙仙寺もくせんじ ヤ行薬王寺やくおうじ永福寺跡よいうふくじあと ラ行来迎寺(西御門)らいこうじ ◎ ■ ▲来迎寺(材木座)らいこうじ ◎龍峰院りゅうほういん ◎龍宝寺りゅうほうじ龍隠庵りょういんあん霊光寺れいこうじ霊鷲寺れいしゅうじ蓮乗院れんじょういん ◎ ◎ : 鎌倉三十三観音霊場👈リンク ■ : 鎌倉二十四地蔵尊霊場 ▲ : 鎌倉十三佛霊場 ✦ : 鎌倉五山そして鎌倉市内の主要神社マップです。訪ねた【鎌倉神社 五十音別 早見表】をリンク(👈リンク)付きでこれも纏めてみました。 名称 👈リンク読み ア行相鎚稲荷社あいづちいなりしゃ相鎚稲荷社跡あいづちいなりしゃあと秋葉山大権現社あきばやまだいごんげんしゃ浅間神社(長谷)あさまじんじゃ(はせ)甘縄神明宮あまかすしんめいぐう厳島神社いつくしまじんじゃ稲荷社(山崎)いなりしゃ(やまざき)稲荷神社(稲村ヶ崎)いなりじんじゃ(いなむらがさき)稲荷神社(長谷)いなりじんじゃ(はせ)稲荷神社(台)いなりじんじゃ(だい)稲荷大明神(扇が谷)いなりだいみょうじん(おうぎがや)荏柄天神社えがらてんじんしゃ蛭子神社ひるこじんじゃ青梅聖天社おうめせいてんしゃ大江稲荷おおえいなり大蔵稲荷おおくらいなり岡本神社おかもとじんじゃ カ行鎌倉宮かまくらぐう鎌倉山神社かまくらやまじんじゃ北野神社きたのじんじゃ(旧)龍口明神社(元宮)(きゅう)りゅうこうみょうじんじゃ(もとみや)葛原岡神社くずはらおかじんじゃ熊野権現社(稲村ガ崎)くまのごんげんしゃ(いなむらがさき)熊野権現社(二階堂)くまのごんげんしゃ(にかいどう)熊野神宮(極楽寺)くまのじんぐう(ごくらくじ)熊野神社(手広)くまのじんじゃ(てびろ)熊野神社(大船)くまのじんじゃ(おおふな)熊野神社(朝比奈)くまのじんじゃ(あさひな)熊野神社(浄妙寺)くまのじんじゃ(じょうみょうじ)経六稲荷社けいろくいなりしゃ五社稲荷神社ごしゃいなりじんじゃ五所神社ごしょじんじゃ巨福稲荷大明神こふくいなりだいみょうじん子守神社こまもりじんじゃ小動神社こゆるぎじんじゃ サ行佐助稲荷神社さすけいなりじんじゃ三十番神宮さんじゅうばんじんぐう山蒼稲荷神社さんそういなりじんじゃ三寳稲荷さんぽういなり志一稲荷しいちいなり鹽釜神社しおがまじんじゃ十二所神社じゅうにしょじんじゃ正一位稲荷社しょういちいいなりしゃ白旗神社(雪ノ下)しらはたじんじゃ(ゆきのした)白旗神社(西御門)しらはたじんじゃ(にしみかど)白鬚社しらひげしゃ神明神社しんめいじんじゃ神明神社(台)しんめいじんじゃ諏訪神社すわじんじゃ銭洗弁財天ぜにあらいべんざいてん祖霊社それいしゃ タ行大六天社だいろくてんしゃ武内社たけうちしゃ巽神社たつみじんじゃ鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう常盤八雲神社ときわやぐもじんじゃ ナ行新宮神社にいみやじんじゃ ハ行白山神社(稲村ヶ崎)はくさんじんじゃ(いなむらがさき)白山神社(今泉)はくさんじんじゃ(いまいずみ)旗上弁財天社はたあげべんざいてんしゃ伏見稲荷神社ふしみいなりじんじゃ マ行丸山稲荷社まるやまいなりしゃ元鶴岡八幡宮もとつるおかはちまんぐう紅葉稲荷社もみじいなりしゃ ヤ行八雲神社(山ノ内)やぐもじんじゃ(やまのうち)八雲神社(西御門)やぐもじんじゃ(にしみかど)八坂神社やさかじんじゃ歓廣稲荷大明神よしひろいなりだいみょうじん ラ行龍口明神社りゅうこうみょうじんじゃ 追加 御霊神社(坂の下) ごりょうじんじゃ(さかのした) 御霊神社(梶原) ごりょうじんじゃ(かじわら)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーコロナ禍での常にマスク着用の散策でしたが、観光客はほとんどなく、一部の寺では見学を制限している建物もありましたが、マイペースでゆっくりと見学・写真撮影もでき早朝に訪ねた寺社旧蹟はほぼ独り占めでの見学が出来たのです。そして、いつもなら中国語、韓国語が行き交う鎌倉ですが、それも全く無い、人生最初で最後の『古都「鎌倉」を巡る』を心静かに満喫出来たのでした。今後、時間を作って我がブログを読み返し、本を参考にして再び鎌倉の歴史を学び直したいとも思っているのです。そして『エビングハウスの忘却曲線』を想い出したのです。「何かを学ぶ時、その知識があなたにとって意味のあるものであったり重要なものであったりした場合、1.暗記は楽である。逆にその内容があなたにとって意味のないものであれば、すぐ忘れる。2.学習に時間をかけると、吸収できる情報量も増える3.一度目の学習より二度目以降の学習の方が簡単になる。復習を重ねるごとに忘れにくくなる。4.一度にたくさん学ぶよりも、時間をかけて何度かに分けて学んだ方が、学習効率は上がる。5.学んだ直後から物忘れは始まる。最初は一気に忘れ、次第にゆっくりと忘れるようになる。」とネットより。【https://twitter.com/meditunes_net/status/1120531389978415104?lang=fr】より来年2022年放送のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」とのこと。主人公は鎌倉幕府の2代執権、北条義時。野心とは無縁だった義時が源頼朝との出会いをきっかけに政治の表舞台に登場し、武士の最高権力者へとのぼりつめる姿を描くとのこと。劇作家の三谷幸喜が脚本を担当し、小栗旬が主演すると。「伊豆の豪族の次男として生まれた義時の運命は、姉・政子が流人だった源頼朝と結婚したことで大きく変わる。頼朝の側近となって天下取りに加わり、平家に勝利。頼朝の死後、幕府は義時を含めた有力家臣13人による合議制へ。勢力争いで脱落する家臣が相次ぐ中、最後に最年少の義時が残る。「義時は野心や野望があったわけではなく、与えられた使命に悩んだり、苦しんだりしながら成長する。一癖も二癖もある人物に翻弄されながら、必死にぶつかっていく義時を小栗さんが演じている」とネットには。『古都「鎌倉」を巡る』を完了し、鎌倉の歴史についての知識がそれなりに増えた下で舞台となる寺社旧跡を想い出しながら、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しみたいと思っているのです。そしてこの後の隣接市の散策は、まずは海老名市そして寒川町、最後に茅ヶ崎市を予定しているのである。 ・・・もどる・・・ 『古都「鎌倉」を巡る』 完
2021.09.22
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今宵は「中秋の名月」。「中秋の名月」は、必ずしも満月なるとは限らないのだと。旧暦では新月の日を朔日(1日)としていた。そのため、月の満ち欠けの中間点にあたる15日が満月であると考えられていたのだ。実際には、月の公転軌道は楕円形で、新月(朔)から満月(望)までの日数は13.9日から15.6日と変化があります。2021年は、8年ぶりに中秋の名月が満月になったのだ。我が部屋からの「中秋の名月」は雲が邪魔して。時間は18:37。そして月の真ん中に赤道の如き線が。これはもちろん電線。時間は18:46。そして木星の姿も。そして雲のない場所に。時間は18:58。今年2021年は、久しぶりに満月を楽しめるお月見となったのだ。夕方18時頃に東の空から昇ってくる月は「望」から9時間ほど過ぎた月であると。そのため「望」の状態により近いのは、21日の未明から明け方に西の空に輝く月ということに。満月に近いのは「有明月」、名月は「宵月」ということになるのだと。【中秋の名月と満月の日時(望の時刻)】今年から2023年までの3年間は中秋の名月と満月の日付が一致すると。その後は、7年先の2030年まで待つことになると。●2021年名月・満月/9月21日(08:55)●2022年名月・満月/9月10日(18:59)●2023年名月・満月/9月29日(18:58)●2024年名月/9月17日満月/9月18日(11:34)●2025年名月/10月6日満月/10月7日(12:48)●2026年名月/9月25日満月/9月27日(1:49)以下もネット情報です。月の模様の見え方は世界でさまざま古くから身近な天体として人々に親しまれてきた月。丸い月を肉眼で見た時に、薄暗い影のような模様を餅つきするウサギの姿に見立てることが日本では多いですよね。「月にいるウサギ」の存在は、古くは「今昔物語」にも記述されていて、古来インドの伝説が中国から伝わったとも言われています。月は、地球に対して同じ面を向けて回っているので、世界中どこからでもほぼ同じ月を見ることになります。しかし、この模様を「ウサギ」に見立てるのは、世界共通ではありません。ロバやカニ、ライオンなど他の生き物の姿だったり、女性の横顔や本を読むおばあさんだったり、さまざまです。 また同じウサギでも、日本では餅をついている姿が一般的ですが、中国では薬草をひいていると言われているとか。同じ月の模様が、それぞれの文化や風習によって違う見え方になるのは興味深いですね。 ちなみにこの月の薄暗い部分は、「月の海」と呼ばれ、「雲の海」や「晴れの海」などそれぞれ名前が付けられています。海といっても水ではなく、黒い色の玄武岩と呼ばれる岩石です。白っぽい部分は「月の高地」とも言われ、白い岩石でできているので明るく見えます。以上で、「月」に関する夜間講座を終了致します。それでは「ひとり家呑み」で。 ・・・燗・・・
2021.09.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクそして「今小路」を歩き、鎌倉駅西口に到着。この日は江ノ電を利用して帰ることに。江ノ電鎌倉駅ホームの壁にあったポスター。そして幸運にも先頭車両の最前方の座席に陣取る。定刻に出発し極楽寺駅手前の「極楽寺トンネル」に入る。1907年(明治40年)に建造されたレンガ造のトンネルで、設計は土井治男による。平成22年11月24日に鎌倉市景観重要建築物33号に指定された。江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄株式会社は1902年(明治35年)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本で最古になる。極楽洞の極楽寺駅側は レンガ造りの抗門で、桜橋から見ることができるのだ。江ノ電唯一のトンネルで、藤沢方は「極楽洞」、鎌倉方は「千歳開道」という名前を持っているのだと。これは、桂内閣で大蔵大臣だった曾禰荒助氏が「極楽洞」を、元内閣総理大臣の松方正義が「千歳開道」を揮毫したからなのだという。「極楽洞」出口から朱の欄干の「桜橋」を見る。稲村ヶ崎駅を出て。そして海岸に出て国道134号に沿って進む。車窓から江の島の勇姿を見る。「七里ヶ浜駅」に入る。更に進み、前方の「小動岬」をズームで。「江の島」を再び。富士山の姿は見えなかった。七里ヶ浜駅 - 鎌倉高校前の行き違い場所・峰ヶ原信号場。早朝と深夜を除いて鵠沼駅・江ノ島駅・峰ヶ原信号場・稲村ヶ崎駅・長谷駅で必ず列車の行き違いが行われるここが駅以外の唯一の行き違い場所・峰ヶ原信号場。複線の行き違い場所に入る鎌倉駅行きの電車をズームして。江の島もここで見納めで江ノ電は海岸線から離れて行く。右手に以前訪ねた「満福寺」👈リンク。そして前方に「腰越駅」。隣接する江ノ島駅付近からここ腰越駅までは併用軌道になり、江ノ電は道路上を走るのだ。商店街の道路の真ん中を鉄道車輛が堂々と走る光景は、この鉄道の代表的な景色として定着している感があるのだ。しかし、江ノ電にはこの区間の他にも、併用軌道が3箇所存在している。それは、極楽寺-稲村ヶ崎 間、稲村ヶ崎-七里ヶ浜 間、七里ヶ浜-鎌倉高校前 間の一部にあり、こちらは線路が道路の路肩に寄り添うようにバラスト道床で敷かれているため解り辛いが、ここも併用軌道の扱いになっているとのこと。稲村ヶ崎駅~極楽寺駅(極楽寺検車区)間の併用軌道区間。最近撮り鉄の言動が何かと話題になった龍口寺交差点が前方に。「電車接近」の警告灯が表示されていた。前方が国道467号。交差点を横断し江ノ島駅に入って行く。江ノ島駅に到着。江ノ島駅の踏切。左に進むと「すばな通り」を経て「江の島」へ。江ノ電の境川橋梁(鵠沼鉄橋)。下を流れる「境川」。鎌倉駅行きの電車が「鵠沼駅」に入る。そして複線になりホームへ。前方に藤沢駅駅舎が現れた。駅構内に入る。そして藤沢駅にあった夕焼けのポスター。「江ノ電藤沢駅」。藤沢市の下水管マンホールの蓋。歩道面仕様で、中央に藤沢市の市章、その周りに市の花フジをデザイン。そしてJR藤沢駅のコンコースにあった「東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺」。「東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺山腹の堂々たる甍は時宗の総本山清浄光寺。一遍上人が全国を遊行し修行を重ねたことにちなみ、遊行寺の名でられた名刹である。一方手前にあるのは、江島弁財天の鳥居である。杉山検校が、鍼術を弁財天から授かったことから座頭の参詣が絶えなかった。さらに境川にかる大鋸橋には、納太刀をかついだ大山詣の一行が見える。神社仏閣を訪ねる人々の旅は、今も昔も変わらない。」「旧東海道・藤沢宿」案内。「ふじさわ宿交流館」案内ポスター。そしてこの日の散策ルート。この日の歩数は24,125歩であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「葛原岡神社」、「日野俊基卿墓」を後にして、「源氏山公園」に向かって進む。「源氏山公園案内図」。「現在地」「源氏山」は白旗山または旗立山とよばれたこともあると。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがある。春には桜、秋には紅葉が楽しめるのだ。北鎌倉、大仏へぬけるハイキングコースがあり、近くには葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷等がある。-----がこの日に歩いた源氏山超えの道なのである。「源氏山公園管理詰所」が左手に。その先に、以前に上って来た「化粧坂切通」👈リンク の下り入口が左手に。そして「源氏山公園」の「源頼朝像」👈リンク。ズームして。「源氏山公園」から下って「寿福寺」の裏にある「源実朝・北条政子墓」を目指す。右手には大きな「源氏山公園トイレ」があった。案内に従い「寿福寺、鎌倉駅」方面に歩を進める。この辺りは石畳の整備された道が。しかし途中からは、これぞ「山道」が。そして「山道」の脇、右手にあったのが「太田道灌公の墓」。「太田道灌」の「首塚」、「供養塔」とも言われていると。近づいて正面から。「太田道灌公の墓江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となリ、徳川家を支えました。彼女は出家後に英勝院と号し、三代将軍徳川家光よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。この太田道灌公の墓は文政九年(1826年)に水戸徳川家の子孫てある英勝寺住職が以前の墓を再建したものてす。」「太田道灌齋大居士」と刻まれているのであろうかそしてさらに進む。この先から、切通しの如き光景になり急坂が始まった。崖の下には大きな五輪塔のある墓地の姿も。ズームしたが・・・。更に下り坂を進む。この付近から岩肌が剥き出しになった切通しの如き坂道が。そして石段を下りると、「寿福寺」の大きな墓地が広がっていた。「デベッカ家の墓所」。小林 米珂(こばやし べいか、1863年7月 - 1929年2月10日)は、明治時代に日本に帰化したイギリス人の法律家。ジョージ・ベイカーというアメリカ人牧師として来日したとも言われるが、Joseph Ernest De Beckerの名で日本の性風俗や法律についての著作を出した。小林米珂名義で日本で弁護士登録し、鎌倉海浜院ホテル、日清蓄音器、帝国木製、帝国船舶の取締役のほか、鎌倉で不動産業を営んだ。デベッカー、デベッカ、米河、米加とも。高濱虚子の大家でもあったと。デベッカ家の墓所の先の石段を下りて振り返る。寿福寺の広い墓地が広がっていた。多くの墓が「やぐら」の中に。「池田家」の墓。恒達家?の墓。そして「大佛次郎(おさらぎじろう)」の墓。柵で囲いを作った一角に二基の墓石が建っており、一基が大佛次郎、もう一つは大佛の父である野尻政助の墓であった。「大佛次郎墓」。右側面には、「昭和四十八年四月三十日 野尻清彦」と本名で没年が刻まれていた。その左に「昭和五十五年五月十九日 妻 酉子云」と。映画女優だった妻吾妻光の本名(原田酉子)が記されており、二人がここに寄り添って眠っていることがわかるのであった。裏面には「昭和四十八年六月建立」一昨年、横浜・山手にある「大佛次郎記念館」👈リンク を訪ねたのであった。そして「源実朝・北条政子墓」に向かって墓地の中を進む。この寿福寺の背後の山腹には30穴からなるやぐら(横穴墳墓)群が。そして「北条政子の墓」に到着。「源頼朝公夫人 〇〇○ 北条政子 (現在)静岡県伊豆韮山町」「五輪塔」。桔梗の花が手向けられていた。そして「源実朝の墓」。「源実朝」は、「鶴岡八幡宮」の大イチョウの木に隠れていた、 二代将軍・源頼家の子・「公暁」に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶したのだった。「五輪塔」源実朝の「やぐら」は、牡丹唐草の文様が彩色されていたため「唐草やぐら」とか、「えかきやぐら」と呼ばれていたという。「源実朝の墓」の隣のやぐら内にも立派な五輪塔が。そして「源実朝・北条政子墓」を振り返る。帰路の大きなやぐらの中にあったのが「高浜虚子」の墓。深閑としたやぐらの中に、「紅童女墓」(孫娘)、「白童女墓」(四女)を左右に並べた真ん中に椿寿居士「虚子の墓」が。本名=高浜 清(たかはま・きよし)明治7年2月22日—昭和34年4月8日 享年85歳(戒名:虚子庵高吟椿寿居士)❖虚子忌・椿寿忌 墓地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17–7 寿福寺(臨済宗)墓石には「虚子」と刻まれていた。塔婆には戒名の「虚子庵高吟椿寿居士」の文字が。墓参者用の「御名刺受」も備えられていた。「森田愛子」👈リンク の墓。森田愛子は29歳で亡くなった俳人で虚子の孫弟子。「森田愛子之墓」という文字は、高浜虚子が書き、墓標は高浜虚子の墓の方へ向けて建てられていると。「紅梅の花一ぱいに蕊ひらき」、1931年(昭和16年)鎌倉の寿福寺で詠まれた句。そして寿福寺の山門に向かって進みながら墓地を振り返る。「寿福寺」の「中門」。「鐘楼」。「参道」。「総門」を境内から。「総門」。「庚申塔群」。そして鎌倉駅に向かって「今小路」を進むと「えびす屋」の人力車が。2名で60分貸し切りで17,500円と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.20
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「葛原岡(くずはらおか)ハイキングコース」の急な山道を歩き切り、「葛原岡神社」(くずはらおかじんじゃ)前に辿り着く。「葛原岡神社葛原岡神社は、後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕のために活躍した『日野俊基卿』を祀る神社として、明治の初めに創建されました。俊基卿は、学問に優れていたことから学問の神様として、また建武の新政への道を開いたことから、開運の神様として崇められています。境内には良縁にご利益がある縁結びの『男石』・『女石』があり、あらゆる縁を求めて、多くの方が参拝されています。また、鳥居に向かって右手の石は『魔去ル石』といい、魔が去るように願いを込め、盃をこの石に当てて割れば、幸せを勝ち取れるとされています。漫画「鎌倉ものがたり」の中では、葛原岡に棲む魔獣が心中を図る一家を救うかわりに一目惚れしたその一家の娘を妻にしようとすることで起こるトラブルの話に登場します。」と『鎌倉ものがたり』に。「葛原岡・大仏ハイキングコース」案内図。鎌倉大仏から源氏山・葛原ヶ岡を抜けて北鎌倉の浄智寺までのハイキングコース。鎌倉大仏側のハイキングコース入口から大仏トンネルを渡れば、極楽寺へも行ける。中間地点の源氏山公園からは、人気の銭洗弁財天宇賀福神社・佐助稲荷神社へと下る道、仮粧坂から海蔵寺へと下る道、壽福寺へと下る道などがある。上の写真は判りにくいので、別図で「葛原岡・大仏ハイキングコース」を。地図の向きは逆であるが、現在地は②・「葛原岡神社」。-----を通り①~②の山道を歩いて来たのだ。 【https://airisu745.info/kamakura-hiking/】より社号標石「葛原岡神社」。「魔去ル石魔が去るように願いを込め盃をこの石に当てて幸せを勝ち取りましよう。「魔が去る」が転じてして「勝(まさる)」ということで幸せを勝ち取る石です。」「初穂料 盃一枚 100円」とのこと。「初穂料」とは、神様にお供えするお金のこと。古来、日本は稲作中心の文化であり、神様へ感謝の気持ちを込めて、その年初めて収穫された稲穂(初穂)をお供えしていた。貨幣が生活の軸となってからも、もともとの意味を尊重して「初穂料」という言葉が使われていると。「授与所(じゅよしょ)」。 以前に頂いた御朱印です。「葛原岡神社」の石鳥居。「葛原岡神社 KUZUHARAOKA SHRINE 鎌倉市山の内東瓜ヶ谷本社祭神 SAIZIN 日野俊基 朝臣 HINOTOSHIMOTOASON 文章博士 従三位 蔵人右少辨 建武の中興A.D.1333年(元弘3年)を計画し、不幸にも1331年鎌倉幕府の北条高時に捉えられ 其の完成に会はず中途で悲愴な最期をこの葛原ガ岡で遂げられた忠臣(A LOYAL)である。 社殿は、明治天皇の思召により、地元有志の方々の骨折で、全国の崇敬者の協力を得て、 明治21年に創建された。 例大祭は、御命日の6月3日、神前祭、墓前祭が行われる。この6月3日に近い土曜日に 氏子区域になっている由比が浜で宵宮祭が行なわれ、日曜日には大御輿、子供御輿が 氏子区域を巡るお渡り神事が行なわれる。 御祭神は、学業成就、除災招福、交通安全などの神として崇められて居る。摂社祭神 報徳豆大黒天 福福恵比須神 健康と繁栄を招く神 御神体の木像は、二宮尊徳翁邸内の樟で作られたと伝えられる。」既に咲き終わった鉢植えの花菖蒲が並んでいた。鳥居を潜ると左手にあった「女石」・「男石」。右側の「男石」。社務所で赤い糸の付いた五円玉を授与していただき、これを縁結び石に結び付ければ、神様との縁が結ばれ、ご利益が授かると。勿論、「五円」は「ご縁」に結びついているのだ。これぞ「男石」の形なのであった。左側の「女石」。縁結びの神として名高い「大黒様」。特にここに祀られている御神体の木像は、二宮尊徳邸内のクスノキで造られたと伝えられる由緒あるもので、これだけでもパワーが頂けると。そして更なるパワーアップのために、平成22年に改めてその御霊を“男石”と“女石”にお迎えして「縁結石」として祀った と。「恋みくじ」より縁結び効果が高まるように「縁結び絵馬」に願いを込めて奉納すると。ハート型の絵馬には、「わたし」「あなた」とそれぞれ名前を書く欄があるので、結ばれたい相手が決まっている人は、それぞれ名前を書いて奉納するのだと。ハート型絵馬の初穂料は八〇〇円。様々な願いが。手水場。参道。参道横の「合鎚稲荷社(あいづちいなりしゃ)」。この石鳥居は元々は無量寺谷の赤尾好夫邸にあった。赤尾好夫邸跡が現在の鎌倉歴史文化交流館に改装される際に遷座した。今、鎌倉歴史文化交流館となっている赤尾好夫邸跡は相州刀鍛冶の正宗の子孫が小田原の後北条氏第2代当主・北条氏綱から与えられた無量寺ヶ谷の屋敷跡であると考えられ、その地に鎮座していた。以降、刀匠・山村氏は「氏綱」から1字を賜り、代々「綱廣」を世襲することになった と。社号標石「合鎚稲荷社」。「合鎚稲荷社」の社殿。葛原岡神社の境内にある合鎚稲荷社は、鎌倉時代の鍛冶職人(刀工)、五郎入道正宗に縁のある稲荷社だという。戦国時代、正宗の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ、そこを屋敷とした。その屋敷跡とされる場所に大正時代に建てられたのが合鎚稲荷社だという。現在の鎌倉歴史文化交流館がある場所に「合鎚稲荷社」👈リンク はあったと。2013年(平成25年)に葛原岡神社へ移された(現在の建物は新たに造られたもの。)のだと。「葛原岡神社」の社殿に向かって進む。「葛原岡神社御祭神 日野俊基卿例大祭 六月三日お渡り神事 六月三日に近い日曜日 於 鎌倉 由比ガ浜御由緒 鎌倉幕府の執政を北條氏から後醍醐天皇の親政にしようとして幕府に捕えられ元弘ニ年 (一三三ニ年)この葛原岡にて露と消えられた。 太平記、俊基朝臣再び関東下向の事に名文が綴られている。辞世の頌 秋を待たで葛原岡に消ゆる身の 露のうらみや世に残るらん 古来一句 無死無生 萬里雲盡 長江水清 【訳】古来に一句あり、死も無く生も無し、萬里(広い)空の雲が尽きるところ、 長江(揚子江)の水は清し御墓所 参道大鳥居の手前約五十米左手の小高い処にあり史跡に指定されている。」上記の二つの句は、相反する気持ちを歌っている。最初に、自分の偽らざる想いを歌い、その後に潔く死ぬための詩をうたったのではないだろうか。折しも、神官が朝の勤めを。社殿の左前にあった墓石。「俊基卿終焉之地」と刻まれた石碑。「俊基卿終焉之地鎌倉幕府に捕らわれた日野俊基卿は元弘ニ年(一三三ニ)六月三日この地で悲しい最期を遂げられる。」社殿を斜めから。中央に「昇運の神龍」。旧本殿に納められていた、願い事を叶えてくれるという「昇運の神龍」。「昇運の神龍御本殿を御造営する際、旧御本殿に納められていた神龍で、百二十年間御祭神をお護りして来ました。神様のお使いとして願い事をより早く届けていただくようお参り下さい。」神官の朝の勤めが終わった後の社殿を再び。参道の右側の休憩所にあった句碑。「鎌倉に 雪ふる 雛乃 別れかな 翠舟」。 宮下翠舟句碑。平成2年10月14日建立と裏面に 。「源氏山公園掲示板」。現在地から源氏山公園の源頼朝像までのルートマップ。「こもれび広場」。多くの木製ベンチがあったが、休憩している人はたった1名のみ。進んで行くと右側にあったのが「国指定史跡 日野俊基墓入口」碑。「国指定史跡 日野俊基墓 指定 昭和二年四月八日 日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣、後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加した。正中の変 (一三ニ四)に捕らえられ、許されたが元弘の乱(一三三一)の時、再び捕らえられ 鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。」「史跡 日野俊基墓」碑。「史跡 日野俊基墓」と鎌倉青年會の石碑。「俊基朝臣墓所」「藤原俊基朝臣ノ朝権ノ回復ヲ図リテ成ラズ 元弘二年(1332)六月三日 北条高時ノ害ニ遭ヒ 秋ヲ待タデ葛原岡ニ消ユル身ノ露ノ恨ヤ世ニ残ルラン ト永キ恨ヲ溜(タ)メタルハ此ノ処ナリ」【藤原俊基(としもと)は、政治権力を鎌倉幕府から朝廷へ取り戻そうと計画しましたが、このことが見つかり、捕らえられ鎌倉に送られました。そして1332年6月3日に、幕府の命令により、この場所で処刑されました。 その時の辞世の句が「秋を待たで葛原岡(くずはらがおか)に消ゆる身の露の恨(うらみ)や世に残るらん」であり、ここは深い恨を残した場所です。】日野俊基の墓の横に建つ「贈従三位日野公墓碑銘」石碑。明治17年(1884年)銘日野俊基が殺害されたのは元弘2年(1332年)であるから死後552年後に階位が上がった。四階級特進であるのだ と。日野俊基墓を正面から。ここも神官が朝の勤めを行っていた。日野俊基墓の宝篋印塔。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.19
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「光照寺」を後にして、県道21号線・横浜鎌倉線に向かって歩く。前方に橋の姿が。「宮の台橋」。下を流れる川。「小袋谷川(こぶくろやがわ)」。小袋谷川とは、神奈川県鎌倉市の小袋谷、山ノ内、大船などを流れ、柏尾川と合流する鎌倉市管理の河川。県道21号線・横浜鎌倉線に出て右折して北鎌倉駅方面に進む。左手にあったのが「鎌倉小坂郵便局」。鎌倉市山ノ内739。JR横須賀線の北鎌倉駅から歩いて5分、「鎌倉小坂郵便局」は1899年(明治32年)に山ノ内郵便局として開局。初代の局舎は関東大震災で壊れ、2代目は母屋の一部を局舎に。3代目は1938年(昭和13年)に建築、現在の建物は4代目になる。蔵造りのような堂々たる「鎌倉小坂郵便局」の入る建物は、元々あった建物の面影や雰囲気を残す設計で造り替えられたのだと。「鎌倉小坂郵便局」はこの建物の一階で営業しているのであった。昭和な「丸ポスト」も懐かしくかわいいのであった。写真では判りにくいが、美しい勾配を持つ「むくり屋根」と白壁、重厚な造りが目を惹くのであった。「むくり屋根」とは緩やかに上向きの弧を描いて軒先へと落ちて行く構造の屋根。「北鎌倉女子学園前」交差点を右折する。プレートには「北鎌倉女子学園 入口」と。私が高校生の時は「北鎌倉高等学校」と称していたが昭和53年(1978)9月学校名を「北鎌倉女子学園高等学校」に変えたとのこと。併設中学校もある女学校。進んでいくと、小袋谷川に架かる「藤源治橋」。この地には刀鍛冶藤源治の屋敷があり、刀鍛冶職人が大勢住んでいたことからの命名であるようだ。そして右側にあったのが入口の壁が黒く塗られた建物。Googleマップではアートギャラリー「雨 北鎌倉」と表示され訪ねたのであったが現在は「カフェ「COTONOHA (コトノハ)」」に変わっているのであった。ガラスの出窓には「花手水」の如き作品が。店の前の駐車スペース。ネットによると、古民家ナチュラルカフェの「COTONOHA(コトノハ)」は今年2021年2月8日(月)に、北鎌倉で肉好きでも楽しめるヴィーガンカフェとしてリニューアルオープンしたと。ヴィーガンカフェ&レストランは、動物性食材(鳥肉・魚肉・その他の魚介類も含む)・卵・乳製品・白砂糖を使わず料理を提供する店のことと。加えて、添加物や化学調味料なども使わずに植物由来・天然食材を使って調理をしているのだと。3店舗目となる「COTONOHA」は、地元の鎌倉野菜をふんだんに使い、見た目も鮮やかなヴィーガンメニューを用意していると。ネットによるとヴィーガンとは、食事においても日常生活全般においても、動物性食品や製品を使わずに生きることを選ぶ人。肉と魚だけでなく、卵や乳製品といった動物に由来する製品を摂取しない。ハチミツもアウトなのであると。ヴィーガンとベジタリアンの違いは?ベジタリアンより更に上?の「完全菜食主義者」?そして再び県道21号線・横浜鎌倉線に戻り更に北鎌倉駅方面に向かう。「十王堂橋(じゅうおうどうばし)」を渡る。昔、この付近に「薬師堂」と「十王堂」が有った事から「十王堂橋」の名が付いたと言われている。今は「薬師堂」も「十王堂」も無く、この橋に「十王堂」の名称が残るのみであると。そして左手に「JR北鎌倉駅」。更に進み、「円覚寺」👈リンク への入口前を通過。JR横須賀線の踏切の先に「円覚寺 総門」が垣間見えた。その先、右手には「東慶寺」👈リンク。「文学案内板 東慶寺東慶寺 は、文学に大変ゆかりの深い寺で、江戸時代より紀行文や川柳に描かれ、明治以後は小説 、短歌 、俳句など、多数の文学作品に描かれています。また、境内や墓地には文学碑や文人の墓が多いことでも知られていますが、この案内板では、寺内の文学関係碑と文人などの墓を紹介しました。●文学関係碑(五十音順)朝比奈宗源 漢詩碑·太田水穗 歌碑·三枝博音 句碑·四賀光子 歌碑·釈宗演 と佐佐木信綱 歌碑・高見順 詩碑・田島絹亮句 碑・田島房子 歌碑・田村俊子 記念碑·徳富蘇峰 漢詩碑·中村汀女 句碑·野田大塊 句碑·真杉静枝 墓背誌·松下隆章 句碑●文人の墓「現代日本文学大辞典」明治書院 収録者)安倍能成 (哲学者)・岩波茂雄(岩波書店創業)・太田水穂(歌人)・川田順(歌人)・小林勇(随筆家)・小林秀雄(文芸評論家)・三枝博音(哲学者)・亡志心亡(小說家)·佐佐木茂索(小說家)·四賀光子(歌人)·神西清(小說家·翻訊家)·鈴木大拙(教学者)·高見順(小說家)·田村俊子(小說家)・西田幾多郎(哲学者)・野上豊一郎(英文学者)・野上弥生子(小説家)·真杉静枝(小說家)·和辻哲郎(哲学者)尚、詳細は鎌倉文学館(鎌倉市長谷)にご照会ください。平成二年三月鎌倉市教育委員会鎌倉文学館」石段の上に「東慶寺 山門」。前方にJR横須賀線の「第三鎌倉道踏切」が姿を現した。踏切手前を右折し、「鎌倉五山 第四 浄智寺」方面に進む。「浄智寺」👈リンク が建立されたのは弘安4年、1281年。北条正宗、北条師時が開基。吾むした参道の階段や、階段の上に鐘楼がある珍しい山門がある寺。正面に「総門」。総門手前の古い石橋のたもとにある鎌倉十井の一つである「甘露ノ井」。「甘露ノ井」碑。この日は立ち寄らずに脇の坂道を上って行った。浄智寺の山門は、中国式鐘楼門といわれる珍しい様式の門。右手に拝観受付。本尊の三世仏を安置する曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿。 更に上っていくと、目指す「源氏山公園 850m先」の案内表示。「北鎌倉 宝庵」の案内表示。茶室「宝庵」、「たからの庭」、「たからの窯」の案内板。風情ある苔門の宝庵の入り口。苔むした屋根が美しい門。普段は非公開であるが、門が開いていたので中に入らせて頂く。正面に「宝庵(ほうあん)」。廻り込んで。「宝庵」の茅葺きの「夢窓庵」は、京都高台寺・遺芳庵を模して昭和9年に造られた。利休考案とも言われる一畳台目の小間は、最小にして究極の茶室であると。「北鎌倉 たからの庭」案内図。 【https://takarano-niwa.com/free/rental】より「レンガ煙突」が前方に。「母屋」。「たからの窯」。そして急ぎ足で引き返して山門の屋根の苔にフォーカス。更に進み、右手に入り葛原岡ハイキングコースの浄智寺から葛原岡神社への山道を上って行った。葛原岡ハイキングコースは葛原岡・大仏ハイキングコースの北鎌倉側の半分のコースを指し、北鎌倉の浄智寺から葛原岡神社・源氏山公園へ抜ける約1kmのコース。浄智寺からしばらくは民家が点在する舗装道。そこを過ぎてつづら折りの坂を上ると山道に入る。距離は短いですが、木の根が這う歩きにくい場所や急坂もあるハイキングコースなのであった。左奥には切通しの如き場所も。ここを歩くのは2回目。葛原岡神社・源氏山公園まで300m。しかしこの先は急坂が続くのであった。そして小高く盛り上がった場所には巨石があり、その近くに五重塔と石碑が2基建っていた。ここが葛原岡ハイキングコースの最高峰であっただろうか。「天柱峰碑」。昭和16年に建立と。やや傾いて?いたが。「天柱」とは「世を支える道義」のことだと。浄智寺背後にある標高97mの「天柱峰」は、中国の元の僧で浄智寺の住職も勤めた竺仙梵僊(じくせんぼんせん)が名付けたと建長寺二世の兀庵普寧(ごったんふねい)はここからの景色を愛し、麓を終焉の地と定めて塔所「楞伽院(りょうがいん)」を構えて詩文集「天柱集」を著した。この人物、建長寺の本尊の地蔵尊を、地位が低いからと拝まなかったりしたそうで、しばしば物議を醸し、もめごとが多かったそうで、「ごったん」の名から「ゴタゴタする」という言葉の語源となったのだと。「五重石塔」かっては金峰松(金宝松とも)と呼ばれる老松があり、由比ヶ浜を往く漁師たちも海上から拝んだと言うが、今はない。浄智寺の山号「金峰山」は、この松に由来したともいい、逆に松の名が山号に由来したとも。「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(昭和16年(1941年)銘)。「笠仙(僊)梵僊和尚は元の来朝僧なり 建武元年 浄智の詔を受け 天柱峯下に楞伽院を剏し 興国二年 旨を奉じて南禅に住す 正平三年 病を以て事を謝し 再び楞伽院に回りて寂す 全身を最勝塔に 葬る 語録天柱集は五山文学の白眉と称せらる楞伽院常住 笠僊」。苔生した巨岩。「竺僊梵僊和尚顕彰碑 」・「天柱峰碑」・「五重石塔」を振り返る。葛原岡神社・源氏山公園まで200m。山道を更にひたすら進んで行った。足元には岩場も。先達の歴史を感じさせる岩の凹みなのであった。「瓜ヶ谷(うりがや)やぐら群」。ハイキングコースからのルートは見つけることが出来なかった。以下の写真は以前に北鎌倉駅近くからの別のルートで9月初めに訪ねた時の写真であるが。この時は鎌倉市山ノ内の山合の坂道横の入口から坂道を下って行った。雑草が生い茂った獣道の如き道を進む。大きな樹木も倒れかけて。前方に小さな水田が。道なき道を蜘蛛の巣を掻き分けて進む。そして入口から5分ほどで急な上り坂、いや崖が現れた。ロープが準備されていたが、ロープなしでは上れなかったであろう。そして現在でも、殆ど管理がされていないのであろうか?そして眼前に目的の「やぐら」が漸く姿を現したのであった。「瓜ヶ谷やぐら群」5穴のうち、最大なのがこの「地蔵やぐら」と呼ばれるやぐら。中央に丸彫りの地蔵菩薩が安置され、五輪塔や仏像などの壁面彫刻も多彩なのであった。「丸彫りの地蔵菩薩」。八畳程度の広さであっただろうか。壁には五輪塔が収められていた(正面左側)。正面右側も同様に。「やぐら」内部から入口を見る。左手の「やぐら」とは内部で繋がっていた。「地蔵やぐら」の右横の「やぐら」内部にも五輪塔が。内部の壁の横穴。その隣の「やぐら」。「やぐら」が続く。この「やぐら」は半分以上入口が埋まっていた。内部にはこれも五輪塔の一部であろうか。そして帰路に見つけた害獣のトラップ。そして以下はこの日の散策に戻って。木の根が這う坂道を更に進む。漸く本格的な下りへと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク鎌倉市台地区の住宅街を進むと、「稲荷神社」の案内板があった。そして更に進んで行くと「稲荷神社」への石段が姿を現した。鎌倉市台1795。石段を上っていくと、石鳥居が見えた。右手に手水舎。石鳥居を潜って更に奥に進む。右手にあった「漱石庵主人」の句碑。「露ふん亭(で)行くや鎮守の朝詣」「漱石庵主人」とは小野田泉里(1873~1959)のこと。泉里は、ここ台村に生まれ、農業の傍ら俳句を学んだという。「露ふん亭行くや鎮守の朝詣漱石庵主人(大正七年建立)小野田泉里(明治六年~昭和三十四年・一八七三~一九五九)本名は小野田源郎、俳号を泉里または漱石庵と称し人で、台村に生れました。農業を営むかたわら同じ台村の俳人山ノ井高月について俳句を学び、活発な句作を続け、約ニ千近くの俳句を残しています。泉里の俳句仲間との交流は広く、地元の台村のほか、鎌倉全域、横浜、横須賀須方面にも及んでいます。また、泉里の子息の小野田亮太郎も、俳号を雪里と称して句作し、父子ともに俳句に親しみました。この句碑の句のほか、泉里の俳句を少し紹介しますと次のようなものがあります。東雲や四隣の静に露の置く古寺の須弥壇くろし蚊喰鳥張板の布かびにけり五月雨笹光白旗山や冬の月この台村方面では、泉里・雪里親子のほか、明治から大正にかけて地元の俳人の活動が盛んで多くの俳人たちが出ています。泉里の師であった山ノ井高月は、名を山ノ井高次郎といい、安政三年(一八五六)に生まれ、台村で農業の合間に早くから俳句を学びました。鎌倉群内で多数の俳人と交流して、多くの俳句を残していますが、特に台村では俳句の先輩として仲間の育成に努力し、十数人の俳人が生まれる契機を作った人です。このほか台村には岩崎里京(房吉)、根本烏暁(長平)、葉山一葉(作冶郎)、山本秋好または茶木(千秋)などの俳人が活躍しています。」「社殿」1847年(弘化4年)の「社殿」再建の勧進状には、山城国飯成山に鎮座する神を承久年間(1219~1221年)に勧請したとあるようだが、神社の起こりの詳細は不明。鎌倉国宝館には、稲荷神社の本地仏であったと考えられる地蔵菩薩像と木造稲荷明神騎狐像が寄託されている。祭神は受気母知命(うけもちのみこと)。内陣。「根本萬蔵(ねもとまんぞう)之碑」。裏面に刻まれた碑文『明治十年四月八日於肥後國山本郡植木村戰死 明治二十九年二月十五日 根本佐太郎』から、西南戦争に従軍された人物なのであろう。庚申塔も境内に。円頂板状庚申塔。月日・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿正面右側「奉納庚申供養」 〃左側「享保二十乙卯十一月吉日」享保二十年は1735年。五輪塔であろうか。スマホの案内に従い、狭い道を次の目的地の「光照寺」に向かって進む。カーブの先に「光照寺」の屋根が姿を現した。ブロック塀には「時宗 光照寺」と。そして廻り込み「光照寺」の「山門」前に到着。ここ光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあったそうです。鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江の島に通じる街道筋に一夜の野宿をし、翌 日江ノ島に至り、そこで踊念仏を修したと伝えられていると。その際に野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、一遍上人法難霊場となっているのだ。下の画像は「一遍上人絵伝」の一部であるが、画像の左側には鎌倉入り出来なかった一遍の一行が野宿している場面が描かれているのだと。そして、この野宿場所に建てられたと伝わるのがここ「光照寺」であると。 【http://kamakurasakura.com/tannpou/syakunagedera.html】より寺号標石「時宗 西台山 光照寺」。鎌倉市山ノ内827。この寺を訪ねるのは今回が初めてであった。光照寺(こうしょうじ)時宗の開祖一遍上人が、念仏布教のために鎌倉に入ろうとしたのを執権北条時宗の警護の武士に阻まれ、野宿した地に建立されたといわれる寺です。山門の欄間には、キリスト教の十字を意味する「クルス紋」が掲げられ、隠れキリシタンを受け入れていた伝承も残されています。本堂の周辺には、たくさんのシャクナゲが植えられ、別名「しゃくなげ寺」と呼ばれています。ほかにも、ハギ、ユキヤナギ、レンギョウなど、四季折々の花を楽しめます。● 宗 派:時宗(じしゅう)遊行寺派● 山号寺号:西台山英月院光照寺● 開 山:一向俊聖上人(いっこうしゅんしょうしょうにん)境内の「カンヒザクラ(寒緋桜)」をネットから。 【https://www.kamakuratoday.com/suki/jion/22.html】より「山門」の手前右手には、江戸時代より続く「子育て地蔵尊」が。「南無阿弥陀仏」碑。「山門」豊後竹田の「岡城」👈リンク の三代目城主、中川久清が建立した臨済宗早雲寺末東渓院(明治維新時の廃仏毀釈により廃寺となる)の門であったがこれを移築したものであると。「くるす門」碑。欄間には中川氏の家紋のひとつである「中川クルス紋」が掲げられていた。江戸時代には一遍上人の“信じる事ができない者さえ阿弥陀如来はお救いくださる”との信念により、鎌倉周辺の切支丹を光照寺檀徒として匿って(かくまって)きました。 40年近く前、切支丹の研究家でもあったルメ神父の調査を受け、切支丹が寄進した燭台やクルス紋を確認したと。ルメ神父の調査によると、江戸時代の切支丹が書き残した文書の中に鎌倉郡光照寺の名が残っていた と。この紋は I H S というアルファベットを図案化したものであると。中川家は、幕府から、「この家紋は十字ではないか」ととがめられたために外側にもう一つ○を加えて、「この家紋は馬の轡(くつわ)を模した家紋である」と弁明した。そのために別名を轡紋とも言う。中川家臣団にはこのように十字をあしらった家紋を持つ家が多いのが岡藩の大きな特徴の一つであると。ラテン語の Iesus Hominum Salvator「人類の救い 主イエス」の頭文字。IHSに「太陽のコロナ」、「十字架につけられた三本の釘」と「十字架」が加わるとイエズス会の紋章になる。それは北鎌倉の東慶寺にある葡萄蒔絵聖餅箱の蓋の文様でもある と。あるいはギリシャ語のイエス=キリストのラテン語表記、 Ihsouz Xristoz の、最初の三文字IHSであるとも言われている と。 【https://twitter.com/tubulerbells/status/1200294969124081664】より「I H S 」というアルファベットを図案化したもの。縦にI、横にHで十字架を表現、内側の◯はSを表現していると。幕府から、「この家紋は十字ではないか」ととがめられたために外側にもう一つ○を加えて、「この家紋は馬の轡(くつわ)を模した家紋である」と弁明したのだと。 【http://kamekokishi.web.fc2.com/kyrie/210/toukeiinryou.html】より山門をくぐると、左手に咳の神様「おしゃぶきさま」と呼ばれる石の祠があり、毎月お参りすると子供の咳が止まるのだと言われていると。「おしゃぶき」とは、”咳き込む”を意味する”しわぶく”の語が転じたものであるとちなみに「おしゃぶき」には”合図する””注意を引く”の意味もあるそうで、もとは関所の位置を示す結界石であったのではないかと考えられているとも。”関”が”咳”へと転じ、”咳の神様”と信仰されるようになったとされる石祠であると。掲示板には●「念は往生なり 一遍上人 語録 お念佛を称える一念々々に 極楽往生が約束される●「楽しまずして 何の人生ぞや 吉川英治 人生の中で、何をやるかも大事だが、どのくらい楽しめるか(幸せを感じられるか)も大事。 どうせ生きるのなら(どうせやるのなら)、少しでも楽しめたほうが良い。 何かをやる時には、「楽しもう」と心がけることも大切」。こうありたいと!!。「本堂」の天水桶。 時宗の宗紋「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が刻まれていた。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られたのだ。「本堂」。「このお寺の宗旨名稱 時宗宗祖 証誠大師一遍上人(智真)開宗 鎌倉期(一ニ七四年)本山 清浄光寺(遊行寺)神奈川県藤沢市本尊 「阿彌陀佛」を本尊に仰ぎます。稱名 南無阿彌陀佛教義 大慈悲の阿彌陀佛に帰命する只今のお念佛が一番大事なことです。 家業につとめはげみむつみあって只今の一瞬が充たされるなら人の世は正しく生かされて 明るさを増し皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれると する教えです。経典 無量壽經 観無量壽經 阿彌陀經 六時禮讃などの經典を読誦致します。」内陣。隠れキリシタンの燭台が2基あると。「一遍上人受杖霊場」と。ズームして。本堂の扁額「英月院」墓地内には多くの種類の墓石が並んでいた。本堂横の巨大な柱サボテン。本堂周辺に多数のシャクナゲが植えられており、別名「しゃくなげ寺」とも呼ばれる。またシャクナゲのほかにユキヤナギやレンギョウの名所としても知られ、四季折々、花の絶えない寺である と。墓石が並ぶ。歴史を感じさせる五輪塔群。シュウカイドウ(秋海棠」本堂の脇には「花めぐり順路」と書かれた青い矢印の看板が立っていた。境内の所々にこの看板があり、本堂裏の庭や墓苑に咲く花を見て回れるようになっていた。別名「しゃくなげ寺」と呼ばれているとのことで、四季折々の花が楽しめるのだと。睡蓮の花。ズームして。「寺務所」「寺務所」の扁額は開祖・一向俊聖上人から「一向堂」。寺務所前の「遊行観音」像。近づいて。現在JR北鎌倉駅周辺には、下図の様に塔頭を含めると36の寺院があるが、光照寺以外は全て臨済宗なのである。JR北鎌倉駅から巨福呂坂洞門までにある寺院は全て禅宗・臨済宗の寺であるという事。 【http://kamakurasakura.com/tannpou/syakunagedera.html】より「くるす門」を再び境内から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.17
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「鎌倉中央公園」を後にして、公園沿いの道路を進む。右手に脇門・「鎌倉中央公園寺分口」があった。急な石段を下る。そして鎌倉市山崎の住宅街を北に進む。次に訪ねたのが民家の裏山にあった「稲荷社(山崎)」。鎌倉市山崎1556。朱の鳥居を潜って進む。竹林の中の石段を上って行った。正面に朱の社殿。『かまくら子ども風土記』によると、以前ここは山崎の鎮守だったと。昔はニ月の牛(うま)の日に村中で稲荷講が開催されていたようである。内陣。さらに鎌倉市山崎の住宅街を北西に進む。右側には寺の屋根のごとき民家が。近くには、「江ノ島への道標」👈リンク や「山崎集会所」👈リンク、高校時代の友人が眠る「昌清院」👈リンクがあったが何回か訪ねた場所であったので今回は訪ねなかった。そして東に進むと左手にあったのが「山崎打越の庚申塚」。正面から。左から、上部に「日月」がかすかに残り、中央に「庚申供養塔」と刻まれた駒型庚申供養塔。右側面に「大正九年吉辰大谷」銘。1920年に建立された庚申供養塔。上部に「日月」を刻み、中央に「奉納庚申塔」と刻んだ舟型庚申供養塔。右側面に延宝八年(1680)、左側面には庚申正月二十九日とあった。下部には三猿を刻んでいた。上部の中央に阿弥陀如来をあらわす梵字を、その下に「日月」を刻む舟型庚申供養塔。中央は削り取られたように空白で、右には「奉納庚申」、左には「元禄八乙亥霜月吉日」(1695)と彫られていた。その下には鶏の浮き彫りがかすかに残っていた。下部には三猿を刻みます。上部の中央に阿弥陀如来をあらわす梵字を刻み、中央には合掌六手の青面金剛が浮き彫りにされていた。下部には三猿を刻む板状駒型供養塔。像の右には元禄十三年(1700)、左には十二月二日と。4基の庚申塔を斜めから。「山崎打越の庚申塚」を後にして、更に鎌倉市山崎の住宅街を北の方向に進む。左手にあったのが「山崎ひめしゃら公園」。ヒメシャラ(姫沙羅)はツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。ナツツバキに似るが花も葉も小ぶりであると。道路脇にはキバナコスモスの花が。サルスベリの花を背景に。そしてスマホの案内に従い、狭い畑道を下っていくと左手にあったのが、足場パイプで囲まれた小さな神社。鎌倉市台4丁目1199−19。鳥居は塩ビパイプで出来ていた。「神奈川縣護國神社」。「神奈川縣護國神社 由緒創祀:紀元2672年(平成24・2012年)5月29日創建:紀元2678年(平成30・2018年)5月29日(※遷座:紀元2680年(令和2・2020年)12月5日)御祭神:神奈川縣英靈(かながはすべてのほつみたま。意:神奈川県すべての英霊)由緒:幕末より現代に至るまで、祖国や故郷を護るために尊い生命を奉げられた神奈川県(旧相模国含む)出身の英霊を祀り、感謝と顕彰の誠を奉げるべく、県民有志によって創建されました。神奈川県は全国で唯一「護国神社のない県」という汚名に甘んじて来ましたが、本社の創建を先駆けとして、先人たちの愛と勇気、我が国の平和と独立を次世代に受け継いで参ります。 神奈川縣護國神社氏子会」正面から。社殿。ケースに入っていた案内書を頂きました。ネットには【創建のご挨拶】👈リンク が。「これまで「日本全国で唯一、護国神社がない県」という汚名に甘んじて来た神奈川県。創建の途上「横浜大空襲(昭和20年5月29日)」によって焼失、再建が放棄された戦後75年間、戦没者を「犠牲者」として「慰霊」することはあっても、日本の平和と独立を守って下さったことへの「感謝」そして「顕彰」することはありませんでした。このままでは、尊い生命を奉げられた方々が、あまりにかわいそう……彼らの愛と自己犠牲に報いるためには、彼らを「英霊」として祀り、感謝と顕彰の誠を奉げる護国神社がなくてはならないのです。そんな思いで平成24年から開始された神奈川縣護國神社の創建運動。地道な活動を続け、幾多の困難を乗り越え、およそ8年余りの歳月を経た令和2年、ついに神奈川縣護國神社が完成しました。国民有志が力を合わせて作り上げた社殿……靖国神社や他の護国神社に比べると「DIY感」こそ否めまんが、英霊に対する感謝と顕彰の誠は、どこの誰にも負けません。日本の平和と独立を守るために、尊い生命を奉げられた先人たちの愛と勇気を次世代に伝える先駆けとして精進して参りますので、今後より一層のご支援ご厚情のほど、よろしくお願い申し上げます。令和2年12月吉日神奈川縣護國神社氏子総代 角田晶生(つのだ あきお)」と。仮設休憩所もありました。そして細い畑道を下って行き、舗装道路に出た先の路地の左手角には「馬頭観世音」碑が2基ひっそりと。鎌倉市台4丁目15−8。仕切弁用マンホール蓋。県水道と表記されていた。県の鳥・カモメ、花・ヤマユリ、木・イチョウが描かれていた。鎌倉市台5丁目の住宅街を進む。右手石段の上にあったのが、「神明神社」。鎌倉市台4丁目20−16。社号標石「神明神社」と小さな石祠。石祠には扇子が奉納されていた。石段を上っていくと石鳥居が。この神社の手水舎は使用可。水盤には「奉獻(ほうけん)」の文字が。龍をモチーフにした水口(みなくち/水が出る場所)からは水が流れ出ていた。「社殿」「台のお宮さん」と呼ばれる神社。元亀年間(1570~1573年)、疫病が流行した際に、村人四人が伊勢詣に出向いて賜った神札を祀ったのが起源とされている。そのため「お伊勢さん」とも呼ばれている。また、一説には、江戸中期に悪病が流行した際に、源左衛門という者が伊勢詣をして神札を賜ったという話もある。現在の社殿は、1645年(承応3年)に再建されたもの。村内にあった淡島神社、第六天社、諏訪神社が合祀されている。神明神社の石段横の道は「江の島への古道」で、山崎へと抜ける切通だった。山崎の昌清院の近くには、今でも「江の島道の道標」が建てられているのだ。祭神・天照大神(あまてらすおおみかみ)・蛭子之命(ひるこのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)境内社右から稲荷社、三社神社、三峰社。詳細不明の石祠。稲荷社内陣。三社神社内陣。三峰社内陣。そして本殿。「神明神社」を後にして、神社脇の坂道を登校の子供達と一緒に上って行った。前方には、顕になった岩肌とその崖の上には巨木が覆いかぶさっていた。通学路でもあり、大雨・強風時等の崖崩れ・倒木等が心配なのであったが・・・。左手に「鎌倉市立山崎小学校」正門が。そしてその先のグランドの周囲を廻り込み「魯山人星岡窯跡(ろさんじんせいこうようあと)」を訪ねたのであったが・・・。荒れ果てていてトラロープが。ここは北大路魯山人邸跡(星岡窯)。北大路魯山人とは、陶芸家・美食家などの顔をもち、東京永田町の星岡茶寮を借り受け、魯山人が主宰する美食倶楽部の会員制高級料亭を始めた。自らが料理をし、食器も手掛けたという。昭和元年、鎌倉の山崎に星岡窪を開設。晩年を鎌倉で過ごした。重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されたが断っているとのこと。漫画「美味しんぼ」の海原雄山が尊敬したとされる「北大路魯山人」が終の棲家とした「星岡窯」跡地がここ。魯山人邸母屋は茨城県笠間に移築され日動美術館分館「春風萬里荘」👈リンクとして公開されている と。以前はこの様な山門が残されていたようだが。 【https://4travel.jp/travelogue/11002877】よりここを右手に廻り込んで見たが。ここにも裏口があったのであろうか?その先にあったのは墓地管理寺務所のようであったが。木々が生い茂り、昔の様子は垣間見えなかった。調べてみると、移築されたのは50年以上も前なのであった。次に「稲荷神社」を訪ねるべく、台町の地図で確認。現在地。現在では、個人情報が溢れているこの地図ではとも。「稲荷神社」の位置とルートを再確認して進む。左手には古い門が現在でも残っている民家が。そしてY字路正面の小さな「やぐら」の如き横穴には地蔵菩薩像の姿が。この「やぐら」の上部には昔、地蔵堂があって、稲荷神社の本地仏とされる地蔵菩薩像二体は、神社を下ったところにあった、この地蔵堂に安置されていたと伝えられている。現在、その跡地には、台町公会堂が建てられているのであった。地蔵菩薩像をズームして。「稲荷神社」に向かって更に坂道を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.16
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『古都「鎌倉」を巡る』を中断し、『大和市の神社仏閣を巡る』をアップして来ましたが再び『古都「鎌倉」を巡る』に戻り、ラストスパートです。『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンクこの日は9月7日(火)、「古都「鎌倉」を巡る」も13回目となる散策に向かう。そしてこの日で「古都「鎌倉」を巡る」も完遂の日となる予定で出発。JR大船駅からモノレールを利用し「湘南町屋駅」まで行き、最初に「鎌倉中央公園」に立ち寄りその後は鎌倉市山崎の社寺を訪ね、次に鎌倉市台の社寺に向かい、その後に県道21号線・横浜鎌倉線に出て「JR北鎌倉駅」前を通過し、「円覚寺」、「東慶寺」の前から浄智寺脇を右折して坂道を上り葛原岡ハイキングコースの山道をひたすら歩き「葛原岡神社」を訪ね、その後に「源氏山」から「寿福寺墓地」を訪ね、「JR鎌倉駅」に辿り着いたのであった。湘南モノレール大船駅入り口。湘南モノレールを利用するのは何年ぶりであろうか?湘南モノレールは大船と江の島を結ぶ懸垂式モノレールである。ほぼ1日中7~8分間隔で運転されていて、途中の湘南深沢に車庫があるが、日中の出入庫は原則ないのだ。1970年(昭和45年)3月7日 に江の島線が開業(大船駅 -西鎌倉駅間)。翌年1971年(昭和46年)7月1日に江の島線が全線開通(大船駅-湘南江の島駅間)。モノレール路線図。大船駅~湘南江ノ島駅までわずか14分弱と。全線開通50周年記念入場券、スタンプ帳、クリアファイルの販売ポスター。そして定刻に「湘南江の島駅」に向けて「湘南モノレール」は発車。車窓から「大船観音」を見る。観音様の神々しい姿を見上げると、なんとなく心が落ち着いてくる感じがしたのであったが。これも長期に渡るコロナ禍によるもの。横須賀線の上を通過。大船西鎌倉線の道路に沿って進む。そして二番目の駅の「湘南町屋駅」で下車。そしてホームからこの日が初冠雪の富士山の勇姿を見る。昨年より21日も早い観測であると。2008年以来13年ぶりの早さであるとも。ズームして。手前の建物は我が藤沢市の市役所本庁舎の建物。乗車していたモノレールを見送る。湘南モノレール「湘南町屋駅」出入口。大船駅 - 湘南江の島駅間6.6 km、8駅、全線単線。全線単線の湘南モノレールでは、富士見町・湘南深沢・西鎌倉・目白山下の4駅ですれ違う(行き違う)のだと。全線の所要時間は13分45秒であると。湘南モノレール「湘南町屋駅」を見る。この駅ではスレ違いが出来ないことが判った。走って来たモノレールを見上げて。そして大船西鎌倉線を右折し、鎌倉市寺分2丁目の坂道を上って行った。「丸山一番通り」バス停。住宅街を進んで行く。「鎌倉中央公園」案内表示板。「鎌倉中央公園」掲示板。「鎌倉中央公園」と刻まれた石碑。鎌倉市山崎1667。「鎌倉中央公園公園入口」バス停。駐車場管理舎。駐車場は全て予約制であるようだ。「鎌倉中央公園マップ」。鎌倉中央公園は緑化意識の高揚を目的とした「都市緑化植物園ゾーン」と、現存する田畑などの景観を保ちながら多様な余暇活動の場として利用するための「自然活用ゾーン」、樹林地や湿地に棲む小動物や鳥類、野草などを保護し、景観や生態系に配慮した「保全ゾーン」に分かれている。面積は約 23ヘクタール。また、災害時の広域避難場所として指定され、非常用飲料水や資機材等が備蓄されている防災公園としての機能もあると。駐車場。30台程度は駐車可。事前予約が必要らしい。「鎌倉中央公園 案内図」。全面開園は平成16年。面積23.7ha。入口ロータリー。バスはここで迂回するようだ。これより奥が散策道。右手に修景池(上池)。池の水はかなり緑っぽく。左手に管理事務所。公園管理用の軽トラックが並んでいた。「版築土塀」。「若宮会は植木職人を中心とし、庭について講習、実技等を通して勉強会を行っています。中央公園のご厚意で場所を提供してもらい、「竹小舞上塀」とは違う赤上を突き固めると強固になる凝固作用を利用して「版築」を製作しました。赤上本来の色を損なわないために、自然物である「にがり」のみを凝固剤として練り混ぜ実験的に突き固めました。現状に見られるクラック(ひび割れ)が人っているのは、版築の厚み、屋根を付ける為に立てた柱の太さ、土の水分量等、様々な要素が考えられます。今後は経過での変化を観察して行きます。竹小舞土塀細く割った竹で格子を作りつけ、荒縄などを竹格子にからめる。(竹小舞)土、粘土、ワラを混せ合わせて素となる材料を作る。(種と呼ふ)竹小舞に種を塗り付けて作られた土塀。版築土塀土、石灰、にがり、砂利などを混ぜ合わせて素となる材料を作る。(種)型枠を作りその中に種を入れては突き固める作業を繰り返し行い作られた土塀。石灰を混せるとより強固になるが、全体的に白くなってしまい赤土本来の色合いが損なわれる。」立派な管理事務所。NPO法人「山崎谷戸の会」の展示コーナー。鎌倉中央公園内の貴重な谷戸景観と生態系を守ろうと、市と協働で活動していると。地元山崎の農文化を引き継いだ昔ながらの作業を行っていると。「山崎谷戸の会からのおしらせ1/2」「山崎谷戸の会からのおしらせ2/2」右手に公益財団法人鎌倉市公園協会の事務室・緑の相談所。山桜と桔梗のステンドグラスが美しかった。その先に修景池(下池)。手前に「湿生花園」。「湿生花園の山側の区域は、貴重な動植物の生息生育地として、できる限り自然の状態にしています。」正面に「休憩舎」。蓮の花は既に終わって。花托も蓮の実を池に落とし、役割を終えたのであろう。「休憩舎」からは子供達の元気な声が聞こえて来た。「庭園植物園」の方向に進む。修景池(下池)。木製の歩道があったが朽ち果てて?28種類の「生垣見本園」とのことであったが、刈り込みがなされていなかったので良くわからなかった。「都市緑化植物園 生垣見本園この見本園は、(公財)かながわトラストみどり財団によるふれあい緑化事業により、生垣見本園として整備され、公園サポーター「木っこリーズ・サポート」、「樹楽会」との協働により管理されています。」さらに奥に進む。「しし石」と呼ばれる大岩。「獅子」にみえる??真っ裸になった子供が水と戯れていた。「鎌倉中央公園の生き物」。タヌキやヘビがいるようだ。「農家風休憩舎」。様々な案内が所狭しと。「鎌倉中央公園 山崎の谷戸 昔と今の写真」。「水田」。後1ヶ月もすれば稲刈りか?木製の階段を上り東谷戸の山の中へ。ヤブミョウガ(藪茗荷)。黒真珠の如き輝きを乗せた藍紫色の実。そして「梅園」。そして「梶原口」から公園の外に出る。「梶原口」の先に「大蛇桜(おろちざくら)」への細い山道があった。200mほど進むと、手前に太い桜の木が現れた。太い幹が根本から多数に別れた山桜であった。この幹の多さが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)をイメージして「大蛇桜(おろちざくら)」の名が付いたのであろう。春になると。 【https://4travel.jp/travelogue/11342862】よりそして再び「鎌倉中央公園」の「梶原口」まで戻る。公園の入口まで戻ろうと鎌倉市梶原3丁目26の住宅街を進む。民家の宅配BOXであろうか?何故かムカデ・ゲジゲジ?の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.15
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次真宗大谷派(京都 東本願寺派)の「聞稱寺(もんしょうじ)」に到着。大和市南林間6丁目9番11号。狭い参道を進んでい行く。正面に「親鸞聖人像」。お顔をズームで。掲示板。「精一杯咲くとどんな花も美しい」。残酷な現実だが、人もまた花である。 いつまでも若く美しく咲き続ける花はない。しかしだからこそ花は美しい。精一杯生きる人はやはり花のごとく美しい と最近しみじみと感じる自分がいるのだ。「本堂」浄土真宗大谷派妙香山聞称寺の支院として、平成22年2月に建立。「蓮如上人像」。お顔をズームで。小田急江ノ島線に向けて東に進む。「大和学園前」交差点角の「聖セシリア小学校・幼稚園」の校門。「大和学園前」交差点を渡った角にあった「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の校門。1929年 伊東静江により大和学園を創立。大和学園女学校開校。1930年 大和学園高等女学校に改称。1947年 大和学園中学校開校。1948年 大和学園高等女学校を大和学園女子高等学校と改称。1980年 聖セシリア女子中学校・聖セシリア女子高等学校と改称。2013年 高等学校からの生徒募集を停止し、完全中高一貫校化。2020年 高等学校からの生徒募集を再開。 とウィキペディアより。交差点の名前「大和学園前」は歴史を残すためにそのままになっているのであろうか?更に進むと「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の脇門。そして小田急線の「中央林間4号踏切」を渡る。踏切を渡りながら「中央林間駅」方面を見る。「南林間駅」方面を見る。踏切を渡り左折し線路沿いの道を「中央林間駅」方面に進む。歩道には「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」のタイルが埋め込まれていた。「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」は深見神社境内にあった。「市の花 野ぎく」。「たぶの木」、「市の木 山さくら」。「天然記念物 けやき」。大津家の敷地内にあるケヤキ、特に目につく巨木(樹高25m、胸高周囲4.2m、樹齢約500年)。大和市の重要文化財(天然記念物)に指定され、「かながわの名木100選」にも選定されている。道路脇にあった「大和市の古地名」案内板。「大和という地名の起こりは、明治22年4月に下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村の4村が合併して鶴見村となったものの村名などについて紛糾し、明治24年9月に大和村と改名されたことに起因します。明治22年の市町村制の実施により、一般的には江戸時代の村名が大字となり、検地帳などに小名、一筆書きなどといわれた耕地名が小字となりました。しかし、市域では江戸時代にっくられた絵図がほとんどないことや、古くからの区画整理などの実施や近年の住居表示の実施などにより、しだいに小字が用いられなくなり、失われつつあります。聞き取り調査により地名やその他の名称を掘り起こしてみたのが右の図です。朱色が小字、黄色が地域に伝承された名称で、おおよその位置に示しています。大和市教育委員会」そして県道50号線・座間大和線下を潜る。そして150m程進むと右手角にあった「正一位伏見稲荷神社」。「稲荷大神の御神徳伏見稲荷大社は、今を遠く千ニ百七十余年の昔、稲荷大神が稲荷山の三ケ峯に御鎮座せられたのにはじまると、伝えられております。稲荷大神とは宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦木神(さだひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四之大神(しのおおかみ)の五柱を総称した御名であり、正一位稲荷五社大明神ともたたえられております。その御神徳は、世の人々からそれぞれの精神(こころ)、生命(いのち)、生活(くらし)生業(つとめ)、生産(つくり)の守護神として篤く信じられ、御神威は、心身健全、五穀豊穣、商売繁昌、福徳円満、交通安全等々に極めて著しいのであります。」朱の鳥居の扁額は「正一位稲荷大神」。「社殿」。近づいて。後にして振り返る。更に「中央林間駅」方面に進み右折し住宅街を右に折れ進む。汚水管マンホールの蓋大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。 そして「本道宣布会 皇神乃宮(はんどうせんぷかい すめかみのみや)」の一の鳥居に到着。直線的なデザインが特徴の「神明鳥居」大和市中央林間4丁目19-12。参道を進むと二の鳥居が現れた。木が鬱蒼としていたが、狛犬は無し。「境内」の「案内板」。「神明造」の「拝殿」。天照大御神をご神体とする神社。「拝殿」に近づいて。「中央林間東急スクエア」前の道を西に進む。そして「中央林間駅」東口のロータリーに到着。「大和の文化財 中央林間駅周辺」。昭和初期の林間都市林間都市は、スホーツ都市の機能を備えたものとして計画されました。クラブハウスを中心とした四面の野球グラウンドやテニスコート、ホッケー場、ラグビー場が整備されました。この企画運営には、雑誌「べースボール」の編集に携わっていた鷲沢與四ニ(衆議院議員)や田中清隆(画家)が参加しました。また、昭和初期の林間都市には吉井勇(歌人)、高木蒼梧(徘人・俳文学者)、唐木順三(文芸評論家)、龍瞻寺雄(作家)らが移り住んでいます。檀一雄作家 明治45年~昭和51年昭和26年に「真説石川五右衛門」で直木賞を、昭和51年の没後には、連作長篇「火宅の人」で読売文学賞と日本文学賞を受賞しています。昭和35年、檀の母とみは練馬区南田中の家ーー檀が昭和23年から25年まで住んでいた家ーーに、檀の長男太郎を預かっていました。ですが、太郎の通う玉川学園には遠かったことから、南田中の家を売却し、中央林間(一丁目)に家を購入、移り住みました。とみと太郎が暮らしたこの家を、檀もたいへん気に入り、よく友人たちゃ編集者を案内しては、夜おそくまでの酒宴をひらいたといいます。龍膽寺雄(りゅうたんじゆう)作家 明治34年~平成4年昭和3年、雑誌「改造」創刊十周年記念の懸賞小説に「放浪時代」が当選。昭和初頭のモダンライフの反映ともいえるモダニズム文学流行の波に乗り、一躍文壇に登場。反プロレタリア文学を標傍する新興芸術派倶楽部の結成に奔走し、その中心的存在でした。また、シャボテンの栽培、研究で国際的に知られています。鷲沢興四ニに奨められ、昭和10年に中央林間(二丁目)に転居。滝山街道【古道】--------- 戦国時代の滝山城(八王子市)と玉縄城(鎌市)を短距離で結び、小田原北条氏の 領国支配上重要な道でした。巡見使道【古道】---------- 巡見使は将重の代替わりに府が派遣する調査団。天保9年、十ニ代将重家に就任の 際の巡見使が通ったといわれる。矢倉沢往遠【古道】--------- 江戸時代東海道の脇往還。港区青山なら、南足柄市矢沢一足柄峠へ至る。 大山道ともいい参詣に利用されました。「林間都市計画と小田急江ノ島線」小田原急行鉄道株式会社は、昭和2律に小田原線を開通、同4年には江ノ島線を開通しました。この鉄道建設と平行して江ノ島線沿いの約80万坪に、「林間都市」と称する都市計画がたてられ、「中央林間都市」・「南林間都市」として具体化されました。昭和16年、駅名にあった「都市」の文字がなくなり今日に至っています。都市デサインは、格子状の街路を基調とし、駅前広場を配置しています。現在も、当初のデザインは大さく改変されることなく残されています。「つきみの駅」周辺の遺跡。正面に東急東横線「中央林間駅」表示板「中央林間駅」2Fの「大阪王将」で腹こしらえ。「餃子」も。そして小田急線を利用してこの日の大和市散策を終え、「大和市の神社仏閣を巡る」を延べ3日間で完遂し帰宅の途についたのであった。この日の歩数は「23,411歩」であった。明日から再び「古都「鎌倉」を巡る」をアップさせていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・大和市 完・・・
2021.09.14
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「大和市郷土民家園」の「旧北島家主屋」そして「笹山稲荷大明神」を後にして、さらに「泉の森」を国道246号・大和厚木バイパス方面に歩を進める。そして正面に「国道246号・大和厚木バイパス」の「笹山高架橋」が現れた。手前には「上草柳第3地点東遺跡」案内板があった。「この説明板の後方の台地上には、旧石器時代を始めとして縄文時代・中世の遺跡が広がっています。現在、一般国道246号線が完成していますが、昭衵55年に発掘調査が実施され市域では数の少ない縄文時代中期の竪穴住居址3軒と多量の土器が発見されています。第2号住居址は径4.3 m程の不整形な六角形の平面形で、当時の地表面から40cm程掘り込み、関東ローム層を床にしています。屋根や柱等は腐ってなくなっていますが、深さ70cm程の柱穴が4箇所、石で丸く囲った中に深鉢形土器のロ縁部を利用した石囲埋甕炉1箇所が設けられました。また、食料の保存容器や盛る器である深鉢形土器・浅鉢形土器、狩猟具である石鏃、土掘り具である打製石斧、加工具である削器が出土しており、BC3,000 ~2,000年頃の縄文時代人の生活を彷彿とさせるものでした。 大和市教育委員会」「笹山高架橋」下を通過。写真の玉石は遺跡からの発掘物とは関係ないようであった。「泉の森」の「こもれび広場」に入り, 「山野草の小径」を往く。林の遠い所から各種の鳥の啼声が聞こえて来た。沿道の木々には名札がつけてあるのもあり、解りやすかったのであった。そしてその先右側には「野鳥観察デッキ」が設置されていた。「野鳥観察デッキ」は壁が設置され、観察場所だけが開口となっていた。この場所から観察できる野鳥の姿、説明が丁寧にされていた。そしてこの「野鳥観察デッキ」の下には「大池」の水面が確認できた。この「大池」の端部に「引地川」の水源の水が湧き出す場所があるとのことであった。「万葉集」・「丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)」の詠んだ三首の恋歌のうちのひとつ。「味酒(うまさけ)を 三輪(みわ)の祝(はふり)が いはふ杉 手触(てふ)れし罪(つみ)か君に逢ひがたき」「祝(はふり)」は、神主、禰宜(ねぎ)に次ぐ身分の神官。「味酒(うまさけ)」は三輪にかかる枕詞で、「味酒三輪」はこの場合は奈良の三輪山と、三輪山を奉る大神神社のこと。「味酒の三輪の神官が奉る神杉にふれるようなことをした罰でしょうか。なかなかあなたに逢うことが出来ません。」と。杉林の中をさらに進む。「アセビの道」、「野鳥観察デッキ」、「山野草の小径」の案内表示版。「現在地」を後にして「アセビの道」方面に向かう。ここまで来ると人の姿は殆どなし。右手には「大和配水池(災害用指定配水池)」案内表示板。構造 鉄筋コンクリート造大きさ 51.4mX51.9mx高さ10.65m有効水深 8 . 0 m満水時水位 標高63.5m容量 20,000m3この配水池は、綾瀬浄水場から送られてきた水を貯えて、大和市の皆様に供給するために築造されたものです。また、この配水池は、地震など災害が発生した場合に応急給水に必要な飲料水を確保する配水池に指定されております。」奥の広場の地下に20,000m3の水がコンクリート水槽に貯留されていると。そして右手に進むと「アセビの道」。「アセビ(馬酔木)」の白い花。枝葉に「アセボチン」という有毒成分を含んでいる。馬が食べると酔って足がなえることから 「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、しだいに変化して「あしび」そして 「あせび」となった と。漢字の「馬酔木」もその由来による。そして「泉の森」を出て進むと、鶴間方面から相模大塚方面を繋ぐ道路に出た。「大和斎場入口」交差点を渡る。この道は昔「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」と呼ばれたらしい。「江戸青山(港区)から瀬田(渋谷区)・長津田(横浜市)・伊勢原(伊勢原市)を通過し、矢倉沢(南足柄市)に至る江戸時代の古道。大山街道・青山街道とも呼ばれていました。江戸時代には県内の東西を結ぶ、政治・経済上重要な街道でした。」「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」の矢倉沢(南足柄市)方面を見る。「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」碑の横にあったのが「西鶴寺」。大和市西鶴間8-10-9。「本堂」の扁額「西鶴寺」。「本堂」。日蓮宗の寺。そしてこの寺の横が広域大和斎場組合 「大和斎場」の入口。「大和斎場」。そして「西鶴寺前」バス停を通過し北東方面に進む。大和市西鶴間の「住居表示街区案内図」。ここは大和市西鶴間8丁目。名前の由来はかつて鶴が飛来したという「鶴舞の里」から と。「西鶴間八丁目」交差点で左折し住宅街を進む。左手に「こもれびの森 南鶴間自治会」と書かれた木柱があった。路端にはムラサキハナナ(紫花菜)が。別名「花大根」路肩や畑の空き地、土手などにも一面に咲いている青紫の美しい草花。伝説では蜀漢の軍師、諸葛 亮孔明がこよなく愛した花と言われているのだ。よって「諸葛菜(ショカツサイ)」と呼ばれるている花。さらに住宅街を進む。左手の並木の間は駐車スペースとなっていた。そして左手にあったのが「やまと防災パーク」。大和市は2019年3月10日、大和市南林間六丁目の農林水産省横浜防疫所大和圃場跡地(1.22㌶)に、防災機能を備えた公園としてこの「やまと防災パーク」を開園した と。「やまと防災パーク 案内図」<主な防災施設>1. 「防災四阿(あずまや)、防災パーゴラ、防災対応型複合遊具」 公園内を避難スペースとして活用し、災害時にテントを張って使用できる 四阿やパーゴラ、大型複合遊具を配置。2. 「公園外周の土手・防火樹」 火災延焼防止のため、公園外周に土手(北側高さ1.5メートル、南側高さ 2メートル)と防火樹を配置。3. 「地下式雨水調整池」 集中豪雨などの水害対策のため、14,100立法メートル(25メートルプール 約39杯分)の雨水を溜めることができる市内最大の地下貯留施設を整備。4. 「大型防災備蓄倉庫」 避難生活に必要となる資機材や非常食料を備蓄するため、ゆとりの森大型備蓄倉庫 に次ぐ市内で2番目に大きな防災備蓄倉庫を整備。5. 「スタンドパイプ消火資機材、消火栓、防火水槽(地下)」 火災の延焼を防止するためのスタンドパイプ消火資機材を公園内に18基、 消火栓を18か所設置。地下に防火水槽(200t)を整備アパートの如き「防災備蓄倉庫」前には工事車両が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.13
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「大和市自然観察センター・しらかしのいえ」を後にして再び「緑のかけ橋」を見る。そして次の訪問場所の「大和市郷土民家園」に向かって進む。正面に「大和市郷土民家園」の入口が前方に現れた。「大和市郷土民家園当民家園には市指定の重要有形文化財「旧北島家主屋」・「旧小川家主屋」が移築復元されています。わたしたちの往時の生活を偲んでください。■開園時間 午前9時~午後4時30分 (7月21日から8月31日の夏季期間は午後5時まで)■休園日 毎週月曜日 (月曜日が休日に当たる場合はその翌日)■行事 年末年始 季節に応じた行事を行っています。 詳しくは係員にお尋ねください。■入園料 無料■利用上の注意 1 .火災防止のため、園内はすべて禁煙です。 2 .園内での飲食はできません。 3 .ペット類を伴っての入園はできません。■その他 1 .大和市の文化財関係の本を販売しています。」「旧小川家主屋江戸時代中期に建てられた大和市最古の民家。もとは上和田の久田集落の一軒として現存していましたが、昭和59年に解体保存しました。民家そのものの外観や内部の間取り、梁組など建集空間をご覧ください。」「旧北島家主屋江戸時代末期に建てられた代表的な養蚕民家。もとは下鶴間の公所集落の一軒として現存していましたが、昭和61年に解体保存しました。建物の構造にみられる養蚕に備えての工夫(通風と採光)をご覧ください。」「大和市郷土民家園」の山門。開園時間は当面の間午後4時までと。案山子がマスク姿で「マスクの着用をおねがいします。」と。山門?の扁額?は「大和市郷土民家園」。「配置案内図」。「管理事務所」。民家園ができて以来初となる旧小川家の屋根の葺き替え工事を行っていた。2月23日(火)~7月31日(土)まで、旧小川家屋根の葺き替え工事を行う予定。これに伴い、一部区間が立ち入り禁止となっていたのであった。「旧小川家」の主屋の茅葺きの屋根は新たな茅での屋根造りが始まっていた。「旧北島家」への案内板。新しい茅が既に屋根の最下部に並べられていた。新しい茅が積まれていた。そしてこちらが工事前の「旧小川家」。「旧小川家」の内部。2021.6.24付けのネットからの写真です。この時点で旧小川家の屋根の葺き替え工事が、ほぼ終了しているようです。 【https://mobile.twitter.com/kyoudominkaen/status/1402425571645149186】よりオオヤマザクラ(大山桜)であろう。「旧北島家」の主屋の東面を見る。南側の正面に廻る。コロナ禍の影響で建物の中には入れなかった。「大戸口と敷居この出入口を"大戸口"といいます。大和市内では「トバグチ」「トンボグチ」「トンブグチ」などとも呼ばれていました。大戸口の敷居は「主人の額(ひたい)」ともいわれ、敷居を踏むことはその家の主人を踏むことになるとして避けられていました。みなさまも、どうぞ敷居をまたいでお入り下さいますようお願いいたします。」「大戸口」から内部を見る。正面から。「大和市の民家と養蚕大和市では、かって養蚕が営まれていました。最も古い記録は文政9 (1826 )年で、近隣地域の状況も考慮すると、江戸時代後期にはすでに始まっていたと考えられます。養蚕は民家に影響を及ぼした代表的な生業で、各地に独特の形式の民家が形成されました。江戸時代末期創建と推測される旧北島家も養蚕に利用するために屋根裏が2層になっており、通風や採光のための窓を設けるため、妻(建物の短辺)側の軒を高く切リ上げています。横浜開港に伴う生糸輸出を背景に、明治に入リ養蚕は市域に急速に普及していきました。農作物よりはるかに収入を得る養蚕は、農家の生活の糧でした。市域民家への影響も顕著となり、屋根部分のみならず、養蚕を考慮した問取りや養蚕専用の蚕室を備えるなど、明治以降の大和市の民家は養蚕を主眼に造られたと言えます。市域の養蚕は昭和初期まで隆盛しますが、その後衰退していきました。戦争中に蚕の餌である桑畑が食料増産のために開墾されたこと、戦後は高度経済成長期により産業構造が変化したこと、都市化が進んだことなどが原因です。平成6 (1994 )年に最後となった養蚕農家がやめ、大和市の養蚕は幕を下ろしました。養蚕が営まれなくなるにつれて、養蚕に対応して造られた民家も改築、建て替えがなされ、姿を変えていきました。養蚕の痕跡が失われていく中、旧北島家は、養蚕が営まれていた頃の大和市の姿を今に伝えています。」「ザシキ(座敷)」と「オク(奥)」を見る。「屋根裏」。「屋根裏旧北島家の屋根裏では、養蚕が行われていました。そのため、構造的特徴として、又首(さす)(屋根の骨組み)を受ける梁が1階の天井面よリ6尺(約1 .8 m )ほど上方にかけてあり、屋根裏が2層になっています。また、養蚕に不可欠の通風や採光のため、屋根は幹を高く切り上げ窓を設けています。後に蚕の飼育法の変化に伴い、旧北島家でも家屋の随所に増改築がなされますが、創建当初は養蚕の影響は屋根裏や屋根形態に限られていました。」「ザシキ(座敷)」「ザシキザシキは家族生活の中心の場所です。イロリの周りには家族が集まリ食事をするなど、家族団らんの場でした。また、接客の場でもあリました。イロリの座席は決まっておリ、一般的に家長の座にヨコザ、主婦の座はカカザ、客の間はキャクザと呼ばれました。のちにザシキは分割して、後方に家族空間の性格が強いカッテという部屋ができるようになります。」「オク(奥)」。「オクここは最も上格の部屋で、接客室です。古くはデエとも呼ばれました。旧小川家住宅ではオクにあたるデエとへヤにあたるナンドは閉鎖的でしたが、旧北島家住宅ではオクとナンドの外回りに開口部が多く見られ、縁側もあリ、さわめて開放的です。また、旧小川家住宅には見られなかった床の間が設けられています。」「ナンド(納戸)」。「ナンドナンドは寝室のことです。隣のオクとは襖で仕切られており、襖を開けると2室つづさのザシキとして使えるようになっています。土壁で閉ざされた閉鎖的な旧小川家宅のヘヤ(寝室)と比べると、開放的になっています。旧小川家と旧北島家の住宅の変化にみられるように、時代が卞るにつれて寝室部分は開放性を強めていきます。」「便所」の外側。排泄物は屋外に貯留されていたようだ。「カッテ」には「機織機」が展示されていた。「カッテ」の「カマド」。「カマドこのカマドの位置および形式は聞き取りにより復元しました。材料、エ法は、旧小川家住宅と共通です。芯に大谷石(栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される軽石凝灰岩の一種)を積み、外周を愛知県小牧市産の中塗土を粉土にしたものと上佐漆喰を一対一で混ぜ合わせたもので塗り、仕上げにさらに中塗土で上塗りをしました。」「カッテザシキから家族の食事や団らんの場として、接客の場と切り難されてできた部屋です。旧北島家の段階では、ザシキに対してカッテが狭く、喰違四間取型と呼はれる平面形式になっています。力ッテがザシキと同じくらになると、整形四間取型と呼ばれる平面形式になります。」src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/1610204536ffe40f6d9fd70cbc55c636aeaed429.15.9.9.3.jpeg" border="0" name="insertImg" />北側から「ダイドコロ」を見る。東側から「ダイドコロ」を見る。明治時代に中国から伝えられた「唐箕(とうみ)」も展示されていた。作業中の屋根職人の姿が。次に直ぐ近くにあった「笹山稲荷大明神」に向かう。途中、路端にはピンクのシバザクラ(芝桜)が美しく。「笹山稲荷大明神」の「石鳥居」。参道横の壁には「笹山稲荷大明神 鳥居寄付金芳名」が。「中村」の名字の多さに驚いたのであった。「社殿」。扁額「正一位稲荷大明神」。内陣には紅白の社が鎮座していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.12
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次さらに「泉の森」の散策を続ける。前方の「緑のかけ橋」が大きくなって来た。「緑のかけ橋」は、貴重な緑を未来に残していこうという願いを込めて、泉の森のシンボルとして造られたもので、周辺の自然環境と調和するように、木材を使用した斜張橋である。全長53m、幅2m。材料には米マツの集成材が用いられ、平成3年に完成した。湿生植物園の上をまたぐように東西にかけられており、橋の上からは園内を一望することができたのであった。「緑のかけ橋」下を通過。「泉の滝」碑前で引き返す。そして「水車小屋」。「遊びの小川」横にある「水車小屋」は平成元年から平成2年にかけて造られた。湿生植物園の園路から見上げる水車小屋は季節や天気によってその表情を変えるのだと。水草が生えている直径3.5mの水車から流れ落ちる水しぶきは3月の季節外れの暑さを忘れさせてくれるのであった。一角がロープで仕切られて。「だだ今経過観察中・・・以前、この場所には「タコノアシ」という水辺の希少植物が生えていました。しかしこの植物は、河川の氾濫で土がさらわれて草が無くなったような環境を好むので、ヨシなどが茂った今はほとんど見られなくなっています。ロープ内の区画は、耕やしてヨシの地下茎を取り去りました。今後、発芽するものを観察していきます。」再び「緑のかけ橋」を潜る。橋長:53m、 支間:13+27+13m、幅員:2.0m。「遊びの小川」を見ながら進む。反対側には「ショウブ田」が。そして斜面を上った場所にあったのが「泉の森 緑のかけ橋」碑。ここが「緑のかけ橋」の入口部。竣工は平成三年(1991)三月。「緑のかけ橋」を渡り森の中に進むと山口家の墓地の中にあったのが「東舟翁の碑」。「東舟翁の碑」「東舟翁の碑山口家の墓地の中央には、大正十年に建てられた「東舟翁之碑」という頌徳碑があります。その碑文により東舟翁の人となりをうかがうことができます。山口寛一は天保7年(1836)大和の上草柳村の生まれで、号を東舟といいました。家は代々名主を務めるほどの素封家で、幼少より学問を好み、嘉永6年(1853)18歳の時に、江戸に遊学し、長井岷峨(ながいみんが)の漢学塾に学び、さらに幕府の最高学府である昌平坂学問所に学びました。安政4年(1857)22歳の時に、村に帰り、父の職を継いで名主となり、その後明治6年から12年にかけて神奈川県学区取締の要職につき、この間、政治面でも戸長として活躍していました。」「緑のかけ橋」を再び渡り戻って渡って来た橋を望む。そして「大和市自然観察センター・しらかしのいえ」を訪ねた。公園の中心施設である「大和市自然観察センター・しらかしのいえ」では、身近な植物・昆虫・野鳥などの生き物や、自然環境の大切さを学ぶことができる場所なのであった。入口左には「顔出しパネル」が置いてあった。「館内1F」の様子。「生き物展示」、「自然情報コーナー」等が設置されていた。まずは「生き物展示」へ。今はあまり見かけなくなった「アメリカザリガニ」。子供の頃は「マッカチン」と呼んだ記憶があるが。大きな「オタマジャクシ」。「ウシガエル」であっただろうか。「ドンコ」?「キイロスズメバチ」の巣。「泉の森で見られる水鳥一覧表」。「大和市内で見られる蝶」。「泉の森 サクラMAP」。ソメイヨシノを中心に様々な種類のサクラが植えられ楽しめるようであった。「泉の森・花の見頃情報~早春編~」。「ハイタカ」。「ハイタカ 学名:Accipiter nisusオオタカに似てていますが小さく、オスはハトくらいの大きさです。くちばしの先から尾の先までオスは32cmなのに対して、メスは39cmもあります。猛禽類(ワシ・タカ・ハヤブサの仲間)は、ふつうメスのほうが体が大きいのが特徴です。オスの上面は暗い青灰色、メスは灰掲色。オスの腹面には白地に着赤褐色の横じまがあり、メスは褐色で細い横じまです。オス・メスともに尾に黒い帯があります。キーッ、キッキッキッとよく泣き、ツグミくらいの大きさの鳥を食べますが、ときにはネズミやヒミズ(モグラの仲間)なども食べます。低地から亜高山帯にかけての森林や都市部に生息し、針葉樹の枝を使ったお椀型の巣を樹上に造ります。1回に4~5個の卵を産み、主にメスが抱卵しますが、オスも転卵します。30~35日で孵化し、4週間で巣立ちます。」そして「カワセミ」。「カワセミ 学名:Alcedo atthis頭から翼、尾にかけて、緑~コバルト色に輝き、胸から腹はオレンジ色が目立ちます。その美しさから、「水辺の宝石」と言われますオスのくちばしは上下とも黒く、下のくちばしの基部が赤ければメスです。水面近くを自転車のプレーキ音に似た鳴き声で一直線に飛び、小魚や工ビ、などをつかまえて食べます。ときには目の前を飛ぶトンボを食べることもあります.雨が直接当らない土手に、深さ0.5 ~ 1.0mの穴を第掘って巣穴にし、ここで3 ~ 4個の卵を育てます。横穴は一番奥だけを修理して、3~4回使用します。プロポーズするときは枝の上で小魚をプレゼントします。また、ひなを巣立たせるときは巣の外で餌を持って呼び出します。」「オナガ」。「オナガ 学名:Cyanopica cyanus頭と体の大きさはキジバトよりひと回り大きいくらいですが、尾羽が20ー23cmと長いのが特徴的で、それが名前の由来にもなっています。飛んでいると、つばさや尾の水色が目立ちます。頭は黒く、ほおから喉は白く、首から胸・腹は、褐色味のある灰色をしています。オナガはカラスの仲間であるため、グエーイ・グエーイ、ギューイ・ギューイと姿に似合わぬ声で鳴きます。本州の中部以北に住む留鳥で、雑木林や松林に群れで住み、市地の公園や庭にも飛来します。樹上で昆虫や木の実を食べますが、地上で餌を探すこともあります。オナガは大和市の鳥です。市内で多く観察され、色や姿が優美で、尾を広げて飛び立つ姿が未来へ向け飛翔する大和を象徴することから選ばれました。」「アオサギ」。「アオサギ 学名:Ardea cinerea日本のサギ科では最大級で、翼を広げると150-170cmになります。頭は白く、目の上から冠羽にかけて、眉のように黒い模様があります。目の虹彩やくちばしは黄色、足は黄褐色です。また、体の上面は青灰色で、翼の大部分は灰色、喉から胸にかけては黒い点線のような模様が入っています。河川や湖沼・湿原・干潟・水田などで獲物を待ちぶせるほか、浅瀬を徘徊しながら獲物を探します。食べるのは、魚類、両生類、は虫類、昆虫などで、ときには鳥類のひなや小型ほ乳類を食べることもあります。獲物を見つけると、首を縮めて狙いを定め、すばやく首を伸ばしてつかまえます。集団で木の上に巣を作り、繁殖します。」「ハシブトガラス」。「モツゴ」の幼魚であろうか。「泉の森の魚たちここに展示しているのは泉の森の池や小川にいた魚たちです。泉の森にはたくさんの種類の魚が暮らしています。」「オイカワ」、「ギンブナ」、「モツゴ」、「ドジョウ」、「アブラハヤ」の水槽。「シマヘビ」もいてカメラに収めたが・・・・。そしてパネル展示コーナー。様々な活動が紹介されていた。「環境管理部会」「野鳥部会」。大きな亀も。この後に訪ねた「郷土民家園 旧小川家」の「茅葺き屋根に生えたコケ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.11
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「善徳寺」を後にして東名高速道路沿いの道を、下り方面に進むと右手に地下道が。「地下道」を進み、東名高速道路を潜り直ぐに歩行者専用の小路を左折する。珍しく地下道には落書きが全く無かったのであった。「引地川」に架かる「縁橋(ゆかりばし)」を渡る。上空には海上自衛隊の航空機が飛来。引地川には純白の「コサギ」が。首が長く、脚、くちばしも長いサギの仲間。全身白色で、繁殖期であろうか、2本の長い飾り羽を頭に持っていた。カワセミ(翡翠)を発見。ここにも「カルガモ」が。「川にすんでいる生物 きれいな川はみんなの願い 大和市」。「引地川」を振り返る。「泉の森」を横断する道路沿いには「草柳圓 釣り堀」入口が。大和市上草柳1021。自然公園「泉の森」に隣接する釣堀。四季折々の美しい表情を見せる自然の中、鯉・ニジマス・金魚と、上級者から小さな子供まで、腕前や世代に関係なく楽しめるのだと。「泉の森」と書かれた看板。上部に「大和市章」と大和市イベントキャラクター「ヤマトン」の姿も。左手に「くらやみ坂」の案内に従って進む。山の中の遊歩道を歩いて行く。この付近は秋には「彼岸花」を楽しめると。坂名「くらやみ坂」の由来は不明とのことだが、木々が生い茂り昼でも薄暗かった事が容易に想像出来たのであった。「くらやみ坂」の出口まで歩き、そのまま引き返す。この近くが「くらやみ坂」の名前の由来の場所か?「ムラサキケマン」。ピンクの花が背伸びしているみたいに咲いていた「ムラサキケマン」。そして道路を渡った場所にも「泉の森」案内板が。大和市コミュニティバス「やまとんGO」の「泉の森」バス停。右手に「しらかしの池」の溢流堰。「泉の森」案内図。「神奈川県指定天然記念物大和のシラカシ林昭和四十ニ年七月ニ十一日指定シラカシ林は昔、相摸原台地のほどんどの地域をおおっていたが、人間がこの地に住むようになってからだんだんど後退し、現在ては人の手の入らないわずかな斜面や、ガケの部分および屋敷林の中の一部、社寺林の一部にわずがに見られる程度てある。この大和のシラカシ林は田に面した(指定期の現况による)比較的浅い斜面に帯状に存在している。広さは一、五八八平方メートルでシラカシの純琳を形成しており、保存するに好都合な立地茶件にある。なおこれほどに集中してシラカシが群生している自然林は、県下の他の地域てはほどんど見られなくなってしまった。昔の相摸原台地の面影を残す意味からも、又学術上からもきわめて貴重なものである。」「手づくり郷土賞記念碑上草柳多目的利用調整池は、平成五年度建設省主催の手づくり郷土賞「自然とふれあう水辺づくり」において多くの市民が水と緑豊かな自然とふれあえる場を評価され、認定されました。平成七年ニ月 大和市」「しらかしの池」を見る。「しらかしの池」の先には「しらかし広場」と「ふれあいステージ」が見えた。「しらかしの池」の廻りのソメイヨシノは満開に近かった。ソメイヨシノを見上げる。多くの野鳥も。「泉の森」案内板。「美しし水の湧き出る引地川の源、大和水源地一帯の森は生きものたちの楽園です。水源を守るために保全されたクヌギ、コナラ等の繁る雑木林には、ドングリが葉陰から顔をのぞかせ、マユミ、ゴンズイ、ムラサキシキブの実が優美な色をたたえています。また、相模野台地の昔の景観を今に残す県指定天然記念物「シラカシ林」、そして幹の美しいスギ、ヒノキの針葉樹林、その林の下には四季おリおリの貴重な植物が数多くみられます。イチリンソウ、キツリフネ、ウバユリの群生、水辺にはガマ、タコノアシ等の湿性植物がみられ、淸澄な水辺と豊かな緑は生物たちのオアシスです。そこにはギンヤンマ、アゲハチョウ等多くの昆虫が生息し、カワセミをはじめ50種以上の野鳥を観察できます。大和市では、水と緑の豊かな泉の森( 42ha )自然を保全するため、この地域を、法によって守られる「緑地保全地区」と、市民が自らの手で守る「トラスト緑地」に指定し、市と市民が一体となり泉の森の保全に取リ組んでいます。」「上草柳調整池の沿革ここはかって、引地川に沿って谷戸田がならび、稲作が行われている土地でした。しかし、流域の都市化が急速に進んだため、雨水などの流人量が多くなリ、水害が発生するようになってしまいました。そこで昭和57年に、貯水池の機能をもたせてつくられたのが、上草柳調整池です。この調整池の治水機能はそのままに、湿地の特性や、周辺樹林地とが一体となった水辺空間を活かし、多くの市民が生きた自然の姿をさまきまに学べる場、あるいは自然への親しみを生活にとりもどす場とし利用できるよう、整備しました。平成3年3月 大和市」大きな鯉も悠々と。これも「コサギ」であろうか。「展望デッキ」から「ふれあいステージ」を見る。歩いて来た「溢流堰」方面を振り返る。右の鳥は「ヒドリガモ」か。頭はずんぐりと大きく首は短め。頭の色は茶色で額のあたりが白っぽいが・・・。水辺にも遊歩道が出来ていた。「ふれあいステージ」を横から見る。キブシ(木五倍子)の花このキブシ(木五倍子)は日本固有種で、キブシ科の落葉低木で北海道から九州まで自生し、春に黄色の穂状の花をつける。実も花と同じように房状に垂れさがってつく。実は黒色の染料にも利用されている。秋になると葉は紅葉し、その後落葉するのだ。ズームして。このキブシの花は、早春の山菜でもある。おひたし、天ぷらにして食べることができる。キブシの花には,雄花、雌花、両性花があるそうだが、これは雄花のようだ。「しらかしの池」碑。シラカシ(白樫・白橿)は、ブナ科コナラ属の常緑高木、いわゆるカシ類の一種である。名前は、材が白色であることから。樹皮の黒さから「くろかし」の名もあるのだと。ソメイヨシノを振り返る。前方に見えて来たのが「緑のかけ橋」。地元のボランティア?の方々が「ショウブ田」の手入れをされていた。木道も整備されて。6月になれば。 【https://blog.goo.ne.jp/masa1128tarou/e/c12cfe6badf4adf005c7fb3869f446ab】より水路へは、ここから流れ込んでいる。ここの暗渠の上流は、「引地川」の水源地のはず。「湿性植物園」の周囲にも桜の花が。多くのメダカも。「湿生植物園」の周辺は、集中豪雨時には「調整池」として利用されるので水位が2m以上上がるから注意が必要と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.10
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして「善徳寺」に到着。大和市上草柳3-10-5寺号標石「真言東本願寺 休息霊場 草柳山善徳寺」。真宗大谷派の寺院なのであった。「市指定重要有形文化財(有第十ニ号)銅造誕生釈迦仏立像指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高 10cm生まれるとすぐ七歩歩み、「天上天下、唯我独尊」(この世界の中で、自分より尊い者はない)と言ったと伝えられる釈迦の像です。左手の肘から先と、両足の膝から下あたりが欠失し、肌も荒いですが、量感たくましく、きわめて力強い仏像です室町時代(十五世紀)の鋳造と考えられます。言い伝えによれば、善徳寺本堂を建立するために村人総出で山をくずし、地ならししていると土の中からこの仏像が堀り出されたと伝えられています。平成九年三月 大和市教育委員会」広い境内の奥に「善徳寺六道殿」と見事に手入れされた「カイヅカイブキ(貝塚伊吹)」の生垣。ズームして。誰かのお腹の如し。「善徳寺六道殿」を正面から。蟇股の後ろに扁額。蟇股とは横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれるようになったと。念の為扁額「善徳寺六道殿」を斜めから。「内陣」を見る。見事な精細な「欄間彫刻」。見事な精細な「欄間彫刻」。そして見事な組造りの詰組(つめぐみ)構造の「鐘楼」。そして寛政8年(1796年)作の「梵鐘」。太平洋戦争当時、多くの寺は金属不足の為に梵鐘を国に供出した。その殆どは帰って来なかったが、善徳寺の梵鐘は潰されずに無事に帰って来たのだと。中央には「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」の文字が。「人知を越えた智慧の光明をそなえた阿弥陀如来に帰命し奉る」の意。阿弥陀仏の特に光明のすぐれていることを表す名号で、九字名号と言われると。こちらには「南无阿弥陀佛」「手水舎」。「鐘楼」の見事な詰組(つめぐみ)。「水盤」には「浄水」と。「手水舎」の先に広い「墓地」が広がっていた。「戦没台湾少年之慰霊碑」「太平洋戦争 戦没台湾少年の慰霊碑」。「戦没台湾少年之慰霊碑太平洋戦争の末期この地に「高座海軍工廠」👈リンク 在り十三才より二十才までの台湾本島少年八千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の悪環境を克服し困苦缺乏に耐え連日の空襲に悩みつつも良くその責務を完うせりされど病床に斃れ或いは爆撃により最期を遂げたる者数多し 遺骨は故郷に還れと夢に描きし故郷の土を踏み懐かしの肉親との再会をも叶わず異郷に散華せる少年を想ふ時十八年後の今日涙また新なり。これ等の霊魂に対し安らかなるご冥福とかかる悲惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ 昭和三十八年十一月 神奈川県平塚市富士見町十番十八号 元 高座海軍工廠 海軍技手 早川金次 坂本光吉 謹書」「本堂」を背景に石仏を。台座には「戦没者 檀信徒 慰霊位」と。「本堂」。本尊は阿弥陀如来像。慶長18年( 1613 )正慶坊善徳により開山されたという浄土真宗の寺。「本堂」正面の見事な龍の欄間彫刻。木鼻(右)。 「木鼻」の出現は、「平重衡の南都焼打ち」にあって荒廃した「東大寺」を見事に再建した高僧「俊乗坊重源」が、中国から持ち帰った建築技法の「貫」が採用された鎌倉時代から。貫という技法は建築を格段強固にし構造そのものが大きく変革を遂げた。木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたもの。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装飾をいうとネットから。木鼻(左)。「本堂」の見事な詰組(つめぐみ)。斜めから。「本堂 内陣」。本尊の阿弥陀如来像であろうか。本堂の外柱の下にも見事な金属彫刻が。「本堂」前から「善徳寺六道殿」を見る。横壁には花頭窓が並んでいた。「本堂」と墓地を仕切る壁には「沢柳山善徳寺之由来沿革史」石版が。ひたすら漢字のみの長文で。こちらは「善徳寺本堂沿革歴」。ひたすら漢字のみの長文で。丸に横向きの三本線をあしらった「横三引両」紋が寺紋なのであろうか。墓地の珍しい赤い墓石。赤色御影石であろうか?巨大な「本堂の屋根」。そして巨大な「善徳寺六道殿の屋根」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.09
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次色彩豊かなそして美術館の如き「台湾亭」を後にし、1km以上離れた「櫻森稲荷神社」を目指して進む。広い道路に出ると、左手にあったのが「大和墓苑 ふれあいの郷」。大和市上草柳207-1。西に進んで行くと右手にあったのが「(株)ナンセイスチール 大和第一工場」。工場・建物の解体や、廃家電製品などから排出される鉄、アルミ、ステンレス、銅などの鉄・非鉄金属スクラップの回収・選別・加工を生業としている工場。特に鉄スクラップは製鋼原料として、国内メーカーのみならず、アジアを中心とした各国に輸出していると、ネットから。この日の「鉄・非鉄スクラップ現金買取」価格案内。Kg当たりの円価格であろう。鉄は30円/kg、ステンレス140円/kg、アルミ145円/kg。F線とは内部は銅線である被覆フラットケーブルのことであろうか?310円/kg。そして「東名大和3号橋」交差点を右に曲がる。そして橋の下には「東名高速道路」が。東京方面を見る。この日は3月24日(水)、時間は9:30前であったが下り車線は大混雑の渋滞手前であった。上り車線は空いていたが。「東名大和3号橋」を渡り左折して進むと左手に「バーミヤン 相模大塚店」が。そして「相模大塚駅北口」交差点の角に「櫻森稲荷神社」を発見。案内板に従い右に進むと左手に「櫻森稲荷神社」が現れた。大和市上草柳121-16。「櫻森稲荷神社」の石鳥居。正面から。石鳥居の扁額は「正一位櫻森稲荷神社」。「手水舎」。「社務所」。「櫻森稲荷神社」碑。鎮座地 大和市桜森三ノ五御祭神 宇迦之御魂神 ( うかのみたまのかみ)(倉稲魂命(うかのみたまのみこと)) 三峯山神社大神 菅原道真 「由緒沿革当神社の創建は不詳であるが、弘化三年二月当時上草柳村であった当地の氏神熊野神社が御祭神を勧遷した祭熊野神社の 鬼門除けとしてこの地に桜木を植樹して稲荷社を奉斉し五穀蚕繭豊穣を祈願したと古老が伝えている 更に嘉永六年四月 火難除の守護神三峯産大神 勤労の祖 菅原道真公を奉斉して村民の生活の安穏を祈願した 以来当神社は産業繁栄・除災招福・家内安全・長寿延命の守護神として御神徳を敬仰され 昭和三十二年二月八日宗教法人桜森稲荷神社として独立社 となった社殿は明治四年十一月十八日新たに造営し、明治二十年二月昭和二十七年三月にそれぞれ改築されたが昭和五十五年社殿 再建を決意し氏子の総意を結集して直ち着工、翌五十六年七月完成した。同年十月三日改めて各御祭神総社の御分霊を勧遷して 古式に則り御遷座式を斉行 翌四日造営遷座奉祝の大典を盛大に挙行した」社号標石「正一位櫻森稲荷社」を写したつもりであったが・・・。境内の桜は二分咲き程度であった。狛狐・阿形も赤いマスクを。狛狐・吽形も同じ。「櫻森稲荷神社」造営紀念碑。「神殿」。態野神社の末社で下草柳の鎮守。境内には桜が多く、かって源頼朝が合戦の途中で休んだ際に馬をつないだという巨木があったと伝えられてをいると。「神殿」横のソメイショシノ。二の鳥居から神殿に入ろうとすると、神社の方から声をかけられた。最初は、今日は「神殿」への参拝はご遠慮下さいと。しかしその後、今作業の休憩中であるので参拝は可能であると。そして掲示板にきがついたのであった。「参拝者の皆様へ来る三月二十四日神殿脇樹木枝下ろし作業が行われます。ご迷惑をお掛け致します。ご理解くださるようにお願いいたします。」そしてこの日はその「三月二十四日」。「枝下ろし中の樹木を見上げる。「枝下ろし」された枝が「神殿」横に。「神殿」の扁額も「正一位櫻森稲荷神社」と。「櫻森稲荷神社」とシャッターに書かれた「神楽殿」?「神殿」を横から。手前には酒樽が。そして再びソメイヨシノを見上げて「櫻森稲荷神社」を後にしたのであった。途中、大和市の「雨水管マンホール蓋」。中央マークは不明だが、その周囲に大和市の木・ヤマザクラが描かれていた。 「やまとし」「あめ」の表記で穴あきタイプ。そして「オリンピック相模大塚店」横を通過。次の目的地の「善徳寺」に向けて東名高速道路の側道を進む。途中左手に「三浦王佑大明神」と刻まれた石碑を発見。更に右側に東名高速道路のある側道を進む。左手には「泉の森」内にある「草柳園フィッシングセンター」が木々の合間から見えた。そしてこの先の右の一方通行の道路をUターンの如くに廻り込み、東名高速道路に架かる橋に向かって進む。左手前方に目的地の「善徳寺」の建物の大きな屋根が姿を現した。そして東名高速道路に架かる橋を渡る。相変わらず下り方面は混雑していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.08
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「熊野神社」を後にして、「ふれあいの森」の散策道を「泉の森」方面に向かって歩を進める。途中、「ふれあい広場」の入口には「ふれあいの森の「ふれあい広場」は、ゴミの不法投棄や騒音等の問題が続いたため、令和3年2月1日よりバーベキューは禁止となりますので、ご了承ください。その後につきましては、他施設をこ利用ください。」と。「ふれあいの森」の中の「上草柳4号橋」を渡る。下を流れる川は「引地川」。「引地川」はこの後に訪ねたこの先の「泉の森」を水源とするのだと。そして前方のフェンスの奥に朱の建物が現れた。これが「台湾亭」。「利用時間のお知らせ開園時間 午前9時~午後4時月曜日及び年末年始(12/29~1/3)は休園となリます。(なお、月曜日が祝祭日の場合はその翌日とします)」入口右には紅そして白の案内板が2つ。「台湾亭先の大戦中、将来の航空技師を夢見て、台湾少年工8,400名が高座海軍工廠で戦闘機「雷電」の製作に従事しました。工廠は、現在の座間市栗原にあり、寄宿舎は、大和市上草柳にありました。敗戦により夢破れて帰国した少年工は、その高い技術と精神力により台湾工業化の中核として活躍、1993年6月9日、彼らが「第2の故郷」と呼ぶ大和市を50年ぶりに訪れました。この台湾亭は、その時、台湾少年工の同窓組織である台湾高座会から日台の友好親善と世界平和を祈念し、大和市へ寄贈されたものです。大和市公園管理者」「台湾亭の柱に書かれている漢詩を訳しました。臺高迎日早 湾廻徳春先高歌舒浩氣 座亭看煙雲會心堅松柏 志節勵冰霜高台に登って東の空を眺めば遮るものなくいち早く日の出を迎えることが出来声高らかに歌えば自ずと心は晴れ亭に座して白雲の流れを見青々と茂った逞しい松を見れば自分もまたくじけない潔い志を抱ける」よく見ると漢詩の最初の漢字を右から読むと「臺湾高座會志」と。「台湾亭」を石碑が正面に見える方向から。一見、竜宮城の門を思わせる造りで、鉄筋コンクリート製の6角形をしており、高さは基壇部を含めると約10mになると。6本の柱やはり部は朱色、屋根かわらは濃緑色、天井部は黄色に塗られていたのであった。この場所は少年工達の寄宿舎があった近くで、昭和20年7月30日、宿舎に帰る途中の少年工6人が爆撃にあって死亡する悲劇が起きた引地川公園の「ふれあい広場」の一角なのであった。正面の「台湾亭志」碑の上には「台湾」の国の形状が。そして、このブログを書いていると、背中のテレビのニュースでは台湾での列車事故で現状50人が死亡したと報じているのであった。正面の「台湾亭志」碑には「台湾亭志碑第二次世界戦中 一九四三年から翌年にかけて戦力補充のため青少年約八千四百余名がこの大和市に新設された高座海軍工蔽に集結し 一部は実習を経て各軍需工場に配属され 終戦まで航空機生産の一端を担い続けた。その間米軍による本土空襲により 多数の犠牲者も出 戦後そのまま在留したもの以外大部分は台湾に帰国したが 混乱の戦後を乗り越え落ち着きを取り戻した時 若き日の夢を托した大和市が第二の故郷として大きく胸に育まれた。一九八七年台湾高座会が発足 一九九三年日本高座会による五十周年記念大会に一千三百余名の会員が参加し 半世紀ぶりに旧地で再会の喜びに浸りあった。ここに両地の親善交流を 記念するとともに 世界平和への祈願をこめて 台湾亭を大和市に寄贈し変わらざる友好のシンボルとする台湾高座会一九九七年九月六日」こちらが正面であろうか。石段が四ヶ所に。石段を斜めから。台湾亭の階段には「海軍高座工廠」のシンボルマークが彫られているのだと。このマークは「碇」と、前面から見た「飛行機」の姿を組み合わせたものであると。のちに、このシンボルマークを身につけていた者たち(台湾少年工たち)は「高座帰り」と言われ敬われていたとのこと。「台湾𠅘」の文字が。6面の欄間には絵柄陶器(1面に16枚)がはめ込まれていた。欄間の下部の内外面は色鮮やかな山水・花鳥画で飾られていた。まずは、欄間の下部の「外面」の色鮮やかな花鳥画を追いかける。また広さは約30m2で、床には台湾の誇る観音石(かんのんせき)が使用され、石製の長いすが4基置かれていた。左側の柱には漢詩の発句「臺高迎日早」が、右側には結句の「志節勵冰霜」が。よって反時計回りに漢詩が柱に書かれていた。反時計回りに「湾廻徳春先」、「高歌舒浩氣」 と。反時計回りに「座亭看煙雲」、「會心堅松柏」 と。2本の柱の撮り方を間違えた事に今気がつきましたが・・・。そして文字の向きはどの様に決めたのだろうか。階段を上がって来る人を配慮してか。「台湾亭」の中心部にそれぞれ向ければ、体を回転するだけではっきり見えるのだが。そして次に内部に掲げられた、これも色鮮やかな山水画を追いかける。そして天上を見る。カメラの画面に入り切らない為、2面に分けて。内部の山水画を2枚ずつ撮影。咲き始めた桜を背景に。そして園内を後にして外側のネット越しに最後の1枚を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.07
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昨日は、私が長く使用している「Iphone6s」のバッテリーが劣化して、充電可能容量が50%以下の表示になってしまったので、バッテリーの交換を予約し、市内の『湘南T-SITE』まで車で向かいました。『湘南T-SITE』1号館2Fにある「カメラのキタムラ店」がApple製品の修理サービスを行っている事をネットで調べ14:00の予約を取り、向かったのです。そして予約時間の14:00に店の受付に到着し、「Iphone6s」の状況を説明し、アンケートに答えバッテリーの交換をお願いしたのでした。修理時間は1時間強とのことで15:25に受付まで受け取りに来て欲しいとのことでした。待ち時間が1時間強あったので『湘南T-SITE』内、そして『Fujisawaサスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)』1号館1Fにあった蔦屋書店。旅行、デザイン・ビジネス、人文、料理、暮らし、スポーツ・アウトドア、キッズ(児童書)、雑誌といった8つのジャンル別にコーナーを展開。スターバックスコーヒー 湘南 蔦屋書店 。小説や雑誌に囲まれて、スターバックス コーヒーで購入したドリンクを片手に、併設された蔦屋書店で、小説を試し読みしたり、最新の音楽を試聴したり、自由に買い物を楽しめるのだ。店外にもいたるところにテラス席が。有機野菜や牛乳、豆腐など日々の食卓に欠かせないこだわりの食材を幅広く取り揃えていた「FOOD&COMPANY」。そして屋外に出て、県道30号線・戸塚茅ヶ崎線を藤沢橋方面に歩く。「藤沢SST入口交差点」。交差点から住宅街を見る。全ての家の屋根にはソーラーパネルが載っていた。「藤沢SST入口」交差点。「Fujisawa SST」案内門。タウンマネジメント会社「Fujisawa SSTマネジメント株式会社」のロゴマーク。県道30号線・戸塚茅ヶ崎線の歩道脇にもソーラーパネルが並ぶ。神奈中「藤沢SST前」バス停前を歩く。そして『Fujisawa SST』入口のアーチ状ゲート。『Fujisawa SST』は『Fujisawaサスティナブル・スマートタウン』の略称で、1961年にパナソニック(当時は松下電器産業)が初めて関東に進出した藤沢工場の跡地を活用した街づくりプロジェクトでスタートした町。災害に強く環境負荷が少ない再生可能エネルギーを、くらしを動かすエネルギーの主役へと。東日本大震災以降、エネルギーのパラダイムシフトを望む声が大きくなっていた。太陽光発電などを最大限活用して、自分たちで使うエネルギーは、できる限り自分たちの家でつくる。自産自消という新しいキーワードのもと『Fujisawa SST』は人々のくらしを次代まで考えぬいたエネルギーサービスを提供。タウン内に生まれる戸建住宅は約600世帯。そのすべての家で、太陽光発電システム、蓄電池ユニットを装備しているのだ。本地区はJR藤沢駅の西方約l.7k m、JR辻堂駅の東方約I.3k mに位置し、東西約700m、南北約500mに及ぶ地区而積約19haの赤線内の地域で、地区の北方にはJR東海道本線、地区の南方には県道戸塚茅ヶ崎線が通っているのだ。2014年4月、街開きが行われたと。現在まで7年経過。『Fujisawa SST』街区案内図。 【https://smarttownblog.blogspot.com/2016/09/fujisawasst201692.html】より『Fujisawa SST~まちびらきより6年~』。ここを入っていくと正面にあったのが「集会場・コミッティーセンター」をネットから。屋上は津波の避難施設になっているとのこと。基準の10.5mをクリア、100名避難可能であると。県道戸塚茅ヶ崎線まで戻り、「藤沢SST入口」まで引き返すとその角にあるのが『Fujisawa SST』街区の一角にある『湘南T-SITE』。1号館入口。『湘南T-SITE』1~3号館案内図。1号館のユニークな外装。そしてソーラー住宅街をしばしの散策。屋根のパネル容量は3.5KW程度であろうか。瀟洒な住宅街が広がっていた。ソーラーパネルの容量は住宅によって微妙に異なっていた。マンションにの屋上にも。屋根に乗るパネルの向きも南東から南西へ。パナソニックではこれまでに、小型低速ロボットを用いた住宅街向け配送サービス実証実験を2020年11月から開始しており、公道走行における技術的な検証も行っていると。今回の「Fujisawa SST」での配送サービスの検証を通じて、エリア内の店舗と住民をつなぐ配送インフラ構築に向けた取り組みを加速させ、複数店舗と住宅をつなぐ配送サービスの提供を目指すと。現在は実用化されているのであろうか。 【https://www.lnews.jp/images/2021/03/20210304ai4.jpg】より道端に生えていたのはパンパスグラスであろうか?1号館駐車場入口。私もここに車を駐めたのであった。こちらも南西向きの屋根の上に。歩いて来た道を振り返って。ズームして。再生可能エネルギーの固定価格買取制度・FITにより48円/kwで売電しているのであろうか。そして県道30号線・戸塚茅ヶ崎線に出て、歩道脇のパネルを見る。20.0kwの発電電力容量であると。パネルのハニカム模様からやはりパナソニックのHIT太陽電池モジュールのようであった。合併前に三洋電機が1975年から地道に研究開発をしたアモルファスシリコンを用いた世界最高水準の発電効率を備えた太陽電池モジュール。そして、指定された時間に、修理完了品を受け取りに行く。確認すると、最大容量はもちろん100%に復活。80%を切ると交換を推奨しているとのことでした。『修理依頼書』。バッテリー 2754円技術料 2646円合計(税込み)5940円3ヶ月間保証とのこと。『iOS製品修理完了報告書』。『修理明細書』。どの様に分解し、バッテリー交換を行うのか興味がありましたが、ネットにはこんな「ページ」👈リンク がありました。電池交換で、ソフトの起動速度も上がったように感じているのです。
2021.09.06
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「相鉄本線」の歩道専用の地下道を潜った先にあったのが「ふれあいの森」。右手の斜面にはシバザクラが開花中であったが、残念ながら斜面の所々に。昔は斜面一面に見事に開花していたようであるが。2006年の写真をネットから。 【https://heiwa-ga-ichiban.jp/yamato/photo/yama282.html】よりこの日に咲いている場所をズームで。この辺りは昔の面影が僅かに。上空には「海上自衛隊 厚木航空基地」から離陸し、旋回して相模湾方面に向かう日の丸の印のある自衛隊機の姿が。輸送機、C-130であろうか。右手に「グリーンアップセンター入口」が。大和市グリーンアップセンターは、ふれあいの森にある大和市の花とみどりの拠点施設で、さまざまな園芸に関する教室や展示会を行っていると。施設内には、みどりの相談コーナー、みどりの図書コーナー、グリーンギャラリー、研修室がある。また大和市コミュニティセンター草柳会館との複合施設となっていると。そして丘の下には、風に吹かれてカタカタ回る風車の姿が。揚水風車のようであった。実際に地下水槽の水の汲み上げに使っている と。ズームして。この風車は「イエローテイル」というオーストラリア製風車。イエローテイルとはオーストラリアのシンボルであるワラビー(小型カンガルー)の愛称。「ふれあいの森」、「泉の森」の「ガイドマップ」「ふれあいの森」。「泉の森」。「親水広場」の池。「カルガモ」黄茶色でくちばしは黒く先は黄色。足は赤色。大きく口を開けて。河川や湖沼・湿地・干潟・水田などに生息する。渡りは行わないが、北部個体群は冬季になると南下するのだと。親水広場右岸に咲く菜の花が見ごろを迎えていた。「カルガモ」のツガイであろうか。池を出て、仲良くお散歩に。この場所には普段なら滝があるのだろうか。ネットで調べてみるとやはり。落差およそ4m。毎分2~5m3の水が流れているとのことだが。 【http://www.yamato-zaidan.or.jp/fureai/distinction】よりそして「あとみ坂」を訪ねた。「あとみ坂」碑。「旧原蓼川村から旧草柳村を経て深見神社北側へ至る平安古道の坂。薄暗く狭い急坂のため,通行人が登りきるまで跡を振り返ることができなかったと伝えられています。 平成二年三月 大和市教育委員会」「あとみ坂」を上りきり振り返る。薄暗く狭い急坂のため登りきるまで跡を振り返ることができなかったため。(標識より)かつては、坂下にずっと続く坂道だったと思われるが、現在は「ふれあいの森」の公園内遊歩道に取り込まれて消滅しているのであった。そして再び「揚水風車」の見る。風車の下には売店もあるようだがまだ早いので開店前であった。「ほうき性花桃」と「揚水風車」。「花桃」は「照手姫」であろうか?そして道路下のトンネルを越えるとその先は「泉の森」。そして地下道を潜り「ふれあいの森」を進む。右手が「緑の見本園」。パンジーが円筒状のタワー仕立てに。「緑の見本園」の中を進む。パンジー、ビオラ、チューリップ等が。こちらのチューリップはこれから。コブシ(辛夷)はエピローグに。黄色のレンギョウ(連翹)。様々な花が植えられていた。「チューリップ花壇」。近くから。そして右手にあったのが「熊野神社」。大和市上草柳905。「石鳥居」と「イチョウ」の大木を見る。社号標「熊野神社」。「石鳥居」と「イチョウ」の大木に近づいて。「石鳥居」の扁額は「熊野社」。「イチョウ」の大木を見上げる。「記念樹 いちょう私達は、昭和十六年徴兵(大正十年生)により現役兵として入隊するに当り、高橋大吉氏の御厚意によりいちょう樹二本を戴き、同年十二月、九名の手によって境内に植樹し、それぞれの任地に赴いた。此の度熊野神社の御造営に当りこれを記す。昭和五十三年九月吉日」階段下の右手にあったのが「ふれあいの森 東ヶ里緑地」碑。境内に向かって石段を上って行った。そして「熊野神社」の境内に。「手水舎」。「熊野神社」と書かれたシャッターの建物は「神楽殿」か。「特別寄付者」碑。「熊野神社造営紀念碑」。「納札所」。「社務所」。「熊野神社一、鎮座地 大和市上草柳九〇五番地 一、御祭神 素盞嗚尊 (すさのおのみこと) 速玉之男尊 (はやたまのおのみこと) 伊邪那岐尊 (いざなぎのみこと) 事解之男尊 (ことさかのおのみこと) 一、由緒沿革 新編相模風土記及び古文書によれば往古は沢柳村と称し安土、桃山時代の末期慶長年中迄は 深見村に属し正保年中に於て深見村を離れて草柳村と改めらる。 当熊野神社は創立年代不詳なるも、江戸時代の初期地頭戸田五助その御神徳の偉大さに 感銘し草柳村総氏子の赤誠により総鎮守として宮を再建、熊野三社大権現宮の名も一層 庶民に知られ、江戸時代末期弘化二年二月、名主彦右衛門村民の総意を得、改めて 熊野三社大権現を勧遷。盛大な五穀豊穣祭・祈雨祭等執行し其の御加護を乞い愈々崇敬も 高まる。 尚嘉永六年十一月五日、神祗伯資訓王により再び熊野三社大権現を勧遷奉斉して以来五穀 豊穣守護縁結び交通安全、除災招福の守護神として広く世に知れ亘り庶民の崇敬一層篤く なれりと言い伝わる。 昭和五十三年九月、氏子の総意結集し宮を再建。改めて熊野本宮の御分霊を勧遷奉斉して 同年同月二十二日、盛大に御遷座の神事を執行。翌二十三日、造営遷座奉祝の大典を 執行せり。一、祭事 元旦祭 一月一日、 祈年祭 二月十七日、 例 祭 九月二十三日、 勤労感謝祭 十一月二十三日 一、社名の変更 熊野三宮大権現(元禄年間) 熊野社(昭和十八年まで) 熊野神社(昭和十九年五月一日) 一、社格 明治四十一年七月、村社に列せらる。 大正十一年五月三日、指定村社に列せらる。 昭和二十七年七月、宗教法人熊野神社となる。一、末社 桜森稲荷神社一、御神徳 長寿延命家内安全 除災招福 縁結び 生産守護 万物生みの祖神」「石灯籠」。美しい透かし彫り。「狛犬・阿形像」。「狛犬・吽形像」。「社殿」。「社殿」の扁額「熊野神社」。「社殿」前から境内を見る。そして石段を下り「石鳥居」手前から。「熊野神社」を後にして右に進むと桜が開花していた。木によって開花に微妙な差が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.06
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「下草柳公園」の角を左折し下り坂を進むと右手にあったのが天台宗の寺「極楽寺」。大和市下草柳1184-1。門前にあった「六地蔵」。寺号標「天台宗 極楽寺」。境内への階段を正面から。左手に「難転地蔵尊 天綾山極楽寺」と刻まれた石碑。「難転」とは、その言葉通り「難を転じる」こと。石段を上りきると境内は狭かったが、良く手入れされた樹木に囲まれ右手には「鐘楼」があった。「梵鐘」。「諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」の文字が写真中央に。「あらゆる悪を為さず、あらゆる善を行いなさい」という言葉で、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)と言われていると。法句経という釈迦直説の教えに一番近い古いお経にも出てくる有名な言葉であると。「手水場」。「本堂」。開山:暁海。本堂の扁額は「圓」。モミジの新緑が美しかった。ズームして。こちらは「客殿」か。扁額「慈菩薩」か。「子安地蔵菩薩像」であろうか、その後方に「石造九重塔」。左手で赤子を抱き、足下にも幼子の姿が。「「地蔵菩薩」は、釈迦が入滅した後、五十六億七千万年後に「弥勒菩薩」が現れるまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされますが、特に子供の守護尊とされています。幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされています。その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なのです。これは、賽の河原で鬼にいじめられる子供達を守る「地蔵菩薩」の姿で、「子安地蔵」とも呼ばれています。」とネットから。こちらにも小さな地蔵尊が。ピンクの「あせび(馬酔木)」の花。花が落ちて「珠」の如くに。そして「極楽寺」を後にして右手に坂を下っていくと「下草柳2号ちびっこ広場」にあった椿の花。八重咲き・紅白の斑入りの椿。斑がない花も。紅白の模様も花ごとに微妙に変化して同じものがない。紅白は日本イメージのめでたい配色でもあるので、和風で且つ華やかに見えるのであったそして「下草柳2号ちびっこ広場」の角を右折して進むと前方に「相鉄本線」の線路が現れた。この狭い、高さのない歩行者専用の地下道を進んで行ったのであった。今日は、区切りが良いのでここまでとします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.05
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しばらくの間、「古都「鎌倉」を巡る」のアップで、隣接市の「大和市の神社仏閣を巡る」が中断していましたが、本日から再度完歩まで、続きをアップさせていただきます。【大和市の神社仏閣を巡る】目次この日・3月24日(水)は「大和市の神社仏閣を巡る」の2回目。1回目は相鉄本線の南側に位置する神社仏閣を訪ねたが、最初に前回訪ねなかった大和駅南側そして小田急線の西側に位置する神社仏閣を最初に訪ね、その後北上し相鉄線を越えて「ふれあいの森」、「いずみの森」を縦断し小田急線の「中央林間」まで歩くことを計画したのであった。この後に訪ねた「泉の森・ふれあいの森ガイドマップ」が駅前に。最初に、相鉄本線の南側、小田急線の西側にある「山神社(さんじんじゃ)」に向かった。「山神社」入口に到着。大和市中央5丁目6-3。社号標石「山神社」。「社務所」。参道の先に「二の鳥居」と「社殿」。「二の鳥居」と手前の漸く咲き始めた桜。「二の鳥居」の扁額「山神社」.狛犬・阿形(右)。狛犬・吽形(左)。「おみくじ掛け」と「手水舎」、「手水石」が左手に。「手水石の由来この手水石は厚木航空隊基地内に建立された厚木空神社のものであったが昭和、ニ十年ハ月十五日終戦により基地が米軍の接収となったので破壊の危惧を深刻にうけとめた当時の大和町長ハ木保隆・地元有力者とが協議しアメリカ軍に厚木空神社の下附を要請したところ建物はすべて町に下附となったもので、その内から当神社は、手水石を譲り受け再建して現在に至っているものである。」「厚木空神社起昭和十九年三月三〇ニ航空隊(厚木航空隊)司令であった小園大佐が本土防衛の第一戦で殉職した将兵の御霊を祀り空の守り神として武運長久と勇戦を誓うため厚木航空隊基地内に建立したもので、報国の熱烈なるに感動した国幣中社寒川神社宮地宮司が、洗心の揮毫を贈ったもので同年秋には荘厳に完成したものである。」「納札所」。「社殿」。社殿扁額「山神社」。「内陣」。「本殿」を見る。御祭神は大山祇命 ( おおやまつみのみこと )。隣りにあった「正一位稲荷神社」。境内右手にあった石塔群。左から、以下詳細は『大和市の石仏』👈リンク から転載させて頂きました。「石祠」 寛政元年(1789):正面:山口喜一郎の名札あり 右面:寛政元酉五月 宮本七郎左ェ門 左面:惣氏子 九軒持「文字庚申供養塔」 延享四年(1747) 正面:《三猿》 庚申供養塔 延享四丁卯天十一月吉日 小菅伝兵衛 同平右衛門 同 勝右衛門 同 太郎兵衛 同 吉兵衛 小菅治 兵衛 右面:西 右 ほしのや道 東 左 ぶみやうし道 田辺□左衛門 田辺[ ] □七「堅牢地神塔」 嘉永五年(1852) 正面:堅牢地神 正面(台座部分):草柳村 □□次郎左衛門 小菅定六 同 □五右衛門 下田伝右 衛門 小菅金右衛門 同 此右衛門 同 彦右衛門 山口清泉 戸井田宇平次 下田半右衛門 山口権左衛門 小菅伝蔵 右面:相州高座郡下草柳字六軒村 右面(台座部分):山先達 長圓坊 左面:嘉永五壬子年仲春吉辰「出羽三山供養塔」 天明元年(1781) 正面:《梵字》 月山 湯殿山 羽黒 三所大権現 東叡山御持 御本坊講中 右面:天明元辛丑歳 東 神奈川 南 藤沢 左面:霜月吉日 西 厚木道 北 八王子道更に、左から「堅牢地神塔」 嘉永二年(1849) 正面:堅牢地神 講中 右面:五行受王歴成□道 左面:嘉永弐己酉年二月社日相州高座郡中草柳邑「文字庚申供養塔」 宝暦九年(1759) 正面:《三猿》 庚申供養塔 講中 右面:宝暦九卯八月吉日 南かまくら道 西大山みち 草柳村 施主 小菅長兵衛 □ 弥右衛門 □ 八郎兵衛 左面:北八王子道 東神奈川道 小菅源左衛門 同 善兵衛 同 半左衛門「一猿庚申塔」 寛文七年(1667) 正面:《猿》 市内最古の庚申塔。塔身の途中が二つに折れている。「文字庚申塔」。 天明四年(1784) 正面:庚申塔 天明四甲辰年十一月吉祥日 左面:東 かな川 北 八王子 道前述の「文字庚申塔」から右に「兜巾型文字道祖神」 安政五年(1858) 正面:道祖神 右面:安政五午年正月十四日 左面:下草柳村郷 中村講中「五輪塔」 安政三年(1856) 正面:正月吉日 右面:安政三丙辰年 左面:下草柳講中「双体神祇道祖神」 宝暦七年(1757) 正面:《双体立像》 [ ]神守 宝暦七丑六月吉日 草柳六軒村中更に右手から「単体道祖神 」 寛延四年(1751) 正面:《単体立像》 寛延四未年十二月吉日 下草柳村「石祠」 昭和十三年(1938) 右面:昭和十三年二月建 左面:施主 田辺利徳「文字庚申供養塔」 安永九年(1780) 正面:《三猿》 庚申供養塔 安永九庚子十二月吉日 右面:中草柳村 六兵衛 安兵衛 善右ェ門 左面:世話人 吉兵衛 定右ェ門「単体(または双体)道祖神の下部断片」 年代不明 正面:《双体道祖神》 中沢柳村 甚兵□ 佐五兵□ □五兵衛 太左衛門 藤左衛門 [ ] 孫 兵衛 □三郎 [ ]「石祠」「奉納稲荷大明神御宝□」。 文化十二年(1815) 正面:奉納稲荷大明神御宝□ 右面:文化十二乙亥年九月吉日 左面:施主 小菅重郎左衛門そして次に訪ねたのが「法深寺」。大和市中央5丁目7-9。寺号標「本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう) 法深寺(ほうしんじ)」。本門佛立宗寺院、妙深寺大和別院の「照山法深寺」。本門佛立宗は慶長5年(1600)に日蓮聖人が苦悶の果てに悟りを開いた「南無妙法蓮華教」の御題目を口唱することで救われるという日蓮宗の始まり(源)である。寺紋であろうか。「掲示板」。境内の石灯籠。境内には源平桃が咲いていた。。ズームで。ソメイヨシノも開花が進んでいた。正面が「本堂」。「本堂」前に「開基 日博上人 銅像」が。門徒会館の「清照會館」。「本堂」入口。こちらが「裏門」。「本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう) 法深寺(ほうしんじ)」。「法深寺」前の厚木街道沿いのソメイヨシノも開花が始まっていた。厚木街道を西に進み右折すると左手にあったのが「下草柳公園」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.04
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク京急バス「長勝寺」バス停から鎌倉駅行きのバスを利用。鎌倉駅西口にある「鎌倉駅旧駅舎時計台」は11:05を指していた。鎌倉駅西口駅前広場内にウォーターステーション(水道直結式ウォーターサーバー)が設置されていた。鎌倉市はペットボトルの代替として、マイボトルの利用を呼びかけるなど、市としてもプラごみ削減を推進していることから、県内第1号のウォーターステーションが2020年9月に設置されたとのこと。この日は江ノ電で藤沢駅まで戻ることとした。「稲村ヶ崎」駅を過ぎると、江ノ電は湘南海岸沿いを走る。左手には青い相模湾が広がり、前方には江の島の姿が。遠く海上には海上保安庁巡視船 「あきつしま」が停泊中。船体には「JAPAN COAST GUARD PLH-32」。2020東京オリンピック・セーリング会場の海上警備を行っているようであった。「江の島」👈リンク をズームで。江の島ヨットハーバーを見る。「湘南港灯台」。湘南港灯台は江の島のヨットハーバーの脇に建っている。防波堤はウッドデッキになっていて公園のように整備されている。普段は堤防には多くの釣り人が釣り糸を垂れ、デッキには散歩している多くの人々の姿が。ヨットをイメージしたデザイン灯台となっているのだ。この日は東京2020オリンピック・セーリング競技が江の島沖で行われているのであった。そしてこの日は最終日で男子&女子の470級メダルレースが午後に行われるのであった。「江の島ヨットハーバー」を上空から。 【https://www.pref.kanagawa.jp/docs/i7e/newpagekaijou.html】3階建ての「江の島セーリングセンター」。海面監視室は海面が見渡せる全面ガラス張りになっており、江の島で開催されるレースの進行管理や安全管理を担う。屋上には高さ14・98m、広さ175平方メートルの津波避難デッキが設置されているのだと。この日の男子470級メダルレースの写真。日本の女子は6位、男子は7位と共に入賞したのであった。 【https://bulkhead.jp/2021/08/84201/】よりそして「小動岬(こゆるぎみさき)」と「江の島」を見る。「小動神社」👈リンクのある「小動岬」。江ノ電は海岸から奥に入り、腰越にある源義経ゆかりの寺「満福寺」👈リンク 前を通過。そして腰越商店街前では江ノ電と自動車が同じ道・腰越電車通りを走る。そして右側には「龍口寺」👈リンク の「仁王門」が見えた。「日蓮宗霊跡本山龍口寺」。そして「龍口寺」前の交差点通過。江ノ電車窓から国道467号を見る。お盆の時に、ここ龍口寺前 交差点での出来事。最近の撮り鉄(鉄道車両などの撮影を楽しむ鉄道ファン)のマナーの悪さ、 道路を占拠して脚立や三脚で撮影、クルマの通行妨害等が頻発しているとテレビのニュースで取り上げられいた。テレビ画面から。そして「江ノ島」駅で停車。更に藤沢駅に向かって走る。「境川」に架かる鉄橋を渡る。そして藤沢駅から小田急線を利用して帰宅したのであった。この日の歩数は17,157歩であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.03
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「熊王殿」横の富士見台登口(巡礼路登口)より急な石段を上り「富士見台」を目指す。「富士見台」からの「由比ヶ浜」の先の山。山の斜面に「長谷寺」の大きな屋根が確認できた。「稲村ヶ崎」を見る。そして「富士山」も雲の隙間から。日蓮上人が富士山に向かって法華経を唱えたと言われる場所がここであると。この日の相模湾は波も静かであった。「富士見台」にあった「平和の鐘 南面窟」案内板。案内板に従い「巡礼路」を進んで行った。この日もこの場所は人の姿もなく。根っこで出来た階段を上って行く。そして前方に「平和の鐘」が姿を現した。廻り込んで。「梵鐘」。「立正安国の梵鐘」看板。「人間国宝 香取正彦先生 鋳造この鐘は立正安国と世界平和を祈念し、お題目と立正安国の文字は日蓮上人の御真筆を拝写して造りました。」そして更に「南面窟」に向かって「巡礼路」を進むが、前方はロープで塞がれていてこれ以上は進めなかった。「南面窟」の写真をネットから。安国論寺裏山の中腹にある南面窟は、1260年(文応元年)、日蓮が草庵を焼き討ちされた折、白猿に導かれて最初に避難した場所とされる(松葉ヶ谷法難)。日蓮は、ここから、お猿畠の「法性寺」(逗子市)に逃れたのだと。 【https://4travel.jp/travelogue/10817584】より正面から。 【https://ameblo.jp/oedonoharu/entry-12648999052.html】より窟内の石仏。一番奥だけ岩盤がむき出しとなっているようだ。 【https://www.goshuinbukuro.com/entry/2017/05/16/232327】より。止む無く「巡礼路」を戻り、再び富士山の姿を見る。ズームして。山頂が見えたのでしばし待つが、雲が無くなることはなかった。この寺は???遠く伊豆半島の山々も。再び稲村ヶ崎をズームで。船の姿も。「シーサイドコート逗子望洋邸」も見えた。「富士見台」前方の松も枝が伐採されて、展望への配慮が行き届いていた。この街の中を何度と無く歩いて来たのだと。そして石段を下り「安国論寺」の境内下まで戻る。句碑「亡き母の 遺徳を偲べ 朴の花」。「師嚴道尊そこに道があっても歩かなければ何もならない」と。青木雨彦(あめひこ)の歌碑とのことであったが・・・・・。枝垂れ桜の巨木。毎年、4月には。 【http://blog.livedoor.jp/nori_suke55/archives/57822826.html】より「本堂」を再び。もみじ葉も鮮やかに輝いて。「本堂」の屋根の飾り瓦は牡丹の花(右)。「本堂」の屋根の飾り瓦は牡丹の花(左)。「庫裡」。この石碑は???そして「山門」を振り返り、「安国論寺」を後にした。「鎌倉葉山線」に向かって進むと左手に石鳥居が姿を現した。ここが「大黒堂」。鎌倉市大町4丁目4−17。「庚申塔群」。中央に「北斗尊星」、向かって左に「天鈿女命」、右に「猿田彦大神」と刻みます。文化五年(1808)の銘がついていた。右の石碑には中央に青面金剛像、下に三猿がつくが、風化が激しく、年代など不明。日蓮ゆかりの安国論寺の隣に鎮座する小さな祠で、大黒様が祀られていた。奥にも「庚申塔群」が。左に上辺に日月、中央に青面金剛像、下に三猿(一匹)がかろうじて残っていた。右は中央に「青面金剛」と刻み、向かって右下に「名越講中」、左に「弘化五年」(1848)と刻まれていた。「大黒堂」を振り返る。JR東海道線の「名越踏切」を渡る。既に訪ねた「名越切通」まで1.0km、「長勝寺」まで100mと。そして前方に焼却場「名越クリーンセンター」の煙突が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.02
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『鎌倉散策 目次』👈リンク【鎌倉の寺社リスト】👈リンク「妙法寺」を後にして、次に「安国論寺」を訪ねた。ここは「妙法寺」から100m程の場所にある「安国論寺」。鎌倉市大町4丁目4−18。「長勝寺」👈リンク は建長5年(1253)、日蓮上人が鎌倉の松葉が谷に来て、初めて草庵を結んだ所の一つ。本堂前の広場には、上野公園の西郷隆盛像で有名な高村光雲作の、高さ8メートルの巨大な「日蓮聖人像」があった。さらに周りには、仏教における4人の守護神である「四天王像」が安置されていた。「日蓮上人草菴阯」碑。「建長五年(1253)日蓮上人 房州小湊ヨリ来タリ 此地ニ小庵ヲ営ミ始メテ法華経ノ首題ヲ唱ヘ 正嘉元年(1257)ヨリ文応元年(1260)ニ及ビ 岩窟内ニ篭リ 立正安国論一巻ヲ撰述セシハ即チ此所ナリト言フ」【1253年に日蓮上人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)の小湊(こみなと)からやって来て、ここに住み、法華経(ほっけきょう)という首題(しゅだい:南無妙法蓮華経)を唱えはじめました。そして1257年より3年間のあいだ、洞窟にこもって、立正安国論(りっしょうあんこくろん)一巻を書き上げたといわれているのがこの場所です。】「南無安國日蓮大菩薩」、「松葉谷根本霊場」と刻まれた石碑。題目碑「南無妙法蓮華経 松葉谷」。「山門」への石段を上る。「山門」前の大きな石灯籠。「安国論寺(あんこくろんじ)当山は日蓮聖人「松葉ヶ谷御小庵」の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩窟」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260年)7月16日、前執権北条時頼に建白した「立正安国論」が執筆されました。翌8月27日に立正安国論に反感をもつ人々に庵が襲われました。これは「松葉ヶ谷の法難」と言われています。本堂の裏山に一時避難した「南面窟」があります。境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。中でも御小庵の傍の山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根付いたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウとともに鎌倉市の天然記念物に指定されています。」●宗 派 日蓮宗●山号寺号 妙法華経山安国論寺●建 立 建長5年(1253)●開 山 日蓮聖人」「境内霊場案内」。 【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/ishibumi/405-nichiren-seltuhou-ato/tenple-nichiren-kamakura.html】より「山門」。「山門」の扁額「安國法窟」。ここにも「法華経は女人の成仏をさきとする」と日蓮宗の「今月の聖語」が。「~女性の力~近年女性の地位向上が大いに叫ばれていますが、実はお釈迦さまはすでに3千年前に法華経を通して男女平等を宣言されていました。ひと昔前までは洋の東西を問わず男性優位の考え方が当たり前でした。しかしその男性も母親がいなければ生まれません。どちらが欠けても世の中は成り立たたないのは自明の理です。再度根本に立ち返り考えて下さい。男(ひと)は女(ひと)があっての人なのです。」と日蓮宗のページには。こちらは板に描かれた「境内霊場案内」。「山門」を潜り境内参道を進む。大きな石灯籠が並んでいた。左手の寺務所。安国論寺にゆかりのある俳人で歌人の正岡子規の歌碑。2011年(平成23年)12月に建てられた歌碑であると。「鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大菩薩」子規は、1888年(明治21年)と1893年(明治26年)に鎌倉を訪れ、安国論寺へも足を運んだのだとう。この歌は歌集『竹之里歌」に鎌倉懐古の題で詠んだ中の一首。「正岡子規(まさおかしき)慶応3年9月17日(1867年10月14白)生、明治35年(1902年) 9月19日没。俳句・短歌・新体詩・評論・随筆など多方面にわたり革新的な創作活動をし、日本の近代文学に大きな影響を与えた。明治21年7月・明治26年3月と2回鎌倉に遊んでいる。本歌は、当山に参詣した時のことを、「竹乃里歌」に鎌倉懷舌の題で詠んだ中の一首である。日蓮上人の強烈な精神性に共鳴し、随筆「日蓮」を遺している。讃仰者といってもよいだろう。当歌碑は自筆から製作したもので、レリーフは門下の番取秀眞の子息正彦の作である。」と。参道にも大きな石灯籠が右手に手水舎手水舎の水鉢の上の地蔵尊は苔生して。右手に「熊王殿」。日蓮に使えた従者、熊王丸がつくったとされる熊王稲荷が祀られている。厄除け、眼病平癒、歯痛止め、縁結び、交通安全、家内安全、学問成就など。扁額「熊王殿」。「内陣」。「本堂」。正面から。横断幕には「三つ追い松葉の丸」紋と「井桁に橘」紋が。扁額「立正安国」。斜めから「本堂」を見る。本堂前の木々の間にあった日蓮上人に食物を捧げる猿の像。日蓮が布教を行っている最中、新しい宗教に対する周囲の冷たい目の中で、お布施も無く日蓮が飢えた時に、山王権現の白猿が日蓮に食物を捧げたといわれていると。鎌倉市指定天然記念物の「サザンカ」。「仏足石」。本堂前のガンダーラ調の石仏。「御小庵」。安国論寺の御小庵は、日蓮が『立正安国論』を書いたという御法窟の前に建てられている堂。日蓮は、1260年(文応元年)7月16日、「正しい法に従わなければ国がだめになる」という。『立正安国論』を北条時頼の家臣宿谷光則を通じて幕府に提出した。それから、40日後の8月27日、念仏信者によって草庵が焼き討ちされている(松葉ヶ谷法難)。「立正安国論」の碑碑には『立正安国論』の結びの部分が刻まれていると。「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ 速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ 然レバ則チ三界ハ仏国也 仏国其レ衰ヘンヤ 十方ハ悉ク宝土也 宝土何ゾ壊レンヤ 国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ 身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン 此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ 」【貴殿は一刻も早く誤った信仰を捨てて、ただちに唯一真実の教えである法華経・御題目に帰依されよ。そうするならば、この世界はそのまま仏の国となる。その仏の国は決して衰えることはない。十方の世界はそのまま浄土となる。浄土は決して破壊されることはない。国が衰えることなく、世界が破壊されなければ、わが身は安全で、心は平安であろう。この言葉は真実である。信じなければならぬ、崇めなければならぬ。】「御小庵」に近づいて。扁額も「御小庵」。句碑であろうか?比較的新しいもの。「日蓮の・・・」。「御小庵」の「旧宝珠」であろうか。日蓮宗寺院の寺紋は宗紋である「井桁(いげた)に橘(たちばな)」。竹林を背景に「九重石塔」と「石灯籠」。あの土光(どこう)敏夫さんもこちらで…。「土光敏夫居士墓所」碑。「日朗上人御荼毘所・南面窟・平和の鐘」案内板。「日朗上人御荼毘所」。「自分が出家し黒髪を剃り落とした松葉ヶ谷で荼毘に付し てほしい」とのご遺言からここで火葬されたと。「日朗上人御荼毘所」碑。日朗上人は、寛元三年(一二四五)四月八日、下総(千葉県)に生まれ、幼名を「吉祥麿」と呼ばれた。建長六年(一二五四)より日蓮聖人の教えを受け、文応元年(一二六〇)に出家したと伝えられている。日蓮聖人のお膝元、鎌倉で教えを弘め、日蓮聖人に孝養を尽したので、「日蓮の行くところ、常に日朗あり」といわれ、「師孝第一」と称されるようになった と。扁額「師孝第一(しこうだいいち)」。日朗は日昭の甥と伝える。「日蓮聖人弟子門流系図」。 【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/ishibumi/606-nichiren-amagoi/deshi/deshi-keizu.html】より「内陣」の「五輪塔」。斜めから。「墓地」の横に「平和の鐘・南面窟」への石段があったが、この日はこの石段は閉鎖されていた。「九重石塔」。「本堂」の横には盆供養のための塔婆が並んでいた。「本堂」前から「山門」方向を振り返る。「御小庵」を横から。右奥に日蓮上人が立正安国論を著すために籠った岩屋。「松葉谷日蓮上人遺蹟」碑。「松葉谷日蓮上人遺蹟」碑。安国論寺は建長五年(皇紀一九一三)日蓮上人房州小湊より来たり此地ニ小庵を営み始めて法華経の首題を唱へ正嘉元年(皇紀一九一七)より文応元年(皇紀一九二〇)に及び巌窟内に籠り 立正安国論一巻を編述せしは即ち此所なりと云ふ。「ヤマザクラ」。「かまくらと三浦半島の古木・名木50選 ヤマザクラ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.01
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