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次に訪ねたのが国道58号を左折した場所にあった「かぎやで風節の碑」。国頭郡国頭村奥間47。「かぎやで風節👈リンク。「あた果報のつきやす 夢やちやぅも見だぬ かぎやで風のつくり べたとつきやす」と刻まれていた。【大きな果報が得られようとは夢にも見ない事であった鍛冶屋で色々ものを作ってきたが、そのおかげで果報が身にぴったりとついた。】と。沖縄でお祝いの席で必ず演奏される曲に「かぎやで風節」があると。「かじゃでぃふう」と読む。最も演奏される機会が多い曲かもしれないとのこと。祝いの場の種類によって、正月用とか、結婚式、新築などそれぞれに歌詞があるという。「第二尚氏の始祖・尚円王金丸は、不遇の若い時に奥間の裏山にあるインツキ屋取にかくまわれて世話になった奥間鍛冶屋の旧恩を忘れず、その後1470年に琉球王に就くと奥間鍛冶屋の次男正胤(まさたね)を国頭按司に取り立てた。その時、正胤が喜びのあまり即興で詠んだ「大きな果報が得られようとは夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろ物を作ってきたが、そのおかげで思いがけぬ果報が身にぴったりとついた」(いいことをすると思いもよらぬ果報があるものだ)という意味の歌が「かぎやで風節」(鍛冶屋手風節)の原歌といわれ今日まで伝わっている。「かぎやで風節」は国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事など祝意を表す時に歌われる事が多い。また国王の御前や高貴の座で恩納節など五節一組の初めに奏されることから「御前風」の異名もある。」「かぎやで風節」の歌碑は、奥間東鍛冶屋(アガリカンジャヤー)跡にあった。これが「奥間鍛冶屋発祥の地」碑。「奥間鍛冶屋発祥の地奥間鍛冶屋は沖縄の鍛冶屋の祖として知られている。国頭・奥間の地で生誕した奥間大親は後に、浦添間切謝名村に居住し長男察度(1321年~1395年浦添按司・中山王)と次男泰期・金萬按司ほかを生んだ。泰期・金萬按司は異母兄察度が1350年中山王に就くと、兄の使者として、1372年~1382年間の間5回明に進貢に遣わされ、これが琉球と明との通交の始めとされている。明との交流はその後の琉球の政治・経済・文化の発展に多大な影響を与えている。泰期・金満按司は明から、当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識、技術を身につけて、後に奥間に下って鍛冶屋を始めたとされている。奥間は山林が間近で、水・炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父奥間大親の出生地あることが奥間の地を選んだ理由と思われる。泰期・金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及し、農耕、生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられている。この泰期・金萬按司が奥間鍛冶屋の始祖である。2011年8月吉日・奥間鍛冶屋子孫:座安家(屋号 東り)」「奥間鍛冶屋発祥の地碑」のさらに奥に、古い拝所があった。鍛冶屋の様子が描かれた絵が飾られていた。これも拝所であっただろうか。「国道58号」に戻り進む。「道の駅ゆいゆい国頭」すぐ近くにあるオブジェ。国頭地方は木材の輸出基地だったとのことで、首里王府までリレー式に木材を運んだそうだ。木材をコロビキする姿が。「国頭さばくいの地」碑。「さばくい(捌吏、捌理)」とは「間切(まじきり)地区の番所の役人」の役職名のようだ。「国頭さばくいの地琉球王朝時代、首里城王殿の改修の際本島北部国頭の山々から建築用材を伐り出して王府へ献上した。与那覇岳・長尾山一帯から伐り出された材木は、比地川・奥間川を下り鏡地原の浜から海を渡り泊の港へ陸あげされ首里へと運ばれた。途中村から村へと人びとがリレー式に材木を曳いて運んだりもしたという。その木遣りを歌ったのが「国頭さばくい」👈リンク でこの木遣り歌は、大勢で掛け声をかけ合い音頭を取りながら心をひとつにして歌われた。歌詞は国王の御代万歳をたたえている。このしぐさを当奥間区に民俗芸能として保存されている。なお、さばくい(捌理)とは各間切にいた幹部役人の総称で彼等は材木の検査ならびに運搬の指揮にもあたった。首里城正殿の復元を記念して「国頭捌理」の碑をこの地に建立する。」そして「やんばる3村観光案内所」を訪ねた。「奇跡の森 やんばる国立公園」。「ヤンバルクイナ」の写真。ウィキペディアによるとヤンバルクイナ(山原水鶏 学名:Hypotaenidia okinawae)は、鳥綱ツル目クイナ科Hypotaenidia属に分類される鳥類。日本の沖縄本島北部の山原(やんばる)地域のみに生息する固有種であり、1981年(昭和56年)に発見された。和名は上記の生息地域の地名に由来し、「やんばる地方に棲むクイナ」の意。ほとんど飛ぶことができない。全長35cm。くちばしと足は赤色。背は暗褐色、胸から腹は白黒の横縞模様がはっきりあります。翼は短いこと、飛んでいる姿の観察例がないことから、移動のためには飛行をしないと考えられており、歩行が主の鳥です。鳴き声は、「コッ コッ コッ」などですが、さえずりは大きな声で「クリャァー クリャァー」「キョキョキョキョー」など。早朝によく鳴いています と。小腹がすいたので「観光案内所」の横の店で沖縄名物の「味噌汁定食」を楽しむ。沖縄の食堂では、味噌汁というと小さなお椀ではなく、メインのおかずとしてどんぶりで現れるのが定番。いわゆる味噌汁と大きく異なるのは、レタスなどの葉野菜が入り、他にも卵、豆腐、ポーク(ランチョンミート)などとにかく具だくさんなこと。食堂では、ご飯とともに「味噌汁定食」として提供されているのであった。隣にあった「道の駅ゆいゆい国頭」の入口にあった石碑。<「恋し国頭(くいしくんじゃん)」の琉歌碑「山水ん清らさ 至情ん深さ こいし国頭に 幾世までん」。歌意は【山の水も清らかで住む人も自然で深い優しさがある。 このような国頭にいつまでも暮らしたい】と。そして「第20回 伊集ぬ花コンサート記念植樹」。沖縄の歌手「平(たいら)ゆき」さんの「伊集ぬ花コンサート」👈リンク。「道の駅ゆいゆい国頭案内図」。入口前に「重量挙げのヤンバルクイナ選手」。昭和63年元旦辰生年祝記念と。これは1987年に沖縄で開催された「沖縄海邦国体(国民体育大会)」の公式マスコット「クイクイ」。国頭村がウエイトリフティング会場になったため、それを記念して作られたもの。「道の駅ゆいゆい国頭」入口。両脇にはシーサーが(右)。シーサー(左)。店内に入る。Tシャツコーナー。芸能人、スポーツ選手の来店の写真。「ヤンバルクイナ」。「やんばる国立公園へようこそ」案内板。「やんばる国立公園へようこそ Welcome to Yambaru National Parkやんばる国立公園は、広さこそ日本の国土面積のわずか0.1 %てすが、生物多様性においては国全体の中で小さな面積に不釣り合いなほどの大きな割合を占めています。本土からの長期の隔絶と沖縄南部からのアクセスの難しさにより、森は固有種の在来生物の楽園となりました。しかし、やんばるの森は手つかずでも原生でもありません。それどころか、この森は何百年にもわたる人間の活動によって形作られてきました。前近代から戦後初期まで、森は島全体に木材と木炭を供給しました。国頭村沿岸に点在していた小さな村々の住民は、山に入って協力して木を切り、それを南からやってくる「やんばる船」に売っていました。この仕組みは、最終的には洗練された村の協同組合のネットワークに発展しました。この仕組みを日本各地の類以の地域経済がモデルとし、多くの地域から代表が見学に訪れました。村の人たちは森を丁寧に手入れし、常に切った分を補うのに充分な木を植え足しました。この方法は、18世紀に蔡温という琉球王国の高名な官僚によって杣山(そまやま)方式として正式化されました。蔡温の知見は、第二次世界大戦後に米国の占領者までが学ぶほどてした。戦後の復興が終わり、主なエネルギー源が木炭からガスと電気に代わると、森林の資源に対する需要は減少しました。多くの村は林業の代わりに農業を営むようになりましたが、森を大切にする伝統は残っています。」古代の楽園 An Ancient Haven国頭村の多くの土地ては7千~ 9千万年前の地層が確認されています。さらに北端の辺戸岬では約2億5千万年前の地層が確認されています。侵食を受けた石灰岩によるカルスト地形は、海岸の美しさを際立たせます。かっては水平だったけれど今では地表に露出し、ほぼ垂直に上方に突き出している岩層を持つ辺戸岳(安須森御嶽)のような印象的な地形は、古代の地殻変動の証を示しています。やんばる国立公園は非常に多様な動物相を有しています。大型哺乳類の捕食者がいない中で、ヤンバルテナガコガネやリュウキュウハグロトンボなどの昆虫から、イシカワガェル、シリケンイモリ、ハブなどの爬虫類・両生類に至るまて、無数の小さな生物種が繁栄しました。やんばるには、飛べない烏ヤンバルクイナ、働き者のノグチゲラ、印象的な姿のアカショウビン、そして人懐っこいアカヒゲを含む魅力的な空飛ぶ仲間もたくさんいます。森の植物相の中心は、やんばるの林業を支えてきたブナの仲間である常緑樹、イタジイてす。森を遠くから見ると、イタジイが森をやわらかく包んているように見えます。イタジイと並んて、頑丈なカシ、古生代から存在するヒカゲへゴ、花を咲かせるイジュなど多種の樹木が生育しています。西表島のような鮮やかな熱帯気候の島々に対し、やんばるの柔らかい色合いは、水彩画に例えられてきました。森の繊細な美しさや、恥ずかしがり屋で小柄な生き物たちを見逃さないために、ぜひ現地ガイドに案内してもらいましよう。」「ヤンバルクイナ」。「リュウキュウハグロトンボ」。「国頭村観光ガイドマップ」。「比地の神アシャギ」案内板。国頭村内でも比地と安田でしか見ることができない、昔ながらの伝統的な茅葺屋根の神アシャギで。また、一辺が6mを超える村内でも大きなアシャギ。下記はネットから「比地の神アシャギ比地の神アシャギは、集落の背面(東側)の丘陵上に位置する標高約40メートの平場に建てられ、神アシャギから下る斜面には屋敷跡や畑後と思われる平場が点在しています。この一帯は比地の小玉森またはアサギムイなどと呼ばれており、神アシャギの他に山口神社(アマンチュの宮)と十数か所の拝所や樹齢推定250年以上とされるアカギの巨木などがあり長く信仰の対象となってきました。このアカギの巨木は集落内の各門中の拝所となっており、門中ごとに詳む木が分かれ、ウンジャミの際にはその木に向かって拝みます。また、この一帯はアカギやホルトノキ、タブノキなどの高木が生育し、平成3年4月2日には、県指定天然記念物物「比地の小玉森の植物群落」として指定され学術的に貴重な場所です。比地の小玉森は「琉球国由来記」にも「小玉森 神名アマオレノ御イべ」という記述があり、旧暦の七月盆明けの亥の日には、ウンジャミ(海神祭)等の重要な年中行事が行われています。比地の神アシャギ屋根は昔ながらのかやぶきと現在では貴重な建造物となっています。柱は1930年代には20本ほどであったが、現在は8本とその形状に変化が見られます。また、近年のグスク研究では神アシャギのある平場を含む大小の平場は、北側に接するバンギナグスクとともに「土より成るグスク」として石積みを持たないグスクとする研究も行われています。このように比地の神アシャギは地元の方々から大切に継承され生物学、民族学、考古学など様々な分野から貴重なフィールドとなっています。」「道の駅ゆいゆい国頭」の建物。再び「やんばる3村観光案内所」。比地川の手前を左折し川に沿って進む。比地集落の入口。奥にあった案内板。「県指定天然記念物 比地の小玉森の植物群落この地域は、琉球国由来記には「小玉森」と記されていますが、地元では「アサギ森」とも呼ばれています。中央に神アサギがあり、旧暦7月のウンジャミなど重要な祭祠の場所で、古くから拝所として大切に保護されてきた聖域です。そのためアカギやフクギなどの巨樹が数多く残っています。指定地域には、胸高直径が一八〇センチメートルにもおよぶアカギをはしめ、フクギ(胸高直径六三センチメートル)やホルトノキ(六〇センチメートル)、タブノキ(五八センチメートル)などの大木が樹冠を占め、亜高木層にリュウキュウガキやフクギ、ヤブニッケイなどが見られます。また低木層にはクロツグやナガミボチョウジ、シロダモなどがあり、草本層にはオオイワヒトデやホシダ、フウトウカズラなど多くの植物が生育しています。また非石灰岩地域でありながら、クスノハカエデやヤエヤマネコノチチ、ナガミボチョウジ、イシカグマなど石灰岩地域に多く生育する種類が見られるのが大きな特徴です。この地域の植物群落は、国頭地域における非石灰岩地域の低地林として、学術的にも重なものです。なお、この地域において許可なく現状を変更し、又は保存に影響を及ぼす行為をすることは県条例で禁じられています。」と。「アマランダ」の黄色い花。黄色が鮮やかな花。そして再び国道58号に戻り、国頭郡大宜味村の海岸線を名護・那覇方面に進む。この日の最後に、「国道58号」沿いにあった「(株)カイコン」の先の路地を左折し名護市座喜味にあった「ヌルガー」に立ち寄った。T字路の角に三角屋根の祠・「ヌルガー」と記された井戸跡のようであった。ヌル(祝女)が衣装を洗ったり身を清めた場所とされている と。祠の傍に苔むした石碑「寄贈者 宮平 松助 平成十二年九月五日建 旧八月八日」と。近くにあったのが「カミガー」。こちらも神事に使われていたという村の井戸(ガー)とのこと。こちらも苔むしており判読できなかったが寄贈者の名前が刻まれているのであろう。祠の傍に苔むした石碑「寄贈者 宮平 松助 平成十二年九月五日建 旧 八月八日」と。そして坂を少し上って行くと目的地の「上之御嶽(ウイヌウタキ)遺跡」の石鳥居が現れた。名護市真喜屋。「上之御嶽遺跡」案内柱。「御嶽の広場一帯から、グスク時代の中期から後期にかけてのものと思われる土器が採集されています。採集遺物は土器のみで、陶磁器は採集されていません。御嶽は、真喜屋とその隣の稻嶺で共有する主要な5か所の拝所のうちのひとつになっています。時代:グスク時代中期~後期(約800年前~約700年前)」石鳥居を潜り、石段を上って行った。途中からは石畳の急な坂道の参道が森の奥へと伸びていた。森の奥へ進んでいくと、目の前に「社」の如き建造物が現われた。傍ら手前には石碑が建立されており「上之御嶽建設碑」と刻まれていた。「上之御嶽」の社は前庭の入口に二基の灯籠が設けられており、社の内部には祭壇のようなコンクリート製の台が設置されていた。地元では『上之御嶽(うぃーぬうたき)』と呼んでいるようだ。道路から少し低くなった場所にある「上之倉井」水が湧いているようであったが。時間は16:00を過ぎたため、国道58号に戻りホテルへの帰路に。羽地大川に架かる羽地大橋を渡る。羽地中学校前バス停のキノコ待合所。名護バイパスに入る。「世冨慶(よふけ)トンネル」を通過。沖縄自動車道に向かって進む。国道58号沿いにある「真栄田岬,美浜アメリカンビレッジ」は前回2015年に訪ねたのであった。沖縄自動車道・許田(きょだ)IC料金所を通過。石川ICを通過して進む。那覇ICで沖縄自動車道を降り、県道82号線那覇糸満線を進む。前方に見えた緑の屋根は「那覇市民体育館」。そしてこの日の行程を全て終え、ホテルに到着したのであった。時間は17:30。この日のドライブルートは下記のごとし。走行距離307km。この日は、駐車場からホテルへの途中にあったス-パ-マーケットで反省会の食材、ドリンクを購入し、ホテルの部屋飲みとしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.13
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次に訪ねたのが「辺戸岬観光案内所」。「辺戸岬観光案内所」は、沖縄本島の最北端の「やんばる国立公園」に位置する辺戸岬に、やんばる三村のランドマークとして、2019年(令和元年)に、オープンした。沖縄北部を巡るドライブやツーリングで、格好の休憩と観光のスポット。70台が駐車できる駐車場に隣接したビルの1階に観光案内所、3階に展望デッキがあった。1階観光案内所では、沖縄北部(やんばる)の見所を紹介し、地元の文化や歴史の説明資料を展示していた。観光案内所の屋上展望デッキから、北側に東シナ海から太平洋まで180°を超える大海原、南側に2億年以上前の石灰岩の壮大な山々が眺望でき、人気の観光スポットとなっている。観光案内所内の見学と展望デッキともに、入場無料であった。施設1階では、やんばる3村の広域情報だけではなく、自然、歴史・文化などの地域情報も発信中。辺戸岬は、やんばる国立公園に位置し、石灰岩のカルスト地形など特徴のある景観を有す。また、その周辺は、琉球開闢の伝説が残るパワースポットとして知られ、従来から県民をはじめ多くの観光客に親しまれてきた場所。「東村」、「大宜味村」のコーナー。「東村(ひがしそん)」は「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部、東海岸に位置する縦に細長い村です。その総面積の約73%は森林で、その森林を源とした大小14の河川が流れています。人口はおよそ1,800名で沖縄本島で最も人口の少ない地域です。「やんばるの森」には多種多様な動植物が生息し、東洋のガラパゴスとも称され、2016年9月に「やんばる国立公園」に指定され、さらに2021年7月には、第44回世界遺産委員会において、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が世界自然遺産として登録が決定されました。村の花は「つつじ」、村の鳥は「ノグチゲラ」、村の木は「ヒルギ」、村のキャッチフレーズは「花と水とパインの村」「大宜味村(おおぎみそん)」は、沖縄本島北部西海岸に面し、村の約70%が山地におおわれています。近年ではバードウォッチングや森林浴スポットとして人気があります。 この村に住む90歳以上の高齢者の割合が多く、沖縄一長寿の村として知られています。長寿の源とも言われるシークヮーサーの産地で、カステラやサーターアンダギーなど、様々な特産品づくりが進められています。 また、喜如嘉(きじょか)は、現在唯一、伝統工芸「芭蕉布(ばしょうふ)」を作り出している地域。「国頭村(くにがみそん)」コーナー。「国頭村」は亜熱帯の木々が生い茂る森、森から流れる清流、透明度の高い海など、自然が多く残る。 鋭い岩山が連なり、パワースポットとして注目を集める「大石林山」や、沖縄本島最北端の岬ここ「辺戸岬」、人気の景勝地「茅打(かやうち)バンタ」などがあります。また、村域の95%が森林で、貴重なヤンバルクイナ、ノグチゲラ、ヤンバルテナガコガネなどの動物が生息している。「辺戸岬(へどみさき)」コーナー。「辺戸岬」は沖縄本島の最北端にある岬で「沖縄海岸国定公園」に含まれる風光明媚な景勝地。岬の先端からは、晴れた日には北に22km離れた鹿児島県奄美諸島の与論島や沖永良部島を、また西には伊是名島や伊平屋島見渡すことができます。那覇から辺戸岬へは、車で国道58線を北上し約120km、高速利用で約2時間30分かかります。「茅打バンタ」は辺戸岬へ至る南西岸の絶壁で、その北側には世界的にも珍しい海底の鍾乳洞「辺戸岬ドーム」があり、ダイビングスポットとして人気があります。少し離れた所には「ヤンバルクイナ展望台」があり、辺戸岬を遠望する絶景ポイントです。歴史辺戸岬は太古の昔に長い年月をかけて珊瑚礁が隆起し、波の浸食を受けてできた断崖絶壁の景勝地です。辺戸岬の背後にそびえる辺戸岳は「辺戸御嶽(へどうたき)」ともいわれ、琉球民族の祖先である「アマミキヨ」が沖縄の島々を創った時、最初にここを創ったという伝説が残っています。米軍統治時代には、海を隔てた与論島とこの岬でかがり火を焚き、年に一度、中間の海上で本土復帰を訴える集会が行われました。与論島を含む奄美諸島は1953年に本土に復帰しましたが、沖縄の本土復帰が実現したのは1972年のことで、沖縄返還にさいして辺戸岬に「日本祖国復帰闘争碑」が建立されました。「歴史紹介」コーナー。蔡温(さいおん)松並木と蔡温今に残る琉球林業の遺産、蔡温の松並木辺戸岬の近くに有る辺戸集落には、樹齢が150年~300年の松並木があり、安須杜の山を背景に亜然帯の林と松並木の散策を楽しめます。この松並木は、防風林として琉球の政治主導者であった蔡温により林業振興策の一環として植栽されました。この林業振興策は、「杣山」と呼ばれ明治時代まで続きました。蔡温の松並木は、災害や戦争等によリ減少の一途をたどり、辺戸区に残った十数本を保全するために、平成10年に公園として整備されました。蔡温は、現代の大臣に当たる「三司官」を25年間勤め、薩摩傘下で疲弊した琉球人の価値観を変え、林業振興の他に農村活性化、士(サムレー)改革等を実行し、琉球を大いに豊かにした沖縄の歴史で最高の英雄の一人です。星窪(ふしくぶ)説伝大昔のある夜辺戸に空から星が降ってきました。星が落ちたとされる場所に大きく丸い窪みがありそこに溜まる水を利用して稲を育てたりしました。琉球王朝時代のことを遺老説伝にも記述が残っております。2階「ふしくぶカフェ」の由来でもあります流星が落ちて出来た恵みの貯水池琉球王朝時代の出来事をまとめた「遺老伝説」(18世紀初頃)に「落星ワ(せくせいわ)」という話で、「昔々の大昔のある夜、国頭郡辺戸邑(むら)の北に星が落ち窪んだ穴があいた。穴の形は楕円で、長い方で約20m短い方で約10m、深さは約2mであった。世の人々は、この穴を星窪と呼んだ」とあります。星窪は、案内所の近くクイナ展望台付近とされています。大正時代、住民は落窪を天然の大貯水池にして、取水口に水車を設けて製糖をなし、稲作にも用いられて地域に愛されました。案内所2Fの「ふしくぶカフェ」は、この物語にちなみ名付けられました。UFOが飛来する山1477年2月、辺戸の◯◯◯◯がアフリ岳の頂上に傘のような形をした極彩色に輝く巨大な飛行物体を目撃したとの報告記録が遺老説伝に残っています。飛行物体が飛来する山18世紀初期頃に書かれた琉球の歴史書「琉球国由来記」と琉球王朝時代の出来事をまとめた「遺老説伝」によると、「アフリ獄」に君眞物がさす冷傘が現れたと記載されています。君眞物とは、琉球神話に登場する琉球古来最高神のロ称で、冷傘とは君眞物のさす傘のことで、日除けの絹張りの黃色いみやびな傘だったとの事です。義本王(ぎほんおう) 炎と謎の王最初にできた琉球王統の悲劇琉球の正史「中山世鑑』によると、義本王の即位中(1249 ~ 1259)に7カ月の干ばつで飢餓と疫病で多数の犠牲がでて、その後7カ月は雨が降り続き飢饉となりました。民は「義本王が招いた事態だ」と噂しました。義本王は、部下の英祖に王位を譲リ、「自らの不徳を天に詫びる」と玉城城で公開の焼身自殺を行いましたが、途中大粒の雨で鎮火させられ死ねませんでした。失意のまま、義本王は国頭村の辺戸に隠遁し、世が治まってから、読谷村に移り、晩年は北中城村で過ごしたと伝えられています。一方『中山世譜』によると、この王位継は英祖がクーデターにより義本から王位を奪った革命であったという説もあリます。義本王の墓は、10箇所に点在しておリ、国頭村には7箇所もあります。墓の多さは、民のために自らの命を懸け内乱を避けた王への敬意を持った関係者が設置したとも、クーデター後の逃走のカモフラージュであったともいわれています。尚円王(しょう えんおう)と伝統古典「かぎやで風」👈リンクかぎやで風の由来「かぎやで風」は沖縄で特におめでたい儀式や祝いの席で演される古典音楽であり、結婚式では必ずといっていいほど演舞されています。その「かぎやで風」の由来に国頭村奥間区発祥の「奥間鍛冶屋」と、琉球王国第ニ尚氏王統を築いた「尚円王」がかかわっているといわれています。尚円王は伊是名島の百姓の家に生まれ「金丸」と呼ばれていました。金丸は畑の水を盗用したと疑われ、身の危険を感じ伊是名島から海を渡って、国頭に逃れます。犬付屋取(インチキャードウイ)という洞穴に隠れていた洞穴に隠れていた金丸を助けていたのが奥間の人でした。金丸は後に、琉球国王尚円となりました。尚円王は昔の恩に報いるため、奥間鍛冶屋の次男を国頭の総地頭にしました。その時の喜びを詠んだのが「かぎやで風(鍛冶屋手風)」となったとのことです.く鎖国時代、辺戸岬沖は防衛とおもてなしの最前線>琉球北部の海上を監視し王府へ送る情報ネットワーク琉球王府は、鎖国時代(1639~1854)に海上防衛と中国から冊封使のおもてなしの準備のために近海の監視を行い、素早く修理に伝達するネットワークの構築のため遠見番所と烽火台を整備した(1644)。琉球の正史によると、与論島から伊是名へのネットワークがあったとの記録がある。 <烽火の種類>一炬 ➡ 御冠船か帰唐船が1隻ニ炬 ➡ 御冠船か帰唐船が2隻以上三炬 ➡ その他の異国船安須杜御獄(あすむぃうたき)沖縄本島最北端の六連の峰から成る山の総称琉球開闢を始めた神々が最初に創設した御嶽と言われる琉球王朝時代も安須杜は信仰の対象とされてきた。琉球開闢の最初の地、安須杜御嶽琉球の歴史書「おもろ草子」、「琉球 神道記」、「中山世鑑」、「球陽」に、同様な琉球開闢の神話があります。生じる前の琉球列島は、荒ぶる波濤に漂う一本の縄のようで島の形をなしていませんでした。天帝「君眞物」は、この地を神の住むべき霊所であると認め、女神アマミキヨ、男神シネリキヨに島創りと国創りを命じました。神々は、天より島の北端に降り立ち、土石を運び、草木を植え、森々を創り、安須杜を最初の御嶽としました。島ができても住む人がいなかった為、アマミキヨは、天帝からニ名の御子を授かリました。この二名の間に陰陽の和合はなかったが吹き通る風によリ女ははらみ、三名の男とニ名の女が生まれた。長男は「国王」(天孫王)、次男は諸侯すなわち「按司」、三男は「百姓」、長女「最高神女」、次女は「祝女」となり、それぞれの”はじめ”となったとされています。安須杜の崖の生い立ち安須杜の崖は、プレートと呼ばれる地球の殻がゆっくりと動いて大陸の端で沈みこむ際に、大陸にこびりついた付加体で生じた断層の痕跡です。付加体の内部では、強い圧力で岩が変形して年代の違う岩石が隣接しています。安須杜の岩の成分は、2 ~ 3億年前の石灰岩で大陸の東端の付加体にありました。数千万年前から付加体の一部が大陸から分離して、今も東側に移動しています。「辺戸岬」周辺地図。2階「ふしくぶカフェ」。軽食が食べられるようであったが。そして、3Fの展望台はパスして「辺戸岬観光案内所」を出て、再び散策し石碑の近くに。「太田政作先生之像」。沖縄県国頭郡国頭村出身。1928年(昭和3年)に早稲田大学法学部を卒業。大学在学中に高等文官試験に合格し、長崎地方裁判所や那覇地方裁判所の判事、台北地方法院検事局の検事を歴任。澎湖庁庁長で終戦を迎える。戦後は熊本で弁護士をしていたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄に赴き副主席に就任。1959年に政府主席に就任すると同時に、保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると総裁に迎えられる。主席在任中は、実務者レベルによる日本政府との協力関係を築くことを模索し日米琉懇話会の設置を提唱する。しかし、米国民政府のキャラウェイ高等弁務官が沖縄政財界に対して積極的に介入し(キャラウェイ旋風)、沖縄自民党内の派閥抗争が激化。西銘順治ら反主流派が沖縄自民党を脱党するに至り、責任を取って辞職した。辞任後は東京で弁護士を開業し1965年の第7回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で出馬、221,478票を得たが落選した(この参院選には安里積千代も無所属で出馬したが69,251票を得るに止まり落選している)。1970年に自民党沖縄県支部連合会長に就任、復帰後の1972年(昭和47年)、最初の沖縄県知事選挙に立候補したが、現職の行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた とウィキペディアより。「太田政作先生 緑化顕彰碑」「辺戸岬」の見学を終え、車に戻り、県道58号線を再び逆方向に走り、「義本王の墓」を尋ねるべく手前の駐車所に入る。「辺戸集落の散策路と辺戸蔡温松並木保全公園」案内板。「辺戸集落の散策路と辺戸蔡温松並木保全公園亜熱帯林に囲まれた小さな辺戸集落は、豊かな歴史的遺産を持っています。この散策路は、樹齢250 ~ 300年の琉球松を有する辺戸蔡温松並木保全公園を通っています。公園を満喫するために、地元のガイドに案内を依頼することをおすすめします。琉球王国の黄金時代に尚敬王の摂政と相談役を務めた蔡温(1682ー1761)は、儒教の古典と清の政治経済の書物に通じていました。沖縄の歴史上最も影響力の強い三司官の一人てあった蔡温は、琉球諸島全域の灌漑と林業の事業の指揮を執りました。その業績の一つには森林減少に対する施策として松の大量植樹が挙げられます。これらの松の木は「蔡温松」として知られるようになりました。環境に対する蔡温の哲学は、資源需要と保全のパランスを考慮したものて、琉球における新しい繁栄の時代の礎となりました。彼の先見の明のおかげて、やんばるの森は、入念に手入れされた豊かな生態系として残存しました。戦後、沖縄を統治した「琉球列島米国民政府(USCAR(ユースカー) )」でさえ蔡温の施策の価値を認め、戦後の占領時代に彼の著作を英訳させたほどでした。首都から遠く離れたところにこれらの蔡温松が残されていることは、最盛期の琉球王国の強大な影響力、そして今日まて変わらない沖縄の特徴てある伝統と歴史への敬意を証明しています。」そして車を移動し「義本王の墓」を訪ねた。国頭郡国頭村辺戸。石段下に車を駐め石段を上って行った。グスクの如き道を進む。左手に石碑と案内板が。「有形文化財 義本王之墓」碑。「国頭村指定文化財」と。「義本王の墓義本王は沖縄最初の王統で国王である舜天王統の第三代目国王で、西暦1249年に即位した。しかし即位した翌年がら大飢饉・天変地異・疫病が起き、これは自分の不徳によるものであると王は次期王統の創始者である英祖を召して国政を代行させたところ、病気もやみその後のことは伝わっていないとされる。義本王は在位11年で英祖に譲位し、その後のことは伝わっていないとされる。その他にも、国が乱れたことに怒った群集が王を火あぶりの刑にしようとしたため逃げたとする説などもあり、実際はどのように権限の委譲がなされたかはわかっていない。墓は琉球建築の石工技術を活かし、仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観をなす建造物であり、1983年に国頭村指定文化財(建造物)に指定された。墓庭内中央に大型の厨子甕が安置されており、これは明治の改修時に尚家から送られた五尺の大陶棺と思われる。」「義本王の墓」入口。周囲には塀が巡っていた。仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観。2013年に墓の室内から甕(かめ)に入った人骨5~6柱と装飾品などが見つかったと。見つかった人骨は直径約1メートルの甕に入っていた。甕は墓の入り口より大きいため完成前に墓内に入れられたとみられる。現存する辺戸の墓は明治初期に尚家が改修したとされる。琉球石灰岩が積まれ、墓の外側は幅、奥行きともに約3m。墓や周囲の石垣は苔むして、非常に歴史を感じさせたのであった。次に訪ねたかったのが「美ら海展望台」であったが道路が閉鎖されていたため諦めた。海岸線に出て次に訪ねたのが「宜名眞(ぎなま)神社」。沖宮先代宮司・比嘉真忠氏によって創建された神社で、沖宮の境外末社。神社神道の神社としては、沖縄本島最北端の神社とのこと。国道58号を南下する。「座津武(ざつん)トンネル跡」を見る。座津武(ざつん)浜があるここ宇嘉地区は、険しい山が海の近くまで迫っており、しかも、浜の沖にはリーフが発達していないことから、台風時などには高波が浜に押し寄せるなど、国頭村でも有数の交通の難所であった。現在では、2013年に開通した3代目の宇嘉トンネルが最短距離で険しい山を貫き、国道58号宇嘉地区の越波や落石等の危険性を回避し、道路利用者の安全・安心な通行の確保が図られているのであった。かつての座津武(ざつん)トンネルへの旧道の遺構が残されていたが、手前にバリケードが。この交通上の難所に初代「座津武トンネル」が整備されたのは、戦前の1937年のことで、この初代のトンネルは沖縄の本土復帰の年である1972年に改修されている。それでも、険しい山が海に迫り、リーフが発達しておらず直接外海の波が押し寄せるという厳しい地形の状況から、台風や大雨時における越波や落石により、過去約20年間で15回もの通行止めが発生していた。通行止め時には道路ネットワークが途絶し、住民約750人の人々の生活に影響を及ぼしていた。そこで、2013年7月19日に座津武防災事業の一環として宇嘉トンネル(584m)を開通させ、災害に脆弱な国道58号宇嘉地区の越波や落石等の危険性を回避し、道路利用者の安全・安心な通行の確保を図ることができた とのこと。国頭郡国頭村宇嘉(うか)の海岸線を進む。「辺野喜(べのき)川」の手前にあった「辺野喜節」👈リンク 碑。国頭郡国頭村辺野喜1538。「いしゅの木の花や あんきよらさ咲きゆり わぬもいしゅやとて 真白咲かな」。「辺野喜川」に架かる「辺野喜橋」。「辺野喜川」沿いに川を上り、「辺野喜神社」への橋を渡った先にも「辺野喜節」の石碑があった。「伊集の木の花や あん美らさ咲きゆい わみん伊集やとて 真白咲かな」。Googleマップにはこの橋は「辺野喜川二号橋(ファーグナラフ)」と書かれていたが。「ファーグナラフ」の意味は?走って来た「辺戸岬」方向を振り返る。「謝敷節(じゃじちぶし)」👈リンク の碑。「謝敷いたびせに うちやりひく波の 謝敷みやらべの め笑れはぐき」国頭郡国頭村謝敷。「与那海岸」前から「与那の磯」方向を見る。多くのダムがあるようだ。沖縄の水がめ 沖縄は中南部の平野部に人口や産業が集まっています。 平野部では雨水をためることがむずかしいため、必要とされる多くの水を中南部だけでまかなうには限界があります。 そのため、山の多い北部にダムをつくって、はるばる中南部まで導水管によって水を送っているのだと。併せて沖縄の河川は、降雨後の出水が本土の河川と比較して極端に早いため、台風などの豪雨による被害が起こりやすく、たびたび川沿いの地域に大きな被害をもたらしてきました。一方、流域面積が小さいため、平常時の河川の流量は非常に少なく、日照りが続くと水不足を招きやすくなっています。それらの課題に対応するために、沖縄県土木建築部が管理・建設しているダムには、治水・利水・環境の大きく3つの役割があるのだ と。沖縄本島内にはこれまでに、福地ダム、新川ダム、安波ダム、普久川ダム、辺野喜ダム、漢那ダム、羽地ダム、 大保ダム、金武ダム(国)、倉敷ダム(県)、山城ダム(企業局)の11 のダムが完成しています。もちろん離島にもダムが。「与那川」に架かる「与那橋」手前。「新与那トンネル」。「与那海岸」。「与那海岸」から前方の岬を見る。「與那節」碑。国頭郡国頭村与那。「與那節」。「与那の高ひらや 汗はてど登る 無蔵に思なせば 車とうばる」。汗を流すほと難儀な坂道であるが、愛しい人を思えは平坦な道に感じるものであると、人問の心の持ちようを詠み込んだ歌。「無蔵」とは、日本語の「無惨」からきているという。無惨なことは「可哀そう」に転化し、さらに「可哀そう」が、「可愛い」に転化し、さらに沖縄では「可愛い」のは「彼女」と転化したそうである。「無惨」からはまるで無関係な「彼女」となったとは、言葉の変化は面白いのである。何故か上の写真のすぐ近くにも与那節の碑がもう一つがあった。歌詞が微妙に違い「与那の高ひらや汗はてどのぼる 無蔵と二人なりば一足なから」と後半部分が異なる。結局は愛の歌であり、意味はあまり変わらない気もするのだが。「与那の高ひらや 汗はてど登る 無蔵と二人なりば 一足なから」。与那の高い坂を 汗をかきながら登る あなたと一緒なら ちょっとの距離だし 車での平坦な道と変わらない と。二つの歌碑の下の句が違うのは様々な歌い方があると言う事らしい。横の建物には「ユナムンダクマの郷」、「WELCOM➡よんな~館」と。本島最北端の地、辺戸岬に行く途中にある与那集落。全国過疎地域連合の資料によると、国頭村全域が過疎市町村として登録されていると。与那集落もその中の一つ。年々子どもの出生率が減っていく中で集落の未来をどうにかしようと立ち上がったのがユナムンダクマ協議会。地域おこしとして区長が自らの手でたてたというユナムンダクマは標準語でいうと“与那の知恵を持っている人”を意味するそうで、地域の共同店と連携して集落の散策ツアーを提供しているとのこと。2012年から始まった集落の散策ツアーは10年間ものあいだ定期的に実施されてきた。>集落の祈りの場所の紹介や、与那の始祖が住み始めたとされる家、自然散策、58号線の与那トンネルに隠された秘密などなど、人と自然が密接に関わり合って生きてきた歴史を実際に体を動かして学ぶことができるのだ と。「新与那トンネル」の手前の左の高台に広場があったので向かった。右手が旧道。国頭郡国頭村与那358。芝生広場には沖縄やんばるの森に棲む国指定天然記念物の生物が紹介されていた。「ヤンバルテナガコガネ」。山原(ヤンバル)の中でもここ国頭村付近にしか生息していない と。「ヤンバルクイナ」芝生広場からは40kmほど離れた、右に「伊平屋島」、左に「伊是名島」の姿が ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.12
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「辺戸(へど)岬」に到着し駐車場に向かって進む。前方にあったのが「観光案内所」。2019年5月に完成したと。それまでは自動販売機ぐらいしか無く僻地感がすごかったのだと。「辺戸岬観光案内所 HEAD LINE」と施設1階が国頭村、大宜味村、東村のやんばる3村の観光情報を発信する案内所、施設2階が辺戸岬の眺望を楽しみながら飲食することができる休憩所。「HEAD LINE」の名称は「辺戸」をかけたシャレなのであろうか?駐車場に車を駐め散策開始。「杜と水とやすらぎの里”くにがみ”」案内板。「辺戸岬」案内板。「やんばる国立公園 辺戸岬 Cape Hedo辺戸岬は、沖縄本島の最北端にあり、「始まりの場所」てあるとされています。歴史書とされている『中山世鑑』によると、阿摩美久(あまみく)という神は、琉球諸島をつくった時、まず辺戸岳としても知られる神聖な山、安須森御嶽(あすむいうたき)をつくりました。興味深いことに、地質学者は、辺戸の山々から約2億5千万年前の地層が確認できることから、辺戸地域は実際に国頭の他の地域よりも古いことを明らかにしています。地元の人々が隕石による窪地だという星窪(ふしくぶ)もまた、この地域にある興味深い地形てす。この地域の他の見どころには、辺戸集落の北側にある墓があります。この墓は急遽退位した後、行方が分からなくなった13世紀の王、義本(ぎほん)のものであると信じられています。辺戸岬は、東は太平洋、西は東シナ海を見渡しています。観測ポイントに立っと、晴れた日には北に鹿児島県の与論島を見ることができます。そして、右側の木々の間には巨大なヤンバルクイナ展望台があります。」「辺戸岬」の上空からの写真をGoogleマップから。沖縄本島最北端に位置し、断崖絶壁に囲まれ自然のダイナミックさを感じられる絶景スポット。「太平洋」と「東シナ海」との境界線が示されていたが・・・。この境界線が正しいのであろうか?この地図ではこの日に訪ねた「慶佐次」は「東シナ海」に面していることになるのだが。ネットにはこの地図が。いずれにしても「辺戸岬」先端部は「東シナ海」に面していることになる。これが正しいのではないだろうか?「炬火 友情の火」碑。「第42回国民体育大会 海邦国体 炬火 友情の火 昭和62年10月21日採火 辺戸岬」と。友情の火は東コース 西コース 離島コースに分火され太陽の火(与那国町) 海の火(仲里村) 平和の火(糸満火)と集火して海邦の火となる と。前方に見えた「祖国復帰闘争碑」に向かって進む。「テリハクサトベラ」の群生に囲まれた石碑。「祖国復帰闘争碑」この石碑は、アメリカの統治下にあった沖縄が、祖国である日本に返還されたことを記念して建てられたモニュメント。辺戸岬は、祖国復帰を強く願っていた沖縄県民の想いが詰まった、平和を祈る場所でもあるのだ。「全国のそして全世界の友人へ贈る吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。 打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。 米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。 祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。 今踏まえている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。 一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。 しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。 闘いを振り返り、大衆が信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。」風の音は沖縄の祖国復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だと謳っている。一方でこの碑は喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもないと複雑な思いも吐露されているのであった。記念碑が建てられてから多くの年月が流れ過ぎていった今、辺野古問題等、書かれている事がより生き生きと沖縄の現状を表して警鐘を鳴らし続けている事を考える時、その何十年かの間に日本は沖縄に対してどのような姿勢をとり続けてきたのか、沖縄県民はどうだったのかを真摯に問われている、熱き熱き文章なのであった。建立年月日 一九七六年四月建立者 沖縄県祖国復帰協議会設計施工者 沖縄関ケ原石材碑文 桃原用行(復帰協 第三代会長) 文字 中曽根 悟(復帰協 第六代 事務局長)御嶽(うたき)であろう。断崖絶壁の下にはどこまでも青い海が。青と白の海のカオス。鹿児島県・与論島の島影も見えた。辺戸岬からは22kmと、鹿児島よりも沖縄から近い島。伊平屋島、伊是名島であっただろうか。ズームして。サンゴ岩に負けじと茂っている植物「テリハクサトベラ」の群生。高さ70~300㎝の常緑低木。珍しく海辺や強い日差しにも負けない植物だそうで、足元に這うように茂っているのは、海辺という厳しい環境下で生き抜くために根本にバリアを張るためなのだとか。葉は枝先に集中して付くので輪生のように見えるが互生。ヘラ形で大きく、表面に毛がなく、光沢がある。葉の先端部分に丸みはあまりなく、浅く鋸歯がある。葉腋に半月型の白い花を群生する。果実も白色に熟し、よく目立つ。テリハクサトベラの花の写真を2枚ネットから。テリハクサトベラが開花すると、ハチがブンブンと音を立ててうるさく飛び回りると。花の中心部には色がついていて、ネクターガイドになっているだと。ハチが体をねじ入れるのだと。奇妙な形で唇弁花と呼ばれまると。上に飛び出てアンテナ状になっているのが柱頭。柱頭の先は杯のようにくぼんでいて、最初はそこにおしべから花粉を貰い蓄えておきます。花弁は飛んでいる虫たちの飛行甲板になっていて、誘導路みたいな線もあります。ハチは奥の蜜を貰いに体をねじ込むと、背中に花粉がつきます。めしべは後から成熟し、ハチが次に訪れた際に背中から花粉を貰うのだと。「辺戸岬」から南方向の山々を見る。やんばるの森から突き出したブキミな岩塔。これが「安須杜御嶽」・「辺戸御嶽」のようだ。御嶽(うたき)とは沖縄の聖地のこと。この辺戸御嶽は沖縄開闢神アマミキヨ(アマミク)が久高島に降臨したのち、最初に創造した第一の聖地であると。左端ピークが岩塔(主峰)。かつて薩摩から荒海を越え、島々をたどって南海を目指した船乗りたちが、最初に目にする「琉球」がこの山だったろう。辺戸御嶽は、琉球王国の玄関を見下ろして睨みをきかすシーサーなのであった。山の名は左から「シノクセ」、「アフリ」、「チザラ」、「イヘヤ」と。卵形の石碑「琉球鐘鬼門」。文字の上に透明の丸い物質がはめ込まれていたが。誰かが無許可で設置したのでは とネットにはあったが・・・?その先の石碑を臨む。「夕月夜 みやらひの歯の 波寄する 欣一」沢木欣一は昭和43年、復帰前の沖縄に一か月余り滞在。5年後に「沖縄吟遊集」という句集を発表。「みやらひ」とは沖縄の言葉で「乙女」のことと。海の白波は乙女の歯にたとえられ、美人の形容になっている。健康な美的感覚。沖縄の月は明るい。月下の波の穂の鮮やかな白さを詠んでいる と。句碑の裏面。「沢木欣一は大正八年富山県生れ 昭和四十三年夏沖縄本島に滞在し句集「沖縄吟遊集」を編む「乙女(みやらひ)の句」はこの中にありこれを記念して碑を建つ」白い鳥の姿は「与論島・国頭村友好記念碑」。近づいて。アメリカが沖縄を占領していた時代、沖縄最北の村である国頭村(くにがみそん)と、北東数十キロの沖合に浮かぶ鹿児島県最南の島・与論島との間で、年に一回だけ交流集会が開かれていたと。本土から沖縄に行くのも、沖縄から本土に行くのも、パスポートが必要な時代だった。交流集会はちょうど沖縄最北のここ辺戸岬と与論島との間、北緯27度の海上で開かれたのだと。「ヨロン島・国頭村友好のきずなヨロン島のシンボルかりゆしの像愛と平和と旅の安全祈願」最北端ならではのダイナミックな景観。「やんばる国立公園 辺戸岬」案内板。これからの秋から冬にかけては北風が強くてうねりも高いので、鋭く尖ったサンゴ岩に当たって砕ける波のしぶきの迫力はすごいのであろう。隆起し絶壁となった岩。「やんばる国立公園 辺戸岬」案内板。環境省が設置したもの。ユニークな形状の石碑。「新沖縄観光名所 國頭東海岸線」碑。海岸にそそり立つ岩。「Rock Spire at Hedo Point」とGoogleマップには。辺戸岬の「不動明王」像。「不動明王」像の奥の岸壁に近づいて。再び「辺戸岬観光案内所」を見る。写真撮影スポット「沖縄島最北端の地 辺戸岬」。「国頭村文化財案内マップ[辺戸・宜名真]」「沖縄海岸国定公園」案内板。「沖縄海岸国定公園」は、沖縄島読谷村残波岬から名護市世冨慶までの海岸沿いと嵐山及び屋我地島を含めた羽地内海から辺戸岬までの海岸一帯と学術的に貴重な動植物のみられる与那覇岳、名護岳を含めた区域と周辺海域を合わせた19,352ヘクタール(陸域6,817ヘクタール、海域12,535ヘクタール)です。沖縄特有の隆起石灰岩の海蝕崖とサンゴ礁の変化に富んだ海岸線は、常に水平線を望みながらのロードパークとも言えるものです。山岳地帯の与那覇岳一帯は、典型的な亜熱帯常緑広葉樹林を形成しており、ノグチゲラなど貴重な動物の生息地でもあります。また、名護市字喜瀬及び恩納村字仲間地先海面については、稀少なサンゴや色彩豊かな魚類が豊富に生息しているため、この地域を『海域公園地区』として指定しています。また、一部の動植物については、採取・捕獲が規制されています」とネットから。「辺戸岬園地 沖縄島最北の園地」碑。再び先端の断崖絶壁を見る。雲も静かに流れいつまでも眺めていたい絶景なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.11
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次に訪ねたのが「瀬嵩埼(せだかさき)灯台」。国頭郡国頭村安田。瀬嵩埼灯台は沖縄本島の最東端に位置する場所にあった。ここからの眺めは青々とした海と太平洋が見渡せる絶景スポット。「瀬嵩崎燈台初点 昭和43年4月改築 昭和57年3月」こちらにも「瀬嵩崎燈台」。青い海に白の波筋が幾重にも。安田の浜にあるテトラボットが円を描くように見事に並べられていて、透明度の高い海の青いコントラストが美しい素晴らしい風景が見渡せたのであった。この風景を背景に、結婚式の前撮り写真を撮っているカップルの姿もあった。「安田漁港」を見る。「安田漁港」の先には「安田海岸」その先に岬が。ギンネム(銀合歓)であろうか、白い小さな球状の花が。和名はネムノキに似て、白い花を咲かす様子を雅語的に表現したところから。中南米が原産地だが、世界中に移植され現在世界のあらゆる熱帯、亜熱帯のアルカリ土壌地帯に繁茂している。日本国内には小笠原諸島と沖縄県に人為移入され、その後野外に逸出して帰化した。近年は南九州まで分布を拡大しているようである。更に県道70号線を進むと風力発電設備が2基姿を現した。「沖縄新エネ開発株式会社 楚洲風力発電所」。設備容量:3,600kW(1,800kW×2基)メーカー:エネルコン社(ドイツ)カーブの先に2基目が。「楚洲(そす)の浜」が右手に。その先に「赤崎」。「楚洲の浜」の先に国頭郡国頭村奥の岬が現れた。砂浜には何列かの黒き筋が。令和3年8月に発生した小笠原諸島・福徳岡ノ場の海底火山噴火に由来するとみられる軽石が沖縄周辺のこの海岸にも押し寄せたのであろう。白波の筋が青い海に映えていた。「ニライカナイの海 アダンビーチ」に車を停める。「ニライカナイ」とは海のはるか向こうや、または海底にあるとされている、理想郷のことを指す言葉とのこと。沖縄特有の信仰に深く関係する言葉で、生命の生まれる場所や死後に行く場所と考えている人が多いそうです。またニライカナイにいる亡くなった祖先は死後7代で、守護神に生まれ変わるとも考えられているのだと。海の向こうにあるニライカナイからは毎年、神様が沖縄に来訪し沖縄の人々の生活に、さまざまな恩恵を与えてくれるのだとか。「アダン」とは見た目がパイナップルに似ている「アダン」の木のことか?「沖縄県国頭村 田名展望台国頭村は沖縄県の中で、西表島と並び山を中心にした自然が最も豊なな村であります。ここ字楚州は国頭村の東海岸(太平洋側)北寄りにあって字の北側田名から南側我地に至る細長い集落です。この地域は田名という部落名でしたが、県道(70号線)が開通する以前は生活環境が困難、難儀であったと言われ、沖縄本島で最初の離部落となったようです。部落を離れた人々は山原の自然が忘れられず在那覇楚州郷友会、そして地元の人達の御協力によりこの土地が提供され、その創意によって展望台が作られました。晴れた日には遠方に与論島が見え、夜になると満天の星が見え星の降るビーチと変わります。ニライカナイの海、(水平線の彼方なら幸せが来る)右前方には夫婦岩があり、男と女の縁結び、子宝の祈願、家庭円満、健康長寿、交通安全等々の祈願者が訪れます。時間の止まったタイムリゾート、アダンビーチ」「時折ヤンバルクイナの鳴き声も聞こえます。展望台を訪れた皆様が山原の自然を満喫出来れは幸いです」。「夫婦岩」。「夫婦岩」方向を見る。男岩。女岩。これから行く北方向の海岸線を見る。米軍のヘリコプターであろうか。そして更に国道58号を利用して車を進めると「辺戸岬」が近づいて来た。辺戸の安須森の山裾の先には巨岩が肌を剥いていた。途中にあったのが「宇佐浜遺跡」。「宇佐浜(うざばま)遺跡」案内板。「宇佐浜遺跡 1972(昭和47年)5月15日 国指定史跡沖縄本島北部国頭半島の先端部は、高さ20メートル以上の断崖となって海にのぞんでいる。宇佐浜遺跡は、この断崖直上にあり、南から北へゆるやかにさがる傾斜地にある。この遺跡では、昭和45年琉球政府が発掘調査を行っている。その際、遺構として一辺約3メートルの方形の周囲に、幅約0.8メートルで帯状にこぶし大の砕石をめぐらしたものが検出された。内部は周囲より0.3メートル低くなっており、炉跡かともみられる焼土部分が一個所発見されている。調査者は住居跡ではないかと推定しており、先史時代の遺構としては沖縄諸島でははじめての発見である。出土品には、石器と土器があり、石器には磨製石斧のほか石皿が注意をひき、土器では外耳土器の出現と壺型土器の増加がやや著しい。遺構の年代はほぼ奄美諸島の宇宿上層式に平行し、本土の縄文時代末期あるいは弥生時代はじめにあたる時期のものと推定されている。したがって南島先史時代において縄文時代から弥生時代への転換期の様相をしめす代表的遺跡といえる。遺跡の現状は畑と山林で、約4600平方メートルである。」。「史跡 宇佐浜遺跡」碑。おもだったものは石碑が建っているだけで、あとは草に覆われていた。近づいて。そして「ヤンバルクイナ展望台」が見えた。ズームして。村の鳥をモチーフにした高さ11.5mの展望台であり、辺戸岬等の雄大な景勝地を望むことができるとのこと。首と胴体に展望窓がありようだ。南側の「世皮崎」方向の海岸線を見る。そして「辺戸岬」方向。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.10
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国頭郡東村慶佐次の山を超えて「国道311号」を国頭郡東村の「平良海岸」方面に向って進む。そして「道の駅 サンライズひがし」に立ち寄る。県道70号線、海辺の赤瓦の屋根が目印。国頭郡(くにがみぐん)東村(ひがしそん)平良550−23。「日本一 パイナップル」と。沖縄本島北部「山原」(やんばる)の東海岸に位置するここ東村。自然豊かな東村は県下一の「福地ダム」、日本一の生産量を誇るパイナップルで知られており、「花と水とパインの村」をキャッチフレーズに村づくりを進めている と。東村にはパイナップル生産に欠かせない3つの条件「酸性の土壌」、「水はけの良い土地」、「高い気温」が揃っているのだと。パイナップル作りに最適な土地として、約180もの農家の方たちが10種類以上のパイナップルを作っている。日本で唯一のパイナップル加工場があるのも、東村。これぞ日の出の光景に「サンライズひがし」と。店の外では「東村 露地パイン」が売られていた。そして内部では巨大なとうがん(冬瓜)やスイカも。駐車場横の案内板。「東村案内図」。東村は「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部、東海岸に位置する縦に細長い村。その総面積の約73%は森林で、その森林を源とした大小14の河川が流れている。人口はおよそ1,800名で沖縄本島で最も人口の少ない地域。「やんばるの森」には多種多様な動植物が生息し、東洋のガラパゴスとも称され、2016年9月に「やんばる国立公園」に指定され、さらに2021年7月には、第44回世界遺産委員会において、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が世界自然遺産として登録が決定された。村の花は「つつじ」、村の鳥は「ノグチゲラ」、村の木は「ヒルギ」、村のキャッチフレーズは「花と水とパインの村」。「花」は3月に満開なるつつじを始め、コスモス・ブーゲンビリア・ハイビスカス・野ぼたんなどが咲き誇るのだ と。「世界自然遺産 ようこそやんばる国立公園へ」「やんばる国立公園」は、沖縄県国頭郡国頭村、大宜味村および東村ならびにこれら3村の周辺海域を区域とする国立公園である2016年の当公園の国立公園の指定は、日本全国で33番目。新規の指定としては、2014年の慶良間諸島国立公園以来2年ぶりで、沖縄県内においては3番目の指定となった と。「沖縄・東村 観光案内マップ」。東村の山中を走る県道70号線をひたすら北上して行くと、左手にあったのが「北部訓練場 」。「北部訓練場 」は、沖縄県国頭郡の国頭村と東村にまたがるアメリカ海兵隊の基地。総面積は約35.33km2であり、沖縄県における最大の軍事演習場である。本区域の上空2000フィート(≒610m)までは米軍による使用が認められているとのこと。さらに県道70号線・国頭東線を北上する。そして沖縄県国頭郡国頭村(くにがみそん)に入る。「めんそーれ 杜と水とやすらぎの里 国頭村へ」。「めんそーれ」はもともと「いらっしゃい」「おいでなさい」という歓迎の意味。山中を走る県道70号線・国頭東線をクネクネと。左手に石碑があったので車を停める。「官の山拓き甦る大地」碑。国頭郡国頭村安波。「この開発地は、もともと国有林野で日米両政府間の地位協定によって軍用地として提供された地域でありましたが、安波区はもとより耕地面積が少ないことから戦前戦後と山依存による生活が余儀なくされたことから農地を拡大し農業生産を増し農家生活の向上を図るため農地開発事業を目的に昭和四九年村を始め県政府関係省庁に対し国有林野土地の活用払い下げを要請致したところ国始め熊本営林局の御配慮と日米合同委員会の御高配によって昭和五ニ年十月十五日一三一haが返還合意され、同日基本計画策定が承認、全体実施設計が着手、昭和五三年度から県営農地開発事業として採択、着工 昭和六〇年度には造成地七四haの甦る大地か見事完成されました。ところがこの圃場の土質は強酸性赤土色土壌で保水力に乏しくかんがい施設は急務とされておりましたが、農産物の自由化等に対し、生産性の向上、地作物への転換の円滑化等農業経営の合理化を図るため平成ニ年度に県営緊急畑地帯総合整備事業が採択され畑地かんがい営農用水施設土層改良農道が整備されたことにより七四haの耕地に散水可能となり「水無し農業」からの脱却が図られ今後の農業経営安定に大きく寄与するものと期待されている。今、この地は広大な平地に変貌しパイン キビ 花卉等の産地として大きく飛躍を遂げております。ここに関係機関に深く感謝の意を表し強く心に銘じ永く我が字の発展に資することを祈念してこの碑を建立する。」「水と緑の里」碑。「県営緊急畑地帯総合整備事業地区名/国頭村安波地区事業主体/沖縄県事業時期/平成2年~平成5年事業費/532,000,000円工事概要/農道 1,876m 土層改良 33ha 営農用水 85ha 畑地かんがい 73ha」。車窓からパイナップル畑を撮ったが・・・。更に進むと左手に「安波節」碑。「安波節👈リンク安波の真はんたや 肝すかれ所宇久の松下や ねなしところ」「県道70号線 国頭村安波(あは)」。川を渡る。「普久川(ふんがわ)」。「御拝橋(うがんばし)」。「御拝橋」を渡った直後の右手にあったのが、「安波のグスク」。県道70号線の道路脇の石段を降りた場所に石鳥居があった。石段の先には急な長い階段が続いていた。先を急いでいたのでこの先は諦めたので、以下2枚の写真はネットから。「安波のグスク」の「拝所」。「安波のグスク」であるが、周囲に石垣等は残っていないようであった。そして「拝所」の内部。石鳥居の先にあった石碑。「慰霊塔」のようであった。「御嶽」であろうか。この石碑も解読不能。県道70号線「アダ・ガーデン ホテル沖縄」沖縄最北端に位置する国頭村、やんばる国立公園内に建つ沖縄最北端のリゾートホテル。このホテルは2000年、沖縄とベトナムの友好の証として、建築資材から調度品までをベトナムから運び、すべてベトナム技術者の手によって建てられたのだと。国頭郡国頭村安田1285−95。その先に県道2号線との交差T字路があった。次に訪ねたのが「安田(あだ)のシヌグ」碑。国頭郡国頭村安田39。「国指定重要無形民族文化財 安田のシヌグ」。「安田のシヌグ👈リンク安田のシヌグは、おおよそ400年の歴史を持ち、私達の祖先が生み出した貴重な民族文化で、安田の村づくりの根幹をなすものである。往時の生活は厳しかった。開拓の途上にあった安田の村落共同体形成や村落自己防衛の理念は、シヌグに滲みるとともに各行事にも顔を覗かせている。つまり、安田の村づくりの根底にある独自性は野性的で、土臭さの理念が潜在する。シヌグ行事のヤマヌブイ、ウシンデークは、神仏、自然への祈りをとおして、合力加護を賜り、村落の安寧、五穀豊穣、また村人の無病息災を招来する古代社会の自然信仰に繋ぐお祓いの祭祀である。シヌグ行事は、旧暦7月の初亥の日から2日間にわたり執り行われる。ウフシヌグ(大)、シヌグングワー(小)は、隔年交互行事で行われる。従前、ウフシヌグは3日間行われていた。ウフシヌグは、村の男達がこぞってメーバ、ヤマナス、ササの3方の山に入る。ヤマヌブイによって、男達はつる草や小枝を身につけ、頭にガンシナー(花・小枝の冠)をかぶり、山の神からセジ(霊力)を受け草装神になる。「エーヘーホーイ」「スクナーレー」を唱和し、田畑や村人のお祓いをする。シヌグ行事の前の旧暦6月25日の夕刻には。ウシンデークの練習を知らせる太鼓(ナイムンハジミー)の合図で村の女性たちがアサギマーに寄り集まりウシンデークの練習を始める。祭りの前夜祭とも言える。1975年(昭和50年)12月、安田のウシンデークが沖縄国際海洋博覧会に出演、翌年、1976年(昭和51年)7月14日、安田古文化財の保存と後継者の育成を目的に安田古文化財保存会を発足させ正式な活動が始まった。1978年(昭和53年)5月22日には、国の重要無形民俗文化財として、文部大臣により指定された。それを契機にシヌグの民俗的文化価値は、県内外の公的機関、民俗学者、音楽家、報道機関、写真家等から高く評価され、研究が盛んに行われるようになった。現在、安田のシヌグは、内容が多面的、多彩であり、多くの人が参加する。この行事は、沖縄の「祓い」の神事の古い姿をとどめ、民族文化の原型的なものを見せている。この貴重な伝統的な民族文化を保存し継承することは、互いの社会的責任であり、安田の地域興しの道に通じると確信するものである。安田は山の里、海の里、シヌグの里でもある。仮に、シヌグ祭りが無ければ古里に寄せる心情も変わっていたに違いない。 平成23年7月31日 国指定重要無形文化財 安田古文化財保存会発足35周年記念」茅葺き屋根の「神アサギ」もあった。神人(かみんちゅ:琉球信仰の神職者)達が祭祀の時に使う壁のない、屋根と柱で構成された建造物。茅葺の「神アサギ」は本島には数えるほどしか残っていないとのこと。「安田小学校発祥之地」碑。創立135年という、国頭村の中でも最も長い歴史を持つ小学校の一つである安田小学校の発祥の地を示す記念碑。「安田小学校の前身は、1887年4月16日に創設された簡易学校。3年後の1890年4月1日に安田尋常小学校として独立しました。それ以来、楚洲尋常小学校が独立したり、国民学校になったり、小中学校になったり、様々な経緯をたどりましたが、現在では、安田小学校単独校として、創立130年以上を誇る、国頭村でも最も長い歴史を持つ小学校となっています。戦後の1952年5月5日には、現在地(安田279番地)に移転していますが、かつての安田小学校は、安田集落の安田協同店の斜め向かいにありました。この碑は、かつての安田小学校が建っていた場所を示すもので、碑の設置年月は不明ですが、安田小学校創立記念事業として建立されたものと思われます。」と。門柱には「安田尋常小学校」と。安田協同店のすぐ近くには、ガジュマルが枝を伸ばす公園が。公園内には、遊具の他に、小さな祠と「平和之塔」と刻まれた慰霊碑もあった。小さな祠。その右側には「平和の塔」。多くの合祀者名が刻まれていた。ガジュマルの巨木。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.09
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「国道331号」を更に北上する。次に「東村ふれあいヒルギ公園」を訪ねた。慶佐次(げさし、けさし)の沿岸に繁茂するヒルギ林(マングローブ)など、熱帯特有の植物が観察できる公園。なかでも、「ヤエヤマヒルギ」は国の天然記念物にも指定されており、ここが北限の地とされる。国頭郡東村字慶佐次54−1。「やんばる国立公園 慶佐次湾」「国立公園 東村ふれあいヒルギ公園 案内図」近づいて。東村にある「東村ふれあいヒルギ公園」は、熱帯特有の自然を身近に感じられる緑あふれる公園。やんばる国立公園にも指定されている慶佐次湾のそばに造られた公園で、園内には展望台や遊歩道を設置。ドライブの立寄りスポットとしてや、マングローブカヤックツアーを楽しむ人が多く訪れる人気の場所のようであった。「ヒルキ(天然記念物)やシオマネキ等生物の保護のため、マンクロープ林内へ立ち入りを禁止します。」と。展望台の前方からヒルギ林(マングローブ)を見る。ヤエヤマヒルギ(八重山蛭木、八重山漂木、学名:Rhizophora stylosa Griff.)は、ヒルギ科ヤエヤマヒルギ属の常緑高木。別名オオバヒルギ(大葉蛭木、大葉漂木)、シロバナヒルギ(白花蛭木、白花漂木)。幹の根元をズームして。幹の根本近くから周囲に向かって、多数の弓なりの形状の呼吸根を伸ばしているのだ。この呼吸根は、幹の下部から斜め下に向かって出て、枝分かれしながら泥に入り込むので、見かけはタコノキ類のものに似ている。むしろ幹を支えているようにも見えるので、支柱根と言うこともあるのだ。果実は卵形で、樹上にあるうちに先端から長さ30cm以上にも及ぶ細長い緑色の幼根が伸びることから、胎生種子と呼ばれる。成熟した胎生種子は、他のマングローブ植物と同様に母樹から落ちて海流に乗って移動する海流散布によって分布を広げるとのこと。こちらの写真はネットから。「東村のマングローブ」案内板。慶佐次湾のマングローブは沖縄本島では最も広く、本島で見られる4種類のマングローブ植物のうち3種類が見られ、ヤ工ヤマヒルギの北限地であることなどから「慶佐次湾のヒルギ林」として1959年に当時の琉球政府の天然記念物に指定され、1972年に沖縄の祖国復帰と同時に国の天然記念物に指定されました。また、慶佐次湾に多く見られるオヒルギ、メヒルギ、ヤ工ヤマヒルギなどの「ヒルギ」は、1993年に、村政施行70周年を記念して新たなシンボルとして「東村の木」に指定されました。2016年にはやんばる国立公園(慶佐次湾)として指定を受けています。」「上空から見た慶佐次湾のマングロープ(ヒルギ)林沖縄本島で見られる多くのマングロープ林の中で最も規模が大きく、面積は約10ha(100,000m2)もあります。」「マングローブとは海岸をよく見ると、満潮の日は海になり、干潮の時には陸地のようになるところがあります。このような場所のうち、川の河口付近の、真水と海水が混じり合う場所を汽水域と呼んでいます。マングローブとは、熱帯や亜熱帯地方のこのような汽水域に、海水の塩分濃度に耐えられる樹木がたくさん集まってできる林や森のことをいいます。マングローブに生える植物マングローブに生える植物は、陸上の植物とは違った形や性質を持っています。いちばん大きな違いは根です。陸上の植物は水を求めて広く深く地面の中で伸びていますが、マングロープに生える植物は、地面の上でタコの足のようになっていたり、くねくねとシャクトリムシが這うような格好になっていたり、波形になっていたりします。また、植物の体の中では害になる塩分を体の外に出したり、吸い込まないようにする性質を持っていると考えられています。」「マングローブに棲む生き物たち慶佐次川でみられる貴重な生き物マングローブには、鳥、昆虫、貝、カニ、工ビ、魚などの多くの生き物たちが棲んでいます。」「失われつつある慶佐次川の自然」「慶佐次川の豊かな自然を取り戻そう!」多くの小魚も泳いでいたが。【慶佐次湾のヒルギ類の区別点】「その名前から、オヒルギは雄の木で、メヒルギは雌の木で、雄と雌の両方の木があるので実がなり、種子をつけるのだと考えがちですがそうではありません。オヒルギには赤い色をした萼の花が咲き、メヒルギには白っぽい色の花が咲きます。オヒルギとメヒルギでは花や種子の形や色も違い、全く別の種類の木なのです。」「展望台」。展望台からマングローブを見る。公園の入口にはシオマネキ(カニ)のシンボルが。意外と大きいので迫力があるのであった。国道331号の「慶佐次大橋」。公園事務所のガラス戸に貼ってあった「外来ヘビ類の目撃情報を集めています。これらの外来へビは、やんばる三村(大宜味村・東村・国頭村)ではまだ分布していないことになっていますそのため、早期発見・初期防除がとても大切です。【特定外来生物】タイワンハブ 80 ~ 130 cm中国南部、台湾原産。ハブ酒に用いるため輸入されたものが逃げるなどして、名護市などで急速に分布を広けている。ハブよリー回り小さいが、気性が荒く攻撃的。うかつに近づくと矢のよう飛びかかってくる。【特定外来生物】タイワンスジオ 180 ~ 270cm台湾原産。うるま市や沖縄市などで分布を広げている。しっぽの両側の黒いスジが特徴的でこの名がついている。毒はないが、2mを超える大きなヘビとなリ、ネズミや小鳥を好んで食べるため、もともとすんでいた生きものに深刻な影響をおよぼすと考えられている。以下 略」と。「沖縄・東村 観光あんないマップ」「ウッパマ 慶佐次湾のヒルギ林」案内板。「ウッパマ」は沖縄の方言で、漢字で「大浜」と書くと。その名前の通り、長い砂浜が続く、静かな場所と。「ウッパマ」はそんな東村の慶佐次エリアにある。マングローブ林で有名な川のある場所から車で数分のところに「ウッパマ公園」があり、その先が海になっているのであった。「東村ふれあいヒルギ公園」入り口左にあった「天然記念物 慶佐次湾のヒルギ」案内石柱。次に「東村ふれあいヒルギ公園」の前、「国道331号」を渡った場所にあった建物を訪ねた。入り口には「シーサー」が鎮座。シーサーは、ここ沖縄県などでみられる伝説の獣像。魔除けの意味を持ち、入口や屋根の上に設置されることが多いとされている。名前は「獅子(しし)」(元はサンスクリット語のライオン、シンハー)を沖縄語で発音したものである。八重山方言ではシィーシィー、シーシ-という。一体で置かれることも、仏教の影響か阿吽像一対で置かれることもあるが、単体よりも一対で置かれることの方が多いとも言われる。阿吽の違いにより雌雄の別があり、各々役割があるという。一般的に口の開いたシーサーが雄で向かって右側に置き、福を招き入れ、口を閉じたシーサーが雌で向かって左側に置き、あらゆる災難を家に入れないとされているが、口の開け閉めによる雄雌の区別には議論があるという。敷地内の植栽には濃いオレンジ色の花が。沖縄三大名花の一つ「サンダンカ(山丹花)」であろう。鮮やかな赤色やオレンジ色の花を咲かせるサンダンカ。ビビッドな花色とその特徴的な姿は、この時期・沖縄の夏?の景色にぴったり!!慶佐次地区公民館の立つ中庭にあったのが「島袋正雄(しまぶくろ まさお)師之像」。島袋 正雄👈リンク(しまぶくろ まさお、1922年9月25日 - 2018年4月24日)は、沖縄県国頭郡東村慶佐次出身。 国の重要無形文化財「琉球古典音楽」の保持者(人間国宝)に認定された。台座には「歌の道学で 人の真理さとれ 我肝修めよる 要ともて」と。自己の心を修める要と思い、歌の道を学んで、人の道の真理を悟りなさい、という意味であろうか?「島袋正雄翁座像建立趣旨島袋正雄翁は大正十一年、東村慶佐次に生誕し、少年期より村芝居の地謡を務めていた父の歌三線を聞きながら成長されました。翁は天性の音楽才能に恵まれ、昭和ニ十六年に野村流古典音楽の宮平三栄師に師事、昭和三十五年から幸地亀千代師に師事し歌三線を学び、ニ人の師の下で技能を研鑽し弛まぬ努力の結果、実演家として傑出した歌三線の技量を発揮。翁の格調高い歌唱は、聴く人を魅了してやまず、名人と讃えられるようになりました。また、翁は野村流音楽協会の会長の要職を十年にわたり歴任するとともに、更に組踊・地謡の技能向上のために琉球古典音楽の普及及び後継者育成にも情熱を注ぎました。慶佐次区では、翁を我がふるさとの誇りとし、功績を永久に讃えるとともに三線音楽の普及並びに次世代への懸け橋としてその功績が引き継がれていくことを祈念し、生誕の地に座像を建立するものであります。 平成ニ十四年五月十九日」「島袋正雄師略歴」。略歴は省略。右は「大正十年三月三十一日創立 慶佐次育英会 創立記念碑」左は「慶佐次健児のうた」碑。「慶佐次健児のうた 宮城盛吉作詞一、流れは清き慶佐次川 永久に流れるこの水に 産水くみて生れたる 我らは慶佐次健児なり われらは慶佐次健児なりニ、みどりしたたる四方の山 さえづる鳥もたのしげに ひる木にすだく鳩の声 われらが幸をうたうなり 我等が幸を祝うなり三、真砂きらめく大浜に よせては返す白波の 和信と勇気にあふれなる 我等が心の姿なり われらが心のすがたなり四、育ちし里は小さいけれど 我等が未来は洋々と やがてはとばん五代州 いでやはげまん諸共に いでや進まんもろともに」「慶佐次地区公民館」。慶座次共同売店の建物の煙突?にも「慶座次湾のヒルギ林」と。慶座次の汚水マンホール蓋。慶佐次湾のマングロープ(ヒルギ)林を進む二人乗りのカヤックとヒルギ林そして東村の村章がデザインされていた。この木は?ホウオウボク(鳳凰木)であっただろうか。パイナップルに似た果実を付けていたタコノキ科の常緑樹「アダン(阿檀)」。公園の係の方に名前を尋ねたが、度忘れしてしまったと。タコノキ科タコノキ属(パンダヌス属)の常緑樹。奄美大島~沖縄から台湾、東南アジア、太平洋諸島まで亜熱帯~熱帯地域に広く分布する。タノノキ属は「蛸の木属」。海岸のそばで群落をつくることが多く、横に伸びた枝からタコの足のように支柱根を垂らす。樹高は3~6mほど。幹にはリング状に落葉痕が並ぶ。「アダン」は、沖縄に出かけると目にすることが多い南国の雰囲気あふれる植物。「アダン」の実には毒があるともいわれていると。「アダン」がどのような実で、沖縄ではアダンがどのような食べ方をされているのかをネットで調べてみました。「アダンは実だけでなく、葉も食べることができます。人間が食用として主に用いられているのはアダンの新芽や葉です。主に石垣島や宮古島などで観光客向けにアダンの茎や葉を使った料理がされています。また、お供え物としてもアダンが利用されることがあったそうです。ヤドカリなどの好物というイメージや、アダンには毒があると聞いている方も多いことからも、一般的には食べられていないことが多いです。アダンが食べられていない理由がいくつかあります。アダンの実は硬く、繊維がたくさんつまっています。サトウキビのようなイメージで食べられる範囲も少ないため、食用としてはあまり適していません。アダンの実は中心の白い芯の部分が食べられる部位です。食べるとほのかに甘い味がします。パイナップルのような見た目と一変、アダンの実はそれほど甘くないのであまり食べられていないようです。アダンをおいしくいただくにはあく抜きをするなどと少し手間がかかりますが、沖縄や南国地域に出かけた際はアダンを使った料理がどんな味かも、お店でぜひお試しください。」と。断面はこのようになっていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.08
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「国道331号」を海岸線に沿って進むと、右手にあったのが「聖火宿泊碑」。1964年の東京オリンピックの聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建築された碑。沖縄県名護市嘉陽63番地。一番右の石碑には「一九六四年九月七日 オリンピック東京大会の聖火の当地宿泊を記念する」と。中央に「聖火宿泊碑」。左手に「聖火台」。「History of the olympic torch」案内板。案内板では聖火台の歴史や聖火宿泊碑、久志村内の聖火リレー、聖火台前での式典の模様などを写真で紹介していた。「History of the olympic torch聖火火台の歴史1964 (昭和39 )年10月10日第18回オリンビック東京大会が開催された。第18回オリンビック東京大会の聖火は、8月21日に近代オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで採火され、世界11か国を経て、9月7日正午(台風で1日遅れた)に「City of Tokyo」号にて沖縄に到着。翌8日から、沖縄本島一周の聖火リレーが開始され、第1日目の宿泊地として、久志村(現名護市)嘉陽区に一泊した。聖火台は、台座の高さ約90cm、約130 cmのヒューム管でできた、円柱の上に直径約lmのシンメーナーべ(大型鍋)の点火台でできている。実は、こにある聖火台の歴史は古く、1958年4月、日本で初めて開催された第3回アジア競技大会の聖火リレーの聖火台として使用され、民政府(現県庁)前にて聖火が灯されたものである。製作者の、森山一成氏の好意により、東京オリンピックの聖火台として、久志村(当時)に寄贈され、嘉陽区民をはじめとする、地域住民の協力により、現在の地に移設された。聖火台として当時の姿を今に伝えるオリンピックレガシーは、第3回アジア競技大会・第18回オリンピック東京大会の聖火を灯し、2020年東京オリンビック・バラリンビック聖火リレーで、3度目の聖火を迎える。聖火宿泊碑(久志村行政による)1964 (昭和39 )年9月、オリンピック東京大会の聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建設された。宿泊碑の月日が1964年9月7日となっているが、台風で型火の到着が、1日遅れたためである。実際の宿泊の日は9月8日である。聖火の到着前に、宿泊碑の建設を行い、宿泊した当日に除幕式を行った。当時の村民の、聖火宿泊にかける熱意と思いが伝わる。以後、この日を基点として「聖火宿泊記念駅伝・20kmロードレース大会」が毎年開催されている。聖火のあとさきの碑(嘉陽区民による)1965 (昭和40 )年3月28日除幕式挙行。嘉陽小中学校PTAの記念事業として、PTA会員及び全校区民、区出身者の協力を得て建立された。当時の、嘉陽区民の聖火を迎える感動と興奮、聖火が去った後の虚説感や充実感などが表現されている。」~久志地域ロゴに込められた想い~・朝日の昇る名護東海岸・聖火台に灯る炎は、当時の感動と興奮、13区が守り続けてきた地域の誇り・聖火台を支える13本のラインは、久志13区をイメージ・1964年から2020年。そして未来へとツナグ地域の請り、受け継いでいく想い、 未来への希望「聖火のあとさき」碑。「聖火のあとさき世界を相手に嘉陽がお祭り行事をしたのだから大ごとだ心の片隅に生えた小さな企が みるみる聖火が近づくにつれてふくれ上がりただならぬ様相を呈し とうとう村人では手におえないものとなったか やっとのこと手綱は放さなかった昨日も今日も 純粋な聖火到来の希望に励まされながらも待ちくたびれた挙句すかさず西の果からギリシャから御神火は赤橙の光に白い煙を引いてすいすいトクトクと日の丸の渦波を突走って海近く森近くオリンピア に似ているという潮騒の嘉陽 の岸辺にランランと燃えた安堵か神秘か感激か シュンとした興奮がそこの群集を掩うていたそして聖火の台風一過嘉陽も人も名残りさびしくさびれたしかし満足と喜びの後味は良く五輪の池は静かに平和の影を映し碑文は永く後世に語り告げん」そして「嘉陽海岸」まで足を延ばす。東海岸に面した嘉陽集落沿いに続く細長いビーチ。国道脇だが、モクマオウの防風林のおかげで比較的静か。遊泳禁止のようであったが。海面からニョッキと付き出た岩が印象的。右手には「ギミ崎」そしてその先に「安部オール島」。「聖火台」の左手にあった門には「嘉陽小学校」と。名護市立「嘉陽小学校」(沖縄県名護市嘉陽41)が閉校したのは、2009年3月末のこと。創立以来99年間の歴史を誇った当校。卒業生の数は621名。目の前が美しい海という恵まれた環境に抱かれて、生徒はのびのびと成長することができたようです。当校の歴史上特筆すべき点、それは東京オリンピックの聖火が宿泊した施設であるということ。実際に現地にはその史実を記す記念碑も佇んでいたのであった。現在は自然環境を学べる施設(美ら島自然学校)として引き続き地域にとって大切な場所となっているのだ と。「本日は休校日です」と。毎週月曜日、年末年始は休校日 と。さらに「国道331号」を北上して進むと「嘉陽層の褶曲(国指定天然記念物)」の案内があったので右折して「天仁屋ビーチ」に、向かって進むと右側に案内板が立っていた。「天仁屋原遺跡(てにやばるいせき)」と。天仁屋公民館の南東側、神アサギやニガミヤーなどの拝所のある広場は天仁屋の初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁、青花、近世~近代の沖縄製陶器などが採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています と。「天仁屋原遺跡」案内板。「天仁屋の初期集落跡と考えられており、グスク時代の土器片や中国産の青磁、染付や近世・近代の沖縄産陶器が採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています。時代:グスク時代~近代(約900年前~約70年前)」。「天仁屋原遺跡」案内板の近くに、石が転がっていたがこれも遺跡から発掘されたものなのであっただろうか。「嘉陽層の褶曲(国指定天然記念物)」案内板がここにも。石鳥居。「天仁屋御嶽」があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれている と。「天仁屋の宮」のイビ。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」は「琉球国由来記(1713年)」に「アフラヤマ嶽/神名:コパヅカサノ御イベ」と記されており、ニガミ(根神)の崇み所であったと伝わります。ニガミ(根神)とは集落発祥のニーヤ(根家)から出たノロ(祝女)を意味します。「天仁屋集落」にはかつてニガミ(根神)、ウドゥイガミ(踊神)、サンナンモー(神人の小使い)、ニーブガミ(男神)と呼ばれる神役が存在していました。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の鳥居を抜けた先には「天仁屋御嶽」のイビが鎮座しており、御嶽で最も重要な聖域であると崇められています。この御嶽は「天仁屋集落」の南西側にある「嘉陽ウイグシク(上城)」へのウトゥーシ(遥拝所)であるとされています とネットから。「天仁屋」バス停の奥には「神アサギ」があった。「神アサギ」は、集落の守護神を歓待する祭祀の場で、集落を守護する御嶽の近くにあります。御嶽はノロなどの神女以外入ることが許されていないため、人々が集い祭祀に加われるのはこの場所になります。神女たちが御嶽へ遥拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所として使われます。 ここの「神アサギ」の特徴は寄棟の茅葺小屋で、軒が低く中へ入るためには腰をかがめなければ入ることができません。柱は石柱を地中に挿しただけの穴屋【アナヤー】形式で、屋根は扠首(さす)構造でできています。 現在でも「神アサギ」で祭祀が行われていますが、戦後に建てられた建物の多くは、瓦屋根やコンクリート造づくりとなっています。扠首構造とは、逆V字型に寄りかかった2本の材を、水平方向に架けられた材で支えた構造で、沖縄ではこの2本の材を【リン】と呼よびます。小屋組みでは、頂部の棟木(屋根の頂部に用いる水平材)部分でこの【リン】を交差させて結ぶことで、小屋内に束が立たず内部を広くとることができます と。そして坂道を下って行くと、海岸の岩場の手前に案内板が姿を現した。「国指定天然記念物 名護市 嘉陽層の褶曲」。「現在の日本列島の骨格は、3億年ほど前からの地層の付加作用により形成されてきました。沖縄地域も例外ではなく中生代三畳紀以降、おおむね西側から東側に向かって次々と付加作用により発達したことがわかっています。付加作用とは、海洋プレートが海溝で沈み込むとき、その上にある堆積物が大陸プレートの縁に剥ぎ取られてそのまま大陸プレートの一部になることです。天仁屋からバン崎にかけての海岸には、新生代古第三紀始新世(約5400万年前~約3700万年前)の最も新しい時代に付加された嘉陽層と呼ばれる地層が分布しています。嘉陽層は、当時の海溝付近の深海に堆積したタービダイトと呼ばれる砂岩と泥岩の互層を主体とする地層です。海底地すべりの堆積物よりなる嘉陽層は、さまざまな堆積構造や逆断層が見られ、特に地層の褶曲現象が発達しています。褶曲構造の波長は、砂岩層が厚いほど大きくなる傾向があります。20cm以下の厚さで砂岩層と泥岩層が繰り返すバン崎周辺では、細かな褶曲が見事に発達しています。また、比較的厚さの薄い砂岩層には、深海に棲息する動物によって形成されたと考えられる生痕化石(生物が活動した痕跡)がしばしば観察されます。ここで見られる生痕化石は水深2000mを越える深海底の環境を示すものとされています。このように、嘉陽層には付加作用によって形成された日本列島の成り立ちを示すさまざまな現象が保存されており、極めて重要であることから、平成24年( 2012年) 9月19日に国の天然記念物(地質)に指定されました。」「嘉陽層の褶曲」案内地図。【付加作用の仕組み】👈リンク。「国指定天然記念物「名護市嘉陽層の褶曲」を見学されるみなさまへ褶曲のある海岸線はとても崩れやすく、土砂崩れが何度も起きています。見学の際は、崖に近づかす、離れて観察しましよう。」「嘉陽層の褶曲」案内地図では、海に向かって右側の「嘉陽層の褶曲」の位置が示されていたが勘違いして左側に行ってしまったことに今、気がついたのであったが。海蝕洞を見る。近づいて。海蝕洞の上には「嘉陽層の褶曲」が確認できた。嘉陽層と呼ばれる地層。ここには激しい褶曲が、逆断層か。北側の絶景を見る。ズームして。正面の岩島。天仁屋崎からバン崎を望む。別の場所に移動して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.07
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国道331号を進むと、右手の対岸に沖縄県名護市辺野古で進む「米軍新基地建設」現場が見えた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設計画地である。ズームすると盛り土を積み込んだ運搬船の姿が確認できた。米軍普天間飛行場の「名護市辺野古移設計画地」案内図。埋立開始前2017年前後の航空写真。そして2022年9月の埋立状況。すでに海面から4mの高さまで土砂投入➡最高10mまでかさ上げ予定 と。滑走路が予定されている東側の埋立地は軟弱地盤が発見され工事が全く進展していない。国は地盤改良の設計変更を申請しているが沖縄県はこれを承認せず法廷闘争に進展する可能性が強くなっているのである。左側の岬を見る。左手には多くの幟が立っていた。「エナジック スポーツ高等学校 学生寮建設予定地」と。本学院は、通信制の星槎国際高等学校(札幌市)と連携して高校卒の資格も取得できる体制を整え、野球とゴルフに特化した、特色ある学校のようであった。高等学院は最高水準の設備を用意。ゴルフ部門は18ホールを備えたエナジック瀬嵩カントリークラブとその練習場を使用。クラブハウスも完備。野球部門はエナジック社会人野球チームが本拠としているエナジックスタジアム石川(うるま市)を活用。本学院は、恵まれた環境と卓越した講師陣を備えた、日本初のエリートアスリート育成機関といえるのだと。ゴルフ大会で優勝した生徒の名前が書かれた幟が並ぶ。そして次に訪ねたのが「汀間公民館」の前にあった「御嶽小(うたきぐぁー)」と呼ばれている祠。近くにおられた地元の方に尋ねると「汀間」は「ていま」と読み、地元の方は「てぃーま」と言っているとのこと。名護市字汀間22。「拝所の概要所在地 名護市字汀間二二番地この聖地は通称御願小(うがみぐぁー)とよばれ、戦前は大小種々の樹木や植物が繁茂し、うっそうたるなかに昭和十三年御嶽小とよぶ祠が建立された。広い聖地は左綱(ひじゃいつな)が張りめぐらされ、人々は畏れをなして立ち入ることはなかった。一九五七年この聖地に拝殿(とうぬ)か建立されウンバハリーからロー火神(ひぬかん)、村内(むらうち)から根神火神(にかみひぬかん)、世ヌ神(ゆーぬかん)が合祀された。拝殿の建立と併せて御嶽小(うたきぐぁー)は原型のまま東側へ移設し、神アサギはウンバハリーより移転された。以来神事の折々には、祭司が祈願を司る聖地として信仰されている歴史ある拝所である。旧拝所は、老旧化か激しく改築は区民及び関係者の強い願望であったことから新築された。なお、建物の規模を大きくしたため総体的に東寄りになったが向きや配置は旧拝所とおなじである。」「御願小(うたきぐぁー)」。中央に「根神火神 (ニーガンヒヌカン)」、右に「ヌロー火神」、左に「世神」。根神とは沖縄本島で、村落の旧家(根屋)から出た神女。根屋の当主を根人 (にっちゅ) というのに対し、その姉妹をいうのだと。ヌローとはノロ・祝女と。沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。最高の神官、聞得大君(きこえおおぎみ)の統率のもとに、村落の神人を指揮して神事をつかさどるのだと。そして世神(ゆーがみ)、 世神は、古くは自然の岩穴を信仰の対象としたようだ。そこへ、明治の末頃に木造瓦葺の祠が造られたと云う。岩穴は死者を弔う神聖な場所である。また、ご先祖様は黄泉の国、ニライカナイに神として住むと信じられ、洞窟はニライカナイに通じる入り口でもあるのだと。「神アサギ」。御嶽(ウタキ)の近くには、守護神を招いて祭祀を行う「神アサギ」と称する広場があるが、沖縄本島北部ではそこに軒高の低く、壁や床もない穴屋形式の祭屋を設けている場合が多くなっている。軒が低い理由については、牛や馬、鳥などが聖なる神アサギに侵入しないようにとか、ムラの神役が行う神聖な祭祀儀礼を外部から見られないように配慮したものと考えられているのだと。神女達が御嶽へ遙拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所。別の角度から。これも小さな「御願小」であろうか。それとも我が関東等の神社でいう境内社?「御願小」を別角度から。屋根の瓦には若木が。「汀間当」碑。「汀間当👈リンク一、汀間と安部境の川下の浜うりて 汀間の丸目カナと請人神谷と恋の話し (はやし)サーアーフンヌカヤーヒヤー マクトカーヤー二、神谷が言葉やぬんで言たが 明てぬ四、五、六月 呼ばしがちゃんどちとみて待ちよれ (はやし)サーアーテカチャンヤーヒャー 丸目カナー三、月のある間る 思いすんどさたすんど 月のいり下りば 思いんさんど (はやし) サーアーユティクーカンクー ワウデマクラ」意味は一、汀間と安部境の井戸の下の浜に降りて汀間の丸目加那と請人神谷との恋の話し 本当かな おい 真実かな二、神谷の言葉は何だと言ったか 年明けて四、五、六月あたりになったら使いが来るので 辛抱して待っていろよ よくやったぞ 丸い目の加那(愛する人)よ三、月の出ている間は思いもするぞ うわさもするぞ 月が西に沈むと思いはしないぞ 噂もしないぞ 近くにこい ちょっとこい 私の腕枕そして、「ガジュマル」の老木。デンドロビュームが宿り木の如くに。公衆トイレ。壁には様々な貝が埋め込まれていた。こちらは貝の内側が表面に。これぞ沖縄の民家!!この樹は?「ハスノハギリ」と。「ハスノハギリ(蓮の葉桐)」の葉。葉は互生し、卵円形で、長さ10~30cm、幅8~20cm。先は尖り、基部は浅心形で全縁、両面無毛。質はやわらかい革質で光沢がある。葉柄は葉身の下部に楯状につき、長さ5~15cm。路地の角にも石碑が。「石敢當」と。「石敢當」(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)は、丁字路の突き当り等に設けられる「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。石敢当、泰山石敢當、石散當等と書かれたものもある。中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県や鹿児島県に多く分布する。ここ沖縄県ではその存在意義や効果が未だに根強く信じられており、当地では丁字路や三叉路が多いことから、現在でも沖縄県の各地で新しく作られた大小様々の石敢當を見ることができる。これらの地域では、市中を徘徊する魔物「マジムン」は直進する性質を持つため、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりに石敢當を設け、魔物の侵入を防ぐ魔よけとする。魔物は石敢當に当たると砕け散るとされるのだ と。「汀間川」に架かる「嘉手刈橋」。ズームアップすると、ここからも「米軍新基地建設現場」が見えた。「汀間川」の対岸にあったのが「汀間御嶽」の石鳥居。次に訪ねたのが「カヌチャリゾート(Kanucha Resort)」.県内最大級のリゾートホテル。しかし、守衛所があり予約者以外は進入禁止と。次に訪ねたのが「神着宮(カヌチャグウ)」。「カヌチャリゾートホテル」の敷地内にある神社であると。名護市安部。自然石を用いた巨大な石灯籠。その横の池には白い鳥が。ニワトリの一種であろうか?鳥居に向かって進む。「神着宮」を正面から。左右にあった水晶の球が昔は置かれていたとネットから。。水晶の球の中には龍の姿が。「尽事無難に皆の者が心深く感謝の意を表して一つに業にいそしみ励み、天地万物の大神の恩惠みでカヌチャベイリゾートに大い御繁栄あらしたまえとかしこみかしこみ み申す」内陣には布袋さんと恵比寿さんの姿が。「神着宮」は商売繁盛の神様なのであろうか。次に訪ねたのが「安部御神殿」。名護市安部11−2。扁額「安部御神殿」。「安部神殿建設記念碑」。電柱の奥には巨木が。「天然記念物 安部拝所のガジマル」。「安部拝所のガジマル」案内板。「安部拝所のガジマル樹齢約220年 樹高約21.6m、胸高周囲約6.85 mガジマル()はクワ科の常緑性高木で、屋久島以南、沖縄、台弯、熱帯アジア、オーストラリアに分布している。漢名を榕樹(ようじゅ)と言い、防潮防風林や緑陰樹として広く植栽されている。「安部拝所のガジマル」は安部のニガミャーの隣にある拝所のフクギの群落に混じって生育している。周りにはフクギの他、モクタチバナ、.ヤブニッケイ、アカテツ、ハマビワ、コクテンギ、ゲッキツ、クロッグなどが生育し、御嶽林を形成している。幹は真直ぐに伸び、2m高で東に大径の幹のような枝をやや斜めにのばし、4m ~ 5m高で多数分岐して、ほぼ円形状に四方に技を広げる。5m高で多くの気根が巻きつき、普通のガジマルより垂下根が少ない。巻きついた気根は若々しく、周りに生育するフクギを締めつけている。根元には、根の露出がみられ、踏圧はほとんどないが傷が多い。大きな根には板根が発達し、傾斜地に立つ特徴を示している。傾斜は南東に15°。毎年旧盆にはガジマルの木の下で御行事が行われており、古くから区民に親しまれている木である。」廻り込んで下部の垂下根を見る。更に近づいて。そして近くにはバナナの樹も。たわわに小型のバナナが実をつけていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.06
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2日目・9月26日の朝は6:30にホテルを出発し、駐車場に向かう。ホテルの前から、早朝の空に虹が出ていることに気がつく。ホテル前の交差点の角にあった案内柱。●「波の上ビーチ」沖縄には美しいビーチが多数るが、沖縄随一の都市<那覇>は、沿岸部に空港や港があるため遊泳可能なビーチが1か所しかない と。●「波の上うみそら公園」「波の上ビーチ」のある公園。場所は沖縄で最も格式高い神社である波上宮の近く。ただ泳ぐだけではなく、スキューバダイビングやバーベキューも楽しめる と。●「三重城ふるさと海岸」。海とヤシの木に囲まれた遊歩道を、ゆっくり散歩できる場所。那覇空港の近くに位置していることもあり、離着陸する飛行機の姿を眺めることができる。そして夕方になると、美しいサンセットを見ることができる と。ここ那覇港周辺案内図。那覇港は沖縄県の玄関口として国際コンテナ航路を含む50以上の貨物航路を持ち、40以上の島々の経済活動を支えている港。久米島(くめじま)、慶良間(けらま)諸島といった沖縄本島周辺離島への航路の拠点としてフェリー、高速船、遊覧船が就航している港は「泊ふ頭ターミナル「とまりん」」。現在地は那覇市西3丁目3付近。駐車場への道の正面にあったのが「ロワジールホテル 那覇」。那覇市西3丁目2−1。駐車場を出て、那覇自動車道の「那覇IC」に向かって進む。今回の観光場所は、事前に主要ドライブルートを決定し、それに沿った寺社、遺跡、名勝地等々をGoogleマップでチェックしリストアップしておいたのであった。沖縄本島のGoogleマップにはかなり細かな遺跡、御嶽、沖縄戦の霊場等が表示されているので全てを回りきれないのは出発前から明らかであったが、取り敢えず多くをリストアップし、時間、天候から訪問場所を取捨選択していくこととし、今回の旅行に臨んだのであった。観光初日のこの日は那覇自動車道の宜野座ICから国道329号、そして331号、県道70号線、国道58号を利用して太平洋と東シナ海の荒波が打ち寄せる沖縄本島最北端の岬・辺戸岬を目指したのであった。前方に沖縄都市モノレール・「ゆいレール」の「旭橋駅」が現れた。沖縄都市モノレール線は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2022年3月現在「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」である。「旭橋」交差点を通過。前方に「壺川駅」。「とよみ大橋」とその左手奥に「NHK・OTVデジタルテレビ・NHK-FM那覇 88.1MHz 豊見城高安送信所」。国道329号「新那覇大橋」から見えた巨大クジラ。445mの斜張橋「とよみ大橋」を渡る。「とよみ大橋」の欄干には様々なプレートが。那覇市長田の街並みを見る。県道222号線真地泉崎線の「真地大橋」が見えた。県道82号線那覇糸満線を進む。そして沖縄自動車道の那覇ICの案内板が現れた。「崎山交差点」下の地下道を進む。沖縄道・那覇料金所を通過。沖縄自動車道(おきなわじどうしゃどう、英語: OKINAWA EXPWY)は、沖縄県の名護市を起点とし那覇市に至る延長57.3キロメートル (km) の高速道路(高速自動車国道)である。高速自動車国道としては最南端かつ最西端の路線である。略称は沖縄道(おきなわどう)。高速道路ナンバリングによる路線番号は、那覇空港自動車道とともに「E58」が割り振られている。青空の見える中にまっすぐ立ち並ぶヤシの木の様子は、やはり南国リゾート。「喜舎場(きしゃば)スマートIC」手前から正面に見えたのが「コスタビスタ沖縄ホテル&スパ」。中頭郡北中城村喜舎場1478。長さ215mの「喜舎場トンネル」。太平洋側にある平安座島、宮城島、伊計島(いけいじま)が見えた。伊計島は与勝半島の北東約11kmにある。地元では「イチハナリ」と呼ぶことがあり、最高標高49m、琉球石灰岩におおわれた平坦な島。サトウキビ作の半農半漁で、北西沖には定置網漁場がある。昭和57年に南側にある宮城島とを結ぶ長さ198mの伊計大橋が完成し平安座島と海中道路を経て、与勝半島と陸続きになった。島の南側一帯に集落、北端にはリゾート施設があり、町の観光のメッカとなっている。昭和54年から土地改良事業が導入され、島の約47%にあたる84.2haが整備されている。那覇ICから約40分、50km強を走ると「宜野座(ぎのざ)」出口が前方に。「宜野座」料金所を通過し一般道へ。ここを左折し国道329号で名護方面へ。この後の一般道の走行ルートは下記のごとく。コンビニに立ち寄りトイレ&オニギリを購入。前方に標高335mの「久志岳」、右手に標高332mの「辺野古岳」を見る。この先を右折する。国道331号・二見バイパスを進む。二見バイパスを左折し、直前に通過した「二見大橋」を見る。「二見大橋」の下を潜り進むと正面に石碑があった。「二見情話の里」碑。名護市二見227。別の角度から。二見バイパスを見上げる。「ようこそ!二見情話の里へ」「二見情話誕生時代風景二見美童や だんじゅ肝清らさ 海山ぬ眺み 他所に勝てヨ」 作者である照屋朝敏氏は、昭和20年6月、米軍の命令により 仲間と共に二見に移動しました。二見の村民らを心よく迎え 入れたので、村の「ニ見の歌」創作要請を快諾し、昭和20年 11月にこの「ニ見情話」を完成させました。 この歌は、平和祈念とニ見の人々への命からなる感謝をこめた 御礼のメッセージでもあるそうです。 この「ニ見情話」の記念碑が、ニ見区コミュニテイセンターに 建設されています。」「二見情話👈リンク一、二見美童や だんじゅ肝美らさ 海山の眺み 他所に勝てョ二、二見村嫁や ないぶさやあしが 辺野古崎坂ぬ 上い下いョ三、待ちかにて居たる 言里上いやしか 出発ちゅる際や 別りぐりさョ四、行かい行ち来うよと 交わすいくとばや ぬがし肝内に 思い残ちョ五、戦場ぬ哀り 何時が忘りゆら 忘りがたなさや 花ぬニ見ョ 昭和二十年十一月 作詩曲 照屋朝敏 直筆」「敗残兵の一斉掃討をするから民間投降者は避難せよ」沖縄戦が終結した昭和二十年六月二十日、米軍の命令により、私は他の投降者と共に摩文仁から与那原に出、海路、大浦崎を経て二見に移動した。村民は心よく迎え入れ、皆、安堵した。相互扶助の生活が日々、顕著になった或日、村長事務所で年長者会議があり、席上、二見の歌の創作要請を受け二ヶ月後に完成したのが、「二見情話」これは、平和祈念と二見の人々への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある。 平成二年七月吉日 元二見村長 照屋朝敏」杉田川に架かる杉田橋(すぎんたばし)越しに来た道を振り返る。そして車に戻り引き返していくと左手に、「民謡「二見情話」が流れる道 メロディーロード」と。ここが「メロディーロード 起点」と。そして直後の「メロディーロード」の路面にはト音記号🎼が書かれていた。沖縄県内で唯一のこのメロディーロードは、2012(平成24)年11月23日(「いいふたみ」の日)に完成した。二見区の要望を受け、設置された。国道331号線の旧道を約340mの区間で約30秒間、三線と歌の重奏で「二見情話」が流れる。これは、メロディーロードの技術を開発し、特許を持つ北海道標津町の篠田興業さんにより作られた。現在国内外に23か所あるメロディーロードのうち、8番目に作られたのが、この「二見情話ミュージックライン」👈リンク。作られた当時、「三線と歌声の重奏」は全国初とのこと。道路に刻まれた規則的な溝の上をタイヤが通ると、発生する音が、メロディーとして聞こえる仕組みになっている。車の窓を閉めて、速度約40km(この道路の法定速度)で車を走らせることで、本来のテンポで二見情話のメロディーが流れるのだと。このメロディーロードにより、走行速度を抑制し、安全運転を促せる効果があるとのこと。再び「二見バイパス」の下を通過すると、直ぐ左手にあったのが「津波古松吉之墓」。沖縄のお墓は「墓石」「墓地」のイメージとは少し離れた、「小さな家」のような感覚がある。しっかりとした扉に屋根、故人がそこで住んでいるがごとし。沖縄で今のような形式のお墓が造られるようになったのは、16世紀以降とのこと。もっとも代表的な亀甲墓や破風墓と呼ばれるお墓を造ることは、王族や士族にしか許されておらず、一般庶民は森や洞窟の中に遺体を安置・埋葬する「風葬」が一般的であった。廃藩置県が行われた明治時代に、やっと一般の人々がお墓を造ることが許されたのだと。そのことから、沖縄は日本の中でも火葬の歴史が浅く、独特の風習が残ったと言えると。特に琉球王国時代、聖地となっていた久高島においては、1960年代まで風葬が行われていた。なぜ沖縄のお墓はほかの地域のお墓に比べて大きいのか?その理由の1つとして、風葬文化が起因していると。かつて沖縄で行われていた風葬は、石で覆われた部屋の中に遺体を安置し、骨になるのを待って遺族が骨壺に納骨するもの。広い空間が必要だったことから、大きなお墓になったのだ。2つ目の理由が、父系親族全員の遺骨を埋葬する伝統的な門中墓の風習。門中墓は、儒教の影響を受けているため「先祖を敬う」という意識が強く、必然的に多くの骨壺を納骨しなければならない。そのほかにも、故人を供養するための行事である「清明祭」という宴会がお墓の前で行われるため、親族や故人とゆかりのある人々が集まるスペースが必要なことも、お墓が大きく造られる理由と言えるのだと。「二見情話ミュージックライン」案内板がここにも。「ギミ崎」方面を見る。そして次に訪ねたのが「久志間切番所跡」。「名護市役所久志支所」内の中庭に石碑があった。名護市瀬嵩7−1。立派な松の巨木の下に石碑が。「久志間切番所跡」碑。間切(まぎり、沖縄方言: マジリ)は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。琉球王国時代は第一級行政区画に相当した。琉球処分による沖縄県設置後以降も継続していた旧慣温存政策により、1896年(明治29年)の郡制施行(沖縄県区制)以降も間切制は、1908年沖縄県島嶼町村制施行により間切→村(そん)に移管されるまで続いた。間切の区割りは概ね現在の沖縄県内の市町村に相当する。ただし、沖縄戦やアメリカ統治時代を含む近現代に市町村合併等が繰り返されているため、現在の市町村の区割りとは大きく異なっている。久志間切創設は1673年で間切番所はここ久志村に置かれた。しかし14年後の1687年に久志村から瀬嵩村へと番所は移設。番所の移転は名護間切の負担の軽減だったと。国頭方の東宿・西宿とも名護間切経由だったのを、久志間切番所を瀬嵩村に移動することで、久志間切から名護間切を経由せず羽地間切をつなぐコースとなる。当然のことながら『琉球国旧記』(1731年)の久志間切の駅(番所)は瀬嵩邑(村)。「名護市役所久志支所」の塀にあった沖縄の守り神と言われる「面シーサー」。まさにここはカラフルな「面シーサー」の野外展示場のごとし。それにしても個性あふれる秀作揃いなのであった。その先にあったのが「久志村歌」碑。久志村歌 作詞 宮城敏男 作曲 安谷屋一雄一、潮髙鳴る東の海原 仰ぐ朝日に光さざめく万波 太平洋波の打ち寄すところ 潮風かおる里は十ニ われら友よわれら里よ二、力あるか大洋の水の 南の浜にもののふの夢 破るは文化の時の声 躍るは雄々しき無限の思い われら友よわれら里よ三、見よ白雲たびく久志山 独立自主の緑かざして立つ 髙き姿を心にて 仰ぎてうたえいざ久志男子 われら友よわれら里よ」「沿革我が久志地域、旧久志村は「久志間切」の時代から一九七〇年(昭和四五年)合併により名護市になるまでの間約三〇〇年の長い歴史があります。その歴史をたどれば一六七三年(康熙十二)金武間切から二ヵ村(久志、辺野古)名護間切」から十〇ヵ村(大浦 瀬嵩 汀間 安部 嘉陽 天仁屋有銘 ◯坊次 平良 川田)を割いて久志間切創設された。当初久志(現久志区)にあった間切番所は一六八七年(康熙二六)に瀬嵩(現久志支所)に移された。一八九七年(明治三〇)に「久志間切番所」が「久志間切役場」に改称され、一九〇八年(明治四一)には沖縄県島嶼町制の施行により「久志間切役場」が「久志村役場」となった。一九二三年(大正十二)に有銘以北が分かれ、東村が新設された。その後、三原、二見、大川、底仁屋、豊原が独立して行政区を設立した。「久志村歌」は宮城敏男により作詞、安谷屋一雄により作曲され、昭和の初年(昭和二年~昭和六年)の間」に制定された。作詞者 宮城敏男(一九〇一年~一九七二年) 嘉陽出身 大正十年三月県立第一中学校卒業、一中時代、優秀な成績を修め、入学から卒業まで特待生として授業料免除に浴したという。「久志村歌」の他に「久志小学校校歌」、「宮古中学校校歌」、「三中応援歌」を作詞、近年においては「聖火のあとさき」と題する詩を書き残している。作曲者 安谷屋一雄(一九〇六年~一九三三年) 嘉陽出身 昭和二年三月沖縄県師範学校卒業、師範学校時代は常に上位成績で教師学友から信頼されていたという。また郷土芸能や琉球音楽にも興味を持ち琉球古典音楽や琉球民謡に優れた才能を発揮していた。「久志村歌」の他に「高江新川節」(作詞作曲)「遠海の唸り」「稲作節」・・・」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.05
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無料連絡バスで第3ターミナルバス停に到着し、第3ターミナル出発ロビーに向かって進む。第3ターミナルのバス停案内。第3ターミナル案内。連絡通路を進む。第2ターミナルに続く道路。第3ターミナル入口。フードコート。そして、事前に自宅からネットでオートチェクイン済みのチケットで荷物を預けようとしたが上手くいかない。旅友が近くにいたジェットスターの係員に聴いたところ、まず下の写真の機械のキオスク端末から手荷物タグを印刷するとのこと。チケットのバーコードを読み取らせると、黄色の□からタグが出て来たのであった。このバーコード、1989年シンボルテクノロジー社によって開発されたスタック型の「PDF417」と呼ばれる規格に基づくもので、海外で多く使われているのだ。そして預ける荷物にタグを取り付け、自動手荷物預け機に向かう。そして同様にオンラインチケットにより、無事荷物を預けることが出来たのであった。やれやれ!!。そして機内持ち込み手荷物検査も無事通過。そして搭乗ゲートに向かって進む。窓から、駐機場を見る。エスカレーターで降りる。利用便は15:05発 ジェットスター GK309便。売店にお茶のペットボトルを購入。この場で約1時間強、搭乗開始を待つ。そして搭乗へ。搭乗通路のビニールハウスの如き様子はこれぞLCCと感じるのであった。この日の利用便 ・A320型機。座席は事前に窓側席を確保。定時に出発し、滑走路に向かって進む。そして離陸。利根川を見る。川の水面が輝く。そして遠く、雲の上に顔を覗かせた富士山の姿を確認。浦安、有明方面。三浦半島、相模湾を見る。再び富士山の姿を。そして太平洋上を沖縄・那覇空港に向かって進む。機窓から見えた飛行機の後方には飛行機雲が。別の飛行機も。そして巨大な入道雲の如き雲が孤立して。そして沖縄本島に近づく。「伊平屋島」と「野甫島」を結ぶ「野甫大橋」の姿が見えた。「伊是名島」の南側の「伊是名漁港」そして小さな「降神島」。「伊江島」が見えて来た。沖縄本島本部半島の北西約9kmの位置にある伊江島。ズームして。島中央から少し東にずれたところにある標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で親しまれている。産業は主に農業、漁業から成り立っている。本部港からもフェリーで30分あまりということもあり、「日帰り可能な離島」としての人気も高い。また、戦争に関する施設・史跡もあることから県内外からの修学旅行の需要も多い とウィキペディアより。そして手前は沖縄本島の本部半島の国頭郡本部町。本部半島の南側の付け根、名護市2丁目にある「21世紀の森ビーチ」が現れた。沖縄本島で唯一の「海中展望塔」のある、そして2000年の九州・沖縄サミット首脳会合の会議場に選ばれた「万国津梁館」のある「部瀬名岬」。海上に延びる「海中展望塔」への通路が確認できた。遠くに見えたのが水納島(みんなしま、みんなじま)。本部半島の沖合、北西1.5キロメートルのサンゴ礁に浮かぶ三日月型の小さな島で、上空から観察すると写真の如きクロワッサンに見えることから、クロワッサンアイランドと呼ばれている。標高26.9メートル、面積は0.47平方キロメートル。人口40人余の観光の島である。かつては無人島で、島全体が「メンナノ御嶽」として聖域とされていたが、1903年(明治36年)に瀬底島から13戸が移住し製糖に従事した。もともと水資源が乏しいことから「水の無い島」が島名になったとされる。現在は沖縄本島から水が供給されている。代表的な産業は、観光業および農業・畜産業である。観光業は年間60,000人を越える来島者があり、ダイビングやシュノーケリングなどのサービスが提供されている。また、農業ではニンジンやダイコン、スイカの栽培が行われている トウィキペディアより。左に旋回して太平洋に出る。国頭郡金武町屋嘉地区の海岸線。海の水面が夕日に染まる。オレンジ色に輝く水面。「前ぬ浜(久手堅ビーチ)」付近であっただろうか。菜園用の温室の屋根ガラスも夕方の陽光を反射して。荒崎海岸、米須海岸。ズームして。糸満市喜屋武の海岸線。右手の白い建物は「沖縄県 水産海洋技術センター」。糸満フィッシャリーナ。プレジャーボートやヨット等の係留・駐艇場が利用出来るヨットハーバー。美々ビーチいとまん。中央の建物は「サザンビーチホテル&リゾート沖縄」。糸満市西崎町の街並み。そして那覇空港に着陸。時間は17:57。管制塔は高さ88メートルで、国内の管制塔では羽田空港に次ぎ2番目に高い。管制官が技術を習熟するため、2020年1月から運用を開始している と。海上自衛隊 那覇基地。多くの固定翼哨戒機(P-3Cオライオン)が駐機中であった。そして飛行機を降り、預けた荷物が出て来るのを待つ。そして荷物を受け取り、レンタカー送迎車のバス乗り場へ到着。ABCレンタカーで日産マーチをレンタル。そしてレンタカーで10分ほどで、「タイムズ沖縄西町」駐車場の到着。駐車後24時間最大500円のこれも格安駐車場。駐車場から徒歩5分にて4泊お世話になる「ホテル・アンドルームス那覇ポート」に当到着しチェックイン。もちろんダブルではなくツインの部屋。旅友と夜を共にするのは、2019年の「ルーマニア・ブルガリア」旅行以来3年ぶり。今年も2月に伊豆半島への宿泊旅行したが、初日に旅友の体調不良があり・・・・。トイレと洗面所、風呂。そしてこの日はホテルの近くにあった「味の店 沖縄料理しろま」でこの日の反省会を。カウンターに座り生ビールの後は沖縄泡盛を注文。オススメのマグロの刺身とポテトサラダ等を注文。写真は撮り忘れました。沖縄料理・ニンジンシリシリ。そして私は仕上げにチャーハンを。旅友は沖縄うどんを。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.04
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9月25日(日)から4泊5日でいつもの旅友と沖縄本島に行って来ました。昨年も南九州旅行で利用したNEEDS TOUR(ニーズツアー)社の超格安ツアー。なんと一人27,400円!!料金に含まれるものは、往復航空券代・宿泊料金(4泊ツイン部屋)、レンタカー代金5日分、空港施設利用料(必要な空港のみ)・消費税等諸税。ただし利用便はLCC( Low Cost Carrier)のジェットスターで成田~那覇便。もちろん、宿泊中の食事代は含まれていない。日本ではLCCを「格安航空会社」と呼ぶのが一般的。 LCCの最大の特徴はその名のとおり、航空券の安さ! JALやANAなどの既存のフルサービスキャリア(FSC=Full Service Carrier)より割安な航空運賃を提供している。 旅行や出張で飛行機を利用する人たちの強い味方なのである。1日目のこの日、9月25日(日)は15:05成田空港発で沖縄・那覇までの移動日。いつものように茅ヶ崎に住む旅友が10:30過ぎに我が家に愛車で立ち寄って下さいました。成田空港に向かって我が家を出発。「戸塚警察署」交差点を左折して東海道へ。「横浜新道」へ入る。「横浜新道・戸塚料金所」を通過。「新保土ケ谷IC」を通過。国道1号横浜新道と、国道16号保土ヶ谷バイパスおよび国道16号横浜横須賀道路を接続するインターチェンジ。「横浜新道」から「第三京浜」へ。「首都高速」に向かって進む。「首都高速神奈川2号三ツ沢線」を進む。「金港JCT」を通過。「大師橋(だいしばし)」が見えて来た。「大師橋」は、多摩川に架かる橋で、東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。この橋は川崎市が管理している。「首都高速神奈川1号横羽線」の「高速大師橋」を渡る。東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)に架かる「大師橋」を横に見る。中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る「斜張橋」。「首都高速神奈川1号横羽線」を更に進む。「昭和島JCT」を通過し「東関東道」に向かって進む。羽田空港を離陸した飛行機の姿が上空に。「首都高速湾岸線」を進む。「首都高速湾岸線」から「東関東自動車道」へ進む。酒々井PAにてトイレ休憩。再び東関東自動車道へ。「成田JCT」に向かって進む。「成田」出口に向かって進む。「成田料金所」とその奥には「アートホテル成田」の姿が。「成田料金所」を通過。「成田IC」交差点を右折し「空港通り」へ。正面に見えたのが「ANAクラウンプラザホテル成田」。成田国際空港を見おろす絶好のロケーションに位置。そして、旅友が予約していてくれた目的地の「USAパーキング」の看板が姿を現した。「USAパーキング」入口。コロナ前の海外旅行や国内旅行で利用しているこれも格安駐車場。この場所に旅友の愛車を29日(木)まで5日間預けておくのだ。5日間で税込み2,750円(別に基本料金税込770円)、機械洗車の無料サービス付きとのこと。時間は12:40過ぎでここまで我が家から約2時間。北側には「ホテル日航成田」の姿が。無料送迎車に乗り換えて成田空港第2ターミナルに向かう。「成田航空地方気象台 航空気象ドップラーレーダー」を見る。空港気象ドップラーレーダーは、成田空港を中心とする半径120Km以内の降水域を観測。空中線(アンテナ)から電波を発射し、雨粒などに反射され戻ってくる電波を観測して降水領域の強さ、方向、距離を測定していると。また、戻ってくる電波の周波数の変化(ドップラー効果を利用)から雨粒の移動速度、つまり風速を計算する。航空機の運航に大きな影響を与える恐れのある「低層ウィンドシヤー」と呼ばれる、高度およそ500m以下の風向風速の急激な変化の検出を行っていると。第2ターミナルで送迎車を降りる。道路の反対側にあった第3ターミナル行き連絡バス乗り場まで歩く。第3ターミナルまで340mとの表示があり、徒歩にても可能であったがこの日はバスにて。運行間隔は4分から7分。無料連絡バスに乗り込み出発を待つ。そして第3ターミナルに向かって出発。「ランプセントラルタワー」を見る。1978年の成田空港開港以来、旧管制塔(ランプ中央運用室)でランプコントロール業務を行って来たが、建物が老朽化したことから、近傍に新たなコントロールタワー「ランプセントラルタワー」を設置し、2020年9月10日より供用開始。成田空港では、航空管制官(国土交通省の公務員)が飛行機への指示を受け持つ区域と、ランプコントローラー(成田国際空港株式会社の会社員)が受け持つ区域とに分けられていると。航空管制官は滑走路と誘導路を受け持ち、ランプコントローラーは駐機場付近の区域(ランプエリア)を受け持つ。ランプエリアの飛行機を誘導する仕事をランプコントロールといいますが、他の空港では航空管制官が行うことを、成田空港では成田国際空港株式会社の会社員が担っているのだと。左手に「ランプセントラルタワー」、右手に「管制塔」を見る。そして第3ターミナルで無料連絡バスを降りる。時間は13:14。そして第3ターミナル出発ロビーに向かって進んで行ったのであった。 ・・・つづく・・・
2022.10.03
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【素数】とは、正の約数が1とその数自身である約数で、1でない自然数のことをいいます。簡単にいうと、「1」と「その数自身」でしか割りきれない数を指します。すなわち【素数】は「1とその数自身でしか割れない数」です。これを言い換えると、素数は「2個の数で割ることができる数」ということになります。1は自分自身でしか割ることができない=1個の数でしか割ることのできない数なので、素数ではありません。1~100までの素数は「 2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37、41、43、47、53、59、61、67、71、73、79、83、89、97」となり、全部で25個あります。★【素数】の見分け方たとえば、私の誕生日「716」のような大きな数。パッと見ただけでは素数かどうかわからない方もいるでしょう。しかし、716の一の位は6なので偶数だとわかります。偶数は2で割れるので、716は素数ではないと見分けることができます。偶数以外にも素数かどうかを短時間で見分けるポイントは・偶数(2以外)・一の位に0や5がつく数(5以外)・九九の数(1の段以外)これらは、【素数】ではありません。そしてすべての桁を足して3で割り切れる数が出たら、元の数は3で割り切れるという法則があるのです。例えば1437➡1+4+3+7➡15は3で割り切れるので、元の数1437は3で割り切れるため、【素数】ではありません。更に7で割ることも近道(100以下の場合)です。→7で割れれば合成数、割りきれなければ【素数】なのです。現在放送されているNHK番組「笑わない数学」。パンサー尾形貴弘が数学の難問を大真面目に解説する「笑わない数学」。この回は「素数」の不思議な魅力に迫ったのです。天才数学者たちを悩ませてきた、素数の“大いなる謎”とは。 「1と自分自身でしか割り切れない数・素数」。どんな数も素数の掛け算で表されることから、「数の原子」ともいわれている。最も基本的な数にもかかわらず、素数は謎だらけ。中でも数学者たちを悩ませてきたのが、「素数はどんなタイミングで出現するのか」という問題。素数は気まぐれに出現し、規則性が全く見当たらないのだ。この素数の並びには、一体どんな意味が隠されているのか?パンサー尾形が「創造主の暗号」に迫ったのです。「素数階段」は、素数が見つかると1段上がって行く階段。頻繁にステップアップするところがあったかと思うと、 ずっと真っ平らな部分もある。その段は当然ながら、 気まぐれに現れるランダムな階段であるように見える。 ところがこの階段は登れば登るほど、高くなればなるほど、 その高さが自然対数eをもとにする数に近似していく。 これを「ガウス」👈リンクが示したのだった。そして【素数】👈リンクにはまだまだ「未解決問題」👈リンク が多々あると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.12
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「渋沢栄一記念館」を後にして帰路につく。バスの車窓左手から「尾高惇忠生家」を見る。尾高惇忠(おだか あつただ)は渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった。明治維新後は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階にあると。市指定史跡。尾高惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。また、のちに惇忠の妹・千代(明治15年(1882年)没 42歳)は栄一の最初の妻となり、惇忠と千代の弟・平九郎は栄一の幕臣時代にその見立て養子となった。剣術については、おじの渋沢宗助(新三郎)が開いた神道無念流道場「練武館」に入門し、弟の尾高長七郎、従弟の渋沢栄一や渋沢喜作(成一郎)らとともに稽古に励んだ「尾高惇忠生家」の正面。生家内の土間部分を通路として公開していると。パンフレットをネットから。「尾高惇忠は天保元(1830)年下手計村に生まれました。通称新五郎、諱は惇忠、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からこの藍香のもとに通い、論語をはしめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。後世、”藍香ありてこそ栄一あり”と称えられた人物で知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。明治時代を迎えると、惇忠は富岡製糸場初代場長や第一国立銀行の盛岡支店長と仙台支店長などを務め、幅広く活躍しました。この尾高惇忠生家は江戸時代後明に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。この家で栄一の妻となった千代、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたのもこの家の2階と伝わります。内庭の煉瓦倉庫は、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残ることから日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦で建てられたものと思われます。平成22 (2010)年に深谷市指定文化財(史跡)となりました。」「尾高家 家系図」。「小山川」に架かる県道14号線「共栄橋」を渡る。渋沢栄一の生家の近くにある西間堂本舗の看板。「もちもちいも万十」とは、そのままのさつまいもと、あんを小麦粉と餅粉の皮で包み込んで、さわやかな風味に仕上げた饅頭とのこと。令和2年7月27日に開庁した「深谷市役所新庁舎」が左手に。東側にある庁舎のメインエントランス。「深谷らしさ」の象徴となるレンガの外観で、上部のレンガは「透かし積み」となっていた。深谷市にあった日本煉瓦製造株式会社の工場で製造されていたレンガを床の一部で使用しており、中には製造元の証である刻印がされたレンガもあるとのこと。「透かし積み」。「中山道」を右折して「深谷駅」に向かって進む。車窓からの深谷駅。明治初期から煉瓦の町として知られる深谷のシンボル。ひときわ目を引く西洋様式の建築物は、深谷の煉瓦を約883万個出荷した東京駅を参考に2年の歳月と35億円の費用をかけて1996年に改築された。美しく生まれ変わった深谷駅は、関東の駅百選にも選ばれている名建築。赤いレンガはクラシカルな明治時代の建物のよう。地元の方には「ミニ東京駅」と呼ばれて親しまれている。深谷駅正面玄関。「JR東日本 深谷驛」銘板。JR深谷駅前の青淵(せいえん)広場の「からくり時計」👈リンク。第一国立銀行をイメージした時計台。7時~23時の定時になると、「ふっかちゃん」の下から、渋沢栄一翁が現れるのだ。深谷市イメージキャラクター「ふっかちゃん」。「ふっかちゃん」は、ウサギのようでシカのような「ふっか」という生きもので、地元名産「深谷ねぎ」のしなやかで豪快な角が特徴。また、「ふっかちゃん」の体は、深谷の伝統野菜である「白なす」のような形をしていて、胸には市の花「チューリップ」のボタンを付け、全身で「深谷らしさ」を体現している。平成22年6月28日に誕生した「ふっかちゃん」は、今や世代や地域を超えて広く愛される、深谷市自慢のイメージキャラクターであると。毎時00分になるとOP(オープニング主題歌)が鳴り、下から渋沢栄一が出て来ます。その後、渋沢栄一が人形を首をかしげながら見つめます。最後に渋沢栄一が帰って行き「ふっかちゃん」が出てきてからくり終了。「渋沢栄一からくり時計渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。平成24年2月 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)」そしてこれも青淵(せいえん)広場の「青淵澁澤榮一像」。正面近くから。深谷駅を見つめる渋沢栄一の姿を後ろから。「碑文正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。 建立 昭和63年3月吉日 青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会建立 1996年7月 澁澤栄一座像 田中 昭 作」そして南口にあるという「ふっかちゃん」石像をネットから。再び北口に戻って。深谷駅から北へ約四キロ離れた上敷免(じょうしきめん)という地に日本煉瓦製造の工場が建設された。会社設立は一八八七(明治20)年。欧米流の近代建築が増加し、官庁や鉄道などの整備を急いでいた明治政府の意向に沿って設立の翌年から操業を開始したと。ここで製造されたレンガは、東京駅のほかにも日本銀行、赤坂離宮、旧警視庁、東京大学など数多くの建造物に使用され、日本の近代化に寄与した。上空からの写真をネットから。そして「深谷駅」を後にして、再び車窓から。深谷嵐山線の深谷中央陸橋から。「花園IC」から関越自動車道に。「狭山SA」でトイレタイム。帰路の車内ではアルコール無しでBINGOゲームを楽しんだ。車内のモニターにもインストール済み。私は残念ながら・・・・。そして関越道➡圏央道➡東名道を走り、往路と同じ「綾瀬スマートIC」で降り一般道へ。神奈川県道42号線を利用して、藤沢方面に進む。東名高速を下に見ながら進み、ほぼ予定時刻に帰宅できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.08.06
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次に訪ねたのが「渋沢栄一記念館」。渋沢栄一は近代日本経済の父とも呼ばれ、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や帝国ホテル、東京瓦斯(現在の東京ガス)、東京海上保険(現在の東京海上日動)など、一度は耳にしたことがあるであろう多くの企業の設立に関わり、その数はなんと500余りと言われています。また商法講習所(現在の一橋大学)や博愛社(現在の日本赤十字社)など600余りの教育・福祉や社会公共事業の支援を行うなど、数々の功績を残しました。深谷市下手計1204。この記念館は平成7年11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館され、栄一の遺墨や写真など資料のほか、本人の肉声を聞くことができる展示があった。2024年からの新一万円札の顏として、昨年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として、いまでも大注目されている渋沢栄一について詳しく知ることができるのであった。「渋沢栄一記念館」の正面。横断幕には「祝 新一万円札 渋沢栄一翁」と。その下には「渋沢栄一記念館・八基公民館」とも。「渋沢栄一翁と論語の里」案内図。渋沢栄一記念館、旧渋沢邸「中の家」、尾高惇忠生家を中心とした地域を一体的に整備・活用し、郷土の偉人たちの志を活かした深谷市独自のまちづくりに取り組んでいると。今回は、「渋沢栄一記念館」だけであるが、もう一度訪れて他の場所を訪ねたいと思ったのであった。深谷市バスくるリン北部シャトル便「渋沢栄一記念館 バス停」。「渋沢栄一翁ゆかりの地 諏訪神社」ポスター。「散策マップ お食事処」。「渋沢栄一記念館」の館内に入ると正面にあったのが「見学受付」。入館料:無料開館時間:9:00~17:00休館日:年末年始様々なお土産が紹介されていた。まずは体育館内の展示を訪ねた。渋沢栄一を紹介するビデオを鑑賞する。「デジタルLEDサイネージ上映「渋沢栄一物語」( 20分)大画面映像⇄手話通訳付映像 ※「大画面」と「手話付」が交互に繰返し放映されます※17 : 00に自動的に上映終了となります」青い目の人形を抱く渋沢栄一の写真。贈り主のギューリックは同志社大学で教鞭をとった人物であると。宣教師のシドニー・ギューリックは次世代の子どもたちのために、アメリカ人形を日本へ贈る提案をした。栄一は日本側の受け人れの代表となった。昭和2年(1927)、アメリカから約1万2000体の(青い目の人形)が届いた。栄一は各地で児童たちに披露。そして答礼として市松人形(着せ替え人形のひとつ) 58体をアメリカに贈った と。約300体の人形が現存していると。青い目の人形を抱く渋沢栄一の絵画。巨大な「拓本」。「渋沢青淵先生内山峡之詩」(拓本複製)渋沢栄一が主人公となる2 0 2 1年NHK大河ドラマ「青天を衝け」。このタイトルは、藍玉の商いのため尾高惇忠と信州に旅した際に、栄一が美しい景色を詠んだ漢詩『巡信紀詩』のうち「内山峡」の一節が由来となっています。渋沢栄一『巡信紀詩』のうち「内山峡」の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」( 8行目~ ) 「読み下し]勢は青天を衝きて臂を攘て躋り 気は白雲を穿て手に唾して征く [意味]青空を突き刺す勢いでヒジをまくって登り 白雲を突き抜ける気力で手に 唾して進む渋沢栄一が信州を訪れた際に立ち寄った漢学者の木内芳軒の外孫の書によるこの碑は、昭和1 5年1 1月に内山村肱水(現在の佐久市)の岩壁に刻まれました。その内容からは、のちに「近代日本経済の父」と呼ばれるにいたる栄一の若き日の大いなる気概が感じられます。」「澁澤青淵先生之巌碑子爵青淵先生十九歳にして内山峡を過り絶勝を嘆賞して此詩を賦せらる、一誦して九十二歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく、再吟して明治・大正・昭和に亘り一世に高かりし功業徳望の由来する所を感得せずんばあらず、因て郷人有志相謀り、玆に巌碑を鑿立して景仰の意を致すと云 皇紀二千六百年十一月廿四日」。 1階には渋沢栄一資料室があった。入口から資料室を見る。資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されていた。残念ながら資料室内は写真撮影禁止であった。次に予約してくれていた「渋沢栄一記念館講義室」を訪ねた。「講義室心得★渋沢栄一アドロイドに手を融れないてください★飲食、喫煙は御遠慮ください★携帯電話等はマナーモード設定の上、通話は御遠慮ください★動画撮影、録画は御遠慮ください。写真撮影は可能です★混雑状況により、立ち見席での御案内となる場合がございます★忠恕(ちゅうじょ まごころと思いやり)のある行動をお願いします★係員の指示に従ってください。従わない場合は退出していただきます」「~「渋沢栄一アンドロイド」講演をお待ちのお客様へ~●列にお並びの前に、お手元の入場券をご確認ください。●ご予約1グループに1枚、人場券を発行しております。 皆さまお揃いになってから列にお並びください。●1講演につき20名までの入場制限を行なっております。【渋沢栄一アンドロイド公演時間】の表示のない券ではご入場いただけません。」演壇には「渋沢栄一アンドロイド」が迎えてくれた。「アンドロイド」とは「人間型ロボット」のこと。深谷市の郷土の偉人・渋沢栄一(1840年~1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に本物そっくりの「渋沢栄一アンドロイド」が完成した。渋沢栄一は、明治維新後に近代化を迎えた日本経済の発展に大きく貢献した。論語の精神を重んじた「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社は500を数える。また、約600もの社会福祉事業、教育・福祉の支援と民間外交にも熱心に取り組んだ。この渋沢栄一アンドロイドは、当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現しており、アンドロイドが語る言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝えます。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄付により制作したのだ と。本日の基調講演は「道徳経済合一説」👈リンク について。「道徳経済合一説」とは、金儲けをするときには、しっかりと道徳も持ち合わせなければいけないという考えとのこと。「講義室」を振り返る。今回の製作にあたっては、株式会社エーラボと大阪大学の石黒浩教授に協力を依頼したと。話の合間合間に身振り手振りを混ぜ、楽しませてくれたのであった。お顔をズームして。「気持ち悪いくらいリアル」なのであった。「渋沢栄一アンドロイド深谷市郷土の偉人・渋沢栄一( 1840年~ 1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に「渋沢栄一アンドロ仆」か完成しました。渋沢栄一は、明治維新後の急激な近代化を迎えた日本経済の発展に大きく貢献し、論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生湃設立にかかわった会社は500を数えます。また約600もの社会福祉事業、教育・福祉の支援と民間外交もに熱心に取り組みました。この渋沢栄一アンドロイドは、当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現し、アンドロイドから語られる言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝えます。渋沢栄一アンドロイドは、渋沢市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄附により制作しました。」「JR深谷駅」の写真。鉄道での深谷の玄関口「JR深谷駅」は東京駅にそっくり。なんと、1914年竣工の東京駅の赤煉瓦は深谷産だったのです。栄一はレンガを作るため、日本煉瓦製造株式会社を地元である深谷に作り、そこで作られたレンガを鉄道で運びJR東京駅の建設に使ったのだ。その縁で、1996年に建て替えられた深谷駅は、東京駅のミニチュア版のようになった。現在、東京~深谷間は直通電車で、約1時間半の道のり。「祝 渋沢栄一 新一万円札に」の幟の写真。渋沢栄一の写真。様々の幟も館内入り口ロビーに。旧渋沢邸「中の家」。旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所です。渋沢家の住宅として使われていましたが、昭和60年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され多くの外国人留学生が学びました。平成12年の同法人解散に伴い深谷市に帰属しました。県指定旧跡「渋沢栄一生地」、市指定史跡。「旧渋沢邸「中の家」1/70模型」2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の様々なポスターも。渋沢栄一を演じたのは吉沢亮氏。渋沢栄一の銅像の案内板。記念館の北側に出る。「清水川」に架かる「西浦橋」を見る。記念館の北側に建つ高さ5mの「渋沢栄一銅像」。ズームして。下から見上げて。そして再び入口ロビーに戻る。ポスター「志を、紡ぐ」。渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋を見つめる渋沢栄一の姿が。「明治を発展させ、資本主義の父と呼ばれた男 渋沢栄一1840年~1931年埼玉・深谷の豪農。徳川慶喜の家臣となる。龍馬が亡くなった1867年のパリ万博に約25人の使節団に加わり渡欧。パリの人達に触発され日本人で最初に髷を下ろす。帰国後に官僚・実業家となり、東京商工会議所・みずほ銀行・東京証券取引所・帝国ホテル・日本郵船・富岡製糸場など、500社以上の多種多様な企業の設立や運営に関わった。『日本の資本主義の父』と呼ばれる。なんと、91歳までご長寿でした。」渋沢が関わった現存する企業等(二〇二一年四月時点)。ブラタモリ「深谷」が2021年5月1日に放送されました。渋沢栄一の実物大パネル。「渋沢栄一記念館」のロビーを振り返り、館を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.05
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そして「拝殿」の先にあったのが「唐門」・(国指定重要文化財)。左右に「透塀」が。その先に世良田東照宮本殿(国指定重要文化財)があったが、保存修理工事中であった。1間社流造屋根は、安永6年(1777)の大修理時に銅瓦葺となり現在に至る。正面扉上部頭貫につがい親鷹の彫物、親鷹の中間にある蟇股上に3羽のひな鷹の彫物がある。昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。ネットに詳細に紹介されている「ページ」👈リンクがありましたのでリンクさせて頂きました。右側の「唐門前石燈籠一、正保二年(一六四五) 忍藩 五万石 老中 阿部忠秋」左側の石灯籠。「重要文化財 東照宮 保存修理工事の紹介①」「本殿」。蟇股の彫刻。⑥本殿巣籠りに鷹家康公の嗜み(たしなみ)(鷹狩り)をよく表した彫刻。松の木に作られた巣に3羽のひな鳥が籠り、左右の親鳥がひな鳥の育成を見守る。家族愛、子孫の安泰、家内を守護している。」「本殿」正面の彫刻。④本殿塗装の傷み具合修理前の本殿は、絢爛豪華(けんらんごうか)に塗装されていましたが、色が落ちたり、変色していました。こちらも鷹の彫刻。次に「宝物保管陳列所」を訪ねた。「御供所この御供所は、東照宮創建時に幕府の命により建てられました。本殿へ供える神撰を調理する場、神前から撤した神酒を戴く直合場として使用され 大宮大修復と共に修繕が成されてきました。」「東照宮宝物保管陳列所」昭和三十九年(一九六〇)に宝物館に生まれ替わったようだ。設立: 1964(昭和39)年建築面積:70㎡(木造建築一階建て)収蔵点数:約2000点開館日:原則無休開館時間:——入館料:大人300円関連博物館:新田荘歴史博物館設立経緯寛永21年(1644)に御宮創建時に御供所として同期に造宮され、天保15年(1844)に造替、昭和39年(1964)宝物館として再度造替している。昭和31年に社殿・宝物などが重要文化財に指定された事により、昭和31年から同41年に亙り文化庁による修復の一環で御供所が陳列所として改装された。所蔵品と展示の概要展示はケース内の提示型展示を基本とする。重要文化財の太刀(刀身鎌倉末期了戒作・拵沃懸地銀装菊花紋散)御金幣、家康公の「御鎧召初式」に用いられた甲冑、三十六歌仙図(群馬県指定重要文化財)、神饌器具、狛犬、棟札(8回の修理記録を記した7枚の棟札、重要文化財)等々、他多数。この日は館内は撮影禁止であったので、「ネット」👈リンク を参照下さい。そして「世良田東照宮」の「御黒門」。「世良田東照宮」の創建当時、幕府によって建てられた門が現存しているのだ。「御黒門(縁結び門)東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には八十メートルの白壁の塀がありました。江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝。正月・四月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段前までの参拝が許されました。この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結び門とも言われています。」「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内」碑。「国指定重要文化財 東照宮」と。「東照宮 所在地: 元和二年(一六一六)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめいていた。東照宮の鎮座により地元世良田の住人はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。 東照宮の文化財(国指定重要文化財) 建造物─本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠・棟 工芸品─太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀(県指定重要文化財) 絵画─板面著色三十六歌仙図(県指定史跡) 法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡 真言院井戸」「御黒門(縁結び門)」を潜って境内に入ると左手にあったのが「上番所」。「世良田東照宮 上番所」。上番所は世良田東照宮の防衛拠点として、江戸時代に運用されていた警備施設だそうです。「顔出しパネル」。「上番所江戸時代 徳川幕府は東照宮を護る為上・下の二ヶ所に番所を設け、昼夜警備に当らせた。この番所は二間と一間半の建物で、ここに川南(埼玉県深谷)の中瀬・横瀬・北阿賀野・南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島の村々、川北(群馬県太田市・伊勢崎市)の世良田・粕川・出塚・大館・堀口・上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・高尾・八木沼・平塚・中嶋・高尾・境・女塚の村々から二~四人出仕していた。出仕の村々には、助郷の課役が免除されるなど他の地域とは異なる優遇を受けた。 番所にあった道具一、三ッ道具(突棒・刺股・袖搦)一、棒十本一、鳶口三本火災時には、縦横三尺の大団扇を以って数十数百人一団となり、火消しを行った」「三ッ道具(袖搦み・刺股・突棒)」が展示されていた。「東照宮御宮番江戸時代、世良田の東照宮は、将軍家先祖の地として徳川府の手厚い庇護を受け、その警固には深甚なる注意か払われた。下記村々は、その警固を勤めた村で、「火の番助郷」とも言われ、他の地域とは異なる優遇を受けた。川北(群馬県側) 下田中(新田町)世良田(尾島町) 高尾 〃小角田 〃 粕川 〃 川南 (埼玉県)出塚 〃 中瀬 (深谷市)大館 〃 横瀬 〃 境 (境町栄) 北阿賀野 〃 八木沼(境町米岡) 南阿賀野 〃平塚(境町) 町田 〃女塚 〃 血洗島 〃上江田(新田町) 上手計 〃 中江田 〃 下手計 〃 下江田 〃 大塚 〃 ・・・ ・・・ 」「手水舎」。「駕籠」の顔出しパネル。そして帰路に。一面に白のアジサイ・アナベルが拡がっていた。近づいて。「世良田東照宮」を後にして、昼食会場の割烹レストラン「楓」に。深谷市大塚334。「割烹 楓 創業 昭和五十年」と。2階に案内される。深谷出身で、明治時代に活躍した実業家、渋沢栄一氏も愛した「煮ぼうとう」を楽しむ。「煮ぼうとう」とは、小麦粉が比較的容易に手に入れることが可能であった土地ならではの、工夫と知恵がたっぷり入った深谷の郷土料理。特徴は、幅広の麺(およそ2.5cm、厚さ1.5mm程度)と、特産である深谷ねぎ、地元で収穫される野菜類をたっぷり使い、生めんの状態から煮込んでいると。生めんから煮込むことで、適度な「とろみ」があり、しょうゆで味をつける、深谷の冬の定番メニューであるのだと。そして生ビールもオーダーして。小天丼。赤身の刺し身。とろろ。デザート。「煮ぼうとう」を楽しむ旅友。「幽静」と。「幽静 鈴木響泉」と。「美人画」。「郷土の自然料理 「煮ぼうとう」について遠い祖先が 四季折々の農産物を活用し 知恵と真心を込めた この地の栄養食です。実業界の王 渋澤青淵翁は 天保十一年(一八四〇年)此の地の富農の家に生まれ 二十一才まで郷土の血洗島で過ごしました。翁はこの煮ぼうとうを こよなく好み 今尚庶民的な近親感を残し伝えています。青淵翁の薫陰により 立派な先覚者が此の地より輩出し また利根川小山川の大洪水で難渋したこの地域も 現在では日本屈指の野菜の大手産地として 活況を呈しています。」洪水に依る肥よくな沖積土の形成 その地に生産される地粉緑滴る深谷葱等が 調和され巾の広い手打ちうどんを煮込んだものです これが魅力ある本当の「煮ぼうとう」なのです毎年十一月十一日 青淵忌には市内の名士百名程が公民館に集い 翁の遺徳を追慕顕彰して盛大裡に「煮ぼうとう会」が催されます昔 武士が戦場で腹ごしらえに帯刀で切って陣中食として食した「煮宝刀」ともいわれる「煮ぼうとう」です。 昭和五十九年霜月 文化財保存委員 小山專一 撰文」「郷土の偉人 渋沢栄一(男爵当時)」様々な「渋沢榮一」の写真が展示されていた。「耕地整理記念碑」の横で。「漢詩」。ここにも「美人画」。「飾り花」。「楓」自慢の「たれ」の自販機が外に置かれていた。「もんじゃ」や「カレー」の自販機もあった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.04
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「徳川氏発祥の地 世良田東照宮 由緒寛永二十年(一六四四)、三代将車徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進。以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家康代々礼敬をつくされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助成し、世に「お江戸みたけりや世良田へござれ・・・」とうたわれました。御祭神主祭神:徳川家康公(東照大権現)東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。家康公は、戦国乱世を終わらせ、日本を統一し平和な時代を築きました。平和の永続を願う公は、「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。自分は、日本の平和の守り神となる」と御遺言を遺されている。配祀:菅原道真公(学問の神)・倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 須佐之男命(愛、農業の神)・伊弉冉尊(結婚・火防の神) 火産霊命(車、縁結びの神)・大穴牟遅命(招福、医療の神) 誉田別尊(安産、育児の神)・建御方神(スポーツの神) 豊城人彦神(開運の沖)・外十柱」「世良田 東照宮」配置図。左手にあったのが「開運稲荷社」。鳥居の扁額も「開運稲荷社」。「社殿」。「開運稲荷社創建当初の「稲荷社」は、当地に古くから祀られていた神様で、開運招福・商売繁盛・五穀豊穣に特にあらたかなご利益のある神様であります。東照宮の修復の際はこの稲荷社も幕府より手厚い保護が成されてきました。明治二十五年(1892)同世良田山内に鎮座していた世良田五社稲荷の一社と伝わる「開運稲荷社」を合祀。明治四十年(1907)「開運稲荷社」は、小社合祀奨励により、旧世良田村小角田「稲荷神社」、旧世良田村上矢島の勝手神社末社「稲荷社」、旧木崎村高尾の久呂住神社末社「稲荷社」と共に東照宮へ合祀。平成八年(1996)現在地に社殿が新築成り、遷座祭が斎行。御宮に合祀されていた全ての稲荷社が御遷座され、現在の「開運稲荷社」となる。 例大祭 三月初午日(旧暦)」「世良田東照宮」の「一の鳥居」。扁額は「東照宮」。「一の鳥居」の先にはー対3組の石燈籠が並んでいた。宮司さんの案内により「世良田東照宮」の拝観に向かう。ここが「拝観」入口。20名以上の団体は200円/人。宮司さんによる説明を聴く我がグループ。「御供水井戸」。正面から。「御供水井戸この井戸は寛永二十一年(一六四四)東照宮創建時に幕府の命により造られました。江戸時代は社殿と同時に修復が成され、汲まれた清き神水は神前へ供えられました。現在もこの神水は地下水となっておりますので容器持参の上でお汲みになり、ご利用ください。また、東照宮神域の清砂を社務所にてお頒け致しております。」「拝殿」参拝の後に訪ねた、「東照宮宝物保管陳列所」。この「鉄燈籠」は、元和4年(1618年)に総社石主・秋元長朝の命で造られたもので、当時の「鉄燈籠」では日本一の大きさを誇るものだったと。「鉄燈籠竿陽刻銘奉納燈籠東照大権現御寳前 元和二戊二午歳七月吉日 <注>元和4喬朝が奉納した年(1618) 秋元越中守藤原長朝 大工 中林仲次明暦4年(1658) 長朝の曾孫喬朝が奉納したものである」制作時と奉納時が40数年離れている理由は、世良田東照宮刊「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」によれば、次のとおり長朝が日光東照宮創建時に奉納しようとしたが、諸大名が奉納する石燈籠より大きく、鉄燈籠、小藩ゆえに奉納叶わず、領地の深谷に東照宮を造立、鉄燈籠を据えた。世良田東照宮建立後、長朝の遺志を継いだ遺族・喬朝が奉納したのだと。祠。熱く「世良田東照宮」について語ってくれた宮司さん。一番奥の石灯籠。一、宝暦十三年(一七六三) 前橋藩 十五万石 松平朝矩場所を変えて近づいて。「奉納石燈籠一、宝暦十三年(一七六三) 前橋藩 十五万石 松平朝矩一、寛政八年(一七九六) 川越藩 十五万石 松平直恒一、天保十五年(一八四四) 忍藩 十万石 松平忠国 唐門前石燈籠一、正保二年(一六四五) 忍藩 五万石 老中阿部忠秋」「拝殿」。日光東照宮奥社拝殿として元和年間(1615 ~ 1623)に造営され、寛永17年(1640)~同19年に当地、徳川氏発祥の地「世良田」へ移築された。設計施工中井大和守正清の最後の作ともいわれ、桃山時代の特色をよく表している。中井正清は「関ヶ原の戦い」後、家康公に使えて江戸城、知恩院、駿府城天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の重要な建築を次々と担当した名工。その名工・正清最後の作品が、この世良田東照宮の社殿であった(建立当時は日光東照宮の社殿として建立された。)「この拝殿は、日光東照宮奥社にあった建物で、将軍・御三家・勅使のみが昇殿を許されました。大工は二条城や江戸城天守閣なども築城した中井大和守正清です。」「唐破風」をズームして。徳川家を象徴する「三つ葉葵の御紋」もあしらわれていた。桁行5間、梁間3間、入母屋造平入り屋根は、当初檜皮葺、寛政8年(1796)修理時に銅瓦葺となり現在に至る昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。正面向拝下の蟇股に、松に鷹の彩色彫刻。提灯にも「三つ葉葵の御紋」。「拝殿」の周り廊下の手摺の造形も鳥の如し。拝殿唐破風下の正面(東側)欄間の造形を右からカメラで追う。正面の左側の欄間の造形。内陣の扁額は「東照大権現」。中央に「鏡」が。拝殿内部の三十六歌仙を追う。右から紀貫之「さくら散る 木の下風は 寒からで 空にしられぬ 雪ぞふりける」伊勢「散り散らず 聞かまほしきを 古里の 花見て帰る人も逢はなむ」山部赤人は下記。小野小町「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとそ思ふ」紀友則「夕されば 佐保の川原の 河霧に 友まどはせる 千鳥鳴くなり」遍昭増正「我やどは 道もなきまで あれにけり つれなき人を 待つとせしまに」写真右に山部赤人 「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」格子天井。「拝殿」を横から(北側)。拝殿懸魚(北側)。右側から欄間を。唐門側(西側)欄間を右から。中央。中央をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.03
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バスに戻る前に道の駅「おかべ」にあった六角形の「情報センター」を急いで訪ねたのであった。「中山道の熊谷宿」案内板。中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて8番目の宿場。上段左から馬頭観世音中山道を往来する馬を守り、冥福を祈るために、一里塚の協に立てられています。竹井澹如(たけいたんじょ)翁碑熊谷宿本陣をつとめた竹井家を継き、明治12年、初代の埼玉県議会議長になりました。政治・産業面でも大きな功績を残しました。万平公園に翁碑があります。「星渓園」は、翁が明治初年につくった名園です。秩父道道しるべ室町時代に始まった秩父札所の観音信仰は江戸時代に盛んになり、最盛期の巡礼の数は数万人にも達しましたが、江戸からの順路の一つとして熊谷宿に隣接した石原村で中山道から分かれるちちぶ道がありました。その分岐点付近に立てられた道しるべです。下段左から札の辻跡法令や禁令などの高札を揚げる場所で、「高札場」とも言われました。現在の中山道と大路地の交差する付近にたてられたと考えられます。熊谷本陣跡全本陣中でも大規模な本陣でした。面積1500坪(約4950m2)、建坪700坪( 2310m2)、畳間数47、畳数360畳という壮大な邸宅であったようです。代々、竹井家が本陣を動めていました。新島の一里塚通常、一里塚の樹木は、エノキやマツなどが多いのですが、この一里塚は、非常にめずらしく、ケヤキの大木です。「中山道の深谷宿」案内板。和宮御降嫁幕府は威信を回復するために、14代将軍家茂のもとに、孝明天皇の御妹宮降嫁を奏請しました。和宮は降嫁の際に中山道を使い汀戸に下向されました。途中、深谷宿本陣に宿泊しました。和宮の使ったとされる御草履が現存しています。深谷本陣道物寛永12年(1635)参勤交代制に伴い、中山道筋諸大名の道中宿所として指定された後、本陣として存在したものと推定されます。現存する建物は、正徳2年(1712)の再建です。北斎筆徐福図(ほくさいひつじょふくず)北漸が旅籠近彦に泊まった時に描いたものです。はじめ行灯部屋に泊まっていましたが、北斎だと分かると驚いて上等の部屋に案内したという逸話つきです。みかえりの松深谷宿は中山道でも屈指の遊郭がありました。宿を出た旅人はみかえりの松で宿に別れを告げたのでこの名前が付きました。渋沢栄一日本近代資本主義の父と呼ばれ、実業界に止まらず、生涯を通して社会福祉事業に尽力しました。「中山道の本庄宿」案内板。市神様宿で市が開かれるにあたり、市の神様を、街道に置きました。本庄宿では2箇所あり、一つは田村本陣の正面付近にありました。もう一つは、新田町にありました。現在の図書館入口付近にあたります。現在では、金鑚(かねさな)神社の境内に移築されています。神流川の常夜灯神流川の流れはよく変わるため、その度に橋や渡船場の位置が変わりました。昼間でも道筋が分かりにくいため、川の両脇岸に目印して見透灯籠と呼ばれる常夜灯を設けました。そ・・・人の小林ー茶も寄付したといわ・・・・当時の物は大光寺に移設されて・・。田村本陣の門本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の北門です。田村本陣は、現在の中央一丁目にありました。この門は、皇女和宮が降嫁の際にくぐったといわれています。豪商・戸谷双烏中山道は政治・経済の大動脈として整備され、本庄宿は交通の要であったため、豪商も生まれました。今の宮本町と泉町の境あたりに、代々、戸谷半兵衛を襲名していた豪商がいました。その3代目が、「戸谷双烏」という人物です。双烏は、旅人の安全のために寄付を募り、神流川の渡しに高さ3mの豪華な常夜灯を寄進しました。泪橋跡碑橋の跡に石碑・・・埼玉県内の「道の駅」案内パネル。特定テーマ型モデル「道の駅」概要。「道の駅は、ドライバーが24時間利用できる「休憩機能」、道路や地域の情報を提供する施設としての「情報発信機能」、道の駅を接点に活力ある地域づくリを行う「地域連携機能」の3つの機能を基本コンセプトとして有し、この3つの機能による相乗効果から「地域とともにつくる個性当かな賑わいの場」を創出することが求められておリ、現在では、全国で1150箇所以上に広がっている。近年「道の駅」は、道路利用者への単なる「休憩機能」を持った施設から、地域住民のための交流施設や防災施設、そして地域創生における拠点へと、今やその役割リは大きく変貎しており、地元の名物や観光資源を活かして、多くの人々を迎え、地域の雇用創出や経済の活性化、住民サービスの向上にも貢献しているのだと。「2021年大河ドラマ(第60作) 青天を衝(つ)け」 案内パネル。「大河ドラマ第60作の主人公は新1万円札の顔として注目される「渋沢栄一」です。約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」。晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度選ばれています。幕末から明治へ。時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、青天を衝くかのように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けた渋沢は、生涯青春の人でした。2021年、若き心で挑戦を続けた男・渋沢栄一との出会いにご期待ください。」「物語官尊民卑なんて、くそくらえ。百姓からの脱却を決意!栄一は、藍染めの原料となる藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に生まれた。頭の回転は早いが、大人や権力にものおじしないやんちゃ坊主に育つ。商才に長けた父・市郎右衛門の背中に学び、栄一は商売のおもしろさに目覚めていった。しかし17歳のころ、人生を変える最初の事件が起こる。御用金を取り立てる代官に刃向かい、理不尽に罵倒されたのだ。栄一は、官尊民卑がはびこる幕府の身分制度に怒りを覚え、決意する。「虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!」目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ……。栄一は、従兄の惇忠や喜作とともに、尊皇攘夷に傾倒していく。栄一らは江戸に出入りして同志を集め、ある暴挙を企てた。高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き打ちするという一大攘夷計画だ。ところが、京の情勢に通じた惇忠の弟・長七郎の猛反対にあい、実行前夜にしてあえなく断念。逆に幕府に追われる立場となり、喜作とともに京へ逃げる。そんな彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。一橋家の家臣となるか、幕府に捕らわれて死ぬか、という二者択一を迫られる。このとき、“慶喜こそが幕府を変える人物となる”と望みを懸け、一橋の人間となったことで再び運命が変わっていく──。心ならずも幕臣に。パリ行きが人生を開く!栄一は持ち前の商才で一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。ところが、慶喜が将軍を継承したことで、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。失意の栄一に、またとない転機が訪れる。パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。産業発展めざましいフランスに渡った栄一は、「株式会社」と「バンク」の仕組みを知り、さらに官と民が平等である社会に大きな衝撃を受ける。「攘夷なんてとんでもない。民間が力を発揮する西洋の国づくりを日本も吸収すべきだ!」。そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ……。まさかの新政府入りで、続々改革。33歳でいよいよ民間へ。帰国後、様変わりした日本に衝撃を受ける栄一。約260年続いていた徳川の時代はすでに終わり、惇忠や喜作は「彰義隊」を結成。戊辰戦争、そして箱館戦争と新政府軍との戦闘を続けていた。栄一は、静岡で隠棲する慶喜と再会し、身をやつした姿に涙する。そして、民間に身を置きながら、慶喜をそばで支えることを決意した。しかし突然、明治新政府から出仕を命じられて上京。「改正掛」を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。栄一はある決意を胸に辞表を提出した。この時、33歳。いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まるのだった……!「主人公 渋沢栄一 吉沢亮渋沢中の家(なかんち)の長男。幼い頃から人一倍おしやべりで剛情っばり。従兄である惇忠の影響を受け、読書に没頭する日々を送る。勤勉な父・市郎右衛門の教えを受け、藍玉づくりの仕事の奥深さを知り、思わぬ商才を発揮していく。「物語のはじまりは、藍に染まった血洗島村(ちあらいじまむら)から天保11(1840)年。隣の清国でアヘン戦争が始まろうとしていたころ、武蔵国榛沢郡(はんざわぐん)血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家に渋沢栄一は生まれた。家業は、染料のもとになる藍玉づくりと養蚕。職人気質の父と慈愛あふれる母のもと、近隣に住む従兄弟いとこたちとともに育つ。水戸学に心酔する年上の従兄・惇忠(あつただ)からは学問のいろはを学び、2歳上の喜作とは何をやるにも一緒で相棒のよう。そんな二人の憧れの的は、惇忠の妹である愛らしい千代だ。血洗島村のそばには中瀬河岸(なかぜかし)という船着き場があり、利根川を通じて江戸の文化や経済がいち早く伝わる情報の交差点でもあった。ジャパンブルーを生み出す藍の葉が揺れるこの村にも、ペリー来航から始まる維新の足音がすぐそこに迫っていた。運命の出会い。栄一と慶喜の物語がパラレルに展開。血洗島村から約150キロ離れた水戸藩では、栄一より3年早く生まれた七郎麻呂が、父・斉昭(なりあき)による厳しい教育を受けていた。彼こそ、のちの15代将軍となる徳川慶喜だ。まったく接点がなさそうに思えるこの二人だが、慶喜の存在なくして栄一は語れない。農民の栄一が倒幕を志したものの、まるで正反対の幕臣となり、さらに新時代を切り開くことができたのは慶喜との出会いがあったからこそだ。転身を繰り返し波乱万丈に生きた栄一だが、慶喜もまた、時代のうねりに翻弄された人生だった。「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」で知られる強烈な父を持ち、将軍になりたくなかった男が、最後の将軍として幕府を終わらせるまでにどんなドラマがあったのか……。さらに、その後の慶喜の人生においても、栄一との関係が途切れることはなかった。「慶喜の名誉回復」のため、栄一の忠義は生涯貫かれる。やがて重なる二人の物語が、血洗島と水戸からそれぞれ動きだす。」「近代日本経済の父 渋沢栄一」説明文。「祝渋沢栄一翁 新一万円記念近代日本経済の父 渋沢栄一渋沢栄一(雅号「青淵」)は、天保11年(1840 年)現在の深谷市 血洗島 の農家に生まれました。父親からは勤勉さ、人への思いやりを、母親からは 慈悲のこころを学びました。母「えい」は大変慈悲深い人で、栄一は母の愛 情をいっぱいに受けて育ちました。母は近所の人にも優しく、病弱な人の着 物や食事の世話までしました。のちに栄一が社会福祉事業に熱心に取り組ん だのはそんな母親の影響があったのでしょう。 また、いとこの尾高惇忠(雅号「藍香」) から「論語」をはじめとした学問を学ぶ とともに尊王攘夷思想の影響を受けまし た。23歳のころ、幕藩体制に疑問を抱 き挙兵を企てますが、中止して郷里をあ とにします。その後一橋家及び幕府に仕 え、慶応3年(1867 年)、第15代将軍 徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡欧しました。約一年半滞在する中で、ヨー ロッパの進んだ社会制度・思想・文化などを目の当たりにし、大きな影響を受 けました。 明治元年(1868 年)11月に帰国した後、静岡に商法会所を設立したと ころ、大隈重信の説得により明治政府に租税正として迎えられ、様々な制度 の企画・立案に当たります。明治6年(1873 年)大久保利通らと財政運営 で意見が合わず辞職し、第一国立銀行を設立するなど実業界で活躍しました。 「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの 近代企業の確立に努め、第一国立銀行をはじめ設立・育成に関わった企業は 500余に及びました。 また、600以上の社会福祉事業や教育に関わるとともに、昭和6年(1931 年)に亡くなるまで、国際親善にも貢献しました。実業家の出発点 栄一の家は農業、養蚕のほかに藍玉を製造していました。藍の葉を仕入れて、 藍玉という染料のもとにして売るのです。栄一もよく父親の供をして藍葉の仕入れや得意先まわりに出ていました。栄一が14歳の時、栄一と祖父とで買出しにでかけましたが、生意気ざかり の栄一は祖父を残し、一人で買い付けに 行きました。最初は栄一を相手にしなかった農家の 人たちも、「この葉は肥料が足りないね。これは乾燥が不十分だね。」と言う大人 顔負けの鑑識眼に驚き、栄一は上質の葉 を安く仕入れたそうです。倒幕から幕臣へ江戸時代には、御用金と称して、領主が富裕な領民に金を供出させることがたびたび行われていました。栄一が17歳の頃、富農であった渋沢家は、岡部 藩から500両の御用金を差し出すよう申しつけられました。父親の代わりとして代官所に出頭した栄一は、役人のごう慢な態度に正論」で対抗しました。この時のやりとりから「侍が威張るのは、結局は幕政が悪いからだ、階級制度が間違っているからだ。」という結論に達しました。こんな体制への反発が栄一を「倒幕」の意識に駆り立てていくのでした。栄一は、近郷きっての知識人で10歳上のいとこ尾高惇忠、惇忠の弟である長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城を乗っ取り、徳川幕府を倒すという計画を立て準備をはじめました。しかし長七郎は京都での見聞から、この計画に反対し、結局この計画は中止になりました。栄一は24歳の時、喜作とともに、世の情勢を探るため京都に向かいました。元治元年(1864年)かねてより懇意にしていた一橋家の重臣、平岡円四郎の勧めで一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に仕官することになり、一橋家では歩兵の募集、財政の改革、新しい事業の運営などで頭角をあらわしていきました。ヨーロッパ派遣慶応3年(1867年)、栄一は、ナポレオンⅢ世の開くフランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行しました。好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。このヨーロッパ視察が、栄一の人生を大きく変えたのです。官界から実業界へ栄一は、帰国(明治元年)後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(現在の静岡県)に設立しました。翌年には明治政府の高官・大隈重信の説得で大蔵省に出仕し、国家財政の確立に取り組みましたが、官界の硬直した体制に限界を感じた栄一は大蔵省を4年で辞め、実業界へ転身し、第一国立銀行をはじめ、約500社の設立に関与しました。栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕のこころ=まごころと思いやり)にあり、単なる利益追求ではなく、「道徳経済合一」による日本経済の発展でした。ここに実業界の指導者としての栄一の偉大さがあるのです。慈悲のこころ 社会福祉活動栄一は社会福祉事業にも熱心でした。栄一は明治7年(1874年)のとき、東京府からの要請で、身寄りのない子どもや老人を養う施設である「東京市養育院」に関わり、以来92歳の天寿をまっとうするまで56年間も熱心に養育院の院長を務めました。また、孤児院の「埼玉育児院」、精神薄弱児施設「滝乃川学園」の設立・運営、「救護法」の制定などにも力を尽くしました。教育にも力を入れ、東京商法講習所(現・一橋大学)の経営にも尽力しました。また、日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立委員にもなりました。栄一は医療施設の整備にも情熱を燃やし、東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)、恩賜財団済生会、財団法人聖路加国際病院、日本結核予防協会などの設立と運営にも関わりました。国際交流にも尽力昭和に入り、日米関係が悪化してきたことに心を痛めていた栄一に、アメリカから人形による国際交流を行い、日米友好を図りたいという依頼がきました。栄一は外務省などと連携し「日本国際児童親善会」を組織し、アメリカ側から12,739体の「青い目の人形」を受け入れました。この人形は全国各地の小学校へ送られ、大歓迎を受けました。後に、返礼として58体の日本人形がアメリカへ贈られました。現在「青い目の人形」は埼玉県内の小学校などに12体(全国で270体余)が保存されています。また、栄一は第18代アメリカ大統領グラント、救世軍ウィリアム・ブース、中国の政治指導者・孫文など、世界の著名人とも親交がありました。論語の里栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、生涯を通して論語に親しみました。初め父親の渋沢市郎右衛門に論語を学びましたが、7歳頃から尾高惇忠に習うようになりました。栄一が惇忠の家に論語を習いに通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれるようになりました。この「論語の道」周辺には、栄一ゆかりのある史跡等が数多く残されており、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。渋沢栄一年譜をネットから。「新一万円券」をネットから。「おしゃびき様~〈浦和宿〉~おしゃびき様は、こども百日咳によくきくといわれ、信者が納めた真白なよだれかけを、幾重にも胸のあたりにかけています古老の話では、おしゃびき様は、このあたりで行きだおれになった旅の老女をまつったものであるとのことです.おしゃびき様は、いつも子どもが大好きで、子どもがお賽銭を持ら出して使うのをみては喜んでいました。それをみた大人たちが「それはもったいないことだ」といって賽銭箱をつくり、賽賽を馭れなくすると、にわかに百日咳いはやり出して村人を困らせました。おしゃびき様は、子どものしたいようにさせておきたいのでしよう。社殿前に賽銭箱がないのはそのためです。とこらで、「しゃびき」はしわぶき(咳 ) の訛りだから、おしゃびき様とは、咳の神様ということになります。成田山にお詣りしない部落~〈浦和宿〉~成田山にお詣りしないという部落がありますが、たいてい平将門が祀られています。天慶年間、関東に兵をおこした平将門は、一時は関東一帯を支配下においたものの、藤原秀郷に討たれてしまいます。伝説上では、将門には七人の影武者いたとわれ、それが神出鬼没、変幻自在で、どれが本当の将門だかわかりません。困って秀郷は成田山に「本当の将門が姿を現わしますように」と祈ると、成田山は「お札を投げつけなさい」とか、「ロから白いものをたなびかせているのが将門だ」というお告げがでました。そのため妖術がとけて、将門はついに秀郷に首をはねられることになるのです。伝えるところによると、成田山にお詣りしないという禁忌を、最後まで固く守っていた家は、平将門の家臣の子孫で、将門が没落した後も、この土地に隠れ住みついたといわれています。ホタルの御殿~〈大宮宿〉~見沼の畔に、笛の上手な”小笛”という名の少女が住んでいました。初夏のある晩のこと、小笛が笛を吹きながら見沼の畔を歩いていると、はるか向こうから笛の音が聞こえてきました。こちらがやめると、その笛もやんでしまいます。不思議に思い、その笛の音のする方に歩いていくと、古井戸がありました。どうやら笛の音は、この古井戸の中から聞こえてくるようです。恐る恐る覗き込むと、ばっと井戸が明るくなり、いく百千ものホタルが一斉に飛び出してきました。その内に、美しく大きなホタルが現われ、小笛を招くようにう飛んでいきます。その後を追いかけ竹やぶに入ると、そこには綺麗な御殿が建っていました。まもなく少女が現われ、「お姫様がお待ちです」といって、案内してくれました。お姫様は見沼のホタルの謂れについて話してくれました。「私は昔ここにあった城の姫です。戦に負けて滅ばされ、一族ともどもホタルになりました。お願いです。私のために供養塔を建ててださい」小笛は、お姫様の悲しい、顔が忘れられず、願いどおり供養塔を建ててやりました.「岡部藩について岡部藩は、天正18年( 1590 )徳川家康の関東入国に際して、家臣の阿部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計5250石を基に発展しました。信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、覚泉13年(1636)に三河国内4 , 000石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。その後、所領高20,250石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の受知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。」中宿遺跡中宿遺跡は、古代榛沢郡役所の正倉院跡です。櫛挽台地先端部に立地し、道の駅おかべに隣接します。これまでの調査で、稲穀類を収納したとみられる大規模な倉庫(正倉)群が、列をなして整然と並んでいるのが確認されました。存続時期は、7世紀末~1 0世紀と考えられます。建物のほとんどは総柱式の高床倉庫で、そのうち2棟が復元されています。北側には、自然流路を再掘削した河川跡が確認されており、運河的な機能を有していたと思われます。中宿遺跡は、『中宿古代倉庫群跡』として埼玉県の史跡に指定され、保存・整備されています。中宿遺跡倉庫群周辺の復元模型写真は、8世紀中頃の中宿遺跡倉庫群周辺の復元模型です。台地の緑辺に規格の異なる倉庫群が建ち並び、倉庫群直下には稲の運搬に利用されたと推定される河川跡が確認されています。「一般国道17号本庄道路神流川橋は「令和4年内」の開通を目指します」と。道の駅「おかべ」の「情報センター」での「予習」を終え、バスに乗り込み北に進み、「小山川」のい架かる県道14号線の「共栄橋」を渡る。そして更に進み「利根川」を渡る。「上武大橋」を渡る。埼玉県深谷市中瀬と群馬県伊勢崎市境平塚とを結ぶ橋。1934年10月30日開通した、橋長894.7 m、幅員5.5 mの鋼橋。「上武大橋」から利根川の上流を見る。そして群馬県伊勢崎市に入る。最初の目的地の「世良田東照宮」に向かって進む。そして太田市の「歴史公園」駐車場に到着。徳川氏発祥の地として知られている世良田東照宮の参拝に向かう。その周辺にも歴史的な建造物が多々あるとのこと。目的地の「世良田東照宮」に加え、新田荘歴史貞料館、周辺に鎮座する長楽寺、などを総じて「太田市歴史公園」と呼んでいるようであった。「ようこそおじままちへ」とあったが、ここは現在「世良田町」であり、この案内板は以前のものがそのままであるようであった。ネットで調べてみると、2005年3月28日に(旧)太田市、新田町、藪塚本町との合併により太田市となり「尾島町」は消滅したようであった。「太田市歴史公園案内図徳川氏発祥の地おじま平安時代の末期に後三年の役の内乱を定したハ幡太郎義家は、その後東国に強力な武士国を結成し、源氏は東国にその基盤を築きました。義家の子義国は関東に下りその長子義重が新田の荘を開さ、新田氏の祖となりました。さらに義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と名のり、その後承久三年(一ニニ一)後鳥羽上皇の勅願と伝えられる長楽寺を世良田に創建し、臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を招いて開山しました。時を経て鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔(こうえい)義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫しました。その後足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れて流浪の旅に出、親氏は仏門に入って徳阿弥と名のった後、松平郷(豊田市松平町に移って松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられています。以後代々相続し、永禄九年(一五六六)家康は松平姓から徳川姓に復姓し関東に入国した後、世良田藩徳川の地は徳川氏発祥の地として、将重家の厚い比護を受けるようになりました。」。「徳川氏略系図」徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。「大光庵太田市茶会所」が右手に。茶会所「大光庵(たいこうあん)」は、太田市歴史公園内に建設された木造平屋建て数寄屋造りで、四畳半の小間と、八畳の広間に水屋を備えた本格的な茶室です。また、日本庭園内には、外腰掛、中門の外には野点広場なども設けられており、四季を通してお茶を楽しむことができると。 茶会所「大光庵」の庵名は、長楽寺開山栄朝の塔頭大光庵より名前をとったもの と。「尾島かるた ろ炉の湯でお点前大光庵茶会所大光庵は、平成五年十月尾島町歴史公園内に建設された本格的な茶室です。町内の茶道愛好者を中心に、多くの方々に広く利用されています。茶道との深いかかわりのあった長楽寺の旧寺域でもあり開山栄朝にちなんで大光庵と名付けられました。」「歴史公園東照宮・長楽寺新田荘歴史資料館」碑。「歴史公園案内図徳川氏発祥の地本町は、十二世紀中頃源義國の長子新田義貞がこの地に荘園を開き、新田の荘と呼ばれました。更に、義重の子、義季は徳川の地を領して徳川義季と名のりました。その後、承久三年(一二二一)義季は、世良田に長楽寺を創建しました。徳川義季を先祖として、家康は松平を徳川に復姓し、更に、三代将軍家光は、日光東照宮の大改築を行い、奥社にあった拝殿と宝塔を天海大僧正に命じて、徳川氏先祖の地世良田に移築しました。こうして世良田・徳川の地として将軍家の厚い庇護のもとに繁栄を続けました。」「歴史公園案内図」をネットから。「新田義貞公之像」。ズームして。南朝方として後醍醐天皇に従った忠臣として楠正成と並んで特に有名な人物。鎌倉を攻めあぐねていた新田義貞が稲村ケ崎で黄金の太刀を海中に投げいれて竜神に祈願したら、潮がひいて海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を海側から越え突破でき、鎌倉に突入することが出来たという・・その祈願のシーンが銅像になっている と。「新田義貞公傅正安三年(西暦一三〇一年)尾島町世良田の新田館(現在の総持寺内)に生れ成人して鎌倉の北條氏に仕えていたが北條氏の横暴を嫌って郷里のこの地に戻る その後大塔宮護良親王の令旨を受け生品神社に於いて討伐の兵を挙げ親族足利尊氏の兵を加えてもその数は二百有余騎で兵力の不足を嘆く その時新田家相傳の守本尊安養寺村新田觸不動尊の神力に依り甲信越の親族からの援軍を得て二千有余の軍勢で鎌倉を攻め落す 時に元弘三年義貞三十三才後足利尊氏は北朝に仕え新田義貞は南朝に仕う足利氏の非行を嘆き尊氏と戦い福井の藤島に於いて斃る 時に延元三年(西暦一三三八年)三十八才 尾島四八五 建設省 大澤明治 筆者 島田照資」「新田義貞公之像」の後ろにあったのが「新田荘歴史資料館」。「新田荘歴史資料館」では、新田荘遺跡を構成する、隣接の「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財を始めとして、太田市の豊かな歴史を物語る古墳や埴輪など、多くの資料を保管・展示してあるのだと。展示品を見学したかったが、残念ながら素通り。「新田荘歴史資料館」碑。「新田荘歴史資料館」の前の芝生の中にこんもりと盛り上がった場所があった。「長楽寺遣跡1号墳長楽寺遣跡からは、東毛歴史資料館建設に伴う発掘調査により、古墳時代の住居跡30軒(4世紀)、古墳5基(6世紀初頭)、中世長楽寺々域を画したと考えられる大溝等が見つかりました。1号墳は、直径約18メートルの円墳で、盛土は失なわれ高さは不明ですが、1周する溝(周溝)と人を埋葬した石槨が見つかりここが石槨の位置です。石槨は、ローム層を掘りこんで、凝灰岩を側壁・天井石に使い側壁のまわりを河原石でおおい、さらに全体を粘土でおおっていました。出土遺物は、石槨より鉄鏃(矢じり)、周溝より壺、円筒埴輪等です。」見学通路の角にあったのが、屋根で覆われた井戸。「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内真言院井戸所在地真言院は、当會一紲に長楽寺別院として境内に建てられた。ここでは専ら密教をつかさどり灌頂(かんじょう)を行った。灌頂とは、真言密教の儀式の一つで、頭の頂きに水を灌れ(そそがれ)、それによって僧侶として一定の資格を得ることである。この時使用する閼伽(あか・水)は、きわめて清浄なものとして重視された。真言院井戸は、この灌頂に用いる浄水を汲むために設けられたものである。僧侶は、この水で灌頂を受けるために諸国からここに参集した。井戸は、底部より玉石を積み上げ、その上部には、花崗岩の大石を方形にくりぬき、縁を唐戸面に仕上げた井戸枠がすえられている。これは、徳川家康の命により長楽寺住職となり、当寺を再興した天海憎正(慈眼大師)によって、寛永十九年(一六四二)に作り替えられたものである。井戸枠の南面に良田山長楽寺真言院閼伽井山門三院執行探題大憎正天海長楽寺再興之砌(みぎり)彫刻北面に寛永十九壬午暦孟春十七日孟春ー旧暦一月の文字が刻まれている。その後、灌頂の儀式は長楽寺で行われるようになり、真言院は廃されたが、由緒あるこの井戸は丁重に保存され、今日にいたっている。」アジサイ【アナベル】が美しかった。「南御門」を潜る。「南御門この御門は東照宮が御鎮座したおり御神域を守護するため、現地より東南の位置に築かれておりました。また御黒門を中心とした北御門・南御門の門前には、下馬札が立てられておりました。」桜の老木。「御神域桜群馬県一太いソメイヨシノ樹齢年:不詳」と。更に「世良田東照宮」に向かって進む。「徳川氏発祥の地」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.02
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2020年4月から、我が地区の自治会連合会の役員をやっています。この2.5年間はコロナ禍で自治連での団体行動は中止していましたが、この日6月22日(水)には自治連役員、自治会長等による研修旅行に観光バスを利用して埼玉県深谷市に行って来ました。埼玉県深谷市への旅行は、2年前から計画していましたが、やっとこの日に実現したのです。定刻の7:30に集合場所の小田急線駅前から出発。参加人数は約30名。この日は、東名高速「綾瀬スマートチェンジ」に向かって進む。左手に「綾瀬市役所」庁舎。前方のモザイク模様の壁の建物が「MFLP 東名綾瀬」。東名高速道路「綾瀬スマートIC」に隣接。近郊・首都圏への配送はもとより西日本への配送にも対応可能なマルチテナント型物流施設。綾瀬市の玄関口に相応しい外観デザイン。屋上にはドクターヘリポートを整備し、緊急救命体制に寄与し地域に貢献していると。「綾瀬スマートIC」案内板が現れた。「スマートIC」とは、ETC専用インターチェンジのこと。緊急車両は除き、有効なETCカードを所持し、ETC車載器を搭載した車両しか出入できないのだ。「綾瀬スマートIC」南口の「東名(名古屋)」入口から東名高速へ。茅ヶ崎JCTにて、下に見える「東名高速」から圏央道に向かって進む。圏央道に入ると左手に見えたのが相模川。その先には厚木ガス 本社のガスタンクが。前方左手前に「相模大橋(さがみおおはし)」が。神奈川県海老名市と厚木市の間の相模川に架かる橋梁。旧国道246号の経路であり、現在は神奈川県道40号、43号、51号が通る。かながわの橋100選に選ばれている。その先には「あゆみ橋」が。「この橋の位置には、もともと「相模橋」と称する橋があった。現在の相模大橋の開通とともに、相模橋は廃橋となったが、地域住民の要望により、流されてもすぐに架け直せるような簡易な構造の沈下橋「相模小橋」を架けることになり、1966年(昭和41年)5月24日に開通した。それ以後、潜水橋に由来する「もぐり橋」という通称で、地域住民に親しまれた。大雨で橋の一部が流れてしまった場合、海老名市と厚木市が毎年交代で費用を負担することになっていた。しかし、台風が多い年は予算超過となる上、毎年交代での費用負担は不公平に見えることもあった。また、夜間は危険なため、午後7時から午前5時までは人も含めて全ての通行ができないことになっていたが、これは地域住民には不便であった。また、一方通行であり海老名から厚木方面のみに限り通行可能である為に、厚木市民側からは不公平だと言う意見も多かった。このような理由から、恒久的な橋に架け替えることになり、1992年10月から着工、1996年2月1日に開通した。なお、「あゆみ橋」は接続路も含めて、大型車の通行が禁止されており、これら車両は相模大橋に迂回する必要がある。」とウィキペディアより。ネットから「もぐり橋」の写真を。その右側は工事中の「あゆみ橋」の姿と。 【https://ioridreams2019.blog.fc2.com/blog-entry-248.html】より欄干は触ると下流側に折れ曲がる構造になっていたと。 【https://ioridreams2019.blog.fc2.com/blog-entry-248.html】より「中央自動車道」への「八王子JCT」手前を通過。左手に見えたのが「秋川」沿いにある「東京サマーランド」。東京都あきる野市にある遊園地。日本最大級の流れるプールや天候を気にせず遊べるドーム内プールなど、多彩なウォーターアトラクションが中心。「多摩川」を渡る。そして「圏央」の「狭山PA」で1回目のトイレ休憩。様々な種類の「狭山茶」が売られていた。「釜めし」も。バスのフロントガラスには我が自治会の名前が。そして「鶴ヶ島JCT」から「関越自動車道」へ。「関越自動車道」を降りる「花園IC」に向かって進む。「荒川」を渡る。「花園IC 料金所」を通過。国道140号(彩甲斐街道)を深谷市に向かって進む。そして左折して県道69号線に。「道の駅 かわもと」案内板。「深谷駅北口」方面を見る。右手奥に「深谷市役所」。「深谷警察署」前を通過。「渋沢栄一生地」案内板。田園地帯が拡がっていた。そして「道の駅 おかべ」で2度目のトイレ休憩。平成8年に建設され、地元物産品を扱う「ふるさと物産センター」や地元新鮮野菜を取り揃えた「農産物直売所」などを併設し、深谷市の西の玄関口として賑わっていた。店内を散策。農産物直売センターでは深谷ねぎをはじめ、野菜、切り花など地元品を販売していた。深谷ねぎを使用した「元祖ねぎみそ煎餅」。表面に刻みねぎがたくさん付いている煎餅で、贈答用の箱詰めセットもあった。私も袋詰めを1袋購入。そして六角形の「情報センター」を急いで訪ねたのであった。「現在地」周辺の地図をズームして。 ・・・つづく・・・
2022.08.01
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翌朝も6時過ぎに温泉に向かう。「大浴場ご利用時間のご案内」」「ほたるの湯」と「松ぼっくりの湯」が時間により男風呂と女風呂に切り替わるシステムになっていた。よってこの時は「ほたるの湯」を楽しむ。手前が「ほたるの湯」・「壱の湯」。大きい方が「ほたるの湯」・「弐の湯」。その奥にタイル絵が。源氏物語の世界であろうか。「ほたるの湯」の「檜風呂」。「ほたるの湯」の「岩風呂」。「ほたるの湯」の「陶器風呂」。部屋への通路には近くで観察できるホタルの写真が。雪の寒村の姿が絵画で。部屋に戻り、再び早朝の「アオサギ」をカメラで追う。羽を広げた勇姿。愛情の表現か?木の枝で造った巣。全部で10羽以上を確認できたのであった。JR身延線の電車が「下部温泉」駅に。朝食会場に向かう通路には手作りのお雛様が。バイキング方式の朝食を楽しむ。1階ロビー内にあった「懐かしの石原裕次郎写真展」のコーナーがあった。「懐かしの石原裕次郎写真展」案内。「名優石原裕次郎が、右足首骨折のため、当館を訪れたのは昭和36年のこと。志賀高原でスキー中、粉砕複雑骨折する事故に遭い、医師より切開手術を勧められた彼は、メスを入れることを嫌い、温泉療法の道を選びました。全国の著名な温泉地を候補に、周囲の勧めと自らの意志で当地下部温泉を選んだのです。6月3日から7月25日まで、まき子夫人の手厚い看護を受けながら約1ヶ月半にわたり温泉療養と歩行訓練を続け、驚異的な回復ぶりを見せたという。今なお、彼にまつわる数々の逸話が語り継がれています。」と下部ホテルのHPには。様々な写真が展示されていた。石原裕次郎 ポスター 「狂った果実 CRAZY FRUIT BORN IN 1934 」。石原慎太郎が自ら描いた肖像画 であると。「裕ちゃん13回忌の特別番組「想いでの地」で撮影の為 まきこ夫人ご来館 1999年11月」と。「日活映画・石原裕次郎作品ポスター大全集」。日活時代の全出演作は89作品に及ぶとのこと。一つ一つの写真に彼の想いが溢れ出ていた。「痛みとれ 別れ惜しむか 下部の湯」と石原裕次郎直筆の句。名優 石原裕次郎氏ゆかりの部屋「裕林の間、松の間」があると。「昭和36年に名優、石原裕次郎氏が骨折療養のため、実際に長期滞在されたお部屋「裕林の間」は、裕次郎氏により名づけられました。当時のたたずまいも今のそのままに受け継いでおります。」と。「裕ちゃんを偲んで」、裕ちゃんの写真とともに「下部ホテル」を紹介する雑誌の1ページ。こちらも。「身延路を 右に左に 下部の湯」。映画ポスター「銀座の恋のものがたり」。画家を夢見る貧乏青年、伴次郎(石原裕次郎) は人力車で銀座の夜を走らせている。彼を同居する青年、宮本修二(ジェリー藤尾) は音楽家を目指している。次郎は宮本が作った楽曲に詩をつけて口ずさんでいる。絵の才能がある次郎は美術会社への就職の口もあったが、断る。恋人の秋山久子(浅丘ルリ子) は安定した結婚生活を夢見ており、落胆して次郎の元を去る。宮本は音楽の道を諦めてヤクザまがいの密造酒売買で商才を発揮する。関口典子(江利チエミ) は婦人警官の素性を隠して、宮本らの組織を追い詰めていく。そして次郎に恋する。次郎は久子とよりを戻すために美術会社への就職を決意する。そして次郎の故郷の長野へ一緒に行く夜に事件が起きる。久子が行方不明になったのだ。その後・・・・・ のストーリー。売店。山梨の人気の土産・ワイン・酒類やホテルのオリジナル商品も販売していた。そしてチェックアウトして「下部ホテル」を振り返る。そして帰路は、昨年8月末に全線開通した「中部横断自動車道」を利用する。「中部横断自動車道」は長野県小諸市の佐久小諸JCTから静岡市清水区の新清水ジャンクション (JCT) に至る総延長約132キロメートルの高速道路(高速自動車国道)である。略称は中部横断道(ちゅうぶおうだんどう)。日本列島の中心線に沿って列島を横切る形で走っているため、道路名は「横断道」と。そして、新東名経由で帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.04.06
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まずは温泉を楽しむ。「温泉の入口」日本の名湯百選に入選。戦国武将、武田信玄公ゆかりの下部温泉郷は二千年の歴史を刻む、隠し湯の里。一万坪にも及ぶ自然林の中に佇む当館の湯は、庭園内より湧出する硫黄泉と、引き湯の下部温泉共同泉。泉質の異なる「二種類の源泉」を、七つの露天風呂を含む大浴場など「十二の湯舟」で堪能できるとのこと。「大浴場のご利用について」と「黙浴(もくよく)」案内ボード。この日は入って左側が男湯・「松ぼっくりの湯」であった。「松ぼっくりの湯」配置案内図。脱衣室。駕籠は一つ置きに利用。洗面台。「松ぼっくりの湯」の内湯を独り占め。手前「壱の湯」。広々とした湯舟でゆったりと。さらりとした下部奥の湯高温源泉は、刺激の少ない優しい温泉であった。奥の「弐の湯」。下部ホテルの敷地内から湧き出す源泉を楽しめる内湯。トロリとした美肌の温泉。弐の湯の脇では、飲泉も楽しめるようであった。「弐の湯」の大岩。「松ぼっくりの湯」・岩風呂。猛々しい岩組と、深緑を映す瑠璃色の温泉は、まさに山間の趣き「自然のままに心のままに」下部ホテルのコンセプトを感じる野趣あふれる露天風呂なのであった。「松ぼっくりの湯」・八角檜風呂。8角形の桧の湯船と、放射状の天井、湯舟中央より滔々とあふれる源泉。シンメトリックな構造の湯船は、静かに目を閉じて浸りたい瞑想の露天風呂。「松ぼっくりの湯」を大いに楽しみ、部屋に戻りしばしの休憩。そして夕食会場に向かう。途中の通路脇には様々な手作りのお雛様が飾られていた。「お食事処 里のいろり」。途中の通路脇では戸川渓谷の清流で育った山女魚(ヤマメ)を炭火で焼いていた。臭みがなく身が締まっており、川魚が苦手な方にもおすすめと。炭火でじっくり焼き上げたヤマメは絶品なのであった。そして夕食会場へ。この日の「里のいろり 弥生のお品書き」。まずは「前菜」。「甲斐茜鱒」と「いくら」。「椀物」は筍饅頭澄まし仕立て。お造り。「薦め肴」・ボイル蛍烏賊(ホタルイカ)酢味噌 は 写真撮影を忘れました。 「焼き物」・南アルプス産山女魚の炭火焼き。カメラに納めていないことに気が付き、「牛ヒレステーキ」のみを。「食事」・筍ご飯、揚げ桜えびと赤出汁、香の物。筍ご飯。そして20:30から始まった「和太鼓ショー」。部屋への帰路の通路脇にあった、近くで行われるお祭り、催し物案内のミニ幟。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.05
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この日は3月17日(木)、南アルプス市内の工場に仕事で社長と向かう。16時過ぎに仕事を終え、この日は下部温泉に宿泊を予定していたので、カーナビをセットし国道52号・身延道をJR下部温泉駅に向かって富士川沿いを南下して行った。『甲斐国志』に拠れば、承和3年(836年)に熊野権現が出現して温泉が湧いたとする伝承を記し、この温泉を中心に下部村が形成されたという。また甲斐国造の塩海足尼が領内巡視の折にたまたま発見し、「塩部(下部)の湯」と名付けたとする伝説もある。鎌倉時代の日蓮書状(『日蓮聖人遺文』)によれば日蓮が当地で湯治を行い、室町時代には塩山向嶽寺の開祖・抜隊得勝も湯治をしたと言われる(『抜隊語録』による)。甲府の一蓮寺(甲府市太田町)に伝来する一蓮寺過去帳にも地名が見られる。戦国時代に下部村は湯之奥金山や木材伐採など河内地方の産業を支える拠点にもなり、下部温泉は河内領主の穴山氏が再興し(天正6年(1578年)7月20日佐野次郎右衛門尉宛穴山信君朱印状、風水被害を受けた温泉の復興を命じる内容)、徳川家康も入浴したという(『国志』)。江戸時代に湯治場となり、身延山久遠寺参詣者も利用した。戦国時代には武田信玄の隠し湯であるとする付会伝説が加わり、近代には富士身延鉄道(身延線)の開通により浴客は急増した。1956年(昭和31年)6月15日、国民保養温泉地に指定された。旧下部町南西部に位置している。南東の毛無山西麓で、富士川の支流で毛無山から発する下部川(湯川)に沿って静かな温泉宿が並んでいる。下部温泉駅前には温泉街最大の宿泊施設下部ホテルがあるほか、温泉街の中心地にある源泉館は足元湧出泉が有名である。「昔、著名人にも愛された湯治場・下部温泉郷日本の名湯百選にも選ばれている下部温泉。1300年の歴史があると言われていますが、第12代景行天皇の時代、甲斐の国造であった塩海足尼(しほのみのすくね)がこの地を訪れ、湯気が上がるのを見て「塩部の湯」と名づけ、それが転じて「下部の湯」となったという伝承もあります。その泉質が怪我の療養に良いとされ、武田信玄は戦場で傷ついた兵を療養させていたそう。このことから「信玄の隠し湯」と呼ばれ、多くの湯治客を迎え入れてきました。その中には著名人も多く、例えば、明治時代には新渡戸稲造や若山牧水が、昭和に入ると、作家の井伏鱒ニが執筆活動の拠点にしたり、名優・石原裕次郎が怪我の療養に訪れたりしました。現在は、レトロな雰囲気を残す富士川地域最大の温泉場として多くの宿泊客を迎えています。」今、下部の湯の効能を裏づける! ?松葉杖を供養する祭下部温泉には、昭和41年に始まったユニークなお祭りがあります。それは「松葉杖供養祭」。下部のお湯で怪我が治り、不要になった松葉枚を炊き上げるという奇祭で、かっては武者行列や山車のお練りもあったそう。木製の松葉杖の需要が減った今でも、全国から松葉杖が寄せられ、毎年5月の熊野神社春季例大祭に合わせ厳かに開催されています。そして「上川」交差点を左折し、国道300号を富士川に架かる「富山橋」を渡り、「浪高島トンネル」を通過し、「常葉川」に沿って進むと右側に目的地の「下部ホテル」に到着。入口の巨石には「下部ホテル」と刻まれていた。山梨県南巨摩郡身延町上之平1900。「下部ホテル」入口。「下部ホテル」案内板。二種類の源泉と十二からなる湯舟を巡る戦国武将、武田信玄公ゆかりの下部温郷はニ千年の歴史を刻む、隠し湯の里。多くの湯治客や旅人を癒し続ける名湯です。ニ万坪にも及ぶ自然林の中に佇む当館の湯は、庭内より湧出する硫黄泉(下部ホテル源泉)と、引き湯の下部奥の湯高温源泉。良質の異なる二種類の温泉を、七つの露天風呂を含む大浴場など十ニの湯舟でご堪能いただけます。「下部ホテル」と切り抜かれた竹灯篭。踏切手前が「下部ホテル」入口。奥にJR身延線の「下部温泉」駅のホームが見えた。駐車場に車を駐め、「下部ホテル」本館に向かって進む。手前が6階建ての「東本館」、奥に8階建ての「西本館」があった。手前にあった「法王稲荷」社。その先には句碑群が。3人の句が紹介されていた。「高浜虚子先生」と。「この行や 花千本を 腹中に 虚子(昭和33年4月13日)」昭和33年4月13日に、「裸子」100号記念大会に、富士山西麓の白糸の滝経由ここ下部ホテルに来たらしい。この旅の途中の桜が素晴らしくて詠んだ句であると。「百枚の浴衣を干すも花の中 素十」高野素十(たかのすじゅう)は茨城県出身の俳人・医師(医学博士)。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。「春惜む花も過ぎたる山の湯に 俳一佳」。堤俳一佳は虚子の弟子、山梨ホトトギス会。堤俳一佳(一九〇四~一九九四)は、富士宮市を拠点として活動した俳人である。昭和初期から「ホトトギス」に投稿し、高濱虚子と強い師弟関係を結んだ。昭和二四年(一九四九)には、俳誌「裸子」を創刊した。俳一佳は、国鉄職員として山梨県・長野県で駅長を歴任、「裸子」刊行前後から富士宮市に居住し、退職後、本格的に活動を始めた。なお、「裸子」は、俳一佳没後は、平成六年(一九九四)からは堤高嶺主宰、平成二三年(二〇一一)からは堤信彦主宰に引き継がれ、現在に至っている。下田ホテルの「本館」玄関に向かって進む。「玄関」。「フロント」。体温チェック。「南山梨 観光マップ」。それぞれの観光地には多くの写真が。「レンタルe-バイク」コーナー。下田ホテル敷地案内図。フロント前のロビーには巨大な木彫りの虎が迎えてくれた。「虎さんはなでると喜びます。背中に登ると悲しみます!」と。顔をズームして。ロビーを望む。「雛人形 七段飾り 」。最上段の「男雛女雛」をズームして。二段目には、「三人官女」。「雛人形 七段飾り 」の裏にあった絵画。ロビーの外には「足湯」があった。縁側に座って自然を眺めながらのんびり入る足湯は最高なのであった。毎晩行われている「和太鼓ショー」会場。大太鼓、小太鼓がこの日の出番を待っていた。「風林火山」幟。武田信玄が軍旗に用いた「孫子」の句「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略称したもの。「疾(はや)きこと風の如(ごと)く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」と。「全館ご案内」。7階エレベ-タホールからの「常葉川」と「国道300号」。そして我々の和風部屋。八畳の部屋。そして。窓から見える老松の上に「アオサギ」が巣を造っているのを発見しカメラで追う。アオサギ(青鷺[、蒼鷺、Ardea cinerea)は、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属に分類される鳥類。本州・四国では周年生息する(留鳥)であると。ズ-ムして。頭部は白い。額から眼上部・後頭にかけて、黒い筋模様が入っていた。体上面は青灰色。種小名cinereaは「灰色の」の意。背に灰色の羽毛が伸長する(飾羽)。下面は白い羽毛で被われ、胸部の羽毛は伸長(飾羽)する。前頸から胸部にかけて、破線状の黒い縦縞が入る。側胸や腹部は黒い。雨覆の色彩は灰色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は黒い。人間でいう手首(翼角)の周辺には2つの白い斑紋が入る。虹彩は黄色。嘴は先端が黄色と付け根は薄いピンク色。後ろ姿を。大きく羽ばたいて。 ・・・つづく・・・
2022.04.04
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神奈川県足柄下郡湯河原町城堀にあった「城願寺」の散策を続ける。正面に「本堂」。「曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 聖観世音菩薩大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として開花し 鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となすその教義は瑩山禅師によって広く全土に 実践教化され今日に至る。教義 人は本来佛性有り 己に佛心の具え有り 正法の経典を讃仰読誦(どくじゅ)し深く黙照して 坐し脚下照顧(きゃっかしょうこ)して己の足下を見つめ自然(宇宙)と一体なる自己を 見極めて 活達なる 人生いかしきるのが 禅の実践なり経典 修証義 般若心経 観音経寿量品等を読誦する 本堂のご本尊に 先ず合掌」扁額「護国殿」。「文殊堂」。「文殊堂由来この建物は文殊堂と言って三神仏が祀られております。文殊師利菩薩天神様地蔵菩薩明治 新政府は国民に等しく就学を義務としたが当時適当な施設がない為全国各地の寺院や旧家を学舎として新しい学問の第一歩を踏み出した。湯河原町も当寺「城堀村 門川村 宮下村鍛冶屋村」を一学区として明治五年学制発布とともにこの古くからあった文殊堂を仮校舎として学習の産声を挙げた。古き時代の教育の殿堂も永年の風雪に耐えがたく古い原型ののままに昭和五十二年改修し寺子屋時代の明治郷土先人の学舎として又 貴い学びの御仏道としてお祀りし保存しています。」「お寺まいりのすすめ十箇条 積徳一 辺(ほとり)を過ぎて詣ずべしたゞし寄道を要せずニ 暇をつくりて詣ずべしたゞし無理を要せず三 思いたてば詣ずべしたゞし家業を欠くを要せず四 迷いあらば詣ずべしたゞし望外を望むべからず五 憂いきわまって詣ずべしたゞしすべてを委すべし六 志たたば詣ずべしたゞし加護を信ぜるべからず七 喜びありて詣ずべしたゞしこれ信心のおかげなり八 忌日命日に詣ずべしたゞし自発的な心を持ってなり九 招かれて詣ずべしこれ願ってもなき好様なり十 正法を求めんとして詣ずべし人たるのつとめと心得べし」「土肥一族の墓所」を訪ねた。「土肥一族の墓所城願寺は、土肥次郎実平が菩提寺として建て、室町時代に中興されたと伝えられています。土肥次郎実平は、源頼朝が石橋山で旗上げした時に従いましたが、頼朝が敗れ、脱出する手助けの際、功績がありました。その後、木曽義仲、平家及び奥州藤原氏の征討に従軍しましたが、それ以後のことは定かではありません。城願寺本堂左方の広さが10坪ほどの土肥氏一族の墓所には、66基の墓石があり、嘉元2年(1304)7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375)6月の銘のある宝筺印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型が揃っています。このように一墓所に各種の墓型がそろっているのが見られるのは、関東地方ではめずらしく貴重なものです。●お願いこの史跡の現状をみだりに変更したり、荒らしたりしないで、大切に保護して下さい。特に墓石には、絶対に手をふれないようご注意ください。」66基の墓石があると。「土肥一族の墓所源頼朝の平家追討旗挙げの中心となり活躍した土肥次郎実平が、平家滅亡と鎌倉幕府成立の大業を成し遂げたのち、出陣した自分の信仰する持仏堂のあるこの地に、犠牲者の菩提を弔い一族の長久を祈るため城願寺を建て、鎌倉時代中期に一時衰退しましたが、室町時代に中興されたと伝えられています。実平は、桓武平氏良文流中村宗平(現在の神奈川県中井町)の次男です。石橋山の戦いで敗れ、失意の頼朝を励まし山中を逃げ延びて房総へ小舟で渡海したのち、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと転戦して、下関壇ノ浦で平氏に勝利するまで戦いの連続でした。その間、惣追捕使として、瀬戸内、山陽山陰・四国地方の統治管理を続けました。鎌倉幕府成立後、実平は、現在の広島県三原市にある沼田荘に長男の遠平と移住し、この地で亡くなりました。遺骨は分骨され、三原市米山寺に、さらに鎌倉で将軍頼朝に目通りを終えてから城願寺に葬られ、のちに遠平も沼田荘で亡くなり、同じように城願寺へ葬られたと伝えられています。実平の墓は、当寺や米山寺以外にも、山形県鶴岡市井岡、静岡市安養寺、小田原市谷津鳳粟院などにもあります。正面4基が五輪塔(ごりんとう)。その左右に一つずつ層塔、さらに四角い宝篋印塔(ほうきょういんとう)が左右に続きます。五輪塔はどれも銘が無く、建立年や施主などは不明ですが、実平が中央、向かって左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と伝えられています。」正面に4基の五輪塔が。近づいて。実平が中央左、その左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と。一切、文字等を刻まれていなかった。「土肥一族の墓所」をカメラで追う。奥には無縫塔もあった。様々な形の墓石が並んでいた。「真鶴半島」が見えた。ズームして。更にズームして「三ツ石」を。墓地の最奥から「鐘楼」を見る。「伊能忠敬測量隊 土肥氏墓に参拝文化12年(1616)12月19日「前日 土肥実平の子孫である門川村名主 富岡次右衛門から」実平の事績を聞いて感動し、翌日 測量終了後に参拝した」と。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。「十三重石塔」。「写真撮影の窓 ビャクシン Power」持仏堂をこの地に建てた土肥実平の手植えの木と云われています。源頼朝や土肥実平らが平家討伐の出陣を見守り、石橋山合戦に敗れ山中に逃れた頼朝主従七騎が無事に房総半島へ逃れるのを見守りました。一時期荒廃した城願寺が復興していくのを見守った歴史の証人ともいうべき大樹。信頼・友情・恩義を与える、「ビャクシンパワー」と云われております。※昭和14年国の天然記念物に指定再び梛(なぎ)の葉を追う。水子地蔵尊のお顔をズームで。「寺務所」。そして帰路に。しかし土曜日の夕方でもあり、国道135号は真鶴の先から大渋滞なのであった。静岡県東部にある伊豆半島は2022年放映の大河ドラマの舞台としても話題になり、昨年の夏以降静岡県内でさまざまなシーンが撮影された。伊豆の国市は鎌倉幕府成立の立役者・北条義時が生まれ育った地であり、北条家ゆかりの地。そして伊豆市、熱海市、湯河原市にも源頼朝ゆかりの数多くの神社仏閣があった。静岡県は物語の舞台の地として、大いに盛り上がりを見せているのであった。今回は2回に分けて、「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」をはじめ、いくつかの北条氏そして源頼朝等のゆかりの地を訪ねたのであった。コロナ禍の影響もあり、人出も少なく、ゆっくりと見学できたのであった。北条氏といえば、伊豆のローカルな小豪族というイメージが強かったが、今回多くのゆかりの場所を訪ねてみると、そのイメージは完全に崩れたのであった。大河ドラマの主人公北条生誕の地であり、義時や政子が頼朝と出会い、歴史を動かす存在へと成長していった北条のゆかりの史跡や寺院を満喫したのであった。また守山山頂展望台や韮山城にあがり、頼朝が20年を過ごした鎌倉幕府草創の景色を楽しみ、その想いを馳せることが出来たのであった。今日からも、訪ねた場所の光景を想い出しながら大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しみたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2022.04.03
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JR湯河原駅前にあった「土肥實平公並婦人像」を後にして、この日の最後に向かったのが「城願寺」。神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252。駐車場に車を駐め「城願寺」の裏口から境内に入る。「鎌倉幕府草創の功臣 東国武士の鑑 土肥次郎実平一族 菩提寺 萬年山 城願寺」碑。「城願寺城願寺は鎌倉幕府創設の源頼朝を助けた土肥次郎実平等一族の菩提寺です。背後の城山は35 ~ 30万年前に活動した箱根火山外輸山を構成する湯河原火山の噴出物で、その溶岩を採掘した文献に残る箱根火山最古の丁場がこの付近にありました。境内にある土肥一族墓所の墓石は、この外輪山溶岩のほか、中央火口丘溶岩も使われているようです。800年以上前にこの地の豪族、土肥実平が荒れ果てていた密教の寺院を一族の持仏堂とし、萬年山成願寺として再建しました。その後、室町時代初期に臨済宗として再興、更に15世紀曹洞宗の寺院として重興開山となり、城願寺と改名し、現在にいたっています。」「■土肥一族の墓城願寺本堂左方には、66基の墓石があり、土肥次郎実平ー族の墓所となっています。正面五輪塔の中央が実平、左が夫人で右が長男の遠平の墓と伝えられています。土肥一族の墓所には嘉元2年(1304年) 7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375年) 6月の銘のある宝篋印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型がそろっています。このように一つの墓所で様々な墓型がみられるのは、関東地方では珍しく、神奈川県の指定文化財になっています。」■七騎堂境内の七騎堂には、石橋山の合戦での敗戦後、源頼朝を追手の平家方から守り通した土肥実平等の木像が収められています。しかし、終始行動を共にしていた実平の長男遠平は伊豆山近くまで来ていた頼朝の妻政子に、頼朝の消息を伝えに行ったので、七騎には含まれていません。このことは謡の「七騎落ち」では史劇的創作となっています。■ビャクシン境内には土肥実平御手植えと伝えられる樹齢800年を超えるビャクシンがあり、国の天然記念物に指定されています。これは神奈川県内では最も樹齢が長く、垂直に伸びた幹の見事な姿は全国的にも稀で、神奈川の名木100選にも選ばれています。」「水子地蔵尊」とその手前に「常香炉」。「水子地蔵尊」をズームして。「賛 水子地蔵尊父母の縁しに招かれて 宿りたれども恵みなく この世に出ず可き身をなくす ここに大慈の地蔵像父母に代りて抱き給う 参り来て深き祈りの親心 悟りて晴れる水子霊 合掌」「七騎堂(しちきどう)境内の七騎堂には、石橋山の合戦での敗戦後、源頼朝を追手の平家方から守り通した土肥実平等の木像が収められています。しかし、終始行動を共にしていた実平の長男遠平は伊豆山近くまで来ていた頼朝の妻政子に、頼朝の消息を伝えに行ったので、七騎には含まれていません。このことは謡の「七騎落ち」では史劇的創作となっています。扁額「七騎堂」。「七騎堂の由来伊豆に流されてニ十年間、蟄居の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗拳げをしたのが今から約八百年の昔、治承四年八月二十三日である。頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き、手勢三百騎で平家方の大場景親軍三千騎と対戦したが、衆寡敵せず忽ち潰走して土肥の杉山に逃れ、山中の洞窟に身を隠し或いは山中の堂宇に難を避延びたのである。この時同船したのが頼朝以下主従七騎宝であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。頼朝の決起によって平家が滅び、日本の王朝政治が終りを告げて武家政治の時代が開かれ、ここに日木歴史を転換させた最初の戦が土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ、しかもこの合戦の参謀として活躍したのが当地(現湯河原町)に居館を構え、土肥郷を領していた土肥次郎實平であったのである。吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於いては、さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み、土肥氏の菩提寺城願寺境内に一宇の堂を建立し、ここに安置することになった。七騎堂即ちこれである。」謡曲「七騎落」と城願寺謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と思愛の境目に立っ親子の情を描いた曲である。石橋山て敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為羲・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木造が収められている。」「国指定天然記念物 城願寺のビャクシン(柏槙)」碑。近づいて。境内には石橋山合戦に敗れた源頼朝を大庭景親の軍勢から守った土肥実平が御手植えと伝えられる樹齢800年を超えるビャクシンがあり、国の天然記念物に指定されていた。樹高20m、胸高周囲6mあると。これは神奈川県内では最も樹齢が長く、垂直に伸びた幹の見事な姿は全国的にも稀で、神奈川の名木100選にも選ばれているのだと。長い年月をかけて捻れて来たのであろうか?そしてこちらは「縁結びの樹 なぎ(梛)の木」。「なぎ(梛)の葉」に近寄って。「とても丈夫な葉をもつことから縁結び・良縁の木とされるナギ。葉のカタチをみると広葉樹のような幅の広い葉を持っていますが、実は針葉樹なのです。その葉脈は独特で、主脈が無く、縦方向にのみ平行に伸びています。この葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったそうです。その昔、女性が鏡の裏側にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れないように願ったとのこと。源頼朝が北条政子とナギの木の下で逢瀬を重ね結ばれた、と伝わるなど、ナギが『縁結びの木』といわれる所以は数多くあります。また、ナギの読みが波の穏やかな状態をさす“凪(なぎ)”に通じることから、古来より船乗りや漁師がその葉や実を航海安全のお守りにしたそうです。葉っぱを2枚頂きました。実際の葉を縦に引っ張ってみましたが、すんなりと。そして横に。なかなか、いや全く切れませんでした。やむ無く、葉の端に傷をいれ無理やり引っ張ると何とか切れたのですが、剥がれた場所には葉の繊維が顕に。葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにすることが理解できたのでした。こちらが「城願寺」の「山門」であった。山門の両脇には大きな仁王像が。扁額は山号の「萬年山」。仁王像(阿形像)。仁王像(吽形像)。「三界萬霊等」碑。「六地蔵」。無縁仏「供養塔」であろう。「無縁塔」碑。「山門」、「仁王像」を裏から。石段の先には「萬年山」(右)、「城願寺」(左)。その先に「国指定天然記念物 成願寺のビャクシン」。「鎌倉殿の13人 土肥実平ゆかりの地 湯河原町」幟。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.02
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「福泉寺」を後にして、「JR湯河原駅」へ。駅前ロータリーに車を一時停車させ駅前の「土肥實平(どいさねひら)公並夫人像」を撮影。JR湯河原駅のシンボル的存在である「土肥実平公並夫人像」。土肥実平は、相模国足下(あしのしも)郡土肥郷(現在の神奈川県湯河原、真鶴町)の豪族で、土肥次郎とよばれ、平安末から鎌倉初期に活躍した武将。 1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると嫡男の遠平とともに中村一族を率いて参画した。以後、富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐、宇治川の戦、源義仲討伐などに従軍し、1184年(寿永3年)2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦い、三草山の戦い後、吉備三国(備前、備中、備後)の守護職に任ぜられた。戦国に活躍した武家・小早川氏の祖とされている。「土肥実平公並夫人像」の前には「土肥氏館趾」碑があった。「乾坤一擲(けんこんいってき)」の文字が。土肥氏館は相模湾に面した海岸段丘先端(比高10ー15 m)に築かれた平城(崖縁城? )。館祉はここ現在のJR湯河原駅周辺に想定されているが、規模・構造ともに不明。築城時期は不明。館主は鎌倉御家人土肥次郎実平と伝えられる。土肥氏は桓武平氏良文の裔、相模武士団「中村党」中村荘司宗平の次男実平が「土肥郷」に入封して土肥氏館を築き、土肥氏を称したとされる。治承4 (1180 )年、源頼朝が挙兵すると土肥実平は「中村党」を率いて「石橋山の戦」に参陣したが、戦は頼朝方の敗戦で終結し、このため実平は領内の「しとどの窟」に頼朝とともに身を隠したと。そして平家滅亡後、実平は備前、備中、備後国の惣追捕使(守護職)に任せられている。しかし建暦3 (1215 )年に勃発した「和田義盛の乱」で実平の嫡孫左衛門尉維平が義盛方に加担したため土肥氏は衰退した。なお実平の嫡子筑後守遠平は乱前後に所領の安芸国「沼田荘」に下向し、この頃土肥氏館は破却されたものと思われる と。「乾坤一擲源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)八月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である 茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。」乾坤一擲(けんこんいってき)とは、のるかそるかの大勝負をすること。様々な角度から。見つめ合う姿であると。「土肥實平公並夫人像」。以下3枚は、以前に訪ねた時の写真である。土肥実平は源頼朝挙兵に参じ、共に石橋山で戦った。源義経や梶原景時を頼朝に取りなした。土肥実平の妻は、湯河原「しとどの窟」に隠れる頼朝に食糧を運び、その時に「きび餅」も差し入れたと伝わる。「由来土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。」土肥 実平は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。源・源経の平家追討阜出陣の図に描かれた土肥実平/国立国会図書館蔵中央に「土肥二郎実平」の姿が。 【https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2022/01/30/165607】より相模の豪族「土肥実平」を演じているのは「阿南健治」さん。『四季彩のまち さがみの小京都 ゆがわら』案内板。「私たちのまち湯河原は、海と山と川に恵まれた自然環境や豊かな温泉、歴史文化の香り漂うまち並みなど、多彩な表情を持つ美しいふるさとです。京都で生まれた日本画壇の大家竹内栖鳳は、湯河原をこよなく愛し、この地で終焉を迎えました。その作品を展示する、「湯河原ゆかりの美術館」(現町立湯河原美術館)開設や、京都仙洞御所の州浜に趣のある岸辺を造り上げている吉浜の一升石(石一升を米一升と交換したと伝えられる)などが契機となり、平成十一年六月、本町は、全国京都会議において「小京都」に認定されました。これを記念し、ここに、御所にちなんだ庭園を整備いたしました。千二百年の歴史を誇る風雅な伝統が息づく京都に、いつの日か近づけるよう、これからも町民一同町独自の文化の掘り起こしと新たな創造に努力してまいります。」JR湯河原駅を見る。駅前広場は新国立競技場も手がけた隈研吾建築都市設計事務所の設計、デザインによる「木のぬくもりと湯けむりを感じるあたたかな広場」を企図したと。駅前広場整備工事完成式・完成イベントを2017年10月1日に開催したのだと。ズームして。駅前の道路沿いにあったのが「一升石(いっしようせき)文化十四年(一八一七年)、京都仙洞御所において、光格上皇が院政を開かれた際、御所の庭に州浜を作るため、京都所司代の要職にあった小田原藩主、大久保忠真公が、本町吉浜(当時古濱村)の海岸から、三寸から四寸の長楕円形の石を米一升与えて集め、真綿に包んでニ千俵を海路京都まで運び、献上されたと伝えられるところから、一升石の名ついたとされています。四季彩のまち さがみの小京都ゆがわら」一段下にあった「一升石」のモニュメント。再び「JR湯河原駅」のふんだんに木材を使った駅前広場の建物を正面から。「湯河原の文化の中心に温泉がある」とし、「手湯」も設置されていた。改札入口。快速アクティーで東京駅まで約1時間30分、普通電車で約1時間45分の駅。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.01
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次に訪ねたのが「首大仏」の」ある「福泉寺」。境内への石段の横に「福泉寺」碑があった。静岡県熱海市泉191−1。福泉寺は、天文元年(1532)保善院四世帰雲元守により再興され、曹洞宗となった。 高台にある境内に、最近では珍しい茅葺屋根の本堂や庫裏、創建から500年以上とのこと。福泉寺は保善院の末寺で、曹洞宗、本尊は釈迦、開基は養心信公。 開山した帰雲禅師は大永元年(1521)伊豆田中にて第を結び、大永七年から報恩に居たが、晩年に保善院に帰ると庵を造り「竹葉軒」と名付けて住まい、天文七年(1538)に他界した。 明和元年(1764)九代目の時に竹葉軒が焼失し、明和八年(1771)2月に再建された。この竹葉軒が現在の福泉寺になった。寺名: 青谷山 福泉寺宗派: 曹洞宗建立: 天文元年(1532)保善院四世帰雲元守により再興開山: 帰雲禅師 , 開基: 養心信公本尊: 釈迦如来茅葺きの本堂ここ福泉寺は千歳川にかかる泉大橋の約80m下流、熱海市側にある。熱海市内では唯一の茅葺きの本堂を構えるこの寺は、明治8年(1875年)に金160両にて再建されたとあって、風格のある古寺の雰囲気を醸し出していた。彩色が施された迫力ある見事な龍の彫刻。扁額は山号の「青谷山」。正面に「首大仏」。肩から上だけの珍しい陶製の釈迦像は、名古屋城主徳川光友公が亡き母を弔うために造ったと言われるもの。その高さは約2.5m。胸から下のお姿の行方は現在も謎に包まれていると。もとは名古屋城内に安置されていたが、戦後、福泉寺に奉納されたのだと。裏から。螺髪も立派なのであった。「首大仏」を守る「仁王像(阿形像)」。「首大仏」を守る「仁王像(吽形像)」。「福泉寺釈迦如来像この釈迦如来像が建立されたのは、尾張名古屋藩主・徳川家三代光友公(一六ニ五~一七〇〇)の時代です。光友公の父・義直公がある日、城を出られ狩りに行かれたその帰り道、馬上より遙か遠くを見ると【沿道添いに、耳の遠い老婆が殿様の列に気づかず、家の前で行水していたところ、それに気付いた娘が咄嗟に老婆をタライごと家の中に運び入れた】その姿を見ていた義直公は娘の孝心とその行為に感激され、その娘に御殿奉公を命じ側室に迎えました。いつの日か娘は懐妊し若君を授かりました。若君出産にあたり【四天下郎、・身分の低い者がお殿様のお子を不壌な股からお産み申すのは万世の恥であり、腹からお産み申す】と言い切り懷断切腹して若君を出産され、母胎のその娘は命を落としました光友公は若くして孝順厚く、自分自身の出生経緯を知り、母上の菩提を弔う供養をされ、供養として迦如来像の建立を発願されました。その像の製造を中国人陶芸家・陳元贇に命じ、尾張瀬戸・赤津村大仙山の土を使用したと伝えられています。現在この像は頭部だけですが、胸部が何処かに埋まっているとの諸説もあります。時代の変遷で此の像は幾多の地を廻り、戦時中この福泉寺に安置され現在に至っています。」寺務所の扁額は「龍鳳閣」。境内の斜面には多くの木々、石、石仏。石碑が見事な調和で。奥の段上には享保6年(1721)奉納西国順禮供養碑、奉納西国三十三所観世音菩薩碑等、石塔群等が祀られていた。「南無阿弥陀佛」碑。岩でできた祠の中に白亜の石仏が。近づいて。三面八臂像。ここにも苔生した石仏が。御神木のような大きな木のうろの中に鎮座しておられるのはお地蔵様近づいて。石灯籠。石灯籠再び「首大仏」を離れて見る。観音像であろうか。「鬼子母神」碑。「鬼子母神堂」「鬼子母神堂」内陣。こちらは六地蔵。左手の石仏。右手の石仏。中央に「三界萬霊等」と刻まれた石碑が。墓地を散策する。「水子地蔵尊」「南無釋迦牟尼佛」と刻まれた永代供養墓であろうか。「本堂」を見下ろす。墓地の先にはみかん?畑が広がっていた。立派な墓石が並ぶ。再び「本堂」を。こちらの「庫裡」も藁葺き屋根であった。駐車場から湯河原温泉を流れる千歳川を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.31
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次の目的地「丹那トンネル殉職者慰霊碑」に向かって「頼朝ライン」をひたすら熱海市の西部に向かって進む。そして熱海「梅園前」交差点を直進すると右側に「丹那トンネル殉職碑」案内板があった。その横には「丹那神社 丹那トンネル殉職碑 救命石・水力発電所跡」案内板も。駐車場に車を駐め、散策開始。駐車場の前には「丹那隧道工事風景写真」の掲示板があった。「坑内6,045尺(約1.8km)地点での掘削工事の状況」「坑内7,893尺(約2.4km)地点での掘削工事の状況」。「坑内6,600尺(約2.0km)地点での巻立て工事の状況」。「水抜き坑(排水用トンネル)600尺(183m)附近」。「旧熱海線鉄道施設群 丹那トンネル(熱海ロ) 延長7,804m 昭和9年12月竣工当初の東海道線を輸送強化するため、御殿場廻りから熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関工事である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故などで多くの犠牲を払い、困難を克服して、ようやく昭和9年に完成した。その過程では丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多<ある。このため、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。」「土木學会選奨土木遺産 JSCE 2019 旧熱海線鉄道施設(丹那トンネル熱海口)」と書かれたプレート。JSCEとは公益社団法人土木学会(どぼくがっかい、Japan Society of Civil Engineers)「丹那トンネル(熱海口)」に向かう東海道本線。JR東日本とJR東海の境界線はこのトンネルの入口のところになるのだ。「丹那隧道殉職者供養碑」元来は野中大乗院大明神境内に設置されたものだったが、昭和44年(1969年)6月に現在位置に移転。東海道本線は当初、箱根を避けて国府津から御殿場経由で沼津に向かったが、この区間は急な勾配が連続する難区間で、東海道本線の隘路となっていた。 これを解消するために熱海からトンネルで函南に向かう線が計画され、1918年に起工された。 しかしながら、工事では1920年に熱海口で、1923年には三島口でトンネル崩壊事故が発生した。 また1930年の北伊豆地震でも崩壊事故が発生した。これらの崩壊事故等により67名の方が亡くなった。 丹那トンネルの工事ではトンネル崩壊による人命損失のほかに、トンネル内への湧水により丹那盆地等で渇水災害が発生した。この渇水対策として該当地区に見舞金が交付され、水道が敷設された。「丹那トンネルの殉職碑」「丹那トンネルの殉職碑この碑は丹那トンネル開通にさいして鉄道省によって建てられました。この工事の際、67名の尊い犠牲者がでました。 碑には尊い犠牲者の姓名が刻まれています。 この工事は足かけ16年の歳月を要した世界的な難工事でした。 完成まで大事故は6回を数え、死者67名、重傷者610名という多大な犠牲をはらって昭和9年に開通いたしました。」この案内板の特徴的なものは、韓国語でも書かれていること。丹那トンネルは着工が1918年、開通が1934年で、第1次世界大戦終結の年の着工ながら、とにかく軍事活動を活発に行っていた時代。中国大陸、朝鮮半島出身の工夫も多く参加していたとみられ、殉職者の名前を見ると、李さんや金さんなどの名前が見られるのであった。丹那トンネルの工事は当初7年で完成の予定が大幅に遅れ、結局16年の歳月がかかるほどの難工事であった。常に大量の湧水に悩まされ、トンネルと引き換えに7つのわさび沢を失うことになりましたし、大正9年(1920年)と大正12年(1923年)にはトンネル崩落事故があり、完成までに熱海口31名、函南口36名の犠牲者を出した。右側の球形モニュメント。中央に「殉職碑」と。正面彫刻家 斎藤素巌氏 作レリーフ右手は丹那隧道工事開始直後の手掘り時代。レリーフ左手は丹那隧道工事晩期の削岩機使用時代。その67名の犠牲者の殉職碑として熱海側に建てられたのがこの慰霊碑で、函南口にはそのうちの「36名の慰霊碑」👈リンク も別に建てられていた。これは函南口を請け負ったのが鹿島組(現=鹿島建設)という事情もあるようだ。李さんや金さんなどの名前が見られるのであった。左側の球形モニュメント。奥に進むと「新丹那トンネル」から出て来た新幹線の姿が。正面には「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」の車両入口があった。引き返して「丹那神社」に向かって進む。右手に小さな社が。その先にあったのが「救命石」を奉納した社。「救命石」。「救命石の由来大正10年「1921」4月1日午後4時20分頃、熱海ロの坑口から約300m奥に入った所で一大音響と共に、約2チャイン( 4 0 m )位崩壊しました。丁度この大崩壊の数分前です、ずり(残土)出しの者達が頂設盤のずりを漏斗にあけ、下でトロに受けて居りますと、この大石が漏斗にひっかかった、さあ大変、何とかして、これを取り出さなければいかんというので、ほかのトロ(トロッコ)と共に坑外に出る筈の作業員一同が手伝って、大石の取り除きに従事しました。そのうちに大崩壊がやってきて一同坑奥に閉じ込められたのです。もしこの大石が漏斗に引っかからず、仕事が順調に進んでいたものとすれば、丁度この石にかかっていた多数の作業員はトロと共に崩壊の箇所を通っている時分で、当然埋没される事になった筈です。この石の為に、一同の命が助かったというわけで、救命石と命名して坑門の上の山神社の所に保存してあるのです。」その先に「丹那神社」碑。「丹那神社」はJR東海道線の熱海―函南間にある丹那トンネルの熱海側入口の真上にあります。丹那トンネルは、大正年間から昭和にかけて16年に及ぶ難工事の末に1934(昭和9)年に開通しましたが、事故の発生は6件を数えたとのことです。丹那神社は、67人に上るその犠牲者を祀っています。神社の向かいには慰霊碑があります。このトンネルが開通するまでは、東海道線は神奈川県の国府津から静岡県の沼津まで、現在の御殿場線を通っていました。丹那トンネルによって、東京から名古屋や大阪、神戸までの所要時間も短縮されたのであった。社殿に近づいて。更に。そして再び「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」方向に向い、空き地の隅から丹那トンネルの熱海口をカメラに納めた。丹那7,841mと。熱海側の坑門上部には、写真ではちょっと見づらいが開通時の鉄道大臣・内田信也が書いた「丹那隧道」の扁額(へんがく)があり、左に2578、右に2594の数字があった。ネットで調べてみると、この数字は、着工と開通の年を表す皇紀であると。着工:皇紀2578年 (大正7年) 1918年開通:皇紀2594年 (平成9年) 1934年 着工から16年後に開通皇紀 とは初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法であり因みに今年・2022年は「皇紀2682年」。西暦に660年プラスしたものが日本の皇紀年。再び正面に「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」の車両用入口が。左側には新幹線用の「新丹那トンネル(熱海口)」が見えた。「新丹那トンネルは」、「丹那トンネル」の約50m北側に並行して延びる長さが7,959mの東海道新幹線(三島〜熱海間)のトンネルである。「丹那トンネル」より118m長いのだともちろん出入口の位置は異なるものの、並行して延びているはずであるが、118mも異なることに驚いたのである。理由は、断層等に起因する、内部の上下勾配、カーブの有無等によるものであろう。詳細理由に興味があるのだが・・・・。ウィキペディアによると「新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル、東山トンネルが同時期に着工されている。しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647m、函南口(西口)は1,433mの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200 - 300m程度の覆工を完成させていた。なお、戦時中の約1年半の期間でスムーズに工事が進行したのは、掘削に数々の新手法を投入したためでもあった。新オーストリア式逆巻方式と呼ばれる導坑の掘り方や、4 - 5台のドリフター型削岩機を装備した自走・自碇する削岩車が活用され、人力に依存して掘削を行なった丹那トンネルの工事よりも安全面において有利だった。戦後も長らく放置された状態であったが、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることになった。新丹那トンネルは、1959年(昭和34年)に工事が再開され1964年(昭和39年)に完成した。丹那トンネルの難工事とは異なり、新丹那トンネルの工事は順調に進んだ。地質構造がよく分かっていたことと、既設の丹那トンネルを水抜き坑代わりに利用できたことを差し引いても、工事再開から4年4か月という工期の短さはトンネル掘削技術の進歩を物語っている。新丹那トンネルの工事は、熱海口は間組、函南口は鹿島建設(鹿島組)が請負った。なお、工事の殉職者は熱海口10名、函南口11名だった。ただし、丹那トンネルの工事とは異なり大きな崩壊事故は1件も発生していない。」と。再びJR東日本の「島田行き」の下り電車の姿を。右側は引込線で出番を待つ電車。そして駐車場に戻って行くと、この場所には、かつて「熱海水力発電所」があり、旅館街に給電していたそうで、その記念碑があった。「明治28年 当寺」の水力発電所のシステム図。・発電所は、熱海の旅館街(富士屋、相模屋、熱海御用邸等)への距離が1.1kmと近く、 地点に恵まれていた・発電用水は、初川の取水部(現在の梅園橋辺り)より160問(291m )を木樋で導き、落差73尺 (22m )を鋼管(320m )で水力発電所の水車に落水・水車 レッフェル形横置12インチ(30cm)、 30馬力、三吉電機工場製」「熱海水力発電所由来記」明治28年間10月20日送電日本で8番目の発電所名称 熱海電燈株式会社持主 国府津村 杉山仰次郎場所 熱海町字谷戸685番地出力 30馬力(22kW)電圧 1千Vを100Vに変圧電灯数 300灯(価し16燭光)熱海の旅館、民家に送電した平成6年4月吉日熱海電気協議会 会長 内藤弘」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.30
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「最誓寺」を後にし次に訪ねたのが「物見塚公園」内にあった「伊東祐親像」。伊東市役所に隣接し、伊東市街地から初島まで望めることのできる小高い丘の上の公園。櫓を組んで敵情の見張りをしたと伝える「物見の松」や「伊東祐親像」、「尾上柴舟の歌碑」などがあった。静岡県伊東市大原2丁目80−1。馬上の「伊東祐親像」。「伊東祐親」は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める(参考:蛭ヶ小島)👈リンク。1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという(参考:鐙摺山(葉山町))👈リンク。※三浦義澄は伊東祐親の娘を妻としていた。※北条時政も祐親の娘を妻とし、政子・宗時・義時の母は祐親の娘とも・・・ 「北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘?」👈リンク。 ~政子と義時は曽我兄弟といとこ~「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松」碑「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住みついた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。この高台の一角にある物見塚に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されてきました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇って来た物見の松は、昭和57年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。この高台のふもとにあたる仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。」東側にあったのが「伊東市役所」。外観の奇抜さや自由度という点で飛び抜けている感があった。左側が低層棟、中央が市民ロビー、右側が高層棟となっている近代建築そのもの。Google Mapで上空から見ると、全体の形としては鋭角のハの字型に置かれた二つの弓型の建物とその二つを繋ぐ中央のアトリウム的な部分という構成。西側の広場から。中央に彫刻のモニュメントが。中央が市民ロビー入口部は周囲の景色がガラス?に映り込んで。これも設計内か。落成したのはなんと1995年。建物の前に立った時にはとても27年前の物とは思えなかったのであった。これもバブル・・・???。西側広場重岡建治の彫刻「大池より生ずる」。近づいて。西側広場津田裕子(女子美術大学名誉教授) 模刻 「風の通る道」と。模刻とあるが、Originalはどなたの作品?西側広場彫刻 「ドリーマー」 中岡慎太郎。「松尾芭蕉 句碑けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ」揮毫した五世雪中庵對山(1787~1843)は江戸時代後期の江戸の俳人。以前は伊東市内の別の場所にあったが、旅館を取り壊す際に伊東市役所内の物見塚公園に移転。さらに以前をさかのぼると、中伊豆(伊豆市)より移入したものという。「伊東祐親像」を裏側から。「伊東祐親公」。「壽永元年(1182年)武将伊東祐親が自ら壮絶な死の道をあゆんでより、すでに800年の歳月がきざまれた。源平両氏交替期の大きなうねりのなかで、その行く手を冷静に見きわめながらも譜代の臣として、斜陽の平氏への忠節に、ひとすじ、武将の信と意地をつらぬきとおした生涯であった。後の世、この地に生をうけた一歌人が、次のようにうたった。まぼろしの 雄叫びきこゆ 滅ぶると 知りつつ武将の ちから竭しき(つくしき)ゆたかな歴史の息づくわたしたちの町・伊東には、その昔、領主として地域の繁栄に重要な役わりをはたした伊東氏をめぐる史蹟がかず多くつたえられている。」「尾上柴舟(さいしゅう)の歌碑」。「尾上柴舟歌碑つけすてし 野火のけぶりの あかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき 八郎明治から昭和にかけて活躍した歌人で、若山牧水など多くの歌人を育てました。草仮名の名手としても知られる柴舟自筆の美しいかな字で書かれたこの歌は、連作「天城野火」の中の一首として伊東で詠まれたもので、大正二年の歌集「日記の端より』の巻頭を飾る柴舟の代表作で、八郎は柴舟の本名。昭和初期に伊東(岡・広野)に別荘を構えて晩年の多くをここで暮らしました。この碑は、昭和六年に柴舟会によってこの丘に建立されました。」「物見塚公園」の桜を見る。「平野萬里歌碑相模灘 湖水の如し 月照らし 軍をよそに 松蟲の鳴く」。「平野萬里(本名久保)は明治十八年埼玉県北足立郡大門町に生まれた。四十一年東京帝国大学を卒業し商工省に入省、我が国の化学工業全般の育成と発展に尽力した。他方、明治三十四年に與謝野寛(鉄幹)に師事して以来、昭和二十ニ年に死去するまでの約四十五年間にわたって一貫して新詩社の中心メンバーとして四千首余りの短歌と百十篇の長詩を詠んだ詩歌人でもあり、その独特な作風は高く評価されている。伊東市へは吟行先として與謝野寛・晶子夫妻とともに昭和初期から幾度か訪れていた。その縁で商工省退官の後、伊東市西郊の水道山に尚文亭と名付けた山荘を建て、しばしばここに滞在して風光明媚な景観と豊富な温泉を楽しみながら、作家三昧の日を送った。今般没後七十年にあたり、昭和十八年秋に尚文亭で詠んだ一首を刻した歌碑を建立することになった。」更に石段を上り高みに進む。宇佐美方面の海が見えた。桜に近寄って。再び伊東市役所の庁舎を見る。太くなった松が2本あったが、どちらが三代目の松であっただろうか。それともこの松が「物見の松」の三代目?再び「伊東祐親」の顔をズームして。「伊東祐親像」と「伊東市役所」。最後に「伊東市役所」の全景を再び西側から。「柴舟歌碑道」碑。「伊東祐親像」のあった「物見塚公園」の散策を終え、伊東市内を後にして帰路に。途中、熱海市の奥の山中にある「頼朝の一杯水」を訪ねた。国道135号をひたすら北上し、「上多賀」交差点を左折して県道105号線に入る。更に「頼朝ライン」を利用して「頼朝の一杯水」に到着。道沿いにあった小さな駐車場に車を駐め散策に向かう。入口の桜が開花して迎えてくれた。「頼朝公一杯水」案内板。「水師営の「なつめ」この道は、愛称「頼朝ライン」と名付けられており、古くは鎌倉街道の一部とも云われております。往時鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆と鎌倉を結んだ道であります。 ここに植えられている街路樹は、すべて「なつめ」の木で全部で135本あります。大部分市内外の人達の好意により寄付を受けたもので、植木は市職員の奉仕によるものであります。特にこの中には、日露戦争で乃木将軍が敵将ステッセルと旅順近郊の一寒村「水師営」👈リンクで会見し、開城を約したとき、その場所の民屋に植えられていた「なつめ」の木の種子を明治の末期、熱海在住の元子爵曽我祐邦氏が持ち帰り自宅の庭にて育成しましたが、(樹齢九十有余に達しましたが平成8年11月朽果てました。)これを分木し、植えたものが十数本あります。市に居住されていた国文学者・佐々木信綱先生が作られ戦前国民的な愛唱歌として親しまれた「水師営の会見」では明治三十七年、日露が国運?を賭けた旅順の攻防について「所はいずこ水師営 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木」と歌われています。この場所は、沖に初島を望み、波静かな多賀湾を一望できる景勝地であり、近くには史跡「頼朝の一杯水」があります。また、この道、この土地は、古く源氏再興のため豪族が往来したゆかりの場所であり、植えられている棗の街路樹は人々の善意によるものです。今に残る、十数本の水師営の「なつめ」の木は、私たちの胸裡に限りない郷土愛と共に源氏・平家盛衰の昔を懐古し、明治のロマンと郷愁を感じさせてくれます。平成十年六月吉日 伊東線親和会 上多賀なつめの会」「頼朝一杯水苑地」案内図。そして数分歩くと「頼朝の一杯水」に到着。「頼朝の一杯水」案内板。「峠地蔵尊由来此地蔵尊は元禄六年歴雨凉二十四日今より約ニ七〇年前駿河国富士郡比奈村の住人鉄意道心なる者其昔頼朝と伊東祐親の娘八重姫との間に生れし千鶴丸の不遇の死を憐みて頼朝に因縁深き此地・地蔵尊を安置し其の霊を慰めたり為に往時の村人はもとより遠近の美男美女の参詣する者多かりしが海岸道路開通により宝泉寺に移せしが宝泉寺役員及有志の意志により昭和三十五年十二月二十四日旧地に仮遷座し其の後浄財を募り昭和三十六年四月二十四日堂宇を建設し正式に遷座を行ふ」ここが「頼朝の一杯水」。水溜り場に屋根がついているほか、お地蔵さんの社があった。水溜り場の奥からは綺麗な湧き水が流れ落ちていた。「頼朝の一杯水」のほとりにある「子育て延命地蔵尊」地蔵尊は、鎌倉幕府が開かれた約500年後の1693年、仏教修行僧の鉄意道心によって創建された。上多賀の宝泉寺に道心が留まった際、村人からこの悲話を聞き、「頼朝の一杯水」のほとりに小さな祠(ほこら)を建て、自ら彫った地蔵の石像を安置し、供養したという。よく見ると近くに水道の蛇口が。水溜り場の奥から綺麗な湧き水が流れ落ちていたがこれも水道水なのであろうか?遠く、真鶴半島の姿も確認できた。そして帰りは別ルートで駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.29
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伊東市街に入り、最初に訪ねたのが伊東市の中央を流れる音無川(松川)の西岸に鎮座する「日暮八幡神社(ひぐらしはちまんじんじゃ)」。静岡県伊東市桜木町1丁目2−10。「日暮八幡神社」を正面から。伊豆にて流刑となっていた源頼朝は、最初、伊東祐親の監視のもとに置かれて、ここ伊東「北の小御所」にて暮らしていたと。「ひぐらしの森と日暮八幡神社日暮(ひぐらし)の森は、若き日の流人源頼朝が、伊東祐親の娘八重姫との逢う瀬を楽しみに、日暮らし過ごしたというロマンスの伝承を秘めている場所で、明治中期の絵図では、田んぼの中に大きくこんもりと繁った日暮の森が川のふちまで続いている。この周辺の発掘調査によリ、弥生時代(約ニ千年前)から古墳時代(約千五百年前)にかけての集落跡が発見され、日暮(ひぐらし)遺跡と名づけられて、出土品の一部は伊東市文化財管理センターに展示されている。この神社の創建年月の明らかな記録は無いが、古くから村民の五穀豊穣、家内安全、安産の守護神として崇敬されて来た。祭神 誉田別命(ほむだわけのみこと)例祭日 九月十五日」「日暮神社 ひぐらしの森 由来源頼朝は、伊豆流人の約二十年の一時期、伊東の「北の小御所」に暮らした。その時伊東領主・伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが生まれたのである。二人は対岸の音無の森で逢瀬を重ね、その折頼朝が日暮れを待ったのが、ここひぐらしの森であったと伝えられている。二人の愛は、一子千鶴丸の誕生を迎えたが、平家をはばかる祐親の激怒に触れ、仲を引き裂かれ、多くの悲劇の中ではかなく消え去った。最近のひぐらしの森付近の考古学調査によると、弥生時代前期(二千年前)から古墳時代前期(千七百年前)に及ぶ遺跡が発見され、勾玉・壺・石斧等と共に、当時の墓も発掘され、まさにひぐらしの森は、先人達の生活の場であったことを物語ってくれている。この森の最も古い記録は、文禄三年(一五九四年)午、八月の「岡村差出帳」である。同書によると、頼朝とのかかわりの事蹟を伝え、「道法、村より四町御座候」と記録している。(当時は名主の家を中心に道法を出していて、その頃の名主は瓶山下の堀井家であったと考えられる。)また嘉永年中の「伊東誌」によると、この地に程近い所に、日暮山龍明寺という寺があったと伝え、建久三年(一一九二年)八月十五日に頼朝が、寺領五十三石を永久の祈願料として与えたと記している。このような点から、鎌倉幕府創建の人、頼朝にとって生涯の忘れ得ぬ思いで深い森であったと想像出来る。日暮神社は、祭神「誉田別命」が、村民の五穀豊穣、縁結び、安産の守護神として崇敬され「日暮八幡」として祀られた。神社として風格を現したのは江戸時代中期後で、以来地域住民の氏神として篤く信仰されるに至ったのである。」「日暮八幡神社」の社殿。愛し合う二人が密かに会っていた場所が昨年訪ねた「音無神社」👈リンク のある「おとなしの森」だったと伝えられ、裏を流れる松川の対岸のこの「ひぐらしの森」は、頼朝が八重姫に会うため日暮れを待った所といわれているのだ。「伊東大川(音無川、松川)」を挟んで「日暮八幡神社」と「音無神社」👈リンク がある。扁額は「日暮神社」。社殿に貼られていたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のポスター。内陣。御祭神は誉田別命。最奥に石の祠が確認できた。境内の樹の根っ子が地面に蔓延って。近づいて。「日暮神社建立記念碑」。文字が刻まれていたのであろうか。神社左手に小さな祠もあった。「?斉稲荷大神鎮座」と。この大木もタブの木であっただろうか?道路から「日暮神社」を見る。そして次に訪ねたのが「最誓寺」。寺号標石「曹洞宗 宝珠山 最誓寺」静岡県伊東市音無町2−3。「最誓寺縁起開創 鎌倉初期真言宗「西成寺」として建立さる開基 北條氏二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による由緒 源頼朝が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが平家の寵臣たる 父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる変遷 慶長年間曹洞宗に改宗寺号も最誓寺と改め現在に至る本尊 阿弥陀如来他に千鶴丸地蔵尊閻魔大王奉祀さる「目は高く 頭は低く 心は広く 気は長く」。門前の「◯ 萬霊等」碑。「等」は「なかま、ともがら」の意で「あらゆる霊」を意味すると。「山門」から境内を見る。扁額「祐心」。「祐心」とは、神仏の助け。 神が助けること。 天の助け と。曹洞宗の宗門「五七の桐(総持寺)紋」「伊東家墓碑」が左手に。近づいて。「伊東の地に来た伊東氏の先祖は藤原南家の武智麻呂から八代の子孫にあたる藤原為憲と言われています。藤原為憲から七代の子孫になる家次祐隆の代に狩野から久寝(伊東の地)に移り住んだと思われ伊東氏の歴史を家次から始まりとするのが普通です。伊東家一族の墓はその昔、最誓寺の南東約0.5kmの東光寺に存在したが、伊東家の衰えとともに江戸末期に廃寺となり東林寺に合併されたが墓(石製五輪、宝筐印塔)は最誓寺に移されました。一族の墓は伊東氏の歴史を物語る貴重な文化財です。」「伊東家墓碑由緒藤原鎌足十六代の後胤、狩野家継は伊東の庄に移り伊東祐隆と改め河津の庄を領した。長男祐家の他、二児をもうけたが妻に死なれ後妻を取りしが、その連れ子との間に生まれた祐継を嗣子として伊東祐継(工藤祐経の父親となる)と名乗らせて、伊東の舘におき、一方嫡流である祐家の長子祐親(曽我五郎、十郎の祖父)を河津の庄に追いやり河津次郎祐親とした。これがやがて伊東家騒動の始まりとなり「仇討ち曽我物語」の発端となるのである。これら一族の墓は東光寺及び東林寺に納められているが東光寺はこの地より南東〇・五キロの所にあって領主、伊東祐隆の再興によって栄えたが、徳川時代に至り伊東家のおとろえるに同じうして江戸末期、ついに廃寺となり墓は、当最誓寺に移されまつられるようになって久しく境内の木陰に苔むしていたものが、昭和三十四年本堂再建の時に整備供養され市文化財の規定が設定されるや第一号として指定され、今後も永く一族の菩提を弔う為、護寺されるものである。ちなみに当最誓寺は今を去る八百五十年前、源頼朝が伊豆流配の折、祐親の娘八重姫と密通し一子千鶴丸をもうけたが、平家の流れ汲む祐親の怒りにふれ、稚児ヶ渕(この裏を流れる松川の上流)に沈められた後、八重姫が北条家家臣江間小四郎氏に嫁ぎしより、許されて稚児菩提の為に頼朝と毎夜相見しこの地音無の森に一宇を建立し、西成寺と名付けるに始まり、慶長元年、禅宗に改められ寺号も最誓寺となり今日に至る。寶珠山 最誓寺 二十六世代」斜め方向から。伊東家の墓は、廃寺となった東光寺にあったもの。東光寺は、東林寺とともに伊東家の菩提寺として栄えたが、伊東家の衰えとともに衰退し、江戸時代末期に廃寺となったのだという。伊東市の指定史跡。寺務所。「稲荷大明神」。「本堂」。近づいて。見事な彫刻。扁額「寶珠山」。曹洞宗の宗門「五七の桐(総持寺)紋」と「久我竜胆(永平寺)紋」がここにも。境内の樹齢600年ともいわれる大ソテツは、伊東市の天然記念物に指定されている。「市指定天然記念物 最誓寺のソテツ蘇鉄(ソテツ)は、九州から沖縄にかけて、主として海岸近くの岩場に自生し、鹿児島県佐多岬や内の浦町では、国の然記念物に指定されている。ソテツ類は、恐竜のいた時代のような太古の昔を彷彿とさせる特異な形態をした常緑裸子植物の一種で、古くから各地の社寺や家庭で観賞用として植我されている。伊豆半島には、国の然記念物に指定されている河津町字峰の正木家(徳川家康の側室「お万の方」の生家と伝わる)の「新町の大ソテツ」がある。市内にも寺院境内を中心に植我されたソテツを多く見るが、最誓寺のソテツは、市内で一番大きく、樹勢も旺盛である。根廻 4.9m 目通 6.0m 樹高 5.8m」「水子供養地蔵尊」。正面から。近づいて。「淡島尊堂」。和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神。婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。多くの石仏が「本堂」の左側に並ぶ。歴代の「六地蔵」であろうか。「本堂」の裏の墓地から、昨年訪ねた「音無神社」👈リンク が見えた。墓地内の立派な五輪塔。こちらは宝篋印塔。「最誓寺寺族之墓」。歴代住職の墓であろうか。尚、「伊東祐親の墓」👈リンク は別の場所・静岡県伊東市11にあり、昨年既に訪ねているのであった。伊豆に配流された源頼朝の監視を任される、そして頼朝と通じた八重姫の父親、また義時の祖父「伊東祐親」を演じる「浅野和之」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.28
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そして次に訪ねたのが「独鈷の湯公園」。桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の『独鈷の湯(とっこのゆ)』の対岸側にある公園。その昔、桂川の河原で病気の父の背中を流していた少年を不憫に思った弘法大師(空海)が、持っていた仏具(独鈷杵とっこしょ)で川の岩を打ち霊泉を湧き出させたという伝説の『独鈷の湯』にちなんで作られた公園で、石造の独鈷杵のオブジェや、湯掛け稚児大師像があった。石灯籠の奥に石祠があった。「熊野権現」。「熊野権現由来熊野権現(湯谷権現)がこの地に祭られてありしは古く天明六年(1768)の記録にもあり。古来温泉の祭り神として人々の信仰篤く 祭礼等も行われ居りたるも、戦後の廃社に伴い御神体は日枝神社に遷座奉安し今日に到れり。されどここに志ある人々の奉仕を得、史蹟再現の意味もこめて新たに小祠を建立せしものなり。」「湯掛け稚児大師」 「独鈷杵古代インドの武器の一種で後世の密教法具として僧侶の修行に用いられ仏像とともに日本へ伝来した。この独鈷杵は昭和三十六年修禅寺裏山から発掘されたものを原形拡大したもので実物は金銅で作られ長さ二十四糎、平安中期のものと言われ、工芸美術的にも優れた作品であり、修禅寺に秘蔵されている。独鈷の湯は弘法大師がこの地をご巡錫のとき、桂川で病夫洗う少年を見てその孝心に打たれ「流れ水では冷たかろう 今温かくしてつかわそう」と言って、手にもっていた独鈷杵で川の岩を打ち砕くと霊湯がこんこんと湧き出したので、父子は大いに喜んで入湯すると不思議に十数年の痼症が平癒したと伝えられている。独鈷の湯は修禅寺温泉発祥の地であり、昭和五十ニ年この地に独鈷の湯公園を開園するにあたり独鈷杵をこの公園のシンボルとして建立したものである。」手に密教法具・独鈷杵(とっこしょ)を持っていた。「湯掛け稚児大師前の川の中に在る独鈷の湯は、その昔、孝行者の息子が年老いた父親の背中を川の水で流してやっているのをご覧になった弘法大師が、水では冷たかろうと、持っていた独鈷で岩を掘ったところ湧き出したものと伝えられています。この故事にあやかって、当町旅館組合が、皆さんの健康を願って、ここに稚児大師の像を建立しました。お子さまの健全を願う方、ご自身の健康を願う方、もしくは、現在疾患をお持ちの方等、願いを込めてお湯を灌(そそ)いであげてください。」芝生の中には竹灯篭が。「修善寺の歌」碑。「修善寺の歌長 徳太郎 作詞原田彦四郎 作曲一、春はあけぼの城山に ゆかりの雲の浮かびつつ 秋夕ぐれのもみぢ葉は 月のかつらの瀬々に散るニ、かなしき跡をしのびつつ 露けき夏の草をふみ くしきみ業をたたへつつ あふれ湧く湯に冬を愛つ三、恵みゆたけきこの里に 訪ひくる人と住む人の えらぎおのづととけ合ひて いよよさかゆく修禅寺よ「独鈷の湯公園」碑。「比企能員」パネル。武蔵・比企郡の豪族。源頼家の乳母夫。「桂川」沿いの「新井旅館」方向を見る。いつの日か宿泊したいが。「独鈷の湯」を対岸からズームして。土産物店「湯川修善寺屋」に立ち寄った。様々な木彫りの面が並んでいた。こちらは鬼の面。木彫りの仏像も。そしてここが「仰空楼(筥湯横無料展望台)」。扁額も「仰空楼」。「仰空楼夏目漱石と修善寺温泉小説家夏目漱石(本名・金之助、慶応三~大正五)は、明治四十三年八月六日から門下生生松根東洋城(当寺、宮内省御用掛、俳人)の案内で修善寺温泉に滞在した。ところがまもなく病(胃かいよう)がきざして、八月二十四日晩には一時人事不省におちいるなど、悪化した。このため、医師団に懸命の治療をつづけ、また身内のほか、全国から多くの門下生らがかけつけて見舞った。この後、病気はじょじょに快方に向かい、ニか月ほどした十月十一日には帰京できた。この修善寺について、門下生松岡譲(小説家)は、訪れたということで名所になるようなそんな生易しいところではないと言っている。つまり、この修善寺で漱石は病と心から生き返ったのである。改めて自分の生命の尊さを自覚し、周囲の多くの人々の温情に感謝する気持ちを深めた。この体験は、またその後の創作の上にも少なからず影響をもたらしたとされるのである。修善寺ゆかりの作品に、多くの俳句や漢詩、書簡のほかに、随想「思い出す事など」、小説『行人』などがある。夏目漱石が滞在した菊屋旅館本館(現在、修善寺「虹の郷」に移築して茶室「漱石庵」と称している)は、この地にあった。ここには、なお往時の二棟の建物のほかに、中央に大きな百日紅などがある。漱石は部屋(二階)の窓から、毎日松の木の間に咲きつづける爽やかな百日紅の花を見、広がる青空・浮かぶ白い雲、羽を輝かせて飛び交う赤トンボなどを眺めていた。また、ある晩は、修禅寺(お弘法さん)の祭りの花火を楽しみ、さらに朝な夕なこの寺の鐘の音を聞いて過ごしていた。まず黄なる百日紅に小雨かな生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉温泉の村に弘法様の花かな仰臥人如唖 黙然看大空 仰臥 人唖の如く 黙然 大空を看る 大空雲不動 終日杳相同 大空 雲動かず 終日 杳かに 相同じ(漢詩大意)仰向けに寝たまま、静かに窓から広がる青空を眺めているが、ぽっかりと浮かぶ白い雲はほとんど動かない。終日向かい合ったままで、まさに主客融合したような境地である。この漢詩は作品中でも傑作とされ、最初の夏目漱石文学碑(修善寺自然公園、昭和八年建立)の碑文にもなっている。また、漱石は風呂好きで、宿を訪れると毎日いく度も入った。文豪ゆかりの地に立つ筥湯、その望楼の名「仰空楼」はこの漢詩にちなむものである。なお、扁額「仰空楼」は修禅寺四十ニ世田中徳潤師の書によるものである。」「仰空楼」を見上げる。階段を上って行った。最上階に到着。修善寺温泉の「新井旅館」方向の眺望を楽しむ。そして車を駐めていた場所まで戻る。車の横にあった軽食屋さん。車で次に「修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂」を外部から訪ねた。顕栄(主の変容)祭を記憶して建てられているこの聖堂は、一九一二(明治四十五)年に成聖されたもので、病床あったニコライ大主教(後の亜使徒大主教聖ニコライ)の快復を願って建てられたと言われる。十八メートルの鐘楼を揚げる聖堂内のイコノスタスは旅順にあった聖堂から移設されたもので、色彩、デザインとも他の日本の正教会ではあまり類を見ない。また、聖所のシャンデリアは水晶製である。至聖所内の全能者ハリストスと主の変容、降誕、大十字架のハリストスの磔刑はイリナ山下りんの筆によるものもである。二〇〇四年に伊豆を直撃した台風22号の影響を受け、聖堂と信徒集会所は大きな被害を受けたが、府主教ダニイル座下のご高配と全国の神品、信徒のご協力によって無事に修復、成聖を終え、聖堂は美しい姿を取り戻した。尚、昭和六十年十一月二十九日に静岡県の有形文化財に指定されている。ビザンチン様式の姿形が美しく、技術的にも芸術的にも優れていることから、県の有形文化財になっている。中は非公開なので見られないが、美しい外観は一見の価値がある。静岡県伊豆市修善寺861。そして「修善寺」の散策を終了し、東海岸の伊東市に向かって山越え。県道12号線、県道59号線を利用して冷川峠を越えてひたすら伊東市に向かって山道を進む。途中、昨年、「河津桜」見学時に立ち寄った、しかし山門が閉ざされていた「光識寺」前でこの日も車を止めた。「光識寺」の前、県道59号線沿いにあった石仏。 静岡県伊東市鎌田1131。しかし、この日も「光識寺」への入口のゲートは閉ざされていたのであった。「掲示板」。「光識寺のご案内 参拝料は無料光識寺は唯識を広く知ってもらうために開山しました。唯識とは個人にとってあらゆるただ「識」によって成り立っ主観的な虚構にすぎず、あらゆる存在は生滅を繰り返す無常であり実体のない「空」であるという思想です。戦後、わが国は伝統、文化、家族関係や地域社会を犠牲にして高度経済成長を達成しました。反面、個人主義、拝金主義的価値観が台頭し、無秩序、無規範、無連帯状態の社会に陥り、は将来に夢を持っことができず、言い知れぬ不安や孤独感に苛まれています。光識寺はこのような悩みや苦しみを仏教の根本原理である唯識思想によって救済するお寺です。毎週講話会を行っておりますのでご自由にご参加くたさい」やむ無く、境内の石仏をズームでカメラに収める。「大聖観音」。移動して別の場所から。「不動明王像」。境内には多くの石仏の姿が。伊東の海が見えた。「光識寺 散策図」。「ご自由に参拝下さい。開門時間:午前9時~午後5時」とあったが・・・???近寄って。そして伊東市街に向かって、坂道を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.27
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「源範頼の墓」を後にして、「桂川」の南側の商店街の道まで戻る。これから訪ねる場所を確認。商店街を「桂川」の下流方面に戻って行った。左手にあったのが懐かしき射的場「初音遊技場」。右手奥にあったのが「宙 SORA 渡月荘金龍」。鉄塔の下には源泉があるのだろうか。「竹そば 八百考」の店頭には、蕎麦を打つ姿の「ひょっとこ」の如きオジサンの姿。左手にあったのが「桂川 花小道」。伊豆修善寺温泉に佇む旅館、湯の宿 花小道は江戸川乱歩など文人・画人に愛された名旅館。大正時代に建築された創業当時の木の温もりを大切にレトロな雰囲気漂う新しい宿として生まれ変わったと。大正・昭和の香り漂うノスタルジックな館内では、日本建築の美しさも味わえる。全13室ある客室は、床の間があり和の雰囲気も味わえるツインルームの洋室。館内にある2つの内湯と2つの貸切露天風呂を利用できる。食事処は桂川を望める和食レストラン。ドライヤー、バスアメニティ完備。女性客は色浴衣と浴衣等を入れて浴場へ持ち運べる籠を無料で利用できる と。この宿にも「内裏雛」が。店頭脇にあった木造彫刻はなんとなく異国風。「指月殿」へはここを曲がれと。そして坂の上にあったのが「指月殿」。桂川を挟んで相対する鹿山の麓にあった。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれている。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれている。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されているが、持ち物はないはずの釈迦像が右手にハスの花を持っているのが特徴と。堂に向かって左手に頼家の墓があった。静岡県伊豆市修善寺934。扁額「指月殿」。扁額の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている と。右手に蓮の花を持つ「釈迦如来坐像」。「釈迦如来坐像」の体内には経典が納められており「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」と書かれた北条政子の直筆の墨書があったと。(修禅寺宝物館蔵)お顔をズームして。「北条政子」のデジタルスタンプラリーのパネル。源頼朝の妻。北条時政の長女で北条義時の姉。「指月殿この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家(よりいえ)の冥福を祈り、母北条政子(ほうじょうまさこ)が建立したもので、伊豆最古の木造建築と言われている。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立(ふりゅう)文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宗版大蔵経(そうはんだいぞうきょう)は大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経(ほうこうはんにゃはらみたきょう)」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。本尊の釈迦如来座像(しゃかにょらいざぞう)は、寄木(よせぎ)造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額(へんがく)の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている。」「手水舎」。旧本堂の「宝珠」であっただろうか?「指月殿」の左側の高台には「源頼家の墓」があった。「源頼家」のパネル。源頼朝・政子の長男。鎌倉幕府第ニ代将軍。「お伺い石」。「お伺い石「あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情けも湧く」人もお湯も温かい修善寺・・・実は恋愛成就の聖地とも云われています。ある時、釈迦は弟子たちの前で一輪の花を拈(ひね)って示しましたが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟り笑み、釈迦から以心伝心の法脈を伝授されました。この「拈華微笑(ねんげびしよう)」の故事に基づき、指月殿の釈迦像は蓮のつぼみをかざす大変珍しいお姿て鎮座しておられます。ここにある蓮花の形をした石は以心伝心を占う「お伺い石」。想いを込めて持ち上げましよう。軽く感じたら思いが伝わると言われています。もし重く感じてしまったら指月殿に祈願しましょう。あなたの願いをかなえてくれるでしよう。「言葉にしなくても伝わるこの想いを君と一緒に一生繋いでいこう。ふたりで」 (縁をつなぐ恋の橋より)石段の上に「源頼家の墓」があった。静岡県伊豆市修善寺935。正面に「源頼家の墓石」。源頼家は、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられた。『吾妻鏡』によれば・・・1203年(建仁3年)8月27日、病の床に臥していた頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝)に譲ることが発表された。この決定に頼家の乳母夫比企能員が反発。9月2日、側室若狭局(比企能員の娘)を通じて「北条時政を追討すべきだ」と伝えられた頼家は比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだという。しかし、その密議は、障子を隔てて聞いていた北条政子に知れてしまった。同日、比企能員は北条時政邸で天野遠景と仁田忠常に暗殺され、比企邸も北条義時らに襲撃されて比企一族は滅亡させられた(比企能員の変)。頼家の嫡子一幡も焼死している(参考:一幡の袖塚)。この時、危篤状態だったという頼家は、9月5日、奇跡的に快復して事件を知ると、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗に終わり、病気と政治不安を理由に出家させられた。9月29日には、ここ伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌1204年(元久元年)7月19日には、その死が鎌倉にもたらされている。※7月18日、入浴中を襲われ最期を遂げたと伝えられている。「源頼家の墓正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。「修禅寺物語」ではこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職伐山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。」手前は供養塔であり、源頼家の墓積はその裏側にある2基の小さな五輪石塔であると。「仮名垣魯文の句碑」。「谷川や 月のはこびも 九折(つづらおり)」と刻まれている と。「江戸期最後の戯作者仮名垣魯文の句碑桂谷眺望谷川や 月のはこびも 九折この俳句は仮名垣魯文(1829 ~ 1894 )によっ書かれた。彼は江戸時代に文学界で活躍した最後の戯作者である。彼は幕未から明治にかけて当時の世相を巧に描いた。彼は津国屋藤ニ郎(芥川龍之介の母方の大叔父)に俳諧を学び、多くの文学者・俳諧師と親交を深めた。彼の出世作は『滑稽富士詣』(1860年発行)であった。明治になると、彼は『西洋道中膝栗毛』、「安愚楽鍋』、「葫瓜遣い』など次々に発表し、彼は人気作家となった。この句睥は1891年に仮名垣魯文本人と三州園の主である三須圭山によって建てられた。圭山は仕事の傍ら、俳句や絵画を嗜んだのでこの地に滞在した魯文と親交を深めた。」最奥には神社もあった。この石碑は??「南想塔之記」碑「昭和十六年秋名古屋にて編成された独立自動車四十五大隊は、大東亜戦争緒戦にジヤワ・スマトラ作戦に参加。後に主力はビルマ方面に転戦、戦運我になく戦友相ついで南雲の下に散る。昭和廿一年復員の後有志集い修禅寺に於て法要を重ね今日に至る。激戦の年より茲に廿三年英霊追善のため仏縁深き修禅寺に塔一基を寄す。」横に立つ南想塔・十三重石塔。「桂谷(八十八ヶ所)第四十四番 十一面観音」碑。「桂谷八十八ヶ所第四十四番本尊 十一面観世音菩薩笹の葉に、おく白雲も、輝きぬ、さやけき月の、影をやどして」と。「桂谷第四十四番 十一面観音」と刻まれた石碑。十一面観音の線刻が描かれていた。「修禅寺温泉観光ガイド」。「十三士の墓」。頼家が暗殺された後に、家臣13人が謀反を企てたが発覚し、殺害されたとも、殉死したとも言われている と。「源頼家 家臣 十三士の墓」案内板。「源頼家 家臣 十三士の墓北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年) 7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謨反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この基はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年) 7月17日にこの地に移築された。」右の石碑には「澄宮崇仁親王雨下行啓記念碑」ではないかと学友から。左の石碑も同じく以下、学友から。『御庵洞畔起天承細耶 閑兒魂七百余年浮世興 亡眞實之事山僧渺涙 候碑 〇聴 昭和戊辰卯秋第(?)房祭山〇 瑞雲庵 原田力松 建石』 本文読み下し文 御庵洞の畔[ほとり]を起こして(天)細[こま]や(耶)か(閑)に(兒)魂七百余年を承る 浮世の興亡真實の(之)事山僧渺[はるか]に涙しそうろう(候)碑 と(?)聴く この石碑は原田父子の徳行を記したのではなく、御庵洞の山中に散在していた墓石を一か所に集めて合祀した土地所有者(碑文中の山僧の事か?)に思いを致して初代原田力松氏が建てた碑ということではないでしょうか。 語句解説 ※ 御庵洞 [ごあんぼら]北条時政の隠棲の庵室跡や、頼家の庵室跡などといわ れてる。もともと「十三士の墓」は御庵洞の山中に散在していた。 ※ 畔 ある場所の周辺。ほとり。「河畔・湖畔・江畔・池畔」 ※ こまやかに すみずみまで行き届いているさま ※ 承る 引き受ける くらいの意味か ※ 山僧 さん‐そう《[さんぞう]とも》 1 山寺に住む僧。 2 山門の僧。普通比叡山延暦寺の僧をいう。 3 僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。 ここは1の 「山寺に住む僧」 か ※ 渺(はるか)に 水面などが限りなく広がっているさま。はるかにかすんでい る さま。 ※ 昭和戊辰 昭和3年(1928) ※ 卯秋 秋の卯の日か? 卯の日は陰陽五行思想に従うと再生・更新を意味する日 (wiki新嘗祭参照)だそうで、新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、 律令以前にすでに出来上がっていた。他にも酒造りは「卯の日」にはじめ、 「酉の 日」に完了する慣わしがある。など、卯の日には意味がありそう。 ※ 第 やしき。邸宅の意か。「源頼家 家臣 十三士の墓」に近づいて。この先、山の上には下記の観光スポットがあった。急な山道を上って行った。窟(いわや)の如き場所に石仏が。そして手前にあったのが「おしゃぶり婆さんの像」。「岩屋観音とおしゃべり婆さんこの鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。この下の谷のことを「観音洞」と呼び、谷から直接登山するのが本来の参道だったようです。正面は桂谷八十八ゲ所、四十番の石碑。右の祠には「おしゃぶり婆さん」と呼ばれる子宝子育ての神様も祀られて犯られいます。赤子がロにすらオシャブリが語源といわれ、左の石仏は母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています昭和初期までは、この山中にも老舗旅館の茶屋があって鹿を飼ったり、湯治客の自然散策に訪れる私設公園でした。中腹には大弓と呼ばれる矢場の広場があり、土地の子供が逗留中の幼い宮様と相撲に興じたり、まだ珍しかった自転車の競争をしたりしました。」「源義経像」。「源義経像義経は、源氏初代将軍頼朝や、修禅寺で自害した源範頼の弟に当り、この鹿山の麓に墓のある二代将軍源頼家の叔父にあたります。幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五条大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後の蒙古へ渡ってチンギスハンになったという説もあります。この獅子にまたがった像の胞には源氏の紋所笹リンドウが刻まれており、義経像ともチンギスハン像ともいわれています。大正末期、芸術を愛好した修善寺温泉菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉に滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。これが「吉田絃二郎 明枝の墓」だったのだろうか。「指月殿」の境内まで下ると「絵馬」の自動販売機があった。「絵馬掛け処」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.26
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「修禅寺」を後にして「虎渓橋」を正面に見る。県道18号線・修禅寺戸田線を桂川沿いに上流に向かって進む。桂川の左下の岩場にある「独鈷の湯(とっこのゆ)」が姿を現した。露天風呂からは湯気が。「指月殿」の案内を確認する。石段を下り、「独鈷の湯」を訪ねた。修善寺温泉の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯。大同2年(807)、修善寺を訪れた空海(弘法大師)は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の心に打たれ、持っていた仏具(独鈷杵(とっこしょ))で川の岩を打ち霊泉を湧き出させた。その湯につかったところ父親の病気はたちまち癒え、温泉療法が広まった伝わる。現在も自然石を使用しており、修善寺温泉の象徴的存在。修善寺温泉は伊豆最古の温泉と言われている。※現在、独鈷の湯は見学のみで、入浴は不可となっていた。足湯としても利用できないと。湯面にカメラを向けて。「修善寺 亀屋 甘泉楼」。「甘泉楼 KANSENRO新井旅館「甘泉楼」1924年(大正13年)築登録有形文化財第22-0022号伊豆最古の温泉街である修善寺温泉には多くの文人・墨客が訪れました。当時の賑わい、溢れる才能と活気を、年月を経た今も感じられる「墨客の小径」(ぼっかくのこみち)。ぶらり散策と味めぐりをお楽しみください。」「内裏雛」。「女雛」。「男雛」。可愛らしい木彫りの仏様が2体。「新井旅館」。新井旅館三代目館主は文人墨客と親交が厚く、日本画や文学など数多くの作品が新井旅館で生まれた。芸術家の感性は建物や庭園にも生かされ、貴重な文化遺産となっている。敷地内に建つ15棟の登録有形文化財の建物。館内に1歩足を踏み入れると、昔懐かしい時代にタイムトリップしたかのような、ノスタルジックな空間が広がっている と。一度、宿泊してみたい宿なのであった。笹竹の生える桂川の小径を進む。「伊東祐親」のパネル。「河原湯」が左手に。湯が足湯場に流れ込んで。「河原湯(足湯) Kawara-yu (Foot Bath)修善寺温泉にはその昔、河原沿いに7つの外湯があり、当時外湯として親しまれていた河原湯は、この足湯の少し上流に佇んでいました。このため、平成22年4月3日に開湯したこの足湯が外湯時代と同様に、皆様に楽しんでいただけることを願い、河原湯と命名しました。足湯として開湯した河原湯を、皆様お気軽にご利用ください。」「独鈷の湯」を振り返る。前方に見えて来たのが「桂橋」。「桂川」に沿った小径はここまでで、左折すると「桂橋」。「桂橋(結ばれ橋)桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが、成就するとか・・・。」「桂橋」を渡る。「桂橋」の「橋紋」。桂の葉とその下に「桂」の文字がデザインされていた。上流の「楓橋(かえでばし)」別名:寄り添い橋 を見る。横から瀧の如き流れが。下流側は左に大きく蛇行。そして右側に「竹林の小径」が。平成6年(1994年)から3年間を費やして整備された温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道、竹林の小径(ちくりんのこみち)。竹林の小径を歩くと、茶処や火の見櫓が懐かしく、竹林中央にある大きな竹の円形ベンチに座れば竹林を通る風を感じることが出来ます。日没後はライトアップされ、幻想的な夜の散歩を楽しむことができます(ライトアップは日没~23時まで) と。竹林中央にある大きなベンチ。竹製のベンチ。「八重」のパネル。義時の初恋の人にして、源頼朝の最初の妻。伊東祐親の三女。さらに奥へと進む。様々な竹の種類が植えられていた。そして右手にあったのが「楓橋」。「楓橋(かえでばし) 寄り添い橋桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」「楓橋」の「橋紋」。「楓」の葉と太鼓橋そして「楓」の文字のデザインが下部に。上流を見る。下流の「桂橋」を見る。そして「竹林の小径」を引き返す。多くの竹灯籠が。若竹の林の中に。夜になると。円形の巨大ベンチはスクリーンに変身するようである。そして「滝下橋」別名:安らぎ橋を渡る。「桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」「滝下橋(安らぎ橋)」の「橋紋」。竹林の姿と、「滝」の文字のデザインが下部に。「源範頼」の墓に向かい坂を上って行った。「源範頼の墓」。源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(がまのかじゃ)」とよばれていた。源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉された。その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれている。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられている。修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなった。静岡県伊豆市修善寺1082。現在のこの墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものであると。「源範頼の墓範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(がまのかじゃ)と呼ばれた。治承4年( 1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。建久4年( 1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修褝寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。」「鎌倉殿の13人」に登場する「源範頼」、演じるのは「迫田 孝也(さこだ たかや)」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.25
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「檀信徒会館(慈照閣)」前から「本堂」、紅梅を見る。「本堂」の右にある松の根元に、大きな「達磨石(だるまいし)」があった。江戸時代後期に奉納された物であると。再び「本堂」を見る。巨大な銅製の灯籠(右)は黄色く塗られていた。。巨大な銅製の灯籠(左)。扁額「修禅寺」。内陣。本尊の「大日如来坐像」の御姿が御簾の奥に。内陣の彫刻。「本堂」から「山門」方向を振り返る。「弘法大師像」。「南無大師遍照金剛」の奉納のぼり幡が周囲に。真言宗のお経で、「南無」は「私は帰依する」を意味しており、「南無大師遍照金剛」の7文字で「弘法大師空海に帰依する」の意味になるのだ。お顔をズームで。こちらにも石仏が。再び「檀信徒会館」の入口の「十六羅漢像」のお姿を。右側。再び庫裡を。「たいせつなこと けんきょ すなお かんしゃ」。「良寛さんの詩聞道須洗耳 不則道難持 洗耳其如何 莫有在見地 知見有纔存 与道相離支似我非為是 異我是為非是非始在己 道其不如是 以水没石頭 祇覚一場癡 道を聞くにはすべからく耳を洗うべし しからざれば即ち 道は持しがたし。耳を洗ふこと それ如何(いかん) 見知を在することあるなかれ。知見 わづかに在するあれば 道と相離支す。我れに似なば 非も是となし 我れに異ならば 是も非となす。是非 始めより 己にあり 道はそれ かくのごとくならず。水をもって 石頭を没す ただ覚る 一場の癡(ち)たることを【訳】道を聞くには、かならず耳を洗わねばならない、でないと道と共に行くことはできない。一体 耳を洗うとは どうゆうことなのか、それは自己の見聞知識を捨て去ることだ。手前勝手な見解が 少しでも残っていると、道と 遥かに分離してしまう。自分の考えに似たものなら 間違ったものも是とし 異なるとなると 非とみなす。この様では 是と非とが始めから 自分の思いの中にあることになる 道はこの様なものじゃない。言ってみれば人間の小細工は水で石を とっさに浸し隠すような、まやかしごと その場限りの愚かさにすぎない------------------------------------------------------力をぬいて、まっすぐ、今・ココを死ぬる時まで生き切る。『道』は、言葉を使えば使う程、伝わらないものだな。」ここにも小さな石仏が。丸瓦に「修」の文字が。見事な「本堂」の瓦の造形。さらにズームして。正面の唐破風の左右に「唐獅子瓦」、「鯱瓦」が。鐘楼を見上げて。梵鐘を再び。境内の竹林では、椎茸が栽培されていた。椎茸が顔を出しいた。「六地蔵」。境内のこの枝垂れ紅梅は開花を初めていた。近寄って。「千聖(せんしょう)の森」像。修禅寺の裏山が【千聖の森】と名づけられ、梅林までの森林コースが整備された と。お顔をズームで。「修禅寺平和観音古道」を上って行った。この石碑には? 「南無阿弥陀佛」であろうか。近づいて。「安政四丁巳年 八月日」と刻まれていた。無縫塔が並ぶ。境内を見下ろす。中央に「本堂」の巨大な屋根が見えた。歴代の上人の墓石であろうか。多くの無縫塔をカメラで追う。数の多さに歴史を感じるのであった。「功徳は 無量霊場に 溢る慈」布袋 と。様々な石碑、墓石が。「萬霊等」。「塔」ではなく「等」の字が書かれることも多いが、いろいろな霊という意味で、わざと等の字を使ったのであろうか。「平和観音像」。太平洋戦争の際、修禅寺(伊豆市修善寺)の裏山に安置されていた観音像は、金属製であったため軍に供出されてしまった。終戦後も再建されず、残された台座に「早く再建してください」と張り紙がされるなど、観音像の再建は修禅寺護持会をはじめ、地域住民の積年の願いでしあった。そして戦後70年の節目の年である平成27年に、修禅寺護持会が白御影石製の観音像を寄進し、同じ場所に設置され、同年5月21日(木)に開眼法要が行われた。観音菩薩像の高さは210cm、台座は255cmで、全体は465cm。桂谷(けいこく)八十八ヶ所めぐりの、88番札所となっている。以前の観音像は、東京・日本橋の商人より寄進されたそうで、台座には『日高屋為三郎』と刻まれていた。『修善寺平和観音』の文字は、お寺の名前の『修禅寺』ではなく、地名の『修善寺』の字が使われており、地域のみんなの平和観音である、という思いが込められているのだと。そして「修禅寺平和観音古道」を下まで戻る。「源範頼の墓」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.24
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「虎渓橋」の正面に現れたのが「福地山 修禅寺(ふくちざん しゅぜんじ)」の「山門」。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」。温泉の「修善寺」と、寺の「修禅寺」の”ぜん"の字が異なるのであった。修善寺温泉発祥の寺で温泉場の中心にあり、平安時代初期の大同2年(807)弘法大師の開基と伝わっている。鎌倉時代に北条氏が帰依したことから寺運が隆盛となり、堂塔が連なる大寺となった。一方、建久5年(1194)源範頼は兄将軍頼朝の猜疑を受けここに幽居、梶原景時に攻められて自刃したといわれている。また、頼朝の長子で2代将軍頼家は、母政子と祖父北条時政の謀略により幽閉され、元久元年(1204)入浴中に暗殺されるなど、源氏一族の骨肉相はむ悲劇の舞台となり、源氏滅亡の場として歴史にその名を残している。隣接の宝物殿「瑞宝蔵」には、空海が温泉を湧き出させたという金銅の独鈷杵、北条政子が我が子頼家の冥福を祈って寄進した宋版放光般若経、岡本椅堂が戯曲「修禅寺物語」を書くヒントとなった2代将軍頼家の最期をうつしたといわれる木彫りの古面などが展示されている。平成26年9月には、山門の修復に伴い仁王堂が新設され、長い間指月殿に安置されていた金剛力士像が山門の仁王堂におさめられた。静岡県伊豆市修善寺965−1。開基の「弘法大師」碑。「献燈」碑。「修善寺温泉観光ガイド」案内板。「現在地」にズームして。「修禅寺 配置図」。平成26年9月に修復された修禅寺「山門」。修禅寺「山門」の「仁王堂」におさめられた「金剛力士像」(阿形像)この金剛力士像は全国でもまれな藤原時代の作。一木彫りで像高は183cm、作者は不明。夜にはライトアップされるため、より迫力ある金剛力士像が見られるのだ と。昔の修禅寺は広大で総門まで約2km。金剛力士像はそこで寺を守護していたが、明治初め頃に総門が無くなり指月殿に安置されることになりました。その後、2014年に山門を改修した際、仁王堂が新設され、また山門で守護できるようになったという歴史があるのだ と。下半身を。横から。「木造 金剛力士像 阿形 平安時代後期作」。「金剛力士像」(吽形像)下半身を。横から。「木造 金剛力士像 吽形 平安時代後期作」。「山門」の扁額は「降魔場」、 西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師書。西有穆山禅師は、江戸時代文政4年八戸湊町に生まれ、江戸後期から明治時代に活躍された名僧。永平寺西堂、可睡斎住職、大本山能登の総持寺独住三世、曹洞宗管長など、数々の要職を歴任され、明治天皇より勅持賜直心浄国禅師の号を賜っている高僧。小田原海蔵寺の月譚老和尚のもとに12年間修学し『正法眼蔵』を参究、明治33年横浜に西有寺を開き、同34年に能登総持寺に晋住、同43年、90歳で示寂されたと。「降魔場」とは護摩場とのこと。「山門」を潜ると左手に「石灯籠」その奥に「鐘楼」。「山門修復寄付芳名碑」。山門の内側にある切り株上に祀られている石像、「双体道祖神」であろうか。「百度石」。「お百度参り」による願掛けは、ここをくぐっては本堂に参拝することを百回繰り返して行ったのだと。山門をくぐって右前方に見えるのが「手水舎」。鬼瓦や欄間に彫られた龍が見事。「桂谷霊泉 大師の湯」と呼ばれ、龍の口から流れ出るのは、なんと温泉なのであった。「桂谷霊泉」とあるが、弘法大師が開創当初は「桂谷山寺」と呼ばれていたと。源泉かけ流しで、約60度とちょっと熱め。手と口を清めるための御手水ですが、修禅寺の場合、その場で飲むことも可能と。龍の口から出る温泉!!温度は熱すぎずぬるすぎずの適温。冬でも楽しく手、口を清めることができておすすめ。観光客からも人気がありペットボトルに入れて持ち帰る方もいたのであった。「洗浄偈以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢」と。【水を以て穢(けがれ)を滌(あら)わば、当に願うべし、衆生の、浄忍を具足し、畢竟無垢ならんことを】水て汚れを流すにあたって、すべての生あるもののために願わん。忍耐の身心をもち、どこまても清浄ならんことを と。「手水舎」の奥にあったのが「温泉分析書」。ズームして。泉温 60.1℃知覚的試験 殆ど無色、透明、無味、無臭水素イオン第度(pH値) 8.6電気伝導度(EC値) 86.1mS/m蒸発残留物 0.512g/kg(110℃)「修禅寺縁起この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教型式の堂宇が建ち並び、東国の真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期ともいうべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。その後、寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅額が下るほど修禅寺の名が中国に広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当たる隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。 (注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の 両日(弘法忌) 正式寺名 福地山修禅萬安禅寺 」「鐘楼」。「梵鐘」。「門及門衛所塗塀」碑。そして正面に「本堂」。脇に「庫裡」。「宝物館」。「宝物館」入口。修禅寺の貴重な寺宝を拝観することができる(入館料300円)。岡本綺堂氏の『修禅寺物語』が創作されるきっかけとなった古面も収蔵されている。この日は入場しなかったが「修禅寺に伝わる宝物の紹介」👈リンク をネットから。「宝物館」前に展示された「前代の本堂」の瓦。全長1m80cmあると。「前代の本堂」の唐獅子瓦。「前代の本堂」の鯱瓦。札所・売店の壁にはTシャツや手拭が販売されていた。「修禅寺 寒桜」。「修禅寺 寒桜(名称) シュゼンジカンザクラ(学名) Cerasus ✗ Kanzakura Rubescens Sugimoto(花色) 淡紅色(花期) 3月中旬(花弁枚数) 5枚「伊豆市に櫻を植える会」は、平成十八年ニ月にこの原木より接ぎ木をして、修褝寺寒桜の若木を増やして参ります。」3月下旬になれば(ネットより) 【https://www.at-s.com/event/article/flower/595321.html】より「鐘楼」を再び「本堂」前から。「修禅寺 檀信徒会館」。檀信徒会館の入口の左右には様々なポーズで座る「十六羅漢像」が並んでいた(正面左側)。表情豊かで、見ていてほっこりするような羅漢像が16体並んでいた。気に入った羅漢像をカメラで追う。正面右側。「檀信徒会館」の正面。扁額は「慈照閣」。その先の扁額「観月堂」。「檀信徒会館(慈照閣)」の内陣。ズームして。「賓頭盧様」であっただろうか。「告諭いま、私たちは多くの苦難に直面しています。新型コロナウイルス感染症の全世界的な拡大により、多くの尊い生命か失われ、人びとは、深い悲しみの中にいます。また、戦笋、貧困、格差などの社会不安、近年頻発する自然災害は、私たちに、大きな痛みをもたらしています。今日、曹洞宗の信仰に生きる私たちは、どのような生き方を目指すべきでしょうか。お釈迦様は、人生における苦悩の中で、菩提樹の下、座禅を重ねられ、お悟りを開かれました。その御教えは、祖師方によって相承され、いま、私たちも頂くことが出来ます。身を調え、息を調え、心静かに座りましょう。仏さまの智慧と同じ正信により、ものごとを正しく見ることが出来ます。その時、おのずから他者を重いやり助け合う慈悲のこころが育まれるのです。私たちの社会ではさまざまな分断が現出しています。感染症の広がりにより人間関係のさらなる希薄化が進む中、いまこそ、一人ひとりか菩提心を発し、人と人の温かなつながりを深めていかなければなりません。お互いに手を携え、四摂法(ししょうほう)の「同事」のおさとしを行じてまいりましょう。すべての人びとが求われることが御仏の願いであります。日々の生活の中で、仏さまに掌を合わせ、世界中の人びとが安らかに暮らせるよう念じ、皆とともに菩薩行を進めてま入りましょう。南無釈迦牟尼仏南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師 令和三(ニ〇ニ一)年四月一日 曹洞宗管長 南澤道人」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.23
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「渡月橋(みそめ橋)」を渡り右折すると「日枝神社」の石鳥居が左手に現れた。静岡県伊豆市修善寺826。扁額は「日枝神社(ひえじんじゃ)」。「日枝神社」。 「北条氏・源氏ゆかり 13 の地を巡るデジタルスタンプラリー」の「梶原 景時」。「日枝神社日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。毎年10月18日、19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が練り歩き、威勢の良い掛け声が温泉場中に響き渡る。境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫(いちいかし)などがそびえ立っている。一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。」「日枝神社」石塔。石段に向かって進む。「「日枝神社」にまつわる神話大山咋神(オオヤマクイノカミ)と建玉依比売命(テタマヨリヒメノミコト)の縁結びど子宝の神話(日木書紀)よりある日山に狩に出かけた大山咋神、獲物に向けて放ったはずの矢がはずれ、近くの小川に落ら、流されてしまいました。その時下流を散策していた建玉依比売命は川の中にきらきらと光る矢を見つけ持ち帰りました。その矢は丹塗り(にぬり)の大変美しい物だったのて、寝床に飾り毎日眺めていると矢に化身した大山咋神が現れ、ニ人は結ばれました。そしてその後子宝にも恵まれ、幸せに暮らしたという伝説があります。この云われから、この日枝神社では玉依比命の真心を真っ白い花に例え、良縁と子宝を望み祈願する風習が今も残っております。女性は白い花、男性は丹塗矢を持って正面の階段を上ります。境内にある夫婦杉の前に立って、肩のカを抜いて天を仰ぎ静かに目を閉じましょう。天の光を感じ、優しい力に包まれ、次第に心が開放されていくのを感じることが出来るでしょう。あなたの想い 天高く届け」階段の脇に、『玉依の花』と『丹塗り矢』を奉納するための掛所があり、絵馬のように願いごとを書いて結んであった。これは玉依姫の丹塗り矢伝説に由来していると。『玉依の花』に願い事を書いて。「信功院跡(しんこういんあと)修禅寺の八塔司(たっす)の一つである信功院のあった所です。建久四(一一九三)年、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したといわれています。信功院は後に庚申堂となり、今は文政元(一八一八)年建立の庚申塔が一基残っています。」これが「信功院跡」の「庚申塔」。さらに両脇の杉の大木を見ながら石段を上って行った。そして石段を上りきると狛犬が迎えてくれた。(阿形像)。吽形像。手水場は巨石を彫り込んで。そして「日枝神社」の「社殿」。「拝殿」前には石灯籠が対で。「拝殿」の大きな注連縄には太房が3本。「本殿」を見る。右手にあったのが「イチイカシ」。「日枝神社のイチイカシ静岡県指定天然記念物(ブナ科)昭和32年5月13日 文化財指定根廻り5.5m、目通り4.5m、樹高25mの大木、一位樫は九州地方に成育する木で伊豆には珍しい。日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。明治初年(一八六八)の神仏混淆廃止令(神仏分離令)により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社であった。境内には杉の大木、欅、槙等が亭々(ていてい)とそびえ立っている。」「静岡県指定 天然記念物 日枝神社のイチイカシ」碑。絵馬掛所(えまかけどころ)。「夫婦杉」。「夫婦杉(子宝の杉)天に向かって真直ぐに聳え立つごく稀なる根幹が接合した樹齢八百年の杉。夫婦円満や子宝を夫婦杉にお祈りください子は夫婦の鎹(かすがい)」。「夫婦杉」を見上げて。隣にも1本。これも根幹が接合しているようでであるので「不倫杉」か?「拝殿」奥にあった「征清軍士昭忠之碑」。明治29年建立。明治27年から28年にかけて行われた日清戦争の慰霊碑です。第11代・13代・15代と三度内閣総理大臣をつとめた、陸軍中将従三位勲一等 桂太郎 の名前が刻まれていた。奥の高い場所には滝の姿も。再び「本殿」を逆側から。「社務所」。最後に再び「日枝神社」の「拝殿」を振り返る。県道18号線に戻ると、左側に「虎渓橋(こけいばし)」、別名:あこがれ橋を見る。「虎渓橋(あこがれ橋)の橋紋」。「虎渓」の文字が、下部にデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.22
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「加藤景廉一族の墓」を後にして、国道136号を狩野川に沿って南下する。「横瀬」交差点を右方向にカーブして進むと右手にあったのが「横瀬八幡神社 (よこせはちまんじんじゃ) 」。静岡県伊豆市修善寺256。社号標石には「八幡神社」。石鳥居の扁額は「八幡宮」。石段を上がると「拝殿」が正面に。「神楽殿」。「手水舎」。「拝殿」。「八幡神社当社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、相殿は鎌倉二代将軍頼家公である。当所はここより二百メートル東側の月見ヶ丘に在り、ニ体の古像が祀られた旧祠であったが、後に当所へ社殿を建立し、頼家公束帯(正装)の立像を作り、神を引いて頼家公の廟(みたまや)とし、八幡と称した。社殿は現在も両扉となっており旧規を残している。右側の本社には、頼家公の母北條政子悪病平癒の伝説をもつ「孔門石」又は「玉門石」と呼ばれる陰石が祀られている。昔修禅寺の総門が当地横瀬の大門(字名)これよりニ~三百メートル下がった附近にあった時代に、仁王像があったが、総門がこわれてしまった時(徳川時代)に当社に移され、さらにある老婆の夢枕にこの仁王像が現れて、修禅寺に帰りたいと云うので、頼家公にゆが(か)りのある指月殿に納めたという。この指月殿は、政子が非業の最後(期)を遂げた、我が子の冥福を祈って建立したものである。祭礼日は毎年十月十九日となっているが、最近は近くの日𫞂(曜)日に行なわれる。又昭和五十年迄は三番叟が奉納されていたが、現在は後継者が少なく、行なわれていない。」同じ鎌倉幕府に縁の深い由緒ある史跡であるにもかかわらず、修善寺温泉郷の賑わいとはほど遠く、この社はひっそりと静かで、落ち着いた佇まいの神社であった。内陣。「修善寺橋」の袂にあった「月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊」。「月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊ここより二百メートル下った狩野川沿いに月見ヶ丘と呼ばれる丘がある。この丘は、建仁ニ年(一ニ〇三)に鎌倉府ニ代将軍源賴家公が、北條氏の政略により修善寺に幽閉されていた時、幽棲の寂しさを慰める為いつもここで月を眺めては鎌倉を偲び、この里子達と遊んでは我が子を思ったという。丘の上のわずかな平地は、八幡神祠と保倉神の小さな石の祠が今に残っている。又丘の中腹には非業の最後(期)を遂げた頼家公の冥福を祈り、里人による愛童将軍地蔵と名付けられた笠冠地蔵が建立されていたが、昭和三十六年の道路拡巾工事により月見ヶ丘が削られて修善寺橋際に移転された。地蔵尊の縁日は八月ニ十四日で、この日は地元老人クラブにより祭礼が催され、参拝者には、家内安全のお礼と手づくりのだんごが渡される。又近くの広場では子供角力大会や盆踊り大会も開催される。」「北条と源氏ゆかりの史跡めぐり 修善寺温泉街モバイルスタンプラリー」の「源頼朝」。ちょっと変わった狛犬横瀬八幡神社の狛犬は、一般的な狛犬と形が異なっており、カエル?やナマズ?のような風貌。台座には『奉納宝暦十三年十一月吉日』とあり、1757年に奉納されたことがわかった。この狛犬は、当時の石工が狛犬を見たことがなかったため、口伝のみの想像で彫られたものと言われているようである。ちょっととぼけた顔をしたかわいい狛犬なのであった。阿形像。お顔を正面から。吽形像。お顔を正面から。朱の祠に「孔門石」がまつられていた。北条政子が修善寺に湯あみに訪れていた際に女性の下の病に罹り、鎌倉から名医を呼び寄せたが、政子の侍従から「奥殿の扉を開けてはいけない、手も触れてはいけない」と、申し付けられてしまい困った医者が苦肉の策で、糸の端を政子に持ってもらい、その動きでなんとか病を特定したが、今度は薬を塗る場所をどのように説明したらよいかと困っていたところ、神夢のお告げがあったという横瀬八幡神社の神主が、女陰の石尊を医者のもとへ持ってきた。医者がその石に丹粉鉄の3色(丹は赤、粉はおしろい、鉄はお歯黒)を塗って薬を塗る場所を指定し、政子が承知し従ったところ、たちどころに病が治った。それ以来、この石は女性特有の病、子宝開運のご利益のある石として祀られています。また、石は人の手で彫られたものではなく、自然石であることも伝えられています と。正面から一番右の赤い幕のかかった祠に、北条政子に縁があると伝わる女陰石が祀られていた。陰石の前には、教育的配慮のため?か赤い蝶ネクタイの付けられた神前幕があったが・・・。失礼して、「孔門石」を・・・・。左には石祠が並んでいた。「横瀬八幡宮縁起兼ねて修善寺温泉に湯あみしける徒然に横瀬八幡宮に詣うで、ゆかりある祠にてめづらかなる世のまれごとを伝えたり此所は、狩野川と桂川との合流点にあたり此の辺一帯は碧潭六十尺葛羅のたれさがれる磐石の断崖なるも船土のわたりより舟もて渡りなば、渓谷をひらきて修善寺温泉に通ずる小径あり、すぐその道上に昼なお暗き老杉の森ありて、八幡宮はここに鎭座するなり。前從ニ位征夷大将軍源頼家公を奉祀すときくだに英雄武運つたなく、とらわれの身となり、元文元年修善寺に於いて北條氏のため人浴中虐殺されたる末路を思ふだに哀れなり。誠に祇園精舎の鐘の声諸行無情のひびきあり。御年いまだニ十三才。北條氏の専横を憎しみて青雲の志、軒昂にすぎたるが災いを招くに至り果敢なき悲運に魅せられて若き御命をおとし給う。又この宮の末社に比賣神社と云う小祠ありて御神体は女陰なり。高さも巾も一尺五寸ばかりの自然石にて、上方やや恰も擬宝珠に似たるが、正面に女陰大きく深く刻みあり。但し決して人間の刻みたるものにあらず、社伝に日く昔尼将軍政子、修善寺に湯あみし折、時秋深く、奥殿の病に罹りて鎌倉より名医を招き、病状を断定せしめ給う。その時に侍従日く奥殿の扉を開くべからず、手もふるるなかれしと申しつけられ、名医も困りはて勘考の極み、糸の一端をとりて他の一端をおそれながら尼将軍にささげまいらせ、その動きによって患部を察知するを得たり。さて次に薬石を如何ようなるわざにしてつけまいらせと謀るに、これには応答一人だになし、しかる処に八幡宮の神主、横瀬の主人と云うありて神夢の御告げに從い、右なる女陰の石尊を奉昇して見参しければ名医相手して、いたく喜び即ちこの石尊によって丹粉鉄(丹はべに、粉はおしろい、鉄はおはぐろ)の三色を、そのところにぬり、以って薬石を色別したるに尼将軍うなづき給ひて、これにしたがいければ立ち処に平愈したり。それより婦女の下の病、子宝開運の御霊験あらたかなり。あなかしこ。(石尊のまたの名を紅門石とも孔門石とも云うなり)」2017年、道路の拡張のため境内の一部が削られた際、鳥居と神橋が撤去され、新たに鳥居が奉納されたのだと。撤去された鳥居と神橋は拝殿の横に置かれていたのであった。旧笠木をズームして。石の太鼓橋・旧神橋も置かれていた。横から「本殿」を見る。国道まで坂を下った場所にあったのが「伊豆市消防団 第一分団下部詰所」。走っているとバス停「うなり石」を右手に発見。民家の前に巨石が鎮座。高さが3mはあっただろうか。名前・「うなり石」には諸説あるようだが①裏山から転がってきた時の音が唸るような音だった。②風の通り道なので、強い風が吹くと唸るような音が聞こえる。③うなり石の傍に沼があり辺り一帯は湿地の為、人が通るたびにうなりながら揺れ、みずしぶきが あがり大変恐かった。その話を聞いた弘法大師がありがたいお説教をして静めたそうです。と湯ヶ島層群の修善寺凝灰岩類に属する凝灰角礫岩のようだ。そして修善寺温泉の「渡月橋(みそめ橋)」を渡り空き地に車を駐め修善寺の散策を開始する。左手にあったのが「夏目漱石の句碑」。「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉」1910年(明治43年)8月、修善寺温泉「菊屋」にて療養中、大量の吐血とともに生死をさまよった夏目漱石。「修善寺の大患」と呼ばれた事件 と。その後奇跡的な回復を見せ、10月には帰京できるようになった。一時的とは言え「死」を体験した漱石は、その後の作品にも活かしている。奇跡的にも回復を見せた際に呼んだ句が、この「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉(あかとんぼ)」句碑には、地元の紙切り作家「水口千令(ちひろ)さん」が漱石のイラストを切り絵で製作し刻んであるのだと。その先、左手にあったのが温泉街を見渡せる高さ12mの「仰空楼(ぎょうくうろう)」(筥湯横無料展望台)と外湯「筥湯(はこゆ)」。その昔、鎌倉二代将軍「源頼家」が入浴していたという伝説のお風呂でもあるのだと。「筥湯(はこゆ)かって修善寺川沿いにあった七つの外湯のひとつで、元久元年(1204年) 7月18日に当地に幽閉されていた鎌倉幕府ニ代将軍源頼家が入浴したという伝説の名湯。入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉であったと伝えられている。 入浴中に北条時政の家来により襲われて亡くなったと言われているが、その襲われた温泉がこの筥湯だと言われている。 昭和初期まで続いていた外湯巡りを復活させるため、平成12年2月12日にこの地に再建された。併設する高さ12メートルの「仰空楼」は、かって修善寺を愛した文豪「夏目漱石」の漢詩にちなんで名付けられた。」「ニ〇一〇年 文豪夏目漱石修善寺温泉・菊屋旅館滞在一〇〇年~菊屋旅館本館跡・百日紅の樹など~作家夏目漱石(慶応3~大正5)は、病後の静養のために、明治43年8月6日から松根東洋城(俳人、漱石門下生)の案内で修善寺温泉「菊屋旅館」に滞在した。初日は別荘に、翌日からはこの地にあった本館に滞在した。当初は読書のほか、近隣の地の散策などもしていた。ところが暫くすると胃病が兆して、殊に日晩には大吐血をおこすなど、一時は病状が悪化した。このため、医師たちは厚い医療をつづけた。この間はまた、身内の外、多くの友人、門下生らが見舞った。その後、症状は徐々に快方に向かっていった。帰京も近い日の句に「帰るは嬉し梧桐(ごとう)の未だ青きうち」がある。こうして10月11日、医師、鏡子夫人らに見守られ、この地を後にした。本館跡地の百日紅(「さるすべり」とも)は、晩夏から秋にかけては、美しい桃色の花をつける。この頃の句に「先づ黄なる百日紅に小雨かな」がある。なお、現在の菊屋旅館の裏通りは本館にも通じ、かっては漱石や友人、門下生らが往き来した往還でもあった。」正面に「渡月橋(みそめ橋)」。「とげつばし(渡月橋)」。修善寺温泉街にある「桂川」に架かる橋。5つの橋を渡る「恋の橋めぐり」の1つとして有名。「渡月橋」から「桂川」の下流を見る。「渡月橋」から「桂川」の上流を見る。「渡月橋(とげつばし)・みそめ橋良縁祈願桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわる、ご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・。」「夏目漱石詩碑仰臥人如唖 黙然看大空 大空雲不動 終日杳相同(仰臥して人唖の如く 黙然として大空を看る 大空は雲動かず 終日杳として相い同じ。)九月ニ十九日に詠まれたこの五言絶句の漢詩は漱石の漢詩の中でも傑作と言われる。昭和八年四月十日、漱石十七回忌記念し鏡子夫人と、家族「九日会」の門下生 多くの友人達と地元の有志により修善寺白然公園の丘に建立、除幕された。碑文・狩野亨吉書 ・菅 虎雄又、建立に盡カした松岡譲(長女筆子の夫)は、修善寺に有るべくして建てられた立派な詩碑であると書いている。漱石の最初の碑である。大患(たいかん)の部屋胃潰瘍の転地療養の為に菊屋別館を訪れ、翌日には本館(筥湯横駐車場) に移った。しかし其の後の病状は思わしいものではなく、八月ニ十四日には、大吐血による人事不省に落ちいったが、奇跡的に回復に向い約ニヶ月余の闘病生活を過した後、無事十月十一日帰京された。この大患時を過された本館、「一番」の部屋は、現在、「虹の郷」に移築され「夏目漱石記念館」として保存、一般公開されている。「漱石・修善寺の大患」を偲んで頂き度い処である。」「桂川」にかかる「渡月橋(みそめ橋)」を振り返る。ズームして。「桂川」の白き流れをカメラで追う。JR修善寺駅近くで「狩野川」に合流する「桂川」の流れ。「渡月橋(みそめ橋)」の路面に埋め込まれた「橋紋」。修善寺の5つの橋には、それぞれ橋を表すシンボルの『橋紋(きょうもん)』があり、橋の路面に御影石で出来た「橋紋」が埋め込まれていたのであった。「修善寺梅林」の梅の花に「渡月橋」の「渡」の文字がデザインされているのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.21
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この日は2月19日(土)、「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」の2回目の2日目。宿泊した伊豆の国市長岡にあった「ホテルサンバレー アネックス」を7:00に出発し、この日の最初の目的地に向かう。県道129号線・韮山伊豆長岡修善寺線を南下する。最初に訪ねたのは「東昌寺」。「偈供養◯◯霊堂」?石碑。伊豆の国市天野にある「東昌寺」は、源頼朝に仕えた天野遠景(あまの とおかげ)が、薬師の段と呼ばれる高台に建立した薬師堂を始まりとする寺院。1957年(慶長2年)、薬師如来像を現在地に移し、遠景の娘萩野氏が念じていた阿弥陀如来を本尊する東昌寺が建立された。遠景・弟の光家・子の政景の位牌、遠景が彫ったという毘沙門天像が残されている。そして遠景・政景・光家の墓が今も並んでいる。静岡県伊豆の国市天野537。山門に向かって石段を上がって行った。「東昌寺と天野遠景本寺は天明山東昌寺と称し、浄土宗に属している。本寺に現存している「薬師如来縁由記」によると、はじめは、ここより三〇〇メートル南方にある「薬師の段」と呼ばれる高台に、天野遠景が建立した薬師堂であり真言宗であ-った。密家の僧智源法師を迎え、遠景が崇拝した薬師腹籠を安置したものであった。その後、慶長ニ年(一五九七)、僧信誉が薬師の段から現在地に薬師像を移し、遠景の娘萩野氏が念じていた行基作の阿弥陀如来を本尊として、建立されたのが本寺である。現在、本寺には遠景、子の政景、弟の光家の位牌と共に遠景自身が彫刻した毘沙門天像や馬の像が現存している。薬師の段には、遠景・政景・光家の墓が今も並んでいる。遠景は、治承四年(一一八〇)、源頼朝が韮山で挙兵した当初より頼朝に仕え、数々の功をたてた武将である。西国での平家討伐の際、遠景は流れ矢を受け、傷に苦しんだ。このとき、現れた異僧より聖徳太子の作といわれる薬師腹籠の像を贈られた。遠景は、この像を身辺よりはなさず、当地に持ち帰り、薬師堂に安置した。これが、先に述べた薬師堂の本尊である。」朱に塗られた山門を潜る。正面に「本堂」。扁額「東昌寺」。掲示板。「私たちの宗旨名称 浄上宗宗祖 法然上人(源空) (一一三三~一三一ニ)開宗 承安五年(一一七五)本尊 阿弥陀仏(阿弥陀如来)教え 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、 人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、 お浄上に生まれることを願う信仰てす。お経 お釈迦さまがお説きになった『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の 三部経をよりどころとします。」と。「薬師堂」。扁額「薬師堂」。「秘仏 天野遠景公念持佛 腹籠薬師如来」と。薬師堂には、天野遠景が崇拝した「薬師腹籠」が安置されているのであった。内陣。「腹籠薬師如来」は秘仏であると。「寺務所」。境内の左手の斜面にあった墓地。「狩野家」と刻まれた墓が多いのであった。六地蔵であろうか。こちらにも「狩野家之墓」と。石の祠の中には狐樣が2体。「南無阿弥陀佛」碑。庚申塔であろうか。そして500mほど進むと「天野遠景の墓」があった。石段に向かって進む。「市指定史跡 天野遠景の墓源頼朝から厚く信頼された家臣天野遠景の墓である。中央が遠景、向かって左が子政景、右が弟の光家の墓と伝えられている。遠景は中豆の豪族狩野茂光に従い、源為朝討伐で功を挙げた。治承四年(一一八〇)、頼朝の挙兵に加わり山木判官兼隆を討ち、石橋山の合戦では敗走する頼朝を援護し、安房国(千県)に落ら延びさせた。また、富士川の合戦を前に、平家軍に属しようとした伊東祐親を捕らえ、さらに頼朝の弟範頼に従って西国に向い、平家追討に多くの武功をたてた。遠景は鎮西奉行職に任命され、九州の平定に取り組んだ。頼朝の死後、剃髪して「蓮景」と号した。建仁三年(一ニ〇三)、謀反を企てたとして比企能員を北条時政の命により討った。のちに天野に帰り、この地に没した。」「天野遠景の墓」に向かって進む。大きな石碑があった。「天野遠景遺績之碑」と。天野遠景は、源氏ではなく藤原氏の一族である。天野遠景は藤原南家の末裔。藤原南家の子孫は伊豆に住んで武士となったものが多く、遠景も伊豆国田方郡天野郷(伊豆の国市天野)に住んで「天野」を名字とした一族であると。墓を正面から。頼朝が天下をとると、天野遠景は鎌倉幕府で重用され、子孫は遠江・安芸・武蔵・能登など各地に広がって全国の天野さんのルーツとなった。なかでも、遠江と安芸の天野氏は戦国時代まで続いて戦国大名となり、安芸天野氏の一族は毛利元就の子を養子に迎えて右田毛利氏と名乗り、江戸時代には長州藩主の一門に連なっている。中央が遠景、左が子の政景、右が弟の光家の墓と伝えられている。角度を変えて。様々な角度から。左の、子の政景の墓石が一番小さかったが。次に訪ねたのが「狩野川台風復興記念碑」。昭和33年(1958年)9月26日に台風22号(狩野川台風)が伊豆半島の南端を通過し、旧修善寺町では土石流、がけ崩れ、洪水氾濫により、一夜にして死者469名、家屋の流失256戸などの被害が発生した。「狩野川台風復興記念碑」は、伊豆市の狩野川記念公園内に設置されていた。正面に廻って。「狩野川」そして「狩野川大橋」その奥に「城山」が。標高342mの山。城山は地下にあったマグマが冷え固まり、浸食によって地表に現れることでできる岩頸と呼ばれる地形である。麓には狩野川が流れ、岩肌が現れた特徴的な姿から、周辺地域のシンボル的存在となっている。修善寺道路の「新狩野川大橋」を見る。そしてこちらが「狩野川台風殉難者慰霊碑」。近づいて。「裏面」昭和三十三年九月二十六日台風二十二号伊豆半島を急襲縦断した。天城の降雨量七百五十ミリ、最大時間雨量百十ミリを越え全山至る処崩壊して三千余箇所、崩壊の土砂木石は豪雨を堰止め豪雨又堰を破ることその何百回なるを知らず。ついに修善寺橋に於いて狩野川の本流を堰止めたり。遂に上流地帯は、一大濁湖と化し浮遊物は皆天城を指して逆流するに至る。堅を誇る修善寺橋もその暴圧に堪ゆること得ず突然陥没した。時午後九時五十分頃か。橋壁を突破した濁潮は一大怒涛と化し、まっしぐらに下流熊坂を直撃する。かかる上流の事態を夢想だにしなかった熊坂の夜は一瞬にして阿鼻叫喚の修羅地獄無気味な地鳴りと荒れ狂う波の底に沈んだ。やがて、水退き満月照らしださるる魔の爪跡、百戸の村にして夫婦もろ共死せし四十五組、寡夫となりし十六人、寡婦五人、孤児二十二人を出し、犠牲者の数は二百九十一人にのぼり、家屋の流出七十六戸百九十三棟耕作地の荒廃三十六ヘクタールに及ぶ。かくの如き惨害は村史口碑にも伝承なく実に前古未曾有にして、国この二十二号を名づけて狩野川台風となす。時移り人交って災害二十周年を迎う。茲に熊坂土地改良区は碑を建て惨状を録すと共に台風全殉難者九百四十一柱の霊を弔う。 昭和五十三年九月二十六日 熊坂土地改良区之建」「儀牲者の数は二百九十一人」と。「伊豆はひとつ」 I❤ IZU と。そして次に訪ねたのが「加藤景廉一族の墓」。加藤景廉(かとうかげかど)は伊豆国の牧之郷を治めた武将。工藤茂光とともに源為朝を征伐したと伝えられている。1180年(治承4年)8月17日の源頼朝の挙兵に従い、山木館襲撃では佐々木盛綱とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った。8月24日の石橋山の戦いでの敗戦後、兄・光員と甲斐国に逃れるが、10月には武田信義らとともに駿河国に侵攻、鉢田の戦いで目代・橘遠茂を滅ぼした。1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状(かんじょう)を受けている。1193年(建久4年)11月28日、永福寺の供養の際に女性問題を起こした安田義資を誅殺。翌年、義資の父義定も謀反の疑いで梟首されるが、一説によると景廉は追討使だったのだという。頼朝の亡き後の1203年(建久3年)に起こった比企の乱では、比企能員を暗殺した仁田忠常を誅殺(仁田忠常の誅殺)。1219年(建保7年)に将軍源実朝が暗殺されると、警備の最高責任者だった景廉は、その責任を負って出家し、覚蓮房妙法と号している。1221年(承久3年)8月3日没ここ牧之郷に葬られた。静岡県伊豆市牧之郷53−35。「真言律宗 金剛寺跡」碑。「金剛寺跡説明この地は、鎌倉時代より室町時代に至るまで牧之郷の地頭であった加藤氏及び子孫の遠山氏の菩提寺の真言律宗の金剛寺のあった所である。この寺の伽藍は室町時代、狩野川の大洪水により流失したが、現在まで立派な五輪塔と寺中という字名や、堂の前、弥陀堂、弥宜屋敷といったような寺に関係した名が残っている。又この附近より鎌倉時代の瓦が時々発見される。天明五年 (一七八五) この地より鎌倉極楽寺三代善願上人 (順忍) の舎利が発見された。上人は加藤景廉の孫である。上人の火葬骨の蔵器は其の他鎌倉の極楽寺、奈良の額安寺からも発見されている。このことは、上人が如何に立派な名僧であったかを物語っている。尚、現在ある五輪塔及び塚は、昭和三十三年の狩野川台風により流失、或は散乱したが牧之郷の鈴木治作氏により現在のように整備された。」「伊豆指定史跡頼朝重臣 加藤景廉(かとうかげかど)一族の墓 (五輪塔)景廉は、源頼朝による源氏旗揚げの挙兵に加わり、大野 (伊豆市) の堀藤次親家とともに山木 (現 伊豆の国市) 判官の平兼隆を討ち、石橋山 (現 小田原市) の合戦でも活躍するなど、鎌倉幕府を創り上げた功労者の一人です。頼朝は手柄をたてた景廉に牧之郷を始め各地に領地を与えました。美濃国遠山庄 (現 岐阜県恵那市岩村町) では、日本三大山城の一つとして有名な岩村城を築き、この地を長男景朝に譲り渡した後、景朝は遠山の姓を名乗り、美濃遠山氏の発展の基礎をつくりました。子孫の中には、北条早雲の第一の重臣であった遠山直景や、江戸時代の町奉行「遠山の金さん」こと、遠山左衛門尉 (金四郎) 景元などがいました。建保七年 (一二一九) 一月、鎌倉幕府の三代将軍源実朝が暗殺された際の警備最高責任者であった景廉は実朝の霊を弔うため出家し、覚蓮房妙法と号しました。承久三年 (一二二一) 五月、鎌倉から牧之郷に帰った景廉は、再び地頭職に就きましたが、八月三日に没し、この地に葬られました。この五輪塔は、狩野川台風によって流され、散乱したものを住民がここに集め、流失部分を補完して祀ったものです。昔、この付近に金剛寺という大きな寺があったといわれ、天明五年 (一七八五) この墓の下から、景廉の孫である善願上人の蔵骨器 (舎利瓶) が発見されました。この舎利瓶は県指定文化財に」指定され、現在修善寺郷土資料館に展示されています。」現在、ここ牧之郷に並んでいる五輪塔は、1958年(昭和33年)の狩野川台風によって流され、散乱していたものを住民によって集められたもの と。「讃景廉公 吉岡?星 鎌倉名将景廉公 翁目牧郷輪塔中 物挽星移垂八百 豆州挙仰武功雄」と。墓の前を「伊豆箱根鉄道駿豆線」が通過。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.20
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「古奈 湯谷神社」を後にして、南に300mほどの場所にあった「西琳寺」を訪ねた。西琳寺は、810年(弘仁元年)に弘法大師が草庵を結んだという地に建てられた寺。弘法大師が刻んだ弥勒菩薩にちなんで弥勒寺と名付けられ、弥勒菩薩の伝説から山号を西琳山と称した真言宗の寺院だったが、1748年(文明10年)、本願寺八世の蓮如の教化によって浄土真宗に改宗され、西琳山弥勒寺から弥勒山西琳寺と改められた。静岡県伊豆の国市古奈38。「山門」前には「弥勒菩薩参道」碑があった。ここ、麓の西琳寺山門から奥にあった弥勒堂までは「弥勒菩薩参道」として整備されているのであった。「西琳寺の由来真宗大谷派 弥勒山 西琳寺弘元午(八一〇年)弘法大師は当地の山中に草庵を結んで滞在された。里の人々は大師に深く帰依し、一宇のお堂を建てて上げた。これが当寺の始まりで、大師の刻まれた弥勒菩薩にちなんで弥勒寺と名づけられた。弘仁三年の初春、大師は草庵を第子の海心に与えて修善寺に移られた。北條斉寄は子がないので弥勒菩薩に祈願したところある夜奥方が当寺の後ろの山から光る玉が飛んで来てロの中に入ると夢見て懐妊し、男の子を生んた。斉寄は大いに喜び、西の山から玉が飛んで来たというので、西琳山という山号を贈った。(球は美しい玉の名)のち源頼政の子孫、稲垣頼忠が出家して当寺に入り文明十年(一四七八年)本願寺第八世蓮如上人の教化を受けて真言宗から真宗に改宗した。その時に寺の称号も徒来の西琳山弥勒寺を弥勤山西琳寺と改めて今日に至っている。現在の本堂は明治初年に完成したものである。弥勒堂の由来西琳寺寺の背後の山の中腹にある。弘仁年間、弘法大師が当地に滞在されたとき、高さ一丈(三メートル)の自然石に弥勒菩薩の尊像を彫って安置されたと伝えられる。この弥勒菩薩は日本三体の一言われて古くから諸人の崇敬を集め、源頼政の妻あやめ御前も深く信仰したという。現在も近隣の人々はもとより、遠く京浜地方からも、参詣する人が絶えない。この像は、美術的にもすぐれた価値を認められ、町の文化財に指定されている。弥勒菩薩は釈迦入滅の後、五十六億七千万年を経て、この世に出現し、衆生を済度すると言われる仏である。境内には左記の旧跡があります。あやめ御前 供養塔六代目 美女桜」「山門」。扁額「弥勒山」。「手水舎」が参道右側に。「本堂」。「寺務所」。「親鸞聖人像」。お顔をズームで。「永代供養墓」。「南無阿弥陀仏」、「倶会一処(くえいっしょ)」と。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)。今は寂しいお別れをしますが、またいつか、お浄土(天国)でお会いできますよ。先にお浄土に行って、往生している先祖たちと、同じ浄土で往生させていただきますよ。そんな意味であると。「慰霊塔」。「あやめ御前 供養塔」。ここ、伊豆の国市の西琳寺には、伊豆の古奈(こな)の生まれで、都に上り鳥羽上皇に仕え,後に源頼政の妻となった「あやめ御前」の供養塔があった。あやめ御前は、院で最も美しい女性だったと。美人で貞操だったあやめ御前の霊を慰めようと、心ある人たちの浄財によって供養塔が建てられた。西琳寺の周辺には「あやめ小路」をはじめとして、「あやめ」がつく店や共同浴場などがあったり、「源氏山」と呼ばれる丘陵があったりして、歴史に思いをはせることができるのだ と。「弥勒堂」。本尊の弥勒菩薩は弘法大師が高さ約3メートルの自然石に刻んだもの。源頼政の側室菖蒲御前の念持仏であったと伝えられている。源頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏(参考:六孫王神社)。平清盛に信頼されて、平家政権下で清和源氏としては突出した従三位に叙せられ、源三位(げんざんみ)と呼ばれた。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の源氏の長老・源頼政を演じる品川徹さん。平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。以仁王の令旨を受けた源頼朝は、1180年(治承4年)8月17日に挙兵。石橋山で大敗したものの、安房(源頼朝上陸地)に渡って軍勢を整えると10月6日には相模国に入り、鎌倉を本拠と定めたのであった。そして、この日の最後に訪ねたのが「最明寺」。最明寺は、鎌倉幕府五代執権北条時頼の遺骨を分骨するために建てられた寺。当初は臨済宗の寺だったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めで焼失した後、1605年(慶長9年)に日遠が再興して日蓮宗に改宗されたのだという。山号は東光山。「山門」前には「北條時頼公之墓」碑。「山門」の右側に建つ「若宮八幡大菩薩」。内陣北条時頼は兜の八幡座(兜の鉢の頂上)に若宮八幡大菩薩を奉安していたという。「八幡大菩薩」と書かれた提灯が対で奉納されていた。「最明寺」の前、道路を隔てた南側には「順天堂大学医学部附属 静岡病院」があった。ここに急性心筋梗塞で救急車で救急搬送され、緊急手術を行い、生還した方を知っているのである。ネットから航空写真を。円形の部分がドクターヘリの離着陸場所。静岡市から東の静岡県東部を主に担当。静岡県西部は聖隷三方原病院に基地を置く静岡県西部ドクターヘリが担当。双方が協力しながら静岡県全域をカバー。治療の関係上、隣接県へ患者さんを搬送する場合もある。基地病院より下田まで(約40km)、出動要請から約15分で到着する と。院内配置図。こちらが救急外来の新棟・H棟。こちらが一般病棟のC棟・H棟。「本堂」。本尊は十界勧請曼荼羅。『吾妻鏡』によれば、赤痢を患っていた北条時頼は、1256年(康元元年)11月22日、執権職を辞任。翌日、鎌倉の最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家し、「最明寺入道」と呼ばれるようになる。それから7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺の北の屋敷で37歳で亡くなった。『吾妻鏡』には、 坐禅をくみながら臨終をむかえたことが記されている。「窪田空穂 歌碑」「最明寺 寺うらにしてさヽやけき 五輪の塔を 苔に見出でぬ」苔むした時頼の墓を見て、遙かな時が墓を建てたその昔の人びとの思いをも遠くへ追いやってしまったことへの感慨と同時に、空穂の時頼に対する敬慕の気持ちが伝わってくる歌である。題目碑「南無妙法蓮華経」。「伊豆長岡温泉 源氏山七福神「布袋尊」」案内。「布袋尊」像。さらに近寄って。「最明寺時頼入道之墓」碑。墓地への門に向かって進む。左手に大きな墓石が。「陸軍歩兵上等兵 勲八等 功七級 渡邉清次郎之墓」「町指定史跡 北条時頼の墓鎌倉幕府の五代執権北条時頼の墓と伝えられている。時頼は賢母の誉れ高い松下禅尼を母とし、文武を奨励、善政を行なった。建長寺と開山蘭契道隆(大覚禅師)に深く帰依し、出家して「道栄」と号し、世に最明寺入道と称せられた。謡曲「鉢の木」で有名なように、出家後は密かに諸国を巡回して政治民情を視察したといわれる。北条氏発祥のゆかりの深いこの地の人々が、名執権の誉れ高い時頼の徳をその分骨を幕府に願ってこの地に墓を建てたものという。萩原麦草の句碑最明寺 時頼よりの 時雨ふる萩原麦草は、明治二十七年、川西村(現伊豆長岡町)小坂に生まれた。若くして俳句の道に入り、後上京して波郷、草田男らとも交遊し、中央俳壇にも知られるようになった。戦後、故郷の小坂に帰り、郷土の俳句指導に尽力し、晩年静岡県俳句協会の代表となった。昭和四〇年没。句集に「麦嵐」、「枯山仏」がある。昭和五二年一月、弟子、友人達によって句碑が建てられた。「上田五千石 句碑」。「時頼の 墓へ磴積む 落椿」北条氏にゆかりの深いこの地の人々が、時頼の徳を慕い、その分骨を幕府に願い出てこの地に建てたという最明寺入道時頼の墓。その墓の上にうち重なるように落ちた椿の花があたかももう一つの石塔のようだ と。「最明寺時頼入道之墓」碑。鎌倉幕府五代執権北条時頼は、1227年(嘉禄3年)5月14日に誕生。父は北条時氏。四代執権北条経時の弟。母は松下禅尼。幼名は戒寿。時頼が生まれて3年後に父時氏が亡くなったことから、祖父の北条泰時に養育される。正面が「最明寺時頼入道之墓」。北条氏にゆかりの深いこの地の人々が、名執権として誉れ高い時頼の徳を慕い、その分骨を幕府に願い出てこの地に墓を建てたのだという。「宝篋印塔」の墓。北条時頼は、1227年(嘉禄3年)5月14日、北条時氏の次男として誕生。母は松下禅尼。兄に四代執権の北条経時がいる。1246年(還元4年)3月23日、重病となった兄経時から執権職を譲られ五代執権に就任する。1256年(康元元年)11月22日に執権職を辞して出家するが、政治の実権は握り続けていた。『吾妻鏡』は、時頼のことを「平生から武道をもって君を助け、仁義を施して民を憐れみ、天道の理にかない、人望があった」 と記し、臨終に際しては、「手には定印(じょういん)を結び、辞世の頌(じゅ)を唱えて即身成仏のめでたいしるしを示したことは、神仏の再誕である」 と記している。その先の斜面一面に墓地が広がっていた。「萩原麦草 句碑」「最明寺 時頼よりの 時雨ふる」この時雨は時頼の頃も降っていたことだろう。老松は幾代を経て今日に至っている。それに比べて人の無常は感に堪えないというのである。麦草(1892~1965)は当地小坂に生れた俳人。お地蔵様。この日の最後に「最明寺」の「山門」を振り返る。この日の予定を全て完了し、近くにあったビジネスホテルに向かったのであった。そして、コロナ対策のため外には出ず、コンビニで買った酒、ツマミ、夕飯でホテルの部屋で、この日の反省会を旅友・先輩と行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.19
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次に訪ねたのが、北江間地区に鎮座する「珍場神社(ちんばじんじゃ)」。「珍場神社」は、元久元年(1204年)に北条義時の嫡子・安千代丸が大蛇に呑み込まれ亡くなった事から、安千代丸の霊を若宮八幡神として祀るため建立したと伝わっている。また珍場神社は、明治時代初期頃までは今と違って『第六天社』と呼ばれていた と。静岡県伊豆の国市北江間1171。「珍場鎮座 若宮八幡 子神第六 大鵡大神 三社神社」碑。若宮八幡(安千代丸)、子の神(この地に住んだ最初の居住者を十二支の最初と表現)、大鵡大明神(正体不明の主神)の三社を祀っているのだと。「珍場神社鎮座地 伊豆長岡町北江間一一七一番地御祭神 伊耶那美命(いざなみのみこと) 若宮八幡 子の神第六天・大鵡大明神例祭日 十月十日由緒当神社、元は第六天神社と称したが明治十二年珍場神社と改称した私達の御先祖が此の地に住み初めた時、子は十二支の始め村人も亦住居の始めであると子の神第六天神を氏神としてまつりの各家の安全と子孫の繁栄を祈願された。又元久元年当地の領主北條義時は長男泰千代丸の不遇の死を悲しみ、神社を建立し若宮八幡に擬してその霊を祀ったという。大鵡大明神の記録はないが画像が現存している」「珍場神社珍場神社は伊邪那美命(いざなみのみこと)・若宮八幡(わかみやはちまん)・子ノ神大六天(ねのかみだいろくてん)・大鵡(おおむ)大明神の四柱を祭神とする神社です。神社の由緒書によれば、珍場神社は、元久元年( 1204 )に北条義時が大蛇に襲われて亡くなった長男安千代の死を嘆き、若宮八幡神として祀ったのがはじまりと伝えられています。安千代に似た木像を彫刻して若宮八幡神とした、という言い伝えもあります。」石段の上に「社殿」。内陣。「社殿」前から。「二代執権 北条義時 生誕の地」幟。そして南下して訪ねたのが「古奈 湯谷神社(こな ゆたにじんじゃ)」。静岡県伊豆の国市古奈1。手前にあったのが「頼朝の湯 本陣」。「頼朝公本陣入浴の図」をネットから。多くの名だたる武将などの名士たちが訪れたことから、やがて「本陣」を名乗るようになり文治期(1187年頃)には源頼朝公がこの地に長逗留し、当館を宿舎としてこの温泉に入浴したと伝えられています。「古奈 湯谷神社」の手前の左手には大きな石切り場跡らしきものがあった。近づいてみると四角い穴が。中の凹んだ場所には石灯籠が鎮座。円盤状のものには仏の姿が。そして「古奈 湯谷神社」の石灯籠前まで戻る。右手にあったのが「古奈の元湯」と刻まれた石碑。「古奈の元湯この旧ポンプは伊豆長岡温泉発祥の温泉趾として記念すべき処です。昭和初期に源泉を掘削して揚湯したものです。昭和三十年の初め頃まで薬湯が出ていました。火傷によく効き子宝の湯としても知られていました。」手前に「揚湯ポンプ」。場所を変えて「揚湯ポンプ」と「温泉湧き出し口」を。奥には「伊豆長岡温泉発祥の温泉跡」。「あと」の漢字の多さにいまさらながら。址 , 阯 , 後 , 迹 . 痕 , 趾 , 跡 , 墟 . 踪 , 蹟 , 蹤 ・・・と。どの様に使い分けているのであろうか。「古奈の元湯この源泉は古来亜州古奈湯と呼ばれ伊豆の国では、伊豆山の走り湯、修善寺の独鈷の湯と共に三名湯のひとつとして特にその薬効をうたわております。蛭ヶ島流刑の身となった源頼朝公も入浴されたことが、鎌倉時代の文書吾妻鏡に記されております。この案内書の付近は昔の共同風呂の跡地で、この下の岩盤の割れ目から温泉が湧出していた。浴槽の底に格子状に工夫されたものを洗浄の時に取り外すことが出来る様に、埋め込み底からも温泉が絶えず出ておりました。この湧出は大正時代の末頃まで続いていたわけですが、各所に新源泉が堀削されたため止まってしまいました。」「伊豆石のツル目跡石表面の斜め模様はツルハシにより人力で掘り出され削られた跡です。」この案内板の後ろには、ツルハシにより人力で掘り出され削られた斜め模様の跡が。ツルハシ(鶴嘴)は堅い土面を掘り起こしたり、岩石を掘削する工具。弦状に湾曲した鉄の両端を尖らせたものと、片方だけをとがらせたものがあり、そのとがった様子が鶴の嘴に似ることから、この名がある。いずれも、中央部に木製の柄が付いている。前者は「鶴」、後者は「鳶」または「ばち」という名でも呼ばれている。そして「古奈 湯谷神社」の散策開始。「村社 湯谷神社」碑。「湯谷神社祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)・少名比古那命(すくなひこなのみこと)相殿 住吉神社例祭日 十月十日 奉祭地 古奈一番地大己貴命は大國主命の別の御神名ですが神仏習合の時代となってから卋に大黒様として親しまれている神様です。また命は温泉と医薬用に用いることを始めて人々に教えられた神として崇められ全国の古い温泉地ではおゝむね祭神として祀られております」石鳥居。石灯籠。石段の上にさらに石段が続いていた。夕方になり、ライトも点灯。「湯谷神社の由来旧称二社権現といった湯谷神社の歴史はきわめて古くいまだ創建は詳かではないが村社加列は明治6年のことで、現在、大己貴命、少名比古那命が祭られており神無月十日は毎年祭礼が行われる。」右手に「手水舎」。その先に「恵比寿神」。「恵比寿神清廉を表わし商売繁昌をもたらす神 日本古来の神とされ本来は漁村の神でしたが後には大黒天と並んで商売繁昌の神となりました。左手に抱えている鯛は”めでたい”ですべてのめでたいことを授ける心を表しています。」「恵比寿神」に近寄って。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。正面に「拝殿」。「御神木」は・・・・・切断された上部は金属製の蓋が被されて。「湯谷神社ご神木についてこのご神木(杉)は威風堂々と天に聳え、三百年余の歳月地元氏子の信仰の対象として生き抜いてきた。しかし平成ニ十九年(十月例祭を前に)九月下旬蜂の駆除の際、ご神木に火が移り大火となる。懸命なる消火活動のお蔭で無事に鎮火した。焼けた根株を保存し今後の教訓とすべく地元の総意に基づき整備するものである。(伊豆長岡町史より)胸高周囲 四八四センチメートル根廻り 七四〇センチメートル樹高 三、六〇〇センチメートル (平成四年計測)」扁額「湯谷神社」。内陣。絵馬掛所(えまかけどころ)。そして、石段を降りて、「古奈 湯谷神社」の隣・東側にあった「頼朝の湯石切場跡」を訪ねた。石切り場としての歴史も古く、江戸城築城の際には産出された伊豆石を献上したのだと。巨大な穴が地下に向かって掘られていた。ツルハシの跡が鮮明に見えるが、この規模を人力でやるとは!!この場で、コンサート等も行われていたのであろう。穴の奥には入らず、カメラのズームで。石切場への入口から「湯谷神社」の石鳥居、そして上方に「社殿」を見る。「社殿」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.18
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北条義時が創建したと伝わる「豆塚神社」に、「江間郷土研究会」が「北条義時歴史館」をオープンしていた。町屋区の山車小屋として使用していた境内の倉庫を「北条義時歴史館」にしたのだと。北条義時公の歴史的功績を地域住民をはじめ全国に周知することにより、江間地区を全国に PRするとともに、江間地域の文化財の保護や活性化につなげ、次世代に継承することを目的として「江間郷土研究会」がスタートしたと。。「梁銘板拡大図」や「系図」などを展示するほか、御朱印の授与も行っていた。「北条義時歴史館」内には。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の各回のストーリー解説が素晴らしい出来栄えの「感想絵」とともに展示されていた。第1回 〈大いなる小競り合い〉 2022.1.9 放映時間60分佐殿(頼朝の官位)が北条館に匿われたシーンから始まる。伊東祐親から密かに北条の地に逃げ、義時の兄三郎宗時が匿ったのであった。父北条四郎時政が、都での大番役を終え北条に戻ってきた。これを祝い、三浦介義澄等を招き北条館で宴が催された。佐殿のことは知らせていない。そこに、みすぼらしい姿の工藤祐経が現れる。印象的にシラミの浪人である。実は、この工藤祐経の父工藤ニ郎祐継(伊東・河津・宇佐美の領主)は、若くして亡くなり、嫡男祐経が家督を相続したのであった。このときに後見役として、河津ニ郎祐親(後の伊東ニ郎祐親である)が就いたのだ。15歳になると祐経に次女萬劫を嫁がせ、祐経を京の平重盛の大宮御所に伺候(高貴な人の側に仕える)させて、この間に祐親は、相続した祐経の領地を押領し、名前を伊東に改称したのであった。祐経は、これに気づき抗議をするが、祐親は、萬劫を離縁させ、土肥遠平に再嫁させてしまう。土地も嫁も失った祐経は、後見役の祐親の暗殺を企て、狩りの帰りに矢を放つが、祐親の嫡男祐泰を誤射して殺してしまったのである。何と祐泰の子息が、富士野の巻狩りで仇討ちを成し遂げた十郎・五郎の曽我兄弟であった。工藤祐経は誅殺されたが、次女萬劫の妹が、三女八重である。八重は、佐殿の間に、御曹司千鶴丸を生んだのであったが、3歳のときに大番役から戻った祐親の庭で遊ぶ子を不審に思い、平家を怖れ、この御曹司を家臣に命じ、伊東松川の上流の轟が淵に生埋めにしたと伝わるのであった。平氏家人である祐親は、佐殿を捉えるために、北条館に押しかけるが、佐殿は、義時の馬に相具して、ドヴォルザーク交響曲第9番"新世界より"第4楽章のクラシック音楽に乗って、山間の草原を逃げ去るのであった。この撮影場所が、達磨山近くの沼津市西浦河内の金冠山と言われる。なんと映像に、戸田湾が映り込んでいたのであった。」真田丸からの大河ドラマ&時代劇ファンでドラマなどの「感想絵」を趣味で描いている方の作品であると、現場の係の方から。ネットで調べてみると「KEI-CO (@keico)」👈リンク さんの作品。素晴らしい出来栄えに感激したのであった!!以下ネットから転載させていただきます。「鎌倉殿の13人 第1回 大いなる小競り合い」。 【https://twitter.com/keico/status/1480155398237990922】より北条家の人々。 【https://twitter.com/keico/status/1480462904013234184】より「第2回〈佐殿の腹〉 2022.1.16 放映時間45分佐殿を連れて逃げた義時は、富士の裾野にいた。そこへ突然、山内須藤経俊の矢を放たれた。佐殿の乳母の子息であった経俊は、源氏の再興を願い、佐殿の挙兵を待つと促すのである。鎌倉の山内荘を所領とする豪族であり、通称滝ロ三郎と称された。後に、佐殿の挙兵にあたり、高祖父義家の父頼義時代から河内源氏の家人であり、縁の深い山内須藤経俊の、協力を窺うが、参陣を拒否されるのであった。北条館では、伊東祐親と北条時政が、佐殿をめぐり、一触即発の危機にさらされる中、相模国の大豪族大庭景親が北条館に現れ、仲裁にかって出る。これによりひとまず治まることとなるが、これは、三浦義澄と義村父子が。北条が佐殿を匿っていることを大庭景親に告げたのであった。だが、この仲裁により佐殿の監視役が伊東祐親から北条時政に移ったのである。伊東祐親は道中で、工藤祐経が襲い、はねのけられ退散をするシーンがある。後の祐親暗殺を予感させる印象的な場面である。また、父祐親は、ハ重に向い、佐殿は北条が預かることになったので、ニ度と合ってはならぬと告げる。さらに八重には、嫁に行ってもらうことも告げたのだ。ハ重が、御曹司千鶴丸に合せるようにと懇願するが、父祐親は、孫千靏丸は、伊豆山権現に出家させたと告げるのであった。殺していないのだろうか?この後、義時は、兄宗時からハ重が嫁ぐことが決まったことを知る。相手は、見張りに就いていた家人の江間次郎である。不憫なハ重の望みを叶えて上げたいと、三日後に武蔵国の圧企尼館で佐殿と合わせる計画が告げられた。義時は、佐殿に比企でハ重が会いたいことを告げると、佐殿は、比企に出向くことを断るのであった。義畤は、比企に伝える道すがら伊豆権守堤信遠の一団に遭遇する。堤信遠は平相国清盛に近く、流人山木平兼隆の後見役でもあった。義時の挨拶が非礼として、無理に水溜りに押しつけるシーンが、この後の佐殿挙兵で、平家追討の矢が倣たれた最初の標的が、この堤信遠であったのだ。」「鎌倉殿の13人 第2回〈佐殿の腹〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1482702249046339591】より第3回く挙兵は慎重に> 2022.1.23 放映時間45分都に激震が走る。平清盛が後白河法皇を幽閉した”治承3年の政変”である。この間に清盛の孫を帝(安徳天皇)に即位させたが、1歳と3ヶ月であった。治承4年(1180)年、佐殿と引き離された八重は、江間次郎に嫁いでいる。江間は狩野川を挟んで北条館の対岸にある。北条館では、狩りを終えた北条宗時、畠山重忠、工藤(狩野)茂光、和田義盛、三浦義村が酒を飲み交わすシーンで、工藤茂光が、妙な坊主を見かけたぞ。首から下げた袋に、源義朝様のドクロを持つとする文覚上人であった。北条館では、山伏の姿をした行家が、館を訪ねてきたのである。政子や佐殿は、行家を不審がるが頼朝の父義朝の十番目の末弟にあたる河内源氏の十郎義盛であった。源氏の嫡子となるが、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を給わるときに改名をしていることが『源平盛衰記』の『行家使節の事』として載る。ここで行家は、来る6月に以仁王が挙兵することを告げる。これは、平相国清盛により院が停止され、後白河法皇の幽閉を解く、平家追討の挙兵であった。行家は、『以仁王様の御令旨であるぞ。受け取る方も、それ相応の礼を以て致すべし』に応じ、佐殿は、武士の正装、水干に装い、まず男山(現大男山)に遥拝奉り、謹んで披閲するのであった。これは『吾妻鏡』に記される。この令旨は、十郎蔵人行家により、各地の源氏に届けられたのである。攝津源氏の源頼政や子息仲綱(伊豆国知行国主)も院に御方をするのであった。この時、頼政は76歳である。以仁王の挙兵は、あっけなく鎮められ、頼政も宇治の平等院で自害したことが、都にいる下級役人三善康信から佐殿の北条館に知らされたのであっった。大番役の勤めを終え、京から戻ってきた大庭景親は、頼政の謀反が鎮められ、伊豆国知行国主が平時忠(清盛の正室時子の弟)に代わり、散位であった平兼隆が目代に就いたことを知らせる。私設の令外官であったと言える。東国各地でも、後白河院の知行国が衰退し、平家方へと入れ替わっていった。義時は、石高から兵の数を推定し、佐殿は、挙兵の意思を固めたのであった。」「鎌倉殿の13人 第3回〈挙兵は慎重に〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1485230758583160836】より第4回く矢のゆくえ> 2022.1.30 放映時間45分一同が集まり、御籤を振り混ぜる音が静寂を破る。挙兵の日にちを決める御籤が行われた。「いざ」時政の声が上がる。”牧の方”(りく)が差し出す壺から、佐殿が1本を引き抜く。”拾七"とある。それは治承4 (1180)年8月17日を示しているのであった。三島明神の祭りの当日である。挙兵の相手は、平家の目代山木判官平兼隆である。※目代とは私設の地方官そこへ小四郎(北条義時)が、「堤信遠を討ってしまったらいかがでしようか?」堤信遠は、目代の後見役であった。この際に平家に与するものはこうなると広くしらしめることとなるのであったが、これは堤信遠のごう慢な態度への仕打ちである。ー同一団となり、相模国鎌倉を目指すのであった。ところが前日に集まった兵は、北条から9人、仁田が4人、加藤が5人、合わせて18人であった。少なすぎると佐殿が嘆く。政子は、ハ重を気にして小四郎に問う、「八重さんは、江間に嫁いだと言うことですから、江間にいるでしようね」その後、小四郎は、道の途中で八重と会うが、「仮の話となるが、戦になれば北条と江間が争うことになるでしよう。」と八重に注意を促す。さらに、相模国土肥實平は、挙兵に同意してないことがわかると小四郎は、佐殿に頭を卞げることを伝えるが断られる。だが、佐殿は、土肥實平や岡崎義實ら個々に、「誰にも洩らすな。お前の武勇は耳に入っておる、力を貸してくれ、お前だけが便りじゃ。一緒に戦ってくれ」を繰り返し、同意を得るのであった。藤九郎盛長が、相模国山内須藤経俊館に出向き、わが殿のもとで平家を倒しと協力を窺うが、頼朝は流人ではないか?富士山に犬の糞が喧嘩を売っているようなものだと拒否する。北条館に佐々木4兄弟や工藤茂光が加わるが、兼隆が山木に在宅していることが重要であった。これを小四郎は八重に頼むのである。兼陸の在宅を知ったハ重は、北条に向かって矢を放つ。挙兵が開始されたのだ。まず、後見役堤信遠に放たれた一矢が、源平の戦いの始まりであった。」「鎌倉殿の13人 第4回〈矢のゆくえ〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1487763352558268420】より第5回 く兄との約束> 2022.2.6 放送時間45分堤信遠への一矢が放たれ、「かかれ!」の宗時の雄叫びにより、源平の戦いが始まった。弓箭と刀剣の討ち合う音に、喊声が交じる。炎が激しく揺れて唸る。堤館の方より炎が上がる。頼朝「もう後には引けぬ」緊張のシーンである。時政らが信遠を斬り捨て、「小四郎止めじゃ。武士の情けじゃひと思いに行けっ」に小四郎の太刀が振り下ろされた。倒れた信遠の首を時政が斬り落とす。山木兼隆の首級と信遠の首級が並ぶ。初陣の夜襲は大勝利に終ったのだ。19日に頼朝は、兼隆の親戚、史大夫中腹知親に対し、「下す、蒲屋御厨の住民等の所、早くの知親の奉行、早くの知親の奉行を停止すべき事等、安堵すべきものなり」が、頼朝から下知された。(吾妻鏡)これにより東国は、頼朝が沙汰することと宣言をしたのであった。大庭景親、伊東祐親、山内須藤経俊ら平氏家人怒りをあらわにして、頼朝を成敗しろと梶原平三景時に命じる。この時、大庭軍3000対頼朝軍300の兵であった。小四郎は、政子らを伊豆山権現に送ることとなる。江間に住むハ重に、山木の勝利の御礼を告げるために頼朝が農民に化け出向くと八重と会って程なく、江間次郎が帰宅したのであった。慌てて逃げる頼朝。一方、祐親亭では、善児(不詳の者)を刺客とし、宗時の誅殺を命じる。八重には、父上の命により、江間から伊東に移って直くことが告げられた。「戦が始まるのですね」と、ハ重の問いに、江間次郎から挟み撃ちの作戦を聞き出したハ重は、佐殿を助けるために舟に乗り込むのであった。大雨の空の館。伊豆山権現の僧、文陽房覚淵に匿われた政子らは、寺女として過ごすために、寺女の衣装に着替え、寺の掃除など修行に務めるこことなる。頼朝勢は大雨の中、石橋山で陣を構える。三浦勢は、増水で酒匂川が渡れない。敵を前に時政が「我が主は、清和天皇が第六の皇子貞純親王の御子たる六孫王の七代の後盾八幡太郎義家様四代の御係、先兵衛権佐源頼朝殿なるぞ」と名乗るのであった。が、圧倒的な不利な戦で、逃げ場を失う。時政と小四郎は、援軍で甲斐武田に向い、宗時と茂光は、河原で刺客善児に討たれた。『吾妻鏡』では、早河の辺で、小平井の名主紀六久重に討たれ、茂光は自害するとある。」「鎌倉殿の13人 第5回〈兄との約束〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1490318258901164035】より第6回く悪い知らせ> 2022.2.13 放映時間45分山内須藤経俊ら大庭軍が迫る石橋山の”ししどの窟"に身を潜める佐殿らは、敵方梶原景時に見つかったのだ。だが、何故か?そのまま見逃すのである。甲斐源氏武田信義の陣にたどり着いた時政と小四郎は、「わが軍と手を組みたいと聞いた。」とする信義に、「是非ともお力を貸して欲しい」と時政が願い出るのであった。が、信義は「源氏の棟梁は誰か?」と問うのである。小四郎が、「佐殿はご自身で平家討伐軍を率いるご決意」と応えるのであった。佐殿が、院宣(上皇や法皇から発せられる命令書)を持っと聞いた信義は、「法皇様の院宣」の引き渡しを時政に迫るのであった。また、北条を助けてやるが、われの家人になれとの要求も、時政はあっさりと了解してしまうのであった。これで北条は安泰とする時政であったが、小四郎は、不安が増すのである。窟に身を隠す佐殿は、北西に25里難れた筥根権現へ逃れようとするが、敵方が多く、途中で窟に引き返してくるのだった。甲斐国の帰り、佐殿を運ぶ舟を準備した三浦義村(平六)と浜で小四郎が出会う。安房国の安西景益は、我らの御方、そこで立て直すと平六が告げる。一方伊豆山権現に寺女で匿われた政子のもとにハ重が訪ねて来るのだった。政子に、佐殿が夢枕に立たれたことを伝えるためであったと告げるが、同じものを見たと、政子が負けずと応じるのである。実は虚言であった。ハ重は、帰りがけに僧覚淵に5年前に3歳になる千鶴丸を預けたが、一目会いたいと願うと、ハ重を一つの立派な墓の前に連れて行くのであった。「来た時には、すでに骸(死体)であった」と告げられると、ハ重が泣き崩れる。小四郎は窟に戻り、佐殿に岩浦浜に三浦殿の舟が待っており、安房に渡ることを告げると、佐殿は、「岩浦とはどこにある?」、小四郎は「ここから岩浦まで東へ25里離れている」と伝えるのだった。再び25里の詞に佐殿はうんざりする。大庭景親は、北条三郎宗時の首実検をすませ、裏切った三浦の衣笠館を攻めるように奸計(悪巧み)に嵌った畠山次郎重忠に命じるのである。佐殿、小四郎、盛長、土肥は、真鶴岬から小舟で安房を目指す。無事安西景益館に辿りついたが、時政は、三郎宗時の安否がわからぬままだった。・・・・・。」「鎌倉殿の13人 第6回〈悪い知らせ〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1492855897525133314】より第7回 〈敵か、あるいは〉 2022.2.20 放映時間45分石橋山で平家方の大庭景親(國村隼)の軍勢に敗れた後、海を渡って安房に逃れた頼朝は、そこで再起を図る。その際、味方になってくれるように手紙を送った相手が、一帯を支配する上総広常(佐藤浩市)だった。大庭方からも声が掛かる中、使者として派遣された主人公・北条義時(小栗旬)の尽力もあり、広常は頼朝に就くことを決意。そして初登場の安房の漁師の娘・亀。庭先を掃除していたところを見初められ、思いがけず頼朝の愛妾(あいしょう)に。妻を寝取られ、怒りに燃える亀の夫・権三(カミナリ・まなぶ)が頼朝の宿に乗り込んできた際、亀は「権三が?」。「人妻だったのか?」と驚く頼朝に、亀は「言ってなかった?」。その後、平家方の安房の豪族・長狭常伴(ながさ・つねとも=黒澤光司)も頼朝の宿を夜討ち。漁師の権三たちと長狭常伴たちとの争いになる中、頼朝は難を逃れた。「敵の大将を討ち取って参ります」という見張りの三浦義村(山本耕史)に、亀は「だったら、ついでにうちの人も討ち取って」と頼むのであった。その後、上総広常は2万の軍勢を率いて参陣する際にわざと遅刻する。その下心を見抜いた頼朝が怒りを込めて発したのが、下記の言葉だった。 「遅参する者なぞ戦場では役に立たん。おまえの連れてきた軍勢を見た。敵に回ればこれほど恐ろしいことはない。しかし、だからどうした。礼儀を知らぬ者とは、天下草創の志を同じうできん。焦らして、己の値打ちをつり上げようとしたか。笑わせるな。さっさと帰れ!一戦を所望なら受けて立とう」。今まで、味方になってくれた武将は肩を抱いて歓迎していた頼朝だが、このとき見せた厳しい態度は、これまでにないものだった。 ここで素直に謝罪した広常は、頼朝から陣に加わることを許される。後に彼は義時に、頼朝の器を試し、棟梁にふさわしくなければその場で討ち取り、首を平家に差し出すつもりだったと打ち明ける。その頃頼朝の弟・源義経(菅田将暉)もついに動き出し、ますます本格化していく源平合戦。「鎌倉殿の13人 第7回〈敵か、あるいは〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1495383399913037825】より「鎌倉殿の13人 第8回〈いざ、鎌倉〉」。ついに鎌倉入り!勢力を増した頼朝勢はこのまま順調に進むのか武蔵の国に入った頼朝勢を討つため、平清盛は追討軍を送ります。義時は頼朝の命を受けて甲斐の武田信義のもとへ行き、無事に頼朝の味方になる約束を取り付け、これにより勝利を確信した頼朝は御所を大倉にすることに決めました。その頃、降伏してきた畠山重忠を受け入れ、相模入りの先陣を任せるなどにより頼朝に不満を漏らす者も出てきますが、義時と三浦義家がみんなで酒を飲む機会を設け、一つにまとめます。そして、石橋山で大敗したわずか1ヶ月半後、頼朝勢はついに鎌倉に入りました。頼朝は鶴岡八幡宮を建立し坂東をまとめ上げ、平家を滅ぼすと宣言します。 【リンク】より「鎌倉殿の13人 第9回〈決戦前夜〉」。水鳥のおかげで富士川の戦いを制する!?対面を果たした頼朝と義経は心を一つに頼朝は平家方を捕らえるために和田義盛と畠山重忠を派遣しますが、義時と三浦義村により伊藤祐親と八重は救われました。平維盛率いる平家の追討軍が迫る中、頼朝軍は武田信義と合流し、翌々日の出陣に合意。ところが信義は頼朝を出し抜こうと深夜に出陣します。そのとき、追討軍の対岸で時政とケンカをしていた三浦義澄が転び、数万羽の水鳥が飛び立ちました。この羽音を奇襲と勘違いした追討軍は退陣。平家軍を一気に追い込むチャンスでしたが、坂東武者たちの兵糧が尽き、断念します。そこへ、ついに義経が現れて頼朝と対面。父親の仇を討つことを涙ながらに誓うのでした。 【https://mobile.twitter.com/keico】より「鎌倉殿の13人 第10回〈根拠なき自信〉」。富士川の西岸に陣を構えていた平維盛率いる追討軍が退却。『吾妻鏡』〈治承4年(1180)10月21日条〉によると、これを知った源頼朝は、坂東武者たちに平家軍の追撃をかけて上洛するように命じた。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常ら有力な坂東武者が反対します。その理由は、常陸の佐竹氏をはじめ坂東には頼朝に帰服していない勢力がまだ多数あり、まずは足元を固めるべきだというものです。常胤と広常にとって佐竹氏は、常陸地方の権益をめぐって争う競合相手でした。多くの坂東武者が頼朝に協力したのは、在地支配の安定や所領拡大のためであり、このまま上洛することにはメリットがありません。後白河法皇の救援、そして、平家打倒を目指す頼朝とでは、意識の違いがありました。坂東武者の協力なくして、頼朝の悲願は達成できません。常胤・義澄・広常らの諫言かんげんを受け入れた頼朝は、上洛を断念して鎌倉へ帰還。その途中の相模国府で大規模な論功行賞を行い、従って戦った坂東武者たちの本領を安堵あんどしました。平家の追討軍を見事に退けた源頼朝(大泉洋)。これを聞いた後白河法皇(西田敏行)はほくそ笑み、平家の総帥・清盛(松平健)は都を京へ戻すことを決断。奥州の覇者・藤原秀衡(田中泯)は義経(菅田将暉)の文を一読し、静かに源平の様子をうかがう。そんな中、鎌倉では八重(新垣結衣)が侍女として頼朝のそばで働き始めるが、北条義時(小栗旬)の気づかいに亀(江口のりこ)が疑念を抱くなどそれぞれの思惑が入り乱れていた…… 【https://mobile.twitter.com/keico/status/1502997678527033351/photo/1】より「鎌倉殿の13人 第11回〈許されざる嘘〉」。 【https://twitter.com/keico/status/1505536286731345922】より以下、様々な見事な『作品』を紹介させていただきます。「鎌倉殿の13人 追記①」。 【https://twitter.com/keico/status/1482628701678288897】より「鎌倉殿の13人 追記②」 【https://twitter.com/keico/status/1484825138478518272】より「鎌倉殿の13人 追記③」 【https://twiman.net/user/5857142/1487763352558268420】より「鎌倉殿の13人 追記④」 【https://twiman.net/user/5857142/1490243531188801537】より「鎌倉殿の13人 追記⑤」 【https://twiman.net/user/5857142/1492332915941801984】より「鎌倉殿の13人 追記⑥」 【https://twiman.net/user/5857142/1494869598964903937】より「鎌倉殿の13人 追記⑦」。 【https://twiman.net/user/5857142/1497398981768343553】より「鎌倉殿の13人 追記⑧」。 【https://twiman.net/user/5857142/1499942888976773120】より「鎌倉殿の13人 追記⑨」。 【https://twiman.net/user/5857142/1502453160945758210】より「鎌倉殿の13人 追記⑩」。 【https://mobile.twitter.com/keico/status/1504748257427156994/photo/1】よりそして【鎌倉殿の13人 主な“退場者”】は以下の通り。(番組公式サイトの「登場人物」にあるキャラクターのうち、劇中、その最期が言及された人物。カッコ内は手にかけた人物)<第1話> 千鶴丸(善児)<第3話> 源頼政(宇治の平等院で自害) 以仁王(奈良へ逃げる途中で落命)<第5話> 堤信遠(北条宗時) 山木兼隆(北条宗時?→首桶) 工藤茂光(善児) 北条宗時(善児)<第7話> 長狭常伴(三浦義村)<第9話> 江間次郎(善児)<第10話> 大庭景親(上総広常) 佐竹義政(上総広常)千鶴丸、工藤茂光、北条宗時、江間次郎の命を奪った「善児」(梶原 善さん)。第10話で上総広常に斬首された「大庭景親」(國村 隼 (くにむら・じゅん)さん)。「梁銘(はりめい・りょうめい)」。豆塚神社梁銘とは当神社の由来などが書かれた板で、元文5年(1740)に社殿を修造した際に製作されたのものである。裏面には修築に関わった人物の名前が墨書されている。要点は以下である。①江戸時代には豆塚神社が豆塚大明神と称され、南江間村、北江間村両村の惣鎮守として祭られて おり、神仏混合の影響を色濃く反映して、当祭神は千手観世音菩薩の垂迹(※)であると考え られていること②江間の北条義時が小池堀のある丸山(※2)に鎮座していた神社を館に近い現在の地に移したと 伝えられていること③鎌倉時代以降、永い歳月のながれとともに社殿の荒廃甚だしく、元文5年、財力のあるものから 浄財を集めてこれを基金に社搬の修築を行ったこと北条義時と豆塚神社との関係を裏付ける史料として、また江戸時代頃の当神社の様相を記したものとして大変貴重ある。※1 垂迹・・・仏や菩薩が民衆を救うために、神の姿になって現世に現れること。※2 丸山・・・現在の伊豆中央道江間料金所付近の山。工事によって平坦地になった。「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)。人王八十三代の頃名将相模守江間小次郎義時 千手観世音菩薩垂迹也」(1/3)大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の名が記されている「梁銘板」。「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)」(2/3)「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)」(裏面)(3/3)本願主 禰宜諸岡民部末孫 諸岡氏豊昌 井惣氏子大工 伊奈清八同 伊奈善六同 大芦市右衛門同 小沢八兵衛同 野極勘左衛門脇棟梁 伊奈又七郎両工匠 本棟梁 高井三郎兵衛 浜村利兵衛広吉 奉行 石井半七通永天下禅林之末葉東漸禅寺現住昩無門叟謹書焉」「江間小次郎義時」の文字が。「豆塚大明神梁銘板(りょうめいばん)」解説文。「原文」は下図のごとしと。「梁銘文読み下しの説明 〈大意〉」が続く。「韮山竹灯篭まつり」他のポスター。「頼朝出陣の図」。本年1月15日に「義時歴史館」が開館の新聞報道。伊豆の国市の江間郷土研究会(師岡明弘会長)は15日、同市北江間の豆塚神社に「北条義時歴史館」をオープンする。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の名が記されている「梁鐇板(りようめいばん)」の拡大図やドラマに登場する人物たちの相関図、桓武天皇・源頼朝・義時の系図などを展示する。。「源頼朝」、「北条政子」の案内。「三島明神に参詣する頼朝、政子を見そめる」。「二人の阿波局」 *北条政子の妹と義時の妻(泰時の母)に阿波局がいた?「陽気で、気さくな、この保子は、いまは頼朝の異母弟、全成の妻となり、すでに男の子を生んでいる」と、北条政子の妹・通称保子である。(永井路子著「北條政子)今回のドラマでは、"実衣(みい)と呼ばれる。後に、頼朝の異母弟阿野全成に嫁ぐこととなるが、建久3 (1192)年8月9日に政子、男子を出産する。後の千幡3代将車実朝であるが、阿野上総の妻室(阿波局)御乳付けとして参上する。建仁3 (1203)年9月10日に千幡君を吹挙し、将軍に奉る間、沙汰有り。若君今日尼御台所より遠州(時政)の御亭に渡御す、御興を用いらる。女房阿波局同興に参る。江間太郎殿(泰時)、三浦兵衛尉義村ら御興寄せに候ず。今日諸御家人らの所領元の如く領掌すべき由、多く以て遠州の御書を下さる。これ世上を危ぶむが故なり。」とある。(吾妻鏡)9月7日条の『明月記』によると、「左衛門の尉頼家御薨ず」とあり、次なる将軍を決めるのが急がれる状況にあったと見られる。9月15日には、「阿波局、尼御台所に参リ申して云う、若君遠州の御亭の御座すこと然るべしと雖も、つらつら牧の御方の躰を見るに、咲いの中の於いて害心を挿むの間、伝母を恃み難し。定めて勝事出来せんかと、この事兼ねて思慮の内の事なり。早く迎え取奉るべき由御返答。即ち江間四郎殿、三浦兵衛尉義村、結城七郎朝光等を遣わし、これ迎え取奉らる。遠州子細を知らず周章し給う。女房駿河局を以て謝し申さるの處、成人程は同所に於いて扶持すべき由、御返答を仰せらる。幕下大将軍ニ男の若君(字千幡君) 関東の長者と為り、去る七日従五位下の位並ぶに征夷大将軍の宣旨下さる。その状鎌倉に到着す。」とあった。(吾妻鏡)。ここで挙げられる阿波局は、北条政子の妹(阿野全成の妻)である。だが、義時の側室の阿波局と言われる。幕府内に於いて、このような事がありうるのだろうか?義時と阿波局の間に生れた子泰時は、頼朝の命により、三浦介義澄の孫娘(三浦義村の娘)矢部禅尼を正室に迎える。後に離別をし、安保実員(一説では”阿保”と称す)の女を継室に迎える。だが、義時の側室の阿波局は、御所または幕府の女房とされるが出自は不詳である。ここで、子泰時に係わる阿保の女が、父義時の側室の阿波に誤って伝えられたするが、本来は阿保局が、泰時の母であり、義時の側室であったのではなかろうか?」「鎌倉殿の13人」に登場する北条義時の妹・実衣(みい)=阿波局。演じているのは宮澤エマさん。母方の祖父は第78代内閣総理大臣の宮澤喜一。母は宮澤喜一の長女。父はアメリカ人で元駐日代理大使クリストファー・ラフルアー。「牧の方」 (別称)りく (夫)北条時政 (父)牧宗近 (子)北条政則範 (婿)平賀朝雅ドラマでも、時政が大番役で都に過ごしていたときに、見初めての牧の方(りく)を北条館に連れてくるのであった。父牧宗親が、『吾妻鏡』に登場するのは、寿永元(1182)年11月に、牧の方からの知らせで頼朝の愛妾を知り、政子は牧宗親に命じて、頼朝の愛妾亀の前の住居を破壊する事件を起こした。これに怒った頼朝が、牧宗親の髷を落としたことで時政は舅宗親への仕打ちに一族伊豆北条に下ったと伝わる。この時に義時は従わす、鎌倉に残り、頼朝から称賛された。牧宗親は、『愚管抄』(慈円著巻第五)では牧の方の父とあり、かって藤原宗兼の子頼盛に仕え駿河国大岡の牧(沼津市)を知行していた。『吾妻鏡』では、牧の方の兄弟とされる。ここで、地方の小さな豪族である時政に、藤原道隆につながる牧の方とは、位や年令が不似合いのために、裏に何らかの工作があるとする見方もある。牧の方の子政範は、16歳で従五位下に叙され、年上の義時と官位が同じとした。(後に義時は従四位下となる)政範は、実朝の遣いにより上洛するが、都で夭死(若死に)する。これにより時政は、牧の方の娘婿平賀朝雅を将軍へと擁立を企てるが、実朝方の政子、義時に知られ失脚する。これにより時政は伊豆に幽閉され、牧の方は時政と離縁して都で出家したと伝わるが、娘婿平賀朝雅は誅殺されたと言われる。」大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で宮沢りえさん演じるりく(牧の方)。「北條義時と八重(姫)の系図(略)」。現在地は左側が北方向。時間があれば、もっとゆっくりと「感想絵」を楽しみたかったが、帰宅してこのブログを書きながら、大いに楽しませて頂いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.17
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「北條寺」を後にして次に訪ねたのが「江間公園」にあった「北条義時邸跡」。北条義時は、伊豆国北条郷の豪族北条時政の次男。江間四郎あるいは江間小四郎と呼ばれた義時は、分家の江間家の初代だったと考えられている。菩提寺の北條寺の近くにある江間公園は、「北条義時邸跡」があった所と伝えられる地。 静岡県伊豆の国市南江間768−4。「北條義時(江間小四郎義時)屋敷跡 江間村尋常髙等小学校跡」碑が公園の北東の角にあった。石碑に近づいて。「北条義時館跡北条義時は、江間小四郎義時とも呼ばれ、江間に館があったと言われています。『増訂豆州志稿』(明治21 ~ 28年刊)に「北条義時ノ宅址ハ江間村町屋ニアリ、今尋常小学校ノ敷地トナル」と書かれていることから、現在江間公園となっているこの付近が北条義時の館と推定されています。公園の一角に「北條義時(江間小四郎義時)屋敷跡」と彫られた碑が建っています。」「北条家 略系図」。「北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。特に独裁権をふるった頼朝の死後は源氏以外で初の国守に任官したり、政策機関としての13人合議に親子で名を連ねるなど、並び御家人から一歩抜きん出た勢力となっている。頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。3代執権北条泰時は御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。北条氏は、得宗と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出した。なお、これらの分流はすべて時政以降のものであり、一族が膨れ上がる中でも、それ以前の北条家の流れはまったく歴史に登場していない。得宗家の家臣は御内人と呼ばれ、しばしば得宗の代官として得宗家の所領や守護所などに派遣されている。また、得宗家の家政を取り仕切る最高責任者は内管領と呼ばれ、長崎円喜のように権力を振るうものも現れた。摂家将軍・頼経、頼嗣は成長すると独自の政権運営を指向し、執権に反抗的な態度を取る。第5代執権・北条時頼は第5代将軍・頼嗣を追放し、宗尊親王を第6代将軍に迎える事で、この危機を乗り切り朝廷との関係を固めた(皇族将軍)。第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。時宗の息子第9代執権・北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。これらにより、御家人層の没落が進行し、没落した御家人の中には御内人になる者もあらわれる。貞時の子・第14代執権・北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて1333年(元弘3年/正慶2年)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。最後は、東勝寺合戦において敗戦し北条一族のほとんどは討死、また直後に自害し北条氏は滅亡する。」と ウィキペディアより。その横にあったのが「国指定天然記念物 地震動の擦痕(さっこん )」。静岡県伊豆の国市南江間809−2。「地震動の擦痕 解説昭和五年三月十日忠魂碑建設の時に海軍より魚雷を下附され附属物として展示されていた この年十一月二十六日北伊豆地震が起こり台石が針となって魚雷が震動し魚雷腹部をけずり擦痕をつけて自然の地震計となった 天然記録としてきわめて珍しく昭和九年一月二十二日国の天然記念物に指定された魚雷は台石の上に頭部を南五度東に向けて安置され地震に対して不動点となったため擦痕を印した擦痕の曲線は左下方より始めて一往復半の後四回の一進一止をくり返して合計七七二五ミリの移動を示した この曲線は地震動の実大を示したものではない」「天然記念物 地震動擦痕」を展示する建物を別の位置から。「天然記念物地震動擦痕史蹟名勝天然記念保存法ニヨリ昭和九年一月文部大臣指定昭和十三年三月建設」「地震動の擦痕:魚雷に記録された地震のゆれ」案内板。1930年11月26日の北伊豆地震(マグニチュード7.3 )は、丹那断層をはじめとする活断層が震源となり、現在地付近でも建物の全壊率25 %をこえる強いゆれに襲われました。この強いゆれで旧江間小学校校庭に展示されていた魚雷がすべり、台座に引っかかれたキズ(擦痕)が残りました。このキズからは、複雑なゆれの様子を読み取ることができます。「案内板」をズームして。「天然記念物「地震動の擦痕」案内板。カメラをガラス戸につけて。左が「ゆれ始めの弱い振動でできたキズで、ゆれ始めの弱い振動で魚雷が回転し、キズがつきました」と。そして右側が「強いゆれでできたキズで、それに続く強いゆれで魚雷が前後(左右)にすべり、キズがつきました」 と。擦痕を更にズームして。この地震で、地面はまず上下にグイと動き続いて、その後4~5回のステップで42.5cmも水平移動し、30cm程元にもどり、再び9.5cm逆方向に移動しているのが解るのだ と。「天然記念物「地震動の擦痕」(昭和9年1月22日 文部省指定)昭和5年11月26日に発生した北伊豆地震は、最大震度6の烈震と推定されており北伊豆地方に死傷者825人、家屋の全半壊7,501件の大きな被害を与えた。この地震により、台石が針となって魚雷の表面が削られ全長725mmの傷あとが残った。 この地震動の擦痕(傷あと)は、魚雷と台石が天然の地震計となって地震の激しさを刻み残したものとして大変貴重である。なあ昭和60年度の保存事業を機に、擦痕(傷あと)を見やすくするため従来後方の台石にあった魚雷を現在の位置に移動した。」「江間公園」にあった築山も昔からあったものであろうか。「江間公園」。現在は広い芝生広場として整備されていた。そして次に、近くにあった「石徳高神社(豆塚神社)」も訪ねた。静岡県伊豆の国市北江間3。「延喜式内 石徳高神社」碑。「豆塚神社(まめつかじんじゃ)豆塚大明神と索拝されている豆塚神社は、平安時代の「延喜式」神名帳に記されている「石徳高神社」に該当する由緒ある神社です。「相模守であった北条義時が小池堀丸山の震廟をこの地に移し再建した」と記された江戸時代の梁銘(元文五年[1740] )が現存しています。「吾妻鏡」では、青年期の北条義時は「江間小四郎」という名で登場しており、「江間」とは深い関わりがありました。」石鳥居。扁額「豆塚神社」。石鳥居下から境内を見る。「ようこそ伊豆の国市へ」。現在地をズームして。これまでに訪ねて来た多くの寺社、遺蹟名が載っていた。「豆塚神社(郷社) 鎮座地 伊豆長岡町北江間小字町屋御祭神 石徳高命例祭日 四月三日由 緒創建の年代は詳でないが明細帳に 依れば大明神と書いた古額あり、 又文明四年と記した神器あり。昔 は雄徳山大男山に鎮座せしを幾度 か遷祀し江間小四郎平義時は崇敬厚く現地豆塚に遷し大明神と稱せり。明治六年九月郷社に定められ 大祭には県よりの奉幣便により神事を行う。往時は江間郷北條郷は 一郷にて狩野川の流れが中間を流れる様になり、總鎮守を江間郷に 北條郷は守山の地に遷し祀った。」「拝殿」。扁額「大明神」。内陣。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.16
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「眞珠院」を後にして次に訪ねたのが「北條寺(ほうじょうじ)」。「北條寺」は、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は巨徳山(ことくさん)。鎌倉幕府二代執権北条義時の創建と伝えられている。本尊は、源頼朝が源氏再興を祈願したという「木造観世音菩薩坐像」(県指定文化財)義時の父時政も頼朝の挙兵時に武運長久を祈願したのだと伝えられる。その他、運慶作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」、義時の姉北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」(県指定文化財)を所蔵。境内には、北条義時夫妻の墓がある。静岡県伊豆の国市南江間862−1「山門」前には寺号標石「臨済宗 北條寺」。「山門」。「北條寺北條寺は、北条義時が幼くして亡くなった子、安千代の冥福を祈って建立したと伝えられています。鎌倉時代前期の慶派による阿弥陀如来坐像(県指定文化財)、鎌倉時代後期から末期の中国宋風の観音菩薩坐像(県指定文化財)、牡丹鳥獸文繍帳(県指定文化財)など、貴重な文化財があります。また、これらは北条義時・時政・政子が信仰・寄進したという伝承が伝えられ、北条氏とのつながりの深さがわかります。」山門の扁額は「巨徳山」。「山門」を潜り境内へ。「巨徳山 北條寺宗旨 臨済宗建長寺派 伊豆の国八十八ヶ所霊場拾三番札所 横道三十三ヶ所霊場八番札所 中道三十三ヶ所霊場十六番札所鎌倉幕府創立に功績があった北條時政の子息、義時(江間次郎)が創建した寺院。伝承によれば、義時の嫡子安千代が大蛇に襲われて命を落としたため、北條寺を墓所とし、七堂伽藍を建立したという。この時、仏殿の本尊「阿弥陀如来坐像」を運慶(鎌倉時代仏師)に命じて作らせたと伝えられている。本尊「観音菩薩坐像」は、南北朝時代の作で、寄木造、漆塗で、高い髻や全面に広がる絵画的表現の衣文など、中国宋代風の像容である。また、北條政子が奉納したとされる「牡丹鳥獣文繍帳」三張が伝来している。境内にある「小四郎山」と呼ばれる丘の上には、北條義時夫妻の墓がある。木造観音菩薩坐像 静岡県指定文化財 南北朝時代 桂材寄木造木造阿弥陀如来坐像 静岡県指定文化財 鎌倉時代 桧材寄木造 国重要美術品(昭和一三年認定)牡丹鳥獣文繍帳 静岡県指定文化財北條義時の墓 伊豆の国市指定文化財」多くの石仏が並ぶ。六地蔵。庚申塔群。お地蔵さまや石仏。この石碑には「豆駿横堂八番 北條寺」と、古字、くずし字解読の師匠の学友から。「北條寺」は「伊豆横道三十三観音第八番札所」だと。何故か、「道」が「堂」と刻まれていたが、北條『寺』を意識し、敢えて「堂」と刻んだのであろうか。800年前、伊豆に流されていた源頼朝が文覚上人の説得を受けて源氏の再興を決意、その成就を祈りながら「三十三観音」を巡ったのが始まりと伝えられている。これが伊豆横道(よこどお)三十三観音巡りである。伊豆横道三十三観音は、西伊豆の1番延命寺から南伊豆伊浜の33番普照寺まで、西伊豆、松崎、河津、下田、南伊豆にあり、明治始めの廃仏毀釈によって2ケ所のお寺がなくなっているので、実際には31ケ所 と。この石碑は、以前は「山門」前にあったが、「山門」の建て替え時に現在の位置に移されたのではないかと、これも頼もしい学友から。「北条家」と刻まれた巨大な墓石。「北条義時夫妻の墓」の案内に従って進む。境内には多くの墓石が並んでいた。「義時公の墓道⬅」碑。石段を上って行った。入口にあった「大乗妙典供養塔」。「近世の大山信仰のあり方と深い関係があったと思われる習俗として、大山寺境内および周辺の山麓地帯に広く分布している、「大乗妙典(奉読)供養塔(だいじょうみょうてん(ほうどく)くようとう)」と、「大乗妙典一字一石供養塔」建立がある。大乗妙典とは、法華経のことです。法華経の一字を一石に記して土中に埋めた供養塔で、近世中期以降盛んとなった大乗妙典納経廻国修行の風とも結びつき、その発願成就記念に建てられることが多かった。大山分かれの茶屋跡(大山町)近くには寛政七年(1795)建立になる大乗妙典一字一石塔が残り、そのかたわらに由来塔も立っているそうです。」とネットから。そして「北条義時夫妻の墓」に到着。右が北条義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると。「北条義時夫妻の墓北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。幼少より江間の館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗揚げ以来、父 時政 兄 宗時とともに従い大功があった。鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都より頼朝の姉の曽孫に当たる藤原頼経を迎えて自らわ執権となり勢威を極めた後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久三年(1221年)院宣を下して義時を討とうとされた。義時はその子 泰時、弟 時房に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大いに破り、帝を廃し後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。これが世にいう承久の変である。義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓である。」北条義時の墓。『吾妻鏡』によれば、北条義時は、承久の変後3年、1224年(貞応3年)6月13日、62歳で急死。「鎌倉の源頼朝墓の東の山上に葬られたという」👈リンク。ここ北條寺の墓は、義時の子で三代執権北条泰時が北条氏発祥の地に追善のために建てたものと伝えられていると。後妻佐伯氏娘(伊賀の方)の墓。北條寺の案内板には、義時の妻は佐伯氏の娘と記されているが、墓石の側面には藤原朝光の娘と彫られていた。藤原朝光は藤原秀郷の後裔で、伊賀守に任ぜられてからは伊賀氏を称したと。「北条義時」像。「北条義時」は鎌倉幕府2代目執権であり、源頼朝の妻・北条政子の弟。初代将軍「源頼朝」の亡き後、2代目将軍「源頼家」や3代目将軍「源実朝」を支え、頼朝が実現しようとしていた鎌倉幕府の政治基盤を築く。政敵を徹底的に潰し、敵対するなら実父ですら失脚させるなど、冷酷な振る舞いをしていた義時は「権力のために他人を蹴落とす悪人」と呼ばれることもあった。「鎌倉殿の13人」の北条義時を演じる小栗 旬さん。「江馬家の墓」と。江馬氏は、桓武平氏経盛流を称した江馬輝経が北条氏に仕えたのに始まるという。『飛州志』所収の江馬氏系図によれば、「平経盛の妾腹の子輝経が、伊豆国の北条時政に養育され、伊豆田方郡江馬庄の地名をとって、江馬(江間)小四郎と名乗った」と記されていると。無縫塔が並ぶ。「歴代塔」(左)と「心宗詮大和尚」(右)。「北条義時夫妻の墓」を後にし石段を下る。「伊豆の国市 北条義時ゆかりの地」の幟が並ぶ。「無縁塔」、文化七年午十月と。「天満宮」。そして「北條寺」の「本堂」。「北條寺」のパンフレット。「木造観世音菩薩像」。南北朝時代 桂材寄木造 静岡県指定文化財全面を黒漆塗りとし、玉眼をつけている。頭部は髻の後方及び耳の後ろを通る線で前後にニ材を寄せ、さらに後頭部に蓋板を当て、首を柄差しとする。髻は高く結い上げ、柄衣を通肩にまとい、腹前に下衣のくくりをあらわす。左手は臂を曲げ、掌を下にして左膝に置く。右手は右腰脇に下ろす。両肩にかかる衣は複雑な衣文を描いて両協すそに広がる。中国宋代の仏画の影響をよく見ることができる。「木造阿弥陀如来座像鎌倉時代 桧材寄木造 静岡県指定文化財 国重要美術品像高66.7 cm、桧材、寄木造りで古色仕上げ、玉眼で、鎌倉時代の作である。衣をまとい、定印を結び座る姿で、背面のひだまで如実に写した入念の作であリ、運慶派の特徴がよくでている。北條寺文書(寛永9年)によると、土御門天皇の御代、相模守江間小四郎義時の嫡子(安千代)が、領内の大池で大蛇に襲われて命を失った時、北修寺を墓所とし、その子の冥福を析って七堂伽藍を建立し仏殿の本尊を運慶に命じて作らせた。運慶は信心をもって一刀三札、金泥細金の彩色を施し3年かかって完成したといわれる。この阿弥陀如来が日本無類の尊容であり、また以後運慶の阿弥陀如来像は無いため、伊豆の無き阿弥陀といわれるようになった。」「観音菩薩像」。仏殿の本尊を運慶 (鎌倉時代の仏師)に命じ作らせた 。 また 、観世音菩薩像 (県文化財)は室町時代南北朝期の寄木造り、 漆塗で、高い髻、全面に広がる絵画的表現の衣など中国宋風の仏像である 。「牡丹鳥獣文繍帳静岡県指定文化財800年以上前に中国で製作されたものを北條政子によリ北條寺に奉納したもの。当時の中国の刺繍の代表的作品であり、わたしぬい等17種の技法を駆使して全面あますところなく刺した本邦最大の品と言われている。豆州志稿には「ニ位尼ノ寄贈セリト云フつづれの錦ノ斗帳を蔵ス」とある。主張 長92.5cm 幅247cm 左右帳 各長249cm 各幅48.5cm 室町~桃山時代。三帳とも生地は縹色の絹地にすべて界線をを施して牡丹、果樹、鳥獣文をを平縫いと纒縫の技法で帳全面をあますところなく縫いつめた稀有の大作である。」御朱印を頂きました。「本堂」の殿鐘(でんしょう)。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよ」という合図になっていたのだと。「本堂」前から「北条義時の墓」のあった丘の方向を見る。境内には蝋梅の花が開花中であった。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.15
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さらに「眞珠院」の境内を八重姫に想いを馳せながら、さらに巡る。正面に「本堂」。「本堂」に近づいて。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)に見事な龍の彫刻が置かれていた。内陣。正面に本尊、釈迦牟尼佛。涅槃図であろうか。扁額「守護山」。「本堂(法堂(はっとう))禅宗では佛殿と称し、寺院加藍の中心となる本尊をまつる建物当寺では正面に本尊、釈迦牟尼佛を安置し、脇立として阿難尊者・迦葉尊者のニ佛を配し、その左右に永平寺御開山高柤承陽大師(道元禅師)、総持寺御開山太柤常済大師(瑩山禅師)をまつる。又、堂内には、達磨大師・十六羅漢等の佛像が安置されております。」 「眞珠院 案内図」。「御朱印受付所」は「庫裡」玄関に。御朱印を紙で頂きました。十三重石塔。観音像。正面から。お顔をズームで。歴代住職の墓地。多くの「無縫塔」が並んでいた。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。無縫塔は、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持(寺の長である僧・住職)の墓である。正面に「歴住塔」。横から。「五輪塔」👈リンク。「定仙大和尚塔(じょうせんだいおしょうとう)」と呼ばれ、正安4年(1302年)の銘のある五輪塔。別の角度から。「五輪塔地・水・火・風・空の五大をそれそれ、方・円・三角・半月・宝珠の形で象徴し積みあけた塔で、後年、板塔婆の上部に切り刻む原形ともなる。当寺の五輪塔は正安四年(一三〇ニ年)の建立で、県内最古の五輸塔です。水輪の四方に四方佛(東方・阿閦佛、南方・宝生佛、西方・阿弥陀佛、北方・不空成就佛)がきざまれた、非常に貴重な塔といえます。」無縁仏。「陸軍歩兵 上等兵 勲八等 矢田三作之墓」。「陸軍歩兵上等兵 勲七等 岩崎勝俊之墓」。「古川」沿いに墓地が続いていた。墓地の奥にあった貞治2年銘の阿弥陀如来磨崖仏を訪ねたのであった。ズームして。貞治2年(1363年)銘の阿弥陀如来磨崖仏であると。「本堂」と「庫裡」の間の渡り廊下を潜って進むと見事な庭園があった。庭園の隅にあった「水琴窟(すいきんくつ)」を訪ねた。「水琴窟」👈リンクは、日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ。水琴窟という名称の由来は不明である。同系統もしくは同義の言葉に洞水門(とうすいもん)がある。伏鉢水門、伏瓶水門ともいう と。池に架かる太鼓石橋。枯山水の庭を楽しむ。「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝に向かって矢を放つ八重姫。江間次郎(芹澤興人)が八重を三島明神の祭りに誘うと、八重は「あの方は?目代の」。山木兼隆が落馬し、足を痛めたため館にいると聞き出した。最初の夫・頼朝を思う八重の心が動いた。夫が表で待つ間、館を抜けた八重は渾身の力で弓を引き、対岸の北条館へ矢を放った。頼朝に矢が届けられ「川向こうから。八重か。八重とは人の目を盗んで会っておった。伊東の庭の梅の枝に結ばれた白い布は、今夜会いたいということ」。義時は「今夜出陣せよとの合図です。山木は館にいます」。頼朝の腹は決まり、ついに出陣したのであった。八重の夫の「江間次郎」を演じる芹澤興人さん。八重が伊東家の家人だった江間次郎のところに嫁いだのは、自分の留守中に頼朝と恋仲になって男児を産んだことに激怒した父・伊東祐親が八重に与えた罰で、八重は江間次郎について「夫と思ったことはございません」と言い放ち、あたかも家来に対するように冷たく接し続けているのであったが・・・・。息子・千鶴丸の墓石を撫でる八重姫。八重は伊豆山権現の長・文陽房覚淵(諏訪太朗)とも面会。5年前に父・伊東祐親(浅野和之)が連れてきた自身の息子・千鶴丸(太田恵晴)に会わせてほしいと訴える。覚淵は「何かのまちがいでは?」と応えるが、それでも食い下がる八重。すると覚淵は立ち上がり「こちらへ」と八重を外へ案内する。 覚淵に案内された八重がたどり着いたのは、木々に囲まれた墓。手を合わせていた覚淵は八重に「ここへ来た時にはすでにむくろになっておりました。川で溺れたと聞いております」と明かす。八重は墓石にゆっくり近づくとひざまずき、目を泳がせながら「立派なお墓…」とポツリ。そして八重は墓石をなでると、言葉にならない声をもらしながら号泣。帰らぬ人となった息子の前で大粒の涙を流すのだった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.14
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次に 頼朝との悲恋・八重姫の寺「眞珠院(しんじゅいん)」を訪ねたのであった。入口の巨大な自然石には「曹洞宗 眞珠院」と刻まれていた。 静岡県伊豆の国市中條2。「伊豆の国市 北条義時ゆかりの地」幟が。山門前に「案内板」が並んでいた。「眞珠院山門をくぐると右手に佇む八重姫御堂があります。この御堂は源頼朝との仲を裂かれた伊東祐親の娘「八重姫」が祀られ、八重姫の木像と供養の石塔が安置されています。八重姫は悲恋を嘆き「我が身を捧げ女人の守護神となりましよう」と近くにあった梛(なぎ)の一枝を取り、当時寺の南側にあった真珠ヶ淵に身を投げて亡くなったと伝えられています。「梯子があれば救うことができたのにという里人の気持ちが、今日願い事がかなったお礼参りに小さな梯子を奉納する習慣となっています。」「伊東八重姫入水の地源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相尅のいけにえにされた伊東祐親の四女「八重姫」は、悶々日を送る中、遂に意を決し治承四年七月十六日待女六人と共に伊東竹の内の別館をぬけ出し、亀石峠の難路に、はやる心を沈めながら頼朝の身をかくす北条時政舘の門をたたきました。然し既に政子と結ばれていることを知る邸の門衛は冷たく、幽閉された身の我が舘に帰る術もない八重姫は、あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに悲愁の若き「いのち」を断ってしまいました。悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、今は「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋のしのび音を偲ばせてくれます。尚、当院境内に県下最古の「五輪塔」(一三〇ニ)並びに磨崖仏(一三六三)その他宝篋印塔(一三三五)等々貴重な石造物が安置されています。」白梅の樹々の奥には「聖観音像」が。「聖観音像」に近づいて。白梅もズームで。「狩野川台風最高水位 昭和三十三年九月二十六日」。狩野川台風・台風第22号は昭和33年9月26日から、27日にかけて伊豆半島と関東に甚大な被害をもたらしたのであった。被害 ✱死者・行方不明者数:1,269人 ✱負傷者数:1,138人 ✱住家の全半壊、流出:16,743戸 ✱住家の床上床下浸水:521,715戸 ✱耕地被害:89,236ha ✱船舶被害:260隻 正面に「山門」。「守護山 眞珠院 古来、修行道場として栄え「祇樹林(ぎじゅりん)」の別称がある。宗旨 曹洞宗「禅宗」本山 福井 永平寺(道元禅師開山) 横浜 総持寺(瑩山禅師開山)本尊 釈迦牟尼佛開山 実山永秀禅師開創 鎌倉時代、真言宗として開創。 室町時代に曹洞宗に改宗し現在に至る。」「宝篋塔」、1764年(宝暦14年)の建立。「三界萬霊塔」、1689年(元禄2年)の建立。「山門」の奥に「本堂」が見えた。扁額には「祇樹林」と。「眞珠院」のパンフレット。可愛らしい「六地蔵」。永代供養墓。「大強精進勇猛佛」碑。石平道人は、江戸時代初期の禅僧で俗名を鈴木正三と言う。鈴木正三はもと徳川家の家臣で、歴戦の勇士であったが、元和元年(一六二〇)四十二才で出家し禅門に入ったが、一宗一派に属さず「南無大強精進勇猛佛」の信仰を唱え、仁王禅を提唱した人物である。プロの宗教家だけが修行して仏道に到るのではない。いかなる職業でも精進してその道を究めれば、それが仏道。勇猛果敢、強直に信じる道を行け鈴木正三が偉いのは、この信条を自ら実践してきたことにある とネットから。右手の石段の上にあったのが「八重姫御堂(静堂(しずかどう))」「八重姫御堂(静堂)鎌倉初期、源頼朝との恋にやぶれ悲恋の入水をした伊東ハ重姫をまつる御堂で、堂内正面に八重姫の木像を安置し、下に供養塔を収める。那木 堂の右手の大木は那木(和木)といい、平和、穏やかの意。この葉は横に割けす、 愛のお守りとして、又、家族平穏のお守りとして持っと功徳があるという。願かけ石 堂左前にある願かけ石は、自分の年の数だけ石をたたき、願い事をすると必ず 成就すると古来より伝えられている。」「梯子供養八重姫が入水した時、せめて梯子があったら救う事が出来たのにという里人達の気持ちが、今日、願い事が成就した時そのお礼参りとして梯子を供える習慣として残されている。」こちらにも手作りの小さな「梯子」が数多く。内陣。八重姫をまつる御堂で、堂内正面に八重姫の木像を安置し、下に供養塔を収める。八重姫の木像をズームして。八重姫の木像の手前にも多くの梯子が納められていた。更に。「静堂由来記この御堂は、治承4年(1180)源頼朝との悲恋のすえ当院に程近い真珠ヶ淵に入水して果てた伊東八重姫を祀ったものである。平家のため伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されいた頼朝は監視役の伊東祐親が与えた北の小御所に遊ぶうち祐親の四女八重姫と契り、一子をもうけた姫は史上名高い曽我兄弟の叔母にに当たる。京都での大番役を終えて三年ぶりに帰郷した祐親はこれを知り、平家への恩義と娘への愛との相剋に悩んだあげく、三歳に満たぬ千鶴丸を轟ヶ淵に沈め八重姫を館の一室に幽閉した。治承4年2月半ばのことである。頼朝は難を避け韮山の北條時政の館へ走った。同年七月十六日未明八重姫は六人の侍女を連れて脱出険しい亀石峠を越え茜さす暮れ方にようやく北條の館にたどりついたが頼朝はすでに八重姫には姪に当たる時政の娘政子と政略結婚していた。愛する人に一目合うことも許されず父のもとへも帰れず、重い余った八重姫は死を選ぶほかなかった。当時狩野川の支流は守山南麓を流れ、当院の近くには激流渦巻く真珠ヶ淵があった。八重姫は「吾は不幸にしてこの世を去るも魂は永くこの土に留まって女人の守護神とならん」と誓願をこめ、傍らの梛の一枝を手折って淵に身を投じた六人の侍女は悲嘆にくれながら姪の遺体を抱き上げて近くの萬願寺に葬り、知らせに走った一人のほかは皆その夜のうちに田中山の松の大木の下で自害、姫の後を追った跡には供養塔が建てられ「女塚」と呼ばれている。里人たちは八重姫をふかくあわれみ、供養塔を建て梛の枝を手向けせめて梯子があれば救えたものをとの心から手作りの小さな梯子をそなえて霊を慰めた。この御堂の前にはいまも梛の大木が茂り梯子供養の習慣も続いている。また頼朝の憎しみを受けて愛児を鎌倉由比ガ浜に沈められた義経の愛妾静御前は、相似た境遇で落命した八重姫母子に同情し、真珠ヶ淵の近くに祠を建てて冥福を祈ったと伝えられる。すなわち「静堂」の由来である。以来数百年、八重姫は「お静さん」と呼ばれ縁結びの神、子授けの神として親しまれてきた。頼朝の異母弟、金成はこの静堂に心ひかれ、萬願寺の地続きに弟の義円と義経の菩提を弔うべく真珠院を建立した。萬願寺は明治初年に廃寺となり、静堂、八重姫の像および供養塔は真珠院に移されて今日に至る。その静堂も昭和47年(1972)七夕豪雨により損壊、56年(1981)地元有志によって、設立された八重姫奉賛会の活動が縁となりここに再建をみた。堂内には「八重姫供養塔」と木彫りの「八重姫像」が安置されている。もし八重姫の恋が実っていたら歴史は一変していたであろう。この御堂の由来には日本史上の大きな転機が秘められているのである。一説に、八重姫の愛児千鶴丸は祐親の情けによって生きのび甲斐源氏の庇護を経てやがては島津忠久になったともいう。堂内の膜に織りこまれた二つの家紋は伊東氏の「庵に木瓜」と八重姫の頼朝から贈られた「立牡丹」である。」「八重姫慕情」さくら吹雪に 木洩れ陽の揺れて無情の 憂いあり伊豆韮山の 中條に立てば遠き 空の果て侍女に守られ 八重姫は頼朝公を 御慕い悲恋はかなく 落葉舟真珠ヶ淵の 渦の中里人出でて 走れども岸高くして そこ深く夕暮れせまり いかにせん救わせたまえ 姫の身を那木の木末の そよぐ下供養の塔に かけられし小さき梯子 数いくつ治承の昔 偲ばれる同じ歌詞が石碑にも。梛・那木(なぎ)の巨木が「静堂」の右側に。梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもつ。その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がない。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができるが、縦にはなかなかちぎることができないと。葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった。また梛の葉は裏も表も同じようなので裏表のない夫婦生活が送れるとか。それらのことから「梛」の字には良縁に恵まれますようにというような願いを込められるのだと。その後に別の場所で梛・那木(なぎ)の葉っぱを2枚頂きました。実際の葉を縦に引っ張ってみましたが、すんなりと。そして横に引っ張ってみましたが、なかなか、いや全く切れませんでした。やむ無く、葉の端に傷をいれ無理やり引っ張ると何とか切れたのですが、剥がれた場所には葉の繊維が顕に。葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないと、また縁結びの願掛けに、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があり、お守りにしていることが理解できたのであった。また梛の葉は裏も表も同じようなので裏表のない夫婦生活が送れるとか。「願かけ石」。八重姫御堂左前の願かけ石は、自分の歳の数だけ石をたたくと願い事が必ず成就すると伝えられているのであった。私も歳の数だけ石をたたいたのであったが・・・。「八重姫主従七女之碑」。八重姫に従っていた侍女6人が、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を葬り弔ったのが真珠院の始まりともいわれる。八重姫を葬った侍女たちは、伊東へ帰る途中で自害したのだという。碑には「八重姫 治承4年7月16日真珠ヶ淵に入水。侍女 同日大仁田中山にて自害」と記されているのであった。7月16日は私の誕生日。合掌!!境内の石灯籠、五重塔。さらに参道を「本堂」に向かって進む。こちらは「十三重塔」。美しく整備された境内。寺務所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.13
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「願成就院」の後方にある神社・「守山八幡宮」を次に訪ねた。源頼朝挙兵、ゆかりの神社。静岡県伊豆の国市寺家1204-1。「守山八幡宮」碑。「史跡 源頼朝挙兵之碑源頼朝 治承四年(一一 八〇)八月十五日守山八幡宮に平家追討を祈願して 挙兵 夜陰 源氏重恩の軍兵数十騎、山木判官平兼隆を襲い討つ、其の間、頼朝 、遥かに山木館の火煙を望み、悲願の達成を悦ぶ、蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると、故に記して建碑の所以とする」これは「舞殿」であろうか。扁額「八幡宮」。そして「舞殿」の裏に長い石段が続いていた。ズームして見ると、こちらが「拝殿」のようであった。長い急な石段を息を切らしながら頑張って上って行った。そして何とか「拝殿」に到着した。「拝殿」の扁額は「八幡宮」。「當社の創建は大化三年(六四七年)御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社である延喜七年(九◯七年)豊前国宇佐宮より八幡神を勧請合祀其の後専ら伊豆国総社八幡と称す。治承四年(一一八〇年)源頼朝此處に源家再興を祈り兵を挙げる。現在の本殿は寛永九年(一六三二年)久能城主榊原大内記照久の造営である」内陣。「拝殿」前から石段を見下ろす。崖下に鎮座する「本殿」を見る。「拝殿」の横にある狭い山道を「守山山頂展望台」に向かってさらに上って行った。切通しの如き山道を進む。そして10分弱ほど上って「東屋」のある「守山山頂展望台」に到着。「守山山頂展望台」からの富士山の勇姿。手前には標高は191mの「日守山」の姿が。北東にある伊豆の国市四日町方向を望む。「展望案内図守山の展望台の真下には史跡北条氏邸跡(円成寺跡)や願成就院が広がり、狩野川の向こうの北條寺や北条義時館跡を眺望することができます。源頼朝は、この地で旗揚げをし、まずはじめに平家方の山木兼隆の討伐に向かいます。伊豆の国市は源頼朝による鎌倉幕府草創の出発の地です。」最後に紹介する「守山登頂証明書」の裏にも同様な説明がありました。①北條寺北条義時が長男安千代のために建立したとされる寺院。境内には、「北条義時夫妻の墓」がある。仏師集団「慶派」による作品「阿弥陀如来坐像」や、姉の北条政子が寄進したと伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」など、数多くの貴重な寺宝を有する。②江間公園(北条義時館跡)義時の館があったとされる場所。現在は江間公園。義時は青年期、「江間小四郎(こしろう)」を名乗っていたとされる。③堤信遠の館 推定地この地で旗揚げした源頼朝は、山木兼隆の討伐に向かう。途中、兼隆の後見である堤信遠の館を襲撃する。④山木兼隆の館 推定地源頼朝の監視役であった山木兼隆の館があったとされる場所。近くには山木兼隆が創建したと伝わる「香山寺」があり、供養塔が建立されている。⑤蛭ヶ島公園源頼朝が配流され、14歳から34歳まで過ごした地といわれている。頼朝・政子が富士山をみつめる「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」の像が建っている。⑥願成就院源頼朝の奥州攻めの戦勝を祈願して北条時政が創建した北条氏の氏寺。時政の子、義時や孫の北条泰時も堂や塔を建立しており、境内には時政の墓もある。⑦史跡北条氏邸跡(円成寺)発掘調査により北条氏の館跡であることが明らかとなっている。遺跡の年代から北時政の館跡であり、義時はこの地で生まれたと考えられている。「守山の展望台の真下には史跡北条氏邸跡(円成寺跡)や願成就院が広がり、狩野川の向こうの北條寺や北条義時館跡を眺望することができます。源頼朝は、この地で旗揚げをし、まずはじめに平家方の山木兼隆の討伐に向かいます。伊豆の国市は源頼朝による鎌倉幕府草創の出発の地です。」手前に「狩野川」が。山の手前が伊豆の国市北江間地区。「守山登頂証明書」を頂きました。そして「守山」を下り、「願成就院跡」に駐めてある車まで戻り、次に訪ねたのが「信光寺」。右手に「曹洞宗 熊野山 信光寺」碑。静岡県伊豆の国市寺家90。白塀に囲まれた「信光寺」。「曹洞宗信光寺縁起」「本尊は秘佛十一面観世音菩薩を安置し、境内には大師堂があり空海の加持井と称する井戸が残る。当山は武田五郎信光入道光蓮の開基であり信光公の廟所(宝篋印塔)がある。武田氏は清和源氏、源義家(八幡太郎)の弟義光(新羅三郎)を祖とし、義光の三代後の信義のとき武田氏を名乗る。武田五郎信光については吾妻鏡・平治物語・平家物語、他にも甲斐国史などに多くの記事がある。鎌倉大草紙には信光について尼将軍北条政子(頼朝の妻)の時、伊豆の国を給わり、十二年間伊豆に居住したと記す。源平盛袞記には、信光は特に流鏑馬の儀に通じ四天王の一に数えられ、後に執権時頼に伝授するともある。伊豆の国の守護職に任せられ、又、安芸の国(広島)の守護職も勤め、晩年「伊豆入道光蓮」と名乗った信光は晴信(武田信玄)より十四代前にあたる。縁起には信光、鎌倉より頼家の病状伺いに修禅寺に赴き、鎌倉への帰路ここに到って頼家の殺された事を聞き、それを嘆きて入道し守山の麓に小庵(方広庵)を結び、出家して「光蓮」と称し頼家の菩提を弔ったという。法名は「月照信光大居士」応保二年(一一六二)~宝治ニ年(一二四八)八十七歳と伝えている。」信光は修禅寺に幽閉されていた頼家の監視役だったのだ と。「法華塔」碑。「本堂」。境内の出土物などから、鎌倉時代には願成就院の寺域に含まれていたと推定されているのだと。本尊は十一面観音菩薩(秘仏)。内陣。「本堂」内の笙を吹く天女(右)。「本堂」内の蓮の花を持つ天女(左)。「願成就院跡」、「伝堀越御所跡」、「北条氏邸跡」の各敷地推定図。「歴史的風致範囲図」。六地蔵。「馬頭観音堂」。「三面観世音」であろうか。「慈母観音立像」。「西国三十三番観音霊場」の観音石仏群。「西国三十三番観音霊場石佛について嘉永四年(一八五一)当山三十二世一応實全和尚の時、本堂裏の岩山に始めて西国三十三番観音霊場の本尊を石佛として建立す。その後六十年を経て明治四十三年(一九一〇) 当山四十一世橋本真順和尚の発願により、二代目の三十三番観音石佛を岩山に安置する。平成十五年(二〇〇三)岩山の石段を登るのが危険であることなどから、ここに三十三体が整備安置された。又、当山四十四世伊藤正義和尚は昭和五十九年から六十二年の四ケ年にわたり近隣御寺院方と檀信徒三十余名共々西国三十三番観音霊場を参拝し、各寺院より「土」を頂き石佛のもとに納める。此の石佛をお参りすることにより「西国三十三番観音霊場順拝」のご利益があるといわれております。」西国三十三番観音霊場石佛が並ぶ。「信光寺開基 武田五郎信光入道光蓮公廟所応保二年(一一六ニ)~宝治ニ年(一ニ四八)没 八十七歳」碑。武田氏は清和源氏で、八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光を祖とし、義光の三代後の信義の時に武田氏を名乗る。源頼朝旗揚げの際には共に挙兵しており、奥州合戦などでも戦功を挙げている。信光は弓馬四天王の一人に数えられる名手で、執権時頼にその技を伝授したと伝わっている。また、信光は武田信玄から遡ること14代前の武田家当主となる人物。武田信光の墓塔・「信光寺開基 武田五郎信光入道光蓮公廟所」の宝篋印塔。歌碑「玉の井乃(の) 和(わ)具(く)や泉の能(の) 志(し)ん光寺 大地の免(め)くみ まもる水可(か)奈(な)」寺務所。「永代供養墓地」であろうか。「永代供養墓地のご案内」。門前の石仏。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.12
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「願成就院」の散策を続ける。「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。近寄って(左側)。近寄って(右側)。「願成就院」の看板犬の秋田犬のROCKY(ロッキー)くんも居眠り中か?扁額「大御堂」。国宝が鎮座する内陣を「ネット」👈リンク から。大御堂にお祀りする運慶作、国宝五身區の仏像群をネットから。阿彌陀如来坐像国宝・運慶作・1186年(文治2年) 像高142.0cm力強い体軀で、圧倒的な重量感にあふれている。深く刻み込まれた流れるような衣文も流石運慶と思わせる。縵網相の説法印を結び、激動の時代を生き抜かなければならない当時の武士や民衆を救おうという強い意志を感じさせます。不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像国宝・運慶作・1186年(文治二年)像高 不動明王 137.2cm、羂索をとる左手を、利剣を握る右手と同じ高さに上げた逞しく若々しい上半身、玉眼の両眼をかっと見開き、眉毛をつり上げた眼光鋭い忿怒の形相の不動明王が、左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子を、右前に手に宝棒を持ち、眉間にしわを寄せ、ロをへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな制吒迦童子を伴って悪に立ち向かう頼もしいお姿は、様々な難儀、災厄から人々を守ろうとされる強い法力を感じさせます。制吒迦童子立像(せいたかどうじりゅうぞう)・83.5cm。矜羯羅童子立像(こんがらどうじりゅうぞう)・74.4cm。毘沙門天立像国宝・運慶作・1186年(文治2年)・像高148.2cm二匹の邪鬼を踏みつけて、玉眼入りで眼光鋭く一点を凝視して立つ雄渾なお姿には、躍動感、緊張感が巧みに表現されていて、運慶が出合ったであろう東国の若武者のイメージが彷彿としてきます。守護神として、尚武招福の仏様として、東国武士や民衆に崇められてきたことを感じさせます。本堂の本尊、阿彌陀如来坐像。県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高86.8cm 玉眼入り 願成就院・本堂蔵十三世紀初頭の作風から、時政公の供養のために、1215年(建保三年) 12月に二代執権北條義時公が建立した南新御堂本尊阿彌陀三尊の中尊であるとされています。地蔵菩薩坐像(通称:北條政子地蔵)県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高51.6cm 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵像座に「寛喜の銘文」が残り、政子七回忌頃の作で、北条泰時が願成就院に奉納したかと思われています。北條時政公肖像制作年代・作者不詳 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵唯一の北條時政公の肖像であります。境内の「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の表情が楽しいのであった。「弘法大師御像」。茅葺の本堂。願成就院創建六百周年にあたり、1789年(寛政元年)に建立。時政供養のために1215年(建保三年)にできた南新御堂の後身堂である。二百三十年の風雲に耐えて本日に伝えられています。「浅草と願成就院伊豆の大仁を愛する浅草の住人高坂公一 和田長敬 大塚金太郎の三氏がゆくりなくも当韮山の願成就院を訪れ荒廃せる堂内に国宝の御佛を拝するに及び痛恨の念に暫し去りやらず茲に護持の一念発起して浅草の人々の協力を求める篤信の人雷おこし主人穂苅氏を講元に仰ぎ昭和三十年九月浅山講を創立爾来講費頓に加わりて本年講費壱阡七百名を算する事となる此の信仰の結果は昭和三十七年二月願成講倉島講元天山講真鍋講元との共同発願に依り不燃建築の護持大御堂を建立し重要文化財なる御佛の数々を未来永劫に安置し得る大業を了し終りぬ本碑に願成就院が浅草人に依り復興の端緒となりたるを刻して記念となす梅が香の千代に伝へむこの御霊」。「運慶謹作仏像五体 国宝指定記念之碑」。「浅山講五十回団参記念之碑」と「五百羅漢」。近づいて。「浅山講五十回団参記念之碑歳月の過ぎゆくは矢の如しというが、浅山講五十年の歩みもまた夢のようである。創講者の一人である故高坂公一氏は、昭和ニ十九年の晩秋、友人の和田長敬・大塚金太郎の両氏と初めて願成就院を訪れ、荒廃せる堂内にみ佛を拝観したときのことを後の手記に書き残している。「阿弥陀如来の慈顔溢れる結構さと、不動明王・毘沙門天の眼光炯炯としてあたりを威圧するが如き尊厳さを拝し、平伏合掌したのが、私どもの胸の中に今でも強い印象となって残っている。浅草に帰った私たちは、国宝護持の目的をもって上條貢先生(元台東区長・都議会議長)と相談して浅草の浅と韮山の山をとり浅山講という信仰団体を創立することにした。講元には篤信家の常磐堂雷おこし社長徳刈恒一氏の就任をお願いした。第一回団参には約八百名の参加者があった。」創講から八年後、昭和三十七年ニ月、悲願であった不燃建築の新大御堂の建立が、同志との共同発願により達成され、願成就院復興の端緒となる。尊きみ佛護持顕彰の創講の精神は、ニ代目穂刈幸雄講元、三代目穂刈敬子講元に継承され、歴代副講元・世話人・支部長衆の尽力によって毎年団參が継続実施され、本年五十四回目を迎える。本碑に浅草と願成就院の因縁深きことを刻して記念とする。 合掌。」至る場所に五百羅漢が。池と石橋。「五百羅漢」を追う。右手に「宝物館」。「五百羅漢」とは仏陀に付き従った500人の弟子。またはそれをかたどった像のこと。私に似た五百羅漢を探すが・・・。この付近の五百羅漢は眼鏡をかけている方が多かったが。知人に似ている!!そして仲良く夫婦で並んで。十三重塔。「五百羅漢」を更にカメラで追う。この後に訪ねた「守山八幡宮」の舞殿が隣奥に見えた。そして「足利茶々丸公方御墓」を訪ねた。左手には、俳人石田波郷の句碑があった。「寂かにて 願成就院 梅雨はれぬ」。「足利茶々丸公方御墓」。足利茶々丸は堀越公方足利政知の子。1493年(明応2年)、北条早雲が伊豆に攻め入った際、願成就院に逃げ込んで自害したと伝えられている。ただし、近年の研究では、伊豆から追放され、1498年(明応7年)、甲斐国で自害したとされている と。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡した。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。「成就院九成居士」と刻まれていた。出来たばかりの?五百羅漢。この場所は工房であっただろうか。以前は希望すれば、指導の下、自分でこの「五百羅漢」を作成でき、境内に奉納できたようであったが現在は??斜面にこれでもかと。「永代供養廟」。「大御堂」(右)と「宝物館」(左)を横から。「洗心庭」。「枯山水庭園 洗心庭中央の右手に阿弥陀如来に見立てた大きな不動石を配し五石の石組をし刈入の木と自然な木を調和させ優しいやわらかな雰囲気をかもしだす庭園です。白雲上の仏樣たちを想像するなど見る人それぞれの心でこの庭を鑑賞してください。」「守山八幡宮」への角に立っていたのが「頼朝公建立 天守君山 願成就院」と刻まれた石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.11
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「北条政子産湯之井戸」を後にして、その先「狩野川」に向かって進むと、左手にあったのが「北条氏邸跡(円成寺跡)」。静岡県伊豆の国市寺家13。「北条氏邸」は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所。「北条氏邸跡」が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていた。守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられた。平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけて行った発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認された。元弘2年(1333)、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻った。そして、一族の中の円成尼(えんじょうに)という女性が中心になって、館の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのがこの円成寺であると。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで続いたことが分かっているのだ と。「北条氏邸跡」は北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と北条氏滅亡後の円成寺跡が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定された。「北条氏邸跡(円成寺跡)」は、現在、整備、活用に向けた計画の立案を進めている と。右手に「北条氏邸跡(円成寺跡)」碑が。2種類の案内板が立っていた。「北条一族のふるさとと寺院 国指定史跡・北条氏邸跡(円成寺跡)北条氏邸跡は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家(じけ)・四日町付近)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。北条氏邸跡は武士の地方での生活を知ることができる遺蹟としてきわめて重要なのです。1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として入っていたことがわかっています。現在の発掘調査では、円成寺に関連する池や溝が見つかっています。」「北条政子産湯之井戸」近くにあった案内板・「守山中世史跡群案内図」がここにも。①史跡北条氏邸跡(円成寺跡):現在地②堀越御所跡③成福寺④守山八幡宮⑤願城願寺⑥満願寺跡⑦真珠院跡「史跡北条氏邸跡(円成寺跡)当寺の様子円成寺は、14代執権北条高時の母である覚海円成(円成尼)が北条一族の菩提を弔うために北条氏の邸宅跡に建立した寺です。円成寺が最も繁栄したと考えられるのは山内上杉氏の庇護を受けた14世紀後半から15世紀前半のころです。土手状の高まりに囲まれた礎石建物と池が発見されています。礎石建物は、円成寺のお堂と考えられ、周囲からは仏具に用いられた土器、陶器、水晶製宝珠などが出土しています。お堂の正面にある塀は目隠しであると考えられます。伊豆の国市では、先人たちにより守り継がれてきた北条氏邸跡(円成寺跡)を広く知ってもらうため、今後も、本史跡の普及・啓発・情報発信を進めてまいります。」「北条氏邸跡では、平安時代末から鎌倉時代前半にかけての堀立柱建物や塀の跡、井戸、区画のための溝などがみつかっています。全盛期は12世記末から13世紀初めにかけてで、源頼朝の挙兵から鎌倉幕府が成立するころです。13世紀後半になると建物跡はみつからなくなるため、館が使われたのは、北条3代の泰時のころまでで、それ以降の北条氏の生活は鎌倉に移ったものと考えられます。」次に訪ねたのが「光照寺(こうしょうじ)」。正面に印象に残る朱の山門が現れた。静岡県伊豆の国市寺家30−1。右手には洒落た「御簾垣(みすがき)」が。細くて細かい竹を密に並べた風通しの良い竹垣。割らずに丸竹のまま使用する上品なデザイン。竹を割らずに作られていることから、裏表がないのが特徴。すだれに似ていることから、「御簾垣」と呼ばれているもの。「光照寺光照寺には、源頼朝の子、2代将軍頼家にまつわる「頼家公病相の面」があります。この面は病気と政変によって修善寺に幽閉された頼家の様子を、母政子に知らせるために製作されたと言い伝えられています。面が鎌倉の政子の元に届く前に頼家が没したため、当寺にとどめ置かれ、寺宝として今に伝わっています。また、かって当寺の南に広がっていた池の守り本尊であったと言われる「有賀(うが)辨財天」を祀っています。」「本堂」。無量山寿覚院光照寺。光照寺(こうしょうじ)は、願成就院の支院だった寺院で、建久年間に俊乗坊重源の開創と伝えられる(もとの名は松寿院)。源頼朝の宿館跡とも伝えられ、願成就院の池の島にあったとされる弁財天や、古い舞楽面が残されている。舞楽面は、修禅寺に幽閉されていた源頼家の「病相の面」で、鎌倉へ運ばれる途中で頼家が亡くなったため、この寺に納められたのだという。面を鎌倉へ運ぶ使者が、武田氏初代当主・武田信義の5男・武田信光だったという言い伝えもある。1397年(応永4年)、浄土宗に改宗。本尊は阿弥陀如来。鎌倉期の甲斐武田氏の系図。治承4年(1180年)4月に以仁王の令旨が出され、いわゆる源平合戦がはじまると、信義はこれに応じて信濃国伊那郡へ出兵し、のちに源頼朝と会って駿河国へも出兵して軍功を立てています。信義は源平合戦で頼朝と協力関係にありました。しかし、頼朝はまもなくして信義の駿河守護を解任し、信義の嫡子・一条忠頼も殺害しています。これは頼朝が、自らを脅かすほど強大な力となった甲斐源氏を恐れていたからといいます。このため、武田氏は忠頼の弟・信光が跡を継ぎました。信光は治承4年(1221年)で武功を立てて安芸国の守護に任命されています。武田家の家祖義光を初代とし、武田信義が四代、信玄を十九代とする系図が一般に知られている。しかしながら、系図は一本に描けても必ずしも直系歴代で嫡子相続を守れたわけではない。実際には鎌倉時代の四代信義の後に忠頼、有義が、六代信政の後に信長が、また室町時代の十三代信満の後に信元、信長、伊豆千代丸がそれぞれ惣領職を継承していたのではないかとする有力な説がある と。 【http://syakeassi.xsrv.jp/4296】より甲斐武田氏の祖・「武田信義」を演じる「八嶋智人(やしま のりと)」さん。扁額「光照寺」。内陣の扁額は山号の「無量山」。内陣をズームして。「源頼家の「病相の面」」をネットから。 【https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-koshoji.html】より「無量山 光照寺」碑。六地蔵。古い石仏が墓地の通路に並ぶ。歴代住職の墓地であろう。近寄って。 法然上人の御歌。「阿弥陀仏と 十声(とこえ)唱えてまどろまむ 長きねむりと(登) なりもこそすれ」たとえ瞬時のまどろみであっても、「南無阿弥陀仏」と十回唱えてから眠りに落ちよう。そのまま永遠の眠りになることだってあるのだから と。石祠の中に安置されている小さな石仏。こちらは無縁塚であっただろうか。寺務所。右手に五重石塔。左の石碑は「明治二十七八年ノ役戦没者紀念塔」。「守山周辺案内図」。守山の周辺には、堀越御所跡と北条氏邸跡以外にも、多くの史跡や寺社が存在し、下記の全てを訪ねたのであった。A.史跡北条氏邸跡(円成寺跡)B.史跡伝堀越御所跡C.北条政子産湯の井戸D.光照寺E.守山八幡宮F.願成就院G.北条時政公御墓H.真珠院次に訪ねたのが「願成就院」。正面に「願成就院」の「山門」が前方に見えて来た。「國寶旗挙不動尊」碑。「国指定史跡 願成就院跡」碑のある空き地の隅に車を駐めて散策開始。「国指定史跡 願成就院跡願成就院は鎌倉時代初期、北条時政によって創建された寺院てす。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」文治5年(1189)6月6日条には、源頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して建立された、と書かれています。また、大御堂に安置されている国宝の仏像群のうち、四体から胎内銘札がみつかっていますが、そこには北条時政と仏師運慶の名前をみることができます。時政の死後も、子の義時、孫の泰時によって、「南新御堂」や「北塔」などの建立があり、伽藍が整えられていきました。当時の願成就院の姿は、発掘調査によって明らかになっています。昭和36年から現在まで、境内やその周辺20ヶ所以上で発掘調査が行われ、建物の礎石や雨落ち溝の一部がみつかっています。とくにこの一帯は、発掘調査によって、基壇や大量の瓦がみつかっている場所で、承元元年(1207)に時政が建立した「南塔」の遺構と推定されています。また、周辺の地形測量によって広大な池の存在も想定されています。鎌倉時代の願成就院は、西側の守山を背景にして、池の周囲に堂や塔が建ちならぶ「臨池伽藍」と呼ばれる様式の寺院でした。臨池伽藍は、浄土の世界を御堂や庭園の姿であらわす、当時を代表する寺院様式です。」「国指定史跡 願成就院跡」がここ一帯であると。現在の「願成就院」の山門。「高野山 真言宗 天守君山 願成就院」と。「北条時政公開基 奥州征討戦勝祈願 願成就院」天守君山 願成就院(高野山真言宗)の創建について鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と近年発見された国立歴史民俗博物館本『転法輪抄』の「伊豆堂供養表白」により、願成就院が北条時政によって造営され、文治五年(1189)六月六日に立柱上棟の法要が営まれて、本尊阿弥陀三尊と不動・多聞(毘沙門天)の形像が安置され、源頼朝と後白河法皇の長寿と天下泰平、そして北条氏の繁栄と奥州藤原氏征討の成功を祈っていることが明白になった。今日大御堂にお祀りする国宝の運慶作5驅の仏像は正に創建時の形像である。伽藍の営作は、ニ代義時、三代泰時までの40年間に及び北条氏の氏寺として栄えた。前面に池が広がる浄土様式の庭園をもつ大規模な臨池伽藍寺院であり平泉の毛越寺を模したと言われている。昭和48年に守山(後山)東斜面と 内及び東側隣接地が「史跡願成就院跡」として国指定史跡に指定されている。」山門前にはラッピングされたタクシーが駐まっていた。山門前の左側には多くの石碑が並んでいた。山門を潜ると参道左側に多くの無縁仏が。六地蔵。「北条時政公御募」案内に従って進む。近づいて。赤白のおみくじだるまが至るところに。水原秋桜子句碑。「時政が ふるさとにのこす 露の墓」。水原秋桜子(1892~1981)は昭和37年の修善寺来遊の途次願成就院を訪れている。句に詠む時政は源頼朝の正室北条政子の父。晩年は失脚して韮山に隠棲した。人生のはかなさが感じられる句である。鐘楼。別の角度から。梵鐘。正面に「北条時政公御墓」。「北条時政公御墓」碑。この碑には「北條時政公 没八〇〇年忌供養として造立北條時政公(一一三八年生、一ニ一五年没 享年七十八歳)は、願成就院の創健者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。時政公は、この地、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった。一一六〇年十四歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった。激動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる。一一八〇年八月十七日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。以後、平氏討伐、鎌倉幕府創設では、頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる。頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人である。」「北条時政公御墓」1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方(後妻)と共謀して将軍源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから、子の北条義時と娘の北条政子によって出家させられ、伊豆国追放となった。伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではないが、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で亡くなったのだと。「大日本六十余将の「北条時政」。画:歌川芳虎」。「北條時政」を演じる「坂東彌十郎」さん。奥にあった墓石群。「願成就院略縁起」碑。その横には願成就院の看板犬、ROCKY(ロッキー)くんがのんびりと。秋田犬で1歳10カ月?「願成就院略縁起当山は、山号を天守君山と称し、阿弥陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺である。創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)に遡る。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。幕府の事績を伝える「吾妻鏡」には、時政公が大御堂と南塔を建立し、二代執権北条義時公が亡父時政公の供養として南新御堂を建立、三代執権北条泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが記されており、堂塔伽藍の営作は北条氏三代にわたる。貞応元年(1222)には「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷より下されており、この地に、守山を借景として、中之島のある池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が、北条氏の氏寺として造営されていたのである。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和48年、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡となる。鎌倉時代の伽藍は、15世紀末、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の堀越御所(北条時政館跡)攻めの兵火で焼失するが、創建時に祀られた大仏師運慶謹作の五仏を中心とする七体の仏像と、仏像胎内造像銘札四枚は、奇跡的にも今日に伝えられており、この尊き御仏像を拝観すると、幕府最大の権力者北条氏とこの寺の盛時を偲ぶことができよう。本尊阿弥陀如来・不動明王・矜羯羅童子・制吒加童子・毘沙門天の五体の仏像は、文治2年(1186)の造像で、運慶30代半ばの謹作、日本彫刻史上、運慶様式の成立を考える上で大きな意義を有する尊像とされ、造像銘札4枚と共に重要文化財の指定を受ける。境内には、北条時政公と足利茶々丸公(堀越御所2代公方)の墓所があり、両公の菩提寺である。運慶作五仏、胎内銘板四枚は平成二十五年に国宝に指定される。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.10
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次に訪ねたのが「成福寺(じょうふくじ)」。浄土真宗大谷派の「成福寺」は、北条正宗入道によって正応2年(1289)に建立された。北条正宗は、鎌倉幕府8代執権北条時宗の三男(幼名 満市丸)とされている。正宗は北条氏一族の菩提を弔うため、曾祖父・北条時政の持仏堂を基にこの地に一宇を開創し、正宗の長子・宗仁がこれを修造して成福寺とした。本堂北側には北条氏一族の供養塔がある。静岡県伊豆の国市四日町981。「北條氏 菩提寺」碑。昔、私達が教わった歴史では、鎌倉は:北條氏、小田原は:北条氏であった記憶が。ネットによると「條は条の正字ですから、北條氏と書いても北条氏と書いても全く同じことです。かつては鎌倉と小田原の両氏を区別するために。前者を北條氏,後者を北条氏と書き分けたりしていました。 しかし、1981(昭和56)年に文部省国語審議会(現文部科学省文化審議会国語分科会)から常用漢字1945文字が発表され、法令、公用文書、新聞、雑誌、教科書などもこれに準拠することとなりました。 以前の当用漢字では條でしたが,常用漢字では条を採用していますから、人名も北条氏に統一されることになり、現在では鎌倉は北条氏、小田原は後北条氏と書き分けています。」と。「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ 乗せてかならず渡しける」生死の世界は苦しみばかりの海のように果てがない。この海に遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せてかならず渡してくださる と。寺号標石「浄土真宗 晴雲山 成福寺」。「一人いて喜ばば 二人と思うべし 二人いて喜ばば三人と思うべし その一人は親鸞なり」一人いるときは二人、二人の時は三人と思ってください。うれしい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではありません。いつもそばにこの親鸞がいますよ という意味であると。「成福寺」は蓮の寺でもある。「成福寺の蓮成福寺には約200種類250株の蓮花が植えられています。毎年6月中旬から8月までたくさんの花が境内に咲き竸います。昭和の終わり頃、20世秀門住職がインドのブダガヤの池から一粒の蓮の種を持ち帰り、植えてみたら発芽したことから蓮の栽培が始まりました。平成に入り、蓮博士古幡光雄先生が管理してい100種類の貴重な蓮を成福寺に寄付され、爾来花蓮の会友との交流、交換で現在に至っています。」「本堂」。現「本堂」は平成元年に建てられた。それまでの「本堂」(江戸時代後期の建物)は改造され、客殿として使用している と。近づいて。扁額は「成福寺」。内陣。本尊の阿弥陀如来像。頂いたパンフレット。「成福寺縁起」成福寺は真宗大谷派(本山・東本願寺)に属し、阿弥陀如来を本尊とします。鎌倉幕府八代執権・北條時宗の三男の北條正宗入道(幼名・満市丸)が正応ニ年(一ニ八九)五月ニ十五日に北條氏発祥地の当地伊豆北條村(現在伊豆の国市四日町)に建立したといわれています。当時、元の国(今の中国)が日本を支配するために、大軍を九州に派遣しました。俗に言う「元寇の役」です。これがニ回に及び多くの戦死者が出ました。この元兵をも含む十余万の霊を弔うために、八代執権北條時宗は鶴岡八幡宮に一切経書写奉納の大願を立て、子息の正宗に命じて校合の為、各宗派の高僧を招きました。このとき親鸞聖人の孫で本願寺ニ世の如信上人と出会い、念仏の教えを受け、正宗は信仰を確立しました。時宗の死後正宗は、北條氏発祥の地韮山北條村にもどり、曾祖父北條時政の持仏堂を基に成福寺を建立しました。爾来、北條氏の血脈を保ち、現代に至っております。北條正宗公法名、成福寺殿釋正宗、延慶元年(一三〇八年)六月ニ日入寂室町時代の終わり頃、浄土真宗の本山、大坂石」山本願寺は織川信長に攻められ十一年間の本願寺に物資を送るときの中心的寺院に麻布善福寺とともに伊豆成福寺がになっていたことがわかります。現本堂は平成元年に建てられました。それまでの本堂(江戸時代後期の建物)は改造され、客殿として使用しています。百メートルほど離れたところに、北条政子の「政子産湯の井戸」、足利氏が北条屋敷跡につくった堀越御所跡地(国指定史跡)がある他、近辺に北條高時の母、円成尼が建てた円成寺跡(国指定史跡)があり、源頼朝の流された蛭が小島や北条早雲が没した韮山城(跡)の他、成福寺周辺には前の北条氏、後の北条氏の史跡がたくさん見られます。発掘調査が、成福寺境内で数回行われ、土器、陶磁器、古銭、金具などが出土し、史実が明らかになってきました。」「北條氏系図(成福寺系)」「北条氏ゆかりの成福寺寺伝八代執権北条時宗の子、北条政宗(幼名満市丸)が父の遺志を継ぎ正応二年五月二十五日(一ニ八九)鎌倉よりもどり成福寺を建立した。成福寺は現在真宗大谷派に属し、阿弥陀如来を本尊とする。本山は京都東本願寺である。平安時代桓武天皇の流れをくむ、伊豆の国在庁官人であった。平時家時方(北条氏の先祖)の庁舎持仏堂の跡に寺を建立したと伝えられる。父北条時宗は元寇の役の全戦死者我が将兵と元兵を含む十六万余人の菩提を弔うため、長男貞時には、一千体の地蔵尊、正宗には一切経写経奉納を命じた。正宗は校合の師として如心上人に懇請し大願成就した。全国の高僧により追弔法要が鎌倉にてとり行われた。敵も味方も皆仏と時宗は考えた。如信上人の教を受けた正宗は、浄土真宗の僧となり、各地に念仏の布教を行い、特に貧しい人々の心の支えとなった。父時宗の死後、正宗は鎌倉を離れ、北条氏の故郷、伊豆北条村に成福寺を建て、両親の遺骨の一部を鎌倉より持ち帰り墓を造り、また歴代北条氏の菩薩を弔っている。戦国時代、韮山の地に、山城を造り住んだ、早雲と成福寺は交わりがあり、孫の氏康は虎の朱印状を出し、浄福寺の僧が、大阪本願寺に行くことを援助している永禄五年(一五六ニ年)の朱印状が現存している。今も北条氏の子孫が、法灯を護り現在に至っている。史跡発掘調査により史実が明らかとなってきた。」「成福寺と北條館・堀越御所源頼朝をもりたて、鎌倉幕府の基礎を築いた北条氏の居館は・守山の麓から成福寺を含む広大な地域を占めていたと言われ、地籍図にも御所の内、築山、中之島等の字名があり、また成福寺境内には土るい、堀、水路などの遺構が残存しています。北条時政が政子と頼朝の新居として建てた別亭(吾妻鏡による)は、ちょうどこのあたりであったと言われています。当寺から東へ直行する道は、頼朝配所の地とされる蛭が小島に通じ、逆に西行すると狩野川対岸の江間の小四郎義時(政子の弟)の居館趾に至るのでこれを北條大路の名残りとする説があります。当寺門前を南北に走る小路は、往時の下田街道で農業構造改善の区割整理以前は四方平野の条理は全てこの方向と一致しています。室町時代になって、長禄元年(一四五七)足利義政は古河公方への対抗策として、弟政知を伊豆に配置しましたが、政知の居館、堀越御所も、当寺付近であると言われ、旧北條館跡の一部が復興利用されたものと思われます。当寺の境内全般にわたって、土器類や古瓦の破片が出土して当寺をしのばせます。」掲示板には「恩は石に刻むべし、怨みは水に流すべし」。「成福寺寺の縁起によれば、成福寺は鎌倉幕府8代執権北条時宗の子、正宗(幼名満市丸)が建立したと伝えられています。正宗は元寇(モンゴル軍の襲来、文永の役・弘安の役)で亡くなった人々の菩提を弔うため、鎌倉から伊豆に移り成福寺を開きました。境内に、正宗と父時宗、母覚山尼の供養塔があります。」墓地からの富士山。蘇鉄の横には石碑が。「まぼろしの 花湧く花の さかりかな」。上田五千石の句。「寺務所」。玄関。扁額「去来現(こらいげん)」。「過去も未来も現在の中にある」という意味であると。例えば 、どんなに辛い過去があっても、「あの経験があったからこそ今の自分がある」と思える人と、「思った通りにならなくて悔しい、腹立たしい」と思う人では、過去の意味合いがまったく逆になる のだとネットから。枯山水の庭にも句碑が。「水澄みて 亡き諸人の 小声かな 」秋元不死男。見事な石庭の姿をしばし楽しむ。「永代納骨堂」であろうか。そして「北条氏廟所」案内板。「北條正宗公 正宗母堂 北條時宗公」墓碑。墓碑を手前から■北條時宗公 (法光寺殿杲公大禅定門) 1284年(弘安7年)4月4日没。■正宗母堂(覚山尼) (潮音院殿覚山志道尼) 1306年(徳治元年)10月9日没。■北條正宗公。 (成福寺殿釋正宗) 1308年(延慶元年) 6月2日没「鎌倉北条氏と成福寺の由来平安時代に桓武天皇の流をくむ伊豆の国在庁官人であった、平時家(時政の父・政子の祖父)の持仏堂か成福寺(天台真言)の前身であったと伝える。鎌倉幕府創立の源頼朝を補佐した北条氏も当地より鎌倉に移住し、「成福寺」👈リンクも北鎌倉小袋谷に建立された。幕府の招きで来られた親鷲聖人の門弟となった泰次(泰時の子)が浄土真宗に改宗、現在も鎌倉成福寺がある。北条時宗の時、元(モンゴル)と高麗の大軍が九州に攻め来り(元寇)十余万人の戦死者を出した。全戦没者追弔会が幕府によって国中の高憎により施行された。その時北条時宗の子正宗は本願寺第二世如信上人の直弟子となり伊豆北条村に浄土真宗成福寺を再興した。時に正応ニ年五月ニ十五日(一ニ八九年)正宗は両親の遺骨を鎌倉より分け持ち帰り館の高土手(築山)に墓を造りまた北条一族の供養塔を建て菩従を弔った北条氏子孫法灯を守り現在に至っている。現本堂は親鸞聖人生誕八百年中興開基釋正宗七百年遠忌を記念し、平成元年十月再建した。建立にあたり、史跡発掘調査が実施され本堂下境内より当時の遺品が多数発見され史実が明らかになってきた。」「北條氏歴代墓所」。「北條一族供養塔」。「無量壽」と刻まれた石碑。 阿弥陀仏の寿命が無量であるところから阿弥陀仏のこと と。多くの宝篋印塔が。墓地を望む。「本堂」を斜めから。駐車場の北側の「納骨堂」。中央に阿弥陀如来像。そして「頼朝・政子語らいの路」を利用して「伝堀越御所跡」へ。「伝堀越御所跡・所在地 静岡県豆の国市四日一町及び寺家地区(左図)・指定年月日及び面積 昭和5 9年1 0月8日指定 1 4 , 0 8 3.0 5平方メートル 昭和6 2年9月8日追加指定 1 3 , 1 3 0.9 4平方メートル 総指定面積 2 7 , 2 1 3.9 9平方メートル指定理由 2 0回に及ぶ発掘調査で発見された園池(庭園内の池)や、中国から輸入された高級な焼き物 などから、鎌倉時代の北条氏の屋敷跡に、室町時代の堀越御所がつくられたことが わかりました。 このことから、日本の中世(鎌倉・室町時代)の歴史を物語る重要な遺跡ということで、 国の史跡に指定されました。・守山を中心とした中世遺跡群 伝堀越御所跡周辺には、史跡願成就院跡をはじめとして中世の寺院群や、御所之内遺跡 (一部は北条氏邸跡として国指定)などの遺跡群が連なっています。 この近くには、伝北条政子産湯の井戸、御所の庭にあったと伝えるむつ石などが 存在しています。・史跡公園に向けての構想 町では、このような重要な史跡を皆さんに開放して、郷土の歴史を再発見し、歴史の町・ 韮山町に誇りをもっていただけるよう、史跡公園とする構想をたてています。 現在、土地の買い上げを進めていますが、終了しだい発掘調査を実施し、その結果をもとに 復元・整備をして史跡公園としていく予定です。」「堀越御所跡」。発掘調査では堀や池の跡などが確認されたらしいが、現在は保存の為に埋め立てられている と。「頼朝旗揚げ物語」のポスター。「幕府の関東支配の拠点伝堀御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越の地に居館を作って身を落ちつけました。これにより政知は「堀越公方」と呼ばれました。しかしこの御所も、その子「茶々丸」の時に北条早雲によって滅ぼされてしまいました。発掘調査によって、池跡や遣水、建物跡が見つかっていて都風な公方の生活を知ることができます。発見された御所の池堀越御所跡の発掘調査では庭園の池や遣木(導水路)が発見されています。また、周辺の発掘調査によって御所跡とその周辺は溝によって碁盤の目のような区画がされている様子が明らかになっています。発見された池の岸は人頭大の石によって護岸されていたり、河原石を敷き詰めて州浜状の池岸が作られていました。一つの池に様々な護岸の変化をつくり庭園の景色に変化を持たせていたことが分かりました。これまでの発掘調査では堀越御所跡の建物がどこにあるのか明らかになっていません。今後発掘調査を実施して、建物跡の位置を確認して堀越御所跡の実態を明らかにする必要があります。」「守山中世史跡群案内図②堀越卸所跡堀越卸所は室町幕府8代将軍足利義政の義兄足利政知が関東を治めるために開いた政庁兼館跡です。発掘調査により大きな池の跡などが見つかりました。御所は政知の死後、茶茶丸に引き継がれますが、戦国大名北条早雲に焼き討ちにあい滅びてしまいます。」そして次に訪ねたのが「北條政子産湯之井戸」。「北條政子産湯之井戸」碑が立っていた。正面に「北条政子産湯之井戸」。「北条政子産湯の井戸保元2年(1157)年、源頼朝の妻・北条政子がこの地に誕生した時に、産湯の水をとったのがこの井戸と伝えられています。かっては、妊婦がこの井戸の水を飲んで安産を祈願するという信仰がありました。※現在は飲めません。北条政子 保元2年(1157)ー嘉禄元年(1225)鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国韮山の豪族、北条時政の長女で、源頼朝が韮山の蛭ヶ島に流されていた時に出会い、恋仲となる。打倒平家のため、挙兵した頼朝を支え、武家政権の樹立に貢献した。頼朝が鎌倉に幕府を開いた後は、御台所として存在感を放った。頼朝の死後、嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺されたが、京都から迎えた幼い将軍の後見人となって幕府の実権を握り、世に尼将軍と称された。」「北条政子産湯の井戸」を覗き込む。そして富士山の姿も望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.09
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「この時代の東国武士の文化・風習ここが武士の歴史のスタート地点この時代は歴史上にようやく武士が出始めてきた時代です。まだ武士たちも素朴でローカルな雰囲気が漂っていますが、この東国の地で頼朝や北条家が心に葛藤を抱えながらも戦い抜き、その後数百年続く武士の時代を作りました。つまり、この地は武士の歴史のスタート地点です。大河ドラマでもあまり描かれてこなかった難しい時代ではありますが、三谷さんの見事な脚本と手練な役者の皆さんのおかげで、とても分かりやすく面白い物語になっていると思います。都と地方の武士の対比に注目この物語の前半の面白さの一つに、都の武士と地方の武士の対比があります。これまで貴族社会に君臨していた朝廷に陰りが見え始めると、平家はその隙をついて富や権力を手にしていきました。一方、農民と紙一重の存在だった地方の武士たちは素朴で、生活そのものがとても質素でした。その違いは彼らが身に纏う物にも顕著に表れており、たとえば平家はツヤのある絹製の着物を着ているのに対して、地方の武士は縄文時代から続く伝統的な植物繊維の布から作られた直垂を着ていました。また甲冑も、平家は真新しいものや綺麗なもの、豪華なものでしたが、地方の武士は古色蒼然としたもの、簡素な甲冑を着けています。ドラマの中では、こうした衣装や甲冑などで当時の武士たちの貧富の差を表現し、彼らの対立を分かりやすく描いています。また、この時代は武士の世の幕開けともいえます。農民から武士へと職能を移し始めた彼らが、今後自分たちの土地を守るためにどう変わっていくのかも見所です。今回の作品は当時の風俗をかなりリアルに再現していると思います。」烏帽子は当時の武士の必需品今回の時代性を示すアイテムの一つに烏帽子があります。当時の成人男性の風習の一つに、自分の頭頂部を人に見せてはいけないというものがありました。現在では考えられないことですが、当時は他人に頭頂部を見られたら、人によってはしばらく人前に出られないくらい恥ずべき事柄だったのです。だから、彼らは就寝中も入浴中も烏帽子を取らず、頭に被っていました。この烏帽子も種類があり、たとえば京都の貴族や武士の烏帽子は薄く黒漆で塗り固めたようなぱりっとしたものでしたが、坂東武士の烏帽子は柔らかくて質素なものでした。しかし、東国の武士の中でも源頼朝のように武士団を束ねる大将ともなると貴族と同じような立烏帽子を被り、折烏帽子(別名:侍烏帽子)を被る家人や所従とは一線を画していました。今回の大河ドラマでは、烏帽子が武士の間の序列や状況の違いを表す重要な小道具として用いられています。」現在までの様々な放送画面がパネルで紹介されていた。義時が女装した頼朝を馬に乗せて逃げるシーン。女装姿の頼朝は「これよりわしを姫と呼べ」と言い、政子から「ご無事をお祈りしております。姫、行ってらっしゃいませ」と声をかけられると、やや裏返ったような声で「はい!」と返事。さらに義時からも「姫、振り落とされないように気を付けて」と言われ、再び「はい!」と答えたのであった。富士の山裾へ逃げた頼朝(大泉洋)。「鎌倉殿の13人 人物相関図」平泉、武蔵、相模、房総で活躍・登場する人物。伊豆で活躍・登場する人物。京、頼朝の協力者、甲斐、信濃 で活躍・登場する人物。頼朝に仕える人々、伊豆の国ゆかりの人々 で活躍・登場する人物。「伊豆の国市オープンセット「鎌倉殿の13人」は、物語序盤の舞台である伊豆の国市内に作られた広大なオープンセットで撮影されています。細部にまてこだわったオープンセットの見所をご紹介します。」「知恵を絞り自然と共存当時、田舎の豪農と大差のなかった武士たちは、板屋根や茅葺屋根の家に暮らしていました。一方、農民たちの家はとても粗末なもので、その中には縄文時代の竪穴式住居のような家も残っていました。また狩野川がたびたび氾濫していたこの地域では、蔵や家の軒先に船を吊り、いつでも逃げられるようにしていた様子も再現しています。藁の鹿を的に矢の練習万全の応援体制て撮影自然の神々を崇める戦とは無緑の坂東武士簡素な造りが当時の主流当時の情景を見事再現今回のオープンセットは北条時政の館周辺を中心に作られました。実際にはセットとして作られていない場所からの景色もイメージすることで、当時の雰囲気により近づけることができました。守山を彷彿させる小高い山や周囲の自然、季節の移ろいなどがリアルさを伴い、まるでタイムスリップしたかのようなセットになりました。」オープンセットのCGであっただろうか。「遙か遠い昔に思いを馳せる北条家ゆかりの地 伊豆の国市」名所案内。1.北條義時館跡2.北條寺3.豆塚神社4.池田の大蛇伝説5.史跡北条氏邸跡(円成寺跡)6.眞珠院 八重姫御堂(静堂)7.頼朝・政子語らいの路8.蛭ヶ島(蛭ヶ島公園)9.守山10.願城願寺11.北条政子産湯の井戸12.光照寺13.香山寺現在地周辺をズームで。この後に訪れた寺社、名所が赤い字で案内されていた。1.北条義時館跡2.北條寺3.豆塚神社4.池田の大蛇伝説5.史跡北条氏邸跡(円成寺跡)6.眞珠院 八重姫御堂(静堂)7.頼朝・政子語らいの路8.蛭ヶ島(蛭ヶ島公園)9.守山10.願成就院11.北条政子産湯の井戸12.光照寺13.香月寺今回は、上記の全ての名所を訪ねたのであった。「鎌倉殿の13人 サイン入り色紙」が並ぶ。ビデオコーナー。再びメインキャストのパネルの顔をズームして。北条義時役:小栗旬源 頼朝 : 大泉 洋。北条政子:小池栄子八重:新垣結衣北條時政:坂東彌十郎再びパネル、衣装コーナーを。出口手前から展示室を振り返る。そして「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」の外に出て「韮山時代劇場 」を散策する。フォットスポットからの富士山。額縁はハート型、イチゴや花が飾られていた。近づいて。更に。図書館であっただろうか。建物の周囲を歩く。観光案内所。三つ鱗は鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)が使用していた。伊豆の国物産館を覗く。様々な土産物が並んでいた。様々なデザインのTシャツが。手提げバッグ。ハチミツも売られていた。大きなイチゴ。1粒100円以上と。「北条さんぽ 御朱印めぐり① 義時コース」。義時コースは、江間小四郎の名が残る地域、義時公が建立した寺や厚い信仰心を抱いた神社等を巡るコース。「北条さんぽ 御朱印めぐり② 政子コース」。政子コースは、北条氏の本拠地、守山周辺、平治の乱に敗れ、源頼朝が配流されたとされる土地、蛭ヶ島、その蛭ヶ島公園には、源頼朝と政子をイメージした「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」像が田園風景越しに富士山を眺めているのであった。時計塔。「伊豆の国市ノルディックウォーキングコース案内」韮山文化センター(韮山時代劇場)は509席の大ホールに120名収容の映像ホール、研修室やリハーサル室、和室、アトリエ、図書館などを備えた、芸術文化の鑑賞や活動に利用できる施設。大ホールでは様々なコンサートやミュージカル、寄席などが開催されると。その前はここ「日だまり広場」と呼ばれる広い芝生の広場があった。「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」を振り返る。花壇の前にも。2005年(平成17年)4月、伊豆長岡町、韮山町、大仁町が合併して、伊豆の国市となる。旧韮山町マンホール蓋。富士山と特産のイチゴと反射炉のデザイン、そしてなぎの葉、スミレの花も。「にらやま」「おすい」 の表記になっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.08
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次に訪ねたのが「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」。南側にあった駐車場に車を駐め「大河ドラマ館」に向かう。「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」案内。「大河ドラマ館」は、ドラマに登場した小道具や衣装の展示、メイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介のパネル等の展示など、大河ドラマの世界観を体験できる施設。歩道に埋め込まれていた「清和源氏系図」「源氏(げんじ)平安時代、皇族が源という姓をもらい臣下となった一族です。なかでも清和天皇の孫 経基に始まる清和源氏は武門の家として栄えました。」「韮山時代劇場」案内図。伊豆の国市韮山文化センターは平成9年4月にオープンした複合施設。大ホール、映像ホール、研修室やアトリエ、韮山図書館などを備え、コンサートやあらゆる芸術文化の鑑賞、活動に利用できる施設。通称「韮山時代劇場」と呼ばれている。この「韮山時代劇場」内に「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」が今年の1月15日にオープンしたのであった。「韮山時代劇場」が左手に。そして正面が1月15日にオープンした「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」。人の姿は少なく・・・。「大河ドラマ館」の正面。「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」。「鎌倉殿の13人」。400円のチケットを購入し、「大河ドラマ館」に入場。「北条義時」の手前には大河ドラマの人物の衣装の様々な色が広がっていた。パンフレットを頂きました。「鎌倉殿の13人 伊豆の国市 大河ドラマ館北条義時を始めとする勇猛な武士たちの活躍により、源頼朝が開いた史上初の武家政権 鎌倉幕府。その中心的存在となった北条家の原点が伊豆の国です。大河ドラマ館では、主人公の北条義時が源頼朝と出会い、父・時政、兄・宗時、姉・政子、妹・阿波局たちと共に、歴史を動かす存在へと成長していく姿を展示しています。また、伊豆の国市の特産品等を扱う「伊豆の国物産館」、文化財展示「義時の里」を併設。1⃣ 「鎌倉殿の13人」の世界 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のストーリーや登場人物をパネルで紹介。人物相関図も。2⃣ 出演者サインコーナー 北条家など、伊豆の国にゆかりの深い役を演じる出演者を中心に、サイン色紙を展示。3⃣ 衣裳・小道具展示 見て楽しめる、作中で登場した衣裳や小道具を展示。4⃣ シアター映像コーナー ドラマのダイジェスト紹介やメイン出演者のインタビュー、伊豆の国市で行われたオー プンセットロケのメイキング映像のほか、市内の北条家ゆかりの地を紹介。5⃣ フォトスポット 当時の時代の雰囲気をイメージしたフォトスポット。記念撮影用。」「人物相関図」正面に主人公「北条義時」のパネルが迎えてくれた。登場人物のパネルの後ろには出演者のパネルが並ぶ。展示パネルをカメラで追った。「全てはここから始まった武士の世を切り開いた真の立役者・北条義時を三谷幸喜が描く予測不能のエンターテインメント「鎌倉殿の13人」は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男、二代執権の北条義時の物語である。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。権力の座を巡って男たち、女たちが繰り広げるパワーゲームが、ここ伊豆から始まろうとしていた。時は平安時代末期、それまで栄華を極めた貴族の勢力は弱まり、時代は武士の世へと移り変わりつつあった。この国を支配していたのは、保元の乱、平治の乱において宿敵・源氏を追い落とし、帝さえも思いのままに操る平家一門。源氏の嫡男・頼朝は、父を殺された上、自身も伊豆に流刑となるが、平家を討つ機会を虎視眈々と狙っていた。そして伊豆の弱小豪族だった北条家が、監視役の伊東祐親を激怒させた頼朝を匿ったことから、義時の運命の歯車が回り出す。想いを寄せる八重の悲恋、姉・政子と頼朝の結婚・・・、そして打倒平家に向けて、頼朝を中心に曲者揃いの豪族たちも勢力争いに加わるべく動き出す。それぞれの思惑が蠢くなか、頼朝に翻弄されながらも、義時は歴史の表舞台に躍り出ていく・・・。脚本を手掛けるのは『新選組!』(2004年)『真田丸』(2016年)に続き、大河ドラマ3作目となる三谷幸喜。戦国や幕末と比べあまり馴染みのない鎌倉時代、さらに歴史上それほど名の知られていない北条義時にスポットを当て、現代のエンターティンメントとして予測不能のストーリーを展開していく。」「野心とは無縁の一人の若者武者が頼朝の右腕となって天下取りを支える伊豆の弱小豪族である北条時政の次男として生まれた北条義時。野心家の兄・宗時と気の強い姉・政子、そして皮肉屋の妹・実衣とともに暮らし、戦にも政(まつりごと)にも全く興味を示さず、米蔵で木簡の整理に勤しむ日々を送っていた。そんなある日、伊豆国で一番の力を持つ伊東祐親の娘・八重が子どもを産む。子どもの父親は、平清盛率いる平家に敗れ流人となり、祐親が監視役を担っていた源頼朝だった。このことに激怒した祐親は頼朝を殺せと命じるが、頼朝は危険を察しいち早く逃亡。平家に反感を持つ宗時に助けられ、北条家に身を寄せることになった。北条家に匿(かくま)われた頼朝は八重のことも顧みず、政子と結婚。幼いころから八重に恋心を抱いていた義時の心境は複雑ではあるものの、陰ながら八重を見守るしかなかった。義兄となった頼朝の曖味な言動に翻弄され、また坂東の地のためと立ち上がった武士たちのいざこざに巻き込まれながらも、次第に策を以て駆け引きする政の面白さに目覚めていく義時。頼朝の信頼を得た義時は、いっしか右腕となって平家討伐の挙兵に力を注ぐことになる。虎視耽々と挙兵の機会を伺ってきた頼朝は、1180年(治承4年)、ついに関東武士団を結集し、平家に反旗を翻(ひるがえ)す。この無謀な大博打に乗った義時に待ち受ける未来とはーー。」「作 三谷幸喜(みたにこうき) 大河ドラマ3作目の舞台は陰謀渦巻く鎌倉時代『新選組!』『真田丸』に続き3作目となる今回は、幕末や戦国と比べるとあまり知られていない鎌倉時代を舞台に、今までの大河ドラマにはない、予測不能な面白さのある新しい大河を作ろうと思いました。物語は当時を克明に記した『吾妻鏡』を基本にしています。ただ史実に忠実であればあるほど、その裏側が見えてこない部分があります。そこは僕なりの解釈でイメージを膨らませて書いています。実際に北条家のあった場所などを見て回ったのですが、東京に近いにも関わらす、のどかな田園風景が広がっていて、当時と変わらない光景を目にしたような気がして新鮮に感じましたし、脚本を書く上でもとても役立ちました。今回は伊豆の国市での出来事が発端となり、鎌倉に幕府が開かれ、その後、日本の歴史上では初めてとなる合議制で執り行った13人の御家人たちの物語です。この13人が勢力争いで次々と脱落していくなか、最後に残ったのがニ代執権・北条義時。いちばん若かった彼が、最終的に鎌倉幕府を引っ張っていく最高権力者になる。そこまでを、今回のドラマで描いていきたいと思っています。」「音楽 エバン・コール ドラマの世界観をシネマティックな音楽で盛り上げるオファーをいただいてすぐに台本を拝見しました。今回の大河ドラマは脚本家・三谷幸喜さんらしい、とてもエンターテイメント性の高い作品だと思いました。私はこのドラマの面白さを音楽のカで伝えていきたい。そこで日本の楽器も使用しましたが、あまり馴染みのない外国の伝統的な楽器を使い、ノスタルジックな工ッセンスは残しつつ、シネマティックなアプローチで曲を作リました。歴史ある大河ドラマの多くのファンの皆さんに、映像だけではなく、音楽も楽しんでいただきたいと思っています。プロフィール作曲家・編曲家。バークリー音楽大学にてフィルムスコアリングを学び、2012年より日本で作曲活動を開始。映像音楽を中心に、ボーカルソングへの楽曲提供、作詞、歌唱等、幅広く活躍する。アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ、NHK土曜時代ドラマ『螢草 菜々の剣』などの音楽も手がける。」「語り 長澤まさみ 登場人物に寄り添い、それぞれの行く末を見届けたい大河ドラマのナレーションに憧れていたので、オファーをいただいたときは嬉しかったです。三谷幸喜さんからは、その場にいるような感覚で登場人物に寄り添ってナレーションしてほしいといわれました。責任重大だなと思いつつ、監督たちと打ち合わせを重ねながら、私自身も出演者の一人のような気持ちで挑んでいます。三谷さんの脚本は、時代が醸し出す殺伐とした雰囲気はありながらコメディ要素も散りばめられています。そこにBGMと同じような、ドラマに相乗効果をもたらすようなナレーションをしていきたいです。そして、皆さんと同じように登場人物たちに愛着を持ちながら、それぞれの行く末をしつかり見届けたいと思います。」プロフィール1987年、静岡県生まれ。女優。第5回「東宝シンデレラ」オーディションでグランプリ受賞。2003年、初主演映画『ロボコン』で日本アカデミー賞新人俳優賞受賞。その後も話題の映画やドラマ、舞台に多数出演する。大河ドラマでは『功名が辻』『天地人』のほか、三谷幸喜脚本の『真田丸』に出演。」「北条政子」小池栄子さんの衣装。着物と草履、どちらも「撮影使用品」と。「萌黄色地染め萩の葉花散らし柄絞り麻小袖に草色地染め菱絞り麻褶 薄萌黄捩り緒草履当時は小袖に「褶(しびら)」という布を腰に巻くスタイルが武家の女性に多くみられた。政子の衣装は丈夫な麻や綿を使用し、北条家のイメージカラーのアースカラーで彩られている。」「北条政子」、「八重」のパネル。「源頼朝」のパネル。「八重」新垣結衣さんの衣装。着物と草履、どちらも「撮影使用品」と。「紅鳶(べにとび)色地染め桔梗柄絞り紬(つむぎ)小袖に淡香(うすこう)色地染め赤褐色流水に松葉柄絞り紬褶 (つむぎしびら)捩り緒(ねじりお)草履 色晒手拭伊豆で力を持っ伊東家の箱入り娘である八重は、やや豪華な衣装を身にまとっている。紅鳶色や淡香色を使用し、華やかななかにも少し落ち着いた印象を加えている。」「北条義時」小栗 旬さんの衣装 着物「複製品」 草履「撮影使用品」と。「松葉色地染め木綿小袖に若苗色地染め桔梗亀甲柄麻直垂(ひたたれ)捩り緒(ねじりお)草履当時の坂東武士の装束は上衣と袴で構成された「直垂」だった。まだ一介の田舎侍に過ぎなかった義時の若々しさを、爽やかな若苗色(萌黄色に近い)で表現している。頭には頭頂部を隠すための折烏帽子を着用。」「伊豆の若武者が武家政権の礎を築く 北条義時伊豆に拠点を置く北条時政の次男。戦にも政にも特に興味がなく、万事において実直で控えめな性格ではあったが、姉・政子と源頼朝が結ばれたことで、思いがけず頼朝の右腕となり、鎌倉幕府の誕生に向けて邁進する。頼朝の最初の妻・八重に対し、一方的に恋心を募らせる初心な一面も。INTERVIEW 小栗 旬(おぐり じゅん)1年半にも渡り、一つの役を演じることに戸惑いがあったのですが、逆にそれほどの長い間、一人の人物に向き合いながら生きていくことへの好奇心の方が勝り、オファーを受けました。義時はあまり自発的に行動するタイプの人物ではないので、最初は頼朝の行動や考え方を理解できなかったと思うんです。でもニ代執権として権力を握っていくと、いつの間にか自分も頼朝と同じような人間になっている。そこが本当に不思議だなと思うし、人間の面白いところだと思います。そんな義時を僕らしく演じていきたいです。撮影は順調に進んでいて、北条ゆかりの伊豆の国市に作っていただいた広大なオープンセットでは、当時にタイムスリップしたような気分で演じることができるので、本当にあリがたく思っています。」「孤独を胸に秘めた源氏の棟梁 義時を右腕に天下を狙う。 源 頼朝源氏の棟梁。父・義朝が平清盛率いる平家との戦に敗れたため、14歳で伊豆国に流刑となった。監視役の伊東祐親の娘・八重と結ばれたことで、祐親の逆鱗に触れる。北条家に匿われ、時政の娘であり、義時の姉・政子と結婚。やがて、義時ら坂東武士の力を借り、打倒平家の兵を挙げる。ついには平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開く。INTERVIEW 大泉 洋(おおいずみ よう)今回、演じる役が源頼朝と聞き、僕からは程遠いキャラクターだなと思いました。でも、脚本を拝見すると、史実にあるような怖い頼朝の姿もしっかりと描かれつつ、「これは大河ドラマなのか! ?」と思ってしまうような笑いの要素もあって。その笑いと怖さと切なさが絶妙な匙加減で描かれているので、この辺りは三谷さんの真骨頂だなと思いました。三谷作品への出演は、私にとってはご褒美みたいなもの。頼朝の孤独さを胸の内に感じながら演じ切りたいと思います。」「義時の姉にして源頼朝の妻。のちには尼将軍として君臨 北条政子伊豆の豪族・北条時政の娘。長女として家族の世話に明け暮れるなか、北条家に匿われた源頼朝に一目惚れし、結婚。夫・頼朝の最初の妻である八重に対してライバル心を燃やしつつ、頼朝の打倒平家に向けた挙兵や鎌倉幕府の成立を陰で支える。INTERVIEW 小池 栄子(こいけ えいこ)政子は策略家といわれていますが、今回の政子は一目愡れした頼朝を信じ、家族のために信念を貫き通す、とても情の深いチャーミングな女性に描かれています。実際に伊豆の国市にもお伺いし、歴史上で有名な源平合戦の始まりが、こんな距離感でのご近所争いを発端に始まったと知り、そのギャップが面白いなあと思いました。これから強さや逞しさを得ていく政子に私自身も学びながら、皆さんの記憶に残る政子を演じていきたいです。」「北条義時の初恋の人であり、源頼朝の最初の妻 八重源頼朝の監視役だった伊豆の大豪族・伊東祐親の娘。祐親が大番役として上洛している間に頼朝と恋仲になり、千鶴丸をもうける。しかし、そのことを知った祐親は激怒し、千鶴丸を取り上げ、八重も別の男性の元へ嫁ぐことになるが、頼朝への想いは断ち切れずにいる。また義時が密かに思いを寄せる相手でもある。INTERVIEW 新垣 結衣(あらがき ゆい)私が演じる八重は、とても悲しい運命を背負った女性なのですが、ドラマ中では逞しさや愛情深い女性として描かれています。歴史上の人物ではあるけれど、そこは三谷さんらしく、血の通った魅力的なキャラクターに仕上げていただいていると思います。八重のゆかリの地にも伺いましたが、地元の皆さんたちがこの地で歴史を築いてきた方たちを大切にする気持ちが伝わってきました。改めて八重の存在を感じながら、私自身も楽しんで演じたいと思います。」「弟・義時とは異なり、打倒平家に燃える若き夢想家 北条宗時伊豆の豪族・北条時政の嫡男。のちに源頼朝の妻となる政子や義時の兄にあたる。源氏の棟梁である頼朝の立場を利用し、打倒平家に燃える若き夢想家。しかし、その一方で父・時政譲りのお気楽な面も持ち合わせており、何かにつけて義時を頼ってしまう。伊豆目代・山木兼隆邸の襲撃では襲撃隊の先導役を務めた。」INTERVIEW 片岡 愛之助(かたおか あいのすけ)宗時は資料があまリ残っておらず、その存在はべールに包まれています。難しい役ではあリますが、演じる側としてはイメージに固執せずに役作りができますし、自分とは異なるタイプの人生を演じられるのは役者の醍醐味なので、宗時の人生を歩ませてもらえることに歓びを感じています。坂東武者らしく、熱く強い思いを持ちながら、その一方で父譲リのお気楽で前向きな宗時像を演じていきたいです。弟・義時との兄弟の絆も見どころの一つだと思います。」「源頼朝の不遇の時代を陰ながら支えた乳母 比企尼武蔵国を治める比企能員の母であり、源頼朝の乳母。頼朝が京から伊豆国へと流刑となり、自らも坂東の地へと下る。その後は長年に渡り仕送りをするなど、頼朝の味方となって援助をし続ける。NTERVIEW 草笛 光子(くさぶえ みつこ)比企尼は頼朝の乳母で、不遇の時代の頼朝を支えた人です。とても難しい役柄ですが、三谷さんは役者をのせるのがとても上手なので、どうやって演じようかとワクワクしています。今は大人しく凪いだ状態でいますが、実は娘たちをしかるべき人に嫁がせるなど、したたかな面もあリ、今後の展開が楽しみです。大泉洋さんとは『真田丸』以来の共演でしたので、少し緊張しましたが、実際に演じてみたら子どもの頃の頼朝の顔が浮かんで、自然に演じることができました。」「頼朝の弟。北条の栄枯盛衰を見つめる 阿野 全成(あの ぜんじょう)源頼朝の異母弟であり、源義経の同母兄。平治の乱で父・義朝が破れたことで、幼くして京の醍醐寺に出家する。しかし、兄・頼朝の挙兵を知り、伊豆に駆けつける。得意とする易や星で戦や政の吉凶や凶兆を占い、頼朝の天下取りを陰ながら支えていく。INTERVIEW 新納 慎也(にいろ しんや)歴史上はあまり知られていない阿野全成を演じます。三谷さんはこういった人物を描くのが本当に上手なので、全成が兄・頼朝と弟・義経に挟まれ、どのようなことを思っていたのかを想像するだけで楽しみですし、とても演じ甲斐のある役だなと思います。「悪禅師」ともいわれた全成が、どういう意味での「悪」なのか、また悪にならざるを得なかった理由とは何なのか。彼の心の内が染み出るような奥深い阿野全成を演じられるように頑張リます。」「兄・義時を慕うも、北条家を冷静に見つめる皮肉屋 実衣(みい)(阿波局)伊豆の豪族・北条時政の娘。源頼朝の妻・政子と北条義時の妺にあたる。次女らしく調子のいい面もありながら、政子の頼朝への恋心にいち早く気づくなど、北条家の中でもっとも冷静に家族を見つめる皮肉屋でもある。また父・時政とりくとの再婚に複雑な心境を抱く。INTERVIEW 宮澤 エマ(みやざわ えま)伊豆の素朴な武家の娘だった実衣が、鎌倉幕府の政局を揺るがすほどの影響力を持つ「阿波局」になるには、混沌とした勢力争いの中を生き抜く北条家ならではの逞しさがあったのかなと想像しています。三谷さんからは「阿波局の人生を思い切り明るく演じてほしい」といわれましたので、長い時間をかけて一人の人物を演じる喜びを胸に、明るく退しく生きる阿波局を「歴史上の人物」を超えて愛されるように精一杯演じたいと思います。」「家族思いがゆえに、苦渋の決断も下す八重の兄 伊東 祐清(いとう すけきよ)伊豆の伊東を拠点とした大豪族・伊東祐親の息子。妺・八重と源頼朝の関係に激怒した父・祐親から逃すため、北条宗時に頼朝を託す。叶わぬ恋に悲嘆する八重に同情し、頼朝との再会の場を計画するが、その一方で祐親の命令に従い非情な決断を下してしまう。INTERVIEW 竹財 輝之助(たけざい てるのすけ)伊東祐親の次男・祐清を演じさせていただきます。大河ドラマで武将を演じることは、役者として一つの目標でした。今回、その目標が叶い、今は興奮と緊張が半端ないですが、演じられることに幸せを感じています。祐清は妹・八重を大切に思う心優しきお兄ちゃんです。しかし、その八重をきっかけに、祐清は親族のゴタゴタに巻き込まれてしまいます。家族思いがゆえ、その中で揺れ動く祐清の心情を丁寧に演じたいと思っています。」「義時を支え、頼朝の天下取りに力を注ぐ勇敢な坂東武士 仁田 忠常(にった ただつね)伊豆の武将。カ自慢であり、初めての戦を前に準備を怠らない真面目な性格の坂東武士である。義時らとともに源頼朝の挙兵に加わり、その後の戦では多くの手柄を挙げ、頼朝からも厚い信頼を得る。INTERVIEW 高岸 宏行(たかぎし ひろゆき)大河ドラマはもちろんですが、本格的なお芝居も今回が初めてとなります。僕自身、「応援」をテーマに活動している者として、視聴者の皆さんや出演者、スタッフの皆さんを鼓舞することはもちろん、演じる仁田忠常を応援するような気持ちで、全身全震をかけて一生懸命チャレンジしていきたいと思っています。心を一つに、素敵な大河ドラマにするぞ!みんなならやればできる!」「頼朝の髻観音像14歳て伊豆へと配流された頼朝の心の支えとなったのが、幼いころから肌身離さず持ち歩いている小さな観音像。北条家に乗り込んてきた祐親から逃れるときも、信心深い頼朝は観音像に祈りを捧げ、そっと髻*の中に入れた。*頭頂部に集めた髪を束ねた部分 第1回「大いなる小競り合い」「八重が頼朝へ宛てた矢義時から頼朝挙兵の動きを聞き、父・祐親と頼朝の間で心が揺らぐ八重。思い悩んた未、八重は対岸の北条家に向け、白い布を結び付けた1本の矢を放った。それは頼朝だけに通する秘密の合図であり、父や兄を裏切るものであった。 第4回「矢のゆくえ」「千鶴丸おもちゃ義時から手渡された頼朝の手紙を読む八重の傍らで、馬を模して作られた藁のおもちゃを手に無邪気に遊ぶ千鶴丸。幼いながらも、将来は父・頼朝のような武士になることを夢見ていたのかもしれない 第1回「大いなる小競り合い」」「木簡:米の納品伝票まだ紙が貴重な物であったこの時代、米の納品伝票として木簡という木の板が用いられていた。万事に控えめな義時は、時政らか酒を交わす宴の席を避け、米俵か積まれた蔵の中でこの木簡の整理に勤しんでいた。 第1回「大いなる小競り合い」」フォトスポット。この日は烏帽子を冠って。「北条時政」のパネル。「義時の父、北条一族のため天下取りの大勝負に挑む田舎武士 北条 時政伊豆を拠点とした在地豪族であり、義時の父にあたる。欲がなく大らかな性格で、後妻に迎えたりく(牧の方)にメロメロだったが、娘・政子と源頼朝の結婚を機に、北条一族のために平家討伐へと舵を切る。いざ戦に出ると息子たちが驚くほどの剣の達人でもある。鎌倉幕府の初代執権。INTERVIEW 坂東 彌十郎(ばんどう やじゅうろう)歌舞伎に登場する時政はとても怖い人物です。でも、今回の時政は武骨で自分や一族のことしか頭にない、田舎侍の印象でした。だからこそ、歌舞伎の時政はすべて消し、私なりの時政をゼロから作り上げています。実は演じる前に時政のお墓や館跡などゆかりの地にも足を運びました。そこで時政がどのような気持ちで美しい富士山を眺めたか。鎌倉幕府の執権となる前と後ろでは、その思いも違ったのかもと思うと感慨深かったです。この先の展開は全く読めないので、今はそこを楽しみながら演じています。」「義時の継母。傍らで夫の欲を煽り、権力の座へと導く りく(牧の方)公家である牧宗親の妹。大番役として上洛していた北条時政に見初められ、後妻として北条家へ嫁ぐ性格はしたたかな面があり、欲のなかった人・時政を傍らで鼓舞し続け、天下取りを後押しする。しかし、のちのち、りくの言動が思わぬ事態を巻き起こすことになる。INTERVIEW 宮沢 りえ(みやざわ りえ)史実での牧の方は悪女のイメージがあリますが、この激動の時代に名誉や権力に対して強い憧れがあったり、周りへの焦りなどが積み重なって、本人も気づかないうちにそうなってしまったのかなと思います。ただ夫である時政は無償の愛を注いでくれるので、そういう意味では彼女はとても幸せな人なのかもしれません。今は公家出身らしく、優雅さを意識しながら一つひとつのシーンを演じていますが、これから先、役が体に駅染んでいくといいなと思っています。」「義時の祖父。平家に謀反を企てる頼朝の命を狙う老武士 伊東 祐親(いとう すけちか)伊豆の伊東を拠点とした大豪族。北条時政は娘婿にあたり、義時や宗時、政子は孫になる。平家に仕え、伊豆に流刑となった源頼朝の監視役を務めるが、大番役として上洛している間に娘・八重と頼朝が深い仲となり、子どもまでもうけたことに激怒。平家討伐を目論む頼朝を目の敵にして命を狙う。INTERVIEW 浅野 和之(あさの かずゆき)三谷さんから送られてきた祐親の人物像は、「老いても矍鑠とした老武士。眼光鋭く、自分の中にある人格者の要素を総動員してください。大事なのは威厳です」でした。どれも私にない要素ばかりで(笑)、とても戸惑いました。しかも、祐親は自分のプライドのために親族までも手にかけてしまう。この時代は仕方なかったのかもしれませんが、本来の祐親の包容力などの人間性も想像しつつ、自分の中で出来る限りイメージして撮影に挑んでいます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.07
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「韮山城跡」を後にして次に訪ねたのが「源頼朝公配流の地・蛭ケ小島(ひるがこじま)」。静岡県伊豆の国市四日町12。「遺蹟 永暦元年(一一六〇)源頼朝公配流の地 蛭ケ小島」碑。1160年(永暦元年)、平治の乱で敗れた源頼朝は、平清盛に捕えられたが、清盛の継母池禅尼の命乞いで、翌年、伊豆国のここ蛭ヶ小島に流罪となった。伊豆国で約20年間を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、ついに源氏再興の兵を挙げたのだ。「蛭ヶ島公園源頼朝は14歳の時、平治の乱に敗れ、伊豆に配流されました。その後20年間流人として過ごしました。ここ蛭ヶ島は頼朝が流人生活を送った場所と伝えられています。公園内には、江戸時代に伊豆の地誌「豆州志稿」を著した秋山冨南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)があります。また、平成16年に富士山に向かって頼朝と政子が寄り添うプロンズ像「蛭ヶ島の夫婦」が建てられました。」「蛭ヶ小島」の場所はここ。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(びこうち)(田島)であったと考えられていると。 中州にある中で一番小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと。公園内には多くの俳句作品が展示されていた。「北條の里に 漲(みなぎ) る 淑気かな」(右)。『遠藤韮城』の句碑。碑には「ふるさとは富士の全き良夜かな」と刻まれていると。 彼はのちに朝鮮俳壇で知られる俳人のひとりであり、『ホトトギス』の虚子選雑詠にも入選を果たした俳人 と。「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」と呼ばれれる頼朝と政子の銅像。逆光故に斜めから。ズームして。源頼朝(31歳)と北条政子(21歳)の像であると。こちらは、2018年2月に訪ねた際の写真です。源氏再興を誓い富士山を見つめているのであろうか。富士山を間に入れて。時計塔。「源頼朝公配流の地・蛭ケ小島」の前、「蛭ヶ島の夫婦」が見つめる北方向の道の西側を見る。煉瓦で出来た遊歩道には陶製のプレートが、韮山駅から蛭ヶ島公園、韮山城まで、伊豆の歴史を説明するタイル板が埋め込まれていたのであった。『源平のおもな合戦(1180~1185) 【一ノ谷の戦い】 京に上ろうとする平氏を義経らが打ち破った戦い。 【屋島の戦い】 屋島で体勢を立て直そうとした平氏を襲撃。 【壇ノ浦の戦い】 源平最後の大決戦 清盛の妻二位尼は8才の安徳天皇を抱き海中へ飛び 込み自害しました。平家の滅亡(へいけのめつぼう) 1185年(元暦二年)、源平最後の決戦、壇の浦の戦いで平家軍は壊滅。平家は滅亡します。』『弟 義経との再会(おとうとよしつねとのさいかい)👈リンク富士川を平家が敗走したのち、黄瀬川に陣をはる頼朝の元にはるばる奥州から弟の義経がかけつけました。父義朝が平治の乱で討死した時、義経はまだ2歳の幼児でした。』『韮山名物” いちごの電照栽培 ” 冬の夜景は見事です。』『富士川の対陣(ふじかわのたいじん)頼朝追討の平家軍は、平維盛を大将軍として京を出発し、富士川の西岸に布陣していましたが、水鳥の羽音を夜襲と思いにげてしまいました。』その他、以前に訪ねた時、様々な場所にあったものです。『平治の乱平治元年(1150年)に興った平清盛と源義朝の権力争いです。このとき、13才の頼朝は初めて戦に参加しましたが、源氏は敗れ父義朝も討たれました。』『平 清盛保元・平治の乱で平氏の武士団を率いて藤原氏と源氏の勢力をおさえました。太政大臣になり平家を栄えさせましたが、強い勢力にまかせておごった平家は人々に嫌われるようになり、反旗を翻した源氏との戦いの最中に熱病にかかり世をさりました。宋との貿易にに乗り出す等、先進的な考えをもつ政治家でもありました。』『蛭ヶ島もとは狩野川の氾濫によりできた中の一つで、当時は湿田に囲まれた島状の地形でした。頼朝は永歴元年(1180年) 1 4歳の時にここに流され、約20年間の流人生活をおくりました。』『真珠院とハ重姫若き日の頼朝とをに落ら、悲恋の末失意のうちに古川に身を投げた伊東の豪族の娘八重。真珠院に建てられた供養堂では「はしごがあったら、ハ重姫を教うことができたのに」という人々の思いからはしご供養が行われています。』『頼朝と政子北条時政が都にのほっていた時、娘の政子と頼朝の間に女の子が生まれました。しかし時政は平家ー門の山木判官兼隆に政子を嫁がせようとしました。婚礼の日の夜山木の館を抜け出した政子は雨の降る中を夜通し走り頼朝のもとに行きました。』『北条時政(ほうじょうときまさ)伊豆国の役人だった時政は平家から頼朝の監視役を命じられていました。しかし頼朝がむすめ政子を妻とした後は、娘婿頼朝をたすけ鎌倉幕府の、初代執権となります。しかしその後息子の義時・政子との対立に敗れ引退。耳は願成就院にあります。』『江川邸この地の世襲代官として長く領民に親しまれた江川氏の住宅です。主屋は鎌倉時代の住宅を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。』「蛭ヶ島茶屋」。「鎌倉殿の13人」のポスター。「北条氏歴史紀行 スタンプラリー」が行われていると。「蛭ヶ島茶屋」案内板。「蛭島碑記」の古碑の碑文を撰文した秋山富南の顕彰碑「源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790年)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されています。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南頌徳碑(しょうとくひ)で、豆州志稿の増訂に当たった萩原正夫が、明治26年に建立したものであります。」 と。 公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は市指定文化財。「平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛に継母(ままはは)・池禅尼(いけのぜんに)の命乞い(いのちごい)によって伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流(はいる)されました。1160(永暦元)年2月の14歳の少年期から、1180(治承4)年8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたとされています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったと思われ、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三島の三社詣(さんじゃもうで)、天城山での巻狩り(まきがり)などの伝承も残されています。当時の蛭ケ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(びこうち)(田島)であったと考えられます。 他にも蛭ヶ小島と称する中州がある中で一番小さかったことから後年「蛭ヶ小島」と呼ばれるようになったものと思われます。現在は、伊豆の国市の文化財に指定されています。」 と。「蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)このあたりを、伊豆の国市四日町町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、『吾妻鏡』治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、伊豆の国市の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った萩原正夫が、明治26年に建立したものである。」「韮山史跡・観光総合案内図」。様々な観光スポットが写真入りで説明されていた。頼朝と政子の「梛(なぎ)の葉の縁結び」記念碑。伊豆国に流罪となった源頼朝と北条政子は、変らぬ愛の証として、伊豆山神社の御神木の葉を持っていたといわれている。それが「椰の葉」。政子は、椰の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛を祈ったといわれている。「椰の葉」は、横に裂けないことから「愛のお守り」として、また、「家族平穏のお守り」として功徳があると。「頼朝と政子(梛の葉の縁結び)北條時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、三十一歳の源頼朝と二十一歳の北条政子は恋に落ちました。源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆国の目代である山木判官平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山木館を脱出し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も北條時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相会することができたのです。かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができました。近世中期の投節のひとつに『こんどござらば持て来てたもれ、伊豆の小山のなぎの葉を。』という歌があります。「今度、おいでになるときには、伊豆の小山のなぎの葉を持ってきてくださいね」という願いのうちに「それをお守りにしたいから」との意がこめられています。女の方から男に言った言葉です。当時の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると、願いごとがかなう(結ばれる)とされていました。「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉は、当時の娘たちのあこがれであり、願いであったことでしょう。梛を鏡の裏のお守りとすることは、寛永の頃から享保の頃まで流行したようです。」そして駐車場横にあった「歴史民俗資料館」を訪ねた。「伊豆の国市 歴史民俗資料館この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが18世紀中頃以前に建造されたものと推定される。軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となって上までのびている。この形式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和52年12月20日、静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮山町歴史民俗資料館として昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。」蛭ヶ島敷地内にある、民族資料館。建物は、18世紀初期頃の創建と推定される庶民農家で、住宅としては県内最古。県指定文化財。土間にあった懐かしい農機具。畳のない板の間のみの広間・座敷を見る。「旧上野家住宅について一、この建物は間口11.9m、奥行5.9m、建物面積は65.7m2(19.9坪)です。ニ、広い「土間」を左にとり、右側に「ひろま」「ざしき」「なんど」の3間を配しており、 この形式を「広間3間取型式」といい、口伊豆地方に多い型式です。建物の総面積に比し 「土間」や「ひろま」を広く取っているのは、民家が単なる「住まい」という単一目的だけの ものではなく、「生産」という大きな役割を果たす場所でもあったからです。三、建物の材料は松・けやき・杉の他、竹、茅等を使っており、これらはすべて近くの山野で入手 できる材料ばかりです。また柱等の表面仕上げは鉋(かんな)を用いず、手斧(ちょうな)等を 使用した荒仕上げがふつうでした。四、「土間」と「ひろま」の中央境の柱が大黒(柱)、また「ひろま」と各部屋の中央境の柱が 小黒(柱)です。それぞれの柱は梁を抜けて棟を支えています。このような柱を棟持柱といい、 平屋建てで使われるのはたいへん古い型式です。尚、各間柱や梁の間隔は寸法が一定せず、 不揃いのことも古い民家の特徴といえます。五、当時の一般農家には天井がなく、また部屋に畳を敷くこともなく、このような板の間に、 必要により、ゴザやムシロを敷いて起居したようです。六、「いろり」は単に煮物や暖を採るだけのものではなく、生木等を燃やすことによって出る煙が 木材や屋根茅にしみ込み、虫害や腐蝕を防止する役目をしました。またテレビやラジオの なかった時代における一家団らんの場所としても、たいへん親しみ深い場所でした。 尚、「いろり」には一家の者の座る場所がハッキリと定まっており、それぞれの場所に名前が つけられていました。七、広い「土間」の入り口に近く、「わら叩きの台石」があるのも農家の特徴でした。雨の日や、 夜の仕事に縄やぞうりを作る「わら」を打った場所です。八、この建物を復元するにあたり、「わら縄」はすべて手ないのものとし、また、新しく補てん した材料も近在古民家の古材を使用し、昭和五十三年の焼印を打ち区別してあります。 その他、屋根棟の(瓦)覆いを「口伊豆型」にあらためるとともに、やぐら煙出し(あげおむし) は後世の改造になるもののため、移築の際、撤去しております。」天井のない藁葺き屋根の内側。水場には壺や樽が。はたご(機)・(機織り機)。水田器具や背負い駕籠。木臼と杵。ゆりい(囲炉裏)。再び屋根裏を見る ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.06
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