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早く起きたがずっと部屋にこもって仕事。昼頃、ダイニングに行ったら娘がいた。友だちと遊びに行くという。「何時に出るの?」「一時くらい。待ち合わせしてる」「帰りは?」「六時半くらいかな」「遅いねえ」(しまったと思った)「えっ? どうして? 遅くないよ」知らない間に大人になっていく。この頃、フルートを吹いている。フルートは長くて小柄な娘はもてあましぎみだったのに、今はそんなふうに見えない。音階どころか音もならなかったのにちゃんと曲を吹いている。娘のこの数ヶ月の成長に匹敵するような成長を僕はしているのだろうか、とふと思った。 プラトンの『饗宴』を再読中。喜劇作家のアリストパネスのスピーチに出てくるアンドロギュノスの話は有名である。昔、人は今とは違って今の人間を二人合わせたのが一人の人間だった。ところが人間は力が強く、神にそむくこともあったので、神は怒って一撃で滅ぼしはしなかったが、人間を二つに引き裂いて力を弱めた。もともと全体として男性もあったし女性もあったが、男女両性のものもあった。 こうして別れてしまったのでめいめいが自分の半身を求めるようになった。このような考え方は、ベターハーフ(better half)といういいかたに今日残っている(ベターかどうかかわからないが)。そしてそれと抱きあって一体になりたいと欲するようになった。この一体性を回復する欲求がエロースである。もともと男女が一体だった人間は異性愛者になるが、そうでないケースでは同性愛的な結合を求めるようになる、とアリストパネスは説明している。 しかしこのような一体性を回復するというエロース論に対してはソクラテスは後に反駁する。一体どこに問題があると考えるのか(続く)。
2003年08月31日
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昼から散髪に。新しい所に行くと当然のことながらどんな髪形にするか説明しないといけない。椅子がたくさん並んでいて理髪師がたくさんいる。分業になっていて最初から最後まですることはなく途中で交代する。洗髪してタオルで顔を拭き、さ、後少し、と思ったら、「どうしましょうか」とたずねられ驚いてしまった。どうしようか、って初めにいったではないか、と思って鏡を見たら別の人がハサミを持っていた。そういうシステムなのだろうが一人の髪を最初から最後まで刈れないと達成感が希薄になるのではないか、と思った。 集中的に何ヶ月も仕事をしてきたが、目下、束の間の休息中。ゲラが出たら忙しくなり、来週からは講義も始まる。プラトンの『饗宴』を読み返している。巧みな構成にあらためて驚く。目下、ソクラテスがディオティマに諭されているところ。プラトンの対話篇には直接女性が登場してこないが、間接的な形でディオティマのような(おそらくプラトンのフィクションだといわれる)知的な女性が登場するのは興味深い(賢いということは他の何をおいても女性の魅力であると僕には思える)。『饗宴』ではエロースの神を賛美することが饗宴の参加者に課せられるが、ソクラテスは他の饗宴の参加者とは違ったスピーチをすることになる。ディオティマとの対話を報告している。ソクラテスは何も知らないと常々いっているので、ここでも自説を展開するわけにはいかないのである。 川端康成の『掌の小説』を読み進む。「歴史」という短編が興味を引いた。ある谷川の中にある村に金持ちがやってきて別荘を建てた。元湯から別荘へ湯を取り込むついでに共同湯を作った。村人は喜んだ。老人は、谷川に沿うて小路を作り、元湯を広げてコンクリートの湯船にした。村人はなおのこと喜んだ。 ところが、十年後、自分の地所の元湯の三尺横を爆弾で掘り始めた。元湯の出は悪くなった。心配した村人に老人はいった。「そんなこと心配せんでもいい。私は村の湯を掘ってあげているのだ。元湯を千人風呂のような共同湯にしてあげるのだ」実際そのとおりだった。老人が死ぬと村は彼の記念碑を立てた。 老人には息子がいた。半月と経たないうちに、彼は温泉宿を建て始めた。共同湯は石塀の中に奪い取られ宿の内湯になってしまった。村人はいった。「お父様に似ぬ鬼子だ。大旦那の心も知らない……」「ふん。俺は親父の子供だ。親父のように弱虫ではないだけだ。お陰で親父のような詐欺はしないですむのだ」村人は気がつかなかったのだが父親は亡くなったが最初から温泉を作るつもりだったのである。「勿体ない。大旦那の造って下さった路を歩くのも嫌になる」「虫けら共。僅か自転車が通るくらいの路だ。その路が持っていた意志を初めて知って驚いているなら、今のうちに大きい眼を明いて、自動車の通る街道の意志をよく考えておけ」 この最後の息子の言葉にある「自動車の通る街道」は小説の冒頭の、村にある「立派すぎる一本の道」を指している。「この道の目的はその寒げな村ではなくて、村の南の山を越えて半島を横切ることにあった。この道が出来た時、村にはこんな噂があった。近いうちに戦争がある。これは半島の南の端へ、大砲や軍隊を運ぶための道だ」 為政者はこの村にやってきて温泉を作ろうとした金持ちに似ている。村人のことなどこれっぽっちも考えてない。それなのに「千人風呂のような共同湯」を作ってもらって村人は喜び、死後は記念碑まで立てた。彼の息子のような為政者はすぐそこにいる。 僕は住基ネットのことを思った。
2003年08月30日
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講演から帰ってから気持ちが高ぶっていたのかなかなか寝つけなかった。もっとも論文の締め切りを控えた息子が何度も部屋にきていたこともあったのだが。三時ごろ息子の部屋に行ってあれこれ話をしていたら、携帯に着信。なんでまたこんな時間に、といいながら僕を部屋の外に去らせた。同じように論文を書いている仲間がいるのだろう。思いがけず早く帰ってきたので(といっても8時半だったが)無事提出できたのだと思うが多くを語らないのでよくわからないのだが。息子の論文の最初の読者になれたのでうれしい。 死刑制度のことを考え続けている。息子と朝(彼は完徹、5時半頃)話した。今度の死刑(宅間被告に求刑された死刑)は応報刑ではないか、と僕がいうと、すかさず死刑制度があるのは日本とアメリカだけで(調べてみないといけないが)しかもアメリカは州によって廃止されたところもある、と息子が教えてくれる。ご遺族のことを考えると死刑について異を唱えることはなかなかむずかしいのだがこのような機会でなければ問題にもされない。日本は密行主義なのでもしも死刑が確定するようなことがあれば、いつかひっそりと新聞の片隅に刑が執行されたことが載るのだろう。歴代の法務大臣は刑の執行を認めることを躊躇したが、昨今多い。判決には遺族や被害者がいずれも極刑を望むなど処罰感情が強いとあったが、被害者というのは事件にいあわせた小学生のことなのか? 疑問に思った。 この間虐待のことについて話す機会があったのだが、自分もまた虐待をしうるという意識がなければ虐待をやめられないと訴える親の援助はできないだろう、と思う。自分は絶対人を殺めることなんかない、とは誰もいえないのではないか。永山則夫と同じジャズ喫茶で働いていたビートたけしは「一歩間違えば、おいらだってとてつもない凶悪犯罪を犯していても不思議ははない。時代からして、そんな閉塞感がいっぱいだった」といっている。そんなことも考えて死刑制度のことを考える必要があると思う。
2003年08月29日
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鵜方から特急に乗った。京都駅まで三時間ほどかかる。そこから乗り換えまだまだ遠いので感覚的には東京よりもはるかに遠い。阿児町の保健部会の事例検討会にコメンテーターの一人として参加。僕が出たのは小学校部会だった。講演をした後質疑応答をするというのが通例だが、事例が出され、先生同士の質疑応答に続いてコメントを求められるというのはそんなに簡単ではなかった。基本的な考え方について時間をかけてていねいに説明できないので意外な思いで聴かれたのではないか、と危惧する。 昨日、泊まったホテルの部屋はポプリが置いてあった。匂いに敏感な僕には苦痛以外のなにものでもなかった。しかし思いがけず早い時間に寝てしまったのはポプリのためか。 帰ると聖カタリナ女子高校からレポートが届いていた。「心理学の講義を通じて学んだことの中から何かのテーマを選んで自由に論じてください。あわせて、もしもこれからの看護師として生きていくにあたって生かせることがあればそのことも書いてみてください」というテーマで書いてもらった。読むのは楽しみだが採点するのは大変。 宅間被告に死刑判決。このことについてはよく考えてみないといけない。判決は死刑に犯罪の抑止の効果を説いているが、何度かこの日記で書いたように死刑に犯罪の抑止効果はない。人を殺そうとする時少しでも死刑になったらどうしようというようなことを思うとは考えられない。今回の事件のように死刑を望んで犯行に及ぶというのであれば死刑の抑止どころではない。被告がどういう人であるということではなくて死刑という制度そのものの是非を見ていく必要があるように僕には思える。小泉首相が確定前の判決について、当然だと思うというような発言をすることは三権分立の原則に照らすと不用意な発言である。
2003年08月28日
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久しぶりの泊まりがけの出張。 前にも書いたが冬の寒い日の講演が土曜日に某市市役所であった。その日は土曜日だった。役所のほとんどの電灯は消えていた。講演する部屋は電気がついていたので問題はなかったが、暖房が止められていたのには驚いた。役所は休みの日は暖房は止めるという規則があったのだろう。僕は話し始めたら身体はなくなるからいいのだが(寒さを忘れるということ)聴いていた人は寒かったということだった。27日の講演は始まる前から空腹でお腹がなっていたが話し始めたら何もかも忘れていた。『ためらいの倫理学』(内田樹、角川文庫)。この人の本は初めて読む。現代フランス思想はむずかしく、そのためうっかり読んでしまった人が魂を抜かれた状態で置き去りにされ、現代思想のPTSDともいえる心的ストレスを背負い込んだ人が少なくない。そんな人のために内田は「現代思想の救護活動」にたちあがり(p.257)、遭難者の鼻先をなめる「現代思想のセントバーナード犬」になる、と。内田は救命用のブランデーとして「分からなくたっても、大丈夫」というロジックを首から下げて、「私は今日も「現代の遭難者」の知的蘇生のために、雪山を疾駆するのである。わんわん」(p.261)。そんなむずかしいフランスのものを読まないでよかった…いや哲学は簡単どころではないのだ。読めばわかるというようなものではない。ただ僕が学んでいるプラトンはたしかにむずかしいが、内田がラカンやデリダについていっているように意味が通るところでは何をいいたいか時々わかるようなところがある(p.255)というような感じではない。言葉のレベルでのむずかしさはあまりない。内田の本に引いてあるフランスの思想家のテキストを読んでも僕にはまったく(といっていい)理解できない。わかりやすく書くとか読者を意識するというようなことは考えないようだ。内田の書くものはどれも明解。 NATOのユーゴ空爆について書かれたものがほとんどないといっていた息子に「古だぬきは戦争について語らない」を見せてみよう。ただし論文を書き上げてから。29日が締め切りらしい。連日遅くまで書いている。今夜は僕のコンピュータを使っていいからといっておいたが、僕の部屋は居心地が悪いのだそうだ。はいはい好きにしなさい。部分的に原稿を読んでいる(読まされている?)。僕としては大いに異論があるのだが、書き上げてからゆっくり議論したい。 伊勢市で講演した後、志摩まで車で移動した。電波状態極めて悪く部屋の中を探し回ってかろうじて接続に成功した。参加者は少なかったが質疑応答は活発。今日の事例検討会の準備を始めよう。
2003年08月27日
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息子は目下自分のコンピュータが起動しなくなってしまい僕のThinkPadで論文を書いている。昨日の夜のことだが、途中一度コンピュータの電源が突然落ちてしまったらしくそのことにひどくいらいついていたが三時過ぎに僕の部屋にやってきて、なんとか山を越えたと機嫌はなおっていた。論文の書き方の指導は受けても自分のスタイルを(書き方も研究のスタイルも)確立するためにはこれから何本も論文を書いていかなければならないだろう。 小泉首相が憲法の見直すべき点について、かなりある、という。五月に自衛隊は実質的に軍隊であるという発言をしている。今回、九条について「本当に自衛隊というのは軍隊じゃないのか。自衛隊に戦力がないのか。常識的に考えておかしい点もありません」と。五月には将来憲法の改正が望ましいといっていったが、今回自民党結成50周年にあたるる2005年の11月に向け、党として憲法改正案策定を検討する考えを表明した。首相が憲法についてこのような発言をすることは、憲法99条(公務員の憲法遵守義務)に抵触しないのだろうか。「世論に従って政治をすると間違う場合もある」と豪語した小泉首相がこういう時は「常識」を持ち出してくるところがなんともうさんくさい。 本の原稿の構成の再検討の要請。譲れないところはあるのでどうなるかわからない。しかし編集サイドの指示は適切なものだと思う。こんな時に明日からの出張はつらいのだが(三重で一泊)。構成はもはやどうにも動かせないところまで考え抜いたという思いがあったので夢を見た。400階建てのビル(おそらくホテル)に昇ろうしている。ところがエレベータがない。なぜなら「どの階もとばせないから」。目覚めた時この夢が後押ししてくれたので編集者に僕の案をメールで送った。 午前と夜にカウンセリング。午前のケースは今日で終結。お別れするのがつらいと泣かれる。
2003年08月26日
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中根先生の鍼。鍼の後は眠い。この頃は途中でも寝てしまうことがある。鍼を打たれてから20分ほどそのままでいる。うつ伏せ、仰向け、二回ある。この間に精神は鍼を打たれた身体を離れて世界の中を浮遊する。身体の調子はいい。くやしいけれど(どうして?)それに伴って心の状態もいいように思える。 入学式か卒業式か何かの夢。突然、君が代斉唱というかけ声。どうしよう、こんなのは初めてだ、息子はそういえば中学生の時、立ち上がらなかったといってた、思いの外にこの抵抗は勇気がいるものだ、と思いつつ、まわりがみんな立つ中ですわり続けていたら何人もの教師が立つようにと大声で怒鳴る…そんな夢。 素樹文生の『愛のモンダイ』(メディアファクトリー)。エッセイ集。題名のわりに恋愛についてのエッセイが少ない。エピソードが多くその一つ一つが短編小説のようにおもしろい。男と女の違いについて、昨日のアルベローニと同じように単純化しすぎるきらいはあるが。「フラれてしまうと、まるで世界が終わったかのように錯覚してしまう人って多いですよね。他人から与えられたものは「自信」ではないと思うのだけれど、そこんとこは、どうなのだろう。どうですか?」(p.42)と問われると、思わず答えたくなる。ええ、それは自信ではなく他信です。そんな言葉はないけど。あなたってすてきね、といわれたらたしかにうれしい。しかし、そのような他者から与えられた自信(=他信?)は、フラれたらあっけなく吹き飛んでしまう。 あなたってすてきね、といわれたそのことによって別に自分がすてきになるわけではない。もちろんあなたって嫌な人ね、といわれたからといって嫌な人になるわけではないのだが。 原稿ふりだしに戻る。
2003年08月25日
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蒸し風呂のような暑い京都を歩き回ったので顔が焼けたようだ。一日家を空けて帰ってメールチェックするとソービックFに感染した疑いのあるメールが届いたというメールが@niftyから100通ほど届いていた。このウィルスは発信者を偽装するので、僕が出したわけでもないのに僕のアドレスで世界の誰かのところに届いているかもしれない。私に恨みがあるからウィルスを送り付けたのだろう、とこんなことで友情がふいになったりしたら困る。VectorのHPではVectorの名前のウィルスメールが届いてもうちとは無関係だと注意している。 フランチェスコ・アルベローニの『エロティシズム』(中央公論社)。男と女の性意識の差を明らかにしようとする試みだが、単純化し過ぎのような気がしないではない。反論してみたい。が、僕はアルベローニのように考えない、と書くと僕の個人的体験のことへと想像の食指が伸ばされると困ってしまう。相手によって違うというようなことを書いても同じようなことが起こるだろう。科学なら「私」抜きの議論に終始してもいいのだろうが、つまらない。「私」のことばかり書いても体験談でしかすぎずそんなものは誰も興味を持たないだろう。 おそらく恋愛論を最初に恋愛論を哲学のテーマとして取り上げたのはプラトンである。『饗宴』でソクラテスがエロース(愛の神)を賛美するスピーチをすることにしようという提案がなされた時、私は愛の修業(ta erotika)以外のことはなにもわからない(愛の修業のことなら多少は知っているということ)といっているのは驚きである(もっとも後にディオティマにやりこめられるわけだが)。無知の知を説くソクラテスがこんなふうにいっているからである。
2003年08月24日
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電話が調子がよくなくてNTTのカスタマーサポートサービスに電話をした。24時間対応と書いてあったのでこれは助かると思って喜んだのは電話をかけるまでで、電話がつながると(コンピュータのサポートのことから類推して話し中でなかなかつながらないのかと思った)すぐに録音メッセージが流れた。「ただいまの時間は録音で対応する」そんなの24時間対応とはいわないのではないか。一晩くらい電話がつながらなくてもいいではないかということなのか。携帯電話を使うべしということか(もちろんdocomoのを)。緊急用の電話番号が流されていたが、電話がつながらないというのは緊急とは見なされないのだろう。電話して闘うだけのエネルギーもなく断念した。「ただいまの時間」というのもあいまい。いつになれば録音ではない対応が始まるのか説明がされていない。 数日前から山のように届く「このメールの添付ファイルは、ウィルスに感染している恐れがあります」というメールがあって困っている。こまめに削除しているので通算で何通届いたか数えられないが、こんなメールが行き交うようになるとそれだけでサーバーの負荷は相当かかるのだろう、と想像する。@nifty側でウィルスの発見、駆除(隔離かも)するサービスを利用しているが、それをもかいぐぐってきたのもあった。可能ならば、「このメールは…」というメールも@nifty側で削除してもらえるとありがたいのだが。中国では電子メール利用者の3割がソービックFに感染した可能性があるという。これだけのことができる人がどうして能力を有用なところで活用しないのかと思ってしまう。「田中宇の国際ニュース解説」によると、目下、イラクに駐在する米軍兵士のおかれた環境は相当悪いようだ。50度以上の酷暑の中、一日に1.5リットルのボトル2本しか水は与えられず(イラクの現状では一日10リットル必要)、開戦以来5ヶ月、ほとんど携帯用の軍事食(何ヶ月も持つように作られたアルミパック入りの食事)だけを食べていることを、駐留している兵士のMary Yahneが、母親に送ったメールで明らかにしている。Yahaneはこう書いている。「私たち兵士がここにいる理由は何もない。石油(利権)を守るということだけなのです」(There is no real reason for us to be out here!!!, We’re protecting the oil is all)。そして日用品を駐留兵士に送ってほしい、と訴える。母親はこのメールを受け地元シアトルの放送局KIROにこの話を明らかにした。母親はいう。「私は最初は戦争に賛成していました。軍隊は支持します。でも、戦争は支持しません。もしこれが戦争といわれるものならばということですが」 日本の政治家も今からでもイラク戦争を支持したのはまちがっていたといえないものか。国連がテロにねらわれ、それでもイラクに自衛隊を派遣するのか。「躊躇することなく」と首相がいっても説得力は全然ない。あなたがイラクに行きたまえ。 素樹文生の『クミコハウス』(新潮文庫)。流れ星に三回願い事を願うと夢がかなうということの本当の意味について。「流れ星に三回願い事を願うと夢がかなう、ということ。それはどんな時にでも瞬間的に願いが言える状態にその人がいる、ということで、つまり二十四時間、いつもそのことばかり考えているということなんだそうだ。時々お願いしているだけじゃ駄目だってことだ」(p.201) お願いしたり祈ったりするだけで願いがかなうほど人生は甘くないと思うが、いつも思い続けていれば必要な対処を必要なタイミングで取れるだろうし、チャンスを逃がすこともなくなるということはあるだろう。いつもあなたのことを思っているということは可能だと思う。
2003年08月23日
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数日来驚くほどたくさん届くウィルス感染メールは、WORM_SOBIG.Fであることが判明。@nifty側で全部削除されて結果だけが届くことになっているが、一度それにひっかからず僕のコンピュータのNorton antivirusに引っ掛かったことがあった。asahi.comを読んで感染が拡大しているのを知った。 本などが雑然と入れられている押し入れの掃除。捨てに捨てられないものがあまりにたくさんあって、いっそ中身を見ないで捨てようかとまで思ったがそういうわけにはいかなかった。すっかり忘れていた思い出が蘇ってきた。 神谷美恵子の恋人の野村一彦が亡くなったのは1934年。この年、神谷は二十歳だった。1961年3月5日(47歳)の日記にこんな記述がある。ここで「生甲斐」とあるのは当時神谷が書いていた「生きがいについて」(後に1980年みすず書房から刊行)のことである。「午前中「生甲斐」をかく。午後森市場へ行き、かえり少しぶらぶら歩く。すっかり春らしくなった。睡眠不足のため午後はかけない。それに今喪失のところをかいているせいか気がめいって仕方がない。過去の感情というものが人間の精神にいつまでも潜在しているではないだろうか」(『神谷美恵子日記』pp.161-2)「生きがいについて」の第5章の中に神谷は「将来を共にするはずであった青年に死なれた娘の手記」を引用している。「…もう決して、決して、人生は私にとって再びもとのとおりにはかえらないであろう。ああ、これから私はどういう風に、何のために生きて行ったらよいのであろうか」(『生きがいについて』p.102)。太田雄三は、この手記が神谷自身の手記であったことを現存する神谷の手記を引いて論証している(『神谷美恵子のこと 喪失からの出発』pp.9-10)。 神谷はいう。愛する者の存在は骨だけになったとはとうてい思えない。「のこされた者の心は故人の姿を求めて、理性とは無関係にあてどもなく、宇宙のはてばてまで探しまわる。今にも姿がつかまえられそうな、声がききとれそうな、そのぎりぎりのところまで行って空しく戻ってくるくやしさ。そのかなしみはひとの心をさまざまな迷路に追いやって来た」(p.103) 47歳の神谷はこのようなことを書いて気がめいっていたのかもしれない。まことに「過去の感情というものが人間の精神にいつまでも潜在している」。もちろん薄れていく思い出もあるけれども、容易には消えない「過去の感情」はある。しかしこれは「過去の」感情といわれても、現在の感情である(過去そのものはもはやどこにもないから)。 掲示板に「幸せな結婚生活を送っていても忘れられない人であり続けたと僕には思えた」と書いたのはこのような日記の記述からもうかがえるように思う。
2003年08月22日
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二日目の夜もうまく寝られず夜中に本の整理(必要のない本を箱に詰めたり)したりしてみたがそれでもだめだった。人に貸したりして散逸している本がかなりある。いつ誰に貸したかも記録してないので必要があっても戻ってこない。貸した時はきっと必要ないと思ったか当分必要ないと思ったはずである。稀に予想が外れる。 さすがに三日目の今夜は九時ごろから寝てしまった。論文のことで質問にきた息子に起こされた。引用の仕方についてだったが、息子が残していった(忘れていった?)プリントを見たら「堀川高校版論文の形式」とあって細かく論文の記述の仕方が書いてある。こんなことをどこでも誰にも教えてもらったことがなかった。 本の題名が依然決まらず難航。amazon.comでいろいろ検索をかけて本の題名に注意して見ているのだが。奇をてらうわけではないがあまりにあたりまえすぎる題名では注意を引かないのではないかと思う。軽い題名でデザインも奇抜で、でも中身はうんうんうなるほど難しいなんていうのもいいのかと思ったりもするが、中身はもう決まっているわけである。 村上春樹の自分で書いた小説のことをすっかり忘れていた、と今回の『村上春樹全作品』の中の未発表作品について書いていてそんなことがあるのか、と思っていたが、僕自身自分で書いた論文があることに気づいて驚いた。「プラトンのエロース論 『法律』第8巻835b-842bにおける」というのだが何も思い出せない。時期的には博士課程在籍中に書いたのだと思う。「三十三」(素木しづ)のお葉は「「いつまで生きてていつ死ぬか解らない程、不安な淋しいことはない」ので三十三で死ぬことに決めた。そうするとそのことがちょうど「目ざす光明」、「行方のない心のうちにある希望」を得たかのように「限りない力とひそかな喜びに堪へられなかったのである」。もしもこれが作家自身の思いであったとしたら、実際にはもっと若く亡くなるという現実に直面した時にどんなふうに感じたことか。僕にはそんなふうに死のことを先のことに決める(何歳と決めないで漠然と先のほうと思うのは一般的か)という考えがなかったので意表をつかれたような驚きを感じた。「お葉はすべての幸福を死に求めた、それが未来であるやうに」死によって人の幸福がふいにされるのではなく、むしろ死に幸福を求めるところにこの人の強さを見ることができるのだが。
2003年08月21日
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朝早く目が覚め(深夜というべきか)その後ずっと起きている。テンションは高くないのに気が張っているというか。 村上春樹トリビュート小説、今度は『回転木馬のデッド・ヒートRMX』(素樹文生、メディアファクトリー)を読んだ。これはよくできていて僕は楽しめた(他の人はどうかわからないけれど)。それと同時に自分に照らして少し落ち込んでしまったのだが。小説の手法としては「僕」が誰かから話を聞きそれを報告するという形にすればどんなことでも書ける。僕がこれまで試みた短編小説はなかなか自分の経験の域を出ない。 著者の素樹文生氏のホームページを見つけた。その中で素木(しらき)しづ(1895-1918)という作家の作品を見つけ、読み始めている。二十二歳で夭折したこの作家の作品はまだまだ未完成のようにも見えたりするが、存命中に長編小説一篇、短編小説四十篇を書いている(他に、随筆、小品、書簡など二十四編)。「三十三の死」(HPで読める)で作家としての地位を確かなものにした。「いつまで生きてていつ死ぬか解らない程、不安な淋しいことはないと、お葉は考へたのである」そこで三十三で死のうと決めたというのが最初の出だしである。お葉は足が不自由なのだが、「一脚の足を運ぶお葉の姿に驚きを感じたことであろう」その姿を子どもがじっと見据えている。彼女を見ていた銀杏返しに結った小さなませた子守は「可哀想だわね」とひそかにいって眉をひそめた。ところがこの子は不意に声高く叫んだ。「あたし、憎たらしいわよ」 僕にはこの子のこの言葉を発した心の動きがわかるような気がするのだが、作家の鋭い観察眼に驚いたのである。
2003年08月20日
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今日は妹が来訪。きた時は僕はカウンセリングをしていて、帰る時も(当然別の)カウンセリングをしていた。話すことがあるようなないような。ネット上で見かけるので(というのも変な言い方だが)長く会ってないという気はしない。 遅くまで息子は論文を書いていた。前から勧めていたのだが、WZ Editor(エディター)を使って書き始めた。簡単なアウトラインプロセッサーとして使えるので、アウトラインを立てて書けるところから書き始めた様子。ところがあっという間に6枚ほど書いてしまったらしく原稿の上限枚数を考えると、走り始めた途端ゴールという感じのようで、どうしたものか昨日も少し相談に乗ることになった。僕が起きた頃にはとっくに起きて書いていた。僕の方も刺激され昨日から新しい構想ノートを手に入れて、思いつくことを書き留め始めている。 森有正の『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭に次のような言葉がある。「一つの生涯というものは、その過程を営む、生命の稚ない日に、すでに、その本質において残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信ぜざるをえない」(『森有正全集』第1巻、筑摩書房、p.3) 書簡体のこの作品では「君はこのことをどう思うだろうか」という問いかけがあり、もしも生涯の本質が幼い日にすべて現れているのでなければ、ギリシア神話や旧約聖書の中にある、この人は将来栄光を受ける、あるいは、悲劇的な運命を辿るという「予言」するがどうして可能だったのか、といっている。 この『バビロンの流れのほとりにて』は実は日本語やフランス語で何度も書き直されているのを今回知った。日本語版では(p.443解題)「ある人の生涯というものは、その生涯の中心となる一つの生命の稚ない日に、すでに、その本質において、全貌が露われているのではないだろうか。君はこの問題をどう考えるだろうか」と問い、「僕自身について言えば、そのことは真実としか思われない」と以下、小学校三年生の時のエピソードが書いてある。そして「気が弱くて頑固な、恐れていた危険が迫ると、逆に行くところまで行ってしまう、僕の性格は、今日でもすこしも変わっていないようである」(pp.444-5)といっている。 これなら予言のことがこの原稿でも言及されているけれども、それほど神秘的なことが問題にされているわけではないことがわかる。ライフスタイル(アドラーは性格ではなくこの言葉を使う)を人はおそらく森がエピソードをあげているこの年齢の頃に決め、その後はそれほど変化することはなくなる。アドラーは自分が創始した心理学についてこういっている。 知識の力を借りれば(人の)態度を修正し、改めることができる。「個人心理学は、したがって、二重の意味で「予言的」です。即ち、何が起こるかを予言するだけではなく、予言者ヨナのように何が起ころうとするかを、それが起こることのないよう予言もするからです」(『個人心理学講義』p.11)。今のままならこうなるということしかいえないので、もしもライフスタイルを知れば、人は変わり得るということである。
2003年08月19日
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今日はお盆休みで中断していた鍼。その前にいつものようにカウンセリングを一ケース。先生の声を聞いていると癒されるのです、といっていただけるのはうれしいけれど、僕が治すわけではない。中根先生に「えらく疲れてますね」といわれた。脈を診るまでもなく、疲れた顔をしていたと思う。 朝早くから仕事をしていたので昼前に眠くなり横になるとたちまち熟睡。エケクラテスというギリシア人の名前が夢の中で思い浮かぶ。誰かわからなかったが、目が覚めてからずいぶん経ってから思い当たった。掲示板でプラトンの『饗宴』を読んでいて、この対話篇の二重の報告という構成のことを考えていたのだろう。『パイドン』(魂の不死論証が試みられる)の形式が「エケクラテス」の求めに応じてパイドンがソクラテスが亡くなる(処刑された)時のことを話すというふうになっているのである。こんなことを覚えていたことに驚く。 神谷美恵子の日記から。「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は」(p.159)。僕もそうしたい。「今度の論文も殆どそんな文字ばかりのつもりなんだけれど、それがどの位の人に感じられるものだろうか」(ibid.)論文も例外ではない。他ならぬこのテーマを選んだことにはわけがある。論文ゆえに一見むずかしいそうに書いてあっても、著者の問題意識が見えれば、そしてそれが自分のとにぴったり重なれば読むことができる。自分の書いたものについていえば、むずかしいと一言で片づけられたらがっかりするだろう。「体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形でとりだすこと」(ibid.)机上の空論であってはならないのだ(46歳の時の日記)。「神様、弱い意志を助けて「あるがままに」生かせてくださいませ」(p.214, 59歳)「あるがまま」と書いているが、神谷の場合、このままでいいというような安直なことを念頭においていない。この文の前にこんなふうに書いてある。「朝、自分に対しておごそかな誓いをたてる。一、しごとはできるとき、できるだけする。「ノルマ」で自分を縛らぬこと。二、眠れないときはそのままおきていて、日中でもいつでも眠れるとき眠る」「弱い意志」という言葉はなかなか額面どおり受け取れないが、病気、家事、講義など思うに仕事ができない神谷のあせりが日記のどこを読んでも伝わってくる。『生きがいについて』は1959年に書き始め、出版は1980年である(みすず書房)。
2003年08月18日
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息子がもうこんなことをしている場合ではないのだが、と文献カードを一生懸命作っている。扱っているテーマについての邦語文献が少なくインターネットで英語で書かれたものをたくさん読まなければならないようだ。内容的には僕には理解できないことは多いが英語そのものについてたずねられたら答えられる。 「今頃になって」(息子はいう)日本のジャーナリストのHPを紹介したらはたしてたくさんの記事があった。今日まで全然思い出さなかったのが不思議。考えようによっては、このジャーナリストの影響を受けないで問題を考察できたのはよかったともいえる。「歴史的背景を書いていたら書ききれない」「それは最小限にとどめておけばいい。読者は知っているという前提で書いてもいいのではない? 必要があれば、これこれについてはここでは詳論の余裕はない、と書いてもいいし、原稿の上限があるのなら、副論文をつければいいんだ。で、何を書こうとしている?」「かくかくしかじか」「ではそこに焦点を絞って書けばいい。歴史的な背景は主たるテーマではない」「そうだけど、地に足がつかないような議論はしたくないんだ。だから歴史をとりあげる」「なるほどね」…と、しばらく話をした。コンピュータの不安定で、Accessが使えないというので、僕のThinkPadを貸している。僕の原稿が山を越えたので気分的に余裕が少し出たので、質問にこられても平気でいられる。原稿を見られる日が楽しみ。 書くことについて。神谷美恵子はこんなことを書いている(『神谷美恵子日記』p.69)。書くということを他の活動と対立したことと考えない。「生活の内容は精神科医としての仕事と学問が作ってくれる。書くというのはそうした生活の表現様式の一つに過ぎないのだもの」 精神科医として生きることと書くことが両立するかという問題にこの時期の神谷は直面しているのである。書くことが生活の営みから独立した別のことと考えたら二足のわらじということになるかもしれないがそうではない。「本気に、自分に対して責任を以て生きようとするにはどうしても書かぬ訳には行かないのだ。書くのをこらえていじいじと苦しむより書きまくって苦しむ方がいい、本当にそうだ」(p.68) とはいえ、書くことに専念できないのは大変なことである。息子はもう明日から学校が始まるらしいが、「(書くために)まとまった時間がほしいんだ。こまぎれのすきま時間には書けないんだ」という。それはよくわかる。神谷はいう。「何時も書くといえば、けちけちした合間を見つけて、何かに追われているように、「鬼のいない間に生命の洗濯」でもしているようにあわてて、数行書きなぐっているような書き方をする自分がつくづくいじらしく、いとおしくなった。もっとのびのびと、永遠に書いているような気持で書け、思う存分心にあることをみんなゆるゆると書け。誰もお前をいじめてはいない」(p.69) 今度の本に引いた森有正の言葉を思い出した。「…しかしあわててはいけない。リールケの言ったように先に無限の時間があると考えて、落ち着いていなければいけない。それだけがよい質の仕事を生み出すからである」(『森有正全集』十三巻『日記』、p.31)。 森有正は65歳でパリで客死(1911-76)。神谷美恵子も65歳で亡くなっている(1914-79)。当時僕は学生で強い影響を受けた二人が若く亡くなったことを残念に思った。
2003年08月17日
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脱稿後もテンションが高くて早く寝ても早朝に目覚め、まだ少しやり残した仕事をしたり、「あとがき」の構想を立てねば、とか、はては次の本のために新しい創作ノートを買おうと思い立ち実際にコンビニに買いに行ったりしたりしたが、今はすとんと気分が落ちてしまっていけない。最初に書いた草稿のうち三分の一を削り、別のものに変えた。よくばってあれもこれも書きたいと思って詰め込んだものを最初は編集の尾崎さんに促されておぞおずと(惜しみながら)、後にはかなり積極的に削除してしまった。それらの個所が今後日の目を見るのかは不明。量的には五倍くらいある最近書いたもののなかから核になるものを選び出し、その後何度も何度もアウトラインを立て直した。一日も早く出版したいのにだんだん恐くなってきている。まだゲラもできてないのだから必要があれば修正することだってできるのに。人の考えをまとめるというような仕事ではなく、僕自身の生き方の姿勢が問われる。 もう一つの日記に神谷美恵子の日記から引いた。「過去の経験も勉強もみな生かして統一できるということは何という感動だろう。毎日それについて考え、考えるたびに深い喜びにみたされている」(1960年1月14日) たしかにそのとおりなのである。充実した日々。神谷ほどの経験もなく勉強も十分でないのではないか、と恐れる。まだまだ自己概念がよくないことがわかる。 自分の世界に中に入ってくる他者について(そのことについても書いたのだが)考えていた。自分だけでこの世界が完結していたらなんとすべては簡単なことだろう。行く手を遮る人が現れ、そんな出来事が次々に起こる。もちろん、自分の力だけでは局面を打開できないと思っていたのに思いもかけないところから助けの手がさしのべられることもあるのだが。 編集者に原稿を渡したのでとりあえずこれで最低限、僕が今いなくなっても本は出るかな、と妙なことを考えてしまった。明日は元気になれるかな。
2003年08月16日
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脱稿して少し脱力状態だったがまだ気を抜けない。父がきたのと、妹から来週墓参りにくるかもしれないというメールが入ったことを除いて今年はお盆という感じがしない。棚経参りの時は徹夜明けでこられたのも知らず寝ていた。息子が今日はいたようだが夕方まで顔を合わさなかった。近くにある塾の学習室にこもるのを常としているがお盆は休みのようで、ずっと部屋にこもっている。夕食を一緒に食べて、またすぐに部屋に戻った(僕もだけど)。 依然、引用ページ調べ中。ほとんど片づいたが、第1章の冒頭の引用のページ数がわからない。かなり重要なのに。あまりに発見できないものだから、自分でこの話をつくったのではないか、とまで疑ってしまう。ありえないことだが。 人間が時間・空間の中である目的に向かって行動するという意味の「動」(アリストテレスのいう、キーネーシス)として人間の生をとらえないといけないということを5章の最後のほうに書いた。「効率的に」生きても意味がないわけである。生きることに限らず歩くことだって「動」でなく、途中のプロセスを楽しみ、目的地に着くこととは関係なく楽しむことはできる。 しかし、だからといってすべての営みをこのようにすることはない。東京まで8時間かかっては困るのである。だから技術の発達がただちに人間の生を不幸にしているわけでは必ずしもないということを知ってないと短絡的に携帯電話はだめだとか、ひところよくいわれたがワープロはだめだというような話になってしまう。効率化できるところは効率化してもいいと思う。個々の営みについては効率化をはかってもいいところとそうではないところがあるが、生一般を効率化しようとするところに問題があるのである。人間は誕生で始まり死まで空間的に表象された直線的な時間の中を生きていくのでは<ない>。 朝方目が覚め、そのまま起き上がる。昨日あれほど見つからなかったのに目に飛び込んできた。2箇所発見。その後神谷美恵子の日記を少し目を通す(memorizeの日記に感想を書いた)。息子と食事しながら話したことを思い出していた。この頃の彼の口癖。僕はうまく説明できない時にこういうのだ。「そこのところを説明するのが哲学者だろ」。たしかに。昨日は、時間がないということについて。英語のHe has been dead for three yearsというような表現のことなど。話をおもしろいと思った時は声を出して楽しそうに笑うらしいことがわかってきた。
2003年08月15日
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打ち合わせで疲れたのかいつものように明け方まで仕事をするつもりが全然だめで12時を少しすぎたくらいでダウン。4時半に起きて、食事、休憩を挟みながら4時まで仕事。父がきてくれたのにあまり話せなかった。 食事に行ったのだが、天井のクーラーから水が落ちてくる。父は怒って店の人を呼びつけるが少しも改まらない。クーラーを止めるというのに止まる気配はない。隣の席も同じように水が落ちてくるらしく席を替わる、と店員に叫んでいる。その席に別の客を案内してすわらせるので僕が交渉することに。あの席は水が落ちてくるのだからそこに案内してはだめではないか、クーラーを消すといったのにまだ止まってないではないか、と。若い店員はふてくされて、「お待ちください」と席を離れていったが、二度と戻ってくることはなかった。父といると過激になる。 原稿を送った後(4校)研修へ。睡眠不足と疲れで頭がぼんやりしていたので駅の書店で小説を買った。狗飼恭子『国境の南、太陽の西RMX』。村上春樹作品のカヴァー小説。僕も書いてみたくなった。 研修では子どもたちに「死」をどう教えるか(親やお友だちがなくなった時などに)という話。保育所に通っている子どもであれば意味がわかるわけではないが、大人の対応によって自分の境遇、ひいては自分を特別視することになり、注目を独占することに成功するケースがあるというような話から、自分でも信じていない話をもっともらしく話をすることの是非、さらに「死」そのものをどう考えるかというところまで。僕が気づかない問題が多々あることがわかった。
2003年08月14日
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唯学書房の村田社長、編集担当の尾崎さん、そしてカメラマン氏(別の仕事でこられていたが同席され写真のことなど教えてもらった)と京都駅で打ち合わせ。題名は決まらなかった。大きな問題がなければゲラを出して、細かいところの修正をすることになった。今回は念願の索引をつけてもらえる。利用しない人は必要を感じられないかもしれないし、通読する分には必要ないが、本に索引があるのとないのとでは後から参照する時に大きな違いがある。今日はできあがった原稿(第三校)を持っていったが、ゲラになるのならなお手を入れたいところがあるのでもう一晩待ってもらうようお願いした。 もう少し原稿に手を入れたいのは、引用ページがまだ全部記入できてないという細かいこともあるのだが、明け方、アリストテレスのエネルゲイア(現実活動態)について書き、本の最後のパラグラフを書き直していた時も、今はまだうまく言語化できないような洞察を得てしまったからである。このことは今日、うまく伝えることができなかった。自分で書きながら自分の人生を変えてしまったような思いである。言葉としてはきちんと理解していたはずだし、言葉で説明してしまえば、人間は誕生が始まり死まで空間的に表象された直線的な時間の中を生きていくのでは<ない>ということなのだが。ここで、死についてもっと深くつっこんで、という尾崎さんの注文を受けてしまうと、もう一冊本を書かないといけないことになってしまうが、続編も書けるものなら書いてみたい。 息子のことが毎日新聞に出てそこに僕のことも言及されたので、息子の同級生の父親が僕のことを思い出してくれたようだ。その同級生の名前を聞いて、大学院の時、研究室は違ったがよく知っている人を思い出した。もう長く忘れていたというのに。僕はすぐにamazon.comで彼の著書を調べた。学校から帰ってきた息子がいった。哲学者というのは同じことをするものだ。本屋に行ってたくさん本を買ってきたが、岸見君の本を買うのを忘れた、といっていた、と同級生がいっていたと教えてくれた。打ち合わせの前に書店に寄って手に入れようと思ったが残念ながら売り切れていた。
2003年08月13日
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今日も朝まで。そのまま起きているには疲れていると思って横になった途端寝てしまった。結局今日は編集者、ライター氏はこられず一度東京に戻って叩き台を作り、それから相談するということになった。 明日は夕方本のことで編集者と会う。いよいよタイトルを決め、後はゲラで細かいところの修正することに。 先月末大阪でギリシア哲学の講義をすることになったり、今書いている原稿の準備のためにギリシア関係の文献をあれこれ読み返すことになった。プラトンだけでなくアリスとレスのテキストまでもが今も机の周辺に散乱している。研究者のものでは学生の時お世話になった藤澤先生の『藤澤令夫著作集』(岩波書店、全7巻)を一番参照することが多かった。 連日の徹夜の仕事の中、ふとタイプの手を止めてこの著作集の月報を読むと先生方のとんでもないエピソードがいろいろ書いてあって楽しめた。…当時、『道程』という雑誌があり、その合評会が開かれた。「ある夜、当時寺町通にあった森君の家の二階で、創刊号に掲載されていた梅原猛君の「闇のパトス」をめぐって、同君と藤澤君の間に大論争が、いや、取っ組み合いの大喧嘩が起った。わたしは仲に入ってこれを制止し、ために馬乗りになって梅原君を抑えつけることにもなったが、梅原君は悔し涙を流しながら深夜の町を歩いて…」(加来彰俊「往時寸描」)森君とあるのはHPの一行掲示板で話題になっているプラトンの『饗宴』の訳者でもある森進一先生。 梅原氏は「藤澤氏と友人になり、しばしば深酒をし、果ては喧嘩口論をしたこともあったが、やがて和解し、今日まで、同世代の哲学の友人として藤澤氏の仕事を見続けてきた」(「田中ゼミのころ」)と書いている。 梅原氏の自筆年譜には(『哲学のする心』講談社文庫所収)、「昭和二十三年 一九四八年 二十三歳 九月 京都大学を卒業、卒業論文は「時」。直線的な時間観は成り立たず、深い主体的時間を省察しなければならないという趣旨の論文であるが、西洋哲学の学習の結果を示すというふつうの卒業論文ではなく、勝手に自分の思想を書いたという論文であった。田中美知太郎先生に、心境小説といわれ、多いにムクれたが、その趣きは十分だった」とある。 田中先生の演習に半年出たが、半年足らずで落伍したとのこと。「「悪い酒ばかり飲んで」、お互いに毒づき合い競い合っていた」(加来彰俊「往時寸描」)。この頃の先生方の様子を思うと、僕がいた頃はこんなひどいことはなかった。いいのか悪いのか。 前にどこかで書いたが、ケーベル博士の言葉にPhilosoph muss rauchen(哲学者は煙草を吸わねばならない)という言葉がある。その後に、und trinken(そして飲む)と付け加え藤澤先生の研究室に入るためにはお酒が飲めないといけないと先輩に聞かされ、僕は心が曇った。もちろんそんなことは何も関係なかったことはすぐにわかったし、論文が書け、ギリシア語ができることだけが必須条件だった。お酒を飲めればいいなどという甘い話はなかったわけである。
2003年08月12日
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プレジデント社の取材。今日ですむかもしれないしもう一回必要かもしれない。僕からの注文が多くむずかしい取材になってしまったのではないか、と思う。講演の時も、本を書く時もいつも思うのだが万人に適用可能な魔法のようなものはないので耳障りな話をしないといけないことになる。きっとよく僕の話を理解していい記事にしてもらえると思う。 朝まで原稿に手を入れていた。大きな難関は後一ヶ所残っている。後は細部のみ。今回は孤高の闘い、孤軍奮闘という感じはあまりしない。編集者の尽力は大きい。初稿が大きく形を変えることになった。 原稿の中に何ヶ所か神谷美恵子のことを取り上げた。引用ページを調べるついでに『神谷美恵子のこと 喪失からの出発』(太田雄三、岩波書店)に少し目を通した。神谷は若い時恋人を失った。それ以後は誰をも、男性をもimpersonalにしか愛せなくなった、と書いている。impersonalに愛するとはえこひいきのない公平な態度という意味もあるが(その意味では聖人をイメージできる)、神谷はこのような自分を病気であるという。神谷はヤスパースのPsychologie der Weltanschaung(『世界観の心理学』)を読み、その中に自分のことがそのまま書いてあると感じる個所に出会う。それは美恵子自身のように、絶対的な愛を捧げた男性を亡くした少女についての記述で、「それ以来一人として彼女が個人として出会う人はいない」と書いてあった(pp.249-50)。太田はこのヤスパースの引用の中のIndividuum(個人)という言葉についてこのように注意している。「Individuumというのは外のだれとも代替のきかない人間という意味であろう」(p.250)。 よしもとばななの『デッドエンドの思い出』。これまで書いた小説の中でもっとも私小説的と書いてあって驚いた。一度もそんなふうによしもとばななの小説を見たことはない。表題になっている「デッドエンドの思い出」という短編にこんなことが書いてあった。「いつだって朝起きると「高梨君今日は何しているかな」と思うことに慣れていた。でももうそう思う必要は一生なくなっていた。私と関係のない人生の人になってしまったからだ」(p.194)こういう感じはよくわかる。
2003年08月11日
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原稿の中に引いた文献のページ数がわからない個所が(たくさん)あって調べていたら思いがけず時間がかかる。日記に書いた時点でページ数を書いておくべきだった。大体はそうしているのだが。そこでページ数を調べるために本を取り出してくることになる。 ずいぶん前に読んだシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『女ざかり』(紀伊国屋書店)。めずらしく付箋がしてあったり、鉛筆で書き込みがある。「私たちは口に出していわなかったが、カント的な楽天主義、《君はしなければならない、故に、できる》に賛成していた」(p.12、私たちとは、ボーヴォワールとサルトルのこと。これは今の僕には特にこう思いたい)「私たちはカントの鳩のイメージ―鳩に抗う空気はその飛翔を妨げるどころか鳩の飛翔を支えている―を信奉していた」(p.13)(サルトルと別れていることについて)「たえず逢ったり逢わなかったりしている時よりも、こうやって別れて生活しているほうが辛さはしのぎ易かった」(p.92) こんなところにも線が引いてある。欄外に赤でAdlerと書き、二重線が引いてある。「アドラーの、『神経性性格論』は、フロイト以上に私たちを満足させた。というのはアドラーはフロイトほどセックスに重きにおいていないからである」(p.119) 他にも書き込みがあったりするがこれは少し恥ずかしいのでパス。線を引くと後で読み返す時煩わしいのでいやなのだが、思いがけず読んだ時の思いなどを思い出せる手がかりになる。
2003年08月10日
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台風のことが気になって夜が明ける頃目が覚めた。烈しい雨風を茫然と眺めていた。家が浸水する時はこれはだめだな、と直観し、しかも予想が決して外れないほど烈しい雨が短時間に集中して降った。今日はそんな雨ではなかった。 アドラーの『個人心理学講義』にこんな話がある(pp.144-5)。ギリシアの詩人、シモニデスが小アジアへ講義に招かれた。しかしシモニデスは船が彼を待って停泊しているのに行くのをたらいずっと出発を延期していた。友人たちが説得したが無駄だった。ある日、夢を見た。かつて森の中で会った死者が現れて語った。「あなたは非常に経験で、私を手厚く葬ってくださったので、今度は私があなたに小アジアへは行かないように忠告申しあげます」。シモニデスは目を覚まし「行かない」といった。 アドラーが注意しているように、実はシモニデスはこの夢を見たから行かないでおこうと決めたわけではない。実際には夢を見る前から行かないでおこうと決めていたのである。シモニデス自身は夢を理解していなかったが、「既に到達していた結論を支持するためにある種の感情、あるいは、情動を創り出したにすぎない」(p.144)。しばしば夢を見ても目覚めた時にストーリーを忘れる。そんな時、ストーリーは重要ではなくて、このケースだとただ「行かない」という決心をするために必要な感情を創り出せればそれで十分なのである。 このケースでは死者が出てくる。なぜすべての経験の中から死者の経験を取り上げたのか? アドラーはこのように説明する。「船に乗って航海することを恐れていたので、死の観念にとらわれていたからであるのは明らかです。当時は、航海は実際に危険なものだったので、ためらったのです。死者の夢は、おそらく船酔いを恐れていただけではなく、船が沈むのではないか、と恐れていたことを表しています。このように死の観念に心を奪われていた結果、彼の夢は死者のエピソードを選んだのです」(p.145)『人間知の心理学』では警告に従って出かけなかったところ、彼は助かったが、他の者は皆死んだ、といわれている(p.113)。この夢が予知夢であったというようなことはアドラーは決していわない。 こんなふうに感情を使って決心を自分に促すこともあればそんなことも必要としないこともある。あることをすることが自分にとって善きことであると判断し、そうすることを決心すれば、どんなことがあってもそちらに向かっていくのである。他の理由は後からとってつけた理由にすぎない。シュバイツァーは神学者、哲学者、オルガニストだったが、突然、アフリカに行く決心をする。これが彼の「内面の促し」だった。誰もそんな彼を止めることができなかった。学者として芸術家として忙しい生活の合間をぬって、アフリカの人を助けるために医学の勉強をした。もう三十代になっていたが、スタッフォード大学の医学部に入学した。医学的な興味が中心ではなく、これはまったく人道的な見地からのことだった。「デュプレ(オルガニストでシュバイツァーの相弟子)が、ビドル先生(オルガンの先生)に「どうして先生は止めなかったのですか」といったら、ビドル先生は両手を開いていった。「神さまが呼んでいるらしい。神さまが呼んでいるというのに、私は何をすることができるか」 職業は英語、ドイツ語ではそれぞれcalling, Berufという。神に呼ばれるとか、呼び出されるという意味である。
2003年08月09日
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台風が高知に上陸。突風が吹き風もきつい。台風の夜はいつも不安で過ごした。浸水するのはなぜか昼まではなく夜なので恐怖がつのった。夜のカウンセリングの予約はキャンセル。遠方より車でこられるので。毎週行っている鍼の治療には行った。駅につくまでにかなり濡れてしまった。鍼の前にカウンセリング。効果がかなりはっきりしてきた。シャワーをかかった後平気でいられる。医院に勤務して三年目の夏に体調を崩すまでは平気だったのにそれからずっと辛かったので四年ぶりに復調。 昨夜は横になった途端寝てしまった。夜中に目を覚ます。怖い夢。大学の体育の単位が取れてないといういつもの夢。なんだかんだと理由をつけて授業に出ていなかったし、それどころか最近は授業に出ることにも何の罪悪感もなく出ていなかった。今さらどうするのか。こんな夢をいつも見る。昨夜の夢は少し違っていて学校側から救済策が提示されるのだが(集中の授業のような)なんと年齢制限があって、たしか二十四歳以上は適用されない。それでは僕の留年は確定ではないか、と絶望するところで目が覚めた。 昨日、「幸福が存在論的にも臨床的にもアプリオリに排除されているということを明らかにした」と書いたがこれは書きすぎ。「幸福が存在論的にも臨床的にも排除されているという見方を選択する考えが支配的であり、そのことが人を幸福にすることを阻害していることを明らかにした」 アドラーがこんなことをいっている。アドラーが結婚を至上の価値と見ているところは時代を感じさせるが意図はわかるだろう。あらゆる愛の課題は、性的魅力を持つ他者に対する行動の問題であるという意味で対人関係の課題である。とりわけ結婚はあらゆる状況の中で最も親密かつ強力な対人関係であり、準備ができていない人は克服できない困難である、と感じる。そのような人は対人関係を避け、他者と人生を共にしたくない。「幸せな結婚生活を送っていない親から愛と結婚について学んだことによって、困難がさらに増しているという場合もしばしばです。そして、自分の身の回りや、文学などから、自らの困難を確証してくれるものを集めます。通俗小説では、結婚は通常、不幸なものとして描かれています。不幸なラブストーリーが数多くあるのは、おそらく読者がそれを利用するために求めるからでしょう」(『人はなぜ神経症になるのか』pp.63-4)。両親が不和であったことも、「不幸なラブストーリー」も親密な対人関係を避ける口実として利用されるということである。
2003年08月08日
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明け方まで仕事。第二稿を編集者に送る。ちょうど去年の今頃の日記を読むと幸福論を書いてみたい、と書いている。そして今書いている原稿の一部が引いてあるが、大筋のところでは今朝送った原稿にも同じことを書いている。 池田晶子の本は大抵読んでいるが、「こんなもの(注:幸福論)はロゴスによって真正面から論じるべき対象ではない」と池田は書いている。それでも僕は書いてみたい、と一年前に書いている。そして、やっとこれがわかったので出口が見えた、と思って喜んで書き留めたことも一年前に書いていた。もっとも今回は少し違うアプローチをしたのだが(幸福が存在論的にも臨床的にもアプリオリに排除されているということを明らかにした)。そしてきっとそれはさらに数年前にさかのぼることができ、さらにはきっと僕の独創でもなんでもなくて先哲の業績なのかもしれないが。 今日は完全オフにした。皮肉なものでとてもノートに書き留めることができない状況になるとアイディアが湧き出てくる。まだ決まっていない本の題名もいい考えが浮かんだのだが。 大雨なのには花火大会は中止にならなかった。マンションの僕の部屋の窓を開けると花火を見ることができる。前の家は川のすぐ横にあるのでここなら家が振動する。小さな頃は花火の音が怖かった。昭和三十年代に始まった花火は知らないはずの爆弾のことを想起させた。今日もたくさんの人があつまっているはず。帰ると思いがけず息子が家にいた。「なぜ(花火に)行かないの?」とはたずねなかった。部屋にこもって勉強している。僕の高校時代と同じではないか。午前も午後も連日文化祭の劇の練習をしていて毎日参加している様子。「助監督って何をするの?」とたずねたら「休んでいる人の役のところを代読するんだ」と。そういう役目の助監督が休むというのは彼の辞書にはないのだろう。祭りが終わると夏も終わり。
2003年08月07日
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朝、広島の平和記念式の中継を観る。消え入るような声で的外れなスピーチをする小泉首相。しかし会場からはブーイングは起こらない。秋葉広島市長の平和宣言はよかった。小泉首相は終始目を閉じて聞いていた。「国連憲章や日本国憲法さえ存在しないかのような言動が世を覆い、時代はまさに戦後から戦前へと大きく舵を切っている」「戦争が平和だという主張があたかも真理であるかのように喧伝されているが、平和解決を望んだ世界の声をよそに始められ罪のない多くの人を殺し、自然を破壊した」開戦の口実だった大量破壊兵器も未だ見つかっていない。リンカーンの言葉を引いて秋葉市長はいった。「すべての人を永遠に騙すことはできません」。暗闇を消せるのは暗闇(=力の支配、報復)ではなく光(=法の支配)である。その通りだと思う。法が適切なものなら、という条件はつくと思うが。 片岡瑞希さん、藤井博之さんの「平和の誓い」は胸を打った。正義の名のもとに、戦争や紛争が繰り返され、私たちと同じ子どもが傷ついている、と峠三吉の詩を読み上げた。峠は二十八歳の時に被曝した詩人である。「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ」この子たちの声を小泉首相はどんな思いで聞いたことか。 原稿執筆の依頼。この雑誌には過去に何度か寄稿しているのに担当編集者は読んでられないのか理解されてないのか。「子どもがやる気を出す叱り方、ほめ方」ありえない。残念だが断りの返事を出さねば。「叱るしつけ・ほめるしつけ」という特集の中で、異質の記事を書かせてもらえるのなら話は別だが、考えられない。もう一件、雑誌インタビューの依頼。こちらは引き受けようと思う。編集者は僕の本を初めとして勉強されていたのがわかったので。 後、一晩猶予をもらった。修士論文を書いていた時のようだ。何日も布団で寝ないで冬だったので原稿を書き、疲れたらこたつで横になり、起きたらまた執筆という生活が続いた。わずか100枚だったのに。担当の編集者である尾崎さんはべねっせの仕事以来のつきあい。勉強家で関連の本をかなりたくさん読まれている。その分(というべきか)原稿への要求水準も高い。頑張らねば。
2003年08月06日
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昼間はまとまった時間寝ることはできないのが、まとまって寝る時間よりもまとまった考える時間がほしいので学校に行かなくてよくなった八月から深夜に仕事を集中的にしている。もう今夜を最後にしたいもの。一章の全体の見直しと二章の一部に少し手を入れるのと最終的なチェックが残っている。苦しいが充実。前にどこかに書いたが現代ギリシア語でいえばΕχω κεφι(エフォ ケフィ)。κεφιは仕事をやめてゆっくりとくつろぐこと。κεφιを持っているというのが直訳。気分がのっているというようなところだが、仕事はまだ終わってない。福田千津子氏によれば、このくつろぎの中には、明日また働く活力を養うための休息は入り込む余地はない。ただただ今この時を満喫するためにのみケフィは存在する。「今ここに生きるといってもあせってはいけない。そうすることは結局、直線的に人生をとらえることだから」(キューブラー・ロス『ライフレッスン』) 四章の最後にアリストテレスのエネルゲイアのことを書かねば。 もうこれだけ削りに削ったのだからこの上書き加えようと思わないこと。何を書くかより何を書かないかで思い悩む。『アドラー心理学入門』を編集者に送った後の虚脱感を思い出した。あの時はフロッピーで送ったが(編集者がメールを使ってなかった)今は一瞬にして送れる。送信のアイコンを押すのみ。
2003年08月05日
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締め切りは過ぎているが、ローレンス・ブロックの言葉を借りると(『ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門』原書房、pp.116-7)を仏の編集者氏に許してもらうことができ、徹夜の日々。脱稿まで後少し…緊張感が極限に達しているがこれからが大変なことはこれまでの経験で重々承知だが。 朝、カウンセリングまで少し眠ろうとしたところ、電気の検針メーターの交換工事。ドアホン越しに対応しただけなのだが、停電させてもらおうと思うのですが先月も電気代が多いようなので、大丈夫ですか、と担当者。常時オンになっているコンピュータをシャットダウンすることにした。昼間もずっと仕事をしているからか電気料金が他のところと比べて多いのだろう。寝そびれた。 寺からはがき。お盆棚経。八月○日午後12時頃にお参りに寄せていただきます…はがきの下の方に赤字でこんなふうに書いてあった。「今年の棚経日程につきましては、住職の健康上の都合により大幅に変更をいたしましたので、日時をよくご確認ください」たしかに例年朝早い時間だったと思う。そんなことなら無理しておこしにならなくてもいいですからご養生ください、と電話をしようか、と一瞬思った。この文面、どこか変なのである。 アレクサンドロス大王が師のアリストテレスに宛てた書簡がある(『プルタルコス英雄伝』中、ちくま学芸文庫、p.15)。アレクサンドロスは倫理学や政治学の教授を受けただけでなく、口伝とか秘伝と呼ばれ多くの人には公開しない秘密の深奥な教えも受けた。ところが後にアレクサンドロスがアジアに渡ってから、それらに関するいくつかの論説が刊行された。アレクサンドロスはそのことを知ってアリストテレスに書簡を送っている。「アレクサンドロスよりアリストテレスへ。ご健勝のことと存じます。先生が口伝の論説を公になさったことはよろしくないと思います。と申すのは私が教わった論説がすべての人々共通のものとなれば、私は何において他の人々と異なることになるでしょうか。私は権力によるよりも最高の知識によって他の人々にすぐれたものとなりたいのです。敬具」 知識は共有のものである。他者に勝つことを目的とする個人的な優越性の追求は有害である。アレクサンドロスは自分のことしか考えてないのである。 人に気に入られたい、という自己理想を持つ人がいるとする。森有正はこんなふうにいっている。「仕事というものはいったい誰のためにするのだろう? 仕事自体のため、と答える人もいるし、自分自身のため、という人もある。どちらも決して本当ではない。仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由は全部嘘だ」(『バビロンの流れのほとりにて』) このように考えて仕事をする人でも、自分には能力がある、と思い、まわりの人を仲間だと見ていれば、その仕事は他者に貢献するものになるであろう。 息子がひどく痩せているのに気がついた。クラブは辞めたのに。勉強しすぎか。今、書いている論文のことで長く話しこんだ。
2003年08月04日
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学校に行かなくてよくなったので集中的に原稿書きに取り組める。気がついたら朝になっていて驚いて寝たのだが。目を覚ますともう子どもたちはいない。そういえば娘が遊びに行くから小遣いがほしい、と前の晩部屋にきたのを思い出した。あそこはね、よく修学旅行生たちが乱闘をするところだから気をつけようね。にらんだりしちゃだめだよ。うち、むちゃ腹立つからよく睨みつけるの…いやいやそれはやめといた方がいいのでは…こんな話をしたのを思い出したが。あの烈しい気性は誰に似たのか。 昼からカウンセリングに二人こられる。ここの日記には当然カウンセリングのことは書けないが、話をしながら学ぶことは多い。いろいろな話を聴き、その話を心に留める。継続してカウンセリングにこられるケースがほとんどなので話された内容は覚えておかなければならない。 プラトンの喩えを使うならば、人は自分のうちに鳩小屋のようなものを持っていて聞いたことは鳩を捕らえるように、この小屋の中に次々に入れられていく。この小屋にはいくらでも鳩を入れられるというふうにも考えられるし、伸縮自在というふうにも考えることができる。 しかしこのイメージでは、鳩小屋である私は鳩をただ収容するだけで何の影響を受けないようにも考えられる。それは空を映す水たまりのようである。漂う雲の姿は次々に水たまりに映るが水たまりは何も知らない。鏡に世界は映し出される。しかし鏡は何も知らない。話を心に留めるということ、知るということはこのようなことではないはずである。知る人は知ることによって何かしらの影響を受けないわけにいかないのではないか。鏡が知るのでなければ何が知るのか? 日本語では「所持」と「所有」という言葉の区別がある。昨日、カウンセリングの中でこのことについて話した。過去を人は所有していても所持はしていないだろう。ふいにどこからか思い出されて(過去はどこかにあるものではないが)くるように思う。手には持ってないが本棚のようなところに整理された、あるいは未整理の状態で所有されているように見える。過去が現在から離れてあるわけではない。このあたりのところについては今は詳論の余裕はない。過去自体はないのだが(もしあるとすればそれはその時の現在になってしまう)いささか曖昧なイメージのまま過去について考えると、未整理な状態で所有されている過去を整理することが過去の再構造化であり、そのことを可能にする現在なされる過去の意味づけの作業は過去を変えることになる。あの苦しかった時期を自力で乗り切れて本当によかった、と語るクライエントさんを前に、僕が力になったのではなかったのか、と思ってはいけない。
2003年08月03日
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朝、息子が東京から帰ってくる。しばらくして中坊公平、日高敏隆、山折哲雄氏を交えての会議に出席するためにまた学校に出かけた。『宗教の力』(PHP新書)という本を持っていってサインしてきてもらったのを帰ってから部屋にきて見せてくれた。 東京では二つの大学を訪れた。一つの大学はオープンキャンパスの抽選に漏れたので説明を聞いたりはできなかったが、学内に入って写真を撮ったりしてきた。別の大学の方はパンフレットなどをもらって帰ってきたが、実学には興味がない、と一言。 木田元の『偶然性と運命』(岩波新書)という本のことを思い出して本棚から取り出して見たら、三章くらいまで読んであった。なぜ途中で読みさしになっているのかわからないが書き込みがしてあるのでわかる。ハイデッガーを引いて、人間にとって自分自身の死は、誰にも代わってもらうことのできないと書いてあるところには(pp.28-9)、生もそうだ、という書き込みをしている。過去の再構造化という言葉には線が引いてある。今日の夜のカウンセリングの中でこの言葉を使った…。 やまじゆみこさんのHPの掲示板でこんなことを書いたのを思い出した。このエピソードはこの本で知ったことがわかった。 絶望に打ちのめされ、生きる意欲も失っていたニーチェがある晩秋の日、ライプツィヒの古本屋の店頭でふと一冊の本を手にしました。この本を買って帰れという魔神(デーモン)のささやきが聞こえたのです。なけなしの金をはたいて、読み始めました。二週間、ニーチェは夜はいやいやながら二時に床に入り、朝はきっかり六時に床を離れ、憑かれたもののように読みふけりました。この本とはショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』であり、この本との出会いが後年のニーチェの思想を作り上げることになります。ショーペンハウアーはまるで私のために書いておいてくれたかのようである、とニーチェはいっています。 こんな出会いがあれば本はきっとどんなことがあっても読めるでしょう。知識を獲得するために読むという不純な(というべきか)動機では読めるものではありません。辺見庸の言葉を借りると「首から上で」読んではいけないということです。 (5月24日22時10分) 今、書いている原稿にもこの問題に少し触れているのだが、偶然や運命というような問題には「決定的な解決をもたらすことなどできないことは初めから分かっている」(木田元、p.203)ので自分なりに考えてみようと思い立って新書として書くまで三十年もかかった、と木田が書いている。「オチのつけられないことがはじめから分かっている本は書きにくい」(ibid.)哲学の本はみんなそうだといっていいくらいだ。 過去の再構造化についてはまた改めて。
2003年08月02日
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中根先生の鍼。一時どうなるかと思っていたが最近は体調がいい。時間が足りなくて遅くまで起きているのがよくない影響を及ぼしているが。毎回、身体の感じが違うのがよくわかる。鍼の感じ方が違うことからわかる。今日は背中の方はまったく痛みがなかった。お腹や膝のあたりは強烈に痛い個所があった。痛みにも種類がある。そんなこともわかってきた。 鍼の前に時折カウンセリングの予約が入る。鍼にこられる患者さんでカウンセリングが必要と中根先生が判断する人を任されるのである。カウンセリングをした後、今度は僕が患者になるというのもちょっと不思議な気分ではある。 自分がコントロールできないような仕方で人生に外からの出来事が介入し人生に大きな影響を与えるように見えるケースについてさらに考えてみると…日曜日の講演会の後で、プラトンやアリストテレスの次に読む本でお勧めのものはないか、と問われた。その時、答えたが後日掲示板でも質問を受けた。掲示板では、僕は新たにテオプラストスの『人さまざま』という本を紹介した。 この本の訳者はプラトンの『饗宴』の訳者でもある(新潮文庫)森進一先生の訳である、と書いたところ、風鈴さんが森先生の『雲の評定』(筑摩書房)という本の名前をあげられた。これが一つの出来事。これとは別に僕は原稿の中で、「誰」がではなくて「何」が語られているかが大事であるということを書いていてその中で、森先生がこの意味のことをエッセイに書いていて参照したいものの、これは『田中美知太郎全集』の月報に書いてあったことまで思い出した。ところがその月報が今どこにあるかもわからない。正確に引用できないことを残念に思っていた。 ぼんやりしていたら、ふと『雲の評定』が芥川賞候補にもなった小説家でもある先生のエッセイ集であることを思い出した。この本をなぜか今は持ってなかったのだが、そのことに思い当たったのですぐに風鈴さんにメールを出した。その本はエッセイ集で、今かくかくしかじかということを原稿に書いているがその本の中に該当するエッセイがあるかどうか、と。するとたちどころに返事がきた。今読みさしで、ちょうどしおりを挟んでいた「借金」というエッセイにまさに僕がたずねた内容のことが書かれているというのだ。シンクロニシティという言葉を使いたくなるような偶然の一致に驚いた。 涅槃境の言葉に「盲亀の浮木」(もうきのふぼく)というのがある。深海の底に住む巨大な盲目の亀が何千年か何万年に一度だけ海面にその姿を表す。その時に、穴の空いた流木が浮かんでいてたまたま亀がその穴に首を突っ込む。それほど稀な偶然を表すことばである。そこまで書くといささか大げさか。 ちなみにエッセイにはこんなふうに書いてある。「先生(岸見注:田中美知太郎」)の随筆に、「誰が」言ったかよりも、「何を」言ったかの方が大切だ、という意味の一文がある。もし、「誰が」という、俗情の方ばかりを重視される先生だったら、私などはとても今日まで、先生のお弟子の一人として認めてはもらえなかったろう。誰にどういうことが起こっても、それでその人間が少しでもよくなってゆくなのなら、それはそれでいいのだ。そこに先生の目がある。先生の目は、つねに人間の精神にそそがれている。先生の太っ腹の秘密は、そんなところにもあると思う」(『雲の評定』p.25) 今回、読み返してみて、「誰にどういうことが起こっても、それでその人間が少しでもよくなってゆくなのなら、それはそれでいいのだ」と書いてあるところが僕の注目を引いた。森先生には学生の頃、一方ならず世話になったのに、もう長く手紙すら書いていない。僕が少しでも「よくなった」のなら、今の僕を先生はよしとしてくださるだろうか。
2003年08月01日
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