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この日は5月25日(木)、NHKテレビニュースで「大船フラワーセンター・日本の自生アジサイ展」が開催されていることを知り、急遽愛車で向かった。入場料150円(シルバー割引)を払い、園内に入る。「日本の自生アジサイ展」会場に向かうまで園内の花々を楽しみながら進む。「園内」には保育園の子供達が母親と一緒に来園していた。園内入口の石の「モニュメント」。そして「スイレン池」を訪ねた。白のスイレン(睡蓮)が可憐に開花中であった。この「睡蓮」ですが、決して「水蓮」ではないのです。この「睡蓮」にもちゃんと名前の由来があって、花は開いて閉じてを3回繰り返すのだと。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)、夜(閉じる=眠る)というところから「睡眠する蓮」→「睡蓮」なのだと。なるほど納得なのだが、「蓮」も開いて閉じては同じはず。そして、「蓮」の文字は艹(くさかんむり)に連続の連。「つらなる」を意味する「連」と「艹(くさかんむり)」を組み合わせて、「連なった実をつける植物」を表現している。はす。はちす。スイレン科の多年性水生植物。「艸+音符連レン(つらなる)」。株がつらなって生えることからいう。純白の睡蓮が仲良く寄り添って。「スイレン池」の先には大きな野鳥が羽を休めていた。「アオサギ」であっただろうか。ペリカン目サギ科背中が灰色で、国内では最も大きなサギ。全長:93cm九州以北での林で集団繁殖し、各地の水辺で見られる。北日本では、秋冬に暖地に移動するものが多い。正面からは白く見えるが、横、後ろからは灰色に見える。成鳥では首が白く、頭に黒い冠羽があるが、若鳥では首や冠羽の色が淡い。立ったまま翼を半開きにして、日光浴をする。アオサギは漢字では「青鷺」あるいは「蒼鷺」です。体の羽の色はほとんど「灰色」なのになぜ「青・鷺」なのか不思議でした。理由は日本人の「色認識の基層」にあるようです。三浦佑之氏の「日本神話と色彩」によれば、古代日本人が認識した色の基層は赤、白、青、黒の4色で、「古代日本語の『青』は、青垣 ・ 青山 ・ 青葉などグリーン系統、青波 ・ 青雲などブルー系統のほか、青幣帛などグレー系統も表す幅広い色概念をもつ語である」とのことです。古代、日本人にとって青色は「緑〜灰色」までの概念だったようです。「青」と「緑」の区別が付けられ始めたのは平安時代末期から鎌倉時代のようです。アオサギと言う呼び名は,奈良時代にはすでに使われていたようですから、古代人にとって「青鷺」はごく自然な呼び名だったと思われます。奈良の都の「あをに(青丹)によし」の青丹色はややくすんだ「緑色」です と。花時計。さらに「スイレン池」をカメラで追う。ピンクのスイレンは外の鉢に。近づいて。「スイレン池」の前の遊歩道横に咲いていたのが「タチアオイ」。空に向かって元気に伸びていた。様々な色の「タチアオイ」。「ピンク」。「赤」。「オレンジ」。「紫つゆ草」であっただろうか。そして花の上には緑の昆虫の姿が。「バッタ」の幼虫?「紫つゆ草」👈リンク の花に近づいて。「クサフジ」?の花に似ていたが。そして「アジサイ(紫陽花)」。「カシワバアジサイ」。紫の「アジサイ」。この周辺は、紫の花々が寄り添っていた。白と緑のストライプのススキの園芸種であろうか。さらに園内の遊歩道を進む。「ドクダミ」の花。ムサシアブミの葉。果実は緑色の期間が長く、春の終わりに緑色の果実がつき、秋の終わりまで緑色で、冬になると朱色になる。「ムサシアブミ(武蔵鐙)」と。 ・・・つづく・・・
2023.06.06
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しばらく散策記・旅行記を継続して、この我がブログにアップして来ましたが、今日は「我が趣味の菜園」の現状を紹介させていただきます。まずは我が「趣味の養蜂場」の菜園状況です。これは「枝豆」、最初に種蒔きし定植したものは既に実を付けています。6月中旬から順次収穫が可能となります。そしてこちらは「ズッキーニ」。「ズッキーニ」は既に花も咲き、収穫時期も間近です。そして我が菜園からの富士山の姿です。ズームして。さらに山頂を。こちらは「ニンジン」。さらなる「おろ抜き」が必要です。形が良くおいしいニンジンを作るため、多めに種を巻き、ある程度葉っぱが伸びてきたら良く育っているほうを残して葉を間引くのです。 この「間引いたばかりの新鮮な葉=おろ抜き」は「ニンジン」の場合は、油で炒めると美味しいのです。こちらは「長ネギ」の苗。順調に成長しています。そろそろ、1回目の定植が必要な時期になっています。こちらは「コキア」の苗です。「コキア」は別名ホウキギ・ホウキソウ・箒草・箒木などと呼ばれる雌雄同株の一年草で、ふんわりとした草姿がユニークでかわいらしい非常によく増える植物です。昨年の種が自然に発芽して来ています。「コキア」は最初は緑色の樹形ですが、秋になると紅葉しとても鮮やかで美しい赤に変化します。茨城県の国営ひたち海浜公園では、広大な敷地にコキアを植え付け、夏から秋の観光名所となっています。1株でもかわいらしく、美しいコキアですが、広い敷地に群生させたコキアは圧巻の光景です。こちらには花・「アスター」を植え付けています。「スイカ」も花を付け始めました。未だ、葉が小さいですが、一雨降れば成長が早くなると思われます。今年は「デンスケスイカ」を種蒔きし、育てています。こちらは「カボチャ」。既に、野球ボールほどの実が数個付いています。「カボチャ」の花も次々と。そして「キャベツ」。10cmほどの大きさに丸まって来ています。あまり消毒したくないのですが、露地栽培では無農薬では難しいのが現状です。西洋ミツバチの巣箱の後ろには、ヒマワリを植え付けています。西洋ミツバチはヒマワリの花粉が好物なのです。こちらは「南京豆」。雉(キジ)、カラス、野鳩対策にネットで覆っています。「南京豆」も大部葉の数が多くなって来ました。こちらは「里芋」の新芽。今年も3種類の里芋を育てています。そして養蜂の巣箱。今年は3群からスタートしましたが、人工分蜂にて現在6群となっています。元気に働き蜂が出入りしています。現在2階建て、蜜も集まって来ています。そしてミツバチが花粉が好きな「金糸梅」の花。そして、「ゴーヤ」も定植しました。「大根」。「ジャガイモ」もそろそろ収穫の時期です。こちらは「赤ジャガイモ」。「インゲン」も収穫できるようになりました。「トウモロコシ」。花も咲き出しました。そして自宅横の菜園です。「キュウリ」。大きく成長して来ました。既に5本ほど収穫しました。そして「トマト」。「トマト」の花も次々と咲き始めています。6月の第2週には収穫可能か?こちらは「ナス」。「ナス」も花を付け始めました。3本仕立てにします。「ピーマン」。そろそろ脇芽欠きが必要です。こちらにもインゲンの余った苗を植え付けました。「アスパラガス」もそろそろ定植が可能です。2箱、種蒔きしました。「イチゴ」は収穫を終了しました。ネットの撤去、来年用の苗の育成が必要です。別の場所の「そら豆」は今(5月25日)が収穫の盛りです。毎日、ビールのつまみで楽しんでいます。 ・・・END・・・
2023.06.05
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砂の道「トンボロ」まで戻る。時間は干潮時間の11:33から約1時間後の12:25。既に両側からの波は、砂の道「トンボロ」までを超え始め、砂の道の中央付近は濡れ始めていた。両側からの波が重なりあった砂の道「トンボロ」を歩く人々。腰越方向からの波は砂の道「トンボロ」を超えて。「片瀬東浜」も満潮で乾燥した砂浜が狭くなって来た。ズームして。更にズームして。江の島側の砂の道「トンボロ」にはまだ波が迫る状況ではなかった。一番狭かった砂の道「トンボロ」は消え始めていた。「♫海が出会うのよ!! 道が消えるのよ!!浜と浜とが 分かれるの!!♫」「S字」状の砂の道「トンボロ」三浦半島方向を。両側からの波が出会っては分かれて。両側からの波の道を。ズームして。江の島大橋側からの波の先端。消えかけた砂の道「トンボロ」を懸命に渡るご夫婦。私も逆方向に渡り途中から振り返る。更に消えかけている砂の道「トンボロ」を進む。砂紋に近づいて。消えかかった砂の道「トンボロ」を渡り終わって振り返る。歩いて来た砂の道には波の先端が押し寄せて。ズームして。江の島を見る。砂の道「トンボロ」も消えかかり。そして「片瀬東浜」の乾いた砂浜に向かう。砂の道「トンボロ」の全体を振り返る。国道134号方向を見る。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」が左前方に。「片瀬東浜」に砂の山が。ここにも。何処かに持ち出すのであろうか?小田急線・片瀬江ノ島駅に向かう。「弁天橋」から「龍口寺」の「御仏舎利塔」を見る。そして小田急線・片瀬江ノ島駅に到着し帰路についたのであった。そしてこのブログを書きながら、北海道の函館も陸繋砂州(トンボロ)の上に発達した街であることを思い出したのであった。「函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、「トンボロ」、日本語では「陸繋砂州(りくけいさす)」と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることを「トンボロ現象」といいます。」と再び。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.04
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再び「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」をズームして。海上にはヨットが優雅に。英語では、帆走ヨット (sailing yacht)、あるいは単に帆船 (sailboat) と呼ぶことが多い。ただし、これらの船艇を使ったレースは yacht race と呼ばれる。ヨットでの航海やヨット競技のことをセーリング(sailing)ともいう。これはヨットがセール(sail:帆)を使って進むからである。「江の島表磯」を見る。「江の島表磯」の入口にあるここ「釜の口」は、駐車場から表磯に降りるスロープの下にある開けたポイント。クロダイが釣れるポイントであるようだ。岩場には多くの釣り人・磯遊びの方々の姿が。干潮直後の為に「江の島表磯」は広く拡がっていた。「江の島表磯」は下記の写真の場所と。江の島の島の名前、岩場の名前をネットから。白き波頭の近くに釣り人の姿も。そして、湘南港防波護岸の西側先端には、「江の島表磯」に降りる仮設階段が設置されていた。「江の島表磯」に降り、江の島の西側の巨大な岩肌を見る。この目前に広がる平べったい大きな磯が「釜の口」。外洋に向かって釣り竿を出す方の姿を。青から白への瞬きの瞬間。そして再び青のウネリに。白き波頭をカメラで追う。これぞ「白波」!!。そして、「江の島表磯」を後にすると左側には白きモニュメントが。「タイトル:自由の翼 作者:熊坂兌子👈リンク作品解説:この彫刻は1982年に完成した神奈川県婦人総合センター(当時)に設置されていたもので、施設の老朽化による解体に伴い、2017年に現在の場所に移設されたものです。「女性よ、元気よく立ち上がれ」との願いを込め、さんさんと輝く湘南の太陽を浴びた女性が、翼を広げて力強く大地に立つ姿を表しています。」江の島の上部の地域へポンプアップする水道配管。そして「聖天島公園」内にあった「聖天島」とその手前に「聖天上人像社(聖天神社)」もともとこの地は江の島の海に浮ぶ聖天島という島であった。かつては磯で、二つの岩があり、その形が歓喜天に似ていたところから、その別称である聖天にちなんで聖天島と呼ばれた。関東大震災により海底が隆起して地続きとなり、東京オリンピックで湘南港が造られた際に海が埋め立てられて現在の形となった。現在も岩肌の上部が残っており、当時の島の様子がうかがえる。その昔、八坂神社の江の島天王祭の際に禊が行われる神聖な場所でもあったため、公園内には社があり、鎌倉時代の僧・良真上人の像が安置されている と。近づいて。「聖天島と聖天上人僧良真は元久元年二月宋に渡り、慶仁禅師に参じて受法聞かずして、日本に霊地江の島ありと知る禅師より、そこに社壇を開くべしと教えられ帰朝する。後に、江の島東岸の巌窟に籠り、一千余日の間修行を重ねた良真が、建仁二年(1202年)七月、窟内に紫雲香気満ちて、天女が壇上に現れ給うを見る。以来、此処を聖天島と謂う。更に、時の将軍源実朝の帰依僧となる良真は、実朝の懇志を受け「下の宮」現在の江の島神社辺津宮を創建す。建久元年(1206年)「江の島縁起」に依る聖天島 島の東岸にあり、天女影向の古跡を言う。窟内に良真上人の像を安す。(天保12年(1804年)新編相模風土記)爾来、慈悲上人良真に依り、ここ江の島東岸一帯の地霊は守護されるとして、島人は聖天上人と仰ぎ、崇敬を集めて現在に至ります。」「聖天上人・良真上人の像」。辺津宮の開山堂には良真の木像が納められていたが、開山堂が壊されてからはここ聖天島の祠に安置されているのだと。「聖天堂」の脇にあった「龍宮神」と「道祖神」の祠。朱の鳥居の奥に「龍宮神」。「龍宮神」と。その隣に「道祖神」。「道祖神」。「江の島まちづくり憲章」と「江の島名勝図」案内図。「江の島まちづくり憲章1、前文江の島はの海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的な地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たせねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S. 63.4.7江の島一丁目ニ丁目住民一同]」「江の島名勝図」。「現在地」はここ。左手にあったのが江の島の海鮮料理店「島童子(しまわらし)」。美味そうな海鮮丼であったがグッ!!と我慢。数々の海鮮丼。その先にあったのが「江島神社」の「車 お祓い所」。江の島神社の社務所は坂の上なので、専用の「車お祓い所」がここ。「江島神社」。「拝殿」に近づいて。紫陽花(アジサイ)が見事な色で。そして「磯料理」屋の店頭には様々な貝類が。「伊勢海老」。巨大な「栄螺(サザエ)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.03
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「砂の道「トンボロ」」を楽しんだ後は、潮が満ちて「砂の道「トンボロ」」が消えて行く姿を見るまで「江の島ヨットハーバー」周辺の散策に向かう。道路沿いには「シーフード・海鮮料理店」が並ぶ。「江の島ヨットハーバー」に向かって進む。奥に進んで行くと、人の数も少なくなって来た。湘南海岸から相模湾の北東に突き出た陸とつながる島「江の島」にある「江の島ヨットハーバー」は、1964年東京オリンピックのヨット競技場として建てられた。以来、さまざまなヨットレースが開催され、日本における公共ヨットハーバーの草分けとしてヨット活動の普及に貢献してきた。最近では「東京2020オリンピック競技大会」のセーリング競技会場として記憶に残るレースが繰り広げられたのであった。湘南なぎさパーク ヨットハウスにある「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」をゲートの隙間から。店舗面積は40.72平方メートル。店内12席、テラス44席をそろえる。県施設「湘南港」の管理事務所1階に位置し、店舗内はカウンター正面の客席に加えて、店舗前庭が同店専用のテラス席になっている。白と青を基調にした店内は、壁面のうち2面をガラス張りに。サインやディスプレー装飾は「アドリア海のイメージに仕上げた」という。江の島「中津宮」手前にある「展望台広場ウッドデッキ」と「中津宮」への石段が見えた。「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」を道路側から。この地で開催されたオリンピック競技の説明ボード。「第18回 オリンピック競技大会(1964/東京)昭和39年10月10日(土) ~ 10月24日(土)■ヨット会場:江ノ島ヨットハーバー日程:昭和39年10月13日(火)~15日(木)、19日(月)~21日(水)大会の様子ヨット競技は40の国と地域から328名が参加し、レースでは、各選手とも相模湾特有の変わりやすい風をつかむのに悪戦苦闘のレースを展開した。大会期間中は、海上自衛隊等の協力により、円滑な運営ができた。また、競技ではヨットの盛んなヨーロッパ勢やアメリカが上位を占めた。■レースエリア相模湾の3海面において、フィン級、フライングダッチマン級、スター級、ドラゴン級、5.5m級の各レースが開催された。A海面は黄色のブイ及び発煙筒を使用したため、別名黄海面と呼び、B海面は赤海面、c海面は青海面と呼ばれた。第32回 オリンピック競技大会(2020/東京)令和3年7月23日(金) ~ 8月8日(日)■セーリング会場:江ノ島ヨットハーバー日程:昭和3年7月25日(火)~8月4日(水)。■大会の様子セーリング競技は65の国と地域から350名が参加した。世界的に蔓延した新型コロナウイルス感染症の影響により、大会が一年延期され、更に無観客での開催となったが、江の島・富士山を背景に熱い競技が繰り広げられた。日本勢は、470級で男女ともに入賞する健聞を見せた。■レースエリア相模湾の6海面において、10種目のレースが開催され、各海面は藤沢・鎌倉・逗子・葉山といった地名が名付けられた。レースの半数以上は、海岸に近い海面( Enoshima・Kamakura)で行われ、メダルレースは全て、江の島に近いEnoshima海面で実施された。「ヨット」とは、遊びに用いる快速艇(動力源がエンジンか帆かは問わない)のことを意味しており、アメリカズ・カップ(ヨット界最大の国際レース)で使用されているような大型の艇はまさに「セーリング・ヨット」の一つの例である。そして、1人乗り、2人乗りのディンギー(小型のボート)は正しくは「セーリング・ディンギー」といい、ヨットとは区別されていたが、一般的にはこれらも「ヨット」と称されている。しかし、オリンピック競技にウィンドサーフィンが導入(1984)されてからは、帆を使用して行うスポーツをすべて「セーリング・スポーツ」と称するようになった。またオリンピック、国民体育大会等の競技名も、かつては「ヨット競技」という言い方をしていたが、現在では「セーリング競技」という名称に変更している。これにあわせる形で、ヨット競技を統括している国際組織も、1996年にその名称を「国際ヨット競技連合」(International Yacht Racing Union:IYRU)から「国際セーリング連盟」(International Sailing Federation:ISAF)へと変更。さらに2015年、ISAFから現在の「ワールドセーリング」へと、再度その名称を変更した。そして「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」。この場所は依然として名称は「湘南ヨットハーバー」となっているのであった。三種類の旗が。右から「日の丸」、「神奈川県旗」そして、カモメが描かれた「神奈川県鳥旗」。「神奈川県鳥旗」は「シンボルカラー旗」とも呼ばれているようだ。1978年(昭和53年)に県のイメージカラー「かながわブルー」を制定したことを記念し、「シンボルカラー旗」を制定した。制定当初のデザインは青地に県鳥のカモメを白抜きでカントンとして配置し、その下にローマ字で「KANAGAWA」と県名を表記したものであった。現行の旗は1992年(平成4年)に改訂されたもので、旧デザインよりも地色の青を暗くしてカモメを中央に大きく配置し「KANAGAWA」を右下に斜体で表記するようになっている と。「湘南港・港湾管理事務所」内に入る。「湘南海岸 鳥瞰図」。「湘南海岸 鳥瞰図」をズームして。「江の島 鳥瞰図」。入ってすぐ左にはショップ・「マリンショップ 1964 」があって、オリンピックグッズなども販売されていた。「江ノ島」周辺の立体模型地図。セーリング開催レース大会 案内板。「第4回 LOVE OCEAN 5/13~6/18」ポスター。~海のためにできること、海を愛する人たちと一緒に!~「海(相模湾)から見れば市町の境界線がなく一つのランドスケープ」との想いのもと、海を愛する人たちと手を携えて、美しく豊かな海を守り、“人と人”をつなぐ海洋環境イベント『第4回LOVE OCEAN』を開催。今回は、13市町13海岸の陸上で行うビーチクリーンだけでなく、海上に浮かぶゴミ拾いにも挑戦。ヨットレースや釣り大会、海岸線を楽しむスポーツイベントも同時開催を予定している と。「リビエラ湘南ビーチクリーン」スケジュール表。4日間を通じて、神奈川県全域13市町13海岸(三浦・横須賀・葉山・逗子・鎌倉・藤沢・茅ヶ崎・平塚・大磯・二宮・小田原・真鶴・湯河原)のビーチクリーンを実施する と。前方に大型駐車場そしてその先に江ノ島の南側の絶壁を見る。再び3種類の旗を見上げて。道路脇に停車していた大型バイク。ハーレイダビットソン(HARLEY-DAVIDSON)。「ヨットハーバー」案内板。現在地はここ。県立かながわ女性センターは昭和57年(1982)に「婦人総合センター」として開館し、平成3年(1991)に「かながわ女性センター」に名称変更。 「女性の自立と男女のあらゆる分野への参画を促進し、もって男女共同参画社会の実現に寄与するための施設」であった。2015年3月末に閉鎖され、建物も解体撤去され現在は大型バス駐車場になっていた。「湘南港駐車場」入口。「湘南港駐車場」。「江ノ島 湘南 大堤防」下の駐車場。石段を上り、「江ノ島 湘南 大堤防」上に。「江ノ島 湘南 大堤防」の先端にあったのが「湘南港灯台」。江の島の東端、湘南港防波護岸外端に建つ灯台が、湘南港灯台。湘南港(江ノ島ヨットハーバー)は昭和39年8月18日、東京オリンピックのヨット競技場として整備された港湾で、湘南港灯台も湘南港とともに土木学会選奨土木遺産に選定されている。湘南港防波護岸には休憩用のベンチも設置され、江の島のご来光スポットにもなっているのだ。湘南港灯台は、江ノ島ヨットハーバーの灯台(東京オリンピックヨットレース会場のシンボル的デザイン)ということで、ヨットの帆をイメージして造られたデザイン灯台。塔高18m、平均海面から灯火までの灯火標高19m、光達距離8.5海里(15.74km)。この岩の島は、「離鵜島」。この島の名は「広鵜島」か。「江の島セーリングセンター」。「横須賀海上保安部 湘南海上保安署」。湘南港防波護岸から江の島を見る。「江の島シーキャンドル」の頂部が見えた。「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上を歩く。この様々なタイル模様の意味・目的は?「江の島花火大会」をイメージしている?「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上から「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」方向を見る。大きな岩の島の先にはヨット、漁船の姿が。江の島の南側の断崖絶壁をズームして。1時間前は干潮であったので、多くの岩島が海面上に。釣り人の姿はなし。さらに「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上を西に向かって進む。先程訪ねた「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」の白き屋根の建物。湘南港防波護岸上の休憩用のベンチでは上半身を日光浴する人の姿も。そして左前方に見えたのが「江の島表磯」。目前に広がる平べったい大きな磯が「釜のロ」。岩場にはグループの姿も。湘南港防波護岸の西側先端に向かって進む。再び「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.02
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江の島北緑地広場にあった「弁財天と世界女性群像」。東京オリンピック(1964年)記念として作られた。噴水内、周囲には5体の像が。作者:加藤顕清氏。竣工年月日:1964年10月1日作品材質:ブロンズ七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される「弁財天(弁才天とも書く)」は福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている。ズームして。江の島・辺津宮の境内の八角の堂・奉安殿(ほうあんでん)には、八臂(はっぴ)弁財天と、日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天 が安置されている。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せた。世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江の竹生島、江の島の弁財天のこと。4体の像が「弁財天」を囲んでいた。西洋:ギリシアの古代女性像。「湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念弁財天と世界女性群像噴水池弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し江の島の歴史と文化を表現しこれを囲んで東洋と西洋、古典と現代の四つの像つまり東洋の古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と東洋の現代女性像として東南アジア踊り子像をくみあわせこの五体はオリンピックの五輪を表し世界とその平和親善を表現しヨット競技開催を永久に記念するものでこれらはいずれも格調高く気品にみち全体的に美的統一がはかられています。噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり夜間は水中照明により様々に変化しつつ一層の美観をくわえます。」「弁財天と世界女性群像噴水池を後世にこの弁財天と世界女性群像噴水池は平成十年第五十三回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。当初の位置は現在地より約二十メートル程南側に位置しその景観は左の写真のとおりであります。弁財天は、発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神 音楽の神と云われそれにふさわしく弁財天を中心として世界女性群像はこの水面の上にたたずみ幾年の歳月を>潮騒の調べにだかれて流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。ここを訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ静かにいならぶ弁財天と世界女性群像この五体の彫刻の製作者こそ昭和九年に日本彫刻家境界を創立、造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した日本彫刻界の重鎮、加藤顕清氏であります。氏は晩年を藤沢市ですごし昭和四十四年市内大庭で没した。享年七十二才。ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。 平成十二年三月 藤沢市長 山本捷雄」現代:東南アジアの踊り子像。東洋:法隆寺の百済観音像。古典:西洋の女性裸像。そして同じ江ノ島緑地広場にあった「エドワード・S・モース記念碑」。大きな御影石にレリーフがはめ込まれた碑。作者:山本正道氏竣工年月日:1985年4月14日作品材質:ブロンズブロンズ製の博士と子供たちのレリーフ。「エドワード・S・モース記念碑 日本近代動物学発祥の地」碑。「東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは明治10年(1877)7月から8月末までここ江の島に日本最初の臨海実験書を開き、シャミセンガイなどの研究をしました。」こちらは「アカツメクサ(赤詰草)」。日本には明治時代に入ってきました。ムラサキツメクサとも呼ばれます。いわゆるクローバー(シロツメクサ)と同じマメ科ですが、花が赤いやつというだけではないのだと。いくつか違いがあるのだと。まず、クローバーより大きい。花だけでなく、茎もかなり長い。そして、葉っぱは同じ3つ葉ですが、クローバーより細長い。牧草としてだけでなく、肥料や、ハーブとしても用いられるお役立ち植物の一つであると。「砂の道「トンボロ」」の上には多くの家族連れが。遠く三浦半島方面を見る。「砂の道「トンボロ」」は一番狭い場所でも15~20m程度はあろうか。紙くずやプラスチック物を拾うボランティアのオジサンの姿も。波打ち際では潮干狩りする家族の姿が。一番狭い「砂の道「トンボロ」」付近をズームして。さらに。再び「江の島大橋」の橋脚を見る。そして島内の「江の島 モース臨海実験所跡推定地」にも立ち寄りました。「工ドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年) 7月17日~ 8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け海産動物の研究・指導を行い我が国の近代動物学の基礎をつくりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.01
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通常時の海面の姿をネットから。そして「砂の道「トンボロ」」時の上空からの写真を、これもネットから。「江の島大橋」の鎌倉側の海が割れて「砂の道「トンボロ」」が生まれるのだ。これがこの日の「砂の道「トンボロ」」。普段は海面に覆われている場所から、約200~250mの「砂の道「トンボロ」」が生まれているのであった。「トンボロとは江の島は、潮が大きく引くと陸続きになり、この地形をトンボロと呼びます。トンボロはイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、トンボロができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必す現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島以外にも国内や世界各地で見ることができます。『吾妻鏡』という鎌倉時代の歴史書には、1216年1月突然江の島の海に道が開け、舟を使う必要がなくなって国中の人々が集まった、とあります。将軍源実朝をはじめ大勢の方々が驚いて神のおかげではないかと思ったとのことです。また、1600年6月徳川家康が江の島を訪れています。その時の記録によれは江の島に向かい弁財天に参詣したのですが、ちょうど干潮だったので一行は徒歩で渡り、帰路は潮が満ちてきたので舟で帰ったとあり、潮の満ち引きでトンボロが現れる様子がわかります。江戸時代には江の島参詣の人々でにぎわいましたが、参詣者がトンボロを歩いて渡る様子を描いた浮世絵も数多く残されています。」「トンボロ」・「陸繋砂州(りくけいさす)」の様子の写真。「トンボロ」が描かれている「浮世絵」。歌川広重「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」。歌川広重(1799-1858)は本名を安藤といい、安藤広重とも呼ばれます。天保年間より風景画家の道を歩み、東海道五十三次シリーズなどで有名です。この作品は弁才天開帳の際の江の島の賑わいを描いたもので、参詣に向かう4組の女講中を揃いの日傘で描き分けています。「砂の道「トンボロ」」上を進む駕籠の姿も描かれている。「砂の道「トンボロ」」越しに腰越漁港方向を見る。「砂の道「トンボロ」」越しに「片瀬東浜」方向を見る。海面上に大きく現れた「江の島大橋」の橋脚の基礎部。正面の黒い帯が「砂の道「トンボロ」」。ズームして。一番狭い場所でも10m以上の幅が生まれていた。更に黒い帯をズームして。「片瀬東浜」の国道134号沿いのマンション群。護岸近くの広場の「ハマヒルガオ(浜昼顔)」。茎は砂の上を這い、毛はなくてなめらか。時に茎が砂に埋もれて葉だけが出る。葉は腎心形、やや丸くて基部は左右に張り出す。葉はつやのある緑で厚みがある。長さは2-4cm、幅は3-5cm。花は5-6月に咲き、淡紅色で、径4-5cm。花柄は葉より長く、葉の上に抜き出て咲く。そしてこちらは一面の白詰草(シロツメクサ)。クローバーとも言う。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。江の島での「砂の道「トンボロ現象」👈リンク を描いた様々な浮世絵があるのだ。葛飾北斎『富嶽三十六景』より「相州江の島」。片瀬海岸から江の島を見たところです。江戸時代は、江の島弁財天は江戸から格好の小さな旅先でした。砂洲の参道が現れれているところから、今は干潮時のようです。人々や馬、駕籠など参詣に行くようです。参道の両側に旅館や土産物が軒を連ねています。三角形の屋根は、定規を使って引いたような直線で描いています。その屋根の上の三重塔は、江島神社上之宮の塔です。右端に船を描き、その先の富士に視線を求めています。波打ち際の波の泡の描写など静かな春を思わせます。多少誇張や演出で描く北斎には、珍しく自然な景観を描いています。干潮時で、一筋の砂州の上「トンボロ」には、人々や馬、駕籠などが島に向かって進んでいます。作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 相州江の島の図制作年 天保年間後期(1842年頃)作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 江の島参詣の図制作年 嘉永6年(1853)そして正にこの時の「砂の道「トンボロ」」の航空写真をネットから。私もこの写真に写っているのかもしれません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.31
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この日は5月21日(日)、前日に妻から、江ノ島で干潮時にしか現れない、江ノ島へ通じる砂の道「トンボロ」が出現することを聞き、訪ねることに。ネットにて、潮見表を。5月21日(日)は大潮で11:33に干潮になり、潮位は-5cmとのこと。江の島は潮位が20cm以下になるとトンボロが現れ陸続きなるとのこと。トンボロを日中歩いて渡れるのは、3月から9月(2022年)の新月または満月の干潮時のみ と。自宅を10:15に出て、小田急線を利用して片瀬江ノ島駅に到着。時間は10:47過ぎ。改札口横には、新江ノ島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽があるのだ。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れている。二十匹ほどのミズクラゲがゆらゆら浮遊するしているのであった。新江ノ島水族館によると、館外に水槽を常設するのは初めて。少し離れた場所にろ過装置があり、地中を通した配水管でつなぎ、水温調節機能も備える。異常が生じれば、近くの同館に警報が伝わり、対応する仕組みになっていると。マリンブルーの神秘的な彩りの中をクラゲが回転しながらゆったりと浮遊しているのであった。改札を出て、クラゲ水槽の裏側を見る。小田急線の片瀬江ノ島駅を正面から。駅舎は神社仏閣に用いられる「竜宮造り」と呼ばれる技法を採用。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ装飾も施されている。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。真っ赤な柱と緑の屋根、黄金に輝く竜の姿が。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。別の場所からズームで「天女」を。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。屋根の上には鯱ならぬイルカが。下層のアーチ部分の天井は神奈川県産のヒノキ仕上げで、竜宮城らしく四隅にカメの彫刻が泳ぐ。そして江ノ島に向かって、境川に架かる「弁天橋」を渡る。路面には、陽光に輝く、江島神社の鳥居、藤沢市の花・フジそして江ノ島の姿が描かれたパネルが埋め込まれていた。「境川」には水上オートバイ(水上バイク)は走っていた。運転手の背中には「試験中」と。特殊小型船舶操縦士の運転免許試験であったのだろうか。「弁天橋」から国道134号・「片瀬橋」その奥に江ノ島の姿が。「弁天橋」中央に置かれている像。なめらかでふくよかなポーズが悩ましい。「雲の形」と。境川の上流側を見る。そして「片瀬東浜」に到着。時間は10:53。干潮の時間は11:33とのことであった。そして前方を見ると、既に海が割れて砂の道が出来ていたのであった。潮の引いた砂浜には多くの家族連れの姿が。そいて沖には多くのヨットが。熊手、バケツを持ち潮干狩りにTRYしている子供の姿も。「湘南港」、「江の島ヨットハーバー」方向を見る。「腰越漁港」方向を見る。天童よしみの曲:「珍島物語」👈リンク を想い出したのであった。♫海が割れるのよ道ができるのよ島と島とがつながるのこちら珍島(チンド)からあちら芽島里(モドリ)まで海の神様カムサハムニダ霊登(ヨンドン)サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫♫遠くはなれてもこころあたたかくあなた信じて暮らしますそうよいつの日かきっと会えますね海の神様カムサハムニダふたつの島をつないだ道よはるかに遠い北へとつづけねえとても好きよ死ぬほど好きよあなたとの愛よとこしえに霊登サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫ズームして。江の島の「江島神社 瑞心門」そして「江の島シーキャンドル」も見えた。海が割れて生まれた砂の道を進んで行った。狭い場所でも10m以上の幅の砂の道が出来ていたのであった。「【湘南】江ノ島 トンボロ現象(藤沢市)」👈リンク江の島側には、平塚方面からの波が「江ノ島大橋」下を通過して押し寄せて来ていた。普段なら、この場所は海の下。「江ノ島大橋」の橋脚用の基礎も海面上に顕わに。妻の話によると、昔は橋に下に砂の道「トンボロ」が出来たと。時代とともに腰越方向に移動していると。下部の円柱状の基礎の部分は海中にあるのだが、今日は!!そして砂の道「トンボロ」の先には、護岸上に上る仮設の階段が設置されていたのであった。仮設の階段前から、歩いて来た砂の道「トンボロ」を振り返る。こちらが通常時の波の様子。東からの波は「江の島大橋」の下を通過し、腰越方向からの波とぶつかるのだ。このぶつかった場所が砂の道「トンボロ」となることが解るのであった。護岸下の保護用の岩も完全に姿を現していた。「江の島大橋」の橋脚用の基礎部を見る。そして「砂の道「トンボロ」」の先にあった仮設用階段を見る。この日の「砂の道「トンボロ」」の観光客用に藤沢市の観光協会が設置したものであった。地元では知られた自然現象を観光コンテンツとして活用しようと、市観光協会が「トンボロ」を渡って安全に江の島に上陸する手法を模索しているようであった。「トンボロ」は長年にわたり江の島周辺地区の名物として知る人ぞ知る現象だった。ただし、海の道が現れるのは3月から9月の新月または満月の干潮時のみで1時間ほど。めったに起きないため、これまで同協会などが観光資源としてPRすることはほとんどなかったとのこと。護岸擁壁の保護用の岩が完全に現れて。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。仮設階段を正面から。安全管理のために観光協会の方も仮設階段の上で立ち会っておられた。多くの方が私と同様に「砂の道「トンボロ」」を歩き、「片瀬東浜」からこちらに向かっていた。私も仮設階段を上って護岸の上に。最終段の踏み板と護岸擁壁の隙間が大きく子供達の為には、もう少し狭くする処置が必要と感じたのであったが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.30
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「聖光寺」の「本堂」。蓼科湖周辺にあった中山開拓地の開拓民児童のために旧北山村時代に設置された茅野市立北山小学校蓼科分校(1963年閉校)跡地を転用して1970年、トヨタ自動車を始めとするトヨタグループが施主として建立した寺院である。同年7月9日に薬師寺より長老・橋本凝胤を迎え開眼法要を行った。「交通安全の祈願」「交通事故遭難者の慰霊」「負傷者の早期快復」を三大寺命としており、毎年7月の夏季大祭には必ずトヨタグループの首脳陣が集まり交通安全を祈願する。開 山 昭和45年(1970年)御 本 尊 救苦観世音菩薩(ぐくかんぜおんぼさつ)立像宗 派 法相宗(大本山 薬師寺)三大寺命 交通安全の祈願 交通事故犠牲者の供養 交通事故負傷者の早期社会復帰の祈願本堂の重層の屋根は錣葺(しころぶき)入母屋造に鴟尾(しび)がのる。二重の軒反(のきぞ)りのゆるやかな曲線が美しい。二層目の工夫されたデザインの高欄がキュッと引き締まった感じを与えており、全体のバランスに貢献している。また、正面の柱と桁で区画された方形は中央が正方形に近く、両端は柱間が短くなって下回りの安定感を増している。「本堂」の「鴟尾(しび)」。「本堂」の扁額は「大?通」と。ガラス越しに内陣を見る。写真右側に御本尊「救苦観世音菩薩立像」。御本尊「救苦観世音菩薩立像」。寺務所隣に「不動明王像」。近づいて。「寺務所」。「御朱印」を頂きました。奉納殿奥にある「道場」をネットから。桜並木に中にある「茶室」をネットから。「本堂」前から境内参道を見る。「奉納殿」を廻り込んで。「蓼科山」の扁額が。「奉納殿」では「杉江みどり切り絵展『余韻』2023年4月18日(火) ~ 5月6日(土)10時~16時(無料)」が開催されていた。「茅野市蓼科の聖光寺奉納殿で、人形浄瑠璃文楽をテーマにした切り絵作家杉江みどりさん(64)=大阪府=の個展「余韻」が開かれている。諏訪にゆかりのある八重垣姫など、繊細でシャープな切り絵17点が来場者の視線を集めている。展示作品は「ハ重垣姫乱舞」(本朝廿四孝)、「お三輪回想」(妹背山婦女庭訓)、「静と忠信」(義経千本桜)、「天満屋」(曽根崎心中)など。トレーシングペーパーに下絵を写し、胡粉染めの黒和紙に重ね、その上から切り出す。B1判の大作もあり、登場人物の心情が伝わるような躍動的な場面が目を引く。もう一つのテーマの猫の切り絵も並ぶ。」との新聞記事をネットから。もう一つのテーマの「ネコの切り絵」。「逆櫓 ーひらかな盛衰記ー」。「知盛 ー義経千本桜ー」。「丞和名残 ー菅原伝授手習鑑ー」。「勘助住家 ー本朝廿四考ー」。「十種香 ー本朝廿四考ー」。「八重垣乱舞 ー本朝廿四考ー」。「お三輪回想 ー妹背山婦女庭訓ー」。「八重垣姫」か?ズームして。「静と忠信 ー義経千本桜ー」。ズームして。「岡崎 ー伊賀越道中双六ー」。ズームして。「心中宵庚申」。ズームして。「天満屋 ー曽根崎心中ー」。ズームして。「二人三番叟」。「お七 ー伊達娘恋緋鹿子ー」。「文楽歌留多」。展示風景。「???」。展示風景。「杉江みどり切り絵展『余韻』」の鑑賞を終え、バスに戻る為に参道を引き返す。1週間前には・・・。ネットから。「廻逈功徳観音像」が左手奥に。そしてバスは県道192号線・ビーナスラインを中央高速道路・諏訪南ICに向かって進む。左手にはゴルフ場「蓼科高原カントリークラブ」。「八ヶ岳エコーライン」から「八ヶ岳」の山々を見る。ズームして。左手に「天狗岳」。中央に「赤岳」、その後ろに「横岳」。諏訪南ICから中央高速道路に入り、右から「赤岳」、「天狗岳」、左に「蓼科山」。富士山の山頂が姿を現した。中央自動車道から甲府盆地を見る。「談合坂PA」にてトイレ休憩。もっと混んでいると思っていたが・・・。「圏央道」を厚木方面へ。「相模原愛川IC」を通過。「海老名」の町並みを見る。「海老名IC」にて「圏央道」を降りる。神奈川県道22号線にて新幹線下を通過。そして湘南台駅に到着し、この日の「甲斐・信州日帰りの旅」を終わったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.29
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「ビーナスライン」を「蓼科湖」に向かって下っていった。枝垂れ桜が満開出迎えてくれた。「蓼科高原」、「北八ヶ岳ロープウェイ」案内板もあった。左側にあったのが「リゾートホテル蓼科」その先に「ヤマザキショップリゾートホテル蓼科店」。そして左手に「蓼科湖(たてしなこ)」が姿を現した。「蓼科湖」は、昭和27年5月、農業用温水ため池として、また観光のメッカとして誕生した人造湖。湖畔は白樺や落葉松の林にかこまれ、南側に立てば蓼科山の山容が湖面にくっきりと映し出されると。そして右手にあった「聖光寺(しょうこうじ)」駐車場に到着しバスを下車。「蓼科山聖光寺縁起蓼科山聖光寺は 交通安全 一路安穏を専一に祈祷する道場として 、昭和四十五年七月、トヨタ自動車販売株式会社及び関係会社の発願により、山紫明水山嶺神宿の地、蓼科の郷に創建された。本尊は救苦観世音菩薩の霊像にして 日本には稀有なる尊容を示し給い 左手に胡柳を捧持し 右手に花籠を提持し給う この尊体は遥かに天竺と中国を結ぶ天山北路の駅邑湧泉の郷の龕窟に祭祀されたる観世音菩薩なり タクラマカン沙漠を往来する求法僧をはじめキャラバン隊商たちの一路安穩・交通安全の祈りを千年にわたり 一身に受け給う 旅の安全を願うは人間の常なり境内に観世音菩薩の三十三身に化身し給いて慈悲を施し給う尊像を安置す奉斎せる薬師如来は密教蘊奥の浄利 ネパール国将来佛にして 三界所有の有情非情のすべてを安楽なさしめるために 七佛薬師放香報光四十四大願を発願し給い 身心健康の功徳を衆生に施し給う当寺は奈良薬師寺に千四百年の伝統ある唯識教学を伝承する一道場であり その教学は東洋的認識論を説き 世俗にあっては世情認識を正しく得るために正常な人格を養成する修行方法論なり親世音菩薩・薬師如来の脇待尊者として唯識教学を大成したアサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)大士を祭祀し 両大士の完成し給うたる教学により衆生を純真寡悪の世界に導入あらんことを願う」「聖光寺」境内案内図。寺号標石「蓼科山 聖光寺」。「山門」の左前にあった石庭内にあったのは「毘沙門天」。「毘沙門天」をズームして。「観世音菩薩三十三應化身像‥‥‥‥・以下解読不能」正面に見事な「山門」。山門は平安時代の優美さを再現し、観音様の慈悲を示現給う應化身三十三身の中、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、天大将軍身(てんだいしょうぐんしん)、優姿塞身像(うばそくしんぞう)が山門に祀られていた。「山門」の扁額は「蓼科山」。「梵天」。「帝釈天」。「格子天井」と「一路安穏」と書かれた提灯が2個。「山門」を境内側から見る。「天大将軍身像」(左)。「優姿塞身像」(右)。「山門」の先にあったのが「旧灯籠」。近づいて。前方に「太鼓橋」。「修行僧」。左手に「放生池」。観世音菩薩の化身、三十三身があちこちに。「伽留羅」。「阿修羅」。「大自在天」。「旧灯籠」、「山門」を振り返る。「本堂」に向かって「太鼓橋」を渡って桜の参道を進む。標高1200mに咲くソメイヨシノの桜はピークは過ぎていたが。本州で最も遅い「ソメイヨシノ」が見られる桜の名所とのこと。1週間前の晴天であれば(ネットから)。この日の桜を見上げて。「本堂」に向かって。右手奥には「鐘楼」が見えた。正面に「灯籠」と「本堂」が。左手に「手水舎」。その先に藁葺き屋根の「奉納殿」。「鐘楼」。「鐘楼」の「軒廻り」をズームして。独特なデザインの「斗拱(ときょう)」。「斗栱」とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称。 基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されている。 斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称される。「梵鐘」。「灯籠」に近づいて。境内の「枝垂れ桜」も満開。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.28
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「横谷峡」の散策を終えて「横谷温泉旅館」まで戻る。「横谷温泉旅館」入口。我々のツアー「STEPトラベル様」の歓迎ボード。入口にあった湧水?の「水場」。フロントは奥のエスカレータで2階に上がって下さいと。生花に近づいて。エスカレーターから見下ろして。2階のロビーにも「水場」がった。「全館ご案内」。●最大収容人数:530名 と。山奥の旅館とは言えど、造りは旅館というよりも現代的なホテルといった感じ。こちらは増改築を繰り返しているであろう事を感じさせる、informationボード。●室数:80室 新館・仙峡亭 59室 (和室18畳16室/和室15畳20室/和室10畳15室/洋室ツイン8室) 本館・清流荘 21室 (和室9畳+9畳14室/和洋室9畳+ツインベッド7室)「フロント」。そして「大浴場」へ。源泉は湧き出した時には無色透明であるが、鉄分を多く含んでいるため空気にふれると、すぐに茶褐色に。鉄分が沈殿して黄金色の濁り湯となるのだ と。「横谷温泉旅館」には、渓流を臨む2つの露天風呂、渓谷を眺められる2つの内湯、さらに2つの貸切露天風呂があり、鉄分と炭酸ガスを多く含んだ自家源泉を堪能できるのであった。炭酸ガスが溶け込んだ温泉は、血液の循環がよくなり血圧を下げる効果があるといわれ、日本ではめずらしい泉質。また、含鉄泉のため酸素に触れると透明から茶褐色・黄金色に変化する温泉で、貧血や婦人病、神経痛、リウマチ、冷え性、アトピー性皮膚炎に効果があるといわれます。鉄分の多い茶褐色(黄金色)の温泉はややぬるめではありますが、湯上りのあともさめにくいと評判の天然温泉。なお、源泉温度が19℃と冷泉のため加温していると。加水等はおこなっていないとのこと。温泉浴槽の角にはライオンの姿も。「温泉の成分・禁忌症・適応症等」。「温泉」を楽しんだ後は、フロント前のソファで暫しの休憩。「土産物コーナー」を散策。そして「横谷温泉旅館」を」後にして「国道299号・メルヘン街道」を次の目的地の「蓼科湖」近くにある「聖光寺」を目指す。「県道192号線・ビーナスライン」に入り三つ星ホテル「B&B ノマの森」前を通過。ノマの森は 標高1,390m 長野県の蓼科高原のB&Bスタイルの宿。B&BはBed&Breakfastの略「一夜の休息と朝食」を意味すると。部屋は6つ、薪ストーブのあるラウンジ、別棟の貸切風呂のある小さな宿。この周辺の新緑の芽生えはこれから。洋食レストラン「the Switchback TATESHiNA」。北八ヶ岳ロープウェイ方面へ向かう途中、別荘地の蓼科ビレッジ一角に佇む薪窯料理店。長野県内の素材や高原野菜を薪窯で調理する、端まで美味しいピザをはじめとし、シンプルで素材の美味しさが際立つ野菜の窯焼きや蓼科牛Tボーンステーキなどが人気 と。車窓から「蓼科蕎麦・しもさか」入口の「枝垂れ桜」も満開。「ビーナスライン」を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.27
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「横谷渓谷」を右にみながら、横谷峡遊歩道を更に上って行った。横谷温泉から0.2km、乙女滝から0.6kmと。横谷峡入口にあった「横谷峡遊歩道案内図」を再び。新緑の芽生えもプロローグ。「横谷峡」は乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まで約3kmにわたってを横谷渓谷という。ここには、いくつかの滝や巨岩の名所があり、高さ50メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降の滝、一枚岩が赤渋をつけて約40メートルにつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られておりここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっているとのこと。至るところに小さな白い滝が。「霧降の滝」。落差はそれほどなく、横谷渓谷の他の滝に比べると地味である と。横から。落差は5mほどか。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃12月下旬~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」「屏風岩の氷瀑」。ズームして。手前には赤茶けた岩肌が。赤茶けたような川床の色は、水に含まれる鉄分が酸化した事による。渋川というだけあって非常に強い酸性があり、魚も住まないほど と。注連縄が飾られていた巨岩・「鷲岩・大岩の司」。巨岩の上にちょこんと石祠が鎮座し、 四隅にちゃんと渓谷に棲む「龍」が四つの願いを叶えたと伝えられる御柱があるのがこの地らしかったのであった。山の中にひっそりとたたずんでいる「炭焼窯の跡」。この近くに住居があったのであろうか。中をズームしたが・・・。この近くからは、川床の岩肌は更に赤茶けた色に染まって来ていた。ズームして。さらに。さらに進んで行った。川床全面に白き流れが拡がって。別の場所から。山の斜面には苔むした岩がゴロゴロと。巨木も岩の隙間に根を伸ばし、逞しく。この先に、「屏風岩」、「一枚岩」、「大滝」、「おしどり隠しの滝」があったが、時間が足りずここで引き返したのであった。「屏風岩」が奥に(ネットから)。賽の河原の如き沢山の石積。滑滝の如き「一枚岩」(ネットから)。「大滝」(ネットから)。「おしどり隠しの滝」(ネットから)。そして引き返しながら、赤茶けた川床上の白き流れを楽しみながらカメラで追ったのであった。再び「霧降の滝」をカメラで追う。木橋は壊れて通行不能。ズームして。ここを渡ると何処に行けたのであろうか。白き流れをひたすら追う。樹木の新緑、苔むした岩、キラキラと光る水面、渓流のせせらぎ、野鳥のさえずり…横谷峡はマイナスイオンに満ち溢れ、身も心も綺麗に洗われていくのであった。キラキラと光る水面を追う。マイナスイオンが皮膚で感じられるが如くに。急峻な岩肌には落石防止用の金属ネットが一面に施工されていた。そして「横谷温泉旅館」手前の「河鹿井戸」を再び。数筋の湧水が流れ落ちていた。その下に石仏が。そしてさらに赤茶けた川床と白き流れをひたすら追ったのであった。滝のマイナスイオンとは?滝や小川の近くなど水が激しくほとばしるところでは、マイナスイオンが多く発生する。というのも、元素にエネルギーが加わると不安定な状態となり、イオン化するから。 水が撥ねて急激に水滴が飛び散ると、大き目の水滴についてはプラス側に帯電して落下し、一方霧のように微粒化した極小の水の粒子はマイナス側に帯電するのだ。マイナスイオンはなぜ体にいいのか?マイナスイオンの体に良い作用とは… 血液を浄化させる作用がある。 血液中のガンマグロブリンを増やし、からだの抵抗力・免疫力を高めます。 細胞の新陳代謝を活発にし筋力の活性を高め、内臓を健康にするのだと。可憐なスミレの花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.26
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昼食会場の「信州手打そば工房 遊楽庵」の先にあったのが「横谷峡」案内板。「八ヶ岳中信高原国定公園 蓼科高原 横谷峡」案内板。その横にも「横谷峡・乙女滝⬆」、「横谷峡遊歩道⬆」、「蓼科パークホテル⬆」、「横谷温泉旅館⬆」とこれからの目的場所の案内板が。「蓼科中央高原周辺 案内マップ」。「横谷温泉旅館」に向かって坂道をバスで上って行った。山桜?が開花中。そして数分で「横谷温泉旅館」が姿を表した。信州蓼科の秘境・横谷渓谷にある一軒宿の「横谷温泉旅館」。黄金色の巨石露天風呂の天然温泉が人気と。駐車場で、バスを降りる。これから約2時間弱の自由行動と。私は最初に「乙女滝」を訪ねて、その後「横谷峡遊歩道」をしばし歩き、「横谷温泉旅館」に戻ることとする。まずは「乙女滝」に向かって、バスで上って来た道を歩いて下って行った。駐車場横の石灯籠。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃 12月下~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」。「横谷峡遊歩道案内図」。その下に「乙女滝」案内板があった。案内に従い脇道を下って行った。「世界かんがい施設遺産 大河原堰自然の地形を活かした画期的な水路大河原堰は玉川地区の農業用水不足を解消するため、坂本養川(さかもとようせん)が高島藩に請願し1792年(寛政4年)に開削された農業用水路てす。その全長は約14km、315haの水田を潤しています。現在も見るこができる「乙女滝」も大河原堰の一部で、渋川の急埈な崖を一気に落下させて水の勢いを減らす役割をする人工滝です。蓼科山(たてしなやま)から流れ出る滝ノ湯川の水を、ここから6kmほど上流にある取水口で取リ入れています。取水口の構造は「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれ、木や石などで築いた小堤防で河川を堰き止めていますが、全量取水がてきない構造になっています。「乙女滝」から下流は、渋川で水を補給しながら樋(とい)で渡し、泉野地区を経て玉川地区に用水を運んでいます。このように、東西に流れる複数の河川を用水路で結び、水量の多い滝ノ湯川の余水を順々に南部の水不足地域へ送る仕組みは「繰越堰(くりこしせぎ)」と呼ばれ、当時としては画期的な仕組みでした。堰が完成して農業基盤が整備されると、用水が安定供給され、米の収穫量が大幅に増えました。200年以上経過した今もなお、利用者によって維持管理され受け継がれています。平成28年11月には、地域農業発展に貢献し、当時の技術を駆使して造られた歴史ある大河原堰と湯之湯堰が、「世界かんがい施設遺産」として県下で初めて登録された。世界かんがい施設遺産って?建設から1OO年以上が経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたものなど、歴史的、技術的、社会的価値のあるかんがい施設で国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録したものです。」そして右前方に白き「乙女滝」が姿を表した。豪快な水しぶきを上げて落ちる滝の様子は、圧巻。近くによるとごうごうと体を包み込むような音がするため、迫力満点であった。新緑のこの時期、そして紅葉など、四季折々の風景と合わせてみると、さらに美しさが増すことまちがいなし。岩に打ちつけられた滝の水は、空に向かって跳ね返るように勢いよく飛びあがるのであった。晴れていたこの日は、水しぶきの上がる様子が一層美しく、清涼感のある風景として心を癒してくれるのであった。白のカオスをカメラで追う。蓼科にある「乙女滝」といえば、冬の氷瀑の美しさが有名。 氷瀑とは、滝から水が落ちた時の水しぶきが凍ってできるもの。ここ蓼科の乙女滝では、真冬に見事な氷瀑が現れ、素晴らしい景観を楽しませてくれるのだと。これが自然の滝ではなく、人の手で作られた人工の滝であることに驚いたのであった。「乙女滝」を後にして、坂道を上り道路に出て、さらに昼食会場の方へ下って行った。左てにあったのが「横谷峡案内図横谷峡乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まて、約3キロメートルにわたってを横谷渓谷という。こには、いくつかの滝や巨岩の名所かあり、高さ五十メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降りの滝、一枚岩が赤渋をつけて約四十メートルつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られてありここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっている。」案内板の手前から、流れ落ちる「乙女滝」を上から見下ろす。白の流れの途絶えた場所が、「乙女滝」の「落口」。右手奥にあったのが「蓼科パークホテル」。その手前にあったのが「木戸口神社」。石鳥居の手前左にあった「石仏」。「信玄公ゆかりの地木戸口神社信玄の「上の棒道」の要所、渋川を渡り、川沿いに登って御立場をすぎると、右手に横谷峡が開け、正面に木戸坂(地名)がみえてくる。この木戸坂の入口にいつの頃からか諏訪神社を勧請して、木戸口の入口であることから木戸口神社と命名したという。木戸坂を登ってしばらく迂回路をすぎると向城(むこしろ)に達する。」「木戸口神社の由来木戸口とは昔の関所の代役として居た所で此の口を通りて木戸坂、赤渋平、我党場に至り、此の地よりニ手に別れ一筋は逆さの平から大石峠を経て、松原湖より今の南佐久方面に至り、他の一筋は我党場より馬勢口にて馬を返しそれより足で天祥寺原を経て北佐久方面に通したのである。武田信玄はこの道を利用して捧道と名付け各所に炭を積んで塚を築き又は車用金を埋め又は我が車勢に合図をするために屋根棟(今のバークホテル付近)と我党場は烽火を揚げた場所とし木戸口平に武田勢の勢揃いをした所と聞く、其の后坂本養川に依り水路が開かれ滝が出来てより多くの善男善女が願を達成するためこの滝を潜り身を清め神に祈願し其の願が成就したことに依り乙女滝と呼び其の名は高く世の人の知る所となり今尚、若人達が斎戒沐浴して神に祈願する人跡を絶たずと聞く。又、この木戸口の付近は諏訪大社の古代の牧場にて其の当時の地名が残り遠見場にて見張りをし槙寄せに追込み弓掛木にて獲物を射止め木戸口平に集め御祭事をして神に奉りし所と伝えられ諏訪明神建御名方の大明神の神雲のまします所につき、木戸口神社として祀られたるものなり。」歴史を感じさせる石段を上って石鳥居に向かって進む。扁額「木戸口神社」。正面に「社殿」。近づいて。神社の周りに、御柱が建っていた。御柱は諏訪大社だけのものだと思っていたが・・・。「木戸口神社四之御柱」。そして「横谷温泉旅館」に向けて来た道を引き返す。「横谷峡遊歩道入口」案内図。再び正面に「横谷温泉旅館」が見えて来た。入口のソメイヨシノはほぼ満開。そして駐車場の脇を通り、「渋川」の河原沿いの遊歩道まで下る。「渋川」の清き流れを楽しみながら、上に向かって進む。ズームして。これぞ渓谷の白き流れ。横谷温泉旅館の裏には湧水が流れて落ちていた。苔生す静かな一筋の滝。」「河鹿井戸」と。その先の遊歩道には巨岩が壁のごとくに。さらに遊歩道を上って行った。この周辺は、これからが芽吹き・新緑へと。そして再び「渋川」の清流を楽しみながら。大雨の時は、濁流に変わり岩をゴロゴロと動かすのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.25
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「蓼科チーズケーキ工房」を後にして昼食会場の茅野市北山に向かって進む。「上川」に架かる国道152号「鬼場橋」を渡る。「国道299号・メルヘン街道」に入る。「芹ヶ沢南」交差点手前、「横谷峡」を目指して進む。」車窓から枝垂れ桜を。満開の枝垂れ桜。「石遊の湯 600m先 左入る」案内板。鉄鉱石採掘跡地の人気かけ流し露天風呂「石遊の湯(いしやすのゆ)」。最盛期の鉱床が「石遊場(いしやすべ)」だったこと、岩石を組んだ露天風呂のイメージにふさわしい、ということでその名が付いたのだと。「石遊の湯」をネットから。休業中の文字がネットには。メルヘン街道脇にはミツバツツジ(三葉躑躅)の花が。そして左手に見えて来たのが、昼食会場の「信州手打そば工房 遊楽庵」。「蕎麦&酒 ミュージアムin蓼科 遊楽庵」。長野県茅野市北山5522−281。入口は塔の如き建物が。下方には「打坐(たざ)」の文字が。「打坐」とは「座禅をすること」と。バスを降り入口に向かって進む。中に入ると、八角形のホールの壁には日本酒の一升瓶が壁全面にならんで、圧巻!!「長野県の全82蔵の日本酒が一堂に会する、圧巻のミュージアムも開設し、エンターテインメント要素もプラス。さらに2階にはウェルネスツーリズムをテーマに、宿泊可能なゲストルームを設置しました。常駐する保健師や医師のオンライン指導を受けながら、自然のなかでの運動や温泉療法、地元の食材を取り入れた食事療法で、健康的な滞在環境を提供します。」とネットから。長野の地酒が所狭しと。ズームして。しかし、地震で落下する可能性はないのであろうか?と。ホールの天井を見上げる。ネットには「長野県の酒をずらりと並べた部屋の天井には、この地を守ってきた龍神が。横谷温泉旅館が営んでいる蓼科中央高原のそば店が、改修されて〈遊楽庵 打坐(たざ)〉という医食“農”同源をテーマにした体験宿泊型施設に生まれ変わります。」とあったが、この日は龍神の姿は確認できなかったが・・・工事はこれからか?そしてこの日の昼食。山菜御飯・蕎麦羊羹・蕎麦いなり・くぎ煮・漬物・野沢菜・刺し身・かも鍋・お蕎麦。いなり寿司かと思ったが。中には蕎麦が入っていた。ちょっと甘辛い濃いめの味付け。もう1ヶ食べたかったが・・・。そして、国産玄蕎麦と横谷峡の天然の湧き水をが使われている蕎麦。挽き立て・打ちたて・茹でたて・つなぎなしの十割蕎麦。ボソボソしてなくて、とても滑らか。香りも良く美味しかったのであった。昼食を済ませ、店内を散策。そば打ちも見ることができるようになっていた。「石うす製粉機」であっただろうか。大きな「蕎麦 こね鉢」。残念ながら、蕎麦打ちの実演は見ることができなかった。予約すれば、そば打ち体験などもできるようです。様々な形状の「のし棒」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.24
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「アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」を後にして県道302号線・石和温泉停車場線にて中央自動車道・「笛吹八代スマートIC」に向かって東に進む。左手に見えたのが「遠妙寺」の山門。山梨県笛吹市石和町市部1098。ここ「遠妙寺」交差点を右折。そして「鵜飼橋北詰」交差点を左折して「笛吹川」に沿って進む。左手に見えたのが「笛吹川(ふえふきがわ)」。笛吹川は、日本三大急流の富士川水系の一級河川。山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。 流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園ではブドウなどの果実栽培が盛んである。笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」と呼ばれる民話[1]に語られており、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえることから、誰とはなしに笛吹川というようになったと言われている。深沢七郎は、この川を題材に小説『笛吹川』を書いた。木下惠介監督によって1960年に『笛吹川』として映画化もされている。左手前方の橋は、国道20号・甲州街道(勝沼バイパス)の「石和橋」。「蛍見橋西詰」交差点を左折して、「笛吹川」に架かる「蛍見橋」を渡る。そして「笛吹八代スマートIC」から「中央自動車道」に入る。「中央自動車道」の本線に向かって進む。再び「間ノ岳」が姿を表した。「境川橋」の先から「坊ケ峯送信所」👈リンク を見る。山梨県笛吹市の坊ケ峰にあるテレビとラジオの送信所。左手の小高い丘の上にあったのが「境川自転車競技場」。1983年(昭和58年)3月に完成し、1986年(昭和61年)第41回国民体育大会「かいじ国体」のトラックレース会場となってから、全国大会などの開催、県内外の個人、団体に利用されている。白で自転車の姿と「さかいがわ」の文字が確認できた。山梨県笛吹市境川町藤垈3279。「笛吹川」に架かる「笛吹川橋」・橋長340mを渡る。右:「北岳」、中央左:「間ノ岳」。「笛吹川橋」から下流方向を見る。「双葉SA」を通過し「甲斐駒ヶ岳」・標高2967m(写真右)を見る。その左手に「北岳」、「間ノ岳」の白き山頂が。「甲斐駒ヶ岳」山頂をズームして。さらに。「甲斐駒ヶ岳」は、山梨県にある標高 2,966mの山。かいこまがたけと読む。山域は南アルプス北部に定められている。百名山、夏油三山、甲信越百名山、山梨百名山、信州百名山、一等三角点百名山、日本百高山、新日本百名山に選定されている山。駒ヶ岳という名がつく独立した山は全国に18座あり、その中で甲斐駒ヶ岳は最高峰である。中央自動車道からの右から「甲斐駒ヶ岳・2967m、「栗沢山」・2714m、「アサヨ峰・2799m、「仙丈岳」・3033mを見る白き右側:「北岳」と左側:「間ノ岳」。「韮崎IC」手前から。ズームして。右から「赤岳」、「横岳」、「硫黄岳」を見る。手前に「北杜サイト太陽光発電所」。ズームして。「横岳」にズームして。さらに。「硫黄岳」。南アルプス国立公園内の赤石山脈(南アルプス)の最北の3000m峰。長野県と山梨県の県境にある北沢峠を挟んで甲斐駒ヶ岳と対峙。「仙丈ヶ岳」・標高3,082.6 m(写真右)を再び。「仙丈ヶ岳」をズームして。左側に「小仙丈ヶ岳」・標高2,864mが。「諏訪南IC」で中央自動車道を降りる。県道197号線・払沢茅野線でJR茅野駅方面に向かう。国道20号線・坂室バイパスの「茅野町」交差点に向かう。そいてここを右折。「上川」に架かる「上川橋」を渡る。「仲町東」交差点角にあった「布袋尊」。この場所にある理由は?そして「蓼科高原チーズケーキ工房」に立ち寄った。「蓼科高原チーズケーキ工房」。長野県茅野市米沢127-1。「生ちーずけーき」コーナー。蓼科高原の自然豊かな美味しい水と空気で育った乳牛のミルク。そこから作られたコクのあるチーズを贅沢に使用。まろやかで濃厚、ふんわりとしたチーズケーキを是非ご賞味あれ と。日持ちしない洋菓子類はコールドショーケース内に陳列されており、常温日持ちする各種焼き菓子やゼリー類も非常に充実しており、店内の商品配置もとても綺麗に整備されていた。また、店内も清潔感が溢れており店舗内外共に非常に居心地の良い感じであった。そして、この時は店内には我がグループだけ。ここにも「生チーズケーキ」。「寒天ゼリー試食コーナー」。「驚き!寒天は薬品としても認められている。」地酒、地ビールも販売されていた。別の場所から地ワインを。店内の造花。地元産の「きくらげ」も売られていた。「TV 全国ネットで紹介 きくらげ ダイエットゴースト血管が生き返る!糖を体外に搬出・便秘解消ふりかけなど食べ方ネットで紹介」「ゴースト血管」とは、血液の循環が悪くなり、末端の毛細血管まで血液が届かなくなり、まるで幽霊(ゴースト)のように血管が見えなくなってしまう現象のこと。近年、この「ゴースト血管」が脳梗塞や認知症など病を引き起こすと言われている。「ゴースト血管」の原因のひとつが「ビタミンD」の不足。きくらげには「ビタミンD」の含有量がとても多いため、食べ続けることで「ゴースト血管」が生き返ったというデータもあるんだ とか。屋外の屋根裏には「ツバメ」の巣作りが始まっていた。私の姿に?警戒する「ツバメ」。巣の材料を咥えて一生懸命に運んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.23
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国道137号・御坂みちを北上する。左手に南アルプスの山並みを見る。この▢の範囲がみえていたのであろうか。「間ノ岳」、「農鳥岳」をズームして。車窓から、ニセアカシアの花を見る。ライラックの花。「笛吹川」を渡る。そして次の訪問場所ファッション工房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」に到着。山梨県甲府市川田町 アリア202。駐車場から富士山頂を見る。ファッション公房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」山梨県が誇る伝統地場産業の代表的存在であるジュエリー。宝飾品出荷額は全国シェアの約2割を占め、ジュエリー生産量日本一を誇っている。「さいら」とは「彩楽」と。35周年を迎えたオリジナルジュエリーブランド『Ambrose』を展開する会社。東京・銀座でフラッグシップ店を運営する他、全国のホテルで展示会を行うなど60万人ものお客様に質の高い宝飾品をご提供している。創業62年の歴史を持つ企業で、ここ山梨県・甲府の本社工房で企画・製造。入口には、圧巻の巨大な天然の宝石が。「黄水晶 シトリン 三方晶系 二酸化珪素高さ 195cm幅 135cm(中) 135cm(下)奥行き 55cm総重量 1.154kg産出国 ブラジル リオ・グランデ・ド・スル州」水晶に鉄イオンが混入し、放射線による結晶格子欠陥によって黄色に変色したもの。このような変色種の仲間として紫色のアメジストやピンク色のローズクォーツなどがある と。リオグランデ・ド・スル州で採掘されたものはマデイラ島特産のシェリー酒に似た濃いオレンジイエローをしていることから「マデイラ・シトリン」と呼ばれ、価値が高いとされている。近づいて。シトリンは太陽を象徴する石といわれる11月の誕生石。紫水晶(アメジスト)の原石。近づいて。色ガラスのオブジェ。天然石を使った巨大宝石画玄関ロビーには天然の宝石だけを使った重さ300キロの巨大宝石画が。人が見上げる巨大なキャンバスの中には26種類の天然石がびっしり。少し離れて見ると美しい絵画になり、そのギャップに驚くのであった。様々な表彰状が壁一面に。技能グランプリの表彰状。「この鉄箱の中には、プラチナ鉱石が1トン(1000kg)入っています。」「さてこの1トンの鉱石から、プラチナは何g採れるでしょうか?正解者には、この鉱石を1個さしあげます」と。数百g等様々な答えがあったが、私は3gと当てずっぽうに答えたが、これが大正解との事であった。鹿児島県北部に位置している菱刈鉱山は、鉱石1トン中に含まれる平均金量が約20グラムという高品位を誇っていることを知っていたのであった。このブログの書き込み時の田中貴金属のHPによると金:9644円/g プラチナ:5282円/gなのであった。本社及びさいら甲府工房では販売はもちろん、本来であれば中々見ることのできないジュエリーの製作現場で本物の加工の様子を、職人に手が触れそうな距離で見る事が出来たのも魅力の一つであった。もちろん制作現場内はカメラ撮影禁止であった。下記写真はネットから。そしてプレゼンテーション室に案内された。「Ambrose」。会社名:アンブローズ アンド カンパニー株式会社設立:2003年5月1日「アクアプレーズ(Aquaprase) 世界一新しい宝石」と。アクアプレーズは、2014年にアフリカで発見され、2016年にGIA(米国宝石学会)にて正式に認められた新種のカルセドニーになります。天然グリーンのカルセドニーである「クリソプレーズ」はニッケルの影響の発色ですが、アクアプレーズのブルーグリーンの色はクロムの影響の発色になります。また、クロム発色のカルセドニーは、世界的に見ても非常に希少で、現在ではアフリカのごく一部の地域でしか産出されていません と。「アクアプレーズ(Aquaprase)」。アクアプレーズは、2014年にアフリカのジンバブエで発見された新しい鉱物で、2016年にアメリカ宝石学会で新種の宝石として認定された天然石。カルセドニーの一種で、クロムを含むことでグリーンブルーの色味を持つ のだと。説明員が「アクアプレーズ」に光を当てた。すると、天井には星のごとき輝きが一面に拡がったのであった。「永く愛され継承されている指輪です」。「Pt900 K18YG リング ダイヤモンド 0.31ct ラウンド ストライプ」。「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンクは、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞した のだと。代表取締役 堀内 信之氏が2020年12月に「チコちゃんに叱られる」に出演したと。そしてプレゼンテーション会場を後にした。そして宝石展示販売コーナーに行く途中の展示品。トルマリンの原石。近づいて。「トルマリンの原石和名:「電気石」あたためる・こする・水に濡らすと帯電し、体に流れる微弱電流と同じ電気を発発生します。●花瓶に入れると、切花が長持ちした●植物や植木などの水やりに使用すると、植物が元気になった、葉の色が濃くなった、 花がたくさん咲いたという報告も多く寄せられています。宝石言葉 希望、安楽、潔白、寛大、忍耐、無邪気、友情、心中の歓喜主な産地 ブラジル・アメリカ・タンザニア」地球を彷彿とする、美しき水晶。「タッツァ・ファルネーゼ(B.C53年)サードニックスで創られた、精巧なグレコ工ジプトの初期のカメオ。人々はエジプトの神々を表わし、裏例にメドゥサの顔が彫られている。かってパウロ2世の手許にあり彼の死後は、メディチ家のロレンツォの所有となる。現在ナポリ考古学美術館所蔵。(直径200mm)」近づいて。そして。最後に展示総数1,000点以上!圧巻の「ジュエリー販売展示場」へ。これは鑑賞品「瑞祥鳳凰」。「金細工画--松竹梅--日本の熟練した職人が生み出す金のアート。薄さ0.5mmの18金のプレートを一枚一枚切削し、丁寧に磨き上げ繊細なラインで季節等のモチーフを表現しています。松竹梅に鶴と亀は、お正月、また1年を通し最高の縁起物として飾っていただけます。ライトをかざし、浮かび上がるシルエットを楽しんでいただくこともできます。¥500,000-(税抜)※シリーズものとして、春(桜月夜)、夏(凱風快晴)、秋(紅葉)がこざいます。」近づいて。金箔の切り絵の如くに。「優駿」。「伝統工芸品 甲州水晶貴石細工山梨県水晶美術協同組合は経済産業大臣指定 山梨県郷土伝統工芸品認定の団体です。」「水晶五重の塔」。近づいて。「ラピスラズリ名石 駿馬八福ラピスラズリには「成功を保証する」という象徴的な力があり、洞察力、判断力を高めて富と強運をもたらす宝石といわれています。産地はパキスタン・ロシアなどで、「駿馬八福」に用いられた名石は、特に変化に富んだ美しさをもっています。」近づいて。ラピスラズリを原料とした青色顔料に天然ウルトラマリンがある。天然ウルトラマリンはラピスラズリを精製して製造する。ウルトラマリンとは「海(ラピスラズリの場合は地中海)を越えて」きたものという意味。なおウルトラマリンの内、青色のものをウルトラマリンブルーと呼ぶ。19世紀にはウルトラマリンは人工顔料として合成されるようになる。また、フェルメールが天然ウルトラマリンを多用し傑作を残した事から「フェルメール・ブルー」として特に称される。さらに「ジュエリー販売展示場」を散策?する。販売員も買ってくれそうな客を探して!!「瑞龍」、¥19,800,000!!と。様々な宝石。再び「アメジスト(アメシスト)」の原石。「アメジスト(アメシスト)伝統的にアメジスト特有の効力とされているのは酔い覚ましだが、1 5世紀には他にも多くの力があると考えられていた。1 5世紀のイタリア人天文学者、カミロ・レオナルドは、アメジストには邪悪な考えを制御し、知性を高め、商才を授ける力があるとみなした。アメジストを身につけると酔いが覚めるが、酔いをもたらす飲み物を何杯も飲みすぎた者だけではなく、愛情で気持ちが高ぶりすぎている者にも効果があった。さらに、兵士をケガから守って敵との闘いに勝利をもたらし、野生動物を捕らえる猟師にとっても大きな助けとなった。他の多くの宝石のように、身につけている人を伝染病から守る力も持っていた。」「このアメジストの突鉱(原石675kg )は1994年ブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州のポルトアレグレ市にて仕入れたものです。濃い紫色、形と大きさが整った結晶が集合した大型クラスクーは大変珍しく、放たれる高貴な輝きに一目で惚れてしまいました。アメジストは月の女神ディアナに仕えた美しく汚れなき女性です。今はアンブローズを護る女神として、ここアリアに鎮座しています。皆様もアメジストのカ、輝きを体中に充満させて、落ち着いた心で健康に日々をお送りください。アンブローズアンドカンパニー株式会社 代表取締役 堀内信之」窓から外の新緑を。ここにも「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンク は、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞 報告が。ここにも水晶が。そして屋外に出て再び白き富士山の山頂をズームして。石庭には多種の宝石の原石が置かれていた。宝石原石に負けじと花々が。バーベナタピアン?ノースポール。キンギョソウ。そして白のツツジの花。「間ノ岳」をズームして。「間ノ岳」は標高3190mで日本第3位の高峰であり、日本百名山の一つ。北岳、農鳥岳とあわせて白根三山と呼ばれている。白根三山の中央に位置し、山頂、山稜ともに広大で、東面のカールや二重山稜の地球で地球の歴史が学べる。主稜は展望もすばらしく、爽快な稜線歩きが楽しめる。また、北岳とは違う植生も楽しめる。山頂は静岡県との県境であり、大井川の源流を擁している と。先程覗いた楕円形の窓が。再び白のツツジの花を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.22
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この日は4月27日(木)、J:COM主催の甲斐・信州日帰りの旅へ参加。J:COM会員は1名は無料招待、同伴者の旅行代金は20%・6000円と。主な訪問場所は●標高1,200mに咲き誇る満開の桜「蓼科山聖光寺」●渓谷美と黄金温泉で贅沢すぎるひとときを「横谷温泉・横谷渓谷」小田急線の隣の駅の「湘南台駅前」を6:30の出発とのことで地元の駅に向かって徒歩で向かう。途中、民家の前庭には見事な藤棚そして紫の藤が満開であった。ご自分で藤棚の手入れをされているのであろうか?1m近くの濃い紫の花房が「ぎっしり」と。早朝の陽光を浴びて輝く紫の花房は優雅そのもの。ズームして。そして小田急線に乗り、集合場所の湘南台駅東口へ。既に多くの参加者が、観光バスの到着を待っていた。参加者は80名以上で、2台のバスに分乗して定刻に湘南台東口を出発し、東名高速道路の綾瀬スマートICに向かって進む。神奈川県道403号線を進む。左に「藤沢北警察署」。県道42号線・綾瀬中央通りから富士山の勇姿を見る。いつも訪ねている「ハンディーホームセンター綾瀬店」前から。東名高速道路入口の「綾瀬スマートIC南側」手前。「ETC入口」を見る。富士山山頂をズームして。東名高速道路を進むと左手にあったのが「海老名SA」。「海老名JCT」から「首都圏中央連絡自動車道・圏央道」に入り「八王子JCT」に向かって進む。左手の「相模川」越しに「大山」と「富士山」の姿が。「小田急電鉄小田原線」の「相模川橋梁」を。渋滞もなく、「八王子JCT」から「中央自動車道」へ。「初狩PA」手前から。富士山を追う。笹子町の山々の新緑も美しかった。ズームして。その後も中央自動車道をひたすら走り「一宮御坂IC」で「中央自動車道」を降り最初の訪問場所の「甲州わさび漬センター」に立ち寄る。山梨県笛吹市御坂町金川原1185。駐車したバスの中に女性店員が乗り込み、店内の説明があった。そして案内され店内に進む。最初に5種類の「わさび漬け」試食コーナーがあった。試食する旅友たち。既にお土産を購入する旅友たち。ある意味で、この旅行は土産物購入ツアーなのであった。3ケのわさび漬けで1200円と。店内には祭壇があった。狸(タヌキ)の姿が。「紫水晶・アメジスト」の原石。石でできた花。ポスター「近くの故郷(ふるさと)、こうふ。」墨書で様々な言葉が。「白水晶 小菊」。今回の観光バス。「甲斐・信州日帰りの旅 56号車」。横から。駐車場から見えた南アルプスの白き山々。右が「間ノ岳」、左が「農鳥岳」であっただろうか。 ・・・つづく・・・
2023.05.21
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「林泉寺」の藤棚を楽しんだ後、道路の向かいに神社があったので、この日の最後に訪ねた。神社の名前は「山神社(やまじんじゃ)」。道路を渡り、「山神社」の石製の「一の鳥居」へ。静岡県伊東市荻65。扁額も「山神社」と。その下には、歴史を感じさせる色合いの、「前垂れ」が3本ついた大きな「注連縄」が奉納されていた。通常の縄は右へねじりますが、しめ縄は左回りでねじった左綯(ひだりな)いになっており、古くから左側は「神」右側は「俗(日常)」と考えられており、逆向きに編まれているのが特徴とのこと。伊東市には「山神社」と書き、「さんじんじゃ」と読む神社が1社、「やまじんじゃ」と読む神社が3社あり、そのうちの1社がここ と。参道の前方右手には「手水舎」が。「伊東市指定 天然記念物 山神社のムクノ木(群落) 伊東市・萩」と案内柱が。ムクノキという名前の由来には、木が古くなると樹皮が細長い剥片となってはがれる「剥く」、木工用のヤスリになるため「木工の木」、枝葉がよく茂るため「茂くの木」、ムクドリが好んで実を食べる「椋鳥の木」などが転訛したとされる。漢字表記は「椋」のほか「樸樹」など と。ムク(椋)の木はニレ科の落葉高木。関東地方から西に分布している。伊豆では低地にみられるが、この神社の社叢のように大木がある面積にかたまっているのは珍しいとのこと。樹幹はケヤキより赤っぽい。果実が秋に黒く熟し、食べると甘い と。伊東市内の音無神社👈リンク にも大きな木があると。境内のいたるところにムクの老木が茂っていた。見上げて。「ムクノキの葉」をズームして。葉は長さ5~10センチ、幅2~6センチほど。細長い楕円形だが左右非対称で縁に鋭いギザギザがあり、先端に向かって徐々に細くなる。葉の表面に光沢はなく、両面とも細かな剛毛があってザラザラしており、乾燥させた物は、紙ヤスリ代わりに桐の箪笥などの家具、象牙、鼈甲(べっこう)、漆器の木地などを研磨するのに使われるのだ と。緑の実もついていた。実際にこの手で触ってザラザラ感を体験したかったが、手の届く場所には・・・。「ニの鳥居」とその先に「拝殿」。二の鳥居の扁額は「三社宮」。「山神社鎮座地 伊東市荻六五番地御祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)例祭日 十月十五日由緒創建は詳かでないが、元禄十五年八月再建の棟札、並びに元禄年間奉納された鰐ロ等から判断すると、江戸時代初期以前に建立され、山村神社として信仰、崇敬されていた由が分かるが、社殿は幾度かの火災によって、記録を留めた資料はなく、その証を顕著に示しているものは、境内地に繁茂する推定四〇〇年、六〇〇年を越えた老杉、欅や、伊東市より天然記念樹と指定されたムクの木がある。」狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」。「拝殿」の「本坪鈴」と「扁額」を見上げて。「内陣」。「神宮大麻をおまつりしましょう」と。神宮大麻の「大麻」とは、本来「おおぬさ」と読み、神々への捧げ物、お祓いの際に用いられる木綿や麻を指す。 このことから、厳重なお祓いを経て授けられる清らかなお神札を「大麻」と呼ぶようになった と。ズームして。奥の扉は閉じられていた。内陣の扁額も「山神社」。「宗教法人 山神社 沿革」碑。宗教法人 山神社 沿革祭 神 大山祇命 (おおやまぐいのみこと)例 祭 十一月四日 現行 十月十五日由 緒 當神社の創建年月は不詳なれど、神木の樹令などから考察して五百年以前と推定せられ 寛文十年(1671)正月御西霊元天皇の御代 小岡村崇敬者により鰐口が奉献しあり三百年 以前當時の社の姿を彷彿せるものあり。元禄十五年(1703)八月 東山天皇の御代社の老朽 甚だしきに至り小岡村氏子中により此の地に再建す。文化十三年(1804)十月荻村土屋五左 衛門氏願主となり氏子中と共に初めて石の鳥居を奉献せり。宝暦十年九月同じく石燈籠の 奉献あり其の後明治に至り六年(1873)九月賀茂郡荻村社に列すとの棟札あり。明治十三年 社殿漸やく腐朽し来るにより荻村氏子改築の計を立て當時富戸村棟梁田畑某の弟子荻村政 水傳兵衛氏により前の本殿、拝殿を建立せり。明治二十二年(1889)二月川奈、吉田、荻 十足四村を統合し小室村となり、郷社 山神社となる。大正五年(1917)小室村社となる。 昭和に至り二十年(1945)八月世界第二次戦争の終戦を迎え 二十六年政宗分離による宗教 法人法施行せられ宗教法人 山神社となる。爾来再三に亙り補修を加え来るも神殿を除き 本殿拝殿及び庁舎の腐朽甚だしきに至り四十六年氏子総代相議り神社本庁の認可を得て此 等改築に着手し昭和四十六年八月十三日社務所並びに手水舎を竣功せしめ翌四十七年十月 十五日本殿、拝殿の竣工並に鳥居、狛犬燈籠の建立、幣殿拝殿の内装を完了せり。 ・・・・関係者の名が刻まれていた・・・・ 昭和四十八年(1973)九月 伊東市荻氏子中 建之「山神社本拝殿改築社務所新築寄附芳名(畧敬稱) ・・・・寄付金額と芳名が刻まれていた・・・・」拝殿の蟇股部分はシンプルな彫刻だが、彩色が施されていた。中央に社紋の巴紋があり、左右は鳳凰のモチーフに見えたが。「本殿」を横から見る。そして「山神社」を後にして、「林泉寺」の駐車場のへと。正面に2つの藤棚を再び。駐車場横の藤棚も見納め。これでもかと、カメラで追ったのであった。そして駐車場横にあった石碑群。庚申像群であっただろうか。そしてこの車が、旅友の新車。日産「ノート(NOTE)」とのこと。ガソリンエンジンで発電し、モーター走行する典型的なハイブリッド車・「e-POWER(イーパワー)」と。「e-POWERとは、日産が開発するハイブリッドシステムのこと。初めて採用されたのは2016年に発売した「ノート e-POWER」👈リンク。のちに発表された「セレナ e-POWER」とともに、e-POWERを搭載したことで大ヒット車種となりました。e-POWERの仕組みはEV(電気自動車)に近いと言われていますが、厳密には違います。e-POWERには通常のハイブリッドと同じように、エンジンと電気モーターが搭載されています。しかし車を走らせるために使用するのはモーターのみで、エンジンは発電のみに用いられます。駆動用のバッテリー残量が十分な時は、発電用エンジンは停止し、リチウムイオンバッテリーで走行。バッテリ残量が少なくなると、ガソリンエンジンで発電した電気を駆動用バッテリーに充電しながら走行。ガソリンエンジン車のエンジンブレーキの代わりにモーターを使って減速することを回生ブレーキと呼びます。減速するときに発電するため、発電した電力でリチウムイオンバッテリーを充電することができ、エネルギーを無駄にせず燃費を良くすることができます。」と日産のHPから。そして「林泉寺」を後にして帰路へと。「中伊豆BP入口」交差点を右折し静岡県道12号線・伊東修善寺線に入り、北上し伊豆急行・「南伊東駅」入口を通過。海岸に出て「大川橋」交差点を左折して国道135号手前の道を進みBP.伊東駅入口から国道135号を「伊東オレンジビーチ」を右に見ながら進む。前方右の海越しに伊東市宇佐美にある「伊豆ビューグランドハイツ」を見る。「宇佐美海水浴場」前を通過。「新宇佐美トンネル」710.9m。「御石ヶ沢トンネル」536.1m。前方遠く真鶴半島が姿を表した。熱海市網代の「立岩トンネル」を出る。前方に熱海の海が。下多賀を通過。長浜海浜公園方向を見る。熱海市渚町の「初川橋」を渡って進む。「東海岸町」交差点を通過。右手に「貫一お宮之像」。真鶴半島が大きくなる。国道135号は渋滞が始まっていたので山側の県道740号線・小田原湯河原線を利用。根府川で再び国道135号に合流、前方には大山、丹沢山、蛭ヶ岳の姿が。前方に小田原市街を見る。「小田原城」をズームで。「新早川橋」を渡って「西湘バイパス」へ。西湘バイパスで平塚方面へ。「酒匂川」に架かる「西湘バイパス酒匂橋」を渡る。「酒匂川」上流側を見る。西湘バイパス「橘料金所」。ゴールデンウィークは休日割引適用外 と。「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。外車のクラシックカー?であろうか。「柳島」交差点を左折し産業道路から湘南ベルブリッジを見る。そして国道1号を利用して茅ヶ崎の旅友邸に到着し、我が愛車に乗り換えて帰宅したのであった。この日の走行ルート。走行距離は〇〇kmであった。旅友Sさん、新車の運転お疲れ様でした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.20
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「林泉寺」の境内の散策を続ける。本堂の左奥にあったのが、旧落雁堂、六角堂の「水子堂」。手前には、この時期でも真っ赤に色付いたモミジが。新芽から赤い「ノムラモミジ」であろうか。春に出る新芽から赤く、そこから秋に葉が落ちるまでずっと赤いのが最大の特徴。 「ノムラモミジ」はアントシアニンという色素が多いため、ずっと赤いのだと。 差し色(アクセントカラー)として江戸時代から庭木として親しまれ、古くは「武蔵野」という名前で呼ばれていたと。内陣には「水子地蔵」が。近づいて。子どもを抱いている水子地蔵は、別名を子安地蔵(こやすじぞう)とも言い、本来は妊婦の安産を守護してくれる地蔵尊。あるいは子どもをなかなか授からない人のために、妊娠の計らいをしてくれる存在でもあるのだ と。その先にあった墓石群。太平洋戦争で亡くなった陸軍兵士の墓が並んでいた。合同墓であろうか。台座には「南無」と。「南無」とは「仏様に帰依します」という意味を持つ言葉。南無とは「なむ・なも」と読み「仏や三宝などに帰依します」ということを表す仏教用語。 帰依とは、神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従って威徳を仰ぐこと。山の下にも古い墓石が並んでいた。引き返して再び手入れの行き届いた境内の池を見る。石仏の姿が。これも羅漢様であろうか。水面には庭園の木々が映り込んでいた。ズームして。裏山から湧水が引かれているとのこと。この湧水は、荻地区に水道が整備されるまでは、地域の生活用水として大切に使われていた。湧水地点は、山の林の山腹に掘られた横穴だが、足場が悪いため、訪れるのはおすすめしない と。清らかな湧水が勢いよく。池の前から再び藤棚を見る。左手が本堂。庚申塔。二体の羅漢像の後ろの大きな岩の手前は、金剛杖?を持った庚申像であっただろうか。林泉寺は伊東七福神の「福禄寿」を祀っているがこれは「布袋様」か。熊手を持つ石仏があったが・・??寺務所。本堂を後にして再び六地蔵を。樹齢約300年の大木のフジで、大きさは目通り周囲1.5メートル、枝張りは約13メートル四方に及ぶとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.19
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「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」には入園しなかったので、急遽、これに変わる場所をスマホで検索。そして、伊東市荻にある「伊東温泉七福神」のひとつである曹洞宗寺院の「林泉寺」の境内にある藤棚が県内有数の藤の名所として知られいることを知る。1970年に静岡県の天然記念物にも指定された、樹齢200年超の藤の大木が2株あるとのことで、この寺をこの日の最後に訪ねることとする。「アンティークショップ さくらさくら」を後にして、国道135号線に戻り北上する。途中左にあったのが「いろり水産」。「伊豆のお土産といえば海産物、当店では干物は常に10種類以上揃えてあります。日本一の水揚げを誇る伊豆の金目鯛はもちろん、伊勢えび、あわび、さざえ、お酒がとまらない塩辛など、海の幸が盛りだくさん。その他にも伊豆特産の『ぐり茶』、『わさび漬け』なども取りそろえております。駐車場は小型車30台完備、大型バスも20駐車できます。生干しのイカの看板が目印!伊豆に来たら、ぜひ、お立ち寄り下さい。」とHPから。途中「梅ノ木平」交差点を左に進みし、「一碧湖」方向に進む。「一碧湖」湖畔につきあたり右に進み、ナビに従いこの先を左折して進む。そして静岡県道351号線に合流し進むと、右手にあったのが目的地の「林泉寺」。境内の「駐車場」に車を駐め、「林泉寺」の散策開始。境内入口から寺号標石「林泉禪寺」そして「藤棚」を見る。寺号標石「林泉禅寺」に近づいて。その隣に「静岡県指定 天然記念物 林泉寺のフジ 伊東市・萩」案内柱寺号標石「林泉禅寺」の隣に「南無阿弥陀佛」碑。境内そして本堂を見る。「伊東温泉七福神」のひとつである曹洞宗寺院の「水東山 林泉寺」の境内にある藤棚。県内有数の藤の名所として知られ、1970年に静岡県の天然記念物にも指定された、樹齢200年超の藤の大木。境内参道の左側と本堂入口の2株が見えた。大きな藤棚の前に。花房が長いものでは150cm近くにも及び、貫禄ある美しさ。藤棚を見上げて。紫の世界に暫し閉じ込められているが如し。先端の開花はこれからの房も。「県指定天然記念物林泉寺のフジ林泉寺は、約500年前に建立され、薬師如来像、日光月光菩薩を御本尊とし、今から約300年前に信者がフジを寄贈しました。花の長さは最高1m50cmにものび、平均90cmの紫色のフジが咲き乱れます。 目通り1m55cm 枝張広さ30cm 指定 昭和45年6月2日 伊東市教育委員会」本堂への参道側に廻り込むと「六地蔵」が。すべての生き物は6種類の世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)で生まれ変わりを繰り返すとされていて、そのすべての世界で苦しむ人々を救ってくれると言わている六体並んだお地蔵様を「六地蔵」と呼んでいる。赤いよだれかけと頭巾を付けているこの地蔵様。地蔵様は子供を守る神様として信仰される事も多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけや丸い頭にかぶせる頭巾を奉納するのだと。ではなぜ赤いものを付けているのか?赤という色は、清く正しい正直な色と信じられており、魔よけの意味もあり、赤ちゃんやお地蔵様に赤いものを着せる風習があるのだと。よく知られている長寿のお祝いの一つである還暦でも赤いものを身につけるが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、地蔵様や赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られているのだと。持ち物、地蔵名については諸説あるようであるが左から「宝珠(ほうじゅ)」を持つ「持地(じじ)地蔵」:「修羅道」を救う。「幢幡(どうばん)」を持つ「宝印地蔵」:「畜生道」を救う。「経巻(きょうかん/お経を記した巻物)」を持つ「日光地蔵」:「天道」を救う。「合掌印」の「除蓋障地蔵(じょがいしょう)」:「人間道」を救う「左手に宝珠 右手に錫杖」を持つ「壇陀地蔵」:「地獄道」を救う。「柄香炉(えこうろ)」を持つ「宝珠地蔵」:「餓鬼道」を救う。場所を移動して。藤棚は鉄骨製。振り返って。そして本堂前には、もう1本の藤の樹が。藤棚の手前には、酒を飲みながら語り合う赤い頭巾の羅漢像の姿が。瓢箪から「まあ、一杯」とばかり酒を注いでいる羅漢像(左)。瓢箪には泉の文字が確認できたが。盃(さかづき)で酒を受けるホロ酔い気分?の羅漢像(右)。この二人の羅漢像と酒を酌み交わしたいと思ったのであった。仲良く語り合う羅漢像の姿も。この姿を見ているのは心温まる時間であったのだ。本堂手前の藤棚の下へ。藤棚の奥に「本堂」の姿が。藤棚を見上げて。こちらはパイプ棚。歴史を感じさせる見事な太さの幹。右側は1711年に植えられた樹齢300年あまりと。ひだりにももう1本。よって合計3本の林泉寺の藤。こちらの花房も150cm以上か。ここにも六地蔵が。藤棚越しに本堂の姿が。ズームして。本堂の正面から。山号を「水東山」と称する「伊東温泉七福神」のひとつで、草創期を1545年の覚隣により真言宗より回収された時とする曹洞宗寺院。本堂には、御本尊である釈迦如来像をはじめ、幸福・財産・長寿の三徳を兼ね備えた福禄寿の他、江戸時代の1802年に当地に移ってきた際に安置された薬師如来像と月光菩薩像、一刀彫りの三十三体観世音菩薩像がある。毎年5月8日には、三十三観音大祭が執り行われる。見事な彫刻。扁額「林泉寺」。道元禅師の文字も。「藤の花志納 ひと口500円 玄関にて2口より林泉寺特製オリジナル和ろうそくをプレゼント」と。内陣。圧倒されるような黄金の天蓋(てんがい)が。ズームして。御本尊の釈迦如来像。更にズームして。比較的新しそうな本尊であったが。斜めから。本堂前、左側にある池のある日本庭園。本堂前から藤棚を見る。緑と紫の競演。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.18
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「小室山つつじ園」を楽しんだ後は、伊東市富戸にある「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」を目指して進む。国道135号を伊豆高原方面に南下する。途中、県道109号線へ左折し進み伊東市富戸のこの交差点を右折。そして「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」に到着。城ヶ崎海岸を背景に230種類以上のあじさいや四季折々の花々が「癒し」を与えてくれる、伊豆シャボテン動物公園グループの「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」。ここが入口門。入口のゲート越しに内部を除いたが、花もピークを超えているような気がしたのでここは、パスすることにした。内部の別館には、約120年前に作られたティファニーのテーブルランプやウィンドウパネルなど珠玉のステンドグラス作品を70点ほど展示しているので見たい気持ちもあったが、入場料も1,500円と高価なことも・・・。入口門の左が城ヶ崎の名所となっている長さ48メートル・高さ23メートルの海の吊橋・「門脇つり橋」👈リンク への遊歩道への入口であった。出店でソフトクリームを楽しむ。二人共、抹茶ミックスを。そして隣にあった「Antique & Shop さくらさくら」を訪ねた。アンティーク中心のみやげの店「さくらさくら」。「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」内にあった「TIFFANY LAMP MUSEUM」のポスター。「展示室とカフェを併設しています。一歩足を踏み入れると、ランプやステンドグラスパネルが煌めく夢空間へ再び舞い降りたような感覚になります。そしてアンティーク家具の中に並ぶ美しいファブリルガラスの器たち。ステンドグラスやアンティーク作品を眺めながらカフェでひと休み。贅沢なひとときをどうぞ。」と店内に入る。様々な種類、色の「アロマライト」が並んでいた。「コンセント型アロマライトセルジョーク」モザイク模様が美しいお洒落なアロマライト。香りを楽しむアロマランプとして使うものと。それぞれの「コンセント型アロマライト」に近づいて。「アロマライト」「アロマライト」とは 電球やヒーターなど、電気の熱を使って精油(エッセンシャルオイル)を温めるディフューザーのこと。温まった精油の香り成分を、空気中に拡散させ香りを楽しむことができるのだ。これも一つ一つ近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.17
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「小室山観光リフト駐車場」横にあった案内板。「小室山公園案内図小室山公園は、一年を通して楽しめる自然公園です。海抜321メートルの山頂ならは360度の大パノラマがひろがり、つつじ、つばき、小室桜をはじめとする四季折々の花は公園全体を彩ります。」「小室山公園 つばき園約15,000平方メートルの地に1,000種4,000本のつばきが植栽され、10月上旬から咲き始め月中旬までさまざまな種類を観賞できる、日本一の規模を誇るつばき園です。見頃を迎える2月中旬なら3月中旬には「つばき観賞会」が開催され、可憐なつばきの一輪挿しの展示などが行われます。園内にある庵「富士見亭からの、咲き誇るつばきと富士山の眺望も見事です。」「つつじ園公園の西側麓には、約35,000平方メートルに40種・10万本のつつじが植栽されているつつじ園が広がっており、4月下旬頃から5月初旬までの開花時期には、園内は赤い絨毯を敷き詰めたようにつつじが咲き誇り、つつじの絨毯と富士山を望むことができます。4月29日~ 5月5日の小室山つつじ祭りは市内外から多くの観光客が訪れます。」「山頂からの眺望観光リフト、遊歩道で向かう小室山山頂からは富士山をはじめ相模湾と伊豆の島々、天城連山など、360度の眺望をお楽しみいただけます。」「小室神社小室神社は、元禄十六年(1703年)の大地震によって被害を受けた小田原領の西方鎮守として、広く関東一円の沿岸を望み見る小室山山頂に建立されました.地震・海難・火災・疫病から人々を守り、復興を見守る神として信仰されています。」「伊東市」案内板。「伊東市観光マップ春は10万本のつつじと桜、10月中旬なら4月中旬にかけて咲きほこる4.,000本のつばきなど、一年中楽しめる花の名所です。標高321mの山頂までは観光リフトがあり、山頂からは伊豆七島や天城連山など、360度の景観を楽しむ事ができます。」。「伊東市 地図」。「現在地周辺の観光スポット1.道の駅 伊東マリンタウン2.東海館 👈リンク3.一碧湖4.松川湖5.さくらの里・大室山6.城ヶ崎海岸 👈リンク」「小室山公園」碑を再び。「小室山リフト山麓駅」を訪ねた。「小室山リッジウォーク MISORA」「Cafe・321」「展望ブリッジ」「山頂の自然な起伏を活かしたボードウォークからは、北に富士山、東には相模灘や房総半島、南には伊豆諸島、西には天城連山など雄大な景色が360°広がります。」「展望ブリッジ(カフェ利用者専用スペース)山頂の自然な地形を活かし、地中に潜り込むようなカフェ。店内からは相模灘と伊豆大島などが眺望できる絶景ビュースポットです!」「カフェ店内」「リフト乗車運賃表大人 往復 800円 片道 500円」「小室山専用リフト」を見上げて。標高321mの小室山の山頂までは、リフトで約5分。今では珍しいレトロなシングルリフト。「小室山観光リフト駐車場」の北側にあった芝生広場中央の作品。地元彫刻家の重岡建治氏作の平和モニュメント「愛のモニュメント」原水爆禁止伊東市協議会と憲法9条を守る伊東市民の会が市に寄贈した作品で、高さは台座部分を含めて3.2メートル。重岡氏が手掛け、2011年に新築された中国・北京の日本大使館に設置された像とほぼ同じ形とした のだと。「愛のモニュメント K.SHIGEOKA」と。そして再び上って来た階段を下る。この右側に冨士山が見えるのだが。オレンジ色のつつじ。「レンゲツツジ」であっただろうか。斜面を見上げて。写真を加工してみました。つつじのトンネルに向かって進む。ここが最初のトンネルか?身長よりも高いつつじが通りの両脇を覆い、色鮮やかなつつじに囲まれるのであった。最盛期であれば(ネットから)。この辺りは今が盛りと。トンネル出口付近。例年「つつじ祭り」の期間中は、見頃に合わせてライトアップ(19:00~21:00)を開催!闇に浮かぶツツジも、昼間とは違って幻想的な美しさでお薦めと。特にこの"つつじのトンネル"は一見の価値があるとのこと。駐車場に向かって戻る。そして最後に小室山リフトをバックに。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.16
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ナビに従い「小室山公園駐車場」に到着し、「小室山つつじ園」の散策開始。「小室山」の山麓に広がる「つつじ園」には約35,000平方メートルにおよぶ園内に40種類・約10万本ものつつじが植えられているとのこと。残念ながら、この日は既に花のピークは過ぎていた。ネットによると10日前の4月15日(土)前後が満開のようであった。ウィキペディアによると「ツツジ(躑躅、映山紅)は、ツツジ科の植物であり、学術的にはツツジ属(ツツジ属参照)の植物の総称である。ただしドウダンツツジのようにツツジ属に属さないツツジ科の植物にもツツジと呼ばれるものがあるので注意が必要である。主にアジアに広く分布し、ネパールでは国花となっている。日本ではツツジ属の中に含まれるツツジやサツキ、シャクナゲを分けて呼ぶ慣習があるが、学術的な分類とは異なる。最も樹齢の古い古木は、800年を超え1,000年に及ぶと推定される。」「ツツジ」とよく似た花に「サツキ」があります。ツツジとサツキの一般的な違いを表に纏めたものをネットから。花の大きさ、雄蕊(おしべ)の数、葉の大きさ、開花時期に判りやすい違いがあるようだ。花の色、ツツジの種類により開花時期が微妙に違うようであった。サツキの名の由来は「旧暦の5月頃に花を咲かせるから」と見当が付きますが、ツツジの由来はよくわかっていないと。ツツジは花が筒状になって、連なり続いて咲くことから『つつじ』となったという説もあると。これは「オオムラサキツツジ」であっただろうか。よく見かけるので、ただ「ツツジ」と言ったときにはオオムラサキツツジを指すことが多いのでは。「ツツジ属の植物は低木から高木で、葉は常緑または落葉性で互生、果実は蒴果である。4月の春先から6月の初夏にかけて漏斗型の特徴的な形の花(先端が五裂している)を数個、枝先につける。また合弁花類である。ツツジは「躑躅」と書くが、「見る人が足を止めるほど美しい」という言われに由来する。「躑」と「躅」はいずれも、たちどまる、たたずむ、の意である。ツツジ属の花の花弁には斑点状の模様が多く見られる。これは蜜標(ガイドマークとも)で蜜を求める昆虫に蜜のありかを示している模様であることがよく知られている。蜜標によって花に潜り込む昆虫による受粉ができるように雄蕊がついており、雌蕊の柱頭は蜜標のある方に曲がっている。」と。一度はツツジの花の蜜を吸った経験があるといった方も多いのでは。そういう自分も。そして我が趣味のミツバチも。それぐらい身近な存在のツツジ。中心が濃いピンクのツツジ。名は?品種改良により造られたものか?この辺りは既にエピローグへと。向かいの斜面にも濃いピンクと薄いピンクのツツジが一面に拡がっていた。階段を上る人の姿が。ズームして。濃いピンクと赤のコラボ。振り返ると。再び斜面を。一面の赤は迫力満点であっただろうが。ネットからピーク時の写真を。自動車の走る道路沿いを。道路沿いの左側にあったのが「小室山 五俳人の句碑小室山を詠む●恋すてふ落暉追ひ落つ寒椿 恭子 『この歌は、恋愛の終わりと季節の移り変わりが対比され、哀切な雰囲気が描かれています。 寒い冬の椿が枯れ落ちる様子が、別れた恋人の追憶や寂しさを象徴しています。』●鄙ぶりのくれなゐ強き椿かな 茂雄 『この歌は、地味でありながらも美しく、厳しい環境でも力強く生き続ける椿の姿勢を 称えています。』●つつじ燃え伊⾖の近か富⼠親しうす 南畦 『この歌は、伊豆の地で見られる美しいつつじの花が、富士山の近くにあることで、さらに 魅力的に感じられることを詠んでいます。』●人語絶ゆるまて繚乱とつゝし燃ゆ 龍人 『この歌は、人々の言葉が絶えるほどの混乱や熱狂が交錯し、情熱的に咲き誇るつつじが 燃え盛る様子を詠んでいます。』●神々の襖をはづす五月富士 器」 『五月になると富士山の周辺で神々が舞い降り、神秘的な光景や出来事が繰り広げられる様子を 表しています。襖(ふすま)は障子や板戸のことであり、それを開くことで神々の存在が 明らかになるという意味合いです。 この表現は、五月の季節における富士山の神聖さや神秘性を象徴的に表現したものとして 使われます。また、文学や詩の中でも、五月富士の美しさや神秘性を表現する際に用いられる ことがあります。』歌の文字の詳細は、文字の達人・師匠が教えて下さいました。 『』内はchatGPTに歌の内容を聞いてみました。句碑「小室山を詠ふ」の説明碑伊東市俳句連盟では伊東市文化協会の主催により例年伊東温泉つつじまつり俳句大会を開催しておりますが、本年第五回大会を迎えるに当りこれを記念して選者五先生の御染筆により句碑を建立しました。選者名 渡辺恭子 曲 水主宰 島村茂雄 笛 主宰 河野南畦 あざみ主宰 小笠原龍人 塔 主宰 神蔵 器 風 土主宰副碑裏面 文字なし昭和六一年四月」階段の途中から振り返って。ツツジやシャクナゲの花びらについているテンテンとした斑点模様。「これは花の模様か?」、「何か意味があるのか?」このツツジの花は、斑点模様が、上部にある1枚の花弁だけにくっきりついていたが。ネットで調べてみると、「これは昆虫に蜜のありかを知らせる、道しるべの「密標(みつひょう)」です。ガイドマーク、ハニーガイド、ネクターガイドなどとも言われてます」と。蜜標の付いている花びらの元は筒状に丸まっている。その奥に蜜腺があるのだ。この薄ピンク色の花では蜜標がよく目立ちますが、赤や白色の花ではあまり目立ちません。しかし、密標は人の目に感じられない紫外線を出してるとのこと。紫外線は、ヒトの眼には感知されませんが、植物にやってくる昆虫たちの眼には感知されることが分かっている と。階段を頑張って上って行った。そしてここでも振り返って。ズームして。下の写真と比較して下さい。10日前には!!(ネットから)。私の写真は▢の部分であるが。階段を上りきって進むと前方に見えたのが、「小室山」と「小室山リフト」。残念ながら、この日はこの写真の右側の「富士山」の姿は確認できなかったが。天候と時期が良ければ・・(ネットから)。更に丘の先には白い建物が姿を表した。左手にあった石碑には「みたまよ麗しくふる里にねむりたまえ」と。「平和への道標(みちしるべ)良い子の皆さんここに祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や川を守り日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、いくたびかの戦争の中でなくなられました。今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い心を受け継ぎ感謝の心をもって一日一日を大切にしてください合掌」「戦歿殉難者慰霊塔」への参道坂道。手前右手には「海軍の錨の墓標」が奉納されていた。参道を進む。「戦歿殉難者慰霊塔」。戦争で命を落とした同市の戦没者計約1500人を慰霊するために1967年に建てられた と。この慰霊塔の中に、「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」があり、東郷平八郎元帥の直筆が添えられているとのこと。 以下2枚の写真もネットから。「帝国在郷軍人会伊東町分会海軍部旗」と「昭和八年八月 元帥伯爵 東郷平八郎」と書かれた直筆。「帝国在郷軍人会伊東町分会 海軍部旗東郷元帥 直筆この海軍部旗は戦後処々を転々としていたが最後は松原区牧野秀吉氏が二十年間自宅に秘蔵した。今度慰霊塔が建立されたので「水漬く屍(みづくかばね)」となった同僚海軍将兵供養の為に(の)献じた東郷元帥は当時松原の別墅に閑居しておられた。」参道横の小高い丘の上にも石碑が。「忠魂碑」。「宇佐美忠霊顕彰会」と。「宇佐美戰没殉難者之碑」。ここには「航空隊のプロペラの墓標」が。白のつつじ。つつじの花には白以外の色があるのが通常であった。白い花は、突然変異で白く咲いたものを改良したのが今の白い花のつつじであると。ここにも「忠魂碑」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.15
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富士宮市内にあった「富士山本宮浅間大社」を後にして、伊豆半島・伊東市川奈にある「小室山つつじ園」を訪ねることにした。静岡県道76号・「富士富士宮由比線」を東に進む。「東高前」交差点を右折して国道139号「西富士道路」を南に向かって進む。正面に「新東名高速道路・第ニ東海自動車道」が姿を表した。「東名高速道路」の「富士IC」への誘導路下を通過。静岡県道353号線➡国道139号・富士清水線に入り、「今井」交差点手前から裾野市にある「愛鷹山塊(あしたかさんかい)」の山並みを見る。最高峰「越前岳」は、静岡県裾野市にある標高1,504.2 mの山。南方にあるのが1,187.5mの愛鷹山峰。日本二百名山の1つ。国道1号・「沼津バイパス」を東に進む。「位牌岳」~「愛鷹山」の山の端。沼津バイパス・「八幡」交差点先を進む。三島市南町を進む。この先200m・「三島玉川」交差点を左折すると三島駅へ。国道1号・沼津バイパスをひたすら進む。国道1号から南二日町IC高架下を通過し国道136号へ。「伊豆の国市」に入る。運転する旅友にとっては、思い出深い「伊豆の国市」なのであった。旅友の思い出の場所「江川邸」の案内が。「狩野川」を右に見ながら進む。国道136号・「道の駅 伊豆のへそ」手前を通過。「三福IC」から県道19号線・伊東大仁線に入る。この家には蔦?が全面に覆われていたが空き家なのであろうか?山道を上って行き、県道19号線・伊東大仁線の「亀石峠」を通過。この先を右に進み伊東市街に向かって進む。伊豆スカイラインの出口の一つでもある「亀石峠」。前方に太平洋・相模湾の水平線が現れた。ヘアピンカーブの先にあったのが巨大な船「安針丸」。こんな山の上に船が座礁?ファミリーレストランのようであったが現在は営業していないのであろう。按針丸(あんじん丸)、サン・ブエナ・べントウーラ号 San Buena Ventura (ship) 120tnsは日本で最初に建造された西洋式の大型帆船は、三浦按針(ウィリアム・アダムス)により江戸湾に係留されていたリーフデ号(慈愛号)が沈没すると、徳川家康の命で、最初は日本の港湾を調査する船として、伊東で80屯の小型帆船を1604年に造っていたが、やはり徳川家康の命で、1607(慶長12)年に三浦按針が指導し、リーフデ号をモデルとして、伊豆国伊東の浦賀で建造されたマ二ラ・ガルレオン型船「按針丸、120屯」であったのだが。その奥にあったのが「うさみ観音寺」。1982年に建立された、聖観世音菩薩を御本尊とする新法華宗の単位宗教法人とのこと。朱塗の大殿堂の中には、750年以上前につくられた仏像が。座像としては国内でも最大規模を誇る、高さ50mの「平和大観音像」や、2万体の「慈母観音像」、「大仏舎利塔」などがある新法華宗の寺。高台にあるので、宇佐美の町とその向こうに相模湾が見える。美しい景色を見渡せる眺望スポットでもある・・・・とネットには。しかし・・・・??伊東市の町並みが眼下に見えてきた。右手の白い建物は「伊豆ビューグランドハイツ」であっただろうか?前方にJR伊東線そして相模湾に浮かぶ「手石海丘」の姿が現れた。「手石海丘」は、静岡県伊東市の手石島北方約1.8km沖にある直径約450m、高さ約10m、最浅部の水深81mの海底火山。1989年(平成元)7月に伊豆東方沖で起こった「噴火」👈リンク によって誕生した。正面に国道135号。「亀石峠入口」交差点を右折して進む。遠く「ホテル サンハトヤ」の姿も確認できた。「ホテル サンハトヤ」の姿。「ハトヤホテル」は「静岡県伊東市にあるホテルのこと」。1947年開業であり、かなり歴史のあるホテル。テレビCMが非常に有名であり、静岡県の宿泊施設の中では知名度は相当高い存在。そしてこの「サンハトヤホテル」も「静岡県伊東市にあるホテル」。場所はほぼハトヤホテルと同じだが、こちらは1975年開業となっている。運営元企業はハトヤホテルと同じ富士商事とのこと。「サンハトヤホテル」の歴史はハトヤホテルよりは古いものの、全室オーシャンビューとなっており、海が臨めるロケーションが特徴。そして、施設内がテーマパークのような雰囲気であると言え、有名な海底温泉が存在する。また、ハトヤ大漁苑というレストランまで完備されている とのこと。その先にあったのが「道の駅 伊東マリンタウン」。「シーサイドスパ(SEASODE SPA)温泉という外観ではないが、「道の駅温泉」と書かれた、海が一望できる階段状の大浴場が人気の日帰り温泉施設。早朝営業もしていて、朝湯後に「マリーナ展望レストラン」で朝食も食べられる。」と。これから通過する伊東港方向を見る。高層の建物は「ラグジュアリー和ホテル風の薫 (Luxury Wa Hotel Kaze No Kaori)」。そして目的地の「小室山公園」の入口に到着し、ここを左折したのであった。「小室山公園 つつじ鑑賞会」と書かれた看板が正面に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.14
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「富士山本宮浅間大社」の境内の東側の散策を続ける。正面に大きな石碑が。「駿州赤心隊の碑」。石碑の下部には「赤心隊員」の名前が刻まれていた。隊長は富士宮浅間神社宮司富士亦八郎。隊員は鈴木五百重・鈴木楯雄・太田健太郎・森真魚尾・味地瀬兵衛・海野孫兵衛・浅倉勝三郎・名主 彦兵衛・佐藤真次郎・野口一郎・千葉小太郎・卯太郎・三浦千之助・先光右衛門・内藤浪江・大井求馬・八幡主膳 その他 と。「駿州赤心隊富士亦八郎重本 文政九年(一八ニ六年) ~明治三十年(一八九七年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ十五歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。ニ十歳で帰郷第四十四代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。東征軍に参加、駿川赤心隊を率いて幕軍と戦う。その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿川赤心隊顕彰の碑である。」この石碑は1934年に町民によって建てられたもの。その左隣にも「駿州赤心隊之碑建設趣意碑」が。近づいて。カタカナ混じりの漢字が刻まれていたが解読不能。湧玉池の畔に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれた石碑が立っていた。この首標は、昭和59年に浅間大社境内の土中から発見され、奉納者の子孫の方によって現在地に再建された。御神幸道というのは、神様が里宮と山宮を往来する道のことで、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている石碑であると。「当社より山宮神幸道五十丁を証する碑である。これは大宮郷の信心に秀たる同志が造立した。宇佐美忠善が中心となって行った。」というような事が刻まれているとのこと。奉納者には、春田・宇佐美・清・渋谷等の名前が見られ、子孫長久・家内繁盛・福禄円満等の成就を祈って建てたものである。造立年:元禄四年(1691)未年十一月 と。「幸道首評の碑👈リンク明治の初めまで行われていた「山宮御神幸」に利用された御神幸道の起点の碑である。御神幸は、舂秋の大祭前日に浅間大社と山宮浅間神社との間を祭神が往復」するもので祭神は鉾に宿って移動した。鉾を安置した鉾立石が、浅間大社の楼門前と山宮浅間神社の境内に残されている。御神幸道の5 0丁( 1丁は約109m )の間には、1丁目ごとに目安の丁目石が置かれていたが、現在その大分は確認することができない。」「特別天然記念物湧玉池」碑。後ろに見えた朱の橋が神路枚橋」。「国指定特別天然記念物湧玉池湧玉池は、約1万年前の富士山噴火によて噴出した溶岩流の末端に位置している。富士山に降った雨や雪が溶岩流の隙間に貯えられ、溶岩流の末端から押し出されるように湧き出し、池となったと考えられている。湧玉池は、富士山の湧水のうちでも規模が大きく、学術上貴重なものであることなら、昭和27年(1952年) 3月29日に特別天然記念物に指定された。また、湧玉池は世界遺産富士山の構成資産である「富士山本宮浅間大社」に含まれている。池の面積は約2,500m2。水温は四季を通して約14℃、水量は平均毎杪2. 1 m3 (平成25年度)あり、池から神田川に流れ出し、市内を流れている。浅間大社の社伝によると、噴火する富士山を水徳の神(浅間神)の力により鎖めるために、湧玉池の畔に浅間神社を建てたという。また、湧玉池は登山者が身を清めるために禊を行ったところで、室町時代の富士登山の姿を描いたとされる「絹本著色富士曼荼羅図」(国指定重要文化財 浅間大社蔵)には、湧玉池で禊をする道者(登山者)の姿が描かれている。」「湧玉池指定範囲図」写真右・石碑のある場所が「湧玉池」から「神田川」として流れ出る場所。「神田川」に架かる最初の橋が「神幸橋」。「国指定特別天然記念物 富士山御霊水 湧玉池(わくたまいけ)」。「神田川」として流れ出る富士山御霊水。「神田川」は静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社内にある湧玉池に源を発し、南へ流れ、同市浅間町付近で潤井川に合流する。湧玉の池は、富士山の雪解け水がおよそ15年かかって麓に湧き出た清水であって、夏冬通して水温は常に約13度である。市街地であるが天然のカジカが生息しており、上流部においては自然の渓流の流れが再現されている。「神幸橋」から「神田川」の下流側を見る。山を神体山として祀る神社のため、本宮はここ、富士山南麓(富士宮市街地)にありますが、奥宮は、富士山頂上にあるのです。ズームして。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が流れ出していると。25mプールを4~5秒で満杯にする水量!!神田川傍に立っていた石碑。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」 認定 平成20年6月25日 環境大臣 鴨下一郎」別の石碑も。「平成の名水百選「湧玉池・神田川」環境省では、全国各地域の生活に溶け込んでいる清澄な水や水環境の中で、地域住民等による主体的かつ持続的な保全活動が行われているものを「平成の名水百選」として認定しました。富士宮市からは「湧玉池・神田川」が選定され、これを記念し伝承するために記念碑を建立しました。 平成20年6月25日 富士宮市長 小室直義 」「湧玉池(下池)」に架かる左から「神路橋」、「川中島」に鎮座する「嚴島神社」そして「神路枚橋」。朱に塗られたアーチ状の「神路橋」をズームして。僅かに波だった水面を朱に染めていた。そして歩いて来た「湧玉池」岸の小路を引き返す。左側にあったのが「社務所別館」。再び「水屋神社」前の藤棚を見る。「湧玉池(下池)」の水面で真鴨たちも気持ちよさそうに戯れていた。ズームして。そして「水屋神社」を右奥に見ながら「東門」まで戻る。「東門」を潜り再び「富士山本宮浅間大社」の「本殿」を見上げた。こちらもネットソフトで切り絵にして見ました。「桜」の巨木・「信玄桜」の周囲にあった「絵馬掛所」。1568年より駿河へ侵攻し今川氏を滅亡へと追いやった、甲斐の武田信玄がお手植えしたとされる枝垂れ桜の2代目とのこと。絵馬掛所は、願いや目標が書かれた絵馬でぎっしりと!駿河湾の波、富士山、太陽がデザインされた絵馬。今年「令和癸卯歳(みずのとうどし)の宝船」の絵馬。そして御朱印を頂きました。御朱印と一緒に頂きました。「世界文化遺産 富士山本宮浅間大社主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと・浅間大神(あさまのおおかみ))相殿神 大山祇神(おおやまづみのかみ)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)創祀 紀元前二七年富士の荒ぶる山霊(噴火)を鎮める為、浅間大神を富士山麓にお祀りした。大祭 例祭 十一月四日 流鏑馬祭 五月五日富士登山 当社の境内地である富士山(八合目以上)は、夏期の間(七・八月)開山となり、 約三〇万人の登拝者で賑わう。 頂上には、奥宮並びに末社久須志神社が鎖座している。湧玉池 富士の湧水 国指定特別天然記念物 平成の名水百選」境内から見て「楼門」の左側にあった建物には「筆文字」が掲げられていた。「桜爛漫 望月飛秀」。「混混原泉湧玉池 佐野宮峰」。「苑石湖の詩 後藤里果」。「富士爛漫」。「富士爛漫」 兵庫県三田市 三谷祐資富士山の神様は木花之開耶姫の神様であり、又、桜を象徴する所から、神様のお姿を拝しながら、富士山を中心に桜花で飾る構図が浮かんだ。派手にならず大和的な良さも残しながら、右に山桜左に染井吉野、出来るたけ桜花で飾りたい。しかも富士山を邪魔しない。そして何よりも宇宙にまで抜けるような空の青さが欲しかった。ズームして。再び「富士山本宮浅間大社」の「拝殿」、「本殿」を見る。楼門前の流鏑馬の行われる「桜の馬場」では5月5日(金・祝)に行われる「流鏑馬まつり」の準備が行われていた。馬の走る馬場用の仕切りの柱の台座部分なのであろう。今年の「流鏑馬祭り」をネットから。ロープの張られた柱の台座が地下に設置されているのであろう。「楼門」を振り返る。「楼門」の左側にあった「授与所・祈祷殿」。「授与所・祈祷殿」の先にあった石碑群。一番右の石碑には「皇太子手植櫻樹碑」と。「富士山 第三十回登頂記念碑富士山と琵琶湖は 一夜の故事にちなみ世界平和 国土安全を願い毎年登頂 本年五十年目を迎え ここに記念碑を建立する。平成十八年七月吉日富士と琵琶湖を結ぶ会滋賀県近江八幡市」歌碑「思えば千と二百年唄 渡辺通久作詞作曲 後藤良夫編曲 高岡利光一、君と歩いた参道は 木漏れ日のゆれる 石田川 浅間の宮は 天高く 思えば千と二百年 歴史を伝ふ 桜の門ニ、祭囃子か 締め太鼓 あれは若衆の 心意気 水の流れも そのままに 思えば千と二百年 歴史を浮かべる 神田川三、社の向こうに 富士の山 千故の雪を 頂いて 湧玉池に 湧くと聞く 歴史を奏でる 笙の笛」薄いピンクの花の石楠花。丘の上には様々な忠魂碑が。「慰忠」碑。「忠魂毅魄」碑。「毅魄」とは「英霊」のことと。「明治三十七八季戦役 彰忠碑伯爵 西園寺公望 書」多くの人名が刻まれた大きな石碑。「鳥居建設境内整備寄附者芳名昭和四十四年十一月吉日」碑。入口には「忠魂碑」と刻まれた扁額を掲げた石鳥居があった。「楼門」の手前には鯉のぼりが(右)。「楼門」の手前には日の丸が(左)。「三之鳥居」、「ニ之鳥居」を見ながら引き返す。そして「大社通り」を渡った場所にあった「お宮横丁」を訪ねた。「お宮横丁」は「富士山本宮浅間大社」の門前にある屋外フードコート。昼食に名物「富士宮やきそば」を楽しむことにする。店の名は「むすび屋」。「むすび屋」のご主人。ソース味の「富士宮やきそば」を楽しんだのであった。ソース味も塩味も食べたい人のために、お得なハーフ&ハーフもあった。天むすやいなりずしなどもあるので、あわせてどうぞ。噛み応えのあるコシの強い麺と、肉かすやイワシの削り粉を入れた味付けで美味であった。そして駐車場まで戻る。正面、鳥居のそばの巨大な社号標石の隣りにあったのが「富士山大金剛杖」。「富士山大金剛杖」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.13
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「富士山本宮浅間大社」の散策を続ける。藤棚の奥にあったのが「富士山御霊水 水屋神社」。紫の藤の花を追う。「富士」と「藤」のコラボ。見事な紫の花房が1m以上に。その横には「湧玉池」。平安期には歌人平兼盛がつかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた。かつて富士の登山者はこの湧き水で身を清め、六根清浄を唱えながら登山する習わしがあったという。藤棚の下へ。藤の花を振り袖姿の女性に例えている俳句があるなど、その姿や色合いから、上品な印象を与える花。昔は藤を女性、松を男性にたとえていたと。日本には2種類のフジが自生し、本州を中心に「ノダフジ」が、近畿地方より西には「ヤマフジ」が自生している。「ノダフジ」のつるは右巻き、「ヤマフジ」のつるは左巻きと、つるの巻き方向で見分けられるとのネット情報。「水屋神社」の社殿。末社水屋神社祭神 御井神(みいのかみ) 木俣神(きまたのかみ)とも言い日本神話の中で、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)が 因幡の八上比売(やかみひめ)に生ませた神。 八上比売は大穴牟遅神の最初の妻で あったが、須勢理毘売(すせりびめ)を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に 刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて御井神という。 鳴雷神(なるいかづちのかみ) 鳴雷(なるいかづち)は伊邪那美神(いざなみのかみ)が死んだために、伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)が黄泉の国へ追いかけていくと、すでに蛆が湧き、腐っている体に 発生した「雷神」の1柱。 雷神は雷の後に雨が降ることから水神。また日本人は雷が鳴ることで、稲が妊娠すると 考えていたので、雷神は農業神。その雷神が死体の体に発生するのは、もともと死体を 農業に利用していたからか、雷神に「神罰・祟り」の性質があるのだと。例祭 一月四日「この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んた天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。御霊水のいただき方お気持ちをお供えの上、ニ礼ニ拍手一礼の後、感謝・祈念し手水鉢よりお汲み下さい。この御霊水は古来神様にお供えし、私共も日常の飲料としておりますが、あくまても天水ですのでお気にになさる方は沸かしてお使い下さい。」再び香り豊かな藤棚を追う。「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」か?そして竹でできたパイプから「御霊水」が。古くから、富士山登山者はこの霊水で禊(みそぎ:水浴して身体を清める宗教儀礼)をする習わしがあったのだと。藤棚の下には「竹枝穂垣」の如き生垣が。竹の葉を落とし、竹穂や枝の穂先を上に向けて並べて垣面とした生垣。湧水の池と藤棚のコラボ。「水屋神社」の奥、北側にあった「天神社」。「末社 天神社祭神 菅原道眞公例祭 四月四日」「天神社」社殿に近づいて。藤の花にも近づいて。さらに甘い香りに囲まれて。これも「マガモ」!? 写真では頭が緑ではなく黒く見えるが光の加減か。シベリアから我が国に冬鳥として渡ってくるカモ類のなかでマガモが一番多いのだと。富士山からの湧水の白き流れ。「湧玉池」の底からも湧き上がっているようであった。1944年11月に国の天然記念物に、1952年3月には狩宿の下馬桜とともに静岡県で2件しかない国の特別天然記念物に指定され、2008年6月には環境省か新たに選定した『平成の名水百選』にも選ばれている。毎日約20万トンもの富士山の雪解け水が、石の合間から湧き出ていて、1年間ほとんど増減がなく、水温も年間を通して13℃前後で一定となっているとのこと。「湧玉池」の岸を歩き、廻り込んで「藤棚」を振り返る。ズームして。この時は「湧玉池」に入って池を清掃する作業員の姿が。池底にある賽銭を回収していたのであろうか?今でも流れの音が聞こえて来るのであった。そしてここにも「稲荷神社」があった。「末社 稻荷神社祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 猿田彦神(さるたひこかみ) 大宮姫神(おおみやひめのかみ)例祭 ニ月初午」朱塗の橋は「神路橋」。「神路橋」を渡るとその先にあったのが「川中島」に鎮座する「嚴島神社」。ここにも紫の藤の花が。「嚴島神社」。「末社 嚴島神社祭神 市枡島姫神(いちきしまひめのかみ)例祭 六月十七日」「嚴島神社」の社殿。「湧玉池」の中の島に古くから祀られている社で、霊験あらたかな事で知られている と。ここでも藤の花に近づいて。さらに。藤の幹がこの藤の歴史を感じさせるのであった。あくまでも透き通った水を湛える「湧玉池」。水面には新緑が映り込みこれぞ絶景!!そして「嚴島神社」の朱の鳥居の前から「湧玉池」越しに「東鳥居」方向を見る。池の中には7~8人ほどの作業員の姿が。紅葉シーズンも美しいのであろう。「稻荷神社」を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.12
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正面に「富士山本宮浅間大社」の「楼門」。世界遺産「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のこの「富士山本宮浅間大社」。徳川家康造営の社殿が残されているがこの「楼門」もそのひとつ。2階建て入母屋造り(いりもやづくり)で、正面と両脇に扉が付いていた。間口4間、奥行2間半、高さ6間半2階入母屋造。さらに楼門の左右には慶長19年(1614年)造立の随身が安置されていたのであった。この楼門は、1604年(慶長9年)に、拝殿・舞殿・本殿とともに徳川家康によって造営された建築物(県文化財)。建立後、安永4年(1707年)の大地震では駿府城は3分の1が倒壊、安政元年(1854年)の大地震ではほぼ壊滅という状態であったが、ここ「富士山本宮浅間大社」では楼門、拝殿、本殿などが倒壊を免れているのだと。「楼門」の奥に「拝殿」が見えた。ネットソフトで「切り絵」にして見ました。こちらも設定を変えて。「楼門」に掲げられている「冨士山本宮」の扁額は、1819年(文政2年)、聖護院入道盈仁親王(えいにんしんのう)の筆によるものとのこと。手前左側には大きな「手水舎」が。「楼門」の右側にあった「絵馬」。萬邦共和(ばんぽうきょうわ)天皇陛下御製「世界との往き来難(がた)かる世はつづき窓開く日を偏(ひとへ)に願ふ」令和4年(2022年)歌会始御製御歌で「天皇陛下におかれましては、昨年に引き続き新型コロナウイルス感染症の感染拡大の収束を願うお気持ちを歌に詠まれました。昨年は、人々の願いと、人々がこの試練を乗り越えようとする努力が実を結び、感染症が収束していくことを願われるお気持ちをお詠みになりました。」一陽来復皇后陛下御歌「新しき住まひとなれる吹上の窓から望む大樹のみどり」「天皇皇后両陛下並びに愛子内親王殿下ご一家には、昨年の九月、それまで長くお住まいになりました赤坂御所から、上皇上皇后両陛下が一昨年まで長年お住まいになりました吹上御所に御移居になりました。この御歌は、吹上御所に新たに御移居をされた皇后陛下が、上皇上皇后両陛下への感謝のお気持ちを新たになさりながら、大きな木々の緑深い御所からの眺めをお詠みになったものです。」と。「楼門」を見上げて。楼門の左右には「随身」が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があると。随身は「随臣」とも書き、昔、上皇・関白を賜わった貴人が外出するときに、剣を帯び、弓矢を持って供奉する右近衛、左近衛の舎人(とねり:警備や雑用などに従事していた者。その役職のこと)と言われています。隙間から随身(正面右)・左大臣を。正面から。こちらもネットソフトで「切り絵」にしてみました。随身(正面左)・右大臣。正面から。こちらも。そして正面に「富士山本宮浅間大社」の本宮社殿の「拝殿」後ろに「本殿」、左「三之宮」、右「七之宮」。慶長9年(1604)徳川家康が奉賽のために造営したもので、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものであったが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するのは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみ と。「社務所」。「御祈祷受付」、「おみくじ売り場」、「御札 御守授与所」があった。大きな「灯籠」(右)。上部をズームして。「信玄桜」の周囲は「おみくじむすび所」。「富士山本宮浅間大社」案内図。「本殿」。二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がないと。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。祭神が木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であることから桜が御神木。境内には500本もの桜が植えられ、楼門前の道は「桜の馬場」と呼ばれている。5月(4~6日)には「流鏑馬祭」が催される。「拝殿」の左側奥に鎮座する摂社「三之宮浅間神社」。「三之宮浅間神社」。江戸時代には境内・境外に摂社19社、末社15社と多くの摂末社を抱えていた浅間大社だが、安政大地震により大破し内陣に合祀されたり明治以降の統廃合により、現在は境内に摂社2社・末社4社を抱える神社となっている と。御祭神は浅間第三御子神。「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第三御子明神と考えられ、江戸期までは三之宮と称されていた。三之宮浅間神社の左隣にある注連縄の張られた盛砂は「富士山 浄砂(きよめずな)」。この砂は敷地の隅に撒いて清めたりする「お砂取り」に使われるもので、富士山奥宮の清浄な土地の砂をお守りとしたり、家の敷地を清める為に撒いて使用する。授与所に申し出れば一握りほどいただけるのだ と。「拝殿」内陣には巫女さんの姿が。内陣では祈祷が行われていた。「拝殿」前より「楼門」を振り返る。再び「拝殿」を正面から。幣殿・拝殿は本殿と同じく徳川家康公の寄造営によるもので、屋根は本殿と同様檜皮葺、外側・内側は丹塗となっているが、極彩色は蟇股・虹梁彫刻などにとどまる。 幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ「作合」と呼ばれた部分で、間口5間・奥行3間の両下造、北面には本殿の屋根の端が露出している。元は石畳であったが、現在は床に改められている。 拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、正面に向拝が1間出ている。正面に扉があり、左右は蔀戸によって区切られている。正面左右には濡縁を巡らせてある。巨大な注連縄飾り。色彩豊かな龍の彫刻。「木鼻」(右)。「木鼻」(左)。扁額「浅間神社」。蟇股(かえるまた)の彫刻。祈願絵馬掛所 。左に「名称 火山弾」、右に「南極の石」。「南極の石この石は、南極奥地より氷河に乗り幾億年もの歳月を経て流出し、地吹雪により風化したもので、第七次南極観測船ふじの乗組員により採取されました。富士浅間大神の、御神霊を奉斎して、昭和基地に赴いた砕氷艦、ふじ、の乗組員赤池 稔氏の(富士宮市出身)奉納であります。 富士山本宮 浅間大社」南極の石「名称 火山弾 目方約三十貫 (約百キロ)これは富士山噴火の時に、地中の岩漿が火熱のために溶けて空中に吹き上げられ落下した際に、酸化して冷却したものです。この様に形が整って大きなものは、珍しいといわれています。」火山弾「水屋神社」案内板。「国特別天然記念物湧玉池(冨士山の湧水)」案内板。御朱印場所の案内も。湧玉池への入口の「東門」。「古神札納書」。東門を出ると、明治廿年七月七日 富士山本宮と刻まれた「霊水鉢」。「文化財愛護 重要文化財 富士山本宮浅間大社 本殿 慶長9年(1604)」。再び「本殿」を東門(東脇門)を出て。ズームして。二重の楼閣造で棟高45尺、浅間造りと称し其の構造は他に例がない。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間口3間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺。明治40年5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され以後国宝又は重要文化財として特別の保護を受けている。「咲良(さくら)みくじ」近づいて。人気上昇中の水みくじ「咲良みくじ」は結ぶと富士山の形になる と。そして左側前方に現れたのが「湧玉池」。「国指定特別天然記念物湧玉池この池は霊峰富士の雪解けの水が溶岩の間から湧き出るもので水温は摂氏十三度、湧水量は一秒間にニ.四キロリットル、年中殆んど増減がありません。昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清浄を唱えながら登山するならわしになっております。つかふべき数にをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま 平兼盛」水面にはオスの「マガモ」が。オスは黄色のくちばし、緑色の頭、白い首輪、灰白色と黒褐色の胴体とあざやかな体色をしているのであった。浅間神社は富士山をご神体として、小高い丘の上から霊峰・富士を遥拝する信仰から生まれた。どうして浅間神社と呼ばれるようになったのかは、諸説、伝えられている。どの説も古くは「浅間」を「せんげん」ではなく、「あさま」と読んだことに由来があるようである。たとえば伊勢の朝熊社の社名が元とするもの。あるいは、早朝の富士宮のこの湧玉池の水面から霧が立ち上り、朝雲(あさぐも)と名づけたものが転じたとするものなどがある。その中でも有力視されているのは、「祠林采葉抄(しりんさいようしょう)」に残されている「富士の権現は、信濃の国の浅間大神と一体両座・・・両者ともに浅間大菩薩と申す故なり」の記述。そして「あさま」の意は、マライ語のアサ(煙)からきているのではないか、とする説。この「あさま」=「浅間」を、「せんげん」と音読みするようになり、現在に至っている とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.11
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「富士芝桜まつり」会場を後にして、次の目的地の「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」に向かって国道139号を南に向かって進む。山梨県と静岡県の県境手前・富士五湖から朝霧高原へ抜ける道の左にあった銅像。裸婦像にしては身体が細く天使の像であったようだ。台座の柱には「WELCOME TO FUJIGOKO」と。実はこのモニュメントは9体存在しているとのことで、何処にあるのか探してみるのも面白いかと。そして「道の駅 朝霧高原 500m」案内板の先の、富士山の絶景撮影ポイントで停車し写真撮影。静岡県富士宮市からの富士山の絶景をズームして。旅友が記念撮影して下さいました。更に富士山を見ながら進む。トイレ休憩に「道の駅 朝霧高原」に立ち寄る。「道の駅 朝霧高原」駐車場からの富士山。富士山のいちばんの魅力はその形の美しさ。富士山のような「円錐形の美しい山」👈リンク は実は世界にたくさんあるが、この日本の富士山のように裾野まできれいに広がっている円錐形の山は珍しいのである。ここ朝霧高原からの富士山は、●裾野に凹凸の無い●稜線がほぼ左右対称。●山頂がほぼ水平で、●山頂の交点に「角(つの)」が見える場所なのであった。いわゆる画に描いたような富士山を眺望できるのであった。「道の駅 朝霧高原」のサイロを模した「時計塔」。時間は9:35。「売店・特産品展示販売コーナー」から外に出る。この先に「あさぎりフードパーク」があるようだ。再び富士山の勇姿を追う。「時計塔」越しに。そして富士宮市街に入り、国道139号の「万野原新田(まのはらしんでん)」交差点を通過。そして「登山道入口」交差点を右折し、ナビに従い進むと「富士山本宮浅間神社」に到着。時間は10:20。静岡県富士宮市宮町1−1。ここ駿河国一宮『富士山本宮浅間大社』は、全国1300社の浅間神社の総本宮で「富士山本宮センゲン大社」と呼ばれているが、例外として山梨県笛吹市の甲斐一宮『浅間神社』は「アサマ神社」と呼ばれている。同じく山梨県には「河口湖浅間神社」(富士河口湖町)「一宮浅間神社」(市川大門町)の三か所が「アサマ神社」と呼ばれているのだ。浅間山は「あさま」と呼ぶのに、富士山の浅間神社はなぜ「せんげん」神社と言うのであろうか? その疑問には、まず「あさま」の語源を調べてみると良いと。語源には色々な説があるが、寺田寅彦博士の説が面白のだと。曰く:《「古語でアサマは火山を意味したのではないか」という。日本の火山の名称には「ア行音+サ行音(浅間、阿蘇、有珠、恐、恵山、雲仙、等)」という「音の類似」が多くある。》他には:《「アサマ」はアイヌ語で「火を吹く燃える岩」の意味から名付けられた。と言う説。》また南方説で:《マレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味するので、その言葉を火山である富士山にあてたとする説。》などなど。いずれも「浅間(アサマ)」は古来「火山」を意味したようだ。それでは「アサマ」がどうして「センゲン」と呼ばれるのか? これは、“元来、浅間は「アサマ」読みだが江戸時代に「センゲン」と読みならわされたようだ。「仙元」とも書いたようで、「浅間嶺」にある浅間神社も以前は「仙元神社」とか言われていたとのこと。「センゲン」と呼び始めたのは鎌倉から江戸時代にかけて、中国文化の影響が大きく、熟語をむやみに「音読み」にしたためと言われている。山や地名だけでなく、学者や芸術家などもこぞって名前は支那くさい名をつけたからだと。静岡県道76号線・大社通り沿いにあった大きな朱の「大灯籠」(右)。「大灯籠」(左)。「富士山本宮浅間神社」案内図。そしてその先、正面に「二之鳥居」と「社号標石」。富士山を入れて。ズームして。「富士山・観光・案内処」。ポスター「2023年(令和5年度)富士宮イベント」。2023年5月4日(木)、5日(金)、6日(土)は「流鏑馬(やぶさめ)まつり」が行われると。富士山と社号標石「冨士山本宮浅間大社」。正面に巨大な「ニ之鳥居」。扁額「富士山本宮」。「冨士山本宮浅間大社」案内図。「ニ之鳥居」手前の左側にあったのが「ここずらよ」。「ここずらよ」とは富士宮の方言で「ここですよ」という意味とのこと。「ここ」にくれば、富士宮の特産品が「ずら」っと揃っています「よ」という意味も込められているのだと。名前の通り、店には「富士宮やきそば」、「虹鱒甘露煮」、「富士のやぶきた茶」、「あさぎり牛乳」や「地酒」など地元の特産品が勢揃いしていたのであった。「家康の浅間神社の造営」と「富士山はだれのもの?~家康と富士山~」。「家康の浅間神社の造営1604 (慶長9 )年、家康は関ヶ原の戦いての勝利を記念して、天正10年から仮殿(かりどの)のままであった社殿の造営を行いました。建物は2年後に完成、正遷宮※が行われました。浅間大社の本殿はそれまで一階建て構造てしだが、この時、現在のようにニ重の楼閣造(浅間造)になったと言われています。本殿は現在、重要文化財に指定されています。※造営などのために移動させた神様を、新しい建物に移すこと」「富士山はだれのもの?~家康と富士山~現在、富士山八合目以上は浅間大社の所有となっています。そうなったことには家康が深く関わると伝わります。江戸時代の1609 (慶長14)年、浅間大社は家康から山頂部の「散銭」(賽銭)を、修理費用として寄進されたとされ、これを足掛かりにした浅間大社は、境内地として山頂部の支配・管理権を強めました。これに対し、他の登山口もそれぞれの由緒から、富士山における権利を主張しました。その結果訴訟となり1779 (安永8)年、幕府の判決文に基づき、浅間大社にハ合目以上の支配が認められました。その後近代になって一旦は国有地となりますが、1974 (昭和49)年の最高裁判決により、浅間大社に返還されました。」一般道を渡った先に「三之鳥居」が見えた。ここにも大きな石灯籠が(左)。石灯籠(右)。さらに「三之鳥居」を目指して石畳の参道を進む。幟「家康公の遺産 FUJINOMIYA」と。2023年大河ドラマ「どうする家康」の放送をきっかけに、富士宮の新たな魅力を全国に発信するため、オリジナルロゴマークを活用したのぼり旗を作ったのだ と。「三之鳥居」の先の朱の「楼門」がだんだん大きくなって来た。「三之鳥居」。手前右手の「狛犬」。大正7年(1918)5月吉日建立。手前左手の「狛犬」。右手に「流鏑馬(やぶさめ)像」。ズームして。逆光?のため、ネットから。台座の「流鏑馬練行之図」。ネットから。「流鏑馬祭縁起社伝によれば建久四(一一九三)年五月源頼朝が富士の裾野で鎌倉武士を率いて巻狩を行ったとき、当浅間大社に参拝し、流鏑馬を奉納したのに起因すると言われる古儀である。当大社所蔵の天正五年(一五七七)の富士大宮御神事帳や、慶安三年(一六五〇)の富士本宮年中祭禮之次第にも、五月五日の条に五月会流鏑馬 と記載されている。又その当時の古文書、朱印状等によれば武田勝頼より流鏑馬料、豊臣秀吉及び徳川家光よりは御朱印の寄進があり神事祭礼として国家安寧のため誠を尽して斎行するように下知されていたことを知ることができる。現在は五月四・五・六日の三日にわたり行われ、四日が前日祭、五日が本祭、六日が後日祭になっている。五日の本祭はこの祭の中心で、拝殿で祭典を行い、ついで練行と称して神馬を中心に宮司以下神職、弓武者、槍武者、射手代官、射手、氏子代表、稚児等が市内を練り歩いた後、桜の馬場に参入して、鎌倉武士を髣髴させる絢爛豪華な神事流鏑馬式が古例によって盛大に行われる。当日は端午の節句でもあり近郷近在から二十万余の参拝者で境内は終日殷賑を極めることは昔も今も変ることがない。 平成七年五月五日」前方に「鏡池」に架かる「太鼓橋」が。「鏡池」は楼門前の池で一名眼鏡池とも。中央の「太鼓橋」は大正4年御即位記念として石造りに改められたのだと。「鏡池」(右)。中央の島には石灯籠が。「鏡池」(左)。「太鼓橋」を渡る。正面に「楼門」。「楼門」前のこの道「桜の馬場」で今年も5/4~6に「流鏑馬」が行われるとのこと。奥には朱の「東鳥居」が見えた。「楼門」前に置かれていた巨石。「鉾立石その昔四月・十一月両度の大祭礼に山宮へ御神幸の際、鉾(ほこ)を立てた石です。」かつて山宮浅間神社(浅間大社の元宮)と浅間大社の間で『山宮御神幸(やまみやごしんこう)』として御鉾の渡御も行なわれた際に、鉾を立てた石とのこと。(山宮浅間神社にも残る)。『山宮御神幸』では、神様が宿る 「鉾」を左肩に載せたまま、途中肩を替えることなく、浅間大社から山宮浅間神社まで歩くのだと。 鉾立石は、今でもここ浅間大社楼門前に1つと山宮浅間神社の参道に2つ残っているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.10
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さらに「富士芝桜まつり」の散策を続ける。「竜神池」の南側を歩く。青の芝桜の中に白の芝桜で♡の形が。英国式庭園「Peter Rabbit™ English Garden」方向を見る。ここからも「ミニ芝桜富士」を。♡の芝桜と同じ種類の芝桜が「ミニ芝桜富士」山頂にも使われているようであった。♡の芝桜越しに。♡の芝桜をズームして。レンギョウの花。レンギョウは中国原産で、江戸時代に渡来し、当時は主に観賞用として栽培されていた。和名レンギョウの由来はオトギリソウ科のトモエソウ(弟切草、生薬名 小連翹(しょうれんぎょう)の漢名連翹を誤用したとも言われている。雌雄異株の落葉低木で、若枝は長く伸び、垂れた枝が地面につくと、すぐにそこに根付き、新しい株を増やす。高さは2~3mに達する。葉の緑は歯状で、葉のやや出る前につける花は明るい黄色で、花びら部分が深く4裂、雄しべは2本あり、木質の果実を有す と。竜神池越しに英国式庭園「Peter Rabbit™ English Garden」、「-The Cafe-」、「ショップ&ギャラリー」を望む。ピンクの中に巨大な白の♡が。ピンクの芝桜は大輪、色の濃い「マックダニエルクッション」。ピンクの中の巨大な白の♡を正面から。振り返って。前方にも更に♡が。再び正面から。ゴテンバザクラ越しに富士山の勇姿を。富士山と4つの♡を。ゴテンバザクラに近づいて。満開時は花びらの縁は色が濃いのが特徴。 小さな木なのにわんさか咲いているのであった。そして「富士芝桜まつり」会場を1周したのであった。「スカーレットフレーム」。「スカーレットフレーム」の海原。近づいて。展望台方向。そして富士山頂周辺の雲が切れて。デジカメで富士山の勇姿を追いかける。「オータムローズ」。「オータムローズ」の海原。近づいて。更に。これでもかと!!そして「富士芝桜まつり」を満喫して、駐車場に戻り、「富士芝桜まつり」会場を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.09
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次に訪ねたのが「Peter Rabbit™ English Garden(ピーターラビット イングリッシュガーデン)」。入口門。「Peter Rabbit™ English Garden」。「Peter Rabbit™」が迎えてくれた。「Welcom to Peter Rabbit™ English Gardenピーターラビット™ イングリッシュガーデンに寄せて---監修 マーク・チャップマン---人口に入ると直ぐに庭の中でピーターラビットを見つける事でしよう!田舎のコテージガーデンでよく見かける植物とフルーツの茂みで囲まれ、芝生ではピーターラビツトが家族やともだちと共有している大きな巣穴を見ることができます。その後に続くと、両サイドにイングリッシュボーダーガーデンがあります。反対側には大きな芝生の塚があり、気軽に座って富士山の雄大な景色をお楽しみください。春から秋にかけて、たくさんの素敵な写真スポットを楽しめます。庭はまだ新しく、多くの食物が成長し始めたばかりです。どうぞ、別の季節にこのガーデンに戻ってどのように発展していくのかをお楽しみください。」マーク・チャップマン英国リンカンシャー出身、大規模ランドスケープから個人邸を手掛ける実力派の英国人ガーデンデザイナー。長野県「自馬コルチナ・イングリッシュガーデン」を始め、全国各地のプロジェクトを手掛け、デザイナーだけでなくガーデナー、講師、ショップ運営と幅広い園芸サービスを提案している。英国内、日本国内で開催の様々なガーデンショーで多くのメダルを獲得し、有名プランドとのコラボレーション、NHK「趣味の園芸」ガーデンマスターとしてTV出演等、その実力が広く知られるところとなる。ピーターラビットたちにも出会えるガーデンイングリッシュガーデン内にピーターラビット絵本シリーズの仲間たちがいます。一緒に写真を撮ってお楽しみください。ガーデン内の植物情報イングリッシュガーデンには季節ごとに咲く約300種類の草花が植ええられています。代表的な植物には花名板がついており、QRコードから詳細がこ覧いただけますので是非お楽しみください。「イングリッシュガーデン」を望む。「イングリッシュガーデン」から「展望台」を見る。一面の濃いピンクの芝桜の海原を見る。「イングリッシュガーデン」内の四阿(東屋)。「展望塔」そして「ショップ&ギャラリー」を振り返る。出店前には多くの木製テーブルが置かれていたが、まだ早朝にため、食事を楽しむ人の数は少なかった。「Peter Rabbit™ English Garden ---The CAFE---」案内板。「ジャイヤントローズ」案内板を再び。存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。「ジャイヤントローズ」。手前が「ジャイヤントローズ」。「マックダニエルクッション大輸咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。」「マックダニエルクッション」。濃いめのピンクの花弁を持つ「マックダニエルクッション」。「オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。」「オーキントンブルーアイ」。再び絶景を!!やはり富士山頂の雲は意地が悪いのであった。見事なピンクの海のアンジュレーションを見つめて。「オータムローズ花色は、ローズビンク。一般的に「ピンクのシバザクラ」と呼ばれてます。優雅でエレガント、女性的な優しさに満ちた、たおやかな挑色の雲を想起させます。」「オータムローズ」。一面の「たおやかな挑色の雲」。束の間に富士山頂が姿を見せた。雲は右から左に流れて。カメラのシャッターを繰り返して押す。「マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。」「マックダニエルクッション」。「オータムローズ」と「マックダニエルクッション」のコラボ。ジューンベリーに似ていたが。名は、6月(英語でジューン(June))にブルーベリーなどに似た形状の赤い実が熟すことから。和名はアメリカザイフリボク(あめりか采振り木)。「竜神池」と「富士山」。風に湖面が波立ち逆さ富士の姿は・・・・。青空であれば!ネットから。八重咲水仙。「八重咲日本水仙」であっただろうか。「ユキヤナギ」と芝桜のコラボ。ズームして。姿を表した富士山頂。竜神池の隅で釣りをする蛙。「Mr. Jeremy Fisher(ジェレミー・フィッシャー)」であろうか。四阿をズームして。残念ながら「逆さ富士」の姿はなく。「Peter Rabbit™ English Garden」と書かれた切り株に座る「Peter Rabbit™」。小川に掛かる石の太鼓橋。周囲の木々は水面に。この後歩いた竜神池の対岸を見る。竜神池越しにピンクの芝桜の海原を振り返る。水面にはピンクが映り込み!再び「ミニ芝桜富士」をズームして。この後、賑やかな台湾からの団体観光客とすれ違う。再び竜神池の南側の岸に向かって進む。南側の岸沿いに拡がるピンクの絨毯。「ゴテンバザクラ」が今をさかりと。マメザクラ系の交配種(園芸種)とのこと。「ゴテンバザクラ」。名前の由来:静岡県御殿場や須山に植えられていたことから。小さい木でもたくさん花をつけるので庭木、生垣などにこの周辺では人気と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.08
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「富士芝桜まつり」会場の散策を続ける。今年の新フォットスポット「ピンクの海を旅する小舟」。海に見立てた芝桜の中に小舟が置かれ、実際に乗ることができるのであった。ネット経由での撮影は無料であるが、その写真のダウウンロードは有料と。ピンクの海原で舟をこいでいるかのような写真が撮れるのであった。あいにくこの時は富士山頂には雲が。再び「ミニ芝桜富士」を振り返る。「展望台」も。ピンクの海原が拡がっていた。ややズームして。花色が濃い桃色の「マックダニエルクッション」。「ミニ芝桜富士」をあらゆる方向から。ここでもズームして。「マックダニエルクッション」(左)と「多摩の流れ」(右)。「多摩の流れ」。そしてここに、昨年SNSで話題になったフォットスポット「幸せの黄色い扉」が健在。私は、ドアを開けると、「ミニ芝桜富士」と一面ピンクの世界に入り込んだかのような写真を。ドアを開けると、富士山と一面ピンクの世界に入り込んだかのような写真が撮れる「幸せの黄色い扉」。撮影の順番を待つ人が列を作っていた。手前にはこれから開花を迎えるプロローグの芝桜が。こちらは「パッチワーク」の如くに。前方には「イギリス式庭園 ピーターラビット™ イングリッシュガーデン」の案内板が。「展望塔」、「ショップ&ギャラリー」方向を望む。左手にあったのが総ガラス張りの「The Cafe」。「富士芝桜まつり」会場入口方向を望むと一面ピンクの海原が。「ミニ芝桜富士」そして「展望台」方向までピンクの海原は拡がっていた。「PeterRabbit English Garden The Cafe」案内板。こちらは「ショップ&ギャラリー」。旅友の勧めで「GARDEN TOWER」に上ることにする。「展望塔ご利用にあたり」。狭い階段の横の壁には「PeterRabbit English Garden ---Fuji Motosuko Resort---」歓迎ボードが。キャラクターが紹介された絵。「Peter Rabbit(ピーターラビット) 」「???」「Benjamin Bunny(ベンジャミン・バニー)」。「Mr. Jeremy Fisher(ジェレミー・フィッシャー)」。「展望塔」からの絶景を楽しむ。残念ながら富士山頂は雲に隠れて。手前に「PeterRabbit English Garden」。「ミニ芝桜富士」方向。山頂は残雪のごとくに。入口方向には土産物屋が。「龍神池」方向。手前に「」さらに「龍神池」を追って。出店コ-ナーとテーブル。「ピンクの海を旅する小舟」に乗ってポーズをとる御婦人。「展望塔」の階段を下る。「Tom Kitten(こねこのトム)」。「Jemima Puddle-Duck(あひるのジマイマ)」。そしてショップへ連絡通路に。ショップ1階の壁を見る。ショップ1階を見下ろす。壁の花々の絵をズームして。「こねこのトムのおはなし」、「かえるのジェレミーのおはなし」。「Beatrix Potter ビアトリクス・ポター(1866-1943)ビアトリクス・ポターは1866年7月、ロンドンで生まれました。ピーターラビットシリーズは、1893に家庭教師だったアニー・ムーアの息子のノ工ル少年に送った「絵手紙」から誕生した物語です。1901年、自身で『ピーターラビットのおはなし』の私家版を出版。1902年には自黒の線描画だった挿絵に色を付けてフレデリック・ウォ一ン社から出版され、最終的には23作の絵本を世に送り出します。1905年、ビアトリクスは湖水地方のニア、ソーリー村にある「ヒルトップ」と呼ばれる伝統的な農場を購入し、美しいイギリスのコテージ庭園を造りました。晩年は牧羊と自然保護活動に力を注ぎ、1943年にビアトリスが亡くなった時、16の農場と4300工ーカー以上の土地がナショナル・トラストに遺贈されました。彼女の望みどおり、ヒルトップ農場は当時ビアトリクスが住んでいたそのままの姿で保存されており、現在でも「ピーターラビット」を愛する多くのファンが訪れています。」「ピーターラビットとビアトリクス・ポターについて『ピーターラビットのおはなし』は世界で最も愛されている児童書のひとつです。美しい水彩画によって描かれた動物たちののどかでユーラスな物語は、「私家版」を経て、1902年Frederick Warne社より出版されました。そして、100年以上にわたり世界中の人々に愛され続けています。現在、世界110カ国、35カ国語で出版されており、世界累計発行部数は2億5000万部を超え、日本語版においても1971年発行以降1300万部を超えるベストセラーとなっています。物語の舞台となった英国湖水地方は、2017年に世界文化遺産に登録されました。2022年、絵本出版から20周年を迎えました。」「川上未映子 かわかみ・みえこ Mieko Kawakami小説家・詩人2008年、『乳と卵』で芥川賞を受賞。2019年に発表した『夏物語』は40カ国以上で出版が進み、欧米各紙誌で高く評価されるなど、国際的な活動を展開している。「刊行によせて贅沢な時間を過ごしています.瞬きを忘れるような絵の繊細さ、つよさ、ポターがその観察と描写とにかけた思いが、すべての文章、すべてのページから追ってきます。たまらないのは、美しく、たくらみのある音とリズムをどう再現するのか、このユニーク極まりない住人たちの物語と絵の響きあいを、どんなふうに表現するのか。ああでもない、こうでもないと考えながら、しかし楽しくてなりません。言葉のひとつひとつ、声と音の流れ、色と線のすみずみまでをあじわいながら、しっかりやっていきたいと思います。」(2021.12.16)店内を散策する。「百花蜂蜜」を発見。1200円とあるが200gであっただろうか?「ショップ」を出て振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.07
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思っていたよりは早く7:10を過ぎ、駐車場への車の移動が開始した。第1駐車場に案内され進む。正面の林の隙間から芝桜が垣間見えた。そして第1駐車場に車を駐め、入場開始の8:00を暫し待つ。「富士芝桜まつり会場 案内図」。入場開始の30分前、7:30になると周囲の車の方々が移動を開始したので、我々も車を降り、入場ゲートに向けて歩く。既に入場を待つご夫妻が先頭に並んでいた。チケット売り場前には、列整理用の、青い多くのバー付きのカラーコーンが並んでいた。この日は、月曜日の早朝であったが、前日の日曜日に多くの観光客が、この列に並んだのであろう。振り返ると、既に多くの観光客が列をつくり、入場開始を待っていた。時間は7:37。入場用チケット売り場は、現金用とキャッシュレス用の2箇所に分かれていた。私は現金1200円を払いチケットを購入した。時期によって入場料が1000~1200円と異なるようであった。こちらがキャッシュレス券売機コーナー。係員に券売機の操作方法の指導を受ける旅友の姿が。こちらにも後方には、「早くしろよ!!」の列が。「富士芝桜まつり」ポスター。近づいて。富士急グループの株式会社ピカ(山梨県富士吉田市)が運営する「富士本栖湖リゾート」(山梨県南都留郡)では、関東最大級となる約50万株の芝桜の祭典「2023富士芝桜まつり」が、4月15日(土)~5月28日(日)の期間で開幕しているのであった。営業時間:日にちによって異なるようであった・4/16~4/28 8:00~16:00・4/29 7:00~17:00・4/30~5/5 6:00~17:00・5/6~5/7 7:00~17:00・5/8~5/21 8:00~16:00・5/22~5/28 8:00~15:00 と複雑過ぎ!!「2023富士芝桜まつり」会場に向かって進む。「銘菓 さくら葉餅」のポスター。桜餅に使う桜の葉はオオシマザクラのやわらかい新葉であると、先日知ったのであった。 オオシマザクラ以外の葉は使用しないのだと。 桜餅に葉が巻かれているのには、きちんとした意味があると。例えば、桜の香りづけをしたり、お餅の乾燥を防いだりするため。また、塩漬けにした葉を使うことで雑菌の繁殖を防ぎ、餅にはほんのり塩味がつく。桜餅に葉が巻かれているのは、おいしく食べるための工夫なのだ と。「富士芝桜商店」散策は帰路に。そして正面には、首都圏最大級約50万株の芝桜が、富士山麓の広大な敷地に咲き誇っていた。鮮やかな色のコントラストが美しい、富士山を彩る春の風物詩!!。旅友はキャッシュレス券売機でトラブっているのか?来ないので、一人で展望台に向かって進んで行った。富士山の麓にある1.6ha(400m×400m=160,000m2)の広大な敷地に広がる、50万株の芝桜。会場には濃淡の異なるピンクや純白、それに紫がかったものなど8種類の芝桜が花を付け見頃を迎えていた。シバザクラ(芝桜)の基本情報学名:Phlox subulata和名:シバザクラ(芝桜) その他の名前:モスフロックス科名 / 属名:ハナシノブ科 / フロックス属。「スカーレットフレーム赤い芝桜と言えば、この花を指すことが多いです。「スカーレット」は緋色(ひいろ)、目にも鮮やかな赤という意味で、園芸品種としても人気種です。神秘性と幻想性に満ちた花叢(はなむら)です。」花叢とは花が一面に広がった叢(くさむら)の意 と。「ジャイアントローズ存在感あるピンクの大きな花をつけます。マックダニ工ルクッションに比べて花びらが細く、咲いている期間も長いのが特徴です。市場ではほとんど流通しておらず、あまり目にする機会のない貴重な品種です。」「ジャイアントローズ」名前のとおり花は大きくバラのように濃いピンク色で咲いていた。「オーキントンブルーアイ名のオーキントンは、柔らかい紫を表すオーキッドから来ているのか花色は淡い赤紫で、ロマンチックで甘美な世界へと誘ってくれます。花の中央に、青みの強い顔を持ち清らかさも感じさせます。」「オーキントンブルーアイオーキントンブルーアイは芝桜の中では珍しい青色の花の品種。生長は、軸が上に向かって伸びようとするため、地面を覆う速度は少し遅い と。「マックダニエルクッション大輪咲きのシバサクラです。濃いめのピンクの花弁を持つ存在感あふれる園芸品種です。北米が原産で寒さにとても強いのも特徴です。」「マックダニエルクッション」花色は濃い桃色。例えるならショッキングピンク色。成長は遅いですが、芝桜の中で一番病気や暑さや寒さに強い、丈夫な品種。葉は細かくて硬く、触るとチクチクする。芝桜の中で一際大きく、生長した株は花びらで葉が完全に埋まるくらいピンク一色になる。「多摩の流れ花弁の周りに白い覆輪ふちどりを持ち、ピンクがストライプのように可憐な斑(まだら)模様を花びらに描きます。遠くから眺めると肌色を帯びたピンク(トキ色)の群生のように映ります。」「多摩の流れ」白とピンクのストライプがかわいい芝桜。花の時期以外も緑の葉が芝生のように楽しめます。香水のようなかすかな香りがします。「モンブラン白の芝桜を代表する品種です。葉色が黄緑色なので、他の品種と区別しやすく、花がない季節でも明るい印象になります。」「モンブラン」モンブランは清楚な雰囲気の白花。芝桜のなかでも生育スピードは早いほうです。早く地面を覆いたい場合におすすめの品種。全体的に、より明るく柔らかい感じになります。広大な「スカーレットフレーム」の花叢の先に見えたのが「ミニ芝桜富士」そして「展望台」。「ミニ芝桜富士」をズームして。ネットソフトで切り絵にしてみました。この白い花の樹は「梨の木」とテレビで言っていたが・・??「ミニ芝桜富士」の模様・デザインも毎年変えているようだ。「ミニ芝桜富士」手前から北の方向を望む。急いでこの場所まで来たのは、富士山への雲が近づいていたため。近くの桜の樹はエピローグへと。「ミニ芝桜富士」に近づいて。既に「予告 虹の花まつり 9月1日~10月15日開催予定」のポスターが。これぞ「ダブル富士」。青空であれば!! ネットから。雲が富士山頂に。「展望台」に人の姿は少なかったもでこの時にと。「展望台」から濃いピンクの花・「ミツバツツジ」を。ズームして。絶景かな!絶景かな!!。青空が欲しかったが・・。青空であれば!!ネットから。これは合成写真であろうか。展望台からの絶景を楽しむ。そして「展望台」を降りて振り返る。「展望台」へのモニュメントも富士山の姿に。再び「ミニ芝桜富士」をこれでもかと。ピンクの世界。境界をズームして。裾野はあえて芝桜を密植させずに、現実の光景に似せて。「ミニ芝桜富士」に使われている芝桜の紹介であっただろうか?山頂部は「モンブラン」。「オーキントンブルーアイ」。「多摩の流れ」。「多摩の流れ」。「ミニ芝桜富士」山頂をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.06
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この日は4月24日(月)、テレビの各局で「富士芝桜まつり」の開催、そして満開になっているとの報道が。いつもの旅友を誘い、旅友の新車で行くことに。天気予報からこの週の前半が良さそうなので月曜日のこの日を決断。茅ヶ崎の旅友の自宅まで我が愛車で、そして旅友の新車に乗り換えて5:30に出発。「寒川南IC」から「圏央道」を利用して「八王子JCT」に向かう。時間は5:44過ぎ。この日の日の出時間は5:00であったが厚木市内からの東の空は、雲に覆われていた。「圏央厚木IC」手前を通過。高尾山IC先の「高尾山トンネル」が前方に。そして「八王子JCT」から「中央自動車道」へ。「相模湖東IC」手前を通過。「相模湖東IC」。「JR相模湖駅」近くの右カーブ。標高599mの「高尾山」を見る。左手に富士山の勇姿が。「大月JCT」から「河口湖線・富士吉田線」を進む。右手前方に見えて来たのが「山梨県立リニア見学センター」。「山梨リニア実験線」下を通過。国土交通大臣より工事実施計画の認可を受けた品川・名古屋間は2027年開業を目指して工事を進め、その後、大阪まで実現することとなっているとのことであるが・・・?。時間は6:23。「山梨リニア実験線」下を通過後の右カーブから再び富士山の勇姿が現れた。ズームして。富士山の勇姿をカメラで追いかける。富士山の斜面にジグザグの「吉田ルート下山道」が見えた。前方に「富士急ハイランド」のジェットコースター・「高飛車」が姿を現した。そして富士山の姿も。再びジェットコースター・「高飛車」。■コース全長:1004m■最大落下角度:121度■最高速度:100km / h■最大加速度:4.4G■所要時間:2分50秒■高さ:43m「河口湖IC」手前を通過。再びジェットコースター「高飛車」T富士山を。「河口湖IC」にて降りる。「河口湖料金所」の後方に巨大な富士山の勇姿が。「国道139号・横町バイパス」を進む。前方に標高1641mの「釈迦ヶ岳」の姿が。左手に富士山と白き建物が姿を現した。「ほうとう不動 東恋路店」。富士山にかかる雲が、ふわりと降りてきたような、白を基調ににしたシンプルモダンな建物。「東恋路」交差点を通過し富士山を左に見る。「西湖」方向交差点手前を通過。「富岳風穴」方向への交差点には「富士芝桜まつり会場 10.9km先」と。「青木ヶ原樹海」表示板下を通過。「精進湖」方面交差点手前を通過。この周辺は新緑が始まったばかりであった。そして「本栖湖」方面交差点手前を通過。そして「富士芝桜まつり」会場に到着し、Uターンして既に到着している車の最後尾に。時間は7:10過ぎ。 ・・・つづく・・・
2023.05.05
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鯖神社 「社殿」。扁額「鯖神社」。軒唐破風。内陣。「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。お稲荷さん(右)。「お稲荷さん(左)」「荒神様」。元禄5年9月井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「荒神様像」。「本殿」を斜めから。この記念樹の名は?「第六十一回 平成二十二年五月二十三日 全国植樹祭記念樹」小さな「五輪塔」。反対側にも小さな「五輪塔」。「本殿」の屋根。ズームして。奉納された「絵馬」が3枚。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてジックリ聞こう」。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作」参道を振り返る。「遊水池この施設は、遊水池です。大雨のとき、雨水を一時溜めて、河川へ少しずつ流し河川の氾濫や洪水を防ぐ、大切な役目をしています。」「今田鯖神社」の境内下が遊水池となっているとのこと。境川の守り神である「今田鯖神社」の前に立っていたのが「今田管理センター」。「今田管理センター」の玄関。藤沢市と横浜市戸塚、泉両区にまたがる県立境川遊水地公園内の「今田遊水地」を管理。同センターは、延べ床面積250・77平方メートルの平屋建て。休憩スペースのほか、環境学習などの場となる学習室も完備。遊水地周辺で見られるカワセミやカワウ、ギンブナ、セイタカアワダチソウなどさまざまな動植物を写真パネルで紹介している。また、今田管理センターには、学習室のほか、大雨で河川が増水した際、下流域での洪水被害軽減のため水量を監視、調整する管理事務所も併設されている。「今田遊水地」カーブの高架橋は手前が「横浜市営地下鉄ブルーライン」とその奥に「相鉄いずみの線」。様々な催しの案内ポスター。「今田管理センター ご案内」。以前訪ねた大和市の「左馬神社」にあった説明書きを再度アップしておきます。「特集 左馬神社(さばじんじゃ) ~境川流域に密集するサバ神社について考える~はじめに南大和病院のすぐ側の雑木林の中に『※1左馬神社』という古びた神社があります。この"サバ”という名に珍しさを感じ、調べてみると、大和市、藤沢市、横浜市の瀬谷区・泉区に「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と"サバ”という名付け十一社、引地川に一社、計十ニ社密集していることが知られています。祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝とNHK大河ドラマの主役となる源義経の父※2源義朝であり、この義朝を祭神としている神社は全国的に観ても珍しいのだといわれています。更に、近年までそのサバ神社を七社巡る「七サバ参り」という信仰もあったそうです。.今回、この珍しい神社について、サバの名称「左馬」「鯖」、祭神の義朝、七サバ参り、そして、なぜ「サバ」なのか調べようと思います※1左馬神社・・・寛文十年(一六七〇)十ニ月建立。※2源義朝(一一ニ三~六〇)平安末期の武将。詳しくは「1左馬と源義朝」参照。1 左馬と源義朝 源義朝は平安時代末期に起こった※3保元の乱での活躍で「※4左馬頭」となりました。やがて平清盛の出世に不満を抱き※5平治の乱を起こし、敗れます。この時生き残った従者の平賀四郎、鎌田正清、金王丸の三名と※6尾張国知多郡の鎌田正清の義理の父である長田忠致を頼りましたが、忠致の裏切りにあい、金王丸を除いて殺されてしまいました。生き残った金王丸はこの主人を弔うため出家し、土佐坊昌俊となりました。この金王丸(土佐坊昌俊)の兄というのが渋谷重国で、いまの川崎から綾瀬付近、現在の高座渋谷一帯を治めていたといわれています。もちろん、その領域は、サバ神社の建てられた場所も含まれており、この地域は渋谷氏が治めていたことにより、義朝を弔う土壌があったと思われます。更に「極めつけに江戸時代初頭に領主としてこの地域の住民の仇とも言えるあの長田忠致の末裔である長田忠勝、白政兄弟が治めることになります。恐らく、この地域の住民に反感情があったものと思われます。それにより、義朝の役職の「左馬」を用いて「左馬神社」と名付げたのではないでしようか。そして祭神として源義朝を祀ったのではないかと思われます。ただ「左馬」という名称を用いる前の「サバ神社」は大半「鯖」と名付けられた社名が多かったようです。この「鯖」は一体どういうことでしょうか。※3保元の乱・・・保元元年(一一五六)後白河天皇が藤原通憲(信西)を参謀とし平清盛・源義朝を 使って崇徳上皇を破った戦い。※4左馬頭 ・・・平安時代の律令制で諸国の牧場の管理していた役職の長。※5平治の乱・・・平時元年(一一五九)後白河上皇のもと権力を握った信西を藤原信頼と源義朝が 殺し、その後平清盛が両者を滅ほした戦い※6尾張国 ・・・現在の愛知県。2 「鯖」の字について病院の裏手の「左馬神社」もかっては「鯖明神」でありました。境内の古い石燈に「鯖明神社」と刻まれており『※7新編相模国風土記稿』においてこの左馬神社はもちろんのこと、大半は「鯖明神社」と記録されています。この地域で魚の鯖が多く水揚げされるようになったのは昭和の時代に入ってからだと聞いています。マユツバと思いますが、この付近の伝承に「大雨による洪水が発生した後、水が引いて、木に鯖がたくさん引っ掛かっていた」から祀ったといわれています。一説には、初穂の魚を神仏に備える全国的な風習に鯖を用いていたからだとも言われております。サバ神社とは異なる鯖稲荷を紹介してみます。この稲荷は、東京・日比谷神社で別名「鯖稲荷」であり、ご利益は虫歯封じといわれております。虫歯封じとサバにどのような繋がりがあるのかけんとうもつきません。江戸時代の「※8本草書」といういわゆる民間療法の書籍に鯖の"薬効”が書かれています。それによると整陽作用があるそうです。はたして効果はあるのでしようか、謎です。ともかく「鯖」の字が恐らく痛みに対して何らかの効果があったようです。しかしなぜ「鯖」なのか?「あて字」という説には持って行きたくはなかったのですが結局のところ何も見出せませんでした。では「サバ」とは一体何なのでしようか。※7新編相模国風土記稿・・・天保十二年(一八四一)に成立した地詩。林述斎が編集。※8本草学・・・本草とは、薬になる草を意味しており、古代よりそのような研究のため、 書籍が作られていた。初めて何かを食べて効果を見出した人ってすごいと思う。3 では「サバ」とは魚の「サバ」の説はともかく、このサバ神社の「サバ」について様々な考察が行なわれていました。まず、境川が神聖な信仰の境界であったという説です。猟師言葉に「サバワケ」という言葉があります。これは獲物を均等に分ける」という意味で、この「サバ」は境をつける意味合いであったそうで、東側は※9庚申信仰、西は※道祖神信仰の境界とし、両岸に沿って社を建てたとする説です。この説は境川に関してはこの説は通用しますが、その他河川にはあてはまりません。もう一つは、農耕との関係から、「サワ」っまり沢もしくは田の神であったのではないかという説です。東南アジアの言語では水田のことを「サワ」「サバ」と呼んでおり、水に関連するのは確かなようです。歩いて回ってみると、大体のサバ神社は川を見下ろす高台に位置し、その下に水田や現在の住宅地が拡がっていました。沢の神だけで見てみますと、高台に位置し、神社が河川を見下ろすという配置は、水害を恐れていたことに繋がるかもしれません。それに加えて、サバ神社十ニ社中、六社に「稲荷社」、ニ社に「宇迦之魂神」が祀られ、双方とも農耕神であり、田の神です。恐らく、沢の神と田の神として、サバの神は存在していたのではないかという結論に到りました。※9庚申信仰・・・庚申の日に帝釈天・青面金剛・猿田彦などを祭る。 見ざる・聴かざる・言わざるの「三猿」で有名。※10道祖神信仰・・・民間信仰のひとつ。道端に祭られ、五穀豊穣・子孫繁栄を祈った。 男女の神様が仲睦ましく寄り添う姿がかわいい4 七サバ参り今日確認できるサバ神社で「七サバ参り」伝承が残されているのは、このルートです。①境川左岸~和泉川沿いに下ったルート 上和田~瀬谷~上飯田~神田~中の宮~下飯田~鍋屋②境川沿いに両岸を下るルート 瀬谷~上和田~下和田~上飯由~高倉~下飯田~今田このルート以外にも石川(引地川沿い)のサバ神社を含む場合も伝えられているので、自分の出発地点よリ一日工程で巡ることが出来る神社を選び、お詣りしていたように思われます。実際②のルートを歩きましたが、約三時間ニ〇分で踏破できました。しかし明治・大正時代に盛んであった頃に比べ、道路事情の事を考えれば五時間ほど掛ったのではないかと思われます。「七サバ参り」は明治時代の日清・日露戦争に対する先勝祈願や子供が疱瘡・百日咳、はしかなどの流行病にかからないように子供を背負ってお参りしていたそうです。現在は、この七サバ参りも衰退していますが、天明年間(一七八一~八九)に盛んになった"七福神参り”の影響を受け、幕末以降に行なわれるようになったようです。新年あたりに”七サバウォーク”でも皆さんしてみてはいかがでしょうか。おわりに境川流に密集するサバ神社。郷土史の研究者にも注目されている神社でありました。ます、水の神と田の神が合わさり、鯖の字を当て、そして源義朝を祀み事となり、ご利益を求めて七社のサバ参りを行なうようになったのだろうと思います。今年の初詣も鯖神社に"さくらぷらざ”の利用者様を連れて、健康を祈願したいと思います。(文責桜井)みなみやまと平成17年1月25日の記事を再録したものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.04
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この日は4月25日(火)、仕事で南アルプス市に車で行った帰りに「今田鯖神社」に立ち寄った。先日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る をブログアップした際に全ての鯖神社関連を訪ね終わっているつもりであったが、この「今田鯖神社」が漏れていた事に気が付いたのであった。 小田急電鉄江ノ島線の湘南台駅(相鉄・横浜市営地下鉄)から東へ700mのところにあった。 境川からは西へ250mほどであろうか。「石鳥居」明神鳥居昭和35年8月杉山氏奉納。扁額「鯖神社」。石鳥居を潜って進む。今田鯖神社掲示板平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鰯神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしよう。しかし、そもそもどういういわれで神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年八月十一日の放火により、昭和八年建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(二〇〇六)十月吉日 氏子中」「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」参道を望む。更に参道の坂道を上って行った。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。正面に「拝殿」。石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納神楽殿・大正8年建築と社務所社務所は平成15年7月改築 神楽殿に増築。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 党利住人井上瀬兵衛により造立される。 祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」石碑群が左手に。手水鉢嘉永4年10月奉納。平成18年9月台座新設。4基の石碑用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「記念碑」。「道路改修記念碑」昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動「道路改修記念」。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「神楽殿建築紀念碑」。「鯖神社新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。 ・・・つづく・・・
2023.05.03
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「拝殿」への石段の両脇にあった狛犬(右)。角が無いのが獅子でしょうか。ひょろっとしたしっぽが可愛いかった。角がある狛犬(左)。「本来の狛犬には角があったのだ!」👈リンク と。新緑の溢れる石段を上って行った。最初の石段を上りきると、正面奥に「拝殿」が姿を現した。左手に「掛所(えまかけどころ)」。「心願成就 絵馬」。白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。「合格絵馬」。「令和五年癸卯(みつのとう)歳 絵馬」。境内には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。説明板の根元には「義経松」の碑があった。碑に隠れるように切株があったが松かどうか判断がつかない。松だとしてもさほど大きくなさそうであったが。「是より南の方三丁 「首洗井の史跡」👈リンク あり」と刻まれていた。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして更なる石段の上に「拝殿」。拝殿前にも狛犬(右)。奉納は「鳶太子講中」として「昭和二年二月吉日」、世話人以下30名以上の名前と「田島 穂良 書」「石工 服部 源次郎」と刻まれていた。太子講とは鳶職など職人さんが聖徳太子を職能神として祀ったもので、旧暦の1月21日、あるいは22日に太子廟を参拝して安全祈願を行ったり会合を行ったりしたのだと。この狛犬もその日に合わせて奉納されたものであろうか。狛犬(左)。「拝殿」。白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。近づいて。主祭神寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。源義経(みなもとのよしつね)共に祀られている神様天照皇大神(あまてらすおおみかみ)大国主命(おおくにぬしのみこと)大山祇命(おおやまつみのみこと)国狭槌命(くにさつちのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)唐破風下の見事な彫刻。さらに。緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。唐破風の懸魚は鶴。奥には龍の彫刻。亀の彫刻。懸魚(鶴)と亀とで、鶴亀が。龍の彫刻。手挟(たばさみ)に龍が彫刻されているのは珍しいか?牡丹などの花が一般的。手挟(たばさみ)には鳥と龍の彫刻。扁額「忠友殿」と。白旗神社近辺の町名が記されていたが、何と呼ぶものなのであろうか?「源氏の家紋・笹竜胆」が多数装飾されていた。「天水桶」には雨水が流れ落ちていた。この正面にも「源氏の家紋・笹竜胆」が。そして「拝殿」の右側の案内板とその下に石が。「白旗神社 弁慶の力石「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。」「力石」。この「力石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。「本殿」の屋根を右側から。白旗神社の幟。「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。「本殿」の屋根を左側から。雨が強くなりだした。拝殿前から参道を振り返る。石段横のモミジ葉の新緑も雨に濡れて輝いていた。境内隅に立つ「祈祷殿」に向かって石段を下りる。再び「鯉のぼり」を見上げた。そして「祈祷殿」。内陣。ズームして。「おみくじ掛け」。「鯉のぼり」と「源義経公武蔵 坊弁慶公之像」を再び。境内の巨大な今年・「令和五年癸卯(みつのとう)歳」絵馬。牛若丸と今年の干支である兎が八艘飛びのように船上で戯れている様子が描かれていた。再び社務所前の雨に濡れた純白の「義経藤」を追う。今年も、相州 藤沢「白旗神社」の「弁慶藤」、「義経藤」を独占・堪能し、そして久しぶりの境内巡りを、これもほぼ独り占めし楽しんで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.02
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相州 藤沢・白旗神社の「弁慶藤」、「義経藤」を愛でた後は、久しぶりに境内の散策を。手前に白旗川に平成8年架橋された「御典橋」とその奥に「大鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「御典橋」の右側欄干には真鯉(まごい)が。「御典橋」の左側欄干には緋鯉(ひごい)が。大鳥居脇には小さな日本庭園があり、奥に「白旗弁財天」が祀られていた。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。亀が鎮座。その昔、街道から白旗神社を望むと、亀の形に見える事から(白旗神社は頭の部分)亀形山と呼ばれているのだ。正面から。「手水舎」の天井には龍が描かれていた。向かい合うようにあったのが「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」「源義経公武蔵坊弁慶之像」。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。ズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。「八海山大神」と刻まれた石碑。「御嶽大神」と刻まれた石碑。「三笠山大神」と刻まれた石碑。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。近寄って。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。「庚申供養」碑。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。近寄って。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「金のしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。」隣の素朴な石碑。その奥にあったのが「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。ズームして。江ノ島弁天の鳥居そしてお参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている様子が。更に奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左。 ・・・つづく・・・
2023.05.01
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そして次に「社務所」前にある純白の藤の花「義経藤」を訪ねた。「義経藤」。今年の「義経藤」の開花は例年よりも早く、この日が満開。白房花が1m近くに。源平の合戦において、平家は赤旗、源氏は白旗が旗印であった。 平家一門が滅んだ後、源頼朝は白旗を源氏嫡流の旗と定め、余人の使用を許さなくなったのだ。もちろん、義経は鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。よって白のこの藤は「義経藤」と。白色の藤の花言葉は「可憐」、「懐かしい思い出」と。優美な紫の藤に比べて、白い藤は純粋無垢な少女のようだ と。「懐かしい思い出」はその純真無垢な幼い頃の姿を重ね合わせているのであろう。雨も止み、しばし純白の「可憐」な花をカメラで追ったのであった。巨大な白い瀑布の如くに。白の花房を垂らす藤棚の姿は、実に幻想的なのであった。そして帰路の我が家の裏の農家の畑には一面に「クリムソンクローバ」の赤い花が開花中。花の姿から「ストロベリーキャンドル」とも呼ばれています。「クリムソンクローバ」は、根に共生する根粒菌が空中のチッ素を固定し、土を肥沃にしてくれるので農家では「緑肥」として栽培しているのです。緑肥とは、作物を畑で育て、土にそのまますき込むことで肥料分になったり、有機物として土壌改良に役立つ草の肥料のことなのです。本来は多年草ですが、暑さには弱いため日本では一年草として扱われているようです。真っ赤なイチゴの果実に似た花穂を数多く枝先につけています。そして我がミツバチ嬢を発見。たくさんの蜜を集めて欲しいのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.30
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この日は4月26日(水)、雨が降っていたが、小降りになって来たので、今年も車で10分弱の場所にある「白旗神社」に藤の花を愛でに向かう。神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7。境内に車を駐め、まずは境内の奥にある紫の「弁慶藤」に向かう。ここ「相州・藤沢 白旗神社」は、奥州平泉で最期を遂げた源義経を祀る神社。伝承によれば、義経と弁慶の首は鎌倉の腰越の浜で首実検が行われた後、2つの首がここ白旗神社に飛んで来たのだといいます。1m余りの花房を幾重にもつけ見事な「弁慶藤」。「弁慶藤」。近づいて。「藤」の原産は日本で、本州または四国から九州の比較的温暖な気候である林に見られる。平安時代からは、観賞用として庭園でも育てられて来た。そして現代では、つる性の特性を活かして藤棚となり、公園や遊歩道でも楽しまれているのだ。「甘く爽やかなジャスミンに似た芳香」がこの日も。咲きたての頃にはほのかな香りであるが、満開の時期に藤棚へ近づくと、ジャスミンに似たほのかな甘さのある花の香りがふわっと漂って来たのであった。とはいえジャスミンほどエキゾチックでまったりとした甘さではなく、控えめで奥ゆかしさのあるパウダリーな甘さがあり、「上品」や「気品」といった言葉がよく似合うのであった。この品のある甘い香りが、古くから日本人の心を掴んで離さないのであろう。これぞ「藤紫(ふじむらさき)」の色。藤紫とは、藤の花のような明るい青紫色のこと。平安の頃より女性に人気の高い『藤色』と、高貴な色の象徴である『紫』を組み合わせた色名で、藤色よりも紫みが強い色。藤紫が染め色として登場するのは江戸時代後期とのことだが、明治期の文学作品や美人画などに数多く見られることから、明治文化を代表する色名の一つといわれていると。また、「藤紫」は大正浪漫の女性を虜にしたことから「大正藤(たいしょうふじ)」とも呼ばれたのだと。左側に廻り込んで。『万葉集』にはフジを詠んだ歌が題詞を含めて28首あるのだと。次はそのうちのひとつだ。「須磨の海人(あま)の塩焼衣(しおやきぎぬ)の藤衣(ふじころも)間遠(まどお)にしあればいまだ着なれず」フジの繊維は織り上げると白い衣となったが、ゴワゴワして肌触りが良くなかった。庶民の仕事着とされたり喪服として着用された。取り上げたこの歌では須磨(すま)の浜(現・神戸市須磨区須磨海岸)で塩をつくり出すために働く漁師の作業衣とされているが、和歌を詠みながらも、まだ着心地が悪いと愚痴をこぼしているのだと。そして大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌。「わが屋戸(やど)の時じき藤のめずらしく 今も見てしか妹(いも)が笑(え)まひを」奈良時代には山野の藤を観賞用として家の庭などに移植する技術が普及していたことがうかがえると。藤の木から垂れ下がる花房が芳しい香りをあたりにただよわせ、花房のまわりに蝶やクマバチが羽音をひびかせながら乱舞している。平城の京の街中にある家の庭にはそんなフジの花が咲いていたことであろう。我が藤沢市の市の花「藤(フジ)」。そして「藤」の字を持つ名字は種類も数も多い。桜や梅ほど花の美しさが評価されない藤が、なぜこれほどまでに名字や地名に用いられているのか。それは日本人の生活文化のなかに藤が深くくいこんでいるということだ と。藤原・藤田・佐藤・武藤・近藤・尾藤・首藤・安藤・伊藤・後藤、進藤・斎藤・加藤・・と。近づいたが・・・。風に僅かに揺れて。そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花」。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。碑の裏に以足の句が刻まれている。「東路や華にくるまる鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている と。「芭蕉句碑草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建」と。境内には「鯉のぼり」が所狭しと。風が弱く雨にも濡れて。元気に泳ぎたいのであろうが・・・・。 ・・・つづく・・・
2023.04.29
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「雲昌寺」の境内の散策を続ける。雲昌寺の山門近くには庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像・「首なし地蔵」が並んでいた。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったと。今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。左から山状角柱型「廿三夜塔」(講中 明治7年戌歳 二月吉日(1874))、角柱型「二十三夜塔」(亀井野村 南 藤澤 北 八王子道 文久二壬戌年 霜月吉祥日(1862) その横に「庚申塔」(天保)、「庚申塔」が。その先にも。山門前から境内・「本堂」、「鐘楼」を振り返る。そして山門を抜けた右側には庚申塔の青面金剛像が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。右:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。中央:駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。左:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。「六地蔵」。「光輝山雲昌寺宗名 曹洞宗(禪宗)伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禪風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす その教義は瑩山禪師に よって広く全土に実践教化され今日に至ります お二人を両祖大師と仰ぎます大本山 永平寺 高祖道元大師ご開山 福井県 總持寺 太祖瑩山禪師ご開山 横浜市曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏当山本尊 如意輪観世音菩薩教え 生まれながらにもっている佛のこころを実践しひたすら人として生きるのが禪である と教えます 人はともすると 我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのみとをつくっています しかし ひとたび佛の御前に悔い改め真心をささげ深く黙照して坐するなら心が 落ち着いて自ずと生活が調えられ人生が明るくなり 他の役に立つことを喜び 又 どんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります そこに生き甲斐と 幸せを発見するのが 禪の教えです」併せて創建 建保年間 (1213~1219年)開山 玖山宗順開基 北条義時札所等 相模国準四国八十八ヶ所霊場 第46番・第66番札所」四脚門の「山門」。右手に寺号標石「曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺」。山門前の掲示板にあった「北条義時供養塔」案内図。「雲昌寺」の山門を振り返る。左手には「不許葷酒入山門」と。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。亀井野「防災会館」横にあった石碑。「陸軍歩兵上等兵小菅應輔之碑」、「陸軍歩兵一等兵平川龜次郎之碑」。その予期に日露戦役「紀年碑」。「継立場跡」雲祥寺前を走る旧滝山街道(八王子街道)を約100m弱北に行ったところに、江戸時代には継立場が置かれ、幅3間(約5.5m)の道に沿って、旅人や人足、牛馬の休息所や、乗り換え用の馬、茶店などが整っていた。南は藤沢宿へ1里9町(約5キロ)、北は長後(藪鼻)の継立場まで1里(4キロ)の位置にあった。この地に近くで滝山街道と交差する塩つけ道を通って、金沢・六浦から運ばれた塩の市が、この場所で月に6回開かれていた。右手には、歴史を感じさせる民家の門が今も残っていた。更に進むと、道路の右側にあったのが「上屋敷の道祖神」。滝山街道(八王子街道)沿い、小字・上屋敷の辻に文字神名道祖神1基と、双体道祖神2基が並んでいる。文字神名道祖神は明治30年(1897)、亀井野村氏子中造立だが、双体道祖神の方は2基とも摩耗が激しく銘が読み取れない。1基は寛政5年(1793)造立の記載がある。道祖神の辺りは、街道沿いに亀井野の旧家が並んでいるのであった。寛政5年(1793)造立の「道祖神」。「芭蕉の句碑」が「上屋敷の道祖神」の向かいの民家の庭の中央にあった。滝山街道に沿った、亀井野地区の旧家のひとつである加藤家邸内にあった。明治13年(1880)に松富可都良をはじめとする地元の俳人11名によって建立された。碑面は、「道のべの 木槿は馬に くはれけり」と読める。以前この付近に旅人の通過する継立場があったことから、芭蕉が41歳のとき(貞享元年=1684)、駿河路から大井川辺りを行く旅の途中で読んだこの句が選ばれたようだ。ズームして。この日の【藤沢地名の会 地名探索】の最後に「法泉寺」に向かって進む。「国道467号」の「法泉寺歩道橋」を渡り湘南台方面を見る。藤沢方面を見る。そして「法泉寺」が見えて来た。「法泉寺」山門。寺号標石「日蓮宗 正耀山 法泉寺」。この石塔には?「法泉寺(ホウセンジ)開基は、明治後期頃、加藤九一郎氏るよもので、横浜金沢文庫・杉田付近にあった廃寺法泉寺を現在地に移したものです。御本尊は、日蓮上人で最上稲荷社が合祀されています。また境内には、浄行菩薩像と水子観音像が建立されています。 藤沢市」「本堂」。扁額「正耀山」。「内陣」。「浄行堂」。近づいて正面から。「浄行菩薩像」が鎮座。題目碑「南無妙法蓮華経」。小さな「大師堂」の中に石仏・「弘法大師像」が。当時は、相模国準四国88ヶ所霊場の51番札所であったのだと。「弘法大師像」。この「弘法大師像」は、元円行村八幡社にあったもので、その後、数年前までは同町内の個人宅にあったが、事情があって法泉寺へ移された とのこと。「水子大菩薩女像」。明治7年5月建立。「馬鳴菩薩像」。蚕神ともいい、養蚕の神で、貧しい人々に衣服を与えるとして尊崇される菩薩である と。大きな台座に載った石碑、石仏。中央に「道祖神」、左に「双体道祖神」。「藤沢都市計画事業六会東部土地区画整理事業の為亀井野字大久保一七ニ三番地所在の道祖神を復建移転安置せり 昭和五十一年一月十四日建立 亀井野中組講中」そしてこの日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る を完了し小田急線「六会日大前駅」まで戻り解散したのであった。この日の散策ルート。この日の探訪地マップ。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.04.28
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「左馬大明神社」を後にして次の目的地の「土震(すなふるい)塚(小栗判官蘇生伝承地)」に向かって県道403号線に向かって進む。県道403号・菖蒲沢戸塚線の交差点の角にあったのが先程訪ねた「曹洞宗西嶺山花應院入口」案内。「閻魔大王像(藤沢市重要文化財)、小栗判官照手姫縁起絵巻・地獄変相十王図」と。亀井野下から境川への坂を上って行き、左手にあった石段を上って行った。石段の上の高台の畑地の中にあったのが「土震(すなふるい)塚」。毒殺されて埋められた小栗判官が、蘇生した場所と言われる。遊行第14代太空上人の夢枕に、閻魔大王から判官蘇生のお告げがあり、上人が上野原の埋葬地に出向くと、カラスの群れている塚が四方に割れて、醜い餓鬼の姿で判官が蘇生し、体の土を振るい落としたといわれる。塚の上には一本の大きな榊の古木が茂り、昔この榊の枝を伐採したら、地面が震動したため、以降村人はこの榊に手を付けるのをやめたと言われる。榊は今、枝を払われた小木となり、昔を偲ぶことは難しいのであった。この一帯には小栗判官にまつわるものがいくつか残されており、また遊行寺に残る小栗判官の伝説では、ここが小栗を毒殺した横山の屋敷があった場所であるとも言われているのだ。僅かに盛り上がった土盛りの中の榊の古木の周辺には石碑や案内板等は全くなかった。そして「土震塚」への石段の上からは、道路の反対側にある石碑が見えたので次に訪ねた。「伝承小栗塚之跡」と刻まれた石碑。石碑の手前にあったのが「湘南ゆうき村」。「社会福祉法人 藤沢育成会 湘南ゆうき村」。藤沢市の知的障害者通所施設、身体障害者・高齢者デイサービス施設。石碑「伝承小栗塚之跡」前から。小栗塚は湘南ゆうき村建設に伴って消滅したのであった。現在は石垣の上に「伝承小栗塚之跡」の石碑が寂しく建っていた。地元の寺・遊行寺は説経節の「小栗判官」でも登場するゆかりの地であるが、ここには説経節とは異なる伝説が残されているのだ。常陸国にあった小栗満重は、謀反の疑いで鎌倉公方・足利持氏に追われて三河へ落ち延びる途中、相模国藤沢俣野の横山大膳という者の屋敷に滞在した。実は横山大膳は盗賊であり、財宝目当てで小栗を殺そうとした。それを知り窮地を救おうとしたのが、この屋敷で働く照手という遊女であった。しかし毒酒を飲まされた小栗は死に、上野原に棄てられた。14代遊行上人であった太空上人は、夢の中で閻魔大王より小栗を助けよとの言葉を受け、上野原で蘇った小栗を見つけ、熊野湯の峰へ行けるよう段取りをする……という展開となる。いずれにせよ、この小栗塚と土震塚が埋葬と蘇生の伝承地されているのだ。「小栗伝説中世になると、浄土信仰が全国的に広まり、時宗は浄土の教えに小栗説話なども交えて人びとの心をひきつけた。小栗伝説は、説教浄瑠璃などにも登場する。一度は地獄に落ちた判官は、閻魔大王の力によって再びもとの地に、餓鬼となってよみがえる。冥界の人口は小栗塚、娑婆(しゃば)への出口は土震塚、遊行上人の情にもすがった判官は、はるか後方現世の、西方浄土熊野へと送られもとの美男子に生まれ変わる。美女照手姫車引の話もからめ、壮大なロマンとなる。史実・伝承あい混じり江戸初期より伝承する大王像・小栗絵巻などは花応院に現存する。今も「閻魔祭」や「判官絵解き」の行事の時に目にすることがてきる。「湘南ゆうき村」建設に伴って調査し、塚のもとの位置には、現在「伝承小栗塚」の碑が建っている。 平成七年十月一日 西俣野史跡保存会 社会福社法人 藤沢育成会」石碑「伝承小栗塚之跡」を後にして再び「境川」沿いの道に向かって山林の中の山道を下る。途中にあったのが「馬頭観世音」碑。その隣にあった石仏。お顔の部分は補修されていた。竹林の中を進む。そして「境川」沿いの下道に出て再び「横浜薬科大学 図書館棟」を見る。この先の境川には昔は「常使橋(じょうつかいはし)」があったと。「常使橋橋戦後、県道菖蒲沢・戸塚線が開通し、境川を渡る俣野橋が架けられたが、それ以前はやや上流に「常使橋」があり、西俣野と横浜市戸塚区俣野町を繋いでいた。橋名の由来は、俣野郷と大庭城の使者が常に往来していたからと言われる。こから百坂を越えて滝山街道に通じる道は、西俣野を貫く往時の主要道のひとつだったようだ。」その先、民家の大谷石塀の中にあった「庚申塔」。藤沢市西俣野360。この先左側が「西俣野道場跡」常使橋跡から境川に沿って遡ると、西側に今は宅地となった高台が続き、この辺りに以前道場ヶ谷(どうじょうがたに)という字名があった。1325年に藤沢に遊行寺(清浄光寺)が開山となるまで、開祖の呑海が、兄でこの地の地頭であった俣野景平より土地を譲り受け、布教活動の拠点とする修行道場を開いていたとされる。現在小栗塚公園や北窪公園のある一帯が修行道場跡地と推測される。新編相模国風土記稿には、「堂場ヶ谷」と記載されている。相模野台地と境川の低地が交錯する場所で、道場が廃されたあとこの地は、村共有の萱場(屋根葺の材料)となっていた と。「境川」の堤防上にある「藤沢大和自転車道線」を歩く。一般に「境川サイクリングロード」とも呼ばれる。整備済み区間の大部分が境川の右岸(西岸)に沿っている。総延長:24.5km(整備済み区間:20.1km)起点:藤沢市鵠沼海岸 - 国道134号松波交差点の地下に設けられた 地下横断歩道「湘南 海のちか道」終点:大和市下鶴間 - 国道246号大和橋西詰そして前方右手に見えて来たのが「和泉川」の境川への合流地点。「境川遊水地 情報センター」に到着し、自由時間となり、近くのベンチで、各自用意していた昼食を楽しむ。「境川遊水地 情報センター」内にあった「県立境川遊水地公園」周辺の航空写真。遊水地のできる前の航空写真。「境川遊水地 情報センター」の「エントランスホール」。下飯田遊水地のビオトープを見渡せる場所にテーブルセットがあり、ゆっくりくつろぐことができるのであった。「河川情報スペース」。境川遊水地に関するビデオの上映(8分間)と遊水地の機能、県内の河川情報や治水の展示パネル、境川遊水地周辺で見られる生き物の情報展示などがあった。遊水地周辺の「生きもの」展示コーナー。そして自由時間を終了し、定時に再集合。「県立境川遊水地公園」案内図。右から「俣野遊水地」、「下飯田遊水地」、「今田遊水地」。広さは26.1ヘクタールに及ぶ。過去、氾濫を繰り返してきた境川下流部の洪水防止を目的に作られ、2019年に完成、3遊水池を合わせて約90万m3の貯水量がある。水辺の様々な生物が生息できるビオトープが設けられ、少年野球部、テニスコート、多目的グランドなども整備されていたのであった。「境川遊水地 情報センター」を後にして、境川に架かる「遊水池橋」を渡る。「遊水池橋」から「境川」の上流を見る。「遊水池橋」から「境川」の下流を見る。住宅街の東側の坂道を上って行った。右手に鎮座していたのが「北窪の馬頭観音像」と「馬頭観音」碑。天保3年(1832)辰3月吉日の銘があり、念仏講によって建てられた勢至菩薩像(馬頭観音像という説もある)で、隣に明治2年(1869)銘の馬頭観音文字塔もあった。「北窪の馬頭観音像」に近づいて。近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県では馬に跨った馬頭観音像が多く見られるとのこと。周囲には「日本大学生物資源科学部」の実験農場が。緑が一面に拡がる実験農場。立入禁止と。そして地元の寺「雲昌寺」を本堂裏の墓地側から訪ねた。「雲昌寺歴代住職の墓」の奥にあったのが、北条義時の墓?とされる「道西塚碑」。もとは瑞龍寺の跡地にあったが(現県立藤沢工科高等学校の辺り)、雲昌寺住職によって、ここ「雲昌寺歴代住職の墓」に移されたとのこと。碑面には「光輝院殿瑞龍道西居士」と刻まれていた。現存するこの碑は江戸時代後期のものと考えられているとのこと。墓地から雲昌寺の位牌堂を見る。北条義時の墓?とされる「道西塚碑」があった「雲昌寺歴代住職の墓」を振り返る。「雲昌寺」👈リンク の「位牌堂」内の仏様。そして「本堂」前の石碑・石仏群。「水子地蔵」、「愛育地蔵」。その左の石仏と石碑。この石碑には「南無阿弥陀佛」と。大師像が2体。「相模国 準四国 八十八ヶ所第四十六番 円行村青雲寺御詠歌 青雲のうきよはるりの海なれや薬師のめぐみむすばぬはなし第六十六番 亀井野雲昌寺御詠歌 白峯の雲よりうつる月影もよろす代すめり亀井野の水」両方の大師像とも番号不明のため特定できず相模国準四国八十八ケ所結願令和三年十一月吉日豊田澄子秋元道恵」その隣にあった石仏。さらに石仏が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.27
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「花應院」を後にして、少し戻り、境川に向かって進む。途中、右手には一面にピンクの「芝桜」が栽培されていた。これから出荷するのであろうか。テレビのニュースでは、2023年4月15日(土)~5月28日(日) にわたって、「富士芝桜まつり」が行われているとのこと。「富士芝桜まつり」の写真をネットから。行ってみたいが!!いや、一昨日4月24日(月)に行って来ました。そして前方に大きな石碑が2基、西俣野の田んぼを見渡すように建っていた。御嶽神社より移設されたものと。左側の石碑は、当地の悪路を改修し、併せて行った用水路の改修も完成したことを記念する土地改良竣工記念碑「疏通悠容」と。「當部落は従来より水田用水の不足と交通運輸を阻む悪路とに悩まされていたのである。茲に部落農民一同 此の難関打開に蹶起邁進し悪路改修については昭和三十二年度より着工。同三十九年度に入りて竣工を見。用水不足については同三十五年土地改良区を設定し其の改修に着手した。尓来(じらい)四年に亘り総工費約千七百万円、水路延長四千五百六十五米の工事は本年五月完成したのである。此の大事業の成功裡には部落農民一致協力、役員の労苦、市當局の援助等の存在することを思い、転(うたた)、感慨に堪えない。洵(まこと)に近代農業基盤を確立したものと謂うべきか。茲に其の概要を記して以て後人に伝う。昭和三十九年五月五日 藤沢市長 金子小一郎 篆額撰文並書」石碑裏側には「御芳名」と刻まれ関係者の名前が並んでいた。右側は「西俣野暗渠排水之碑」。「西俣野暗渠排水之碑」。「西俣野ハ相模國髙座郡六會村ニ在リ田地約四十五【亜百】(ヘクタール)内十五【亜百】ハ濕田ニシテ収穫ニ乏シク反當(たんあたり)玄米四俵ヲ出デズ、故ニ本邑(ほんゆうの[この村の])人士夙ニ(つとに[以前から])是(これ)ガ改良ヲ念(おも)ヘドモ未ダ其ノ志ヲ得ズ以テ遺憾トセリ。茲(ここ)ニ昭和七年農村匡救(きょうきゅう[救済して良くする])事業國庫補助ノ事アリ 村民 聖恩[天皇の御恩]ノ優渥(ゆうあく[手厚いこと])ニ感ジ以テ更生ノ機至レリトナシ同志三十七名勇躍宿志ノ達成ヲ誓ヒ西俣野暗渠排水組合ヲ組織セリ、乃チ(すなわち)縣耕地整理茅ヶ崎出張所ノ設計ニ據(よ)リ昭和七年十一月十五日起工 同八年四月十日竣工ス。先ノ施工地中央ヲ貫流スル小川ノ延長九〇九米(メートル)ヲ堀渫(くっせつ[土を掘って上げ])シ排水本溝トナシ之に配するに暗渠幹線一八一八米 支線ニ一粁(キロメートル)ヲ以テシ茲ニ二毛作ノ良田約十四【亜百】ヲ得タリ。今ヤ邑民(ゆうみん[村人])多年ノ宿望成リ自力更生ノ酬イラレタルヲ欣ビ(よろこび)以テ碑ニ刻シテ永ク記念トス。後昆(ごこん[後世、子孫])深クソノ本(もと)ニ報イ始ニ反(かえ)リ以テ有終ノ美ヲ濟(もたら)スヲ疑ハザル也昭和八年四月十五日 従五位勲五等 清水勝雄 謹書」※碑文には、ヘクタールを表す一字の漢数字「亜+百」の合字が刻まれていたが、パソコン用の文字はなし。やむを得ず【亜百】として代用するが、本来一字であって、100亜(アール)=1ヘクタールを表す漢数字である。石碑裏側には「昭和八年四月 発起人 故 飯田傅之輔」と。その後には多くの方の名が刻まれていた。石碑前から、南方向を振り返ると、「旧塩つけ道」の「金沢橋」が見えた。ここ俣野という地名は「吾妻鏡」に「大庭(おおば)御厨(みくりや)俣野(またの)郷(ごう)」とあるように古い地名で、境川を跨いで広まった野とか、また横浜市泉区から流れる和泉川とこの辺で合流するので、川が二俣に分かれた形に由来するとも言われています。江戸時代の俣野郷は、中央を流れる境川を挟んで、東側には鎌倉郡上俣野村と東俣野(下俣野)村、西側には高座郡西俣野村の三つの村に分かれていました。現在は、上俣野村と東俣野村が横浜市戸塚区俣野町と同東俣野町に、西俣野村が藤沢市西俣野と呼ぱれているのだ。この地区には、鎌倉時代の古道として知られる「上ノ道」と「金沢道」があった。「上ノ道」は「いざ鎌倉」の軍用路で、元弘3年(1333)、新田義貞が今の東京都府中の分倍河原で北条氏を破り、この道を通り、稲村ヶ崎から鎌倉にうち入って、鎌倉幕府を倒した。「金沢道」は金沢より鎌倉を経て、当地の「金沢橋」を渡り、座間の星谷観音、滝山・八王子方面に通じる「塩つけ道」です。亀井野の継立場では、塩市が開かれ、江戸湾・武蔵国久良岐(くらき)郡(こおり)六浦郷金沢(照手姫が横山館を抜け出し追手に捕まった所、現横浜市金沢区)から朝比奈を越え鎌倉に入り、村岡、東俣野を通り金沢橋を渡って運ばれてきた塩が売られていました とネットから。「藤沢市西俣野」と「横浜市戸塚区東俣野町」の境を流れる「境川」そしてその先の「横浜市戸塚区東俣野町」の街並みを見る。横浜薬科大学の図書館棟を再び。地上21階建て、高さ70m程の建物は大学のシンボルでもある図書館棟で、1階~8階までが図書館、9階~20階が事務室、研究室、学長室であると。因みに前身は横浜ドリームランドに併設されていたホテルエンパイアの建物で、横浜ドリームランドが2002年(H14)に閉園した後、改装されて現在に至っている。その先にあったのが「瞽女淵之碑」。「土手番様(どてばんさま) 水難除供養塔 地蔵菩薩立像 弘化4年(1847)」 下部の基壇に「水難除」と書かれた頭部の欠けた、付近の人々が「土手番様」と呼んでいる石仏。「道祖神」碑。ズームして。昭和53年この地に建立。「瞽女渕(ごぜぶち)と土手番(どてばん)さまむかし境川は、毎年のように決壊氾濫する暴れ川でした。江戸時代、この付近は決壊しては淵となって、村の有志がたびたび埋め立てをしていました。あるとき、瞽女が、この淵に落ちて死にました。それからこの淵を、「瞽女淵」と呼ぶようになりました。「瞽女」とは、三味線を弾いて唄いながら家々を回り、施しをもらい生活していた、目の不自由な女性の旅芸人です。また江戸時代のあるとき、一人の武士が瞽女淵付近に身を投げました。武士は、自分が死んで土手を守ってやろうと書いた手紙と刀、お金を残していたそうです。村の人々は、この武士を閻魔堂の墓地に葬り、はじめ金沢橋に、その後、瞽女淵の側に移して像をまつり「土手番さま」と呼び、明治時代までは正月(もと十二月)に祭礼を行っていました。土手番さまの像は、地蔵の姿をしていますが、明治時代の廃仏毀釈のときに、頭を壊されたといいます。なお、土手番さまの墓と刀と称するものは、今日も残されています。ことの真実はともかく、氾濫を繰り返した土手をめぐって、ただならぬ出来事がかつてあったことが想像されます。そして、明治四十ニ年(一九〇九)には総合耕地整理が実施され、瞽女淵が埋め立てられたので、大正元年(一九一ニ)に記念碑が建てられました。 令和ニ年(ニ〇ニ〇)ニ月 藤沢市教育委員会」「瞽女淵之碑」に近づいて。裏面には「往古ヨリ一小淵アリ、偶々(たまたま)延宝年間一人ノ瞽女溺死シ茲(ここ)ニ始メテ瞽女淵ト称ス。其後溺死スル者数人為メニ深淵ナルカ、有志屡々(しばしば)是ヲ埋メ堅堤ヲ築クト雖(いえど)モ一朝洪水ニ会スルヤ堤塘決壊シテ忍(すなわ)チ淵トナシ 亦田圃ニ氾濫ス。弘化四年一浪士此厄除カント遺書シテ犠牲トナル、依テ村人其霊ヲ祭リ土堤番ト崇敬ス、明治四十二年藤沢町六会村俣野村総合耕地整理施行ノ結果該渕ノ旧態ヲ滅スルニ至ル茲ニ於テ有志ト相謀リ碑石ヲ建立シテ殉難者ノ霊ヲ追福スルト共ニ永ク之カ記念トス 大正元年十二月十四日建之」と。【昔は、この付近の境川はよく大水が出て堤防が切れたため、この辺の百姓は、水で難儀をしていた。延宝年間(1673~80)には、この付近で歌を歌い門付けをしていた盲目の旅芸人(瞽女)が堤防が切れた為に出来た池にはまり命を落とした。それ以後この場所は瞽女渕と呼ばれる様になった。弘化4年(1847)の或る日一人の浪人がどこからか流れて来て瞽女淵のあたりにたたずんでいた。目の前には、切れた堤防からあふれた水で池のように変わった田畑の風景が広がり、野良で働く百姓の姿もなかった。浪々の長旅で体力も衰え、将来への希望も失っていた浪人は、やがてどこかの地で行き倒れる身、それならここで水害に苦しむ農民の為に命を投げ出そうと決心した。次の日の朝、村人は堤の上に置かれた大小の刀と紙片を発見し大騒ぎとなった。淵の水溜りからは浪人の遺体が見つかった。紙片は書置きで、そこには「この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守りたい。】と。さらに境川に沿って北に進む。左に折れ「旧塩つけ道」を西に進む。右手奥の空き地にあったのが「十王堂跡」。石碑には「末庵 十王堂 常光寺廿七主了譽」と刻まれた石碑。天保11年(1840)の火災で焼失した、「閻魔(えんま)堂」跡(もとの法王院十王堂跡)。「閻魔堂跡(えんまどうあと)(法王院十王堂跡(ほうおういんじゅうおうどうあと))法王院十王堂、通称、”閻魔堂”は慶長5年(1600)の建立といわれ、鎌倉材木座の浄土宗光明寺の末寺、あるいは同系統の藤沢の常光寺の末寺であったという。天保11年(1840)に火災により堂が消失したが、閻魔大王座像・地獄変相十王絵図・小栗判官縁起絵図などは、村の若者たちの手により運び出され、難を免れた。これらの遺産は何れも花應院に現存する。堂跡には小栗墓塔、土手番様の浪人の墓、歴代住職の墓が残っている。 六会地区郷土づくり推進会議」さらに石碑に近づいて。そして小栗墓塔に向かって進む。左手には墓地の所有者の北村家代々の墓があった。右側には古い墓石が横一列に並んでいた。古い墓石の中央にあったのが「小栗判官の墓」。石碑には「小栗墓塔」の文字が刻まれていた。「小栗判官の墓」は閻魔堂消失後、像と共に花應院に移されたが明治になりゆかりのある元の場所に移されたと言われているとのこと。その左隣は「照手姫」の墓石のようであった。卒塔婆にはそれぞれ、「天翁録守信士」、「忠光院殿刃空浄居士」、「照手姫」の文字が。「天翁録守信士」:この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を 守った浪人。「忠光院殿刃空浄居士」:小栗判官「照手姫」:小栗判官の妻「小栗判官の墓」の説明をする山本さん。浪人の墓「天翁録守信士」。「小栗判官の墓」から「境川」方向を見る。ここから「瞽女淵」が見えたのであろう。この右側に「乾の御所跡」があったのだと。閻魔堂のある辺りの小字名を御所ヶ谷という。照手姫の御所がこの辺りに存在したことに由来する。説教浄瑠璃による小栗伝説では、照手は当地の郡代・横山大膳の娘となっている。横山の館が境川を跨いだ東俣野・殿久保(現:字戸ノ久保)にあったとされ、そこから乾の方向(北西)にあるため乾の御所と呼ばれた。またこの地は境川の低地を見晴らす場所で、鎌倉時代後期に地頭職の地位にあった俣野五郎景平の居館跡とも言われる。景平は、遊行寺(清浄光寺)開祖・呑海の兄で、その居館跡については、境川対岸の東俣野にあったという説もある。また御所ヶ谷の北側にかって埓田(ませだ・馬背田)という地名があり、小栗判の鬼鹿毛が馬栓棒をくわえて逃げ、それを捨てたところと言われていた。ハナモモの花が。そして次に訪ねたのが「左馬大明神(さばだいみょうじん)」。「左馬大明神(さばだいみょうじん)祭神は源義朝。「相風記」には「佐馬頭義朝の祠なり、神禮寺持」と記されている。元は小栗塚の台地にあり、明治の初めに現在地に移されたという。。”サバ神社”と呼ばれる神社が、現在境川と引地川の流域に12社散在し、左馬、左波、鯖、左婆などの文字が当てられている。 六会地区郷土づくり推進会議」「左馬大明神」の内陣。「左馬神社」の語源については、源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったためともいうが、諸説あり詳細は不明と。 源義朝を祀る神社が何故ここにあるのかも不明とのことであるが、この地を支配した大庭氏は、1156年(保元元年)の保元の乱までは義朝に従っていたのだ。「源氏の棟梁を祀るサバ神社めぐり①左馬社 👈リンク 横浜市瀬谷区橋戸3ー2 0②左馬神社 👈リンク 大和市上和田1 1 6 8③左馬神社 👈リンク 大和市下和田1 1 1 0④飯田神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町4 8 1 1⑤佐婆神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町⑥中之宮左馬神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町⑦七ツ木神社 👈リンク 藤沢市高倉1 1 8 2⑧鯖社 👈リンク 横浜市泉区下飯田町1 3 8 9⑨鯖神社 👈リンク 藤沢市湘南台7ー2 0 ⑩鯖神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町7 0 9⑪左馬大明神 藤沢市西俣野字御所ヶ谷⑫佐波神社 👈リンク 藤沢市石川139 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.26
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そして「小栗判官・照手姫 縁起の寺 花應院」に到着。「不許葷酒入山門」碑。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」碑。側面には「奉祈 馬頭観世音菩薩」と。「案内板」。「市指定重要文化財(彫刻) 昭和四十一年(一九六六) 一月十七日指定 石造閻魔大王像 像高 24.0cm 袖張 25.0cm小像ながら力強さと大きさを感じさせます。安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りあげ、閻魔大王の風貌をよくとらえています。造立年代は近世初期と推定されています。以前は村内の閻魔堂(現、西俣野八〇五)の本尊の「前立ち」として安置されていましたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花應院に移されたものです。木造彩色の閻魔大王像は、像高104cm、袖張104cmと大型像ながら丁寧な彫刻が施されており、『新編相模国風土記稿』には「小野篁(たかむら)彫刻せしと云う」と記されています。背後から石像閻魔大王像を胎内に納める作りとなっています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」「石造閻魔大王像(市指定)」。「小栗判官・照手姫、縁起の寺小栗判官と照手姫の物語は、中世以降から伝承されてきた物語です。説経節として端を発し、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなり世に広まりました。物語の大筋は、照手姫を見初めた子栗が、姫の父兄に殺され、閻魔大王によって娑婆に戻され、藤沢の遊行上人の助けを得て蘇生し、姫と再会し復讐するというストーリーです。ここ花應院には、小栗判官照手姫縁起絵と地獄変相十王図(地獄絵)が伝来し、例年一月・八月二回の閻魔祭りでは、縁起絵並びに十王図の開帳と共に、伝説の小栗判官・照手姫の奇想天外な物語と、地獄のさまざまな姿の絵解きが行われます。西俣野には「小栗・照手ゆかりの地」として、多くの史跡・地名が残されています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」この後見た「小栗判官縁起絵」。境内を進む。右手に「六地蔵」。本堂への参道両脇の銀杏の老木の根元の石仏(右)が迎えてくれた。銀杏の木の根元にも石仏(左)。本堂に向かい合う形で鎮座する石仏群。近づいて。さらに右側を。慈母観音像であっただろうか。そして社務所の脇にあったシャボン玉自動生成装置。住職の自家製なのであろうか。正面に「本堂」。「本堂再建紀念碑」。「藤沢市指定重要文(彫刻)石造閻魔大王坐像本像はもと焔魔堂(正しくは法王院十三堂といい、花応院の北方100mに「閻魔堂跡」として保存)の本尊である木造閻魔大王坐像の”おまいだち”として安置されていたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花応院に移されたものである。本尊の閻魔大王像は、木造彩色坐像で像高一〇四・〇cm 袖張一〇四・五cm と大型像ながら、丁寧な彫刻が施されており、一説には、平安時代の漢学者、歌人である小野篁(おののたかむら)の作と伝えられている。他方、市指定重要文化財の石造閻魔大王坐像は、前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高ニ四.〇cm 袖張ニ五.〇cmと小像ながら、安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りこなして、大王の風貌を遺憾なく表現した秀作で、造立年代は室町後期か桃山期と推定されている。昭和四十一年一月十七日 指定藤沢市教育委員会」そして「本堂」手前の隣室に入ると壁に沿って「地獄変相十王絵図」が並んでいた。毎年1月16日と8月16日に行われるのは「花応院閻魔祭」にて住職による複製11幅による「地獄変相十王絵図」の「絵解き」解説が行われていると。是非今年こそ。8月16日に花応院を訪ね、住職の説明を聞いて、それぞれの地獄絵について説明書きを追記したいと思います。右から①閻魔大王裁きの場②畜生再生の図③血の池地獄の図①閻魔大王裁きの場 左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。 司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて 鏡のまえに。②畜生再生の図 人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる 脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、下を引き抜こうとする鬼。③血の池地獄の図 お産で死んだ人が落ちる血の池地獄。一人女がはい上がり、山の下で祈りをささげる。 救いにこられた地獄菩薩のお姿。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。左から④修羅地獄の図。⑤針の山地獄の図。⑥極寒地獄。氷の池の図。④修羅地獄の図。 闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。 斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。⑤針の山地獄の図。 三途の川の渡し場は三つ。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、 亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。⑥極寒地獄。氷の池の図。 氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった 獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、ととなえ、生き返らせ、苦しめる。中央から⑦畜生報復地獄の図。その左に⑧針の山と飢餓地獄の図。⑦畜生報復地獄の図。 動物をいじめ、殺した人たちが、地獄に落とされ報いを。巨大な虎、シシ、犬、ハチたちが 襲い、手、足、腰まで、ばらばらにしてしまう。まわりは、逃げ場のない火炎地獄。⑧針の山と飢餓地獄の図。 剣が茂る山。登るまいとすれば獄卒に打たれ、登れば剣がからだを切りさく。餓鬼道に 落ちた者たち。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。⑨火の車の図。 地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに・・・。 足ることを知らず。欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。⑩賽の河原の図。 河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。 地獄菩薩が救いの手を・・・。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆に着物を 剥ぎとられて・・・。 ⑪地獄の釜ゆでの図。 大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。地獄の鳥が亡者を運ぶ。 人をゆで悪を放出。善行を封じる閻魔大王の慈悲。善だけになった亡者は御蔵浄土に。そして「小栗判官縁起絵」の複製。近寄って。更に。1段目。そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目左。横笛を吹く小栗判官。近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目右。2段目それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家は大激怒。小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となる。そこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねて来る。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けたのであった。。2段目左。小栗のラブレターを読む照手姫。2段目右。ラブレターを書く小栗判官。3段目。照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。3段目左。碁盤の上に乗る馬の鬼鹿毛(おにかげ)。3段目右。二人は相思相愛。4段目は右から左へ。腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、相模川のおりからが淵へ。ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目右。兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目左。そうして流れ着いたところが、海の浜。その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。照手姫の白い美肌も気にくわない。そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責め。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)5段目。そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。5段目右。照手姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。井戸の水を汲み上げて運ぶ照手姫。5段目左。お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。「小栗判官」や「花王院」に関する様々な書籍が展示されていた。「小栗實記」。そして隣にあった「本堂」の内陣に。「本堂」の金色に輝く「天蓋(てんがい)」。祭壇に近づいて。中央は御本尊の「聖観音像」であっただろうか?隣にも石?仏が。そして「閻魔大王」。右に司録・左に司命の二脇侍を従えていた。正面から。木造 像高104cm 。近くにあった閻魔堂が火災にあったため担ぎこまれたと伝えられている。お顔をズームして。更に。「閻魔大王像」の胎内仏の「石像閻魔王像(24.5cm)」の写真。祭壇には多くの位牌が並んでいた。多くの卒塔婆(そとうば)が奉納されていた。そして禅宗・曹洞宗の寺であるので「殿鐘」が。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよー」という合図になる と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.25
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次に訪ねたのが「小御嶽神社」から北に50m程離れた場所にあった「御嶽神社」。石鳥居の扁額「御嶽神社」。石鳥居は1986年9月再建と。「文化財ハイキングコース案内板 藤沢市教育委員会」「「小栗判官伝説」の地を訪ねて西俣野には、近松門左衛門の浄瑠璃「当世小栗判官」や歌舞伎の小栗物などでよく知られる小栗判官照手姫伝説にまつわる地名がいくつか残っています。次にそれらのうち、いくつかを挙げてみましょう。小栗判官が土葬された場所といわれる ”小栗塚”。この塚は、県道、戸塚菖蒲沢線の拡張工事で、三分の一程の大きさになってしまいましたが、塚の中央の凹を何度埋めても、いつの間にかまたくぼんでしまう、という不思議な塚です。小栗塚の南西、道をはさんだ向かいの畑の中のサカキの大木の下が、地獄に落ちた小栗判官が蘇生したと伝えられる ”土震塚(すなふるいつか)” です。"御所ヶ谷” は、照手姫の館があったことからついた地名で、この館は「乾の御所」ともいわれていました。これは、東俣野(横浜市)の横山大膳の館から乾(北西)の方角に当たるために、こう呼ばれていたものです。埒田(ませだ)は、北窪河内、市境近くの田で、これは、小栗の乗った荒馬の鬼鹿毛(おにかげ)が、厩栓棒(ませんぼう)をくわえて逃げ、それを捨てた場所とか、鬼鹿毛がはね、厩栓棒がとんで突き立った場所などといわれています。この他、小栗判官縁起の絵解きが行なわれる花応院や、小栗判官と、その家来が眠ると伝えられる”閻魔堂跡” などがあります。」西俣野コースの文化財① 御嶽神社 ② 花応院(かおういん) ③ 瞽女淵・土手番様(ごぜぶち・どてばんさま)④ 閻魔堂跡 ⑤ 左馬神社(さばじんじゃ)「御嶽神社」の境内参道を進む。西俣野にあるここ「御嶽神社」は西俣野の鎮守。「吾妻鏡に、建久6年(1195)11月19日に、相模の国大庭御厨俣野郷の大日堂に仏聖燈油料として田畑を寄進した」と。もとは鎌倉権五郎景政の頃に伊勢神宮の式年遷宮の時、心御柱を伐り取り造立したものと。寛文元年(1661)、寛政4年(1794)、明治20年(1887)に再建。昭和12年(1937)拝殿改築の歴史があると。 左手に「神符神札授受所」。「拝殿」への石段左側に「猿田彦大神石廟入口」と刻まれた石柱が。「奉納 参道敷石」碑。石段を上る。正面に「拝殿」。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で西俣野地区の鎮守。建久6年( 1195 )の創建。鎌倉権五郎景政が信仰した大日如来の化身である大日不動明王(伊勢神宮御柱材から彫られた)を祀る大日堂が始まりとされる。景政の曾孫・俣野五郎景久がこの地を支配して、大日堂の信仰を引継いだが、景久は木曽義仲との戦いで討ち死し、その後この地は三浦義澄、義村の所領となった。景久の後妻はその後も俣野郷に居住し大日堂を守ったとされる。彼女の訴えをもとに、源頼朝が三浦義澄に荒廃した堂の修理を命じている。その後大日堂は御嶽山神礼寺文殊院(真言宗)となり、境内に御嶽神社、小御嶽神社を祀ったが、明治の神仏分離令により廃寺となり、神社だけが残った。大日不動明王は一尺一寸の像が2つあったが、その後行方不明になった。その脇にあった堅牢地神の信仰は、その後も引き継がれてきた。神礼寺はこの地の地神講信仰の中心となり、堅牢地神像図を刷り、それを受けた講中の人々は、掛け軸にして自宅に飾った。地神信仰は地の神、農業の神として、各地に広まっている。境内には、市の有形民俗文化財に指定された猿田彦大神の石廟(延宝8 =1680 造立、天明6 =1786に修復との銘文)がある。「拝殿」前の狛犬(阿形像)。御嶽神社狛犬 (昭和12年奉納・北村喜代治、江戸風)。「拝殿」前の狛犬(吽形像)。向拝(こうはい、ごはい)には精緻な龍の彫刻が。扁額「御嶽神社」。「拝殿」前から境内を振り返る。説明を聞くこの日の参加者。右手奥には「鐘楼」、その先に「俣野山稲荷大明神」の石鳥居。「鐘楼」に近づいて。梵鐘には、「当神社の神鐘は第二次大戦の末期 昭和十九年国家資源総動員令発令と共に 惜別以来三十九年無鐘となり 其の間幾度となく 基本的な計画が進められ 今回氏子中の総意に依り再建された。 昭和五十七年十一月吉日(一九八ニ)」と刻まれていた。「俣野山稲荷大明神」の石鳥居を正面から。石段の上に「社殿」・「拝殿」。「社殿」正面。「正一位俣野山稲荷大明神」 と書かれた扁額。境内の「猿田彦大神石廟」。市指定重要文化財(有形民俗文化財)に指定されている、「猿田彦大神石廟」。 正面から。内陣には石祠が安置されていた。「市指定有形民俗文化財 昭和四十年(1965) 五月三十一日指定 猿田彦大神石廟(さるたひこだいしんせきびょう) 堆積岩製 総高 94センチメートル、間口 60センチメートル、奥行 65センチメートル石廟とは、家屋型の石造物で、本尊や神体を安置するための祠です。現在は保護のため外側を小社で覆ってありますが、この祠の中には猿田彦大神と大鷲(とり)大明神が祀られています。元は御所ヶ谷に祀られていたものを、ここに移したと言われ、地元では石の宮と呼ばれています。この祠は高床式で、扉は観音開き、一石で造られた屋根の上に二匹の猿像を浮彫りにしているのが特徴です。右側の猿は座って葉のついた桃を持ち、左側の猿は腹ばいになっています。外壁面に、延宝八年(1680)の年記と花応院・文殊院(廃絶)のほか村民四十人の連名が刻まれ、前扉に、天明六年(1786)の年記と花応院ほか八人の連名が刻まれています。この銘文から、延宝八年に造立され、天明六年に修復されたものと考えられています。かつて、十干・十二支を組合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日の夜には、睡眠中に三尸という虫が身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので寿命が縮む、という信仰がありました。そのため、その夜は信者が集まって夜明かしする風習があり、その祭神は神道では猿田彦とされています。西俣野には猿田彦大神の石塔がいくつか残っており、この石廟も庚申信仰と関わるものと考えらています。 平成二十二年(2010)二月 藤沢市教育委員会」この祠は高床式で、扉は観音開き、一石で造られた屋根の上に二匹の猿像を浮彫りに。延宝8年(1680)4月石祠(切妻)二猿(屋根上)正 面「天明八年 申九月日」 「花応院 文殊院 延宝八年卯月吉日」 多数の人名。左側の猿は、手足をのばして腹ばいになっているのだと。右側の猿は丸い大きな目をして葉のついた桃を持ち座っていた。「日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿元文5年(1740)12月板駒型正面右側「元文五庚申 西俣野村」 〃左側「十二月吉日 中北久保」 〃下側 人名」「案内板」に基いて山本さんが説明して下さいました。御嶽神社の本堂左手に6基の庚申塔が並んでいた。「日日・青面金剛像(剣人・六臂)・邪鬼・三猿正徳3年(1713)10月舟形光背型台 石「相列高座郡 西俣野 庚申講中 以上七人 爲二世安樂 立之者也 正徳三癸巳歳 十月吉祥□ 花應院 現住天祝叟」」下記写真一番左は●月日・「猿田彦大神」 明治15年(1882)3月 山伏角柱 右側面「明治十五午年 第三月建立」 台 石「講中」 台石右面 5人の名●その右隣りは 重頭角柱「猿田彦大神」 明治14年(1881)11月 右側面「明治十四年 十有一月正」 左側面「天明四辰年 十有一月」 ※天明4年塔の再建塔●その隣は 月日・「猿田彦大神」 明治15年(1882)3月 山伏角柱 右側面「明治十五午年 第三月建立」 台 石「講中」 台石右面 5人の名●その隣は 「猿田彦大神」 造立年不明 駒型・道標 前面は風化の為不明 右側面「右 かまくら道」 左側面「左 八おうじ道」反対側から見る。「御嶽神社」の「本殿」を横から見る。本殿は流造り。流造りの構造は、切妻造・平入であるが、側面から見た屋根形状は対称形ではなく、正面側の屋根を長く伸ばす方式。廻り込んで。そして「御嶽神社」を後にして次の目的地の「花応院」に向かって進む。左側に寺院の如き建物があったが「森山工務店」との看板があった。更に進むと右手にあったのがアイスクリーム店「飯田牧場」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.24
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この日は先月・3月22日(水)、「藤沢地名の会」が主催する【地名探索】『小栗伝説の残る六会を巡る~亀井野・西俣野地区、春の歴史散策~』に参加しました。集合場所は、午前9:30に小田急線六会日大前駅東口階段下。そして集合時間の9:30になると、この日の「藤沢地名の会」の案内・説明の方がこの日の散策ルートの説明をしてくださいました。開設当時の「六会」は、1889年(明治22年)の町村制施行の際に六つの村(高座郡円行村、亀井野村、下土棚村、西俣野村、今田村および石川村)が合併した(結び合〔会〕った)ことに由来する六会村からと。昭和17年(1942)に六会村が藤沢市に吸収されてたが、その後、旧六会村の一部であった下土棚村が長後地区へ、さらに今田、円行の大部分が、新たに作られた湘南台地区に編入されたとの説明あり。現在の駅名は日本大学の請願により「湘南日大前」という駅名が提案されたことに始まる。「六会」の地名は駅名にしか残っておらず(付近の住所表記は「亀井野」)、歴史的に意味のある地名を残して欲しいという要望が高かったことから、近隣住民と協議の末、「六会日大前」に改称された。なお、駅名改称に関する費用は日本大学が負担されたと。参加人数は約30名、10人ずつの3グループに分かれそれぞれに5分間隔で時間差スタート。まずは、今年の元旦に初詣をした地元の「地神社」に向かって小田急線沿いの道を進む。参加者は、ほとんどが50歳以上の方々、そして女性の数が多かった。右手に見えたのが「日本大学 生物資源科学部」の校舎が見えた。「日本大学 生物資源科学部 12号館」。そして前方の「日本大学 生物資源科学部」の校内を横断する一般道路への踏切が。踏切を渡らずに反対側方向へ左折する。そして「地神社」の境内への入口の石段を上る。神奈川県藤沢市亀井野2丁目36−4。ここの地名の「亀井野」は、相模野台地上にあり、八王子街道(滝山街道)及びその古道が南北に走る。集落は街道に沿って発達し、江戸時代には藤沢と長後の中間地点となる継立場(つぎたてば・本陣や旅籠屋はなく、人馬の乗り継ぎを行う所)が設けられた。土地はぼ平坦で、ムラサキ(古代の染料)やミシマサイコ(セリ科の薬草)が自生する広大な原野は、中世武将たちの狩場であった。関東ローム層の黒土で覆われた土地は地下水位が高く、近世以降は畑地としても利用されるようになった。また台地に点在する雑木林や草地は、屋根を葺く萱、家畜飼料の秣(まぐさ・馬や牛などの飼料にするほし草・わら、かいば)そして燃料の木々として利用された。また新編相模国風土記稿には、漢方薬の原料となる紫胡(さいこ)の自生地という記載もある。亀井野の地名は、源義経の家臣・亀井六郎重清が不動堂を建てたことに由来するとされる。その跡地は六会日大前駅西北にあり、今その地には「亀井神社」が建っている。『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であったという。石段の横には赤の椿が多くの花を落としていた。落ちた花を。「地神社」は「地神の森公園」内にあった。境内では、地元の方々が集まって朝の体操を行っていた。正面に「石鳥居」そしてその先に「狛犬」、「社殿」が。「石鳥居」を潜って進む。比較的新しい狛犬の先に「社殿」。狛犬(右・阿形像)。狛犬(左・吽形像)。その先に「石灯籠」そして「手水舎」。素朴な形の「手水舎」。そして「地神社」の社殿。創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、山林安全、五穀成就を祈願したという。文政9年(1826年)には再建され、さらに安政年間(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願しているとのこと。大正12年(1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に再建されたとのこと。御祭神は「埴山比売神(はにやまひめ)」、田畑、土壌の神様であると。例祭は9月20日。「神明造り」の「地神社」、屋根の部分の「千木(ちぎ)」が、直角となった造りとなっていることが特徴。屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材「鰹木(かつおぎ)」が確認できた。扁額「地神社」。「地神社」と刻まれた碑。その隣に明和2年(1765)銘の「山之神」と刻まれた碑。「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。平成4年に新築整備された。明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。そして「地神社」を後にして「国道467号」に向かって進む。「国道467号」に突き当たり右折する。「亀井野小学校南側」交差点を左折し「県道403号・菖蒲沢戸塚線」へ。「亀井野小学校南側」交差点の角には「セブン-イレブン」が。そして450mほど歩き、細い路地に入ると「西俣野地区」。「西俣野地区」は六会地区の東端部を成し、亀井野との境界に沿って滝山街道(及びその古道)に走る。西俣野の東端には境川が流れ、対岸は横浜市戸塚区となる。過去には境川を跨しに広がる俣野郷があったが、現在は境川西側の藤沢市西俣野と、東側の横浜市戸塚区東び俣野町(旧上俣野町)に分かれている。西俣野の西側は相模野台地東端で、東側は境カた沖積低地となり、その境界の高低差が崖や坂道となっている。西側の台地上は畑地や疎林、東側の低地は崖からの湧水を利用した水田が広がり、集落は崖下に沿った道筋に発達した と。俣野郷は平安時代後期、地名を冠する豪族・俣野氏の支配地となった。鎌倉時代の俣野三浦氏の支配を経て鶴岡八幡宮の供僧の領地となったが、俣野氏の末裔が引き続き地頭南北朝時代以降も、俣野氏がこの地の管理者として居住していた模様である。戦国期は後北条の支配下に置かれ、玉縄城下の管轄地として、俣野は東、西、及び新分かれてその家臣たちに統治された。江戸時代に入ってからも、後北条時代の分割統治従って、東西俣野、上俣野の3地区それぞれに旗本知行地(西俣野は当初天領)となった地名の由来としては、境川を跨いで広がる土地という説と、境川、宇田川の2川が二股ている土地だからという説がある。途中の空き地で、案内人のこの後に訪ねた「花応院」の「小栗判官と照手姫についての伝説」と「旧塩つけ道」についての説明があった。遠く富士山の姿も見えた。さらに「旧道藤沢町田線」に向かって進む。そして「旧道藤沢町田線」に突き当たる。その先の道が「旧塩つけ道」であるとのこと。往時金沢、六浦方面から、内陸部に馬で塩を運んだ古道。鎌倉上ノ道と東俣野で分かれ、境川を渡り、西俣野、亀井野を通って西北に向かい、八王子方面と通じていた。境川を渡る橋は金沢橋と称し、この道が金沢方面と繋がっていたことを今に伝えている。塩つけ道が滝山街道と交差するすぐ北側から、「旧滝山街道」が右に分岐している。旧道は雲昌寺の裏や藤沢工業高校の脇を抜け北上していたが、現在は今田、湘南台地区の区画整理の中で消えているのだ。今田地区には、古道(ふるみち)の小字名があるのだ。「旧道藤沢町田線」から右斜に分岐した道が「旧滝山街道」である。「旧道藤沢町田線」を国道1号に向かって進む。右手にあったのが「神奈川県立総合 療育相談センター」。発達や障害が心配されるお子さんの支援と障害者更生相談業務を行っている施設。神奈川県藤沢市亀井野3119。再び富士山の姿を。畑の中にポツンと「塚」があり石碑が立っていた。石碑の横には「卒塔婆」が奉納れていた。「卒塔婆」には「大施食為有縁無縁三界萬霊菩薩供養塔」と。三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊はこの世のありとあらゆる精霊を合祀することである。どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。ここ西俣野地区側には、北から南に小栗塚、大塚、四ツ塚などの小字名が並ぶ。往時この辺りは上野原と呼ばれた台地状の土地で、平安、鎌倉時代には何度か!戦闘が行われた。その戦死者を弔う塚が点在し、これら「塚」のつく小字名が生まれた。毒殺された小栗判官の従者10人もこの辺りに埋葬されたこととなっており、そのうちの4つの塚が残ったことから「四ツ塚」という地名が出来たとされる。現在畑中に建っ塚は、昭和51年(1976)に西俣野史跡保存会によって建立さたものとのこと。そして西俣野を流れる「境川」に向かって坂道を下って行った。両側の斜面には竹林が拡がっていた。そして「三世ノ坂」下の道路「中道」の手前右にあったのが「小御嶽神社(こみたけじんじゃ)」。「小御嶽神社」の小さな社は道から一段と高くなった樹木の中、昼なお暗い鬱蒼とした雑木林と竹林が覆っている森の中に鎮座。神奈川県藤沢市西俣野1888。石鳥居の先に小さな社殿が。「小御嶽神社(こみたけじんじゃ)文永3年(1266) 別当神札寺が建立。元禄13年(1700)、天明2年(1782) 再建、昭和26年、氏子10軒により再建されました。神明社の氏子から離れて奉祀されたと言われています。 六会地区郷土づくり推進会議」石段の先に社殿。内陣。祭神は日本武尊。本来の「小御嶽神社」👈リンクは富士山の山梨県側5合目の旧火山(小御嶽)の上に鎮座するとのこと。そして下の道を左折して進む。右手前方には「横浜薬科大学」の「図書館棟」が見えた。1964(昭和39)年8月1日、日本ドリーム観光株式会社によって戸塚区に「横浜ドリームランド」が開園した。横浜の大型テーマパークとして栄えていたが、バブル崩壊後経営が悪化し2002(平成14)年には閉園が決定。閉園後、横浜市が敷地を買い取り、南部を学校法人都筑第一学園に売却。北部は市が再開発し俣野公園や市営墓地として利用されている。南部を買い取った都筑第一学園は、2006(平成18)年に横浜薬科大学を開校する運びとなった。建物というよりタワーのようなこのシンボルこそが、「横浜薬科大学」の「図書館棟」。「横浜ドリームランド」当時は最上階は回転展望レストランになっており、床が1時間でい1回転する構造で、話題を呼んでいたのだ。私も当時、数回利用した記憶がある。現在その装置は無くなっているが、自習室として学生が利用しているとのこと。 ・・・つづく・・・
2023.04.23
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「佐原張り子のひな人形」-1。佐原で昔から愛され続けている伝統的工芸品。「佐原張り子のひな人形」-2。その製法は、粘土で作った型に和紙を糊張りし、2~3日乾燥させてから粘土の型を取りだし、合わせ目を張り合わせてから胡粉、ニカワを練り合わせたものを上塗りし、乾燥させてから泥絵の具で彩色するという、昔ながらの方法。「伊能家の婚礼用打掛」。「伊能家の婚礼用打掛年代: (江戸時代後期)こうさんの母「ひさ」さんが、伊能家に嫁入りした際に持参した打掛で、伊能家の女性が代々、婚礼時に着用しました。打掛とは、内側の着物の上に羽織るもので、裾周りに厚みの有る部分を作ることで、引き摺って歩く際に足にまとわりつくのを防いでいます。」近づいて。さらに。松の古木があしらわれていた。松の下に館が。金糸の刺繍が見事。「伊能家の雛人形」-1。「伊能家の雛人形」-2。「伊能家の雛人形」年代:明治忠敬から5代目の「こう」さんの妹のひな人形です。そして巡って来た展示ブースを再び振り返る。「佐原での活躍」コーナー。「独学の時代」コーナー。「全国測量へ」コーナー。「全国測量へ」コーナーを反対側から。「西日本測量へ」コーナー。「伊能図の完成」コーナー。「伊能図の完成」コーナーを反対側から。正面に「シーボルト事件」のコーナー。そして「伊能忠敬記念館」の数々の展示品を堪能し外に出るとあったのがカラフルなマンホール蓋。「ポケモンマンホール蓋」・「ポケふた」は世界に1枚しかないオリジナルデザインのマンホールで、株式会社ポケモンから観光振興などを目的に香取市に寄贈されたのだと。本事業は、以前から市の若手職員20人以上が企画や検討に携わっており、図鑑に記載している「地域とポケモンをつなぐストーリー」は、若手職員が考えたのだと。タイレーツはヘイチョーとヘイの6匹が隊列を組んで行動。ココガラはどんな強敵にも挑みかかる勇敢なポケモン。江戸時代にたった6人で、危険を恐れずに測量を始めた伊能忠敬の姿と重なるのだ と。そして「小野川」に架かる「樋橋」まで戻ると、正面には先程訪ねた「伊能忠敬旧宅」が見えた。「樋橋」を再び渡る。「伊能忠敬旧宅」の2軒隣にあったのが「小江戸さわら舟めぐり」のチケット売り場である「【お休み処/舟めぐり】株式会社ぶれきめら」。「【お休み処/舟めぐり】株式会社ぶれきめら」の前から小野川対岸の白壁の蔵を見る。このマンホール蓋は汚水マンホール蓋。旧・佐原市といえば水郷。市の花「アヤメ」の咲く水郷での鮒釣りをデザイン。もっとも、アヤメは水辺にはないそうなので、カキツバタかハナショウブかもしれない。3月12日に開催された「さわら雛船春祭り」👈リンク のポスター。千葉県道55号佐原山田線(香取街道)に架かる「忠敬橋」は一部工事中であった。「もともと大橋(佐原大橋)と呼ばれていたが、1882年(明治15年)1月に佐原の人々が協力してアーチ型をした橋長8間、幅員3間の石橋に架け替え、「協橋(かなえばし)」と名づけられた。総工費は4,840円20銭8厘。 第二次世界大戦後は交通量の増加に伴い橋梁幅員が狭くなったため、1957年(昭和32年)に1.8mの拡幅を行った。 アーチ型をしためがね橋は町の中心にあったことから佐原のシンボル的存在であったが、自動車交通量の更なる増大や老朽化により1968年(昭和43年)4月にコンクリートの新しい橋に架け替えられ、郷土の偉人伊能忠敬翁から「忠敬橋(ちゅうけいばし)」と名づけられた。以前、県道の交通量が多かったことから忠敬橋の上に忠敬歩道橋が架けられ、小学生は必ずそこを通行しなければならなかったが、大型車の交通が減ったこと、町並みの景観にそぐわなくなったことから撤去され、押しボタン式信号機が設置された。なお、伊能忠敬の正式な読みは「いのうただたか」であるが、佐原の人は忠敬記念館を「ちゅうけいきねんかん」、忠敬橋を「ちゅうけいばし」というように親しみを込め音読みで「ちゅうけい」と呼ぶことが多い」 とウィキペディアより。「忠敬橋」と書かれた銘板の上には測量計の「象限儀のオブジェ」が設置されていた。「忠敬橋」から「小野川」上流を見る。「忠敬橋」から「小野川」下流を見る。この先、約1.5km先で利根川に流れ込んでいるのであった。再び「植田屋荒物店」が見えて来た。「植田屋荒物店店舗:切妻平入り 明治26年(1893)築(奥)寄棟2階建て 前建物後土蔵:切妻妻入り 明治初年 築創業:宝暦9年(1759)初代辻仁兵衛は、近江(蒲生)の出で現在8代目となる。屋号「植田屋」 かって荒物と畳表の卸業が主で、「大分県から産地直輸入畳表」と書かれた奇妙な看板を見ることができる。明治25年大火後に平屋の店舗を、その後奥に2階建てを増築して店舗兼住宅とした。土蔵は、大火前の建物で一般公開されており、叉首組(さすぐみ)構造の大きな棟木を見ることができる。この棟木は6間の長尺で搬入の際大変であったと聞く。 NPO法人小野川と佐原の町並みを者える会 贈」案内板の下には可愛らしい雛飾りが竹の上に。奥は「蔵」に継っていて、中を見学させてもらった。「蔵へようこそ」のポスターもあった。蔵の中も店の一部となっていた。様々な扇子。美術館の如くに。およそ250年もの間、佐原の人々の暮らしを支えてきたのであろう荒物屋。職人の手で作られた日用雑貨が並ぶ、昔懐かしい荒物屋なのであった。蔵の2階に上がる。叉首組(さすぐみ)構造の大きな棟木を見る。「叉首組構造(さすぐみこうぞう)」は伝統構法の小屋組で茅葺屋根に採用される。別名「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれる。叉首組構造は、垂木や合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」と合掌の骨組みである丸太と垂木の上に横に渡す竹をワラ縄などで結び作られる。勾配は「矩勾配(かねこうばい)」と呼ばれる45度が多いが、富山の合掌作り集落など雪が多い為に更に急勾配の60度ぐらいの角度で作られるのだ と。合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」。2階の床には隙間が設けられていたが換気が目的なのであろうか。様々な雛飾りも。叉首組(さすぐみ)構造の大きな棟木をズームして。黒光りした棟木が歴史の深さを感じさせるのであった。「藍染」であっただろうか。2階から前方の急な階段を注意深く降りたのであった。漆塗りの数々のお椀。草箒(くさぼうき)も並んでいた。そしてこの日の昼食で利用した店・「元祖 すずめ焼き 麻生店」再び「佐原三菱館」を見る。「癒しの雑貨 ラパン」には「「鶴瓶の家族に乾杯」に出たお店です!!」昭和レトロな佐原の路地にはお年寄りが二人のんびりと。「三菱銀行佐原支店旧本館」には「川崎銀行佐原支店」と。この建物は、大正3年(1914)に川崎銀行佐原支店として建設されたものである。当時の建築設計図には、清水満之助本店(現在の清水建設)技術部の設計になることが記されている。昭和18年(1943)に川崎銀行は三菱銀行と合併し、三菱銀行佐原支店となったが、平成元年(1989)に銀行の新店舗が完成したことに伴い、この旧店舗は香取市に寄贈されて今日に至る。建物は煉瓦造2階建て、木骨銅板葺屋根の明治時代の洋風レンガ建築の流れをくんでいる。内部は吹き抜けで、2階周囲には回廊がある。正面右隅に造られた入口はルネサンス風の外観で、この区画の頂上にはドームが付けられており、建物全体の景観にアクセントが与えられている。全体のデザインは、ルネサンス様式で、レンガと花崗岩で構成される特徴的な外観の建物である。「佐原町並み交流館」。「佐原 雛飾り」。「香取神宮入口」交差点手前の民家の門も歴史を感じさせるのであった。そして駐車場のバスに戻る。時間は14:20。そして「佐原香取IC」から「東関東自動車道」を利用して帰路に。本線に向かって進む。「小野川」手前の大規模太陽光発電設備。成田市内の長閑な田園風景の中を進む。そして出発して1時間10分ほどで「首都高速湾岸線」から見えたのが羽田空港の「東京航空局 東京空港事務所」の「旧管制塔」。そして「現在の管制塔」。この管制塔は約116mと日本一高く、世界でも4番目の高さの管制塔。「羽田スカイアーチ」下を通過。羽田スカイアーチは、東京国際空港(以下、羽田空港)の第一ターミナルと第二ターミナルの間にある橋梁である。羽田空港のシンボル的存在とされている。アーチという名称ではあるが、世界でも類を見ない主塔アーチ型の斜張橋であり、赤いアーチの高さは44.5m、アーチのスパンは160m、南北二本の主桁は主塔とケーブルで結ばれている。正式名称も東京国際空港中央南北連絡橋である。平成4年度土木学会田中賞を受賞した。「JALロイヤルケータリング」敷地内のアンテナ塔を見る。「ENEOS株式会社 扇島風力発電所」が右手前方に。「鶴見つばさ橋」から「東京電力横浜火力発電所」の高さ地上200mの排気筒。「大黒PA」にてトイレ休憩。そして「横浜ベイブリッジ」から「横浜ランドマークタワー」を見る。そして横浜新道を利用して、地元駅前にほぼ定刻時間に無事到着したのであった。佐原にあった「伊能忠敬記念館」は、千葉県香取市佐原にある、伊能忠敬が生涯を過ごした地である佐原地区に建設された博物館であった。伊能忠敬は、江戸時代末期に幕府の命を受け、日本全国の地図作成や測量を行った測量家であり、その功績を称え、佐原地区には多くの伊能忠敬関連の史跡が残されていた。「伊能忠敬記念館」は、伊能忠敬の生涯や業績を展示するための施設であり、伊能忠敬が測量に使用した測量器具や地図、手稿などの資料が展示されていた。伊能忠敬の業績や測量技術についてゆっくりと学ぶことができたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.04.22
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「NIPPON」。シーボルトが帰国後にまとめた日本紹介の書です。地理・地誌・自然誌など詳細にわたる記述があります。クルーゼルステルン(ロシアの水路学者)からシーボルト宛の手紙も印刷され、その一節に「これ(伊能図をもとにした日本地図)をヨーロッパで作製された諸地図と比較しても非常にすぐれたものであるとの判定を下さないわけにはゆきません」という評価がされています。」「NIPPONJは、図版編と本文(テキスト)編からなり、伊能忠敬の調査に基づく日本地図などが紹介され、また農村や都市の風景・風習、文化や産業、そして身分のよる服装の相違などを描いた図版が数多く載せられている。ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、1826 (文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。1828 (文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。しかし、1859 (安政6)年に再び来日して、1861 (文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。」シーボルト著『NIPPON(日本)』に取録された「日本邊畍(界)略圖」。「日本邊畍(界)略圖」は、幕府天文方の高橋景保が1809 (文化6 )年に作成したもので、ロシアを含むヨーロッパ人にとって地理情報が不正確であったサハリン(樺太)を半島ではなく、島としてはっきり描いた、当時世界最新の日本北方図として、シーボルト『日本』に収録された地図の中でも最も重要な地図の一つとして知られている。「輯製(しゅうせい)20万分の1地図陸地測量部が伊能図を参考にしてつくった地図。1893(明治26)年までに完成しました。三角測量が進むにしたがって、順次20万分の1帝国図に代えられていきました。「輯製」というのは、現在ではあまり使わない言葉だが、「編集によって作られた」という意味であると。測量による地図は、すでに伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が1821年に完成していたが、これは、地図の表題通り、「沿海」つまり海岸線を中心とした地図であり、そのほかには、主要な街道沿いの情報しかなかった。「金華山近場」、「千葉霞ヶ浦・九十九里浜」、「鹿児島南部」。「大正までの伊能図幕末から明治にかけて、伊能図をもとにした地図がつくられ、その後の地図の基礎資料となりました。その一つに「輯製(しゅうせい)20万分の1地図」は、近代的測量をへた「20万分の1帝国図」にかえられていきましたが、大正時代まで使用されたものもあります。」「版木 種子島」。ガラスが反射して分かり難いので、ネットから。dの部分は石垣島付近を描いた版木部であると。「版木 種子島官板実測日本地図の版木です。幕府開成所(現東京大学)が作成、幕府抱えの彫刻師天神山につくらせたものです。」天神山とは宮田六左衛門であり、平河町住ひで塙保己一の「群書類聚」などの筆耕ほりとして有名な人である と。「国宝 伊能忠敬 関係資料の世界当館所蔵の国宝「伊能忠敬関係資料」には、地図や測量道具だけでなく、伊能忠敬に関わるさまざまな資料が含まれており、全体は5つの部門に分類されます。ここでは、地図・絵図類・文書・記録類・書状類・典籍類・器具類の中から、代表的な資料の実物を展示し、同資料群の持つ奥深い世界を紹介していきます。」「参考絵図(大州藩領)」。「参考絵図(大州藩領)愛媛県松山市資料名:[大州領沿海図](怒和村)作成年代:不明[大州領沿海図]に関する記事をネットから。これも「参考絵図(大州藩領)」「参考絵図(大州藩領)愛媛県大州市資料名:[大州領沿海図](櫛生村)作成年代:不明「下図(壱岐島)」。「◯箱館付近」。「下図(壱岐島)長崎県壱岐市縮尺:3万6000分の1資料名:[壱岐国下図]作成年代:年代不詳 測量:文化10(1813)年3月13日~27日「下図(伊豆半島北東部)」。「下図(伊豆半島北東部) 静岡県熱海市~伊東市」縮尺:3万6000分の1資料名:[自伊豆国賀茂郡網代村至伊豆国賀茂郡宇佐美村下図]作成年代:年代不詳 測量:享和元(1801)年5月4日~5日「下図(伊豆半島北東部)」。「下図(伊豆半島北東部)静岡県伊東市縮尺:3万6000分の1資料名:[自伊豆国賀茂郡網代村至伊豆国賀茂郡宇佐美村下図]作成年代:年代不詳 測量:享和元(1801)年5月5日~6日」「下図(伊豆半島北東部)」。「下図(伊豆半島北東部)静岡県伊東市縮尺:6000分の1資料名:[自伊豆国賀茂郡網代村至伊豆国賀茂郡宇佐美村下図]作成年代:年代不詳 測量:享和元(1801)年5月6日」「小区域下図第二次測量で、忠敬らが測った一日から二日の成果を書いた下図です。いずれも伊豆半島の北東部の下図です。日中の測量後、夜につくったものと考えられます。縮尺は、36000分の1と6000分の1のものが残されており、この時期の製図は試行錯誤をくりかえしていたことがうかがえます。」「伊能家訴訟依頼状・訴訟費用借用証」。「伊能家訴訟依頼状・訴訟費用借用証資料名:御願申一礼之事(伊能三郎右衛門家訴訟に付依頼状)作成年代:文政11(1828)年正月「伊能家の家事に関する訴訟を水沢家に一任した書類です。この時点では、笹目家と水沢家は反目していません。御頼申一礼之事一伊能三郎右衛門家事不取締ニ付御両家様旁御深情ニ相成忝奉存候、然ル処此度無拠 御公訴ニも相成可申旨承知仕候、何分御丹情ヲ以家事取締 永続ニ相成候様偏ニ奉頼上候(中略) 文政十一子年正月 伊能三郎右衛門妻 ※さた(爪印) さた実父 笹目八郎右衛門(印) 立会人 柏木久兵衛(印) 永沢次郎右衛門 殿 同 半右衛門 殿※「さた」は忠誨の妻で、後に「くに」と名乗ります。」「伊能家の親類一同で伊能茂左衛門に三郎右衛門家の管理を任せた書類です。居宅は他人に貸して、忠誨の妻だった「くに」は実家か親類の家に行き、食料代と衣類代10両を与えると書かれています。早速一決いたし、是迄居宅者年中他江貸渡、後家くに身分之儀者里方又者親類之内江参り居、扶持井衣類等之手当として一ヶ年二金拾両ツゝ相渡、右ニ而無不足相賄、」。「伊能家家財管理依頼状」「伊能家相続協議書」「伊能家相続協議書資料名:為取替申儀定一礼之事[伊能三郎右衛門家相続議定書]作成年代:天保9年(1836)年10月「天保9 (1838)年の伊能家親族の協議書の冒頭に、忠誨存命中に永沢駒吉を養子にしたことがかれています。為取替申議定一札之事一去ル文政九戌年中伊能三郎右衛門重病ニ付、永沢次郎右衛門倅駒吉伊能三郎右衛門方江拾弐ヶ年前養子ニ貰請相続取究メ罷在候所、」「伊能家のその後文政元(1818)年忠敬が亡くなった後、伊能家の家督をついだのは孫の忠誨(ただのり)でした。忠誨は高橋景保の指導の下、伊能図の幕府への献上や佐原で天体観測などを行いました。文政9(1826)年、忠誨は重病により永沢駒吉を養子にしました。翌年の忠誨の死後、妻の実家笹目家と永沢家で伊能家の家督をめぐって争いになりました。弘化2 (1845)年に、忠誨の妻は実家にもどり、伊能家の当主は不在になったので、一族の伊能茂左衛門が忠敬に関する資料も含め、伊能家の家財一切を管理するようになりました。」「伊能忠関係資科の写真集図録「国宝伊能忠敬関係資料」「受付でお買い求めいただけます。」伊能忠関係資科の写真集図録「国宝伊能忠敬関係資料」1冊1 , 000円」「国宝 伊能忠敬関係資料」。伊能忠敬の書状。近づいて。「永井甚左衛門様御代官山田茂左衛門様御役所へ御出被成候て御かけ合の上御手かた御引かへ被下候間今日下し候も御りやう所名主へ相渡し候米と引かれいたし候やう仰出候よし」「忠敬の孫・忠誨は天文方の役人としての扶持米(お給料)を地元佐原付近の幕府領で引きかえてもらっていた」。「何事も浅草先生 直々 山田茂左衛門様へ 御かけ合 被下候ゆへ」伊能忠敬の娘「伊能イネ書状」。「伊能イネ書状これはイネ(忠敬の娘)から、忠誨(ただのり・忠敬の孫)に送られた手紙です。忠誨からみると、イネは伯母にあたります。ここでは、天文方雇(幕府の役人)としての忠誨の扶持米を佐原付近の天頂で引替えられるよう浅草先生こと高橋景保が取り計らってくれたことが書かれています。」「此間しつねんいたし候いねぢはんの半ゑり御とのへ被下可申候一本もみの半ゑり壱つ是ははしきれにても宜しく候」「いねは、忠敬とミチの長女イネ(のちの妙薫)のこと。文中ではいねの襦袢(はだぎ)のえりにかける「半衿(はんえり)の相談をしているようです。」「一 なかぬきそうり二足鉄之介さしかさ壱本右之しな御せわさまおって申あけまいらせ候」「鉄之助は、忠敬とミチの長男景敬のことです。」「伊能ミチ書簡」。「伊能ミチ書簡」妻ミチから夫忠敬宛ての書状。今回はおひなさまの展示にちなみ、伊能家の女性が書いた書簡を2通紹介します。一般的に、女性の書く文章は、ひらがなが多く使われることが特徴として挙げられます。忠敬の妻ミチが夫へ宛てたこの手紙も例外ではありません。かな混じりで綴られるやわらかい文面でできた手紙の中身は、子供のいねや鉄之介に関する相談となっており、文面だけでなく内容もやさしくほほえましいものとなっています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.21
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「伊能忠敬記念館」の展示品の見学を続ける。伊能忠敬が測量時に使用した「御用」旗。「御用旗伊能忠敬測量隊の旗です。幕府の正式な仕事であることを示す「御用」の文字が染めぬかれています。忠敬が、友人の久保木清淵に依頼して作らせました。」「西日本測量経路図」●第5次測量は畿内、中国地方の測量で1805年(文化2)2月15日江戸出発、東海道を 西へ浜名湖の周辺で長期測量、桑名をへて山田(伊勢)では木星の衛星による食(凌犯現象) を観測、紀伊半島南を回り、大坂から京都、大津、琵琶湖周辺、宇治、摂津、尼崎、岡山、 翌年に赤間関(下関)、萩、浜田、松江、隠岐島、山陰沿岸、若狭湾、大津、東海道への 長距離行程になっています。1806年(文化3)11月15日帰着しました。全行程 5000キロメートル超、640日の長い旅でした。この測量では下役(伊能配下の役人) として坂部貞次郎などが加わっています。伊能は松江で大病を患い療養のため隠岐島は部下に 測量をさせました。測量隊の規律が乱れ、また高橋至時から戒告の書状が出されました。 江戸に帰着後、内弟子の平山群蔵(平山宗平と兄弟)ほか一人を破門しました。 この測量成果により作成された地図は「中國沿海地圖」(中図)、「畿内沿海地圖」 (中図)が残存しています。●第6次測量は四国、大和の測量で1808年(文化5)1月25日江戸出発、大坂から淡路島、 鳴門、徳島、室戸、高知、宿毛、宇和島、松山、川之江、丸亀、大坂、大和郡山、桜井、 伊賀上野、伊勢、東海道の行程です。四国では沿岸部一周のほか高知、川之江間の四国縦断も 行われました。翌1809年(文化6)1月18日帰着しています。下役として青木勝次郎 (絵師、伊能の肖像画を描画)が加わり、沿道風景の描写をしています。瀬戸内海の塩飽 (しあく)諸島では日食を観測し、伊勢では元日に内宮、外宮を参拝しています。「伊能忠敬・測量の概要」●第7次測量は下記●第8次測量は下記●第9次測量は伊豆七島の測量で1815年(文化12)江戸出発、71歳の伊能は高齢のため 参加を取りやめ、下役の永井甚左衛門(充房)が隊長、弟子たちであたりました。江戸から 東海道を三島まで、伊豆半島を下田まで行き、下田湊から御用船観音丸で八丈島へ向かう ところ船は流され三宅島に到着、その後伊豆七島の測量をしました。●第10次測量は1816年(文化13)と一部は前年に江戸府内の測量をしました。 伊能はほとんど参加していないようです。翌年地図の作成が行われました。伊能の測量はすべて 完了します。「経度の測定」経度は、日食・月食などの天体現象を観測して、その時間差から算出しました。経度を精密に求めるには、日食などが2地点以上で観測できることと正確な時計が必要でした。伊能忠敬の全国測量中に13回の日食・月食がありましたが、雨天などで観測できない場合があり、テータとして使用できたのはわずか5回だけでした。また、時刻の測定には垂揺球儀(すいようきゅうき)を使用しましたが、地◯時の決定に誤差が生じました。」「経度測量の失敗伊能忠敬は日食・月食を観測し、経度を確定することにつとめました。しかし、忠敬はこの測定についてはかんばしい成果を残せませんでした。それは、気象の影響や正確な時計のない当時の科学技術の限界でもありました。」「九州測量九州の測量は、2次にわたる大事業になりました。当初1回で完了する予定でしたが、屋久島・種子島への渡海がかなわず、測量を延期することになりました。この測量の最中、忠敬が片腕として信頼していた坂部貞兵衛が福江で病没し、長男景敬(かげたか)も亡くなるなど、忠敬にとって、公私ともに大きな悲しみがおとずれています。」●第7次測量は九州東南部の測量が主で1809年(文化6)8月27日江戸出発、江戸郊外の 王子から岩槻、騎西、熊谷をへて中山道を近江へ、一部測量を省き淀、西宮、中津、杵築、 大分、佐賀関、延岡、佐土原、飫肥(おび)、大隅半島、鹿児島、甑島(こしきじま)、 天草、熊本、大分、翌1810年(文化7)に中国地方、内陸の主要街道、甲州街道をへて 1811年(文化8)5月9日帰着しています。鹿児島では日食観測に失敗しています。 第7次測量に参加した箱田良助(備後国箱田村出身)は榎本武揚(えのもと・たけあき 1836~1908、幕臣)の父でした。江戸に帰着後、間宮林蔵が伊能宅に住み込み測量術を 伝授され、蝦夷地測量に出発しています。●第8次測量は九州残部の測量で屋久島、種子島、五島列島が含まれています。 1811年(文化8)11月25日江戸出発、藤沢から大山街道をへて御殿場へ、富士山麓の 北側を回り東海道、山陽道をへて1812年(文化9)1月下旬、小倉へ、ここから手分け して南下、鹿児島、山川、屋久島、種子島、小倉に戻り、博多、唐津、伊万里、佐賀、久留米、 島原半島、大村、佐世保、1813年(文化10)は平戸、壱岐、対馬、五島列島、長崎、 小倉、赤間関、中国地方内陸、広島、松江、米子、鳥取、津山、岡山、姫路で越年、 1814年(文化11)は西脇、生野、福知山、宮津、京都、津、岐阜、下呂、高山、野麦峠、 松本、善光寺、須坂、松代、冨岡、大宮、川越、1814年(文化11)5月22日帰着して います。伊能の測量では最長期間となりました。この測量では離島が多く難航しました。 また天文方下役の坂部貞兵衛(さかべ・ていべい、1771~1813、惟道とも)を 五島列島の福江で亡くしています。第7次測量(九州1次)、第8次測量(九州2次)の伊能本体と坂部分隊のルート図。「日本地図へ」コーナー。「日本地図へ伊能図は、下図からつくられた大図、中図、小図の3種類があります。下図は測量結果を記録した野帳をもとにつくられました。大図(縮尺86,000分の1)は214枚で中図(縮尺216,000分の1)は8枚で、少図(縮尺432000分の1)は3枚で日本列島をカバーしています。」「地図のつくり方忠散たちの地図づくりは、ます測量結果を記録した野帳をもとに線をひいて下図をつくります。次に、下図の下に紙を重ねて固定し、線の曲がり角に針で穴をあけ、重ねた紙にあけた針穴を赤い線でつなぎます。それから、現地で写生した風景を描き、神社、寺、港などの記号(地図合印)を押し、地名を書くと地図が完成します。」右:「地図経緯表」。「下図」「伊豆半島東海岸」実際の縮尺を50%に縮尺したもの。「大図」「伊豆半島」。実際の縮尺を60%に縮尺したもの。「中図 関東」。三宅島や八丈島、青ヶ島(青島)まで伊豆諸島の島々も描かれている。実際の縮尺を40%に縮小したもの。「少図」、実際の縮尺を40%に縮小。「正確な伊能図伊能図と現在の地図を比較すると、経度のずれがみられますが、個々の形については正確に描かれていることがわかります。伊能図は、簡単な器械で測量した成果としては、驚くべき正確さを備えているといえましょう。」「現在の地図」と伊能図のズレ。中央:日本列島左上:琵琶湖右横:佐渡左上:琵琶湖右横:佐渡中央:日本列島北海道、東北をズームして。関西、中国、四国。九州。「香取市で行われた大図フロア展の様子」「大図・中図・少図の大きさの比較」「伊能図の世界伊能図には、多くのバリエーションがあります。縮尺の異なる大図・中図・小図の3種類、名勝地を絵画のように描いた特別大図、そして日本全図などさまざまです。このコーナーでは、そうした伊能図の数々を紹介いたします。」「香取市で行われた大図フロア展の様子」平成24年4月26日~ 5月2日実施「大図・中図・少図の大きさの比較大図の縮尺は3万6000分の1、中図は21万6000分の1、小図は縮尺43万2000分の1ですので、小図と比較すると中図は縦横2倍、面積は4倍。中図と大図では縦横6倍、面積は36倍にもなります。」緯度、経度の入った「小図:西日本」。「小図:西日本」。縮尺:432,000分の1原資料名:沿海地図小図(西日本)作成年:1821(文政4年)原資料神戸市立博物館蔵「小図の部分拡大(京都付近)」。「小図:東日本」。「小図:東日本」。縮尺:432,000分の1原資料名:実測輿地全図(本州中部)作成年:1821(文政4年)原資料東京都立中央図書館蔵「小図の部分拡大(江戸付近)」。「中図:関東・中部地方」。「中図:関東・中部地方」。縮尺:21万6000分の1原資料名:沿海地図(中)東海道・北陸道・東山道作成年代:文化元(1804)年原資料国宝 当館蔵「小図:北海道」。「小図:北海道」。縮尺:432,000分の1原資料名:沿海地図小図(北海道)作成年代:1821年(文政4年)原資料神戸市立博物館蔵「伊能大図・中図・小図の接合図1枚で日本列島全体を描いた伊能図はありません。大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚に分割して描きます。」「中図:中国地方」。「中図:中国地方」。縮尺:21万6,000分の1原資料名:東海道歴紀州中国到越前沿海図(上)作成年代:文化4(1807)年原資料国宝 当館蔵「中図:東海・畿内地方」。「中図:東海・畿内地方」。縮尺:21万6,000分の1原資料名:東海道歴紀州中国到越前沿海図(下)作成年代:文化4(1807)年原資料国宝 当館蔵「大図」が並ぶ。「大図(奥州街道)」。「大図(奥州街道)」。(岩手県岩手郡岩手町~青森県三戸群五戸町)縮尺:3万6000分の1原資料名:奥州街道図 第十一 (自御堂/至五戸)作成年月日:文化元( 1804 )年測量:寛政12 (1801)の年5月5日~ 6日、9月26日~ 29日/享和元 (1801)年1 1月1 1日~ 1 4日「大図(奥州沿海)」。「大図(奥州沿海)」。縮尺:3万6000分の1原資料名:自江戸至奥州街道図 第十九(自野辺地至油川)作成年代:文化元(1804 )年測量:寛政12 (1801)の年5月7日~ 9日、9月21日~ 25日/享和元(1801)年10月27日~ 11月6日~ 9日「歴第三号 国宝指定書伊能忠敬関係資料一、地図・絵図類 七百八十七点一、文書・記録類 五百六十九点一、書状類 三百九十八点一、典籍類 五百二十八点一、器具類 六十三点法量 品質形状等は別添目録の通り右を国宝に指定する。 平成二十二年六月二十九日 文部科学大臣 川端達夫」「東河伊能先生之墓」墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之墓」と隷書で刻む。伊能忠敬は延享2年( 1 7 4 5 )神保貞恒の子として上総国に生まれる。名を三次郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継く。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。5 0歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時(よしとき)の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政1 2年( 1 8 0 0 )幕府に願い出て、蝦夷地(現・北海道)東南海岸の測量に着手。以来1 8年問、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完のうちに文政元年( 1 8 1 8 ) 4月1 8日没す。享年7 4歳地図作成は、幕府天文方が引き継き、没後3年の文政4年に成。その地図は『大日本沿海輿地全図』という。また『日本輿地全図』『実測輿地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密地図である」〔左側面〕東河伊能君墓銘并叙 江都 一斎佐藤担爲文君諱忠敬字子齊伊能氏號東河稱三郎右衛門晩稱勘解由北総香取郡佐原村人本姓神保氏南総武射郡小堤村神保貞恒之第三子出冒伊能氏伊能氏世爲閭右族其先出於大和高市郡西田郷大同中有諱景能者知北総香取郡大須賀荘居伊能村因以氏焉子孫蝉聯占其地至永禄中有諱景久者始徒佐原天正中爲居民開肆塵貿易實君九世祖也高祖諱景利曾祖諱昌雄祖諱景慶考諱長由長由無子其配神保氏君之從祖姑也因●君爲嗣長由不幸●歿産頗荒君既來嗣慨然以幹蟲爲志听夕黽勉務検禁奢靡家衆百口以躬率先之天明三年關東大饑君爲發私儲賑貸郷里施及旁近村落多所全活六年又饑救之如初地頭津田日州君並優賞之君好星暦至寛政六年委家事於子景敬躬獨来江都而従事暦學當時所傳層法君疑其<この面に書かれていること>忠敬の履歴と伊能家の由緒について記されています。忠敬の人となりを「伊能家の再興を志し、朝晩励んで、自ら率先して質素倹約に努めた」としています。また、天明の飢饉の際に、村民を救済し、死者を出さなかった功績について書かれています。〔右側面〕及度数譜行程記至文政元年齢七十有四罹病其四月十三日劇殆不起至四年七月輿地全圖等成進呈以其九月四日歿 官追賞其功賜廩米宅地於孫忠誨以旌之君為人真率不修邊幅精力絶人毎測量 命下轍喜見顔色不日而發乃躬歴険阻凌海濤奔走数十百里風雨寒暑未嘗少沮喪何其氣之邁而事之勤也哉所著有國郡書夜時刻考対数表紀源術並用法割圓入線表紀源法地球測遠術問答凡若干巻皆藏於家君先配長由之女繼配桑原氏皆先歿得三男二女昆季並殤仲子景敬嗣亦先歿孫忠誨嗣君之葬在城北淺草源空寺東岡君之塋域從遺嘱也忠誨以状来請余銘乃畧叙之爲銘日源深以遠流長以?善積之厚慶則有?叩天之?極坤之輿瘴烟毒霧不能爲瘉祈寒暑雨不能爲痛乃如之人能有幾興貞珉可●跡則不(渝?)文政五年壬午嘉平月下澣淡海關研書 孝孫忠誨立<この面に書かれていること>忠敬の業績への賞賛が記されています。碑文には「文政4年7月に沿海輿地全図を完成させその後の9月4日に忠敬がが亡くなった」と記されている点が注目されます。忠敬は正直で見栄を張らず、精力的だった。測量の命が下れば喜んで出発し、険しい道を行き、荒波をしのいで奔走し、風雨や厚さを寒さにもくじけなかった。なと気力にあふれ、実行に励んたことか」と讚えている。〔背面〕有所不合偏就暦家質之猶未釋然既而 官會有改層之擧召高橋東岡者新自浪速来君執贅往見始聞西洋暦法理精数密宿疑乃解遂棄舊學學之推歩測量之精東岡之門獨推君云寛政十二年閏四月 官命君測量北陸道及蝦夷地方東南沿海以定地度明年正月 官賜君父子銀各十錠許佩刀稱姓氏賞其於天明年内兩救窮民也享和元年三月又 命測量伊豆相摸二総常陸陸奥沿海六月又 命測量出羽三越佐渡能登駿河遠江三河尾張沿海至文化紀元集地方各圖爲一大圖進呈其九月 官賞賜廩米擢爲小普請組属天文方既而又 命測量山陽山陰西海南海四道壹岐対馬二島官道及沿海十二年又 命測量伊豆七島及箱根湖既竣事測量江都府内十四年四月府内圖成進呈自蝦夷測量之初至此閲十有八年五畿七道無地不渉●陬僻壌盡測量而圖之最後有 命集成寓内沿海輿地全圖<この面に書かれていること>忠敬が、子の景敬に家督をゆずって江戸に出てから、全国測量を行い、地図の作成に至るまでが記されています。「当時の暦法に疑間を抱いていた忠敬は、改暦のため、大坂より来た高橋東岡(至時)から西洋暦学を聞き、その理論の精密さに、長年の疑間を解くことができ、これまでの疑問をすてて、これを学ぶ」と、西洋哲学との出会いを興味深く取り上げています。「外国の影響伊能図は海外に紹介され、外国の日本地図に影響を与えました。ドイツ人シーボルトが伊能図の写を持ち出し、はじめて海外に日本の正確な姿を伝えました。幕末に日本を訪れた英国海軍のアクテオン号は、幕府から伊能図の小図を与えられ帰国し、それにもとづいた日本の沿海図が1863年につくられました。」「左上」:クルーゼンステルンの海図等にもとずいたイギリス製日本沿海図。 1865年刊行。1940年に公表されたシーボルトの日本図が、一部しか参考とされて いないため、正確な日本図になっていません。「左下」:伊能図(小図) 伊能図の写。1861年、駐日イギリス全権公使オールコックの請求により、幕府から 贈られアクテオン号らによってイギリス本国にもたらされました。「右上」:シーボルト日本図「右下」:伊能図にもとずいたイギリス製日本沿海図 1863年刊行。アクテオン号がもたらした伊能図を直接参考として作成されたもので、 正確な日本の姿を描いています。「シーボルト事件長崎にきていたドイツ人医師シーボルトが、海外に伊能図を持ち出そうとしました。高橋至時の長男・景保が、外国の書と伊能図を交換したのです。当時、日本の地図を外国人にわたすことは禁じられていたため、1828 (文政11)年、景保は罰せられ牢屋で病死しました。シーボルトも国外追放となりましたが、ひそかに写しを持ち帰り、海外に日本の正確な姿が伝えられました。」「封廻状」「シーボルト事件関係者の判決す。すでに獄死していた高橋景保(かげやす 至時の子)にも死罪が命じられています。」右から高橋作左衛門(景保) 存命候はば死罪 忠敬の測量に参加した人物。下河辺林右衛門 中追放 忠敬の測量に参加した人物門屋清次郎 江戸十里四方追放 忠敬の測量に参加した人物永井甚左衛門 江戸払 忠敬の測量に参加した人物 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.20
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「暦象考成」「当時最新の暦学書てす。伊能忠敬は、暦学の基礎をすでに勉強していたので、高橋至時(よしとき)への入門とともに、この本から学ぶことができました。」「高橋至時の著書伊能忠敬が写した、師高橋至時の著書です。日食の予報や惑星の軌道解明などにとりくんだ本で、当時最高水準の歴学書です。」2023年は寛政の改暦の立役者である高橋至時の没後219年にあたる。高橋至時は明和元年(1764)に大阪の下級武士の家に生まれた。天明七年(1787)、大阪で天文暦学を教えていた麻田剛立の門下に入り、同門の商人、間重富はざましげとみと共に天文暦学の研究に励んだ。その頃改暦を考えていた幕府により、江戸出府を命じられ、寛政七年(1795)至時は天文方、重富は頒暦所御用として、浅草天文台で改暦作業に従事することになった。「寛政暦法」は西洋天文学を採り入れた中国の暦書『暦象考成 上、下、後編』をもとに考案された。五星 (惑星) は周天円の組合わせによったが、太陽、月は楕円運動を用いた画期的なものだった。しかし、至時はこの暦法に満足できず、享和三年(1803)から亡くなる享和四年(1804)の約半年間で、オランダ語天文書の『ラランデ暦書』の解読に励み、『ラランデ暦書管見』を著述した。この超人的な仕事が命を縮めたといわれる。41歳であった。至時の指導で緯度の観測を始め、ついに精密な日本地図を完成させた伊能忠敬、師の隣に眠ることを希望したので上野源空寺の高橋至時の隣に墓がある。「気朔交食推法」「新修五星法 図説」 全2冊、寛政12-享和3年 天の中心に地球があるとし、その周りを地球に近い順に水星 金星 太陽 火星 木星 土星 恒星が めぐるという、いわゆるプトレマイオス体系を用い、またすべての惑星の軌道は各星固有の 半径を持った楕円軌道の導円上を太陽天と同大で黄道と平行な傾きを持った楕円軌道の 周転円中心が運動しその周転円上を惑星が運動するというモデルを構築したのである。「修正赤道日食法」 寛政12年稿、享和2年補。 「寛政暦法」 宝暦暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦を しようとし、高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に 当たらせた。高橋至時らは先任の天文方(山路徳風ら)と協力し、寛政9年(1797年)に 暦法を完成させた。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を 元に、月と太陽にだけであるが楕円軌道法を導入したが、惑星については周転円に基づく 理論であった。また、精度の悪い古代の観測結果を説明するために、消長法を採用した。 弘化元年(1844年)渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版。図にティコ・ブラーエ のものをいれるなどしている。 天保8年(1837年)の大小暦(大月〈30日〉、小月〈29日〉)は、2月、4月、6月、9月、 11月が小月であり、その覚え言葉が「西向く士」であった。文政8年(1825年)の大小 月覚え言葉は1月、3月、5月、7月、10月、12月が大月で「大好きは雑煮草餅柏餅ぼんの ぼた餅亥の子寒餅」という。「ラランデ暦書管見」 「ラランデ書」の主要な部分や参照すべき部分を、高橋至時が自身の解釈や疑間を 交ええながら訳した書物。原書の「ラランデ暦書」は、フランス人天文学者ラランドの 著書をオランダ語に訳したものである。国宝「伊能忠敬関係資料」のなかには全部で8冊 現存する。本書により、地球が偏平楕円形であることが日本に初めて紹介されるとともに、 忠敬の導き出した緯度1度の距離の推計(28里2分)の正確性が確かめられた。「増修消長法」 忠敬の師である高橋至時の著した天文暦学書を忠敬が写したもの。至時は、麻田剛立が 考案した消長法(1年の長さが変化することを前提とした天体運行の計算方法)を理論的に 解説するために本書を著した。本書の中で至時は、地球自体が移動すると考えることによって、 惑星の軌道がより単純に説明できるとの見解を示している。至時が地動説的な理解を受け入れ つつあったことをうかがわせる。「忠敬の地球図」「忠敬の地球図伊能忠敬が写したと伝えられる世界地図。製作年代は不明。17世紀中頃のヨーロッパ製の世図を精密に写し、漢字で地名を表記するなど手を加えた図を伊能忠敬が複写し司馬江漢の世界図等でさらに注記を加えたものと考えられます。18世紀の日本人にとって、それほど古くはない世界図に司馬江漢の地図から情報を書き込んでいることから、当時における先端の世界地図を求めようとした伊能忠敬の意気込みが感じられます。」「ロシアの領土拡張図」。□1580年以前の領土□1581~1681年の領土□1682~1796年に拡張□1801~1825年に拡張「伊能測量隊の正式参加者」。「蝦夷地測量18世紀の末期、幕府は、日本を北方から脅かしていたロシア帝国などに対する海防のため、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)の正確な地図をもとめていました。同じころ、日食予測のため、地球の子午線一度(緯度1度)の長さを測定し、地球の大きさを確定することが高橋至時らの願望でした。至時がこのニつの思惑を調整し、忠敬の蝦夷地測量が実現しました。彼はもともと日本地図をつくるために測量をはじめたわけではありませんでした。」「東日本測量経路図第1次測量 1800(寛政12)年第2次測量 1801(享和元)年第3次測量 1802(享和2)年第4次測量 1803(享和3)年」「俄羅斯舩之図(おろしあふねのず)1792(寛政4)年、日本人漂流者大黒屋光太夫らをともなって、日本へ通商を要求するために根室にやって来たロシア人ラックスマンの船の図です。」ラックスマンが乗ってきた「エカテリーナ号」を描いたもの。「深川~浅草間測量図江戸深川の忠敬宅から浅草の暦局までの地図です。子午線一度(緯度一度)の距離を求めるために、忠敬か測量して歩いた最初の成果です。」「黒江町・浅草測量図」。忠敬の最初期の実測地図。縮尺6000分の1。下方「深川黒江町」が隠宅。上方左の「司天臺」が浅草暦局。国宝。「蝦夷地測量辞令1800(寛政12)年閏4月14日、蝦夷地掛り宅で受け取った辞令です。忠敬の身分は「下総国香取郡佐原村元百姓 浪人」でした。」「蝦夷地測量少図」。「蝦夷地測量少図寛政12年(1800)、伊能忠敬らが最初に行った東蝦夷地(北海道の太平洋岸を主とした地域)および奥州道中の測量図。東京国立博物館での名称は「蝦夷地実測図」である。本図は伊能忠敬が上呈した当時の形態を保っている地図と考えられている。たたみもので表紙に相当する部分に外題が墨書され、「蝦夷地第1図 自シリウチ至ヤマコシナイ」というように記される。針突法によらない作図を行い、大小2種類作り、大図が縮尺1:43636、小図が縮尺1:436360となる。大図は蝦夷地シラオイからヒロウまでを欠き、奥州図では浅草から津軽平館までの10図相当を欠いている。「浅草文庫」の朱印がある。「子午線一度弧長暦か正しいかどうかは、日食を正しく予報てきるかどうかにかかっていました。日食の予報を行うためには地球の大きさ、形状を正確に知る必要があり、そのためには、地球上の子午線一度(緯度1度)の長さを正確に決定することか必要でした。 360x子午線一度弧長X (地球の直径) =-------------------------- 3.14 「緯度を求める緯度は観測地で恒星の南中・北中の高度を象限儀ではかり、江戸で観測した高度との差を平均した値を、江戸の緯度、北緯35度40分30杪に加減して求めました。」日本では伊能忠敬が第二次測量(1801年)の結果から緯度1度に相当する子午線弧長を28.2里と導き出したのだ。「4次測量を終えて忠敬は、4回にわたる東日本の測量から、子午線一度(緯度1度)の長さを28里2分と算定しました。この数値は、当時最高水準の暦学書である「ラランデ暦書」をもとに計算した数値とほぼ一致するものでした。また、忠敬は測量の成果をみごとな地図にあらわしたので、その技術を認められ、幕府の役人にとりたてられました。」「雑録伊能忠敬の測量成果をまとめた本です。展示した部分は、子午線一度の長さの記録です。それぞれ28里2分に近い数字が得られています。」「ラテンデ暦書管見高橋至時がフランス人ラランデ著の天文書(オランタ語訳書)の一部を抄録した本です。この中に、子午線一度の長さについての記述があり、算出の結果、伊能忠敬の測量成果28里2分とほぼ一致しました。」「東日本沿海図」。千葉県などが記された「東日本沿海図」(縮尺43万2千分の1)は、1804(文化元)年に完成した。この地図の出来栄えを江戸幕府の首脳部が絶賛し、忠敬を幕臣に登用。以後の測量は幕府の正式な事業となった。「第1次から第4次までの測量成果1804 (文化元)年7月完成、8月上呈され、9月には将軍家斉も閲覧したといわれています。この地図の出来栄えが幕府首脳部の絶賛を得て、忠敬は臣に登用され、以後の測量は幕府の正式な事業になりました。」「地方測量之図」卍老人89才(葛飾北斎)。北斎は嘉永2年(1849)に死亡しており、この絵は最晩年の作品です。応需と描かれており、版元より依頼された仕事である。内容は測量免許を取得したお祝いに配る記念錦絵のようである。画中には「地方測量之図 地方測量術免許 長谷川善衛門弘門人 越前福井藩 大橋文五右衛門敏之・肥前大村藩 森荘助英明・同 川原順左衛門忠正」とあり、陸奥盛岡藩の測量風景かも知れない。大田区の六郷用水も検地とはやり方は違うが、用水を流すために微少な高低を計り、用水路を決める測量も同じような風景であったと考える。「尺(大・小)1尺の長さの基準としたと伝えられています。当時、関東では享保尺、関西では又四郎尺が使われており、1尺の長さに違いがあったため、尺度をそろえたものです。」大:縦4.9 横36.0 厚1.1cm小:縦4.6 横34.6 厚0.6cm表面には対角斜線目盛が付されており、また大きい方の裏面には「田中丹柳作」の銘がある。「象限儀」(小)。坂道の角度をはかる道具です。この器具で測量した角度と距離から三角関数を利用して、真上から見た水平距離を算出しました。」「坂道の測り方勾配のある坂道では、斜辺(A点~B点)を測ってしまい、地図つくりに必要な水平の距離(A点~B’点)より長くなり、誤差の原因となります。そのため斜辺の長さと坂道の角度を測り、計算で水平の距離を求めます。①A地点に象限儀(小)を垂直に立て、のぞき穴から目標地点B点を見ます。②象限儀(小)から真下を指す指標板が作る角度を測ります。この角度が道の角度と同じになります。この場合14度です。③A点からB点までの距離を測ります。(導線法で測った距離と同じ)④斜辺の角度から割円八線対数表(現在の関数早見表と類以のもの)を使い、A点~B’点までの水平距離を計算で求めます。」「半円方位盤遠方の山や島の方位を測る道具です。」「交会法(こうかいほう)(誤差補正の方法)A~G点(海岸線や街道などです)を導線法で丹念に測っていても、長い距離を測っていくうちに誤差が発生します。その時、各地点から見える山などの目標物に対して北からの方位角(ここではA点から山へは北から50度・D点では10度・G点では323度)を半円方位盤で測っておきます。宿や江戸の自宅に戻って地図を作成するとき、山への方位線が一致しなければどこかで誤差が発生したと考えられ、その誤差を修正するのに使います。伊能図の山などに引かれた朱線は、誤差補正に使われた意味を持ちながら、伊能図を美しく引き立てる特徴になっています。忠敬は導線法・交会法を使い、A点からB点まで測るのに距離のほかに水平の角度・上下の角度・山への角度の3つの角度を測りました。」「杖先方位盤(つえさきほういばん)(わんからしん)」「杖先方位盤(つえさきほういばん方位をはかる道具です。杖の先につけられた方位盤は、どんな場所でも水平に保つことができました。忠敬が、一番よく使った道具です。」「量定車距離をはかる道具です。道の上で引っぱると車輪が回り、その回転数によって距離がわかります。実際には、当時の道は凸凹していて、あまり使いませんでした。」「鉄鎖距離をはかる道具です。長さ1尺(約30cm)を単位として、60本つなげて10間(約18mまではかることができました。」「定規」、「分度器」。「導線法(街道や海岸線の測り方)①A~G点(A・B・C等の点は、海岸線や街道の道の曲がり角などです)の各点に梵天 (現在の測量ポール)を立てます。②最初にA点にワンカラシン(杖先方位盤)を置き、B点まで北からの方位角を測ります。 この場合北から東へ60度です。 (正確に測るため、逆方向のB点からA点までの方位角も測り、お互いに角度があっているか 確かめました) 次にA点からB点までの距離を間縄や鉄鎖を使い、距離を測ります。この場合30mです。③B点へワンカラシンを移動させ、C点までの北からの方位角を測ります。この場合北から東へ 145度です。 B点からC点の距離を測ります。この場合35mです。④C点へワンカラシンを移動させ同じようにD点までの方位角(この場合北から東へ62度)と距離 (この場合27m)を測ります。以上のように測量中は次々と方位角と距離を丹念に測り、記録をつけていきました。このようにして伊能図に描かれた鋭角に折れ曲がった朱色の測線は、実際に測量した道であり、伊能図の正確さの証ともなっています。」「梵天(ぼんてん)」。「梵天(ぼんてん)測量するときの目印です。曲がり角などに、人に立ててもらい、方位などを見通すときに使用しました。」「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)」。「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)振り子式の時計です。24時間で、約59,000カウントし、日食や月食の時間をはかりました。「地味で丹念な測量術測量隊は、道などのまがりかどに梵天(ぼんてん)をたて、その方位をわんか羅鍼(らしん)ではかり、梵天までの距離を鎖や測縄で測量していく導線法と、その誤差を補正するために、遠くの山などの方位を半円方位盤で測量する交会法を順次行っていきました。この測量方法は当時目新しい方法ではありませんでしたが、忠敬は器具をいくつも使い、できるだけ誤差を少なくするようにつとめました。」「観星鏡(かんせいきょう)」「観星鏡(かんせいきょう)星をみる道具てす。大坂・貝塚の岩橋善兵衛に製作してもらった天体望遠鏡で、木星の衛星の観測などに使用しました。」「測食定分儀日食や月食をみる道具です。望遠鏡につけて、太陽や月のかけぐあいを観測しました。」「ゾンガラスサングラスです。太陽を観測するときに使用しました。」「天体観測忠敬が精密な日本地図をつくりあげることができたのは、天体観測で観測値を地球上に位置づけたからです。緯度は、象限儀(しょうげんぎ)で北極星などの星の高度をはかってもとめました。経度は、日食や月食などを測食定分儀で観測し、その時刻を垂揺球儀ではかり算出した。忠敬測量隊はこの作業を、日中地上の測量を終えた後、夜半まで熱心に行いました。」「象限儀(中)」「象限儀(中)組度をはかる道具てす。北極星など星の高度をはかり、観測地の緯度を算出しました。これにより忠敬たちのつくった地図は、とても正確になりました。」「西日本測量へ」「糸魚川事件1803 (享和3)年、伊能忠敬は第4次測量中に越後国糸魚川で地元の役人とのトラブルにまきこまれました。忠敬は町役人に対し、姫川の測量妨害を詰問しました。地元の人達は忠敬の行動が横暴であると、領主松平氏を通じて、幕府に訴えました。高橋至時は幕府の問い合わせに対し、終始忠敬を弁護し、忠敬には測量事業の意義を説明し、行動をいましめました。測量隊の指揮者として、測量の完遂を目指す、高橋至時の活躍がうかがえます。」「陰の功労者 高橋至時伊能忠敬の測量には、師、高橋至時の存在が不可欠でした。第4次測量の途中でおきた、糸魚川の町役人とのトラブル(糸魚川事件)のときも、至時は、幕府に伊能忠敬の行為を弁明するとともに、忠敬にも事業の重大性をうったえ、測量の完遂に気をくばりました。至時は、東日本測量終了の直後亡くなり、事業は子の景保(かげやす)に受け継がれました。」「伊能測量隊の正式参加者」。「全国測量をめざして1804 (文化元)年、忠敬に西日本測量の命が下りました。この測量は幕府の正式事業になったため、測量隊員が大幅に増員され、測量用に徴発できる人馬の数もふえ、忠敬らの手当ても増額されました。また、幕府から大名に対し、測量への協力が命じられ、東日本測量とは規模、質ともに大きく変貌しました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.19
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「小野川」での「小江戸佐原舟めぐり」を終え、「樋橋」の先にあった「伊能忠敬記念館」に向かって進む。「伊能忠敬記念館」の入口。「伊能忠敬」は江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人。忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。「伊能忠敬記念館」。「伊能忠敬記念館案内開館時間 9:00~16:30休館日 月曜日・年末年始入場料 大人500円コロナ対策 展示室内の同時収容人数 MAX150人」「国宝 伊能忠敬 関係資料の世界」と。伊能忠敬関係資料は、平成22年6月29日に重要文化財から国宝に指定された2345点の資料群。国宝に指定された資料は、地図・絵図類、文書・記録類、書状類、典籍類、器具類に分類され、忠敬の全国測量に関る資料のほか、孫の忠誨(ただのり)の資料も含まれています。●地図・絵図類 787点 彩色された伊能図、その元となった下図(したず)、測量経路の風景を鳥瞰図的に描いた 麁絵図(あらえず)、各測量地から提出させた参考絵図などがあります。 伊能図の作成過程をうかがい知り、また各地の測量技術を明らかにできる貴重な資料群です。●文書・記録類 569点 日本全国測量中の日記、山などの方位を測った山島方位記、夜に天体観測した星の観測記録、 先生である高橋至時の御用日記、測量御用の辞令や先触、忠敬の孫である伊能忠誨 (ただのり)が作成した星図などの資料です。●書状類 398点 忠敬直筆の書状のほか、息子景敬、娘イネなどの親族、先生の高橋至時・高橋景保、 尾形謙二郎や坂部貞兵衛など弟子たち、友人の江川英毅・久保木清淵や諸藩の役人との書状が あります。●典籍類 528点 忠敬が学んだ暦学書、測量書、和算書や測量に関わる中で集めた地理書などがあります。●器具類 63点 地上測量の器具には、量程車や半円方位盤、象限儀(小)などが、天体観測の器具には、 緯度測定に使う象限儀(中)、経度測定に使う垂揺球儀があります。 また、地図を作成する時に使った烏口や地図記号の印もあります。特に忠敬の孫の忠誨が 使用した垂揺球儀もあり、国内でも有数のコレクションとなっています。「伊能忠敬記念館」パンフレットと入館券。今、気が付きましたが「水郷佐原山車会館」との共通入館券を買っていたようです。「伊能道 千葉県一周 五一七キロ」ポスター。「「伊能道」とは実測による日本地図を江戸時代に作成し千葉県の偉人。「伊能忠敬」の測量の旅にちなんだモバイルスタンプラリーです。海沿いや川沿いに設置された全21箇所のスタンプスポットを訪ね、海風や川風を感じながら歩いてみませんか。伊能忠敬(1745~1818)延享二年(1745年)現在の千葉県九十九里町小関生まれ。十七歳で佐原の商家、伊能家の婿養子となる。四十九歳で家業を譲って江戸に移り住み、徒歩で全国を測量し、大日本沿海輿地全図などを作成した。このスタンプラリーは既に2023年3月31日(金)で終了した と。掲示板にも様々なポスターが。映画「大河への道」👈リンク ポスター。劇場公開日:2022年5月20日落語家・立川志の輔による新作落語「大河への道 伊能忠敬物語」を映画化。主演の中井貴一をはじめ、松山ケンイチ、北川景子らキャストがそれぞれ1人2役を務め、現代を舞台に繰り広げられる大河ドラマ制作の行方と、200年前の日本地図完成に隠された感動秘話を描き出す。千葉県香取市役所では地域を盛り上げるため、初めて日本地図を作ったことで有名な郷土の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマの開発プロジェクトが立ち上がる。しかし脚本制作の最中に、忠敬が地図完成の3年前に亡くなっていたという事実が発覚してしまう。1818年、江戸の下町。伊能忠敬は日本地図の完成を見ることなく他界する。彼の志を継いだ弟子たちは地図を完成させるべく、一世一代の隠密作戦に乗り出す。「花のあと」の中西健二が監督を務め、「花戦さ」の森下佳子が脚本を手がけた と。「伊能忠敬翁モザイクアート」の手前でアルコール消毒を。平成27年6月26日(金)、27日(土)に開催された千葉県立佐原高等学校の星輝祭(文化祭)に、1年H組の生徒たちが、82,560本の爪楊枝で描いた伊能忠敬翁のモザイクアートであると。生徒一人ひとりが、A4サイズの発泡スチロールに1,290本の爪陽枝を差し、計64枚のピースで縱2.4m、横1.6mの作品を作り上げたのだと。展示コーナーへ。「展示室のご案内」。●佐原時代 忠敬が佐原の商人として活躍した前半生と、進むべき道を見出していった様子を紹介します。 忠敬は、50歳で江戸へ出るまで佐原の名主・村方後見を務め、家業では醸造業等を 営んでいました。 34歳の時松島への旅行では神社仏閣を訪ねる旅でしたが、48歳の時伊勢神宮への旅の途中には、 緯度・方位観測を行っており、このころから天文や暦学への興味をいだいていました。●全国測量 忠敬の江戸での勉学と、苦労しながらも全国測量を行っていく様子を紹介します。 江戸で、幕府の天文方(てんもんかた・暦を司る職)である高橋至時の弟子になり勉強を本格的に 始めます。 55歳で北海道南岸の測量を行い、以後計10回に及ぶ日本全国の測量を71歳まで行いました。 忠敬は73歳で亡くなりますが、彼の没後3年にして日本全図は完成しました。●伊能図の完成 完成した伊能図の特色と、その後の地図への影響を紹介します。 伊能図には、1821年完成の「大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんず」 (縮尺36,000分の1である大図が214枚、縮尺216,000分の1である中図が8枚、 縮尺432,000分の1である小図が3枚)のほか、測量ごとに作った地図や名勝地を描いたもの など、多くの種類があります。いずれの地図も実際に測量してつくられたので、とても正確で あるとともに、芸術的な美しさを備えています。 (国宝の伊能図や測量器具は2ヶ月ごとに展示替えを行っています)」●映像「人間忠敬」 夢にチャレンジした忠敬、偉業を残した人物としてだけではなく、人間的な側面も 紹介します。(約10分)●地図の世界 地図の持つ不思さ・面白さ・楽しさと、様々な地図に描かれた佐原を紹介します。●情報検索 忠敬と佐原(町並み・香取神宮・水郷)の情報をコンピュータで紹介します。頂いたパンフレットより-1。中央に「大日本沿海輿地全図」。ズームして頂いたパンフレットより-2。頂いたパンフレットより-3。入口には「伊能忠敬像」と、忠敬が作った日本列島の地図・「伊能図」が迎えてくれた。「伊能図とランドサットから見た日本列島」「伊能図」「ランドサットから見た日本列島」。「伊能忠敬像」。絹本着色掛幅装 90.4cm×31.4cmズームして。伝青木勝次郎江戸時代/1821香取市重要文化財孫の忠誨の日記に青木が持参したことが記されており、この頃作製したと考えられる。「久保木清淵の賛」が書かれていた。「能令餘慶在兒孫 知是勤渠不朽事 地域成圖報國恩 家門修業䔍前烈」と。chatGPTによると「もし、残された功績が子孫たちに知られるならば、それが最も不滅のことである。同時に、祖国の地域や報国の恩について記録を残し、家族の門戸は先祖の事績を継承することでより堅固になるでしょう。」と。そして展示会場内に。まずは「佐原での活躍」展示ブースへ。「当時の佐原」「江戸~佐原間流通図」江戸から佐原へ持ち込まれた品々、佐原から江戸への品々。「関東醤油造家番付」 江戸時代の醤油釀造家のランキングを示しています。最高位の大関に、佐原の鶴屋弥重郎の名がみえます。「金の草履」一九が晩年にかけて、名著「東海道中膝栗毛」と並行して書き綴った紀行文書で、佐原地域をしるした第十編は1814(文化14)年、52歳のときの作です。「佐原周辺の出身者や佐原に縁のある文人」 久保木竹窓、楫取魚彦、今泉恒丸、小林一茶、渡辺崋山。「当時の佐原お江戸見たけりゃ 佐原へござれ佐原本町 江戸まさり佐原は江戸と関東農村を結ぶ利根川水系の河岸(かし)であり、商業都市として繁栄しました。この自由な商業都市の雰囲気が佐原の文化をささえていました。伊能忠敬もこうした環境のなかで才能を育まれることになります。」「高瀬舟」。「川船としては日本最大級の貨物船で長さ25mを越す舟もあり、利根川水系の運輸を担いました。船員寝泊まりできる設備(世事)もありました。江戸時代、佐原には20~30艘あり、米、酒、しょうゆなどを江戸に運ぶために活躍しました」別の角度から。米俵が積まれて。「元禄国絵図・下総」「伊能家屋敷図」「四家略系図」「樋橋」「伊能家屋敷図」酒蔵があることから天保以前の敷地の様相を伝えるものと考えられます。「元禄国絵図・下総」1696(元禄9)年から1702(元禄15)年にかけて、幕府が全国に命じてつくらせた、国単位の絵図の1つ。「樋橋」もとは、佐原村用水を本宿から新宿へ、小野川をまたいで通す樋でした。「名門 伊能家上総国山辺郡小関村(現在の九十九里町)に生まれた三治郎は佐原の名門伊能家の婿養子となり、伊能忠敬と名乗りました。伊能家は学問的素養も深く、測量の伝統をもつ家柄でした。景知は佐原村用水工事にかかわり、景利は元禄期の国絵図作製に際し、佐原の村絵図をつくりました。忠敬はこのような伝統のある伊能家の影響を受けることになります。」「四家(伊能家、平山家、神保家、小関家)略系図」伊能忠敬は1745(延享2)年1月11日、小関貞恒、ミネの次男として生まれた。小関家は九十九里の名主で小関村(現千葉県九十九里町小関)にある。忠敬は三人きょうだいの末っ子で兄と姉がいた。忠敬の幼名は三治郎といい、母ミネは長子で、15キロほど北に離れた小堤(現・横芝光町小堤)の神保家から婿をもらった。六歳の時、母が急死すると、婿養子だった父は三人の子がありながら兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に返された。母には弟がおり、弟が家督を継いだ。三治郎は祖父母の元に残り、父は手の掛からない兄と姉を連れて実家に戻った。読み書きを学ばせなければならない三治郎を小関家に託し、いずれ迎えに来ることを約束し帰った。小関家は江戸ともつながりが深く、幼い三治郎に基礎教育をしっかり学ばせた。学問好きな少年で親戚の平山家の人に漢学を、常陸の僧に数学を、土浦の医者から医学を学び、土木作業を監督させたならば人使いがうまかったとか、家に泊まった幕府役人から計算を習ったといった逸話が残されている。約束通り三治郎が十歳の時に父の元に引き取られ、十七歳まで父の元で過ごした。九十九里町小関から横芝光町小堤までの一帯は忠敬が神保三治郎として青春時代を過ごした土地だった。1762(宝暦12)年、十七歳の時に、香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、ミチと結婚した。佐原の酒造業、伊能三郎右衛門家では当主を亡くし、子持ちで二十一歳の未亡人のミチが婿を求めていた。十七歳と二十一歳、子持ちの縁談だった。平山家を仮親として、幕府学問所頭取(現在の東大総長)林大学頭の門人になり、林大学頭から『忠敬(ただたか)』という名前をもらい、平山忠敬として伊能家に婿入りした。伊能家の記録によると、当時千二百石の酒造家だったが、忠敬の働きにより、造酒高千四百石になったとの記録がある。醤油(しょうゆ)の醸造、貸金業を営み、江戸への水運の権利を持ち、運送業もやり、江戸に薪(まき)問屋を持っていた。分かり易(やす)くいえば、現在の総合商社のようなものだ。江戸時代の伊能家屋敷は今の佐原の旧宅よりはるかに広く、貸家もあった。米の仲買などで財産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くし、かなりの才覚の持ち主で、伊能家の再興の祖といわれている。「当時の伊能家忠敬は、1745 (延享2)年1月1 1日、現在の千葉県九十九里町に生まれました。1 7歳で伊能家の娘・達と結婚しました。伊能家は、酒造りや米の売買などの商売をしている名家でした。これまでの伊能家の主人たちの中にも、用水工事をした人や、村絵図をつくったり、村の古い記録をまとめたりした人がいました。」「伊能家経営帳簿」、「・・屋勘定帳」「店御目録帳」:伊能忠敬は、29歳(安永3年)から49歳(寛政6年)までの20年間て家産を 3倍以上に増やしました。 伊能忠敬は、20年間で家の財産(ざいさん)を3倍以上に増やしました。「忠敬の活躍佐原の名門伊能家の婿養子となった伊能忠敬は、不運のなかにあった伊能家の再興につとめ、家の財産を3倍以上にふやし、念願を達成しました。また天明の飢饉のときは、困窮した村人を助けたり、利根川の堤の修築につとめたほか、村に賦課された新税をめぐる河岸問屋一件では佐原の代表として活躍し、村に貢献しました。」「忠敬の活やく忠敬は商売に力を入れ、伊能家の財産を3倍以上にふやしました。天明の飢饉のときは、浅間山の大項火や利根川の大洪水で苦しんでいる村人を助け、利根川の堤防工事を行うなど、村の名主としても力をつくしました。※飢饉・・・農作物がとれなくなり、食べ物が不足すること」「忠敬の活躍」を示すパネル。「伊能家の収入」:伊能忠敬は29歳から49歳まで20年間で家の総収入を3倍以上にのばしました。「佐原河岸問屋一件」:1771 (明和8 )年から1774(安永3)年にかけて、幕府が佐原河岸に新税を 賦課した事件。伊能忠敏は幕府勘定所の詰問に対し、佐原の権益保持の ために答弁しました。「佐原村河岸一件嘆願書」。「幕府は川沿いの町に新しい税金を払うように求めました。佐原村では、伊能忠敬ともう一人の2人だけで払うこととしました。」「江戸時代中期、幕府は河川沿いの物資の集散地である河岸に河岸役という新たな税金を賦課する政策を進めました。河岸の一つであった佐原村もこの調査対象になり、忠敬らは何とか賦課されないように努力しましたが、結局受け入れることになりました。議事録は伊能忠敬が同族の伊能茂左衛門とともに奉行所に提出したもので、河岸役をニ人だけで支払うことを願い上げています。」「浅間山噴火夜分大焼之図」👈リンク1783(天明3)年、浅間山が噴火し、大飢饉や洪水をもたらしました。「火口から巨大な火柱を上げて噴火する浅間山の姿が描かれている。天明三年の浅間山噴火の様子を、南麓側から描いたもので、3回大爆発があり、火山弾八十斤(42㎏)が飛び、上州のうち200ヶ村で人家焼失、降灰が雪のごとく激しく、100里(約400㎞)四方に及んだと記されている。」と。「三十リ程ハ火玉八十斤程ノ飛散、上州之内二百ヶ村程人屋焼失死亡多シ。焼炭ノフリテ雪ノ如ク五 六寸ツモリタルトナリ。風上ノ方ハ二一二寸程ツモル、其外百里四方二炭フス」。 「利根川の治水」:1783 (天明3)年、幕府により利根川沿岸の堤の修復が行われ、伊能忠敬は 佐原村の担当者として活躍しました。「忠敬の蔵書目録一覧」。「興味津々忠敬は、文学・歴史・医学・数学・測量術・天文暦学の本に親しむ教養人でした。松島に芭蕉の句碑を書きとめながら旅行する風流人でもありました。特に、暦学については熱心で、京都や江戸から暦書を取りよせ、独学で勉強するようになりました。後年江戸に出て、高度な西洋流の暦学を受け入れることができたのは、佐原時代の勉学があったからでした。」「好奇心がいっぱい伊能家にはたくさんの本があり、忠数はいろいろな分野に興味をもつ人でした。妻の達(みち)と旅行した松島(宮城県)では、松尾芭蕉の俳句を書きとめています。その後、天文暦学については、熱心に勉強しました。江戸に出て、好きな学問をもっと学びたいと考えていました。※天文暦学・・・星の動きを観測して、正しい暦をつくる学問」。「書籍目録」(上左)「奥州紀行」(上右):1778年(安永7)年6月7日、現宮城県岩沼市内の竹駒神社内にある芭蕉の 句碑「桜より松は二木の三月越し」を記しに部分です。「書籍目録伊能忠敬隠居直前の蔵書目録です。和関係書・測量関係書・暦学関係書なとがみえ、伊能忠敬は佐原にいるころからすでにこれらの学問に接していたことがうかがえます。」「奥州旅行1778 (安永7 )年6月7日、現宮城県岩沼市内の竹駒神社境内にある芭蕉の句碑「桜より松はニ木の三月越し」を記した部分です。」左:竹駒神社境内ある、松尾芭蕉の句碑 「桜より松は二木を三月越し(桜よりも、私を待っていてくれたのは二木の松で、 三月越しにようやく見ることができましたよ。)」右:現在の竹駒神社です。「関西旅行経路」。「関西旅行1793 (寛政5)年、忠敬一行は太々神楽の奉納のため、伊勢参りの旅に出ました。この旅では、名所旧跡を訪ねるだけではなく、ところどころで方位角や緯度の記録を行うなど、地理的情報に関心をむけています。関西旅行は、江戸修学以前の忠敬の測量に関する技術の集大成にあたる旅でもありました。」「関西旅行記静岡県の久能山から伊豆の◯◯山の方位(巳の五分)や、岬の弁天までの方位(未の八分)を記し、駿府(静岡市)の緯度(北極出地三十五度)を書きとめています。伊能忠敬が地理情報に注意を払っていたことがうかがえます。」※「北極出地」は天の北極の高度を意味する言葉。当時は「緯度」という言葉はなく、北極出地○○度という使い方をしていたと。「家訓書」。「忠敬が、長男景敬にあたえたと伝えられる自筆の家訓㐧一 仮にも偽をせ須、孝悌忠信にして正直なるへし」第二 身の上の人ハ勿論、身下の人に天も教訓意見あらハ急度相用、堅く守るへし」第三 篤敬謙譲と天、言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べから須」 亥 九月廿一日」(現代語訳)第一 かりそめにも人をあざむく事をせず、親に孝行兄弟仲良く、人には真を尽くし、 正直にしなさい。第ニ 目上の人は勿論のこと、目下の人のいう事でも、なる程と思ったら取り入れるように しなさい。第三 あつく敬い、へり下るというように、物の言い方や動作をこせこせせず、総べての事に つけてへり下り慎み、決して人と争いなどしてはいけません。「芝蘭堂新元会(しらんとうしんげんかい)重要文化財閠学者大槻玄沢が寛政6年閏11月11日(大陽磨1795年元旦)に同好者を集めて行った新年を祝う様子を描いています。新元会は恒例となり1837 (天保8 )年まで44回開かれました。杉田玄白:解体新書平賀源内:エレキテル山東京伝本居宣長:古事記伝林子平 らの姿が。「芝蘭堂新元会」とは、江戸時代において、医学や薬学を学ぶ者たちが集まって、知識の共有や交流を行うためのグループのことを指します。具体的には、医学や薬学に関する論文の読み合わせや討論、実践的な技術の研究などが行われました。また、会員同士が情報や技術を共有することで、医学や薬学の発展に寄与しました。芝蘭堂新元会は、江戸時代後期には医学や薬学界の中心的な存在となり、現在でも日本の医学史において重要な役割を果たした団体として知られています とchatGPTから。「当時の学問事情江戸中期、蘭学・国学などの新しい学問が芽生えはじめていました。天文暦学の分野でも、日食の予測に失敗した土御門家の権威は失墜し、実証を重んじる麻田剛立(こうりゅう)の一門の名声が高まっていました。麻田一門は、さかんに天文観測を行い、観測器械改良や考案を行い、天文暦学の発達に貢献しました。この一門の一人高橋至時(よしとき)に弟子入りしたことが、忠敬のその後の人生に決定的な影響を与えたのでした。」「天文暦学学系図」 --- 京都派 土御門家官僚派---¦ ---高橋至時------------高橋景保 --- 江戸派 渋川春海 ---------¦--間 重富 ¦---渋川景佑 ¦ ¦---伊能忠敬 旧長崎派(南蛮学統) ¦市民派--- 新長崎派 志筑忠雄 ¦ その他 麻田剛立------¦「宇宙図高橋至時が、「蘭書」から画き抜いた図です。一つの球か太陽系(「太陽天」)にあたり、他の球も同様の恒星系であることを示しています。宇宙全体はこうし恒星系が数十万存在する広大無辺なものであることをえがいています。高橋至時は太陽系の星々しか願中になかった伝統的な歴算家をこえて、広く宇宙論にまで興味を示していました。」「高橋至時のもとで」。1800年(寛政12)年、忠敬が江戸深川で観測した日食の記録。「高橋至時のもとで自分より19歳も年下の高橋至時の門に入った忠敬は「暦象考成」の学習にとりくみ、当時最高の暦学理論を学ぶとともに、熱心に天体観測の実習にはげみました。また、観測器械は京都、大阪から買い入れたり、江戸の職人につくらせました。この天体観測の技術と器械類が、後の全国測量で大いに役立っことになりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.18
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