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先週は祝日だったので久しぶりに明治東洋医学院に出講。今日から新たに鍼灸科の二年生の講義を始めた。二つのクラスで1時から4時10分まで休憩を挟んで講義をする。あらかじめ同じシラバスを配ってあり、試験も共通問題なのでクラスが違っても講義内容に大きな異同があってはいけないのだが、全く同じ話をすることはできない。話への反応が異なるからである。どちらのクラスも活気があっていい。担任の先生(だと思う)が開講に先立って僕のことを紹介すると拍手があった。このクラスだけかと思っていた続くB組も拍手。なんだか機先を制されたような感じだった。5階の教室での講義なので10分の休みの間に1階の控え室に戻るだけの時間の余裕はなくて廊下にある椅子にすわっていたらA組の学生がやってきて「めっちゃおもしろかった」といってくれた。午前、午後と久しぶりに3コマ講義をしたら疲れてしまった。 先日来書いているレゾナンス(共鳴)について。自分をなくして相手に合わせるのではない。あなたが私の中で共鳴する。森有正はこんなふうに書いている。「リールケの名は私の中の隠れた部分にレゾナンスを惹き起こし、自分が本当に望んでいるものは何であるか、また自分がどんなに遠くそれから離れているかを同時に、また紛らせようもなく、明確に、感得させてくれる」(「リールケのレゾナンス」全集4、p.243)。私と、私の中で共鳴するあなたは遠く離れているということである。人間は本質的に孤独である、と森が繰り返しいっている。 ルー・サロメのこと。ルーが誰かある男と情熱的に接すると、九ヶ月後にその男は一冊の本を生んだ。アリストテレスが神を定義して「不動の動者」といっている。自らは動かないで他のも者を動かす。サロメにはこんな神のような魔力があったのか。影響を受け、一冊の本を生み出すという感じは僕にはよくわかる。 サロメが亡くなったのはアドラーと同じ1937年のことだった。享年76歳。サロメが死んで数日後、ゲシュタポを先導した一台の警察のトラックがやってきた。そしてサロメの蔵書を積んで運び去った。彼女が死んだ家はゲッチンゲン市を見下ろすハインベルク丘の急坂の上に立っていた。ここに夫とともに三十年以上住んだが、夫以外の男と旅行するのを目にしてきた市の女性達は彼女を「ハインベルクの魔女」と読んでいた。魔女は死んだが、魔女狩りは続いた。なぜゲシュタポがサロメの蔵書を押収したかはまた次に。 ゲラがもうすぐ届く。待ち遠しい。
2003年09月30日
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今日は郵便局に行ったり銀行に行ったり、とTo Doリストに載っていることを一気にかなり片づけることができた。印税として届いた郵便為替を持っていって現金に換えてもらったのだけれど何の記録も残らないので驚いた(受け取りのようなものもないのだそうだ)。その受け取ったお金で税金を払ったりなどするともうほとんど手元にお金は残らなかった。自転車操業の日々が続く。 taperという言葉について別のところで書いたことがある。taperは細い小さなろうそくのことで、動詞としては先細りにする、とか、次第に減らすというような意味になる。服薬している時、いきなりやめるわけにいかないことがある。taperしないといけないというように使う。次第に薬の量を減らす、あるいは、投薬の回数を減らすなど薬から離脱するのである。 私が愛を求めても相手はそれを拒み、私が受け入れられない人から愛を打ち明けられる…世の中なかなかうまく行かない。 ニーチェも、また、リルケもサロメからの離脱を経験しなければならなかった。二人の蜜月は終わる。サロメは愛の夏は終わり、仕事の冬にそなえ準備を始めた。自分の受けた教育が系統的でないことに気づいたリルケは、ベルリン大学に籍を置き、美術史と美学の講義に出る決心をする。そしてフィレンツェで今度の春を過ごそうと思った。サロメは同行することはできなかったが、彼女のために、彼の愛の徴として、またよく勉強している証拠としても日記をつけイタリアの印象を彼女に送る約束をした。この約束から生まれたのが『フィレンツェだより』である。森有正はこの書を読むだけでは満足せず、翻訳までしている。森の中でリルケが共鳴した。後に森は『アリアンヌへの手紙』という、一人の女性に宛てた書簡体の書物を試みている(全集14巻所収)。アリアンヌは有正のアリと相手の女性の名を組み合わせたといわれ、アリアンヌのイメージはルー・サロメに重なる。
2003年09月29日
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『さとうきび畑の唄』を見ている。夫を戦争で亡くした小学校教師は子どもを前にいう。「私は戦争は何も解決しないと思います」。娘は手で両耳を押さえながら「恐い、恐い」といいながら見ている。想像力の不足、それどころか欠落が戦争を引き起こす。イラク戦争が始まった時に書いた。今もそう思う。今度出す本にも書いた。沖縄の地上戦について書かれた本は涙なしに読むことはできない。軍は沖縄の人を守らなかった。人が死ぬこと、人を殺すこと、殺されることを想像できない人が戦争を支持することができる。 ルー・サロメは若いリルケに大きな影響を及ぼした。内面的なことももちろんあるのだが、リルケの筆跡が著しく変化したことが指摘されている(H.F.ペーターズ『ルー・サロメ 愛と生涯』p.335)。ルーに会う前はぐにゃぐにゃした読みにくい字を書いていたが、きちんと正確な字を書くようになった。名前も変えた。ちょっと女みたいとルーにひやかされたリルケは、ルネというフランス語形の名前をライナーと改めたのである。 新しい恋が始まると読む本が変わり、聴く音楽が変わる。影響を全く受けない人もいるのだが…。自分が恋する人が読んで心を動かされた本を読みたいと思い、聴いて心を揺さぶられた音楽を聴きたいと思う。森有正が使うレゾナンス(私の内部の共鳴)という言葉が好きである。自分をなくして相手に合わせるのではない。あなたが私の中で共鳴する。
2003年09月28日
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今日は午前中一人カウンセリングをした後、横になって寝たり起きたりしながら本を夕方まで読んでいた。区別がつきにくいけれどこういうのが僕のオフ。ノートを横に置いたりすると、また線を引っ張ったり、付箋を貼ったりすると、もうたちまち論文モードになるのでこういうことはしない。「この間ある七十以上になる老人がしみじみ僕に語った。「七十年! 夢のように経ってしまいますよ。のこるのは若い時のなつかしい回想だけです。青春は短いなどと言っているが、短いどころではない、あっという間に過ぎ去ってしまいます。」僕はこの老人の言葉は実感から出ていると思う」(『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.61) 七十年も生きてないが、これまでの人生は長かったと感じている。若い頃のことが「なつかしい」と思えるまでにはもっと生を重ねないといけないのか。臍を噛むような思い出が多い。 若い頃に読んだリルケの作品。言葉は理解できても「実感」には至らなかった。リルケが手紙の中でこんなことをいっている。今は春の嵐の中にあっても必ず夏はくる。夏はかならずくる。「しかし、夏はかならず来ます。しかし、夏は、あたかも目の前には永遠があるとでもいうように、何の懸念もなく静かにゆったりとかまえている忍耐強い人々のところだけに来るのです」(『若き詩人への手紙』佐藤晃一訳、p.21)若い時はこんなふうには思えなかった。今もかもしれないけど。森有正はこの個所を念頭に置いて次のことをいっているのかもしれない。「…しかしあわててはいけない。リールケの言ったように先に無限の時間があると考えて、落ち着いていなければいけない。それだけがよい質の仕事を生み出すからである」(『森有正全集』十三巻『日記』、p.31)。先のリルケの引用は芸術作品は無理にせかしたりしたらだめで、成熟するまで抱懐して生み出すことがすべてだといっている個所から引いたものである。 森有正の訳したリルケの『フィレンツェだより』の解説で二宮正之がこんなことを書いている。「「若い」というのは、年齢にかかわりなく、万象と「恋愛関係」に入り得る精神の若さを持っている人という意味である」(p.219)「およそ人間でも、ものごとでも、恋愛関係としてでなければ考えられない型の人間があるものだ。今いったリールケがそうだった…」(『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.22) そのような人として森は他にゴッホやドストエフスキーの名前を挙げている。「しかしその人たちの運命は悲劇に充ちている」(p.23)。
2003年09月27日
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答案の採点などあれこれやっていたら気がついたら朝方になっていた。今すぐにでもしたいことがあって、それは創造的な仕事なのだが、そしてそれは今ただちに着手できるはずなのにそういう時に限って締め切りがある(僕にとって)めんどうで苦手な仕事が立ちふさがっていると思ってしまう。しかし、本当は違うのだ。無為に時が過ぎてしまった(15年も…と思うことがある)。休んでいる暇などないのに。 先に(9.12)に森有正の次のような言葉を引いた。「娘が余り僕を愛しすぎぬよう気をつけなければならない。かの女は自分で自分の道を見出さなければならない。僕の内面は一切かの女に影響をあたえてはならない。友人も恋人も、相談相手も父の外に求めるようにしなければならない。僕と娘とのきずなはすでに余りに強すぎるのだ。いつも静かに存在している父。僕はそれだけで、その框をこえないように全力をあげて努力しなければならない」(『流れのほとりにて』全集1、p.388) 森自身は父親とは関わりがほとんどなかったが、母親との近い関係についてはよく書いている。そのことを踏まえて読むと、母親が森にとっては友人でもあり恋人でもあり相談相手でもあったように見える。だからこそ自分は娘とは近くあってはならないといっているのではないか。これを書いていてふと(前にどこかに書いたかもしれないが)母親に、また妹にも僕は冷たいといわれたことがあったことを思い出した。愛(人への関心)が薄いのではないか、と思うことがある。 森がどこかで(探したが見当たらなかった)お皿も正しく洗えない人の思想を信じないというようなことを書いている。僕はだめかな、と思ってしまうが、ちょうど昨日書いたようにヒマラヤへ登る時も、自分の庭を歩く時と同じようにしか歩けないように、思想や哲学というものが日常の経験とかけ離れたところに成立するのではないということをいっている。 娘が部屋の掃除をしている。長らく(何年も?)自分の部屋というものを実質的に持たなかったのにソファーベッドや机をカタログを見ながら買っているようだ。気に入った机を注文した後で見つけたようでもう間に合わないかもしれないけれど、と前置きをした上でキャンセルできるかもしれないので電話で交渉することを勧めたら、うまい具合に断れたようだ。娘の部屋にあったもうぼろぼろになってしまったソファを捨てた。朝に回収してもらうことになっているので前の晩から外に出したのだが、一晩降り続く雨の中にソファが打たれている光景を思うと少し胸が痛んだ。このソファが届いた日のことをよく覚えている。僕しか覚えてなかった。娘が生まれる数ヶ月前のことだった。
2003年09月26日
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新たに試験の答案が届く。今採点中のは後少しである。記述式の試験で60枚あると僕にはとんでもないという感じだが、前に神谷美恵子の日記を読んだらこんなものではなかったのを覚えている。 今日は中根先生の鍼。毎回、脈を取って身体の状態を診てもらうのだが、口内炎できてませんか、と指摘され驚いた。実は朝起きた時、口の中の皮がはがれたようになっていて痛みがあって、さてそのことをいおうかいうまいか迷っていたのである。 夕方、息子が帰ってきた。手ぶらでまた出かけようとするので、何をしに帰ってきたかよくわからなかったのだが、めずらしく僕の部屋にきて、例の「NATO空爆はユーゴスラビアの人々を救ったか」の研究発表をまたすることになったという。「また」というのは先週の土曜日に発表したのに「また」研究大会で発表することになったという意味である。11月までまたあの論文を持ち越すことになったといっていたが、表情はまんざらでもなかった。 森有正がこんなことを書いている。「最近ある百いくつのおばあさん(このおばあさんは大旅行家であった)が、フランスの新聞に書いておりました。私はヒマラヤへ登るときでも、自分の庭を歩くときと同じようにしか歩けない。どんなばあいでも歩くという以上は、同じことしかできない、というのです」(『生きることと考えること』p.204) 本がどれほどたくさん出版されていても実際には一日に読めるページ数は限られている。それなのに、本をたくさん読もうとしたら自分で考えるところがなくなってしまう。これはたしかにそのとおりだと思う。もちろん、このことは本を読むことには意味がないという意味ではない。デカルトは「先生たちの監督を離れてもいい年齢に達するやいなや、私は書物による学問を全くやめてしまった」といっているけれども、文字通り取ってしまうのは危険である。読書だけが真理発見の唯一の方法だと考えるのを止めたという意味であろう。ただ、森有正のいうように経験を離れて知識を追及しても意味がない。「私はやはり、どんな知識でも自分が生きていることと関連がないよう知識というのはつまらないと思うのです」(p.189)。同感である。 鍼の帰り、本屋へ。鍼の間にふとドストエフスキーの日記がちくま学芸文庫で出ているのを思い出し、無性に読みたくなった。どの棚にあるかまでわかっている。ところが…たしか、5,6巻あるはずなのだが、棚からごっそりなくなってしまっていた。得られなかったものをほしがるなんて子どもみたいだが、まだ今も残念でならない。こんな経験は初めてのことである。
2003年09月25日
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採点の日々。聖カタリナ女子高校のレポートを(ようやく)読み上げ結果を郵送。今、教えている他の専門学校と違って、出欠を毎時間ごとに取る必要がなかったこともあって、全員の名前を覚えられていないのが残念。もちろん名前を知っているからといって成績には何の影響も及ぼすことはないのだが。レポートを読みどういうところが学生の印象に残っているか、また、どういうところが十分伝わっていないかがよくわかり、学生の理解度を見ることも然ることながら、自分の教え方の反省材料になるので冷や汗ものである。もう一つ試験の採点をしていてこちらは後少し。一通り読み終えた後(仮採点をした後)もう一度最初の学生の答案から読み直すつもり。答案の中に質問があったり、「~ではないですか?」という表現があると困惑する。そうこうするうちにもう一つの学校の試験も終わったようで明日にでも届くのだろう。 郵便局に成績を出しに行く。出版社から届いた普通為替証書を持って行くのを忘れた(もう払われないのかと思っていた印税)。帰り本屋。キルケゴールの『死に至る病』。本棚に見当たらなくて先日も岩波文庫版のを見つけたがこれはドイツ語訳からの重訳だったので買わなかった。今日手に入れた桝田啓三郎訳はデンマーク語からの翻訳である。キルケゴールを読むためだけにデンマーク語を学びたいと思ったことがあったのを思い出した。プラトンを学ぶ前はあれこれ読みたい本があったのだ。 昨日の続きを書きたいのだが続く森有正の議論は、「意志」の問題と結びつけるのだが、すぐには続かない。昨日引いたのは次の個所である。「*フロイトの意見とは殆ど正反対のことを、僕は信じている。性生活とは、むしろ精神構造が性の次元に露われたものに過ぎないのではあるまいか。この意味で、性生活は兆候を示すにしても、決してそれが根源なのではない。兆候というよりも、むしろ底にあるものを露呈すると言うべきかもしれない……」(一九六二年八月三十日、全集13、p.153-4) 孤独である人はおそらくセックスによっても孤独であることから免れることはないだろう。セックスが二人の関係を深化するというわけではなく、もともと通常の(といっていいのかわからないが)二人の関係がよくなければ、セックスの場面でもうまくいくわけはなく、それどころかより明確に二人の関係を露ににする。 プラトンが『法律』において、若い人たちを集めて飲み会をするという教育プログラムについて語っている。ただし若い人だけですると羽目を外し大変なことになりかねないので、年長の(たしか素面の)リーダーがこの飲み会を監督しなければならない。酒を飲むと通常の時よりも人の(森有正の言葉を使うならば)「精神構造」が明らかになりやすいので(羽目を外さないとしてもである)そのような状態において徳の訓練をするのである。酔っぱらっている時に暴言を吐く人が後で、覚えていない、とか、あれは酒の席でのことだからという弁解を僕は認めない(同じような趣旨で精神構造をよりあらわにする機会だということでセックスを利用するわけにはいかないが)。「意志」の問題については、『バビロンの流れのほとりにて』の中の記述がわかりやすいかもしれないが、これは別の機会に。ただ、次のところだけは引用してみる。一生は一回限りである。ということは肉体の生活も一回限りということである。「しかし、肉体は成長し、成熟し、老衰して死んでゆく。ただ一回だけ」(全集1、p.88)。ここまではそのとおりだが、「だから本当の愛も唯一つしかない」といわれると、そうかな、と思ってしまう。「それにすべてを注ぎつくすことのできた人は幸福である。唯一つと僕は言ったが、本当の人生を生きる人間にとっては、愛は一つ以上あっては、かえって余計で、愛そのものを破壊してしまうのだ。しかしその唯一つはどうしてもなければ、その人の全人生は、他に何があっても「無意味」なのだ。その代わり、それ一つがあれば、他は何もなくても、全部的に充実しているのだ。そしてそこから広大な精神の世界からひらけてくるのだ」肉体から精神へ…プラトンが『饗宴』でいっていることを想起する。「そしてこの愛は、肉体の直接感覚からはじまることが多い」
2003年09月24日
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昨日の夜(というか今日の朝)は妙にテンションが高く朝方まで寝られなかった。きっと評価を恐れているのだと思う。アドラーは自分で書いた著作がほとんどなくて講義ノートや講演録をもとに編集者がまとめたものが著作として出版されることをよしとしたのだが、著作というものへのこだわりがなかったアドラーにはできても僕にはむずかしいようだ。『ヴェーユの哲学講義』というシモーヌ・ヴェーユの哲学の講義ノート(リセの学生が講義を書き留めたもの)があるが、学生がどれだけ優秀でもこの編集の手も加えられていないノートが世に出たら恥ずかしくてたまらないだろう。講義で話したことが間違っているというようなことではないけれども。死後に出版されたらどうしようもないわけだが。 昨日の話の続きだが、人が身体(肉体という表現を好まない)から離れて精神だけで生きられない以上、恋愛においても身体のことを考えにいれないわけにはいかない。むしろ人と人との身体を介した結びつきについて言及しない恋愛論があるとしたらその論の全体を信頼できないかもしれない。昨日、見たように、森有正は、肉体的な結びつきだけが、瞬間的に人が本質的に孤独であるという苦悩を忘れさせる(p.131)といっているが、身体を重ねても孤独であることを忘れることはできないし、いよいよその思いを強くするのではないか。もし瞬間的でも孤独が癒されるとしても、セックス(身体)が人と人を結びつけるのではなく、身体を介して心で人と人が結びつくのである。 この著作よりも前に書かれた森の日記にはこんなことが書いてある(この森の日記も刊行が意図されていたわけではないのだろう。今出ている版では多くの個所が削除されている。*はその印)。「*フロイトの意見とは殆ど正反対のことを、僕は信じている。性生活とは、むしろ精神構造が性の次元に露われたものに過ぎないのではあるまいか。この意味で、性生活は聴講を示すにしても、決してそれが根源なのではない。兆候というよりも、むしろ底にあるものを露呈すると言うべきかもしれない……」(一九六二年八月三十日、全集13、p.153-4) ここでまたもや精神と肉体との関係の問題に立ち戻る、と森は話を続けるが、今日の日記もひとまずここで終わることにする。
2003年09月23日
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試験の採点。講義で話したことへの反論は歓迎で中には読みごたえのある答案もあるのだが、説得力に欠ける。 ほめてもいいではないか、ほめられるとやる気がでることだってある→おいしいければいいじゃないか、発ガン物質が含まれていても、なんであったって。糖分を制限しないといけない? 塩分がいけない? おいしければいいではないか…といっているように聞こえる。 叱ったらいうことをきくのだからいいではないか→恐ければその場ではいうことをきかないわけにはいかないことはある。即効性はある。しかし叱ることの副作用は大きい。 何をもってほめるというのか、叱るというのか、定義もあいまいで、同じ言葉によって違うことを理解して議論していることも考えられる。しかし定義ができそうなものだが話はそんなに簡単ではなくて状況(言葉が発せられる対人関係)から離れて一律にこれはほめ言葉というふうには決められないので話はむずかしくなる。 高校のレポートも専門学校の試験も可能ならば日本語を徹底的に添削したいと思ってしまう。森有正によるとフランスでは実際そうするようだが、日本ではそんなことは国語の時間でなければしないだろう。原稿用紙の書き方も知らない人がいて、ここで直さなければ将来的に直されることがあるのだろうかと思ってしまう。息子が書いたものを見せてくれることがあるが、誤字脱字だけではなくてもっとふみこんで手を入れてほしいといわれたことがあってはりきって直したことがあった。内容的なことについてはこれとは別に議論することがあって、この時には内容までは踏み込まないのだが。僕自身についていえば、そういう指導を受けたことがなく、修士論文を書いた時に僕の文が長いことを指摘されて驚いたことがある。指摘されて初めて気づき、以来、意識して一文を短くするようになったが、もっと早く指摘してもらえてたらよかったとその時思った。 森有正の『生きることと考えること』少し進む。恋愛は男の個と女の個との関係である。だから孤独ということがなかったら恋愛は絶対ありえない、と森はいう(p.129)。ここでいう孤独は前に書いた本質的な孤独の謂である。個を貫けないと恋愛は本質的に難しい(p.130)。 このような孤独においては寄りかかるものが何もない。自分が自分で立っていなければならない(pp.130-1)。この孤独を前提として二つの魂が寄り合い、そこに恋愛がうまれ二人が結びつく。しかし結びついても孤独であることによる苦悩が消えるわけではない。だから二人を結びつけるものは実存的なものではあり得ない。ここまではわかる。しかし、森が、「しかしむしろ、肉体的な結びつきだけが、瞬間的にそのアンゴワッス(苦悩)を忘れさせる」(p.131)といっているところは議論が飛躍しているのではないか、と思うのだが、だからこそ恋愛には肉体の問題があって、肉体が非常に大きな位置を占めるという(p.129)。ヨーロッパ人は、肉体的に結びつくこと以外に考えないともいっている(p.129)。森はこれ以上論じられないというけれど、踏み込んで考えてみないといけないと思う。
2003年09月22日
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父が母の墓参りのためにやってきた。昨日更新したばかりという免許を見せながら最近の様子を語る父は前に会った時よりも元気そうに見えた。昨日は、京都市交響楽団の演奏会に行ったという。「どうだった?」「フォーレの『レクイエム』がよかった。レクイエムってどういう意味だ?」… 昔から父はクラシックが好きで、一つの交響曲が何枚にもわたって録音されている78回転のレコードをたくさん持っていたのを覚えている。「きっと生で聴いたのがよかったのかもしれないよ」「いやあ、私はだめだ。耳が悪くなって今はこちらの耳でしか聞こえないからモノラルのレコードを聴いてるのと同じなんだ」「そうか…でもいい曲は音質の悪いラジオで聴いても感動するね」 この話をしながら森有正の日記にラジオで音楽を聴いたとよく書いているのを思い出していた。立派なオーディオセットを持っていたとは思えない。プラトンのイデアの想起について考えるといつも音楽のことを思う。たとえ音質が悪くても、完全な音楽を想起しながら聴いている。ヴァイオリンを習い始めて間もない子どもの拙い演奏でもベートーベンの頭の中で鳴り響いていたのと同じ完全な音楽を想起することができる。「私が若い頃、入院していたことがあった」「よく覚えてるよ。M病院ね」「そう、その後、家で療養していた時に枕元にカセットデッキを置いていつも音楽を聴いていた。あれは何の曲だったかなあ、よく覚えてるんだが」 僕はこの時、父が何の曲のことをいおうとしているかわかってしまった。父は今は片方の耳でしか音楽が聞こえないことを話していたのである。「録音する時にステレオで録音していなかったことに気がついて、途中で設定を変えたんだ。すると聴いているとそこから突然音楽が両方のスピーカーに別れるんだ」「それはベートーベンの第3交響曲だよ。僕もよく覚えてる。どこの小節から音が広がったかも覚えてる」 これだけのことだが父と同じ思い出を共有できていることがわかってうれしかった。今も父の頭の中では「英雄」があの小節で、突如として暗闇から光の中へ出ていった時のような開放感とともに響いているのかもしれない、と思った。 試験の採点。遅々として進まない。
2003年09月21日
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クーラーをやっと止めることができた。降り出した雨のために途中で運動会が中止になった学校もあるようだ。 娘がフルートを吹いている。四月に初めて手にした楽器なのに夏が過ぎた今は耳障りではない、というかきれいな音を出せるようになっているので驚く。どんなことでも集中的に学べば短い間に成長できる。小さな子どもは一日一日新しいことを学んでいるように見えるし、実際そうである。僕が教えていた奈良女子大学の学生は四月にα、β…から始めて十月にはプラトンの対話篇をギリシア語で読めるところまでいく。僕も新しい外国語を学ぶとすぐに読めるようになった。大学生の頃、フランス語を学び始めて五月にはデカルトの『方法叙説』を読めるようになっていて、先生に質問に行ってあきれられた。その後もずっと集中して勉強を続けていたらどんなに力がついただろう、と思う。 このような変化とは違う変化がある。 森有正が、ノートル・ダムの裏手に新しく植えられた菩提樹の若木が成長していく様子を伝えている(『旅の空の下で』全集4、pp.6-7)。いつのまにか大きくなったのに、毎日見ている目にはその成長が見えない。しかし、確実に不断に成長している。 セーヌ川をゆっくりと動いているとも見えないほどの速度でさかのぼっていく伝馬船はいつのまにかはるか遠くに去っていく。「ノートル・ダムの苗木は知らぬ間に数倍に成長している。つい今しがた眺めていたのろのろと溯る伝馬船は、気がつかないうちに上流の視界の彼方に消えてしまう。それはまことに見れども飽かぬ眺めである。私の内部の何かがそれに呼応するからである」(p.10)「物が移っていくという絶え間ない時間の働き、あるいは「変貌」が経験の本質的な要素で、ただ、経験があると安心していては経験は体験になってしまう、と説明している(『生きることと考えること』p.114)。経験は堪えざる変貌である。新しい偶然的なものによって引き起こされる変化がなくても、経験は変貌し続ける。固定化の傾向がある体験とは違って、経験は不断の変貌としていつも現在である(『旅の空の下で』p.19)。 子どものようなもはや成長はしないけれどこのような意味での変貌を続けたい。ただ年を重ねればいいというものではないわけだが。
2003年09月20日
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集中講義が終わったので次は30日まで講義がないことを知った。校正刷りが届くまでに早く試験の採点をすましておかないといけない。 こんなことをいったらどう思われるだろうというようなことを考えていたら生きていけない。そんなことを今日は考えていた。目下、生きることに汲々としていているが、そんな中にあって、自分の思想を何かの形で残したいと思う。それはいうまでもなく大それた野心なのだが、プラトンやアドラーから学ぶことは多々あるしこれからもずっと学び続けていきたいが、自分の考え(思想という言葉が大仰なら)を持たないで生を終えたくはない。森にいわせれば自分の経験が成熟し自分の思想が中心になっていくということなのだが。 森有正の『生きることと考えること』(講談社現代新書)を再読しているが、ここで書かれていることの意味が、プラトン、アドラーを学んで、今再び、新たな光に照らされて僕の中に染み込んでくるように思う。 言葉として、例えば、「体験」は、経験の中のあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる、そのような時、私は「体験」と呼ぶ、他方、経験の中のある一部分が、特に貴重なものとして固定し、その人のすべての行動に支配するようになっている、あるいは、そのような経験の内容は絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立する、根本的に、未来へ向かって人間の存在が働いていくというような説明を(pp.96-7)今、僕は言葉としてだけではなく、きっと今、若い頃とは違った意味で理解しているように思う。 このことに思い当たってから僕は驚いてしまって、ちょうど中島義道の新刊を読み始めていたのに放り出してしまって森有正の本を読み続けている。「未来」ということについては森とは関係のないところで思い当たるところがあったのだが、こちらの方はまだここに書くだけ熟してない。ある洞察があった時の驚きは、「経験」についての時よりはずっと大きかったのだが。森のいう「経験」について『生きることと考えること』はわかりやすく説明していると思うが、考えることがたくさんあってなかなか読み進めることができないでいる。
2003年09月19日
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試験の答案用紙が送られてくる。試験の日が書いてあったので予想できたはずなのに突然届いたという気がしてとまどう。今日、明日という締め切りが設定しているわけではないのだが、LANに接続されているプリンターが送られてくるファイルを同時にプリントアウトできないように、優先順位をつけなければならない。もちろん、多くの場合、締め切りがある仕事が優先なのだが、原稿を書いている時などは順番がイレギュラーになることがある。できるだけ早く採点に着手しよう。 本質的な孤独ということについて書き続けているのだが、二宮氏の次の言葉が注目を引いた。森有正は絶対の孤独の中にあり、創造する者の避けがたい孤独を背負っていた…「とはいえ、―いかに孤独であるにせよ、人は生きている限り社会の中に身を置くより仕方がないのであるが―社会人としての森有正の姿は、いわゆる人ぎらいとか、感傷的に自分で自分を孤独だと思いこんでいる人間とは正反対のものであった。その人となりはじつに温かく、時には貪欲なまでに他人との接触を求めるのであった。友人にせよ、教え子にせよ、彼に親しく接した者は誰でも、楽し気で、優しく、ユーモアに満ちた彼の話しぶりに、しばしば打たれたものだ」(pp.180-1) 孤独の影を背負った禁欲的な森のイメージと実生活のイメージが時にあまりにかけ離れているように見えたという。私は孤独など大嫌いだといっている(『生きることと考えること』pp.69-70)。絶えず他人を意識している孤独は真の孤独ではない。本当の孤独は本当に恐ろしい、と。 森がいう孤独とは自分の経験を決して誰の経験とも置き換えることができないという意味での孤独である。しかし森が主観主義ではないというところを次に見ていこうと思って読み進めている。森は経験を「体験」から区別している。それは体験とは「似てもつかないもの」(『遥かなノートルダム』全集3、p.21)であある。「体験主義は一種の安易な主観主義に堕しやすいものであり、またそれに止まる場合が殆どつねである」
2003年09月18日
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柔整科一年生の講義を終了。後は試験。なんとか全員本試験の方で合格点をとってほしい。このクラスはどうかはわからないが、まったく準備しないで試験を受けたのではないかと思える答案があってがっかりすることがある。他方、読み終えた時、ほおっといってしまうような答案もあるのだ。僕が思いもよらなかったことが書いてあるのである。試験は教師の教え方が審判されるという意味もあるので、いつも採点の前も採点中も大いに緊張してしまう。 森有正がフランス語で書き残した日記を翻訳した二宮正之は『私の中のシャルトル』の中で頚動脈に変調をきたし少しずつ言葉を失っていった森の様子を伝えている(「詩人が言葉をうしなうとき」初出は『森有正全集』14巻付録、「森有正をめぐるノート14」)。「一九七六年十月十八日。森さんはすべての苦しみから解放された」(p.198) 前に森の言葉を引いた。「死が絶対の孤独であるとすると、生の中からはじまるこの孤独は死の予兆である」(『流れのほとりにて』p.254)。この言葉に続いて森はこういっている。「しかし生の中にはじまるこの死は、生の終りとして来る死と何とちがうことだろう。死を生きるということは、そのはてしない苦しみにもかかわらず、何という慰めに充ちたものであろう」(ibid.) 森は三百五十本からのパイプのあるオルガンを残した。それを二宮が預かっていた。ある夜、二宮の夢の中に森が浴衣姿で現れた。しかしオルガンに向かって弾こうとするのだが、どうしても音が出ない。一体どうしたのかという面持で眼光鋭く二宮を見つめたところで森の姿はすっと消えた。 僕はこの夢に神秘主義的意味づけはしないのだが、この夢の話を筑摩書房の小宮氏に語っていた時のことは興味を引いた。森のオルガンの前に据えられた食卓で食事をしていた。話をしていると小宮氏の顔が土気色になり、アッ! アッ! といってオルガンを指した。見ると、手用鍵盤のキーが一つまた一つと音もなくゆっくりと上がったり下がったりしていた。 原因はすぐ知れた。二宮のかわいがっていた猫のソクラテスが脚用鍵盤の上を歩き、それが連動装置によって手用鍵盤を動かしたのだった。「しかし」と二宮はいう。「それですべてが明瞭になったと言えるのであろうか。ソクラテスが…折りも折り、まさにその夢の話をしている時に、それまで上ったこともないオルガンの脚用鍵盤の上を歩いたのはなぜか。それはやはり謎である。デカルトも森さんもそれは謎だと言うに違いない」(p.199) * * * * 森有正が今は莫大な情報が入ってくるが間接的な情報なのに、あたかも自分で見たことのように語ることの危険について語っている(『生きることと考えること』p.192)。そういう情報でもつじつまをあわせることはできるかもしれないがそれではいけないのだ、と。 パスカルがこんなことをいってる。「ロンドンに火事があった。自分は見たわけではないのに、一人の人がそういうと、はて、そうかなと思う。二人目になると、もうあったという確率がましてくる。そして三人目になると確実になってしまう」 森はこのパスカルの言葉を引いてこんなふうにいっている。「つまり情報というものは、ある程度頻繁にはいってくると、自分はじっさいには見なくても、それによってその人の考えそのものに変わってしまうようなものです」(『生きることと考えること』p.192) 人の考えですましてはいけない。さらに別のところではこんなことを森はいっている。「大切なことは、デカルトのように、生きる(「生きる」に傍点)ことであって、デカルトを論じ理解することではない」(『砂漠に向かって』全集2、429) これはポール・ミュスの言葉を森が引いたものだが「私はこの一文に非常に打たれたのである。感覚と生活、言いかえれば経験の中に必要なものは在る。それなしにはあらゆる議論も説明も空しいのである」(p.430)といっている。「更に極端に言えば、議論も説明も本当は要らないのである」と森はいうが、たしかにここまでは僕はいえない。
2003年09月17日
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午前の講義は毎回ハードな話を続けたので、いつもと違った趣の話をした。ある先生の話。先生らしくないので(こんなふうに書くと先生らしい、って何ということになるが)経歴をたずねると、教育大学の出身ではなく、私大の文学部を卒業したが、その頃になって教師になりたいと思ったという。そこで通信制の大学で教員免許を取った。先生はなぜ教師になろうと思ったのですか、とたずねたら、小学校の高学年の時に低学年の子どもの世話をしたことがあったがその時のことが忘れられなかったのと、大きな台風があって家が洪水の被害にあった時、まだ小さかったが、小さかった故に大人が入れないようなところにもぐりこんで泥を洗い流す手伝いができた時の感覚が忘れられないというような答えが返ってきた(この後のエピソードと先生になろうと思ったこととがどうつながるのかはすぐにはわからなかったが…)。僕が本の中で書いた貢献感という言葉でこの時のことを思い出すとのことだった。こんな話から今日は始めた。 午後の講義は11回目で残すところ後一回になった。講義の後、試験のことをたずねにたくさんの学生が教壇のところに集まった。一人の学生が「先生にとって『幸福』って何ですか?」と質問するので驚いてしまった。講義では直接このテーマについて話してなかったからである。多くの学生が真摯に講義に臨んでくれる講義をしていて快適なクラスだったので明日で終わるのが残念に思う。朝方、ようやく試験問題を作成した。 森有正の1967年3月28日の日記(『砂漠に向かって』全集2,p.317)。「灰色の陰鬱な日々に耐えることが出来なくてはならない。というのは、価値ある事が発酵し、結晶するのは、こういう単調な時間を忍耐強く辛抱することを通してなのだから」。よい作品が書けるのは、熱情や霊感によるのではないことを森は注意する。 今日はこれまで考え続けてきた二つのことについて突如として(もちろん霊感ではない)理解できた(ように思う)。まだここに書くところまでにはいっていないが、一つは次回本を書く機会があれば是非書いてみたい。一つは森有正のいう「経験」について。後で読めないかもしれないと危惧しながらあふれる考えをノートに書き留めた。 森のフランス語で書かれた未公刊日記の中にローマ字で記された日本語がある。Tsukareta ashi-o hikizutte Ivry e kaetta.(疲れた足をひきずってイヴリへ帰った、全集13,216ページ)授業を終えた時、へとへとになっていた、という記述の後に突然ローマ字でこのように記されている。僕は森の孤独をここに見る。しかしそれは淋しいという意味でもなく、自分のことが理解されないという孤独でもなく(あるいはそういう意味をも含むといっていいのかもしれない)いわば存在論的な(森は本質的という言い方をする)孤独である。私の経験は、他人の経験によって置き換えることができない。孤独は経験そのものであり、孤独であるということが人間であることだ、と森はいう(『生きることと考えること』p.59-60)。
2003年09月16日
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世の中全員が野球に関心があるかのような報道。柔道の試合の真っ最中に優勝が決まり画面が切り替わった。娘は(試合に出ている)親戚の人はさぞやがっかりだろうね、と憤慨していた。ハレー彗星や皆既日食並の希有な自然現象のようにいわれているのも阪神のことをよく知らない僕にはわからない。前の優勝がずいぶんと前のことだったからか。選手の力と適切な指導の方法が確立していれば、いい成績を取ることが一年限りということはないように思うのだが、野球のことについてはよくわからない。 進学校といわれる学校では難関の試験を経て成績のいい生徒が集まるので入学試験でいい結果が出ても当然のように思われるかもしれないが、それだけではないようだ。指導法が長年の試行錯誤の末、確立されなければならない。しかし受験についてはただ大学に合格すればいいかといえばそういうものではないので(と僕は考える)、一人一人の生徒に応じて今後の人生のことまで視野に収めて進路指導すれば、受験者(合格者)が特定の大学に集中するはずはないのだが。『森有正全集』を2巻まで読み終え、3巻目へ。一度読んだ本を読み返すことは実はあまりないのだが、長い年月を経て読み返すと発見するところが多い。存命中は肉声すら聞く機会がなかったが(ひょっとしたら森の集中講義が僕の在籍していた大学であったのかもしれないのだが)、集中的に読んでいると森の人格に触れているような思いがする。 夢の中で娘に会った話。森は娘に問う。「私の子供、私はお前を愛しているよ、お父さんだからだよ。私を愛しているかい。」二、三度質問を繰り返す。「彼女が一言も言わずに凝結したようにその場に凝っとしていたからだ。だが私は、この不動の姿勢が積極的なものでないのが判っていた」(『砂漠に向かって』全集2、p.353)これを森は拒否と取る。「子供もまた出発してしまっていたのだ」(同ページ)。このような記述はいうまでもなく若い頃わからなかった。 L嬢のこと。ある日講義の後、長いこと話した。森は現代日本語の勉強を充実させるようすすめた(1967年3月11日、p.307)。そのLが(おそらく)電話をかけてきた。サン・ペール通り、医学部前の喫茶店で会った。「何の用事ですか?」「ただちょっとお話をしたいと思って、……」森はこう書いている。「彼女は自らの道を行くであろう。まだまだ彼女は若い。人生のあらゆる試練を通らなければならない。近道を求めてはならない。彼女自身の人生を創らなければならない」(同年6月7日、p.374)息詰まるような二人のこの時の様子が僕には見えてくる。森が愛を求める娘は離れていき、森を求めるLを森は拒む。二時間僕の前で泣き続けた人のことをふと思い出した。
2003年09月15日
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つかの間の平穏な日々を過ごしている。明け方近くまで本を読んだりして過ごしていたが締め切りの迫る原稿がないので圧迫感はなく、横になったら本を1ページも読まないうちに寝てしまったようだ。 森有正の続き(『城門のかたわらにて』)。愛の問題はこれまで意識的に避けてきた。間接的に暗示したにとどまった。しかしこの問題は自分にとって根本的な問題で『バビロンの流れのほとりにて』以来の著作はすべてこの愛という通奏低音の上に成り立っていると森はいう(pp.135-6))。「孤独の問題は愛の問題に他ならない」(p.135)。昨日別の本から引いた「死が絶対の孤独であるとすると、生の中からはじまるこの孤独は死の予兆である」(『流れのほとりにて』p.254)という言葉と重ね合わせると、愛と死は孤独を媒介として結びつく。あるいは、プラトンの対話篇の例えば『饗宴』と『パイドン』が一方は愛(エロース)の問題、他方は死の問題(魂の不死)を論じていることが示唆しているように、愛と死は同じ孤独の生と死における現れであるといえる。「愛は自由を求めるが、自由は必然的にその危機を深める」(p.136) 相手に縛られることなく自由でいられる時、相手の愛を強く感じる。だから私もあなたにそうしようと思う…束縛や拘束、支配はかえって愛を損なう。ところが自由でいられるることは、双方にとっていえることだが、目が相手ではなく他者に向くことを可能にすることになる。他の人を相手が愛するようになるかもしれないのだ。そういう事態をも受け入れられるだけの度量があればいいのが。相手が新しい愛を喜んでいるなら、そのことにこそ喜びを感じたいからである。実際にはむずかしいだろう。
2003年09月14日
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カウンセリング2人。今日は出かける必要がないので昨晩は気分的にゆっくりできるはずだったのになぜか気持ちが高ぶって朝方まで眠れなかった。書いてしまった原稿への後悔の気持ちしきり。そして、医院を退職してからの数ヶ月、誰にも(編集者にも)相談することもなく、毎日明け方まで『アドラー心理学入門』執筆の準備のための読書と執筆に費やした日々のことを思い出した。脱稿後、すぐに編集者から可否の連絡がこなくて不安に思ったこと、校了後書店に並ぶまでの不安な日々、ウィーンで読者カード(本に挟まれいたアンケートのはがき)を初めて受け取った時の喜び…などを思い出した。1999年のことだった。 12日。向井伸二死刑囚の死刑が執行された。森山法相が死刑執行を命じたのは在任中3度目(計5人)。過去20年間で3回以上、死刑執行命令書にサインした法相は初めて、と朝日新聞に報じられていた。「法律がある以上、法務省は死刑執行する立場だ」と法相はいうが、これだけの人が自分のサインによって死刑になったことについてどういう思いなのか知りたい。 この人は死刑が確定後、七年間、執行の日を待ち続けた。ある日、突然、死はやってきた。考えてみるまでもなく、これは人であれば皆同じである。 昨日、日記に引いた森有正の言葉を読んだ若い友人はいった。「人って孤独ですね」と。「死が絶対の孤独であるとすると、生の中からはじまるこの孤独は死の予兆である」(『流れのほとりにて』p.254)。
2003年09月13日
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今週は三回講義したのであっという間に10回目の講義を終えた。来週、2回でこのクラスも終わってしまう。継続中の教員養成科の講義はまだ続くが今月の終わりからは鍼灸科2クラスの講義が始まり、12月まで続く。 息子のコンピュータのハードディスクの交換とOSの再インストール完了。インストールの時点でつまづいてしまってサポートにメールで質問を入れたが最初のは理解できず(CMOSクリアについてボタン電池を外す以外のソフト的な方法があるようなことが書いてあったにもかかわらずその方法がどこにも書いてなかった)二度目のメールを待ったり、僕が多忙だったこともあって新しいハードディスクが届いてから10日くらい経ってしまった。今日はカバーを空けて電池を外そうとしたらプラスティックドライバーを使ってとマニュアルに書いてありつまづいた。そんなもの普通ないと思うのだが。サポートのメールにはそんなことはどこにも書いてなかった。なんとかこの問題はクリアできOSのインストールに成功してうれしい。後はもう僕は知らない。 森有正が(亡くなられた娘とは別の)娘のことについてこんなことを書いている。「娘が余り僕を愛しすぎぬよう気をつけなければならない。かの女は自分で自分の道を見出さなければならない。僕の内面は一切かの女に影響をあたえてはならない。友人も恋人も、相談相手も父の外に求めるようにしなければならない。僕と娘とのきずなはすでに余りに強すぎるのだ。いつも静かに存在している父。僕はそれだけで、その框をこえないように全力をあげて努力しなければならない」(『流れのほとりにて』p.388) 中島義道の新刊を読んでいる影響かもしれないが、僕は自分が愛の薄い人間のように思ってみたり、森がこうあってはならないといっている逆のこと、つまり娘への現状の思いは僕の子どもたちへの思いに相通じるものがあると思ったりもする。僕の内面が子どもたちに影響を与えることができたら、ときっと思っているし、息子が(毎日新聞の記事でわかったのだが)クラブを辞めることについて僕には相談しなかったことを残念に思ったのも本当なのである。それなのに僕も静かに存在している(森は「存在」に傍点を打っている)父であるべきだと思ったりするのだ。
2003年09月12日
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プレジデントの原稿の校正。FAXとメール、電話で編集の大内さんと何度かやりとりをした。それほど長い記事ではないのですぐに見終えるかと思っていたが時間がかかってしまい、締め切りぎりぎりまで時計を見ながら手を入れることになった。一つ一つの記事に驚くほどの労力と時間がかかっている。 夜、尼崎で保育士研修会。プレジデントの原稿で書いたのだが、仕事がマンネリに感じられたらという話を出したが、そういう感覚とはどうやら彼女たちは無縁のようだった。後、罰の話(これは僕の中でずっとまた問題としてあり続けている)。親の子どもへの影響についてなど。帰り、台風の影響か強い雨。 ニューヨークのテロから二年。あの日、僕はロンドンから帰ってきた。僕が日本を離れていることを知っていた人たちから安否をたずねる電話やメールがあった。ニューヨークの友人とは考えてみればその日から数えてももう二年も連絡を取っていない。 研修の帰り、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』を読了。続いて『流れのほとりにて』。亡くなった娘のことを記した手紙を読む。「死人を呼びかえすことができなければ、自分が死の中へ入って行くほかないだろう。どうしてこんな簡単な真理が判らなかったのだろう。僕はそう思った。しかし言葉だけでは何もならない。どうしたら死の中で入っていけるのだろう」(pp.223-4、全集1巻) 池田の小学校で子どもを亡くした親のことを思った。ニューヨークの世界貿易センタービルで愛する人を失った人のことを思った。
2003年09月11日
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今日も講義。講義が終わってから質問を受ける。正当な罰があるのではないか、と…。昨日、プラトンの刑罰論について講義した。応報ではなく教育刑を主張するのだが、晩年徳を理知と情念の調和と考えていたプラトンは(この点については解釈は多々ある)情念の部分には知的な手段ではだめで、罰(苦痛)を加えなければならないと考えていたようなのである。 ようやく、本の原稿、ゲラを出すところまでこぎつけた。書き上げたと思ってからの方が長くて苦労した。 プレジデント社から原稿が届く。明日の昼までに校正しないといけない。 さらに昨日の続き。 最初から関係を悪くしたい人はいないだろう。関係をよくしたい、気に入られたいという思うだろう。これが「意志」である。しかし、次の問題は意志だけでは愛は成就することはないということである。 ここまで書いた後、学校の帰り、本屋に立ちよったら、中島義道の新刊を見つけた。『愛という試練』(紀伊国屋書店)。自己愛があまりに強くて人を自然に愛することができない、と中島はいう。愛について書いてみたいと思うけれども、自分のことを語らずには書けないと思うと躊躇してしまう。なのに中島はこの本でも自分のことを語り、親のことを語り、家族のことを語っている。読んで気分はよくはならないだろう、と思いながらも読むことにした。サブタイトルは「マイナスのナルシストの告白」。マイナスのナルシストは、自分の姿に見とれるのではなく、むしろ振り払いたいほど嫌である(p.12)。
2003年09月10日
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休みをはさんで今日から来週の水曜まで(残り)5回の集中講義。クーラーは効いているとはいえ、講義をするのも聴くのもかなりきつい。熱心に聴いてもらえてありがたかった。間があいてしまったので感を取り戻すのに少し時間がかかった。 携帯電話がいよいよ壊れたようで故障しているか店に確かめにいった。前から雑音がひどいという指摘を受けていたが、今日は僕の声が聞こえないと指摘されたのである。空いての声は聞こえていたのだが。すぐに故障だということで同じ機種があるので交換ということになった。1000通近く保存してあったメールや写真が一瞬で消えてしまった。電話番号やメールアドレスなどは残ったが、予想していない展開だったので(新しい機種に変えないといけないのなら古い方は持ち帰ろうと思っていた)喪失感が大きい。 昨日の続きだが、愛が感覚や感情の問題であれば、自分の「意志」(この人を愛そう)とは関わりなく、好きになったり嫌いになったり無関心になったりすることになる。あなたのこと好きではなくなりました、という言い方は聞きようによってはずいぶん都合がいいし、無責任に聞こえる。やはり私がこの人を愛する(あるいは愛さない)と決断すると見るほうが愛について正当な説明になるのではないか。 とはいえ、前に保坂和志の『カンバセイション・ピース』を引いたことも考えないわけにはいかない。「愛するっていうのはそういうことなんだ。愛っていうのは、比較検討して選び出すものじゃなくて、偶然が絶対化することなんだよ。誰だって、親から偶然生まれてきて、その親を一番と思うようになっているんだから、それが一番正しい愛のあり方なんだよ」(p.71)。 偶然、出会った人のことを好きになるというようなところはあるだろう。これは意志というよりは恋に落ちるというような表現がふさわしいケースかもしれない。その人を好きになる理由が相手の方に備わっていたのだから、意志ではない? しかし見方を変えれば(恋愛の渦中にある人は認めがたいことであろうが)偶然会った人を愛する時には「意志」の力が働いているといえないわけではない。なぜなら今とは違う対人関係の中では別の人を好きになったかもしれないからである。愛する対象の違いというより、違う人でもこちら側の愛する「意志」があったから偶然出会ったこの人のことを好きになったというふうに説明できるかもしれない。 しかしそんなふうに愛されているとしたら、「他ならぬ私」が愛されているわけではないというふうに愛される側は思うだろうか。 目下、複数の(かなり多い)仕事が重なってパニックになりかかっている。To Doリストをきちんと書いてみたらやはりため息。
2003年09月09日
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平成医療学園専門学校の最終講義。連絡先を教えてほしいという学生に名刺を渡しているのを見た学生が僕にも、と何枚くらい渡したか、かなり渡したように思う。後期は講義は少なくなる。平成も聖カタリナ女子高校も終わり、明治東洋医学院の講義が12月まで続く。今週来週は集中講義なので週に三回出講するが、それも終わり、9月の終わりからは火曜日だけの出講(ただし3こま)でいい。集中講義の試験作成、追試の採点が木曜まで、プレジデント社の原稿の校正がやはり木曜まで、と少し予定が立て込んでいるがなんとかなるだろう。 学校の帰り、中根先生の鍼。治療の途中で「来週は原稿の仕事終わりますか?」とたずねられる。「できたら低周波(治療)はやめたいのですが、まだ仕事が大変なようだったらしないといけないかと思って」。仕事の調子が如実に身体に現れるようだ。 郵便局に立ち寄る。2日に給料が現金書留で送られてきていたのだが取りに行く余裕がなかった。昔、京大の教授たちはいつまでたっても事務室に給料を取りにこないというまことしやかな噂があった。給料がなくても生活に困らないのだ、とか、それくらいの経済的余裕がないと研究者になれないのだ、というような話だったが、それなら僕には無理だな、と後何枚コピーできるのだろうか、と財布の中身を調べていた僕は思ったものだ。現金書留を取りに行かなかったのはもちろん生活に余裕があるからというわけではない。 前に別のところで書いたがカントは愛について次のようにいう。「愛は意志に属する事柄ではなく、感情に属する事柄であって、愛しようと思って愛せるものではないし、ましては、愛すべきだからといって愛せるものではない。だから、愛する義務などというものはありえない。好意なら、それが行為となってあらわれるとき、義務法則を適用することもできるのだが」(カント『道徳の形而上学』) 愛すべきだといわれても愛せるものではない。愛するべきだからといって愛するような愛は愛ではない。そこで、愛は義務法則の適用外であり道徳論の外に置かれることになる。ならば、と長谷川宏はこういっている。「が、ならば、人間論や感情論においてままならぬ愛を縦横に論じたらいいではないか。だって、好意と愛を比較すれば、それゆえに論じにくく、だからこそ論じてみたいと思わせる主題なのだから」(『哲学者の休日』pp.189-9) 愛は意志に属する事柄ではないというカントの論点はよくわかる…ところが、帰り、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』を読んでいたらこんな一節に出会った。「僕は今以外に新しい愛を求めるということは決してないだろう。僕は自分がはたして愛に耐えることができるかどうか、ただそれだけを自分の根本的な問題と考えている。愛が感覚や感情の問題ではなく、意志の問題だという結論にだんだん近づいてゆくようである」(pp.104-5) 森は愛を意志の問題という時、「義務」という意味で使っているのではないと思うのだが、なぜ森がこのような結論に近づいていくようだといっているのか注意して読み続けてみよう。
2003年09月08日
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原稿を出し終わった時の高揚した気分は朝目が覚めると飛んでしまったが、久しぶり気分が落ち着いていた。講演をキャンセルしたお詫びにとわざわざ挨拶にこられた人があって恐縮。アポイントメントなしの訪問には驚いたが。 刑事裁判の審理に一般の人が加わる裁判員制度の道入が検討されているようだが、昨日、息子と話していていろいろ問題があることがわかった。この制度はアメリカの陪審制とくらべられるが、教育のバックグラウンドが大きく違うのであり、たしかに憲法については学校で学ぶが民放や刑法はあまり取り上げられることはない。法教育が未整備であるという問題が一つ。 次に、そもそも量刑判断に一般市民が踏み込むとしたら専門知識のない市民がそういう判断をすることは可能かという問題がある。 また、これは知らなかったというか気づかなかったことなのだが、裁判員は有権者からの無作為抽出なのである。ということは当然、裁判員は日本国籍を所有しているのでなくてはならない。被告人が外国人である場合、偏見なしに公正な判断ができるのかはむずかしい問題である。「ねえ、僕は会社に所属してないからなんとかなるのかもしれないけど、もし裁判員に選ばれ何月何日に裁判に出るようにという通知をある日突然受け取ったとしたら、会社は休業を認めてくれるの?」」「そのことを拒否してはいけないということはいわれると思うし、解雇されるということは禁止されるはず」「でも長期にわたる裁判になったら?」「そこが一つの問題で、そういうことにならないように審理を数日でまとめて行うといううんだ」「審理が長期化するのも問題だけど短ければそれはそれで問題が出てきそうだね」 こんな話を息子と深夜にしたのだが(ディベートのために遅くまで調べていたようだ)、さて文化祭のディベートはどうだったのだろう。 前に書いたが、アリストテレスもソクラテスと同様不敬罪で告訴された。しかしアリストテレスはアテナイ市民ではなかったので裁判を受けるという選択肢はなく、アテナイを去るにあたって「アテナイの人たちが哲学に対する二度目の罪を犯させないように」といったという話がある。もちろん一度目の罪はアテナイ市民がソクラテスを死刑にしたことである。 僕はいつも理性とか知性とか強調しすぎるきらいがあると思われるかもしれないが、裁判でソクラテスは陪審員の感情に訴えることもできたはずだし(私が死んだらこの子たちは路頭に迷うというふうに)、あるいは、ソフィストの如く、言葉巧みに流暢に演説することだってできたであろうに、そんなことをせず、普通の言葉で、まっとうなことを真っ正面にいってのけたソクラテスは陪審員の心証を悪くしてしまった。日本の栽培員制度がそのような誤りを犯すことがなければと思う。
2003年09月07日
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何度目かの書き直し。もう最後、後二行ほどを書いて終わろうとしている。今、書きたいことは書き尽くしたように思う。願わくば早く出版にこぎつけ、多くの読者の目に触れることを。 ソクラテスが法廷での弁明演説の最後にこういっている。「しかし、もう終わりにしよう。時刻ですからね。もう行かなければならない。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりとはわからないのです、神でなければ」(『ソクラテスの弁明』42a、田中美知太郎訳) 生きることは苦しい。(16:34追加) 原稿を送信した後、気分が高揚して(ライターズハイ?)なかなか眠れなかった。そのうちうとうとしていたらプリンターが動き出す。息子がまだ起きていた。裁判員制度をめぐってのディベートに参加することになったらしく(文化祭?)資料を用意し、論点を整理していたらしい。話を聞くとこの制度にはいろいろ問題があるようだ…話はおもしろいけど4時。7時には起きないといけないらしい。僕はでもその後もなお眠れず。 息子のハードディスクの交換。少し余裕ができたので勇気を出して取り組む。思いがけず簡単に交換できたのだが、その後のWindows XPのセットアップで行き詰まっている。あいにくサポートは今日は休みで受けられず、即日返事をもらえるというe-mailサービスを利用したがはたしていつ返事がくることか。
2003年09月06日
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今日も朝からずっと仕事。出口が見えた感じでかなり進む。この感覚がつかめるまで時間がかかることがある。今回は苦しかった。 昨日は携帯に届く迷惑メールのことを書いたが、電話にはたびたび押し売りの電話がかかる。娘が上手に処理してくれているのだが迷惑この上ない。息子に「うちの電話は電話して誰も出なくてもFAXに切り替わるアナウンスが流れてそれだけで少なくとも10円は取られるねえ」といったら「だから、それが迷惑電話の予防になるんだ」と息子。なるほど、出ないのに(実際昼間はダイニングにある電話は誰も出ないだろう、非通知の大体出ない)お金がかかるようでは困るだろう。もっともそんなことで電話をやめるほど良心的(というのかどうかわからないが)なところはないのかもしれないが。 仕事の合間、合間に保坂和志の小説を少しずつ。『この人の閾』読了(文庫で70ページほどの作品)。十年ぶりに一年先輩の女性の家を訪ねるという設定だが、何か起こるかと思って(そういう発想で読むのはまちがいだろうが短編なのでなおさらイベントを期待してしまった)読み進んでも何も起こらないといえば起こらない。あれあれと思っているうちに終わってしまう。なのに不思議に心に残り、僕は読みながら大学の頃のこととか(唐突だけど)雑草を抜いた時の感覚とかが蘇ってきた。 突如として始まる哲学の議論は興味深い。ヨハネ福音書の冒頭(「初めに言葉があった」)の解釈。言葉には命があってその命は人の光で、光は闇の中で輝いた。「だから言葉が届かないところっていうのは”闇”なのよね。そういう”闇”っていうのは、そこに何かがあるんだとしても、もういい悪いじゃないのよね。何もないのと限りなく同じなのよね」(p.75) 夜中に保坂氏のインタビューを読んだ。出し惜しみしないで、「今ある力で書き尽くすようにしないと、次の作品は書けないと思うんです。ネタを温存していると、今書いている作品がモノにならない。逆に、「もう書くことが何もなくなった、この先自分はどうするの?」と思うくらいシッカリ出すように心がけると、次が出てくる」。なるほどそういうことか、と今の僕にはこの言葉は心を打った。
2003年09月05日
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今日は出かけず一日仕事。なかなか思うように進まない。そうこうするうちに他の仕事も入ってくるので早くなんとかしないとパニックに陥るだろう。 このところ携帯電話に届くメールが心を騒がせる。迷惑メールがたくさん毎日届くのだが、最近多いのは有料サイトの利用料の振り込みが滞っているので至急振り込むようにという類いのもの。もちろん利用した覚えはないのだが、口座番号は書いてなくて直接連絡をするように、とあって、(一番不愉快だったのは)「なおご連絡等なき場合、個人情報等すべて売却し御自宅へ訪問させて頂きます」というようなことが書いてある。僕はコンピュータからの受信は拒否する設定をしているので、携帯電話から送られてきていることになるのだろうがこういうメールは大量に出しているとしか思えない。携帯電話会社に問い合わせると、コンピュータから一括して送っているはずだという。「別の携帯電話会社からのメールがくるのですが」「それはなりすましです」「おかしいじゃないですか」「...@xxxx(携帯電話のアドレス)になっていたら(コンピュータ経由でも)携帯からのメールとして通してしまうのです」こんなふうに連絡してみてもいっこうに埒があかない。誰かが僕の携帯電話の番号とアドレスを使って複数の有料サイトに登録しているのではないか、というようなことを考えると、実際にそんなことができるかどうかというようなことはともかく、ひどく憂うつになってしまう。ちょっとしたことで少し幸福になるが、ちょっとしたことでそれに釣り合わないほど不幸になってしまう。 部屋の電話機を替えた。電話機の故障していると思って替えたのだが、替えても発信音がする時としない時がある。いろいろ調べて結局電話線に問題があるとしか考えられず数メートルある線を替えたら復旧した。もともとあまりかかってこなかったが(公開していないので)また電話が鳴るようになった。講演のキャンセルの電話が朝からかかってきて憂うつ。私が休んでいる間に別のものが依頼したようで…でも今回は他の人に…縁がない時はないものである。また別の機会に引き受けてもらえるかといわれるので、もちろん喜んでお引き受けする、といったし、呼んでもらえたらうれしい。
2003年09月04日
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今日も暑かった。高校の時、ある年ひどく残暑の厳しく一週間ほど臨時で休みになった記憶がある。そんなことを思い出させる日だった。 保坂和志の『カンバセイション・ピース』の続きを少し。昔、朝の連続テレビ小説に川端康成の小説が取り上げられたことがあった(「たまゆら」1965年)。これが不評だった。何も(事件が)起こらないからというのがその理由だったと記憶しているが、考えてみれば人生はいつも次々に何か大きな出来事が起こっているというわけではない。ドラマを見ていると、大声で叫んだり、泣いたり、殴ったり、なかなか華々しい。そんなことはあまりないのではないか。何も話さなかったりぼそぼそと話したりしているように思う(ついでながら殴ると、殴られた人は目覚めるというストーリーはどうかと思う)。 保坂の小説はこの「たまゆら」のことをふと思い出した。もっとも僕の記憶はきわめて曖昧でこのドラマを見ていたとは思わないのだが(この保坂の小説でも過去の記憶が揺らぐ話がよく出てくる)。猫の話だったり、横浜ベイスターズのことだったり…鎌倉の花火しか知らない人が鎌倉が日本一だというのはおかしいという話があって、その流れで突如としてこんな話になったりする。「愛するっていうのはそういうことなんだ。愛っていうのは、比較検討して選び出すものじゃなくて、偶然が絶対化することなんだよ。誰だって、親から偶然生まれてきて、その親を一番と思うようになっているんだから、それが一番正しい愛のあり方なんだよ」(p.71)。 この小説の評価は、こういうやりとりが楽しめるかどうかにかかってくるといえるかもしれない(親を一番と思ったりはしないと思うのだけれど)。 保坂が芥川賞を受賞した作品を収めてある『この人の閾』(新潮文庫)を見つけたので手に入れた。解説は大貫妙子。保坂はHPでこういっている。「私の小説の読者の傾向を入力すると(私のアタマに)、大貫さんは私の読者であってもいいはずという答えが出てきた。実際には大貫さんは読んでいなかったけれど、読んで快諾してしれた」。「私の読者であってもいいはずだ」というようなことをいってみたいものだ。すぐに読みたいところだが、今は余裕がない。
2003年09月03日
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今日から教育心理学IIの講義再開。プラトンの『国家』の洞窟の比喩を説明しながらプラトンが教育について考えていたかという話をしてみた。もう一つのトピックは死刑制度について。犯罪者は勇気をくじかれていて、アドラーの言葉を借りるならば、人生の有用でない面で優越性を追及しているということができる。有用な面ですぐれていようとするには努力も忍耐も必要だが、そんなことはできない、と思い込んでいる人が、安直な(しかしあまりに犠牲が大きい)方法で優越性を追及しようとするところが問題である。このような人が犯罪を行うことがないように「予防」しなければならない。これこそまさに教育である。 この流れで考えるならば、犯罪を犯した人にはもし刑罰は適切な方法とはいえないだろう。今後同じ犯罪を犯さないという意味での更生、教育としての刑というものがあれば(教育刑)いいわけだが。実際、プラトンは教育刑を提唱している。 こんな話などをしたのだが、休み明けの講義にひょっとしたらこないかもしれないと心配していた学生がやはりきてなかった。不在の学生が気になるというのも困ったものである。学生たちが講義をどう受け止めているかつかめなくて、これからも僕が講義するのでいいのかという話し合いも休み前にしたようにしないといけないのだが、こない学生がいるとプロテストなのか、と思ってしまうのは困ったものだ。 森有正の『バビロンの流れのほとりにて』を電車の中で。朝、早く起きなければならなかったのでほとんどページが進まなかったのだが。今、読んでいるところは1954年の日付になっている。著者43歳なので僕よりも年下ということになる。森は「僕はもう別の新しい僕自身も、新しい仕事も、新しい愛も、求めて右往左往しないだろう」(p.97)といっているが、僕はいまだに右往左往としているように思う。 同じく電車の中で『カンバセイション・ピース』(保坂和志、新潮社)。大事件とか今のところ起こりそうにもないが、交わされる会話がなかなか味があっておもしろい。目下、小説を読む時間はまったくないのだが…。 息子のコンピュータはHDに障害があった。サポートに電話をしたらたちどころにしてわかった。明後日、新しいHDが届くので交換してOSを再インストールしないといけない。まだこの電話の結果を報告しただけだが、僕に依頼してくるかもしれない。でも時間がない。どうしたものか。
2003年09月02日
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今日から講義。まだ今週は本格的には始まらないが来週からは集中講義の続きがあって何日も出講することになっている。休みを挟むと感覚が狂ってしまっていて、なんでもなくこなしていたルーチンがうまくこなせない。教室の場所を忘れ、マイクのスイッチの入れ方を忘れ…と。今日は、休み前に話したことをふりかえることにした。 帰り、中根先生の鍼。疲れてますね、といわれた。背中がひどく張っていた。時間をかけて治療。先生のおかげで生き長らえているという感じである。 昨日の続きだが、もしもアリストパネスがいうように失われた全体性を取り戻すことがエロースの本質ならば、自分の失われた半身を見つけ出しそれと一緒になったらそれで自己完結することになってしまう。そうなると二人はただ抱きあっていれば満足なので、そこから先へは進まないことになってしまう。 ソクラテスは、レベルの違いはあっても不死と不滅を求めることを根本にした美しきものにおける生産にエロースの本質を見ているのである(子どもを産み育てること、すぐれた精神の中に産む=教育)。 帰り、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』。初めて読んだのは大学生の頃だったと思うが、今はきっとその頃よりもよくわかる。でもその頃、惹かれた言葉には今も惹かれる。「僕の若い日の熱情は、学問と音楽と、そして、美しい人と一緒にいて話をしたり信頼し合うことだった」(全集1,p.61)。この作品は「君」に宛てられた手紙という設定である。ふとこの「君」は女性なのかも、と思った。どこにもそんなこと書いてないのだが。「三年も前に君は、ジイドの本「テゼ」にRETOURという字を書いて、くれたことがあった」(p.79)というふうに時々登場する。 ロンドンの記述を読んでいたらぼんやりしていて寝てたわけではないのにしっかり帰りの電車、乗り過ごしてしまった。
2003年09月01日
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