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癒しのリゾート・加賀の幸 ホテルアローレ34Fの「Sky Room」。「Sky Room」奥から東京タワーを。ここにもテーブルのみが。カフェラウンジ。階段上から「スカイロビー」を見る。ズームして。階段を引き返して、再び「スカイロビー」へ。再び「スカイロビー」から東京タワーを見る。南側の真下にあった「駐日ロシア連邦大使館」を。ズームして。その南、「東京アメリカンクラブ」の屋上階にあるプールの屋根をズームして。プールをネットから。2003年4月のオープンから今年10年を迎えた、東京の名所となった六本木ヒルズのシンボル・太くて高いオフィスビル「六本木ヒルズ森タワー」である。ワンフロアおよそ4,500㎡の貸付面積を持つ地上54階建てのこのオフィスタワーは国内最大の既成市街地再開発事業の中心となった超高層ビルである。事業における施工区域面積はおよそ11.6haであり、敷地内には超高層2棟を含む計4棟の高級賃貸住宅、テレビ朝日、グランドハイアット東京などの高層建築が建ち並んでいる。高層建築で得られた容積分で全敷地の50%に及ぶオープンスペースには広場や歩道、緑地帯を確保している。「元麻布ヒルズ フォレストタワー29階建てのフォレストタワーと5階、6階建てのフォレストテラスの3棟構成からなる元麻布ヒルズ。タワー形状は樹木をイメージした。 高さ約96m地上29階のタワーが閑静な住宅街に建つことは、影やビル風で住民の住環境に害を及ぼす可能性があった。そこで森ビルは20階以上の部分の幅を約40m、16階より下の幅が約33mという「頭でっかちで下半身スリム」な形を考案した。この形にすることで、高層ビルにつきまとう影とビル風という二つの大きな環境問題を解決した。」とネットから。このほか、地震対策として建物自体を変形させて地震エネルギーを吸収する「耐震構造」ではなく、建物と基礎の間の免震装置を介してエネルギーを減衰させる「免震構造」を採用しているとのこと。二子玉川方向の高層ビル群をズームして。中央に田町駅近く、東京都港区芝5丁目7−1にある「日本電気㈱ 本社(NEC)」その奥に「レインボーブリッジ」の姿が。帰りのエレベータへのルートとヒルズハウス・Dining33、Members Lounge案内図。エレベータ独り占めで地上へと。そしてビルの外に出て、「中央広場」へ。大きなキャノピーの下が「麻布台ヒルズアリーナ」で、キャノピーまでの高さは約16m。「森JPタワー」に隣接するこの「吊るし雲」がモチーフの大屋根は、トーマス・ヘザウィック氏」率いるヘザウィック・スタジオによるもの と。大屋根を冠する緑に囲まれたオープンスペースは「麻布台ヒルズ アリーナ」として四季折々」さまざまなイベントが催され賑わいの中心になるとのこと。「森JPタワー」を見上げて。庭園には小川が。円錐状のオブジェ。振り返って。奈良美智の彫刻作品「東京の森の子」、少女の顔が。再び見上げて。この後に訪ねた「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」を見る。東京タワーの上部が見えた。左「麻布台ヒルズ 森JPタワー」と右「麻布台ヒルズレジデンス」を見上げて。「GARDEN PLAZA C MUSEUM」。「麻布台ヒルズクリスマスマーケット 2023」が中央広場で12月9日(土)~25(月) 11:00~21:00の予定で開催されると。この日は準備中の工事が行われていた。シンボルツリーを中心に、17 の物販・飲食店がオープン。麻布台ヒルズでしか買えない限定商品・メニューも多数登場するとのこと。中央広場では水路とパブリックアートが隣り合わせ。水路の右手がホテル「ジャヌ東京」になる。「Artificial Rock. No.109」Zhan Wang作。再び「麻布台ヒルズ 森JPタワー」を見上げて。「麻布台ヒルズ マーケット」。「AZABUDAI HILLS MAP RESIDENCE A」案内板。正面から(下側が北方向)。「桜麻通り」を西に進み左折して南に進む。前方左にあったのが「アマンレジデンス東京」入口。「アマンレジデンス 東京」は、竣工時には日本で最も高いタワーとなる、地上の街の賑わいを遥か眼下に見下ろす、まるで雲に手が届きそうな天空に位置します。54階から64階に位置する~6ベッドルームを持つ各住戸には、専用エレベーターロビーが直結しています。レジデンスのインテリアは、国際的に高い評価を得ているデザイナー、ヤブ・プッシェルバ ーグによって手掛けられています と。「HILLS TOWER PLAZA」入口。そして左折して「外苑東通り」を東京タワー方向に進む。右手にあったのが「駐日ロシア連邦大使館」正門。右手に「ノアビルディング」。飯倉交差点にそびえ立つ楕円形のランドマークが「ノアビルディング」。そして「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」。「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」は「ModernUrbanVillage」をテーマとする「麻布台ヒルズ」の敷地東側(C街区)の複合施設。近づいて。八幡通に面して建つ、森の緑と幹に覆われたようなデザインのB棟の6~8階がガーデンプラザのレジデンス区画(計31戸の住宅。マンション)。ヘザウィック・スタジオが手掛けるユニークなランドスケープの中にある、麻布台ヒルズで唯一の低層住宅。街に広がる緑に最も近い住環境である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.21
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能登輪島温泉 ホテルこうしゅうえん(旧 ホテル高州園)「外苑いちょう並木」を後にして、都営大江戸線「青山1丁目」駅まで戻り乗車し、「麻布十番」駅で下車して、徒歩にて11月24日に「麻布台ヒルズ全体が開業」を迎えた事をニュースで知ったので「麻布台ヒルズ 森JPタワー」に向かって進む。都道415号線・「新1の橋」交差点の上部には「首都高速都心環状線」が走る。東京都道319号環状三号線の六本木ヒルズ方向を振り返る。高架下の横断歩道を渡る。その先を左折し、北方向に向かうと正面に「麻布台ヒルズ 森JPタワー」が姿を現した。ズームして。「麻布台ヒルズ森JPタワー」は、東京都港区麻布台一丁目にある超高層ビルである。複合施設「麻布台ヒルズ」の中核を担うビルである。さらに坂道を上って行った。右手の石垣の上の敷地は「駐日ロシア連邦大使館」。この坂の名は「狸穴坂(まみあなざか)」。「まみあなざか まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)」が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」「狸穴坂」碑。港区麻布狸穴町と麻布台2丁目・東麻布3丁目の間、ロシア大使館横を南に向かって下りる道。坂の東側はロシア大使館、西側はマンションに挟まれた、比較的単調な道。そして「麻布台ヒルズ 森JPタワー」前に到着。高さは325 mで、日本一高い超高層ビルである。日本で初めて高さ300mを超えた超高層ビルである大阪市阿倍野区のあべのハルカス(高さ300.0m)を抜いて日本で最も高いスーパートールとなった。デベロッパー・設計は森ビル、施工は清水建設。外観デザインをシーザー・ペリ率いるペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツが担当した。奇しくもペリは着工直前の2019年7月19日に死去、森JPタワーは彼の遺作となった。入口に向かって「外苑東通り」の横断歩道を渡る。右手奥には「東京タワー」の姿が。「AZABUDAI HILLS MAP」右手に「AZABUDAI HILLS 」。入口には「AZABUDAI HILLS MORI TOWER」と。地上64階、塔屋2階、地下5階、 高さ325.40mの日本一高い超高層ビル。麻布台ヒルズ森JPタワーの概要◆ 計画名-虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業施設建築物等新築工事 A街区◆ 所在地-東京都港区麻布台一丁目1000番1◆ 階数-地上64階、塔屋2階、地下5階◆ 高さ-最高部325.40m◆ 敷地面積-24,104.21㎡◆ 建築面積-15,201.25㎡◆ 延床面積-461,805.22㎡◆ 構造-鉄骨造、一部(鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造)エントランスホールを歩く。突き当りを左に。「AZXABUDAI HILLS MORI JP TOWER」フロアー案内。吹き抜けのロビー通路の横には天井からオブジェが。オラファー・エリアソンの作品『相互に繋がりあう瞬間が協和する周期』と。ズームして。中空に彫刻を吊るされていた。光沢があったりマットな部分があったりする金属のピースが連なって光を反射し、ある場所からは円や球のように見え、ある場所からは平面的に見えた。この形はある法則に従った数学的な軌道なのか。見る人が歩き回るごとに視点が刻々と変わり、違った形に見えるが、どのポイントから見る形も等しく重要と。瞬間ごとに変化する無数のエレメントが集合した形だとも言えるのだ。壁のオブジェ。近づいて。生け花も。近づいて。そして33&34Fへの展望台用エレベーターを利用。そして地上64階、高さ325.49mの33階にある展望フロアー・スカイロビーに到着。33階と34階の一部が一般開放されており、南側と東側を望むことができるのであった。33階に行けるエレベーターは中央広場の地下1階にあった。南方向を見る。手前に右「パークコート麻布十番ザ・タワー」、左「シティタワー麻布十番」そのはるか先に海の姿が。東京タワーが正面に。ズームして。海抜250mのトップデッキは見上げる高さ。スカイロビーは海抜150mのメインデッキを見下ろす高さになっていた。東京タワーの背後には、この後に訪ねた増上寺が見えた。増上寺をズームして。更に。増上寺会館、経蔵、増上寺 慈雲閣(開山堂)、その右に旧台徳院霊廟惣門(重要文化財)、港区立芝公園の姿が確認できた。その右にレインボーブリッジ、港清掃工場の煙突が左に見えた。レインボーブリッジとフジテレビ本社ビル。そしてこちらが麻布台ヒルズ展望台の大階段。33階と34階は大階段で繋がっていた。正面から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.20
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特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」ポスター。特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」展示会場へ。天皇皇后両陛下。「ごあいさつ令和5年(2023)、天皇陛下におかれては御即位5年、そして天皇皇后両陛下の御成婚30年の節目を迎えられました。令和の御代を迎えてまもなく、世界各地へと急激に広がった新型コロナウイルス感染症によりご活動の機会か限られながらも、両陛下はオンラインによる国内各地へのご訪問など、新しい形によるご公務に取り組まれ、コロナ禍に過ごした国民の苦楽に、常に心を寄せてこられました。このたび、装い新たとなった皇居三の丸尚蔵館において、ご結婚以来、両陛下がともに歩まれてきた30年の軌跡を、両陛下ゆかりのお品とともに紹介する展覧会を開催いたします。本展では、ご結婚の儀式のご装束やドレスをはじめ、愛子内親王殿下の健やかな成長の願いが込められたお召し物などが並びます。また、御即位の儀式で用いられたご装束や調度の品、各方面から寄せられたお祝いの品のほか、両陛下が皇室の伝統行事を受け継がれたご様子もあわせて紹介いたします。このたびの企画にあたっては、両陛下の深いご理解を賜り、貴重な品の数々を展示できることになりました。本展を通して今日までの両陛下の様々なご活動に触れていただくとともに、これらの品々が、日本の伝統文化の継承に深く関わるものであることをご覧いただけれは幸いです。令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」「特別展示の聞催に寄せて三の丸尚蔵館は、平成元年(1989)に上皇陛下と香淳皇后の思し召しによって美術品など6000点あまりが国に寄贈されたことを機に、これらを保存管理し、調査研究とともに展示公開を行う施設として平成5年秋に開館しました。さまざまな分野、幅広い時代におよぶ収蔵品の魅力を紹介し、皇室と文化との関わりを内外に広く発信してきた30年におよぶその活動は、令和元年(2019)から始まった施設・設備の拡張整備工事や職員の増員につながることになったといえます。そしてこの10月には、三の丸尚蔵館は宮内庁から離れて独立行政法人国立文化財機構の一員となり、新たな出発を迎えたことで、今後のさらなる発展が期待されるところです。今年、天皇皇后両陛下におかれては、御即位5年・御成婚30年の節目を迎えられました。三の丸尚蔵館では、令和2年2月に御即位に関する一連の儀式の様子と、両陛下のこれまでの歩みを紹介する特別展を開催しましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により中断を余儀なくされました。三の丸尚蔵館が新たな展示室で、展示公開の活動を再開するにあたり、令和2年の展覧会の内容をさらに充実させた形で、本展が聞催されることは大変意義深いことです。国民とともにある皇室を、両陛下ゆかりの品々を通して感じていただけれはと思います。令和5年11月 宮内庁長官 西村泰彦」出品目録(1/2)出品目録(2/2)そして、会場内展示室は撮影禁止でしたので、ネットからの写真を順不同でアップさせていただきます。展示室内の展示状況。「結婚の儀」天皇皇后両陛下ご装束「結婚の儀」天皇陛下ご装束 束帯 黄丹袍令和度 悠紀地方風俗歌屏風 右隻 和歌:篠弘 絵:田渕俊夫大嘗宮の儀のために制作された「悠紀地方風俗歌屏風」(左)制作者は田淵俊夫・東京芸術大名誉教授令和度 主基地方風俗歌屏風 左隻 和歌:永田和宏 絵:土屋禮一大嘗宮の儀のために制作された「主基地方風俗歌屏風」(右)制作者は土屋礼一・金沢美術工芸大名誉教授大饗の儀で天皇、皇后両陛下の前に飾られた銀製の置物皇后雅子さまが天皇陛下との結婚の儀で着用された十二単(ひとえ)。天皇陛下が5歳の時に初めてはかまを着る儀式「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用された装束左:「宮中饗宴の儀」で雅子さまがお召しになった杏色のローブモンタント 展示期間全期間 右:愛子さまの御初召と上皇ご夫妻から贈られた犬張子 展示期間前期 左:天皇陛下が愛用されている天体反射望遠鏡 展示期間全期間右:天皇陛下がご幼少時に使用されたヴァイオリンと皇后陛下が使用されていたフルート 展示期間全期間ボンボニエール ご結婚ご祝宴。そして第2会場に戻り、設置されていたモニター画面で「三の丸尚蔵館の国宝のすべて」を観る。「喪乱帖(そうらんじょう) (原跡)王羲之 1幅中国・唐時代(7~8世紀)」書聖王羲之(4世紀)の書状集。冒頭の行に「喪乱」の文字があるので呼ばれる。「東晋時代に活躍して、書聖として尊ばれた王羲之(三〇七~六五)自筆の、別々の三つの書簡の部分を、双鉤填墨(そうこうてんぼく)という、文字の輪郭を線にして写し、その内側を墨で塗りつぶす一種の敷き写しの技法を用いて表現した中国・唐時代の模本です。点画の跳ねや、文字と文字がつながる箇所では、輪郭線の内側に、細かい線が丁寧に重ねられ、かすれた感じがよく表されています。精巧な技法で作り上げられており、普通に墨で書いた文字のようにみえるため、極めて優れた模本であると評価されます。王羲之自筆の書は、後には全て失われ現存していないことからも、その書風を今に伝えてくれる名品で世界的に貴重な作品といえます。京都御所に伝来したと考えられ、後西(ごさい)天皇(一六三七~八五)の崩御後、御遺物として異母弟の堯恕(ぎょうじょ)法親王の手に渡って以降、親王が門跡を務めた妙法院に伝来し、明治十三年(一八八〇)再び皇室に献上されました。(高梨)」と、購入した案内本から(以下同様)。たてに簾目状の筋目のある(縦簾紙)料紙に書かれた唐時代の搨模(透き写し)本。袖に「延歴勅定」の方印の左辺部が残る。明治13年(1880)妙法院献上。「屏風土代 小野道風 1巻平安時代 延長6年(928)」平安時代中期の能書・三跡の筆頭である小野道風(八九四~九六六)三十五歳の書です。『日本紀略」の延長六年(九二八)十二月の条に、醍醐天皇の勅命により、内裏で新調する屏風の題詩を漢学者・大江朝綱に作らせ、道風に書かせたとする記事があり、そのための下書き(土代)を巻子にしたものと考えられています。和様の創始者といわれる道風の重厚で温かみのある書風で、随所の書き入れや訂正からは、推敲の跡がみてとれます。巻末には、三跡のひとり・藤原行成を祖とする世尊寺家五代・定信(一〇八八~一一五四~? )の奥書があり、保延六年(一一四〇)に行成の《白氏詩巻》(東京国立博物館所蔵)一巻とともに本巻を購入したことがわかります。後世の能書として知られる伏見天皇(一二六五~一三一七)の《屏風土代臨模》(御物)などからは、本作が手本として尊ばれたことがうかがえます。明治時代に井上馨の所蔵となり、大正十四年(一九二五)に井上家から大正天皇に献上されされました。(山田)。」「金沢本万葉集 藤原定家 2帖 平安時代(12世紀)『万葉集」巻第二および巻第四残巻からなる平安時代の古写本で、名称は金沢(加賀)藩主前田家に伝来したことにちなみます。料紙は主に三椏(みつまた)紙を用い、表裏共に白・黄・緑の具引き地にさまざまな型文様が雲母摺り(きらずり)され、一部に金銀箔、布目打などの装飾をもつ、和製唐紙が用いられます。筆者は、和様の書を大成させた平安時代中期の貴族、藤原行成に始まる世尊寺家第五代定信(一〇八八~一一五四~?)とされます。その字の特徴は、全体の流れの美しさを求め、早い運筆による右肩上がりの独特なもので、本作でも、速筆で字形にとらわれず、全体的な流れや流動感により美しさを追求しています。美しい装飾料紙に、技法を駆使した完成度の高い筆跡が調和した作品となっています。前田家に残る巻第三、巻第六残巻および手鑑「野辺のみどり」のなかの断簡(以上、前田育徳会所蔵)とともに一帖として伝来しましたが、明治四十三年(一九一〇)七月八日に明治天皇の前田邸行幸(ぎょうこう)に際し、分冊のうえ献上され、近年の保存修理事業において現状の二帖となったものです。(髙梨)」。金沢本万葉集 巻第二。金沢本万葉集 巻第四。「更科日記 藤原定家 1帖鎌倉時代(13世紀)紙本墨書 縦一六・四cm 横一四・五cm「菅原孝標女が著した日記体裁の回想記である『更級日記』を、鎌倉時代に歌道で活躍した貴族・藤原定家(一一六二~一二四一)が書写した冊子で、末尾の奥書には「『更級日記』の冊子本を入手したが、貸与先で紛失したため、その時写された写本から転写した。誤字が多く、不審箇所には朱を入れ、注記した」と定家による本作を書写した経緯が記されます。これを裏付けるように、書写文の傍らには定家による「勘物(かんもつ)」と呼ばれる注記や朱点などが確認できます。料紙には雁皮紙(がんびし)が使われており、「括(かつ)」という料紙五または六紙を二つ折りにした束を十枚重ねて、全体で綴じた綴葉装(てつちょうそう)という装幀(そうてい)にされています。近代の調査により伝来のなかで括の順番に入れ替わりのあるこが判明しました。この冊子は、『更級日記』の本文を伝える最古写本であり、流布しいる諸本の祖本と考えられるため貴重です。後水尾上皇の時代の仙洞(せんとう)御所に伝来していたことが知られます。(髙梨)」。「蒙古襲来絵詞 2帖鎌倉時代(13世紀)」「文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度、モンゴル帝国は海を越え北九州に襲来しました。元寇(げんこう)の名で知られるこの事件を記した史料は数多くありますが、同時代に絵画として制作され、かっ今日まで伝存するのはこの絵巻が唯一です。蒙古軍の衣服などの風俗、武器、戦闘方法を視覚的に伝える貴重な作品です。文永の役を描いた前巻における、炸裂する「てつはう」と奮戦する竹崎季長(たけざきすえなが)(一二四六~? )の場面は、教科書で誰もが一度は目にしたことがあるでしよう。後巻は弘安の役を描きますが、菊池氏一軍が居並ぶ石築地の前を悠然と出陣してゆく季長主従、それに続く海上での戦闘は臨場感に溢れ迫力があります。本作は明治二十三年(一八九〇)に大矢野十郎から宮内省が買上げましたが、伝来の過程で失われた箇所も多く、錯簡(さっかん)(前後の順序が入れ替わっていること)、絵と詞書が少なくとも二種類認められるなど、現状は極めて複雑な様相を呈しています。(野中)」「蒙古襲来絵詞 前巻」馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵。画面中央上では鉄砲(「てつはう」)が爆発している。負傷して退却する蒙古兵。「蒙古襲来絵詞 後巻」季長が志賀島へ向けて生の松原(いきのまつばら)を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。その奥で石築地(いしついじ)に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人菊池武房(きくち・たけふさ)。「春日権現験記絵 高階隆兼 20巻鎌倉時代、延慶2年(1309)頃」「《春日権現験記絵》は藤原氏の氏社である奈良の春日大社の権現(仏や菩薩が化現した姿、ここでは春日明神を指す)の験記(利益など不思議な出来事の物語)を絵と詞書(ことばがき)(文字)によって語る絵巻です。十四世紀初め、春日大社に詣でたことで利益を得た左大臣・西園寺公衡(きんひら)が発願して制作されました。絵は宮中の画業を担う絵所を統括した絵所預の高階隆兼、詞書は前関白の鷹司基忠とその息子三人という、当時一流の人々が筆を執りました。絵巻としては珍しい絹地の上に広がる豊かな色彩と精密な描線は、制作から七〇〇年以上の時を経た今もなお驚くほど鮮やかです。とりわけ巻十九にみえる初冬の御蓋山(みかさやま)と春日山は中世絵画の白眉(はくび)といえるでしよう。衆徒らの決起と血生臭い戦闘の場面の間で、雪降る深閑とした神域が際立っています。」「藤折枝蒔絵箱」。「藤折枝蒔絵箱 鎌倉時代(14世紀)/木製漆塗・蒔絵「春日権現験記絵」(1-1)を納めていた箱。黒漆塗りの箱の蓋表と金銅製の金具には、それぞれ金高蒔絵と透かし彫りにより、藤原氏と春日大社にゆかりの深い藤花の文様が表されています」。「春日権現験記絵 巻十二」ズームして。「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳、[左隻]狩野常信6曲1双[右隻]桃山時代(16世紀)、紙本金地着色 縦二二三・六cm 横四五一・八cm[左隻]江戸時代(17世紀)、紙本金地着色 縦二二四・〇cm 横四五三・五cm」三頭の唐獅子を、六曲一双の金地の大画面に描いた作品です。左右隻で時代と筆者が異なり、右隻は桃山時代の狩野永徳(一五四三~九〇)、左隻は永徳のひ孫の狩野常信(一六三六~一七一三)が、江戸時代初期に、右隻にあわせて補作したものです。本図の特徴は、何といってもその大きさにあります。通常の屏風をはるかに超える大きさから、右隻は本来、大きな建築物の床の間の壁画であった可能性が指摘されています。筆者の永徳は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に仕え、彼らのために多く絵筆をふるいました。あるいは本図もそのような御殿の一室を飾っていた可能性も考えられます。右隻にみる、濃彩と豪快な筆致による、明るく躍動感あふれる表現は、永徳の真骨頂ともいえるものです。永徳の代表作であるだけでなく、この時代の雰囲気を濃厚に伝える作品として、令和三年(二〇二一)に、左隻とともに国宝に指定されました。長らく萩藩毛利家に伝来し、明治二十一年(一八八八)に旧藩主の毛利元徳より、皇室に献上された作品です。(戸田)」「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳」 ズームして。「唐獅子図屏風[左隻]狩野常信」。伊藤若冲「動植綵絵」 左:梅花群鶴図 中央:南天雄鶏図 右:諸魚図八幅(三十幅のうち)江戸時代(十八世紀)絹本着色縦一四一・八cm~一四三・四cm 横七九・一~八〇・一cm三十幅にわたって、極彩色にいろどられた多種多様な動植物が描かれます。伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)の代表作として近年人気を博してきましたが、令和三年(二〇二一)に国宝に指定されました。《動植綵絵》はもともと《釈迦三尊像》三幅対とともに京都・相国寺に寄進され、さまざまな儀礼で用いられていました。若冲は京都・錦小路の青物問屋「枡源」の主人で、相国寺の高僧・大典褝師に帰依し、隠居後はもっぱら作画に打ち込みました。若冲は「名声のために描いたのではありません。寺の荘厳をたすけ、永久に伝わってほしい」と、附属の《寄進状》に記しています。明治二十二年(一八八九)、本作は皇室へ献上され相国寺を離れましたが、その際の下賜金によって人手に渡っていた寺地を買い戻すことができたといいます。《動植綵絵》には鶏や鳳凰を大きく描くものがある一方、花弁や昆虫で画面全体を覆いつくすものもあり、それまでの花鳥画とは異なった独特の構成感覚があらわれています。花や鳥は驚くほど細かく描き込まれ、樹木や岩も各幅で意識的に描き分けられており、作画への並々ならぬ気迫を感じさせます。(上嶋)」。中央:南天雄鶏図 をズームして。伊藤若冲「動植綵絵」 左:菊花流水図 中央:芙蓉双鶏図 右:紅葉小禽図左:菊花流水図をズームして。白い菊の花は、裏彩色に胡粉が薄く施され、表は胡粉で濃淡がつけられていると。伊藤若冲「動植綵絵」 左:老松白鳳図 中央:蓮池遊漁図 右:秋塘群雀図「秋塘群雀図」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.19
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そして再び「神宮軟式球場噴水」前のT字路から「外苑いちょう並木」を見る。車のない時に慌ててシャッターを押したが。ズームして。そして「全国工芸職人展」会場を訪ねた。「全国工芸職人展」(旧・森のやきものフェア)は毎年、いちょうが「黄葉(こうよう)」する季節に行われる物産フェア。多彩な工芸品が展示販売されていた。毎年11月中旬から12月上旬まで、青山通りから聖徳記念絵画館に向かって約300メートル続く146本のいちょう並木が黄金色に染まる。落ち葉で埋め尽くされた並木道はまさに黄金色の「いちょうのトンネル」。このいちょう並木と聖徳記念絵画館の間の広場に特産品の販売店や飲食店が出店していたのであった。「第10回全国工芸職人展」ポスター。開催期間:令和5年11月17日(金)~12月3日(日) 10:00~17:00「第10回全国工芸職人展」配置案内図。現在地は「出入口」と書かれた場所。「出店者一覧」をネットから。「草木染山口(奈良県)」。藍染のTシャツが並んでいた。近づいて。「ジェイ・ディー企画(埼玉県)福井県若狭 箸 名前彫ります」と。「若狭塗箸」が並ぶ。佐賀県「有田焼」。「有田焼・美濃焼 手作り箸置き」。「五平餅(さかたや)」。「広島焼」の店。「石焼きいも」の店。「神宮外苑 いちょう並木 刺繍絵」。「まゆ工房飯村(福島県)」「まゆ玉でつくったフクロウ」が並ぶ。カラフルなブローチが並ぶ。そして再び「外苑いちょう並木」に戻る。青山通りに向かって右側の2列のいちょう並木の下を歩く。この時間になって、人も数も増えて来た。道路の反対側のいちょう並木を見る。ズームして。そして右折して、「秩父宮ラグビー場」の路地へ。路面には、役割を終えたいちょうの葉が落ちて、エピローグへと。蔦の葉の紅葉に近づいて。見事な形に尖った銀杏の樹。ここにも。入口まで戻って。「銀杏・いちょう」はイチョウ科イチョウ属の落葉樹。秋の黄葉や茶碗蒸などに使う銀杏で馴染み深く、公園、学校、街路、寺社等に植栽される。約2億年前の中生代ジュラ紀に栄え、現在まで種を絶やさずに続く歴史の長い樹種だが、その仲間の多くは恐竜と共に氷河期に絶滅した。現在イチョウ科の木はこれしかなく、メタセコイアと共に「生きた化石植物」と呼ばれているのだ。日本で見られるイチョウは、中国南東部で生き残っていた個体が朝鮮半島を経由して渡来したものとされる。その時期については、仏教が伝播した飛鳥時代とする説や室町時代とする説があり、特定されていないとのこと。イチョウという名は、中国名のイーチャオ(鴨脚=葉の形がカモの足に似ることから)が転訛したものとされる。なお、漢字表記の「公孫樹」は、孫の代にならないと収穫ができないことを意味し、「銀杏」はアンズ(杏)に似た銀色の種子に由来するのだ と。歩道に敷き詰められたが如き「いちょうの葉」。「イチョウの葉」をズームして。イチョウの葉脈はよく見ると平行に走っている。ところが所々で二又に分かれて。この二又に分かれる葉脈を持つことが原始的な特徴なのであるとのこと。原始的な陸上植物は葉を持たず二又に分かれた茎だけからできてきたと考えられているのだと。葉はその二又の茎から進化したと考えられるのでイチョウの葉脈は原始的な形態を残していると。この二又脈を持つ植物はシダ植物に多く見られるのだと。そして「イチョウの葉」の写真をネットから。「イチョウの葉」には、切れ込みがあるものと、切れ込みがないものがある と。切れ込みが葉の真ん中に入っているものを「ズボン型」、複数入っているものを「手のひら型」と呼び、切れ込みがないものを「扇型」と呼ぶとのこと。「イチョウは雄雌異株、つまり「オス」「メス」があります。イチョウの葉の形で、オス・メスが違うという説がありますが、これは俗説です。葉の形では全く見分けられません。ただし、メスの木の葉の方がオスの木に比べると、2割ほど大きな葉をしているようです。これは実をつけるために、そのぶんのエネルギーを光合成で生産しなければならないからだと思われます。なぜ葉の中央に切れ込みがあるものとないものがあるのか?これは理由がわかっていません。ただ、5月頃に展開した葉は切れ込みがなく、同じ枝の葉でも6月以降に展開した葉には切れ込みを生じる割合が増えるようです。剪定した後に伸びる枝(徒長枝)に展開する葉は、手の平の形になることがあります。剪定されるとその分の失ったエネルギーを補おうとして光合成量を増やす必要があり、イチョウは葉を大きくします。しかし大きな葉は風の抵抗を受けやすく、扇型のままでは抵抗が大きく、風で葉がむしり取られることにもなり兼ねません。そうなっては大きな葉は意味をなしません。そこで風の抵抗を軽減させるために葉に手のひらのような切れ込みを作ります。手のひら型の葉は剪定した街路樹のイチョウに多くみられますので、探してみると見つけられるかもしれません」とのネット情報。風の抵抗を減らすために、葉にスリットを入れる…人間よりテクノロジーを先取りしていたとは!!イチョウにはまだ分かってないことが多くあるようだ。葉っぱにイチョウの生きる術やロマンを感じるのであった。イチョウを見るときは葉っぱの形にも注目してみるのも面白い事を今知ったのであった。そして今年の「外苑のいちょう並木」も見納め!!「外苑いちょう並木」入口にあるこの石塁は、かつて江戸城を支えていた石垣で、旧国立競技場ができた1958年以前にあった明治神宮外苑競技場のもの。そして神宮外苑造営の際に建設されたものであるとのこと。関東大震災後のバラック建設の指揮官であり、小学校の鉄筋コンクリート化を推進した建築構造家・佐野利器が計画・建設したとのこと。そして最後に横断歩道を渡りながら。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.19
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そして伊藤若冲の国宝・「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の展示コーナーへ。「動植綵絵伊藤若冲/江戸時代(18世紀)/絹本着色さまざまな動植物を30幅に描いた。伊藤若冲(1716~1800)の傑作にして日本花鳥画の代表作。絵に専念した40歳頃から10年をかけ製作。自ら相国寺に寄進しました。入念な形態描写と鮮やかな色彩に若沖の独自性を見せています。明治時代に相国寺より献上。一番右は「紅葉小禽図(こうようしょうきんず)」👈リンク。紅く色づいたかえでのもみじを背景に、一対の小禽を描く。植物のほうが前景に出ていることは、菊花流水図と同じだ。面白いのは、モミジの葉の一枚一枚が、濃淡の差をともないながらも、ほぼ同じ形に描かれていることだ。かえでの三本の枝も、大きさの違いはありながらも、全く同じ方向をむいている。そんなわけで、この絵には反復があふれていると言ってもよい。「紅葉小禽図」。画面右下には土手が描かれている。その土手の向こう側に広がるのは、空であるのか水であるのか、俄かには判断できない。ただ、背景を単調にすることで、かえでのモミジが引き立って見える。(142.3×79.7cm)。小禽はオオルリと思われる。美しい声でなく青い鳥だ。夏にやってきて秋の終わりに南のほうへ帰っていく渡り鳥なので、この絵のなかのオオルリは、南へと渡っていく直前に、名残惜しく鳴いているわけであろう。次に「棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)」👈リンク。「棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)」。群生するシュロと、白と黒の2羽のニワトリの組み合わせという構図。黒いシャモは『南天雄鶏図』、白いニワトリは『向日葵雄鶏図』のニワトリを反転したポーズに似ている。シュロは古くは『枕草子』にも記述があり、江戸時代は寺院や大名屋敷などに植えられていた。シュロの葉は、緑青の銅と砒素の含有量を変えて、微妙な階調差で着色されている。款記はなく、印は「汝鈞」(白文円印)、「若冲居士」(朱文円印)。近づいて。白いニワトリの顔。黒いニワトリの顔。見事な羽の描写。脚の描写も。左「棕櫚雄鶏図」と右「紅葉小禽図」。そして「梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)」👈リンク。近づいて。さらに。一番左に「貝甲図」。下部に近づいて。その上部右側にも。1期:11月3日〜11月26日に展示されていた伊藤若冲が描いた国宝「動植綵絵」左から「秋塘群雀図」、「老松白鳳図」、「南天雄鶏図」、「菊花流水図」。「屏風土代(びょうぶどだい)👈リンク小野道風/延長6年(928)/紙本墨書三跡の一人、平安時代の小野道風(894 ~ 966) 35歳の書で、醍醐天皇の勅命で新調された、屏風の色紙形に書く漢詩の下書き(土代)。随所にみえる書き入れや訂正に推敲の跡がうかがえます。政治家・井上馨の旧蔵品で、井上家から大正天皇に献上されました。」本書巻は、延長六年(九二八)に醍醐天皇(八八五~九三〇)の勅命によって大江朝綱(八八六~九五七)が作った漢詩を小野道風(八九四~九六六)が屏風に貼る色紙形に清書するために試し書きした土代(下書き)である。温和で豊潤な中にも力強さを感じる本書巻の書風は、王羲之の書法が反映されてはいるが、中国書法に強い影響を受けた平安時代前期の書法の域を脱している。道風は、平安時代中期の三蹟の一人として極めて著名であり、唐様の書が用いられていたなかで和様の書を創始し、我が国の書風・書流に極めて大きな影響を与えた人物である。その後、和様の書は同じく三蹟の一人藤原行成(九七二~一〇二七)によって完成され、江戸時代末に至るまでの我が国の書道の基礎となった。本書巻には、「春日山居」など七言律詩八首と「問春」など七言絶句三首が行草体で書かれている。本書巻の詩は、『和漢朗詠集』には朝綱の詩として「春日山居」の頷聯や頸聯など八聯が摘句されている。行間のところどころには、本文の傍らに同じ字を小さく書き加えた箇所がある。また、行末には書ききれなかった二文字を小さく書いたり、脱字を行間に書き加えている。各漢詩の題辞の上には「乙一」「丙二」等の文字が小さく書かれており、屏風に色紙を貼る位置や順番を示したとする説もある。このように本書巻には下書きとしての特徴がよく残されている。原則として一首を一紙に記すが、うち三首については料紙が小分割されていて、全一八紙である。紙継目で文字が僅かに切れている箇所があるので、書写してから切断して再び継ぎ直したと考えられる。『日本紀略』延長六年十二月条から、醍醐天皇が大江朝綱に命じて「御屏風六帖」の題詩を作らせ、小野道風に清書させたことが知られる。世尊寺流の祖藤原行成より五代目の子孫である藤原定信(一〇八八~?)による「屏風土代」奥書にも同様の記述がある。また、奥書左端には「十八枚也、道風手」とあり、細切れにされた本紙の枚数と一致しているので、当時から紙数の増減は無いものと認められる。また、藤原行成筆「白氏詩巻」(東京国立博物館保管、国宝・昭和三十二年指定)には本書と同じく定信の奥書があり、保延六年(一一四〇)十月二十二日の朝、定信が経師の妻から本書と「白氏詩巻」を買い求めたことが知られる。本書巻は、我が国の書道史上で極めて重要な人物である小野道風の真跡として、最も評価が高いものである。また、『日本紀略』や奥書の記事によって制作の契機や伝来の経緯など歴史的背景も押さえることができる。よって、我が国の書道史上の代表作といえるものであり、文化史上にも比類無く貴重である。「林塘避暑入林斗薮満襟埃 看取香蓮照水開池上交朋唯対鶴 樹間鋪設不如苔境閑客熱辞身去 葉密松風払面来何必古時河朔飲 残盃更被晩蝉催」『林塘に暑を避く林に入り斗藪す襟に満つる埃 看取す香蓮の水を照らして開くを池上の交朋唯だ鶴に対ふのみ 樹間の鋪設苔に如かず境閑にして客熱身を辞して去り 葉密にして松風面を払ひて来る何ぞ必ずしも古時の河朔の飲のみならん 残盃更に晩嬋に催さる』【林塘に暑を避く林中に入り身に纒う俗塵を払い落とし、 (池のほとりで)香ぐわしき蓮花が水に照り映えて咲くのを伺い見る。(さて)池のほとりに交わる友と言えば唯だ差向いの鶴ばかりで、木々の問に敷き展べられているのは苔。この地は何とも閑静で、訪れる人の身から暑苦しさが消えてゆき、木々の葉がびっしりと繁っていて、松風が涼やかに顔を吹き払う。避暑の飲酒と言えば、古くは河朔の地の故事が名高いが、どうしてその地に限ったことがあろう(この地も満更捨てたもんじゃない)と思いつつ、夕暮れの嬋の声に飲み残しの盃をますます促された次第である】という意。 「山中自述碧峰遁迹臥松楹 謝遣喧喧世上栄竜尾旧行応断夢 鶴頭新召不驚情商山月落秋鬚白 穎水波揚左耳清唯有池魚呼後至 各随次第自知名」『山中自述碧峯に遁迹して松楹に臥し 謝遣す喧々たる世上の栄龍尾の旧き行には応に夢を断つべく 鶴頭の新たなる召にも情を驚かさず商山に月落ちて秋の鬚白く 潁水に波揚て左の耳清し唯だ池魚有りて呼びたる後に至り 各おの次第に随へば自らに名を知るならん』【山中自述美しいみどりの嶺に隠遁して山家に身を横たえ、騒がしい俗世の栄利なぞ無用と辞する。これ迄仕えていた官吏の道などすっぱり夢と思いきり、御上から新たなお召しがかかっても心を動かすこともない。商山には月が傾き、あの四皓の鬚は秋を迎えて一層白く輝いていようし、潁水には波が立って、許田の左耳は汚れを洗い落としてますます清らかであろうかと思われる。ただ池にいる魚に声をかけるとやって来て、列を成して泳ぐところをみると、魚たちが名を解しているかのように思われてならないことだ】という意。「送僧帰山一自方袍振錫行 別師還媿六塵情雖観秋月波中影 未遁春花夢裏名谷静纔聞山鳥語 桟危斜踏峡猿夜深莫歎迷帰路 定有霜鍾度嶺鳴」『僧の山に帰るを送る一たび方袍の錫を振て行きしより師に別れて還た六塵の情に婉づ秋の月の波の中の影に観ずと雖も未だ春の花の夢の裏の名を逃れず谷静かに纔かに聞く山鳥の語棧危く斜めに踏む峡猿の声夜深きも歎くこと莫帰路に迷へることを 定めて霜鍾の嶺を度りて鳴ること有らん』【師僧が錫杖を振ってお帰りになってからというもの、師に別れたことでやはり様ざまな世俗の汚れにまみれてしまう己の心が恥ずかしくてならぬ。秋の月が水面に映って波に美しく澄んでいるが、その月は実体のないものだ(一切のものには実体がないという水月観)などと思いなしても俗世から脱することはできず、相も変わらず夢中の春の花の如き実なき虚名を求めてしまう始末。(師僧の帰る)谷間は静かでわずかに山鳥の声が聞こえるばかりであろうし、懸け渡した危い橋を峡谷にひびく猿の声を下に聞きつつ渡られることだろう。夜更けて帰路に迷われてもお歎きになりませんように。きっと明け方の霜に鐘が峯を渡って自らに鳴り(導かれて寺に帰れ)ましょうから】」という意。「問春山吐雲晴樹競粧 高低無処不添光再三請問得知否 何故猶残鬢上霜」『春に問ふ 山の吐きし雲も晴れ樹は粧を競ひ 高きも低きも処として光を添へざるは無し 再三請ふ問へ知るを得るや否や 故か猶し鬢上に霜を残せると 』【春に問ふ山から出た雲も晴れ渡り、木々は春の粧美を競い合 い、高きも低きも大地のすべてが春のうららかな光を帯びている。何度でも春に尋ねてみなさい、知るや知らずや、(春とい うのに)一体どうして(自分の)髪は霜のような白毛を残した ままなのか、と】という意。「楼上追涼煩熱蒸人不異炊 登楼凜(快)然(被)還(遠)有(風)衣(吹)凜然還有衣裘想 安用袁宏一扇為」『楼上に涼を追ふ 煩熱人を蒸して炊ぐに異ならず 楼に登り快く遠くよりの風に吹かる 凜然として還て裘を衣んとの想ひ有り 安ぞ袁宏が一扇を用て為ん』 【うっとおしい熱さは人を蒸し上げるようで、飯をたくのに変わらぬありさま。そこで楼台に登り、遠くより来る風に心地よく吹かれる。すると身のひきしまる寒さに襲われ皮衣を着たいと思う程だ。これなら何もあの袁宏の団扇など要しま い】という意。「七夕代牛女独坐青楼漏漸深 支頤想像暁来心風従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁」『 七夕に牛女に代はる 独り青楼に坐し漏漸く深し 頤を支へて想像る暁来の心 風は昨夜よりして声は弥よ怨み 露は明朝に及んで涙禁へず 【 七夕に牛女に代はる独り楼台にすわり夜もまさに更けた頃、頬杖ついて夜明け前の牛女の心に思いを馳せる。昨夜来の風は(牽牛織女 の離別の)悲しみの声を乗せていよいよ怨みがましく吹き来る。 露は二人の涙さながらに明方に降り敷き、(自分も)涙をこら えきれずにいる】という意。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.18
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「国立競技場」ゲートA・千駄ヶ谷門まで進む。国立競技場は4つの入口があった。北側にあるのがこの「千駄ヶ谷門」、南側にあるのが「外苑門」、東側のバックスタンドは「青山門」、西側のメインスタンドは「中央門」。千駄ヶ谷門(ゲートA)までの所要時間は・都営地下鉄大江戸線「国立競技場駅」 A2出口 徒歩1分・JR中央・総武線「千駄ヶ谷駅」徒歩5分 「信濃町駅」徒歩9分 とのこと。国立競技場の周囲を3/4巡ったことになるのであった。国立競技場をぐるりと囲む木製の庇(ひさし)。全国から建築材料が集められたとのこと。設計は建築家・隈研吾氏。氏が手掛けた建築の特徴である「和」を前面に押し出し、神宮の森がある周辺環境と調和できるデザインとなっている。外壁を取り囲む木材は、日本建築特有の庇がイメージされている。下から3段目までの庇を「軒庇(のきびさし)」と呼び、47都道府県から調達したスギ(沖縄はリュウキュウマツ)を使用。それぞれの杉材が、その産地の位置に応じてスタジアム全周に配置されているという。地上5階、地下2階、全高約47mもの巨大なスタジアムなのである。最上階の庇は「風の大庇」と呼ぶと。実は、木材に見える部分はアルミ製で、風雨にさらされても腐食しにくく、強度が高い。周囲の環境と調和させるために、表面を木目調に加工しているmのだと。国立競技場のある地域は、地上では風速2m、上空では風速10mの風が吹くという気候的特徴があるのだと。この自然に吹いている風を利用して、スタジアム自体に排熱機能を持たせていると。仕組みは、この上なくエコロジカルだ。外を吹く風が「風の大庇」によって場内へと誘導されると、観客席に沿って吹き降りて、フィールド内へ。その風は、フィールドにこもっている熱を上空へと押し上げ、天井の穴から場外へと放出されるのだと。左手にあったのが「青年像」。サイズ 高さ:4m 作者 :朝倉文夫 1956年の作品。動物(特に猫)の作品も多いが、躍動感溢れる スポーツマンの人物像の作品も多く手掛けてお り、明治、大正、昭和を通じ、日本の彫塑界を 先導した芸術家である。「青年像 朝倉文夫作」と。 そして「健康美」。サイズ 高さ:3m 作者 : 北村西望 。作者は30歳の時、「自分は天才ではないの だから人が5年でやることを自分は10年か けても、やらなければならないのだ」と 語っている。 長崎にある「平和祈念像」は、彼の代表作のひとつである と。近づいて。「全国髙校体育連盟寄贈 1964 健康美 西望作」と。この日は12月1日(金)、翌日の12月2日(土)には「2023 J1 昇格プレーオフ決勝」が清水エスパレスVS東京ベルディの間で行われるのであった。14:05キックオフとのことであった。この緑のジャージの方は東京ベルディのSTAFFの方であっただろうか?Hゲート周辺案内図。その先左にあったのが「2020東京オリンピック聖火台」。太陽をモチーフにし、佐藤オオキ氏がデザイン。球体が花のように開くことで生命力や希望を表し、東京2020大会の開始を神聖なイメージで象徴的にビジュアライズしている。東京2020大会では2台の聖火台が制作された。1台は開会式用聖火台で国立競技場に、もう1台の競技期間用聖火台は、東京臨海部夢の大橋有明側に設置され、開会式終了後に点灯された。東京2020大会では、脱炭素社会の実現に向けて、可能な限り省エネルギーや再生可能エネルギーの利用などを進めており、持続可能性に配慮した運営に取り組んでいる。その一環として、大会史上初めて聖火台の燃料に水素を使用したとのこと。「聖火台 Cauldron」案内ボード。「<概要>オリンピックスタジアム(国立競技場)で開催された、第32回オリンピック競技大会の開会式(2021年7月23日)及び閉会式( 8月8日)、東京2020パラリンピック競技大会の開会式(2021年8月24日)及び閉会式( 9月5日)で使用された聖火台。デザインは、太陽をモチーフとし、太陽から得られる工ネルギーや生命力を表現。大会史上初めて、聖火にクリーンエネルギーである水素が使用された。」開会式の聖火台の写真をネットから。ガラス越しでは、周囲の木々が映り込んで。夢の大橋有明側設置の聖火台の写真をネットから。そして再び「水泳競技」のメダリスト名が書かれたの銘板が並ぶ。こちらは1964年開催の東京オリンピックの「炬火台(きょかだい)」「<概要>1958年アジア大会へ向けて、炬火台の設計は国立競技場の設計者である角田栄ほか4名、製作は川口内燃鋳造所・美術鋳造の名工である鈴木万之助が担当した。当初は、前身の国立競技場の南側スタンドの最上段へ設置されたが、1964年東京オリンピック大会時にはバックスタンド(東側)最上段へ移設され、大会期間中聖火が灯された。国立競技場のシンボルとして、2020年に新しい国立競技場に移設した。」1964年の東京五輪開会式で聖火台に点火👈リンク した坂井義則さんの写真をネットから。1964年東京五輪の聖火リレーで最終走者を務めた坂井義則さんは1945年8月6日、広島への原爆投下から約3時間後、数十キロ離れた今の広島県三次市で生まれた。軍隊にいた父は誕生を見届け、翌7日に広島市に入り被爆。戦後生まれの坂井義則さんは被爆2世に当たるのだ。そして前方にG1ゲートが見えて来た。これで「国立競技場」を1周したのであった。「国立競技場」を観光する日本人のツアー客の姿が。そして工事中のフェンスを右に見ながら都道414号線・四谷角筈線を南に進む。この木々の奥にあるのが「明治神宮外苑 室内球技場」。「国道246号青山通り」まで600mと。リラックマでラッピングした「はとバス」が走る。右手に見えたのが「明治神宮野球場」。「外野中央」入口ゲート。周辺案内図。現在地はココ。外から見てスコアボードの左側見えるこの電光掲示板には、わが卒業会社の名前が表示されるのだ。クラブハウス「Tokyo Yakult Swallows」。さらに「明治神宮野球場」の1塁側スタンド下を進む。ヤクルトスワローズのファンクラブ・「SWALLOWS CREW 2024」ポスター。実は私もヤクルトファン、父が国鉄職員、私は六大学の卒業。バックネット裏には「明治神宮野球場」と。現在位置はココ。さらに3塁側スタンド下を進むと正面に先程訪ねた「国立競技場」の姿が現れた。「ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)この木は、和名「ヒトツバタゴ」俗名「ナンジャモンジャ」と呼ばれるたいへん珍しい木で、五月の初め頃白い清楚な花が咲き、満開時には雪を被ったようにみえます。江戸時代後期の植物学者が尾州(愛知県)二宮の山中で発見し、ひとつばたごと名づけられ、ここ青山の六本の道路の交わる所に植えてあったことから「六道木(ろくどうぼく)」とも呼ばれておりました。(現在のヤクルト・クラブハウス裏あたりです。)大正十三年(1924)には天然記念物の指定を受け、大正十五年(1926)十月の外苑造成後も引き続き外苑の手により手厚く保護されてきましたが、昭和八年(1933)樹齢百数十年を誇った名木もついに枯死しました。ここ外苑の地は、明治時代の青山練兵場跡地に造営されたことから初代木の生前の勇姿は絵画館「凱旋観兵式」の中に画かれており、直径60cmの遺木の一部が絵画館に保存され、展示されております。ここに植えられた木は、「二代目なんじゃもんじゃ」の実生を苑内で育て、外苑創建六十年を記念し、移し植えたられたものです。現在、絵画館前庭には、その由緒を刻した石碑と共に、二代目の実生を苑内で育てた「三代目なんじゃもんじゃ」が植えられております。平成二十八年三月吉日 明治神宮外苑」。この日の「なんじゃもんじゃ」の樹。5月の開花時の写真を2枚、ネットから。更に進む。奥には「国立競技場」の姿が再び。正面の「スコアボード」を横から。「日本オリンピックミュージアム」。「オリンピックシンボル」「国立競技場」を背景に。そして神宮球場を1周して、再び都道414号線・四谷角筈線に戻り「外苑いちょう並木」に向かって歩いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.18
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右手にあった「皇居三の丸尚蔵館」には既に見学者の列が20mほどになっていた。開館 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)。鑑賞環境保持等のため、オンラインによる完全事前予約制であった。「大手仮休憩所(売店)」には「皇室御一家(皇室カレンダー)」が販売されていた。「ごあいさつこのたび、皇居三の丸尚蔵館の開館を記念して「皇室のみやびー受け継ぐ美ー」展を開催いたします。平成元年(1989)、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機に、それらを保存・研究・公開するための施設として、平成5年(1993)11月に、宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。その後も香淳皇后や各宮家からの品々が加わり、現在は約2万点の作品を収蔵しています。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域・分野ともに幅広いことが特徴です。令和5年(2023)、当館は開館30年を迎えました。収蔵品の増加と人館者の増大に対応するために施設の拡充をはかり、令和元年(2019)より新館の建設が進められ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。拡張工事は今後も引き続き、全館開館は令和8年(2026)を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展では、当館を代表する収蔵品を、4期に分けて紹介いたします(第ー期「三の丸尚蔵館の国宝」11月3日~12月24日、第2期「近代皇室を彩る技と美」1月4日~3月3日、第3期「近世の御所を飾った品々」3月12日~5月12日、第4期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日~6月23日)。いずれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々であり、展示を通してその一端に触れていただければ幸いです。当館は、これからも皇室から受け継いだ収蔵品を大切に守りながら、皇室と文化のかかわりについて、さまざまな機会を通じて広く紹介し、多くの方々に親しんでいただける施設を目指してまいります。今後とも、皇居三の丸尚蔵館へのご支援・ご協力を賜りたく、お願い申しげます。 令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」皇居三の丸尚蔵館 開館記念展皇室のみやび―受け継ぐ美会期 令和5年(2023)11月3日(金・祝) ~ 令和6年(2024)6月23日(日)会場 皇居三の丸尚蔵館 第1期:展示室2、第2期~第4期:展示室1・2展示品 第1期 三の丸尚蔵館の国宝 令和5年11月 3日(金・祝)~12月24日 (日) 第2期 近代皇室を彩る技と美 令和6年 1月 4日(木)~3月3日(日) 第3期 近世の御所を飾った品々 令和6年 3月12日(木)~5月12日(日) 第4期 三の丸尚蔵館の名品 令和6年 5月21日(火)~6月23日(日) 開館記念展では、《蒙古襲来絵詞》(1期)、伊藤若冲《動植綵絵》(1期、4期)、高階隆兼《春日権現験記絵》(1期、4期)、小野道風《屏風土代》(1期)、藤原定家《更級日記》(3期)、狩野永徳《唐獅子図屏風》(4期)と国宝8件のうち6件や、海野勝珉《蘭陵王置物》(2期、重要文化財)など、多様で多彩な各時代を代表する名品の数々が約8か月にわたり、4期にわけて紹介されているのであった。「皇居三の丸尚蔵館」👈リンク 展示室2の会場内は写真撮影可能であった。正面に後ほど鑑賞した「伊東若冲」の「動植綵絵」が4幅が展示されていた。右手に、最初に「春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ) 巻十九高階兼隆/延慶2年(1309)頃/絹本着色藤原氏の氏神、奈良・春日大社の草創と、霊験の数々を描いた全20巻からなる絵巻。左大臣・西園寺公衡の発により制作、絵は宮廷絵師の高階隆兼が描きました。豊かな色彩と精緻で気品あふれる描写による、中世やまと絵の代表作。明治時代に鷹司家より献上。」今回の巻十九の展示はこの部分から。購入した案内本「開館記念展 皇室のみやー受け継ぐ美ー」より。「「春日権現験記絵」巻十九第二段直前の場面では社から神体の神鏡が14面盗まれ騒然としていますが、ここでは初冬の厳かな春日山が広がります。続く場面では悪党と興福寺の衆徒(僧兵)が血生臭い戦いを繰り広げ、衆徒は死闘の末に3面の神鏡を取り戻します。『春日権現験記絵』巻十九は、正安三年(一三〇一)に起こった春日社神鏡強奪事件の顛末を描くものである。作品が成立する直前の出来事であり、いまだ生々しい記憶が残っていたであろう。掉尾を飾る巻二十も、嘉元二年(一三〇四)の地頭設置による神木枯槁と神火の事件を扱っている。この二つの出来事は、絵巻詞書の撰者である興福寺関係者にとって、大和国の支配に関わるきわめて深刻な政治的な事件であった。こうした直近の出来事を、春日権現の神威が今も新たなることを語る説話として、この大規模な絵巻のなかに取り入れている。この巻十九の扱う事件は以下のとおり。近年、興福寺の学侶は蜂起して、大和国の悪党を捜り捕えて流罪にするよう訴えた。これに反撥した悪党たちは、正安三年十月二十五日、春日社に乱入して大宮・若宮の神鏡計十四面を盗み取り、高尾というところに引き籠った。同二十八日、興福寺の衆徒は軍兵を率いて搦め捕ろうとし、大いに合戦をしたところ、悪党交名(リスト)にある池尻家政という者を戦場で討ち取り、その男の持っていた神鏡三面を取り戻した。その後、数々の奇瑞があって順次神鏡が発見され、三ヶ月のうちに全てが本社に戻った。この出来事を詞書とし、巻十九は全五段にわたって描かれている。うち第一段の絵は三場面からなっている。始めに、悪党が武装して春日社に押し入り、本殿の前の幣殿で勝ち誇ったごとく一服しているところ。次いで静かで美しい春日山の雪景色を挟み、悪党と追捕の軍勢とが山間で合戦するところ。図版はその合戦の場面である。双方の軍勢が対峙している画面左側の描写には、当時の戦闘の方式のひとつのあり方が反映されているだろう。楯を持って前進する者たちと、同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。この楯の列の背後から、互いに弓を射掛けあう。さらにその後ろには、太刀や長刀で戦う者や大将らしき騎馬武者が続く。矢に当たるなどして負傷すると、背負われて逃れるが、遅れて敵方に寄せられ囲い込まれて、命を落とすことになる。画面右側で、片足を斬り落とされ、髻をつかまれて、まさに首を取られようとしている者は、詞書にいう池尻家政であろう。彼から奪い返した神鏡を手に提げる軍兵がいる。描かれた楯は、板二枚を副木で打ち付けたもので、裏には立てかけておくための棒や持ち手も見えている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が、追討方には違い鷹羽を描いたものもある。『男衾三郎絵巻』や十五世紀の『十二類合戦絵巻』などに描かれた楯の形状や使用法とも類似し、華麗精妙を尽くした甲冑刀剣とは異なるものの、実戦には欠かせない武具のひとつであったとネットから。雪の御笠山と春日奥山。それに続く血まみれ+足切断の場面。近づいて。描かれた楯の、追討方には違い鷹羽を描いたものも。悪党と興福寺の衆徒(僧兵)との血生臭い戦いが続く。楯を持って前進する者たち。同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が。「春日権現験記絵」巻十九第三段大和国(奈良県)の常葉にある仏堂から虹が出ました。行き交う人々が不思議に思って堂内をみると、盗まれた神鏡3面が入った袋が見つかります。神鏡を近くの金勝寺に移したところ、ニ上山に黒雲、春日山に瑞雲がたなびくという不思議な現象がありました。」大和国(奈良県)の常葉にある仏堂から虹が出た。近づいて。行き交う人々が不思議に思って堂内をみると、盗まれた神鏡3面が入った袋が見つかります。近づいて。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻「蒙古襲来絵詞」は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長絵詞、蒙古襲来絵巻ともいう。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっている。国宝。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻「蒙古襲来合戦絵巻 後巻」に描かれているのは、弘安の役です。再び蒙古軍が志賀島(しかのしま:現在の福岡県福岡市)に上陸し、戦闘を開始。竹崎季長が敵船に乗り込んで、蒙古軍を討ち取っていく様子が描かれています。海での戦闘場面が多く描かれており、蒙古船は豪華堅固であるのに対し、日本船はカヌーのような粗末な作りであることが分かります。しかし、蒙古軍は、夜から降り出した「神風」(かみかぜ)と呼ばれた暴風雨により壊滅してしまったのです。竹崎季長が蒙古襲来絵巻を作らせたのは、鎌倉幕府から恩賞を得るためですが、自分の功績を後世に残そうとした目的もあったと見られています。なお、御恩奉行の安達泰盛は、1285年(弘安8年)に対立していた「平頼綱」(たいらのよりつな)の讒言(ざんげん:誹謗中傷)により「霜月騒動」で滅ぼされました。蒙古襲来絵巻は、竹崎季長が恩人の安達泰盛に対する鎮魂や恩返しのために制作したという説もあるようです。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻鎌倉時代(13世紀)/紙本着色いわゆる元寇のうち、弘安4年(1281)の2度目の来襲を招いています。生の松原の石築地前での主人公・竹崎季長主従の出陣や、それに続くモンゴル軍との海上戦などを、臨場感をふれる筆致で描いています。歴史的大事件を描いた同時代の絵画としては唯一のもの。明治時代の御買上品。」鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1284年)に中国の元が日本を襲撃した際の戦闘を描いており、肥後国(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長が自らの活躍を子孫に伝えるために描かせたものとされています。「蒙古襲来絵詞」は「竹崎季長絵詞」とも呼ばれ、筆者不明の全2巻の絵巻物です。鎌倉時代の風俗や描写の表現が表れており、2021年に国宝に指定されました。「蒙古襲来絵詞」は、天草大矢野家に伝来し、明治23年(1890年)に同家が皇室に献納したものです。現在は宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。「「蒙古襲来絵詞」後巻蒙古軍との開戦に向け、軍船が海上を進みます。奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)、手前は島津久親(1225-1284 )で、ともに九州の有力な守護です。どちらの船も他と比べて船体は大きく、満ぎ手が立つ船枻(船外に突き出た板)があるなど構造が異なります。」奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)、手前は島津久親(1225-1284 )で、ともに九州の有力な守護。奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)。手前は島津久親(1225-1284 )。蒙古船を襲う季長の一門。これは船で蒙古船に近づき、蒙古兵に襲い掛かろうとする季長一門を描く。日本船がカヌーに毛の生えたような粗末な造りであるのに対して、蒙古船の方は、一応は竜骨を供えた堅固な造りであることが伺われる。蒙古船の船尾に近づいて。蒙古船の船首。自分の戦功をアピールするための絵ですから季長は敵の首を討ち取ろうとしている。激しい戦闘により脛当の紐がほどけ、今まさに額から落ちてゆく瞬間が捉えられています。「「蒙古襲来絵詞」後巻敵船に乗り込み、竹崎季長(1246- ? )が蒙古兵の首を打ち取ります。季長は急いで参戦したため、兜の代わりに脛当を頭に着けていました。激しい戦闘により脛当の紐がほどけ、今まさに額から落ちてゆく瞬間が捉えられています。」そのすぐ近くの別な船に、季長を弓矢で狙う敵兵たちがいます。別な方向を見てる兵やら、頭に矢が刺さった兵もいます。この艦隊には中国風の兵士が多いように見える、船のディテイル、装備品、旗印までがドローン撮影でもしたかのように事細かに描かれている。そしてその先にあったのが国宝・伊藤若冲作「動植綵絵」4幅。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.17
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白鷺の湯 能登 海舟(共立リゾート)そして、2021年に、「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会のメイン会場」として使用され、開・閉会式と陸上競技が行われた国立競技場を訪ねた。横断歩道を渡って、国立競技場の敷地内に。国立競技場 施設案内。現在地はGゲート 手前。今回は、もちろん「国立競技場」内には入れなかったので、「国立競技場」内部の写真3枚をネット👈リンク から。整備費の乱高下で計画が白紙に戻り、政府は「屋根は観客席の上部に限ること」「機能を原則として競技に限定すること」などの方針を打ち出した。 建設コストを抑えるためであった。よって、屋根は全体が覆われているのではなく、ドーナツのように真ん中のフィールド部分は屋根がありません。座席は1層、2層、3層と分かれているのですが、屋根は1層(フィールドに一番近い)の最前列まで覆われている。もともと陸上競技場として歴史を刻んできたためか、芝生のセンターピッチとの距離はやや遠め。観客席には5色のアースカラーが模様のように配置されている。森の木漏れ日をイメージしていると。5つの色:白、黄緑、グレー、深緑、濃茶。これは海外のスタジアムでも使われている手法。こうすることで空席が目立たず、満員に膨れ上がっているように見えるのだとか。曲線を描いた天井の梁からも日本らしさが感じられるのだ。ゲート配置図。Hゲート方向を振り返って。右前方に「女神像」の姿が現れた。「ギリシャの女神像」。ギリシャの女神像は、1964年、東京オリンピック大会の成功を祈念し、国立競技場のメインスタンド貴賓席上部に設置された長谷川路可作の壁画。長年、国立競技場のシンボルとして親しまれ、2019年新しい国立競技場建設に伴って移設された。月桂冠と橄欖(かんらん)の枝を持ち勝者を称える女神に由来した「美の象徴」、作品名を「栄光」とした と。白と黒のモザイクをもって端的に表現し、白の部分には淡色の色ガラスを混入してそれぞれのニュアン スを試みたとのこと。サイズ 高さ:4.3m 幅:3.7m。「Gゲート 青山門」。「野見宿禰像」は、相撲の元祖で力の象徴とされる野見宿禰に由来し、「力の象徴」と。作品名を「勝利」とした と。作者 長谷川 路可サイズ 高さ:4.3m 幅:4.1m。近づいて。Gゲート周辺 案内図。「国立競技場」の周囲を時計回りに散策することとした。前方に博物館「日本オリンピックミュージアム」の姿が。「オリンピック・ムーブメントの発信拠点である『日本オリンピックミュージアム』。1階では、企画展やイベントが開催される「WELCOME SALON」や、オリンピックの世界観を鮮やかに描く映像が楽しめるなど、さまざまな視点でオリンピック・ムーブメントを発信します。2階では、オリンピック競技大会の起源から人類最大の祭典になるまでの歴史を学べたり、競技に共通する動きを体験し、オリンピアンの身体能力に挑戦できるなど、実際に見て・感じて・体験することでオリンピックについて知ることができます。ほかにも、オリンピックシンボルや日本で開催されたオリンピック競技大会の聖火台(レプリカ)の展示が見られるなど、ここでしかできないオリンピックに関わる貴重な体験が楽しめます。」とHPから。空調設備の室外機か?観客席に空調設備はないが、最上部の大きなひさしやスタジアムを360度囲む軒ひさしが外から場内に気流を生み、自然の風で涼が取れるようにもしたのだ と。Fゲート周辺 案内図。再び博物館「日本オリンピックミュージアム」と高層マンション「ザ・コート神宮外苑」を見る。Eゲートに向かって歩く。Eゲート手前の正面に3体の像が姿を現した。「槍投像」、塑像、高さ3.4m。「槍投 作者 雨宮治郎」と。大正・昭和に活躍した作家で、この「槍投げ像」は第15回帝展(1930年・昭和5年)の特選となった作品である。槍の鉾先は、国立競技場に向かっている と。千駄ヶ谷門入り左にあった「円盤投げ像(ディスコポロス像)」、塑像、高さ2.8m。作者:ミロン 。1964年1月に「オリンピック1964年展」を西武百貨店で開催した時、ローマ国立博物館より取り寄せた実物の型抜き。「寄贈サンケイ新聞社 フジテレビジョン 文化放送 ニッポン放送」と。「御車像」、塑像 高さ2.5m。作者 ファルピ・ビニョーリ。正面から。第11回オリンピックベルリン大会(1936年)で行われた芸術競技で金メダルを受賞 した作品。当時のオリンピックにはスポーツ競技とは別に「芸術競技」もあったのだ と。古代オリンピックで行われていた馬車競技の一頭だて馬車を操る御者をモチーフとしている。「この像は1964年1月 「世紀のオリンピック展」を西武百貨店で開催したときローマ國立博物館より取り寄せたミロン作ディスコポロス像(実物型抜き)である。 1964年9月4日 西武百貨店謹製」前方奥に「NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)」が姿を現した。NTTドコモは1990年代半ば、携帯電話の急激な普及を見込み、都内と埼玉県周辺をカバーする新たな中継基地を建設する方針を決定した。立地場所は都心部でないと意味がないため、それを前提に建設地を探し求めていた所、たまたま旧国鉄の新宿貨物駅の跡地が見つかり、 1997年12月に工事に着手。2000年9月に竣工した。都内のビルの中では麻布台ヒルズ森JPタワー、虎ノ門ヒルズステーションタワー、虎ノ門ヒルズ森タワー、ミッドタウンタワー、東京都庁第一本庁舎、東京ミッドタウン八重洲に次いで7番目の高さ・240mを誇る。エンパイアステートビルなどの、1930年代に建てられたニューヨークの摩天楼を思わせるデザインが特徴であり、いつしか「新宿のエンパイアステートビル」と呼ばれるようになった。そしてこちらがEゲート・外苑門前の「国立競技場前広場」。国立競技場は4つの入口がある。北側にあるのが「千駄ヶ谷門」、南側にあるのが「外苑門」、東側のバックスタンドは「青山門」、西側のメインスタンドは「中央門」。そしてこちらが南側にある「外苑門」。競技場の1周は約1kmとのこと。ズームして。国立競技場 施設案内。現在地はここ◯。「国立競技場モニュメント」 Aゲート側。国立競技場の新たなシンボルとして、木のルーバーを多用した杜のスタジアムと調和するルーバー上のモニュメントをスタジアムの南北に配置。スタジアムを背景に訪れた人の記念撮影ポイントにもなっていたのであった。NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)。「TICKET」売場。これは「MEGA BIG」のポスター。「MEGA BIG」とは、Jリーグ等のサッカーの試合を対象に、指定された試合の90分間での両チームの合計得点をコンピューターが自動選択するくじ。「MEGA BIG」は、指定されたサッカー12試合の90分間での両チーム合計得点数を、コンピューターがランダムで選択します。コンピューターは以下4択の中から選びます。1点以下 「1」2点 「2」3点 「3」4点以上 「4」とのことだが、私にはチンプンカンプン???。正面には左「シャリエ神宮外苑」、右「千駄ケ谷インテスビル」。そして競技場の外壁には、2020東京オリンピックの金・銀・銅メダリストの銘板が貼り付けられていた。この場所には「テコンドー」、「卓球」、「サーフィン」、「スポーツ‐クライミング」「スケートボード」・・・・・。「柔道」。「体操」。体操競技・男子個人総合 金メダル「橋本大輝」。「自転車競技・トラック」、「馬術」、「フェンシング」、「サッカー」、「ゴルフ」・・・。「自転車競技・4種目」。そして左斜め前方に「東京体育館」の姿が。「東京体育館」の屋根から「NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)」が顔を出して。再び、2020東京オリンピックの金・銀・銅メダリストの銘板を追う。「バスケットボール」。「バスケットボール女子」 銀メダル「日本」 。「野球/ソフトボール」野球 金メダル「日本」 ソフトボール 金メダル「日本」 。「陸上競技」男子マラソン金 KEN Eliud Kipchoge 2:08:38銀 NED Abdi Nageeye 2:09:58銅 BEL Bashir Abdi 2:10:00NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)が東京体育館の「相輪」の如くに。「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」。千駄ヶ谷門入り右にあったのが「波」、作者:吉田三郎 高さ4m。作者は大正から昭和にかけて、日本彫刻界の重鎮として活躍した作家。徹底した写実態度を示している。作風は、常に堅実で、男性像に傑作が多い と。「出陣学徒壮行の地」の碑「由来昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志」「次世代への伝言 ―出陣学徒壮行碑に寄せてー昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志」内容は上記と全く同じであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.17
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この日は2024年12月19日(火)、14:00から秋葉原にある生命保険会社に用事が出来たので向かった。早朝から出発し、小田急線を利用して代々木上原駅から東京メトロ千代田線で大手町駅で下車。c6b出口から地上に出て東京都道403号大手町湯島線の交差点を渡る。この日の午前中は、将門塚そして皇居三の丸尚蔵館で開催されている美術展そして皇居の散策を行うこととしたのであった。そして「将門塚」に向かって皇居の大手濠に向かって進む。右手に「将門塚」が現れた。場所を移動して。「都旧跡 将門塚」と「故磧保存碑」と刻まれた石碑が入口に。「故磧保存碑」は明治39年(1906)に平将門公の復権運動を展開した阪谷芳郎・織田完之らにより、当時大蔵省の敷地内にあった将門塚に建立されたと。「都旧跡 将門塚」。「東京都指定史跡将門塚神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(九三一~九四六)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けまていました。今を去ること一〇七五年ほど昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平真盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といいます。その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血(こうけつ)をしぼり、加えて洪水や旱魃が相次ぎ、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火(のろし)であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達芸者と原田甲斐の殺害された場所でした。 明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三十六年(一九六一)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。将門塚は神田明神・創建の地でもあります。 毎年九月彼岸の日には「将門塚礼祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿(ほうれんみこし)が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。 史蹟 将門塚保存会 江戸総鎮守 神田明神」「参詣者の皆様へのお願い」と点字による表記もされていた。「東京都指定旧跡 将門塚所在地 千代田区大手町一の二指 定 昭和四六年三月二六日平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱) を起こし九四〇年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。徳治二年(一三〇七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建に際して崩されました。幾多の変遷の後、令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。 令和三年五月 東京都教育委員会」関東大震災後に撮影された将門塚。当時は立派な「塚」だったことがわかる。大蔵省仮庁舎建設のため切り崩されたのはこのあと とネットから。上記より以前の明治時代初期の将門塚をネットから。「明治39年に整備された将門塚」をネットから。入口にあった石灯籠。「将門塚保存会 会長 頌徳之碑」。「将門塚」は平将門公の御首(みしるし)をお祀りする墳墓であり、また同時に神田明神創建の地でもある。天慶の乱後、将門公の所縁者たちにより、この地に納められ墳墓が築かれたのだと。「将門塚板石塔婆将門塚中央にある「板石塔婆」は昭和45年に再建されたもので、時宗の僧・遊行71世他阿隆然上人の染筆による「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年」が刻み込まれていた。近づいて。「平将門の乱の後、将門は自らを"新しい天皇”を意味する「新皇」と称し始めた。朝廷に反逆したとみなされた将門は平貞盛の軍と交戦し、下総の地で討死。その首は藤原秀郷により平安京の七条河原でさらされることになった。この話にはもう一つ、語り継がれている逸話があつ。平安京でさらされた平将門の首は、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときには「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどして民を恐怖に追いやった。その後、平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地土地に落ちた、という伝説がある。その首が落ちた場所の一つが、ここ「将門の首塚」なのだと。更にその伝説は続き、その後13世紀になると首塚は荒廃し、平将門の亡霊は怒り江戸の民を祟ったと言い伝えられてきた。祟りを恐れた江戸の民は、また改めて手厚く平将門を供養することにしたと。なお、塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されている。」とネットから。「将門塚板石塔婆」の後方には五輪塔が。「将門塚板石塔婆」の裏には「徳治二年 時宗総本山遊行寺の二世 真教上人江戸行脚のおり 将門塚が荒れ果て 疫病が蔓延してここ芝崎村の住民が難渋しているのに憐み 将門公に蓮阿弥陀仏と諡して塚を修復し その上に板石塔婆を立て 傍の日輪寺において供養したところ漸く怨霊は鎮り さらにその霊を神田明神として神に祀り 以来村民の守護神になったという。その後 徳川家康公江戸開府のとき 日輪寺は浅草へ 神田明神は駿河台に移されたが塚はそのまま旧地に保存された。以来幾星霜を経て明治時代となり この地は大蔵省の内庭となっていたが昭和十五年 雷火によって庁舎が炎上したとき 板石塔婆も焼損したため 時の大蔵大臣河田烈氏は時宗開祖一遍上人筆の南無阿弥陀佛の名號を写して新調された しかるに本年七月 再び損壊したので前記遊行寺二世真教上人の立てられた旧碑の拓本に倣い 遊行寺現法主七十一世隆然上人染筆によってこれを塚上に再建す。その志すところは平将門公の霊が鎮り人々の上に御加護のあることを願ったものである昭和四十五年九月二十二日 願主神田明神氏子総代 遠藤達蔵撰文願主神田神社宮司 大鳥居吾朗神田山日輪寺住職 原弘道史蹟 将門塚保存会会長 渡辺武次郎」廻り込んで。「将門塚」を後にして進むと「千代田区 総合防災案内板」があった。案内板右に「将門塚ゆかりの神社 江戸総鎮守 神田明神」の案内が。現在位置にズームして。「大手濠」に沿って走る「内堀通り・東京都道301号白山祝田田町線」との交差点まで進む。「大手町三井ホール」の角にあったクリスマスツリー。「将門塚」前の道を振り返る。「内堀通り」の竹橋方向を見る。「大手門」方向を見る。横断歩道を渡り、少し左手に引き返した場所にあったのが「内務省跡」案内板「内務省跡内務省は1873年(明治6年)、大久保利通(初代内務卿)の主導によリ設置された機関て、地方・警察・土木・宗教などの行政を管轄し、1933年(昭和8年)に霞が関へ移転するまでこの地にありました。初代の建物は木造二階建てで、鉄製の門は当時まだ珍しく人目を惹いたと言われています。江戸時代、この周辺には譜代大名の屋敷が置かれ、播磨姫路藩(現在の兵庫県)藩主酒井家の屋敷がありました。」そして「大手濠」沿いを進む。前方右手に見えた来たのが「江戸城 大手門」。ズームして。「江戸城 大手門」入口。「大手門橋」を進む。内濠に架かり、大手町一丁目と丸の内一丁目の間から、皇居東御苑に入る土橋。大手門は江戸城の正門でしたから、御城入口御門橋・大手下乗橋などの別名もあります。大手門は慶長11年(1606)に造られました。橋は、江戸時代は木橋でしたが、大正年間に埋め立てられ、土橋となりました。橋の北側は大手濠、南側は桔梗濠と呼ばれています。徳川家康入国以前は、この辺りも日比谷入江が入り込み、ここに船着場があったと伝えられています。そして、渡櫓の石垣が東側に出っ張っているのがわかります。この出っ張りは大手橋への横矢で橋を渡る敵兵を確実に射落とす為。また、土塀と石垣天端の中間に「石狭間」が切られている(開いている)のがわかります と。「大手門」入口の「高麗門(一ノ門)」。入口である高麗門を入ると、石垣に囲まれた枡形に入り、渡櫓と石垣の上から狙い撃ちされるという、戦国時代の防御の形式が見て取れ、残虐さとともに、城を守るというロマンが感じられ、その上、出入り口にしては、巨大すぎる建造物の規模と格式に言い知れぬ美を感じたのであった。奥に「渡櫓(わたりやぐら)門」という大きな門。大小2つの門に囲まれた枡形のすみにあったのが「旧大手門渡櫓の鯱」と案内板。 「旧大手門渡櫓の鯱」。「大手門大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きい方の門は、昭和20年( 1945年) 4月の空襲で焼失し、昭和42年( 1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」( 1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。」「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を正面から。江戸城大手門は、高麗門とこの渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、渡櫓の櫓門は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大規模なものです。 枡形門とは石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門です。大手門は1607(慶長12)年、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。 1620年(元和6年)の江戸城修復に際し、伊達政宗(石垣を担当)や酒井忠世(さかいただよ)によって再建され、現在のような桝形門になっています。この渡櫓門には長大な武器庫である建物を載せていました。 現存する高麗門は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後の1659(万治2)年に再建されたものです。 江戸時代の渡櫓門は、残念ながら昭和20年の戦災で焼失。 昭和41年の東御苑開園に伴い昭和40年から復元工事が行なわれ、高麗門なども修復、往時の雰囲気が再現されました。巨大な梁材で支えられた「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を見上げて。「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を潜り左手に進む。眼の前は工事中で、杭打ち機やクレーンの姿があった。「三の丸尚蔵館整備に伴う新築工事(Ⅱ期)」と。「皇居東御苑と上皇上皇后両陛下」案内板。現在地はここ。 ・・・つづく・・・
2024.01.16
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そして「聖徳記念絵画館」への入口に到着。「明治神宮外苑案内図」。現在地はココ。右手に巨大な常緑針葉樹林樹・ヒマラヤスギ(ヒマラヤシーダー)が聳え立っていた。ドーム型屋根の「正徳記念絵画館」を見る。「あるけあるけ日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964年(昭和39年)1 0月17日に、ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キやンプに向けて第1回大会を開催しました。私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一郎初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、ウォーキング運動発祥記念碑といたします。 2004年(平成16年) 10月1 /日 (社)日本ウォーキング協会」「明治神宮外苑の舗装明治神宮外苑の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本格的加熱アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。この工事は、我が国においてワービット工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械施工が行なわれました。この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。「当時の工事概要 ワービット工法について(1)発注者:明治神宮造営局 粗粒度アスファルトコンクリートを(2)施工面積:59,096m2 下層に敷き、上層には富配合のアスファルト(3)施工費用:167,135円 モルタルを薄く敷均し、上下層を同時に転圧して(4)工期:1924年5月~1926年1月 仕上げる工法 (5)監督者:工学博士・藤井眞透」左前方に「明治神宮外苑 一角獣 国旗掲揚塔」を見る。左手奥に「外苑いちょう並木」と「東京クリスマスマーケット 2023」の会場が。「国旗掲揚塔」と「ユニコーン像」を逆光で。狛犬に代えてスコットランド王国の象徴であるユニコーンを用いたものかと。額に一角を持ち、牡ヤギの顎鬚、ライオンの尻尾、二つに割れた蹄が特徴。廻り込んで。「国旗掲揚塔」。大正15年、明治天皇と昭憲皇太后を讃えるために建てられた絵画館。神宮外苑の名物、イチョウ並木の真正面に位置し、シンメトリーの洋館。白亜のドームをもつ重厚な建物は、全体が花崗岩でおおわれ、入口や床はすべて天然の大理石を使っているとのこと。明治天皇を中心に成し遂げられた、維新の大改革、その輝かしい時代の勇姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれた80枚の名画が館内に。一流画家による優れた芸術作品であり、政治、文化、風俗の貴重な歴史資料でもある と。起工 : 大正8年(1919)3月5日竣功 : 大正15年(1926)年10月22日設計 : 一般公募156点の1等小林正紹氏の原図を基に明治神宮造営局において修正しました。構造 : 鉄筋コンクリート造り、外壁は岡山県万成産花崗石、画室を除く壁面、中央大広間は、 国産大理石と一部タイルを使用しています。規模 : 長さ 東西112メートル 南北34メート 高さ 中央ドーム頂点 地上32.1メートル 両翼 地上16.7メートル。「角池」越しに「聖徳記念絵画館」を見る。「聖徳記念絵画館」が「角池」の水面に映り込んで。巨大な「白松」の樹。「シロマツ 白松 中国名:白皮松分布=中国(湖北・陝西省(せんせいしょう)を中心とした北部から西部地域)日本では比較的珍しく、中国では王宮、寺院などに多く植えられています。」「聖徳記念絵画館」は明治神宮外苑の中心施設で、明治天皇の事績を描いた絵画を展示する美術館。明治神宮造営局の実施計画により大正15年に竣工。建物の中央に、ドーム屋根を戴く吹抜の大広間をおいて左右に絵画室を配置した構成で、外観は花崗岩による重厚な仕上げとし、内部は大理石やモザイクタイルで壮麗に飾る。「聖徳記念絵画館」は、わが国最初期の美術館建築で、直線を強調した造形表現により、記念性の高い重厚な外観意匠を実現しており、高い価値が認められる。またドームのシェル構造や絵画室の採光などに先駆的な技術が取り入れられており、わが国の建築技術の発展を知る上でも重要である。「聖徳記念絵画館」前から「外苑いちょう並木」を振り返る。「角池」、「国旗掲揚塔」越しに「外苑いちょう並木」方向を。ズームして。さらに。地階と主階の二階構造。主階は、地上二階の展示フロアを指し、中央に大理石張りの大広間があり東西をこの広間で区分し、東側に日本画、西側に洋画を展示しております。中央大広間天井ドームは、最高部で床上27.5m、鉄筋コンクリート内側に金網張りモルタルを施し、ブラスター塗り及び石膏レリーフを取付けドーム部分を淡青色に、その下のレリーフ部分を淡黄褐色に着色している。画室は、採光のためガラス天井を設け、欅材以外の部分は、ブラスター塗りとし、日本画室は淡黄褐色、西洋画室は、淡青色で中央ドームの色彩と同じ着色です。主階へは、正面大階段を上り表広間から中央大広間に至り、その先に裏広間がある。地階は、地上一階のことで、事務所・絵画館学園用として使用しているフロア。「樺太国境画定標石」。「樺太国境画定標石時 明治三十九年六月~四十年十月所 樺太日露境界明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の天測標と十七基の小標石を建てて境界を確定しました。この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたガ、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕影周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。日本側の菊の紋章の背面には露国のの紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。昭和五十四年六月二日 明治神宮外苑」「聖徳記念絵画館」の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)は、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画であると。再び「聖徳記念絵画館」を振り返って。正面に「国立競技場」の姿が現れた。ここの両脇にもヒマラヤスギが。「国立競技場」に向かって進む。右手には案内板が2枚。石碑そしてその後ろには松が。「御鷹の松」碑澁澤榮一書 時年八十又七」「此の松昔は霞乃松とて名高く徳川三代将軍放鷹のをり樹下に憩ひて鷹の名をそのまゝ遊女の松と呼ばれしが又御鷹の松とも稱するに至れり當時の古松は枯れてこれは二代目なりと云ふ元は北方五十間の地境妙寺境内に在りしを大正八年此処に移植したり 大正十五年七月 明治神宮奉賛會」「お鷹の松(おたかのまつ)大正7年(一九一八)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(一六○三〜一六五一)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定二○○年 高さ四メートル)は昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。 昭和五十四年十月 明治神宮外苑」」「国立競技場」からの入口にあった「聖徳記念絵画館」案内板。近代日本のあけぼの、壁画に見る幕末明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の、大改革が断行された、明治維新。西欧の諸国が300年を費やした近代化を、明治天皇を中心に、僅か40年ばかりで成しとげた、輝かしき明治の時代、世界に誇る、館内展示の80面の名画か語る日本近代化への飛曜の姿、歴史事件の数々。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.16
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私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月14日(日)8:00から近くの公園で行われました。コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域では今年は従来通り執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きから ついたようです。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。8時からの開催とのことで8時前に近くの公園に。既に廃材その上に「しめ縄」や「正月飾り」が置かれていました。そして役員の方が8時前に着火し「どんど焼き」のスタート。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。併せて消化器の準備もされていました。団子をアルミホイールで覆っている家庭の三叉団子が出番を待っていました。役員の方が、家から枯れ木を準備して下さり、勢いよく燃え始めたのでした。その上に我が家の「門松」、「しめ縄」等投げ入れました。私が子供の頃は、正月の書初めを燃やし、燃えた書初めの半紙が高く上がると字が上手になると言われていたのですが、最近では書き初めをする子供達も少なくなってしまったのです。三股の団子を持ったご家族の姿も。次第に炎も大きくなり、遠ざかって。ダルマも火炎に囲まれて。まだまだ火力が強く、団子を焼くには早すぎるのでした。お神酒を紙コップにいただき、飲みながら団子の焼けるまでの炎を見つめていました。そして漸く下火になり団子焼きのスタート。三股ではなく三股2段で六股の枝の先端に団子を付けて焼く方も。このくらいになった場所が、団子焼きには良いのです。我が家の団子も。いつのまにか、この地域の方々の数も増えて。子供さんの姿も増えて。昨年は、お神酒の入った紙コップの代わりに白のマスクだったのですが。(昨年の写真)。やはり、近所の方々も、三叉の木を準備するのが大変と。3色の団子の位置は、各家で違うようだ。焦げ目もついて。6個の団子を1本の枝につけて、アルミホイルで巻いて。そして団子を焼く方の数も急に増えて、団子の焦げた匂いも。そして30分ほど雑談しながらの「どんど焼き」も終えて自宅に戻り妻と焼いた団子をシェアーし、今年の健康を祈ったのでした。そして去る7日(日)は七草粥の日。「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」、子どもの頃に一生懸命覚えた春の七草の名前。ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはかぶ、スズシロは大根のこと。この七草をおかゆにして1月7日に食べる七草がゆの習慣は、江戸時代に広まったそうです。七草の種類は時代や土地によって異なり、七草がもっと多くなったり、少ない場合もあったそうですが、いつの時代もどんな土地でも、年頭にあたって豊年を祈願し、「今年も家族みんなが元気で暮らせますように」と願いながらおかゆをいただくその気持ちに差はありません。さらに去る11日(木)は「鏡開きの日」であった。鏡開きとは、正月に年神様(としがみさま)が滞在していた「依り代(よりしろ=居場所)」である餅を食べることで、霊力を分けてもらい、1年の良運を願う行事なのです。年神様は、穀物の神様。毎年、正月にやってきて、人々に新年の良運と、1歳分の年齢を与えると考えられて来たのです。神棚、床の間からお供えを下げて来ました。プラスチックのお供えの内部にあった餅を焼いてお汁粉にして。「どんど焼き」「七草粥」「鏡開き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は、非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。
2024.01.15
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2列の右側「外苑いちょう並木」の横・開催されていた「工芸職人展」の入口にあったのが、この後に訪ねた「御観兵榎について」。さらに、いちょう並木を北に向かって歩く道路の反対側の遊歩道。正面の「聖徳記念絵画館」前の大きな広場・総合球技場では「東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑」が開催されていたが、この時間は11:00~開催の準備中であった。飲食店25店舗、雑貨店30店舗が出店し、グリューワインやドイツビール、欧風料理のほか、スイーツやエルツ地方・ザイフェン村の工房で作られた本格的なクリスマス雑貨などが楽しめる。目玉となる高さ14メートルを誇るクリスマスピラミッドは今年ももちろん健在。6段のピラミッドの各段にそれぞれ違うモチーフの木製の人形が配置され、回転するのだと。そして聖徳記念絵画館前の広場の前のT字路から「外苑いちょう並木」を振り返る。なかなか、車の映らない風景は・・・・・。「神宮軟式球場噴水」越しに、「東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑」会場そして「聖徳記念絵画館」を見る。この後に訪ねた「聖徳記念絵画館」をズームして。「神宮軟式球場噴水」前の歩道を移動しながら「外苑いちょう並木」を様々な角度で。多くの観光客が並ぶ中、ほぼ正面から。T字路横にあった名所の案内板。後に訪ねた「国立競技場」まで380m と。反対側のいちょう並木も訪ねた。そして途中で引き返し、再びT字路から。T字路の角にあった案内板。「正徳記念絵画館近代日本のあけぼの 大壁画にみる幕末・明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の大改革・明治維新が断行され、西欧の諸国が300年を要した国家の近代化を、僅か40年ばかりで成しとげた輝かしき明治の時代。当代一流画家の筆に成る館内展示の80面の大壁画が、明治天皇を中心に、わが国近代化へと飛躍の姿・歴史事件の数々を静かに語りかけてくれます。生きた明治史の教室といえましよう。」「聖徳記念絵画館」前の大きな広場・総合球技場横の大きなカーブ進んで行った。右手にあったのが先ほどと同「御観兵榎についてこの外苑の敷地は、元陸軍の青山練兵所で、明治天皇 の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。 平成八年一月吉日 明治神宮外苑」「初代 御観兵榎」榎 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル碑石 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石題字 東郷平八郎 書 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神」とネットから。混雑しているイチョウ並木からちょっと入ったところにある嘘みたいに静かな公園区域に立っている一本榎。 御観兵榎という名の榎で明治天皇のゆかりのもの。しかし今植えられている榎はオリジナルではないようで2代目とのこと。東京都港区北青山1丁目7。「御観兵榎」碑。「明治天皇には明治二十年青山練兵場設置以来恒例の観兵式又は憲法発布及び凱旋観兵式を親臨あらせらし節に此の榎の下にて馬を駐めさせられた。大正十五年七月 明治神宮奉賛會」。伯爵東郷平八郎書と。近くにあった銀杏の黄葉を追う。そしてモミジの紅葉もこれでもかとカメラで追う。そしてさらに「正徳記念絵画館」方向に進む。右手にあったのが大学の「外苑キャンパス」。東京都港区北青山1丁目7−15 。「京都芸術大学東北芸術工科大学」と。「外苑キャンパス」は、京都芸術大学と姉妹校の東北芸術工科大学の東京の拠点として、2010年7月に開設された。緑豊かな明治神宮外苑の敷地の中にある延床面積3,124m²の2階建てのキャンパスでは、芸術を学ぶことができる多様な公開講座を開講する、社会人のための新型アートカレッジ「東京藝術学舎」や年間開講数約470を超える通信教育部課程のスクーリング授業などに利用されているとのこと。その先にあったのが「にこにこパーク」。神宮球場をはじめ各種スポーツ施設と四季折々の自然を満喫できる神宮外苑にある親子のための有料遊具施設。東京都港区北青山1丁目7−5。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.15
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加賀山代温泉 みどりの宿 萬松閣この日は2023年12月1日(金)、都内五反田駅近くで18時から開かれた久しぶりの元同僚との飲み会に参加。テレビでは神宮外苑のいちょう並木は真っ黄色に色づいている、とのことで、朝早くから自宅を出て向かったのであった。小田急線、千代田線、半蔵門線を利用して「青山1丁目」駅で下車。「青山1丁目」交差点に出る。国道246号・青山通りの「青山1丁目」交差点を渡る。正面にあったのが、「赤坂警察署青山一丁目交番」。 交番の横に「青山1丁目周辺案内図」。 現在地はここ!!最初の目的地の「外苑いちょう並木」まで240m と。近づいて。この先、右側に「外苑いちょう並木」。 「青山通り」の反対側のビル・「POLA青山ビル」の壁には大きな形状の物体が飛び出していた。 「ポーラ・オルビスグループの不動産会社である株式会社ピーオーリアルエステートは、2024年2月下旬竣工予定の「ポーラ青山ビルディング」敷地内に新進気鋭の現代美術作家SHIMURAbrosのアート作品を設置する運びとなりました。今の時代でこそ表現しうる現代アートをパブリックに展示することで、アート・人々・地域を繋ぐ新たな文化拠点を目指します。」 とネットから。 「時空を超えて豊かに広がる樹葉をイメージした高さ約8m、横幅4mに及ぶ作品を、青山通り側の外壁から大きく張り出すように設置し、その関連作品2点を公開空地に展開します。ポーラ青山ビルディングでは、他にもアーティストによる作品の設置やイベントの企画を予定しており、今後も情報を発信して参ります。」 とも。芸術センスのない私には、大好きな缶ビールのプルトップの如く見えたのであったが・・・。そして前方に「外苑いちょう並木」が始まる「青山2丁目」交差点が見えて来た。 前方右に黄色く色づいた「外苑いちょう並木」の姿が現れた。「国道246号・青山通り」。東京都が通称道路名として定めている青山通りは、千代田区永田町の内堀通りの三宅坂交差点から渋谷区渋谷の明治通りの渋谷駅東口交差点に至る延長5kmの往復6~8車線の道路で、道路法上は全線が国道246号になっています。青山通りの先は玉川通りになります。青山通りの都心側には最高裁判所のほか自民党本部などの政治関連の建物が多く、次いで衆参両院議長公邸や赤坂御用地があり、渋谷側は表参道や渋谷などの流行に敏感な地域を通ります。青山通りの下にメトロ半蔵門線と銀座線が通っています と。「青山2丁目」交差点。 そして「外苑いちょう並木」 。まずは「青山2丁目」交差点の横断歩道を渡りながら「外苑いちょう並木」その先に「聖徳記念絵画館」を見る。 ようやく青空も姿を現して来た。いちょうの黄葉は今が盛り!!再び横断歩道を引き返すと、左側に案内板と大きな石碑があった。大きな石碑には「明治神宮外苑之記」と。昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設されたものと。「明治神宮外苑之記明治神宮奉賛會總裁元帥陸軍大将大勲位功二級載仁親王篆額明治四十五年七月明治天皇遽に不予にましまし、尋で大漸に渡らせらるヽや、上下憂懼措く所を知らず、二重橋外日夜を連ね市民の沙上に拝跪して御平癒を祈る者万を以て数ふ、其の三十日遂に崩御あらせらるヽに及び、億兆悲慟天地為に黯澹たり、八月の初め東京市民は葵藿向日の至誠を披瀝し、山陵の地を帝都に卜せられんことを内願す、其の桃山に決定せらるヽに及び、更に神宮の奉祀を懇請し、帝国議会も亦其の議を決せり、是に於て政府は神社奉祀調査会を置き、委員を挙げて審議せしめ、神宮鎮座の地を郊外代々木に相せり、大正三年四月昭憲皇太后崩御あらせらるヽに及び、合祀の事を治定あらせられ、明治神宮造営局を置き社殿を営ませ給ふ、然れども国民孺慕の心は之を以て足れりとせず、明治神宮奉賛会を興し、神宮外苑を設け、以て記念の事業を永遠に遺さんとす、事 天聴に達し畏くも御内帑金三十万円を賜ふ、天下翕然として貲を献じ、遠く海外に在る者亦争ひて之を賛く、是に於て衆議旧青山練兵場を以て外苑の地に擬定す、蓋し此の地は大帝屡観兵の式を行はせられ、彼の憲法発布の慶典及び日露戦役の凱旋に当りて其の儀特に厳粛を極めさせられたる遺躅を留め、且つ大葬に際しては亦実に葬場殿を置き給ひし所なるを以てなり、奉賛会は先つ政府より此の地の提供を受け、進みて隣接の地を購ひ合せて十五万五千坪を得たり、乃ち工事を造営局に託して、地域を修治し、林泉を布置し、葬場殿の故址は樹を植ゑて之を標す、其の前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝並に皇太后御一代の重要なる御事蹟に関する画幀八十を館中に掲ぐ、多くは御事蹟に縁故ある縉紳若くは公私団体等の献納に係り、当代名家の手に成れるものなり、苑の東辺に憲法記念館を置く、館は原と赤坂仮皇居に在り、大帝親臨して帝国憲法及び皇室典範制定の議を重ね給ひし所にして、公爵伊藤博文に賜ひしものなり、苑の西辺に競技場・野球場・相撲場等を設く、起工以来十閲年、其の間総裁伏見宮貞愛親王殿下薨去あらせられ、閑院宮載仁親王殿下後を承けて此の事業を完くし給へり、而して国民上下洪恩の万一に報い奉らんとし、至情の溢るヽ所或は労役に服し、或は貲財を献じ、但後れんことを是れ懼れ、人をして遠く仁徳天皇の古を想見せしむるものあり、嗚呼大帝の盛徳大業は誰か仰ぎ奉らざらん、皇太后の淑範懿行は誰か慕ひ奉らざらん、今此の苑の設け一に仰慕の微意を寓せり、若し夫れ今後来りて神宮を拝するもの、内苑の崇高森厳なるには俯仰の間粛然として威霊の尊きを感じ、外苑の曠遠開豁なるには優游の中穆然として恩徳の深きを思ふものあらん、内外両苑相須ちて神域の規模是れ備はり、神人相和して国運愈隆昌なるを致すに至らん、玆に外苑工事全く唆り、之を神宮に奉献するに当り、事の顛末を略叙して後人に告ぐと云爾 大正十五年十月 明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰」 そして隣に「明治神宮外苑の記」案内板。 「明治神宮外苑の記石碑の題字 「明治神宮外苑之記」 明治神宮奉会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書(てんしょ)撰文 明治神宮奉賢会 会長 徳川家達石材 東北仙台産の板岩 高・地表四メートル 幅・一、八メートル 厚・〇、三六メートル碑文の大意明治四十五年(一九一ニ)七月三十日に、明治天皇(第一ニニ代の天皇・今の天皇の高祖父)、大正三年(一九一四)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(一九二〇)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂け、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永くに伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しはしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはしめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(一九ニ六)十月に、明治神宮外苑は完成しました。苑内には、天皇・皇后御ニ方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画ガ揚げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る(みなぎる)内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。外苑造成工事全く成り、奉質会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。 大正十五年十月 明治神宮奉質会 会長 徳川家達」「外苑いちょう並木」を車が少ない時に。手前には、カラーコーン(パイロン)が並んでいた。なお、カラーコーンという名称は、セフテック株式会社の登録商標であるとのこと。カラーコーンとは、道路や工事現場などに設置される円錐形(cone)の保安用品です。英語では、トラフィックコーン(traffic cone)と言う。パイロン、セーフティコーン、安全コーン、ラバーコーン、三角コーンなど、メーカーや業界によってさまざまな呼称があるのだ。道路の反対側をズームして。ここにも長文の案内板が。「銀杏並木いちょう(銀杏・公孫樹)銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられてあり、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇ニ本)四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(一九ニ六)十月ニ十に日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹か、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年ハ十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇ハ)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数一六〇〇本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十ニ年(一九一三)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木も同時に植えられております。最高ニ十四メートル・目通り周りニメートル八十センチ、最低十七メートル目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしよう。同じ時期に、同し苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましよう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。 平成御大礼の日 之を建つ 平成二年十一月十一日 明治神宮外苑」まだやや時間が早かったので、思いの外観光客の姿は少なかった。「早起きは三文の徳(得)」とはこのこと!!「4列のいちょう並木を、守ります」。スマホでQRコードを読み込んでみてください。多くの鳩が!何を食べているのであったか?「明治神宮外苑案内図」。そして右2列の「外苑いちょう並木」の下をゆっくりと歩いて進む。しばらくは、外苑銀杏の絶景をしばしお楽しみ下さい。等身大の人形を被写体にして、大きなカメラで撮影しているオジサンがいました。私も1枚ズームで撮らせていただきました。このお顔もモザイク加工が必要なのでしょうか?こちらが旧女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木。朝の陽光を浴びて黄金に輝く銀杏の葉をズームして。先端に葉の無い樹も。私の頭と同じ!!黄金のトンネルを更に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.14
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天然温泉 加賀の宝泉 御宿野乃 金沢(ドーミーイン・野乃 グループ)「遊行寺」からの帰路に「白旗神社」に立ち寄る 。石段上の「拝殿」を見る。 参道の左側の石庭の「みそぎ川」の奥には石祠があった。ズームして。「白旗辨財天」と。「源義経公武蔵坊弁慶公之像」。この「源義経公武蔵坊弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の記念事業の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵坊弁慶公」。大きな薙刀(なぎなた)を持つ武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。「義経公・弁慶公の首塚は、文治五年(一一八九)六月一三日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀の背に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の御首は、当社から南に一五〇メートルの場所に埋葬され、その御霊は白旗大明神として当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺境内にあり、その御霊は常光寺境内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを遺しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いて北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従没後830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵坊弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。 令和元年(二〇一九)一〇月二八日 白旗神社 宮司 鈴木大次」そしてこちらが「湯立神楽」の奉納場所。今年はこの「湯立神楽」👈リンク を10月28日(土)に楽しんだのであった。「藤沢市指定重要無形文化財 湯立神楽白旗神社を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男 が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月二八日 平成八年三月一日指定 藤沢市教育委員会」 そして既に正月の準備が進んでいて来年の絵馬が。「令和6年甲辰(きのえたつ)歳 干支絵馬」。旭日を背に舞う縁起の良い龍の姿が。「原画は例年通り、藤沢市内在住の漫画家 佐野絵里子先生に依頼、絵馬作成は藤沢市長後の㈱グロリア工芸さんにお願いしたとのこと。今回の図案は、義経公が来年の干支である龍(辰)に乗って雲の上を駆けている様子が描かれている。架空の存在である龍が登場しているだけあって、幻想的な絵となっているのだ。」 次に「白旗神社」の東側にあった「イチョウ並木」が人気の「御殿辺(ごてんべ)公園」を訪ねた。 「白旗川」に架かる「人道橋」の先に「イチョウ並木」が。 近所の保育園児が散歩に来ていたり、ベンチで休憩する人がいたり。普段は近隣住民の憩いの場、というこの公園ですが、紅葉の季節になると黄色く染まったこのイチョウ並木の見物に人々が訪れるのだ。毎年11月下旬から12月中旬にかけて見ごろを迎えるイチョウ並木。今年は剪定の都合により枝の広がりがかなり減っていたものの、がんばって黄葉している状態。一面黄金色に染まる美しいイチョウ並木。実は藤沢市内にも知る人ぞ知る名所なのである。左側奥には「御殿辺(ごてんべ)公園」の遊具が。その奥に見えたのが集合住宅「藤沢スカイハイツ」。 入り口向かって左に白旗神社、右に藤沢市民病院、向かいにはトレアージュ白旗というモールに面している。1万m2を超える広い敷地の中央にイチョウ並木が通り、遊具や木陰のベンチ、広々とした芝生が広がる公園。午前中の陽光に黄金に輝くイチョウの葉を追う。まだ緑の葉も。黄葉のプロローグ・序章。「白旗川」の上では鳩が日向ぼっこ中。 ズームして。そして「白幡神社」まで引き返す。 正面にFRP製の「一の鳥居」、その先の石段の上に社殿の姿が見えた。 見事な彫刻が施された「手水舎」。参拝の前に身を清める場所。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。新しく置かれた、義経に縁の深い亀の姿が。腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川を遡り、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられているのだ。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」山岳信仰の石碑群。右から・「御大典記念 永代御供米三俵」と刻まれた石碑。・「八海山大神」碑。 八海山(はっかいさん)は、南魚沼地方に位置する、木曽御嶽信仰の霊山である。 古くから信仰の霊山であり、中世には越後三宮として知られていたが、江戸時代後期に、 木曽御嶽山を中興した人物の一人普寛が、八海山山麓居住の泰賢を弟子としてともに 八海山を開山し、八海山は木曽御嶽信仰の霊山となった。・「御嶽大神」碑。 昭和9年9月に建立。医薬の神様として昔から信じられてきた木曽の御嶽大神を祀り、 病気の苦しさを和らげるよう祈願したと。・「三笠山大神」碑。 御嶽山の前山である三笠山は王滝口独特の霊場で、その山容が御笠をふせて形からその名が 付けられており、道中安全、交通安全の御神徳がある と。スリムな狛犬(右)。こんなに小顔なのも珍しいのでは。一角の狛犬(左)。石段を上り、社殿への参道を進む。参道左手には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。そして右側には「義経松」碑。しかし松の姿は見あたらなかった。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして「拝殿」。現在の拝殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻は何度見ても見事。唐破風下には、白旗神社に縁のある亀の姿が。「拝殿」前から参道を振り返る。「神輿殿」裏の見事な黄葉。 「神札授与所、 社務所」。 「義経藤(白色)」 。昨年の4月に訪ねた時の写真。そしてこちらは「弁慶藤」。 昨年の4月に訪ねた時の写真。そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花」。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。碑の裏に以足の句が刻まれている。「東路や華にくるまる鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている と。「芭蕉句碑草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建」と。久しぶりに「遊行寺」そして「白旗神社」の境内・イチョウの黄葉を巡り、大いに楽しんで、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.13
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加賀・山中温泉 すゞや今日楼この日は2023年12月18日(月)、平塚駅前での勤務会社の忘年会がありJRで平塚駅に向かう。途中、辻堂駅前で「テラスモール湘南のクリスマスイルミネーション2023」が行われていたので途中下車して訪ねたのであった。「12周年を迎えるテラスモール湘南。今年の周年祭のテーマは「12 colors of happy」湘南の青い海と蒼い空のイメージに加え、個性豊かな12人のサンタの世界を体験型のイルミネーションで表現しました。」と「Terace Mall 湘南」入口。「Terace Mall 湘南」の建物の壁には多くの入店会社の名前が。暫く待つと17:00になりイルミネーションショーが始まった。光・音楽・噴水が連動したイルミネーションショー。「テラスモール湘南のクリスマスイルミネーション2023」ポスター。2023年11月3日(金・祝)から12月25日(月)まで開催 と。期間中約20万球にのぼるライトをテラスモール湘南が装飾され、一帯が湘南の青い海と蒼い空をイメージしたブルーの光で染まるのであった。1時間に4回、音楽と光と水が融合した噴水ショーが開催されるほか、ゲートスクウェアではプロジェクションマッピングを用いたインタラクティブな展示も実施。隠れたサンタクロースを見つけながら楽しむナイトウォーク。人の動きに合わせて波紋や流れ星、雪の結晶が広がり、湘南ブルーに輝く空間へと誘われるのであった。緑から白の世界へ。木々も青く輝いて。ここにもサンタクロースが。この日の月の姿を。鍵盤を踏んで楽しむステップピアノ。色も様々に変化して。再び刻々と変わる青の世界をカメラで追いかける。エスカレーターを利用して2階ウェルカムテラスから、青の世界を見下ろす。「ユーコーラッキー 37辻堂店」もライトアップされて。めまぐるしく色の変化する幽幻の美の世界をカメラで追う。2階ウェルカムテラスの青のフェンス越しに。近づいて。「なぜ青色LEDはノーベル賞を受賞したか?日本人による革命的発明の裏側」👈リンク2014年、青色LEDの発明と実用化に貢献したとして、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の3名がノーベル物理学賞を受賞。彼らの研究によって作られた青色LEDは、寿命が蛍光灯の4倍で、消費電力は従来の電球と比べて10分の1となっているのだ。。よって最近は大規模なイルミネーションフェスタが全国で開催されているのである。そして平塚での忘年会からの帰路、小田急線への乗り換え時に藤沢駅南口のイルミネーションも訪ねて見た。こちらは、辻堂駅前とは異なり、こじんまりとしていたが、黄金の世界が広がっていた。 ・・・END・・・
2024.01.12
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山代温泉 雄山閣(BBHホテルグループ)「歴代上人御廟所」を後にして、巨大な屋根の「本堂」、宝珠を乗せた宝形造銅板葺の屋根が印象的な「回向堂」を見る。「歴代上人御廟所」越しに「小栗堂」。 そして次に訪ねたのが工事中の「宇賀神社」。 ロープが張られており、社殿には近づけなかった。宇賀神社に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。有親は遊行十二代尊観上人の弟子となり名を徳阿弥と、長男の親氏は長阿弥と名を改めました。そして、次男泰親が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移るとき、遊行寺に宇賀神社を奉納しました。長阿弥はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、独阿弥は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。これが徳川家の祖先といわれる由縁です。(諸説あります)寛政6年(1764)11月に当山の大部分が焼失した際に、宇賀神殿も類焼しました。このとき、幕府より白銀30枚を再興費用としてもらい受けています。天保年間の宇賀神社再興にあたっても同様の援助がありました。現在の建物は明治13年に類焼し、のちに再建されたものです。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されました。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されています。昭和9年7月に遊行六十七代尊浄上人によって「八大龍王碑」が建立されています。「誌出入職方一同は本山七百年記念事業より奉仕して参りましたが此の度遊山会として発足し益々本山とのきずなを固める事を誓い宇賀神に鳥居を奉納いたしました。」 「宇賀神社」から「鐘楼」へと続く参道を見る。「本堂」を「宇賀神社」前から。 「本堂」と「信徒会館」を結ぶ「百間廊下」を見る。 「百間廊下」をズームして。そして再び「回向堂」を見る。 「宇賀神社」を後にして再び墓地内から「歴代上人の御廟所」の白壁を見る。 「高瀬家累代之墓」と。 「小栗堂」を背景にズームして。 こちらは「金井家先祖代々之墓」と。 「南無阿弥陀佛」碑が並ぶ。「金井家の墓地」内には多くの墓石が。 卒塔婆も。再び「本堂」横の「長生院」からの坂道を下る。 右手奥に「地蔵堂」 。「本堂」を斜めから。 「遊行寺だより」。 再び「一遍上人像」を横から。 ズームして。そして「遊行寺」の「いろは坂」を下り「ふじさわ宿交流館」を訪ねた。 「旧東海道・藤沢宿」「藤沢広小路広小路とは、もともと「火除け地」を意味します。江戸の街ではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は一六五七年の明暦の大火前から火除け地を計画していましたが、護持院の焼失(一七一七年)を契機に八代将軍徳川吉宗は、この地を火除け地とし、さらに江戸市中にとどまらず、各地の重要社寺等の門前にも設定しました。藤沢広小路は、大鋸広小路 とも言われ、時宗総本山清浄光寺 (遊行寺 )門前の商家 が櫛比していた場所に設けられました。この場所は人々の往来も繁く、各地に知れ渡って、日本三大広小路の一つとも言われていました。また、東海道五十三次の中では「三曲がり 」としても有名でした。ふじさわ宿交流館 は、この藤沢広小路 の一角に建てられています。」 「掲示板」。「藤沢市ふじさわ宿交流館 ご利用案内」。 「ふじさわ宿交流館」入口。「ふじさわ宿交流館」碑。 「ふじさわ宿交流館」内部に入る。「歌川広重「東海道五十三次藤沢(隷書東海道)」が描かれた「ようこそふじさわ交流館へ藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて六番目の宿場です。江戸時代には、大山道、江の島道、厚木道、八王子道(滝山街道)と、多くの道が集まる交通の要地としてにぎわいました。宿の名所としては、時宗の総本山であり小栗判官照手姫伝説の残る遊行寺や源義経の首洗い井戸、義経をまつる白幡神社などがあります。」 受付・販売カウンターを見る。「東海道中細身図会」。 「東海道五十三次細見図会」という、歌川広重が弘化年間(1844〜47年)に描いた画集。縦位置の図の上半分に各宿から次の宿までの道程を俯瞰的に眺めたものを描き、下半分には街道で見られる旅人の風俗画を描いています。「藤沢宿を通った人々近世藤沢宿にはどのような人々が行き交ったのでしようか。将軍、大名行列慶長関ヶ原戦に際して、徳川家康の軍団が通行し軍事物資の輸送が行われました。以後寬永十一年(一六三四)まで、京都・大阪などとの将軍の上洛還御の大通行が十一回ほど行われ、宿場や沿道の民衆に人馬の提供などの役担がありました。寬永十二年(一六三五)参勤交代制度が確立すると、大名行列の通行が定期的に繰り返されるようになり、宿場も次第に整備されていきましたが、宿場および周辺村落の負担も大きくなりました。外交使節朝鮮・琉球など外国使節も藤沢宿を通りました。琉球の使節は寬永三年(一六三五)から嘉永三年(一八三五)まで一八回派遣されています。琉球使は琉球国王即位を感謝する恩謝使で、将軍就任を祝う慶賀使とともに派遣されることもありました。琉球使の派遣は薩摩藩島津氏の監督のもとに行われ、多い時で一七〇人程でしたが、先導する藩士を加えると四千人余になることもありました。オランダ商館使節の参府が恒例となったのは寬永一〇年(一六三三)からで当初は正月に、寬文元年(一六六一)からは三月一日前後に将軍に謁見するようになりました。ケンベル、シーボルトらは、街道沿線の様子や風俗についてよく観察し、日記に残しました。ケンベルは藤沢で食事をして、遊行寺に指でています。またシーボルトは藤沢宿に宿泊しています。その他の公用交通日光例幣使は、朝廷から家康廟の日光東照宮礼拝のため毎年派遣された奉幣他(参議の公卿)で、正保二年(一六四五)以降毎年派遣されました。一行は五〇人程で、往路は中山道経由で、倉賀野から日光例幣使街道を通り日光霊廟に忌日前日の四月一六日に金の幣帛を奉納、帰途は江戸に寄り浅草寺に詣で、東海道を帰京しました。御茶壺道中は、宇治の御茶を茶壹に入れて将軍に献上するための一行です。これは寬永一〇年に制度化され、東海道通行は住路のみでしたが、元文三年(一七三八)からは往復東海道を通行しました。御茶壹道中は五摂家や宮門跡に準じた権威をもち、これに遭遇した大名は駕籠を降りて挨拶しなければなりませんでした。また、通行に際して、大名に優先して本陣を使用しました。天保三年(一八三二)、保上ヶ谷宿では茶壷の通行に人足五六七人、馬五五疋を要しています。なお、熱海の温泉も、はじめは東海道を通って江戸に送られ、将軍に献上されました。庶民商人、文化人、芸能者、宗教者をはじめ寺社参拝、湯治客など多くの人々が藤沢宿を通りました。特に伊勢お陰参りは時に爆発的流行があり、江戸時代に慶安三年(一六五〇)、宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政一三年(一八三〇)年の四回の流行があり、その度に街道筋では混雑を極めました。藤沢宿の場合は、伊勢参拝を別として、大山、江の島・鎌倉参拝や、箱根・熱海の湯治などに向かう人々が多く通ったという特徴があります。とくに江の島参拝は、弁財天開帳の年に、より多くの通行がありました。」「東海道五十三次細見圖繪 藤澤 平塚へ三里半👈リンク下半分には、道中風俗、原野体の図、金毘羅参り、六部、修行者昼寝 が描かれている。上部には「南古立ば」「名物/あんこう/ふぐ」と記されている。その左手には「なんごの浦」の文字も見える。藤沢宿藤沢宿・東海道分間延絵図(藤沢市蔵複製)。近づいて。さらに近づいて。さらに。絵図東海道右端境川に架けられる橋が現「遊行寺橋」で、「字大鋸板橋」と記述され、その上に「高札」と記述され、下に道標と鳥居が描かれている。「藤沢宿」「慶長六年(一六〇一)、家康が発した朱印状で、各宿に伝馬を出すことが命じられ、一宿の伝馬を三六疋とし、馬数に応じた屋敷を置いたのが、近世の東海道の始まりです。東海道というと江戸から京都までの「東海道五十三次」が想い起こされますが、大津(滋賀県)から分かれる大坂までの道も東海道です。藤沢宿は日本橋から一二里一八町(約五〇キロ)、東海道第六の宿場で、遊行寺の門前町、江の島詣でや大山詣での中継地として賑わいました。天保一四年(一八四三)には人口四〇八九人、家数九一九軒、本陣・脇本陣が坂戸に、人馬継問屋が坂戸と大久保に置かれ、旅籠屋は四五軒ありました。藤沢御殿と陣屋天正一八年(一五九〇)関東に入った家康は各地に地域支配や交通の拠点としての専用の旅館・休憩施設としての御殿や御茶屋を設置しました。藤沢御殿の設置年代は慶長元年(一五九六)頃と推定されています。藤沢御殿は街道の北側、妙善寺のやや北東よりにありました。なお陣屋は御殿と同じ頃には存在していたものと推定され、代官(藤沢代官)とその部下の手付や手代が常駐し、伝馬の差配や諸般の事務を担当しました。本陣・脇本陣寛永一一年(一六三四)を最後に将軍の通行がなくなると将軍専用の宿泊休憩使節としての御殿の役割は終え代わって参勤交代など諸大名や幕府役人、勅使、宮門跡などが利用する本陣が設置されていました。本陣は門横に玄関、書院などを備えた建物で享和三年(一八〇三)当時の」蒔田本陣の規模は間口一三間(約二三・六m)、二一〇坪(六九三m2 )、部屋数一五(内上段の間二部屋、書院六部屋)、総畳数一四四畳でした。蒔田家は明治三年(一八七〇)本陣が廃止されるまで藤沢宿の本陣を勤めました。脇本陣は本陣の補助的な施設で規模は本陣に次ぎ、本陣が空いてないときに大名の休泊や幕府役人の御用宿を勤めました。平時は普通の旅籠屋でした。藤沢宿の脇本陣は、享和三年(一八〇三)に大久保町、坂戸町に各一軒ありました。旅籠屋格式の低い武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。旅籠とは食事付きの宿で飯盛女を置く飯盛旅籠と置かない平旅籠とがありました。また食糧持参で燃料代(木賃)を支払って泊まる宿を木賃宿といいました。藤沢宿の旅籠屋は地名にも残されているように大久保町の一部「旅籠町」を中心に立ち並んでいました。軒数は享和三年(一八〇三)四九軒、天保一四年(一八四三)四五軒でした。旅籠屋の規模は様々で、多くは畳数二〇~三〇畳ほどの小規模の旅籠屋が全体の六割以上を占めていました。宿場には休憩施設としての茶屋もありました。茶屋は部屋を建具で仕切る事を原則とした施設であった。茶屋では飲食を提供するほか地元の名産品を販売するところも多かった。問屋場宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立てです。宿場において人馬継ぎ立てを行う場所を問屋場といいその最高責任者を問屋といった。藤沢宿の問屋場は大久保と坂戸に各々一箇所あった。問屋場には問屋のほか年寄(問屋の補佐)、帳付(人馬の割り振り、賃銭の記帳)、馬指(馬に荷物を割り当てる)、人足指(人足に荷物を割り当てる)、出迎役(御用通行する武家や公家を境まで出迎え宿場へ案内する)、下働(問屋場の雑用、使い走りなど)が勤務、宿場全体では四〇名が間屋場に勤務していた。帳付以下は間屋が雇った奉公人であった。間屋場は明治になって伝馬所と改称され明治五年(一八七二)に廃止された。なお間屋は人馬継ぎ立て業務にともなう村々への助郷役や街道掃除役の割当て、継飛脚などの業務を担当した。寺院・堂宿場の寺院は通常宿泊するところではないが、特別の大通行があり宿が不足した場合は下宿として使用される寺院があった。藤沢宿では常光寺と永勝寺が宿泊できる寺院であった。また庚申堂、地蔵堂などは貧しき旅人が雨露を凌いだり、行き倒れ人の収容・埋葬施設としても機能した。見付藤沢宿の「見付」は「上居」ともいい、江戸方は遊行寺の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲でその目印でもあった。ちなみに藤沢宿の長さは一二町一七間(約一三四〇m)でした。高札場藤沢宿の高札場は万治元年(一六五八)に大鋸橋際に設けられた。道標宿場には立石(傍示)や道標があり、境界を示し、旅人を目的地へと導いた。江戸時代の絵図には、遊行寺の正門前に立石が記されている。この立石は現在も遊行寺の正門に立っている。また大鋸橋側には、江の島道鳥居と並んで道標が描かれている。この道標は江の島道の道標で安藤広重の浮世絵などにも描かれています。枡形藤沢宿大鋸町で東海道は右左に屈曲し大鋸橋を渡ってさらに右に折れている。また宿場かられるが引地川の手前でも東海道は左に屈曲して引地橋にかかる。こうしたクランクは枡形の変形で東海道が設置された当初の軍事防衛上の必要から設けられたものです。」『東海道五十三次(狂歌入東海道)藤澤』 「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲井をさして 登る春かな 松吟庵清風」境川に架かる「大鋸橋」でここが旧東海道。左にある鳥居が江の島道の入口の「一の鳥居」。旧東海道は「大鋸橋」を渡り、右折して平塚宿に向かっていたのである、 「東海道藤沢宿遺跡①~⑩は発掘調査地点第10次調査は、本館建設の事前調査」 薄いオレンジ部分は「藤沢御殿跡」」 「現代に姿を現した藤沢宿の痕跡江戸時代に東海道の宿場町として賑わいを見せた藤沢宿の痕跡が地下に眠っていることがわかったのは、一九九〇年代の中頃になってからです。これにより、藤沢市教育委員会は平成九年(一九九七)一月、神奈川県埋蔵文化財台帳に藤沢市の新たな遺跡として『東海道藤沢宿遺跡』を登録しました。藤沢市の南部には、湘南砂丘と呼ばれる砂丘地帯が拡がっています。ここには東西に延びる砂丘が複数存在していますが、藤沢宿はこれらの砂丘の中でも最北の砂丘列と境川に挟まれた緩やかな斜面地に立地しています。東海道藤沢宿遺跡に初めて調査のメスがはいったのは、遺跡として登録されてすぐの平成九年(一九九七)八月のことです。共同住宅建設の際におこなわれた第一次調査では、戦国時代から江戸時代にかけての五時期の生活の跡が確認されました。江戸時代だけではなく小田原北条氏が支配していた時期の痕跡が確認されたことは大きな成果でした。つづく第ニ次調査が平成十五年(二〇〇三)に、第三次調査が平成十六年(二〇〇四)におこなわれ、藤沢宿の様子が考古学の見地から徐々に明らかとなってきました。しかし、調査は主に宿場の中央から東側の地域にかけてのものであり、西側がどのような姿であったか、まだ明らかになっていません。西側の様子を知るきっかけとなった調査は平成十九年(二〇〇七)におこなわれた第四次調査です。この調査では江戸時代から大正時代にかけての生活の痕跡が確認されましたが、その中で注目されたのが、宝永四年(一七〇七)に富士山が噴火した際の火山灰を廃棄した土坑(大きめの穴)です。これまでの調査からも火山灰の廃棄土坑は確認されていましたが、穴が掘られていた場所は東海道から離れた敷地の裏側にあたるような場所でした。しかし第四次調査でみつかった土坑は東海道沿いに掘られており、また噴火前後に人々が住んでいた痕跡は確認されませんでした。天保十三年(一八四二)に記された『鶏肋温故(けいろくおんこ)』という文献には第四次調査地点周辺より西側を「坂戸新宿」と呼んでいたことが記されています。おそらく宿場の中でも新たに発展した場所を新宿と称したのでしよう。文献と発掘の成果が一致した貴重な調査となりました。なお第四次調査地点の北四隣りに位置する第六次調査ではこれまでに文献からは確認できなかった幕未期と考えられる最大幅約四・五の水路が確認されました。この水路や周辺のゴミ穴からは「伏見屋市兵衛」をはじめ様々な店の名前が記された荷札が大量に出土しました。今後これらの荷札を研究することにより、藤沢の物流の一端が明らかになることが期待されます。」。 「東海道分間延絵図」。「江戸時代の旅人のすがた江戸から京まで東海道を旅するのに、江戸時代には約一四日間ほどの日数を要したといわれています。一日に約四〇キロを往かなければなりません。季節にもよりますが、早朝から歩き始め日没前には投宿しなければならないと考えると、結構な強行軍です。道中記を片手に街道筋の名所旧跡を巡っていますが、実際には通りすぎたというのが実感だったのではないでしようか。それでも今日とは異なり、一生に何度も体験することのない旅となれば、人びとは懸命に歩き、見て、味わい楽しんだのでしよう。ここで、当時の旅人が携行した旅行用品についてみてみましよう。江戸時代に刊行された旅行の心得を説いた書物『旅行用心集』には、矢立、扇子、針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付け木、麻綱、印板が記され、その他に革袋、胴乱、鉤が図示されています。また、これら以外にも鋏・小刀・物差・ぶん回し(コンパスのような道具のことです)・耳掻き・毛抜き・千枚通しなどの七つ道具、弁当箱に方位磁石などがあります。今日の旅行用品とほとんど変わらないようにもみえますが、早朝出発や仕方なく夜道を歩かなければならないときには、やはり提灯や蝋燭が必要です。道脇で弁当を食べたり、木賃宿(燃料代だけを支払って宿泊する宿屋)で炊事をするにも火打道具に懐中付け木が必要でした。それから、方位磁石。不思議でもなく、実は方位磁石の果たす役割は大きかったのです。「東海道分間絵図」をみると、図中にしばしば方位が表示されています。つまり、絵図形式の道中記も同様ですが、紙の天地の幅が限定された図鑑の場合は、東海道は一本道として描くことになってしまいます。実際は、場所によっては南北に、あるいは東西に曲がりくねっていた道を右から左へ描いたため、宿場や名所旧跡などを除くと、例えば富上山や大山などの遠め近めの山などが目印となりました。そこで、自分がいる場所からそれらの目標が果たしてどのように見えるかを描き、現在地を確認してもらうために方位が側に記されていました。そこで、旅人は図と方位磁石を合わせてどの方角にどのように富士山が見えるかで、自分の現在地を確認したのです。こうした絵図中に方位を表示する方法を表示する方法は江戸市中の絵図にもみられるところから、ちょっとした散歩でも方位磁石は必須アイテムとなっていたにちがいありません。」 「小栗判官と照手姫「東海道名所図会 巻の六」東海道名所図会のさし絵添え書小栗小次郎は鎌倉権現堂にて強盗に出会い既に毒酒にて殺さるべきを遊君照手が貞操にて夜陰に忍び出竹林の荒馬に乗り藤沢の道場へ駈け入り危急の難を逃れたる これ馬上の達人にして王済が錦障泥を惜しむの類にあらず「小栗判官と照手姫 「東海道名所図絵 巻之六」」。「小栗判官」の物語は、ふるくから説経節(せっきょうぶし)として語られ、江戸時代には人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材となり、登場人物や背景もさまざまに変えて上演され、大変流行しました。そして、江戸時代後半に庶民の物見遊山の旅行がさかんになると、物語の重要な場面で、「藤沢の上人」が登場することから、東海道を旅する人々は遊行寺や長生院をたずねることを楽しみにするようになりました。寛政9年(一七九七)に刊行された名所案内である「東海道名所図会」には、小栗判官照手姫の物語が藤沢に伝えられた話として、次のように紹介されています。 相模の豪族横山の屋敷に宿をとった小栗判官が、金品目当てに毒設されそうになりますが、 その場に居合せた遊女の照手姫に助けられて、荒馬の鬼鹿毛を乗りこなして遊行寺へ逃れた・・実はこの話は、小栗判官の物語の様々な筋書きの一例にすぎません。現在も清浄光寺(遊行寺)の北側には、照手姫が開基となったという長生院があり、小栗判官主従や照手姫の墓、馬具などゆかりの品々を伝えるばかりでなく、「小栗略縁起」という小栗判官物語も伝えています。また、西俣野には「小栗判官絵解き」(花応院)や、小栗判官が埋葬されたという小栗塚跡などがあります。」 「歌舞伎役者が演じる小栗判官三代豊国 「役者見立 東海道五十三駅 藤沢 小栗判官」 「差上申手形之事この文書は、信州(信濃国・長野県)伊奈(伊那)郡福地村(長野県高遠付近)の住人である三四郎と營太郎が、現在の群馬県沼田の半兵衛方に所用のため旅行するので、関所を通してくれるよう、両名の居住する村の名主等が、慶応元年(1865年)差し出したものです。」 「差上申手形之事 内藤若狭守領分 信州伊那郡福地村 三四郎 榮太郎右之者此度上州沼田林屋半兵衛方迄用事有之ニ付罷越候間 其関所無相違御通シ被遊被下候以上 慶応元丑年 右村 名主 与兵衛 年寄 弥次右衛門 組頭 儀助横川 御関所 御役人衆中様」 「旅道具枕 むかしはまげを結っていたので、寝ている間に髪が崩れないように首の下に枕を当てました。旅行には小型の枕を持参しました。盜難対策に貴重品を入れる胴乱(もの入れのこと)が付いた枕もありました。」 「状箱誰もが気軽に旅に出ることができなかった時代、旅先に届ける手紙を預かりました。雨や汗で汚さないように、状箱に入れ、油紙でつつみました。」 「提灯日本でロウソク(和蝋燭)が作られるようになったのは、今から600年前、江戸時代より前で、外出時には提灯に入れて使われました。街灯が無い時代には、夜道を歩くときに欠かせないものでした。旅行者は、小型の提灯を持ち歩いていましたが、火を大きくできないので、あまり明るくなかったでしよう。」 「早道お金(銭)を入れたり、火打道具(火打ち石十火打金)などを入れて、帯に挟んで持ち歩く袋。」 「火打金火打鎌ともいう。火打金は鋼鉄の板で、これに火打ち石を打ち付けて火花を出し、モグサや木くずなど(火口という)に火をつけて、火種にする道具。帯に挟んで持ち歩くように、根付けが付いている。男性の装身具でもある。」 館内に展示されている藤沢宿(大鋸町地区)のジオラマ。大鋸橋。宿場町の時代は遊行寺橋の場所に架かっていた橋を大鋸橋と呼んでいた。遊行寺門前から大鋸橋を手前に向かって渡ると、左手に江の島道が延びている。右側の大きな橋が現在の国道1号の「藤沢橋」。江戸方面からの旧東海道は現在の「藤沢橋」手前で右に折れ、その先の「大鋸橋」で境川を渡り、直ぐに右折し藤沢宿の街を通過し平塚宿方向に延びていたのだ。「朝櫻楼国芳/歌川国芳「本朝武優鏡」源義経」。 「藤沢の義経伝説『吾妻鑑(あすまかがみ)』(鎌倉幕府の記録)によれば、義経は文治五年(一一八九)閏(うるう)四月三〇日に頼朝の意を受けた藤原泰衡(やすひら)に攻められ、衣川の館で自害したと書かれています。まだ三一歳の若さでした。そして、同書の六月一三日の項には、泰衡の使者新田高平が義経の首を腰越の浦に持参し、首実検のために和田義盛・梶原景時等が遣わされたとあります。頼朝は、和田・梶原からの報告を聞いたのみで、義経の首は見ていないと言われ、それから義経の首がどのように扱われたのかは史書には見えません。腰越の浜に捨てられたという言い伝えもありますが、『鎌倉大日記』という書物の記載の中には、「閏四月三十日義経於衣河館自害、五月十三日首上鎌倉被埋藤沢」と書かれています(五月十三日は六月の誤りかも知れません)。藤沢に伝わる伝説では、腰越の浜に捨てられた義経の首は、しばらくして境川をさかのぼり、金色の亀の背中に乗って、白旗川に流れ着いたと伝えられています。江戸時代の文政一三年(一八三〇)に、小川泰堂が著した、藤沢の郷土史『我がすむ里』には、 その頃、藤沢の川辺に、金色なる亀、泥に染みたる首を甲に負い出たり。 里人驚きて怪しみたるほどに、側(かたわら)にありける童児たちまち狂気のごとく肱(ひじ)を はり、『我は、源義経なり、薄命にして讒者(ざんしゃ)〔梶原景時のこと〕の毒舌にかかり、 身は奥州高舘の露と消えるのみならず、首さえ捨てられ怨魂やるかたなし、汝等(なんじら)、 よきに弔(とむら)いてくれよ』と言い終わりて倒れぬ。 諸人恐れて、これを塚となせり。また、首洗井戸については、 白旗横丁のうちにあり、文治五年の夏、彼の義経公の御首をあらい清めし水というと書かれています。義経に関係する伝説は、各地に存在しますが、死後のものはほとんどなく、藤沢に残されたものは貴重な伝説と思われます。小田急線藤沢本町の駅に近い白旗交差点のそばの公園の片隅に、「伝源義経首洗井戸」と「九郎判官源義経公之首塚」の碑が残されています。また、義経の首(みしるし)は、文治五年に近くの自旗神社に葬られたとされ、同社は宝治三年(一二四九)に義経を祭神として合紀し、名称も白旗神社となったと伝えられています。藤沢の旧宿場地域には、先に挙げた史蹟のほか、自旗神社境内の義経松碑(松は亡失)、弁慶のカ石、合紀の碑、荘厳寺の位牌、常光寺裏山の弁慶塚等が残されています。「浮世絵に描かれた藤沢宿」 初代広重「東海道五十三次之内 藤澤 保永堂版」 製作時期1832~1833年。江の島一ノ鳥居付近。背景の小山は遊行寺。鳥瞰図「湘南海岸」。 鵠沼海岸在住のデザイナー、市川勝典さんが、湘南の全景を描いた「鳥瞰図」であると。作品は魚眼レンズ越しに覗いたように丸みを帯びており、湘南の観光スポットを中心に遠くは富士山や伊豆半島まで一望している。「道~藤沢宿を通る道 藤沢宿からのびる道~●東海道 江戸と京都をむすぶ主要道路で大名の参勤交代をはじめ、旅人たちや物資・手紙などが 行き来する重要な道路でした。●厚木道 ●八王子道 藤沢宿から北西の厚木へ通じる道と、北の八王子へ通じる道です。●鎌倉道 藤沢宿から東へ向かい鎌倉へ通じる道で、今の柄沢を通る道と手広を通る道があります。●江の島道 遊行寺前の橋のたもとから南へ江の島まで通じる江戸時代の大人気観光ルートでした。●田村通大山道 西へ向かう東海道の途中から分かれて平塚の田村を通り大山不動尊へ通じる道です。 数人がまとまって参詣する「大山講」が盛んでした。」 「旧東海道藤沢宿近隣宿場マップ」 「宿場 ~藤沢宿の近くにある宿場~」 戸塚宿 江戸日本橋から五番めの戸塚宿は、ひとつ前の保土ヶ谷宿とともに 江戸から最初の宿泊地になることが多く、賑わいました。 藤沢宿 藤沢宿は東海道で六番めの宿場です。 鎌倉、江の島、大山など各地へ通じる道が集まる交通の要衝でした。四ツ谷の立場 宿場と宿場の間には「立場」という休憩所が設けら茶店などもありました。 四ツ谷は大山道への分岐点でもありました。平塚宿 相模川(馬入川)を渡った次の宿場は平塚宿です。水運も盛んで、 船で厚木方面へ上る大山参詣のルートもありました。大磯宿 高麗山(湘南平)のふもとを過ぎた先に次の宿場大磯宿があります。 曽我物語の虎御前や西行法師ゆかりの鴫立庵(しぎたつあん)など 歴史物語に彩られた宿場です。「浮世絵に描かれた藤沢・東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 歌川貞秀・東海道五十三次之内 藤沢 歌川広重・東海道 七 五十三次 藤沢 歌川広重」 上:「東海道図屏風」六曲一双(静岡市蔵) 江戸時代(17世紀) 静岡県指定「東海道図屏風」左隻。東海道は古代からある道ですが近世に入って徳川家康により整備された。江戸時代、歌川広重や葛飾北斎が描いた東海道五十三次の浮世絵は有名。この東海道図屏風は、1枚の屏風が6つの面で構成されている。そして左右2枚で一対になるようになっている。こういった屏風を「六曲一双(ろっきょくいっそう)」と呼ぶ。屏風の枚数の単位は「隻(せき)」で、右隻は向かって右側、左隻は左側に並ぶように置く。画面全体に広がる金色の雲と青々とした山並みが印象的。「東海道図屏風」右隻。下: 右上の江戸城に向かって進む朝鮮通信使一行が中央から左側にかけて描かれている「藤沢宿と朝鮮通信使朝鮮通信使とは、江戸時代に徳川将軍の代替わりの際などに、朝鮮王国から日本(徳川幕府)へ遣わされた外交使節のことです。使節の往来は一六〇七年(慶長一二年)から一八一一年(文化八年)までの全一二回でした。二回目(京都まで)と一二回目(対馬まで)を除く一〇回は東海道を通行した江戸への往復で藤沢を通過し、そのうち九度(往復で一八度)藤沢宿に宿泊しています。通信使は国賓待遇の使節でしたので、大名や公家と同じく宿場の本陣(大名など高家の宿泊所として指定された宿)に宿泊しました。使節一行と随行する大名関係者は総勢五〇〇人を超え、本陣のほか、宿内の主だった旅籠や寺院に分宿しました。一七一九年(享保四年)の通行の際には、帰路、藤沢宿を通過したのちに沿道から通信使の駕籠に蜜柑が提供され、一行が喉を潤したという友好交流の記録(申青泉「海游録」)も残されています。通信使の姿を伝える資料として様々な絵画が知られていますが、ここに掲げる「東海道図屏風」(静岡県指定文化財。静岡市蔵)もそのひとつです。六曲一双の右隻右上の江戸城に向かって、品川宿あたりから、チャルメラを吹く先触れや使節(正使)を乗せた輿などが生き生きと描かれています。華やかな外国使節の通過を見て、街道沿いの人々は様々な刺激を受けたことでしよう。」 「歌川広重 東海道堂遊歴双六 恵比寿屋庄七版」。「東海道五十三次と藤沢名物東海道五十三次とは、江戸時代の五街道のひとつである東海道に、江戸日本橋を起点に京までの間に置かれた五三の宿場のことです。江戸時代後期には誰もが安全に旅行できる環境が整い、社寺参詣を理由とした物見遊山が庶民の間にさかんになりました。旅は庶民にとっての、一生に一度の娯楽になりました。歌川広重が幕府の行列に同行して東海道を旅した際に行った写生をもとに、天保四年から五年(一八三三~一八三四)に制作した「東海道五十三次之内」は、それ以前は人物画が中心であった浮世絵に対して、風景を叙情的に描いた版画として大好評となりました。その後、他の版元も後を追って、五十三次を一組にした名所絵が次々に版行されました。東海道五十三次の名所絵を一枚にまとめ、道中訪ねるべき場所や、知っておくべき名物を描いて仕立てた「道中双六」も各種制作されました。「東海道遊歴双六」は嘉永五年(一八五一)に広重が制作したもので、各宿場の名所・名物を紹介しています。藤沢宿の名物は「砂糖漬」とあります。これは藤沢宿の和菓子屋が販売した防風などの砂糖漬のことを指しているのでしよう。防風とはハマボウフウのことで、海岸の砂地に自生するセリ科の植物です。砂糖漬のショウロもまた湘南地方の名物だったようです。ショウロは手入れのされたクロマッ林に生するキノコです。砂糖が高級品であった時代の高級菓子だったのでしょう。江戸時代の記録に残された藤沢宿の名物は、これらのほか「ひしこなます・さざえ・あわび・弁慶餅」があります。「ひしこなます」のひしこがシコイワシのことであれば、海岸部で漁師が作って食べていたイワシのぬたでしようか。さざえやあわびは、藤沢宿から参詣道が分かれる江の島詣でのみやげ物として有名で、浮世絵の美人が手に提げていたりします。弁慶餅というのは、どんなものだったか、今日ではわかりません。」 「歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢 弘化四年~嘉永五年(1847~1852)江の島道への分岐点となる藤沢宿で、江の島みやげを持った美人が描かれています。美人の旅支度は軽装ですが、駕籠に乗ってきたからなのでしょうか。丸い折詰に入っているのは江の島名物アワビの粕漬、その横には有名な員細工である貝屏風(畳んである)が描かれています。」 「東海道五十三次之内 藤澤圖 三代 歌川豊国(国貞)」 「五拾三次景色入女画」シリーズの一つで、バックの風景画は広重の保永堂版東海道に非常によく似ています。保永堂版に描かれた時間を少し進めたような感じです。後ろの小山は遊行寺で、大鋸橋(現遊行寺橋)付近を表しています。「東海道ってどんな道?近世の五街道・東海道・甲州街道・中山道・日光街道・奥州街道」 「藤沢市ふじさわ宿交流館」のもう一つの入口。 そして「藤沢市ふじさわ宿交流館」の前にあった「藤沢宿高札場跡」。昔の場所の遊行寺橋(旧 大鋸橋)たもとにあるのは 史跡跡の説明板のみとなっていた。藤沢宿の高札場は 高さ:2間(約3.6m) 長さ:3間(約5.4m)とのことなので 丁度 石垣から上の部分が地面にあったと思われる。「藤沢宿の高札場東海道藤沢宿は鎌倉郡大鋸町と高座郡大久保町・坂戸町の三町からなりますが、郡境に境川が流れており、そこに架かる遊行寺橋(旧大鋸橋)のたもとの大久保町に高札場がありました。江戸幕府が作成した「宿村大概帳」によると、藤沢宿の高札場は間口三間(約五・四メートル)、奥行一間(約一・八メートル)、高さニ間(三・六メートル)の大きさでした。」 「高札とは高札とは、法令・禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰など人目につきやすい場所に掲示したもので、制札とも言います。江戸時代以降、明治初年までの代表的な高札としては、正徳元年(一七一一)の五枚の高札(忠孝の奨励、切支丹禁制、火付・火事場取締、駄馬賃銭の制、毒薬・にせ薬売買の禁止)や、明治維新とともに新政府から出された五傍(五倫道徳遵守、徒党・強訴・逃散の禁、切支丹邪宗門の厳禁、万国公法履行、郷村脱走の禁、の五枚)の掲示などがあります。」 「定一、藤沢宿より駄賃幷人足賃銭 戸塚江 荷物壱駄 八拾六文 乗掛荷人共 同断 軽尻馬壱疋 五拾八文以下 略」 「東海道藤沢宿について藤沢宿は、慶長六年(一六〇一年)に東海道の宿場として設置され、後に戸塚宿、川崎宿が追加されて、江戸から数えて東海道五十三次の第六番目の宿場となりました。古くから清浄光(遊行寺)の門前の町として人が行き交う「藤沢」は東国、西国や北相、三浦半島などをつなぐ交通の要衝 でした。清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸見附)と小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(京見附)があって、江戸時代、この範囲が藤沢宿でした。」 そして道路脇の塀の蔦の紅葉を楽しみながら「藤沢市ふじさわ宿交流館」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.12
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「浜松町」駅から山手線で五反田に向かうが、途中大崎駅で下車し目黒川で行われていた「目黒川みんなのイルミネーション 2023」を訪ねることとした。まず、大崎駅東口の噴水と緑の屋外広場・「O(オー)パティオ」を訪ねた。低層館2階の屋上にあたる部分に人工地盤を設け、これを取り囲むように高層館を配置。この広場には、植栽、彫刻、噴水、スペースフレーム等を設け、来街者や近隣の人々が快適に利用できる駅前広場となっていた。噴水と緑の屋外広場・「O(オー)パティオ」にもイルミネーションが。「水の器 噴水のために」の周囲にもイルミネーションが。真ん中の広場にある植栽にも。近づいて。そして目黒川に向かって階段を降りる。「鈴懸歩道橋(すずかけほどうきょう)」にもピンクのアーチが。「目黒川みんなのイルミネーション 2023」のイルミネーションMAP。目黒川の「居木橋」から「大崎橋」までの両側がイルミネーション会場。桜の木にピンク色のLEDランプが。前方の「鈴懸歩道橋(すずかけほどうきょう)」を見る。ズームして。目黒川右岸の歩道を上流に向かって進む。「鈴懸歩道橋」。イルミネーションが川面にも映り込んで。その先の「御成橋」から「鈴懸歩道橋」を振り返る。「御成橋」から下流側の「鈴懸歩道橋」そしてその先の「大崎ゲートシティー」のビル群を見る。上流側の「山本橋」方向をズームして。「めぐろがわ」。英語、中国語、韓国語でも。さらに進む。ピンクのLEDで覆われた桜の樹に近づいて。さらに。前方に「山本橋」。その先の対岸・左岸にはフェンスを覆った黄金の帯が川面にも映り込んでいた。ズームして。黄金の帯を振り返って。「品川区大崎 光の滝公園」もライトアップされて。「JR 上目黒川橋梁」下の地下道を通過。子供たちの絵画が。反対側にも。「目黒川イルミネーション 冬の桜満開」と。「ふれあいK字橋」を通過。そしてこの日の、元同僚4人の宴会場に到着。そして久しぶりの再会で大いに昔話等で盛り上がったのであった。帰路は「大崎広小路」駅から池上線で旗の台駅に向かう。「池上線」に乗り込む。「旗の台駅」で大井町線に乗り換え。そして溝の口駅で田園都市線に、中央林間駅で小田急線に乗り換えて無事、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.11
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そして正面に見えて来たのが、時宗総本山である「清浄光寺(通称:遊行寺)」本堂裏手にある「長生院(ちょうしょういん)」。 「長生院 小栗判官墓所」「堀田家 稲葉家 酒井家 墓碑」案内板。「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定 時宗板碑(じしゅういたひ)板碑とは卒塔婆の一種で、鎌倉時代から安土挑山時代頃にかけて主に関東地方を中心として盛んに造立されました。長生院の本堂に安置されている板碑は、延文元年(一三五六)の銘がある板碑(全長110cm)と、永和三年(一三七七)の銘がある板碑(全長94cm下部欠失)のニ基があり、いずれも南北朝時代のもので、緑泥片岩製の武蔵型板碑と呼ばれるものです。江戸時代末期に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の境内から発掘されました。時宗板碑は「南無阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多く、揩書体のものと行・草書体のニ系統がみられますが、こちらの二基は揩書体で刻まれています。 令和五年(二〇二三)三月 藤沢市教育委員会。」本堂の中のガラスケースの中に納められて。「藤沢市指定重要文化財(彫刻)平成八年(一九九六)三月一日指定木造阿弥陀如来坐像長生院の本尊であり、平安時代後期の作と推定される市内屈指の古仏です。像高は約53cm、檜材の寄木造で、上品下生印(来迎印)を結ぶ典型的な定朝様の尊像です。定朝様とは仏師定朝からはじまる仏像彫刻様式のことで、柔らかな曲線や彫りが浅く流れるような衣文(えもん)が特徴とされ、本像も柔和で優美な印象です。平安時代後期は極楽往生を願う浄土信仰が盛んであり、各地で制作された阿弥陀如来像には人々の極楽への願いが込められています。 令和五年(二〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会」 本尊:木造阿弥陀如来坐像「平成8年(1996)3月1日・藤沢市指定重要文化財(彫刻)指定。像高52.5cm、臂張:30.7cm、膝奥28.3cm、頭長18.8cm、膝張40.0cm、腹厚16.3cm、檜材寄木造、彫眼/長生院の本尊。螺髪は彫出、木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ、更に前後に割り矧いでいます。頭部や面部は丸みを帯び、面相は穏やか、体部はゆったりとしていますが胸は薄く衣文の彫りは浅く整えられています、定朝様の作風が窺われ、平安後期、12世紀の作と推定される市内屈指の古仏です。」とネットから。正面に「長生院」の「寺務所」。 そして「長生院」の「本堂」。 「小栗堂」に近づいて。寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。また年月不詳ですが、享和の頃に復興したといわれています。明治13年11月26日夜の大火によって類焼し直後に仮建築を行い、大正5年に本堂・庫裏を建築、大正12年9月の大震災には後の山が崩れその土砂に圧倒され、庫裏は全壊、本堂は半壊の状態でした。そして同15年2月5日に起工し同7月18日に竣工(しゅんこう)しています。現在の本堂は平成3年に落成したもの。扁額「小栗堂」。 「内陣」。 応永29年(1422)常陸小栗の城主「判官満重」は足利持氏の攻めにより落城、その子「判官助重」が家臣11人と三河に逃げ延びる途中にここ藤沢で横山太郎に毒殺されかけた時、妓女「照手」が「判官助重」一行を逃がし「遊行上人」に助けられたことでゆかりが深い。正長元年(1428)に照手姫は太空上人の弟子となり、剃髪受戒をうけて長生尼と号した。永享元年(1429)に閻魔堂の傍らに「草庵」を結んでこの地に住まわれ閻魔堂を「長生院」と改称された。浄瑠璃で名高い「小栗判官」は家名を再興し「照手」を妻にした。そのゆかりで「小栗堂」と言われている。「助重」の死後に「照手」は長生尼として助重と家臣11人の墓を守り続けここ「長生院」で余生を送った。現在の本堂は平成3年に落成したものだが、明治13年の大火、大正12年の大震災で本堂・庫裏を幾たびか失い再興している。「本堂」裏手には「小栗判官」と「照手姫」のお墓があり、一画には「小栗判官眼洗いの池」、その脇に名馬「鬼鹿毛の墓」までもがある。境内入口左の「知恵地蔵菩薩像」。「小栗判官 墓所入口」案内に従って進む。「(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について桓武天皇の曾孫・平上総介高望から七代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重幹の四子)は、平安時代の久寿二年(一一五五)に、伊勢皇太宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和市宮本)に築城市、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代に至るまでの三百年余の間、領主として常陸国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至りました。その小栗の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永三十年(一四二三)八月二日、関東公方 足利持氏との激戦に奮闘拙く敗れ、小栗城は落城しました。この落城により満重はその子助重と十勇家臣とともに、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ち延びる途中相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野が原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯の峰温泉(和歌山県東牟婁郡本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永三十三年三月十六日)後、十余年を経た嘉吉元年(一四四一年)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。なお助重は、毒殺という非業の死を遂げた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝行謝恩をもって父満重と家臣の墓石を、八徳池のほとりに営んだと伝えられています。またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗十五代城主・小栗助重であります(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)。ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、さらにその追善への意を表して、小栗主従墳墓の概略由来等を顕彰するものです(小栗伝承藤沢編)」。前方に大小の墓石が並んでいた。 「(伝)小栗十四代城主 小栗朝重公と十勇家臣の墓」案内柱。 「小栗判官公並に十勇士之墓」案内板。更に墓碑に近づいて。中央部の背高い小栗判官満重の墓石の両側には、それぞれ 5 基の石塔が並 び、案内柱には「(伝)小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」と記されていた。小栗判官満重の墓石は石造宝篋印塔型、総高166.5㎝・火成岩製。十勇家臣の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔・火成岩製)である。10塔のうち、1塔(総高83㎝)に「重阿弥陀仏 応永21年7月13日(1414)」の銘が入る。右側の「十勇家臣の墓」。左側の「十勇家臣の墓」。「小栗判官眼洗之池」案内板 。「小栗判官眼洗之池小栗主従墳墓に向かい右側には「小栗判官眼洗之池」と銘記した案内板 が建っており、透明度の高い清水を湛えた小池の中には観音菩が祀られてい た。小池に纏わる逸話などは記されておらず、謂れなどについて は窺い知れないが、往古の八徳池を再現したものなのか、あるいは小栗判官満重が十勇家臣の弔い・墓参の際、悲涙に濡れた顔面を洗眼した池だったのか、あるいは息子の助重が父満重や十勇家臣の墓参に際し、心身を清める禊の聖水 として使用した池であったのかなどと・・・・。小栗判官満重が八徳水と呼んでいた事が『小栗畧縁起』に記載されているとのこと。その先の鯉の泳ぐ池にはネットが張られていた。「小栗判官公並に十勇士の墓」の後ろに見事なサルスベリ・百日紅の木が。引き返して行くと「照手姫之墓」。照手姫の墓は石造宝篋印塔型の塔身部を丸石にした石造五輪塔(宝篋印塔様集積塔)、総高110㎝・火成岩製である。 「照手姫の墓」案内板。右に「奉供養七観世音菩薩」像。 「奉供養七観世音菩薩 彦七母 長五良内女講中仁兵衛内 伊兵衛母 長右エ門内 特左エ門母 半左衛門母 妙林 新 五良内 七兵衛内」。舟形光背付聖観音像を半肉彫した総高80㎝・安山岩製。左に聖観音像を半肉彫した月窓妙鏡禅定尼墓碑(総高77㎝・安山岩製)「銘 月窓 妙鏡禅定尼霊位 貞亨五戊辰歳四月廿六日」(1688)。「厄除地蔵尊照手姫の五輪塔の墓石の前に佇む、照手姫が 建立した 3 体の厄除地蔵尊。地蔵尊は、お釈迦様亡き後、この世の人々を救ってく れる仏様といわれ、道中安全の祈願のために詣でる人たちで賑わうという。照手姫自らが遭遇した道中での災難などの厄除祈願のために建立されたのかもしれないと。」 三躯とも火成岩製、総高・中央163㎝・左側157㎝・西側143㎝。右側1躯の手には穴が空けられ何かを差し込んでいた様子もうかがえるのであった。「名馬 鬼鹿毛(おにかげ)之墓」。小栗主従墳墓の脇には、満重が酒宴で難を逃れるために騎乗した「名馬 鬼鹿毛之墓」が。石造角柱型、総高104㎝・花崗岩製である。馬頭観世音菩薩を配し銘文は「宝暦五乙亥歳七月廿四日(1755)為馬神祭祠 藤澤道場」とある。馬を供養した慰霊塔は、遊行十四代太空応永23年(1416)に建立した国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」(怨親平等碑)が遊行寺境内にあり、順次往生を謳う畜類供養との関連性も見いだせるのだと。「長生院 歴代和尚の墓」。無縫塔には「長生院 小栗堂 歴代和尚之墓」と。 「長生院 歴代和尚の墓」から「遊行寺 歴代上人の墓」を見る。 「本堂」、「回向堂」を墓地側から見る。 「回向堂」をズームして。「宗祖一遍上人御入滅七百年記念」碑。長生院小栗堂本堂再建寄進者御芳名が。 「長生院」を後にして、墓地の中の通路を「回向堂」に向って進む。 正面に「回向堂」。振り返ると、一段高い場所に「長生院」の「小栗堂」が見えた。そして「歴代上人御廟所」を訪ねた。「歴代上人御廟所 長生院 小栗判官墓所」。手前にあったのが「藤堂彦子の墓」。 「藤堂彦子の墓筑前国秋月藩主黒田長興と佐竹氏の娘であり、伊勢国久居藩主藤堂高通の正室である。遊行四十二代他阿尊任上人との親交により、当山に埋葬されている。」こちらは「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四」。「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四愛知県出身。近代工芸の革新を志した人物。戦後は愛知県で和紙工芸を振興した。遊行七十一代他阿隆宝上人との親交によりこの地に眠る。ニ〇〇八年に碧南市藤井達吉現代美術館が開館した。」そして中央正面に當山開祖塔、左右に歴代上人の墓塔が。ほとんどのものが「無縫塔(むほうとう)」で、それが整然と並んでいた。「無縫塔は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)。塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また、墓場のことを「卵塔場」ともいう。形式としては二種類あり、一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは、基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。また、竿、中台、請花には格座間などの総力が施されている場合がある。卵形塔身は、時代によって形が微妙に変化する。なお、この卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある。中世期の石塔は、それまでのもろい凝灰岩から硬質の花崗岩や安山岩の利用といった材質の変化、また関東に入った大蔵系石工の活躍、技術の進歩、大陸から入った禅宗を含む鎌倉新仏教の台頭などによって、複雑な形を持った新たな形式が数多く登場した。平安期からの五輪塔をはじめ、鎌倉期には宝篋印塔、板碑、狛犬などが新たに造られるようになった。 無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持の墓である。」 「當山開祖塔」。 「歴代上人」の無縫塔が並ぶ(右側)。この独特の卵型のデザインは、仏教の「宇宙の根源は無念無想」の考えからきていると言われている。すべてをつなぎ合わせると最終的には卵のような形になるとの仏教の思想を、お墓で再現したとの説が有力とのこと。また、五輪塔の「空輪」の部分を細長くデザインしたものという説もあるようだ。 「歴代上人」の無縫塔が並ぶ(左側)。新しい無縫塔が2基。遊行七十三代 他阿上人 一雲大和尚。遊行七十四代 他阿上人 真円大和尚因みに現在の上人は、遊行七十五代 一浄大和尚 とのこと。よって、この無縫塔は先代のもの。遊行七十一代 他阿上人 隆寶大和尚(右)。遊行七十二代 他阿上人 一心大和尚(右)。他阿真教(たあしんきょう)上人は鎌倉時代の浄土僧で、一遍上人を初祖とする時宗の二代目の上人ですが、一遍上人没後、彼により教団が形成されたため、実質上の時宗開祖とされているのだと。そして「歴代上人御廟所」から石名坂環境事業所の煙突越しに富士山を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.11
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「吾妻山公園」を後にして、細い山道を下ると、「吾妻神社」の境内に。境内の隅にあった石碑群。庚申塔:三猿 笠付高さ:132センチメートル造立年月日:元禄4年(1691年)9月上旬銘文:「汝等前行是菩薩道」(正面種字3種)「漸々修學悉當成佛」「奉新造立庚申供養四面塔祈願」 「成就所」「相刕淘綾郡梅沢村/元禄四辛未天九月上旬」所在地:二宮町山西1117お顔のない石仏。「湯殿山講中供養」と刻まれていた。下部には奉納した12名の氏名も。こちらの石仏にもお顔がなく。廃仏毀釈の頃、仏像を壊す運動がおこった。明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で石仏の顔を壊したのであろう。割れかけている石碑には「吾妻神社改築寄附 金参阡五百圓也」と。石鳥居の先に松の巨木が。廻り込んで。珍しい松のようであったが。「奉献 日本大相撲協會 武藏山武」と。「武藏山」👈リンクは、神奈川県横浜市港北区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第33代横綱。本名は横山 武(よこやま たけし)。「武藏山武(横浜日吉出身 出羽海部屋)1909年12月5日生、農家の長男として幼少期より手伝いとして牛の代わりに荷車を引き、坂道を登った。右腕の怪力自慢として出羽海親方からスカウトされる!昭和5年に吾妻神社で奉納相撲し、大鳥居を寄贈する。昭和10年第33代横綱となる。神奈川県出身で横綱になったのは武藏山1人です。以下 省略」吾妻神社の本殿に刻まれた、「彫刻家 小林直光さん」の龍の彫刻が見られると。狛狗(右)。狛狗(左)。正面に「吾妻神社(あづまじんじゃ)」の拝殿。創建は第12代景行天皇(在位西暦71 ~ 130年)の時代たと伝えられてます。言い伝えには日本武尊(やまとたける・景行天皇の第2子)が東征の途中、海路上総(千葉県)へ渡ろうとすると突如として暴風が起こリ、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は海の神の怒りを鎮め、夫の武運を祈るため荒れる海へ身を投じるとたちまち海は穏やかになりました。その後、海辺に流れ着いた命の櫛と小袖を人々が山頂に運び埋めました。この場所が吾妻神社であり、前一帯を埋沢(うめさわ)、海岸を袖が浦と言うようになったと伝えられています。日本武尊が東北平定の帰路、相模の国から甲斐へでる途中の峠で遥か東の海を眺めながら「あずまはや(吾が妻の意)」と嘆き、亡き妻を偲んだところから命(にこと)を祀った山を吾妻山と呼ぶようになったと言います。」石鳥居を参道から見上げる。江戸時代に奉納された石灯籠(右)。石灯籠(左)。参道を拝殿に向かって進む。左手に「手水舎」。「吾妻神社 由緒記」。「吾妻神社 由緒記吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子である。天皇にそむく蕃族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るき暴風突如に起り、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往時を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に 流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に 安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」拝殿に近づいて。この社殿を設計したのは「伊東忠太」氏とのこと。拝殿の唐破風下の懸魚。「本殿」を横から。祭神 橘姫命 ( たちばなひめのみこと ) 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )「本殿」右の彫刻。この吾妻神社の彫刻は、彫刻師 小林直光 1943(昭和 18)年の作と。近づいて。「本殿」左の彫刻。近づいて。この日は拝殿内部に入ることが出来た。祭神 橘姫命 (たちばなひめのみこと)。「五七桐紋」。五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かった と。「感謝状」。祭神 日本武尊 (やまとたけるのみこと)。「十六葉菊紋」。十六葉菊紋は、16枚の花弁を持つ菊を描く。別名『十六菊』。多くは皇室や豊臣秀吉より下賜された家が用いる と。「弟橘媛命入水から七日目に(二宮海岸)現袖ケ浦海岸に漂着」。「本殿」への入口。近づいて。「弟橘媛入水の図」。「本殿正面」。「鏡」。日本は古来から「八百万の神」(やおよろずのかみ)という自然のものすべてに神が宿っているという考え方があります。人にも神が宿っておりますので、神社でのお祈り事は鏡に映る自分の神様への誓いでもあるということです。神社に参拝に行かれました時は鏡に映る姿を意識されましてお祈りして下さい。もしも鏡が見当たらなかった時は、鏡に映る自分の姿をイメージしながら神様にお祈りを致しましょう と。本殿の龍の彫刻。そして拝殿の脇障子(右)。拝殿の脇障子(左)。木鼻(右)。左はピンボケ。「拝殿」前から境内を見る。奉納と刻まれた各種石碑が並ぶ。そして石段の途中から石鳥居を見上げる。扁額「吾妻宮」は地上に安置されていた。落下したが割れなかったと。そして帰路は「梅澤口」への坂道を下る。「梅澤口」近くの右手の石段の上にあったのが「神明社」。近づいて。社殿。「庚申塚」。そしてこちらが「梅澤口」の石鳥居。そしてJR二宮駅に向かい、先輩と昼食を楽しみ、再会を約束して別れて、駐車場に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.10
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時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の東門脇に建つ「小栗判官墓所入口」の石柱。石柱の先に、小栗判官の墓所のある長生院への小路が続いているのであった。右手にあったのが「諏訪神社 神輿殿」。 扁額「諏訪神社 神輿殿」。一昨年の箱根駅伝応援後の初詣時の「諏訪神社 神輿殿」内の写真。内部に諏訪神社の神輿が二基。屋根に竜の神輿(左)と屋根に鳳凰の神輿(右)左の神輿は明治の終わりから大正の頃に茅ケ崎市下寺尾から譲渡された神輿であると。明治11年頃の二宮梅澤流の製作神輿で当時、下寺尾諏訪神社の境内八坂神社として祀られていたと。そして右の神輿は平塚から譲られた神輿との言い伝えが有り、管理人の調査では平塚市真土から譲渡された神輿(明治20年、愛川町半原大工矢内右兵衛藤原高光の製作神輿で真土神社の境内八坂神社として祀られていた。)の可能性があるのだと。小栗判官の墓所のある長生院への小路を進むと左手には多くの墓石が並んでいた。近づいて。左手に「六地蔵」。 「酒井忠重逆修六地蔵供養塔酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」「逆修」とは生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。予修 (よしゅ) 、逆善、逆修善とも言うと。六地蔵に近づいて。その先に巨大な「五輪塔」。 この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないであろうか と。「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。」 「地蔵堂」裏の地蔵様。 ズームして。小さな石仏も。「五輪塔」、「六地蔵」を振り返って。 「稲葉家墓碑」 稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚く。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としました。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげられる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。碑面には戒名が陰刻されていたが、どなたの墓碑なのであろうか?そして「本堂」横にあった「永代供養墓」。竣工年:平成二十五年寸法 :間口十三尺奥行八尺仕様 :散骨用地下納骨棺、骨壺保管用石棚、ガラリ付きステンレス扉、 蓮華台多宝塔、内部照明、明り取りガラス窓 「永代供養塔」前から本堂前の「常香炉」方向を見る。 「永代供養塔」を正面から。こちらは、犬と猫の石像があしらわれたペット類の合祀墓。「いつくしむ」と。 犬の親子?猫の親子。ペット類の慰霊塔「蒼空(そうくう)」。人間のようなペットの名前が書かれていた。「蒼空(そうくう)」と。「本堂」、「地蔵堂」の間に「大イチョウ」を見る。そして再び小栗判官の墓所のある長生院への小路・坂を上って行った。本堂を横から。ズームして。さらに。そして右手奥にあった「堀田家三代の墓碑」を訪ねる。右手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型(下の写真)の5つの墓碑があった。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓。「藤沢山日鑑=遊行寺の日々の出来事等を記した記録」には、毎年のように堀田家からの墓参の様子が記録されている。さて、この5つの墓碑の内、直接埋葬されたのは正仲であり、正利は浅草日輪寺に、正盛は東叡山の現龍院に葬られている。そして正利・正盛の墓碑を遊行寺に建立したのは正俊。正俊は正盛の三男で母は酒井忠勝の女であり、家光の命によって春日局の養子になった。この正俊がなぜ正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではないとのこと。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から日輪寺に埋葬されたと考えられる。正俊は幕閣内においても勢力をもって来たことと、時宗の信徒として総本山に墓石を新たに建立することになったのではないかと考えられていると。正仲の墓石には「常楽院殿其阿法漢映性大居士」とあり、さらに元禄7年(1694)7月6日卒とも刻まれているのであった。「堀田正盛妻阿栗供養塔」「正統院殿華岳宗栄大姉」。「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔堀田 正盛の妻 阿栗(一六一七~一六七四) 酒井忠勝の娘。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院 この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」「堀田 正盛 供養塔」。「玄性院殿心隠宗卜大居士」「堀田 正盛 供養塔堀田 正盛 (一六〇九~一六五一)老中筆頭 従四位下 武蔵川越 藩主下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正利の長男で母は稲葉正成の娘。正室は酒井忠勝の娘阿栗。子に長男堀田正信、次男播磨龍野藩主脇坂安政、三男大老古賀藩主堀田正俊、四男北條藩主堀田正英等がいる。春日局との関係から三代将軍徳川家光の信頼を得て、寛永十二年(一六三五)老中に就任、さらに寛永十九年(一六四ニ)下総佐倉藩に転封し十一万石の大大名となる。寛永四年(一六五一)徳川家光の死去にともない、阿部重次とともに殉死をとげた。墓所は東京都品川区東海寺台東区上野現龍院。この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正利妻・萬 供養塔」「活生院殿東弌房」「堀田 正利妻・萬 供養塔堀田 正利妻の諱萬(一五八七~一六ニ七)稲葉正成の娘。春日局の継子。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」「堀田正利供養塔」「正成院殿覚阿弥陀佛」「堀田正利供養塔堀田正利(正吉)(一五七一—一六ニ九)旗本 堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦ののち、慶長十年(一六〇五)江戸幕府に出仕した。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」少し離れた場所にあった「堀田正仲墓所」「常楽院殿其阿法漢映性大居士」こちらは供養塔ではなく、墓石であるようだ。「堀田 正仲墓所堀田正仲(一六ニニ~一六九四)徒四位下 下総古河藩ニ代藩主。出羽山形藩主、陸奥福島藩初代藩主。大老古河藩主堀田正俊の長男。母は小田原藩主稲葉正則の娘である。正仲の後継には、双子の弟である堀田正虎が継いだ。」「堀田家三代の墓碑」を後にして、さらに進むと左手奥に、この後訪ねた「回向堂」が見えた。 さらに、小栗判官の墓所のある長生院への小路を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.10
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展望台の中央に、現在地を中心とした関東地方の地図が石の表面に描かれていた。吾妻山を中心に相模湾、房総半島、伊豆半島、大島等が。光る海・相模湾と菜の花のコラボ。先端には四阿が。四阿方向をズームして。銀色に光る海をズームして。「国府津」、「鴨宮」、「小田原」方面を望む。そしてその先に伊豆半島。菜の花の香りに包まれて。菜の花(ナノハナ)の花言葉は、「小さな幸せ」「快活」「競争」「希望」「明るさ」「豊かさ」「財産」「故郷」などである と。いつの間にか人の数も増えて。菜の花、桜の花、白き富士山の姿をイメージして。桜の花が咲いていれば!!と我儘にも!!この日の穏やかな相模湾を。「吾妻山公園の由来」碑。「相模路(さがむじ)の 余綾(よろき)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思(おも)はるるかも」萬葉集 巻十四(東歌)(意味: 相模(さがみ:今の神奈川県)の余綾(よろぎ)の浜の砂のように、あの娘(こ)のことが限りなく いとおしく思われる。 真砂(まなご)は、砂浜の細かな砂のこと。また、「まなご」で「愛児(まなご:最愛の児)」を イメージさせているとも考えられます。 )と。万葉の昔から 淘綾の里 二宮の美しい海浜と それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありましたしかし 第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で 山は顧みられることもなく 次第に荒廃が進んでいきました 町はこれを深く憂え 子孫に誇れる山として残したいと思い 地権者六十五名の協力と五年の歳月をかけて整備し 昭和六十二年七月十八日に吾妻山公園として開園しました現在では 健康づくりと自然とふれあう やすらぎの場として人々に喜ばれていますこの公園は 名誉町民 第十七代柳川賢二町長の尽力により完成しました。」「この碑は 公園開園五周年を記念し 柳川賢二顕彰会の有志の寄付により建立されました 平成四年十二月吉日 顕彰会会長 村 山 正 雄淘綾の濱とは ゆるぎ こゆるぎの浜ともいい二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます」芝生広場のほぼ中央に榎の老木が葉を総て落として。ヤドリギも確認できた。ヤドリギ(宿り木)とは、樹木の上の方に丸く鳥の巣のような形状で寄生する植物。正確には半寄生植物。簡単に言うと、「半分くらいは宿主となった樹木から水分と養分をもらうけど、残り半分くらいは自分でも光合成を頑張るよ」という植物。「エノキ 榎ニレ科 工ノキ属分布=本州~九州、朝鮮、中国実は食べられる。野鳥も好み、方々に運んでゆく。材は建築や器具などに利用する」。菜の花の先には、桜の木そしてその先に富士山。城跡の如き石垣の上の展望台をズームして。記念撮影スポット。真鶴半島その先に伊豆半島の姿が。四阿(あずまや)が前方に。四阿に向かって進む。振り返って展望台を見る。再びズームして。四阿で一休みして水分補給。西側斜面に咲く菜の花。再び富士山をズームして。「箱根」の山々を更に見る。右から、明神ヶ岳(924m)、明星ヶ岳(1169m)、神山(1438m)、駒ケ岳(1357m)、上二子山(1091m)、下二子山(1065m)。最後に、菜の花と戯れるミツバチの姿を追った。そして「芝生広場」を振り返りながら、この下にある「吾妻神社」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.09
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正面に「時宗総本山遊行寺」の巨大な「本堂」。木造銅葺きで木造としては東海道随一と言われる。関東大震災で倒壊し、昭和十二年に再建された。「時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)が正式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれています。宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。この遊行寺は正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ「藤沢道場」といわれ時宗の総本山となっています。宝物として、国宝「一遍聖絵(ひじりえ)」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多あります。境内には、市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵艟、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などもあります。また桜・ふじ・花しようぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。」「本堂」手前に露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた「常香炉」。巨大な「常香炉」。「常香炉」には時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。本堂に近づいて。正面に扁額。「登霊臺(とうれいだい)」の扁額は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。この額はもともと惣門に掛けられていたが、明治の大火の際に救い出されて以降はここ本堂の正面扉の上に移された と。本堂の見事な彫刻をカメラで追う。木鼻も見事。天水桶には皇室の菊花紋(十六葉八重表菊)。「登録有形文化財清浄光寺 堂宇十棟・本堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積841㎡・御番方 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積226㎡・小書院 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積162㎡・百間廊下 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積222㎡・囬向堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積31㎡・宇賀神社 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積3.6㎡・鐘楼 一棟 木造、銅板葺、建築面積11㎡・手水舎 一棟 木造、瓦葺、建築面積13㎡・惣門 一棟 木造、銅板葺、間口5.0m・石垣及び 一棟 石垣 石造、総延長53m 築地塀 土塀、瓦葺、総延長22m 築地塀 平成二十八年二月二十五日登録」「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「歳末別時念仏会期間のご案内歳末別時念仏会に伴い、本堂内は完全非公開となります。11/24(金)~11/28(火)」 「一ッ火」開催案内。令和五年11月27日(月)午後5:30 解説/一ツ火法要。「広い本堂が順に灯火が消えていき、やがて完全な暗闇に包まれた本堂には幽音の念仏が響きます。一遍上人以来700年間行われている修行の一つで、暗黒の世界にただ一つ灯される新たな灯明が、光輝く念仏の世界を本堂内に映しだします。法要が進むと、灯火が消され、闇の中から念仏が聞こえてきます。しばらくすると、新しい灯が闇の中から輝き、堂内を明るくし、僧侶の念仏の声が高まっていきます。一年の様々な罪を懺悔し身と心を清めます。暗闇の中から遊行上人の静かな霊音念仏が始まり、二人の僧が古式通り火打石で「一ツ火」を打ち出します。そして仏前の灯火は灯されてゆき居ならぶ修行僧の念仏の高まりとともに再び堂内は輝きに満ち溢れます。闇と光と念仏がかもし出す世界はすべての人々が導かれる極楽浄土そのものです。」とネットから。「本堂 内部」。 外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しいのであった。扁額「清浄光寺」。「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像。平安時代後期作と伝える。参拝客の数もこの日は少なく、久しぶりの参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。「本堂 内陣」の左側をズームして。「本堂 内陣」の右側をズームして。「本堂」前から境内を振り返る。ズームして。「大イチョウ」をズームして。 本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な曲線の海老虹梁の本堂。「放生池」、「寺務所」方向を望む。 「本堂」の手前、右側にあったのが「地蔵堂」。 露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂。大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建。「少病 少悩 ひぎり地蔵」碑。「なでなで地蔵」。私も今更ながらであるが頭を「なでなで」。自由に鳴らせる小さな鐘。昨今、どこの寺も不用意に鐘を突いてはいけない雰囲気。この鐘は、どんどん突いて下さいという雰囲気。小さいのでいくら突いてもかまわない?、響く音も小さい?しかし音色はよかったのであった。近づいて。「地蔵堂」の絵馬かけ。 扁額「地蔵堂」。 木造で高さおよそ3メートルの「日限地蔵様(ひぎりじぞうさん)」をお祀りしている。日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。日切地蔵と表記する例もあるとのこと。さらにお顔を。「お地蔵さんの由来地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。平成26年9月15日 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」「地蔵堂」前から、「本堂」への参道方向を振り返る。 「本堂」を。青空に黄葉の映えた「大イチョウ」を再び。 案内に従い「国指定重要史跡 敵御方供養塔」を訪ねることに。 東側からの参道沿右側・「俣野大権現」の手前にあったのが「鈴木貫介の歌碑」。「もののあわれも知らさりし 少年にてこのみ寺の 小野小町の歌を読みしか」酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」 「逆修」とは、生きているうちに、あらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うこと。死後に行う七七日の仏事を生きているうちに営み、冥福を祈ること。予修(よしゅう)。逆縁。逆修善。「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解駅されています。南無阿弥陀佛自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。 平成二十年(二〇〇八)二月」そしてこちらが「戰歿者供養塔」。「倶會一處(くえいっしょ) 戰歿者供養塔」 「倶會一處」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀様の御浄土でまた共に会わせていただくという意味であると。「戦没者供養塔この供養塔は日清・日露戦争・太平洋戦争で藤沢市出身の千二十余名の英霊が眠っている。遊行七十代一求上人による戦没者慰霊名号碑と同時期に、藤沢市遺族会によって供養塔を東門右側に建立、昭和25年4月23日開眼。「倶會一處 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とある。「倶會一処」とは、阿弥陀仏の浄土に往生して、人びとと共に一とことにいるという意味である。その後、樹木の生長により供養塔母体が破損、藤沢市、遊行寺の賛同を得、戦後六十年を記念して藤沢市遺族会が平成17年7月30日に現在の場所に移設建立した。また遺族の移住にともない他市の英霊もここに眠る。 平成17年8月7日 開眼」 斜めから。「畜霊供養塔」。 近づいて。昭和9年(1934)5月1日 高座郡農会と高座郡畜産組合が発起人となって建立された「畜霊供養塔」の書は秦堂栗原宣で、手洗鉢は高座郡南部豚商組合の寄進とのこと。「大イチョウ」をこちらからも。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.09
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この日は2024年1月6日(土)、平塚にて初仕事の打ち合わせに向かう。途中、新湘南バイパスから富士山の勇姿をカメラに。「宝永火口」の下まで積雪が広がっていた。宝永山は、宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693 m。そして、平塚での打ち合わせを終えて、二宮駅前の『吾妻山』👈リンク で既に開花している「菜の花」を愛でに向かう。二宮にお住まいの、卒業会社の先輩と二宮駅で待ち合わせ。二宮駅南口に車を駐め、改札口に。「二宮駅総合広報板」前にはプランターに植えられた菜の花が並んでいた。「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。2023.1.13(土)~2.18(日)まで開催されるとのこと。この日は、まだ開催前であったが、テレビのニュースでは既に満開になっていると。「にのみや guide map」。これから訪ねる「吾妻山」近辺をズームして。二宮駅北口にて先輩と合流して吾妻山入口に向かって進む。JR東海道線の二宮駅北口に降りると西側に見えるのが吾妻山です 。 二宮町は昔吾妻村と呼ばれていました。吾妻村は(明治22年町村制施行により一色村 、中里村 、 二宮村 、山西村 、川匂村の五村が合併し 、新しい村が誕生しました。 県から 「村の名前は、もともと郷名が二宮庄 、氏神が二宮明神であるから 、二宮村でよかろう」と指令があったそうです。しかし 、「二宮村に編入するようで嫌だ」という理由からか、三日三晩教義しても村名は決まらなかった そうです。その時に「村のどこからでも見える吾妻山があるから吾妻村としてはどうか」と意見が出て 、吾妻村になったそうです。今でも二宮町内の至るところから吾妻山は見えます。 「二宮町立二宮小学校」の前の急坂を上っていくと前方に「吾妻山公園」の入口が姿を現した。ここが吾妻山山頂の菜の花畑への東・役場口ルートの入口。「吾妻山公園」。「吾妻山公園 案内図」。「吾妻山公園」と書かれた木製のアーチの先にはいきなり急な石段が続いていた。最初の石段を登りきった右側には、カフェ・喫茶の「二宮町 ともしびショップ なのはな」があった。そして、途中の展望台で一休み。眼下には二宮・大磯の街並みそして相模湾が広がっていた。JR二宮駅をズームして。遠く、三浦半島にズームして。右手には江ノ島の姿が。江ノ島をズームして。灯台「江の島シーキャンドル」の姿も確認できた。この先にも「吾妻山公園案内図」。可愛らしいスイセンの花が、吾妻山公園の斜面にはいたるところで開花中であった。赤いツバキの花も。近づいて。「カンツバキ 寒椿ツバキ科:属ササンカの園芸品種 花は紅色で八重咲き」と。山の中腹には「つつじ園」が広がっていた。4月になれば。(以前に訪ねた時の写真)。道は二手に分かれていたが、「管理事務所、芝生広場」方向に進む。人の数は予想外に少なかった。白いスイセンに近づいて。右手にあったのが「浅間神社」の石鳥居。「浅間神社祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、二宮町上町地区の祭神で、土地の人には、浅間さんとして親しまれ本社は富士浅間神社です木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉のニ宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて自分の住まいのこの山上に、浅間神社をまつったと言います。」 平成十六年四月吉日 二宮町二宮・上町町内会」さらに登山道?を進んで行った。左手の「吾妻山神社」への路は未だに通行止めとなっていた。「吾妻山公園・管理事務所」入口前を左折して進む。「吾妻山公園 ローラー滑り台」。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下ってこの場所まで滑って来るのであった。さらに丸太で作った急な階段を上る。ここにもスイセンの花が。更に上って行くと、「吾妻山公園 ローラー滑り台」のスタート建屋が。そして「吾妻山山頂」に拡がる「芝生広場」に到着。「芝生広場」の菜の花越しに富士山の姿を。ズームして。富士山の手前に見える山は「矢倉岳(やぐらだけ)」。矢倉岳は神奈川県南足柄市にある標高870mの山である。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かるのだ と。吾妻山からの展望は、現代になって菜の花と富士で有名になっていますが、遠く昔江戸時代天保元年~三年頃(1830~1832年頃)、浮世絵師の葛飾北斎も描いています。それは、富嶽三十六景『相州梅澤左』です。「澤左」は、「梅澤庄」あるいは「梅澤在」の誤りとされ、ここニ宮の吾妻山(当時の梅澤はもっと広い範囲)から中村川あるいは中村湖( 1498年明和地震で消滅)、矢倉岳、士山を描いたものと言われています。富士と鶴それも鶴が七羽で、非常におめでたいと吉祥図として説明する向きが一般的なようです。なかには、水面に立っ五羽の群鶴は、実は、富士神霊の化身(依代)として描かれていて、富士神霊(水神)の降臨地を指し示しているとみる人もいます とネットから。そして右側には大山そしてその左に丹沢の山々が。展望台から見える写真の山々の名前が説明されていた。「大山」。ズームして。再び富士山をズームして。富士山の左には、箱根の山々が。丹沢の山々をズームして。写真中央に、二ノ塔、三ノ塔。案内シートに近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.08
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「中雀門」の左にあった「黒門」から中に入ると正面に「寺務所」、左に「僧堂」、右に「御番方」が姿を現した。 「寺務所」。 ここで「御朱印」が頂けるようであった。 正面には「兵才無用(ひょうがむよう)」と書かれた巨大色紙?が。「『仏説無量寿経』というお経には、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てきます。武力も武器も用いる必要が無いという意味の言葉です。この言葉が出てくる一節は、「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病(えきびょう)なども起こらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲(ゆず)り合うのである。」とネットから。右隣にあったのが「御番方」。境内北西を占める住居部の正面中央に建つ。入母屋造銅板葺で、正面の軒唐破風付の大振りな入母屋玄関は精緻な彫刻で飾り、遊行上人の出立などに用いる。内部は六間取方丈形式で、上間奥室に床などの座敷飾りを備える。寺格に相応しい品格を備えた接客施設 と。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われているのだと。屋根の下には金網で保護された鳳凰・鳥の「懸魚」の彫刻。唐破風下の向拝虹梁の上下の彫刻。扁額「御番方(ごばんかた)」。こちらには「遊戯三昧」と。自由気ままに遊びほうけること。 物事にふけって、夢中になること。 もとは仏教のことばで、何ものにもとらわれることなく、自由であることの意。「三昧」は、あることに一心になって他のことをかえりみないこと と。「中雀門」を内側から見る。懸魚の彫刻。そして「中雀門」の見事な彫刻を内側から更に追う。「中雀門」の扉を内側から見る。 「僧堂」、「寺務所」、「御番方」 を振り返る。 「放生池」手前には石碑が2基並んでいた。元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出された。 「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生された。 現在も、毎年、春季開山忌に放生会などでこの放生池で行われている と。「放生池この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保っとされている。」 『静雲』と。河野静雲の句碑『生きて居て相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲』。放生池の前に「魚鱗甲貝供養塔」があった。「魚鱗甲貝供養塔 遊行一雲平成九年四月遊山會」と記されていた。遊行七十三代・藤沢五十六世他阿一雲上人 平成9年(1997)遊山會 と。正面にある「太鼓堂」が水面に映り込んで。 ズームして。「放生池」の島には「聖観世音菩薩像」のお姿が。再び「御番方」、その右の「信徒会館」を振り返る。 「信徒会館」、「太鼓堂」、「聖観世音菩薩像」。「五重石塔」。そして新しくなって黒くない「黒門」出る。 左手にあった「鐘楼」👈リンク。 近づいて。この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。当時の遊行寺の住持は遊行八代他阿渡船(とせん)上人です。この上人は遊行上人として初めて佐渡に渡って念仏勧進された方で、記録によると、佐渡を巡り終わって越後柏崎に上陸、国内を遊行中、その年の12月22日に藤沢遊行寺に独住されていた遊行六代一鎮上人が入寂されています。鐘楼に脇には、この写真の左側に「円意居士」、中央に「南無阿弥陀佛」碑、そして右側に「中里 理安・理益」の墓があった。「円意居士墓境内鐘楼の前に「円意(えんに)居士供養塔」があった。円意居士は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物。この本宗の篤信に対して建てられたものは供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようだと。」 「中里 理安・理益」の墓碑。小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。「梵鐘」。この鐘は、総高168cm、口径(こうけい)92cmで、この金の池の間4面に489文字の漢文の序文と銘文が陽刻されている。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)。沙弥とは、時衆では出家の僧と在家の信者との中間にあり、半僧半俗的な存在で、客寮(きゃくりょう)とも呼ばれていた。冶工大和権守は、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族で、南無阿弥陀佛は渡船上人の自筆である。平和を願って造られた鐘ではありますが、この鐘自身も数奇(すうき)な運命をたどりました。それは永正10年(1513)1月29日、遊行寺は兵火のために全山焼失するという災難にあいました。戦国の時代の到来です。ここ相模国では伊勢長氏(北条早雲)と三浦義同(入道道寸)との戦いが繰り返され、遊行寺はその戦場となって焼きはらわれたのでした。それ以後、徳川時代になるまでの約一世紀の間廃寺同様となり、住職である藤沢上人もここに住むことができませんでした。梵鐘も北条氏によって小田原城に持ち去られました。天正18年(1590)7月小田原城は豊臣秀吉によって落城。慶長12年(1607)遊行寺の再建が完成し、遊行三十二代普光上人が遊行寺の住持となった。伽藍は再興されたが、鐘はありません。藤沢大鋸の中里八郎左衛門里安(りあん 理庵とも)という人が、小田原城主と談判を重ね、新しく鐘を造って交換するということで、その費用を負担して新しい鐘を鋳造し、古鐘を引き取って寺に寄進したのだと。寛永3年(1626)12月下旬のことと記録されていると。新しく造った鐘は小田原市荻窪の寿昌寺にあり銘文に「藤沢山清浄光寺」とのみ陰刻(いんこく)されている。「絵馬掛け」。 「おみくじ結び所」。 「大イチョウ」を振り返って。「宗祖 一遍上人像」。 ズームして。先代のものは太平洋戦争中に供出されたが、昭和45年(1970年)5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立されたのだと。さらに。「本堂」に向かいながら、「大イチョウ」を振り返って。 そして登録有形文化財「手水舎」。明治100年記念として、ここ手洗鉢が新設されたとのこと。近づいて。「明治百年記念碑。住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の御賛同を得て復元いたしました 昭和四十四年 三月廿六日」とあり、発起人6名の名前が裏面に記されていた。 そしてその先にあったのが「俣野大権現」。 地蔵堂前に建つ小さな社は「俣野またの大権現」社で、埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されていた。「俣野大権現時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は、正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって創建されました遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎影平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものであります影平公は貞和年中(一三四五~四九)に没しておりますが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っております 平成十年七月吉日 藤沢山」 句碑。2012(H24).10月に建てられた清水 浩の句碑と。「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」。一遍上人の【花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない】という有名な言葉がありますが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようです。奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か意義がありそうです とネットから。「提灯」越しに「大イチョウ」 、「いろは坂」方向を振り返る。 こちらからもズームして。「境内案内図」も新旧、歴史を感じることが出来るのであった。年中行事 元修正会 一月一日 初賦算 一月十二日 節分会 ニ月三日 釈尊涅槃会 ニ月十五日 釈尊降誕会 四月八日 春季開山忌 四月ニ十ニ日・二十三日 大施餓鬼法要 六月ニ十七日 薄念仏会 九月十四日 秋季開山忌 九月十四日・十五日 別時念仏会 十一月十八日~ニ十八日 減灯(一つ火) 十一月ニ十七日 大御台式 十一月ニ十人日 除夜法要 十ニ月三十一日 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.08
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「いろは坂」を上り終わり大きな「石門」前に到着。この石門は山門跡となる。「石門」前には「当山今月(11月)の行事」案内木札が並んでいた。貞秀の錦絵にも描かれた楼門の山門は明治13年(1880)に焼失。楼門に掛っていた「藤澤山」の扁額(公式サイトによると東山天皇の直筆による勅額)は本堂内にあるとのこと。 貞秀「東海道名所之内 (御上洛東海道) 藤沢 遊行寺」をネットから。「東海道の名刹 藤澤 遊行寺」の幟。石門には時宗の「宗紋・「隅切三」(すみきりさん)」が。一遍上人は延応元年(1239)、 伊予(いよ・愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男として誕生した。 幼名は松寿丸といい、父は河野七郎通広(こうのしちろうみちひろ) 、祖父は河野四郎通信(みちのぶ )。一遍の俗名は河野時氏といって伊予国の土豪の家系。隅切と呼ばれる、4角形の隅を切り落としたような8角形の枠に、漢数字の「三」を配しており、この8角形が、食器や供物を載せる盆「折敷」(おしき)に似ているため、この枠のある紋を「折敷紋」とも呼ぶとのこと。伊予国(現在の愛媛県)の「大三島神社」の神紋でもあると。「三」の文字は大三島神社の「三」であると言われているとのこと。上って来た「いろは坂」を振り返る。当時の石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれていた。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを今も与えている。平成19年(2007)に大改修が行われた。地元では、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれているのだ。 そして正面に真っ黄色に色づいた「大イチョウ」。この日は、この黄葉した「大イチョウ」を観るのが主目的であった。青空を背景に黄金に輝く「大イチョウ」。場所を移動して。北側は、黄葉へのプロローグの箇所も。「市指定天然記念物昭和四十六年(一九七ー)七月五日指定大イチョウ 樹高約 21m 幹回り 710cmひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31mありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で686cmだった幹回りは、平成二十年の計測では710cmと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月〔藤沢市教育委員会〕」「大イチョウ」前から「石門」越しに「いろは坂」を振りかえる。「大イチョウ」の先に「本堂」。 ズームして。「本堂」を望む。ズームして。「時宗総本山清浄光寺(遊行寺)境内案内」。 近づいて。ここにも「境内案内図」。 「大イチョウ」に近づいて様々な角度から。 「遊行寺墓苑案内所」。 入口の「観音像」。上記「遊行寺墓苑案内所」の先・右手奥にはトイレがあったが・・・。『小噺「厠(かわや)」遊行寺の大イチョウ前にいるお坊さんに、おばあちゃんが話しかけました。「和尚さん。厠(お手洗い)は、どちらですか」と尋ねました。お坊さんは「そこの茶屋の後ろにありますよ」と答えると、おばあちゃんは厠に向かいました。すぐに戻って来て言いました。「和尚さん、カミがないですよ」。お坊さんはすかさず「ここは、紙ではなく仏ですよ」。お坊さんが紙をお渡しすると、おばあちゃんは「なんまいだ…」と数え始めました。』とネットから。再び「大イチョウ」を追う。 宝物館の前にあった「明治天皇 御膳水」。 「明治天皇 御膳水」。 明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた「井戸」とのこと。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人) 時宗総本山 遊行寺」 明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。「遊行寺宝物館」。 これが「袴石」。宝物館入り口の前にある袴石(はかまいし)は、もと遊行寺橋際に建てられていた、かつての江の島詣での道者がくぐった鳥居の袴石。一般に江の島一の鳥居とよばれ、最初に建てられたのは明和6年(1769)頃で、寄進者は江戸麹町の秩父屋孫七です。のちに朽ちたが再度建てられ、明治13年(1880)の大川屋火事で焼失したが、その翌年14年4月に三代目として建立されましたが、しかしこの鳥居は藤沢駅通り拡張工事にともなって取り除かれた。この袴石はその時のものです。碑には世話人として「祠官筥崎伝尹」とあります。「徳川と遊行寺」👈リンク会 期 令和5年9月23日(土)~12月18日(月)で開催中であった。そしてこちらが「寺務所」への「黒門」。 そしてその右側に「中雀門」。中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。向唐門(むかいからもん)様式で作られている。境内の建造物の中でもっとも古く、紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、安政六年(1859)に建てられた。 明治の大火を含め度重なる火災でも焼け残っていたが関東大震災で倒壊、その後以前の姿に復元され平成二十年四月大改修が完成した。四脚門で、高さ約6m、幅約2m70cm。「藤沢市指定重要文化財(建造物)平成二七年(二◯一五)十月一日指定中雀門安政六年(一八五九)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(一八八〇)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。平成二九年(二〇一七)三月 藤沢市教育委員会」 正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋が。正面破風にズームして。「中雀門」の見事な彫刻を更に追う。「中雀門」の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群。そして再び「大イチョウ」を振り返って。こちらからも、北側のイチョウの葉は、まだ緑が残り黄葉のプロローグに。黒門横の板塀にも禅宗様の「火灯窓・花頭窓」を想起させる模様が。 うすねずみ色の「黒門」から「寺務所」正面を見る。 再び「中雀門」を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.07
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この日は2023年11月29日(水)、久しぶりに「遊行寺」の大銀杏の黄葉、そして境内を巡って来ました。まずは「遊行寺」の「惣門(そうもん)」。その両脇には歴史を感じさせる灯籠、その奥には石垣と築地塀も。 大きな寺号標石「時宗 総本山 遊行寺」。 提灯が並ぶ。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。下が本物の浮世絵。『歌川広重東海道五十三次』= 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 = 《 藤澤 》松吟庵清風うちかすむ 色のゆかりの ふぢ沢や 雲井をさして 登る春かな惣門前には、高さ約2m80cmの青銅製の灯籠が対になって建立されていた。青銅製の灯籠(右)。青銅製の灯籠(左)。「榜示(ぼうじ) 門前先通道幅四間二尺」と刻まれた石碑。榜示とは支配関係者が杭または石などによって、領域や領田の表示としたものを意味すると考えられ、境界のしるしに立てた杭を榜示杭と呼んでいる。 江戸時代に入り、人の往来の激しい街道筋で、天領や私領の入り込んでいるところは人々に領域の存在をはっきり知らせるため、街道の傍らに榜示杭が立てられていた と。現在の黒門は、主柱の後に控柱をもつ4本足で、屋根が無く、主柱の上部を横木が貫く大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)。これが「遊行寺」の「惣門」。今日では遊行寺の黒門とも呼ばれているのだ。天保 10 年(1839)成稿の「相中留恩記略」挿図や明治初めの境内図では、この門は「惣門」とあって黒門とは書かれません。姿も今とは違い、冠木門に屋根がついた薬医門の形式で、基壇もある。そしてなにより黒く見えません。江戸後期の境内図で、門全体を茶色に塗ったものもあるので、やはり黒くなかったのでしょう。一説に大書院への門(現在は中雀門の隣)がもともとの黒門だともいわれ、確かにどの図でも黒く描かれています。とすればこのころ惣門は「黒門」と呼ばれていなかったのではないか とも。日本三大黒門の一つといわれますが、他の二つがはっきりせず、どうも根拠はないようです。そして、明治 13 年(1880)「清浄光寺境内絵図面明細書目」 (清浄光寺文書)の「総門」の項からは、桁行 3 間 1尺(約 570 ㎝)、梁間 2 間 3 尺(約 450 ㎝)、棟高 1 丈 4 尺(約 420 ㎝)、屋根は銅板葺きで、紀伊藩主徳川治宝が 染筆した「登霊台」の額が掛けられていたとわかりま す。「藤沢山日鑑」は文政 13 年(1830)5 月 25 日(17 巻) に、この額が届いたと記します と。「作者:歌川(橋本)貞秀東海道名所之内 (御上洛東海道) 藤沢 遊行寺文久3年(1863)」に描かれた惣門。右に「時宗總本山」と彫り文字に墨入れした大きな木札がかかっている。当本山の正式名称は、「藤沢山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)」と号す。近世になって遊行寺と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の「遊行寺」の方が知られているのだ。 左に「清淨光寺(しょうじょうこうじ)」と彫り込んだ大きな木札が。そして惣門から遊行寺の境内に入り、まずは直ぐ左手奥にある墓石を訪ねた。「板割浅太郎の墓」と書かれた案内板。この墓地群は「真徳寺」の境内のようであった。「板割浅太郎の墓」。 卒塔婆には「洞雲院弥阿」の文字が。 「板割浅太郎の墓の由来国定忠治 への忠義を貫ぬく板割浅太郎(本名 大谷浅太郎 )は、大正五年(一九一六)に刊行された平井晩村 の小説『侠客忠治 』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅治」や、主題歌『赤城の子守唄 』が話題となった昭和九年(一九三四)公開された映画『浅太郎赤城の唄 』の登場人物として知られています。真徳寺 には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談が口承されています。天保十三年(一八四二)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無職渡世の足を洗い、時宗金台寺 (長野県佐久市 )住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改めます。後に遊行上人の導きにより藤沢 の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となります。朝タの鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、伯父であるとされる勘助親子の菩提を弔うのです。仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされます。以上の口承が昭和六十一年(一九八六) 山本周五郎 が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされます。後の列成和尚 は、明治十三年(一八八〇)に発生した藤沢宿大火 により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いたのです。明治二十六年(一八九三)十二月三十日七十四才にてその生涯を閉じたと伝えられています。貞松院跡地に現存する墓石には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれています。 赤門真徳寺住職「 そして右手にあったのが「眞徳寺」。 寺号標石「赤門 眞徳寺」。扁額「真徳寺」。境内に入り、「赤門」を振り返る。この大きな石碑には仏像が線刻されているようであった。「本堂」。清浄光寺の塔頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。遊行51代一法はこの寺の檀家から出ているのだと。唐破風の屋根。見事な龍の彫刻。「三界萬霊」碑。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。その右隣に卒塔婆が2本。「戦災震災風水害殉難横死之諸群霊証大菩薩堤塔」 「古今大戦々死病役之諸精霊証大菩薩堤塔」の文字が。十三重石塔、天水桶を見る。「本堂 内陣」。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。 「本堂」前、一段下がった場所にあった墓地。 そして「いろは坂」を更に進むと左手にあったのが「時宗 眞淨院」。寺号標石「時宗 眞淨院」。白壁に囲まれた参道を進むと正面に「山門」が。扁額「登龍山」。そして白壁に囲まれた参道を進む。「水子地蔵尊」。 「本堂」。清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。近づいて。見事な彫刻の数々が正面に。彩色された龍の彫刻。牡丹の花と獅子の彫刻(右)。牡丹の花と龍の彫刻(左)。「開運厄除 毘沙門天」と。「開運厄除 福壽聖観音」と「本堂」の扉の「鳳凰」の彫刻(右)。 「本堂」の扉の「鳳凰」の彫刻(左)。「このお寺の宗旨名称 「時宗」 宗祖 証誠大師 一遍上人(智真)開宗 七百年前(鎌倉末期)本尊 「阿弥陀如來」を本尊に仰ぎます。称名 南無阿彌陀佛教義 大慈悲の阿彌陀如來に皈命(おまかせ)する只今のお念彿が一番大じなことです。家業に つとめはげみむつみあって只今の一瞬が充されるなら人の世は正しく生かされて、明るさを 増し皆倶(とも)に健やかに長壽を保つことになります。浄土えの道はそこに開かれるとする 教えです。お経 無量壽経 観無量壽経 阿弥陁経 六時禮讃などの 諸經典(おきょう)を読誦(およみ)致します。 教學部編」内陣。ズームして。「南無阿弥陀仏 無縁法界供養塔」。「無縁法界」とは、無差別平等の一切をこめていった言葉。縁もゆかりもないこと。また、その人。あるいは弔う親族のない亡者のことと。白壁の参道を引き返す。そして前方に入口が見えて来た。「時宗 眞淨院」の境内の隅にあった銀杏の老木を見上げる。 ・・・つづく・・・
2024.01.06
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そして旧東海道に出て、横断歩道を渡り平塚方面に進む。右手にはこの後訪ねた「養命寺(ようめいじ)」があった。その先にあったのが「おしゃれ地蔵祠」。朱に塗られた素朴な祠の中に顔を化粧した「双体道祖神」の姿が。この石仏は左手に壺を捧け右手には皿を持っている男女ニ神の和合神。この仏様はご婦人の願いことなら何でも叶えて下さると伝えられていて、願いが叶った時にはおしろい白粉を塗ってお礼をするというならわしがあり、お化粧をしてもらえるところから「おしやれ地蔵」と呼はれているのだ。「おしゃれ地蔵「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でもお顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。形態的には「地蔵」ではなく、道祖神 (双体道祖神) の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。 平成七年十二月 藤沢市教育委員会」「おしゃれ地蔵」の前にあった「化粧箱」。「化粧箱」の中には口紅、白粉他が。じっと見つめるご婦人たち。その先、道路の反対側にあったのが「メルシャン 藤沢工場」。そして「養命寺(ようめいじ)」を訪ねた。「養命寺」は曹洞宗、大庭宗賢院の末寺。昭和2年(1927)国指定重要文化財に指定された「薬師如来坐像」を安置している。男性的な力強い尊顔や勢いのある尊体から力量のある運慶の弟子の作品ではないかと推定され、建久8年(1197)の銘が胎内から見つかっている。公開は、寅年の4月12日に限られている。こちらは先代の石碑か?「養命寺 本堂」引地山と号す。創建は天正年間(1573年 – 1592年)頃に暁堂が開山した。延文年間(1356年 – 1361年)頃の創建であるとする説もある。延享年間(1744年 – 1748年)に大拙が中興した。本尊は薬師如来である。扁額「皆王堂」か?本堂の見事な龍の彫刻。斜めから。「本堂 内陣」。「国指定重要文化財(彫刻) 昭和2年(1927)4月25日指定 木造薬師如来坐像 檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高90.5cm引地山養命寺の本尊仏。普段は非公開で、12年に一度寅年の春に公開されます。大正12年(1923)の関東大震災で破損した後、昭和3年(1928)に解体修理がなされた際に、像内脚部に「建久八年 丁巳 8月12日」の墨書銘が確認されました。作風などから、建久8年(1197)に製作されたもので、作者は当時を代表する仏師であった運慶の一門と想定されています養命寺は天正年間(1573~93)の創建と伝えられていますので、それより古い本像は、別の場所から遷された客仏となります。市内の大庭には、十四世紀初めに薬師堂があったことが知られていて、米国のシアトル美術館所蔵の絵画には、この薬師堂らしき堂が三重塔や仁王門・僧坊などと共に描かれています。本像は、その薬師堂の本尊であったと考えられ、造立主は当地域の有力武士であった大庭景義・景廉父子、または三浦義澄・義村父子と推定する説があります。平成ニ十八年に再度の修理が完了しました。」「薬師如来坐像寄木作り、玉眼入り漆箔のこの像は、男性的な面貌、堂々とした体躯で、鎌倉時代初期の関東彫刻に根さした「運慶様式」の貴重な彫刻で、像のひざ裏に建久8年(1197 )という墨書銘があり、造立ないし供養の年と考えられています。昭和2年に、彫像としては市内唯一の国の重要文化財として指定され、全国的にも有名な尊像となった。こ開帳は干支寅年の4月12日の1日に限られている秘仏です。と頂いた資料から。「東海道分間絵図 元禄元年(1690)初版」にもこの場所には「やくし」の文字があると。「市指定重要文化財(彫刻)平成ニ十九年(ニ〇一七)ニ月一日指定木造日光・月光菩薩立像 日光菩薩 檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高一〇六・〇cm 月光吾薩 檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高一〇五・八cm市指定重要文化財(彫刻)平成三〇年(ニ〇一八)ニ月一日指定木造十ニ神将(じゅうにじんしょう)立像檜 寄木造 漆箔 玉眼 像高七ニ・四~七八・五cm日光・月光菩薩の両像は、本尊の薬師如来坐像の脇侍仏で、三体で薬師三尊仏を構成します。本尊同様に東国運慶派の菩薩像として貴重です。十三世紀中頃(鎌倉時代中期)の製作ですが、日光菩薩の頭部は十四世紀に補修を受けています。十ニ神将は、薬師如来の眷属で鬼神を率いて薬師如来やその信者を守護します。平安時代末頃から十ニ支への割り当てが始まりましたが、組み合わせには種類があります。本十ニ像は、十五世紀(室町時代初期)の製作ですが、胎内の銘文と修理札から、永正十八年(一五ニ一)から明治初期にかけて数回行われた修理の年代や、それにたすさわった鎌倉や江戸の仏師の名が明らかとなっています。 令和ニ年(ニ〇ニ〇)三月 藤沢市教育委員会」「月光菩薩 日光菩薩」。「真達羅(しんだら)大将【寅】」、「毘羯羅(びから)大将【子】」。「東海道分間延絵図 文化三年(1806)」には「養命寺」が描かれていると。「本堂」の天井絵。150年ほど前にお寺さんを改修したときに、改修に寄与してくれた檀家さんの名前を入れて天井絵にしたと。一点一点、味がある絵。「市指定文化財 木造十二神将立像」。「布袋尊」。こちらには、更に大きな「布袋尊」。毎年新春に行われる藤沢七福神めぐりでは布袋尊を拝んで本堂の天井画を見ることが出来ると。「藤沢七福神巡り」(毎年1月7日~1月31日)開催中は、布袋さんが、本堂入り口にお出ましになられます。以前に「藤沢七福神巡り」👈リンク を行った時の写真。その時に頂いた御朱印。境内にあった「五輪塔」。「大師像」この石像は頭部がなく無惨な姿、肩までの像高は33cm。「大師像」の前で4体の石仏が地面に横たわっていた、いや半分埋められていたが・・・。「永代供養墓」。正面に祈りの姿の石仏が。「庚申待」塔。三猿もついている文字庚申塔で、貞享3年(1686)建立のものと。庚申待は、江戸時代の庶民が60日に一度おとずれる庚申の日に、皆で集まって一晩中酒食を共にする行事で、中国の民間信仰である道教に由来。掲示板。以下、掲示板から。「養命寺本尊薬師如来坐像 日光菩薩月光菩薩は、京都美術院での修復を終え鎌倉国宝館にあずけてあります。展示してあれば拝観できます。」と。「薬師如来坐像」、「日光菩薩月光菩薩像」。「お知らせ本年十一月二十九日養命寺において晋山結制法要、首座法戦式を執り行います。それに伴い当日早朝より午後二時くらいまでの間、境内に入れなくなります。ご了承くださいますようお願い申し上げます。山主」。「本堂」を斜めから。入口階段横にあったのが「引地山 養命寺 江湖会(ごうこえ)令和五年十一月二十九日」 案内板。禅宗、特に曹洞宗で、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご)。夏安居とは「外出せずに一所にこもって修行をすること」と。そしてこの日の全ての行程を完了し、ここ「養命寺」で解散となったのであった。「本日のルート」。この日の歩数は約15700歩であった。私は、小田急線「藤沢本町駅」に向かって歩く。再び「引地橋西」交差点を渡る。「ひきぢばし」。「引地橋」を渡る。再び、下を流れる「引地川」の上流を見る。そして旧東海道はここを左に曲がっていたと。この先で右に折れて。右に曲がると直線の道。そして右にカーブすると再び旧東海道に合流。よってここ旧東海道を上る人にとっては旧東海道ルートが「コ」の字を裏返した形になっているのであった。ここは、藤沢宿の入口手前に当たるため、城と同様に「枡形虎口」、しかもこれが二重( 」+「 )になっているのであった。更に進むと交差点が。我が母校の名が。そして前方には案内板が。「旧東海道 藤沢宿 京見附(きょうみつけ)」と。「見附は土居(どい)ともいい、江戸方は清浄光寺(遊行寺)の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲で、その目印でもありました。藤沢宿の京見附は、古図などからは判然とはしませんが、この辺りであったとの伝えがあり、近くには「見附」という屋号を持っ家があります。」「見附の図 歌川広重「東海道五十三次之内石薬師(蔦屋版)」」そして小田急線に架かる「伊勢山橋」が前方に。「伊勢山橋」を歩く。「いせやまばし」。そして高校時代は毎日上り下りした坂を下る。そして藤沢本町駅に到着し、小田急線に乗り込み帰路についたのであった。明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねたのであった。そして小笠原東陽の耕余塾跡を訪れたのであった。耕余塾は日本の歴史的な場所の一つで、その場所を訪れることは日本の教育や文化に対する理解を深める機会でもあった。塾の跡地に足を踏み入れると、かつての知の拠点としての重みを感じることが出来たのであった。ここでは小笠原東陽が教育に対する情熱を持ち、学生たちに熱心に知識を伝えていたことが想像出来た。塾の風景は静寂と歴史の息吹で満ちており、教育に対する献身と精神の豊かさを感じたのであった。また、耕余塾の場所は自然と調和した風景の中にあり、学びの場と自然との調和が今でも感じられたのであった。この地で教育が行われていたことが、自然との共存を尊重する教えにも通じていたのであろう。結びつけて言えば、耕余塾跡を訪れたことで、小笠原東陽の教育の精神とその時代の息吹を感じることができたのだ。この場所は、歴史と教育の尊さを改めて垣間見ることができる特別な場所、そしていつまでも子供達に大切に残して置きたい場所だと感じたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.05
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藤沢バイパス「城南交差点」まで戻り、この交差点を渡り「城南隧道」方向に進む。「城南隧道」手前の交差点を右折し、次の交差点の角に石碑が立っていた。「藤沢市城稲荷土地改良事業記念碑」。石碑には「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」と刻まれていた。「鼓腹撃壌」とは、国がよく治まり平和なことをいう。中国の堯帝(ぎょうてい)のとき、大地を足で踏み鳴らして拍子をとり、腹(はら)つづみを打って歌い、天下泰平を喜んだ老人の故事から。「鼓腹」は、腹つづみを打つこと。「撃壌」は、大地を叩くこと。『十八史略(じゅうはっしりゃく)―五帝・帝堯陶唐氏』に、「有二老人一、含レ哺鼓レ腹、撃レ壌而歌曰」とある と。「鼓腹撃壤 農林大臣河野一郎」と。「藤沢市城稲荷土地改良事業竣功記念碑引地川の東西両岸に展開する三十余ヘクタールの当耕地は古来区画狭小、乱形の原始的湿田にして、農道および水路少なくひとたび大雨の際は、引地川の氾濫により被害を受けることしばしばであり、加うるに城地区の用水は小糸川に稲荷地区は溜池に、それぞれ水を求めていたが、一朝早魃に会うやたちまち用水の不足をきたし植付不能に陥る等、営農上の障害はきわめて大きかった。ここに両地区耕作者相計り昭和三十二年十一月土地改良区を設立、以来組合員百三十二人の総力を結集して、区画整理、機械揚水、○○排水と遂次その工を起し五か年の歳月と総工費一千二百八十一万一千円をもって昭和三十七年三月すべての事業の完成を見たのである。これによって、当耕地の区画整理ならびに用水の確保、道路橋梁の整理、乾田化が行なわれ古来の姿をここに一新したしだいである。これはまさに百年の大計を成就し近代農業の基盤を確立したもので、長く郷土の民生を豊かにしていよいよ国家の発展に寄与することとなった。ここにその概要をしるして本事業の記念とする。 藤澤市城稲荷土地改良区建之 昭和三十七年三月 神奈川県知事 内山岩太郎 書 」そして次の目的地の「柏山稲荷神社」に向かって進む。左手奥に次に訪ねる「柏山稲荷神社」の社殿が見えて来たが、予定の裏口からの道は工事中で進入禁止であった為、「柏山公園」側から向かうこととする。「柏山公園」に到着すると、黄色の世界が広がっていた。見事な銀杏の黄葉をカメラで追ったのであった。「柏山公園」のこの銀杏の黄葉は、秋の魔法のような色彩のショーを演出していたのであった。その鮮やかな黄色は、まるで自然界のキャンバスに描かれた金色の絵画のごとし。そして下を向けば黄色の絨毯が一面に広がって。昨年の台風15号の被害により、樹木の転倒、社殿屋根の破損が発生し、その補修が進んでいないとのことで、境内へは「進入禁止」になっていたのであった。しかし、朱の太鼓橋と黄葉とのコラボが美しかった。朱の鳥居にはイチョウの葉の黄金色が後光の如くに。この鳥居も黄金の光を浴びて。黄と紅のカオス。僅かな風になびく葉っぱは、移り気な太陽の光を受けると、突然に輝きを増し、周囲に暖かな輝きをまき散らすのであった。この美しい光景は、季節の移り変わりと自然の神秘を象徴しているのであった。ここにも朱の鳥居が。扁額「厳島千人力弁天社」。縁起によると、女の人だけで、社殿を建てよという竜神大神のお告げあり、柏山神社の信者が相談して、女人千人で社殿建築に努力したと。よってご祭神は市杵嶋姫大神と女神(スサノオの御子神、水・芸能の神、学業の神 )。800年以上前から女は強かった事を再認識。伝説によると、この弁天社は大庭景親が厳島神社の分霊を勧進したものと伝わっているのだと。よって名前が「厳島千人力弁天社」。陽光が待ち遠しいのであった。黄色一色の世界。「奉納 柏山稲荷神社」。黄色一色の世界をこれでもかと。そして「柏山公園」を後にして「引地川」に架かる「柏山橋」を渡る。「引地川」の川面にはマガモ?が。そして「柏山橋」を渡り「柏山公園」の銀杏を振り返る。そして次に「引地川」の下流側にあった「浄土宗 本願寺」を訪ねた。寺号標石「往生山 称名院 浄土宗 本願寺」。境内の参道を上って行った。そして石段を上り、本堂に向かって。「本堂庫裏再建記念碑」。中央の石碑には『南無阿弥陀仏』と。左側の石碑の文字は???。これも南無阿弥陀仏?? 「常香炉」とその先に「本堂」。藤沢市稲荷1丁目2−3。「本願寺の歴史」について説明してくださいました。本尊は阿弥陀如来、浄土宗。本願寺の創建は寺伝によると今から670年ほど前の鎌倉時代末期の元弘三年(1333)と伝えられています。この2年前の元弘元年に全国で疫病が流行したとき、大本山知恩院ハ祖空円上人の高弟たらは「大数珠」と「楊流観音」を掲え全国行脚をし、この地に来て楊流観音を本尊とし開創したと伝えています。明治29年の12月に不慮の火難にあい、諸堂字、大数珠などとともに全てを消矢し、再建後は昭和34年の伊勢湾台風の猛威により全壊しました。その後昭和56年に本堂を再興して、一歩一歩地道に復興を進めています。長後地域には東に境川・西に引地川流れている。自然条件に恵まれ農耕が開始され、大庭御厨で有名な大庭の荘(おおばのしょう)に隣接していた。平安時代末期には、大庭景親に対し、桓武平氏の流れをくむとされる、渋谷重国が治めていた。当寺の本拠(館)は現天満宮附近とされる。その後,渋谷一族の中心は、綾瀬市早川城山公園内早川城趾に移されと言う。渋谷荘構成は、現、長後・高倉・下土棚・円行・用田・菖蒲沢の藤沢地区が該当する。江戸時代には旗本領。御詠歌「とくめくる人の命をやしなふて車引地の名をのこしける」「六地蔵」。本堂前から常香炉を。墓地へ上る階段の脇に、古い墓石等の石造物がまとめて。無縁塚か? しかしその石仏は風雨に耐え歴史を重ねていたのであった。左から「庚申供養塔」: 文字塔 「青面金剛神」の刻字 嘉永6年 94cm「庚申供養塔」: 青面金剛像 三猿像 享保元年 98cm「庚申供養塔」: 正面に梵字が刻印 三猿像(3方に各1猿) 延宝4年 110cm「庚申供養塔」: 文字塔 嘉永3年 56cmその先にも小さな石碑が並んでいた。「庚申供養塔」: 文字塔 「青面金剛神」の刻字 嘉永6年 94cm「庚申供養塔」: 青面金剛像 三猿像 享保元年 98cm「庚申供養塔」: 正面に梵字が刻印 三猿像(3方に各1猿) 延宝4年 110cm「庚申供養塔」: 文字塔 嘉永3年 56cm小石祠。???そして「本願寺」を後にして境内の下り坂参道を下りながら「柏山公園」、「柏山稲荷神社」の銀杏の黄葉を見る。黄葉の後ろには高層マンション「サンクタス湘南藤沢アネーロの丘」。藤沢バイパスの「引地橋」の下を通過。「引地川」と旧東海道「引地橋」を見る。「引地川」には数多くの白い鳥が。「コサギ」であっただろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.04
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今日も恒例の「第100回東京箱根間往復大学駅伝競走」の復路の応援にバスで向かった。今大会は100回目の記念大会として開催されており、これにより通常回より参加校を3校増枠した23校により本大会を開催している。以下の数枚の写真は日本テレビ画面より。この日のスタート地点の芦ノ湖の水面上には雲海が。今朝は富士山の姿が確認できた。箱根芦ノ湖湖畔の復路スタート地点。そして8:00に青山学院大学 野村昭夢選手が6区のスタート。復路のコース案内地図。復路の6~10区の距離案内。4区は平塚中継所通過後直進して海沿いのコースを通るに対し、7区は大磯駅入口交差点通過後に陸寄りのコースを通るため、4区よりも若干距離が長くなっている。●4区(20.9km)平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所 ●7区(21.3km)小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所2位 駒沢大学が2:38後にスタート、そして次々に時差スタート。そして8位の大東文化大学から23位までの16校が青山学院大学のスタートから10分後に一斉スタート。箱根初出場の野村昭夢(3年)が山下りの6区(箱根芦ノ湖~小田原中継所、20・8キロ)を任され、2分28秒差でスタートした駒大との差を4分17秒に広げて58分14秒で小田原中継所でタスキリレーした。2位駒沢大・帰山から41秒遅れ3位城西大がたすきリレー。総合順位は4位東洋大、5位創価大、6位国学院大、7位法政大、8位早稲田大、9位大東文化大、往路13位の中央大が10位に浮上。11位に東海大、12位に帝京大、13位に順天堂大、14位に国士舘大、15位立教大。区間個人記録6区 箱根 → 小田原(20.8キロ)。昨日と同じく、バス停「遊行寺前」で下車し、復路8区(21.4km)の15.6km地点の「遊行寺坂」に向かう。箱根駅伝のための交通規制案内板。ここは「東海道五十三次 藤澤宿」。ここが旧東海道・境川に架かる「遊行寺橋 (旧 大鋸橋)」。右手にあったのが「藤沢市ふじさわ宿交流館」。箱根駅伝に参加している各大学の幟が並んでいた。遊行寺・惣門(総門)から参道四十八段(いろは坂)。遊行寺のイチョウは黄色の葉を完全に落としていた。そして遊行寺坂のほぼ中間の日本テレビ中継用固定カメラの手前に陣取る。「遊行寺坂」に設置された日本テレビ中継用固定カメラ。「競技者係バス②」が通過。規制開始のパトカーが通過。上空にはヘリコプターが。「テレビ中継車」。時間は10:48。通過順位1位 青山学院大学 塩出翔太選手。区間記録 1:04:00 区間順位 1位。原監督の乗る伴走車。2位 駒沢大学 赤星雄斗選手。区間記録 1:04:49 区間順位 4位 3位 城西大学 小田伊織選手。区間記録 1:06:25 区間順位 17位。「テレビ中継車」。4位 東洋大学 小田伊織選手。区間記録 1:05:24 区間順位 17位。5位 法政大学 清水郁杜選手。区間記録 1:05:21 区間順位 9位。「ラジオ放送車」。6位 創価大学 小池莉希選手。区間記録 1:06:16 区間順位 15位。7位 国学院大学 鎌田匠馬選手。区間記録 1:04:58 区間順位 6位。テレビ中継用3輪バイク。8位 明治大学 綾一輝選手。区間記録 1:04:42 区間順位 2位。9位 帝京大学 島田晃希選手。区間記録 1:05:13 区間順位 8位。10位 早稲田大学 伊福陽太選手。区間記録 1:04:56 区間順位 5位。11位 中央大学 阿部陽樹選手。区間記録 1:08:54 区間順位 22位。12位 東海大学 南坂柚汰選手。区間記録 1:05:01 区間順位 7位。13位 大東文化大学 ワンジル選手。区間記録 1:09:40 区間順位 23位。14位 日本体育大学 分須尊紀選手。区間記録 1:04:40 区間順位 2位。15位 立教大学 稲塚大祐選手。区間記録 1:05:33 区間順位 11位。16位 神奈川大学 高橋銀河選手。区間記録 1:07:25 区間順位 21位。17位 国士舘大学 生田目惇選手。区間記録 1:05:48 区間順位 13位。18位 中央学院大学 黒谷優選手。区間記録 1:06:19 区間順位 16位。19位 日本大学 鈴木孔士選手。区間記録 1:06:00 区間順位 14位。20位 東京農業大学 円谷吏生選手。区間記録 1:07:17 区間順位 19位。21位 駿河台大学 岡崎樹選手。区間記録 1:05:37 区間順位 12位。22位 順天堂大学 森本喜道選手。区間記録 1:07:07 区間順位 18位。23位 山梨学院大学 新本駿選手。区間記録 1:07:17 区間順位 19位。そして全ての選手が通過し「医務車」が。そして交通規制解除(C)のパトカーが通過したのであった。遊行寺坂が難所とされる8区(21・4キロ)では、2年ぶり総合優勝を狙う青学大・塩出翔太(2年・世羅)が1時間4分0秒で区間賞を獲得した。区間新には11秒届かなかったが、区間歴代3位の好タイムだった。快走で2位・駒大との差を5分33秒に広げ、2年ぶり総合優勝へ”独走態勢”を築いたのであった。区間個人記録8区 平塚 → 戸塚(21.4キロ)。そして8区の戸塚中継点での順位は下記。1位 青山学院大学2位 駒沢大学3位 城西大学4位 東洋大学5位 国学院大学青学大・塩出は1時間4分0秒で走り抜き9区にリレー、区間賞を獲得した。2位駒大は5分33秒遅れでたすきをつなぎ、駒大から2分28秒遅れて3位城西大・小田も続いた。青山学院大のペースは9区に入っても衰えを見せない。倉本玄太(4年)は、7・7キロの権太坂で2位駒大との差を5分56秒に広げた。この地点を全体トップで通過した。3位は城西大、4位は東洋大。14・5キロの横浜駅前では、駒大との差は6分33秒に広がった。3位以下は、城西大、東洋大、国学院大、法政大、創価大、早大で変わらず。給水を受ける9区の青学大・倉本玄太。9区で、4人組音楽グループ「ケツメイシ」のリーダーでラッパーの「大蔵」こと吉田大蔵さんの息子、国学院大学・吉田蔵之介選手が出走したことがSNSで注目を集めているのだ。青山学院大の宇田川瞬矢(2年)がトップを守り大手町のゴールに飛び込んだ。選手たちは、原晋監督らを胴上げして喜びを分かち合った。2位は駒沢大で6分35秒の差がついた。3位は城西大。往路の順位を守り、チームの歴代最高順位を更新した。4位は東洋大。国学院大、法政大、早稲田大、創価大、帝京大と続きシード圏内ギリギリの10位は大東文化大。11位の東海大と12位の国士舘大はともに1分11秒差でシード権を逃した。中央大は13位。優勝候補の一角だった、中央大は、体調不良から本来の力を発揮できず、来季は、予選会から箱根路を目指すことになる。区間賞は東洋大の岸本遼太郎(2年)が獲得した10区を力走する青学大・宇田川瞬矢。大会新記録で総合優勝を決め、笑顔でゴールする青学大・宇田川瞬矢選手。大会新で2年ぶり青学大が制し選手から胴上げされる原晋監督。「第100回東京箱根間往復大学駅伝 総合順位青山学院大学が10:41:25で大会新の総合優勝。大東文化大学が総合10位でシード権を確保した。我が母校の早稲田大学も総合7位でシード権を確保。合計217・1キロを駆けた末に東海大と国士舘大は総合11時間1分52秒と同タイムで並んだが、順位は東海大が11位、国士舘大が12位となった。 大会要項では「繰り上げ出発などでフィニッシュの着順が成績順位を示さない場合において同タイムとなった大学の順位は、区間上位者の多少によるものとする」としているのだと。青山学院大学が復路優勝も果たした。往路11位と往路12位の順位決定も上記に同じ。「区間賞」は総合優勝した青山学院大学が5区間(2、3、4、8、9区)で受賞した。 ・・・もどる・・・ ・・・ゴール・・・
2024.01.03
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「羽鳥御霊神社」を後にして次に向かったのが「旧三觜八郎右衛門家住宅跡地」旧三觜八郎右衛門家住宅は、神奈川県藤沢市羽鳥にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されていた。三觜家付近の東海道沿いの集落一帯は江戸時代から明治中期まで羽鳥村と呼ばれ、三觜家は江戸時代には100石以上の高持(本百姓)で代々八郎右衛門を名乗り、羽鳥村の名主を務め、羽鳥村の農民の4分の3と小作してもらう関係を結んでいたという。11代目は明治初期の高座郡羽鳥村の初代村長を務めた。13代目八郎右衛門は、小笠原東陽を招き学校を開いていたところ、明治5年に学制が布かれると「耕余学舎」という名の小学校に認定された。明治10年に東陽が、私塾を新設するときは三觜八郎右衛門も援助した。その「耕余塾」から各界へ多くの人材が輩出され、その中に後に内閣総理大臣となった吉田茂や、味の素を創設した鈴木三郎助などがいるという。2013年(平成25年)に主屋、門、石塀が国の登録有形文化財に登録された。建物の保存を望む声があがっていたが、所有権が不動産業者に渡り主屋など建物全ては2022年に解体され跡地は既に宅地分譲がほぼ完了し、多くの住宅が建っていたのであった。しかし、ネットには、解体完了に対する報道等はほとんどアップされていないのである。この理由は何故なのであろうか?そして解体に対する藤沢市の見解等も見つからないのだが。そして虚しく、新しい石碑のみが。「明舜之郷 三觜八郎右衛門邸跡」と。「明舜」の意味は?? 「瞬」ではなく「舜」??「舜」は「むくげ(アオイ科の落葉樹)などの意味を持つ漢字」のようであるが、「三觜八郎右衛門邸」には「舜」が庭にあったのだろうか?「三觜八郎右衛門邸跡三觜家は江戸時代より明治維新まで羽鳥村の名主を務めた素封家として知られ当主は代々八郎右衛門を襲名した。第十三代八郎右衛門に当たる三觜佐次郎が子弟の教育にあたり明治五年、小笠原東陽を招聘して開いた読書院はのちに耕餘塾に発展し元内閣総理大臣吉田茂をはじめ多くの近代日本のリーダーを輩出した。広大な敷地に建てられた三觜八郎右衛門邸宅は明治初年の創建で重厚な木造二階建て建築であり多くの居室を持つ稀な商家風建物であった。近年邸宅等は国登録有形文化財に指定され令和四年春まで一般公開された。藤沢の教育の始まりと言える耕餘塾の開設から百五十周年を迎える今年後世に語り継ぐこの記念碑を建立するもの也。 令和五年三月吉日 羽鳥本村町内会 明治郷土づくり推進会議 明治郷土史料室運営委員会」跡地前に建った住宅。この案内板には「跡」の文字が必要なのであった。その先にあったのが「白笹稲荷神社」。「古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備(神霊(神や御霊)が宿る御霊域)を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。」とネットから。御祭神 宇迦御魂命(うかのみたまのみこと) 大宮売命 (おおみやめのみこと) 猿田彦命 (さるたひこのみこと)であると。笠木部分の曲がりが、とりわけ激しいいのであったが。藤沢市羽鳥3丁目19−23。そして旧東海道まで戻ると道沿いにあったのが「秋葉堂」。写真のように、小さいながらも石造りの太鼓橋風の橋が架かっていた。以前はこの太鼓橋の下に池があったと。この日は門が閉まっていたので中に入ることはできず、外から眺めるだけ。藤沢市羽鳥3丁目21−11。「この秋葉堂は秋葉大権現(火伏せの神様)を祀っているお堂で、城と羽鳥の集落の人たちが講中をつくり、命日には毎年交代で行事をしてお祭りをしていました。今もその行事は続いていて世話人が集まり正月十六には護摩を焚いて供養をしているといいます。」と頂いた資料から。そして「羽鳥4丁目」にあった「羽鳥歩道橋」を渡る。歩道橋の上から平塚宿方向を見る。歩道橋の上から藤沢宿方向を見る。そして「藤沢バイパス」下から「明小歩道橋」先の黄葉した大銀杏を見る。ズームして。藤沢市立明治小学校神奈川県藤沢市城南3丁目3−1この小学校の沿革は明治五年(1872)に名主の三觜八郎右衛門が小笠原東陽を招いて、羽鳥に私塾「読書院」を開き、明治六年(1873)学制発布により羽鳥小学校に改称されたのであった。そして到着したのが「城(たて)神明社」。以下頂いた資料から「祭神は天照皇大神、創建は永久5年(1117)鎌権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮の御厨として寄進したのち当所に天照皇大神を勧請したといい、城地区の鎮守です。それに因んでこの辺りは御伊勢宮という小字地名が残されています。また大庭地域にはこの他にも台谷神明社、小糸神明社など「大庭御厨」に関わると伝えられる神明社があります。◇石塔群ここで紹介した石塔群は「城部落の今昔(宮本隆治郎著)」の大神宮の石造物」の項から引用しました。(内道祖神ー基は移転時に行方不明とありますが、現在再建されています)・山王大権現 文化十酉年 月吉日・疱癒神 安政四丁巳年正月吉日立之・庚申供養塔 安政ニ年月 吉日立之・庚申供養塔 安政六巳未 吉日立之・地神塔 明治十年丑丁一月日 第十ハ大区大庭村 (笠塔婆型・青面金剛像)・庚申供養塔 明治ハ年四月建。左側小笠原東陽大先生筆。・道祖神 再建(寛政七年正月十四日)鳥居には「昭和二十七年二月吉日建之」と。国道1号線(藤沢バイパス)の北側に隣接する高台に、「城神明社」の赤い屋根の「鐘楼」が建っていた。「本堂」。左斜から。お賽銭の盗難防止用か左:臨時 お賽銭 投入口右:臨時 補修募金 投入口内陣。御祭神は天照皇大神。土地の人は「お伊勢の宮」と呼んでいると。「本堂」の右隣に「慰霊塔」。城地区の戦没者317柱を合祀する慰霊碑。同地区の遺族らによって昭和37年3月建立。碑本体380㎝、幅・奥行150㎝、台石90㎝。所在:城神明社(藤沢市)(刻字)碑正面:「慰霊碑」碑左面:「略敬称 順序不同 (14名×11段+12名の氏名)」碑右面:「(14名×10段+11名の氏名)」「惟フニ過グル第二次大戦ハ吾々ノ宿命ダッタカモ知レナイガ各方面ニ多大ノギセイト惨禍ヲモタラシタ 要スルニ戦争ハ引合ウ仕事デナイコトヲ誰モガ痛感シタ 戦没ノ諸君ハ実ニオ気毒ダ 然シ諸君ノ功績ハ実ニ偉大デアル 諸君ノギセイニヨリ民主主義日本ガ誕生シ諸君ノ助力デ東洋ノ被圧迫民族ハ自主独立ノ宿願ヲ果シ得タト云エナイダラウカ 諸君ハ決シテ犬死シタノジャナイ 諸君ノ功績コソ永久ニ歴史ニ大書サレルベキダト信ジテル 昭和三十七年三月 明治辻堂地區初代郷友會長 石井佐一」背部碑: 發起人(66名の氏名) 城世話人(5名の氏名) 地区遺族会(5名の氏名) 施工 鍛代石材店 山口石材店 西山工務店「城公民館」。「本堂」左側には、多くの石碑、石塔が並んでいた。「御神樂殿建築記念碑」。「御神楽殿建築記念碑 昭和拾八年八月四日建之 従六位勲七等清水善茂敬書」と。「拝殿建築紀年碑」。「御大典紀念 拝殿建築紀念碑 昭和参年十一月吉日 巴城 加藤伸吉謹書」と。手前右から・道祖神 再建(寛政七年正月十四日)・山王大権現 文化十酉年 月吉日・庚申供養塔 安政ニ年月 吉日立之・疱癒神 安政四丁巳年正月吉日立之 疱瘡神とは祈ると疱瘡を免れたり、軽減して くれたりするとされた神とのこと。・道祖神 再建(寛政七年正月十四日)後方右から・庚申供養塔 明治ハ年四月建。左側小笠原東陽大先生筆。・地神塔 明治十年丑丁一月日 第十ハ大区大庭村・庚申供養塔 安政六巳未 吉日立之・庚申供養塔 笠塔婆型・青面金剛像)移動して左から。近づいて。「鐘楼」、「石鳥居」を振り返る。「石鳥居」の近くにあった「石灯籠」(左)。「石灯籠」(右)。「城町内会掲示板」「城町内会デジタル回覧板(LINE)の参加方法」についての案内が掲示されていた。そして「城神明社」を後にして、再び「明小歩道橋」を渡りながら銀杏の大木を見る。右手に「藤沢市立明治小学校」が。運動場の広さにビックリ。再び「藤沢バイパス」に沿って東に向かて進む。すると予定の道には道路工事中の案内板が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.03
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今日は恒例の「第100回東京箱根間往復大学駅伝競走」の応援にバスで向かった。今大会は100回目の記念大会として開催されており、これにより通常回より参加校を3校増枠した23校により本大会を開催している。8:00に大手町・読売新聞社前を23校が一斉スタート。(テレビ画面より)往路のコース案内地図。往路の1~5区の距離案内。バス停「遊行寺前」で下車し、往路3区(21.4km)の5.8km地点の「藤沢橋」手前に陣取る。遊行寺の坂を下り「藤沢橋」に向かう旧東海道を走って来るのであった。今年も去年と同様に、応援用の旗は配っていなかった。「藤沢橋」交差点直前に陣取る。そして10:24にテレビ中継車が姿を現した。「日本テレビ テレビ中継車」。1位 駒沢大学 佐藤 圭汰選手。区間記録 01:00:13 区間順位 2位駒沢大学 伴走車に乗るのは藤田 敦史監督。トライク(3輪バイク)・実況アナウンサー乗車のバイクが後を追う。2位 青山学院大学 太田 蒼生選手。区間記録 59:47 区間順位 1位青山学院大学 伴走車に乗るのは原 晋監督「報道車」が通過。上空にはヘリコプターの姿が。「ラジオ放送車」が通過。3位 創価大学山森龍暁選手。区間記録 1:04:19 区間順位 19位。創価大学伴走車に乗るのは榎木 和貴監督。4位 城西大学 キムタイ選手。区間記録 1:01:29 区間順位 3位。城西大学 伴走車に乗るのは櫛部 静二監督。5位 国学院大学 青木瑠郁選手。区間記録 1:01:56 区間順位 4位。国学院大学 伴走車に乗るのは前田 康弘監督6位 東洋大学 小林亮太選手。区間記録 1:02:03 区間順位 6位。7位 早稲田大学 辻文哉選手。区間記録 1:02:39 区間順位 7位。8位 日本大学 安藤風羽選手。区間記録 1:01:56 区間順位 4位。東洋大学 伴走車に乗るのは酒井 俊幸監督。早稲田大学 伴走車に乗るのは花田 勝彦監督。日本大学伴走車に乗るのは新 雅弘監督。「テレビ中継車 2号車」。9位 東京農業大学 長谷部慎選手。区間記録 1:06:40 区間順位 23位。東京農業大学 伴走車に乗るのは小指 徹監督。「緊急対応車-3」。10位 東海大学 鈴木天智選手。区間記録 1:03:59 区間順位 15位。東海大学伴走車に乗るのは両角 速監督。「緊急対応車 ①」。11位 帝京大学 柴戸遼太選手。区間記録 1:02:57 区間順位 9位。12位 大東文化大学 入浜輝大選手。区間記録 1:02:57 区間順位 9位。帝京大学 伴走車に乗るのは中野 孝行監督。大東文化大学 伴走車に乗るのは真名子 圭監督。13位 法政大学 野田晶斗選手。区間記録 1:04:07 区間順位 17位。法政大学 伴走車に乗るのは坪田 智夫監督。14位 山梨学院大学 高木翔瑛選手。区間記録 1:05:24 区間順位 22位。山梨学院大学 伴走車に乗るのは飯島 理彰監督。「緊急対応車 ②」15位 順天堂大学 海老沢憲伸選手。区間記録 1:03:57 区間順位 14位。順天堂大学 伴走車に乗るのは長門 俊介監督。16位 中央学院大学 伊藤秀虎選手。区間記録 1:04:42 区間順位 21位。中央学院大学 伴走車に乗るのは川崎 勇二監督。17位 中央大学 中野翔太選手。区間記録 1:04:33 区間順位 20位。中央大学 伴走車に乗るのは藤原 正和監督。18位 国士舘大学 生駒直幸選手。区間記録 1:03:45 区間順位 12位。国士舘大学 伴走車に乗るのは小川 博之監督。19位 神奈川大学 宇津野篤選手。区間記録 1:03:26 区間順位 10位。神奈川大学 伴走車に乗るのは大後 栄治監督。20位 駿河台大学 古橋希翁選手。区間記録 1:04:11 区間順位 18位。駿河台大学 伴走車に乗るのは徳本 一善監督。21位 立教大学 馬場賢人選手。区間記録 1:02:48 区間順位 8位。立教大学 伴走車に乗るのは原田 昭夫監督。22位 明治大学 杉彩文海選手。区間記録 1:03:30 区間順位 11位。明治大学 伴走車に乗るのは山本 豪監督。23位 日本体育大学 漆畑徳輝選手。区間記録 1:03:45 区間順位 12位。日本体育大学 伴走車に乗るのは玉城 良二監督。「医務車」。そして最終車両のパトカーが通過。そして3区の平塚中継所での順位は下記。1位 青山学院大学2位 駒沢大学3位 城西大学4位 日本大学5位 東洋大学以下の写真は日本テレビの放送画面及び読売新聞のネット写真から。22秒差の2位でたすきを受けた青山学院大・太田蒼生(3年)は力強い足取りで前を追うと、7・7km、とうとう駒大・佐藤に追いつき、背後にぴたりとついた。湘南海岸を並走し18・2キロ、青山学院大・太田がピードアップ、佐藤を徐々に引き離し始めた。そして青山学院大・太田がトップで4区に引き継ぐ。駒沢大・佐藤は4秒遅れの2位。3位は城西大で首位から2分39秒差。4位に日本大、5位に東洋大、6位に国学院大、7位に早稲田大。8位創価大、9位帝京大、10位は東海大。11位に大東文化大、12位に法政大、13位順天堂大、14位山梨学院大、15位国士館大、16位神奈川大、17位東京農業大、18位立教大。中央大は19位。4区の青学大・佐藤一世(右)選手にたすきをつなぐ3区の太田蒼生選手。3区の成績一覧。そして4区で青山学院大学・佐藤一世選手がリードを広げる。青山学院大学・佐藤一世選手が5区若林宏樹(3年)に笑顔でリレー。2位駒沢大とのタイム差を最終的に1分27秒とした。そして青山学院大・若林は最後の力を振り絞る。そのまま歓喜のゴールへ飛び込んだ。青山学院大は2年ぶりの往路優勝。タイムは新記録となる5時間18分13秒。2分38秒差で駒沢大が2位。往路結果(1~5位)。全順位。なぜか?総合タイムに1秒の違いがあるのだが!?上記が正しいようである。往路成績・1位との時間差。箱根の山登り・5区の区間順位。城西大学・山本唯翔選手 1:09:15、青山学院大学 若林宏樹選手 1:09:33 で区間新記録。こちらも正式記録はマイナス1秒のようである。1~5区の各区間賞。青山学院大学が2、3、4区で区間賞を獲得。往路優勝の青山学院大学の優勝セレモニー。5:18:14で区間新記録で往路優勝。そして4区の給水の場面で、中央学院大の黒岩勇禅(2年)が、父・弘樹さんからドリンクを受け取る様子が話題となっっているとのこと。
2024.01.02
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そして、この日の昼食は、歩いて数分の場所にあった「羽鳥市民の家」をお借りして、各自準備した昼食を楽しんだのであった。私はコンビニ購入したおにぎりを2個そしてカツサンドを1個。判りにくいが、現在地はここ。「羽鳥市民の家」入口。入口手前の空き地の「ピラカンサ」。真赤な実が撓(たわわ)に。藤沢市羽鳥3丁目のユニークな外装・黒塗りと木材地肌の住宅地横を進む。そして「耕餘塾跡」に到着。明治5年(1872)に羽鳥村名主(地区の戸長)、第13代三觜ハ郎右衛門(三觜佐次郎)は世情不安の日々の中から新しい時代には村民教育の必要性を感じ、池上本門寺で教鞭を執っていた儒学者の小笠原・読書院の名声が高まるにつれ、近隣諸村から子弟を入学させる者が増え、1878 (明治11)年には新しい塾舎が完成するに伴って耕余塾と改称された。当時は相州第一の高等学府とも言われ、県内外からこの塾を目指した塾生に寄宿舎を備えて多数集め、生徒数は100名を数えるまでとなりました。初めは漢学を中としていたが、時代の変化に対応し何度か教則を改めながら英書に学ぶなど、洋学を取り入れ専門では政治・社会・経済学などの社会科学部門へ進教育課程を採用していました。小笠原東陽は1887 (明治20年)に58歳で病没しましにが、没後は子息の小笠原鍾(あつむ)、明治21年に女婿の松岡利紀か塾長を継き、「耕余義塾」と改称し、明治33年(1900)に塾は閉鎖されるまで25年という短期間であったが、私塾として果たした役割は大きかった。巣立った門下生には吉田茂(内閣総理大臣)、平野友輔(衆議院議員・医師)など多数の優れた人材を輩出しました と頂いた資料から。「耕餘塾跡」碑。素朴な山門越しに二つの石碑が。山門を潜って。更に近づいて。右は「小笠原先生碑」。明治25年5月に門下生達が東陽先生の旧宅の庭に建立したもので、大正5年に有志の方が羽鳥青年の奉仕を得て明治小学校に移設、その後昭和22年に現在の地に移されたものです。左は牧野随吉氏による「東陽先生由緒碑」(大正5年3月建立)。いずれも、小笠原東陽の生立ちと業績を讃えた碑文が刻まれていて、その拓本は明治郷主史料室に展示されています と頂いた資料から。「市指定史跡 昭和44年(1969)2月8日指定耕余塾(こうよじゅく)の跡明治5年(1872)羽鳥村戸長 三觜八郎右衛門は、東京から小笠原東陽を招いて郷学校(明治時代初期に民間の有志が設立した学校)の読書院を開きました。開校間もなく学制が布かれると同校は小学羽鳥学校とされますが、東陽は、明治10年、三觜家等の助力で公立小学校とは別に私立耕余塾を開きました。この「耕余塾」はその敷地の一部です。東陽没後、明治21年に松岡利紀が塾長を嗣ぎ、同23年に耕余義塾と改称。同33年に閉校するまで、政治、実業、教育の各界へ多くの人材を輩出しました。元内閣総理大臣吉田茂も同塾の卒業生で、若き日に三觜八郎右衛門へ宛てた書状に、「錦地(相手の居住地の尊敬語。耕余塾のあった羽鳥の地)は小生の第二の故郷」と記しています。周辺には、東陽の眠る汲田墓地、旧三觜八郎右衛門家住宅、東陽が筆をふるった幟を所蔵する羽鳥御霊神社などゆかりの地があります。 平成25年(2013)3月 藤沢市教育委員会」2基の石碑の前から、山門方向を見る。「小笠原東陽」関連の旧跡の位置関係図。そして「耕余塾跡」を後にして、前の道を北に進む。左にあったのが「明治学園羽鳥幼稚舎」。三觜本家の関係者が経営されているのであろうか?藤沢市羽鳥4丁目の瀟洒な住宅街を進む。「文化財ハイキングコース案内板耕余塾跡周辺の歴史を訪ねて明治幼稚園の隣りに耕余塾跡の碑があります。耕余塾は、明治5年3月に小笠原東陽が羽烏村の廃寺徳昌院の本堂を利用して開いた郷学校のことで当初は読書院と名づけられていましたが、同年8月学制が市告されると羽鳥学校(明治小学校の前身)と改称され、生徒の多くはこちらへ移りましたが、東陽はこれとは別に読書院を私塾として残しました。やがて、近隣諸村からの入塾者が増し教場が手狭になったため、新学舎を建ててを耕余塾と改称し、同時に教育内容の充実を図り中等教育を行なうまでに至りました。しかし明治30年9月8日の大風で全学舎が倒壊し県下各地に中学校が開設されたこととも相まって、再建のための資金難により閉塾することになりました。当塾からは、後に首相となった吉田茂をはじめ多くの有用な人材を輩出しました。今は碑だけで何の面影もありませんが、近代教育の先駆けとして大きな役割を果たしました。この周辺には、羽烏の総鎮守である御霊神社をはじがじ養命寺、おしやれ地蔵、「お伊勢の宮」と親しまれている城神明社、緑に囲まれた柏山稲荷神社など、短時間でさまざまな文化財を訪ねることができます。」。そして次に訪ねたのが「羽鳥御霊神社」。狛狗越しに石鳥居を。貫禄ある狛狗(右)。狛狗(左)。再び「石鳥居」・「三ノ鳥居」は平成2年建立と。扁額「御霊社」。境内に入って振り返ると、鳥居の手前左には大きな御神木・欅が。社殿の左側奥の右側には「庚申供養塔」を納めた社があった。後方中央に「御靈神社新築記念碑」 昭和38年9月吉辰と。隣りにあった小さな社殿。神産霊神(天地開闘造化の神・高産霊神)であっただろうか?中央に「庚申供養塔」。近づいて。正面には「寛文七丁未歳 十一月二十日」と刻まれた、「日月型 三猿像」庚申供養塔。「市指定有形民俗文化財 昭和52年(1977)4月13日指定 寛文七年庚申供養塔 総高130センチメートル、安山岩製この石造物群の中で、中央の一番大きな石塔は寛文7年(1667)に造立された庚申供養塔です。基台に三匹の猿が正面向きにすわり、両手で目・耳・口をおおっています。この「見ざる・聞かざる・言わざる」はどれもやや長身で、丸彫りに近く彫り出されており、基台も同じ一石から造り出されています。三猿像は庚申の申が猿と通じるので祀られているものです。また、頂部左右に日と月が彫刻され、塔身部に左記の造立年記が、基台前面に三橋次左衛門ら15名の造立者名が陰刻されています。 寛文七年丁末年 十一月二十日この刻銘の日は、十干・十二支を組み合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日でした。庚申の夜に三尸という虫が睡眠中に身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので命を奪われる、という道教の説があります。かつてこの信仰に基づいて信者が講という団体をつくり、庚申の夜は眠らずに過ごして無病息災を願う風習がありました。江戸時代に全国的に広まり、昭和の頃までは続いていました。この十五名の人たちは庚申講の構成員で、おそらく彼らも夜明かしをしたのでしょう。この石塔はその時の記念に建てられたものです。 平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会」「明治歴史資料室」に展示されていた「御霊神社」の「庚申供養塔」。「(塔身前面)寬文七□歳十一月ニ十日三觜次左衛門 三觜七左衛門 三觜政右工門三觜増左エ門 三第藤右工門青木与五右工門 青木二郎右工門青木□右工門 青木休右工門 石山久石工門神埼久右エ門 秋本四郎右工門秋本五郎右工門 植田七郎右工門窪田仁右工門(墸身前面彫物)【日月型 三猿像】※燈身の下部(高さ25cmを基礎状に1センチ余り全面に作り出し、三猿像を陽刻し、 その左石側面に溝中人名を掘る。※藤沢市指定文化財」そして「御霊神社」の「社殿」。創建年代や由緒は不詳。御祭神 高皇産霊神(たかみむすひのかみ) 神皇産霊神(かみむすひのかみ) 玉積産霊神(たまむすひのかみ) 生産霊神(いくむすひのかみ) 足産霊神(たるむすひのかみ) 鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)扁額「御霊神社」。2個の「本坪鈴」と3色の太い「鈴緒」が。本来、鈴の清らかな澄んだ音色には、悪いものを祓う力があると信じられているとのこと。拝殿前に吊るされた鈴も、お参りする人が鳴らすことで祓い清めるという意味を持っているのだと。 「神輿庫」。以前、祭礼の時に訪ねた時の神輿の写真。「供養塔」と「道祖神」碑。歴史ある石鳥居の笠木部分、扁額が保存されているようであった。「御由来この笠木は当神社の鳥居として維旹寛政四年竜舎壬子仲冬穀旦氏子により奉納された由緒ある建造物である時、事故により倒壊し当時を忍び文化財として設置するもの也 令和三年六月吉日 御霊神社 宮総代」神楽殿いや集会場であろうか?様々な石碑が並ぶ。「神輿奉納記念碑」。「寄贈碑」。「五霊大権現山王権現 御霊神社 駒形大権現大六天」、側面には平成25年9月建立 と。「羽鳥総鎮守 御霊神社祭 神 高皇産霊神・神皇産霊神・玉積産霊神・生産霊神・足産霊神 (鎌倉権五郎景政政)祭礼日 毎年9月第一土曜・日曜 斎行 神社神輿氏子八ケ町渡御斎行 一月一日 歳旦祭も斎行 毎年十一月 七五三斎行 明治維新前は 御霊大権現 駒形神社 山王権現 大六天 四社を合祀し御霊神社と称す市指定文化財 一、梵 鐘 至徳三年 (1386) 銘 一、庚 申 塔 寛文七年 (1667) 建立 一、祭礼幟旗 小笠原東陽書 明治十八年 (1885) 七月 平成二十六年五月 」「鐘楼」。(市)指定重要文化財総高101.5cm 口径66.5cm。境内の鐘楼には、至徳3年(1386)の銘を持つ梵鐘が懸かっていた。銘文から、もと下総国香取大神宮寺に奉納されていたもので、明治維新の神仏分離の時に流出したと思われます。明治5年に羽鳥村の78人が22円で古物商から買取り非常警報用に使ったことが、追刻銘文に刻まれています。中世における優良工芸品として戦時中の供出から除外され難を逃れたと言われているとのこと。梵鐘にズームして。「市指定重要文化財工芸品 羽鳥御霊神社の梵鐘 銅鐘 101.5cm、口径 66.5cmこの鐘には、次のような銘文が刻まれている。「奉懸 下総州香取太神宮寺大鐘一口 大旦那周防守宗慶 大工秦景重 千時至徳三年丙寅十月 日 敬白」以上の銘により、この鐘は至徳三年(1386)に鋳造され、もと下総国香取神宮の別当であった神宮寺に奉納されたものであったことがわかる。また、追刻銘には、この鐘は、明治の初め廃仏毀釈により放出されて、東京神田の古物商の店頭にさらされてあったのを、羽鳥の人々が二十二円余りを醵出して非常時の警報用として買い取り、現在に至ったことが刻まれている。 昭和41年1月17日指定 藤沢市教育委員会」説明員から御霊神社の「のぼり幡」についての説明を聞く。各界に多くの人材を輩出した「耕余塾」を主催・運営した小笠原東陽の自筆のもので、揮毫された1885年(明治18年)以来,地元で神社祭礼に供されてきたもの。もちろん祭礼では現在レプリカが用いられているとのこと。御霊神社の「のぼり旗」は隷書体で・「神州寶祚之隆」・「當與天壌無窮」と書かれていると。 『日本書紀』天孫降臨の段で,天照大神が下した神勅にある文言であると。・「神州寶祚之隆」………神州(日本)の宝祚(ほうそ 皇位)の 隆 (さかえ 栄) ・「當與天壌無窮」………当に 天壌 (てんじょう 天地)と与(とも)に 窮まり無かるべき(永遠であること)・「神州寶祚之隆」・「當與天壌無窮」明治18年(1885)7月という年記と「小笠原東陽」の署名があるとのこと。「手水鉢」。江戸時代末期の1863年奉納と。最後に3基の石鳥居越しに「御霊神社」を振り返りながら、この場所を後にしたのであった。一ノ鳥居は「維時 昭和54年7月吉日」と。扁額は「御霊神社」。そして二ノ鳥居 は昭和17年3月建立。扁額は「御霊神社」。石鳥居の柱も道端に。固定されているのであろうか?左側奥の柱には「維旹寛政四竜舎壬子仲冬穀且」と ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.02
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「初日の出」を「片瀬東浜海岸」で迎えた後は、国道134号に出て、境川に架かる「片瀬橋」を渡り、片瀬西浜海岸に向かう。「片瀬橋」から「江の島」を見る。「片瀬港」その先に伊豆半島が見えた。「片瀬橋」を渡り、立ち並ぶ椰子の木越しに「初日」を見る。移動して。「片瀬漁港」の入口から、「海の詩」像越しに江の島を見る。「片瀬漁港」の先に「江の島シーキャンドル」。「片瀬漁港鮮魚直売所」と「片瀬港」と「江の島」。そして片瀬西浜海岸からの元旦の富士山の勇姿。ジワジワとズームして。山頂までズームして。こちらは箱根の山々。左に「二子山」。左:上二子山1,099m、南側が下二子山1,065m。左「駒ケ岳」・1,356mと「神山」・1,438 m。富士山の反対側の丹沢連山。「大山」・ 1,252 mをズームして。写真左の富士山の裾野の先に見えたのが「金時山」・1,213 mその左が「明神ヶ岳」・ 1,169 m。そして富士山の手前のコンモリとした山が「矢倉岳」・870 m。相模湾の先、平塚、小田原方面を望む。「片瀬西浜海岸」その先の「辻堂海岸」を見る。再び「更待月」に似た月をズームして。「片瀬漁港」の「東プロムナード」と先端の「赤灯台」を見る。「江ノ島シーキャンドル」。展望台には人の姿はなし。富士山を中心に相模湾をパノラマ撮影してみました。そして国道134号交差点を渡り、帰路に。「小田急 片瀬江ノ島駅」改札入口にも正月飾りが。「片瀬江ノ島駅」の「クラゲ水槽」。「アカクラゲ」であろうか?そして小田急線を乗り継いで地元の駅に到着。駐輪所の愛車で地元の神社に初詣に向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5。「亀井神社」の参道を歩く。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」社務所。石段の途中にイチョウの樹が。石段の上には日の丸が。右手に手水舎。そして社殿。内陣を見る。扁額「亀井神社」。江の島海岸での「初日の出」、「元旦の白き富士山」の光景を楽しんだ後は、地元の駅まで戻り、地元の神社の初詣に妻と向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5鳥居を潜り「亀井神社」の境内へ。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」「社務所」。「お焚き上げ場」に昨年の「破魔矢」を納めた。「亀井神社」の「拝殿」に向かう。「手水場」。扁額「亀井神社」。扁額にある「亀」の異字体。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。「拝殿」前から境内を見下ろす。「関東大震災 伝承の碑」。拝殿脇には「身代わり不動尊社」。こちらの蟇股の彫刻も見事。扁額「不動明王」。「不動明王」と「地蔵さま」。「拝殿」横から境内を見下ろす。そして今年も「社務所」で「破魔矢」を購入し「亀井神社」を後にし、もう一つの地元神社にも初詣に向かう。「地神社」案内板。正面に「石鳥居」そしてその先に「狛犬」、「社殿」が。所在地:藤沢市亀井野2丁目36−4。石鳥居を潜ると狛狗が。「地之神」碑。その隣に明和2年(1765)銘の「山之神」と刻まれた碑。「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。平成4年に新築整備された。明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。質素な石灯籠と手水場。比較的新しい狛犬の先に「社殿」。創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、山林安全、五穀成就を祈願したという。文政9年(1826年)には再建され、さらに安政年間(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願しているとのこと。大正12年(1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に再建されたとのこと。御祭神は「埴山比売神(はにやまひめ)」、田畑、土壌の神様であると。例祭は9月20日。「神明造り」の「地神社」、屋根の部分の「千木(ちぎ)」が、直角となった造りとなっていることが特徴。屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材「鰹木(かつおぎ)」が確認できた。扁額「地神社」。そして亀井神社で購入した破魔矢。絵馬には雲の上の龍の姿が。我が家の神棚にお供えしました。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.01
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皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2024年(令和6年)のスタートです。そして今年も市内湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出を愛でに行って来ました。自転車を利用し地元の駅まで。6:05発の小田急線に乗る予定でしたが、前の電車が遅れていたのであった。そして小田急線・藤沢行きに乗車。藤沢駅で片瀬江ノ島行きに乗り換え、片瀬江ノ島駅に到着。竜宮城の如き片瀬江ノ島駅。片瀬東浜には既に多くの人が砂浜に。三浦半島方向の東の空もオレンジ色に染まっていた。江の島を見る。湘南港灯台の下にも多くの人の姿が。江の島シーキャンドルをズームして。月の姿を。赤く染まった三浦半島の上空。三浦半島の先端方向には筋状の雲が。例年はサーファー・ウインドサーファー等の姿が多いのだが、今年は僅か数人のみ。今年は禁止されているのであろうか?山の端の上の雲も白く輝き、刻々とその姿を変えて行った。二つの白く輝く雲の右側の山の端が白く輝き始めた。山の端をズームして。そして2024年の「初日の出」。時間は6:55。見る見る家うちに、円形の太陽の姿が大きくなってきた。相模湾の水面も赤く染まり出して。そしてオレンジの帯が水面に現れ始めた。半分姿を表した初日。オレンジ色の帯も輝きを増して。説明は不要な景色・空間であった。そして初日が完全に姿を現した。赤く染まった水面をズームして。スマホで初日を追う多くの人の姿を。海に入る若者も。「江の島シーキャンドル」にも朝の陽光が射し込んで。手を合わせたくなる神秘的な光景そして時間が続いたのであった。砂浜にスマホをセットして赤い水面をリモート撮影する方も。国道134号沿いの高層マンションのベランダをズームして ・・・つづく・・・
2024.01.01
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さらに旧東海道を上ると、左手にあったのが「一里塚跡」と書かれた標柱。日本橋から 13番目の一里塚であったと。辻堂の地は多くの辻に囲まれており、その辻を、かつて大山詣でや江の島詣での旅人が行き交い、又、藤沢宿へ の買い物等、幾多の人々は生活利用していた。昔辻堂村は、宝泉寺・辻堂諏訪神社近くの「四つ角」を中心に東町 西町南町、北町の集落が形成されており、当時も此処を中心に考えると、四ツ谷大山道へ、藤沢道へ、鎌倉道へ と、道が放射線状に伸びているのが明瞭となる。古き道を辿(外)りながら社寺、石仏などを訪ね往事の面影を散策したのであった。一里塚(いちりづか)は、江戸の日本橋を目印として大きな道路(街道)の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置した塚(土盛り)である。多くは塚の上に榎や松を植えて、旅人の目印にした。いわゆる街道のマイルストーン・キロポストと同様であり、一里塚は中国にも存在する。一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、徳川家康が子の徳川秀忠に命じ、金山奉行の大久保長安が総監督となって設置したのが始まりである。江戸幕府は江戸の日本橋を起点として全国の各街道の1里(約4 km)ごとに一里塚を設置するよう指令を出し、長安の指揮の元に一里塚の設置が行われ、10年ほどで完了した。一里塚の大きさは5間(約9 m)四方、高さ1丈(約1.7 m)に土を盛り上げてつくられ、一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持つ とウィキペディアより。「東海道分間絵図」の「四ツ谷付近」にここ「一里塚」の表示があると説明員の方から。「羽鳥交番前」交差点を渡る。右手がJR辻堂駅方向。左が「市道辻堂駅遠藤線」の「大庭トンネル」方向。そして更に東海道を上ると、左手にあったのが道標。道標には「是よ里右大山みち」と刻まれていた。1661年に江戸浅草蔵前の講中によって建建てられた道標があったそうだが痛みが激しかったようで、2005年に新しいものに建て替えられたのだと。尚、その道標は2012年に、何と遠く伊勢原市の大山新道沿いに修復・移設されたとのこと。先ほど訪ねた「明治郷土資料室」に展示されていた資料には。「(塔身前面)是よ里 右 大山みち 御蔵前(塔身右側面)浅草御蔵前猿屋町 願主常陸屋権兵衛同所 天王町 祇園 吉兵衛(塔身左側面)萬治四牛年正月建立 當所世話人天保六未年正月再建 薩屋平左衛門(塔身背面)大正十ニ年九月一日大地震ノ為倒潰後日建立翌年一月十五日尚大地震ノ為倒潰十一月七日修繕建立大山御師 □見民部不動尊再建 鎌倉材木座石工□山定右衛門当町発起人一同辻堂 □□□如白書石宏」これが2012年に、何と遠く伊勢原市の大山新道沿いに修復・移設されたものの写真と説明員から。新しくなった案内板には「四ツ谷不動(大山道標)東海道と大山道の分岐である四ッ谷の辻に不動明王を載く道標が建てられています。道標の正面には不動明王を表す梵字「カーンマーン」と「大山道」、側面には「これより大山みち」とあります。現在のものは延宝四年(一六七六)に江戸横山町の講中によって建てられたものです。この脇に建つ道標は、万治四年(一六六一)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものを、平成十七年(ニ〇〇五)に再建したものです。道標の右手の通りにある鳥居は大山阿夫利神社の一の鳥居で、この通りは大山詣りの人々が通った道です。大山へ向かう大山道は何通りかありますが、この四ッ谷を起点とする「田村通り大山道」が特に重要な大山道とされています。現在でも、七月一日の大山開きの日には、四ッ谷町内会の年中行事こして、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。 令和五年(ニ〇ニ三)三月」歌川広重「東海道 七 五十三次之内 藤沢四ッ谷の立場 (蔦屋版)」。四ッ谷の立場(宿場と宿場の間にある休憩所)を描いた浮世絵からは、かって旅人相手の茶屋が建ち並んでいた往時の賑わいが感じられます。図の左端には不動明王を戴く道標がみえます。「不動明王」を頭上にいただく道標は、1670年代後半に建てられたと。「不動明王」に近づいて。さらに「不動明王」をズームして。道標の正面には不動明王を表す梵字「カーンマーン」と「大山道」と。この台座石柱には、「大山道 延宝四年(1676)」銘があり、江戸横山町の大山講中川建立したものと。梵字「カーンマーン【不動明王】」をネットから。不動明王は厳しくもやさしい慈悲の心ですべての障害を打ち砕き、人々を導き救済する役目を持つ「大日知来」の使者です。梵字重字「カーンマン」は、「カーン」が「不動心」、「マーン」は「柔軟心」を表しています。両側面に「これより大山みち」と刻まれていた。。先ほど訪ねた「明治郷土資料室」に展示されていた資料には。「記念碑藤沢バイパス道路新設工事のタメ四ツ谷不動尊移転トナリコレガ敷地 藤沢市辻堂字餅塚一番地鈴木得郎氏ノ御好意ニ依リ奉納サレタ依ッテコレヲ記念シ永遠ニ傳へンガ為此ノ碑ヲ建立シマシタ昭和三十八年二月三日 四ツ谷町内会」不動堂はもともと少し南よりにあったが、バイパス工事などの道路改修のために現在地に移されたのだと説明員の方から。この場所が東海道と大山道との分岐点。大山詣りへ向かう人たちが辿る(たどる)"田村通大山道"。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。経路はここ東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) ~ 一ノ宮(高座郡寒川町) ~田村の渡し(相模川)~ 横内(平塚市)~ 下谷(以降、伊勢原市)~ 伊勢原 ~ 〆引 ~石倉 ~ 子易 ~ 大山に至る道である。東海道を行き交うのは、何も京都を目指す旅人ばかりではなかったのです。旧東海道から見た石鳥居近づいて。鳥居には大山信仰のシンボルの一つであるカラス天狗の顔が。残念ながら鼻がなくなっているのです。左側の柱を奥から振り返って。「萬治四辛丑歳(1661)正月建立之御師 矢野清太夫 御府内石工見世持中 八町堀世話人中 佐久間町 山本新五」と。「昭和三十四年己亥歳五月復元 茅ヶ崎市 端山銀次郎」と。「天保十一庚子歳六月再建之御師村 村山八太夫御府内 石工 若者中 當所 世話人 藤屋平左衛門」と。先ほど訪ねた「明治郷土資料室」に展示されていた資料には。「四ツ谷不動(大山道標)」を「田村通り大山道」から斜めに見る。現在はここから旧東海道(写真左奥)と国道1号に分岐しているのである。「大山道入り口」を後にして、更に旧東海道(県道44号線)を上る。左手の山の斜面に小さな神社が確認できた。藤沢市羽鳥2丁目15−22。鳥居がニ基、旧東海道沿いに。稲荷神社であろうが、小さな社殿が2基あったが、案内板等は設置されていないのであった。「旧東海道」を右に曲がり住宅街を歩く。「羽鳥2丁目」を歩く。神奈中バス停「羽鳥山」を通過。昔はこの周辺は小高い丘になっていたのであろうか?羽鳥の地名の由来には、いくつかの説があり、大昔に住んでいた「はた織」をする一族ハトリベからきたもの、また鶴が飛来していたことから名づけられたものなどがある。この地は4割が水田であったそうだが、今は住宅街に変わり、その面影はない。また羽鳥の北部には、東海道が東西にはしっているが、その昔は大山行者の往来でにぎわっていた。ところが行者達は村の子供たちにお金をまき与えたりしたので、教育上好ましくない状況もおきた。それを憂えた村名主の三觜八郎右衛門は、教育向上のため、明治5年に東京の学者小笠原東陽を招き、読書院を開いた。その後、耕余塾と名が改められたが、耕余塾の評判は高く、やがて神奈川の教育の中心ともなり、かつての総理大臣 吉田茂もこの塾で学んだという。耕余塾は、中学校が普及してきたことなどから明治30年に廃塾となったが、その跡には小笠原東陽の碑が墓地に囲まれてひっそりと立っている とネットから。高校時代にこの付近に住んでいた学友にLINEしてみました。子供の頃の私の記憶ではこの周辺は、水田が広がり山の様な丘があった記憶がないのだが と。すると学友が、『藤沢の地名』という本を図書館から借りて調べて下さいました。「この辺りは松山(林)が連なっていたそうで山のつく地名がたくさんあったと。羽鳥山もその一つであるようだと。今も自治会の名前として残っていると。」 下の写真も送ってくださいました。なるほど「山」のついた多くの名前が確認できたのでした。そして「小笠原東陽の墓」のある「汲田(くみた)墓地」に到着。藤沢市羽鳥3丁目2。「旧三觜八郎右衛門家住宅 約210M先右折 明治地区郷土づくり推進会議・藤沢市 明治市民センター」案内板。案内板の後方にあった「橋供養塔」「橋供養塔の由来昔、この村の受持ちの橋が大雨のたびに流され村人が困難をしておりました。村人が集り相談をしていた所へ西行姿の老人太爺さんと言う人が、橋の架け替えに我が人柱に立とうと言われその後、橋は永く村人が困難をまぬがれました。太爺さんの供養のため建立されたものです。 平成30年5月吉日 明治郷土史料室」この墓地には学校「読書院」を開き後に「耕餘塾」の初代塾長となる小笠原東陽とその娘婿で2代塾長であった松岡利紀と塾生らのお墓があったのだ。右奥に巨大な石碑と六地蔵が。「老梅庵跡」碑。老梅は宗賢院の末寺である。現在は廃寺で存在しないが羽鳥村の鷹山にあったものを徳昌院境内に移したものらしい。汲田墓地内にある老梅庵跡の碑を見ると、手前の卵塔は徳昌院歴代の要石ゆえ当時の様子がうかがえる。残された証文をたどると、庵室は三觜八郎右衛門の廟所とあり、老梅庵は三觜家の菩提所として同家墓所内に設けられたと思われる。「老梅庵跡」碑と「六地蔵」。「六地蔵」に近づいて。「瑞方面山禅師(ずいほうめんざんせんじ)」の遺跡羽鳥鷹山の老梅庵に面山禅師が父母の冥福を祈って千日閉関の苦行を行い、満願の宝永6年正月開関。後に「石書妙経塔」を建立した。石仏、六地蔵を廻り込んで。そして「小笠原東陽墓」。左手には女婿で東陽の没後、2代目の塾長となった「松岡利紀墓」があった。「小笠原東陽・松岡利紀の墓東陽(1830~87)は美作国(岡山県)勝山藩士小笠原忠良の三男として生まれる。3歳の時父を失い、26歳で昌平坂学問所に入り佐藤一斎、安積艮斎に学び、林鶯渓の門下生となるが、明治維新後脱武士として池上本門寺で僧たちに漢字を教えていた。明治5年、羽鳥村の三觜八郎右衛門の招きで村内の廃寺徳昌院に読書院という郷学校を開き、村内幼童の教育指導にあたった。明治5年の学制発布によって読書院は羽鳥学校となったが、東陽はこれとは別に読書院を存続させ独自の教育をおこない、明治11年には学舎を建てて耕余塾と改称した。東陽は明治20年(1887)8月 58歳で没し、女婿松岡利紀がその後を継ぎ、明治30年に廃塾になるまでに村野常右衛門、平野友輔、武藤(金子)角之助、吉田茂など、政、財界を中心に多くの時の人材を輩出した。 昭和63年3月 藤沢市教育委員会」東陽の左には長男・小笠原鍾(あつむ。民権家として活躍)墓。「水子・◯子の墓石薫風院賢室◯峡大姉」と。小笠原東陽の2名の女子の水子の墓であろう。耕餘塾に学び、民権家として活動した「十字架」の刻まれた「平野友輔の墓」もここにあるのだろう。医師、代議士として活躍した人物。「十字架」、「路加」と刻まれた墓碑もあった。多くの無縫塔は徳性院歴代住職の墓石であろう。小笠原家の歴史の刻まれた石碑のようであったが。小笠原東陽の母の慰霊塔であろうか?墓地の東端の道路沿いに赤い屋根の小堂が立っていて、中に2体の大師像があった。「相模国準四国八十八ヶ所」の、右が廃堂になった52番天神山の大師像で、像高47cm。左が明治の初めに廃寺になった78番徳昌院の大師像で、像高41cm。2体の大師像に手を合わせこの場所を後にしたのであった。三觜本家墓墓地の大部分・多数の墓が三觜であるが、奥に一段と大きな墓があったが、三觜家本家の墓と思われる。中央の大きな墓石に「三觜家」と。ここの墓石は全て「三觜家之墓」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.01
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今日は2023年の大晦日、今年1年を振り返ってみたいと。前半部分のキャプション・写真等はネットから転載させていただきました。読売新聞の2023年十大ニュースは下記のごとし。[ネットから]【1位】WBC14年ぶり優勝…最強侍 列島沸く野球の国・地域別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)で、栗山英樹監督率いる日本代表「侍ジャパン」が3月21日の決勝で前回覇者の米国を3―2で破り、2009年以来14年ぶり3度目の優勝を果たした。日本は、大谷翔平選手、ダルビッシュ有選手、ラーズ・ヌートバー選手ら大リーガーと村上宗隆選手(ヤクルト)、岡本和真選手(巨人)らプロ野球トップ選手の混成チームで臨み、「歴代最強」との声も上がった。1次ラウンドを4戦全勝し、グループ首位で突破すると、準々決勝でイタリアに快勝。準決勝のメキシコ戦は逆転サヨナラ勝ちし、決勝へ進出した。決勝では、米国に1点を先取されたものの村上選手の本塁打などで勝ち越し、岡本選手も本塁打で追加点を挙げた。1点差に追い上げられた九回は、3番指名打者で出場していた大谷選手が登板。最後はエンゼルスで同僚のマイク・トラウト選手との対決を空振り三振で締めくくった。大会の観客動員数は、日本や中南米の盛り上がりが全体に波及し、130万人を超えて過去最高を更新。大谷選手は大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。【2位】大谷メジャー本塁打王米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手が10月1日、44本塁打で日本人初の本塁打王となった。右肘を痛めた影響などで9月3日を最後に欠場したが、2位に5本差でトップを守った。投手としても10勝を挙げ、史上初の2年連続「2桁勝利、2桁本塁打」を達成した。11月16日には、史上初となる2度目の「満票」でアメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に選出。2021年に続き、投票権を持つ全米野球記者協会の記者30人全員が1位票を投じた。今季終了後にフリーエージェントとなり、去就が注目されたが、12月9日にロサンゼルスを本拠地とする強豪ドジャースへの移籍を発表。総額7億ドル(約1015億円)の10年契約は、スポーツ史上最高額とされる。大谷選手は入団記者会見で「優勝を目指し、欠かせなかったと言われる存在になりたい」と決意を述べた。来季は打者に専念する。【3位】ジャニーズ性加害問題ジャニー喜多川氏による性加害問題で、ジャニーズ事務所が9月7日、記者会見を開き、性加害の事実を認めて謝罪した。男性や子ども・若者への性暴力が注目され、芸能界のハラスメントやメディアの対応にも厳しい目が向けられるなど、大きな社会問題となった。藤島ジュリー景子社長は引責辞任し、新社長に東山紀之氏が就任。10月には同事務所が被害者への補償に専念し、完了後に廃業するとして、社名も「SMILE―UP.(スマイルアップ)」に変更した。所属タレントは来年4月に全面稼働する新会社で受け入れる。この問題を巡っては、英BBCが3月、喜多川氏の性加害を告発する番組を放送。翌月、事務所に所属していた歌手のカウアン・オカモトさんが記者会見で被害を公表し、一連の事態が取り上げられるきっかけとなった。また、大手企業が所属タレントのCM起用を見送る動きも広がった。【4位】藤井竜王史上初八冠将棋の王座戦五番勝負の第4局が10月11日、京都市で行われ、挑戦者の藤井聡太竜王(名人、王位、叡王、棋王、王将、棋聖)が永瀬拓矢王座に勝ってシリーズ3勝1敗で王座を奪取し、21歳2か月で史上初の八冠独占を成し遂げた。一夜明けた記者会見では「(八冠になっても)盤を挟めば立場の違いは全くない。これまでと同じ気持ちで臨む」と穏やかに語った。11月11日には、最高棋戦の竜王戦七番勝負を制して八冠初防衛を果たした。出場したタイトル戦で19連覇しており、大山康晴十五世名人の持つタイトル連続獲得の最多記録(19期)に並んだ。来年の記録更新に期待がかかる。【5位】阪神38年ぶり日本一プロ野球の「SMBC日本シリーズ2023」で、阪神タイガースが11月5日に行われたオリックス・バファローズとの第7戦に勝利し、38年ぶり2度目の日本一に輝いた。18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした阪神とパ・リーグ3連覇を飾ったオリックスの対戦は、1964年以来、59年ぶりに関西に本拠地を置く球団同士の顔合わせとなったことから、「関西決戦」としても注目を集めた。岡田彰布監督はシーズン中に選手が意識しすぎないようにするため、リーグ優勝のことを「アレ」と表現し、流行語となった。【6位】闇バイト「ルフィ」逮捕各地で相次いだ指示役「ルフィ」らによる強盗事件を巡り、警視庁は2月7~9日、フィリピンから強制送還された渡辺優樹、今村 磨人きよと の両容疑者ら男4人を逮捕した。4人はフィリピンを拠点とした特殊詐欺グループの幹部で、SNSの「闇バイト」で実行役を集め、強盗を指示していたとみられる。警視庁は、昨年5月以降発生した5都府県の8事件を一連の強盗事件として捜査。12月までにすべての事件で指示役を立件した。【7位】新型コロナ「5類」移行新型コロナウイルス感染症の感染症法上の分類が5月8日、季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられた。3年余り続いたコロナ対策は、平時の体制に切り替わった。「マスク着用」「3密回避」など、これまでの暮らしを一変させたコロナ禍は、区切りを迎えた。感染者の全数把握も終了。読売新聞の集計では、5類移行までに国内で累計約3383万人が感染し、約7万人が死亡した。【8位】ビッグモーター不正請求中古車販売大手ビッグモーターで、従業員が車体を傷つけて修理範囲を広げるなどして、自動車保険の保険金を不正請求していたことが発覚。創業者の兼重宏行社長は7月25日、引責辞任を表明した。その後、損害保険ジャパンの白川儀一社長も不正の可能性を認識しながら、ビッグモーターとの取引を再開したとして辞任を表明。金融庁は11月、ビッグモーターに対し、損害保険代理店の登録を取り消す行政処分を出した。【9位】夏の平均気温過去最高気象庁は9月1日、今年の夏(6~8月)の日本の平均気温が、1898年の統計開始以降で最も高かったと発表した。最高気温が35度以上の「猛暑日」の日数は全国38地点で最多となった。熱中症によるとみられる死者も相次いだ。猛暑は農作物にも影響を与え、不作により野菜などの価格が高騰した。夏を過ぎても暑さは続き、今秋(9~11月)の平均気温も統計開始以降、最高を記録した。【10位】処理水放出開始福島第一原子力発電所の廃炉に向け、東京電力は8月24日、同原発の処理水の海洋放出を開始した。放出期間は30年程度に及ぶ見通しだ。反発する中国は科学的根拠を無視して日本産水産物の輸入を停止。中国向けに魚介類を輸出していた水産業者らが打撃を受けた。海洋放出を巡っては、中国発とみられる偽情報がインターネットで広まり、日本への迷惑電話も多発した。11位以下は次の通りと。11位 広島でG7サミット開催 9,057(35.8%)12位 各地でクマ被害、死傷者過去最多 6,588(26.0%)13位 日大アメフト部員、違法薬物で逮捕 6,318(25.0%)14位 歌舞伎俳優の市川猿之助容疑者を逮捕 5,867(23.2%)15位 ガソリン価格過去最高、物価高続く 5,035(19.9%)16位 岸田首相演説会場に爆発物投げ込み 4,740(18.7%)17位 夏の甲子園で慶応107年ぶり優勝 4,711(18.6%)18位 生成AI急速に普及。著作権侵害など弊害に懸念も 4,431(17.5%)19位 旧統一教会の解散命令請求 3,983(15.7%)20位 マイナカードでトラブル相次ぐ 3,965(15.7%)21位 五輪で談合、組織委元次長ら逮捕 3,804(15.0%)22位 音楽家の坂本龍一さん死去 3,093(12.2%)22位 株33年ぶり3万3000円超 3,093(12.2%)24位 宝塚が劇団員死亡で報告書 2,780(11.0%)25位 車いすテニス国枝さんに国民栄誉賞 2,726(10.8%)26位 岸田首相、ウクライナを電撃訪問 2,697(10.7%)27位 ネットで脅迫、ガーシー前参院議員逮捕 2,691(10.6%)28位 日韓首脳会談、関係正常化で一致 2,515(9.9%)29位 消費税のインボイス制度開始 2,054(8.1%)30位 LGBT法成立 2,042(8.1%)【その他】 2023年「今年の漢字」は「税」2023年の世相を表す「今年の漢字」に「税」が選ばれ、世界遺産・清水寺(京都市東山区)で12日、森清範(せいはん)貫主(かんす)が揮毫(きごう)した。「税」が選ばれるのは、消費税率が17年ぶりに引き上げられた2014年以来、2度目。公益財団法人「日本漢字能力検定協会」が毎年公募し、今年で29回目。応募総数14万7878票のうち、「税」が最多の5976票を集めた。増税や減税を巡る議論が活発化し、動向が注目されたのが主な理由で、森貫主は「国民の皆さんがシビアに税の行方を見ていると感じた」と語った。2位は「暑」、3位は「戦」。4位はプロ野球・阪神タイガースの日本一を受けて「虎」だった。私には予想外の「税」でしたが、皆さんはいかがだったでしょうか?個人的には順不同であるが★一度も寝込むことなく健康な1年であった。昨年8月には、【耳下腺腫瘍】の切除手術で8日間の市民病院での入院、その後12月末にも【大腸ポリープ】の切除手術で1泊2日の入院であったが、その後も順調に回復し、1年点検でも両方とも問題はないとの診断結果であった。そして今年の徒歩による散策そしてブログアップを振り返って見た。★1月湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出👈リンク元旦の富士山。今年も春を迎えに二宮・吾妻山へ👈リンク★2月熱海・糸川桜へ👈リンク伊豆半島・河津桜を楽しむ👈リンク★3月小栗伝説の残る六会を巡る👈リンク白旗神社へ藤の花を愛でに👈リンク★4月富士芝桜まつり👈リンク甲斐・信州日帰りの旅へ👈リンク★5月江の島に続く砂の道「トンボロ」を歩く👈リンク丸の内ストリートギャラリー👈リンク★6月栃木県・足利市を訪ねる👈リンク富士山周辺を訪ねる👈リンク★7月埼玉・行田を巡る👈リンク茅ヶ崎・浜降祭へ👈リンク★8月佐倉花火フェスタ 2023👈リンク藤沢・花応院へ👈リンク★9月日の入りのダイヤモンド富士を追って👈リンク座間市ひまわりまつり👈リンク★10月隅田川・屋形船の旅👈リンク神楽坂の坂道&横丁ウォーク👈リンク★11月江の島・湘南シーキャンドル2023👈リンク龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠👈リンク★12月箱根~河口湖への紅葉巡り👈リンク藤沢地名の会👈リンクそして日常生活では★7回目のワクチン接種2023年春から続いていたワクチン接種は、高齢者や重症化リスクが高い人などが対象でしたが、9月20日からは生後6カ月以上の全ての人が対象となった。コロナの感染症法上の扱いは2類から5類になったが、「特例臨時接種」として費用は無料。ただし、期間は2024年3月末までで、最後の無料接種になる可能性も。ワクチンの種類は、オミクロン株の派生型「XBB1.5」に対応するものに変更された。冷凍庫で保管していたこれまでのワクチンは廃棄となり、流行するウイルスに合わせた新しいものに切り替わったのであった。★人口36,000人以上の自治会連合会の役員として、今年も参加今年は4年ぶりの制限なしの【ふるさと祭り】、【イルミネーション2023】開催。【ふるさと祭り】【イルミネーション2023】★今年も都内・市内の秋の紅葉を楽しむ。「等々力渓谷」「等々力不動尊」「浄真寺」「傳乗寺」藤沢・「天嶽院」★我がブログも今年も皆勤にて700万回アクセスを通過。 去る12月25日(月)朝に、我がブログアクセス数も700万回を超えました。 そして今年も365日、毎日アップすることが出来ました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。 そして今日・大晦日2023.12.31の13:00過ぎのカウンターは『7013950』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 『学びのツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと 思っているのです。そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱等で寝込むことも全くなく、大晦日の今日の日を 迎えられた事に感謝。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、毎週末は趣味を楽しむために、横浜に張り切って行く 日々であった。そして半世紀以上の長年の仕事も11月で卒業したのであった。 独立している子供たち家族も元気に越年、来年も1月7日に長男、長女家族が我が家に来ると。 久しぶりの家族【全員集合】なのである。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりと正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと、半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も2個購入し組み立てました。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして牛蒡注連も新たに購入し奉納しました。橙(だいだい)、裏白(うらじろ)、ゆずり葉のセットも。裏白は長寿、ゆずり葉は子孫の繁栄、橙は家系の繁栄を願ったもの。「心の潔白さ」と「白髪になるまで長生きする」は毎年ソっと裏に隠して飾っています。床の間に。玄関のしめ飾り。今年もシンプルなものに。そして門飾り。松と輪飾りを。短かかった?2023年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、世界の平和が確実に実感できる新たな年2024年へ!! との願いを込めて。本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。そして2024年へのカウントダウン。2024年まで残り9時間。そして元旦は初日の出を見にと!! 2023年 完了
2023.12.31
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「明治郷土史料室」を後にして「神台公園(かんだいこうえん)入口」交差点まで戻る。「児童クラブ交流会」の看板が。(公財)藤沢市みらい創造財団が運営する児童クラブは基本的に小学校区ごとにあり、・児童の成長を促すこととして次の活動を行っているのだと。・児童の安全と健康を守り、豊かな心を育てる活動・遊びを通して自主性・社会性・協調性を培う活動・生活の場を提供し、生活習慣を身につける活動・家庭との日常的な連絡、情報交換・地域活動への参加など、地域の特性を生かした活動・その他、児童の健全な育成を助ける活動多くの子供達が集まっていたが。前方に「湘南藤沢徳洲会病院」。その手前を右折し、藤沢市道・明治457号線を進む。昔の街道・「大山街道」から分岐した「鎌倉江の島道」であったと。前方、路地の角にあったのが「伊勢屋の墓地」。「江戸時代、二ッ屋付近では街道を行き交う旅人相手に立場茶屋が繁盛したといいます。伊勢屋の先祖は伊勢の出身で立場茶屋を営んでいました。明治維新後は茶屋を廃業して酒屋兼雑貨を扱う店を営んでいたことが知られています。」と頂いた資料から。墓石が並ぶ。「乙磨墓」?。「明治郷土資料室」資料から「いつこより 吹来るものか秋風に 草も我身を 枯れそめにけり」「先祖代々の墓」。道路側にも墓石が並ぶ。中央に「三觜家之墓」と。三觜本家からの分家関連の墓地なのであろうか?「墓誌 三觜家先祖代々之諸精霊位」と。そして東海道・国道1号・「大山街道入口」交差点に出る。「大山街道入口」。手前にあった石碑。廻り込んだが、風化が進んで剥落が激しく文字は確認できなかった。頂いた資料には「⑤二ッ谷の辻ニッ谷はニつ家とも書きこの道筋にニ軒の家があったことから起こった地名ともいわれています。またここは北方向への大山道、南方の光明真言道場道(鎌倉江の島道)への分岐点であり、大山での帰りの信者たちが宝泉寺へ参詣し、更に江の島鎌會方面へ行く途中の休憩所として、ニ軒の立場茶屋があったからともいわれています。」そして上記の石碑は◇常光明真言道場道標(国道南側)光明真言道場と呼ばれた宝泉寺への道標で、同様のものが宝泉寺にもある。旧東海道と明真言道場道と交差する所にある。初め寛保ニ年(1741)伊予国出身の回国行者空山が立てたが、朽ちてしまったので文化六年(1809)に再建した。「常光明真言ロロ 寛保ニ壬戌三月廿一日 願主予州沙門空山 辻堂村宝泉寺」と刻まれていたと。「明治歴史資料室」の展示から。正面に「常光明真言」と。塔身石側面 願主寺州沙門空山 辻堂村宝泉寺 寛保ニ壬戌元三月廿一日塔身左側面 于時文化六巳之ハ月日再興そして正面が「大山街道」。ピンクが「田村通大山街道」と説明員の方から。この場所は「藤沢市」と「茅ヶ崎市」の境界付近。ここから「茅ヶ崎市」と。 横断歩道を渡りると、そこにも石碑が転倒した状態で放置されていた。廻り込んで。裏面、右側面にも文字が刻まれているようであった。「西国坂東秩父巡礼塔」であり享和3年(1803)高座郡用田村の人々により道中安全祈願を目的に建立されたものと。頂いた資料には正面 奉巡禮四國坂東秩父供養塔塔身右側面 あふり山 わけいる道に しおり置 つゆのことのは しるべとはなれ塔身背面 相州高座用田村 角田紋右衛門 宮原村 菊池五右衛門 菱沼村 太田口口 赤羽村 古知屋太郎衛門 同 太郎左衛門 安齏兵左衛門 城田治左衛門ニッ谷の立場:ー里塚を挟んて、四ツ谷とニッ谷の立場があった。ニッ谷の辻にある「奉巡礼西国坂東秩父供養塔」は、大山道しるべにもなており、巡礼の物道に迷って困窮した経験から、大山詣ての人々に道しるべを建てたと云われる。※道標左面の銘文(現在は、剥落判読不明の部分)すぎし年 やつがれは都路より西の国々東越道の国々の宮寺詣せしに わかれの岐をもしらで打越しことありき、あるわき道にかつりもうてしをりも侍り幾されば此里人の語り侍るには、大山詣でする人たちを委しくふたつや(ニッ谷)・小わた(小和田)を討ち過ぎ道しるべする人をやといて直格にロロロはた具儘に詣するなりむ者も有とかやしかあれど、此岐みちは細道なれば、ざして大山道と記難き海道しるべにてはべればとて、或人に一首の歌を乞得て書誌ものならし ↑この一首が、右面の和歌ネットより、在りし日の石碑の写真を。ネットより、在りし日の石碑の写真を。そしてこちらが大山道への道。そして東海道を藤沢方面に上ると「二ツ谷公民館前」交差点の先、左手にあったのが「二ッ家稲荷神社」。ニッ家稲荷は二ツ谷とも書くが、道辻に二軒家、二軒茶屋があったとも言わわたことから此の名がと。藤沢市城南1丁目3。「二ッ家稲荷神社」。そして入口左に道路を背に向けて立っていた「寛文十年(1670)庚申供養塔」。「寛文十年(1670)庚申供養塔」。塔身前面 寛文十庚戌年 奉造立庚申供養 九月吉日正面彫物 日月型 三猿像昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高125㎝、火成岩(安山岩)製/寛文10年(1670)の紀年銘があり、基礎造り出し部分前面に「相州土戸村道行」(辻堂か)として石井権左衛門以下、造立した庚申講中8名の名が刻まれています。「藤沢市指定重要文化財寛文十年(1670)庚申供養塔庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辧型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。」。隣に「道祖神塔」。蓮弁光背型 和合ニ神立像。塔身正面 施主吉田氏権右衛門 天明元年丑年九月吉日「二ッ家稲荷神社」の「一の鳥居」。そして「ニの鳥居」。扁額「ニッ家稲荷」。「ニッ家稲荷神社歴表当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス 平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中」「狛狐」(右)。「狛狐」(左)。こちらにも。こちらにも。そして「三の鳥居」と「社殿」。扁額「稲荷大明神」。二ッ家集落の鎮守社で、祭神は「保食神(うけもちのかみ)」例祭日二月一日、勧請年月日は不明。延宝七年(1679)に再建され、以降明治三十九年まで度々再建を重ねている。昭和十八年春、海軍衣料廠の拡張にあたって、神台2ー8(国道1号線反対側)より現地に移転した。これが、「寛文十年(1670)庚申供養塔」が道路に背を向けている理由であろうか。ここにも狐様が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.31
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さらに「明治郷土資料室」の見学を続ける。城南にある養命寺の本尊で、国の重要文化財に指定されている「木造薬師如来坐像」。「木造薬師如来坐像」は、今から約821年前、大庭景親所領を与えられた鎌倉幕府の有力御家人、三浦義澄が作らせたと言われている。国の重要文化財となった現在は、鎌倉国宝館に保管されているが、薬師如来や薬師経信者を守る十二神将像は同寺に安置されている。2018年2月1日、曹洞宗・養命寺にある「木造十二神将立像」を藤沢市指定重要文化財に指定。これにより市内所在の指定文化財は、市指定77件、県指定14件、国指定8件となった。十二神将とは、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来・薬師経を信仰するものを守護するとされる12体の武神。鎧に身を包み、手には武具を持ち、頭には干支の動物を付けている。有名なところでは、奈良市の新薬師寺にあるものが国宝に指定されている。市郷土歴史課によると、今回指定した立像は、15世紀(室町時代)に製作されたもので、檜材の寄木造。像高72・4cmから78・5cm(台座除く)で、一般にあるものに比べるとやや小ぶりだが、藤沢・鎌倉地方の中世仏像の指標となるものだという。さらに、立像の中には銘文や修理札が状態良く保存されており、1521年(永正18年)から明治初期におよぶ数回の修理年代や、それに携わった鎌倉や江戸の修理仏師の名が明らかである点も貴重だと評価した と。そして「わがまちの誇り「耕餘塾」」のコーナーへ。「小笠原東陽」と「松岡利紀」。「耕餘塾(こうよじゅく)(1872年~1897年)●耕餘塾の生まれる背景羽鳥村は藤沢宿、四谷宿に近くお酒や賭博に染まり貧しく荒廃していた。こどもたちも、旅人に銭をねだることもあった。羽鳥村を良くするために学問が必要であると三觜家の人は考え、江戸より小笠原東陽先生を招いた。●耕餘塾の誕生1872年(明治5年) 3月、池上本門寺南谷檀林で漢学を教えていた小笠原東陽先生が羽鳥村の三觜ハ郎右衛門家(元名主)と小三郎家(分家)の支援のもとに、廃寺徳性院で教授する。教場は徳性院の名にちなみ「読書院」と命名。●読書院 1872年~ 1876年(塾主:三觜ハ郎右衛門、教員:小笠原東陽)男女生徒が学んだが、学制の施行で児童は羽鳥学校へ移る。特別(中等)教育を始める。 ◯学科 読書、算術、習字、修身、作文の5学科。 ◯教科書 四書、考経、世界国尽、国郡訓義、国史略、十八史略、西洋事情、日本外史、政記、 文章規範、八大家文読本。●耕餘塾 1877年(明治10年) 1月~ (塾長兼教員:小笠原東陽)趣旨は『農家ノ子弟耕耘収穫ノ余カヲ以テ五学科ヲ研究セシム』 ◯学科 読書、算術、習字、修身、作文の5学科 ◯学年 第1学年から第4学年、等級は8級から1級まで、期間は各6ヶ月。 ◯授業 午前6時起業、7時朝食。8時~ 12時・午後1時~ 4時まで9時間授業。東陽先生4時間、 残りは助教が担当。 ◯休日 日曜日、祝祭日、国幣社大祭日、村社祭日、塾主家祭日 ◯入学年齢 原則として、14歳以上。ただし、小学年齢であっても、学力の度合いによって 入学が許可。入学者は男子のみ、寄宿か通学かは自由。予備学科として前期後期1年。 ◯塾生費用 入門費金五拾銭、毎月在籍料 金ニ円八拾銭(随時変更) ※塾費の額について、 現在の額との換算は難しい ◯耕餘集 1880年(明治13年) 10月第一集から、1886年(明治19年) 4月第六集まで発刊。 塾生70人の詩152篇、文章48篇が収められ、文章中の42篇に小笠原東陽先生の 短評が付く。●耕餘英和学校 1885 ~ 1886年(明治18 ~ 19年)頃(塾長:小笠原東陽) 教則を改め、英学大家の平井忠雄先生を招聘(しょうへい)して英学科を増入。英書籍にミルや スペンサー著使用。●耕餘義塾 1890年(明治23年) ~ 1897年(明治30年) 9月9日(塾長:松岡利紀) 寄付などによる公益の体制として「耕餘義塾」と名称が変更。高度な教則のもと授業がなされ、 良家の子弟が学ぶ 校長 小笠原 鍾(1887年~ 1888年の一年間) 塾長兼教員 松岡 利紀(1888年~ 1897年の10年間) 教員 小沢市三郎(英学)・村上(内山)守倫(英学)・田中元次郎(英学)・ 杉野鉾太郎(数学)・對馬運作(数学)・前田定之介(英学)・三觜ハ郎(英学)・ 中島 繁(数学) 管理者 三觜ハ郎右衛門 金子小左衛門 維持者 三觜ハ郎右衛門 金子小左衛門 今福元頴 大嶋正義 平野反輔 小笠原鍾 牧野随吉 梅原良 ほか 賛成員 三觜小三郎 小泉与左衛門など多数 ◯本科3か年、修業6か月で進級 訳読、語学、数学、地理、漢学、作文、英習字、和習字、文法、代数、幾何、植物学、 動物学、簿記、翻訳、化学、経済学、翻議、三角術。洋書籍、漢書籍などが使用 ◯予科では、綴字、訳読、語学、漢学、作文、英習字、和習字。 ◯学費 入塾金1円。授業料70銭。舎費30銭/通学生は20銭。賄および浴湯料2円20銭 (物価の高低で増減あり)●閉塾1897年9月9日夜、大暴風雨のため塾舎倒壊により閉塾。1900年8月31日神奈川県知事に管理者より「閉校之儀御届」提出。」小笠原東陽(おがさわらとうよう)(1830年~1887年)1830年(天保元年) 9月13日、作州(岡山県)勝山藩士の三男として江戸谷中で誕生。3歳で父を失い、姫路藩士奥山家の養子となる。奥山鉄四郎と名乗る。本名は董(ただす)、字は公威(こうい)、号は半漁(はんりょう)。1832年(安政2 )、昌平坂学問所(昌平黌)に入る(26歳)。儒学者の佐藤一斎・安積良斎に、学ぶ。つづいて林家の藕演塾に移る。1861年(文久元年)、姫路藩江戸邸学問所の学頭助となる。その後、姫路藩をはなれ小笠原の本姓に戻る。易占いで生計を立てるが、日々の暮らしは大変貧しかった。1869年(明治2) 6月、池上本門寺の南谷壇林(なんこくだんりん)に招かれ約4年間漢学を教える。檀林の生徒のなかに、羽鳥村の三觜治香(ちか)がおり、羽鳥村に遊ひに来て、三觜家の人々と出合う。1872年(明治5年) 3月、三觜ハ郎右衛門(本家)、三觜小三郎(分家)両家の招聘に応じ羽鳥村に転居。三觜家の多大な支援の下に、「読書院」を開く。同年『学制』の施行により公立耕餘学校と私塾「読書院」(中等教育)の両方て教鞭をとる。1877年(明治10年) 1月、新塾舎が完成し、塾名を「耕餘塾」改称。その後、英学を取り入れ「耕餘英和学校」へと発展させる。1884年(明治17年)舂頃より肺結核を発病、1887年(明治20年) 8月12日、58歳をもって永眠。教育の功績に対し、1877年(明治10年) 9月神奈川県から表彰。1883年(明治16年) 1 1月文部省から表彰。ニ松学舎山長の三嶋毅(昌平坂学問所の同門)は、「東陽のように死後も敬慕されること万分の一ほどでもありがたいものである。東陽は学問の栄光たらんことに力を注き自ら栄光を望まなかった。卓識というべきである。」と述べている。松岡利紀(まつおかとしのり)(1844年~1907年)1844年(弘化元年) 3月8日、美濃(岐阜県)高須藩士の家に誕生。字は大綱、号は拙鳩(せっきゅう)。8歳にて藩校(日新堂)に入り、漢学を修める。1860年(万延元年)林家の藕潢塾(ぐうこうじゅく)に入門し、林晃先生に漢学を学ぶ。小笠原東陽先生は藕潢塾での同門であり師である。その後、京都で漢学修業。1866年(慶応2年)名古屋藩校の鷲津宜光先生のもとで1年半あまり文学を学ぶ。1868年(明治元年) 4月、高須藩の貢士(こうし)(藩から選抜された政府の役人)となる。同年7月行政官、同時に刑法官の辞令を受ける。同年9月神祇官(じんぎかん)御用を仰せつかり、神社との関係が始まり、各地の神社で宮司などを勤める。鎌倉宮宮司時代、小笠原東陽先生の長女りかと結婚。1873年(明治6年) 7月から翌年の11月まで文部省の依頼で、川田剛(子息は辻堂に住んたことのある歌人川田順)のもとで、国史編纂の助手をする。1888年(明治21年) 7月、耕餘塾の先生となる。同年9月に塾長となる。1890年(明治23年)塾名を「耕餘義塾」と改称する。この時期、吉田茂が在籍している。自ら「源氏物語」「平家物語」などを書き写して、教材とし講義する。1897年(明治30年)、耕餘義塾閉塾。1901年(明治34年)中郡立中部学校(金目村堀の内)の教員となる。1907年(明治40年) 9月9日教授中に突然倒れ逝去、享年64歳。「小笠原東陽邸宅」模型。「松岡利紀(としのり)(拙鳩)翁碑銘」拓本。そして「耕餘塾常設展示」へ。右側、正面の展示。近づいて。「はじめに明治の初め私たちの藤沢市の羽鳥に『耕餘塾』という素晴らしい学校がありました。ここでの教育理念は、『人間の育成』で多くの人が高度な中等教育を受け、後に日本の近代化に貢献しました第二次世界大戦後の日本の復興を成し遂げ、名宰相と言われた吉田茂元総理大臣も、11歳からここで5年間学び、政治家となる資質を成長させました。明治5年(1872)に羽鳥村の大地主であった三觜八郎右衛門(本家)と三觜小三郎(分家)が、著名な漢学者小笠原東陽を東京から招き、廃寺を教場に、私塾「読書院」をはじめました。しかし明治政府の(学制)の施行に伴い、翌年「読書院」は公立の小学校に位置づけられました。そこで東陽は学齢の高い子弟には漢学を中心にした中等教育を存続します。明治10年(1877)新し塾舎も新築され「耕餘塾」が誕生しました。塾の名称はこのあと二回変わりますが、ここでは一貫して社会で役に立っ能力を身につけることと、よき人間作りをめざしました。さらに時代の変化とともに英語など西洋の学問を取り入れてゆきます。東陽は、明治二十年(1887)病気のため五十八歳で他界します。その後、娘婿の松岡利紀が塾長を継ぎ、教員を増やし新しい教科を加えるなど内容の充実がはかられましたが、明治三十年(1897)、暴風による塾舎の倒壊で閉塾を余儀なくされました。「読書院」に始まった「耕餘塾」の二十五年で学んだ生徒は、千人を超えていました。吉田茂はじめ、「味の素」の創業者鈴木三郎助兄弟、医者で民権家の平野友輔衆議院議員、山梨半造陸軍大将、外山亀太郎農学博士ほか、多くの政治家、実業家、教育者などがこの塾で学び社会で活躍しました。小笠原東陽と松岡利紀の両先生が私学教育に尽くした功績は不朽のもので、藤沢市民の誇りとするものです。この教育理念を風化させることなく後世に語り継ぎ、教育の大切さを再認識したいと思っています。 明治郷土資料館」下部の写真は「第13代目三觜八郎右衛門(佐次郎)」(左)「旧三觜八郎右衛門家住宅 薬医門」(右)「耕餘塾の始まり 「読書院」から「耕餘塾へ」明治の初め頃、羽鳥村は貧しい家も多く、学問や教養は低く、大人はお酒や賭博に染まり、こどもたちの一部に旅人にお金をねだるという良くない風習がありました。教育の必要性を強く感じていた三觜家の人々は、池上本門寺の南谷壇林で僧侶などに漢学を教えていた小笠原東陽を羽鳥村に迎えることとしました。前年に三觜家に八日間招かれ歓待され、良い印象を持っていた東陽は、快く羽鳥村に移って来ました。明治五年(187)三月廃寺「徳昌院」を教場として『読書院』が始まります。当初は教育の必要性の感じていない人々で、学問を学びにくる人は希でした。三觜家の呼びかけで仕事を終え夜しぶしぶやって来た人々に、東陽は、たくみな話術で水滸伝を語り、論語や孟子の話をしました。その面白さに人々は感動し、親しみを持つ人が増えてゆきました。さすが昌平黌(江戸幕府の昌平坂学問所)出身の先生だ、という評判を聞いた人々が自分の子供を通わせるようになり、ここで学ぶ子供の数が増えて行きました。この年八月には明治政府の学制」が公布され、各地に公立小学佼を作ることになりました。羽鳥村では、翌年「読書院」が「耕餘学校」(のちに「羽鳥学校」)と改称され、現在の明治小学校の前身となる神奈川県で最初の公立小学校となりました。一方、東陽は、広く社会的な教育を考え、学齢の高い子弟に特別に中等教育を続けることとしました。東陽はこの公立と私塾の両方の教師でした。」*三觜家の人々代々羽烏村で名主を務めた大地主の家で、明治時代まで代々三觜八郎右衛門を名乗ってきた。羽島村の農民の4分の3が同家と小作関係を結んでいたといわれている。土地の指導者として、教育にも熟心で、身内の人には教育を受けさせた。三觜八郎や三觜茂市(幼名は治香)が池上本門寺の壇林で東陽から学んでいた。八郎はその後、京都の同志社で英学を修め、耕餘塾で教えた。*小笠原東陽先生の人となり1830 (天保元年) 9月13日、岡山県勝山藩士小笠原忠良の三男として江戸谷中で誕生、三歳で父を失う。姫路藩士奥山家の養子になるが、幕末に小笠原の本姓に戻る。東陽、半漁と名乗るのは、羽鳥村に来てからになる。26歳のとき昌平坂学問所(昌平黌)に入り、高名の儒学者佐藤一斎及び安積良斎のもとで約4年間学び、その後、林家の藕潢塾に移り漢学をめた。1861年姫路藩に戻り、江戸邸学問所の学頭助として教育に従事する。38歳の時、士録を返し平民になる。1869年池上本門寺の南谷擅林で4年間漢学を教える。当時の家族は、夫婦、子ども4人と義母の7人である。生活は、なかなか大変だったようだ。1887年(明治20年) 8月2 0日逝去。「東陽の中等教育は大きな成果を上げ、近隣の村や町から生徒が集まってきました。学年、学科、規則などきちん定められ、高度な教育内容でした。名声が高まるにつれ、寺の教場は狭くなり新しい塾舎を立てることになりました。明治十年(1877)、三觜八郎右衛門が提供した六百坪の土地に塾舎が完成しました。工事費千数百円は、有志によって賄われました。新塾舎は、講堂、寄宿舎、炊事場、浴室、井戸があり、運動場もありました。新塾舎完成を機に、塾は『耕餘塾』と命名され神奈川県に届けられました。「耕耘収穫の余力から耕餘」、すなわち「農作業をしたうえで、なお余ったカで勉学を行う」。労働と学問の両立をめざして付けられたのが『耕餘塾』です。「耕餘塾」では、「読書院」時代よりさらに、学科、教科書、教員など充実させました。年に八十人から百人近くの塾生が学び、社会に出て活躍しました。耕餘塾では、漢学は重要な位置を占めていました。塾生は、漢文で作文を書き、漢詩も作っていました。これ塾生の漢詩や漢文作品を集めて明治十三年から十九年までに、第六集までの『耕餘集』を発刊しています。」「英学を入れての「耕餘英和学校」そして東陽死去文明開化を謳歌する明治時代、政府は欧米の新思想や学問を取り入れることに積極的でした。中でも実証的、経済的なものがもとめられ、ミルやスペンサー系の学風が好まれました。そういう時代の流れをうけ、「耕餘塾」も欧米の語学や思想を教科に取り入れます。明治十八年(1885)、名称を「耕餘英和学校」とし、塾教則を改正し、「本塾は専ら英漢学を修めるものとす」とします。初代文部大臣に森有礼がつき、小学校から大学令までの法令と、新育行政改革によって教育改革が具体化されます。これを受け東陽も塾を改革しました。しかし、東陽は前年ごろから肺の病気にかかり、塾の運営が困難となり、塾を三觜八郎右衛門と金子小左衛門に託します明治二十年(1887)になり、東陽の病が重くなり、八月十ニ日、家族に看取られ五十八歳をもって永眠しました。「耕餘英和学校」の校長には、長男で医者の小笠原鐘がなりました。」「鈴木 三郎助(2代) (1867~1931) 明治~昭和の実業家慶応3 (1861)年12月三浦郡堀内村(葉山町)、米穀酒類商鈴木三郎助(初代)の長男として生まれる。幼名泰助、のち三郎助(2代)を名乗る.明治10 (1877)年羽鳥村(藤沢市)の小笠原東陽の耕餘塾に学び、その後明治13 (1880)年、浦賀の酒商加藤小兵衛商店へ奉公した後、明治(1884)年に家業を継ぎ、酒類や穀物などの販売店を営んだ。この頃、母と妻は昆布からヨードを作る仕事をしており、明治23 (1890)年、弟の忠治(耕餘塾に学んでいる)らと海藻「かじめ」を原料にして沃度の製造を開始した。沃度ホルム・沃度加里・硝石などの製造にも力を注ぎ、明治39 (1906)年3月関東沃度製造同業組合を組織し組合長となる。明治41 (1908)年10月池田菊苗博士が発明したグルタミン酸塩を主成分とする新調味料の製造に着手し、翌42 (1909)年「味の素」として売り出した。大正6 (1917)年、株式会社鈴木商店(味の素株式会社前身)を設立する。一方、同年東信電気会社を創設し電気事業にも尽力した。昭和6 (1931)年没。享年65歳であった。」「耕餘塾に学んだ元内閣総理大臣 吉田 茂10の出来事でたどる吉田茂の生涯(左)1889 (明治22)年に、耕餘義塾に入学。1894 (明治27)年まての5年間在学する。ここでの高度な教育が、名外交官ならしめ、名宰相として戦後の復興の原動力となった。在学当時のことについて、秘書官の杉浦徳氏に「耕餘塾の時、近くにタ食の豆腐の買い物に行かされてね。ところが、豆腐屋と塾の間に溜池があるんだ。そこに狐が出るという噂があった。薄暗いなかを溜池のそばを通り過きる時、さすがに恐ろしくて震えたもんだよ。」ともらした。三觜ハ郎右衛門の長男舜太郎氏(吉田茂と同門の親反)の夫人ヒサさんは、「元気のいい人で、木登りをしていたことを覚えています。子どもの頃の茂さんは頭が良くて、書いた論文が立派だったのが頭に残っています。」と語っている。茂の三女麻生和子さんは著書『父吉田茂』の中て、「スイカを割らずに食べる方法を知っているかい」と聞かれ「ムギワラを突っ込んて吸い出すと、甘い中身だけが吸い出せる」と子ども時代のことを得意そうな顔をして話したと書いている。1967 (昭和42)年逝去。享年89歳。」「小笠原東陽」の筆のものか?そして左側の展示。「多士済々の塾生たち藤沢の羽鳥の地に明治三十年まで二十五年間続いた「耕餘塾」からは、昭和二十年代戦後の復興に貢献し、名宰相と言われた吉田茂を始め、政財界、学術界、自由民権家など明治維新後の日本の近代化に大いに貢献した人材を多く世に送り出しました。小等原東陽の時代からは、平野友輔、牧野随吉、ニ代目鈴木三郎助兄弟などがあげられます。平野友輔は衆議院議員になり、神奈川県で医師会を創立させています。牧野随吉は、神奈川県会議員になり、綾瀬のみならず神奈川県の政治・農政など幅広い活躍をします。「耕餘塾」では優等生で助教や寮長を勤めています。二代目鈴木三郎助は、味の素を売り出し、世界的な会社を創り上げます。松岡利紀の時代の代表は、なんと言っても吉田茂です。「耕餘塾」に十一歳で入塾し、五年間学びます。ここでの勉学が名宰相になる礎を創り上げていったのです。他にも多くの人材を輩出しました。」「新体制なる耕餘義塾明治ニ十一年(1888)、東陽の長女の夫・松岡利紀が塾長となりました。明治〇〇年、名称を「耕餘義塾」と改め、寄付などを集め、充実を図ります。松岡塾長は、自ら「源氏物語」や「平家物語」などを書き写し教材とし、日本の古典文学の教育にも力を入れます。「耕餘義塾」の学科は、中等教育ということですが、高度の教育がなされていました。このころ「慶応義塾」と「耕餘義塾」の関係が密接になります。「慶応義塾」から教師が迎えられたり「耕餘義塾」の塾生が「慶応義塾」へ入塾できるようになっていました。この時代に、吉田茂は「耕餘義塾」で五年間学びます。塾の教育がいかに高度であったかを物語る例として、吉田茂の論文があります。内容といい文章といい素晴らしい論文を今の中学生の年齢で書いています。」写真:松岡利紀先生の墓(汲田墓地)。「「耕餘塾」の諸先生開設当時は、東陽が一人で教えていました。「耕餘塾」の評判が上がり生徒が増えるにつれて、塾生の中から助教師を選び教えるようになりました。牧野隨吉・三觜(飯島)昇・加藤松之助・山梨半造・石上憲定など十数名が明らかになっています。明治十八年頃からは漢学中心から英語や洋学を取り人れ、学科の充実を図っています。この頃から積極的に外部から教授陣を人れるようになります。特に「慶應義塾」出身者が多く教授人に名を連ねています。「慶應義塾」出身者としては、教頭兼幹事を勤められた内山(村上)守倫、小沢(久保)市三郎(英語)、田中元次郎(英語)他がいました。そのほか、「同志社」出身の三觜八郎(英語)、外国語学校出の杉野鉾太郎(数学・英語)、「宮城師範」出の対馬運作(数学)などがいました。」「「耕餘塾」と自由民権運動明治政府は、日本の近代化に取り組んできました。封建時代の士族が没落し、不平氏族が鹿児島の西郷隆盛の下に集まり新政府と戦います:この西南の役後国会開設を求める言論運動が盛んになります。この自由民権運動は、憲法の制定・議会の開設・地租の軽減・言論の自由や集会の自由などの要求を掲げ、明治二十三年の帝国議会開設まで続きました。板垣退助や大隈重信などが活躍した明治の自由民権運動には、「耕餘塾」の塾生や父兄の四、五十名が参加し、日本の近代化に大いにカを発揮しました。主な民権家としては、村野常右衛門、平野友輔、小笠原鍾、武藤角之助、牧野隨吉、大島正義らが挙げられます。東陽は、よく「平民は天民なり、天民は不羈(ふき)なり」と言われていました。(耕餘第二集序)これからは平民の時代だという強い信念を持って指導されました。「耕餘塾」は、若き塾生たちが新しい民権思想を自由に学べる場になっていたのでしよう。」「耕餘塾年表」。●明治5年(1872年)3月 - 羽鳥村の廃寺であった、徳昌院の庫裏を校舎として、名主の 三觜八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて郷学校読書院を開設する。●明治5年(1872年)8月 - 学制により、読書院は羽鳥学校(現在の藤沢市立明治小学校)に 改称され、生徒の多くはこちらに移ったが、小笠原東陽は、これとは別に読書院を私塾として 存続させる。●1878年(明治11年) - 入塾者が増加したため、新校舎を落成し、塾名を耕余塾に改め、 変則中学となる。●1887年(明治20年)8月 - 小笠原東陽が没し、松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり、 耕余義塾に改称する。●1896年(明治29年)11月16日 - 耕余義塾卒業生の慶應義塾高等科第三等第一期への 無試験編入の契約を結ぶ。●1897年(明治30年)9月8日 - 大風で全学舎が倒壊する。●1900年(明治33年)8月31日 - 再建できず、閉塾する。「耕餘塾舎」案内図。「東陽先生旧宅」案内図。拓本「小笠原先生碑」。この石碑は「耕餘塾跡」に立っていたのであった。「養命寺」。養命寺 本尊「木造薬師如来坐像」。「お地蔵物語」。「東海道鐵道寿語録」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.30
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「本立寺」を後にして、道路の反対側にある「明治市民センター」に向かう。「明治市民センター」前の黄葉。「明治市民センター(明治公民館)」2階に、地域のボランティアである明治郷土史料室運営委員会により運営されている「明治郷土史料室」があった。東海道筋の歴史や耕餘塾など、藤沢市明治地区の歴史・文化史料を展示していた。明治地区には、藤沢市の教育施設の先駆けとなる耕餘塾という私塾があり、教育者小笠原東陽らが指導に当たった。後年総理大臣となる吉田茂をはじめとし、多くの政治家・実業家・教育者・社会活動家を輩出し、日本の発展に大きく貢献した。ここ明治郷土史料室にて、旧三觜八郎右衛門家住宅、耕餘塾の貴重な資料を見ることができたのであった。資料館の入口にあった灯籠。その下にあったのが「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展」案内書。「「わがまちの文化財」~仏像と石造物を中心に~展私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散(散逸)が危惧されることから 2019 年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し「明治地区石造物調査報告書」としてまとめました。石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の祈りを伝えてくれています。 明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています。しかしながら年月の経過に伴い、失われていくものも多くあります。今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~」として企画展示しました。●展示期間:2023年9月5日(火曜日)~2023年11月30日(木曜日)●時 間:午前10時~午後3時●休館日:日曜日、月曜日「わがまちの文化財~仏像と石造物」展。「明治郷土資料室」。「明治郷土史料室の主旨わが住む町明治地区は、歴史に裏付けられた古くから有形無形の文化が育まれてきました。特に明治初期に羽鳥に在った耕餘塾は、戦後日本の再建に多大の貢献をした名宰相吉田茂をはじめ多くの政治家・実業家・教育者・社会運動家等を輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしました。これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に残し、日本の教育・社会の発展のための一助となることを多くの住民が強く望んでまいりました。明治地区に残る文化・歴史資料を発掘し、展示することで、この明治地区の文化・歴史を一人でも多くの方々に知っていただきたいと思います。ここに明治市民センターの改築に合わせ明治郷土史料室としてスタートいたしました。 平成19年3月28日 明治郷土史料室運営委員会」入口近くにあったのが「耕餘塾」の模型。正面から。「耕餘塾 制作者:磯谷二郎氏」。そして「旧三觜八郎右衛門家住宅」の模型。「旧三觜八郎右衛門家住宅」は、明治11年(1878年)に13代八郎右衛門が建てたもの。良材をふんだんに用いた質の高い造作で、2階座敷をもつ民家として極めて早期の例であること、洋風意匠を加味した商家風の家構えからは旧東海道沿いの富裕な地域性も反映されている点等が評価され、平成25年(2013年)に国登録有形文化財に登録された。廻り込んで。位置を変えて。「旧三觜八郎右衛門家住宅」1階平面図。「旧三觜八郎右衛門家住宅」2階平面図。2022年に取り壊しされた羽鳥の国登録有形文化財「旧三觜八郎右衛門家住宅」を忠実に再現した50分の1の模型が2021年11月17日、明治市民センターに寄贈された。寄贈したのは大和市の五十鈴中央(株)(本郷正信社長)。本業の自動車や家電の鉄板を扱う三次元測定技術を生かし、3Dデータ化。それを基に保存・活用してもらおうと模型を作った。寄贈式には鈴木恒夫市長や明治郷土資料室運営委員長の三觜清次さんら関係者が出席。本郷社長は「郷土愛あふれる藤沢に向け、子どもたちの興味、関心を持つきっかけになれば」とコメント。鈴木市長は「素晴らしいプレゼントをいただいた」などと感謝を述べた と。2014年1月15日(水) ~ 3月30日(日)の展示期間で開催された「旧三觜八郎右衛門家住宅展」案内書「国登録有形文化財(建造物)指定記念旧三觜八郎右衛門家住宅展今回の展示の趣旨明治初期に建築された「旧三觜八郎右衛門家住宅(主屋・門・石塀)」が、国国登録有形文化財(建造物)として、平成26年1月に認定証が授与されることとなりました.今回、有形文化財認定を記念し建造物を中心に紹介する特別企画展示を開催します。建物を活かし、文化を生かす。わが国には、建造物や絵画・彫刻・考古資料なと、歴史的な価値をもつ有形物のうら、歴史・芸術上、学術上価値の高いものを保護する制度があります。国のほか、各都道府県や市町村も、それぞれの条例によって文化財指定の制度を定めています。指定文化財は、後世までそのままの姿で長く継承する事を目的にしています。指定文化財を補い、もっと幅広く多様な建造物を保護する仕組みとして、国の制度として「登録有形文化財」があります。国に登録して、それを公開することによって社会全体で保護することになります。この度、旧三觜ハ郎石衛門家住宅が、薬医門と石塀と共に「登録有形文化財」に登録されました。明治郷土史料室とは・・・私たちが住むこの明治地区には、歴史に裏づけされた古くからの有形無形の文化が育まれてきました。特に明治期に羽鳥の地にあった耕館塾は、名宰相吉田茂をはじめとする多くの政治家・実業家・教育者・社会活動家などを輩出し、日本の近代的発展のために多大なる貢献をしましに。郷土資料室は、これら耕餘塾を中心とする私たちの誇れる郷土の文化・歴史遺産を風化させることなく後世に残し、教育・社会の発展の一助にとの思いで設置されました。明治地区に残る文化・歴史史料を発掘し、展示をすることで一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。 明治郷土史料室運営委員会門 ー薬医門、その他の門いろいろー三觜家の正門は、格式の高い「薬医門」です。昔は、公家や武家屋敷の正門などとして用いられました。扉をなくして医者の門として用いられたのでこの名前が付きました。また矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」から来たとも言われています。この薬医門は、この近隣でも寺院や元名主だった家などに残っています。特徴ある門の種類👈リンク三觜家について「藤沢郷土史」(加藤徳右衛門著)の中で三觜家の事に触れている。当家の三代目三觜出◯は原野を開拓し羽鳥郷を開拓し、三觜家の地位を固めました。十代目の三觜大助という人も優れを人物で三觜本家が「大三觜」と呼ばれるのは、この人に由来するとのことです。江戸時代になって名主制度ができ、三觜家は名主役を明治4年(1871)まで勤めました。13代八郎右衛門(佐次郎) 10代目の大助に劣らず人格に優れ、温厚寡黙な人で、勤めて産業の興隆に意を注ぎました。引地脇の山上の原野に広大な茶畑を作って製茶業を興し、相模小麦の特徴を利用して醤油醸造を開始しました。近代の三觜八郎右衛門家が地域に貢献したした最も大きな事業は、教育活動と言えるでしよう。13代八郎右衛門(佐次郎) は地域の風習が荒んでいることに心を痛め、当時池上本門寺で漢学を教えていた小笠原東陽先生を招聘して、郷学校(幕末から明治初年にかけて民間の有志が設立した学校で廃寺の徳昌院を利用したもの。東陽は読書院と命名)を設立しました。その後、東場は学制の発布によって名称を耕余学舎に変更しますが、明治10年三觜家等の助力で公立の小学校(藤沢市立明治小学校の前身)と別に私立「耕餘塾」を新築しました。塾の名称は東陽没後耕餘英和学校、耕餘義塾と変わり明治33年閉校するまで政治家や実業家、教育者など近隣地域のリーダーとなる数多くの人材を輩出しました。三觜八郎右衛門(佐次郎)は、子息舜太郎を同校に学はせただけでなく、経済的援助を惜しみませんでした。同塾の寄宿舎は、同家の家屋の一部を提供したもので、同家の徳を慕って多くの卒業生が卒業後も訪れています。元内閣総理大臣吉日茂も同塾卒業生で、若き日に三觜ハ郎石衛門(佐次郎)へ宛てた書状に「錦地(耕余塾のあつに羽の地)は小生の第ニの故郷」と記しています。同家1 4代となる舜太郎(1867 ~ 1953 )は明治40年に合併した藤沢町で町会議員(大正3年から1期4年)、同町学務委員(大正8年から1期4年)を務めていますが、地方財界に進出し、地域開発も手がけるなど地域の発展のために尽くしました。明治後期の藤沢では、全国の地方商業都市と同じく地方銀行が設立されますが、舜太郎は藤沢に本拠を置いた「関東銀行」に出資して取締役(重役)になり、またJ R相模線の前身である相模鉄道(大正6年設立)では、取締役から2代社長(大正12年~ 14年)を務めています。地域開発では羽鳥山に「別荘的住宅」羽鳥山住宅を開き、昭和初年に分譲を開始しています。明治早期に13代ハ郎石衛門(佐次郎)によって建てられた三觜家住宅は、現在三觜舜太郎の孫娘である◯◯京子氏が所有され、三觜家の名代として継続して守ってきています。」「登録有形文化財第14ー0182ー0184号この建造物は貴重な国民的財産です文化庁」「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展」。「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~展趣旨私たちが暮らしている明治地区に残されている仏像や石造物について近年明治地区においては大規模マンション建設や宅地化が進み、石造物の移動や逸散が危惧されることから2019年に明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地区の一部にわたり、その現況を再調査し、石造物と地域住民とのつながりや歴史的意義について後世に伝えることを目的に実施し「明治地区石造物調査報告書(明治地区郷土づくり推進会議歴史文化部会)」としてまとめました。石造物の多くは、江戸時代の庶民信仰の対象として造立され、露座で数百年の風雪に耐え先人の祈りを伝えてくれています。明治地区には、まだ多くの石造物が残されており、現在では主に神社や寺院の境内に移設され、大切に保存されています.しかしながら年月の経過こ伴い、失われていくものも多くあります。今回、石造物調査報告書より主なものを取り上げ、表題「わがまちの文化財~仏像と石造物を中心に~」として企画展示しました。」「藤沢市明治地区の石造物 鶴見大学文学部文化財学科 教授 緒方啓介藤沢市の石造物ついては、昭和58年度から平成五年度までの10年問にわにり実施された藤沢市文化財総合調査によって、ほぼ全市域の悉皆調査が終了しており、その成果は『籘沢市文化財総合調査報告書(以下、『報告書』と省略する)第一集から第十集により出販されている。当時、藤沢市文化財保護委員長をされていたのが石造物の研究者であった故服部清道博士であったため、藤沢市では数多くの石造物や建造物や有形民族文化財として指定を受け、保護されている。筆者は、当時神奈川県社会教育指導員として藤沢市教育委員会に嘱託職員として在籍し、文化財総合調査の事務局兼調査員として仕事をしていた。今回、明治地区郷土づくり推進会議が行った石造物調査は、明治地区の辻堂神台・城南・羽鳥と大庭及び稲荷地域の一部にわたり、その現況を再調査し石造物と地域住民の生活とのつながりや歴史的意義を周知して、後に伝えることを目的としている。明治地区の石造物については、すでに平成元年刊の『報告書』第四集に所収されているが、すでに30年を経過している。この間の明治地区では大規模マンションや宅地化が進み、石造物の移動や散逸が危惧される点からも、今回の調査は意義のあるものといえる。今回行われた石造物調査は、明治地区に残される石造物のごとく一部の確認調査にとどまっているが路傍で風雨にさらされる石造物は日々劣化している現状が確認された。また開発などで散逸したり盗難にあう石仏も出てくる可能性も考えられる。これらを最小限に防ぐ対第にしては、日々地域住民が先人の残した歴史遺産に敬意を払い、未来に守り伝えていく気持ちを忘れないようにすることが大切である。」1、石造物の種類(1)石仏*仏像塔 釈迦・阿弥陀・薬師などの効果、観音・地蔵・弥勒などの菩薩、不動・愛染などの明王などの 仏像に、無病息災や諸願成就などを祈って造立される。また近世においては、 蓮弁型に各尊を浮彫りする像塔に戒名などを刻んで墓石とすることが流行する。さらに 近世には地蔵菩薩への信仰が盛んとなり、街道筋や村の辻に旅人の道中安全を祈って 地蔵菩薩像を造立したり、「縛られ地蔵」・「とげぬき地蔵」・「子育て地蔵」などの民問信仰 も生まれた。また地域の伝承などから生まれた「岩船地蔵」や「舟地蔵」などもある。 その形態は、仏像を丸彫り又は浮彫りにする像塔や尊名を刻む文字等がある。*六地蔵 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を司る地蔵として六体の地蔵菩薩を表す六地蔵 がある。墓地に造立される六地蔵は死者の追善や先祖供養を目的としたものが多く、路傍に 造立されるものは村内に厄災が入り込をのを防ぐ目的が多いようである。その形態は、六体の 丸彫像や浮彫像を横一列に並べるものが多いが、四面や六面の石柱に六地蔵を浮彫りする 石幢型もある。*弘法大師像・相模国準四国八十ハカ所霊場塔 真言宗の開祖空海の石像は、真言系寺院で、宗祖として安置される。その形態は、右手に 五鈷杵、左手に数珠をとる丸彫りの弘法大師像で、基壇に造立年や札所名などが記されている。(2)基碑・墓石 *五輪塔 仏教の字宙を構成する「地・水・火・風・空」を表す石造卒塔婆で、平安時代後期から墓石や 供養塔として各地で造立された。その形態は、下から基壇=地輪、塔身=水輪、笠=火輪、 受花=風輪、宝珠=空輪の五石ならなる。また古形式のものは各輪に五大を表す梵字を 刻むのみであったが、室町以降になると地輪に戒名や命日が刻まれるものも多くなる。*宝篋印塔 本来は「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔であったが、次第に生前の逆修や死者の追善の ための供養塔として造立されるようになり、鎌倉時代にはすでに墓碑塔としての性格を備え ていた。その形態は、十世紀に呉越王銭弘俶がハ万四千基を造立した阿育王塔が原型と考え られる。下から基礎・反花・基壇・塔身・四隅に隅飾突起を備えた笠部・九輪・受花・宝珠 を表す。*板碑 中世を通じて造立された板状の石造卒塔婆で、本来は供養塔の意味が強いものであるが、 墓石として用いられた例もある。関東地方では群馬県や埼玉県を産地とする緑泥片岩が多く 用いられる。その形態は、仏教宗派でまちまちで、浄上教系では念仏を刻んだ文字塔や阿弥陀 三尊などを浮彫りした像塔、密教系では大日や阿弥陀如来などの種子を刻んだ文字塔、 日蓮宗系では題目を刻んだ文字塔などである。*無縫塔 卵塔とも呼ばれる僧侶の墓石で、鎌倉時代に中国南宋から禅僧により請来された形式と いわれる。その形態は塔頂円形で、室町時代以降は長卵形の無縫塔が宗派を超えて流行した。「辻堂神台」の石仏・石碑・石塔。・本立寺 阿弥陀如来像、開祖佛眼院日顕上人像、石像・伊勢屋墓地 墓碑・光明真言供養塔「城南」、「羽鳥」地区。「城南」の石仏・石碑・石塔。・一の鳥居(大山阿夫利神社)・大山道標不動尊 大山道標・二ツ谷稲荷神社 道祖神塔、庚申供養塔、石狗・山崎家墓入口 地蔵菩薩「城南」の石仏・石碑・石塔。「城南」の石仏・石碑・石塔(1/2)。「城南」の石仏・石碑・石塔(2/2)。石仏・石碑・石塔の写真。「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(1/2)。「羽鳥」の写真。「羽鳥」の石仏・石碑・石塔(2/2)。その写真。「大庭」の石仏・石碑・石塔その写真。石造物位置図。調査石造物一覧(1/2)。近付いて。調査石造物一覧(2/2)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.29
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この日は11月25日(土)、「「藤沢地名の会」明治地区(羽鳥・城南)の石造物と史跡を訪ねる」に参加。辻堂駅北口に9:30に集合。「羽島明治地区は、江戸時代までは東海道と大山街道の交通結節点として賑わい古くから交通の要街として発展してきた地区であるとともに藤沢市の教育発展の礎となった「耕余塾」がありました。今回、石造物と史跡を中心に明治地区を訪問します。【主な訪問地】本立寺・明治郷土史料室・ニッ谷稲荷・大山遥拝の大鳥居・四ツ谷不動・汲田基地・羽鳥市民の家(昼食)・耕余塾跡・御霊神社・城明神社・本願寺・おしゃれ地蔵・養命寺」定刻9:30になり、2Grに別れて散策のスタート。まずは今日の予定とこの地域の歴史についてのガイダンスが。「明治という地名明治22年の市制町村制施行時に辻堂 羽鳥 大庭 稲荷の4ヶ村が合併して明治村となり、明治41年に藤沢大坂町、鵠沼村と合併して藤沢町となるまでの間、明治村と呼ばれていました。かって明治村は全国に24ヶ所もありましたが、今は町村合併などで全て消滅してしまっています。現在藤沢市では行政地区のひとっとして城南、羽鳥と辻堂の一部をあわせて「明治地区」と称し、市民センターや公民館にその名を付けています。また市立の小・中学校、市民の家などにも明治という名称が使われその名残をのこしています。」と頂いたこの日の資料から。 「明治15年作成の地図に見る藤沢宿(藤沢駅)と周辺の街道」。まずは「本立寺」に向かって進む。「本立寺」の墓地の角にあった「題目碑」。そしてその前に座像がニ体。『南無妙法蓮華経 日蓮宗 寶光山 本立寺』 と寺号標石側面には「法華経 序品列座 大寶光天子安置」。「本立寺開祖 佛眼院日顕聖人像」。釈迦如来像。山門。ここにも題目碑「南無妙法蓮華経 寶光山 本立寺」側面には「除厄日蓮大菩薩 開運大寶光天子 霊場」。「本立寺當山は宝光山と号し日蓮宗に所属する。本尊は日蓮聖人尊定の十界勧請の大曼荼羅で、創立は文禄元年(一五九ニ)、日栄上人に依て清水市興津に創立され爾来三百三十余年経過したが、大正十三年九月三日、日佛法尼、日顕上人に依て現在地に移転し寺号を継承して現在に至る。 左の年中行事を執行する 一月一、二、三日 年頭祝祷会 二月三日 節分星祭会 三月春彼岸最終日 春彼岸会 四月八日 釈尊降誕会 七月十七日 孟蘭盆会 九月秋彼岸最終日 秋彼岸会 十月十一日 宗祖報恩会式 毎月十七日 守護神縁日」「今月の聖語獅子王は百獣に怖じず日蓮聖人ご遺文 「聖人御難事」=怖れない心=「大丈夫! 自分が今までやってきたことを信じて頑張れ! みんながついてるぞ!」。物事に取り組む時、不安に駆られ、ひるんでしまった経験は、誰にでもあることでしょう。私にも学生時代、試合に臨む時にコーチにそう励まされておじけづいた自分の心を奮い立たせたことがありました。自分の力が信じられなくなったり、自分には味方がいないのだと思い込んでしまうと、人はどんどん弱気になってしまいます。でも人生には勇気を持って突き進んでいかなければならない場面がたくさんあります。そんな時は自分を信じてみましょう。不思議と目に見えない力が働くことがあります。不信感や孤独感に陥ることなく、百獣の王・ライオンのような、いざというときに怖れない心・ひるまない心を養っていきましょう。◎日蓮聖人ご遺文『聖人御難事』日蓮聖人が身延の地から遠く離れた弟子や信徒に対して送られたたくさんのお手紙のひとつです。人びとを思いやり、苦難に遭遇したときの気の持ち方が説かれています。弘安2年(1279)58歳」山門を潜り境内へ。狛狗(右)とその奥に寺務所狛狗(左)。本堂。近づいて。本堂の扉には「日蓮宗 宗紋 井桁に橘」。本堂の見ごたえある扁額「開運大寶光天子」。本堂・内陣。本堂を斜めから。本堂の「獅子鼻」も見事であった。正面に天水桶。こちらの天水桶には「五三の桐」紋。反対側の天水桶には「日蓮宗家紋」。本堂の壁には花頭窓。右手に「鐘楼」。梵鐘 南無妙法蓮華経 と。境内の右側に二体の仏像。釈迦像。「釋迦像造立之疏寶光院神通日佛法尼ハ神奈川縣高座郡有馬村字本郷鈴野佐右衛門ノ長女ナリ幼少ヨリ病弱ニシテ医薬手ヲ晝スト〇モ更ニ其効ナシ二十七歳偶々霊夢ニヨリ本化ノ教法ニ帰シ苦修練行遂ニ別頭ノ大利益ヲ稟ケ二十八ヶ年間ノ病魔平癒シ法身ヲ成就セリ・・・中略・・・ 昭和九年九月十七日」ズームして。「中興開祖 寶光院神通日佛尼」像。近づいて。「當山 昭和五年八月廿八日寶光院神通日佛尼開祖 開祖七十ニ歳之時」。像の傍の石碑には「當山開山 宝光院神通日仏法尼銅像建設 浄財喜捨芳名表」と。多くの方の名前と奉納金額が刻まれていた。寶光殿遍照廟。遍照廟とは永代供養墓らしい。内陣。本堂前の石像(右)。これまた見たことのないユニークな地蔵狛犬。50cm程度の石像、由来不明。本堂前の石仏(左)。これまた見たことのないユニークな地蔵狛犬。同上。そして「本立寺」を後にして、藤沢羽鳥線の「明治市民センター前」交差点を渡る。再び「辻堂駅」方向に戻る。道路の反対側には、今訪ねた「本立寺」の姿が見えた。参道、山門、本堂を見る。 ・・・つづく・・・
2023.12.28
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「河口湖もみじ回廊」の先にあったのが「一竹美術館」。染色工芸家久保田一竹の作品を集めた美術館。富士山の荘厳な景色を望む庭や茶房も併設。久保田一竹は、室町時代に途絶えてしまった着物の染色技法、「辻が花」の再現に成功した人物。彼は再現に成功した後にさらに研究を重ね、独自の染色技法である「一竹辻が花」を完成させた と。「美術館正門」に向かって進む。インドの古城で使われていた木彫りの扉を再利用した「美術館正門」であると。撮影場所を移動して。正面入り口の扉は古い時代のインドの城門を移築したもの と。扉は分厚く、表面には鉄の突起が埋めてある。侵入者を許さないという意思のデザインなのだ と。正門を囲い込む様にあったモニュメント。モニュメント越しに館内の紅葉を見る。正門前から振り返って。小高い場所には小さい滝の姿が。小滝をズームして。移動して。更にズーム。更に、更に。「茶房 一竹庵」案内板。龍門の滝を見ながら、お抹茶、上生菓子が楽しめると。床には琉球石灰岩(サンゴ等の堆積岩)を敷き詰め、壁はその石灰岩の粉を使用した沖縄漆喰を施し、温かみのある空間を創っている。久保田一竹がインド、アフリカ、東南アジアより集めたインテリアを配し、様々な文化が渾然一体となったその室内は、悠然とした空間を演出しているとのこと。正門を入る。右手に新館、左奥に本館が現れた。新館は、外壁に砕いたサンゴとわらを混ぜて発酵させた沖縄漆喰(しっくい)を使った斬新なデザインの建物。屋根の上には緑がおい茂っていて、自然と調和した独特な美しさが感じられるのであった。そしてなんとなくスペインのガウディの建築を思わせる建物であったが・・・。本館は樹齢千年を超すヒバの木を16本大黒柱として使い、伝統的な職人の技と現代的なログハウス工法を融合して造られたピラミッド型の建物。吹き抜け状の内部からは、複雑な構造の木組みがすべて見えるのだと。本館に近づいて。この円形のモニュメントは?今回は「久保田一竹美術館」内の鑑賞はパスして戻る。「一竹辻が花」の作品をネットから。そして再び「河口湖もみじ回廊」を楽しみながら引き返す。夜にライトアップされると(ネットより転載)。そして「河口湖もみじ祭り」会場本部の公園軽食ブース会場に向かう。メイン会場周辺案内。多くの観光客が英語、台湾語そして日本語で語り合いながら、軽食を楽しんでいた。我々も広島焼きを楽しんだのであった。そして富士山の姿も楽しむ。左側の「河口湖もみじ回廊」を振り返る。そして駐車場に戻り、再び美しい裾野の曲線美を有する富士山の姿を。富士山はその独特の美しさで知られ、その姿はまさに自然の造形美の極み。その裾野から頂上にかけての曲線美は、まるで大自然が織りなす完璧な美のシンフォニー。優美な曲線が富士山の麓から頂上まで広がり、その流れるような形はまるで大地の息づきを感じさせるのであった。日の光や季節の移り変わりによって、富士山の姿は時に神秘的でありながら、常にその完璧な曲線美を誇示しているのだ。その優雅な姿は、まるで自然界の至宝であり、一度目に焼き付けたら忘れられない魅力を持っている日本の象徴の山なのであった。そしてこの日の全ての予定を終え「河口湖もみじ回廊」を後にして帰路につく。助手席のIさんが、富士山を我がカメラで追いかけてくれました。そして箱根を経由して進む。Iさんを箱根湯本駅で別れ、西湘バイパス経由で帰路についたのであった。自宅近くから富士山をズームして。晩秋を赤や黄色に彩る紅葉は、愛でる私の心を魅了したのであった。諸説あるようだは「もみじ」という単語は、「揉み出づ」から生まれた動詞「もみづ」に由来するともいわれているのだ。平安時代にはベニバナなどから染料を揉み出す行為を「もみづ」と呼んでいたとも。この言葉から派生した名詞の「もみぢ」は、イロハモミジなどの植物を示すわけでなく、染料が染み出すように草木が色づくこと自体を表わしているのだと。一般的に植物のもみじはムクロジ科カエデ属の総称で、イロハモミジの他にもオオモミジやヤマモミジなど日本には多くの種類がある。そのため、紅葉が重層的な色彩美を持ち、特に美しいとされているのだ。日本の紅葉・黄葉は日本にしかない紅と黃のBEST-MIXなのである。四季の中でもこの秋は豊かな色の変化から情緒を感じさせる季節。昔の人々も紅葉した葉を見て秋の深まりを感じ、この時期にしか味わえない日本の自然に触れていたのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.12.27
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我がブログも、昨日8:40過ぎにアクセス回数が700万回を通過いたしました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。600万回通過(2022.10.18)から434日目になります。600万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。------------------------------------------------------------------------------------------------------そしてこの日の最後に訪ねたのが「紅葉まつり」が行われている「河口湖もみじ回廊」。河口湖湖畔の「KBH河口湖ボートハウス」近くの駐車場に車を駐め、散策開始。河口湖越しに富士山を見る。 山梨県南都留郡富士河口湖町河口。ズームして。そして手前にあった「山梨県道21号線・河口湖精進線」を渡ると右手に見えたのが「河口湖もみじ祭り」の会場本部。「第25回富士河口湖 紅葉まつり(2023年10月28日~11月23日)」開催中であった。メイン会場周辺案内。そして「もみじ回廊」に向かって進む。「もみじ回廊」河口湖を囲む山々の木々が美しい紅色に染まる秋の恒例イベント、富士河口湖紅葉まつり。メイン会場となる「もみじ回廊」は、梨川沿いに350m続く100本の巨木モミジが見事。また、夜はライトアップされた幻想的な紅葉と富士山の絶景を楽しむことができるとのこと。梨川沿いには、両側に散策路が設けられていた。梨川には水の流れはなく、役目を終えた落ち葉が一面に。写真撮影のスポットとして有名な「紅葉トンネル」。しばらくはキャプションなしで「もみじ回廊」をお楽しみ下さい。そして前方に「梁川橋」が見えて来た。河口湖にそそぐ梨川は大正時代に河川の氾濫を防ぐ目的で住民がモミジを植えたことに始まり、現在では2キロメートルを越える長さでもみじを楽しめる「もみじ回廊」として親しまれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.26
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「新倉山浅間公園 忠霊塔」にも多くの外国人観光客が。鉄筋コンクリート造で、1962年に完成した高さ19.5メートルの五重塔。戦争で死亡した市内出身者1055柱を合祀するために建てられた。毎年9月に戦没者慰霊祭が行われていると。「忠霊塔の由来Ⅰ 忠霊塔の概要 1 正式名称 富士吉田市戦没者慰霊塔(俗称:忠霊塔) 2 所在地 富士吉田市新倉3360番地の1 市立新倉山浅間公園内 3 構造等 ①鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建 大阪四天王寺の五重塔を模している ②大きさ 基礎部分7.3m四方 1階床面積4坪(13㎡) ③高さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m) ④総工費 9,368,884円 (工事費9,210,767円 事務費158,117円)忠霊塔建立の経緯富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)は、明治(1868年)以降の日本国として参戦した戦役(日清、日露、第一次世界大戦及び太平洋戦争)において戦没した市内出身者960余柱(現在1055柱)を合祀するため、市の援護会が中心となり、昭和33年8月12日に富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設けられた。委員会は、その建設資金を旧下吉田町在郷軍人林を恩賜林組合に売却した300万円を基礎資金として、その他不足する部分を広く市民の浄財に寄り、昭和34年4月起工し3年間の工事期間を経て昭和37年4月に完成し現在に至る。平成26年7月 富士吉田市慰霊塔奉賛会 富士吉田市遺族会」「新倉山浅間公園周辺案内図」。右手の「富士吉田市」市街を見下ろす。道志山塊の山々・杓子山(1598m)・高座山(1304m)の姿か。そして再び「新倉山浅間公園 忠霊塔」横から富士山を。ズームして。「この展望デッキは、全国の皆さまからいただいたふるさと納税寄附により整備されました。令和2年度「新倉山浅間公園の展望デッキを増設し、多くの皆さんに日本唯一の眺望を楽しんでもらいたい!」をテーマにふるさと納税クラウドファンディングを実施したところ、全国から8,652人という多くの皆さまのご賛同をいただくことができました。 令和4年2月富士吉田市」「展望デッキ」。「展望デッキ」から富士山を追う。『桜(紅葉)・雪の富士山・五重塔』という代表的な日本の象徴を一望できるということで、タイ?のSNSで広まり、あっと言う間に東南アジアに広まったようです。東南アジアでのSNS発信、拡大が十分理解できる「これぞ日本」の光景なのであった。「展望デッキ」を後にして「忠霊塔」横から。頂部の「相輪・九輪」を見る。古くは仏塔の最上部にある塔身の上の覆鉢(ふくばち)に立てられたもので、1~13の重層よりなるもの。日本では塔の最上部におかれる青銅または鉄製の尖塔で、一般に九輪(くりん)という。下記写真はネットから。下から露盤(ろばん)・ 伏鉢(ふくばち) ・ 平頭(へいとう)・請花(うけばな) ・檫管(さっかん)・九輪(くりん) ・相輪風鐸(そうりんふうたく)・水煙(すいえん)・ 竜舎(りゅうしゃ) ・宝珠(ほうじゅ)で構成されている。「殉國之塔昭和三十七年四月二十一日建立」と。展望デッキの東側の法面の下、市街地を見下ろせる場所にあったの「李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。富士吉田市で育ち、37歳の若さで亡くなった在日韓国人2世の芥川賞作家、李良枝 (イ・ヤンジ) さん(1955~92年)の功績を後世に伝えようと、李さんの小中高の同級生らが計画した文学碑が同市の新倉山浅間公園に完成し、2016年5月の命日の22日、除幕式が行われた と。碑の言葉は、同級生らでつくる実行委員会の会長で同町の「湖みずのホテル」女将おかみ・山下淳子さん(61)らが選び、李さんが芥川賞の受賞スピーチで話した「韓国語で愛はサランと言い、人はサラムと言う。そして人の生そのものをサルムと呼んでいる」との一節と、その中の「愛」「人」「生」という文字を刻んだ のだと。「富士吉田市出身 第百回芥川賞受賞作家 李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。 「新倉山浅間公園 忠霊塔」広場から再び富士山を。ズームして。そして再び、富士山、紅葉・黃葉をカメラで追いながら、398段の「さくや姫階段」を下る。「位置図緩やかな遊歩道あります」と。225段目から階段と坂道と遊歩道に分岐しているのであった。225は「フーフー!!ゴメン」であろうか??紅葉の赤はまるで炎のような輝きを放っているのであった。その色は深く濃厚で、まるで宝石のような鮮やかさが。陽光の中で輝く赤は、木々を一層豊かな色彩で飾り立て、まるで自然が織りなす華やかな絨毯のように。白い雪に覆われた富士山頂付近、まるで天に届きそうなほどの威厳を持ってそびえ立っていた。その頂上の純粋な白さが青空と調和し、神々しささえ感じさせるのであった。風がそよぐたびに葉っぱが揺れ、赤い輝きが光を反射して、まるで大地が燃えるような壮観な景色を作り出していた。その赤は季節の変わり目を告げるシンボルであり、見る人の心に深い感動を。いつまでも留まっていたい空間なのであった。そして大きなヒノキの木。「子育て神木」と。「富士吉田市指定天然記念物新倉富士浅間神社のヒノキ平成六年二月一日指定所在地 富士吉田市新倉三三五三番地所有者 富士浅間神社ヒノキは日本特産種で、用材として優れているため需要が多く、ズギとともに各地で植林されているが、一般的にスギと比べて成長は遅い。この木は地上2.5 mくらいから南北二幹に分岐しており、分岐部には幼いスギの木が着生していることから、いつ頃からかは定かではないが「子育て神木」と呼ばれるようになった。樹勢は旺盛で樹形も良好であり、市内のヒノキの代表的な巨樹である。大きさは次のとおり。 一 根元の周囲 5.05 m ニ 目通り幹囲 3.70 m 三 樹 高 25.5 m 四 枝 張 り 東4.6 m 西5.5 m 南6.7 m 北5.6 m 平成六年三月 富士吉田市教育委員会」「三國第一山 富士浅間神社雨屋殿改建記念碑 平成十四年十一月吉日建之」そして、順序が逆であったが「新倉富士浅間神社」を訪ねた。由緒人皇第四十二代文武天皇の御代慶雲三年(西暦七〇五年)九月九日、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られる。第五十一代平城天皇の御代大同二年(西暦八〇七年)富士山の大噴火があり八月二十二日当社に朝廷からの勅使が参向せられ、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より三国第一山の称号並びに天皇の御親筆なる大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)を奉納された。この破魔宝面は現在、富士吉田市の郷土資料館に展示されている。六十年に一度斎行される式年大祭「御更衣祭」は神社で一週間潔斎しながら神様の御召になる衣を織り御更衣する特殊な神事である。富士急行下吉田駅北方新倉山の中腹に鎮座し、緑の森に赤い鳥居が調和良く見える。階段を登ると左に手水舎、右に神楽殿、本殿は流造二間に二間半、拝殿は三間に七間の荘厳そのものである。神域は新倉山浅間公園として内外より親しまれ、多くの信仰を集めている。 赤い大鳥居と戦没者慰霊の五重塔「忠霊塔」は当地のシンボルとして眺望は随一である。 御祭神は・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) の三柱の神様。と「新倉富士浅間神社」のHPより。「三國第一山 新倉富士浅間神社」。「手水舎」。龍の吐水口。社殿正面から。神楽殿。社殿に近づいて。新倉富士浅間神社は約1,300年前、文武天皇の御代慶雲3年(705年)に富士北口郷の氏神様としてお祀りされた。大同2年(807年)には富士山の大噴火があり、当社に朝廷からの勅使(天皇からのお使い)が参向され、国土安泰富士山鎮火祭が執り行われた。そして時の天皇である平城天皇より「三国第一山」の称号と御親筆による大鳥居の勅額、金幣、破魔宝面を奉納された。扁額「三國第一山 富士浅間神社」。内陣を見る。内陣を正面から。社殿の見事な彫刻。屋根には鬼の面が見えた。迫力のある形相で魔除けの役割を担うのだと。御朱印 授与所。御朱印を頂きました。「新社務所造営 境内整備事業 御奉賛のお願い当社は、慶雲三年(七〇五年)に創建されたと伝えられ、永きにわたり地域の守り神として御鎮座されております。近年では、富士山と桜と五重塔を一望できる景観が現在、日本を象徴するものとして、国内外から多くの方にご参拝いただいております。現在、当社の社務所は歳月の経過と共に老朽化が進み破損、傾斜が日立ち危降な状態となっており、このまま使用することが困難な状況になっております事から、この度、新社務所の造営、境内整備を計画いたしました。つきましては、時節柄大変厳しい状況の中、恐縮ではございますが、何卒趣旨をご理解頂き、皆様の御奉賛を賜りますようお願い中し上げます。令和四年十ニ月古日 三國第一山 新倉富士浅間神社各位 記一、募財日標額 三千万円一、奉賛金額 一口 金 五千円一、御奉賛に対する待遇 一口以上 境内に芳名を掲示いたします。 ニロ以上 記念品を贈呈いたします ※記念品は事業完了後にお送りいたします。」上記の絵画。以下2枚はネットから。桜の時期には!!桜、富士山、五重塔、これぞ日本の春の姿。神楽殿の右奥にあった「忠魂碑」。見事な紅葉の神社であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.25
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そして次に訪ねたのが「新倉(あらくら)富士浅間神社」。「忍野八海」を後にして、カーナビに従い、富士急行線の踏切を通過し、右に左にと。ここ、新倉富士浅間神社は甲斐国八代郡荒倉郷(現在地:新倉地区)の氏神として705年に創建された神社。807年に富士山の大噴火があった際に、朝廷からの勅使による国土安泰を祈願する富士山鎮火祭が執行されたと伝わっており、その時、時の天皇である平城天皇より三国第一山の称号、並びに天皇の御親筆であり現在大鳥居にある勅額などが奉納されたとされている。この神社の魅力はなんといっても境内の美しい景色。富士山ビュースポットとしても人気で、真っ赤な鳥居から富士山と桜・紅葉が見える光景は思わず息を呑んでしまうほどの美しさ。神社から登った先にある新倉浅間公園にある忠霊塔(五重塔)と合わせて、写真映えするスポットとして国内外からの参拝客が後を絶たないのだと。他にも境内には「子育て神木」と言われる大樹や、美しい参道の石段など見どころ沢山。富士吉田の観光には外せないスポット と。山梨県富士吉田市浅間2丁目4−1。「新倉山浅間公園周辺案内図」係の方の案内で、臨時?駐車場に。そして散策開始。社号標石「三國第一山新倉富士淺間神社」新倉富士浅間神社は戦国時代、武田信玄の父・信虎が北条氏との戦にあたり境内地である新倉山に陣をとり当社で戦勝を祈願し勝利したことで刀を奉納されたといわれている。現在は災除け、家庭円満、安産、子育ての神として地域の人々をはじめ県外に渡って広く信仰を集めているとのこと。標石に近づいて。紅葉の下、「表参道」の石段を上って行った。両側にが桜の老木が。その先に紅葉・黄葉が。見事な紅に輝くモミジを追う。まるで燃えるように鮮やかで、風に舞うたびに優雅に揺れる姿は、季節の美しさを際立たせるのであった。その葉っぱの赤は、日の光を浴びるたびにさらに深まり、木々の中でまばゆい一部となる。その姿はまるで自然が描く最も美しい絵画の一部のようで、見る者を魅了し、心を和ませてくれるのであった。紅の輝きにズームして。鳥居の前の石段の途中には、多くの観光客の姿が。灯籠との和のコラボ。「両部鳥居(りょうぶとりい)」を見上げて。両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある とウィキペディア(Wikipedia)より。「境内配置図」。現在地は◯。ここにも見事な紅葉と黄葉のコラボが青空に映えて。そして「両部鳥居」手前から振り返ると。富士山の姿が真正面に。鳥居の扁額「三国第一山」。「三国第一山」とは三国(日本、中国、インド)において富士山は第一の山と言われがあるのだと。鳥居を潜って、鳥居越しに富士山を見る。ズームして。今年は富士山山頂の積雪が少ないのか?公園内広場には、富士吉田市による小型トラックによる「観光案内所」が開設されていた。鳥居の「笠木」越しに富士山の絶景を。正面に、富士山では最も新しい5合目近くの「宝永山の噴火口」の姿が。宝永山は、宝永4年の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693 m。この宝永の大噴火以降、現在に至るまで富士山は噴火していないため、この宝永山が富士山の最新の側火山になる。広場を移動して。横切るのは、中央高速道路・河口湖線。ズームして。さらにさらに富士山勇姿を移動しながら追う。そして「塩釜神社」。扁額「塩釜神社」。「社殿」。例祭・9月5日安産・子育て・子授けの神様 と。「塩釜神社」の手前右側には「句碑」が。「朴若葉 登(と)のみちからも 富士雲向」。くずし字の師匠に読み解いていただきました。若葉繁る初夏のこの場所からの富士山にかかる雲の動きを詠ったものであろうと。作者は?そして「咲くや姫階段」をさらに登って行った。「咲くや姫階段(398段)」。東南アジアの方々の姿が!!途中、階段の途中で一休みしなが、その都度振り返って。黄葉の石段トンネルを息を切らせながら登る。そして「愛宕(あたご)神社」。例祭・1月25日と7月第3土曜日火防様で火災・盗難除けの神 と。「火防の神 愛宕神社」。愛宕神社に祀(まつ)られている神様は火之迦(ひのか)具土(ぐつち)神(かみ)と申し、火を守る神様が祀られている。火は毎日の食べ物を煮炊(にた)きするため、灯りや暖をとるためなど生活に絶対必要なもの。また、一瞬に住宅が燃える悲惨な火事も火が原因。火は人の生活に必要であり、また、時には不幸な原因となる火を司る、火防の神が愛宕神社の神様である と。「謝恩 松井武君之碑」と。黄葉も負けじと。脇道の先では、結婚式の前?にウェディングフォトを撮る・「前撮り」?が行われていた。さらに「咲くや姫階段(398段)」を頑張って。こちらは紅葉のカオス。シンドくなるたびに、振り返って富士山の勇姿に励まされて。そして「咲くや姫階段(398段)」を制覇すると前方に現れたのが五重塔「新倉山浅間公園 忠霊塔」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.24
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翌朝11月22日(水)は5時に目が覚め温泉に向かう。そして7時からの朝食を楽しむ。そして9時になり、来年もこの保養所での再会を約束して、皆と別れる。私は、Iさんと河口湖周辺の紅葉を楽しんで帰ることとし、御殿場方面に我が愛車で向かう。途中、「乙女トンネル」を通過。「乙女トンネル」 日本道路公団所管の乙女道路の一部として造られ、昭和39年(1964年)10月開通。昭和59年(1984年)12月、料金徴収期間は30年の予定だったが、料金徴収を終了し無料開放された。トンネルの標高は810m、名称はトンネル上の乙女峠(標高1105m)に由来。そして「乙女トンネル」を通過すると、右手に富士山の勇姿が現れたので、「FUJIMI CAFE」入口に車を駐めた。静岡県御殿場市深沢1816。箱根外輪山の峠付近からの眺望は、富士山を正面に見据えることができ、眼下にはその裾野に抱かれた御殿場の市街を見下ろせるのであった。ズームして。さらに。今年は、例年より山頂付近の積雪量が少ないと感じたのであったが。そしてデジカメを、助手席のIさんに渡し、富士山の勇姿の撮影を依頼した。東名御殿場ICを通過し、国道138号を山中湖方面に進む。旅友が富士山を追う。東富士五湖道路を利用して進み、次の目的地の「忍野八海」に到着。天然記念物である「忍野八海」は、富士山の伏流水に水源を発する湧水池。富士信仰の古跡霊場や富士道者の禊ぎの場の歴史や伝説、 富士山域を背景とした風致の優れた水景を保有する「忍野八海」は、世界遺産富士山の構成資産の一部として認定されたのだ。山梨県南都留郡忍野村忍草。忍野八海周辺マップ。山梨県で絶滅危惧種に指定されている梅花藻(バイカモ)が忍野八海周辺の川で6月頃になると咲き始めるのだ。写真は御釜池から流れ出ている小川の梅花藻。多年生の沈水植物。葉は濃緑色で分裂し、流れに沿って1m以上に伸びていた。葉身は細かく裂け、糸状の裂片となり、水中で束になって生えている。これは、昔訪ねた時のバイカモの花の写真。そして前方に「水車小屋」。「涌池(わくいけ)」。「富士山世界文化遺産 構成資産番号:17 五番霊場 忍野八海 湧池」。忍野八海を代表する池で、珪藻土からなる水中洞窟からの湧水量は豊富で、セキショウモを揺らしています。昭和58年(1983年)この池の水がNASAのスペースシャトルチャレンジャー号に搭載され、宇宙で人工雪を作る実験に使用されました。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)により湧出したという伝説があります。『いまもなほわく 池に守神の すへ(ゑ)の世かけて かわ(は)らぬぞしる』天保14年(1843年)に元八湖再興時に作られた東圓寺の版木を基にした神歌の書き下しです。振り返って、「忍野八海」からの富士山の勇姿を。「池本茶屋」前を歩き「中池」を廻り込んで。忍野八海は、富士山を水源とする8つの池の総称で、国の天然記念物や、世界文化遺産である富士山の構成資産に8つの池がすべて各々認定されている。ただし、この「中池」は忍野八海には含まれないが、観光客が一番集まる中池。実はこの「中池」は人工池であるとのこと。旅館のテニスコートの後に作られた個人の所有する池だとのこと。ここから富士山を背景に写真を撮る人は多いのでは。中池越しに土産物屋「忍野八海池本」を見る。風情あふれる、茅葺き屋根が店の目印。 茅葺屋根の一軒家.。建物は富士山麓の木を使用して造られたと。「日本名水百選地」。中池越しに富士山を。この中池は敷地の奥にある「池本荘」という民宿が掘削した池だと。そして、この中池の側に水車小屋を作りそこの石臼で挽いた蕎麦を出したり、茶屋等も経営しているのだと。ズームして。さらに。場所を移動して。土産物屋には大粒の「シャインマスカット」が並んでいた。そして中池の中心近くにあるのが水深は10m以上の円形の池。なんと忍野八海8つのどの池よりも深いのだと。中池・円形の池を泳ぐこの黄金の魚は鯉ではなくてアルビノの鱒。陽光を受けてとても美しい姿が見られるのであった。周りに立っている人がしっかり映るくらいの透明度。晴れた日の青色のきれいさは言葉が出ない程!!黄金の魚はアルビノの鱒。白子症(アルビノ albinism)とは、からだの色素が生まれつき不足している状態 と。青色はコバルト鱒と。周囲の観光客の姿が水面に映り込んで。池底に映る魚の影。この池が人工池であることを、何人が知っていたのであろうか?そしてこの池への正面からの橋は閉ざされ、土産物屋内を通過しなければ辿り着けない「シカケ」になっていたのであった。なんと建物の下から水が絶え間なくしたたり落ちているのであった。これも人工のもの。吐水口から富士山からの湧水が。これぞコバルトブルー!!旅友とのツーショットを。水車小屋方向を見る。左手前の橋が閉鎖されている橋。近づいて。左手前が閉鎖されているのがわかるのであった。池底から生えている藻の姿を。右手にも水車の姿が。そして次に「濁池」。「富士山世界文化遺産 構成資産番号:18 六番霊場 忍野八海 濁池(にごりいけ)」。文化年間(1804年頃)には、その名の通り濁っていたといわれていますが、現在は透き通っており、隣接する阿原川とともに美しい景観を作り出しています。みすぼらしい行者が一杯の水を求めたが断られ、池の水が濁ってしまったという伝説があります。『ひれふらす 龍の都の あらましき くみてしれとや にごる池水」そして阿原川の水草を帰路にも再び追ったのであった。富士の伏流水、よって湧き出るまでに、数年間?自然のろ過装置を通過した清水。大きな魚も泳いでいた。いつもの事だが、飛び交うのは他国の言葉・中国系の顔の台湾語、英語、そして・・・・。国内の人の何倍の人が来ているのか、他国の言葉が賑やかを通り越して・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.23
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「長安寺」を後にしたが、まだ保養所のチェックイン時間には早いので、芦ノ湖の駅伝ゴール先の広場まで車で向かった。折しも「箱根海賊船」・「ロワイヤルⅡ」が「箱根町港」に到着直前であった。そして「箱根町港」に到着。2013年3月20日(水・祝)に就航。18世紀にフランスで建造され、フランス艦隊の旗艦として活躍した第一級戦艦ロワイヤル・ルイをモデルとし、船内外の装飾、船体後部の特徴的な回廊など往時の雰囲気が再現。総トン数 315t船の長さ 35.00m船の幅 10.00m定員 565名(うち特別船室111名)主機性能 423kW[575馬力(ps)]2基航海速力 10.5ノット(最大速カ11.8ノット)芦ノ湖湖尻湖畔方向を見る。ズームして。天気が良ければ・・・、ネットから。そして暫くすると、乗客を乗せて「ロワイヤルⅡ」が動き出した。元箱根港に向けて出航。芦ノ湖遊覧船「はこね丸」。定員 700名総トン数 265.00トン航海速力 11.0ノット全長/全巾 27.50m/11.60m箱根旅行で多くの人が訪れる風光明媚な湖、芦ノ湖。遊覧船で優雅にクルーズする人も多い。その芦ノ湖には、「芦ノ湖遊覧船」と「箱根海賊船」の2種類の観光船が運航しているのだ。ひとつはこの「芦ノ湖遊覧船」、2023年3月から富士急グループの箱根遊船(株)が運営。十国丸、あしのこ丸、この、はこね丸の全3隻。石碑「The statue of Paul Schmidt」。1896年(明治29年)スイスの精密機械や理化学、医科器具等の代理店としてドイツのパウル・シュミット(Paul Schmitt、1872年 - 1936年)が設立し、後に医薬品のメルクや、光学機械のエルンスト・ライツ(現ライカ)の輸入代理店となった。レントゲンを初めて日本に輸入したのもシュミット商会であると言われている。シュミットは1906年(明治39年)外国人としては初めて芦ノ湖湖畔に別荘を建て、跡地は箱根駅伝の往路ゴール地点脇の箱根駅伝ミュージアムとなっている。1936年、シュミットが出張先の上海にて客死、井上鍾が社長を引き継いだ。そして「箱根駅伝ミュージアム」。「館内」入口。「箱根駅伝ミュージアム」入館案内。「HAKONE EKIDEN MUSEUM」と。そして16時前に保養所に到着しチェックイン。部屋で一休みし、早速久しぶりの温泉でくつろぐ。そして18時からの夕食をこの日の参加者9名でアルコール片手にワイワイと楽しむ。この日の客は我々9名のみで貸切状態。前々日の19日に宿泊された先輩の旅友から、高級焼酎の差入があり、皆でご馳走になりました。この日の献立・お品書き。前菜。造り。サザエの壺焼き。(追加オーダー品)洋皿。チキン塩麹焼き。モチ豚キムチ鍋。部屋に戻る前に記念写真を。そして部屋に戻り、1部屋に9人集まり、持ち込みのアルコールでの2次会で大いに盛り上がったのであった。久しぶりの再会で、近況、体調、妻、孫の話と23時過ぎまで語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.22
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箱根・「長安寺」の散策を続ける。右手にあったのが「子守り地蔵堂」。柱の台座部分にいるのは 邪鬼でしょうか?邪鬼は 奈良東大寺などで 四天王に踏みつけられている姿や 興福寺で灯籠を頭に乗せている天燈鬼や天龍鬼の姿が知られている。柱を支えているこの子たちも邪鬼の仲間ではないかと思いますが 口を開けた子と閉じた子 もしかしたら阿吽の仁王像?こちらは阿形像(右)。こちらは吽形像(左)。棚には多くの小さな地蔵様が奉納されていた。「子守り地蔵」に近づいて。「地蔵菩薩真言オンオカカ ビサンマーエイ ソワカ」お地蔵様の御真言を唱えると、お地蔵様の大慈悲によって救済され、闇黒(地獄)に堕ちることは無い と。さらに山道を上って行った。五百羅漢も、それぞれが異なる表情やポーズを持つことが知られている。例えば、怒っているような厳しい表情や、微笑んでいる穏やかな表情、驚いているような目を大きく開けた表情、または瞑想しているかのような静かな表情など・・・・。彼らはさまざまな感情や状態を表現するために、手や顔、体のポーズを使っているのであった。優しい笑顔で!!紅葉・黄葉の中に五百羅漢がいたるところに。大きな口を横に延ばして。ウサギとともに。ひとつひとつ見ていくと、羅漢さん達は、各々自由な姿勢で佇んでいた。笑っているもの、顔をうずめているもの、怒っているものなど、喜怒哀楽を通り越して、ひとつひとつが表情が豊か、豊かすぎるのであった。祈る姿。ここにも。小さな門も。あどけない表情。「聞か猿」ではなく聞かざる!!山の木々は枝落とし等、手入れも行われているのであろう。「長安寺」の墓地を望む。墓地への手水舎であろうか。扁額「浄水」と。さらに紅葉を楽しみながら五百羅漢を巡ったのであった。悟りの顔のごとし。この羅漢さんも私の知人・〇〇さんに似ているのであった。顔面の苔も表情を穏やかにしていた。耳たぶの大きな羅漢さん。熊ではなく、馬に乗った金太郎の如くに。泣き叫ぶ赤子の如く。瞑想に耽って。こちらも知人に似て。豊川稲荷社。幟「豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」。吒枳尼天(だきにてん)の名前は、サンスクリット名「ダーキニー」の音に漢字をあてたもの。古代インドでは、人の肉や心臓を食べる夜叉(鬼神)であったが、大日如来が大黒天に姿を変えて説法し、仏教の善神になったと伝えられている。手摺のない、狭い「豊川稲荷社」の参道を見下ろす。その下には手摺のない急な石段が。慎重に一段一段下る。「豊川稲荷」の朱の鳥居を見上げて。ユーモアがあって、笑いがあって、苦しかったり、悲しかったり。羅漢さんたちの姿は、私たちそのもの!!。「いろんなことがあるから、人生っていいんでしょ。お互い頑張ろう!」といっているかの如くに。仲良く。僕、まいったなぁ!!大きな椀で酒を呑んでいるのか?まあまあまあ、落ち着いて!! と。お賽銭を頂いて。触れてみれば、人の体温を感じさせるのでは!! と。そして最後に「長安寺」の本堂のむかいにあった石仏を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.21
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「強羅公園」を後にし県道733号線・仙石原強羅停車場線を利用してポーラ美術館の前を通り県道75号線沿いにあった「そば処 穂し乃庵」に車を駐めた。駐車場前にあったのは「かながわの景勝50選 秋の仙石原高原」碑。足柄下郡箱根町仙石原817−88。「そば処 穂し乃庵」にて昼食を楽しむ。私は、かき揚げ蕎麦を楽しみましたが、写真を撮り忘れました。昼食後は「仙石原高原」の「仙石原すすき草原」の風景を楽しんだのであった。足柄下郡箱根町仙石原。仙石原といえば必ず訪れたいのが「仙石原すすき草原」。広大な土地に群生するすすきは、その迫力や神秘的な景色から「かながわの景観50選」や「かながわの花100選」にも選ばれているのだ。季節によって姿を変えるすすき。仙石原すすき草原は、例年9月から11月にかけて見頃を迎える。この時期になると穂が黄金色に色づき、キラキラと輝きを見せるのであった。初秋は緑とのコントラスト、晩秋はふわふわと咲き誇り、あたり一面絨毯を敷き詰めたような美しい景色が楽しめるのであった。遊歩道は約700メートルの一本道で、ススキに挟まれたゆるやかな坂道になっていた。上り坂なので、始点からは遊歩道と草原の先まで見渡せて、これぞ圧巻なのであった。「仙石原すすき草原」案内図。「台ヶ岳の麓に広がるすすき草原は「かながわの景勝50選」にも選ばれており、毎年行われる火入れにより草原環境を維持しています。箱根地域では、近年、急激にニホンジカが増え、採食による植生の衰退が深刻化しています。環境省では、関係機関と協力して、国立公園の豊かな自然環境を守るために様々な対策を実施しており、隣接する仙石原湿原にはニホンジカによる植生被害を防止するための柵を設置しています。」そして現在地はココ!!毎年3月中旬から下旬頃、仙石原すすき草原では山焼きが行われている。すすき草原はそのままにしておくと雑木が生えてしまうのだとか。一面焼き払うことで、広大なすすきの景観が守られているのだと。山焼きの写真をネットから。箱根屈指の景勝地「仙石原すすき草原」。台ケ岳の山麓の山麓にススキが生い茂っていて、その広さは約18ヘクタールに及ぶのだと。遊歩道から「仙石原すすき草原」を見る。再び約700メートルの一本道・遊歩道、そして右側の斜面のすすきの草原を望む。ズームして。「金時山」を見る。「金時山」は、箱根山の北西部に位置する標高1,212mの山。別名は猪鼻岳で頂上に猪鼻神社が祀られている。日本三百名山のひとつ。 山名の通り坂田金時(さかたのきんとき、幼名は金太郎)にまつわる伝説が残り、また富士山の展望に優れることで有名。山頂に建つ2軒の茶屋も、人気の一役を担っているのだ。そして県道75号線に戻り、「仙石原すすき草原」を見る。そして次に訪ねたのが、200 体を超える羅漢像が立つ歴史ある仏教寺院で、墓地と木々に囲まれた庭園があった「長安寺」。駐車場に車を駐め、山門への参道を歩く。足柄下郡箱根町仙石原82。参道は紅葉に囲まれて。左手には現代的な仏の姿?の像が。「不許葷酒入山門」と。「くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず」と。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。その先、左手に「手水舎」。「手水鉢」には「洗心」と。水は古来、清きものの象徴であった。また、時と同じように一瞬たりとも同じところに留まらないもの。洗うと言う漢字を分解しますと、水の先と書く。つまり水の先・奥にあるのものを観るための動作が洗うと言うこととも考えられる。洗うことにより、見えないものが観えるようになり、あるいは神の依り代となると言うことかも知れない。手を洗うことで神を観る力を得、口を洗うことで体内を浄化し、神を宿りやすくする。そしてその無垢な状態で、水底を覗き込むことで何かが観えてくるのでしょう と。手水舎に掲げられている見事な彫刻。参道の先、正面に「山門」。左手の池の小さな島の上には石祠・「弁天堂」が。「弁財天」と刻まれた石碑。池の名は「弁天池」。「弁天池」。その奥の池の中に2体の石仏が。池の水の中にも羅漢像が。ここにも。阿羅漢とは仏教において尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことで、阿羅漢が500人集まって五百羅漢と言う と。紅葉を粧った枝が弁天池の水面を覗き込むが如くに。掲示板には「一日生きることは 一歩進むことでありたい 湯川秀樹」。「山門」。「東国 花の寺 百ヶ寺」と。東国花の寺とは、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院の集まりの事で、現在は100か所以上が加盟していると。ここ「長安寺」はイワシャジンと呼ばれる9月下旬から10月中旬にかけて咲く花が有名らしい。扉に仁王様?のレリーフが。扉に仁王様のレリーフが。山門の右側にあった石碑「幸福な人 泣きたい人 詫たい人 悩んでいる人 困っている人 苦しんでいる人 願いのある人おまいりして仏さまに手を合わせてください長安寺」そして山門を潜り歩いて来た紅葉の参道を振り返る。ズームして。そして「本堂」。創建は1356年と言われ、福井の永平寺と横浜の總持寺を両山とする、曹洞宗の名刹。中興は機山労逸大和尚により行われ、昭和60年開始の五百羅漢像の建立は、今尚進行中 と。本堂は、建築は戦後に屋根や壁は改装されたが、それ以外は創建当時のものといわれている。山号 龍虎山宗旨 曹洞宗創建 延文3年 (1356年)本尊 釈迦如来中興年 万治元年 (1658年)中興 機山労逸正式名 龍虎山 長安寺扁額「龍虎山」。見事な盆栽、この木は老鴉柿(ろうやがき)。老鴉柿はカキノキ科カキノキ属の落葉~半落葉低木。雌雄異株。和名は「衝羽根柿」という名前で、盆栽界では姫柿とも呼ばれている。中国原産の小型の柿だが、交配をくり返す中で多くの品種が国内で生み出され、果実の色や形も多様。盆樹では小葉で節が細かく濃紅色の実が成る「楊貴妃」が有名ですが、「木守」「玉環」「紅乙女」など100を裕に超える品種が作出されている とネットから。山門を振り返って。考え込む、いや苦笑する五百羅漢の姿。この参道を進み、奥の裏山の林の斜面には五百羅漢が点在し、小京都のたたずまいが感じられたのであった。「歌碑」と「菅原道真公」・天神様の石像。『東風吹かば匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』樹の間に「薬師如来様」を表す梵字「ベイ」が。「上の文字は薬師如来様を表す梵字です。このコロナ禍の終息を願い病気を治してくださる薬師如来様にお頼みする為制作いたしました。御真言をお唱えしてください。御真言オンコロコロ センダリマトーギ ソワカ」👈リンク。「天神様由来石碑の文字は解読不能・・・」裏山の林の斜面に向かって進む。左手には紅葉に囲まれた鐘楼堂があった。梵鐘をズームして。さらに。「ようこそお参り下さいました」と石仏が。「五百羅漢」碑。五百羅漢とは、お釈迦様の弟子で、仏道修行して阿羅漢という人間として最高位を得た人のことをいい、その阿羅漢を五百人集めたのが五百羅漢である と。碑の上にも阿羅漢様が。そして裏山の斜面に点在する多くの五百羅漢をカメラで追ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.20
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フランス式庭園の箱根強羅公園には中央に「噴水広場・噴水池」があった。周りにはベンチが並んでいるので、休憩で腰を下ろす人が多くいた。噴水や噴水の周りの草花を眺めながら、ベンチに座ってのんびりと過ごす時間は癒しのひととき。噴水池の青と紅葉のコラボは絶景。噴水池の水面の波が陽光に輝いて煌めいていた。噴水池は巨岩に囲まれた場所も。噴水をズームして。移動してデジカメの設定を変えて見ましたが・・・・。坂の下に「一色堂茶廊(いっしきどうさろう)」。箱根強羅公園内、噴水横にあるサンドイッチ料理「一色堂茶廊」。天井の高い居心地の良い空間で「和牛ローストビーフサンド」「フルーツにんじんサンド」といった自然で良質な食材を使ったサンドイッチ料理を用意。コーヒーや紅茶、ソフトドリンクも、サンドイッチ料理にふさわしい、グレードの高いもの と。反対側にあったレンガ造りの建物が「トンボ玉工作室」。色ガラスをバーナーで溶かして、様々な色彩や模様のアクセサリーに仕上げるとんぼ玉制作。2つとして同じものができないオリジナル作品を手軽に楽しむことが出来る場所と。工作室内。ネットから。「強羅遊園開拓之碑」。「強羅遊園開拓の碑強羅公園は、大正三年(一九一四)び開園された、日本ではただひとつのフランス式整型庭園です。強躍公園着工当時、この地には人家も無く、荒凉として石ばかりの風景でした。そのような場所が、別荘地・温泉他として開発されるに到った状況を、この碑文は書きとどめています。建碑者は宮ノ下温泉の旅館主、沢田鋓義で、彼はこの碑の他、箱根各地の各所や旧跡に碑を残してその顕彰につとめました。 箱根強羅公園 園長」バラ園と紅葉のコラボを楽しむ。バラのピークは既に終わっていたが。箱根強羅公園の「シンボルツリー」が右側に。真紅の薔薇の花。純白の薔薇の花。再び紅・黃葉をカメラで追いかける。「箱根クラフトハウス」1階が陶芸教室とガラスの工房、2階がドライフラワーの工房になっているが、その隣で展示されているのがクラフトハウスの講師として活躍するアーティストたちの作品。器、アクセサリー、お香立、オブジェなどのクラフト関連商品が多数展示即売されており、土産としてだけでなく作品づくりのちょっとしたアイデアとしても注目を集めているとのこと。そして正門への帰路へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.19
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「岡田美術館」を後にして、車で5分強の場所にあった「箱根強羅公園」に到着。正門から入園する。神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300。550円で入園券を購入して。「強羅公園」配置案内図。「強羅公園」は、正門は標高約574m、西門は標高約611mという傾斜になっている。季節を通して様々な花が咲く園内には、様々な施設があるのだ。冬でも暖かい熱帯植物館や、歴史ある茶室、カフェ、工芸体験クラフトハウスなど、 1日中楽しむことができる園内 と。まずは「熱帯植物館」に向かって坂を上る。「ヒメツルソバ」の花であっただろうか?見事な紅葉が青空に映えて。青空を背景に紅葉が輝く。「山粧う(やまよそう)」いや「園粧う」。そして「熱帯植物館」を訪ねた。フィリピン原産の常緑小低木。樹の高さは2m前後で分枝が多いで魂濃緑色の大きな蕓をもち、枝先から房状に大きな花を下垂して咲かせていた。色鮮やかな花と独特の姿が南国情緒たっぷり。咲き始めたものをズームして。名前は「熱帯ノボタンメディニラ東南アジア、熱帯アフリカ、太平洋諸島に150種類以上分布する低温にも耐えるが、生育するには、10℃以上の温度が必要です。」と。バナナに似た木であるが。スラッと高く伸びて。「芭蕉」であっただろうか?こちらは「ピンポンノキ」と。「ピンポンノキピンポンのような実がなるので「ピンポンノキ」じゃないよ中国の言葉で「ピンボーノキ」、それがなまって「ピンポンノキ」になったんだ。にてるでしよう?タネを焼けば甘い「栗」のような味がするので「栗子(くりこ)」ともいうよ。白ガラス細工のようなきれいなオハナが咲くよ。」とネットから。花の写真もネットから。こちらが「バナナの木」。太く短いバナナが。「熱帯植物館」内にも小さな滝が設置されていた。「熱帯植物館」内の湿度を上げているのであろうか。赤いツヤのあるハート型の花がユニークな「アンスリウム」。食中植物・ウツボカズラ(ネペンテス?)「アナナス多年草で、果実以外はアナナスと呼ぶこともあります。和名は「鳳梨(ほうり)」」といいます。苗を植えて2年目以降の充実した株に実をつけ、花は紫色の花がまとまって咲きます。このパイナップルは、観賞用で食べられません。花言葉:あなたは完璧 完全無欠」。アナナスの実。この大木は?「強羅公園 標高590M」と。こちらは白の「エンジェルズトランペット」か。「キダチチョウセンアサガオ」とも言うと。朝顔のようなラッパ状の白花を咲かせるチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)の一品種 と。「ブーゲンビリア」。近づいて。ピンクの花も。「ハイビスカス」。「企画展関東大震災と箱根箱根町立郷土資料館令和5.10.14(土)~12.10(日)」「ちびゴジラデジタルパズルラリー!in箱根」。ストレリッチア(極楽鳥花)ストレリッチア(極楽鳥花)は、極楽鳥が羽ばたいているような姿をイメージさせる植物。その花姿はとても鮮やかでエキゾチックな魅力。そして噴水。そして屋外に。「白雲洞茶苑入口」。「「白雲洞茶苑」は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。」と。「鈍翁・三渓・耳庵の遺席登録有形文化財「白雲洞茶苑」ご案内ここに保存される三棟の茶席は大正時代のはじめ鈍翁・益田孝によって創始され、ついで三溪・原富太郎、耳庵・松永安左ヱ門と近代の三代茶人と称される人々に継承されてきたものです。益田鈍翁による開席当時、ここには不染庵、白雲洞の二席が営まれ、これに寄付と白鹿湯が附属していました。これらは一代の数寄屋師とうたわれた仰木魯堂の設計と言われています。大正11年原三溪に伝えられ、新たに対字斎一棟が増築されました。ついで昭和15年松永耳庵に受け継がれました。耳庵自筆の「白雲洞の主人となるの記」によって知られます。耳庵没後次第に荒廃していましたところ、当社に移譲されより全面的に補修の手を加え昭和57年5月に旧観に復しました。全苑の構成には山中の岩かげに建つ山家の趣が深く、岩上に根を占める巨桜の下に軒を低く佇むのは不染庵です。また囲炉裏に自在釣を掛け粗朶で瀗縁のある田舎家の席は白雲洞です。茶道界に鈍翁創案の田舎家の茶席はあまりにも著名ですが、現在その多くは失われここ白雲洞は唯一の遺構としてかけがえもなく珍重されています。益田鈍翁、原三溪、松永耳庵という偉大な茶人であり、明治・大正・昭和の日本経済に大きな役割を果たした稀代の経済人たちが遺した「白雲洞茶苑」は近代数寄の茶道の風雅を偲ぶ茶室群です。 箱根登山鉄道」。紅葉に囲まれた「白雲洞茶苑」を望む。茶苑は比較的高いところに建てられ、白雲洞、不染庵、対字斋、白鹿湯から四つの席から構成されていると。そして巨岩の間に点在していた。これぞ日本の秋!!ここも!!こちらは「白雲洞茶苑」の裏口門であっただろうか。「パンパスグラス」か? パンパスグラスは、『しろがねよし(白銀葭)』や『しろすすき(白薄)』とも呼ばれている。周囲に「和の植物」があると和風映えし、和風料理店や日本家屋、旅館の庭にもよく映えるのだ。穂が強風?で倒れてしまっていたが。この一面に黄葉した樹の名は?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.18
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