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不思議なふるまいを見せる6桁の数字があります。「142857」という何気ない自然数が、単純なかけ算で、面白い現象を見せてくれるのです。■142857に、1、2、3、4、5、6を順にかけてみます。142857 × 1 = 142857142857 × 2 = 285714142857 × 3 = 428571142857 × 4 = 571428142857 × 5 = 714285142857 × 6 = 857142この計算で、どのようなことが起こっているでしょうか。それぞれの積には1、4、2、8、5、7の6つの数字しか出て来ないのです。かけ算をする順序を変えて、142857 × 1 = 142857 142857 × 3 = 428571 142857 × 2 = 285714 142857 × 6 = 857142 142857 × 4 = 571428 142857 × 5 = 714285掛け算の結果の数値は1、4、2、8、5、7の6つの数字が、上の如くに、数字がどんどん右下にずれていっているのがわかります、これを「巡回数」👈リンクと呼びます。■そして142857 × 7 = 999999 になります。8倍以上では崩れてしまうように思えるが、先頭の数を移動して末尾(一の位)に加えると保たれる。142857 × 8 = 1142856 → 先頭の1を末尾の6に加える → 142857142857 × 9 = 1285713 → 先頭の1を末尾の3に加える → 285714142857 × 10 = 1428570 → 先頭の1を末尾の0に加える → 428571142857 × 11 = 1571427 → 先頭の1を末尾の7に加える → 571428142857 × 12 = 1714284 → 先頭の1を末尾の4に加える → 714285142857 × 13 = 1857141 → 先頭の1を末尾の1に加える → 857142142857 × 14 = 1999998 → 先頭の1を末尾の8に加える → 999999142857 × 15 = 2142855 → 先頭の2を末尾の5に加える → 142857142857 × 16 = 2285712 → 先頭の2を末尾の2に加える → 285714となる。このように、一番左の桁の数を一番右の桁の数に加えるという操作を行うと、また 142857 の順序が現れる。これは、より大きい数でも成り立つ。142857 × 71 = 10142847 → 左2桁の 10 を残りの 142847 に加える → 142857142857 × 52989018 = 7569852144426 → 右から6桁ずつ 7、569852、144426 と 区切ってそれぞれを足す → 714285■142857には、さらに不思議な性質が。こんどは、142857を142と857に2等分して足してみましょう。142 + 857 = 999 と答えに9が並びます。285 + 714 = 999428 + 571 = 999571 + 428 = 999714 + 285 = 999857 + 142 = 999と、すべて和が 999 になっています。■こんどは、142857を14と28と57に3等分して足してみましょう。14 + 28 + 57 = 99 と和に9が並びます。さらに、142857を1、4、2、8、5、7に6等分して足してみましょう。9になるでしょうか。1 + 4 + 2 + 8 + 5 + 7 = 27となって、残念ながら9にはなりません。自然数を6個も足すのですから、9にならないのは自然なことかもしれません。しかし、この足し算をもう1回繰り返し、27の各位の数を足すと、2 + 7 = 9となります。142857の6等分も9に関係しています。■1/7を小数で表すと、1/7 = 0.142857142857142857…となり、142857 が繰り返し現れます。このように、同じ数字が繰り返し現れる小数を循環小数と言います。1/7 を小数で表す計算から、3/7 = 0.428571428571… = 428571/999999このことを用いると、142857 を3倍すると 428571 になる理由は、次のように説明できます。3/7 = 1/7×3 0.428571428571… = 0.142857142857…×3 428571/999999 =142857/999999×3 428571 = 142857×3 142857 の本質は1/7の循環する部分だったのです。■142857と自然数÷71÷7= 0.14285714285714・・・2÷7 = 0.28571428571428・・・3÷7 = O. 42857142857142・・・4÷7 = O. 57142857142857・・・5÷7 = 0.7142857142857・・・6÷7 = 0.85714285714285・・・7÷7 = 18÷7 = 1 . 142857142857■14287の2乗142857^2=20408122449(【^】これは「キャレット」または「ハット」という記号で【^2】は2乗を表す)最初に0を付けて桁数を合わせ2分割して加算すると020408+122449=142857 さらに2分割して加算すると999このように「2乗した数の前の部分と後ろの部分を分けて和を取ったとき、元の値に等しくなる」ような数のことも“カプレカ数”と呼びます。例えば、297 は“カプレカ数”である。297^2 = 88209 であり、これを上位の2桁 88 と下位の3桁 209 とに分けて足すと 88 + 209 = 297 となる。 この定義でのカプレカー数を小さな順に並べると、下記の如し1, 9, 45, 55, 99, 297, 703, 999, 2223, 2728, 4879, 4950, 5050, 5292, …■まとめ“142857”に1~6までの数を掛けると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”に7を掛けると、答えは999999となる1~6までの数を7で割ると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”は色々な方法で連続した9を作り出すことができる ・・・END・・・
2023.07.20
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「リサイクルプラザ藤沢」を後にして、この日の最後の訪問場所の「亀井神社」に向かって県道403号線・菖蒲沢戸塚線を進む。「円行新橋」交差点の手前左側にあったのが「徳本上人名号供養塔」。「徳本上人は宝暦8(1758)年紀州で生まれ、文政元(1818)年に61歳で亡くなった念仏行者です。天明4 (1784)年に出家得度し、寛政10(1798)年、4 0歳のときに高野山に登ります。文化11(1814)年5 7歳のとき、京都を発ち増上寺住職典海大僧正の招きで関東に下向し、典海大僧正に出迎えを命じられた鸞洲和尚と藤沢で落ち合います。徳本上人は鸞洲和尚とともに、鎌倉光明寺・英勝寺を経由して、6月12日に江戸に到着し、伝通院内の清浄心院に入られました。・徳本上人名号供養塔(重頭角柱型)安政6 (1859)年7月15日 全高158cm 供養塔のある場所の隣地で旧円行571番地にある町内会館敷地は、昔、曹洞宗の青雲寺の跡地と いわれています。青雲寺は円行山と号し、亀井野村雲昌寺の末寺でした。本尊正観音で 開山浄清は本寺の住僧で正保元(1644)年に本寺を隠居寺として開創しました。 なお、亀井野の雲昌寺には青雲寺から持ち出された相模国準四国8 8ヶ所のうち、4 6番 弘法大師像が移動されています。 鏝頭形円頭 方柱型、塔身高1m、幅37.5㎝、厚35㎝ 銘(塔身正面)南無阿弥陀仏 徳本 花押 (塔身背面)維時 安政六舎己未之天七月十有五日造立(1859年) (台石向って 右面)世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村 (台石前面)講中 (台石向って左面)元世話人 石川村 下土棚村 下和田村 遠藤村 (台石背面)長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村 徳本上人の筆になる「南無阿弥陀仏」の名号碑」藤沢市湘南台3-17-17・旧円行字中丸 青雲寺跡。塔身正面:「南無阿弥陀仏 徳本 花押」と。台座:「講中」。台石向って 右面:世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村塔身背面:維時 安政六舎己未之天 七月十有五日造立(1859年)台石背面:長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村「徳本上人名号供養塔」の裏にあったのが「藤沢市消防団 第十七分団」。「円行新橋」交差点の先「カメラのキタムラ」の角にも小さな石碑があった。雑草の中に隠れるように。「南無妙法蓮華経 征清戦士忠魂供養塔」。日清戦争(一八九四~一八九五)の戦没者の供養塔。藤沢市湘南台3丁目18−1。「発起人 青木綱治郎」と。そしてこの日の最後に「亀井神社」に到着。藤沢市亀井野553-5(大字亀井野字不動上)。石鳥居手前の左側に社号標石「亀井神社」。境内を見る。亀井野の鎮守亀井神社の祭神は天迦具土神(あめのかぐつちのかみ)です。古くは源義経の家臣である亀井六郎重清により崇敬されました。天正18 (1590)の年に再建され、宝永の頃(1704ー11)この地を知行していた旗本岡部和泉守の崇敬が厚く社殿を改築しました。明治初期の神仏分離までは不動明王を本尊と祀る不動堂もありました。なお、神社周辺は旧小字「不動上」、「不動前」といわれていました。「御由緒」碑が見えた。「御由緒不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)。明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかぐつちのみこと、火の神様)當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。 平成五年六月之建」右手に社務所と御神木。「身代り不動尊」と両側には真っ赤な「幟」が並ぶ参道を見上げる参道、石段の上に社殿。手前右手に手水舎。龍の吐水口からは清水が。右手池のほとりのに石鳥居は「身代わり不動尊社」の石鳥居か?「玉垣奉賛者御芳名」碑。社殿を斜めから。扁額「亀井神社」。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。知っている方の父親の名前も。社殿の「唐破風」を見上げる。破風とは屋根の裏側に山形に取り付けられた板部およびその付属品の総称。唐破風は破風の一つで破風板の中央部を高く、左右両端に曲線状に反っているもの。主としては玄関、門、向拝などに取り付けられる。唐破風下は白鳥の懸魚であろうか。社殿、本殿を斜めから。「絵馬のいわれ絵馬は本來神の乗り物と考えられた生き馬の代わりに神前に捧げられたものです。のちに祈願文は願い事がかなったお礼として絵馬に画いた板額を奉納する風習が現在に残った物です。」奥にあった石碑。「大震災復興記念碑」。当地は震災当時は高座郡六会(むつあい)村字亀井野でした。1942年(昭和17年)に藤沢市に編入。六会村の死者数は15名でしたが、石碑の記載によると亀井野で14名が亡くなっており、六会村の死者のほとんどは亀井野が占めていたようです。「大震災復興記念碑噫(ああ)大正十ニ年九月一日午前十一時五十八分旻天(びんてん)何ノ□情ゾ此日此時有史未曾有ノ大震火災ニ遭遇ス 天地鳴動□震源地ハ伊豆大島ノ東方四十五里ノ海底ニシテ帝都ヲ囲む東京神奈川静岡千葉埼玉ノ一府四縣ニ及ビ其死者三十萬傷者百余萬家屋被害五十萬戸損害額実ニ一日十五億人類史上凄絶空前ノ大惨事タリ當時摂政デアラセラレタ今上陛下ニハ畏(かしこく)モ御内帑金(ごないどきん)一千萬円ヲ御下賜ニ相成リ山本新内閣を非常徴発令を布キ金九百三十億円ヲ救護費ニ宛テ戒厳令忙裡暴利取締令等三大緊急勅令ヲ布キ罹災民ヲ護セリ 當時亀井野ハ総戸数百八十戸全憒家屋百十三戸半憒家屋六十七戸死者十四名傷者百余名神社佛閣ヲ始メ殆ド全減ス 茲ニ於テ百七十四ノ氏子協力ニヨリ大正十四年十月神社再築ニ着手シ本殿奥行九尺間口九尺拝殿奥行ニ間間ロ三間其他鳥居石垣等総工費五千三百円ヲ以テ大正十五年四月落成ス 爾来辛苦粒々十有余年茲ニ漸ク復興ス 斯ノ苦シキ試線ハ人ヲ偉大ナラシメ大災ノ人生ニ與フル教訓ノ深甚測リ難キモノ存ス 是ヲ永久後世ニ傳フ昭和十年四月建之 長」「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」見事な唐破風下の懸魚の彫刻がここにも。角度を変えて。こちらの虹梁周辺の彫刻も見事。扁額「不動明王」。境内の池を見下ろす。不動明王と六地蔵尊。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「身代わり不動尊社」の石鳥居を振り返る。そして、この日の行程を全て完了し、ここ「亀井神社」で解散したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.20
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発泡スチロールの箱が並ぶ。軽くて保温性や保冷性に優れる発泡スチロールは、体積の大半が空気である省資源な素材。安価でクッション性、耐水性が高く、加工が容易で、強度があるといった特徴がある。そのため肉や魚などの食品トレー、食品の輸送箱、家電やOA機器の緩衝材から建築資材といった様々な用途に使用されている。そして、発泡スチロールは合成樹脂の一種であるプラスチック加工品のため、リサイクルして再びプラスチック製品として使用することが可能。発泡スチロール減容機にて火や溶剤を用いることなく、搭載された熱源によって発泡スチロールを溶かし元の容積を減らします。炎や溶剤を使わずに発泡スチロールを溶解するので、不完全燃焼した際の一酸化炭素や溶剤から発生する有害なガスが発生しないので安全に発泡スチロールを溶かすことができます。また、高温の熱処理や溶剤などで発泡スチロールを溶解すると熱・溶剤による劣化のためにリサイクルしにくくなりますが、発砲スチロール減容機であればそういった劣化がほとんどないのでリサイクル利用することが可能になります。「爆発火災事故が発生しています!」 家庭用小型ガスボンベは「穴を開けられたら」➡カンの収集日に 「穴が開けられなかったら」➡「プラ・油・特定品目」の収集日に様々な「乾電池」が並ぶ。特定処理品目の収集日に透明・半透明袋に入れてお出しください。「使用済み小型充電式電池の再資源化行程」&「小型充電式電池のリサイクル」説明ボード。充電式・ボタン式、小型充電式の電池はプラス極とマイナス極の金属部分に、それぞれセロハンテープ等で絶縁してください。「ニッケル水素電池」、「リチウムイオン電池」。ニッケル&リチウムイオン電池等の電池類を不燃ごみなどで収集してしまうと、ごみ収集車やごみ処理施設で火災や爆発が発生するおそれがあります。絶対に他のごみと一緒に捨てることはせず、決められた方法で廃棄してください。これは?屋上緑化の植物を片付けたものか?屋上に出る。「太陽光採光システム Himawari」。太陽光採光システム「ひまわり」は3つの仕組みから構成されています。屋外に設置した集光機で太陽の光を集め専用の石英ガラス製光ファイバケーブルを使って照射希望の場所まで運び、専用の照射器具から太陽の光を照射するシステムです。日の出から日の入まで太陽を自動追尾しますので、天窓や鏡を利用するシステムのように部屋の位置や窓の方位、太陽高度による影響がなく、一日中安定した採光が可能になります。「Himawari ひまわり」集光機の機能。近づいて。「太陽光採光システム ひまわり」仕様。こちらは風力発電装置。屋上から遠く南方向にもう一つの「石名坂環境事業所」の焼却炉の煙突が見えたのでズームして。市内駒寄小学校の4年生が、見学後にゴミ収集車・パッカー車のボディにお礼を書いたものが展示されていた。「藤沢市のごみ関連施設」案内。「現在のプラットホームの様子」が大型ディスプレイに映し出されていた。「①プラットホーム収集車で集めらられた資源やごみは、計量機で重さを量った後、プラットホーム内の種類ごとに決められたヤード(一時保管場所)に運び込まれます。」「プラットホーム」を窓越しに見下ろす。説明くださった方もユーモアを交えて。重機にてゴミを移動している作業員の姿も。入口前の駐車場を見る。様々な「表彰状」が掲げられていた。手選別ラインの紹介パネルは手書きにて。「プラスチック製容器包装破袋機」にてビニール袋を破り、手選別ラインで異物、未破袋品不燃ごみ等を手選別していると。「手選別」の作業員の方々。紹介ビデオコーナー。屋上に設置されたの太陽光パネルを窓越しに見る。別の場所から。そして「中央操作室」を窓越しに。手書きの設備フローシート。ゴミピットのゴミクレーンの運転員の姿。「太陽光発電装置廃棄物処理施設には、太陽光発電装置としてソーラーパネルが3基設置されています。屋上緑化屋上緑化として、乾燥に強い多肉植物のセダム(メキシコマンネングサ)を使用し、建物に直射日があたるのを防き、建物全体の温度を卞げる効果があリます。」「スチール缶磁選機」。「スチール缶磁選機異物を取リ除かれた缶は、コンべアてスチール缶磁選機に運はれてきます。スチール缶磁選機では磁石のカてスチール缶を吸い付けることて選別し、スチール缶だけを効率よく回収しています。」「サイクロン」と「バグフィルター」。ちりやほこりを空気から吸い込み、きれいな空気にしてから排出する装置。ペットボトル、プラスチック製容器包装も作業員の手によって異物を取り除いていた。多くの人の手によって、ごみが処理されていくことを実感!!藤沢市ではペットボトルのキャップ・ラベルは剥がし、プラスチック製容器包装に出すことになっているが、そのまま出している人が多いのだと。瓶の出し方中身を出して水で軽くゆすいでください。ビンの中に異物を入れないでください。栓・キャップ・ふたは不燃ごみへ出してください。手選別したものが箱別に。手選別は重労働であることを実感したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.19
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整数の桁を並べ替えて、最大にしたものと最小にしたものとの差を取る。この操作によって元の値に等しくなる数を『カプレカ数』と呼ぶ。(カプレカ数とは裄を並ひ替えて、最大にしたものから最小にしたものの差を取った時元の値に等しくなる数をカプレカ数と言う)例えば2023 2023−0223=1800・・・・・・ダメ 8100−0018=8082・・・・・・ダメ 8820−0288=8532・・・・・・ダメ 8532−2358=6174・・・・・・ダメ 7641−1467=6174・・・・・・ ◯となり、この後は 6174 が繰り返される。どのような4桁の数でも最終的に 0 または 6174 になることが確かめられるよって 6174は「カプレカ数」。カプレカ数を小さな順に並べると、下記のごとくに。0, 495, 6174, 549945, 631764, 63317664, 97508421, 554999445, 864197532, 6333176664,・・・・・・「0」も含めてこれまでに全部で20個のカプレカ数が見つかっているとのこと。■3桁のカプレカ数が495のみであることの証明証明3桁のカプレカ数nの各桁の数字を大きい順に並べたものをabcとする。0≤c≤b≤a≤9である。このとき,(100a+10b+c)−(100c+10b+a)=99(a−c)より nは 99の倍数である。したがって99の倍数かつ 3桁の自然数は9個しか存在しないため、すべて実験して確かめてみると、カプレカ数495が導けます。99 の倍数を1つずつ調べる。198 →981−189=792 ダメ297 →972−279=693 ダメ396 →963−369=594 ダメ495 →954−459=495 OK594 →954−459=495 ダメ693 →963−369=594 ダメ792 →972−279=693 ダメ891 →981−189=792 ダメ 990 →990− 99=891 ダメ■2桁の場合はどうだろうか。例えば 28 から始めて最大-最小のカプレカ操作を繰り返すと、28: 82-28=54:54-45=9:90-09=81:81-18=63:63-36=27 :72-27=45: 54-45=9 となり9 を中心に 9→81→63→27→45→9 の循環をする.73の場合は73:73-37=36:63-36=27:72-27=45:54-45=9:90-09=81:81-18=63:63-36=27:72-27=45:54-45=9となりこれも、9 を中心に 9→81→63→27→45→9 の循環をする。したがって、数が 2 桁の場合は、ある範囲の数を循環するが 2 つの混循環小数の形に似ている。よって、2桁のカプレカ数は存在しない。■3桁の他の数字、例えば「523」で引き算操作を行ってみましょう。532-235=297972-279=693963-369=594954-459=495右端の答えの部分、十の位の数字が全部「9」で、百の位の数字は上から順に「6」⇒「5」⇒「4」とひとつずつ小さくなっており、一の位の数字は上から順に「3」⇒「4」⇒「5」とひとつずつ大きくなっています。また、ここに並ぶ3桁の数字は、一の位と百の位の数字を足すと9になるというも特徴かもしれません。■4桁の場合 4桁なので、0≦d≦c≦b≦a≦90≦d≦c≦b≦a≦9を満たす自然数 a、b、c、d<を使って、N(大)=1000a+100b+10c+dN(小)=1000d+100c+10b+aと表すことができる。よって、カプレカ操作を 1回行った数 N′はN′=N大−N小=(1000a+100b+10c+d − (1000d+100c+10b+a)=999a+90b−90c−999d=999(a−d)+90(b−c)となる。さて、a-dは 1 と 9 の間の数値をとり、b- cは 0 と 9 の間の任意の値をとり得るから、上記の形の数は全部で 90 個ある。そこで、確認のため数の表を作成した(表2)。この表で,(a − d) ≧ (b − c)であるから,左下の 36 個(網がけ)については意味のない数である.次に、第 2 回引き算を実行するために、表2の数を大きい順に並べ変えると表 3 になる.この表で残るのは、網がけの重複を除くと 30個の数である。30個の数がどのようにして6,174に到達するのかを系統図で示したのが図 1である。これで、すべての 4桁の自然数が6,174に到達することが一目にしてわかるであろう。最大 7 回で到達することもわかる.それにしても不思議なものだ。■5桁の場合53,955→95,553-35,559=59,99459,994→99,954-45,999=53,955(53,955 59,994)2つの数でグルグルと循環します。よって、カプレカ数は存在しないということ。■6桁の場合 549,945 → 995,544−445,599=549,945631,764 → 766,431−134,667=631,764とカプレカ数が2個見つかっています。■7桁の場合 存在しません。■8桁の場合 2個見つかっています。 63,317,664→76,664,331−13,346,667 =63,317,66497,508,421→98,754,210−01,245,789 = 97,508,421■全部で20個のカプレカ数が見つかっている・・・この先には??1桁のカプレカ数 03桁のカプレカ数 4954桁のカプレカ数 6,1746桁のカプレカ数 549,945 631,7648桁のカプレカ数 63,317,664 97,508,4219桁のカプレカ数 554,999,445 864,197,53210桁のカプレカ数 6,333,176,664 9,753,086,421 9,975,084,20111桁のカプレカ数 86,431,976,53212桁のカプレカ数 555,499,994,445 633,331,766,664 975,330,866,421 997,530,864,201 999,750,842,00113桁のカプレカ数 8,643,319,766,53214桁のカプレカ数 63,333,317,666,66415桁のカプレカ数 ???,???,???,???,??? ・・・END・・・
2023.07.18
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「円行公園」を後にして、高倉遠藤線に合流し「上河内」交差点を左折して藤沢北警察署方面に歩く。「藤沢北警察署」前を通過。左手に「いすゞロジスティクス(株)藤沢物流センター」。入口。日本最古の自動車メーカー「いすゞ自動車」グループの物流会社として、 自動車部品の国内外からの調達から、工場への納入、完成車両やノックダウン部品の出荷・輸出・納車、アフターサービス部品のお届けまで、サプライチェーンの物流をトータルに担う会社。反対側・右手には「いすゞ自動車藤沢工場」の「第4工場」。そして「円行」交差点の先に、「協同組合藤沢市建設資源リサイクルセンター」が姿を現した。アスファルトコンクリート、セメントコンクリート(無筋・有筋)、コンクリート2次製品、自然石(大谷石・鎌倉石を含む)、路盤廃材、砂質廃材を再生処理をし、用途に応じた品質規格の再生砕石へ再資源処理しているのだ。さらに信号をわたり直進。右手にあったのが「藤沢市 北部環境事業所」。可燃ごみの焼却処理、不燃ごみ及び大型ごみの破砕処理、し尿の処理及び汚泥の処分を行っている事業所。2023年3月31日に同施設「藤沢市北部環境事業所新2号炉」の建設工事が完了し、同年4月より20年間の運営事業を開始したのであった。現在、我が家の可燃ごみ、不燃ごみは4月からここに運ばれ処理されているのである。そして次の目的場所の「リサイクルプラザ藤沢」に到着。神奈川県藤沢市桐原町23番1。「リサイクルプラザ藤沢 廃棄物処理施設」は、不燃ごみや不燃系大型ごみの破砕処理、ビン・缶・ペットボトルなどの再資源化処理を行う施設。最初に「湘南台地区の発展」の説明が館内に入る前に行われた。そして「リサイクルプラザ藤沢」の案内が。・リサイクルプラザ藤沢・環境啓発施設は、「環境にやさしい行動・くらし」について、 見たり、聞いたり、具体的に体験しながら学べる施設です。3R(リデュース・リユース・ リサイクル)の取り組みや再生可能エネルギーの活用、地球温暖化防止などについて、 楽しく学ぶことができます。・太陽光発電、風力発電、屋上緑化・壁面緑化など、省エネルギー型の設備を導入しており、 建物自体がエコに関する展示となっています。・施設内の「市民体験教室」では、古紙を使った紙すき・廃ビンを使ったガラス細工など、 リサイクル等に関する体験型ワークショップ(申込制)や、おもちゃ病院などの催しを 随時開催しています。・併設する廃棄物処理施設の見学コースでは、不燃ごみや大型ごみ、資源を処理する様子を、 自由に見学することもできます。そして館内に。「リサイクルプラザの発電量と消費電力をみてみよう」「リサイクルプラザ藤沢」の「鳥瞰図模型・CGパース」。斜めから。「リサイクルプラザの風力発電量の平均は? 3Wだよ」「私たちができること--うちエコ!アクション①--現在、国民1人あたりが家庭から排出する二酸化炭素は1日平均で約6kg、自分にできることからひとつひとつ、取組を積み重ねて二酸化炭素の排出量を減らしましょう」「私たちができること--エコドライブをしよう--車は発進する時に多くの燃料を消費します。普通の発進より少し緩やかに発進するだけで燃費が10 %程度改善をします.やさしいアクセル操作は安全運転にもつながります。時間に余裕を持ってゆったりした気分て運転しましょう。この他にもできることをやってみよう・加速度の少ない運転をしよう 車間距離は余裕をもって交通状況に応じた安全な定速走行に努めましょう。・道路交通情報を活用しよう 出かける前に計画・準備をして、渋滞や道路障害等の情報をチェック。・駐車場所に注意しよう 渋滞などをまねくことから、違法駐車はやめましよう。・アイドリングストップは5秒以上! 工ンジンを始動するときに心要な燃料はアイドリング約5秒分。5秒以上のアイドリング ストップをすれば省エネになります。「私たちができること--自然を感じる家へ--心地よく暮らせて省エネもできる。そんな贅沢な住まいを作る。そのヒントは昔から日本の風土に根づいてきた、風に親しみ光を感じる暮らし。ムリに何かを削るのではなく、自然の持つ力を最大限に生かす工夫を加えてもっと豊かに住みこなしていく。人に心地よく、地球にもやさしい「エコ・リュクス」なアイディアをわが家にもぜひ採り入れてみよう。」「病気やケガ」の野生の鳥との関わりかた」。「ふじさわECOかるた」。「ふじさわECOかるたで遊ぼう♪藤沢市では、COOL CHOICE(クールチョイス)の取り組みを遊びながら楽しく学べる「ふじさわECO(工コ)かるた」を作成しました。子どもから大人まで幅広く楽しんでいただける内容となっています。COOL BIZ (クールビズ)やWARM BIZ (ウォームビズ)、省エネ機器への買い替えなど、さまざまなエコについてふじキュン♡と一緒に学ぶことができます。」緑色の空き瓶でクリスマスツリー?「選別するもの」。「強力な磁石でスチール缶を選別する機械」スチール缶が磁石で移動しやすいように缶ビール等の空き缶は潰さずに出してほしいと。多くの潰された空き缶が下部に。分離されたスチール缶は「スチール缶プレス機」で圧縮される。スチール缶のリサイクル率は92.9%(2015年度)で、資源ごみでトップクラスのリサイクル率。「アルミ缶プレス機」。アルミ缶のリサイクル率は90.1%(2015年度)、そのうち6~7割がアルミ缶に再利用されている。原料のボーキサイトからアルミ缶を作るには、たくさんの電気を使うんだ。アルミf缶をリサイクルすれば、元の3 %の電気で缶を作ることができ、アルミ缶1缶で液晶テレビがが2 ~ 3時間見られる電気が節約できる と。これは何であっただろうか?横型ハンマーミルか?アルミ缶にはPETボトルやスチール缶、ビニールなどの異物が 混入されていることがあるため、圧縮されたものを改めて バラしてからそれらの異物を手選別する。 さらに、缶についている塗料やコーテイングをキルンで加熱して 除去。それを、回転するハンマーで叩いて、一定の大きさの 粒状、比重に整えて、フレコンに入れて出来上がりとのこと。「回転するハンマー」の使用前、使用後の姿。懐かしき昭和時代の居間の姿が。「ペットボトルの商品化の流れ」。「梱包品フィルム包装機」と「ペットボトル圧縮梱包品」。「ペットボトル圧縮梱包品」。「ペットボトルのメカニカルリサイクルフロー」。「PETボトル再商品化の流れ」。瓶(ビン)のリサイクルコーナー。様々な「リターナブルびん」。返却、詰め替えをすることによって、何度も使用できるガラス容器。店や市町村から回収されたリターナブルびんは、洗びん工場できれいに洗浄され、びん詰め工場で再び中身を詰めて、再使用(リユース)されているのだ。「選別品」白、黒、緑、茶の4種類に選別回収。「地球によく効く「3R」のびん詰びんの3Rにより、天然資源やエネルギーの使用量が節約でき、ごみやCO2の排出量を減らすことができます。リデュース Reduce びんの厚みを薄くしてダイエットします。リユース Reuse 使用後は洗って繰り返し使います。リサイクル Recycle 使用後に砕いて資源にします。」「ガラス瓶の主な原料」。「廃食用油」のリサイクルコーナー。回収された廃食用油は精製して触媒などを混じって、バイオディーゼル(BDF)を製造・燃料としてリサイクルされている。2023年度から使用済み食用油を回収する区市町村1自治体につき200万円まで補助する。回収した油はジェット燃料の代替となる再生航空燃料(SAF)の原料としての活用する と。リサイクルできない瓶を手選別。「古着類」のリサイクルコーナー。リサイクルできないプラスチック類も大量に。リサイクルできない種類のダンボールも大量に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.18
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「円行公園」に着く前に本来訪ねる予定であったが、時間不足で訪ねることが出来なかった「円行八幡宮」に翌日訪ねたので、ここにアップする。写真の一部は以前に訪ねた時のものも含んでいます。藤沢市 湘南台3丁目10−5。「社殿」ここ円行八幡宮の、藤沢駅近くにある鵠沼皇大神宮の兼務社になっているのだ と。「八幡宮(ハチマングウ)祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と素戔嗚命(すさのおのみこと)が合祀されており例祭は九月十四日です。慶長十九年(一六一四)桐ヶ谷大膳及び全村が一致して円行東南の地字芳荒に再建しましたが、その後、天明年間の水害にあい、青木伊右衛門氏の畑地を買請け現在地に造営したものです。毎年秋の例祭には神輿渡御が行われます。」「円行八幡宮 改築寄進者御芳名」碑。「大東亜戦争戦没者慰霊碑」。この地区から出征して、戦死した方々の名と戦没地・日付が刻まれているのであった。「御神木」。「御神木 クロガネモチ」。秋になると、赤い実を付けますが、この時期には小さな花が咲きます。これがミツバチにとってはこの時期の大好きな蜜源となります。十三重石塔。廻り込んで。「絵馬掛け」。左右非対称の屋根。♡が中央に。左手に「手水舎」。龍の吐水口(とすいこう)に近づいて。横から。「社務所」&「神輿殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。正面に「社殿」。唐破風の下の懸魚の彫刻。ズームして。さらに。鳳凰の姿か?その奥の彫刻。下部の彫刻をズームして。上部の彫刻をズームして。木鼻の彫刻(右)。木鼻の彫刻(左)。黄金色に縁取られた扁額。「八幡宮」。「脇障子」の彫刻(右)。裏側は!!「脇障子」の彫刻(左)。「境内社」の「豊川荼枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」。近づいて。昔、順徳天皇第三皇太子である寒巖禅師(かんがんせんじ)が感得された、霊験あらたかな仏法守護の善神です。 豊川荼枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っている と。社殿に向かって左側にあった庚申塔、「軍人戦死碑」。「軍人戦死碑」。「明治十三年?二月建 相州高座郡圓行村」と。 その左隣には、庚申塔が埋め込まれた台座のようなものが!その左隣にも、2基の石碑が並んでいた。「庚申塔」。「庚申塔」。社殿の横から海老虹梁を見る。右側から。左から。柱下部・段木端部の装飾。社殿の四方柱上部の彫刻。中間の柱上部にも。ズームして。賽銭箱の社紋は「左三つ巴紋」。「本年度例大祭宵宮 九月九日 午後五時より式典 九月十日 午前十時 斎行渡御 修祓 午前 十一時 宮出し(雨天決行)」七五三祈願祭日時十一月 十二日十二時より斎行」石鳥居と手水舎を振り返る。そして社殿を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.17
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「今田鯖神社」を後にして、向かいの神奈川県立境川遊水地公園内にあった「今田監理センター」を訪ねた。ここがこの日の昼食会場。昼食は各自持参。ここ、今田管理センター学習室は、境川流域等の河川環境の向上、境川遊水地公園の利用促進、総合学習および生 涯学習、地域におけるコミュニティーづくり及び地域文化の振興に資するために利用する、地域の自治会、文化サークル及び河川環境の向上に資する活動等を行う団体等が利用できるとのこと。内部には既に七夕飾りが置かれていた。「今田遊水池」に飛来する「オオバン」の姿であろうか。管理センター内に展示されていたパネルを追う。「境川遊水地公園の位置神奈川県立境川遊水地公園は、横浜市戸塚区、泉区、藤沢市の境に位置する、広さ26.1ha(東京ドーム約6個分)の都市公園です。河口からおよそ12kmに位置しており俣野・下飯田・今田の3つの遊水地部分とそれらの上部空間よって構成されています。境川下流部の洪水被害を軽減させるための遊水地を平常時には公園として有効利用し、河川事業と連携して整備を行っています。公園内は境川の水辺空間を活かし、様々な生き物が生息できるビオトープが整備され、一年を通じてさまざまな生物の観察や水辺の風景を楽しむことができます。また、少年野球場、多目的グラウンド、テニスコートなどレクリエーションの場も提供しています。」と。【境川について】県北部の城山湖付近を源として、都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ二級河川です。流路延長:約52km流域面積:約211km2流域市:相模原市、町田市、大和市、横浜市、鎌倉市、藤沢市の6市。【藤沢大和自転車道】引地川及ひ境川に沿って北上し、主に河川敷を利用しながら大和市下鶴間に至る自転車道です。距離: 24.5km時間:約2時間30分最大標高差: 66m始点・終点:大和市国道246号~引地川河口【境川遊水地公園】河口からおよそ12kmに位置しており俣野・下飯田・今田の3つの遊水地部分とそれらの上部空間よって構成されています。名称:県立境川遊水地公園開園面積:約18ha公園種別:総合公園開園:平成19年年間来園者数:約24.5千人(平成24年度)「境川の洪水境川流域は市街化が進み、雨水を地中にしみ込ませたり、貯めたりする機能が低くなってきました。そのため水害が起こる危険が高まっています。境川流域では、これまでも台風や集中豪雨による洪水の被害がありました。」近年の主な洪水被害。「遊水地の役割大雨が降ると、雨水が短時間に多量に河川に流れ込みます。このため、遊水地をつくり、その中に洪水を-時的に貯めることで下流に洪水が一気に流れ出すことを防いでいます」「境川の遊水地の概要境川遊水地は3つの遊水池があって、合わせると約30haの広さがあり、約90m3 /秒の洪水調節を行ないます。平成2年度から事業に着手しました。」遊水池配置。「境川遊水地の効果」境川境川遊水地(俣野・下飯田・今田)の効果(平成30年3月豪雨)◯平成30年3月9日の豪雨では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所において、 時間最大雨量が48mm、連続量213mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約890,000m3を貯留しました。(小学校25mプール 約2,400杯分に相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約114cmの水位を低減させる効果があったものと 推測されます。境川 境川遊水地(俣野、下飯田、今田の効果(令和元年10月 台風19号)◯令和元年10月の台風19号に伴う降雨では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所及び 泉消防署雨量観測所において、時間最大雨量が32mm、相模大野観測所において、連続雨量 323mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約960,000m3を貯留しました。(小学校25mプール約2560杯分に 相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約24cmの水位を低減させる効果があったものと推測されます。境川 境川遊水地(俣野、下飯田、今田)の効果(令和3年9月 台風14号)◯令和3年9月の台風14号では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所において、時間最大 雨量が62mm、連続雨量213mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約653,000m3を貯留しました。(小学校25mプール約1741杯分に 相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約136cmの水位を低減させる効果があったものと 推測されます。大雨が降ると、3遊水地のうち最も上流にある今田遊水地から水門を閉め、水を貯め始めます。川の水は越流堤から流れ込み、施設全体に水が入ります。雨が止み、川の水位が下がってから貯まった水を放流します。今田遊水地に水を貯める事で下飯田・俣野遊水地への流入が軽減しています。「境川遊水地の鳥」「境川遊水地周辺の魚」アユも紹介されていた。「境川湧水地の植物」そして管理センター内の緑地のベンチで購入しておいたシュウマイ弁当で昼食を楽しんだ。「今田管理センター」前の配置図。ベンチから「芝生広場」を見る。ここが、1次遊水地(ビオトープ)の溢流水の2次遊水地となる。2次遊水地の「芝生広場」の奥に、左に大きくカーブする「横浜市営地下鉄ブルーライン」の高架橋。その奥が「相鉄いずみの線」。そして昼食を済ませ、次に訪ねたのが、「湘南台公園」の北側の住宅地の間にあった石造物群。藤沢市湘南台7-2-13(大字今田字西原)。正面から。入口の左側にあった「地蔵菩薩立像 亨保2(1717)年6月 122cm」。その先にあった三基の「庚申供養塔」。右側:庚申供養塔(尖塔角柱型)、明和元(1764)年11月 124cm左側面には人名が。右側面。高座郡今田村、三名の名前が刻まれていた。中央:庚申供養塔(尖塔角柱型)、天保12(1841)年11月 124cm 南 藤澤道(右側)、北 八王寺道(左側)道標付き北 八王寺道(左側)南 藤澤道(右側)左側:庚申供養塔(重頭角柱塔)、文政13(1830)3月 97cm「庚申供養塔」、「文政十三年」、「寅三月」の文字が刻まれていた。「国道467号」に出て「湘南台文化センター 市民シアター」を見る。湘南台文化センターの象徴とも言える巨大な地球儀。その中にあるのが、この広大なドームスクリーンを有する宇宙劇場。その直径はなんと20メートル。傾斜した床には全160席の全てのお客様が楽しめるように座席が配置されているのだ。そして、次に「円行公園」に向かって湘南台275号線を進むと、カーブ右手にも石碑群があった。藤沢市湘南台3-1-12(大字円行字東谷)。右側に「石廟」と「五輪塔」が。「五輪塔」の残欠集石、52cm高とのこと。「石廟」は切妻・流造で68cm高と。「堅牢地神塔」:文久3(1863)年8月 97cm堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教の「地天」に由来する。天部の神々の中で梵天が天を象徴するのに対し、地天は地を象徴する神とされる。日本の民間信仰では地を堅固に守る神との考えから農村の守護神として信仰されたのだ。右側面に「癸文久三年(1863) 亥八月社日」と。台座には「圓行村」と。左側面には「右婦ち澤(藤澤)道、左八王子みち」と刻まれていた。手前は双体道祖神塔:宝暦12(1762)1月 58cm後ろは庚申橋供養石塔:宝暦5(1755)年3月 76cmそして「円行公園」に到着。藤沢市湘南台3丁目3−6。「湘南台駅から引地川に向かって坂道を下りていくと、緑豊かな円行公園がみえてきます。遊び場としての要素だけでなく、斜面地形を利用した竹林、梅を楽しめる庭園的要素を取り入れたこの公園は、引地川沿いの桜並木と共に、季節に彩りを添えています。」とネットから。「竹林」の中を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ そして今日は私の【♡73歳お誕生日おめでとう♡いつも、見守っていてくれてありがとう。これからも、元気で長生きしてね!!また一緒にお風呂にはいろうね♪大好き!じいじ~♪♪♪】と。
2023.07.16
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今年も我が家の庭のグラジオラスが開花しています。グラジオラスは花色が豊富で、あらゆる花色が楽しめ、花弁もフリンジ咲き、平弁咲き、反転弁咲き、受け咲きなどがあります。グラジオラスの名の由来はラテン語の「剣」という意味のグラディウスで、葉の形からきていると。日本へは江戸時代の末期に一度渡来しましたが、栽培がうまくいかずに明治になって再渡来し、その後に栽培が普及し、現在では切り花として年間を通じて作られていると特に植え替え等はしていませんが、毎年花をつけて楽しませてくれます。グラジオラスの花言葉は「密会」、「用心」、「忘却」、「勝利」、「思い出」。むらさきの色のグラジオラス。夏の花壇を華やかに彩ってくれるグラジオラス。鮮やかな花色の2色咲きタイプ。華やかな色の競演を楽しめるのです。うす緑のグラジオラス。そしてホオズキ(鬼灯)。鮮やかなオレンジ色の果実を提灯に見立て、お盆に飾ることでも有名。 古くに中国から薬草として渡来したと考えられていますが、現在では観賞用として鉢植えや切り花で流通している。7月9日・10日、浅草寺境内を彩るほおずきの屋台は、浅草の夏の風物詩である。この両日は四万六千日の縁日であり、縁日にともなってほおずき市が催されたとテレビのニュースで。そしてカサブランカ。菜園にはノアザミの花が。どこからか種が飛んで来ました。この花の周りの草むしりは、葉の棘が痛いのです。そして我が趣味の養蜂場のヒマワリ(向日葵)の花。今年は多花性・枝咲きのヒマワリをタネから育てました。ズームして。ミツバチのようなポリネーター(花粉媒介者)は、より温度が高い花に飛んでいく傾向があるそうです。さらに、温度が上昇すればするほどたくさんの花粉が放出されると。ヒマワリは、主たるポリネーターであるミツバチが活発に活動する午前中に自身の温度が上がるよう太陽の方を向くようです。つまり、それが東側というわけです。ミツバチが活発に活動する時間帯に温度を上げることが、最も効率よくたくさんの花粉をミツバチに運んでもらうことができる術を知っているのでしょう。そしてこちらも養蜂場で咲くアーティチョーク。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。形態的には大型アザミ。若いつぼみを食用とするヨーロッパの春野菜(花菜類)とのことですが、未だ食べたことはありません。そして我が家の裏の農家の温室前の水タンクに咲く蓮の花。鮮やかなピンク!!そして淡い黄色で。 ・・・END・・・
2023.07.15
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「下和泉鯖神社」を後にして、「和泉川」沿いの水田地帯を進む。珍しい色彩のアジサイの花。「ハルシャギク(波斯菊)」であっただろうか。キク科ハルシャギク属の一年草。空き地や道端などに生える雑草であるが。和名の由来となっている「ハルシャ(波斯)」はペルシャのこと。別名はジャノメソウ(蛇目草)。花期は春〜この時期・初夏。花の色は、中心が濃紅色で、周辺は黄色の蛇の目模様であり、別名のジャノメソウ(蛇目草)の由来となっている。花は外側が黄色で、真ん中が濃紅色となっており、上記の如く「蛇の目模様」を連想させます。そもそも「蛇の目模様」とは、大小2つの太い輪からなる模様のことを指します。その名の通り、蛇の目に似ていることに由来しており、おちょこだけでなくさまざまなものにデザインされている。昔の番傘などにもよく用いられた模様であり、通称「蛇の目傘」と呼ばれていたのだ。花色は変化が大きく、黄色と赤茶色の部分の割合は株によってずいぶん異なり、どちらか一色だけになってしまったものもたまに見られます。また八重咲きになることもあるとのこと。「境川遊水地公園テニスコート」が左下に。神奈川県横浜市泉区下飯田町664。「神奈川県立境川遊水地公園」内にある「鷺舞橋(さぎまいばし)」が見えて来た。「境川遊水地公園テニスコート」の先に「横浜薬科大学」の「図書館棟」を見る。「図書館棟」をズームして。「境川」に架かる「鷺舞橋」を渡る。「鷺舞橋」。「境川」の下流側を見る。前回訪ねた「境川遊水池情報センター」の姿が確認できた。「境川遊水池情報センター」をズームして。「鷺舞橋」。「境川遊水地公園」のシンボルとなる国内初の片面吊り曲線吊橋の設計デザイン。2008年12月に開通。自転車・歩行者用の橋。吊橋が片側だけで斜めになっているのが特徴で印象強い。周りは散歩やランニング、サイクリングされている方が多いのであった。国内初の片面吊り形式の曲線吊り橋となる橋長129mのPC(Prestressed Concrete)2径間連続吊り橋。橋脚から斜め外側に鋼製主塔を構築し、頂上から橋台部のアンカーに向けて張ったケーブルで桁を吊っている。ドイツのヨルグ・シュライヒ博士が考案した一面吊り曲線吊り橋の考え方を参考にしたのだと。平成21年度PC技術協会賞受賞作品 と。橋の片側だけをワイヤーロープで釣る世界的にもめずらしい橋。歩行者専用というのがもったいない!!実際にこの地区は白鷺などが飛来するところでもあり、この橋の設計が、鷺が羽を広げて飛び立つ姿に似ていることから「鷺舞橋」と名付けられた と。そして「境川」に架かる「今飯橋」を渡り、次の目的地の「今田鯖神社」に向かって「下根広町線」を西に進む。「県立境川遊水地公園」案内板。案内に従い、右折して進むと右手にあったのが「県立境川遊水地公園」の入口。「県立境川遊水地公園」。「県立境川遊水地公園」案内板。「県立境川遊水地公園」は、境川遊水地の上部空間を県立公園として整備したもので、平成16年(2004)度に事業着手し、令和元年(2019)7月に全面開園した。公園内には、境川の自然豊かな水辺空間を活かし、様々な生きものが生息できるビオトープがあり、環境学習などが体験できる場を提供している。また、レクリエーションの場として、少年野球場、多目的グラウンド、テニスコートの有料施設と、噴水広場や芝生広場などの施設がある。境川遊水地では、上部空間を県立公園として有効利用するため、池の中に中央越流堤を設置し、「ビオトープなどの自然創出ゾーン(一次池)」と「多目的利用ができる広場ゾーン(二次池)」にエリアを分離しているのであった。民家のフェンスには「木イチゴ」が。近づいて。黄色の「ハイビスカス」の花。近づいて。そして前方に「今田鯖神社」の石鳥居が姿を現した。神奈川県藤沢市湘南台7丁目201。「石鳥居」明神鳥居。昭和35年8月杉山憲氏奉納 と。扁額「鯖神社」。「今田鯖神社掲示板」には多くの「今田鯖神社」関連の資料が掲示されていた。平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。ネットから。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鯖神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下諏訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしょう。しかし、そもそもどういういわれで鯖神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」と。「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。美浜町野間法山寺 源義朝公之像をネットから。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」「お神札(ふだ) それはお家(うち) の感謝する時、願う時自然と手のひらをあわせるように私達は祈りのある暮らしの中に生きています。お家(うち) にも、祈りの場としてまずお伊勢さまと氏神さまをおまつりください。」境内参道を進む。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。その先にも石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納。石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納。「鯖神社 由来」。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 当地住人井上瀬兵衛により造立される。祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」。「神楽殿」・大正8年建築 と「社務所」。社務所は平成15年7月改築、神楽殿に増築。正面に「社殿」。祭神:源義朝公。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。左手に「手水鉢(漱水盥・そうすいかん)」。嘉永4年(1851)10月奉納。平成18年9月台座新設。その横に4基の石碑がならぶ。左から用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「道路改修記念」碑。昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「鯖神社 新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年(1702)の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年(1995)八月十一日の放火により、昭和八年(1933)建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年(1997)三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三(2001)年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(2006)十月吉日 氏子中」「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。裏側には「序文昭和八年に新築された社殿の六十余年に亘る歴史が平成七年八月惜しくも無宿人の火気の不始末が原因で全焼するに至った幸にも源義朝公の御神体が無事に搬出された爲有志による試験委員会を設立し計画を進めた結果数多くの人達の心温かい 御支援と再建委員各位の御努力により二年余を経て再建を果たした昭和四十年初めより藤沢市北部開発事業が進み三十余戸の地域の戸数や人口が急激に増加したが当地に居を構えた方をはじめ 関係在る方々がこぞって再建に御協力頂いた事は大変喜ばしい事です 戦後の混乱から高度成長期を経て生活環境が備わった 反面環境破壊やゴミ対策更には人の心のあり方が問題化して来た 今後益々環境の悪化が見込まれ百年先の状況を想像する事は 困難であるが人々が当神社を地域の護り神として敬愛し豊かな心を持ち続け健康で明るい地域を持続する爲にも鯖神社の存在が 大きな役割を果たすことを期待すると同時に末永く存続する様祈るものである 平成九年十月吉日 再建委員長 井上保次謹書」社殿の右側にあった「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。社殿に向かって左側にあった「荒神様」。元禄5年(1963)9月作井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「三面六臂荒神石像」。「鯖神社」の「社殿」を手前から。扁額「鯖神社」。「軒唐破風」。「内陣」。「本殿」を斜めから。社殿の裏には小さな「五輪塔」が反対側にも小さな「宝篋印塔残欠」。「本殿」の屋根。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作令和五年・癸卯(みずのとう)絵馬」そして社殿を振り返る。参道の坂道を下って行った。再び振り返って。右手に「神楽殿」・大正8年建築。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.15
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以前から我が藤沢市には各会社の電車の駅が多いことは解かっていたが、今日、その詳細を調べてみた。鉄道路線図から我が藤沢市の駅を赤線ーで囲んで見ました。各路線の詳細駅名は■JR 2駅:藤沢、辻堂 東海道線■小田急線 9駅:長後、湘南台、六会日大前、善行、藤沢本町、藤沢、 本鵠沼、鵠沼海岸、片瀬江ノ島■江ノ電 6駅:藤沢、石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江ノ島■モノレール2駅:湘南江の島、目白山下■相鉄線 1駅:湘南台■横浜市営 1駅:湘南台 地下鉄 合計 21駅(6社)因みに、我が藤沢市周辺の市についてその数を調べてみた。鎌倉市: 18駅(JR3駅、江ノ電9駅、モノレール6駅)茅ヶ崎市:3駅(JR3駅)平塚市 :1駅(JR1駅)大磯町 :1駅(JR1駅)二宮町 :1駅(JR1駅)小田原市:18駅(JR4駅、小田急5駅、大雄山5駅、箱根登山4駅)大和市 :10駅(小田急6駅、東急田園都市2駅、相鉄2駅)綾瀬市 :0駅(新幹線が市内を通過するのみ)※JR各線の駅は1駅とした。人口40万~50万の市町村で、これほど多くの電車駅がある市町村は全国にどれくらいあるのだろうか。因みに藤沢市の人口は、6月1日現在44.4万人である。藤沢市の面積は69.75km2。平塚駅の面積は67.83km2とほぼ面積は同じなのである。しかし電車の駅数は藤沢市21駅(6社)、平塚市はJR平塚駅1駅のみである。さらに、藤沢市では、相鉄いずみ野線が、二俣川-湘南台を結ぶ鉄道路線で、平塚方面まで延伸する計画がある。湘南台-慶應SFC(湘南藤沢キャンパス)間に単線を敷き、途中駅を1つ設ける構想が具体化しつつあるのだ。将来的には、茅ヶ崎市倉見➡平塚というルートが有力になっている。さらに、JR東海道線の藤沢―大船駅間に新駅「村岡新駅」(仮称、藤沢市)を設けると下記の如く発表した。都市計画や詳細設計などの手続きに着手し、開業は早くて2032年ごろとなる見通しだ。よってこれらが全て具体化すると現在の21駅+2駅+1駅=24駅となるのである。それにしても、我が藤沢市の電車駅の数が多いことを今更ながら知ったのである。交通インフラには恵まれていることは、否定しないが人口の高齢化が進む中、このインフラを有機的に活用し、市内の東西方向、隣市への移動に対する循環バス、ミニバス等によるバスルートの新設・充実、その他の移動手段の必要性を感じているのである。 ・・・END・・・
2023.07.14
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「下飯田佐馬神社」を後にして、再び「ゆめがおか駅」方向に戻る。横浜市の雨水用マンホール蓋は「横浜ベイブリッジ」のデザイン。相鉄いずみの線「ゆめが丘」駅東口~横浜市営地下鉄ブルーライン「下飯田」駅北口の再開発・大規模商業施設建設現場を見る。地下鉄 下飯田駅方向に向かって進む。地下鉄 下飯田駅前を通過。「和泉川」に沿って歩く。「草木橋」を渡る。「草木橋」。「和泉川」の下流側・ビオトープを見る。ビオトープは、動物や植物が安定して生活できる生息空間(生物生息空間)のこと。ドイツで生まれた概念で、「bio(命)」と「topos(場所)」というギリシア語を組み合わせた造語だ。川やアマゾンの雨林などの大きな空間から、池や小鉢などの小さな空間まで、魚や虫、多様な微生物が住まうところはビオトープと呼ばれる。「和泉川」。「和泉川・ビオトープ」を右に見ながら下流方向に進む。次に訪ねたのが「四ツ谷湧水」。和泉川側道沿いに、案内の標柱も設置されていた。「四ツ谷湧水」の流れに沿って遡る。ここが「湧水」の現場。近づいて。泉区は地下水脈に恵まれ、湧水の数は市内有数であると。四ツ谷湧水は、和泉川の下流、中和泉から下和泉にかかる辺りの一段高くなっている畑の下のくぼみにあり、にじみ出るように水が湧いていた。ほとんど枯れたことがないといわれる湧水であると。和泉川の下流域、中和泉から下和泉に広がる一段高くなった畑の下に水の湧(わ)き出るくぼみがある。長年、畑の水遣(みずや)りに使われてきたが、最近は区の花・アヤメも植えられるなどきれいに整備され、澄んだ水溜(みずたま)りにはオタマジャクシやザリガニの姿も。「四ッ谷湧水」石柱。アジサイの花。そして「和泉川」に沿って南に進むと、「和泉川」の右岸に「稲荷神社」があった。神奈川県横浜市泉区和泉町1032。前方に「赤坂橋」。「赤坂橋」の下を通過。ブルーベリーの苗の栽培であっただろうか?そしてこちらはユーカリの苗。「環状4号線」の地下道の壁には富士見ヶ丘連合一同の絵画が描かれていた。見事な白のアジサイの花。「鍋屋」交差点を渡る。次の目的地の「下和泉鯖神社」に向かって進む。左手にあった長い石段が「密蔵院」👈リンク への参道。途中左手を見上げると、参道の途中を「環状4号線」が横切っているのである。そして「下和泉鯖神社」に到着。神奈川県横浜市泉区和泉町705。一の鳥居を潜り、石段を上って行った。正面に「社殿」。扁額は「鯖大明神」。「下和泉 鯖神社祭神は 贈従二位大将軍佐馬頭源満仲 甲冑帯剣乗竜馬神勧進社は官名をとりたて左馬神社と言う後に国制改革により鯖神社に改名する 相模の国に左馬神社七社ありこれを相模七左馬と言う他の六社同様に古い歴史を有し建立期は慶長年間【西暦一五九六~】で四〇〇年以上経ています社殿に掲示されている【鯖大明神】の額は 天保七年五月に 時の神祇管領卜部朝臣良長が参向の際に奉納したもので 昔からかなり格式の高い神社であった事が分かります。例大祭は毎年九月九日 近年では前後の土日に催行しています。参考文献 泉区の歴史」社殿の内陣。「本殿」を斜めから。その脇の奥にあったのが「境内社」。近づいて。「境内社」の社殿。「下和泉 鯖神社」の奥にあっ民家の墓地。反対側からも「本殿」を見る。説明員の方の話を聞く旅友。社殿前から境内を見る。石灯籠。石灯籠のデザインもいろいろで、神様の使いでもある「鹿(シカ)」がデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.14
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我が菜園の「花オクラ」が花を付け出しました。オクラとよく似た美しいレモンイエローの花を咲かせる「花オクラ」。実ではなく花を食べるのが特徴です。花オクラはアオイ科トロロアオイ属に属する一年草。「トロロアオイ」や「黄蜀葵(オウショッキ)」とも呼ばれている。花オクラは中国原産の植物で、花や根の部分が食品や漢方薬として活用されて来たとのこと。日本へも古くから伝わっていて、根と果実の粘液が和紙ののりとして使われていたとのこと。花を5個ほど摘んで来ました。花オクラは実ではなく花の部分を食べるのです。花オクラの花は花弁が5枚で、オクラの花とよく似た淡いレモンイエロー色をしており、中心部と雄しべの柱頭が濃いワインレッドをしています。朝に咲いて夕方にしぼんでしまう一日花。旬は6~8月で、最近では道の駅や農家の直売所などで販売されているようです。花オクラの花は10~20cmほどの大きさで、オクラの花の2倍ほどのサイズ。花オクラも実をつけますが、かたく短い実でオクラのような長いさやにはなりません。食べてもふさふさとした毛が口に残ってしまうため、食用には向かず、食べられることはほとんどないのです。指で根元を切り落とし、雌花やがくを取り除いて花びらだけにします。そして沸騰したお湯でさっと湯通しします。酢を加えたお湯でゆでると鮮やかな色を保ちやすいのです。そして直ぐに冷水に浸します。冷水には、花オクラの黄色い色が溶け出して。そして寿司酢を加えて出来上がり。氷を入れて、ビール片手に楽しんだのでした。特有のぬるぬる食感と美しい色合いが魅力的なのです。淡白な味わいなのでどんな調理法でもアレンジしやすいのです。今まで花オクラを使ったことがなかったという方も、ぜひ花オクラを活用して夏らしい食卓にしてみてください!!花オクラは淡白な味わいなので、さまざまな料理に活用しやすい食材。おすすめの調理法をいくつかネットからご紹介します。「■サラダ新鮮な花オクラが手に入ったら、生のままサラダにしてシャキシャキした食感を味わいましょう。下処理をした花びらにドレッシングをかけてそのまま食べると、花オクラ特有の味わいと歯ごたえを堪能できますよ!花びらを刻んでサラダに入れたり、花びらで生ハムなどをくるんだりするのもおすすめです。■おひたし美しい色合いを活かしておひたしにするのも定番です。酢を加えたお湯でゆでると鮮やかな色を保ちやすいですよ。加熱するととろりとした粘り気が強くなるので、オクラに似た食感も楽しめます!できたてを食べるのはもちろん、冷やして食べてもおいしいですよ。■天ぷら花オクラの天ぷらもぜひ味わってみてほしい一品。花に薄く衣をつけさっと揚げましょう。花びらを一枚ずつ揚げてもよいですし、つぼみをそのまま揚げても大丈夫です。サクサクの衣と粘り気のある花オクラのもっちりとした食感の違いが楽しいですよ。ほんのりと苦味があり、オクラ特有の香りや風味がたまりません!素材の味を感じられるようシンプルに塩でいただくのがおすすめです。■寿司鮮やかなレモンイエローの色合いを活かして寿司にするのも人気です。さっと洗った生の花びらの上に寿司飯とお好みの刺し身や野菜を盛り付ければ華やかなメニューが完成します。小さく握った寿司飯の上に花びらを巻いた手巻き寿司にしてもとても可愛いですよ!」と。次回は「天ぷら」で楽しみたいと思っています。 ・・・END・・・
2023.07.13
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そして「左馬神社」の「一の鳥居」前に。「鯖社境内払下記念碑」。背面には次の如く刻まれていた。「当神社境内地ハ官有地ナリシガ昭和二十二年五月三日布告ノ新憲法ニ依リ当神社払下ヲ受ケ之ガ申請ニ際シ実地測量セシ○旧来ヨリ二間巾ノ参道ヲ三間巾ニ拡張スルニ当リ小菅一雄氏ヨリ地所約四十坪奉納セラル之ニ依リ昭和二十五年一月二十五日付払下許可ヲ受領シ之ヲ永遠ニ記念ス 昭和二十五年四月十八日 氏子中」参道の左側には「下飯田会館」。「二の鳥居」に向かって参道を進む。「二の鳥居」手前の左側には石碑が並んでいた。「供養塔」と「不動明王」。近づいて。「供養塔」。「不動明王」。その左にも石碑が並んでいた。「馬頭観世音」碑。「庚申塔」群。石造りの「二の鳥居」。扁額は「左馬神社」。「奉納大鳥居特志寄附者 小菅長作昭和五十三年七月三十日石工 浅見勝三」。前方に「社殿」。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されており、中でも横浜市の名木古木にも指定されている大イチョウは自然と畏怖の念を覚える迫力があるのであった。「左馬神社 氏子中参道改修記念昭和五十七年十二月吉日」「石灯籠」。ユニークな形状。載っているだけ??「社殿」創建は平安末期とも小田原北条時代とも伝えられ、以前は「鯖神社」と表記されたと。石橋山・富士川の合戦の働きを源頼朝に激賞された飯田五郎家義(飯田三郎家能と同一人物とも)が創建したとも伝えられる。【開創時期は社伝によれば、鎌倉時代初期との伝承を残しているが不明です。文禄年中(1592~95)に境川辺の僧が勧請し、現在地に移って東泉寺持として受け継がれたのではないかと見られます(川戸清氏説)。東泉寺は巨木山と号し、曹洞宗の植木村龍峰寺の末寺でした。下飯田村の鎮守です。】とこの日に頂いた資料から。この付近には「鯖神社」、「左馬神社」、「佐婆神社」といろいろとあるのであった。神奈川県横浜市泉区 下飯田町1389。近づいて。祭神は左馬頭源義朝で、平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われています。天正18年(1590)に領主となった筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復しました。境内のイチョウは市指定の名木古木です。他に堅牢地神塔(けんろうじじんとう)・庚申塔などがあった。さらに。扁額は「左馬神社」。内陣。社殿の右側奥に「境内社」。朱の色の祠は、「筧(かけい)稲荷社」。平成二十八年に社殿修復された。「筧稲荷社」に向って右手に堅牢地神塔、青面金剛が形取られた庚申塔(寛延二年(1749))があった。ここにも石碑が。「堅牢地神塔」と六手・合掌型の「青面金剛像」。持ち物は三叉劇、宝輪、弓矢、中2手は金剛鈴と金剛鈷であろうか?「本殿」を右側から。社殿左側の「境内社」。内陣。境内の大銀杏。「第六十一回 平成二十二年五月二十三日全国植樹記念樹神奈川県神社庁」。再び「社殿」を正面から。「サバ神社」とは・・・・頂いたこの日の資料から転記させていただきます(以下同様)。・境川・和泉川の沿岸や引地川沿岸には12社の「サバ神社」と称する神社が現存します。一部は近世になって合祀などにより名称変更されて例えば「飯田神社」、「七つ木神社」となった社もありますが、それらを含む多くの神社がこの周辺地域に存在するのはなぜでしようか。今回はそれらのうち、境川沿岸の左馬神社(下飯田)、鯖神社(今田)ろ和泉川沿岸の鯖神社(下和泉)の3社を巡り、「サバ神社」の由緒は石塚勝氏の説を中心に紹介します。(1)「サバ神社」の謎①なぜ「サバ」という社号の神社が境川流域を中心に、東西3km、南北10kmの狭い範囲に集中して いるのか。(地域の謎)②なぜ当地にだけ、全国的には類例がない源義朝を祭神とする神社があるのか。和泉川流域三社が 源満仲を祭神とするのは何故か。(祭神の謎)③「サバ」の社号が「鯖、佐波、左馬、佐婆、佐馬(現在は無し)」と多岐にわたるのだろ うか。(社号の謎)④引地川沿いの石川地域に一社だけ、「サバ神社」が存在するのはなぜだろうか。(引地川の謎)⑤御霊神社が存在する村落には「サバ神社」は存在しないのはなぜだろうか。(御霊神社との 関係性の謎)《地域の謎》 ・分布域の地理的な特性として水害・湛水地帯であったことがあります。上流から急こう配 で流れた境川が横浜市瀬谷区瀬谷あたりから緩勾配となり、藤沢市西富辺りまでの約16km はほぼ平坦になり、暴れ川の異名に叶った悪水となります。「サバ神社」はいずれも川沿い の小高い場所に鎮座しており、現存の社殿は8社が流路に平行に、4社が川に直面していて います。こうした実状から、水田耕作に苦労する地域に水を鎮める「沢の小祠」として祀られ たのが、同社の始まりといわれています。《祭神の謎》 ・義朝は鎌倉時代を開いた頼朝の父ですが、源氏の元祖でも、中興の祖でも無く神社の分布域に 限っての特別な関りも判然としません。このような状況から推測すると義朝を祭神とする 「サバ神社」は天正19 (1591)年に瀬谷村の領主となった旗本長田(おさだ)忠勝により初めて 祀られたとされます。義朝は平治元(1159)年の平治の乱で敗れて東国に向かう途中、従者 鎌田正清の義父であった尾張知多郡内海荘司長田忠致(ただむね)を頼りましたが、裏切られ 惨殺されました。忠勝は逆臣の一族とされ、江戸初期に境川左岸の古宮を旧社地から300m 北東の高台に社殿を建立し、社名も義朝の最高官位であった左馬頭(さまのかみ)から採って、 義朝の霊を鎮めるとともに、「沢の小祠」を合祀して暴れ川鎮めを図り、これが住民に受け 入れられたと推測されます。 源満仲を祭神とする和泉川沿いの3社は、和泉村を知行した能見松平氏にとって、本源は満仲で 義朝は傍系となるので、祭神を付会させたのではないかと見られています、領主の泉氏が信濃 源氏であり、祖は満仲の弟満快であるが、満快が祭神では頼朝に憚りあり、源氏一門にとって 異論のない満仲にしたと元藤沢地名の会会員植松晴男氏説もあります。」《社号の謎》 ・義朝は勇壮な武将であったので、疫病からの守り神として崇められました。他方、鯖に整腸 作用がなどの薬効があるという知識が江戸時代中期以降に一般化しましたが、鯖の漁獲は 20世紀半ばまでは西国が中心でした。そのため、病を癒すとされた貴重な鯖にちなんで社名 にその字が使われるようになり、19世紀後半から20世紀初めに至り、厄除けのため7つの サバ神社を参拝する七サバ参りが盛んになったといわれます。基本的には沢=「佐波」から 義朝=「左馬」へ、さらに「鯖」へという流れですが、流れの実情は一様ではありません。 ・七サバ参りは年寄りが子供を背負って、正月一日に七社を巡ると子供が流行病に罹らないと いう幕末頃から流行した民族信仰で、大正中期まで盛んだったといわれます。 七サバ社は特定の神社に固定したものではなく、いずれのサバ神社でも七社を巡拝すれば 良いとされます。七サバ参りの巡拝例を下記します。《引地川の謎》 ・石川の「サバ神社」は「佐波」と表記する唯一の神社ですが、昔は引地川の水害で別の場所 から今の高台に移動したこと、西俣野同様、義朝による侵攻を受けた大庭御厨の領域で あったことから、「サバ神社」を建立し、「鯖神社」から「佐波神社」と社号も変えています。 この説は東俣野の郷上史家川戸清氏が示されています。《御霊神社との関係性の謎》 サバ神社周辺の村落には権五郎景正を祀る御霊神社がいくつか存在します。非業の最期を 遂げた義朝の霊が祟りをもたらし、霊を鎮めるために祭神として祀ったサバ神社は、御霊神社が 鎌倉郡内の各地に勧請される過程で、郡境の境川流域に派生し出現した御霊神社の一種と みることができます。そのため、同一地域に神明社・天王社・山王社等の様々な社が混在する なかで、サバ・御霊両社のみは並存せず、地域分けして分布しています。サバ神社のある俣野内 には御霊神社が無く、御霊神社のある深沢・深谷等にはサバ神社はありません。(2)サバ神社一覧 現存する「サバ神社」は12社ありますが、廃絶された東俣野を加えると13社となります。 先の川戸氏は現東俣野(戸塚区東俣野1 7 2 8ー2 )にはもうーっ「大明神」と呼ばれていた ていた石祠が、現在も元の上俣野村域にあり、これは境川の氾濫による流路変更のため、 現東俣野村域に2つの「サバ神社」があると主張されています。西俣野の小宮を含め、保野郷の 3村には西俣野村、上俣野村、東俣野村の3つの「サバ神社」が社殿へ発展前の小宮・石司形態で 存在したとの説です。・「サバ神社新旧対照一覧」を表1に、「サバ神社十二社配置図」を図4に示します。「表1 サバ神社新旧対照一覧表」「サバ神社十二社位置図」屋根に二つあった社紋は「左三つ巴紋(ひだりみつどもえもん)」。「横浜市泉消防団」と。「観世音」碑。「不動明王」と「ニの石鳥居」を振り返って「左馬神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.13
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この日は6月20日(火)、藤沢地名の会・第267回例会・地名探索である「境川、和泉川沿いのサバ神社と新たなまちづくり湘南台地区」に参加して来ました。集合場所・時間は相鉄線ゆめが丘駅改札・9:30であった。小田急線の湘南台駅から相鉄線に乗り換え「ゆめが丘」駅に到着。自宅から30分弱。相模鉄道(相鉄線)は2023年3月に、東急との相互直通運転を開始。2019年開業の相鉄新横浜線羽沢横浜国大駅から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅に直通。東京メトロ南北線・副都心線、都営三田線、埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線、東武東上線とも直通運転が開始され、神奈川県から渋谷・目黒、さらに埼玉県に至るまで、首都圏の広域鉄道ネットワークに繋がったのであった。また、JR南武線や東急東横線と接続する武蔵小杉駅に続き、西大井、恵比寿、渋谷の各駅に停車終点はJR新宿駅。 JR線内は湘南新宿ラインと同じルート。 相鉄やJRは相鉄海老名~JR新宿間を相鉄・JR直通線と呼ぶのだ。「ゆめが丘」駅のホームはリニューアル工事中。そして「ゆめが丘駅」の西側は泉ゆめが丘地区土地区画整理事業が行われていた。駅舎を見上げて(二俣川方向)。駅舎を見上げて(湘南台方向)。アーチ型の青い鉄骨に囲まれたゆめが丘駅。関東の駅百選にも選ばれているのだ。「ゆめが丘駅周辺案内図」。ズームして。「ゆめが丘まちづくり 完成イメージ」をネットから。「ゆめが丘駅」改札口。この日の参加者が改札口前に集まっていた。そして集合時間の9:30になり、案内役からこの日の散策ルートの案内が。参加者は約40名、2Grに分かれて散策開始。まずは、「下飯田」地区にある「左馬神社」に向かって進む。リニューアル工事中の「ゆめが丘駅」を振り返る。「境川沿いのサバ神社一覧」。境川両岸の上飯田、下飯田を初め、藤沢市、大和市のサバ神社が源義朝を祭神としているのに、なぜか和泉の三社だけが源満仲を祭神としている。義朝も満仲も源氏の祖として後世崇められ、官名も共に左馬頭であるから、源満仲が左馬神社の祭神とされても不思議ではない。しかしこの狭い地域で、なぜ和泉だけが源満仲を祭神としたのだろうか と。北条義時の首を狙った泉小次郎親衡。信濃国を本拠とする親衡ですが、関東の居館とされる場所が横浜市泉区にあるのだ。それが、「泉小次郎親衡館」。中和田城とも呼ばれる城跡。といっても建物が残っているわけではなく、小高い台地があるのみ。そこは現在「泉中央公園」となっている。信濃国出身の泉小次郎親衡という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、戦略的にも決して有利な地と思えない和泉に出城を築いたこと、また木曽義仲の愛妾であった巴御前を、木曽に無事帰還させる道として立場を通る間道を確保したという伝承、また宝心寺の寺伝など、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうとのこと。民家横の畑の隅には美しく色付いたアジサイの花が。ユリの花も。白の「カサブランカ」であろうか。様々な色のアジサイを楽しみながら進む。そして「左馬神社」境内への石段を上って行った。そして正面に「左馬神社」の「一の鳥居」が姿を現した。 ・・・つづく・・・
2023.07.12
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30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」を楽しんだ後は、この日最後の目的地の大月市にある日本酒醸造所「笹一酒造」に向かって進む。山梨県甲州市塩山下萩原404付近。静岡県道218号線・大菩薩初鹿野線の左手前方にJR中央本線が見えた。「景徳院」交差点から国道20号・甲州街道に入る。「日川渓谷竜門峡 湯の沢峠 大菩薩峠 方面」案内板があった。「日川(ひかわ/ にっかわ)」に架かる「丸林橋」を渡る。「日川」は、山梨県の甲州市などを流れる一級河川。笛吹川の支流。大菩薩嶺(だいぼさつれい)付近に源流をもち、断層線に沿って花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)地帯を南に流れ、JR中央本線甲斐大和(かいやまと)付近に達し、西に流れを転じ、日川扇状地を形成、笛吹市一宮(いちのみや)町田中付近で笛吹川に合流する。流域は甲州(こうしゅう)市勝沼(かつぬま)町地区をはじめとするブドウの産地である。中流の田野(たの)から天目(てんもく)山にかけては武田勝頼(かつより)終焉(しゅうえん)の地として知られる。また嵯峨塩(さがしお)温泉、田野温泉などもあり、ハイキングコースとしても知られている。流路延長27.0km、流域面積108.3km2。「道の駅 甲斐大和」前を通過。山梨県甲州市大和町初鹿野2248。「ふれあい広場」周辺。そして国道20号・甲州街道の「新笹子トンネル」を通過。笹子峠を通る道路トンネルは、1938年に開通した山梨県道の笹子トンネル(笹子隧道、延長239m)、1958年に開通した国道20号の新笹子トンネル(2953m)、1977年に開通した中央道の笹子トンネル(下り4717m・上り4784m)がある。このうち国道の新笹子トンネルは、中央道とともに、クルマで笹子峠を通過する場合のルートとして機能している。中央自動車道・笹子トンネル事故2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしたのであった。そして国道20号・甲州街道沿いにあった日本酒醸造所「笹一酒造」に到着。山梨県大月市笹子町吉久保26番地。日本酒醸造所「笹一酒造」の係員の方がバスに乗り込み「笹一酒造」の説明を。笹一の笹は酒を意味し、一は酒の日本一を目指すという思いを込めて命名された。大正八年(一九一九年)から現在まで、笹一酒造の顔として使われ続けているマークは、『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。古来より神聖なものとされている八咫の鏡と酒を掛け合わせ、そして 大正八年の縁起の良い末広がりの〝八〟に因み、八咫の鏡をモチーフとして使用したとのこと。それは、草創期における酒の日本一たる笹一のこころを、八咫を後世に伝えたいという願いでもあるのだと。そして店内に。『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。「笹一」。「樽酒 笹一」。「笹一の祝酒」の「樽酒価格表」。「特選純米大吟醸 笹一」。純米大吟醸酒は、精米歩合50%以下の米を使用。「笹一 山廃純米大吟醸 甲州山田錦35山梨県産の特上認定された「純米の王様」山田錦を100%使用し、精米歩合35%まで磨き上げた、最上級の日本酒です。山梨県産山田錦を35%まで精米した米は、極上の透明感と、米の旨味、コクと酸味の絶妙なバランスをもたらします。「山梨の豊かな自然を日本酒として残したい」そんな想いが繋がって生まれた特別な日本酒です。山梨の雄大な自然から生み出される最高級の味わいをぜひ、体感してみてください。▶テイスティングコメント特上の山田錦で造った純米大吟醸酒は、繊細でありながらスッキリとした上品な味わいに仕上がっております。そして、上品な果実のような吟醸香も存分に楽しむことができます。山廃仕込みでじっくりと低温発酵で醸しておりますので、香りだけでなく、ふくらみある米の旨味長い余韻をバランスよく味わえます」。「にごりわいん笹一酒造が、1982年に販売スタートした“元祖”果実酒シリーズで、ブドウの果汁を発酵させる酵母をワインの中に残した“にごり”を愉しむワインです。アルコール度数も6%以下ながら濃厚な味わいで果実そのものを食べているかのような飲み口を味わえます。フルーティーで爽やかな甘味とフレッシュな酸味を感じられ、そのままはもちろん、氷を入れたり炭酸で割っても美味しくお召し上がりいただけます。」。2001年(平成13)、ギネスに認定される直径4.8mの世界最大の太鼓が置かれている建物のようであったがこの日は世界最大の太鼓の姿は無く・・。ネットから。ギネスに認定された直径4.8mの世界最大の太鼓。「笹一酒造」の店頭を振り返る。横の建物の脇にも歴史を感じさせる品々が展示されていた。「御前水」。「御前水ここにあふれ出ている水は昔から笹子峠に湧き出ているそのままの水です。江戸時代には多くの茶人たちが茶会のためにわざわざここまで水飛脚を立ててとり寄せたといわれる名水です。明治天皇が東京から京都へ行幸された際に道中で召しあがる「御前水」の水質調査が為され山梨県内の一つに選ばれた選ばれたことに由来して笹一酒造ではこの水を「御前水」と名付けました。現在でもこの天然水のミネラル成分を豊富に含んだおいしい水をお酒の仕込水として使用しています。どうぞ皆様方もこの昔ながらの笹子峠のおいしい湧き水をご賞味下さい。」巨大な釜と杉玉。「酒林(さかばやし)(杉玉)の由来元来は酒造りの神として知られる奈良の三輪神社の御神木である杉に由来したもので単に杉の葉を束ねた丈のものでした。後に球状にしつらえた杉玉となり造り酒屋の軒下に掲げられる様になりました。軒下の酒林が真新しい緑色のものに替る時が新酒が出来上がった証しです。良質の酒造りと神の御加護への祈りが込められた造り酒屋のお護りでもある神聖なものです。」「菰樽酒 笹一」。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。店の前を走るのが甲州街道・国道20号。そして店内での試飲も楽しみ、バスに戻り帰路へ。下を流れる「笹子川」を見ながら「甲州街道」を西に進む。若い頃、排水からの超純水製造プラントの納入でお世話になった現・「NECプラットフォームズ 大月事業所」を懐かしく見る。ズームして。NECは、昭和61年(1986)に光通信システム用デバイス専用工場であるNEC大月工場の操業を開始したのであった。私が現年齢の半分の歳であったのだ。「大月IC」から「中央自動車道」へ。「八王子JCT」に向けて進む。「上野原」を通過。「八王子JCT」で「圏央道」へ。「相模川」に架かる「新相模大橋」と「海老名」の街並みを見る。「圏央相模川橋」を渡る。車窓から「海老名運動公園」。そして東名高速道路に入り「海老名SA」でトイレ休憩。雨も止んで。SA内を散策。駐車場も満車に近く。多くの観光バスも並ぶ。そして予定時間より30分ほど早く到着できたののであった。今回も、富士山周辺にあった「東口本宮富士浅間神社」を訪ねたが、その他の富士山周辺の浅間神社を訪ねたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.11
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河口湖湖畔にあった「ふなつや」で昼食を済ませ、バスに戻る。バスは河口湖を左に見ながら、国道137号・御坂みちを反時計方向に進む。左手奥に「河口湖大橋」。再び雨がポツポツと。天気が良ければ、富士山の勇姿が見えてくる場所であったが。山梨県南都留郡富士河口湖町浅川127付近。「河口湖大橋」が近づいて来た。この付近が富士山のビューポイント。「河口湖大橋」からの静岡県道707号線と合流し、「河口湖大橋北」交差点を右折する。信号のポール上部には富士山の姿が。「追坂トンネル」、「谷坂トンネル」、「山宮トンネル」そして「新御坂トンネル」を通過。「新御坂トンネル」(延長2778m)は、甲府都市圏と富士北麓地域を連絡する国道137号にあり、昭和39年(1964年)工事に着手し、昭和42年(1967年)有料道路(平成6年11月から無料化)として整備されたもの。「新御坂トンネル」を過ぎると「河口湖町」から「笛吹市」へ。雨の下で新緑が美しかった。静岡県道34号線・白井甲州線に入る。笛吹市一宮町に入ると、車窓には「ぶどう畑」、「もも畑」が拡がっていた。左手に「見晴らし園」。桃の花が咲く時期は斜面一面がピンク色に染まる桃源郷として知られる笛吹市一宮町にある大規模な観光農園。6月下旬~8月中旬はもも狩り、7月下旬~11月下旬はぶどう狩り、10月中旬~11月下旬はりんご狩り、12月~5月はいちご狩りと1年を通してフルーツ狩りが楽しめる県内でも唯一の農園 と。シート屋根設置のための、巨大な鉄塔とワイヤーが設置されていた。北の「山梨市」方向の山々は雨雲に隠されて。「ぶどう畑」が広がる。「小沢葡萄園」。国道20号・勝沼バイパスからの山の斜面は一面のぶどう棚。「勝沼大橋」を渡り県道38号線・塩山勝沼線(旧甲州街道)に入る。そして「フルーツライン(東山東部広域農道)」を走る。左手奥に見えたのが「JR中央温泉 勝沼ぶどう郷駅」。山梨県甲州市勝沼町菱山。この付近から、大きなビニール屋根が施された果樹園が増えて来た。「さくらんぼ果樹園」であろう。甲府市塩山の街並みを見下ろす。「牛奥みはらしの丘」の見晴台にはベンチが。円山市内にはポツンと孤立した山の姿が。これが「塩ノ山」。「塩ノ山」はJR塩山駅北口から登山口まで徒歩で約15分、甲府盆地の東端にポツンと佇む低山で、甲州市のシンボルとして市民に親しまれているのだと。標高553m(山麓が標高約400mなので、山としての比高は約153m)、周囲約3.5km、周りが山などに囲まれていない平地にあり、ぐるっと一周まわることができる珍しい山。そのため「四方からよく見える山」「しほうのやま」から、「しおのやま」と名付けられた。地元の人は「えんざんやま」とも呼んでいると。“塩”の山ということで、「塩が取れるのでは!?」と思われているが、実際はとれないとのこと。また、山の南側にある向嶽寺の山号「塩山」として、「しお」に「塩」の字が充てられている。「塩山」という地名は、実は向嶽寺を指すものだったのであるとのこと。そして目的地の「さくらんぼ園」が近づいて来た。「歓迎 さくらんぼ」の幟も増えて来た。白いビニール屋根の下は全てさくらんぼ園。そしてバスを降り「さくらんぼ園」に向かう。説明を聞き、30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」のスタート。「さくらんぼ狩り」園では、サクランボ産地で有名な山形県で最高級品種とされている佐藤錦(さとうにしき)をはじめ、香夏錦(こうかにしき)、天香錦(てんこうにしき)、」高砂(たかさご)、そして南陽(なんよう)等々を栽培していた。こちらは「佐藤錦」。旅友の皆さんは会話もなく、ひたすらさくらんぼを口の中に。やはり、佐藤錦が一番の人気。100個を目標としたが、さすがに・・・・・。そして佐藤錦をお土産に2箱購入しバスに戻る。ブドウも収穫が間近か?「さくらんぼ狩り」、「ちぇり~ふぁ~む」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.10
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「冨士浅間神社」を後にして、「須走IC」から「東富士五湖道路」に入る。天気が良ければ、車窓から見事な富士山の勇姿が・・・。バスガイドさんが、「世界遺産になった富士山てどんな山なの?」を説明してくれた。「富士山はどのようにできたの?実は富士山は4つの火山から成っているといわれています。今から10万年以上前に小御岳火山が誕生し、その後、古富士火山、新富士火山の2世代にわたる噴火活動で、美しい円錐形をした現在の富士山ができあがりました。※最近の調査で、小御岳火山の地下に、より古い先小御岳火山があることが分かりました。」こちらはネットから。上の写真と異なり右側が北方向であるが。「富士山は数十万年もの間、噴火を繰り返し、1万年前にようやく今のような姿になりました。最初に「先小御岳(せんこみたけ)」という山ができ、その後に「小御岳(こみたけ)」と「愛鷹山(あしたかやま)」が、そして、10万年くらい前にこの2つの火山の間に、今の富士山のもとになる「古富士(こふじ)」ができました。古富士の火山活動は非常に活発で、大きく成長して小御岳を覆いこみ、1万年前には愛鷹山のふもとまですそ野が広がり今のような形になりました。4つの火山が積み重なっていることから、富士山は“4階建て構造”といわれています。」白樺林の中を走る。そして「道の駅 富士吉田」に立ち寄った。名物の「吉田のうどん」の看板。富士吉田市が誇る郷土料理・「吉田のうどん」の最大の特徴は、歯ごたえとコシがとても強い麺。力一杯練られた「吉田のうどん」は、噛めば噛むほど素材と出汁の旨みが口いっぱいに広がりとのことだが私には・・・・・・。「富士山レーダードーム館」が見えた。「道の駅 富士吉田」の「農産物直売所」。道の駅「富士吉田」の正面。その右側。店内に入る。山梨県内の道の駅でも最大規模の野菜売り場で新鮮で安価な野菜が売られていた。そして手作りのお菓子類も。隣の部屋は「観光案内所・富士吉田織物コーナー」。多くの観光パンフレットが置かれていた。「山梨100選 選定証 吉田のうどん」、「山梨100選 選定証 吉田の火祭り」。「富士登山 7/1山開き」。そして再び「富士山レーダードーム館」を。「富士山レーダードーム館」は、富士山レーダーの歴史や気象観測について楽しく学べる施設として2004年に開館。1964年に富士山頂へと設置され、1999年まで日本中の気象を観測してきた富士山レーダードームの実物を展示しているのだ。2022年に展示内容をフルリニューアルし、従来の富士山レーダーの歴史や気象観測に加えて、新たに気象観測をより身近に感じていただけるよう防災の内容を追加。ご来光やブリザードを体感できる「富士山頂寒さ体験」は風×映像×音で臨場感がアップした。富士山のふもとで富士山レーダーの歴史、気象観測・防災の世界を十分に楽しめる と。「道の駅「富士吉田」市の紹介富士吉田市を含も富士北麓地域は、富士山の大自然と富士五湖なと優れた観光資源の調和が図れ、地域全体では2,100万人以上もの観光客か訪れる日本有数の観光地となっています。富士吉田市は河口湖と山中湖とを結ぶ中間に位置し、富士北麓地域の観光拠点であり、富主山の登山口、富士山信仰の北ロ本宮富士浅間神社、富士山から市内を一望できるビューポイントで有名な新倉山浅間公園などの数々の観光名所があります。富士吉田市ホームページアドレスhttp://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/」道の駅について道の駅「富士吉田」は、富士吉田市の申請に基づき、国土交通省より、県内第12番目の「道の駅」として登録されました。(平成14年8月13日)「道の駅」は、一般道路て安心して利用できる道路利用者のための休憩施設て、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せ持つ個性豊かなサービスを提供するものてす。道の駅「富士吉田」は、富士吉田市が、トイレ・休憩所・食堂・売店・駐車場、を整備し、国土交通省が道路情報施設を整備しており、地域の特色を生かした休憩施設を形成しています。」「富士山のめぐみ」碑。この水は、富士山に降った雨や雪が、数十年の年月と大自然のしくみによって浄化され、伏流水となったものを地下百メートルからくみ上げたものです。尚、溶岩層によってろ過されたこの水は、多量のミネラル分等を含み、特に「バナジウム」の含有量が高く、まさに富士山のめぐみです。オートキャンプ場「オートキャンプFUJICHU」も道の駅の裏側にあった。「道の駅 富士吉田」を後にして、「スマートIC入口」交差点を左折する。「北口本宮冨士浅間神社」の鳥居を左側車窓から。「景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地の「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。これに従い大塚丘に鳥居が建てられ、加えて後の景行天皇50年には祠を建て浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。」とHPから。「造営の歴史」をHPから。機会があれば、ここも訪ねてみたいのである。「横町バイパス」を走り、右手に「富士急ハイランド」を見ながら走る。「スバルライン入口」交差点を右折し県道707号線・富士河口湖富士線に入り河口湖方面へ。走ってきた「横町バイパス」を下に見る。そして河口湖湖畔の駐車場に到着。残念ながら、雲が湖面近くまで降りて。そして昼食会場の「ふなつや」に向かう。 山梨県南都留郡富士河口湖町船津4041。1階が土産店、2~4階が団体客用の食事処になっていた。3階に案内され着席。この日の昼食は「すきやき御膳」。牛肉のすきやきであったが、他の一皿一皿の量がややこぶり。ビールを追加注文し、すきやきを楽しむ。昼食後は1階の土産物店を散策。精算する旅友が順番を待つ。駐車場に戻り湖岸から河口湖遊覧船乗り場を見る。駐車場には大型観光バスが並んでいた。「河口湖大橋」。「河口湖大橋」は湖畔の温泉街の渋滞解消を目的に1968年10月から工事が始まり、2年半後の1971年3月に完成し4月から利用が開始された。当時から2005年6月まで通行は有料で、南側の入口に料金所が設置されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。バスに向かって戻る。左手前方に「河口湖 富士山パノラマロープウェイ」👈リンク が見えた。標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅までロープウェイで上ることわずか3分。目の前には裾野まで見渡せる日本一の富士山と河口湖の大パノラマが広がります。ここ天上山は太宰治の名作「かちかち山」の舞台となった山といわれ、物語にちなんであちらこちらでキュートなタヌキとウサギがお出迎えしてくれます。小さなお子様から大人まで楽しめる絶景のフォトスポットです と。我が観光バス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.09
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「東口本宮 冨士浅間神社」の参道を「楼門」に向かって進む。「富士講狛犬」(右)。楼門前の前には、「富士塚」を模した岩の上に「狛犬」乗っていた。「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬で、非常に珍しいもの。「東京 麻布 三元講社」と。「富士講狛犬」(右)をズームして。「富士講狛犬」(左)。「富士講狛犬」(左)をズームして。谷底へ落とした我が子。試練を与えて這い上がってきた強者だけを育てる。父獅子「強くなりたくばココまで這い上がってくるのだ!」子獅子「とうちゃん…!」と。「楼門ニ階建ての随神門を特に楼門と呼び上層の周囲に高欄付きの縁を回らしている。御門の神様である櫛岩窓神(向かって右)・豊岩窓神(向かって左)が随神として配神されている。貞享ニ(一六八五)年、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。しかし、宝永の大噴火(一七〇七年)により社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。現在の楼門は、明和四(一七六七)年随神が寄進された当時のものと考えられる。」御門の神様である随神・櫛岩窓神(向かって右)随神・豊岩窓神(向かって左)。楼門の扁額「東口 本宮」。さらに「本殿」に向かって進む。右手に「神馬舎」。御神馬の白馬。「休憩所」。絵馬書き処と。内部。更に「本殿」に向かって進む。「末社・恵比須大国社」。境内末社の一社。御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、旧10月20に斎行する。「境内社祭神 事代主命(恵比寿さま) 大国主命(大黒さま)祭神は、七福神でおなじみの恵比寿・大黒様の2神で、福徳の神様です。社殿は、富士紡績株式会社(元・富士瓦斯紡績株式会社)小山工場の第1~第3工場の鎮守として、明治31年より、当神社の御分霊をお祭りされておりましたが、このたび諸種の事情により、当神社に寄進されたものです。」「内陣」。「本殿」前左側の池。「長壽亀石」。「長壽亀石古来、長壽の象徴とされる亀の形をした石。この亀石は当社氏子の家屋工事中に土中より発見されたもの。亀の甲羅によく似た形をしており、大変な吉兆物であるとし、当社に奉納された。以来、長壽亀石と名付けられ、健康長寿に肖ろう(あやかろう)との敬拝を受けている。」「末社・社護神社」当社の境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として境内に点在・御鎮座されていたが、現在は社護神社として合祀されている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。例祭は、毎年十五夜の日に斎行。 その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地域の高尾講により毎年12月1日に斎行する。そして「本殿」。扁額「冨士山東宮」。「境内末社この神社には、境内社として次の神社(神様)が祀られている。日枝神社 大山咋命 金山彦命 素戔鳴命 奥津彦命 奥津姫命山神社 大山祗命 火産霊命琴平神社 大物主命 水分命 水速賣命 市杵島姫命霧島神社 邇邇杵命高尾神社 穂見命社護神社 大己貴命 月讀命く由緒〉古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社かそれそれ祀られてきた。そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。その中て、社護神社は最も古く本社の鬼門除とされていた。また、氏子崇敬者の信仰篤く「おしゃこつぁん」と称えられ、親しまれていた。毎年仲秋名月の夜、神官によって祭典が執り行われている。」「小山町指定文化財(有形文化財・建造物)冨士浅間神社社殿」 平成十八年八月二十四日指定 所有者 東口本宮冨士浅間神社 静岡県駿東郡小山町須走一二六番地構造 木造・平屋・権現造り及び入り母屋造り 平面積 本殿 三二.一八一m2 幣殿 三五.八一九m2 拝殿 九五.七二八m2 寸法 奥行 二〇.一九六m 間口 一四.五八七m 高さ 九.五三三m特徴 冨士浅間神社は富士山登山道の浅間神社の一社であり、創建は大同ニ年(八〇七年)と伝えられています。宝永四年(一七〇七年)の宝永噴火では当社は三メートル以上の降砂に埋もれ、大被客を受けました。その後亨保三年(一七一八年)に再建された社殿が一部現在まで残存しています。通常、神社の社殿は本殿・幣殿・拝殿の三棟に分けられますが、本社ではこれらが一体化した権現造り様式となっています。手前から拝殿、奥が本殿、そしてこのニつを幣殿が繋いでこの社を形成しております。 平成十八年十二月 小山町教育委員会」御神木の根本には那智黒石の黒玉砂利が敷き詰められていた。木彫りの干支の動物が並んでいた。牛の彫刻には「コロナ アッカンベー」と。こちらにも。そして「本殿」脇を駐車場に向けて進む。ここにも様々な石碑が並んでいた。御神木。2本のご神木が並んでいた。「子授け夫婦杉と貫通岩」。「子授け夫婦杉と貫通岩貫通石奉納 中日本高速道路株式会社根が連なる杉は夫婦杉と呼ばれ、良縁・夫婦和合のご利益があるとされる。当社の夫婦杉は御祭神・木花咲耶姫命の御神徳・子授けと安産を象ったが如き膨らみがあり、これに肖る祈りの場として根本に祠を設ける。祠は貫通石から成り、この石は新東名高速道路・谷ケ山トンネル工事にて生じたもの。貫通石は、神話の一幕・神功皇后の段より安産を導く縁起物とされる。」権現造りの拝殿・幣殿・本殿を横から。本殿をズームして。本殿屋根の破風拝飾(はふおがみかざり)をズームして。新緑溢れる空間。御神木の間から。冨士山登頂「記念碑」。「明治天皇御製萬代の 國乃鎮めと 大空に あふ久は 冨士の 高嶺なりけり」様々な石碑がここにも。中央の石碑。和歌山県にある講社は八百九十九度も富士登山されたと。切りのいい九百回にしないところに深い意味がありそうな感じがするのであった。そして駐車場まで戻り再び「麻布山三元講 講碑群」の前から。数え切れないほどの石碑が並んでいた。幹が養生された樹の姿も。そしてバスに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.08
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そしてバスを下りて散策開始。雨がポツポツと落ちていた。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東口本宮 須走口登山道 冨士浅間神社 境内案内図」。「境内案内図」に近づいて。別の「境内案内図」をネットから。「浅間神社」内の史跡名一覧。「冨士浅間神社鎮座地 静岡県駿東郡小山町須走一二六御祭神 主祭神 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 相殿神 大己貴命(オオナムチノミコト) 彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)御由緒 平安時代初頭、桓武天皇の時代・廷歴ニ十一(八〇ニ)年富士山東脚が噴火した。当時の朝廷は 逃げ惑う住人のため冨士山面に位置するこの須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。 すると、同年四月初申の日に噴火が収まった。 この御神威を畏み、報賽するべく、平城天皇の時代大同ニ(八〇七)年に鎮火祭の跡地・現在の 御社殿の地に神様をお祀りしたことが、当社の創建と伝えられる。 江戸時代・宝永の噴火では、神社と街は約三メートルの降灰の被害を受けるが、冨士登山と 交通の要衝として幕府より手厚い支援の下、街を埋めた灰の上に街を復興させ、神社は村民に より灰が除去されて現在に至る。 明治時杙、逸早く自動車化が進んだ地域であり、登山安全と相まって、交通安全・道中守護と しても一層の崇敬を集める。 平成十九(ニ〇〇七)年には、御鎮座一ニ〇〇年を迎え、記念式典大祭を斎行。 平成二十五(ニ〇一三)年には、富士山の世界文化遺産登録に際し、その構成資産の一つとして 登録された。富士山信仰 霊峰・富士山は、古来より浅間大神が鎮座する神体山として、全国の登拝・修験者が最も 尊崇する山の一つてある。富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮とし、全国には 約一三〇〇社の浅間神社が鎮座する。 当社は、天正年間開道と伝えられる、かっての東ロ・いまの須走ロ登山道の起点として、 東ロ本宮と尊称される。 須走ロは、富士山項より真東に位置し、おおよそどの位置からでも御来光(日の出)を拝する ことが出来るのが特徴であり、須走の街からは朝陽て染まった縁起物の赤富士が見られる。境内末社(六社合祀) 日枝神社 高尾神社 山神社 霧島神社 琴平神社 社護神社 恵比須大国社(別祀)境外末社 須走ロ九合目鎮座・迎久須志之神社 須走ロ本六合目鎮座・胎内神社 須走ロ五合目鎮座・古御嶽神社 (御室浅間神社・雲霧神社合祀) 東富士演習場内鎮座・野中神社 (旧大日堂)祭礼神事 例大祭 五月五日 開山祭 七月一日 閉山祭 八月三十一日 紅葉祭 十一月上旬 「祈年祭・新嘗祭等の恒例祭」」「鎌倉往還」碑。「鎌倉往還(かまくらおうかん)鎌倉往還は、かつては 鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられたことが明らかにされています。かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま現在に至り、当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。当地の鎌倉往還は、まっすくに籠坂峠・御坂峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和へ向かうルートをとっています。このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。」「鎌倉往還」ルート図をネットから。「富士山付近の「鎌倉往還」は、鎌倉から相模(神奈川県)を通り足柄峠を越え、駿河(静岡県)に入って竹之下(小山町)に下り古沢(御殿場市)を通過して、須走(小山町)を登って籠坂峠を越えて甲斐(山梨県)に至る。名称に「鎌倉」と付いているため鎌倉時代に誕生した道のように思われがちだが、ルートそのものは古代から存在していた。人が自分の足で歩くしかなかった時代には、人の移動ルートつまり道は、地形によって制限されることが多かった。富士山周辺で見れば、(1)富士山とそれに連なる丹沢山地、(2)愛鷹山、(3)箱根の3つ山地は、移動するうえで制約になった。しかし、交易などのために内陸部と海(沿岸部)の間を移動する必要はあったため、困難な山越え(峠越え)を伴う移動がおこなわれてきた。甲斐から海に向かう道は古くから富士山と丹沢の山を越え、(現在の)小山町や御殿場市北部を通り、箱根北部の足柄峠を越えて相模に至るルートをとっていた。鎌倉往還のルートと重なる。つまり富士山周辺の鎌倉往還は、本質的には内陸と海を結ぶための道と言える」 と。「麻布山三元講 講碑群」。「麻布山三元講 講碑群江戸・麻布の町に栄えた山三元講は、江戸期の享和三年(一八〇三)山口左門が山吉講から分離独立させた富士講である。富士登拝には吉田口(北口)から登り、須走口(東口)へと下山し、須走を定宿とした。神門前の火山岩によって築かれた塚と一対の狛犬は昭和の初頭に山三元講の人々が築造し、奉納したものである。このように近年まで講と当社・須走との関わりは深い。同じ頃麻布永坂には富士塚か造られ頂上には当社より勧請された浅間社が祀られた。この富士塚は自然の傾斜地を利用して造られ、頂上部は富士山のクロボク(火山石)によって築かれている、浅間社の周囲には記念碑が次々と移され、また新たに造られた。この永坂富士塚も講の解散と共に解体され、昭和六十二年、大半の記念碑がこの地に移設された。これら講碑群は往時、栄えた講の姿を今に伝えている。※永坂富士塚の模型は当社、記念資料館に展示されている。」「麻布山三元講 講碑群」を見る。「裏鳥居」の石鳥居。他の神社では見られない「不二山」の扁額。二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山という意味 であると。写真右手に「富士浅間神社の根上りモミ」。近づいて。「小山町指定文化財 天然記念物 冨士浅間神社の根上りモミ一、所在地 駿東郡小山町須走一二七番地一、所有者 駿東郡小山町須走一二七番地 冨士浅間神社一、指定年月日 平成三年5月一日一、概要 根上り 四.六m 目通り 三.一m 樹高 二十七m 樹齢 約三〇〇年このモミは約一〇〇年間の降雨による火山灰土の流亡により根上りになったものと考えられます。国内でもとても希少であり、学術上価値が高いと言われています。また、モミの根上り群に寄生するブナ、イヌシデ等の樹木は、樹齢約一五〇年と伝わっています。 平成二十八年八月一日 小山町教育委員会」「冨士浅間神社の根上りモミ」を振り返る。「浅間縁結びの木宿り木(やどりぎ)というのは、普通他の樹木に寄生する木をいう。この結び木は、宿ったというよりもむしろ根がらみの状態で、もみの大木にぶな・かしがしっかりと結び合っている。その様は、男と女の結びつきを表象しているようである。当社の啣祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)様のご加護により、縁結び・安産・子育てのご幸運に恵まれるといわれている。」「東京 廿六夜」碑。「二十六夜講」とは、旧暦の1月と7月の26日の夜に月待をする講で、江戸時代に盛んに行われていたようです。「講」とは同一の信仰を持つグループのことで、ここでは「富士講」を指しています。「月待」とは、月の出を待ち、拝みながら酒を飲み交わすこと と。「富士講講碑群ここには、明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された記念碑が多く残されている。多くは、三十三度、六十六度など数多く富士登山が成就された事を感謝し、先進や講名を高く揚げ信仰の証とした。」江戸期後半から大正期にかけて隆盛した庶民信仰・富士講の各講社の登拝記念の石碑が並ぶ。記念として建立されたものや、講社の解散に伴い、講社の地元から移築・寄進されたものもある。尚、富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。当社の位置や当時の東海道本線(現・JR御殿場線)の交通の便から、東京・神奈川にかけての講から崇敬を集めていた。「浅間の杜 はるにれの木」境内西側・浅間の杜の中に繁るハルニレの木。ハルニレの木は境内に数本が繁るが、もともとは北海道や寒冷地に繁る樹木であり、温暖な気候にある静岡県には珍しい樹木である。推定樹齢400年の大木であることから、昭和38年に静岡県天然記念物に指定された。境内西側隣に接して通る鎌倉往還道からは背面を見ることが出来、半分近くが根上がりしている様子が伺える。「ハルニレ(春楡)」の木を見上げて。「伊藤? 四谷講社」と。都内四谷にあった富士講・四谷丸参伊藤講社か?「新進講記念碑 男爵若槻禮次郞書」と。「富士講と講社碑富士山は、昔から信仰の山として登拝され、修行の場であった。人穴て修行を重ねた長谷川角行(かくぎょう)は江戸に出て、富士の信仰を説いた。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)がさらに教えを広め、富士山七合五勺に入滅の後、江戸では「八百八講」といわれる程、富士講が盛んになった。須走は富士信仰登山の登山口として、古くから栄えてきた。須走浅間神社には、講の人達によって奉納された石碑や石燈寵が多く、その一つ一つから登山する道者(行者)達の息づかいが聞こえてくる。」「三十五回 登山記念 権大教正 金澤徳行翁」と。台座の岩には「安産講社」と。「浅間教會一世 贈大教正 川口源次郎之碑」。緑溢れる「浅間の杜」が続く。石燈籠の先にも石碑が。ズームして。そして「東口本宮 冨士浅間大社」の社務所へ。銘板「東口本宮 冨士浅間神社社務所 御鎮座千二百年 記念資料館」と。御朱印帳も販売されていた。御朱印を頂きました。「浅間神社」案内書も頂きました。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東ロ本宮・須走ロ登山道冨士浅間神社(静岡県駿東郡小山町須走一ニ六番地 鎮座)御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと)・ 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)由緒 大同ニ(八〇七)年、富士山の延暦ニ十一(八〇ニ)年の噴火に於ける鎮火祭跡地 (現在の社地)に創建。旧県社。 富士山登山道・東ロ=須走ロの本宮であり、起点となる。 須走ロ五合目・古御岳神社、六合目・胎内神社、九合目・迎久須志之神社は、 当社の境外末社である。 平成十九年には御鎮座千ニ百年の佳節を迎えた。 平成ニ十五年、世界文化遺産「富士山」構成資産に登録。主祭事 五月五日 例大祭 本殿祭・神幸祭(パレード) 七月一日~九月上旬 富士山須走ロ登山道開山等 関連祭典【不ニ山】・・・表烏居の不ニ山は、富士講の先達から寄贈された文字で、二つとない 素晴らしい山・富士山を意味する。」「太鼓橋」とその先右側には「道祖神」が。その先の参道には新緑のトンネルが。社号標石「縣社 冨士淺間神社」。左側にあったのが「信しげの滝」境内南、太鼓橋の左に位置する滝で、浅間の杜を走る水流が流れ出て滝となっている。名前の信しげの由来は不明。かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ないものである と。四季折々に違った景色を見ることが出来るとのこと。とくに冬場では、滝が凍り巨大な氷柱(つらら)を見れることがあるのだ と。再び太鼓橋を斜めから見る。石鳥居の扁額は「不二山」。「奉雷の杉」。見上げて。「奉雷の杉推定樹齢三五〇年で、境内の樹木で最も長寿の杉の一つ。平成三十年夏、この木か落雷を引き受けてくれた御蔭て、神社や地域に大きな被害を与えなかった。落雷による枯れか少ないことから、雷という圧倒的な偉力に抗ったのではなく、雷を奉り遵った=柔和に協和したと考えられ、奉雷の杉と呼ばれる。以来、その偉大さ・懐の深古に肖ろうと足を運ばれる方か多く見えられる。」鳥居のそばには、富士山噴火の際に飛んできた「火山弾」が。「富士山火山弾」。「富士山火山弾この火山弾は地中の岩奬(熔岩)が噴火のために空中へ吹き上げられ、落下の際に酸化・冷却して出来たものです。右の巨大なもの、左の形が整って大きいもの、いずれも大変貴重なものと言われています。」左手に「手水舎」。「龍口」を見る。「楼門」に向かって進む。ここにも「冨士浅間神社」案内板が。さらに「楼門」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.07
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この日は6月12日(月)、実兄に誘われて、「老人会」の懇親旅行に参加した。参加人数不足のために動員がかかったのであった。総勢44人で各地区の集合場所に集まった参加者を、バスが移動して拾って行ったのであった。これぞ「老人会」の旅行なのであった。参加者全員をバスに乗せ「秋葉台文化体育館前」を通過。そしてこの日も、小雨の降る中、「東名・綾瀬スマートIC」から「東名高速道路」へ。そして早くも「海老名SA(下り)」で最初のトイレ休憩。日本一混雑すると言われていた「海老名SA」。現在もそうなのであろうか? 下り方面では東名で最初のSAで、休日の利用者数は上下合わせて10万人を超えるとのこと。 それ自体が目的地となるSA・PAの先駆けともいえる「海老名SA(下り)」。「海老名SA(下り)」案内図。やはり、多くの観光バスが駐車していた。から揚げや肉巻きおにぎり、肉まんなど8店舗の屋台が並ぶテイクアウトコーナー「うまいもの横丁」。内部に入って見た。「レストラン・フードコート」。そして再び御殿場に向かって進む。神奈川県足柄上郡山北町谷ケの街並みを左手に見る。天気が良ければ、車窓左手前方に「富士山」の山頂下が見えるのであったがこの日は雨の為に・・・。左にカーブしながら「酒匂川」に架かる「酒匂川橋」を渡る。下を走る線路は「JR御殿場線」。「馬伏川橋」を渡り「東名足柄橋」を左手に見る。静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっている。よって、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっているのであった。「足柄SA」まで3kmと。左手奥の斜面には「HOTEL CLAD ホテル クラッド」。御殿場プレミアム・アウトレット敷地内の温泉リゾートホテル『HOTEL CLAD』。アウトレットでのショッピング、富士山の絶景、自家源泉の温泉と、休日を心ゆくまで楽しめるリゾートホテルとのこと。そして「御殿場IC」で東名高速道路を下りる。「御殿場バイパス」に入り「山中湖」方面に向かって進む。「御殿場市役所」が左手に。横壁には「市章」が掲げられていた。御殿場市の「市章」をネットから。GOTEMBAの頭文字Gを図案化。中央に富士山を、外枠に箱根外輪山を表現し、美しい自然に囲まれた御殿場の伸びゆく市勢と市民の協和を表現している と。「須走道路」を進む。左手に「加藤学園 御殿場キャンパス」。現在はキャンパスとしては使用されていないようだ。「富士ざくらホテル」。「須走道路」を走る。「道の駅 すばしり 2km」と。「道の駅 すばしり 500m」と。ズームして。 ・・・つづく・・・
2023.07.06
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「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を渡り「昭和通り」の反対側に向かう。階段を降りると、ここにも「汐留遺跡」の礎石が展示されていた。「間知石(けんちいし)と切り石(汐留遺跡)四角錐の形をした間知石と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものです。 東京都第一建設事務所」「間知石(けんちいし)」。「間知石」とは、土留めや石垣のような擁壁(ようへき)に使われる土木建築材料。花崗岩などの石材を約30cmの大きさで四角錐状に加工したもので、壁面が崩れないように横長になっています。ちなみに、間知石の名前の由来は6個並べるとちょうど1間(けん)分の180cmになるからと言われています。1間を知ることができる石ということ。「間知石」が放射線状に置かれていた。「汐留」の地名は、江戸城外堀と海を仕切る「土橋」に設けられていたため、ここからは海の水が外堀に入り込めない、つまり「汐が留まる」ことから付近の地名として使われるようになったもの。これは寛永年間(1624年~1644年)以後のことで、「汐留」の名は、近世とともに生まれたといえるのだ。反対側にあったのが「手水鉢」(汐留遺跡)。「手水鉢」(汐留遺跡)龍野藩(兵庫県)脇坂家上屋敷内、祠の参道から出土した手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」など、当時の屋敷内が偲ばれます。 東京都第一建設事務所」手水鉢に刻まれた「奉献・羽団扇紋・〇月吉〇」「現在地」はここ。銀座8丁目の花椿通りと昭和通りが交差する「銀座東七丁目」交差点角の「銀座三井ビルディング」の前。 東京都中央区銀座8丁目13。「東銀座」方面に「昭和通り」に沿って進む。アジサイの街路樹が美しかった。近づいて。「銀座東五丁目」交差点を右折。「J-POWER 電源開発 本店」。先程訪ね忘れた「佐久間象山塾跡」前にあった「狩野画塾跡」に再び。「狩野画塾跡所在地 中央区銀座五丁目十三番付近江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれもいずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とし、「鍛冶橋」、「木挽町」、「中橋」と「浜町(木挽町の分家)」の四家すべての拝領屋敷が区内にありました。木挽町狩野家の祖・狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召しだされ、竹川町(現在の銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。その後、六代典信(合は栄川、栄川院ほか)の時に老中・田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸西南角にあたる当地に移って画塾を開きました。奥絵師である狩野四家の中で、もっとも繁栄した木挽町狩野家は諸大名などからの制作画の依頼も億、門人が数多く集まりました。門人のほとんどは、諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四から十五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行後は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出されていますが、明治の近代日本画壇に大きく貢献した狩野芳崖や橋本雅邦などは、ともに木挽町狩野家十代・雅信の門下生です。 令和三年七月 中央区教育委員会」「安永年中之形」『幕府内沿革図書』そして次に訪ねたのが「森田座跡」。「日本橋芝浦大森線」を進むと自転車のある場所に「案内板」。東京都中央区銀座6丁目14。「森田座跡江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居小屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人)が居たことによるようです。森田座は、万治3年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町、葺屋町(現中央区日本橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座の中村座、市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政5年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治5年(1872)、現中央区の新富に移り、同8年に「新富座」と改称しました。以後、明治12年の興行失敗から、同30年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治30年新富座に復名、同42年には松竹合名会社に買収され、大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。平成13年、ここから約1km北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成17年4月に中央区民文化財として登録されています。平成25年3月 中央区教育委員会」「森田座跡」(中央区立郷上天文館所蔵)木挽町「森田座」の様子(寛政年間)。そして「中京430号線」を進む。「花椿通り」沿いにあった「熊谷稲荷神社」。中央区銀座7丁目12−9。正面から。熊谷稲荷神社は、中央区銀座にある稲荷神社。熊谷稲荷神社は、源平合戦で活躍した熊谷次郎直実が熊谷へ帰郷する際、当地の里人に請われて護符を授与、里人が祀ったといいます。江戸期には当地(木挽町6丁目)の鎮守として信仰を受け、現在は崇敬会で護持しているそうです。扁額「熊谷稲荷神社」。そしてこの日の、高校時代の友人との食事会開場のあるビル・「大栄会館ビル」に到着。「スペインクラブ銀座」入口。スペイン全土を巡り、スペインワインはじめ、生ハムイベリコ豚の精肉、オリーブオイル、ナバラ産アスパラガスなど選りすぐりのスペイングルメを取り揃えていると。直径50cmの大鍋で炊く特大パエリアはお店の名物メニューとして大人気 と。5人で、久しぶりに近況、体調、同級生の近況等をワイン片手に大いに語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.05
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「采女橋公園」交差点の角にあった「中央区立築地川采女橋公園」に立ち寄る。「中央区立築地川采女橋公園」碑。采女橋と新橋演舞場の間にある公園で、色々な形の無数の置石がランダム?に配置されていた。道路沿いには石碑が。「采女橋」の碑。「采女橋このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。区では平成2年度に、幻のホテル”築地ホテル館”(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。橋梁の諸元形式 2径間鉄筋コンクリートアーチ橋橋長 42.0m有効幅員 15.0m(車道9.0m 歩道3.0m×2)着工 昭和4年9月竣工 昭和5年10月施行者 東京市 平成3年3月 東京都中央区」。 「采女橋」を歩く。高欄部分の模様は、”築地ホテル館”(明治元年、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治五年に焼失)と”銀座の柳”を題材にしたデザインとのこと。ズームして。”銀座の柳”と”築地ホテル館”。日本の本格的ホテルの第一号「築地ホテル館」の写真をネットから。横浜で洋風建築の技術を学んだ二代清水喜助が、江戸で最初に手がけた大事業が、外国人のための宿泊および交易場として築地居留地に建てられた本格的洋風ホテル、築地ホテル館でした。二代喜助は施主の幕府に願い出て、資金調達と建設、竣工後の経営までを請け負いました。建設中、明治維新による施主交代がありながらも、延床面積約1600坪の大建築を約13ヶ月の短期間で施工し、慶應4(1868)年に完成させたのだと。子供用の遊具などはなく、ちょっと不思議な雰囲気の公園。「築地川采女橋公園」の手前のビル「銀座六丁目スクェアー」の植栽にあった石碑。東京都中央区銀座6丁目17(元日産自動車本社・現読売新聞社)。近づいて。「東京商工会議所発祥の地明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年(1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。昭和53年(1978年)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。 東京商工会議所会頭 永野重雄」「30m先に新橋演舞場」と。そして「銀中通り」を進むと角には「新橋演舞場」と。「新橋演舞場」の前の道路は「演舞場通り」。「新橋演舞場」。新橋演舞場の新築開場は1925(大正14)年4月のこと。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(新橋花柳界の重鎮で、置屋森川家主人)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源。東京都中央区銀座6丁目18−2。「新橋演舞場」。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。1940(昭和15)年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。 そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのだと。「新橋演舞場公演のご案内」。新橋演舞場シリーズ第9弾!!「東京喜劇熱海五郎一座~クセ強オンナと時をかけない男たち~」日程 2023年5月31日(水)~6月25日(日)ネットから。作:吉高寿男 出演・構成・演出:三宅裕司出演:渡辺正行 ラサール石井 小食久寛 春風亭昇太 東 貴博・(交互出演) 深沢邦之(交互出演) 劇団スーパー・エキセントリック・シアター 檀れい 玉井詩織(ももいろクローバーZ)新作歌舞伎 「刀剣乱舞」月刀剣縁桐2023年7月2日(日)~27日(木)三日月宗近 :尾上 松也足利義輝/小狐丸 :尾上 右近第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。1948(昭和23)年に復興されたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなった。そこで1982(昭和57)年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場なのである。銀座の柳と新橋演舞場。「銀座の柳昭和初期、震災復興事業の一環として、銀座に柳が植えられました。信州安曇野から運ばれた若木は、すくすくと生長し、銀座の街並みに美しく映え、歌にも歌われる程愛着をもたれるようになりました。しかし、震災や近年の道路整備などで、その姿も消え、今では往時を偲ぶよすがもありません。中央区では、柳を「区の木」に制定し、区内各所に植えていますが、この度、長野県穂高町の御好意により、当時と同じ安曇野地方産出の柳を寄付していただきました。そこで緑美しい銀座の再現を願ってこの地に植栽するものであります。 昭和62年10月5日 中央区役所」右手奥の駐車場入り口の脇に設置された「2つの石碑」。沢田正二郎歌碑「藝即魂何処かで 囃子の声す 耳の患」と。「曾我廼家五郎句碑大阪の喜劇役者で東京に進出したときの感慨を歌にしたもの。帝都進出三十周年記念 「むさし野や 三十年は 泣き笑ひ」。そして「演舞場稲荷大明神江戸時代享保年間、松平周防守の下屋敷跡で歌舞伎名狂言「鏡山旧錦絵」で有名な「尾上の井戸」と並びー名「お初稲荷」と称されている。」「演舞場稲荷大明神」を正面から。扁額「演舞場稲荷大明神」。社殿に近づいて。幟「奉納 演舞場稲荷大明神」と。「新橋演舞場」を後にして次に訪ねたのが「みゆき通り」沿いにあった「佐久間象山塾跡所在地 中央区銀座六丁目十五番地域この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。平成二十二年三月 中央区教育委員会」道を引き返し「銀座中学校入口」交差点を通過。「銀中通り」を進むと左手にあったのが「中央区立銀座中学校」。昭和59年4月に中央区立第一中学校と第二中学校の統合により開校しました。 校章は、東京都の象徴「いちょう」と銀座の象徴「柳」を組み合わせたものです。三枚の葉は生徒・教職員・保護者を表し、三者の協力でより良い学校を築く意気込みを表しています と。「都道316号線・昭和通り」を東銀座方面に歩く。前方に「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」が現れた。「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」の下にあったのが「汐留遺跡(建物の礎石)」。「建物の礎石(汐留遺跡)丸い礎石は、仙台藩(宮城県)伊達家上家敷御殿の土台として使われていたもので、当時の御殿の大きさが偲ばれます。 東京都第一建設事務所」。「中央市場通り」方向を見る。「昭和通り銀座歩道橋(ときめき橋)」を見上げて。昭和通りの銀座7・8丁目に架かる「銀座歩道橋」。道路を単純に横切るだけでなく対面へ斜めに渡ることもできるX字型の便利な歩道橋。明治期に新橋と花柳街をつなぐ男女逢瀬の橋として賑わったゆかりの地にちなんで、「ときめき橋」とも名付けられていてエレベータは元よりエスカレータも付いていた。「建物の礎石(汐留遺跡)平らに加工された礎石は江戸時代上屋敷の柱の土台として使われ、正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴です。 東京都第一建設事務所」正方形の穴は、柱を中央に固定するためのほぞ穴。小さな礎石も並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.04
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「三吉橋」上から「首都高速都心環状線」の「銀座料金所」方向を見る。横断歩道の先に石碑が確認できた。「三吉橋」の碑。東京都中央区銀座1丁目28−11。近づいて。「三吉橋この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三叉の橋が架けられました。ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。区では、平成4・5年にわたり、高欄には水辺に映える木立の姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。 平成5年8月 東京都中央区橋梁の諸元形式 三股型単純銅板桁橋橋長 23.98 × 3有効幅員 15m(車道9.0m・歩道3.0m ×2)建設年次 昭和4年12月 復興局施行」当時の「築地川」に架かる橋。『四人は東銀座の一丁目と二丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街燈のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍しい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。鈴蘭燈のひとつひとつが、四つの燈火を吊しているのに、その凡てが灯っているわけではない。月に照らされて灯っていない灯の丸い磨硝子の覆いが、まっ白に見える。そして灯のまわりには、あまたの羽虫が音もなく群がっている。川水は月のために擾されている。』 (三島由紀夫「橋づくし」)」次に訪ねたのが「当時の「築地川」に架かる橋」にもあった「築地橋」そしてさらに南下すると右手にあったのが「築地小劇場跡」。現在はみずほ銀行の敷地の一部、水道ポンプのレンガ積みの建物の壁面にレリーフと解説版が飾られていた。東京都中央区築地2丁目12−3。「築地小劇場跡1924~1945「 碑文 里見弴 筆 大正末から昭和にかけ、新劇の本據として 大いにその發展に寄與した。戦災で焼失。」と刻まれていた。「築地小劇場所在地 東京都中央区築地二丁目十一番十七号演劇研究のためヨーロッパに留学中の土方與志は、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災の知らせを聞いて、急きょ帰国、小山内薫に計り、日本新劇の実験劇場をつくることを決意しました。そして、劇団「築地小劇場」を結成し、大正十三六月十三日、築地の地に私財を投じて、劇場「築地小劇場」を開場しました。建物は一階建、ゴチック・ロマネスク様式で、定員四六八名の照明・音響に工夫をこらした劇場でした。初演はゲーリング作「海戦(演出・上方與志、装置・吉田謙吉)で、開場初期には西洋演劇を精力的に上演、やがて日本人作家の演目も加え、日本新劇の基礎を築くとともに、多くの名優を輩出しました。劇団「築地小劇場」は昭和四年(一九二九)に分裂しましたが、劇場はその後さまざまな劇団によって活用されました。昭和十六年には劇場名を「国民新劇場」と改称するにいたりましたが、昭和二十年三月十日の東京大空襲で損失するまで新劇の灯をともし続けました。「当時の築地小劇場 前景写真の建物は昭和3年(1928)に区画整理のため西側に移動し改築されたもの」「中央区立京橋築地小学校」前を通過。カラフルな「WILLER TOKYO Restaurant Bus」1階に料理が作れるキッチンが配備された2階建てバスで本格的な食事を楽しみながら、点在する観光スポットや魅力的な風景をつなぐバス。天井が開閉式の透明の屋根になっている2階は、25人が着席できる座席とテーブルを用意。暖かな天気の良い日にはオープントップで開放的な景色を楽しめるのだと。バスの上階から見る特別な景色と、地域や季節ごとに変わる旬の食事を堪能出来るのだと。「東京都立京橋築地小学校」の小学生の像。作者、タイトルなどは不詳。東京都中央区築地2丁目12−15。横断歩道の先の築地えとビルの角にも彫刻作品?が。「カリヨンと干支方位盤(かりよんとせんしほういばん)」と。内部にベルが9個仕込んであったので、カリヨン。東京都中央区築地1丁目12−6 築地えとビル。近づいて。築地えとビルの壁面はビル名のとおり、干支のレリーフで飾られていた。これは籔内佐斗司によるものとのこと。「干支の方位盤」もあり、卯がちょうど東(E)の方向にあたることを再確認。時刻だったら卯は午前6時に相当するということで、少しばかり江戸時代を生きたような気分に浸ったのであった。平成通りを進むと左手にあったのが「桂川甫周(かつらがわほしゅう)屋敷跡」案内板。東京都中央区築地1丁目10−3。「桂川甫周屋敷跡所在地 中央区築地一丁目一〇番地域蘭方医桂川家は、初代甫築(一六六一~一七四七)が六代将軍徳川家宣に仕えて以来、代々幕府の奥医師をつとめ、多くが法眼(ほうげん)に叙せられています。この地域には、甫築が正徳元年(一七一一年)に拝領して以降、幕末まで桂川家の屋敷がありました。四代甫周(一七五四?~一八〇九)は、名を国瑞(くにあきら)といい、桂川家歴代のなかでも特に広く知られています。杉田玄白や前野良沢らに蘭学を学び、若くして『解体新書』の翻訳事業に参加しました。また、寛政六年(一七九四年)には幕府医学館教授となるなど、幕府にも重んじられていました。西洋事情にも造詣が深く、安永元年(一七七二年)からは、江戸に参府したオランダ商館長一行と毎回対談するなど、その海外知識を大いに広めました。また、ロシア使節ラクスマンが送還してきた漂民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らを尋問し、『漂民御覧之記(ひょうみんごらんのき)』や『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』などを著しています。この他にも、多くの翻訳・著作があり、江戸蘭学の興隆に大きく寄与しました。 平成十七年三月 中央区教育委員会」尾張屋清七板「京橋南築地鉄炮洲絵図」(部分)。ザイマックスアルファ前にあった「波除獅子」。流政之の作品。名称は、築地を守護する波除稲荷神社に由来するものだとか。東京都中央区築地1丁目13−10。「コンワビル」手前右側にも石碑があった。「活字發祥の碑」。東京都中央区築地1丁目12−22。「活字發祥の碑👈リンク明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった」昭和四十六年(一九七一)六月 建設されたものと。そして「万年橋東」交差点を渡る。右手に「萬年橋」。東京都中央区築地4丁目1。左側には「中央区立築地川銀座公園」。道路脇にあり、真下には首都高速都心環状線が通っているという、ちょっと不思議な立地にあるこの公園。かつて公園の下には「築地川」という川が流れていた。1964年の東京オリンピック開催を契機に、築地川は埋め立てられ首都高が整備され、その際にこの「築地川銀座公園」も設けられた。今も架かる「万年橋」、そしてこの公園の名称が、その名残を伝えているのであった。引き返して、「万年橋東」交差点を渡ると目の前にあったのが「東劇」。東京都中央区築地4丁目1−1 東劇ビル 3階。2023年10月、11月に、全国の映画館で上映される「坂東玉三郎 泉鏡花抄4作品」のポスター。ネットから。「METライブビューイング 2022-23」ポスター。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(通称:MET)で上演される世界最高峰のオペラを、日本全国の映画館で上映し、ここ東劇でもと。「萬年橋」の反対側の「築地川銀座公園」に向かう。「萬年橋」。「中央区立築地川銀座公園」碑がここにも。入口にあったのが「名犬チロリ記念碑」、製作:堤 直美。東京都中央区築地1丁目13。「名誉セラピードッグ認定1号犬名犬チロリ記念碑捨て犬チロリは、子犬たちと共に殺生処分寸前を助けられ、後にセラビードッグ(動物介在療法)の代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に大きく貢献しました。その無償の愛情を捧げる姿は人々に生きる勇気と病気回復への希望を与えました。この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響をもたらせました。 ありがとうチロリ.......2006.3.16永眠 国際セラピードッグ協会 大木トオルPh.D」チロリとそれを取り囲む子犬達4匹の像。台座の裏側「名犬チロリ記念碑」。その奥にあったのが「月を呼ぶ」。「月を呼ぶ 佛子泰夫作」と。「中央区立築地川銀座公園」の奥には様々な花の植栽が案内板付きで。「名犬チロリ記念碑」、「月を呼ぶ」を振り返って。そして再び「万年橋東」交差点を渡る。「東劇ビル」を振り返る。「銀中通り」を進むと左手前方に現れたのが「采女橋」。「采女橋公園前」交差点。右手が「みゆき通り」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.03
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そして次に「木挽町通り」沿いにあった「宝珠稲荷神社」。東京都中央区銀座3丁目14−15。左側が「社務所」であっただろうか?社号標石「宝珠稲荷神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。朱の鳥居の先に社殿が。「宝珠稲荷神社の由来宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝(ふこうず)の領主板倉内膳匠(ないぜんのかみ:内膳正とも)重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり。内膳匠重昌は京都所司代及び江戸町奉行として令名高かりし板倉勝重の次男として1588年後陽成天皇(ごようぜいてんのう:第107代)の御代天正13年の頃の生れである。重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍令として鎭台を務めたるも不幸にして島原の乱に於いて年令50才にして戦死したるものなり。時の将軍は家光であり第110代後光明天皇(ごこうみょうてんのう)の御代である。内膳匠の兄周防の守重宗は下総の国関宿の城主なり。年経て1760年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり。明治の維新に於ける亀井滋玄の功績は大鼓稲荷と共に有名なり。更に大正7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町(こびきちょう)3丁目氏子に寄進せられ1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及び社務所を建設して今日に至るものなり。 一九七二年五月 宗教法人 宝珠稲荷神社 東京都中央区銀座3丁目東町会」。社殿に近づいて。「疫病退散祈願」と。コロナ禍で新たに設置されたものか?スリムなお狐さん(右)は鍵を咥えて。商売繁盛の稲荷は蔵の鍵を咥えていることが多いのだ。お狐さん(左)は珠を咥えて。稲荷の神(宇迦之御魂神)の魂だと云われ、限りなく財宝を生み出すとされる。扁額「寶珠稲荷神社」。「木挽町通り」を更に進むと左手にあったのが「地ビール 八蛮(はちばん) 銀座本店」。銀座生まれの八蛮クラフトビールが飲める店と。東京都中央区銀座2-14-9 GFビル1階。「銀座 麦酒醸造所」と。その先にあったのが「塩パン屋 pain・maison(パン・メゾン)」。ネットには「TVで取り上げられて更に並びが長くなりました」と。東京都中央区銀座2丁目14−5 Twg銀座イースト 1階突き当りを右に折れ、その先を左に入ると右側にあったのが「安平神社」。ほっそりした真っ赤な鳥居の脇には狛犬があり、その奥に小さな社殿が。両サイドには木々が植えられており参道も狭く、無意識にかがみこんで参拝するようなミニチュアサイズの造り。朱の鳥居に扁額「安平神社」。ビルの隙間にひっそりと残る神社であった。江戸時代に、新庄美濃守(しんじょうみののかみ)の屋敷があり、屋敷神として祀られた稲荷神社。明治時代には、万安樓(まんやすろう)という料亭が創業し、その敷地内で安平神社として祀られたと。現在は、万安樓があった敷地に「銀座タワー」が竣工し、その片隅に「安平神社」が残されていた。境内に由緒は無く、ご利益等詳細は不明であったが。狭いながらも砂利を敷いた境内を持つ「安平神社」。社殿に近づいて。小さいながら、見事な彫刻が施されていた。石灯籠と狛犬(右)。石灯籠と狛犬(左)。後方に「銀座タワー」。25階地下2階建の高層マンション。東京都中央区銀座1丁目22−1。「公開空地この広場及び通路は、建築基準法に基づく総合設計制度により設けられた公開空地で、歩行者が日常自由に通行又は利用できるものです。 平成15年8月」敷地内に公開空地を設けることなどによって「市街地の環境の整備改善に資する」と認められる場合に、容積率制限や各種の高さ制限(道路斜線、隣地斜線、北側斜線、絶対高さ)を緩和する規定である。公開空地の先駆けとされるのが、1970年代に日本初の超高層ビル街として東京・西新宿エリアで建設されたそれぞれのビルに取り入れられたものだ。1974年に竣工した地上55階建ての「新宿三井ビルディング」には「55HIROBA(55広場)」と名付けられた空間があり、普段はテーブルやベンチが置かれているほか、定期的にコンサートや地域の催しなどが開かれていたのであった。別の角度から「銀座タワー」を見上げて。次に訪ねたのが「中央区立京橋公園」。東京都中央区銀座1丁目25−2。緑豊かな園内には人の姿はなし。「くつをぬいでご使用ください」と。「健康こみち踏んで歩いて、イキイキ健康!歩く前に必ずお読みください。」「足ツボ刺激の道」!!そして「蜊河岸(あさりかし)」の案内板を見つけた。現在日本で「あさり・アサリ」の漢字として利用されるのは魚へんの「鯏」が一般的。ネットで調べてみると、「鯏」の前に使われていたのは「蜊」であったとのこと。『本朝食鑑』(江戸時代)にはすでに浅蜊という漢字表記が記されているのだと。基本的に貝類の漢字は虫偏で作られることが多い。「蛤」(はまぐり)「蜆」(しじみ)「蚫」(あわひ) など有名な貝類にもよく虫偏がつけられている。あさりの場合は食感のはきれがよいということで虫へんに利の漢字がつけられた。「食感のはきれがよいということで虫へん」・・・・???別のネットには「現在「虫」と言っているものは本来は「蟲」と書いていました。これは、昆虫類などは、石をめくったり、木の皮をはいだりすると、その下に無数に集まっていることから、「虫」という字を3つ重ねて書かれるようになりました。現在の「虫」は「蟲」の略字体です。さて、「はまぐり(蛤)」は現在では「貝」類に分類されますが、古代中国では、「人でもけものでも鳥でも魚でもない」ことから「虫」に分類されていました。そのため、「虫」偏を用いて書かれているのです。」こちらの方が解りやすいのであった。「蜊河岸(あさりかし)所在地 中央区銀座一丁目二五~二七番地域かつて、この地より北側の新富一丁目一番・銀座一丁目二六番付近では、北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差していました。それぞれの川筋には、弾正橋・白魚橋・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから、この付近は「三つ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、江戸時代以来、三つ橋付近の河岸地の里俗名でしたが、明治十三年(一八八〇)に公布された東京府達によって、三十間堀に架かる真福寺橋から月慈方面へと南に延びる東岸の河岸地の正式名称となりました。江戸時代後期には、江戸三代道場のひとつ、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の剣客桃井春蔵 の「士学館」がおかれ、嘉永六年(一八五三)再版の『近江屋板切絵図』には、蜊河岸の南端に、「桃井春蔵」の名を確認することができます。平成二十年三月 中央区教育委員会」北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差。園内には銀杏の樹が多かった。「京橋公園のすべり台京橋公園は震災復興 のときに整備された公園であり、コンクリート製すべり台は当時の面影を残すものとして、長い間公園利用者の皆様に親しまれてきました。しかし、このコンクリート製すべり台は、すべり面の側壁が低いなど現在の「遊具の安全に関する基準」をみたしておらず、またコンクリートの老朽化が進んでいたことから、撤去することとなりました。 平成23年8月 中央区 環境土木部 水とみどりの課」これが、以前のコンクリートすべり台(ネットから)。現在のすべり台はプラスチック製になっていたが、なぜか使用禁止になっていた。そして公園の東側にあった「新富橋(しんとみはし)」を渡る。「ばし」と濁らず「はし」?橋名板に濁点がないのにはある願いが込められているとのこと。「川が濁らないよう濁点をつけないという通説がある」のだと。県によっては橋名板は「○○はし」に統一すると文書で決められていると。全国の橋名板の中には「○○ばし」となっている所もあり、地域で運用は違うようではあるが。橋の下の道路は「首都高速都心環状線」と「京橋料金所」。「新富橋」を渡り終えた左側にあった五重塔。「新富橋」交差点。その角にも小さな神社が鎮座。東京都中央区新富1丁目4−8。「新富復興稲荷社」。颯川新富橋公園近く、新富橋のたもとにひっそりと建てられていた。新しいように見えますが、以前は数メートル北側にあり、小さいながら鳥居もあったと。昭和7 ~ 11年の火保図にはそれらしき神社があることからも、関東大震災の復興に伴って建てられたのだと。交差点の向かいには和装雑貨の老舗「大野屋総本店」もあった。「三吉橋」に向かって南に進む。横断歩道を渡る。「三吉橋」と。関東大震災の復興事業の一環として、1929年(昭和4年) 12月に架橋されている。当時ここには築地川が流れ、川筋を荷を運ふ船や屋形船が行く交い、川を中心に人々の生活が営まれる情緒ある風景があった。高度成長とともに川は埋立てられ高速道路が通り、今では陸橋となっている。Y字型の三又橋。東京都中央区1。「三吉橋」の特徴の一つは、橋を上空から見るとY字型の三つ又になっていることで、銀座方面から、「三吉橋」を渡ると、中央付近から左右に分かれ、左は新富町へ、右へ進むと中央区役所前を通り築地へと繋がっている。そして橋の袂にあったのが「東京都中央区役所」。女性像の「平和像 「ニコラ」」。平和都市宣言を記念して、平和を願う区民のシンボルとして制作した と。近づいて。「壁面緑化 温度測定中」と。「壁面緑化による効果を「見える化」するため、温度センサーを設置しています。測定場所は図のA.Bで壁面の温度をリアルタイムで表しています。」この時は23.4℃と29.1℃と5.7℃の効果を示していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.02
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この日は6月10日(土)、高校時代のクラス仲間から久しぶりに都内で会って昼飯を食おうという事になり参加することに。早めに行き、東銀座周辺の散策を決意し早めに家を出る。小田急線、千代田線、日比谷線を乗り継いで東銀座駅に到着。まずは「歌舞伎座」を訪ねることにした。最初に歌舞伎座の地下2Fにある「木挽町広場(こびきちょうひろば)」を訪ねた。「木挽町広場」には、まるで縁日の時の露店さながらに歌舞伎座の土産屋、茶屋、弁当屋などがひしめき合っていた。江戸情緒感じるグッズ、歌舞伎公演中生写真、東京土産、和雑貨品、江戸時代地図、歌舞伎座ポスターなどが豊富に揃っていた。巨大な「歌舞伎座」と書かれた提灯。珍しい商品を探しながら見て廻るのが楽しかったのであった。歌舞伎座雰囲気を肌で感じる事ができ、提灯が連なっているので和の雰囲気を味わうことができたのであった。天正18 年創業 歴史深い扇子の老舗「伊場仙」。「歌舞伎座切符売り場」。営業時間は10:00~と。時間は9:30。歌舞伎座の6月、7月、8月公演のポスター。「歌舞伎座6月公演」。夜の部の「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」主演・「いがみの権太」役の「片岡仁左衛門」。「六月大歌舞伎昼の部 近松門左衛門 作 石川耕士 監修 市川猿翁 補綴・演出 三代猿之助四十八撰の内 一、傾城反魂香(けいせいはんごんこう) 土佐将監閑居 浮世又平住家 「戯場花名画彩色」(かぶきのはなめいがのいろどり) 〈土佐将監閑居〉 浮世又平後に土佐又平光起 中車 又平女房おとく 壱太郎 ※ 狩野雅楽之助 歌昇 土佐修理之助 團子 女中お百 寿猿 土佐将監光信 歌六 〈浮世又平住家〉 土佐又平光起 中車 又平女房おとく 壱太郎 ※ 大津絵の鯰 新悟 銀杏の前 米吉 饗庭太郎 男寅 小幡次郎 中村福之助 醍醐三郎 玉太郎 蒲生四郎 歌之助 大津絵の奴 青虎 大津絵の藤娘 笑也 大津絵の座頭 猿弥 不破伴左衛門 男女蔵※市川猿之助休演につき、配役変更にて上演いたします」 河竹黙阿弥 作二、児雷也(じらいや) 児雷也実は尾形弘行 芝翫 山賊夜叉五郎 松緑 高砂勇美之助 橋之助 仙素道人 松江 妖婦越路実は綱手 孝太郎三、扇獅子(おうぎじし) 芸者 福助 同 壱太郎 同 新悟 同 種之助 同 米吉 同 児太郎夜の部 義経千本桜」 エスカレータに乘り地上へ。「歌舞伎座」を見るのは、何十年ぶりであろうか?「歌舞伎座新開場十周年六月大歌舞伎令和5年6月3日(土)初日 25日(日)千穐楽昼の部 三代猿之助四十八撰の内傾城反魂香昼の部二、児雷也昼の部三、扇獅子」「歌舞伎座」正面を見る。歌舞伎座の外観は意匠設計・隈研吾低層で和風桃山様式を採用。4階建て全1,964席で通常の1等席~3等席以外に桟敷席と一幕見席を配置。高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」(高さ145メートル、軒高135メートル。地下4階地上29階建て)と地下広場「木挽町広場」を併設。歌舞伎座タワーは5階のみ一般に開放。タワー5階と木挽町広場は劇場外という扱いなので、チケットなしで出入りできる。タワー5階には歌舞伎に使用する衣装や小道具等が展示されている歌舞伎座ギャラリー(有料)、第4期歌舞伎座の瓦や河竹黙阿弥の石燈籠等が展示されている屋上庭園(無料)等がある。ダイナミックな玄関の唐破風(からはふ)を見る。唐破風の装飾に用いられている金色の飾り金物は第四期の建物で使われていたものを再利用。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」。「鳳凰丸」は歌舞伎座の創設者の一人、福地桜痴が、新築した自宅の釘かくしに用いたこの紋をいたく気に入り歌舞伎座の紋に採用したのだと。 「鳳凰丸」の原形となったのは法隆寺の宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃(ほうおうえんもんらでんからひつ)」に使われた紋様。正面玄関の紫の幕に白く染め抜かれ、いつもお客様を出迎えてくれるのだと。この他歌舞伎座内には提灯・座席・瓦などいたるところに「鳳凰丸」が描かれているとのこと。 左右対称の破風大屋根を見上げて。唐破風(からはふ)の右側。唐破風(からはふ)の左側。「昼の部 開場 午前10時20分」と。ここにも「六月大歌舞伎」ポスター。「六月大歌舞伎」の出演者の写真。昼の部・夜の部の配役の写真昼の部 一、傾城反魂香 二、児雷也 三、扇獅子夜の部 義経千本桜再び反対側に移動して。「晴海通り」を渡り正面から。ズームして。再び「晴海通り」を渡り戻る。「地下2階 木挽町広場 ご案内図」。「歌舞伎座の軌跡」。「第一期 明治22(1889)年11月~明治44年(1911)年7月第一期歌舞使座は、明治の演劇改良運動の中、江戸時代に芝居町のひとっとして賑わった木挽町に開場した。外観は洋風三層の煉瓦造り、内観は純和風の造りで、歌舞伎ならではの舞台機構である廻り舞台や花道を生かしたうえで、西欧の劇場建築を参照し設計され、灯光も電気式になり場内に設置されたシャンデリアも評判となった。開場初期は興行界の駟け引きや日清戦争による一時休場など波乱の幕開けだったが、九世團十郎、五世菊五郎、初世左團次らを中心として、多くの優れた舞台を生み出した。第二期 明治44(1911)年10月~大正10(1911)年10月外観が洋風だった第一期歌舞伎座から、外観、内観ともに純然たる日本風の劇場へと改築され、第二期歌舞伎座は落成した。明治四十四年に開場した帝国劇場との差別化が図られ、外観は純日本式の奈良朝宮殿風の檜造りに改められた。客席天井は金箔置二重打上げの格天井となり、二個のアーク灯を設置したのをはじめ、無数の電灯を備えた。開場初の興行は「五代目中村歌石衛門襲名披露」。大正二年に松竹の創業者大谷竹次郎が経営を任され、当時の松竹合名会社が一手に興行を担うようになる。第三期 大正13(1924)年12月~昭和20(1945)年5月火災で焼失した第二期歌舞伎座の跡地に再建された第三期歌舞伎座。外観は奈良朝の典雅、桃山朝の豪壮な様式を取り入れたもので、建物全体は鉄筋コンクリート造。桟敷席などを除いて、座席から椅子席に改められるなど、より近代的な劇場に生まれ変わった。十五世羽左衛門、六世菊五郎、初世吉右衛門などの名優が活躍し、日本を代表する劇場としての地位を揺るぎないものとした。第二次世界大戦の戦況の悪化にともない昭和十九年二月興行を最後に休場。翌年の空襲で戦火に包まれる。第四期 昭和25(1950)年12月~平成22(2010)年4月終戦後、GHQの占領政策で封建的な内容の演目が上演禁止となるが、理解者の尽力により徐々に上演が解禁。歌舞伎座の再建工事も昭和二十四年に開始される。物資が乏しい時代であったため、焼け残った第三期歌舞伎座の資材を再利用するなど難工事の連続だったが、昭和二十五年十二月に第四期歌舞伎座竣工。高度経済成長期の歌舞伎プームを巻き起こし、昭和三十九年の東京オリンピックでは「ナイト・カプキ」公演も行う。平成二年から一年を通して歌舞伎興行が行われるようになった。」「第五期 平成25(2013)年4月~現在の第五期歌舞伎座は、オフィスビル歌舞伎座タワーとの複合施設[GINZAKABUKIZA」として平成二十五年に開場した。設計は隈研吾。外観の唐破風など、第四期歌舞伎座デザインを踏襲しつつ、細かな改善によって現代的な建築物として生まれ変わっている。新開場式には歌舞伎俳優が勢揃いし、華々しく歌舞伎座は新たな歴史を刻み始めた。以降も、世界唯ーの歌舞伎専門劇場、芸の継承と革新を行う歌舞伎の殿堂として、良質な舞台を生み出し続けている。」「歌舞伎座」の建物の右側に鎮座していたのが「歌舞伎座神社」。歌舞伎座が新たな姿として2013年に竣工される以前は、劇場の敷地内に設けられていた。そのため、歌舞伎座の関係者や観劇者のみしか参拝できなかったのだが、歌舞伎座の建替えを経て今の場所に遷座され、現在は誰もが参拝できる神社となっているのであった。扁額「歌舞伎稲荷大明神」。社殿に近づいて。さらに。歌舞伎稲荷神社でも、2017年11月1日から御朱印(一種類、書き置きのみ、初穂料300円)をいただくことができるようになった。また、歌舞伎座の舞台檜板を再利用した木札(初穂料1800円)も2020年より頒布されている。どちらも歌舞伎座タワーの5階にある「お土産処 楽座」、地下2階木挽町広場内にある「かおみせ」にて受けることができたのであった。「歌舞伎座タワー」。第五期歌舞伎座と共にそびえ立ち、基準階500坪を超える、銀座で最高の高さを誇るタワーオフィス。地下4階・地上29階。横のガラス窓にも歌舞伎座の座紋「鳳凰丸(ほうおうまる)」。近づいて。「銀座やまう平成29年(2017年)に竣工した建物の外観には、江戸時代から続く伝統工芸品、組子細工を模したモザイク模様を配し、日本の様式美を演出いたしました。店頭に並ぶおよそ50品目のお漬物は季節で品揃えが変わり、すべてご試食しながらお買い求めいただけます。旬ならではの限定品や生産数が限られたお漬物もございますので、ぜひ一度足をお運びください。」とネットから。「木挽町通り」を北東に向かって進む。道路脇の青のアジサイ。近づいて。突き当りの「松屋通り」沿いにあった石碑。「専修大学発祥の地」碑。「専修大学発祥の地専修大学は明治13年9月16日ここ東京市京橋区木挽町2丁目14番地に 経済及び法律の専修学校として発足したことに始まる。創立者は 相馬水胤, 田尻稲次郎, 目賀田種太郎, 駒井重格の諸先達で 建学の精神は社会に対する報恩奉仕であり 質実剛健, 誠実力行は学風である。」その左側にも案内板が立っていた。「明治会堂跡」。「明治会堂跡所在地 中央区銀座三丁目十四番明治会堂は、明治十四年(一八八一)、福沢諭吉 の発案により建設された演説会場です。瓦葺き木造二階建て、建坪約六ニ〇平方メートルの擬洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉 により設計されました。当時の演説会場としては、福沢の建てた三田演説館など若干の施設が存在しましたが、規模などの面から、多くの演説は本来演説会場ではない貸席、劇場、料亭などで行われていました。これらに代わる施設の整った演説会場として明治会堂は建設されました。左の錦絵「明治会堂之図」の説明文に、「会場の広間は三千人を容れ、食堂には二百人の席を設くべし、講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京第一の会堂なり」とあり、当時としては、会食もできる東京随一の演説会場で、政談演説をはじめ、各種演説・行事が頻繁に行われました。明治十五年に立憲改進党の結党式がここで行われたほか、明治十六年には鹿鳴館に先駆けて日本初の西洋舞踏会が行われました。明治十五年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治十七年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治二十三年(一八九〇)に民間に払い下げられた後、大正十二年(一九ニ三)の関東大震災で焼失しました。 平成二十四年三月 中央区教育委員会」。 ・・・つづく・・・
2023.07.01
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更に「足利フラワーパーク」の奥に向かって進む。「水上花壇」の中の木橋を進む。ピラミッド型の「水上花壇」の花もペチュニアであっただろうか?階段状ピラミッド型の「水上花壇」も。様々な「水上花壇」を追う。そしてこれが「水上花壇」の先にあった「大長藤」の藤棚。根本をズームして。「大長藤」の開花写真。これも。さらに「水上花壇」の木橋を歩く。そして引き返すと、ここにもクレマチス。「八重藤」の案内板の写真。ネットから。ズーム写真。花菖蒲の咲く池。美しい青のアジサイ。クレマチスも負けじと。「むらさき藤のスクリーン」。「むらさき藤のスクリーン」の藤の花をネットから。白い花の樹。「キョウチクトウ(夾竹桃)葉っぱが竹に、花が桃に似ている事から夾竹桃といわれます。非常に丈夫で育てやすいですが、葉・花・枝・根の全てに青酸カリ以上の毒があるともいわれています。公害に強く、以前はよく高速道路や公園に植えられていました。」散策道脇にはユリの花も開花を始めていた。西洋アジサイに似たこの花は「キバナノコギリソウ」?放射状に糸のように咲いていた花の名は?再びバラの花を楽しむ。「ギガンジューム」。「ギガンジュームはネギ属で、タマネギやニンニクの仲間です。学名の「Allium」は、「ニンニク」を意味するラテン語です。近くに寄ると本当にニンニクほどではありませんが、ネギやタマネギのような香りがします。そして「gigantium」は、ラテン語で「巨大な」という意味です。花全体の大きさや、草丈が長いことから由来されたとされています。」と。ペチュニアを再び。「リーガース・ベゴニア」。ガクアジサイの見事な鮮やかな青と白の共演。近づいて。6月3日(土)から「青と白の世界 花菖蒲×あじさいまつり」が開催されると。その他にもここ「足利フラワーパーク」の藤の花のネットからの写真を紹介いたします。「白藤のトンネル」「白藤の滝」。「きばな藤」。「むらさき藤棚」。そして「ショッピングハウス」に戻る。「観葉植物」コーナー。「食虫植物」コーナー。近づいて。傘も色とりどりに。藤の開花の時期に再び訪ねたい、しかしかなりの渋滞を覚悟しなければ、いや1泊を覚悟して!!と思いながら「足利フラワーパーク」を後にし、「東北道 佐野藤岡IC」から往路と同じルートで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.30
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「足利織姫神社」を後にして、次の目的地の「足利フラワーパーク」に向かって「織姫神社前」交差点を東に進む。そして10分ほどで「JR上毛線」の「あしかがフラワーパーク駅」前を通過。駅の階段には巨大な満開の紫の藤棚がラッピングされていた。この階段を降りて5分歩けば「足利フラワーパーク」正面玄関へ。「足利フラワーパーク」手前のいくつかの大きな駐車場を見ながら進む。そして「あしかがフラワーパーク正面駐車場」に到着。正面ゲートに向かって進む。駐車場にも見事に開花した花々の植栽が。正面ゲート。「樹齢160年におよぶ大藤と四季折々の花が楽しめる「花と光の楽園」。特に春は600畳敷きの藤棚を持つ大藤や、長さ80mもの白藤のトンネル、きばな藤など350本以上の藤が咲き誇り観るものに感動を与えます。また、同時期に見頃を迎えるクルメツツジや、5~6月には「バラ」「クレマチス」「しゃくなげ」「花菖蒲」、夏には「アジサイ」「スイレン」が園内を彩ります。秋は20,000株の「アメジストセージ」が園内一面むらさき一色に染め、10月中旬~2月中旬にかけては日本三大イルミネーションに認定されている「光の花の庭」も見所。」と。「花菖蒲」が迎えてくれた。近づいて。青と白の額縁の可愛らしいアジサイの花。お菓子のような「アジサイ コンペイトウ」と。様々な色のアジサイが1鉢2000円で売られていた。縁が濃いピンクのアジサイ。青の「ダンスパーティー」。近づいて。ペチュニア。「園内マップ」。「ショッピングハウス」を横から出ると右側の「フラワーステージ」の一面にピンクの花々が。近づいて。バラの花も。「フラワーステージ」入口の通路にはつるバラのアーチが。近づいて。前方に「うす紅の棚」が見えて来た。右側の「フラワーステージ」の花々を楽しみながら進む。「ペチュニア」。そして「うす紅の棚」の手前の池の木橋を歩く。「うす紅の棚」の藤の花をネットから。別の場所にあった案内板の写真。そしてその先にあったのが巨大な「大藤」(左側)。大藤は2本あり、それぞれの藤棚(公園マップではA大藤とB大藤)がつながるように配され、各々600畳の広さがあると。(合わせて1200畳以上)。栃木県指定天然記念物(2007年指定)の案内板によると、名称はノダナガフジNO1とノダナガフジNO2になっていた。ズームして。野田長藤NO1樹齢140年、幹廻り4.05m、花房1.8m、南北36.3m、東西33.4m開花中の「大藤・野田長藤NO1」の写真をネットから。巨大な「大藤」(右側)。野田長藤NO2樹齢140年、幹廻り5.15m、花房1.8m、南北35.8m、東西37.1m開花中の「大藤・野田長藤NO2」の写真をネットから。案内板の大藤の花の写真。「奇跡の大藤1991年足利市中心部にあった樹齢130年、幹回り3m60cm、棚面積600の大きさの藤(当時)は町の再開発の為移動せざるを得なくなりました。しかし、幹の直径1 m以上の藤は、移植成功の前例がありませんでした。何年も移植の方法を模索し、1994年ようやく移植の準備が開始されました。幹がもろく柔らかい藤の移動は困難を極めましたが、延べ2 0 00名の人々の努力と、諦めない強い気持ちにより、1996年移植が実施され、日本で初めての成功例となりました。」夜の「大藤」をネットから。その先には「クレマチス」の白い花が。紫の「クレマチス」。正面に「うす紅橋」。「うす紅橋」の見頃の夜の写真。夜の「うす紅橋」の写真をネットから。こちらはイルミネーションの写真(ネットから)。橋の上から。廻り込んで「うす紅橋」を見る。ネットから別の場所からの「うす紅橋」の写真を。「バラの咲く島」を歩く。様々なバラの花をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.29
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「足利織姫神社案内図」をネットから。「足利織姫神社」の「手水舎」が左手に。石造りの龍の口から手水が。龍が水を司る神様である事に由来していると。「足利織姫神社歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、宝永2年(1705)に天八千々姫命・天御鉾命のニ柱の神を勧請しました。明治12年に社殿が建立されましたが、翌年火災で焼失してしまいました。昭和9年舂に新社殿建立に着手し、昭和12年に現在の社殿が完成しました。朱塗りの社殿は緑に映えて美しく、足利のシンボルであり、平成1 6年には国登録有形文化財に登録されています。産業振興と縁結びの神社として、足利市民はもとより、全国から参詣者が訪れています。」「狛犬」(右)。「狛犬」(左)。「社殿」👈リンク を正面から。ズームして。正面には、我々のバスガイドさんがご自分のスマホで撮影中。この神社は初めてであったのだろうか?「社務所」。「社務所」の御守り。こちらにも。「御朱印」を頂きました。七夕期間限定の御朱印も頂きました。「御神木」。この丸く剪定された御神木は「スダジイ」という種類の木で、「3本あると大きな森を形成する」といわれているとのこと。そして境内にあった塔。その後ろで「七色の吹き流し」がはためく。足利市の街並みを望む。「渡良瀬川」に架かる「渡良瀬橋」とその先に「男浅間神社(足利富士浅間神社)」のある「浅間山」がはっきりと見えた。「神楽殿」。再び社殿を見る。中央の「拝殿」をズームして。「拝殿」の「内陣」。「拝殿」の天井の「格子天井」。足利で織られた華やかな生地が使用されているとのこと。「拝殿」の両側に翼廊を配し、拝殿と翼廊を歩楼で結ぶ形に。日本古来の寝殿造建築である平等院鳳凰堂をモデルにしたと。こちらが「平等院鳳凰堂」(ネットから)。「愛の鐘」二人で鐘を鳴らすと幸せになれると。「愛は限りなく広いそして深い」と。「鐘」をズームして。そして帰路は「本坂」の石段を下る。階段途中のポールに境内までの石段の数と語呂合わせ?文字があり楽しいので記録しておきます。境内まで229段:登れば叶う縁結び境内まで182段:いやにならずに一段一段境内まで153段:いこうみんなで織姫の社境内まで118段:いいわ眺望 関東平野境内まで75段:なごむ心で宮参り境内まで38段:宮に向かってもう一息境内まで19段:幾年までも縁結び「本坂」の石段を降りながら順番に撮影しました。「境内まで19段:幾年までも縁結び」「境内まで38段:宮に向かってもう一息」「境内まで75段:なごむ心で宮参り」「境内まで118段:いいわ眺望 関東平野」「境内まで153段:いこうみんなで織姫の社」。「境内まで182段:いやにならずに一段一段」。「境内まで229段:登れば叶う縁結び」。「二二九段登れば叶う縁結び」と。石段の左奥にあった石碑群。「籾山唯四郎君像」。「籾山唯四郎は、1861年(文久元年)に下都賀郡の間々田に生まれました。1884年(明治17年)に助戸村の籾山家の養子となりました。唯四郎は、1890年(明治23年)から、足利町議会議員となり、旧助戸小学校の建設に動きました。1903年(明治36年)には、郡会議員になり、郡立高等女学校の建設に努力しました。その後、足利が市になってからは、市議会議員となりました。また、1920年(大正9年)には、県会議員にも選ばれました。1910年(明治43年)に、「織物改良組」をつくり、よい物づくりに努力しました。足利織物協同組合・足利染色研究会の役員をしながら、自分の織物業のほかにも、たくさんの会社をつくったり、ほかの会社の相談も受けたりしていました。さらに、学習のためにひつようなお金をだし、学生を育てていこうと自分のお金を出して「財団法人・籾山育英団」をつくろうと文部大臣にお願いをしましたが、実現しませんでした。 1922年(大正11年)に、栃木県知事より公益事業功労者(多くの人に役立つ仕事をした人)として表彰されました。しかし、この年に唯四郎は62歳でなくなりました。お墓は、助戸の定年寺にあります」現在残っているのは台座のみで、像は戦時中に供出されたと。「足利氏の略系」碑と「足利と足利織物の歴史」碑。「足利氏の略系」碑「足利と足利織物の歴史足利は中世(鎌倉・室町時代)に活躍した源氏系の足利氏 の所領「足利荘 」です。古代末には藤原秀郷系 の足利氏も活躍しました。足利尊氏 は室町時代に京都に幕府を開き日本を治めました。幕府はまた「足利学校 」を興隆に導きました。古代の足利は各寺社の記録によれば、東大寺(奈良・平安時代)や伊勢宮(平安・鎌倉時代)へ織物を納めています。中世では『徒然草』ニー六段に足利氏三代目左馬頭義 氏が、鎌倉幕府執権北条時頼 に毎年「染物」を贈ったとあります。糸を草木等で染め、織ったもので、量は「三十反」女性着「小袖 」仕上げです。中世後半では足利織物の生産量は、鎌倉の関東公方家、三河国の足利一族、京都の足利将軍家などの需要を背景に高まったでしょう。輸送手段は川・海を利用した水運で、利根水系 には大きな水運業者もできました。綿織物の発達は近世足利藩時代で、糸つむぎ、染め・撚り、織り、仕上げの妙は、魅力的な「足利織 」を産み、江戸中期には全国に知れわたりました。近代には絹綿交織の発達を経、明治中期以降絹織物の生産が盛んとなり、世界に輸出されました。昭和戦前期、絹紡糸を入れた柄模様の素敵な「足利本銘仙 」が日本中の女性を魅了しました。国登録有形文化財 、織姫神社 の社殿はこの時期(1937 年)に建てられました」「頌徳碑」。「飯塚太郎頌徳碑織物整理業。大正・昭和期の足利織物業界指導者の一人。特に、昭和初期の織物同業組合第三部(国内向け)の「足利銘仙会」若手を支援、「足利本銘仙」の開発に貢献。碑は生前、一九三ニ年、同業組合第六部(当時織物整理業)有志により建立された。撰文は栃木県立足利工業学校長の高田義親。」さらにその奥に、トリコット工業協同組合の初代から3代までの理事長吉田孫三郎、殿岡利助、三田禧三郎の3人の胸像。「足利トリコットの歴史足利市は、昭和ニ十ニ年から四十年代後半に至る問、トリコット(軽メリヤス生地、および当初「足利ジャージー」、後半スリップ・ネグリジェなどの製品)の生産額で日本最大であった歴史を持つ。戦後、国策を積極的に取り人れ、戦前の絹織物に代わりトリコット産業を完成させた。その象徴が四十一年完成の「足利トリコット工業団地」で、集団化による中小企業近代化のモデルであった。同産業の発展に寄与された代表的人物が胸像の初代~三代トリコット工業協同合理事長吉田孫三郎・殿岡利助・三田禧三郎氏である。昭和四十四年以降、日米間に「繊維摩擦」、「ドルショック」、「円高」などが発生し、トリコットの輸出は絶たれた。またこの頃から国内需要の主力であったスリップ・ネグリジェの需要か消えた。国や業界の諸改革にも拘わらず、トリコット産業は縮小を続けたが、現在ファッション産業の新たなる展開に向け鋭意努力する現状にある。 平成ニ十四年十一月 日下部高明 撰文」「視床 長重之」の作品。長は東京都出身。1942年に父の故郷である足利市に移り、60年代から地元のガス会社や病院に勤務しながら制作を始めた と。「創造のひろば足利トリコットの創製、発展に寄与された3人の銅像、その歴史碑とともに、現代美術家 長 重之氏の作品「視床ーthalamus」が対峙する創造の空間です。す誉をいの土間ぐす。「視床」は領域や境界に関わる作品で、時空を超えて感性に響くとき、思考の領域まで示唆する作品です。●黒丸の視点に立ち、足利トリコットの歴史とともに、「視床」を見つめてください。そして自身の領域を探求しましょう。人の思考の領域は無限の可能性を秘めて存在します。それに向かってチャレンジする次世代を担う方々へ、期待を込めたメッセージのひろばです。 K HAYAMA」「創造のひろば」の反対側にあったのが「八木節の碑チャッポコ、チャカポコと軽快なリズムを刻む八木節は、明治の終りから昭和の初めにかけて一世を風靡した正真正銘、我が市発祥の民謡であり、日本三大囃子の一つとされております。八木節の源流は、江戸時代例幣使街道八木宿に伝えられた越後の口説節だと言われていますが、これは叙事的でゆったりとした瞽女歌のようなものでした。これを足利市堀込町が生んだ逸材、堀込源太(本名渡辺源太郎 昭・18・12・8没)が、野州気質に合った高音で、はぎれの良い曲調に改変する等、心血を注いで作り上げた心の歌で、正に民衆の活力と確固たる執念から生れた結晶が日本屈指の民謡、八木節であります。初代源太は、幼少の頃から美声で、その素質は若くして四隣を圧したといわれております。このように、郷土の傑出した人物が創出した八木節を、しかりと保存し、後世に正しく伝承して事が、現代に生きる私達の責務と考え、昭和五十四年に足利地区愛好者の連携を図る目的で、市内三十有余のチームを集結、足利市八木節連合会を結成しました。本年発足三十年を迎えることを機に、一層結束を強め、初期の目的達成を念頭に、郷土を愛し足利気質から生まれた八木節を守り、更に躍進させることが私達の使命と信じ、会員一同粉骨砕身精進することを誓願し、この碑を建立するものであります。 平成二十年三月吉日 足利市八木節連合会」。更に、本坂の石段を下って行った。「229段」の石段を振り返る。そして「織姫ハイキングマップ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.28
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そして、次の訪問場所「足利織姫神社」の駐車場に到着し、バスを降り散策開始。栃木県足利市西宮町3889。栃木県道40号線・足利環状線の先にあったのが「足利織姫神社」。横断歩道の先に「足利織姫神社」の「大鳥居」が見えた。「足利織姫神社」。1200年余の歴史と伝統を誇る機業地・足利の産業の守護神である「足利織姫神社」。天照大神の絹の衣を織っていた天御鉾命と天八千々姫命の二柱を祀る神社。明治12(1879)年、機神山(はたがみやま・現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。翌年に火災に遭い、しばらくの間は仮宮のままであったが、再建に着手し昭和12年に現在の社殿が完成。京都府宇治市の平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれている。平成16年6月には、社殿・神楽殿・社務所・手水舎が国の「登録有形文化財」として登録された。足利織姫神社のご神紋が左側に。「かつて倭建命の御子・足鏡別王(あしかがみわけのきみ)が足利の地を統治していた」という伝承に基づいて、その神鏡の輪郭に、「足」の字を配したのが足利市の市章。それを、昭和12年の織姫神社遷宮に際してこの鏡の輪郭を使う許可を得て、図に用いたという。この鏡の輪郭に、足利氏の家紋である「丸に二」の二を縦に配し、それに織物の糸を組み合わせたのが織姫神社のご神紋。つまり、足利の町・足利氏・織物の三つのシンボルを取り込んだのがあのご神紋ということになるだろうか。「縁結びと産業振興の神社 足利織姫神社太古の昔より皇太神宮御料の神御衣づくりを司った天御鉾命(あまのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱が御祭神でございます。」。御祭神の天御鉾命(あまのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)「足利織姫神社」の「社殿」は、織姫山の中腹にあり、一の鳥居から始まる「本坂」は「社殿」前の境内まで229段の階段があった。階段中央にも手すりがある石段。一方、「縁結び坂」は、ゆるやかな山道だが、手すりがないので足腰に自信のない方は、本坂より上ってください と。左右の「階段手すり支柱」には「天御鉾命」(左)、「天八千々姫命」(右)と書かれた銘板が。「ようこそ 足利織姫神社 境内まで二二九段」と。「国登録有形文化財(建造物)織姫神社社殿・神楽殿・社務所・手水舎織姫神社は社殿(伝)によれば、宝永2年(1705)戸田忠利が足利藩主としてこの地に来た時に土民が創建した神社で、機織の守護神として「天ハ千々姫命」「天御鉾命」のニ神をお祀りしています。現在の社殿は、明治13年(1880)に焼失した社殿を昭和12年(1937)に再建したもので、中央に拝殿、その両側に翼廊を配し、拝殿と翼廊を歩楼て結ぶ形は、日本古来の寝殿造建築である平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれています。当時の神社建築は木造が主流でしたが、設計者である小林福太郎(1882 ~ 1938)は、当時珍しい鉄筋コンクリートを用いて木造建築の意匠を再現しました。朱色に塗装された建物が、織姫山の山並みの緑と青空に映え、ひときわ鮮やかに眼に映り、美しい建築を作り上げています。織姫神社は織物を中心とした足利の産業を信仰面から支えてきた存在であり、本市の近代化を語る上でも欠かせない貴重な文化遺産です。近年は、産業振興と縁結びの神社として多くの参拝者に崇められています。」「足利の水道水」。蛇口は写真の裏側にあった。「足利の水道水足利の水道水は、すべて自然のろ過作用により浄化された天然のミネラル分を含む地下水を原水としています。ぜひ、足利のおいしい水道水をご賞味ください。平成2年7月 市制 70年記念 水道創設60周年記念 足利市」左方面に進む「縁結び坂」を利用して「社殿」に向かって進む。「縁結び坂」には「七色の鳥居」が奉納されているとのこと。朱の鳥居の扁額には左右に「天皇陛下 即位 皇太子殿下 即位」と書かれ、中央に「菊花紋章」が。「奉納 織姫の祈り 👈リンク作曲 中北利男作詞・唄 真氣足利の神社(かむやしろ)織姫に 絹(いと)を紡いだ先人の思いは続く渡良瀬の川流れるこの街に 朱い神殿浮き上がり 織姫山(おやま)を彩る二二九段の石段を上れば 願いは叶う そう信じ人は集う春にはさくらの花咲き誇り 秋には色づくもみじ谷 今日も移ろう織姫に祈りを捧げて 麗しき未来へ届け 神々に祈りを捧げて御空の下(した)縁(えにし)の元へ足利西ライオンズクラブ 結成五十周年記念事業 実行委員長 岩崎年春」「足利友愛義団の碑」「友愛」の文字が。「足利友愛義団の碑1891年(明治24年)12月26日、この地に建っていた「好養館」に、萩野萬太郎他4名が集い「友愛義団」結成の発起人会が開催され、翌92年1月6日、萩野萬太郎、磯部安次郎、木村初太郎等22名の青年実業家達により「足利友愛義団」が発足しました。その後、原田定助、足利武千代、横田千之助らも入団して団員も100名を超えたため、1904年(明治37年)には「好養館」を譲り受け、活動の拠点にしました。「足利友愛義団」は、「驚き交流と学び」を活動の主旨として、義援活動、社会教化(廃娼運動)、足利織物も振興、国際化に備え河合運吉・森田金之助両牧師の協力による英語教育の作興、また、岡島忠助、木村浅七、長谷川作七、川嶋長十郎による輸出織物の品質向上のための「五二会」足利支部結成等々・・・「足利友愛義団」の職業論理に基づいた、篤く広い視野の真摯な活動は、近代足利の発展、産業振興の大きな礎となりました。2006年(平成18年)2月、足利商工会議所は「足利友愛義団」の萩野萬太郎が初代頭取を務めた足利銀行の元本店を購入し、「街おこし」の拠点として再生、「友愛会館」と命名し、末永く「足利友愛義団」の精神を継承し、足利経済の発展に寄与することを誓い合いました。---------------------------------------------------------------------------足利友愛義団の碑は石垣の上の岩に嵌め込まれています。」と。隣には「織姫神社造營碑」。非常に巨大なもので大人2人分ほどの高さがあった。碑に書かれている言葉は古いものなので横に口語訳の説明板が立っていた。「足利織姫神社造営碑 碑文(口語訳)貴族院議員 伯爵 金子堅太郎貴族院議員 徳富猪一郎 撰文 (蘇峰)日本の国は、昔から神の国といわれています。万世一系の皇室があって世界に例のない国体です。そして日本独特の神社があります。神社は伊勢大神を始めとして、宮弊社、国弊社、府、県社、郷社、町、村社など格付けはさまざまですが、いずれも国民信仰の中心で、国体に即して国民生活と密接につながっています。昔 天祖 天照大神(あまてらすおおみかみ)が高天原(たかまがはら)を治めていたころ、天御鉾命(あめのみほこのみこと)を神々の衣服を織る役職につかせ、天八千千姫命(あめのやちちひめのみこと)を織女に命じて衣服を織らせました。足利に鎮座する織姫神社が産業振興の守護として、天御鉾命・天八千千姫命の二柱の神をお祭りしてあるのはこのことに由来しているのです。このように織姫神社の根源は、遠く神代の時代までさかのぼり由緒は奥深いものがあります。下野国(しもつけのくに)は、関東のだいじな所に位置し、文化は早くから開け、産業も大いに興り、織物の国として知られていました。なかでも足利は織物の生産地として平安朝のころは、絹織物を朝廷に献上するようになりました。このようなことは史実としてさまざまな形で伝えられています。以来数百年、時代によって栄枯盛衰はありましたが、祭祀は絶えることなく続いていました。明治維新、国運の隆昌と同時に産業もますます発達し、社殿を現在の地に移しました。しかし、明治13年11月、火災により社殿は一朝にして灰燼に帰してしまいました。その後50年余り、有志の人々がたびたび再建を企てましたが成就しませんでした。たまたま、昭和8年皇太子殿下(現天皇陛下)の御降誕を記念として、産業振興を祈願し社殿の造営を決定しました。奉賛会を、組織し、浄財を募り、工事に着工しました。造営主任技師小林福太郎、工事担当小川清次郎を責任者として、昭和9年工を起し、昭和12年竣工しました。4年間の歳月をかけて完成しましたが、神域の拡張は一千余坪、その経費は総額15万円、規模は広荘、金碧燦然として旧時の面目を一新しました。社殿は足利市の中央にあり、その他はさわやかな高台、背後には緑濃い松林の丘陵をめぐらせています。前方には渡良瀬川が容々として流れ、近くは秩父の連山を隔て、甲信の群山を霞がただよう彼方に臨むことができます。遠くは岳蓮(富士山) がひときわ高く青空にそびえ、絢爛たる眺望はみごとなものです。いわゆる朝日のきらめき、夕陰の情景、自然はさまざまに美しい変化を見せます。更にその上を願えば、春秋の大祭毎に多くの人々が集まり崇敬の念をいただいてくださること、それが市民振興の源となり、産業振興の活力ともなります。このことは太古より現在まで、現在より遠い将来まで変えることはありません。奉賛会長 殿岡利助、建築委員長 原田政七、社掌(神主) 日下部幸俊 三君は、これを後世に伝えるために碑の建立を計画しました。そしてその碑文を書いて欲しいと私のもとに来られました。私はそれを快くお引き受けして、その由来をこの一文にまとめました。これを石に彫って後世の人たちに末永くつたえてください。昭和16年5月6日 建石 足利 岩澤諒弌 書」 「縁結び坂」の石鳥居を潜ると、こちらも石段がスタート。石鳥居の扁額は解読不能。その先に紫の鳥居が姿を現した。「七色(なないろ)の鳥居足利織姫神社のご祭神は、男の機織師(はたおりし)と織女のニ柱の神様てす。織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女ニ人の神様をご祭神とする「縁結びの神社」と言われるようになりました。足利織姫神社は、縁結びの神社として「七つのご神徳(縁結び)」を大切にしております。」県立足利高等学校と県立足利女子高等学校が統合されることになり、その記念として、両校の同窓会が、ここ織姫神社に鳥居を奉納したと。最初に「紫色」の鳥居。その先にも「紫色」の鳥居が続いていた。「七色の鳥居 紫色 よき経営と縁結び」。その先に「若草色」の鳥居。「七色の鳥居 若草色 よき学業と縁結び」。つづいて「赤色」の鳥居。「七色の鳥居 赤色 よき人と縁結び」。「えんむすび広場」にあった「織姫神社造營二十周年記念」碑。多くの「寄附者連名」が刻まれていた。「えんむすび広場」は小さな広場。恋人が二人でたたずむ「しあわせの絆碑」(左)と御神徳碑(右手 黒石)が並んで設置してあった。「足利織姫神社御神徳碑 しあわせの絆碑産業振興と縁結びの神社である足利織姫神社の遷宮70年記念事業が多くの皆さまからの御寄進と御協力により目標以上の事業遂行ができましたことに心より感謝申し上げます。事業完工の記念として七つの御神徳の碑を建立いたしました。また、隣接の「しあわせの絆」碑は、人と人との篤き絆の大切さを願い御神徳成就の象徴として建立いたしました。足利織姫神社の興隆発展のために全身全霊を打ち込んであります、足利織姫神社奉賛会長 林 吉郎氏の寄進によるものであります。平成19年5月5日足利織姫神社遷宮70年記念事業実行委員会委員長 菊池 義治」「足利織姫神社 御神徳よき人と縁結びよき健康と縁結びよき知恵と縁結びよき人生と縁結びよきよき学業と縁結びよき仕事と縁結びよき経営と縁結び」その先には「緑色」の鳥居。「七色の鳥居 緑色 よき知恵と縁結び」。「黄色」の鳥居。「七色の鳥居 黄色 よき健康と縁結び」。「青色」の鳥居。「七色の鳥居 青色 よき人生と縁結び」。最後に「朱色」の鳥居。「七色の鳥居 朱色 よき仕事と縁結び」。そして「本坂」の石段と合流し社殿前の境内への最後の石段を上る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.27
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庫裡の前にあった「宥座の器(ゆうざのき)」傾いた器が吊り下がっています。器の下にある水を柄杓ですくい、器に注ぐと、やがて、傾いていた器が水平になります。さらに器へ水を注ぎ続けると、再び器が傾き、注がれた器の水が、全部下にこぼれてしまいました。「宥座之器」、「欹器図」案内板。「宥座之器針生清司作 銅製高さ ニ一〇・〇cm奥行 一ニ五・〇cm幅 八ニ・〇cm平成ニ四年(ニ〇一ニ)史跡足利学校所蔵の『欹器図』を参考にして群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し足利市に寄贈されたものです。「体験してみませんか」①この器に、水を少しずつ、ゆっくりと入れてみて下さい。②傾いている器がだんだん水平になってきます。③さらに、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。この「宥座の器」は、孔子の説いた”中庸”ということを教えるものです。よく言う言葉に”腹八分目”というのがあります。人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。それを中庸といいます。入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。これを中庸というのです。「欹器図史跡足利学校蔵紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代寛政3年(1791)孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749から1823)がそのことを記した作品である。」「方丈、庫裡、書院等主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。方丈は、六部屋からなり儀式や行事に使われました。庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり日常の生活空間でした。書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主の接客の場所などに用いられました。屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。(宝暦年間の姿に復原)」「庫裡」の中に入ると「参観順路」案内が。入口直後には様々な紹介パネルが。「近世日本の教育遺産群とは」👈リンク。「扁額「杏壇」。「扁額「杏壇」天保14年(1843)徳川治宝 筆扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれを元に複製されたものです。「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。」「扁額「學校」」。「扁額「學校」寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆 上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つです。当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったのですが、新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれています。」その横に展示されていたのが「上杉憲実像」。足利学校中興の偉人。ズームして。「上杉憲実の中興室町時代中期、関東管領となった上杉憲実は、永享11年(1439)に書籍及び領地を寄進し、学則を定め、鎌倉の円覚寺から快元を招いて第一世庠主(校長)にするなど、衰えていた学校を大いに整備し、後の発展の基礎を築きました。寄進の書籍には、『宋版尚書正義』『宋版礼記正義』『宋刊本附釈音毛詩註疏』『宋刊本附釈音春秋左傳註疏』などの儒学の経典、他に『宋版唐書』があります。これらは、中国宋代のもので、当時から大変貴重な書籍でしたが、現在も国宝などに指定され大切に保管されています。また学則では、『野州足利学校置五経疏本条目』に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、『学規三条』に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。憲実は永享4年(1432)関東管領となりましたが、永享十年に鎌倉公方足利持氏が将軍家に謀反を起こしたので、持氏軍と戦うこととなり、翌11年これを破って持氏を自害させました。これを永享の乱と言います。足利学校の中興には周到な準備が必要だったと思われますが、憲実の置かれた状況を考え合わせると驚くべき情熱と言えるでしょう。」「上杉氏系図」。「NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの雲洞庵と足利学校上杉憲実像の実物は、新潟県南魚沼市にある『雲洞庵』に安置されています。この『雲洞庵』は、足利学校中興の祖である憲実公が復興(応永二十七年(一四二〇) )に尽力した曹洞宗の名刹です。「天地人の主人公、直江兼続と上杉景勝は、少年期にこの『雲洞庵』で学びました。その直江兼続は、足利学校で学んだ「涸轍祖博(こてつそはく)」と「九山」の二人を抱えていました。「涸轍祖博」は、直江兼続に招かれ涸轍書院と号して、書籍の刊行にあたりました。また、「九山」は、下野国那須雲巖寺の僧でしたが、兼続が足利学校に学ばせ、帰国後、米沢に禅林寺を開かせたということです。 参考資料 「雲洞庵」公式ホームページ 「史跡足利学校研究紀要「学校」第二号」」「雲洞庵の縁起によると、養老年間(七一七~七ニ四)藤原房前(ふささき)の亡母のために比丘尼(びくに)寺を建立したのがはじまりとされる。雲洞庵のある南魚沼郡一帯は上田荘で、その一部が山内上杉氏の所領であった関係から、永享元年(一四ニ九)、兼実が禅僧の顕窓(けんそう)をまねき、雲洞庵を再興した。後年出家した憲実はここに隠遁し、「雲洞庵主」と号したという。同庵には、憲実愛用の品といわれる天目茶台や茶釜なども伝えられている。」左手にある廊下を進むと先に見た脇玄関になる。ここには賢者の像が5体鎮座されていた。左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子で、孔子廟で知った孔子+四配のオールスターキャストその隣が玄関ですが、特に何があるという玄関ではありませんが、良く考えれば畳敷きの玄関というのも珍しい。その先が広い「方丈」。主に儀式や行事に使用されていたと言うことから、現在の講堂的(一般的な大学では)な存在かもしれません。現在でも行われている儀式、行事があるようです。儀式としては「釋奠」という孔子を祀る儀式で明治40年ころからは記録に残っているそうです。また、行事としては「曝書」という、貴重な書籍を虫干しする行事で、江戸時代のころから行われていたとのこと。そしてその隣の間には足利学校のジオラマが置かれていた。「自由に挑戦してください。足利学校漢字試験」と。「足利学校漢字試験 初級」。「仏殿」を屋外から写した写真。手前に見える椅子は「曲碌」といそうで、禅僧の導師が説法や法要で使う椅子であると。仏殿の左隣が「尊碑室」で、歴代の徳川家将軍の位牌が納められていた。「徳川幕府歴代将軍の位牌第9世庠主閑室元吉和尚(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関が原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。足利学校は、このように閑室元吉と家康との結び付きが強かったことから、幕府より100石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。※徳川家康(東照大権現)の位牌は隣の仏殿の間、脇仏壇に安置されています。「徳川幕府歴代将軍の位牌大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)」有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)右から大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)右から有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)桂昌院殿仁誉興国光公大姉(5代徳川綱吉生母・桂昌院)こちらが東照大権現・家康の位牌。やはり扱いが違うのは当然。「鋳造葵紋燈籠」。「鋳造葵紋燈籠中台に「享和三年癸亥三月吉青享和三年癸亥三月吉青郊代工師佐野天明三木忠右衛門藤原敦造」、火袋部分に「御祈祷殿葵御紋銅燈籠一雙」「下野国足利学校」の刻銘がある。「方丈」の「縁側」から「南庭園」を見る。「牧野富太郎(牧野万太郎)が学んだ植物の本」『本草綱目』は、薬になる植物等を集成し、その作り方や効能、処方の仕方等について解説した本で、中国時代の李時珍(1518~93)が書き、万暦23年(1596)に南京で出版されました。日本へは、慶長9年(1604)頃までに伝来し、駿府(静岡) で晩年をすごした徳川家康(1543~1616)もこの本を読んで薬を作りました。すぐれた内容であったことから、何回も版を重ね、明治時代初明まで読み継がれました。朝ドラ「らんまん」でも牧野富太郎(万太郎)(1862~1957)が本書を読む場面がありました。『草木図説』は、飯沼慾齋(1782~1865)が安政3年(1856)に出版した植物図鑑です。それぞれの草花に、名称や特徴を記した解説文と写実的で一部彩色を施した植物画が付けられています。富太郎が学んだ幕末期では新しく詳細な図鑑でした。『新訂草木図説』は、『草本図説』の一を改訂し、明治8年(1875)に出版されました。『草図説』の版にローマ字で学名と科名を付けて再版したものです。編集は、博物館の父と言われる川中芳男(里中芳生)(1838~1916)と植物学者の小野職愨(野田基善) (1838 ~90)です。この2名は、朝ドラ「らんまん」で、はじめて上京した富太郎(万太郎)が意気投合し、わが朋(とも)と呼んで抱き合った植物学者です。『植物学』は、イギリス人のジョン・リンドレー(1799~1865)が書いた植物の解説書です。もとは英語ですが、清国(中国)の李善欄(1810~82)らが漢文とし、清国の咸豊8年(1858)に発刊されました。日本では幕未の慶応3年(1867)に『翻刻植物学』として発刊されています。全8巻で、植物の構造について図入りで詳しく述べられています。さらに植物や分類方法も書かれています。現代の植物研究で使われることばの多くが、本書を参考にしており、牧野富太郎も、日本値物学の糸口になったものとほめたたえたそうです。足利学校には、足利藩校の求道館から伝わった『翻知植物学』の版木が全55枚遺され、足利市の重要文化財に指定されています。幕末から昭和時代を生きた牧野富太郎は、植物に関するさまざまな本を学び、どん欲に知職を吸収して実践に活かしました。未知のものに対する強い関心とそれを解明しようとする努力は、現代に生きる私たちのよき手本であると思います。※( )内は、朝ドラ上の名前です。」『草木図説』安政3年(1856)刊(筆彩)飯沼長順(慾斎)著」易学を標榜する「天文図」とその前に「孔子像」。「天文図拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山国際交流基金寄贈これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだものの拓本です。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の世界観などが、天文現象などとあわせて書かれています。現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されています。」「釋奠」の儀式で使用する祭器。奥にある部屋・書院を見たが、立入禁止となっているのでここまで。「北庭園」を見る。「Ⅶ.足利学校の釋奠(せきてん)釋奠とは、孔子とその門弟を祀る儀式のことをいい、その歴史」は、古代中国にまでさかのぼります。足礼学校では、『足利学校記録』などの史料によると、毎月1日と1 5日に釋奠の略式である釋菜を孔子廟でおこなっていました。廃校なった後も、途中とぎれはしたものの、釋奠は行なわれました。現在では、毎年1 1月23日に孔子廟で執り行われています。儀式て使用する祭器は、古いもので江戸時代のものもあります。」主屋の裏手に小さな建造物があった。その一つが「木小屋」。「木小屋木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われています。桁行5間、梁間2間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁です。床は三和土の土間です。薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。例えば、サエンバ(菜園場)と呼んでいた畑を耕す鍬や鋤、鎌などの農具、収穫した雑穀、漬物や味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具などが考えられます。(宝暦年間の姿に復原)」そして「土蔵」。「土蔵土蔵は、大切なものを格納する堅牢な大火建築として建てられました。桁行3間、梁間2間の土蔵造です。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。(宝暦年間の姿に復原)」先ほど書院から見た北庭園を通り過ぎると、多くの墓石が安置されている一画が。中央が「第18代 青郊(せいこう)武蔵八王子 18年」 の墓石。「庠主(学長)の墓所足利学校は15世紀の中頃、関東管領上杉安房守藤原憲実によって中興されたものであるが、上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると供に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主とした。庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続いた。歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高からしめた功績は大きい。庠主の墓は総計17基あり、いずれも無縫塔で、そのうち8基には文字が刻まれているが、残りの9基は不明である。判明している基は次のとおりです。 世代 ・ 名 ・ 出身地 ・ 在籍期間 ・ 墓石の位置(右から)--------------------------------------------------------------------------------第14代 久室(きゅうしつ) 下野足利 36年 (10番目)第15代 天叔(てんしゅく) 京 15年 (6番目)第16代 月江(げっこう) 武蔵八王子 31年 (12番目)第17代 千渓(せんけい) 下野足利 33年 (14番目)第18代 青郊(せいこう) 武蔵八王子 18年 (2番目)第19代 実巌(じつがん) 周防 19年 (3番目)第21代 太嶺(たいれい) 越後 21年 (9番目)第22代 松齢(しょうれい) 美濃 15年 (4番目)「庠主(しょうしゅ)のお墓ここにある庠主のお墓を無縫塔といいます.毎年3月には足利市内小中学校の新任または退任される校長先生がお参りにいらっしゃいます。史跡内は火気厳禁のため、お線香を上げることは出来ません。※庠主:現在の校長先生のこと。」「庠主の墓所」の前には同じように「元足利学校代官 茂木家累代の墓」があった。「元足利学校代官 茂木家累代の墓」。この茂木家とは、宝永6年(1709)生まれの江戸時代中期の儒者「茂木好文」がいた茂木家のようです。下野(栃木県)生まれで、足利学校の代官として16代庠主の月江、17代庠主の千渓を補佐し、50年に渡って経史を講義したのだそうです。子の久隆も代官の職を継ぎ、さらに孫の久周にその職は継がれました。好文の孫である茂木久周は、寛政2年(1790)生まれで、江戸時代の後期の儒者です。足利学校代官であった時の天保2年学校が類焼すると、江戸増上寺の富くじ興行で資金を集めて再建した人だったようです。明治8年に死去されていますので、足利学校最後の代官だったのかも知れません。足利学校にとっては恩人ともいえる家柄ですから、校内に大切に祀られているのであろう。紅葉シーズンにも訪ねたいのであった。「学校門」に向かって戻る。そして竹林の中には大きな「井戸」があった。そして「史跡足利学校」を後にして、徒歩にて「太平記館」駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.26
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そして「孔子像」の前を通り抜けると、前方に深い緑に包まれて佇む「学校門」が見えて来た。「学校門」寛文八(一六六八)年の創建。足利学校のシンボルとして現代へ継承されていると。扁額「學校」。「学校門日本で唯一の「學校」の額がかけられた門です。寛文八年(一六六八)に建てられ、足利学校のシンボルとして江戸時代から今日まで受け継がれてきました。「学校」という言葉は儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉です。扁額「學校」は明の書家将竜渓(しょうりゅうけい)の書を江戸国士舘助教授の狛高庸(こまたかやす)が縮小したものです。」私たちが普段使う「学校」と言う言葉は、儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉であるとのこと。知らず知らずの内に私たちの側にも儒学の1つが入っている事が分かるのであった。そして「学校門」を潜ると左側にあったのが「旧遺跡図書館」。「足利氏重要文化財 旧足利学校遺跡図書館(付属施設を含む)付新築竣工図この建物は、大正四年八月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺で、基礎及び外壁はレンガ積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてあります。和風の屋根、洋風の外壁・内装など和様折衷の様式やポーチの懸魚・蟇股・格天井などの造りや、飾り瓦(水煙)などに意匠的特徴の見られる大正時代の建造物として貴重な存在です。足利学校保全事業の一環として平成六年度県の「輝くまちづくり事業」により屋根を中心に改修しました。 足利市重要文化財(建造物) 平成六年三月二十二日指定 平成八年二月一日 (財)足利市民文化財団 足利市教育委員会」エントランスの右側が図書館の「来賓室」。「旧足利学校遺蹟図書館来賓室足利学校遺蹟図書館は、貴重な書籍の閲覧や来客接待等の場所として大正4年(1915)に建築されたものです。玄関を入って右側にあるこの部屋は、来賓室で接客用として使用されていました。周囲の壁は、腰あたりの高さまでを網代敷きで和風とし、その上は漆喰仕上げの後和紙を貼り、縦長の上げ下げ窓を等間隔に配置するなど和洋折衷としています。天井は約4.5mと高く、周囲に文様を施し高級感あふれる天井としています。全体的に、和風と洋風とが融合した大正時代建築の様相を良好に示しています。」左側が閲覧室のようで、今日は上杉憲実の生涯と題した展示が行われているのですが、写真はここまでですので後は雰囲気だけ。ここにこの足利学校に訪れた100名位の有名人リストが。室町時代から大正までの著名人ですから殆ど名前を聞いたことの無い人々ですが、幾人かピックアップしてみます。最も古い記録なのが、永正6年(1509)、宗長という人で連歌師だそうです。その後、寛永13年(1636):徳川義直 尾張藩主、承応2年(1653):林羅山 儒学者、天保2年(1831):渡辺崋山 画家、嘉永5年(1852):吉田松陰 志士、明治30年(1897):近衛篤麿 政治家、明治39年(1906);東郷平八郎 海軍軍人、明治41年(1908):大隈重信 政治家、徳富蘇峰 評論家、明治43年(1910):渋沢栄一 実業家、黒田清輝 洋画家、井上馨 政治家、明治45年(1912):乃木希典 陸軍大将、大正2年(1913):嘉納治五郎 講道館館長、大正4年(1915):新渡戸稲造 教育家、大正13年(1924):加藤高明 政治家、などなどで、そうそうたる人々が訪れているのだ。特に学問として名高い施設ですから、これだけ著名な人々が訪れるのももっともなこと。図書館を出ると目の前に大きな樹木があった。「ナンバンハゼ」の木だとのこと。「とちぎ 名木百選 足利学校跡のナンバンハゼ栃木県指定天然記念物櫂(かい)(櫂樹(かいじゅ))≪ナンバンハゼ≫ともいいます。大正4年(1915)に、孔子のお墓がある孔林(中国・山東省曲阜)から、初めて日本に種子がもたらされました。成長した株は、多久聖廟(佐賀県)、湯島聖堂(東京都)など、儒学ゆかりの地に植えられました。足利学校にある櫂の木は、大正11年(1922)に植えられたものです。」「栃木県指定天然記念物 ナンバンハゼ(櫂樹)一本この木は日本、特に東日本には自生しない珍しい木であり、別称「孔子の木」「楷」「トネリバハゼノキ」などがあるが、学名を「ピスタシア・シネンシズ」といってウルシ科に属する落葉樹である。現在目通りの太さ三.〇メートル、雌木だけであるから花は咲くが実は結ばない。寄贈者 白澤保美 林学博士年月日 大正十一年三月七日昭和三十一年六月一五日 栃木県指定 足利市教育委員会」「学問の神様 足利学校稲荷社 学業成就」の案内板がここにも。その先にあったのが「孔子廟」の門の「杏壇門」。孔子廟境内は白壁の築地塀で囲まれていた。「杏壇門」に近づいて。「杏壇門」の手前右手にあったのが「字降松(かなふりまつ)」。「字降松足利学校の七世庠主(校長)玉崗和尚は自ら九華老人と称したが、そのころ廟の前に一本の松があった。学生がよめない文字に出合ったとき、紙に書いてこれを枝につけておくと和尚が見てふり仮名や注釈をつけてくれたので、誰れいうことなく字降松と呼ぶようになり、遂には町の人々までこの松に教えを受けたという。当時学問を志して足利学校に学んだ学生と訓導(先生)との交流を、いみじくも伝えた心温まる足利の伝説である。足利市」扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝の書。2020年に「大成殿」の「平成・令和の大修理」が完了した。大成殿は1668年の創建以来、一度も火災や空襲などの被害に遭っておらず、現存する国内最古の孔子廟(びょう)。「大成殿」の様式は中国明代の聖廟を模したものと伝えられている。間口12.7m 奥行10.9m 建坪138.6平方メートル(42坪)「入徳門」「学校門」「杏壇門」「孔子廟」は国の史跡指定に含まれている。「大成殿」の屋根の鯱をズームして。扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王(そんちょうほっしんのう:1802~1852)の書。左右に「花頭窓(かとうまど)」花頭窓は、窓の形状による名称のひとつで、上部が尖頭アーチ状の窓のこと。花頭窓は、華頭、火頭、花灯、華灯、火灯、瓦灯、架灯などとも書かれる。花頭窓は、禅宗寺院の建築とともに中国から伝わり、唐様(からよう)建築に多く用いられている。「孔子廟孔子廟は、儒学の祖の孔子をまつる廟で、聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。大成殿は、寛文8年(1668)に建てられました。正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野篁像、左に徳川家康の神位などを安置しています。杏壇門は、明治25年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて5年後に再建されました。この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠(せきてん)という儀式が毎年行われます。」大成殿中央の「孔子座像」。ズームして。「県指定文化財 木像 孔子坐像寄木造 玉眼嵌入 室町時代 天文4年(1535)頭巾をかぶり、儒服を着けた像です。弟子たちの教育にあたるこの姿は「行教像」といわれます。像の背中と底の内部の内側の部分に墨書きの文字があり、当時の足利荘の代官長尾憲長など造像に関わった人の名や、当時の学校の様子が記されています。日本最古の孔子の彫像として、また、足利学校の歴史を語る資料としてたいへん貴重です。「文化財保護のため、孔子坐像は複製を展示しております。」「小野篁公(おののたかむらこう)像 」。 「孔子廟」は古くから「足利学校は小野篁の創建なり…」と伝えられるので創始者としてまつったとされているとのこと。「市指定文化財 木像 小野篁公像寄木造 玉眼嵌入 江戸時代中期 延享3年(1746)小野篁(802から852)は、平安時代の公家・歌人で学問にすぐれ、野相公とよばれた人です。足利学校では江戸時代に、小野篁を創健者とする説がとられていました。本像の制作にあたり、小野篁の子孫という江戸時代の儒官人見活(号雪江)(1687から1759)が、金一封を学校に寄進したことが『足利学校記録』 (延享3年【1746】8月19日条)に記されています。」境内の「西階の不断梅」。花が散って実がなり、普通の実が黄色く熟して落ちる頃になっても青いまま木になっている、まさに「落ちない梅」なのだと。「海軍大将 東郷平八郎」の植えた「月桂樹」。こちらは「海軍中将 上村彦之丞手植」、「元帥 海軍大将 伊東祐亨手植」と。そして「孔子廟」を後にして「方丈」へ。「方丈」の向かい右側に「南庭園」。「南庭園足利学校には、方丈の北と南それぞれに池の庭があります。この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水庭です。この庭は、湧き水をたたえた池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。三つの峰をもつ築山は比較的高く、池の水面から3メートルほどもあり、池に映えてよく調和しています。発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって修復しました。この整備の資料として用いた絵図は、精密で色彩も美しいものであり、庭の築山やそれぞれ植木などは絵図により復原したものです。(江戸時代中期の姿に復原)」「南庭園」の池の花菖蒲。孔子廟の東側にあった「方丈」を振り返る。「方丈」は寄棟造りで、屋根は茅葺きとなっています。内部を見学する事ができ、仏殿の間や尊牌の間があり、徳川家康を初めとする、歴代徳川将軍の位牌が安置されていた。梁間(はりま)11m、桁行(けたゆき)17m、軒桁までの高さ5m、外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8m。また地上から大棟(おおむね)までの高さは13.8mと。方丈の入口には立派な唐破風、本瓦葺きの玄関があり、茅葺きの大きな屋根とマッチしていた。現在、ここからは入れなかったが、昔はここが玄関であったのだろう。一番東側にあったのが「衆寮」。「衆寮衆寮は、僧房または学生寮です。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。桁行8間、梁間2間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。内部は、6畳の間に、1間の土間がついて一部屋になります。それが四部屋続く長屋となっています。(宝暦年間の姿に復原)」衆寮は当時の学生寮として使われた。長屋の如き建物となっていたのであった。近くにあったのが「上杉憲実公碑」。「足利学校中興の祖」として平成2年(1990)中興550年祭を挙行し碑を建立したと。「裏門」を外側から(前回訪ねた時の写真)。奥には「方丈」の姿が見えた。学生や一般の人の通用門として使用されていたのだと。「裏門足利学校の門は、位置や名称が江戸時代に入って何回か変わっているようです。正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。主に、日常使う門が、この裏門でした。学校の裏に位置しないにもかかわらず、この門がなぜ裏門と呼ばれたか明らかにではありません。間口8尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。(宝暦年間の姿に復原)」。そして「方丈」への現在の入口まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.25
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昼食後、「足利学校跡」に向かって進むと「国宝 鑁阿寺(ばんなじ)」案内が。「大日大門通り」の先に以前訪ねた「鑁阿寺」👈リンクの「楼門(山門)」が見えたがこの日は訪ねることは出来なかった。「史跡足利学跡」に向かって進む。足利石畳通りの店頭に「足利のお土産」。珍しい色彩のガクアジサイ。「ここは足利市昌平町孔子のふるさと 昌平郷」と。孔子の生まれたとされる魯の国の昌平郷鄹邑、現在の山東省曲阜に、孔子の死後1年目に魯の哀公が孔子の旧宅を廟にしたとされ、そこに孔子廟が作られたのがそもそもの始まりであった と。「昌平郷」。灯籠なのであろうか。儒教の五徳の文字が。儒教には、人が常時守るべき5つの項目があり、この五徳を拡充していくことにより、人の道を全うすることが出来ると説いている。この5つの項目が、 「仁・義・礼・智・信」。 それぞれの意味は下記の通り。・ 仁 仁義、真実、誠。人を思いやり、優しさをもって接し、己の欲望を抑えて 慈悲の心で万人を愛す。・ 義 義理 筋。私利私欲にとらわれず、人として正しい行いをし、自分の なすべきことをする、正しい生き方。・ 礼 礼儀。人間社会において、親子、夫婦、君臣、目上などの、社会秩序を 円滑に維持するために必要な礼儀作法。・ 智 智徳。学問に励み、知識を得て、正しい判断が下せるような能力。・ 信 確信。信頼、信用、正直など。約束を守り、常に誠実であること。ここでは「仁」、「信」、「義」の文字が確認できたが。70年以上慣れ親しんだ「仁」。そして、我が戒名にも!?。足利学校は、足利市「昌平町」にある名所旧跡。案内標識「心のみちしるべ」。「子曰、温故而知新、可以為師矣」と。『子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以って師と為るべし。』【孔子先生はおっしゃいました。昔の学問を究めそれらを基礎として、新しい道理を発明して、 今日の実際の役に立つように心がければ、始めて人の師となることができる】と。「史跡 足利學校跡」碑。「~生涯学習の時代~「自学自習」の精神を今に伝える教育の原点(日本最古の学校)足利学校の歴史足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説等がありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(しょうしゅ 学長)制度を設ける等して学校を再興したころからです。天文十八(一五四九)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。江戸時代になると、貴重で良質な漢籍を有する文庫として、多くの文人や学者を受け入れました。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治時代の初めに幕をおろしましたが、足利学校の自学自習の精神は現在に引き継がれています。昭和五十七年より「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成二年江戸中期の姿に甦りました。平成二十七年には、水戸弘道館、備前閑谷(しずたに)学校、日田咸宜園(かんぎえん)とともに「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定され、更に世界遺産を目指して取組んでいます。また、生涯学習の拠点として、論語素読体験等の各種事業を行っています。」と頂いたパンフレットより。「日本遺産 足利学校近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー平成27年度認定」「下記の日本遺産のロゴマークは日本を象徴する日の丸の下には、格子状のデザインが施されています。実はこの部分には「Japan Heritage(日本遺産)」と書かれており、点在する日本の文化遺産が、ストーリーによって線でつながり、さらに面となってその魅力を世界へ伝えていく、という意味が込められているそうです。まさに日本遺産が理想とする「面で日本をアピールする」という意図にぴったりのロゴマークではないでしょうか。線が入り組み、繊細に文字を形作っているというところも、日本の繊細な文化を象徴しているように見えます。」とネットから。「史跡 足利学校」マップ。そして正面に「入徳門」が。足利学校の入口にあるのが、この「入徳門」。「入徳門」は、足利学校に入る最初の門で「入徳」とは、「徳に入る」という意味で道徳心を習得する所、つまり学校に入るという意味になる と。 「入徳」の扁額は、天保11(1840)年に掲げられたもの、紀州徳川家第十一代藩主徳川斉順公の書。1831年に鑁阿寺の安養院の火災より焼失、1840年に修築され、現在の建物は「裏門」を移築したものといわれている。「日本遺産 近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ーストーリー(概要) Summary of Story我が国では、近代教育制度の導入前から、支配者層である武士のみならず、多くの庶民も読み書き・算術ができ、礼儀正しさを身に付けるなど、高い教育水準を示した。これは、藩校や郷学、私塾など、様々な階層を対象とした学校の普及による影響が大きく、明治維新以降のいち早い近代化の原動力となり、現代においても、学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本人の国民性として受け継がれている。」右手の「受付」で「入学チケット」を購入。「参観料」は大人420円、高校生210円で、中学生以下は無料ってのがいかにも学校らしいし良心的!頂いたパンフレットの表紙。左側には「足利學校隠寮」と。ここでは足利学校についてのビデオが見られるのであった。奥には「史跡足利学校」のジオラマが展示されていた。足利学校の歴史が学べるのであった。「参観記念スタンプ」置き場。「足利学校入学証」と「學生証」を頂きました。「入学記念スタンプ」も頂きました。御朱印も頂きました。「史跡足利学校跡復元の碑史跡の復原は市民の願いであり 夢であった 指定地の東部分はかって東小学校となっていたが関係者の理解を得て移転したこれを機に整備構想を策定し 発掘調査や文献資料の調査検討を進め江戸中期宝暦年間の姿に復元工事設計をまとめることができた事業の推進には文化庁を始め 多くの関係機関の協力を得 方丈等建物七棟 庭園二箇所 土塁堀などの復原を主とした東部分の整備事業は十年の歳月を要しここに完成した」左手には「孔子立像」があった。足利学校の学問は儒学が中心であり、儒学の祖の孔子立像が学校門手前にあるというのも納得。台座には「至聖先師孔子像」と。その手前・「龍階石」には「昇り龍」が刻まれていた。2018年に訪ねた「中国・故宮(紫禁城)」👈リンク にも「雲龍階石」があったが。近づいて。製作は、足利氏の友好都市である中国・済寧市の人民政府に依頼したとのこと。嘉祥県武氏祠にある石彫工芸研究所で、同県産の天青石を用いて造られた。像の前にある龍階石と獅子の彫り物一対も、中国で造られたものとのこと。さらに。台座を含めると約4mもの高さに及ぶ「至聖先師孔子像」。温かいまなざしで迎えてくれたのであった。「獅子」左。「獅子」右。中国の御物らしく、「獅子」は阿吽ではなく、二匹とも口を開けていたのであった。その先、左にあったのが「稲荷社」。石鳥居、朱の鳥居が2基続けて並んでいた。朱の鳥居の扁額「正一位霊験稲荷社」。その先に社殿が。「正一位霊験稲荷社足利学校第七世庠主玉崗瑞(しょうしゅぎょっこうずいよ 九華(きゅうか))は天文ニ十三(一五五四)年九月、足利学校の鎮守である稲荷大明神の社殿を再建し、八幡大菩薩を合祀したとあることから、創建はこれよりさかのぼる。霊験あらたかで、江戸時代には足利の町をはじめ多くの人々の信仰をあつめた。伝えによれば、稲荷社の狐が異変を知らせてくれたことから、大切にされ、十一月には御供小豆飯(おそなえあずきめし)をわらにのせ、狐穴に供えたという。明和七(一七七〇)年第十六世庠主千渓元泉(せんけいげんせん)が、稲荷大明神を改め、正一位霊験稲荷社とした。参道左右の石灯籠は、元文ニ(一七三七)年と明治四〇(一九〇七)年、水屋の手水鉢は天明七(一七八七)年に、神前にある佐野天明鋳物の灯籠は、安政四(一八五七)年に寄進されたものである。もとは遺蹟図書館付近にあったが、天神などの諸神を合祀し、明治四十ニ(一九〇九)年に現在地に移された。現在は、学業成就の神として信仰されている。 令和ニ年三月吉日」正面に「正一位霊験稲荷社」の社殿。「稲荷社遷宮紀念之碑維時明治四十三年歳庚戌六月建之」。「内陣」。ズームして。社殿前から境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.24
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そして最初に訪ねたのが「栃木県道7号 & 西産業道路」沿いにあった「日本酒醸造所」の「第一酒造」。栃木県佐野市田島町488。古くから酒造りの町として知られているこの佐野市田島町で、創業延宝元年(1673年)と約350年の歴史を持つ、県内最古の蔵元であると。入口門の軒下に茶色い大きな「杉玉」が吊り下がっていた。貯蔵用の原酒やブレンド酒など、通常販売にない酒蔵ならではの蔵元限定酒を、店頭にてタンクから直接瓶詰め「量り売り」をしているとのこと。6月の量り売り開華 梅雨の田植え酒 ~純米吟醸 原酒 美山錦~「美山錦」100%使用の純米吟醸原酒。梨を主体に、メロンやリンゴ等が複雑に織りなす香味が楽しめます と。【開催日】6月10日(土)、11日(日)、24日(土)、25日(日)とのこと。杉玉はおおむね2月~3月に飾られ始めると。この時期と言えば新酒の季節。つまり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ!」という目印なのだ。しかし、最初の内の杉玉は茶色ではなく本来の緑色をしている。そして季節が過ぎ夏頃には緑が薄くなり、秋ごろには枯れて茶色くなる。茶色のイメージが強いかもしれませんが、実は杉玉の色から旬の日本酒が何なのかを知ることができるのだと。緑色(2月~6月ごろ)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏ごろ)は夏酒、枯れた茶色(秋ごろ)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しているといえる。季節の移り変わりとともに変化していく杉玉の色を見て、日本酒の熟成度合いの変化にも気づく、というのはなんとも風情があるのであった。店内に入る。様々な「開華」ブランドの日本酒が並んでいた。平成10年より北関東3県では初めて全商品が特定名称酒に移行した と。日本酒全体の中で特定名称酒は約30%ですが、開華では100%であるとのこと。江戸時代、佐野の酒は渡良瀬川から利根川への河川流通によって「地廻りもの」として江戸へ運ばれ、関東の酒処として栄えた。現在でも江戸東京博物館で当時の様子が見られるのだと。長年にわたって愛飲いただいている地元の愛飲家の皆様が、どんな開華を呑んでも、美味しいお酒で楽しんでいただけるようにとの想いから、平成10年より全商品を特定名称酒(吟醸酒、純米酒、本醸造など)としたのだと。 香港向け輸出(平成5年)に始まり、現在では北米、欧州、香港、韓国、台湾、シンガポールなどの各国へ輸出されていますが、栃木県内への出荷が全出荷の約8割を占めていると。「特定名称酒」基本的に日本酒は「特定名称酒」と「普通酒」に分けられる。「特定名称酒」になるためには次の条件を満たしている必要がある。米、米麹、醸造アルコール以外の原料を使用せず、また醸造アルコールの使用量は 白米重量の10%以下であること3等以上に格付けされた玄米、またはそれに相当する玄米を精米して使用していること米麹の使用割合が15%以上であること精米歩合について、吟醸酒は60%以下、大吟醸酒は50%以下でなければ名乗れないという決まりがあるのだ。(※1)精米歩合とは、米の精米の程度を表したもの。数値が低いほど、雑味等の原因となる米の 外側部分を多く削っている。(※2)醸造アルコールとは、おもにサトウキビを原料として醸造・蒸留された食用アルコールで、 添加することにより軽快な味わいと華やかな香りが引き出される。 醸造アルコールを使用していないものが、「純米・・酒」である。(※3)吟醸造りとは、低温でゆっくりと発酵させ、特有の華やかな香り(吟醸香)を持つように 醸造すること。そして、上記のような定められた基準に該当しなかったものが「普通酒」となる。「特定名称酒」は法律に定められているが、「普通酒」は通称であり、正式な用語というわけではない。「一般酒」と表記される場合もある と。そして300円を払い試飲用自販機で6種類の日本酒を楽しんだのであった。1合ほどは楽しんだであろうか。売店の奥には酒蔵工場が。ここは工場見学の予約がないと入れないようであった。ズームして。とちぎ地酒「開華」と。仕込み用の琺瑯タンクが。6棟が国の登録有形文化財(建造物)に指定されている と。大きな酒徳利が並んでいた。そしてバスに戻り次の昼食会場に向かった。山の斜面に白い文字が。「大小」と。大小山は足利市の東部に位置する。低山ながら高展望の山として、地元ではなじみのある山である。崖に「大」「小」という大きな文字が掛けられている。シンボルと言える『大小』の文字板は、大小山麓の阿夫利神社(あぶりじんじゃ)に祭られている『大天狗』『小天狗』にちなみ、江戸末期の安政2年(1855年)、無病息災を祈願する周辺住民の手により掲げられたそうだ。現在のものはステンレス製文字板を用いた、一文字7メートル四方、総重量1トン強にもなると。大きい方のピーク(妙義山)の山頂は狭いが、360度の展望は素晴らしいとのこと。ヤクルトのコマーシャルポスター。「目標はまだ先にある。 プロ野球選手 村上宗隆」と。「足利学校跡」・周囲の堀を車窓から。藁葺き屋根の「方丈」が見えた。観光案内所「太平記館」の駐車場にバスが駐まり、昼食会場に徒歩で向かう。この後に訪ねた「日本一の藤のガーデン あしかがフラワーパーク」案内板。巨大な藤棚の写真をズームして。観光案内所「太平記館(たいへいきかん)」。太平記館では、足利のお土産品を多数揃えていた。また、館内には観光情報インフォメーションや喫茶コーナー、休憩スペースなどもあった。レンタサイクル(電動アシスト付有)の貸し出しも行っているようであった。そして5分ほど歩き昼食会場の「めん割烹 なか川」に到着。「「ここが私の出発点・・・大日大門通りと相田みつを」史跡足利学校(日本遺産)から日本100名城でもある鑁阿寺(国宝)を結ぶ大日大門通りは、書家「相田みつを」が「なか川」に通うために歩いていた道としても有名です。昭和20年代初頭、若き日の相田みつを作品を最初に購入した人物となる初代なか川女将が「今度から作品が出来る度にもってらっしゃい」とかけた言葉をきっかけに、代表作「人間だもの」をはじめとする数多くの作品が約50年近くにも渡りなか川に持ち込まれます。最後に訪れた際には「ここが私の出発点・・・」という言葉も残しています。」「生涯筆一筋 足利が生んだ孤高の書家相田みつを(あいだ みつを・1924~1991)相田みつを(本名光男)は、1924年(大正13年) 5月20日に足利市に生まれました。1942年(昭和17年)旧制栃木県立足利中学校を卒業し、歌人・山下陸奥に師事し、歌誌「一路」に参加しました。秋の歌会で生涯の師、曹洞宗高福寺の禅僧・武井晢應老師と出会い、在家のまま師事し、「正法眼蔵」を生涯学びました。1943年(昭和18年)、1 9歳の時には、書家・岩沢渓石に師事しました。1950年頃、旅館なか川(現・めん割烹なか川)の女将・中川光子に声を掛けてもらったことをきっかけに、旅館の看板、部屋札、著袋、ハンコ、マッチ箱のデサイン、さらにはろうけつ染めの座布団、御年賀用の手ぬぐいなど館のあらゆるもののデザインを任されました。このなか川での仕事をきっかけに、香雲堂本店や虎谷の包装紙のデザインを手掛けました。これらの作品は現在でも使用されています。1954年(昭和29年)、30歳で結婚しましたが、問借り生活の貧しい生活でした。しかし、みつをは副業を持たずに筆一本で生活することを貫きました。定収入があると筆に甘えが出てしまうという考えからでした。また、筆、墨、紙は一級品のものを使い、練習用や下書き用でも紙の質は落としませんでした。1954年(昭和29年)、第一回個展を足利市で開催し、以後、足利を中心に定期的に開催しました。また、この年、毎日書道展に入選し、1960年まで7回連続して入選しました。1984年「にんげんだもの」を出版し、後にミリオンセラーとなりました。1987年には「おかけさん」を、1990年(平成2年)には「一生感動一生青春」を出版しました。1991 (平成3年)年に「いのちいっぱい」を出版し、同年12月17日市内の病院で脳内出血のため亡くなりました。67歳でした。翌1992年には遺稿集「いちずに一本道いちずに一ツ事」を、1993年には遺作集「雨の日には・・・」を出版しました若くして病に倒れた広島カープの津田投手が「道」という詩を心の支えとしていたことや、阪神大震災の復興を目指す人々の精神的な支えになっていたエピソードがあるように、みつをの死後も人気は哀えることなく、1996年(平成8年) 9月には、東京・銀座に相田みつを美術館(館長・長男一人氏)が開館されました。 (監修:相田みつを美術館)」足利市のふるさと。足利尊氏の家紋「二つ引両」。そしてこの日の昼食相田みつを先生ゆかりの料理を当時のまま再現したと。先生がいつも食べていた想いで深い料理でもある『にしんの甘露煮』と一緒に、足利名物そば、天ぷらが一度に味わえる人気御膳 と。「ぅむぅ(σ・ε・。) 天ぬきって何??天ぬきがある蕎麦屋が「蕎麦屋文化」を知る店の証天ぷらそばで、そばの入っていないものを「天ぬき」といいます。日本酒を飲みながら天ぷらを食べ、残った汁でそばをつけて食べる・・・これが江戸時代で一番「粋」な食べ方でした。」生ビールをオーダーし『にしんの甘露煮』を楽しむ旅友。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.23
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そして左手前方に東名高速道路の「綾瀬スマートIC」が見えて来た。「スマートIC」とは、ETC専用インターチェンジのこと。 有効なETCカードを所持し、所定の方法で取付・セットアップされたETC車載器を搭載した車両しか出入できないのである。「東名高速道路」を海老名JCTに向かって進む。「海老名JCT」から「圏央道(首都圏中央連絡自動車道)」へ。「海老名JCT」を車窓から。相模川越しに「厚木ガス 本社」のガスタンクが見えた。紅白に塗られた高圧線鉄塔の姿も。「小田急電鉄小田原線」の「相模川橋梁」。ズームして。県道40号線・「相模大橋」とその隣に「あゆみ橋」👈リンク。相模川に架かる「圏央相模川橋」を渡り海老名市から厚木市に入る。「八王子JCT」手前を通過。左手奥に見えたのが「東京サマーランド」。ズームして。直径62mの大観覧車・「スターホイール」も見えた。「多摩川」を渡る。そして「狭山SA」にてトイレ休憩。売店を覗く。平日であったが車の数も多かった。この日の観光バス。「狭山日高IC」を通過。「菖蒲PA」横を通過。「白岡菖蒲IC」手前を通過。水田には水が張られ、田植えも行われていた。「久喜白岡JCT」で東北自動車道へ。「佐野藤岡IC」まで12km。「利根川橋」を渡る。「利根川」を渡り群馬県に入る。束の間の群馬県から「渡良瀬川」を渡り栃木県へ。「三毳山(みかもやま)」は、関東平野の北西端に位置し、南北約3.5 kmにわたって連なる細長い山である。最高峰は青竜ヶ岳と呼ばれ、標高は229 m。そして「佐野藤岡IC」で東北自動車道を下りる。佐野バイパスを進むと前方左手に見えて来たのが「佐野プレミアム・アウトレット」。栃木県佐野市越名町に所在するアウトレットモールである。2003年3月14日開業。三菱地所グループの三菱地所・サイモンが運営する。2003年3月14日開業。チェルシージャパン(現在の三菱地所・サイモン株式会社)のアウトレットモールとしては、御殿場プレミアム・アウトレット(PO)、りんくうプレミアム・アウトレットに次ぐ3番目の施設として開業した。PO事業は、佐野市出身の三菱地所専務(当時)島田勝久が、私的に米国を視察して、日本でも成功すると考えて進言し、誘致に積極的だった佐野市が関東第一号となった。佐野進出に当たっては、姉妹都市である米国ペンシルベニア州ランカスター市をモチーフとした。地域貢献として、名称は「佐野」を冠することや従業員は地元採用を優先することを掲げたほか、既存市街地の空洞化を避けるため、名物である佐野ラーメンはテナントにしない方針をとっているとウィキペディアより。さらに進むと「関東の三大師 佐野厄よけ大師」案内板が。栃木県佐野市にある関東三大師の一つ「佐野厄よけ大師」は、新年の厄よけ・方位よけを求めて、人々がこぞって訪れる名所。“春日岡(かすがおか)”とも呼ばれ、正式な名前は「春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかさんてんぽうりんいんそうしゅうかんじ)」。現在は通称の「佐野厄よけ大師」で有名になっていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.22
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この日は6月7日(水)、今年も自治連合会の研修旅行で栃木県・足利市を訪ねて来ました。研修旅行と言っても、今年新規に自治会長・団体長に就任された方々との親睦が主目的。7:30に地元の小田急線の駅を出発する為に自宅を出て徒歩で向かう。途中、民家の庭には「カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)」の花が迎えてくれた。北アメリカ原産で、育てやすく、花の美しい園芸品種として導入された円錐形の花房が特徴のアジサイ。始め白い花が咲き、徐々にピンク、そして満開の頃は赤くなる品種もあるようだが、未だ見たことはないのであるが。深く切り込みの入った葉が、柏の葉っぱに似ているので「カシワバアジサイ」と呼ばれるのだ。そして地元の農家の畑に鎮座する小さな神社。社殿はなく石碑のみが。「白旗大明神」と。「白旗神社」の摂社なのであろうか?この日も道路脇の民家のアジサイを楽しみながら進む。ガクアジサイ。青そして紫に変化するアジサイ。黄色のユリの花。たわわに。白からピンクに変化。近づいて。地元のイチゴ園もランナーから次回用の苗を育てていた。外科医の入口にもアジサイが。植木鉢で育てられた様々な色のアジサイが並んでいた。そして定刻の7:30になり総勢22名で栃木県・足利市に向けてバスは出発。市民センターの事務局の方、そして観光バスの営業の方が見送ってくれました。国道467号を利用して湘南台方面に向かう。「湘南台大神線」を進む。左手に「リサイクルプラザ藤沢」を見る。県道42号線・綾瀬中央通りから富士山を見る。ズームして。山頂付近の雪も残りわずかに。クリ(栗)の花も満開。とても特徴的な花なので一回見たらインパクトがあるので印象に残る花。栗の花には雌花と雄花があり実は写真に写っているのは雄花。白いクリーム色の花がたくさん咲いて遠くから見るとそれが一つの枝のように。また更に遠くからみても緑の中に白いクリーム色の花がさいているのでとても目立つのだ。雌花はこの穂花(雄花)の根元あたりにあってこちらが受粉して実が付くのである。この栗の花の匂いはよく言われますが、いい香りとは言えないのではないかと思います。独特なにおい!!でどう表現をしたらいいのか難しいのであるが・・・。左手にあったのが「綾瀬ふれあい大釜」。屋根付きの建物の下に巨大な鍋が鎮座。五右衛門風呂の如き異様な大きさ。「綾瀬ふれあい大釜一、容量・・・2160リットル(ドラム缶約12本分)一、寸法・・・内径1350mm一、深さ・・・1260mm一、重量・・・釜0.7トン 釜戸2.60トン一、材質・・・鋳鉄一、由来この大羽釜はまわし型という手法で型が鋳造されたもので、畜産をはじめ歴史ある綾瀬農業の発展を願い、市内畜産農家60名から寄せられた浄財をもとに、全国でニ番目の大きさを誇る大釜として、平成2年9月に完成したものです。同年10月のあやせ市民まつりにおいてこの大釜の名前を募集し農家の人々とのふれあいのシンボルとしての願いを込め「綾瀬ふれあい大釜」と命名されました。市氏まつりの日には、この大釜で綾瀬地場産の新鮮な豚肉や野菜をふんだんい使ったとん汁を作りまつりの名物として多くの人々に喜ばれました。」上空には海上自衛隊厚木航空基地から飛び立った飛行機が相模湾に向かって。海上自衛隊哨戒機P-3Cであっただろうか?前方に「綾瀬市役所」の建物が。「綾瀬市役所」入口。本庁舎を振り返る。 ・・・つづく・・・
2023.06.21
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そして「大清水アジサイロード」を後にして帰路に。途中、民家の横の広場に、種類の異なるアジサイが咲いていたので、車を停める。ガクの小さなアジサイ。こちらは鮮やかなピンク。このアジサイも白のガクが細かく。近づいて。様々な色のアジサイが開花中。「スイセンノウ」。白のアジサイ。ピンクのガクアジサイ。近づいて。さらに。「スイセンノウ」、白&青のアジサイとのコラボ。白をズームして。青をズームして。そして5分ほどで帰宅。我家の庭の「金糸梅(キンシバイ)」。近づいて。多くの我が?ミツバチが訪花していました。そして我が庭のガクアジサイ、これから色合いを増して来るのであろう。こちらは青の西洋アジサイ。これぞ我が家の「明月院ブルー」。明月院に植えられているのは、ほとんどが「ヒメアジサイ」と記憶している。「ヒメアジサイ」は、ホンアジサイとエゾアジサイとの交雑種と考えられているようだが、野生のものが存在しないことから、詳しいことはわからないのだ と。親子の姿のごとくに。今年も、「日比谷花壇大船フラワーセンター」、「大清水アジサイロード」、「我が家」の紫陽花(アジサイ)を大いに楽しんだのであった。そして「アジサイの歴史」👈リンク についても、学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.20
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我が家の近くの農園の隅に立つ「ネムノキ(合歓木)」が可愛らしい、ふわふわした夢のような花をたわわにつけています。樹高は5~10mで樹皮は滑らかで灰褐色をしており、枝は上部で横に伸びている。ネムノキ(合歓の木)の名前の由来は、鳥の羽に似た葉が夜には、自然に閉じて木が眠ったように見えることから、ネムノキ(合歓の木)という名がついた。 漢字名の「合歓木」の「合歓」は、左右の葉っぱが合わさって閉じることから男女の伴寝の意味とも。中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである と。英名はシルク・ツリー(Silk tree:絹の樹木)と呼ばれており、これは多数の雄しべを絹に見立てたものである。万葉集 紀女郎(きのいらつめ)の歌。「昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ」 【昼は咲いて夜は恋いつつ眠る合歓木の花を、あるじだけが見てよいものだろうか。お前も見なさいな】と。奥の細道 松尾芭蕉「象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」(”西施”とは、中国の春秋時代の傾国の美女のこと。花をこの美女にたとえた)芭蕉が象潟を訪れたのは、1689年6月15日。その日は、雨で鳥海山の山が隠れるほどであった。翌日は雨上がりの晴れ。「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさは悲しみにくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と。【象潟に雨が煙っている。岸辺にひらくねぶの花が雨に濡れて、うちしおれる様は、 中国の絶世の美女・西施が憂いにまぶたを閉じてうつむいている姿のようで、象潟の風情を 象徴しているように見える】と。小林一茶「合歓咲く 七つ下りの 茶菓子売り」【ネムノキの花が咲く季節、午後四時頃、空腹を覚えるような時間に茶果子売りがやってきて、声を出す様子。夏のこの季節の、少しノスタルジーを感じるような、夕方の風景がすごく共感を持って感じられる風景を、一茶らしい感性で切り取っています。】葉は特徴的なので見分けやすい。20~30cmの2回偶数羽状複葉で、節ごとに1枚ずつ方向を異にして生えている互生である。2回羽状というのは、全体として羽状で、部分である羽片自体も羽状になっているという意味である。羽片を構成する葉を小葉と呼んでいる。羽片は7~12枚で対生。羽片には小葉が15~30枚で対生する。小葉は包丁型である。表面は光沢のある濃緑色で、裏面は粉白色である。夜には小葉が閉じて、夜明けとともに葉は開いて花は萎んでしまう。葉が似ているオジギソウの葉は、触るとシューッと閉じるが、ネムノキの葉は触っただけでは閉じない。夜になるとゆっくりと自分で閉じるのだ。2回偶数羽状複葉の偶数羽状複葉(ぐうすううじょうふくよう)とは「鳥の羽のように葉がつき、小葉(しょうよう)の数が偶数(ぐうすう)のもの」こと。2回とは羽状複葉(うじょうふくよう)の形を、2回くりかえしたタイプ(フラクタル)。すなわち、2回羽状というのは、全体として羽状で、部分である羽片自体も羽状になっているという意味である。地方によっては「七夕」の日に、「ネム流し」といって、「合歓木」の枝と大豆の葉を川の流れに流して、邪気をはらう行事があるとのこと。花をズームして。花は化粧用の刷毛(はけ)に似ているのだと。淡い紅色の花が枝先に十数個集まって咲く。 長く伸びた糸状のものは雄しべである。ネムノキの花の構造。ネムノキの花は、花序の周りに側生花があり、中央に頂生花があります。頂生花の雄蕊の花糸は、根元から上の方まで大部分が合着しています。筒状の花弁の基部が他の花より太くなっているのがわかります。この基部に甘い蜜がたまっているそうです。ネムノキはマメ科ネムノキ亜科の落葉高木。豆果は長さ10~13cmの広線形で、種子は10~15個入っている。種子は、長さ1~1.5cmの楕円形で褐色。『ねむの木の子守歌』👈リンク は1965年11月の秋篠宮文仁殿下ご誕生に合わせて作曲され献上された子守歌。歌詞は、上皇后美智子さまが高校時代にお書きになった詩が用いられた。作曲は、山本直純氏の妻・山本正美さん。♫ねんねの ねむの木 眠りの木そっとゆすった その枝に遠い昔の 夜(よ)の調べねんねの ねむの木 子守歌薄紅(うすくれない)の 花の咲くねむの木蔭(こかげ)で ふと聞いた小さなささやき ねむの声ねんね ねんねと 歌ってた故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は今日も歌って いるでしょかあの日の夜(よる)の ささやきをねむの木 ねんねの木 子守歌♫ ・・・END・・・
2023.06.19
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この日5月27日(土)の朝は5時半過ぎに目が覚め起床。天気が良かったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に今年も向かう。藤沢市と横浜市戸塚区の境を流れる「境川」の岸に植栽されているアジサイ群。「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したもので、毎年、アジサイ祭が開催されているのだ。「大清水境川アジサイロード」のスタート地点の「大清水橋」を渡る。左手の上流側に見えたのが「横須賀水道路境川水管橋」海老名市社家の相模川から有馬浄水場経由で田浦配水池へ送水される有馬系統の導水管であると。以前は半原系統の導水管(φ500)も敷設されていたが、需要減少、水質悪化、施設老朽化などに伴い2007年(H19)に取水が停止され、2015年(H27)に系統と共に撤去されたのだと。 構造種別:1径間三弦トラス(1個のトラス構造で上弦材1本と下弦材2本の三角形構造) 河口からの距離:7.1km 橋の長さ:約57m 水管径:φ1000 完成:不明「神奈川県立藤沢清流高等学校」前に車を止め散策開始。アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさあい/あづさい)」がなまったものとする説である と。まだ花のピークには1週間ほど早かったろうか?紫陽花の漢字の由来は、唐の詩人、白居易(はくきょい)が招賢寺というお寺を訪れた時、お寺に咲いていた紫色の花を「紫陽花」と名付けたことから来ているのだ とネットには。しかし「紫陽花」は日本原産ですからこれは誤り?で、白楽天が詩に詠んだ花とは違うのでは??。淡いピンクに染まったアジサイ・「紫陽花」。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。 ●七変化(しちへんげ):七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変える ことからついた別名 ●四片・四葩(よひら):「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな):丸く集まった装飾花の形から ●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。 ●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽 ●八仙花(はっせんか):「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前花(萼)の色はアントシアニンという色素によるもので、アジサイにはその一種のデルフィニジンが含まれている。これに補助色素(助色素)とアルミニウムのイオンが加わると、青色の花となる。アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。花色は花(萼)1グラムあたりに含まれるアルミニウムの量がおよそ40マイクログラム以上の場合に青色になると見積もられている。ただし品種によっては遺伝的な要素で花が青色にならないものもある。これは補助色素が原因であり、もともとその量が少ない品種や、効果を阻害する成分を持つ品種は、アルミニウムを吸収しても青色にはなりにくい。土壌の肥料の要素によっても変わり、窒素が多く、カリウムが少ないと紅色が強くなる とウィキペディアより。また、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こるのだ と。日本に自生していたガクアジサイ(額紫陽花)が母種となり、西洋にわたって品種改良されたものが世界の紫陽花の主流になったのだ と。青のガクアジサイ(額紫陽花)。紫陽花の花は、装飾花と両性花から出来ていると。まず、装飾花とは、一般的に花と認識されている部分のことを指す。つまり、花びらが4~5枚あるように見えている部分のこと。一方で、両性花はガクアジサイやヤマアジサイの花房の中心部分にある、地味な花のことを指す。ガクアジサイの装飾花に囲まれた部分のことです。ちなみに、装飾花で大きく目立つようながく片は、花粉を運ぶ昆虫を呼ぶ際に利用するために発達したといわれているのだ と。西洋アジサイは←が花の部分。「平成16年度藤沢市まづくり賞 受賞ここは、大清水小、中、高等学校がひまわりの苗1200本を植え、境川を美しく彩りました。その活動が、「第23回沢市緑と花いつぱい推進活動」において「まちづくり賞」を受賞しました。」この、ガクアジサイは、「日本で昔から自生していた品種」👈リンク。まるで線香花火の如し。さらに「大清水アジサイロード」を下流に向かって進む。川の向こうに見えたのが「藤沢市民病院」。車で移動し「鷹匠橋」を渡り振り返る。「鷹匠橋」。徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、藤沢御殿が造られた。現在の藤沢市民病院の側であった。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたと。このことから市民病院北東の境川にかかる橋は、『鷹匠橋』と名付けられているのだ。歴史を感じさせる橋名。藤沢市内にはもう一つの「鷹匠橋」がある。こちらは「伏見稲荷大社」に向かって進むと引地川に架かる橋であり「大場鷹匠橋」と呼ばれているのである。よって正確には「鷹匠橋」はこの橋のみなのであるが。構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m完成:1990年(H2)欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドガラスの如き絵が飾られていた。近づいて。下を流れる川は横浜市との市境になっている「境川」。前方に藤沢バイパスに架かる「境川大橋」。「境川」の上流側を見る。「鷹匠橋」の欄干には同テーマの造形作品も。近づいて。白いスミレの花であろうか。別の場所のステンドグラス。「さかいがわ(境川)」。歩道にもタイル模様が。モンシロチョウの飛ぶ姿が微妙に異なるのであった。車に戻ったが、昨年は右岸にも多くのアジサイが植栽されていたが、今年はそのアジサイの姿が全く無かった。この場所は「境川サイクリングロード」の「藤沢・大和自転車道」になっているため、このサイクリングロードの安全確保の為なのであろうか? ・・・つづく・・・
2023.06.19
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東京ステーションギャラリー案内「歴史と未来をつなぐ東京駅の美術館東京ステーションギャラリーは、1988年、「小さくとも本格的な美術館」をモットーに、駅を単なる通過点ではなく、香り高い文化の場として皆様に提供したいという願いを込めて、東京駅丸の内駅舎内に誕生しました。」「Art museum in one of the busiest stations in JapanTokyo Station Gallery was established in 1988 within the Tokyo Station Marunouchi Building, which is designated as an important cultural property of Japan.The red brick wall of the exhibition rooms embodies more than 100 years of the station's history.We hold exhibitions of modern to contemporary visualculture of Japan and the world.」 東京ステーションギャラリーでは2023年4月15日(土)~6月11日(日)の間、展覧会「大阪の日本画」を開催中であった。明治から昭和前期にかけて大阪で生まれた日本画に光をあてた本展には、大阪中之島美術館が長年かけて収集したコレクションと、全国から集めた優品とをあわせた約150点を出品。(会期中、展示替えあり)。本展は、大阪中之島美術館で開催(1/21~4/2)の「開館1周年記念特別展 大阪の日本画」の巡回展であるとのこと。(内容は一部異なる。)中村貞以「失題」大正10年(1921) 大阪中之島美術館脇息(きょうそく)に両肘をつき、足を崩した女性が画面いっぱいに描かれている。頭と腕を断ち切り、彼女が身にまとう朱色の着物が画面の半分以上を占める大胆な構図に特徴がある作品。肩や大きく膨らんだ腰回りの体のライン、背後で円を描く帯、脇息の脚など各所で曲線が強調され、ボリューム感やリズム感が生まれている。脇息とは畳や床に座った時に肘を置いて休むための座具で座椅子と合わせて使う「肘掛け」。美人と言うより愛嬌のある顔。着物には蝙蝠の金色の柄が。中村貞以は手が不自由であったため、両手の間に絵筆を収めた「合掌描き」でこの作品を描いたのだと。「開館時間 10:00~18:00」別の絵画のポスター。生田花朝「天神祭」昭和10年(1935)頃 大阪府立中之島図書館日本の三大祭りの一つ、大阪の天神祭。生田花朝が描いているのは徳川末期の天神祭の光景。市内を流れる大川(旧淀川)に浮かぶ船渡御は今も盛んで、その花火大会は大阪を代表する花火。さらに。菅楯彦「阪都四つ橋」昭和21年(1946)鳥取県立博物館古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」を確立した菅楯彦(すがたてひこ)の作品。四つ橋は、長堀川と西横堀川が交差する地点に「ロ」の字型に架けられていた上繋橋、下橋、炭屋橋、吉野屋の4つの橋の姿を一括して称した名称である。現在は埋め立てられているが、かっては道路、水路、市電にとっての重要な交通の要所であるとともに大阪名所として知られていた。楯彦は行き交う人々や露店の様子など、市民の憩いの場であった四つの姿を温かみのある筆致で描いている。まだまだ!!島成園「祭りのよそおい」大正2年(1913)大阪中之島美術館祭りのため、上等な着物と履物、髪飾りをつけた左に座るニ人。並んで座る絞り染を着た少女は簡素な帯をつけ、羨ましそうな眼をニ人に向ける。離れたところから三人をじっと見つめる少女は素足に草履姿で、髪飾りはたった一輪の野辺の花。親の経済状況が残酷に反映されて子供社会にも明らかな貧富の格差があることを、21歳の成園は少女の表情や装いを描き分けて見事に表現した。これでもかと!!「北野恒富「宝恵籠(ほえかご)」昭和6年(1931)頃 大阪府立中之島図書館1月10日の「十日えびす」に合わせて行われる伝統行事「宝恵籠駕籠行列」に乗る若い舞妓が、柔らかく明るい画風で描かれているのであった。伏し目がちな眼差しが悪魔派?なのか。しかし、キリッとした表情で、商いの町に生きる女性の意志の強さが出ているのだと。さらに、絞りの帯が細かく精細に描かれているのであった。その他にも、「様々な作品」👈リンク が展示されていると。そして最後に八重洲口への地下道を歩いて八重洲口へ。JR東海は、2023年5月20日よりJR東京駅の「八重洲コンコース」で、実寸大の空也上人立像などを展示する「空也上人大集合展」を実施していたのであった。スペースには47体の立像パネルがズラッと並んでいた。各地の方言で「そうだ 京都、行こう。」が書かれているのであった。「空也上人大集合展」。JR東海によると、東海道新幹線の5月1~15日の利用状況は前年比30%増となったが、新型コロナウイルスの影響などを受けていない令和元年比では3%減。今回のキャンペーン効果でさらに新幹線利用を促していきたい考えで、「(六波羅蜜寺に展示されている)本物の空也上人立像にも会いに京都にきてほしい」としている。「そぎゃんばい 京都、行かんば。」と佐賀県の方言で。空也上人の「顔出しパネル」も。「重要文化財 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀」。レプリカ?であったが、本物は六波羅蜜寺でも撮影出来ないので貴重な機会であった!!廻り込んで。平安時代の中期に「南無阿弥陀仏」を唱えて人々に念仏を広めた六波羅蜜寺の開祖である空也上人の像である。空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えるとその一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻化している。彫刻自体は、鎌倉時代前期の作で、運慶の四男・康勝の作である。左手には鹿の角のついた杖を持ち、布教のために履きこんだ草履で大地をしっかりと踏みしめ、痩せてはいるが民衆と共に生活 した空也上人の力強さを表現している。布教だけでなく、橋を架けたり井戸を掘るなど「市聖」と呼ばれ民衆から慕われた空也を生き生きと表現していて、その 写実的な表現からは空也の死後250年ほど経ってから制作されたとは思えない生命力が感じられるのであった。開いた口から木造の小さな阿弥陀立像が六体現れ出るさまは、「空也上人」👈リンクが「南無阿弥陀仏」の名号を唱えると、その声が阿弥陀如来の姿に変じたとする伝承を立体化したものとして有名である。そして八重洲中央口改札を入り、中央通路を少し進んだ場所にある銅像「仲間」。「仲間」の像は日本を代表する圓鍔勝三氏による作品で、歴史ある作品の1つとして東京駅の中でも存在感のあるスポットとなっているのであった。そして久しぶりに、元同僚と合うために山手線を利用して五反田駅に向かったのであった ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.18
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「丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)」の全作品を訪ねた後は再び東京駅前の「行幸通り」まで戻り、「東京駅丸の内駅前広場」越しに「東京駅舎」を見る。皇居を冷熱源、行幸通りを風の道とした、大丸有地区の再開発が行われたのだ。皇居とJR東京駅に挟まれた地域である大手町、丸の内、有楽町(大丸有地区)において、皇居を公園風の冷熱資源とし大丸有地区のヒートアイランド対策として活用することを実施。東京駅中央の上部の東西方向を「風の道」とし、高層ビルの建設を避けて、「風の道」を確保した。これにより、東京湾から八重洲通りを通り、皇居へ抜ける「海風の道」も確保出来たのである。さらに、具体的には、皇居から東京駅へ通じる行幸通りに街路樹を4列植栽するとともに、保水性舗装を敷設。また、再開発で建築した建物に壁面緑化、屋上緑化を施 したり、ミスト散水装置を設置するなどの対策が行われているのであった。東京駅舎は辰野金吾と葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった。埼玉県深谷市から鉄道輸送されたレンガと鉄筋造り、3階建て総建坪9,545 m2・長さ330 mの豪壮華麗な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。中央の玄関は皇室専用とされ、規模は小さいものの、細かい装飾が各所に施されていた。中央玄関と東西の一般出入り口との間に、各1つ別の出入り口があるが、これは荷物の搬入搬出口として設けられた。開業年の1914年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、青島の戦いを指揮した陸軍司令官神尾光臣中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。式典では、鉄道の草創期から建設を牽引してきた大隈重信首相が演説した。アムステルダム中央駅が当駅舎を設計する際のモデルになったという説があるが、1988年以降に藤森照信らをはじめとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、否定的な意見も出ている。辰野は英国留学の経験があり、首都ロンドンのターミナル駅を参考にした可能性もあるとのこと。「東京駅丸の内中央口」を正面に見る。振り返って、皇居「坂下門」方向を見る。東京駅から皇居へ通じる行幸通りに街路樹を4列植栽しているのであった。JR東日本は、東京駅の丸の内駅前広場の全面供用を2017年12月7日より開始した。重要文化財にも指定されている丸の内駅舎の保存・復原工事が2012年10月に完成し、駅前広場の工事を2014年8月より進めたのであった。広場の中心部には大きな歩行者空間「丸の内中央広場」、その南北に交通広場を配置した駅前広場を整備した。「丸の内中央広場」は、皇居前広場への軸線を意識したケヤキの列植、行幸通りとデザイン的な統一を図った舗装や照明デザイン等により、丸の内駅舎とともに日本を代表する都市景観を創出し、東京駅周辺の都市観光の一役を担うことを目指す。植栽への散水は、丸の内駅舎の排水を浄化処理した再利用水を用いる。交通広場は、都道を広場外周に再整備し、路線バスやタクシー等の交通結節機能を南北に集約した。下の写真はネットから(一部加工)。南口方向の「ドーム」をズームして。復原前は板張りだった屋根が、見事なドーム形状に。「丸の内中央口」~「北口」を見る。「大名小路」そして「新丸の内ビルディング」方向を見る。外側から見ればふっくらとした形状へと戻され、駅舎全体のクラシックで重厚な雰囲気の中でポイントとなるドーム。時計は直径約1.4メートルで、駅舎の象徴である南北2か所のドーム近くにそれぞれ設置されていた。戦後から工事前まで使用されていた時計の文字盤は洋数字だったが、1914年の開業当時に合わせてローマ数字にしたのだと。北口ドーム~丸の内中央口間を見る。そして「丸の内中央口」。東京駅は、明治29(1896)年2月に建設計画が始まり、18年後の大正3(1914)年12月に駅舎が完成した。駅舎に使われた赤レンガは、現埼玉県深谷市にあった「日本煉瓦製造」のものを767万個、「品川白煉瓦」の白煉瓦を93万個を使用したのだ と。再び正面から。東京駅 丸の内駅舎 貴賓玄関。まさにロイヤルゲート。駅舎中央には、皇室や貴賓専用の入り口と待合室が。戦前、天皇が東京駅で外国の要人を出迎えることもあったとのこと。外国の大使は、着任すると中央口から馬車や車で出て、皇居に挨拶に向かうのが通例だったと。バルコニーのような車寄せもあり、門まで行く事ができる設計。 正面上部には、時計ではなく円窓が嵌め込まれていた。駅舎の屋根には天然スレートという粘板岩を薄く割ったものが葺かれ、丸の内側正面の一部に石巻市雄勝町産が使用されているとのこと。バルコニーのような「車寄せ」を見る。丸の内南口方向を見る。「工事着工前の丸の内駅舎」と「保存復元された丸の内駅舎」。「銅板葺き【どうばんぶき】屋根の棟類や尖塔は基本的に木下地に0.4mm厚の銅板をはぜ組みして葺く その他の飾り部は銅板に熱を加えなましながら打ち出し成型する パラペットの徳利部分については、ヘら絞リといった現代の技術による復原としている 緑青塗装などの工イジングは行わず、銅板素地の仕上げとし、経年により風合いが変化していく」「天然スレート【てんねんすれ一と】屋根は天然スレートと銅板の構成で葺かれている 創建時の古写真から天然スレートは全て一文字葺きで葺かれていたことが判明し、それをもとに復原した 中央部屋根には、創建時に使用されていたものと同様宮城県雄勝産スレートを葺いている また南北ドーム部には、戦後の改修時に葺かれていた良質な登米産を生かし取り、一部は加工を施し再利用した」「南ドームの正面のヴォールト屋根」(以前に撮った写真)。ヴォールト(英語: vault)とは、アーチを平行に押し出した形状(かまぼこ型)を特徴とする天井様式および建築構造の総称である。「パラペットの徳利」(以前に撮った写真)。パラペットとは、建物の平らな屋上やバルコニーなどの外周部に設置された手すりのような場所のことを指すため、「胸壁」や「扶壁」「手すり壁」などとも呼ばれる。もともと胸の高さまである防壁を指す言葉で、それが転じて人の落下を防止する手すりとなった。建物の屋根やバルコニーなどにパラペットを設けることにより、人や物が転落するのを防止できる。丸の内北口方向を見上げる。再び正面を振り返る。玄関には緑の植栽とともに『東京駅』と刻まれた石碑も。手前が一般用「丸の内中央」出口。2~4階の正面の窓は「東京ステーションホテル」の客室。改装された丸の内駅舎43,000平方メートルのうちホテルは20,800平方メートルと丸ノ内駅舎の半分近くを占め、駅舎の3階部分の大半と4階の一部はほとんどがホテルの客室で、2階にも客室の一部、1階と地下にはホテル宴会場が入っている。東京駅南北のドームの中心の空間を駆り囲むように客室が配置されたドームサイドが28室、駅舎の丸の内側に面して並ぶパレスサイド81室、他にクラシックタイプ29室や室内二階建てのメゾネット7室、スイート4室、ロイヤルスイート1室の合計150室。客室配置図をネットから。正面の「ヴォールト屋根」を再び。北口出口方向を見る。外壁の赤レンガ。覆輪目地【ふくりんめじ】覆輪目地とは断面が半円形の化粧目地のことである縦目地と横目地が交差する部分においては、蟇股(かえるまた)といわれる形状で施工している 覆輪目地には専用の目地鏝(こて)を使用し、熟練した職人が施工にあたった目地幅は縦目地3分(9mm )、横目地2分5厘(7.6mm )と縦横で異なっていた。「覆輪目地」と「蟇股」図をネットから。そして「丸の内北口」のドームの天井を見上げる。薄黄色を基調とした色使いで、万華鏡を覗いた時のような優しい気持ちになれる空間。天頂にあるのは、鉄道の起点ということで機関車の動輪を模した装飾なのでしょうか?。その中央には菊の紋章をデフォルメしたような文様が。菊の文様の外輪には花飾りレリーフがあしらわれていた。復原工事により、創建時の意匠に忠実に復活させた。迫力ある鷲のレリーフは8ヵ所に設置され、方角を示す8つの動物のレリーフがそれぞれの方角に配置されていた。その他、15世紀の武将の兜をモチーフにしたキーストーンや剣型レリーフなど、息を飲む造形美に魅了されるのであった。鷲のレリーフをズームして。東京駅ドーム屋根の網は上からの物の落下防止なのか、ハト除けなのかわからないがチョット残念。この網の為か、ズームにするとデジカメのピントが合いにくいのであった。さらに。まるで大正時代にタイムスリップしたかと思わせるような華麗な装飾が施されたドーム。最上階のガラス窓から陽光が差し込み、ドーム全体を柔らかく照らしていたのです。見上げると1.クレマチスレリーフ、2.鷲レリーフ、3.秀吉の兜をモチーフにしたキーストン、4..剣と鏡のレリーフ、5.干支のレリーフ、6.鳳凰、動輪と矢束のレリーフ、7..ドーム内2Fテラス が見えた。3.秀吉の兜をモチーフにしたキーストン、4.剣と鏡のレリーフ、5.干支のレリーフをズームして。6.鳳凰、動輪と矢束のレリーフ八角形の天井の隅に、干支のレリーフが。調べてみると、これらは、方角を示しているのだそうです。丑(北北東)、寅(東北東)、辰(東南東)、巳(南南東)、未(南南西)、申(西南西)、戌(西北西)、亥(北北西)。『戌(いぬ)(西北西)』。『亥(いのしし)(北北西)』.『丑(うし)(北北東)』。『寅(とら)(東北東)』。ドームした床面のタイル模様を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.17
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「丸の内三菱商事本社」入口にあった安田侃(やすだかん)さんの作品。作品名は「天空」と。世界的に有名な彫刻家で、イタリアで長年学び、ミケランジェロも使っていた大理石の産地、ピエトラサンタにアトリエを構えていた彫刻家である と。これも丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)の展示品ではないようであった。新緑の美しい「丸の内仲通り」。そして⑨パヴェル・クルバレク スイス ニケ 1989 1991 鉄 塗料【1928年にチェコスロバキアの7代にわたる鍛冶屋の家に生まれ、1968年にスイスに移住しました。「私の作品は、鍛冶屋だからこそできること。古典的で抽象的な彫刻で自分自身を表現することができます。」と生前に答えています。1980年以降は公共の環境芸術のために活動し、この作品はルーブル美術館で所蔵されている《サモトラのニケ》のオマージュ作品で、高さが7メートルにも及びます。】「パヴェル・クルバレク (スイス)Pavel Krbalek (Switzerland)ニケ 1989 1991Nike 1989公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」ズームして。さらに。右手に「東京駅」が姿を現した。「東京駅丸の内駅前広場」越しに「東京駅」を見る。ズームして。更に進み右折して、「丸の内 1st 通り」沿い、「新丸の内ビルディング」前にあったのが⑩イゴール・ミトライ (ポーランド) 眠れる頭像 1983 大理石【ギリシャ彫刻のような端正な顔は、包帯で覆われ、永遠の瞑想にふけっています。その意識は内へ向かい、自分自身をみつめています。ミトライは「私は、絶え間なく人間を探求しながら、私自身の根源を再び見いだそうと努めている」と語っています。1981年、彼にとって理想的な素材となるイタリア、カラーラの白大理石に出会います。カラーラの近くのピエトラサンタにスタジオを構え、大理石とブロンズを素材に制作しました。】「イゴール・ミトライ (ポーランド)Igor Mitoraj (polish)眠れる頭像 1983Sleeping Head株式会社ニッポン放送蔵(彫刻の森美術館 寄託)Collection of Nippon Broadcasting System,Inc.Trust at Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate CO. , Ltd.」顔を覆う包帯の曲線美。作者 Mitoraj の文字が刻まれていた。首の端部をズームして。止めどない想いが溢れ出るが如くに。後ろ側から。そして「丸の内1st通り」との交差点から右に見えたのが「日本工業倶楽部会館」。日本工業倶楽部創立後直ちに建設が計画され、1920年(大正9年)11月、地上5階、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造の会館が 丸の内の旧伝奏屋敷跡に完成した。設計は横河民輔、ファサードは松井貴太郎、インテリアは橘教順と鷲巣昌が担当した。日本における数少ない本格的なセセッション様式であり、全体に「雅にして堅」を旨とし、国賓を迎えることを考慮して、正面玄関にはドーリア式オーダーのエントランス・ポーチが配され、正面階段も広くとられた。正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、戦前の日本経済の中心であった石炭(ハンマーをもった男性)と紡績(糸巻きを持つ女性)を表現している。日本工業倶楽部の事務局が置かれ、戦後はかなりの間、経団連、日経連、経済同友会も事務局を置いていた。1999年8月23日、登録有形文化財として登録されたが、老朽化のため、2003年3月に会館の南側部分を保存・再現したうえで建て替え、三菱信託銀行本店ビルとして竣工した。「日本工業倶楽部会館」前から戻り、「丸の内仲通り」を進むと右側にあったのが⑪ティモ・ソリン フィンランド日光浴をする女 1995 ステンレス・スティール 塗料【スウェーデンを代表する彫刻家、また画家でもあるティモ・ソリンは、1947年にフィンランドで生まれ、ヘンリー・ムーアの作品に感銘を受け、1982年より独学で彫刻の制作を始めました。金属プレートを折り曲げて、力強い色彩で彩った人物を多く制作し、「日光浴をする女」は、陽光の中で人生を積極的に生きる情熱と活力を感じながら座っている女性を表現しています。同作家の作品「守護者」(1992年)が美ヶ原高原美術館に展示されています。】近づいて。「ティモ・ソリン (フィンランド)Timo Solin (Finnish)日光浴をする女 1995Sunbather公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」道路側から。次に訪ねたのが⑯レナーテ・ホフライト ドイツ 凹凸のブロンズ 1989 ブロンズ【1950年、ドイツに生まれ、シュトゥットガルト州立美術アカデミーで版画と彫刻を学びました。この作品は、ブロンズの表面が風景を映しこみます。凹面は風景(丸の内テラス)を光学的に縮小した反転画像として反映し、凸面は風景(車道)を吸収するように見え、その曲率の最高点で最も深い錯覚を示します。太陽光を受けて光り輝き、作品の中に空間が取り込まれ、一体になることを意識して制作されました。】「レナーテ・ホフライト (ドイツ) Renate Hoffleit (German)凹凸のブロンズ 1989Convex公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」横から凸のブロンズ部を見る。さらに「丸の内仲通り」を「永代通り」に向けて進む。「丸の内 永楽ビル」前にあったのが⑬ルイジ・マイノルフィ イタリア巨大な町 1987 ブロンズ【1948年、イタリアのロトンディ生まれ。第5回ヘンリー・ムーア大賞展で優秀賞を受賞したこの作品は、古代イタリアにアイディアを得て制作されました。遠くからは青銅色のふくよかな人の形にみえますが、近寄って見ると、全体に窓状の空隙が無数に施されています。丸の内仲通りの展示では、昼と夜の都市の様子を表現するために、夜には作品の内側から光を照らし、窓から漏れるあたたかい街明かりを幻想的に表現しています。】「ルイジ・マイノルフィ (イタリア)Luigi Mainnolfi (Italian)巨大な町 1987Giant City公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」そして「丸の内仲通り」のメイン道路は「永代通り」のここまで。更に緑あふれる「大手町の森」に向けて緑道を進む。カシワバアジサイが見事な姿で迎えてくれた。近づいて。「都心の真ん中に生まれた、自然の森、郷土の森あらかじめ別の地で森を育み移植する。かってない試みから生まれた3,600m2の自然の森。」。東京の中心地、大手町の高層ビル群の谷間の3,600㎡の敷地に作られた「大手町の森」。「大手町の森」にはビルと一体化された江戸城の石垣が再現されていた。再現された江戸城の石垣に近づいて。「OOTEMORI」。約幅3m×高さ2mの巨大黒板をキャンバスにした、チョークアーティスト「福満智子」さんのLIVEアートである と。実際に森に生息する鳥や昆虫、植物を主のモチーフとして色鮮やかに、そして大手町タワーの建物や木々をモノトーンで背景に描くことで、アートに奥ゆかしさも表現され深みのある作品。「大手町ビル」の地下街を見る。そして一度外に出て「大手町ビル」の中央エントランス前に到着。左右2カ所のガラス上に設置されていた作品を見つける。ビル内に入って。⑤松尾高弘 日本 Prism ”Dahlia+Peony” 2022 プリズム光学樹脂、アクリル、スチール【エモーショナルな光のアートを追求し、空間アートの分野で国内外のさまざまなプロジェクトを手掛ける松尾高広の花をモチーフとした美しい新作。ガラスの窓際に設置されたダリアとピオニー2種類の花を光の結晶として表したプリズムは、365日24時間1秒たりとも同じ姿を見せない光の変化と共に見えた方を変える「生きるアート作品」であると。無機質な大手町のオフィスビルに咲いたプリズムの花】 と。近づいて。さらに。三菱東京UFJ銀行新丸の内支店入口に黒光りしたアート作品的な大黒様が。黒御影石でできていて、名前の通り、なでると金運がアップするとのこと。「さわり大黒」の名が。「大手町タワー」を見上げて。「みずほ銀行大手町本部ビル(旧富士銀行本店)と大手町フィナンシャルセンター跡地を合わせた地区で行われた再開発事業で建設され、オフィスの他に高級ホテルや店舗が入居する複合高層ビルである。みずほフィナンシャルグループの本社・みずほ銀行本店や、アマンリゾーツが手がける高級ホテル「アマン東京」が入居している。大手町エリアにおいては常磐橋タワー(212m)、読売新聞ビル(200m)に次ぐ199.7mを誇る」 とウィキペディアより。「永代通り」案内図。東京都千代田区の皇居大手門前の大手門交差点から江東区の清砂大橋西詰交差点に至る道路であり、東京都都市計画道路環状1号線・放射16号線の一部として指定されている。再び「丸の内仲通り」まで戻る。「丸の内仲通り」の「永楽ビル」前にあったのが⑫ジュゼッペ・スパニューロ 無題 1995 ブロンズ【幼少期から陶芸に慣れ親しみ、作品の素材は多岐にわたります。この作品にはタイトルがないので、様々な解釈ができます。具象的な人間の部位に見えるかもしれませんが、実際には存在しないので、抽象的な作品かもしれません。また、ブロックのような塊が無機質な作品に見えますが、有機体のように見ることもできます。ようするにこの作品は、永遠に満足感を得る事ができない、人間の中にある欲望のジレンマを表しています。】「ジュゼッペ・スパニューロ (イタリア)Giuseppe Spagnulo (Italian)無題 1995Untitled公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」そして丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)巡りの最後に訪ねたのが東京駅丸の内北口。「丸の内ホテル(MARUNOUCHI HOTEL)」を見る。⑥三沢厚彦 日本Animal 2017-01-B2 2017-2019 ブロンズ 塗料「三沢厚彦 (日本)MISAWA Atuhiko (Japanese)Animal 2017-01-B2 2017-2019作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate CO. , Ltd.」【三沢は動物をテーマにした「アニマルズ」を発表し、支持を得ています。ブロンズをほぼ等身大に彫り込み彩色をした動物たちが存在感を放ち、見るものの記憶やイメージを喚起します。「クマ」と聞くと可愛らしいキャラクター、獰猛な動物と、相反するイメージが共存しており、この作品では中間的な表現をしています。二足で威嚇するポーズはクマらしい象徴的なものですが、様々な目的で大都会を行き交う人々を俯瞰して眺めています。Profile 1961年京都府生まれ。1989年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了。2000年動物の姿を等身大で彫った木彫「Animals」を制作開始。主な受賞歴に2001年第20回平櫛田中賞、2019年第41回中原悌二郎賞など。近著に2013年の作品集「ANIMALS NO.3」(求龍堂)、「動物の絵」(青幻舎)。】後ろ姿を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.16
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前方に「特例都道 406 皇居前鍛冶橋線」との交差点が。「千代田区皇居外苑」を起点とし「千代田区丸の内三丁目」を終点とする、延長 760 mの短い道路。「特例都道」とは、道路法第89条により、特別区の区域内だけに認められた都道で、道路法第7条の認定基準によらず、関係区長と協議し、都議会の議決を経て認定した道路。国土交通大臣との協議は、必要ないのだ と。横断歩道の先右手にあったのが「丸の内パークビルディング」と「丸の内ブリックスクエア」。「丸の内パークビルディング」の低層部に商業ゾーンとして2009年に開業した「丸の内ブリックスクエア」。「丸の内コンフォート」をコンセプトに、高感度でこだわりのあるファッション・雑貨、日本初進出のレストランなどが出店、黒を基調とした重厚で落ち着いたデザインとレトロな雰囲気が魅力の商業施設。 その向かいにあったのが「ティファニー 丸の内店」。時計を抱えているのはギリシャ神話に登場するアトラス。肉体派である。この「東京国際フォーラム西」交差点を渡り、右折すると左側にあったのが「三菱一号館美術館」の建物。1894年にジョサイア・コンドルが設計した「三菱一号館」を忠実に再現した赤レンガづくりの「三菱一号館美術館」。明治期の銀行営業室を使用した趣あるカフェ「Cafe 1894」はおすすめ と。右側には「新東京ビル」。「東京国際フォーラム西」交差点を左折し赤レンガの「三菱一号館美術館」を見る。「三菱一号館美術館はただいまメンテナンス中」と。設備入替および建物メンテナンスのため2024年秋頃まで長期休館中 と。「Digital Gallery デジタルで見る三菱ゆかりの逸品」案内板。下記写真2枚はネットから。曜変天目(稲葉天目) 国宝 建窯 南宋(12-13世紀)。立体物は360°全方向からの高精細デジタル画像を保存。拡大部分。また三菱一号館と丸の内ブリックスクエアに囲まれた中庭の「一号館広場」にはバラやさまざまな草木や噴水、オープンカフェが並んでいた。左側にあったのが白の大理石の作品。⑲アギュスタン・カルデナス キューバ-フランス 拡散する水 1977 カラーラ産白大理石「アギュスタン・カルデナス (キューバ-フランス)Agustin Cárdenas (Cuban/French)拡散する水 1977Water Unfolding公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【1927年キューバに生まれ、1955年にパリに移住しました。シュルレアリスムの最後のグループの一員であり、数多くの展覧会を開催しています。自身のルーツであるアフリカの原始美術を思わせる造形志向と、官能的な叙情性のある作品は、人間とも植物とも連想できるような、融合した造形を特徴にしています。この作品は広がる水を有機的に表現していますが、生き物のような生命力も感じさせます。】廻り込んで。⑱ヘンリー・ムーア イギリス 羊の形(原型)1971 ブロンズ【ヘンリー・ムーアは世界の近代美術シーンを代表するイギリスの彫刻家です。ムーアの作品は、自然の形態からアイディアを得ています。その制作の過程として、最初に小さなマケット(雛型)を作り、風景の中に彫刻を置くことを想定しながら中間サイズの「原型」へと拡大させます。この原型から高さ5m70cmに拡大された野外作品は、イギリスのヘンリー・ムーア財団が所蔵しています。展示している一号館広場はイングリッシュ・ガーデンがイメージされています。】「ヘンリー・ムーア (イギリス)Henry Moore (British)羊の形(原型) 1971Working Model for Sheep Piece公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」⑰バーナード・メドウズ イギリス 恋人たち 1981 ブロンズ【1950年、ドイツに生まれ、シュトゥットガルト州立美術アカデミーで版画と彫刻を学びました。この作品は、ブロンズの表面が風景を映しこみます。凹面は風景(丸の内テラス)を光学的に縮小した反転画像として反映し、凸面は風景(車道)を吸収するように見え、その曲率の最高点で最も深い錯覚を示します。太陽光を受けて光り輝き、作品の中に空間が取り込まれ、一体になることを意識して制作されました。】「バーナード・メドウズ (イギリス)Burnard Meadows (British)恋人たち 1981 The Lovers公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」場所を移動して。表面が鏡面のため周りの世界が映り込むので、外側から鑑賞しているのではなく、逆に作品の内側から私たちが覗かれているような感覚を覚えるのであった。反対側から。そして三菱「一号館広場」の庭園・中庭を振り返る。それぞれの彫刻作品の曲線に癒やされる空間なのであった。ヘンリー・ムーア:ピースフルな彫刻「羊の形」。次に訪ねたのが「丸の内仲通り」側にあった⑧澄川喜一 日本 白のマスク 1969 ポリエステル樹脂 塗料【日本の近代彫刻を代表する彫刻家で、東京スカイツリーのデザイン監修など環境造形も手がけています。「白のマスク」は「MASK」シリーズの一つで、アフリカの仮面や日本の甲冑への関心と、古代人の顔の復元に携わったことが発端となっています。作品上部には凹みとノミ跡があり、有機的なかたちとシャープなフォルムが組み合わされています。彫刻の内部の構造を表面に出したいという作家の意図がこめられています。】ズームして。廻り込んで。「澄川喜一 (日本)SUMIKAWA Kiichi (Japanese)白のマスク 1969Mask of White公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」反対側から。「丸の内仲通り」の歩いて来た方向を振り返る。左手に「新東京ビル」、右手に「丸の内二重橋ビル」。「丸の内2丁目ビル」前にあったのが③H&P.シャギャーン 日本 Matching Thoughts 2022 ブロンズ 塗料「H&P.シャギャーン (日本)H&P.Chaguin (Japanese)Matching Thoughts 2022作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【本作品はアンリ・シャギャーンとピエール・シャギャーンが2004年にウィーンで制作した2枚の絵をもとに造られた立体作品である。当時の作品をベースに、単にビジュアルが目立つだけでないものを目指した。現代アートとしてはマテリアルも古く、革新的な造形ではないが、ディテールやそのなかに潜むエスプリに、2人が持っている近代彫刻へのリスペクトをどれくらい込められるかが課題であり、この2体の彫刻に反映させている。それらを表現するための作品素材として、扱いづらいモルタルを用い、その素材の変化する様も楽しみセッションを重ねた作品制作の中には、互いへの信頼や共鳴がうかがえる。また、モチーフとなった二者の関係性やコミュニケーションは、見るものに委ねられるが、どんな鑑賞をも享受するような作家の思いを感じる作品である。「永遠の新人」として存在する2人のアーティストは、常に制作の原点を模索しながらアートの可能性を追求している。】そしてその先にあったのが、ラグビーボールを持つ選手の像。この像は、「丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)」の展示品ではないようであった。「丸の内15丁目PROJECTRUGBY BENCH ARTリーチマイケルMICHAEL LEITCH所属/東芝ブレイブルーパス 生年月日/ 1988年10月7日身長/189cm 体重/113kg 血液型/ A型日本ラグビー界を代表する闘将。彼の力強さとラグビーのもつ躍動感をベンチアートで表現。Team /Toshiba Brave Lupus Date o fbirth/October 7,1988Height/189cm Weight /113kg Blood type /AThis piece of bench art depicting a renewned Japanese rugby leaguechampjon communicates his power and the excitement of the sport of rugby.」丸の内1 5丁目PROJECT.は、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーを務める三菱地所が、ラグビーの様々な魅力に注目し、今までにない新たなラグビーの魅力を発信するプロジェクトです。2019年、ラグビー日本代表のパレードが行われた街・丸の内。ラグビーが日本の文化として根付き、更なる発展を遂げる為に、この街を舞台に、にわかファンもコアファンも、丸の内15丁目住民として一緒にラグビーを盛り上げていきましよう。」精悍な顔立ち。後ろ姿を。丸の内二丁目ビル前を進む。その先「丸の内仲通りビル」前にあったのが①舟越桂 日本 私は街を飛ぶ 2022 ブロンズ 塗料【舟越桂は、日本を代表する彫刻家のひとりである。人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、記憶や思い、自然、個人の心の中にもある距離や空間的広がりを表している。パブリック作品としての希少さもさることながら、着彩されたブロンズ作品としては自身の初作品となる。作品が設置される場所の日の動きまでも考慮し着彩された人物像は、静謐さの中にも華やかさと上品さを感じ、時間や季節の移り変わりと共に、街の喧騒と静けさに寄り添いながら、通る人々に「記憶」や「想い」を語りかけるであろう。Profile 1951年、岩手県生まれ。父は彫刻家・舟越保武。父の影響で彫刻家を志す。75年、東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業。77年、東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2005年からは人間と動物との混交像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。】「船越 桂 (日本)FUNAKOSHI Katsura (Japanese)私は街を飛ぶ 2022I fly abobe the city作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」語りかけるように佇む人物の頭部には、教会、本、並木道が配され、それらは、記憶や思い、自然、人が信じる道を表しているのだ と。そして日射しの陰が青く表現されていた。天候、時間によって変化する陽射しによって、様々な表情に変わっていくのだと。頭部の、教会、本、並木道をズームして。顔に近づいて。後ろ側から。さらに進むと「Marunouchi 2nd st.」、右手奥には「東京駅丸の内南口」が見えた。次に訪ねたのが④名和晃平 日本Trans-Double Yana(Mirror) 2012 アルミニウム【3Dスキャンしたポリゴンの表面にエフェクトをかけ、そのデータを再び実体化する「Trans」は、2012年から続く彫刻作品シリーズ。人体モデルから読み取った情報が、質量をもつ物質に還元される過程において、流動性のある三次局面が生成され、情報データという表皮をまとった立像が形作られます。影と実体、現実とヴァーチャルの境をさまよう「Trans」は、虚ろなエネルギー体となって、現代における存在のリアリティーを問いかけます。Profile 彫刻家/Sandwich Inc.代表/京都芸術大学教授 2003年京都市立芸術大学大学院美術研究科博士課程彫刻専攻修了。感覚に接続するインターフェイスとして彫刻の「表皮」に着目し、セル(細胞・粒)という概念を機軸に、彫刻の定義を柔軟に解釈し、鑑賞者に素材の物性がひらかれてくるような知覚体験を生み出してきた。】「名和晃平 (日本)NAWA Kohei (Japanese)Trans-Double Yana(Mirror) 2012作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」」廻り込んで。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.15
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「ザ・ペニンシュラ東京」の丸の内仲通り側のガラス窓にあった巨大写真。「丸の内仲通り」に入り「蚕糸会館」前を通過。「丸の内仲通り」は、日比谷駅近くの晴海通りから、東京駅前の行幸通りを結ぶ丸の内のメインストリート。石畳や道の両側の街路樹が美しい通り沿いには、有名ブランドの路面店やハイセンスなレストランやカフェ、オフィスビル、商業施設などが軒を連ねるのであった。そして紅葉の季節が訪れると、色鮮やかに、そして冬にはイルミネーションが施される。秋から冬の季節は一味違う景色の丸の内仲通りも味わえるのだ と。沿道には三菱グループ各社のビルが立ち並び、「三菱村」と称される。丸の内仲通りはアートの通りである。有楽町寄りから大手町までの1.2キロの両側に、色々な19人のアート作品が展示されている。ここは「丸の内ストリート・ギャラリー」と命名されている。ホームページによると『1972年より三菱地所㈱と公益財団法人「彫刻の森芸術文化財団」が、芸術性豊かな街づくりを目指し、丸の内仲通りを中心に近代彫刻や、世界で活躍する現代アートティストの作品を、数年に一度入れ替えながら展示して行くプロジェクトです』と。昨年の6月、4年ぶりにリニューアル。作品19点中、継続は2点で、新作が5点、入れ替えが12点に と。丸の内ストリートギャラリー(MARUNOUCHI STREET GALLERY)案内地図。下の案内地図の上から下に向かって歩いたのであった。こちらは、横に番号入り、カラー表示で。「新国際ビル」の前にあったが⑮キム・ハムスキー ヴェトナム-フランス ルネッサンス 1985 ブロンズ以下、【】内の【説明文】は「Tokyo Live & Exhibits」👈リンクから全て転記させていただきました。【1943年、北ベトナム生まれ。ハムスキーの作品は、フランスのポンピドゥ・センターなどにも所蔵されています。人間の顔や椅子などの表皮を部分的にめくったような幻想的な作風です。木彫を得手としていて、緻密で細やかなその手技は卓越した技術をうかがえます。めくれた頭皮がそのまま髪になり、枕代わりにもなっていて、細かいディティールを浄化させ、半眼で能面を思わせる表情は夢幻のように超現実的な雰囲気が漂います。】移動して。近づいて。「キム・ハムスキー (ヴェトナム-フランス)Kim Hamisky (vietnamese/French)ルネッサンス 1985Renaissance公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」「国際ビル」前にあったのが⑭ジム・ダイン アメリカ 展望台 1990 ブロンズ 塗料【アメリカを代表するポップアートのアーティストの一人。抽象表現主義的なタッチで描いた画面に、日用品を取り付けた絵画を制作しています。《展覧台》は、《ミロのヴィーナス》を実物よりも小さく模し、頭部を失くして面取りした2体を、ブロンズの台に乗せたもの。「私は自分の伝記の記述者であることにしか興味はない」と述べる通り、《ミロのヴィーナス》も作家の情感を反映したものに変貌させられています。】「ジム・ダイン (アメリカ)Jim Dine (American)展望台 1990The Lockout Tower公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団蔵Collection of Chokoku-no-Mori Art Foundation主催 三菱地所株式会社Organaized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」ここから先は「歩行者専用(平日11:00~15:00 土日・祝日:11:00~17:00)」になっていた。「丸の内二重橋ビル」前にあったのが②中谷ミチコ 日本 小さな魚を大事そうに運ぶ女の子と金ピカの空を飛ぶ青い鳥 2022 ブロンズ 塗料【魚の泳ぐ水をスカートで大事そうに運ぶ女の子は妊婦です。全ての人は胎児だったから、この作品の主は魚です。虚と実を行き来しながら、揺らぎの中で確かなモノを探すためには、やはり物質とそれが作りだす凹凸を手探りすることが自分には大切で、だから私は彫刻を作っているのだろうと思います。凹凸に起こる無数の反転が、見る人の身体を取り込みながら、作品と一人一人の間に結ばれる関係を「唯一のもの」とする場所にしたいと思いました。Profile 1981年、東京都生まれ。2012年ドレスデン造形芸術大学修了。一般的なレリーフとは異なり凹凸が反転している立体作品を制作。物体の「不在性」と「実在性」を問い続けている。2014年より工場を改装した「私立大室美術館」で毎年敬老の日限定で個展を開催するプロジェクト「When I get old」を実施する。】ズームして。更に顔を。「中谷ミチコ (日本)NAKATANI Michiko (Japanese)小さな魚を大事そうに運ぶ女の子と金ピカの空をル青い鳥 2022A Girl Who Carries a Small Fish Carefully and a Blue Bird Flying in Your Golden Sky作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organaized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」裏面は鏡面磨きになっていて、金色の支持体の中に見る人やその人の背景が映り込みむ。ただし、表面は微妙に歪んでいるので、映し出された現実の世界はゆらぎ、唯一のモチーフである「青い鳥」だけがはっきりと虚像の中に浮かび上がりるのだ。その下に私の姿も。「青い鳥」をズームして。よく見ると、女の子も鳥も凹んでいるのであった。中谷ミチコさんは、粘土で作った原型を石膏で型取ると凹みが入れ替わることに注目し、モチーフの凹凸が逆転したレリーフ作品を数多く手掛けているとのこと。生で「これは凹面!」と自分に言い聞かせながら観れば凹面だとわかりますが、写真を撮る角度を変えても、もはや凸面にしか見えないのであった。見る場所によって、顔の向きが自然に変化する不思議な作品。この作品を私が観るというよりは、この作品に私が観られているのであった。右に移動して行くと・・・私を追って顔の向きが右方向に👈リンク。さらに右に・・・。作者の顔にも似た女の子なのであった。そして「丸の内二重橋ビル」前にあったのが⑦草間彌生 (日本) われは南瓜 2013年 作家蔵「草間彌生 (日本)KUSAMA Yayoi (Japanese)われは南瓜 2013年 I am a Pumpkin作家蔵Collection of the artist主催 三菱地所株式会社Organized by Mitsubishi Estate Co., LTD.」【南瓜は、草間がもっとも好んで使っているモチーフ。これまで数多くの作品を生み出していますが、本作は初めて石彫で作られた作品。タイトルの「われは南瓜」と素材として使われた石の関係について、草間は自身のテーマである「永遠(とこしえ)」に例えています。半永久的に残る素材(黒御影石)に南瓜(草間自身)を重ね合わせて、永遠の命を作品に吹き込みました。】裏から。この野外彫刻の上にも、草間らしい南瓜模様のオブジェが乗っているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.14
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この日は5月25日(火)、夕方から卒業した会社の元同僚達に合うことになっていたが、前日のテレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」で「丸の内ストリートギャラリー」が紹介されていたので訪ねることにした。早めに家を出て、JR新橋駅に東海道線で向かう。「有楽町駅」が近いが、「新橋駅」で下車して向かう。「日比谷通り」の「西新橋」交差点を渡る。「内幸町」交差点。交差点を渡る。左手に見えたのが「市政会館」。「市政会館」は、1929(昭和4)年10月19日、日比谷公園の南東の一角に日比谷公会堂とともに誕生した。塔時計と茶褐色のタイル張りの外壁をもつクラシックな建物は、日比谷のシンボルとして親しまれている。地下1階、地上6階、塔屋4階建、全体は茶褐色のタイルで覆われ、中央に時計塔を配した線対称のデザインとなっている。垂直性と線上性が強いためゴシック建築に見られがちだが、正確にはゴシックのディテールはまったくなく、ゴシック調アール・デコと呼ぶべき建物であるとのこと。1999年6月11日に、東京都景観条例に基づき日比谷公会堂とともに「東京都選定歴史的建造物」となった。また2003年6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定された。2008年度「近代化産業遺産群 続33」の21番「近代社会の発展とともに花開いた都市の娯楽・消費文化の歩みを物語る近代化産業遺産群」のひとつとして認定された。東京都千代田区日比谷公園1−3。「丸の内警察署 内幸町交番」。「日比谷公園 触知図案内板」。「触知図」とは、表面に凹凸があり、視覚障害者が指先で触れて形などを確かめることのできる図。点字書籍の図版や建物内の案内図などに利用されるのだ と。「市政会館」を横から見る。「日比谷公園」に「新幸門」から入る。左手の奥の道路沿いにあったのが「キリノ大統領像」。「キリノ大統領声明1953年7月6日、アメリカ合衆国ボルティモア私は、フィリビンて服役している日本人捕膚に対し、フィリピン議会の同意を必要とする大赦ではなく、行政上の特赦を与えた。私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ.私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う。私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。人間同士の愛は、人問や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。」「工ルビディオ・キリノ・フィリピン共和国大統領(1890 ~ 1956)。大統領在任は1948 ~ 53)は、第ニ次世界大戦中に妻子を失ったにもかかわらず、1953年6月、モンテンルバ刑務所に収容されていた日本人戦犯105名全員に恩赦を与えた。同年7月、キリノ大統領による決断に感謝するため、この地において、「国民感謝大会」が開催された。日・フィリピン国交正常化60周年にあたり、天皇皇后両陛下がフィリピンを国賓として御訪問された本年、日本国民のキリノ大統領への感謝と敬意の証として、日・フィリピン友好及び世界平和への決意を新たにするものとして、この地に顕彰碑を建立する。」公園内を北側に向かって進む。「太い木 高い木」案内板。案内板によると、日比谷公園内で一番太い木は松本楼の横にある通称「首かけいちょう」の699cm。一番高い木は公園サービスセンター前にある、アメリカスズカケノキで、なんと25mあると。「日比谷公会堂」。日比谷公園の中にある公会堂で、多目的ホールとしても使用される。耐震性に問題があり改修のため2016年から休館しているが改修着工の見通しは立っていないのだと。「日比谷公園 にれの木広場」から「ソーラー時計」を見る。「故障中」の張り紙が。バラの花も開花していた。「日比谷公園 噴水広場」では「日比谷オクトーバーフェスト2023~Spring~」が開催されているようであった。入口がここ。ドイツから直輸入されたビールが大集結しているようであったが、この日はパス・・・。「日比谷公園 園内&周辺」ご案内。「日比谷花壇 日比谷公園店」前から外に出る。「帝国ホテル 東京」。「日本生命日比谷ビル」。「TOHOシネマズ日比谷 スクリーン1~11」のある「東京ミッドタウン日比谷」。開業: 2018年3月29日地上高: 191 m階数: 35竣工: 2018年(平成30年)2月「日比谷見附跡」の石垣が現れた。近づいて。「心字池(しんじいけ)」を日比谷通り側から見る。「ホセ・リサール博士銅像」。石碑は1961年に建立されたもので、以下のように記されていた。「Dr. Jose RizalNATIONAL HERO OF THE PHILIPPINESSTAYED IN 1888AT TOKYO HOTELLOCATED AT THIS SITEUNVEILD JUN 19, 1961フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す1961年6月19日建之」ホセ・リサール博士(Dr. Jose Rizal、1861年6月19日〜1896年12月30日)の胸像。日本に滞在したことを記念する石碑。ホセ・リサール博士はスペインからの独立運動のリーダーで、フィリピンの国民的英雄であったと。さらに「日比谷見附跡」の石垣に沿って進む。「日比谷公園」・「有楽門」前から「日比谷交差点」を見る。再び「日比谷見附跡」の石垣。「日比谷見附跡 この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。 城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が 石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。 当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池( しんじいけ)としました。」「日比谷門跡門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。1614年(慶長19年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広によて石垣が築造され、1628年(寛永5年)に仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。日比谷門は現在の日比谷交差点村近にありましたが、1873年(明治6年)に撤去されました。現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残りです。」日比谷門(左)と明治時代の日比谷公園内心字池(右)。日比谷門をネットから。明治時代の日比谷公園内心字池をネットから。「心字池」を東側から見る。「心字池ここは日比谷公園ができる前は濠(ほり)でした。その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。」5つ星ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」。「ザ・ペニンシュラ東京」入口。「日比谷交差点」から「馬場先門」方向を見る。そして「丸の内ストリートギャラリー」のある「丸の内仲通り」に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2023.06.13
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そして次に「すいれん室」へ。しかし「熱帯スイレン 植え替え中です」との表示板が。熱帯性、昼咲き、黄色、小中輪の園芸品種が育っている部屋なのだが。熱帯スイレンは、花茎を水面より上に数cm伸ばして花を咲かせます。「セントルイスゴールド」。「ワンビサ」。「ワンビサ」。「クリント ブライアント」。「クリント ブライアント」。「ドーベン」。花弁の先にほんのりとブルーの入る白花種です。花は小さいものの非常に育てやすく、秋遅くまで咲き続けます。「ドーベン」。「ティナ」。明るい青紫色で、やや小ぶりな花ですが、非常に花つきが良く、小さな株のうちから絶え間なく花を咲かせてくれます。「ティナ」。「スター オブ サイアム」。濃い紫色の模様が明瞭な昼咲き性の熱帯スイレン。花は青紫色で、大きくはないが、葉だけでも存在感のあるスイレン。これは?そして食虫植物のコーナーへ。「サラセニア」。「サラセニア」の筒のような体は葉です。この葉は袋状になり、上部にフタがついています。袋状の葉の表側(前面)には縦に羽がついています。フタの表や裏、入り口や袋の上部から出る蜜で虫をおびき寄せます。この蜜をゆびでさわるとベタつきます。サラセニア」の捕虫葉は、ただの袋ではなく、獲物を捕まえるためのわなであり、落とし穴。蜜に誘われてやってきた虫が、袋の入り口で足を滑らせて中に落ちるのをじっと待ち構えています。うまくわなにかかり、虫が袋の中に落ちると、今度ははいあがることができません。なぜなら、サラセニアの袋の内側には下向きに毛が生えていて、よじのぼろうとしても毛に邪魔されて、のぼることができないのだと。「ネペンテス・ベントリコーサ」。ヒョウタンのように途中でくびれた翼のない捕虫袋を付ける。「ネペンテス・ベントリコーサ」。「ムシトリスミレ」。「ムシトリスミレタヌキモ科ムシトリスミレは土の養分の少ない高い山や湿原、崖地に生育しています。葉の表面で小さな虫を捕らえて消化吸収し不足する養分を補っています。スミレに似た花を咲かせるが、スミレ科てはなくタヌキモ科の植物」「ブロッキニア レズクタ」。「ブロッキニア レズクタギアナ高地原産の食虫植物筒状になった葉に虫を落として捕まえます。白い粉は虫を滑り落とすのに役立っていると考えられます。近年、食虫植物であることが、認められました。」「ホワイトゴーストトウダイグサ科 ユーフォルビア属原産:インドホワイトチョコレートをかけたような外観が特徴多肉植物の一種であるため、水は控えめに与える。」その名の通り「白い幽霊」を思わせる不思議なフォルム。そして、「グリーンハウス」を出て、「花壇」を歩く。ここにも満開中の「オルレア」が。「オルレア」は清楚でナチュラルな雰囲気が魅力で人気のセリ科の一年草(または多年草)。白くレースで編んだような繊細な花は、同じセリ科のコリアンダーの花に似ている。「オルレア」の名前は、学名のOrlaya grandiflora(オルレア・グランディフローラ)に由来。オルラヤと呼ばれることもあると。日本ではオルレアとして主に流通している園芸品種の‘ホワイトレース’のほうが学名より先に有名になったため、ホワイトレースと呼ばれることもある。しかし、別の草花であるホワイトレースフラワーと名前も草姿も似ているため混同されることが多く、近年では「オルレア」と呼ばれるようになっているとのこと。紫の「ルピナス」と共に。プロペラのような真っ白い花びら、葉はニンジンのような、洋ゼリのような。黄色の「ルピナス」と共に。手前のこれから開花する花は?そして再び入口側の「ハナショウブ園」に立ち寄る。「遠山の月」。「遠山の月」。「唐牡丹」。「唐牡丹」。「湘南」。「湘浦」。「和田津海」。「和田津海」。「揚羽」。「揚羽」。「❤」。入口に向かって進む。入口にあった小さな小屋。写真撮影用であろうか?「OFUNA FLOWER CENTER」と。子供達が記念撮影中であった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.12
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次に訪ねたのが「ハナショウブ(花菖蒲)園」。既にここも花もピークは終わっていたが。「春の雪」。「春の雪 伊勢系」。「金冠(きんかん)」。「金冠 交雑種」。「堺の黄金」。ズームして。「堺の黄金」。「新世の輝き」。「白紅」。「白紅」。この先にも「シャクヤク園」があった。「大船フラワーセンター案内図」。「オルレア」。「セイヨウミツバチ」を発見。正面に「グリーンハウス」が見えて来た。「グリーンハウス」に向かう。入口にあったのが「チュウキンレン」。「チュウキンレン(バショウ科)中国雲南省に分布する植物で、バナナに近い仲間です。黄色の花びらのように見えるのは苞葉で、本当の花はその内側にあります。「地面から湧いてきた金色の蓮」という意味で、「地湧金蓮(元は中国名)」と呼ばれています。」苞葉の内側に花が見えた。そして「グリーンハウス」の「らん室」へ。この部屋には洋ランを中心にアナナス類、しだ類、うつぼかずらなどを展示しています。入口付近には花はなく。最盛期には、「モンステラ」👈リンク、「コチョウラン」👈リンク、「オンシジューム」👈リンクの花が見られる場所。この株は?葉がシカの角のような形で、「ビカクシダ(コウモリラン)」ではないかと師匠から。「ビカクシダ」は世界中の熱帯地域に分布する着生シダ植物で、「コウモリラン」とも呼ばれています。 「コウモリラン」と呼ばれる由来は、垂れ下がる葉を「羽ばたくコウモリ」に例えたものだと言われている と。「ビカクシダ(コウモリラン)」の花を」ネットから。「ハイビスカス室この部屋にはハイビスカスを中心にその仲間やブーゲンビリアなどを植えました」様々な色の「ブーゲンビリア」。近づいて。正面には濃いピンクのブーゲンビリア。近づいて。「ブーゲンビリア」は、鮮やかで豊富な花色が特徴ですが、じつはこの色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉で、苞(ほう)という。実際の花は、苞の中央にある小さな白い部分。「サンデリアーナ」。「サンデリアーナ」。右側が「サン ディエゴ レッド」。「サン ディエゴ レッド」淡いピンクの「オレンジ キング」。「オレンジ キング」。そしてこちらは「リュウゼツラン」・「アガベ」。日本では「リュウゼツラン」あるいは「アガベ」の両方で呼ばれることが多いが、趣味家にとって「リュウゼツラン」とはあくまで1つの品種のことを指すので、総称としては「アガベ」と呼ばれているとのこと。2年ほど前、知人のご自宅の前で開花してるこの「リュウゼツラン」👈リンクを見たのであった。「アガベ品種名:ベネズエラリュウゼツラン科品種によって耐寒温度や日照りの強さがかなり異なる鋭いトゲ、シャ-ープな姿に惹かれる愛好家は多い、「センチュリー・プランツ」とも言われる。また、開花すると株は枯れてしまう」肉厚で鋭いトゲのある大きな葉を竜の舌に例え、竜舌蘭の和名がついているのだと。上部の花。「100年に一度の開花アガベの花が咲きましたTVで取材されました4月2日 フジテレビ 「なりゆき街道旅」」「デュランタ 青」。近づいて。「デュランタ 青」。「コエビソウ」。近づいて。朱色の苞が重なったユニークな形がエビのように見えて美しいですが、その間から出る白い花はあまり目立ちません。「コエビソウ」。「ペトレア ウォルビリス」。「ペトレア ウォルビリス」。「ソラヌム シーフォーシアヌム」。ナス科のつる性常緑低木で熱帯アメリカ原産。近づいて。「ローレルカズラ」。近づいて。「ローレルカズラ」。そして「バナナ」。「バナナ」の花。これは、以前この場所を訪ねた時の写真。バナナの実がどのようにして出来て来るのかを理解できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.11
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「日本の自生アジサイ展」を後にして「バラ園」へと向かう。右手には6月に行われる予定の「蓮鉢」が並んでいた。そして「バラ園」の入口へ。つるバラがアーチ状に。ハマナスの花は既に終わっていた。残された一輪の「ハマナス」の花を。そしてバラ園に。既にピークは終了していたが。このつるバラは満開状態で。その手前下には真紅のバラが。近づいて。「ガザニア」であろうか。そして開花中のバラの花をカメラで追う。「花山吹」。花名は源氏物語で紫の上を見初めた際の光源氏の衣の色合わせに因んだ名前だと。蕾は黄色に赤が混じり、咲き始めは淡い黄色地にピンクがのり、開花につれ赤味を増して行く。「花山吹」。「バラ園」の「休憩所」周りのバラの花を追う。黄色の「アンドレグランディエ」。ふちに近づくにつれ、やわらかなクリーム色に変化していくライトイエローの花は、独特の色彩。「アンドレグランディエ」。「月光」。剣弁高芯咲き。満月の日の月明かりは、こんな色合いなんだろうな・・と連想させるバラ。「月光」。「デンティーベス」。一重咲きの花びらの内側がソフトピンク、外側はローズピンク。そして赤紫色を帯びる花のしべ。「デンティーベス」。つるバラ「ルフス」。赤色のカップ咲き、小輪。近づいて。さらに。「ルフス」。1925年にイギリスのAllenが作出した。花のピークが終わったバラ園には人の数は少なかった。「光彩」。花弁の表が鮮やかな赤色で裏や底が黄色。「光彩」。「HTの中でわ小型のタイプ」と???「カインダ ブルー」。藤色の花びらが地面に散って。「カインダ ブルー」。近づいて。大きめの花が房になって咲く姿は見事。「サティーナ」。小ぶりのピンクの花が群がって咲いていた。「サティーナ」。「ニコロ パガニーニ」。花色は鮮やかな紅色。緑と真紅のコントラストが大変美しく、フロリバンダローズでは珍しい、剣弁高芯咲 と。「ニコロパガニーニ」。バラ園の「休憩所」前を歩く。こちらは「シャクヤク園」への入口。「シャクヤク園」には花はほとんどなく。ここにも、つるバラが。「シャクヤク園」側から。「バレリーナ」。株を覆いつくすほどの花付きで見事な景色を作り出す、つるバラの「バレリーナ」。ひとつひとつの花は小さいものの、それが房となって一斉に開花する様は圧巻。「バレリーナ」。「ドゥフトボルケ」。「香りの雲」の花名通り、甘い香りが素晴らしい。銅色を含む独特の花色に重ねの多い花容はボリュームもあり魅力的。「ステファニー ドゥ モナコ」。モナコ公国ステファニー王女に捧げられた、ピンクのグラデーションが大変美しい名花。「ステファニー ドゥ モナコ」。「シャコック」。赤みの強い花だが、咲き進む事によって色合いが変わる花のようだ。「シャコック」。「フリージア」。英国ではもっとも優れた黄色のフロリバンタ3種の一つに数えられる品種。鮮やかな花色は満開になっても褪色せず、黒点病に強く育てやすい品種 と。「フリージア」。「ブラッシング ノックアウト」。淡いピンク、丸弁咲き、小中輪房咲きの花。「ブラッシング ノックアウト」。小屋には「RoseGarden」と。「サンライト ロマンティカ」。サンライトの名の通り、光り輝くような黄色の花色とクラシカルな花形、強い香りが。「サンライト ロマンティカ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.10
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入口から、再び通路左側の展示アジサイをカメラで追う。「松中手まり11号」。「松中手まり11号 高知県」。「チビタ ちび太」「チビタ ちび太 Y(ヤマアジサイ) 愛知県四国中央市土居町二つ岳付近」。「姫草の氷雪ナデシコ」。「姫草の氷雪ナデシコ Y(ヤマアジサイ) 愛媛県仁淀川上流」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光(ベニシコウ)大分」。「九重の花吹雪」。近づいて。「九重の花吹雪(ココノエノハナフブキ) 大分」。「屋久島白雪」。近づいて。「ヤクシマシラユキ(屋久島白雪) 鹿児島」。「姫草の宝石」。「姫草の宝石(ヒメクサのホウセキ)(愛媛)」。「紅紫光」。「ベニシコウ(紅紫光)(鹿児島)」。「屋久島コンテリギ」。近づいて。「屋久島(ヤクシマ)コンテリギ 屋久島」。「クレナイ」。「クレナイ 長野」。外の壁際にも展示されていた。「九重至宝」。「ココノエシホウ(九重至宝) (大分)」。「舞子 三重」。そしてUターンして反対側も再び。「白妙」。「しろたえ(白妙) 静岡県産」。「土佐虹絣」。「土佐虹絣(トサニジカスリ) 森藍絞り」。「桃雀」。「桃雀(モモスズメ) 九州」。再び「満天の星」を。「マンテンノホシ(満天の星) 高知県いの町本川」。「NHK おはよう日本で紹介された新種「満天の星」「姫草の永雪ナデシコ」」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.09
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「日本の自生アジサイ展」に関する新聞記事も紹介されていた。「自生アジサイを250品種集め紹介鎌倉日本全国に自生するアジサイを集めた「日本の自生アジサイ展」が鎌倉市岡本の日比谷花壇大船フラワーセンターで23日から始まる。愛好家が丹精込めて育てた全国各地のアジサイが並び、幽玄な雰囲気を醸し出している=写真。28日まで。市民団体「鎌倉アジサイ同好会」が例年5月下旬に開いているもので、約250品種300鉢のアジサイが並ぶ。今年は気温が高く例年に比べ開花が1週間程度早いという。また新型コロナウィルスの感染状況が比較的落ち着いていることから、アジサイの育て方などを紹介する講習会も開く。同会の前川英吉さんは「自生するアジサイの多彩さやわびさびに注目してほしい」と来場を呼びかけている。フラワーセンターへの入園料が必要。講習会は24日以降毎日午前11時から。問い合わせは、同センター☎0467(46)2188。」「苗の販売について」2ポットで500円の販売とします。「薩摩紫紺」。「薩摩紫紺 鹿児島県」。「剣の舞」。「ツルギノマイ(剣の舞) 徳島県」。「紅紫光」。「ベニシコウ(紅紫光) 鹿児島」。「乙女」。「オトメ(乙女) 愛媛」。「土佐のまほろば」。「土佐のまほろば 高知」。「クレナイ」。近づいて。「クレナイ 長野」。「千姫」。近づいて。「センヒメ(千姫) (広島)」。NHKテレビで紹介された「姫草の氷雪ナデシコ」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光(ベニシコウ) (大分)」。「屋久島白雪」。「ヤクシマシラユキ(屋久島白雪) 鹿児島」。日本国内の山等に自生するアジサイの「多彩さ」や「わびさび」を大いに感じながら、その色の美しさを楽しむことが出来たのであった。日本にずっと存在しながら、長らく日の目をみない花であった紫陽花。現在では多くの人に愛され、その鮮やかな色で人々を惹きつけているのだ。変わりやすい色もかつては敬遠される原因であったと。しかし今では、多様な色のバリエーションが、お祝いやプレゼントに使いやすい要因となっているのであろうとも感じながら展示会を後にして、さらに園内の散策に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.08
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全国に自生するおよそ250種類のアジサイを集めた展示会が、ここ神奈川県鎌倉市の「神奈川県立大船フラワーセンター」で5月28日まで開かれていた。展示会は地元でアジサイを育生する愛好家グループ・「鎌倉アジサイ同好会」がここで開き、およそ250種類、300鉢あまりのヤマアジサイなどが展示されていたのであった。「アジサイは、日本の固有植物(その地域にしか生息しない生物)だ。外観から、ガクアジサイ型とテマリ型、形態や生態などからガクアジサイ、ヤマアジサイ、エゾアジサイなどに分けられている。このほかに、蕾が特徴的なタマアジサイやノリウツギ、ツルアジサイ、装飾花のないコアジサイ、ガクウツギなど多様な系統がある。ガクアジサイは、伊豆・房総・伊豆七島などに自生し、葉が厚くて光沢がある。大株になる。ヤマアジサイの系統は、関東以西の湿っぽい山地に自生し、葉には光沢がない。小型である。エゾアジサイは、新潟・長野県の豪雪地帯から北の山地、および日本海側の山地に自生。葉は大きいが光沢はなく毛深い」 とネットから。まず最初に「展示場」横の屋外展示場を訪ねた。「ヤマアジサイは、主に太平洋側の福島県から四国・九州に分布しています。半日陰の湿り気のある林や沢沿いに生育しています。このことから別名のサワアジサイの名前がつきました。周辺の自然によくなじんでいる樹木です。中央から花の外側に向かって咲き、縁に沿って装飾花をつけてガクアジサイ(Hydrangea macrophylla f. nomalis)と同じようにガク咲きとなります。装飾花(中性花)の萼片は、白色または白青色で少し反り返りますが、紅色を帯びることもあります。ガクアジサイよりも花序が小型なので、コガクと呼ばれることもあります。アジサイに比べて葉は、薄くて細長く小型です。野趣に富んだ樹形で、花色や花形は地域による変異が多く、愛好家の間で人気の高い花木です。と」「京の舞姫」。「京の舞姫」。「青葉の笛(エゾ) 新潟県」。「青葉の笛(エゾ)」。「星のささやき 高知」。「星のささやき 高知」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光 鹿児島県産」。そして「展示室」内に展示されている「日本の自生アジサイ展」会場へ。日本原産の紫陽花=ガクアジサイ、それがヨーロッパに渡り品種改良された、てまり咲きのあじさいが西洋あじさいに。現在は300種類以上あるといわれています。「シーボルトが帰国して出版した『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』には誤りも含めて17種のアジサイ類が掲載されているという。このなかに「オタクサ」があった。先述のように「オタクサ」は西洋アジサイの母種として重要な品種のひとつになった。オタクサの名は日本での妻、「楠本滝」に由来するという。日本でアジサイを「オタクサ」と呼ぶことはないので、その命名の理由があれこれ推察されているとのこと。まずは中央通路の左側のアジサイを見る、「満天星」。「満天星」は鮮やかなブルーのテマリ咲きのヤマアジサイです。整った花形が魅力の品種。近づいて。さらに。NHKのテレビニュース・大船フラワーセンター・日本の自生アジサイ展でも紹介されていた。「満天星(マンテンボシ)・大分県」。「九重山」。「九重山(クジュウサン) 大分県」。「白妙」。「白妙(しろたえ) 群馬県産」。「アジサイ」は古来より多くの詩歌に歌われ、俳句は夏の季語である。さまざまに色が変化する装飾花は、梅雨時の風物詩となっている。「アジサイ」が詠われている和歌は万葉集には二首のみ。・言問はぬ木すら味狭藍諸弟(もろえ)らが練の村戸(むらと)にあざむかえけり (大伴家持 巻4 773) 意味:ものを言わない木でさえ、紫陽花(あじさい)のように色鮮やかに見せてくれますね。 それ以上に言葉をあやつる諸弟たちの上手い言葉にすっかりだまされてしまったことですよ。・紫陽花の八重咲く如やつ代にをいませわが背子見つつ思はむ(しのはむ) (橘諸兄 巻20 4448) 意味:宴席で宴の主人である多治比国人の長寿を祝い詠んだ歌とされており 「紫陽花が八重に咲くように末永く栄えてください。 花を見るたびにあなたを 思い出しましょう。平安後期になるとしばしば詠まれるようになった。・あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな(源俊頼『散木奇歌集』)・夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり(藤原俊成『千五百番歌合』)・あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る(藤原定家)「アイヒメイ」。「アイヒメイ 藍姫 徳島高知県境剣山系」。「トサノアカツキ」。「トサノアカツキ 土佐の暁 高知県」。「トサミスズ」。近づいて。「トサミスズ 土佐美鈴 高知県」。「松中てまり」。「松中てまり 高知県」。「屋久島白雪」。「屋久島白雪 屋久島」。「チヨノヒカリ 千代の光」。「チヨノヒカリ 千代の光 高知」。「シロマイコ 白舞子」。「シロマイコ 白舞子 静岡」。「木沢の光」。近づいて。「木沢の光 (徳島)」。「酔湖姫」。近づいて。「酔湖姫 (高知)」。「白鳥」。「白鳥 (静岡)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.07
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