全117件 (117件中 1-50件目)
世界情勢は刻々動いている。しかも悪い方向に。日本は原爆被爆国だから とか日米安保の存在とか 周辺諸国への気兼ねとか を平和国家の大義名分にしているが、このままでは国益も国民の生命も守れない。白紙に戻って日本国の安全を真剣に論議する時期にある。俺は死を恐れないが、座して死ぬのは嫌だ。日本は核保有国に包囲されている事を知らん訳じゃないでしょ。政権争いにウツツをぬかしている政治家。事なかれ主義の外交。3.5島論とは呆れはてる。六カ国協議はどうなったの。核査察・監視団はスゴスゴと強制退去させられた。IAEAなど頼りにならない。日本は抑止力としての核を保有するべきだ。
2009.04.30
コメント(4)
Microsoft Paintは、Microsoft Windowsに付属するグラフィックソフトウェアの名称。通称ペイントまたはMSペイント。ペイントはペイントツールの一種で白紙の状態からペンツールや塗りつぶしツールを利用して図形描画を行う。1枚の紙に絵を描くことを前提としている為、レイヤー機能・インデックスカラーパレット・画像の補正などは一切利用できず複雑な作業を行うには不向きだが、操作性が極めてシンプルなので主に落書きや地図の作成など、幅広い使われ方がある。[出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]従って、イラストなどは、子供の落書きのような感性で描くのが良い。もちろん熟練が必要である事は論を待たない。鑑賞者が写実を求めても限界がある。
2009.04.30
コメント(2)
あくまでも神話であるが、天照大神は八百万の神々の中でもトップに位置する女神とされ、その名の通り、あらゆる生命にとって必要な太陽を象徴する神である。その天照大神は伊邪那岐命が御祓をしたときに、光を表す左目から生まれたとされる。日本国の始祖では無いのだ。そして、伊邪那岐命、伊邪那美命は、神話のなかに一番最初に出てくる夫婦神である。そこから、夫婦婚姻のはじめとか結婚の神などといわれる。また、結婚して数々の国土を誕生させる国生みや、地上の営みを司る多くの神々を誕生させる「神生み」を行ったことから、国堅めの神、生命の祖神などともされている。特に、男女が結婚して子を産むという、我々の生活にそのまま当てはまる活動をしているという点で、宇宙を創造した天之御中主神をはじめとする他の根源神たちと比べて一番親しみやすい神様であろう。伊邪那岐命に関して我々がふだんの生活のなかで身近に接することといえば、やはり神社に参拝したときに受けたりする禊祓の儀式である。わざわざ神主からお祓いを受けるまでもなく、拝殿の前にある手水舎(チョウズシャ)で柄杓に水を汲んで手に注いだりする。これも心身を浄める意味があり、もともとは伊邪那岐命が御祓をしたことにちなむものである。日本人は古くから穢れ(不浄)というものを特別に意識し、嫌っていたようである。人間の罪や悪行、病気やけがなど、正常で平穏な生活に災いをなすいっさいのことは、穢れによるものと考えるようになった。病気でも、その原因は病を起こさせる穢れであって、これを祓い落とすことで病気を治すことができると考えたわけである。禊祓というものは我々の生活のなかに入り込んでいる。たとえば盛り塩は、禊祓の方法として古くは海水が使われたことから来たものだし、相撲の力士がまく塩もこれの延長である。他に、人形に罪穢れを託して川に流す流し雛や、旧年中の厄を祓って身を清めるという豆まきの行事も、禊祓の儀式の一種なのである。一方、伊邪那美命は、多くの大地を生み出したとされることから大地と関係した存在と考えられている。伊邪那岐命の天父神的性格に対して大地母神的な性格を持っているといえる。これは、人間が豊穣を願う心を反映しているといえる。また、伊邪那美命には黄泉の国の神としての顔もある。神でありながらも神で冥府、死の世界の代表者として祀られたりもするわけで、伊邪那岐命がこの世の代表とすると、伊邪那美命はあの世の代表という訳である。黄泉平坂での言い争いにも「わたしは地上の人間を一日に1000人殺す。」「それならばわしは一日に1500の産屋を建てる。」とあるように、伊邪那美命は人間の寿命を司る神でもある。非常に恐ろしい神だが、やはり多くの神々を生みだした母神的な性格の方が目立つ。伊邪那美命が生みだしたさまざまな神霊がこの世界を豊かにしてくれているのだ。たとえば、日本の四季折々の変化なども、伊邪那美命があったからである。つまり、この神は我々の住むこの世界のよりよい環境や心の豊かさを守ってくれるというのが本来の顔であり、むしろ死の神としての顔の方が一面にすぎないといえるだろう。 ところで、伊邪那岐命、伊邪那美命には、まだ上位の神様がいる。天御中主神だ。天之御中主神は天地開闢神話で宇宙に一番最初に出現し、高天原の主宰神となった神である。その名が示すとおり宇宙の真ん中に在って支配する神で、日本神話の神々の筆頭に位置づけられている。そういう偉い神なのだが、その姿は神秘のベールに包まれている。なぜなら、宇宙の始まりに現れたものの、たちまちのうちに「身を隠す」からである。顔も姿も現さなければ、語ることもなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。本来が「その姿を知らしめない」という日本の神さまの典型ともいえる。仏像のような偶像の具体的なイメージに慣れた今日的感覚からすれば歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそういうものなのである。そんなふうに人間界と隔絶した感じのする神様だが、何もしなかった訳ではない。その活動が人間には分からないだけで、天之御中主神は、その後に登場してくる多くの神々による一切の創造的な作業を司令することが役割だったといえる。つまり、創造力と全知全能の力を持つ至上神なのである。天之御中主神が一般に馴染みのある姿を現しているのが「妙見さん」であると付記しておく。
2009.04.29
コメント(6)
過去に著作権についてブログ(2009.02.03)にアップしたので覗いて頂きたい。重複するがポイントだけ説明したい。1. 私的使用を目的とした複製(第30条) 個人的に又は家庭内、或いはこれに準ずる限られた範囲内において使用する場合は、権利者の承諾を得なくても複製を行うことが出来る。2.ブログが「これに準ずる限られた範囲内」か否かはグレーゾーンである。ただ、権利者が無断使用を禁ずる場合は、通常ネット上でも その旨を明記している。明記が無くとも権利者がコピー出来ないような仕組みを設定しているものも多い。いずれにせよ、ブログにコピーする時は十分に目を通し、これらは当然避ける必要が有る。3. 「著作権法」は明記された文章だが、その解釈には「ゆれ」が有る。特にインターネットでの著作権については法律が追いついていない点も多く、解釈も毎日少しずつ変動している。4. 「フリー素材集」など多くの著作物が「フリー」として公開されているが、その公開者がすでに他の人の著作権を侵害している場合は、その著作物を使用することはできない。しかし、逐一「本当にフリーなのか」を確認することは不可能であるし、ブログに使用する程度であれば、「フリー」の言葉を信用するのも仕方なしといったところだ。なぜなら、絵葉書を友人達に郵送する事と本質的に差異は無いからだ。5. 著作権法第32条で引用であれば著作権者の承諾無く著作物を利用できると定められている。しかし、引用であるためには、以下の2つの条件を満たすことが必要だ。●公正な慣行に合致すること ●引用の目的上正統な範囲内であること 具体的には、引用する文章の長さは2~3行程度とし、引用元をしっかり明記することが「慣行」として求められている。引用元の文章の内容について意見を述べる、批評する、そこからさらに議論を発展させるなどの行為を伴って初めて引用となる。5. 著作権の有効期間は原則として「著作者の死後(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者の死後)五十年」である。ネット上には無効になったものが、かなり有る。6.「視聴」は全く問題無し。7.著作権は作品の創作と同時に発生し、著作権をもつことになるが、著作権が発生し、それをどのように証明したらよいのかを知らなければ、裁判で権利が認められない。 この場合、確実な著作権保護の方法は二つ。●文化庁の著作権登録制度。●公証役場の確定日付の認証。この二つの方法を利用することで、その日時に確かに存在していたことが証明でき、作品の著作権を確保できる。逆に言えば、これを利用していない相手ならば裁判で勝訴できる。
2009.04.28
コメント(0)
かってブログとは何か について意見をアップした。しかし、楽天ブログの現状は俺の意見とは程遠い。前もってお断りするが、楽天の現状を否定する積もりは全く無い。この現状は、それなりに楽しいし、役に立つからだ。俺がブログを始める前に、ブログに関する解説を片っ端から閲覧した結果を要約すると以下の通り。ブログでは個人の行動の記録は重視されず(一切載せないわけではない)、世相や時事問題、専門的話題に関しての独自の情報や見解を掲載するという形式が主流となっている。また、ネット上で独自に見つけた面白いもの、変なもの、スクープなどを紹介し、そこにリンクを張って論評したり、街で見つけた話題(ネタ)を紹介するという記事も多い。多くのブログには読者が記事にコメントを投稿して掲載できる掲示板的な機能が用意されている。また、別のブログの関連記事へリンクして相手の記事に自分の記事への逆リンクを掲載する「トラックバック」という機能もあり、興味や話題ごとに著者同士や著者と読者によるコミュニティが形成されている。最近では、ブログによる「口コミ」で情報が広がり、マスメディアが後追いでそのトピックを取り上げるという現象も起こっており、そういった面からもブログは新しいメディアとして注目されている。俺のブログは、上段赤文字のスタイルが殆どである。メッセで批判の声も時々聞くが、今後も このスタイルで行く。このスタイルを取る場合、最も神経を使う点は「著作権問題」なので、かってブログにアップしたが、引き続き公開する。
2009.04.28
コメント(0)
偶像崇拝とは、神像、カリスマ的な人間の像、超常的な自然構造物などの偶像を崇拝する行為であるが、俺には無縁。美術品として尊重し、鑑賞はするが、崇拝はしない。[仏教]釈迦自身は、偶像崇拝を明確に否定したわけではなく、また反対に肯定をしたわけでもない。もともと、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかった。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも像を造って祀るという習慣はなかった。したがって初期仏教もこの社会的背景の影響下にあった。釈迦本人に自身が根本的な信仰対象であるとか、ないという概念そのものが存在しなかった。これらの理由から、初期仏教においても当時の他の宗教と同じく、仏像というものは存在しなかった。[アブラハムの宗教]ユダヤ教・キリスト教・イスラム教においては、偶像を崇拝することは、唯一絶対な存在である神ではなく、人間や自然が作った物を崇拝する行為であるとして罪として禁止されている(出エジプト記)。あなたは自分のために刻んだ像を造ってはいけない。天にあるもの、地にあるもの、水のなかにあるものの、どんな形(あるもの)も造ってはいけない。それにひれ伏してはいけない。それに仕えてはいけない。- 出エジプト記20:4、「モーセの十戒」 「神は信ずべし 頼るべからず」だと思う。しかし、人間は弱い。頼る一方ではないかと思う。頼られる神もてんてこ舞いだろう。頼るのは他力本願。虫が良すぎる。信ずるのは一種の自己催眠。思わざる力を発揮できるかもしれない。
2009.04.28
コメント(6)
![]()
[ 仏立像(ガンダーラ、1-2世紀)。東京国立博物館蔵。][弥勒菩薩坐像(マトゥラー、2世紀)。パリ・ギメ東洋美術館蔵。][カニシカ舎利容器・青銅製(パキスタン・ペシャーワル郊外シャージーキーデリー出土、クシャーナ朝時代)。ペシャーワル博物館蔵。][ビーマラーン舎利容器・金製(アフガニスタン・ビーマラーン出土)。大英博物館蔵。][バーミアン大仏(破壊前)(アフガニスタン、5-6世紀)。][雲岡石窟第20窟主尊(北魏時代・5世紀)。][石窟庵如来坐像(新羅統一時代・8世紀)][阿弥陀三尊像(兵庫県小野市・浄土寺、鎌倉時代・13世紀)][ボロブドゥール如来坐像(インドネシア、8-9世紀)。][仏の種類]( 如来・盧舎那仏像)「奈良の大仏」として知られる東大寺盧舎那仏像(奈良時代)。(釈迦如来)金堂の釈迦三尊像。中央が釈迦如来、向かって右が薬王菩薩、左が薬上菩薩。国宝。(薬師如来)(阿弥陀如来)平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像(定朝作・平安時代)。国宝。(大日如来)大日如来を中心に配置された五智如来。ギメ東洋美術館蔵。(菩薩)如意輪観音像(平安時代前期)弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒、京都市)百済観音(飛鳥時代)(明王)不動明王像(高野山奥の院)(天部)戒壇院の多聞天像(天平時代)阿修羅像(奈良時代)南大門の金剛力士像・阿形(運慶作・鎌倉時代)。
2009.04.28
コメント(2)
桜の季節が一段落し、新緑が目に眩しい時期になると、本格的なハイキングのシーズンが訪れる。そこでおすすめなのが、埼玉県の飯能だ。西武池袋線の急行に乗れば、池袋から飯能駅まで1時間弱というアクセスのよさ、ハイカーの体力に合わせて複数のコースを選べる点、そしてなにより自然が豊富であることが、飯能周辺のハイキングの魅力といえるだろう。今回は、西武池袋線の飯能駅から訪れるスポットを2つ紹介してみよう。いずれも歩く時間は4時間前後のコースだ。 まずは自然を満喫するコースを辿ってみよう。飯能駅からバスに乗車し、バス停「さわらびの湯」で下車。飯能駅から「さわらびの湯」まで運行している系統のバスはいくつかある。ここからハイキングスタートだ。 まず向かうのは、白谷沢登山口。その間、有間ダム(名栗湖)がみえる。今の季節は青々と広がる水面と新緑のコントラストが美しい。[さわらびの湯] 白谷沢登山口から目指すのは、標高969メートルの山、棒ノ嶺。山頂まで3km強の距離なので、ファミリー向きといえるだろう。程なくして藤懸の滝が現れ、沢登りポイントが出てくる。涼しげな空気が汗ばんだ身体に心地よいが、いかんせん滑りやすい。動きやすく、滑りにくいシューズを履いて出かけよう。途中には、変わった形の岩「岩茸石(いわたけいし)」や、眺望がパッと開けるゴンジリ峠など、一休みできるビューポイントもある。そして山頂に到着。秩父連山を望む眺めは、素晴らしいの一言。天気が良い日には富士山や榛名山、新宿副都心なども見える。ベンチやテーブルもあるので、お弁当を広げることも可能だ。 下山は、来た道をそのまま引き返してもよいし、岩茸石のところから、別コースである「滝の平尾根」を辿り、バス停「さわらびの湯」を目指してもよいだろう。「さわらびの湯」は、ダムを作る際に湧き出た温泉を利用した日帰り入浴施設。さっぱりと汗を流してから帰宅するのも悪くない。次は、自然の中を歩きつつ、古い寺を巡るコース。「竹寺」と「子ノ権現(ねのごんげん)」を巡るこのコースは、埼玉県や東京都にお住まいの方なら「遠足でいったことがある」という人も多いだろう。こちらは飯能駅から「飯04系統 中沢行き」に乗車。35分でバス停「中沢」に着く。ここからハイキングスタート。45分ほど歩くと、竹寺に着く。[竹寺][子の権現]竹寺(八王寺)は、「武蔵野観音霊場」の三十三番結願所。本尊は牛頭天王で、本地仏は薬師如来。「神仏習合」の姿が色濃く残った寺である。「奥武蔵俳句寺」ともいわれ、多くの文人墨客もこの地をお参りして俳句を絵馬などにしたためており、境内にはいくつもの句碑が建っている。本殿登り口の鳥居に備え付けられた「茅の輪」も見どころのひとつ。茅の輪をくぐると身が清められ、厄除けになるといわれている。ちなみに、春と秋には、住職の説法に耳を傾けつつ、精進料理を味わうこともできる(予約制)。春はタケノコや春の山菜が、秋は栗やぎんなんが膳に並び、山間の古寺の風情を存分に楽しめるというわけだ。 さて、竹寺を後にして、豆口峠へ。山歩きすること約1時間で、子ノ権現に辿りつく。創建された911年以来、多くの人々がこの地を参拝してきた。特に「足腰の病」「健脚」に霊験があるとされ、そのためか境内には日本一の大きさを誇る鉄わらじや巨大な下駄が鎮座している。春は山桜と山吹、つつじやさつきなどの花々も見事だ。 そこから豆口峠を経由して、バス停「小殿」へ。もしくは、子ノ権現から東へ向かい、浅見茶屋、東郷公園などを巡りつつ西武秩父線の吾野駅を目指すコースもある。体力に合わせつつ、ハイキングを存分に楽しもう。
2009.04.28
コメント(2)
閉塞感脱出のために、我が身を叱咤激励。[勇者]勇気のある者のこと。しばしば英雄と同一視され、誰もが恐れる困難に立ち向かい偉業を成し遂げた者、または成し遂げようとしている者に対する敬意を表す呼称として用いられる。武勇に優れた戦士や、勝敗にかかわらず勇敢に戦った者に対しても用いる。[勇気]普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じる事を恐れずに(自分の信念を貫き)向かっていく積極的で強い心意気の事。勇ましい強い心をいう。勇気とは、「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり」「勇にして礼無ければ則ち乱す」(勇気も度が過ぎると乱暴なだけである)出典-「論語」「義を見てなさざるは勇なきなり」(孔子: 論語・為政)「戦場に駆け入りて討死するはいとやすき業にていかなる無下の者にてもなしえらるべし。生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり」(徳川光圀)「勇気」と言っても様々な種類がある。例えば、正義のための勇気なら「義勇」になる。 義勇(正義のための勇気) 知(智)勇(知恵と勇気) 沈勇(勇気があり、落ち着いている) 蛮勇(乱暴で、向こう見ずな勇気) 武勇(武術に優れており、勇ましい) [パラディン]中世および初期近代ヨーロッパの多くの国で見られた、一定の高位にある騎士である。[交響曲第3番変ホ長調『英雄』作品55]SonicStage/morahttp://mora.jp/servlet/TrackFinder?TEMPLATE=artist_track_page.html&ART_ID=11192602&INTERVAL=30[BOLERO-RAVEL]動画視聴http://www.youtube.com/watch?v=3-4J5j74VPw&feature=related
2009.04.27
コメント(6)
山のあなた カール・ブッセ 上田敏訳 『海潮音』より 山のあなたの空遠く「幸さいはひ」住むと人のいふ。噫ああ、われひとと尋とめゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸さいはひ」住むと人のいふ。Über den Bergen Karl BusseÜber den Bergen weit zu wandern Sagen die Leute, wohnt das Glück. Ach, und ich ging im Schwarme der andern, kam mit verweinten Augen zurück.Über den Bergen weti weti drüben,Sagen die Leute, wohnt das Glück.Over the mountains, far to travel, people say, Happiness dwells. Alas, and I went, in the crowd of the others, and returned with a tear-stained face. Over the mountains, far to travel, people say, Happiness dwells.ずっと“幸せ”を捜し求め続けてきた。でも、“幸せ”は見つからなかった。それはとても悲しいことだったけれど、でも“幸せ”がないというわけではない。どこかに、どこかに、きっとあるんだよ。せつなくて、優しい詩です。“幸せ”を求め続けるのはだれでも同じです。─ われひとと尋めゆきてー私と同じように、“幸せ”を探しているたくさんの人がいた。でもやっぱり見つからなかった。山の向こう遠い彼方に幸福があると人は言っていた。(一人で行く勇気もないので)他人をさそって行ったけれども、幸福を見つけることはできなかった。それであきらめたかというと、そうでもない。人はまた、こう言う。「あなたが出かけていった山は近すぎたんですよ。もっと遠くの山ならば幸福があったのに」と人は言う。 メーテルリンクの児童文学『青い鳥』で、幸せの青い鳥を求めて、幼い兄弟チルチルとミチルは旅をします。けれど過去の国、未来の国、夜の国など、さまざまな場所を遠く旅して、青い鳥を見つけたのは自分の家でした。この「山のあなた」の詩に続きがあるのなら、『青い鳥』のようであればいいなと思います。幸せを求め続けて、とても大きな幸せを手に入れられれば、こんな素敵な人生はないのでしょうけれど。でも“涙さしぐみ、かへりきぬ”人が、ほとんどの人でしょう。だからこそ、この詩が心をうち、愛され続けるのでしょう。けれど、この詩はせつないだけでなく、とても優く感じます。“山のあなた”という言葉が好きです。小さな子どもが母親や祖母に「幸せってどこにあるの?」と聞いて、答えてくれたような気がします。「幸せってどこにあるの?」「ずっと遠くの山の向こうよ」「友だちと行ったよ。でもなんにもなかった」「あんな高い山まで登れたの?すごいわね」「だって、“幸せ”があるって言ったから」「あの山のもっと向こうにあるのね。あなたがもっと大きくなったらきっと見つかるわ」この会話の中に、幸せはいくつあるでしょうか?優しい母、友人、勇気、夢…。[脳性小児マヒだった奈良県の土谷康文君の作品] ごめんなさいね おかあさん ごめんなさいね おかあさん ぼくが生まれて ごめんなさい ぼくを背負う かあさんの 細いうなじに ぼくはいう ぼくさえ 生まれなかったら かあさんの しらがもなかったろうね 大きくなった このぼくを 背負って歩く 悲しさも 「かたわな子だね」と ふりかえる 冷たい視線に 泣くことも ぼくさえ 生まれなかったら ありがとう おかあさん ありがとう おかあさん お母さんが いるかぎり ぼくは生きていくのです 脳性マヒを 生きていく やさしさこそが 大切で 悲しさこそが 美しい そんな 人の生き方を 教えてくれた おかあさん おかあさん あなたがそこに いるかぎり
2009.04.27
コメント(2)
![]()
フォンテーヌブローは、フランス、パリ郊外の都市である。(フォンテーヌブローの宮殿と庭園)マリー・アントワネットの私室(Cour d'Honneur(栄光の中庭))[フォンテーヌブローの森](コローの絵画)
2009.04.26
コメント(6)
![]()
今日は忙しくパソコン様と付き合うのが面倒なので、簡単に済ませる。フランス式庭園は、西洋風の庭園の様式のひとつ。平坦で広大な敷地に軸線(ビスタ)を設定しての左右対称性、幾何学的な池の配置や植栽の人工的整形などを特徴とし、17世紀から18世紀にかけて主にフランスで発達した平面幾何学式庭園を指す。[ヴォー=ル=ヴィコント城庭園]フランス・ここは行った。[ランブイエ城の庭園]フランス・ここは行った。[ロワール渓谷・ヴィランドリー城の庭園]フランス・ここは行った。[ヘレンキームゼー城の庭園]ドイツ・ここは行った。[ヘット・ロー宮殿庭園]オランダ・5月に行ってくる。[シャルロッテンブルク宮殿の庭園]ドイツ・ここは行った。[ソー公園の城館]フランス・行っていない。[テュイルリー庭園]フランス・行った。フランスにはヴェルサイユを始め、上掲以外に かなり有る。要するに城・宮殿には庭園が有るという事。日本も そうだが、どちらかと言うと お寺だね。逆にヨーロッパでは教会付属の庭園は見た記憶が無い。
2009.04.26
コメント(0)

スペイン内戦の際にはドイツ軍の激しい空襲を受けた。その悲惨な様子を描き表したピカソの「ゲルニカ」は彼の代表作の一つになっている。(ゲルニカのオーク)(爆撃後のゲルニカ)[ピカソ・ゲルニカ]ピカソは大戦後これと同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、先ず1937年パリ万国博覧会スペイン館の壁画。ニューヨークにある国際連合本部の国連安全保障理事会議場前。マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示。1937年の作品は縦3.5m、横7.8mの大作である。キャンバスに工業用絵具ペンキによって描かれた。これが後に絵画としての痛みの要因となるが、大作にしては短時間(1ヶ月弱)で描ききれた(油彩よりも乾きが早く、作業効率も高い上にコストも安上がり)のである。当時の絵画としては珍しくモノクロームで描かれている。あえて血の色を見せなかったことが格別の効果を与えている。各部分の習作や、後のタペストリー作品は彩色が施されている。死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えている。全体の構成はキリストの磔刑図をイメージさせる。人間の目をした牛の顔や窓から室内に首を突き出す人物など奇妙な像もあり、さまざまに解釈されている。ピカソが好んで描いてきた闘牛やミノタウロスの神話などとの関連も指摘できる。なお兵士、動物以外の人物はすべて女として描かれている。「ゲルニカ」制作の裏には2人の女、ドラ・マールとフランソワーズ・ジローの争いがあったと言われている。「ゲルニカ」の制作過程をドラが写真に記録したことは有名であるが、そこにフランソワーズが嫉妬心を抱き、「ゲルニカ」制作中、ピカソが工業用のペンキまみれで描いている背後で、2人の取っ組み合いがあったという訳である。この2人は「ゲルニカ」にも描かれており、右上の手を挙げて泣き叫ぶ女はドラ・マール、ランプを持ち覗き込むようにして絵の中心にある女がフランソワーズ・ジローだと言われている。ちなみに、左下に倒れている兵士はピカソ自身であるという。
2009.04.25
コメント(6)
岡本 かの子(1889年 - 1939年)は、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。本名カノ。東京都港区青山南町生まれ。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。小説家として実質的にデビューをしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られ、瀬戸内晴美の「かの子繚乱」という小説の題材にもなっている。19歳の夏、父と共に信州沓掛(現中軽井沢)へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。同宿の上野美術学校生を通じて岡本一平と知り合う。21歳の時結婚、京橋の岡本家に同居するが、家人に受け入れられず二人だけの居を構える。翌年、長男太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。その後一平の放蕩や芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄晶川の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望するかの子に歌集「かろきねたみ」を刊行させた。しかし翌年母が死去、さらに一平の放蕩も再燃し家計も苦しくなった。その中で長女を出産するが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる。翌年退院すると、一平は非を悔い家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と一平の了解のもと同居するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう。かの子と一平は宗教に救いを求め、プロテスタントの牧師を訪ねるが、罪や裁きを言うキリスト教には救われなかった。その後親鸞の「歎異抄」によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。芥川龍之介をモデルにした「鶴は病みき」で作家的出発を果たす。パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた「母子叙情」、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された「老妓抄」、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた「生々流転」などは代表作となった。1939年、油壷の宿で脳貧血で倒れ自宅で療養していたが、49歳で死去。[老妓抄]動画http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=nxwGP449yI8朗読http://www.voiceblog.jp/voicedrop/650132.html岡本かの子の小説に共感するものでは無い。鎌倉の小町通りの路地奥に小さなギャラリーが有り、岡本かの子の肖像画が展示されていた記憶が有る。忘れられている先人への興味を呼ぶためのブログである。
2009.04.25
コメント(0)
0 (零、れい)は、無を表す数であり、−1 の次で 1 の前の整数である。英語 zero から、ゼロとも呼ばれる。0 を自然数に含めるかどうかは数学者の間でも考え方は分かれており、数論では含めないことが多いが、集合論や数学基礎論では含めることが多い。また日本の高等学校までの教育においては、自然数に含まれないとされている。この項目では 0 は自然数に含まれるものとして取り扱う。[0 の起源]「無」を表す「0」を数の対象として考える概念の発生は、数学上の飛躍的な進歩の過程の一つと考えられている。バビロニアとマヤ文明では、位取り記数法で空位を示す記号としての 0 が使われていた。バビロニアを含むメソポタミア文明は六十進法、マヤは二十進法を用いており、それぞれで位が 0 であることを示す独自の記号が発明された。しかし 0 そのものを数として扱ってはいなかった。一方、古代エジプト文明では 0 の存在を知っていたが発達せず、それを表す記号もなかった。0 を四則演算などで扱うと矛盾が生ずるので、無理数同様、受け入れられなかった。130年、プトレマイオスがギリシア文字を用いた六十進法の表記において、0 を導入した。記録に残っている最も古い、数としての 0 である。ただしプトレマイオスが 0 を用いたのは分数部分(分、秒など)だけであり、整数部分(度)には使わなかった。その後、インドで数としての 0 の概念が確立された。ブラーマグプタは、0 と他の整数との加減乗除を論じ、0 / 0 を 0 と定義した以外はすべて現代と同じ定義をしている。そしてこれが世界に広まっていった。[性質] 1.x + 0 = x : 0 は 整数環の加法群(あるいは 0 を含む自然数全体が加法に関して成す半群)の単位元である。 2.x − 0 = x 3.x × 0 = 0 : 複素数を含む任意の数と 0 との積は 0 となる。0 は、0 を含む複素数が、乗算に関して成す任意の群の零元である)。そのため、無数の約数を持つ。 4.ゼロ除算による商 x ÷ 0 は一般には定義されない。ただし、分野によっては便宜上、特別な定義をすることがある( x / 0 = ∞ など)。 ・コンピュータの浮動小数点数の規格である IEEE 754 では、0 で割ると、被除数が 0 以 外なら結果は正または負の無限大になり、また被除数が 0 なら NaN になり、エラー(例外)が発生する。整数演算では、0 で割った場合の処理はコンピュータに依存するが、一般に例外が発生する。 ・電卓 では、結果が 0 となるものがある。これによって 0 ÷ 0 = 0 であると誤解している人がいる。 5.x0 = 1 (x > 0) : 0より大きい数の 0 乗は 1 と定義する。 6.00 は定義されない。ただし、便宜的に 00 = 1 と定義することがある。 7.平面上で、点および線が占める面積は 0 であり、点は 0 次元とされる。 8.階乗 0! は 1 と定義する。また二重階乗 0!! も 1 と定義される。 9.全ての要素が 0 である行列を零行列といい、 0 や O で表記される。 [その他 0 に関連すること]ここは、おまけ なのでスキップOK●慣用表現では、「無」以外にも「始まり」との意味で 0 が使われる事もある。例:「零時点」「0からやり直す」 ●日本や多くのヨーロッパの国では、電話番号の頭の 0 は市外を表す(市外識別番号)。06、075、09802 など。国外からかける場合は、0 をダイヤルしない。(例:日本国内 0460-8x-xxxx → 81-460-8x-xxxx) ●ABO式血液型のO型は、零という意味である(A抗原およびB抗原を発現する遺伝子が無い)。 ●その他にも 0 を意味する O が用いられる事がしばしばある。例:性染色体の分類XO型やZO型など、他。 ●紀年法は数え年となるので、0 年や 0 月は存在しない。西暦であれ神武暦であれ、1年(元年)の前は紀元前1年である。 ●天文学では計算の便宜上、紀元前1年を0年とし、それ以前は負数として扱う(紀元前 2 年は -1 年とする)表記が用いられることがある。日付と時刻の表記に関する国際標準規格である ISO 8601でも同様に表記する。 ●電気抵抗が 0 となる現象を超伝導という。 ●物質における最低温度を絶対零度 (-273.15℃) という。絶対零度 = 0Kである。 ●現代では、名詞に 0 や「ゼロ」「ZERO」「零」が付記されることで、機能・性能などの面で優位性を持つことを示す形容詞的用法がある。●テニスでは、0点のことをラブと呼ぶ。「0」を卵の形にたとえたもので、フランス語で卵の意味。 [零を始点とする概念] 0 を始点とする概念や体系は、始点からの距離を測る場合に用いられる。主なものは以下の通り。距離:里程標の0kmポストなど。 周年 時刻:00時00分00秒 人類の歴史にとって長い間、「数」といえば指を折って数える「自然数」の事だった。自然数 : 1,2,3,4,5,・・・・そして、自然数から整数へ、整数から有理数へ、有理数から実数へ、・・・、と拡張されていくことで数学が進歩してきた。今や科学無しでは成り立たなくなった人類にとって、「ゼロの発見」は数学の進歩とともに拡張されてきた「数」の概念の拡張への大きな第一歩だった。(1) 直線(数直線)から考察するゼロ直線は"右"にも"左"にも無限に伸びているが、自然数は片方にだけ無限に向かっている。つまり、直線における位置を表すのに自然数一組では足らない。直線の目盛りには、"基準となる点"と、"右に伸びる自然数の一組"と、"左に伸びる自然数の一組"が必要になってくる。この場合の、"基準となる点"=原点を表す数がゼロに他ならない。そして、"右に伸びる自然数の一組"が正の数ならば、"左に伸びる自然数の一組"が負の数になる。●「ゼロの発見」または「ゼロの創造」から、「負(マイナス)」という概念の発見または創造につながった。(2) 群という概念とゼロの必要性数学では閉じているということが重要になる。ある集合の中の操作によってその集合から飛び出さないほうが都合がよいからである。例えば、人間に何か操作すると訳の分からない化け物になってしまったのでは困る。抽象的に「ある集合」と述べたが、何かの「数」の集合で置き換え、「操作」を演算と考えてみる。このように集合と演算を定義して、必要最低限の条件を付け、いわゆる閉じた世界をつくったものが群(ぐん)である。演算に加法(足し算)を選んだ場合の群が「加法群」。実は、どんな群でも演算で変化しない要素が必要である。つまり、集合Sのどんな元xにたいしてもx(演算)e = x および e(演算)x = xとなるeが必要である。群ではこのeを単位元という。さらに、xごとに演算を行うと単位元eになるもの、逆元が必要。「加法群」における単位元がゼロ(0)で、「加法群」における x の逆元が -x である。そして、ゼロ(0)が存在するから、方程式で例外なく解を持てるようになった。【自然数だけの世界では】(1) 方程式: x-3=無し の解は x=3(2) 方程式: x+1=無し の解は存在しない↓【整数の世界では】(1) 方程式: x-3=0 の解は x=3(2) 方程式: x+1=0 の解は x=-1 詰まらん事を書きおってと思う向きが多いと思うけれど、0の発見があって数学そして科学が進歩した訳ですよ。日常生活でも0を使わないでは過ごせません。買い物の精算は どうしますか。例えば、0抜き自然数だけでは上記緑色のような計算は出来ません。たまにはボケーと寝ころんで思索的になるのも良い事ですよ。
2009.04.24
コメント(4)
![]()
アドレナリンが少し分泌してきたので。車山(くるまやま)とは、長野県茅野市と諏訪市の境目に位置する山。霧ヶ峰の最高峰。車山一帯は車山高原(くるまやまこうげん)と呼ばれている。手前は白樺湖。遠くの山が車山。これが車山。面白くも なんとも無い所だが、昔ここでハンググライダーの研修を受けた。高原の丘の上からテークオフ。失速して落下。グライダーを担いで丘の上に登る。痛いのと疲れでボロボロ。その繰り返し。操作は簡単だが、「風を読む」のが難しい。デリケートな感覚が必要。一週間やって、どうやら飛べるようにはなった。年休が終わったので、ライセンスは後日取る積もりで東京に戻った。Scuba divingと同様に三次元空間への憧れだった。後日談が有るが、アドレナリンが切れたので止める。
2009.04.24
コメント(2)

2009.04.24
コメント(4)

コモ湖は、ミラノの少し北にある。カエサルも休息をとった古代ローマから続く避暑地。湖畔には、ヴィスコンテ家の元別荘ヴィッラ・オルモや、現在は高級ホテルとなっているコモの枢機卿が建てたヴィラ・デステなどが建ち並んでいる。(ビラ・デステ)(ビラ)[総括]
2009.04.23
コメント(4)

がんばって上る白クマの子供。生まれた時から何か悪者そうです。頭に毛が残ってる。ゴマ・・・。兄弟。温まりながら何を見つめているのでしょう。親を気遣っているようです。大海原へ飛び出す子亀。気合入ってます。南極の寒さの中でも温かさを感じる写真。シファカ。こちらが気になるようですね。見つめ合う親子。堂々とした母親が印象的。頭がかっこいいです。親の口元をなめるハイエナの子供。絶滅の危険が高いエチオピアオオカミ。ミッドウェー環礁に生息するシロアジサシのひな。ふわふわです。生後4週間のミーアキャットの子供。
2009.04.23
コメント(4)

切子とクリスタルガラスの種類を探る事を試みたが失敗。疲れたので止めた。大阪切子がヒットしたが真偽は不明。[江戸切子][薩摩切子][大阪切子][クリスタルガラス](オレフォス)スェーデン(スワロフスキー)オーストリア(プレシオサ)チェコ(イッタラ)フィンランド(ツヴィーゼル)ドイツ(ボヘミア)チェコ
2009.04.22
コメント(8)
[ゲマインシャフト]Gemeinschaft1.コミュニティー(英:community)。同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などが深く結びついている社会のこと(地域社会)。日本語の「共同体」はこれの訳語。主に市町村などの地域社会を意味するが、転じて国際的な連帯やインターネット上の集まりなども「共同体」あるいは「コミュニティ」と呼ばれる(例:欧州共同体、東アジア共同体、国際航空通信共同体)。 2.地方自治体、地域を越えた共同体と区別して、地域住民の相互性を強調する場合、地域コミュニティということも多い。伝統的な村落共同体は、農村、漁村、山村を念頭においていたが、地域コミュニティには、都市における共同体も含まれる。この点で、現在では、「共同体」の語よりも「地域コミュニティ」の語が広く使用されるようになりつつある。 3.ゲマインシャフト(独:Gemeinschaft)。地縁、血縁などにより自然発生した社会集団のこと。ドイツの社会学者、フェルディナント・テンニースの提唱した社会類型の一つ(共同社会)。 [ゲゼルシャフト]Gesellschaftテンニースは、人間社会が近代化すると共に、地縁や血縁で深く結びついた伝統的社会形態であるゲマインシャフトからゲゼルシャフト(Gesellschaft)へと変遷していくと考えた。ゲゼルシャフト(Gesellschaft)はテンニースが提唱したゲマインシャフトの対概念で、近代国家や会社、大都市のように利害関係に基づいて人為的に作られた社会のこと(近代社会)。ゲマインシャフトとは対照的に、ゲゼルシャフトでは人間関係は疎遠になる。日本においては、労働集約型の農業を基礎に「協働型社会」とも呼べるものが形成されていた。これは産業革命、工業化のプロセスに従って企業共同体へと変貌したと言われる。しかし経済のソフト化に伴いそれが崩れつつあり、日本の歴史上において最も激しい変化を経験していると言える。社会学用語では無いが、「運命共同体」なる言葉が、よく使われる。上記の「コミュニティ」に近いが、「同じ釜の飯を食う仲間」とか「一蓮托生、生死を共にする」という おどろおどろしい響きが感じられる。高度成長期の日本企業は これであり、強みでもあった。しかし、現在は死語に近く、ゲゼルシャフト社会に移行しつつ有ると 俺は思う。だが、これに どのように対応していくのか、その術は判らない。
2009.04.22
コメント(6)
![]()
アンティーク・ジュエリーの原点。古来、ジュエリーはさまざまな理由で用いられてきた。通貨、富の誇示、及び保管 実用(留め金、ピン、ベルト留めなど) 象徴(地位や所属を示す) 護符(魔除けや魔方陣の形で) 芸術性の表現 ほとんどの文化はある時点で、多量の富をジュエリーという形で保管しようとする。 多くの文化で、結婚持参金としてジュエリーを贈ったり、お金を納めたり飾ったりするためにジュエリーを作ったりする。 またさらに、ジュエリーは通貨や取引の材料として使使われてきた。 ジュエリーは早くから実用品として使われてきた。事実、ブローチやバックルなど、ジュエリーの多くのアイテムは純粋な実用品から始まり、その機能が満たされるとさらに装飾品として発展したのである。ジュエリーはまたグループへの所属を象徴するものでもあり、キリスト教の十字架やユダヤ教のダビデの星などがこれに当たる。また身分を表す場合には、西洋の夫婦が着ける結婚指輪などが相当する。 護符や信仰の証を身に着けて保護を願ったり悪を避けようとするのは万国ほぼ共通で、アンクのようなシンボル、石、植物、動物、ハムサのような体の一部などが例に挙げられる 。芸術性の表現はごく初期のジュエリーにおいても明らかに意識されていたが、他の上記のような役割を優先させることが多かった。 [部族のビーズをつけたケニアの男性][十字架]象徴(ラテン十字)(ギリシャ十字)[ダビデの星]象徴(六芒星)(イスラエルの国旗に入っている六芒星)[ハムサ]御符
2009.04.22
コメント(2)
![]()
アンティーク・ジュエリー(英語:antique jewellery、米語:antique jewelry)とは、製作されてから100年以上を経過した宝飾品で、骨董的価値を持つ装身具のこと。主に欧米で作られたものについていう。 市場に出回るのは製作から200年以内のものがほとんど、という事情もあり、アール・ヌーボーやアール・デコ期のジュエリーについては、正確にはまだ100年を経ていなくてもアンティーク・ジュエリーとして認められることが多い。[エジプト][ギリシャ][ローマ][中世][ルネッサンス][ロマンティシズム]
2009.04.21
コメント(6)

七宝焼きとは工芸技法のひとつ。金、銀、銅などの金属製の下地の上に釉薬(ゆうやく:鉱物質の微粉末を水とフノリでペースト状にしたもの)を乗せたものを高温(800度前後)で焼成することによって、融けた釉薬によるガラス様あるいはエナメル様の美しい彩色を施すもの。中近東で技法が生まれ、シルクロードを通って、中国に伝わり、さらに日本にも伝わった。日本最古のものは、奈良県の藤ノ木古墳より出土、又、奈良市の正倉院に黄金瑠璃細背十二稜鏡が収蔵されている。ブローチやペンダントなどの比較的小さな装身具から巨大な壺まで、さまざまな作品が作られる。大きなものには専用の窯が必要になるが、小さなものなら家庭用の電気炉でも作成できるため、趣味として楽しむ人も多い。[バスタイユ]エナメルの半透性を生かし、土台の金属に刻まれた彫刻模様(ギヨシェ)を見せる技法。金属に施された彫刻が主眼となるので、使用されるエナメルは単色。ファベルジェの作品に、この技法を使用したものが多い。[ロンドボス・エナメル]金などの立体像の表面全体に、エナメルを施す技法。ルネサンス期のジュエリーなどに多く例を見ることができる。[クロワゾネ]土台となる金属の上に、さらに金属線を貼り付けて輪郭線を描き、できた枠内をエナメルで埋めて装飾する技法。シャンルーヴェよりさらに細かい表現が可能になる。日本の有線七宝はここに属する。[その他の技法](シャンルーヴェ)土台の金属を彫りこんで、できたくぼみをエナメルで埋めて装飾する技法。初期の頃は、輪郭線の部分をライン状に彫りこんでいた。技術の発達につれて、逆に、面になる部分を彫りこんでエナメルで装飾し、彫り残した金属部分を輪郭線とするようになった。(プリカジュール)薄い金属箔の上に、クロワゾネとほぼ同じ工程でエナメルを焼き付け、その後に薬品処理によって箔を取り除く技法。金属枠のみによって支えられたエナメルは光を透過するので、ステンドグラスのような効果を得られる。アールヌーボー期のジュエリーに好んで使用された。美しいが非常に繊細で、衝撃に弱い。( ペイントエナメル )あらかじめ単色で焼き付けたエナメルを下地とし、その上に、筆を使ってさらにエナメル画を描き、焼き付ける技法。人物や植物を描いたミニアチュールが例として挙げられる。[工芸品例]
2009.04.21
コメント(2)

13世紀にチェコ西部のボヘミアの森林地帯でボヘミアングラスが生まれた。以来、ヨーロッパの王侯や貴族の間で愛好されてきたこの工芸品は、700年もの間"ガラスの錬金術師"と呼ばれる名匠たちに受け継がれ、芸術の域にまで達した。しかしEU加盟後、近代化が進むチェコでも、現在では熟練職人の技による細工を施した本格的な作品は世界でも稀少な品となっている。上記はボヘミアの5大名窯<モーゼル><シーザー><エーゲルマン><イフラバ><クリスタレックス>で技の粋を凝らして製作した酒器。[おまけ]エーゲルマン[おまけ]スペインの至宝と称される〈リヤドロ〉の中でも格の高いハイポーセリン作品。[おまけ]ドイツ・ノブレスクリスタル社
2009.04.20
コメント(8)
![]()
[ミンミン]これは民族楽器では無い。誰にでも簡単に楽しく触れる「日本発」の民族楽器に育てたいとの想いで川合ケン氏が考案した弦楽器。3本の鉄弦と個性的な造形で構成されるミンミンは、沖縄三線を西洋ギターと掛け合わせたようなもので、沖縄三線と大きく異なるところは胴棹一本構造でフレットを持つ楽器。[サンポーニャ]ボリビア[二胡]中国[ジャンベ]西アフリカ [シタール]インド [キリム]トルコ[カバキーニョ]ポルトガル[トルン]ベトナム[リラ]ギリシャ[カリンバ]バリ・タイ[ウドゥ]エジプト [ヨダキ]オーストラリア[ディジュリドゥ]オーストラリア[ダンモイ口]ベトナム[真鍮口琴]ベトナム[アサラト]西アフリカ[ホムス]シベリア
2009.04.20
コメント(4)
米国での生活で便利だな と思った事の幾つか。1.バレットパーキング(Valet Parking)米国は土地が広いので、郊外に住んでいる場合は、自宅の前に来客用の駐車場が有る場合が多い。俺の場合は3台分の広さ。これが都会や郊外でも敷地の広いレストラン・ホテルなどは駐車に手間取る。そこで、バレットパーキング。ちなみにValetとは「世話係・従者の意」。レストランやホテルの前に車を止めたら、フロント前に居るバレットパーキング係に車を任せる。引き換えカードを受け取り、用が終わったらカードを渡して車を出してもらう。ただし、駐車料金とは別にこの人にチップを渡す必要がある。NY・ロス・サンフランシスコでは日本と同じで敷地に駐車スペースを持てない店が多くあるが、これを利用すると店と遠い駐車場の間を歩かずに済む。アメリカで販売している車は、バレットパーキング用のスペアキーが付いている。この係りがトランクやグローブボックスの物を盗むケースが多いため。このキーはエンジンしか掛からない。2.通勤専用レーン米国でも通勤時は、車が渋滞する。これを緩和するため、中央分離帯沿いのレーンを通勤専用レーンとして使える。ただし、二人以上乗車している事が必要。3.食べ残しの持ち帰りファーストフード店のtake-out(米国ではto-goと呼称)とは異なる。一般レストランでも頼めば発泡スチロール製の容器に 当然のように詰めてくれる。4.ホームパーティ彼等はホームパーティが好きだが、来客は夫々手料理を持参する場合が多い。その点 主催者は気楽だ。後片付けも手伝う。そして三々五々帰って行く。モジモジなど誰もしない。5.ホームドクター広い土地柄なので、近くにホームドクターを持つ人が多い。日本もその傾向にある。日本で大学病院などは施設は充実しているが、行く度に医者が変わる。ホームドクターは多年の付き合いなので阿吽の呼吸で済む。面白い話が有る。俺の日本人の友人が、医者に「How are you ?」と言われ「I'm fine, thank you.」と返事したところ、「fine なら来る事ないよ」と言われたそうな。それだけ親密ともいえる。一方、電話で病気の相談をしたら、後日診療請求書が郵送されてきた人もいる。これは当然だね。
2009.04.19
コメント(6)
tipは、 サービスの利用に対して支払う、規定料金とは別の心づけの現金 。野球で、ボールがバットを掠めるように当たったときの打球をファウルチップ、略してチップと呼ぶが、このブログの対象は前者。日本以外の国(特に欧米)にて慣習として、ホテルの宿泊(ベッドメイキング、ルームサービス、ベルボーイによる荷物の運搬など)やタクシーの利用、レストランでの飲食、理容店や美容院などでtipが必要だ。日本にはこのような慣習はない、もしくはサービス料として無意識のまま徴収されているため、非常になじみにくいものであるが、外国ではサービス業の賃金が安く設定されているために、チップがサービス業従事者の生活給となっている。とりわけ、個人に対するサービスではそれが顕著である。だから、国際的な物価の比較において単純に規定料金でのみ比較して日本は高いとするのは間違いである。但し、日本でも旅館ではチップが「茶代」として慣習化されている。日本ではチップを渡すとき紙に包んで渡すのが礼儀である。コインや紙幣をそのまま渡すことは相手に対する非礼と見なされる。但しタクシーの料金支払いの場合などは裸のまま渡すことは一般に行われている。ちなみに、国内でも「チップトイレ」という、利用者にチップの支払いを求めるトイレが存在する。他にも引越客が専門業者に対して「御飯代」「御祝儀」としてチップを渡す場合もあるが、あくまで一部の客の裁量で行なわれるため、すべての客がそうしているわけではない。アメリカの相場としては、ベルボーイによる荷物の運搬で2ドル程度、タクシーで料金メーターの10-15%程度、カジノでのディーラーへの賭額など。レストランで飲食では、1980年代までは10%-15%であったが、近年は15%-20%程度が相場となっている。なお、レストランのウエイター、ウエイトレスは決まった時給ではなく全額給料がチップからという場合も多い。レストラン等にてクレジットカードで支払う場合には、チップの金額を書き込む欄があるので、ここに飲食分のみの15%程度の金額を書き込む。もちろん、伝票の金額が間違っていないか(二重取りされていないか)のチェックは必要である。たくさん渡せば良いと言うものではなく、逆に成金として軽く見られることもある。とかく日本人はチップを高額に渡し、相場を引き上げてしまうとされている。また、時々日本のガイドブックには払うように書いてあるのを見かけるが、ホテルのベッドメイキングに対してはよほど汚したりしていない限り不要である。「discretionary」、すなわち「任意」である。できれば、チップ用として空港などで、1ドル札などの小額紙幣を多く両替するとよい。チップの習慣は米国で盛んであり、欧州でのチップの習慣は地域により異なる。チップの習慣がない地域の人が米国へ旅行してトラブルになることもある。また、ノー・チップ制を謳うホテルもある。サービス料に該当するコストが宿泊料に含まれているわけである。なお、チップのことをフランス語・ドイツ語ではpourboire・Trinkgeldという。いずれも「酒を飲むためのお金」ぐらいの意味である。サービスしてくれる人をねぎらって、「これで一杯飲んでくれ」と小銭を渡したことがチップの始まりだろうと推測できる。俺はtip制度に大賛成だ。例えばレストラン。日本ではウエイトレス嬢は、料理を食卓に並べると それで終わり。欧米では料理をオーダーした担当ウエイターあるいはウエイトレスが、客の動きを それとなく見て居り、「料理は美味しいですか」とか「コーヒーを注ぎましょうか」とかタイミング良く話し掛けてくる。内心はtip欲しさで有るにせよ、客は「もてなされている」と感じて気分が良い。ベッドメーキングに対する いわゆる枕銭にしても出す出さないでは明らかに違う。連泊の時 tipを置いておくと使い残しのトイレタリー・タオルの他にワンセット用意されている。tipについての賛否は様々だろうが、概して日本人はサービスへの「ねぎらい」の気持ちが薄いと思う。それがtip無しの原因であろう。そのtip音痴の日本人が欧米に行くと、不慣れと言葉の不安さのあまり逆に過度にtipを払うケースが出てくる。
2009.04.18
コメント(4)
最近ダイバーシティマネージメントという言葉が使われるようになってきた。これは有能な人材確保のために、女性、外国人、少数民族などを受容し活用できる組織を作る人材管理手法のこと。Diversity=「ダイバシティ」「ダイバシティー」「ダイバーシティ」も正しいが「ダイバーシティー」という日本語がもっとも多い。ダイバーシティーは多様性を意味する。歴史的に日本は同質を重んじる文化である。しかし、同質な価値観を持った集団は、意思統一を図りやすい半面、異なる意見を受け入れない閉鎖性を帯びがちだ。これに対して、異なる文化を持つ民族や人種を排除せずに、オープンな組織や社会を作ろう、という運動が盛んなのが米国。そうしたオープンな組織作りのための人材管理手法が「ダイバーシティーマネジメント」。人種差別などを背景に、企業経営においても、まずはダイバーシティーマネジメントは国家主導で進められきた。現在では、有能な人材確保のためには、人種、国籍や性別にこだわった組織作りは望ましくないという前向きな意義も徐々に浸透しつつある。効果は簡単にいえば、視点の多様化が図れる事。日本におけるダイバーシティーマネジメントの取り組みとしては、例えば1986年の雇用機会均等法の施行が挙げられる。有能な人材を確保するために他企業でキャリアを積んだ人を中途採用で受け入れたり、分け隔てなく女性を登用したり、外国人を採用するといった動きも、ダイバーシティーマネジメントの一環といえる。経営的な意味としては、問題解決や企画会議などの場面でゼロベースでの検討が可能になるといったメリットも挙げられる。様々な性格や習慣、視点を持つ人が集まることで、アイデアを豊富に備えた組織になるからだ。ただし、異文化を持った人たちのチームが期待通りに、多様性を問題解決や ざん新な商品開発に結びつけられるかどうかには、注意を払うべき点がある。(1)同じ文化的背景を持つチームよりも検討や合意に時間がかかるためコミュニケーションのプロセスに工夫が必要(2)互いの信頼関係が醸成されにくくなるので参加者には異文化への慣れが必要 といった注意だ。大賛成だが、同質性の高い日本では普及に日時を要するだろう。
2009.04.18
コメント(2)

暈(かさ)とは、太陽や月に薄い雲がかかった際にその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のことである。ハローまたはハロ(halo)ともいう。特に太陽の周りに現れたものは日暈(ひがさ、にちうん)、月の周りに現れたものは月暈(つきがさ、げつうん)という。 虹のようにも見えることから白虹(はっこう、しろにじ)ともいう。[暈][月暈]暈は雲を形成する氷晶がプリズムとしてはたらき、太陽や月からの光が氷晶の中を通り抜ける際に屈折されることで発生する。暈を生じさせる雲は多くの場合、対流圏上層に発生し氷晶からなる巻層雲や巻積雲、巻雲である。高層雲、高積雲、乱層雲、積乱雲、層雲などは、氷晶が含まれていても少ない上に、氷粒に成長していて光の経路が複雑化しているため、暈が見られない。巻層雲、巻積雲、巻雲を形成する氷晶は多くの場合、単純な六角柱状の形をしている。氷晶のそれぞれの面は60度、90度、120度のいずれかの角を成しているため、氷晶は頂角60度、90度、120度のいずれかのプリズムとしてはたらく。光線が六角柱状の氷晶のある側面から入射し、1つ側面を挟んだ別の側面から出る場合、この2つの面は60度の角を成しているため、氷晶は頂角60度のプリズムとしてはたらく。このとき氷晶の向きがランダムになっていると、屈折された太陽からの光が、太陽を中心とした半径(視半径)約22度の円として見える。実際には、半径22度の円の外側にも明るい部分が見え、外側に行くほど暗くなる。これを内暈(ないうん、うちがさ)または22°ハロという。光線が六角柱状の氷晶の底面から入射し側面から出る場合、あるいは側面から入射し底面から出る場合には、この2つの面は90度の角を成しているため、氷晶は頂角90度のプリズムとしてはたらく。このとき氷晶の向きがランダムになっていると、屈折された太陽からの光が、太陽を中心とした半径(視半径)約46度の円として見える。これを外暈(がいうん、そとがさ)または46°ハロという。 光線が六角柱状の氷晶のある側面から入射し、隣りの側面から出ようとする場合、氷晶は頂角120度のプリズムとしてはたらく。しかし、この時は出ようとした光線は全反射されてしまうために、この頂角に対応する暈は存在しない。 観測される暈はほとんどが内暈であり、外暈が観測されることはかなり稀である。また雲を形成する氷晶の形が特殊な場合には、これ以外の位置に暈が現れることもある。氷晶の屈折率は光の波長によって異なるため、暈も虹のように色に分かれて見える。内暈、外暈ともに内側が赤色、外側が紫色となっている。しかし実際には、氷晶の向きがランダムであるため、散乱などによって分光された色が混じり合ってしまい、白っぽく見えるだけのことが多い。色分れした色帯のうち、外側の赤色は他の色と重なり合わないため、内側の赤や黄色系のところだけが色づいて見えることが多い。「太陽や月に暈がかかると雨が近い」という言い伝えが伝わっている地方は多い。低気圧の温暖前線の前方には暈を発生させる巻層雲や巻雲などが存在し、暈は低気圧の接近に伴って発生することが多いためである。[内暈の際に六角柱の氷晶を通る太陽光の模式図。六角柱の向きは氷晶によりばらばら][外暈の際に六角柱の氷晶を通る太陽光の模式図。六角柱の向きは氷晶によりばらばら] これと似て非なるものにレンズフレアが有る。[レンズフレア]レンズフレア (Lens flare) は、カメラによって写真・映像を撮影する際に、極めて明るい光源がレンズに向けて当てられている時に生じる、光の像である。実写の映像で起きる現象をハレーションと呼ぶ事もあるが、フレア・ゴーストであり誤用である。フレア・ゴーストはレンズのマイナスの特性であり、発生させないようにするには使用レンズの特性を把握している必要がある。フレア・ゴーストが発生しないようにハレ切りと呼ばれる作業を行うが、これは慣習的な言葉の使用で誤用であり、本来はフレアの防止である。 本格的なカメラには必ず付けられるレンズフードなども、フレア・ゴーストを抑制する為のものである。[レンズフレアの一例]
2009.04.17
コメント(6)
感性とは、美や善などの評価判断に関する印象の内包的な意味を知覚する能力といえる。これは非言語的、無意識的、直感的なものであり、例えば何らかの音楽に違和感を覚えるように人間に作用することもある。[感性の定義]哲学的、心理学的にさまざまに行われている。認識論では悟性(下記)の対極にあって受動的な知覚を担うものであり、また、人間的な理性よりも下位にあるために、より動物的なものだと論じられることもある。近代ドイツの哲学者カントが「純粋理性批判」にて「悟性的な認識の基盤を構成する感覚的直感表象を受容する能力」と言ったが、この場合の感性はより感覚に近い位置づけである。ただし、心理学では感性と感覚は必ずしも同一としない。離人症の患者がどんな絵画を鑑賞しても色や形を感覚として知覚しているものの、それらから何の感動や感情も持つことはなかったという症例があり、このことから情報の感覚的な処理と感性的な処理は単純に同じではないことが分かる。従って心理学者の三浦佳世は感性を「事物に対する感受性、とりわけ、対象の内包する多義的であいまいな情報に対する直感的な能力」と定義した。そしてこれに「高速で行われるところの帰属要因ならびに処理過程に関する情報の選択あるいは統合に対する無自覚性を特徴とする、処理に対する能力で、主に評価の形で表現されるもの」とも定義した。後に創造的な側面を踏まえて「無自覚的・直感的・情報統合的にくだす印象評価判断能力」という定義も加えられた。しからば、美とは何か。[美]美(び)とは、「美しいこと」、あるいは「美しさ」であり、自然の事物等に対する感覚的に素朴な印象から、芸術作品に対して抱く感動の感情、あるいは人間の行為の倫理的価値に対する評価にいたるまで、さまざまな意味と解釈の位相を持っている。美は一般に、「良いこと」従って、哲学的な表現では、「善」と何かにおいて関係するものだと言える。言語表現について述べれば、例えば、見事に開いた薔薇の花を「美しい」と人は表現し、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」を美しいとも評する。古代エジプトの女王であったクレオパトラ7世は「美女」として著名であり、数学者は、抽象数学であるリー群やイデアル理論に出てくる定理を美しいと述べる。モーツァルトやフォーレの音楽は、繊細な美しさを持つと言われ、ヘルマン・ヘッセは、作品に「青春は美し」という題をつけた。また、日本語では、「姿ではなく、美しい心の持ち主」というような表現もする。これらの言葉の使われ方から窺えることは、「美しいこと・美」とは、何か良いこと・快いことであるが、またそれは「優れたこと」であり、また「感動」を人に与える何かであるということである。悟性とは何か。[悟性]この語はもともと「知性」や「理解力」などと同意義であるが、西洋哲学においては様々な哲学者がそれぞれの定義の下で用いる。 一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性である。詳述すれば、物自体に触発されて直観による表象を行う下級認識能力である感性に対して、悟性は理性や判断力とともに上級認識能力のひとつであるとされる。以上を簡単に総括すれば、人間の認識能力の流れは、次のようになる。なお、下級・上級の言葉は下等・上等を意味するものでは無い。感性→悟性=知性→理解→理性感性ずば抜けだが理性はマアマア。感性マアマアだが理性ずば抜け。感性・理性がそれなりにバランス。など人様々。それだけの事。また、詰まらないブログを書いた。
2009.04.17
コメント(4)
このグルメ時代に知らぬ方は居ないだろうが、 懐石料理とは茶道の形式に則した食事の形式。利休時代の茶会記では、茶会の食事はただ「会」とのみ記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことがわかる。江戸時代になって禅宗の温石(おんじゃく)に通じる「懐石」の文字が当てられるようになった。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めた蒟蒻などを布に包み懐に入れる暖房具を意味する。「懐石」が料理に結びつく経緯は諸説ある。修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れた説。客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめて空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったとする説。また老子の「徳経」にある被褐懐玉の玉を石に置き換えたとする説などである。天正年間には堺を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜が定着し、「懐石」=「一汁三菜」となる。また江戸時代には、三菜を刺身(向付)、煮物椀、焼き物とする形が出来、さらに料理技術の発達と共に、「もてなし」が「手間をかける」ことに繋がり、現在の茶道や料亭にみられる様式を重視した「懐石」料理が完成した。現代では茶道でも共通する客をもてなす本来の懐石の意味が廃れ、茶会の席上で空腹のまま刺激の強い茶を飲むことを避け、茶をおいしく味わう上で差し支えのない程度の軽食や類似の和食コース料理を指すという実利的な意味に変化している。懐石料理は茶会以外の場、例えば料亭や割烹などの日本食を扱う料理店をはじめとして様々な飲食店で懐石料理を提供するところが増え、茶事における懐石を特に「茶懐石」と表わして区別することもある。この一因には、料理店で提供される際に、料理を持ち出す順序、提供される順序などが「茶懐石」と若干異なることにある。茶懐石ではじめに提供される飯と味噌汁は料理屋の懐石では省略され、先に八寸が提供されることが多い。また一人一人に料理が盛って持ち出され、茶席におけるように、取り回し時に特別の作法を言われぬことなど、料理屋で食べる懐石料理は打ち解けたものであることが多い。加えて、懐石料理は本来量が少なかったことから、量の少ないコース料理全般を懐石と呼ぶ傾向があり洋風懐石や欧風懐石といった名称の料理が存在する。懐石の流れは、飯、汁、向付 ・煮物 ・焼物・預け鉢・吸物・八寸・湯と香の物 ・菓子となる。略式懐石は重箱を器として、懐石の一通りの献立を入れたもの。松花堂弁当もこれに該当する。 詰まらないブログを書いてしまった。
2009.04.17
コメント(4)
[秋刀魚の歌]あはれ秋風よ情こころあらば伝へてよ男ありて今日の夕餉ゆうげにひとりさんまを食くらひて思ひにふけると。さんま、さんま、そが上に青き蜜柑みかんの酸すを したたらせてさんまを食ふはその男がふる里の ならひなり。そのならひを あやしみ なつかしみて女はいくたびか青き蜜柑をもぎ来て 夕げにむかひけむ。あはれ、人に捨てられんとする 人妻と妻にそむかれたる男と食卓に むかへば、愛うすき父を持ちし女の児は小さき箸をあやつりなやみつつ父ならぬ男に さんまの 腸はらをくれむと 言ふにあらずや。あはれ秋風よ汝なれこそは 見つらめ世のつねならぬ団欒まどゐを。いかに秋風よいとせめて証あかしせよ かの一ときの団欒まどゐ ゆめに非ずと。あはれ秋風よ情こころあらば 伝へてよ、夫を失はざりし妻と父を失はざりし幼児をさなごとに伝へてよ男ありて今日の夕げに ひとりさんまを食ひて涙をながす と。さんま、さんま、さんま苦いか 塩つぱいか。そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。あはれげにそは 問はまほしくをかし。[海辺の恋]こぼれ松葉をかきあつめをとめのごとき君なりき、こぼれ松葉に火をはなちわらべのごときわれなりき。わらべとをとめよりそひぬただたまゆらの火をかこみ、うれしくふたり手をとりぬかひなきことをただ夢み、入り日のなかに立つけぶりありやなしやとただほのか、海べのこひのはかなさはこぼれ松葉の火なりけむ。[少年の日] 野ゆき山ゆき海辺ゆき 真ひるの丘べ花を敷き つぶら瞳の君ゆゑに うれひは青し空よりも。 影おほき林をたどり 夢ふかきみ瞳を恋ひ あたたかき真昼の丘べ 花を敷き、あはれ若き日。 君が瞳はつぶらにて 君が心は知りがたし。 君をはなれて唯ひとり 月夜の海に石を投ぐ。 君は夜(よ)な夜(よ)な毛糸編む 銀の編み棒に編む糸は かぐろなる糸あかき糸 そのラムプ敷き誰(た)がものぞ。 [望郷五月歌]塵(ちり)まみれなる街路樹に 哀れなる五月(さつき)来にけり 石だたみ都大路を歩みつつ 恋ひしきや何ぞわが古里 あさもよし紀の国の 牟婁(むろ)の海山(うみやま)夏みかんたわわに実(みの)り 橘の花さくなべに とよもして啼くほととぎす 心してな散らしそかのよき花を 朝霧か若かりし日の わが夢ぞ そこに狭霧(さぎ)らふ 朝雲か望郷の わが心こそ そこにいさよへ 空青し山青し海青し 日はかがやかに 南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ 心も軽くうれしきに 海(わだ)の原見はるかさんとて のぼり行く山辺の道は 杉檜樟(くす)の芽吹きの 花よりもいみじく匂ひ かぐはしき木の香(か)薫じて のぼり行く路(みち)いくまがり しづかにも昇る煙の 見まがふや香炉の煙 山賤(やまがつ)が吸ひのこしたる 鄙(ひな)ぶりの山の煙草の 椿の葉焦げて落ちたり 古(いにしへ)の帝王たちも通はせし 尾(を)の上(へ)の道は果てを無(な)み ただつれづれに 通ふべききはにあらねば 目を上げてただに望みて いそのかみふるき昔をしのびつつ そぞろにも山を下りぬ 歌まくら塵の世をはなれ小島(をじま)に 立ち騒ぐ波もや見むと 辿り行く荒磯(ありそ)石原(いしはら) 丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり 若者の憩へるあらば 海の幸(さち)鯨(いさな)捕る船の話も聞くべかり 且つは問へ 浦の浜木綿(はまゆう)幾重(いくへ)なすあたり何処(いづく)と いざさらば 心ゆく今日のかたみに 荒海の八重の潮路を運ばれて 流れよる千種(ちぐさ)百種(ももぐさ) 貝がらの数を集めて歌にそへ 贈らばや都の子等に
2009.04.16
コメント(2)

[丘の写真館」という名のギャラリーで、買った絵葉書。館主は著名な写真家だが、御自身の作品かどうかは不明。それでも今までアップしてきた写真とは段違い。写真館の中に展示してある写真が見事]
2009.04.16
コメント(2)

土門 拳(1909年 - 1990年)は、日本を代表する写真家である。日本の庶民または、仏像等の撮影に特に才能を発揮した。俺はブログで写真について、かなり僭越な発言をしたが、その根底には土門氏の存在・作品・言動への憧れが有るからだ。土門氏は報道カメラマンとして「ヒロシマ」や「筑豊の子供たち」などの社会的現実に取り組み現場の目撃者として火柱の立つような告発をする一方で、全国の古寺を訪ね古寺巡礼をライフワークとして日本人の心を写しだし、写真という分野を芸術の域にまで高めた貢献者と言われている。室生寺を写した土門氏の写真を見ると、「どの写真も土門の血肉を分けた分身であり、どの頁も土門のいのちを宿している」といわれるように、白黒の仏像写真にはだれにも真似のできない迫真さが感じられる。この写真の撮り方を知るとそれもその筈であると頷ける。組み立て式大型カメラでレンズはテッサの250mmF4,5でそのレンズをF64までぎりぎりまで絞る。ほとんど針の穴ぐらいの絞りなので露出のほうは1時間位かけるようである。勿論自然光で連子窓からのわずかな光だけで撮影するというのである。何度も通って、心を通わせた仏像をこのくらいの執念で撮った写真の前ではどんな言葉もでないというのが正直な所である。とくにこの釈迦如来像は普通の人ではまずみることのできない角度からの視点で、白鳳時代の仏像からはあきらかに異なる日本人の穏やかな顔立ちをおもわせ正面からの顔とはまた違う印象を受ける。傑作中の傑作の写真と言えるのではないかと思う。俺も昔からカメラ撮影に興味が有り、意気込んで撮影するのだが、つまらない写真ばかりが目立つ。習う事も必要かなと思い、またカメラのせいにしてもっと上等のデジカメ一眼レフが必要かなとも思ったりするが、土門氏の言葉が私を刺激する。色と形を出すだけが写真を「撮る」ことではない。目で確かめ、心に刻んではじめて「撮った」といえる と。「
2009.04.15
コメント(6)

藤村操は、18歳(満16歳10か月)の東京第一高等学校(現・東京大学の前身)で哲学を学ぶ学生。彼は今からおよそ100年前の明治36年に日光・華厳の滝にその身を投じた。前途有望な若者の死に、当時の青年たちは大きなショックを受け、後追い自殺が相次ぐなど、社会現象にまでなった。彼が華厳の滝の巌頭に記した遺言は歴史に残る有名なもの。巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って書き残した文言が、次の「巌頭之感」である。巌 頭 之 感悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。彼を死に追い詰めたものはいうまでもない「不可解な人生」である。悠々たる大自然、はるかなる人類の歴史、その中での自分の存在は余りにも小さく短い。一体、この人生は何のためにあるのか。「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」いかなる哲学も彼に解答を示さなかった。人生の目的に対する哲学の無力を身をもって示した藤村操の自殺であった。青年の死の真相はあらゆる角度から検証されたが、いまだはっきりとした理由は語られていない。だが、哲学青年が厭世観を抱き思想上の悩みから自殺をしたことは世間に大きな衝撃を与えた。それは日本で初めて人生の意味を求めて哲学的死を実践した若者を意味する。華厳の滝は自殺名所とされ、この年11名の自殺者が出、未遂者は15名を数えた。自殺は伝染する。藤村の自殺から一年二ヶ月後、漱石は代表作「我輩は猫である」の連載を雑誌ホトトギスで開始。その中には「打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」という明らかに藤村を題材にした記述があるという。 また、高等学校で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石の精神にも大きな打撃を与え、夏目漱石が後年、鬱病となった一因とも言われる。 一高で一クラス上の岩波茂雄は〈青天の霹靂の如く荘厳凱切なる大文字〉と評し、この「岩頭の感」を呼んでは泣き、呼んでは泣き、岩波も自殺するのではないか、と友人の阿部次郎や阿部能成を心配がらせたほどであった。 ホレーショは、シェークスピアの「ハムレット」の登場人物である。しかし、「ハムレット」を通読してみても、ホレーショがどんな哲学、それも読者の一人を厭世自殺させるような人生観の持ち主なのかつかめない。該当の原文は、ハムレットが親友でもある臣下のホレーショに向かって"There are more things in heaven and earth, Horatio. Than are dreamt of in your philosophy"と語る個所だ。字句通りに訳せば、「ホレーショよ。天と地の間には君の哲学で夢想されるよりはるかに多くのものがあるのだ」となる。つまり"your philosophy"を「君の哲学」=「ホレーショの哲学」と読んでもおかしくないように思える。ところが、これが誤訳。"your"という語を単純に二人称の所有格「君の」と解釈しては間違いなのである。英語学者の渡部昇一著「英文法を撫でる」によれば、この場合の"your"は、話者と聞き手の間に信頼のこもった親近感を作り出し、ごく個人的な肯定的判断や否定的判断を示す働きをしているので「君の」という意味ではない という。実際、多くの辞書も、「あなた(たち)の」という一般的な語義とは別立てで、「{しばしば興味・非難・軽べつなどの意味を含んで}」という意味を掲載している。ちなみに、現行の福田恒在訳が「ホレイショー、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」、また小田島雄志訳が「この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」と"正しく"表現しているのは当然としても、明治時代の坪内逍遙が「この天と地の間にはな いわゆる哲学の思いも及ばぬ大事があるわい」と訳している。「当時としては驚くべき正確な」英語力だ。このブログは英語の難しさを示している訳では無い。藤村青年の思いに深く共感するからだ。重い。ひどく重い。
2009.04.15
コメント(2)
ギヨーム・アポリネール(1880年 - 1918年)は、イタリア出身のポーランド人の詩人、小説家、美術批評家。詩人としては、詩集「腐ってゆく魔術師」や「アルコール」で、名声を確立した。また、随筆「キュビストの画家たち」は、多くの前衛画家の存在と価値とを世に知らしめた。死の直後に公刊された「カリグラム」では、文字で絵を描くという斬新な手法で高い評価を得た。 「アルコール」は、句読点を一切用いない独特の文体で知られる。また、同書に収められた「ミラボー橋」は、画家マリー・ローランサンとの恋とその終焉を綴り、シャンソンの曲として歌われるようになった。小説の分野では、同性愛やサディズム、殺人に関する描写をふんだんに盛り込んだ「一万一千本の鞭」を上梓。しかし、直ちに発禁処分を受け、以後フランスでは1970年まで公刊されなかった。現在、この本は日本でも翻訳されているが、読まない方がよい。[ミラボー橋]歌詞ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ われらの恋が流れる わたしは思い出す悩みのあとには楽しみが来ると 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう こうしていると 二人の腕の橋の下を疲れたまなざしの無窮の時が流れる 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る流れる水のように恋もまた死んでゆく 恋もまた死んでゆく 命ばかりが長く希望ばかりが大きい 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る日が去り 月がゆき 過ぎた時も 昔の恋も 二度とまた帰ってこないミラボー橋の下をセーヌ川が流れる 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る[視聴]WMPhttp://dl.rakuten.co.jp/prod/610024459.html
2009.04.14
コメント(4)

マリー・ローランサンは1883年にパリで私生児として生まれた。ラマルティーヌ高校に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けた。1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合った。アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も覚めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作『ミラボー橋』であるという。1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。1914年に31歳でドイツ人男爵と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となった。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。[二人の友達][天使の娘][赤い花束][アネモネ][縦笛][ペキノワ][城での生活]
2009.04.14
コメント(2)

[荒城の月]歌詞春高楼(こうろう)の 花の宴(えん)巡る盃(さかづき) 影さして千代の松が枝(え) 分け出でし昔の光 今いずこ秋陣営の霜の色鳴きゆく雁(かり)の数見せて植うる剣(つるぎ)に照り沿いし昔の光 今いずこ 今荒城の 夜半(よわ)の月変わらぬ光 誰(た)がためぞ垣に残るは ただ葛(かずら)松に歌う(うとう)は ただ嵐 天上影は 変わらねど栄枯(えいこ)は移る 世の姿映さんとてか 今も尚ああ荒城の夜半の月[視聴]http://www.youtube.com/watch?v=BcKJotZj8eA&feature=related土井晩翠が詞を構想したとされる城[青葉城][鶴ヶ城]滝廉太郎が曲を構想したとされる城[岡城][富山城]
2009.04.14
コメント(0)
![]()
ドン・キホーテ は、スペインの作家であるミゲル・デ・セルバンテス の小説、または、その主人公の名前。騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、みずからを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く「デ・ラ・マンチャ」は彼の出身地のラ・マンチャ地方を指す)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品で、風車に突進する有名なシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるという、オランダ独立の将来を暗示するメタファーであったとする説もある。実在の騎士道小説や牧人小説などが作中に多く登場し、書物の良し悪しについて登場人物がさかんに議論する場面もあり、17世紀のヨーロッパ文学についての文学史上の資料的価値も高い。主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿が多くの人の感動をよんでいる。また、聖書の次に世界的に出版されており、正真正銘のベストセラー小説・ロングセラー小説でもある。2002年にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。[ドン・キホーテとサンチョ][サンチョ・パンサ]「パンサ」は「太鼓腹」の意。もとはドン・キホーテの近所に住んでいた農夫だったが、「将来島を手に入れたあかつきには統治を任せる」というドン・キホーテの約束に釣られ、彼の従士として旅に同行する。性格はいたって平和的・呑気な正直者で人に騙されやすい。奇行を繰り返すドン・キホーテに何度も忠告をするが、大抵は聞き入れられず、主人とともにひどい災難に見舞われる場合がほとんどである。無学で愚鈍な印象があるが、さまざまな諺をひいたり機智に富んだ言い回しをしたりしてドン・キホーテを観察する評論家のような一面も存在する。[ドン・キホーテの像(マドリッド、スペイン広場にて)][ 風車に突進するドン・キホーテ(ギュスターブ・ドレによる挿絵)]ドン・キホーテとサンチョは3-40基の風車に出くわした。ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、吹き飛ばされて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、旅を続ける。俺は、この場面のモデルとなった風車を見てきたね。見物客は あまり居ないらしく、風車の有る丘を車で登って行くと、丘の麓に住んでいる おばあちゃんが追いかけてきて、ガイドするという具合だった。とくにチップも要求されなかった。おばあちゃんは おしゃべりしたかったんだね。正直言って、「ドンキ・ホーテ」は俺にとって面白い小説では無いが、19世紀の解釈はロマン主義によるもので、ドストエフスキーの解釈が典型的である。彼は「作家の日記」の中で「ドン・キホーテ」を「人間の魂の最も深い、最も不思議な一面が、人の心の洞察者である偉大な詩人によって、ここに見事にえぐり出されている」「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」と評している。音楽・映画・演劇・バレーの題材には、かなり取り入れられている。[バレエ「ドン・キホーテ」]
2009.04.14
コメント(2)
M de cervantes saavedra(ミゲル=デ―サーアベドラ・セルバンテス)スペインの小説家。生涯詩人を夢見ていたが気まぐれに書いた「ドン・キホーテ」によって名声を得た。ルネサンスにはじまる近代小説、真に人間を書くことを主題にしたのは「ドンキホーテ」から始まったと言われる。作風は風刺とユーモアに満ち、自由奔放な空想が特色。他に「模範小説集」など。格言を残しているので紹介する。 1.餓えは世界中で最上の調味料だ。―「ドン・キホーテ」―2.喜劇で一番難しい役は愚か者の役であり、それを演ずる役者は愚か者ではない。―「ドン・キホーテ」―3.長い経験からの簡潔な格言。―「ドン・キホーテ」―4.光り輝くものが全て金だとは限らない。―「ドンキホーテ」―5.好機は、それが去ってしまうまで気づかれないものだ。―「ドン・キホーテ」―6.パンさえあればたいていの悲しみは耐えられる。―「ドン・キホーテ」―7.安眠は心労の最大の療法である。8.生命のあるかぎり、希望はあるものだ。―「ドン・キホーテ」―9.自分のポケットの中の小銭は他人のポケットの中の大金にまさる。―「ドン・キホーテ」―10.古い牧草(←昔の恋)は燃やすのに骨が折れるが、その火を消すのはいっそう骨が折れる。―「模範小説集」―11.男は火で、女は麻屑である。悪魔がやってきてそれを吹きつける。―「模範小説集」―12.分別よりも愚行の方がとかく仲間や追随者を呼び寄せるものだ。―「ドン・キホーテ」―13.信仰の存在するところに神は存在する。14.人生ではすべてが良い。死さえも。15.流れに逆らおうとしたところで無駄なことだ。流れのままになっていれば、どんなに弱い人でも岸に流れ着くものだ。16.手の中の一羽の鳥は、宿り木に止まっている二羽の鳥に匹敵する。17.音楽のあるところには真の悪は存在できない。18.私は裸でこの世に来た。私は裸でこの世から出てゆかねばならぬ。19.恋は不思議なめがねをかけている。銅を黄金に、貧しさを豊かさに飼えて見せるようなめがねをかけている。20.機知の切れ味を鈍らせまいと思うなら、あまり機知を鋭くしてはいけない。21.どんな虫っけらだって踏みつけられりゃあ、何を!という格好をするものである。
2009.04.14
コメント(0)
![]()
御承知の通り、パソコンにcpuが内蔵されていなければ、ただの箱。このチップの最大手はIntel社。米国Silicon Valleyが本拠地。ビジネスで何回行ったやら。[A view of downtown San Jose, the "Capital of Silicon Valley."]Silicon Valley is the southern part of the San Francisco Bay Area in Northern California, United States. The term originally referred to the region's large number of silicon chip innovators and manufacturers, but eventually came to refer to all the high-tech businesses in the area; it is now generally used as a metonym for the high-tech sector. Despite the development of other high-tech economic centers throughout the United States, Silicon Valley continues to be the leading high-tech hub because of its large number of engineers and venture capitalists. Geographically, Silicon Valley encompasses the northern part of the Santa Clara Valley and adjacent communities.[Looking west over northern San Jose (downtown is at far left) and other parts of Silicon Valley][インテル本社]インテル(Intel Corporation)は、世界最大の多国籍半導体メーカーである。本社所在地は米国カリフォルニア州のサンタクララ市である。Intelという名称は「Integrated Electronics」からきている。スローガンは「Leap ahead」、日本語では「さあ、その先へ。」。[社是]社是はないが、インテル6-valueと言われており、インテル社内の基本ルールとされている。インテル 6-value Customer Orientation Discipline Quality Risk Taking Great Place to Work Results Orient俺が訪問していた頃には、7 Gold Rulesというのが有った記憶がある。いずれにせよ、OSのガリバーはMicrosoft。ChipのガリバーはIntel。
2009.04.14
コメント(0)
先程、知床をブログにアップしたところ、ある方から「道東の風景は雄大ですね」との趣旨のコメントを頂いたので、拙速で写真中心のイントロをやりましょう。[釧路湿原][サロマ湖] [屈斜路湖][網走湖][オンネトー][野付半島] [霧多布湿原]
2009.04.13
コメント(4)
![]()
俺は柄にも無く「ハマナスの花」が好きだ。ハマナスは、東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。ナス(茄子)に由来するものではない。英語では「ジャパニーズ・ローズ(Japanese Rose)」また学名を直訳してRugosa Roseと呼ぶ。北海道を旅するとハマナスが風にそよいでおり、その姿は いとしい限りだ。[知床旅情]視聴http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=T40Tx2WS6Ag[歌詞]知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ思い出しておくれ 俺たちのことを飲んで騒いで 丘にのぼれば遥(はる)か国後(くなしり)に 白夜(びゃくや)は明ける旅の情(なさけ)か 酔うほどに さまよい浜に出てみれば 月は照る波の上(え)君を今宵こそ 抱きしめんと岩かげに寄れば ピリカが笑う別れの日は来た ラウスの村にも君は出て行く 峠を越えて忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん私を泣かすな 白いかもめを[シロバナハマナス(白花浜梨)]ハマナス(浜梨)の白花品種。八重のものは、ヤエシロバナハマナス(八重白花浜梨)という品種だ。
2009.04.13
コメント(6)
知床は日本では、自然遺産として3件目の登録。[知床五湖と硫黄岳]ここは斜里町ウトロが半島に入る起点となる。ウトロは温泉が有るが港町。俺は初冬の海でdivingしたが寒かった。海底は昆布だけで面白くなかった。幾つか見どころを紹介しておく。上記の知床五湖は熊が出る。鈴を振りながら歩く事。原生林に囲まれた5つの湖。5つの湖を一周できる遊歩道がある。周りの樹林や知床連山を湖面に写しながら静寂を保っている。原始の中の楽園にふさわしく、数多くの植物、動物たちを目にすることができる。くどいが、熊も出没する。五湖すべてを巡って約1時間、第一湖、第二湖だけなら約30分。遊歩道のほか小高い丘の上にある展望台からは第一湖と知床連山の大パノラマが見渡せる。[オシンコシンの滝]途中から流れが2つに分かれていることから「双美の滝」とも呼ばれる。滝の中ほどの高さまで階段で上がることができ、迫力がある。滝の上にある展望台からはオホーツク海や知床連山を遠望することができ、特に流氷の季節は絶好、見渡す限りの白い海原が感動的。(俺は見ていない)。「日本の滝100選」にも選ばれているそうだ。[カムイワッカ湯の滝]活火山である知床硫黄山の中腹から涌き出る温泉が川に流れ込み、川全体が流れる温泉のようになっている。上流途中まで行けるが落石の危険が有り規制されている。[オロンコ岩]昔、このあたりに住んでいた先住民族「オロッコ族」から、この名がついた。ウトロ港近くにある、高さが60mもある巨岩。170段あまりの急な石段を上っていくと頂上は平らで、岩礁が透けて見えるほど澄んだオホーツク海やウトロの町並み、知床連山などが広く見わたせる。[夕 陽 台]夕陽の名所。沈む夕陽が海面に朱色の筋をつくる春から秋、流氷で白く覆われた海面が黄金色に染まる冬、それぞれに美しく印象的。[プユニ岬]写真の順番からいえば起点のウトロに近い。ウトロから知床自然センターへ向かう途中の上り坂にある絶景と夕陽の名所。オホーツクの美しい海岸線やウトロ港が一望できる。冬はオホーツク海でも一番最初に流氷を見ることができる。[フレペの滝]この滝には川がなく知床連山に降った雪と雨が地下に浸透し、垂直に切り立った約100mの断崖の割れ目から流れ落ちている。ホロホロと流れ落ちるさまが涙に似ていることから、地元では「乙女の涙」という愛称で親しまれている。近くにある滝が「男の涙」として紹介されていますが、こちらには陸上からは行く事はできない。ウトロから観光船で行って海上から見物。[知床峠]斜里町ウトロと羅臼町を結ぶ知床横断道路の頂上、知床連山の尾根筋にあたる標高738mの峠。[羅臼岳][羅臼岳から見た知床連山]俺は仕事の合間を縫って、駆け抜けたので羅臼には行っていない。
2009.04.13
コメント(2)
![]()
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ( 1884年 - 1920年)は、20世紀初頭に活動した画家・彫刻家で、イタリア出身だが、渡仏し、おもにパリで制作活動を行った。絵画の代表作の大部分は1916年から1919年の間に集中して制作されている。モディリアーニの絵画のほとんどは油彩の肖像画であり(風景画はわずか3点)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。なお、初期にはピカソの「青の時代」やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作している。1917年にはベルト・ヴァイル画廊にて、生前唯一の個展を開催したが、裸婦画を出展したのが元で大騒ぎとなり、一日で裸婦画を撤去する事態となった。同じ年、後に妻となり、裸婦像などの絵画モデルを務めた画学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合っている。彼女を内妻とし、1918年に長女ジャンヌをもうけるも、貧困と持病の肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生(ただし飲酒については肺結核による咳を抑えるためしかたなく飲んでいたと言われる)の末、1920年に結核性髄膜炎により35歳で没した。彼の二人目の子を妊娠していた妻のジャンヌもアメデオの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺した。この時妊娠9ヶ月だったという。ジャンヌの遺族の反対もあり、二人の遺体は10年後になってようやくパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬された。[モディリアーニとジャンヌの墓石][肩をあらわにしたジャンヌ・エビュテルヌ][ニースの歌姫][母と子][ジャンヌ・エビュテルヌの肖像][ジャンヌ・エビュテルヌ] わずか21年で閉じることになったの彼女の一生は、芸術の息吹華やかなりし時代のパリの悲恋の物語として、今後も語り継がれていくだろう。モディリアーニの描いた女性の肖像画は数多くあるが、もっとも有名なのはジャンヌ・エビュテルヌの一連の肖像画。24枚という数自体、この女性がモディリアーニにとって、いかに大切な伴侶だったことのあらわれだ。 これらの肖像画はそのようなセンチメンタリズムを越えて、画家の死後、皮肉にもその名声は確固たるものとなり、ジャンヌもまた、愛する人のキャンパスの中で永遠の生を得ることとなったといえるだろう。[黒いネクタイの娘][デディーの肖像]
2009.04.13
コメント(0)

小布施の北斎館を紹介したが町並もよい。
2009.04.13
コメント(2)
![]()
ポール・ゴーギャン 1848年 - 1903年)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。[タヒチの女(浜辺にて)][3人のタヒチ人][われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか][自画像][〇女喪失][マナオ・トゥパパウ(死霊は見守る)][アハ・オエ・フェイイ(おや、妬いているの?)][マハナ・ノ・アトゥア(神の日)][タ・マテテ(市場)]別称:ベンチに座るタヒチの女
2009.04.12
コメント(5)
モーリス・ユトリロは1883年12月26日、パリのモンマルトルに生まれた。母はスザンヌ・ヴァラドン、父のボァッシイはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。その後、母の住んでいたモンマニ-で学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。17,8歳のころから飲酒癖が始まり、1901年にアル中の症状をおこして、医療をうけた。母はその治療の目的で、絵を描くことを教えた。初めは気乗りしなかったモーリスも、やがて本格的に描き出す様になった。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って、印象派画風に入った。1907年、白の時代が始まった。サロン・ドートンヌに出品したのは、1909年が最初である。放浪と乱酒は彼の精神をいため、ときどき入院や監禁のやむなきにいたることがあった。1912年のブルタニューやコルシカの旅行は、自然の美しさが彼を元気づけた。しかしパリに戻ると、またも酒に耽溺して、狂態を演じては入院するのだった。最初の個展を開いたのは、1913年である。1918年に、酒のために心身をそこね、レピクピュスの病院へ入り、やっと退院してモンパルナスへ戻った時、同じ宿命の画家モジリアニと逢った。しかし、その夜のひどい酔態のために、また病院へひき戻されてしまった。脳をひどく悪くしてヴィル・ジュイフの精神病院へも入ったが、その不幸の状態の中から新しい画風が生まれていった。かくて色彩時代が始まる。彼は孤独の画家だった。師も友人もほとんどない。しかし、その孤独とひどい中酒性病患の生活の中から、美しい作品が次々と生まれていった。彼の心身は病的でありながら、その作品は繊細であり、健康である。作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。[聖マルグリット教会][ムーラン・ド・ラ・ギャレット][サンノアの通りと白い家並]
2009.04.12
コメント(2)

浮世絵師・葛飾北斎の美術館。ここは小布施で描かれた肉筆画、画稿、書簡などを元に開設した。北斎が小布施を初めて 訪れたのが80歳を越えていた。そして、晩年に4度小布施を来訪している。北斎は浮世絵師として有名だが、ここには浮世絵は無い。版を刷る浮世絵とは違い、掛け軸、屏風、肉筆画など、すべて他 に同じ物は一つとしてない一枚なのだ。巧みな筆さばき、色彩の美しさ、どれもが生き生きしている。屋台展示室には長野県宝に指定された2基の祭屋台が展示され、この祭屋台には北斎筆の「龍と鳳凰」、男波・女波と称される「怒濤」の二枚の天井絵がある。小布施は町としても風情豊かだ。秋には小布施名物「栗おこわ」が楽しめる。
2009.04.12
コメント(0)
全117件 (117件中 1-50件目)


![]()