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今日はカウンセリング。自分が親に似ているということがあるかという話。実際に似ているというより、むしろ自分が親に似ているところを探しているというのが本当なのかもしれない。多くの場合、似てほしくないところが似ていると思える。 しかし、実際似ているかどうかといえばたしかに似ているところはある。それは遺伝によって似ているというより、小さい頃から親のしぐさ、話し方、表情…そういうものをつぶさに観察しているので知らない間にまねているのだと思う。本人が気がついていないこともある。私はあの親の話し方がいやでしかたないのですという子どもが実は(親と面接したらわかるのだが)親とまったく同じ話し方をしているということがある。本人がいやだと思っていたら似ているとは思わないだろう。そんな時、そんなことはない、似ているといってもあまり意味がない。本人が似ていると思っているかどうかが問題であり意味がある。そういえば、息子がある時、血が濃すぎるみたいだ、と僕と似ていることをいやそうにいっていたことがある。 アメリカでは(日本ではどうか知らない)プロのボーカリストでも譜面が読めない人が多いとか。スクラッチ・ボーカリストというデモテープ専門のボーカリストがメロディーを覚えさせる。 娘は譜面が読めないわけではないのだが、もっぱら耳で覚えるらしくピアノを習っていた時もそんな覚え方をしていた。メロディーはそんなふうに覚えて、指は先生が弾くのを見て覚えてくるのである。歌もそんなふうに覚える。英語を勉強しているがCDを聴いて(今は僕の頃と違ってこういう教材が充実してうらやましい)音を覚える。書くトレーニングもしているがまず耳で覚えるというのは音楽の場合と同じである。 ひるがえって僕のことを考えたら音楽については譜面に、外国語については文字に依存していることに気がついた。譜面がきちんと読めるだけのトレーニングを受けてないので心もとないのだが、ないと不安で耳からだけ覚えるのが苦手である。外国語も耳で聴いて理解するというトレーニングをあまり受けてなかったので苦手である。娘が英語のテストではヒアリングが一番簡単といっているのを驚いた。文字(書かれたもの)重視でずっと生きてきたが、価値観を変えないといけないようだ。
2003年01月31日
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自分はどこの国の人間だというつもりか、と訪ねられたときソクラテスは《世界人》(mundanus)だといった。自分は全世界の住民であり市民であると彼は考えていたからである」(キケロ) 大学で講義。昼過ぎだったので大方溶けていたのだが、氷の固まりに見える雪があちらこちらに残っていた。写真の建物の屋根は光っているのではなくて雪である。寒いというより冷たくて今日は一日手が冷たかった。もう後数度しか大学にくることはないので、しっかり記憶に刻むべく学内を歩いた。『ソクラテスの弁明』の続き。ソクラテスは会う人ごとに魂をできるだけ善くせよ、と説いてまわるが、その教育の仕方は個人的なものであり、報酬を取らず、弟子もいなかった。ソフィスト(職業教師)のやり方とは違うということである。そんなふうにして生きていけたということはソクラテスがお金を持っていたからだといえるが、実のところあまりよくわかっていない。ソクラテスのように宮仕えしないで生きていくことについて学生たちと少し話をした。こんな人と暮らしていたらパートナーはどんなふうに思っただろうかというような話。アルフレッド・アドラーもよく似た生活だった。昼間はずっと診察、夜は夕食を食べるとすぐにカフェーに出かけ議論。いつも最後まで残っていて睡眠時間はわずかだったようだ。妻のライサも最初は議論に加わっていたがやがて子どもができ、育児のために参加を断念。不満は募ったようだ、と伝記には書いてある。ソクラテスの妻、クサンティッペは悪妻として知られているが無理からぬところがあったのかもしれない。 講義の後、四条畷で講演。熱心な質疑応答があり、八時くらいに終わった後、皆で食事。十一時前に帰った。普通の人には当たり前のことなのだろうが(かつて僕もそうだった)ずいぶん今日は長い時外に出ていたことになる。コンピュータを開ける時間はなかった。 アメリカで反戦ヴィデオがケーブルテレビでの放映を断られた。ネット上でこの放送を見ることができる。no war. yes peaceと呼びかけるものだが、なかなかこんなことでもむずかしいものである。好戦ヴィデオ(もしあるとすればということだが)も反戦ヴィデオも等しく流され視聴者が判断できるというのが民主主義だと思う。
2003年01月30日
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寒い冷たい風が吹く日。物干しざおが飛ばされてベランダに散乱。昨日、取り込むのを忘れた洗濯物が落ちてしまっていた。 今日の朝日新聞の朝刊には「日本がアメリカのイラク攻撃に加担することに反対する」という全面の意見広告が出ていた。一口三千円のカンパを募ったら五千人近くの人が賛同し広告が掲載されたのだが、小さな文字で印刷されたある人のメッセージにあるように本当は日本が加担することに反対するというのでは弱いように思う。反対するとしたらイラク攻撃そのものに反対するべきではないか、と僕は思うのだが、アメリカの外交に口出しをしてはいけないということか。しかし今日の世界情勢では一国の政策が世界そのものを動かす(破滅させる)ことになる。ブッシュ大統領の一般教書演説に対して民主党が厳しい批判をしている。テロ直後から大統領を支えてきた超党派の結束にゆらぎが出てきているとしたらいいのだが。 掲示板で何度注意しても間違いを繰り返す後輩とのつきあいについて質問を受けたが、長く教師をしてきて思い当たるのは丁寧に指導すればするほど学ぶ側が依存的になることが残念ながらあるということである。ある人に聞いたのだが、家庭教師をしているがいっこうに生徒の数学の力が伸びないという。そこでいろいろ考えたが思い至ったのは、自分が生徒にとって詳しい(しかもかなり詳しい)解答のついた参考書化しているのではないかということ。自分で考え答えを導き出すというよりは解説を理解することに努力しても、そのことは必ずしも自分で問題を解く力をつけることには結びつかないわけである。何も教えないで、あるいは教え方が上手でないのに生徒の力が伸びないことを非難するのはナンセンスだが、過干渉な親の子どもが自立しないように仮干渉な教師の生徒も自立しない。 別の人にはこんなことを聞いたことがある。その人は塾を経営していた。子どもは入塾した当初は飛躍的に成績を伸ばすが、あるところから頭打ちになるという。そのような子どもは親にいわれて塾に入った。そこで、親に反発している子どもにとって親からいわれたとおりに塾に入って勉強して成績が上がったら親に負けることになるわけである。 宇多田の"COLORS"「どこへ行ってもいいと言われると半端な願望には標識も全部灰色だ」 こういうことはたしかにあるだろう。親が何をしてもいい、好きにしなさい、と子どもにいい、子どもが後に何をしてもいいといったからじゃないか、とうまくいかなかった時に責められても困るのだが。
2003年01月29日
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名古屋の南区生涯学習センターで講演(会場は別)。僕の単発の公開講演の後、フロイト、ユングの講義を別の先生がされると聞いている。順序としては僕だったらアドラーを最後に持ってくると思うが主催者の考えがあるのだろう。思ったほどに人が集まらなかったことが残念だったようで(僕も同じ思いである)また次の機会があるかもしれない。 今、毎週(飛ぶ週もあるが)弁天町で三月の初めまでしている連続講義と同様、聴講者の性別、年齢、その他バックグラウンドはずいぶん違っていて、学校の保護者向けの講演会のように育児、教育の話に終始してアドラー心理学の基礎的な話をするわけにもいかないのでむずかしい。質疑応答も含めて二時間というのではいよいよむずかしい。途中に休憩を入れた方がいいかと問われ、ノンストップで、と答えた。聴かれる方もハードだったかもしれない。質疑応答は四人の方が。僕が講演を補う形で説明を長々とするので四人の質問しか受けられなくて残念。楽屋(があった)に講演の後、八人の方が。いつまでも話は尽きなかったが会場の関係で追われるように出ていくことになった。 帰り、宇多田ヒカルの"COLORS"を買った。講演の最初に僕の紹介の後、僕の本から引用して紹介された話。「…アドラーは私に教えてくれました。世界は信じがたいほどシンプルだ、と」。これはリディア・ジッハーの話なので僕のことではないのだがいいそびれてしまった。世界はシンプルなのに複雑な(そして神経症的な、とアドラーはいうのだが)意味づけをして、結果、世界がシンプルに見えなくなっている。 宇多田は"Simple and Clean"という曲の中でこう書いている(この曲の由来など何も知らないが、"Deep River"の中の「光」と似ている。後記:「光」の英語ヴァージョンっだった)。"I don’t think life is quite that simple."人生はそんなにシンプルだとは思わない、と。別のところで、たぶんとてもシンプルなものもあるのだろうけど、ともいっているのだが。 夜、寝られず深見じゅんの『悪女(わる)』を三巻まで。徹底的にまわりの悪女たちにいびられるが、麻里鈴(まりりん)はめげることがない。不幸を耐えているというふうでもない。粗削りだが優れた感性を持った彼女が今後どう育っていくか、思わず読みふけってしまった。 よしもとばななの『はごろも』読了。いつもながら神秘的な話でおもしろいといえばおもしろいのだが、いかにもありそうな話の展開ならいいのだが、いかにもありえないので少しがっかり。宇多田ではないがlife is not that simpleといいたくなった。
2003年01月28日
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今週は講演が三回あるのだが今日はオフ日。部屋にこもってあれやこれや考えごとをしながらこれといった成果もなく瞬く間に夜になった。よしもとばななの『ハゴロモ』は半分ほど。村上春樹の『羊をめぐる冒険』の続き。小沢制良の『おわらない夏』(集英社)は読み始めたがつまらない。「それであなたは何をいいたいの?」と問うてみたくなる。まだ今の段階で評価してはいけないのだが。 昨年末からpotpourri.txtというファイルをいつも開いていてそこに思いついたこを欠くようにしている。毎日書いている日記などを書くためには別にidea.txtというのがあってそちらに書いているが、こちらはわりあいきっちりと書くので、もっと前の草稿段階あるいはメモのようなのがほしいと思って作ってみたいのである。山川健一(作家)がいつも一冊のノートを持ち歩いていてそこには何でも書きつけていたと書いているのを読んでおもしろいと思った。小説の登場人物についてのメモ、小説の断片などなど…僕のもそういうのも書いている。○と最初に記して論文や本でまとめるかもしれないことも書いている。 最近は精神科医の野田正彰氏の講演をまとめた冊子の中に文部省が小学生、中学生に配付している『心のノート』を批判しているのが興味深くメモがある。ただし氏の「心」についての議論はちょっと違うのではないかと思うので今後の課題として残されている。「心」とかプラトンの哲学なら「魂」についてしっかり押さえておかないと政治的に思いがけず危険な仕方で利用されることもある。僕は心理学を大学で専攻してないが、もしも僕が哲学を学び今は心理学も学んでいることのメリットがあるとしたら、カウンセリングや心理療法の技法に習熟し臨床の場面で用いることだけでなく原理的なことを考察できることだろう。マルクスは、大切なことは世界の解釈ではなく、世界の変革である、といった。世界の変革でなくとも、目の前にいるこの人を救うことが重要だというようなことがいわれるかもしれない。そのことに異議はもちろんないが、粗雑な世界解釈に基づく変革や救済(の試み)は有害以外の何ものでもない。
2003年01月27日
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疲れていたのにすぐに寝つかれず、目覚まし(携帯電話の)をかけたのにマナーモードにしていたのに起きるはずの時間になっても気づかず九時ごろまで寝てしまった。カウンセリング2件。講演依頼1件。 明治東洋医学院専門学校で教育心理学と臨床心理学を教えている。今年度はこのうち教育心理学が前年のIIだけでなくIも教えることになったのでIで講義をした後、IIでは学生たちに自由にテーマを選んでもらい口頭発表をしてもらうことにした。成績の評価はこの発表とレポートによったが、有志の学生がレポートを僕のHPに掲載することを了解してくれた。 よしもとばななの『ハゴロモ』(新潮社)。失恋で傷ついたほたるは故郷に戻る。「人の、意図しない優しさは、さりげない言葉の数々は、羽衣なのだと私は思った。いつのまにかふわっと包まれ、今まで自分をしばっていた重く苦しい重力からふいに解き放たれ、魂が宙に気持ちよく浮いている」 優しい言葉で相手を包み、包まれる。心のおもむくままに今のこの時間を二人で楽しむ…重力から解き放たれ魂が気持ちよく浮いている…昨日、講演でこんな言葉を使って話せたらよかったのに、と思った。
2003年01月26日
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まだ夜が明ける前に家を出た。年に何度か行く鈴鹿での講演。冬の朝は暗いのでずいぶん遠いところに行くような気がする。 今日は私立の中学校受験があったのだろうか。母子連れの姿をたくさん見かけた。子どもをすわらせるために通路の真ん中に立ちはだかって他の乗客の進路を妨げていても気がつかない母親。我が子のことしか目に入ってないのか。この一年、家族は受験生の子どもに気をつかって息をひそめるように暮らしたのだろうかなどと想像した。自己に克つと書いた受験会場で頭に巻くのであろう鉢巻を鞄から取り出す母親。精神主義は好まない。 鈴鹿での今日は育児の話ではなくて男女の愛の話。「性の知識に自信はありますか」というのが講演のタイトルだった。主催者は思ったほど過激ではなかった、と。刺激的な話しだったと思うが基本は対人関係の話だったからである。『イマジン』(槙村さとる、集英社文庫)の中から「セックスは身体のおしゃべり」という言葉を引いたが、身体を使って二人がおしゃべりするわけで「身体が」おしゃべりするわけではない。あるいは身体も使って二人がおしゃべりをするのである。講演ではさらにそれ以前の言葉のコミュニケーションの重要性も強調した。これがうまくできれば他は何もいらないといっていいくらいである。午後の質疑応答では性教育のことも話題になり午前中の質疑応答よりもつっこんだ質問が出た。講演後カウンセリングを1ケース。思いがけず帰宅が遅くなったが充実した一日になった。
2003年01月25日
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心理療法はもともとプラトンの対話篇では「魂の世話」という意味であるということを昨日書いたが、その際引いたのよりもう少し先にはこんなふうに書いてある。私(ソクラテス)が若い人であれ老人であれ誰にでもただ次のことを説いている。「たましいができるだけすぐれたよいものになるよう、ずいぶん気をつかわなければならないのであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない」(『ソクラテスの弁明』30b、田中美知太郎訳) というのは金銭から徳(アレテー、たましいのよさ)が生じてくるのではなく、金銭や他のものは人間にとって善きものとなるのは公私いずれにおいても徳(たましいのよさ)によるからである。こんなことはあたりまえのように僕には思えるのだが、ソクラテスは青少年に害悪を与えている、腐敗させていると見なされたのだから驚きである。 もう一つの日記にビートルズのアルバム「アビーロード」のカバー写真のポール・マッカートニーの手から煙草が消されたということを簡単に書いたが、アメリカのポスター会社はこの際、マッカートニーにもアップル・レコードにも通知していない。BBSの記事を読むと、アメリカのポスター会社が煙草を消したことで「喫煙運動家たちは喜んだ」と書いてある。圧力があったのかどうかはわからないが、喫煙に反対することとこのような検閲行為をすることとはまったく別のことである。この写真のポールがはだしであること、また、左利きのはずなのに右手で煙草を持っていることから当時ポールは交通事故で死んだので本物ではなく「そっくりな人」(look-a-like)であるというようなうわさが生じたくらい有名な写真であるとはいえ不可解である。肺癌でジョージ・ハリソンが亡くなって14ヶ月が経った。 日本で作曲家の三枝成彰氏が愛煙家であることから禁煙団体からの申し入れで生活習慣病予防週間シンポジウムそのものが中止されることになった。講演を聴いてから問題があれば講演内容に反論するべきだと僕は思うのだが、このような圧力がとおるというのは危険ではないか。僕自身は喫煙に賛成ではないし、まわりの人にまで悪影響が及ぶことが明らかになっている今日適切な対処がされるべきだと考えているが、それはそれ、これはこれである。 三枝氏はビートルズの写真のことにも言及し、「声高に言えば通るというのはファッショに通じるようで怖い」とコメントしている。1月24日付けの朝日新聞の夕刊は、asahi.comには報じられたこれに続く三枝氏のコメントは削除している。なぜ?「たばこをやめるつもりはない。たばこをやめ長く生きていい曲が書けないならば、短く生きてもいい曲を書きたい。でも、できれば長生きしたい、そう思っている」コメントのこの部分は朝日新聞にとっては都合がよくなかったのか、と思ってしまったりするのだが。 ハンバーガーを食べたために肥満になったとマクドナルドが訴えられていた裁判で、ニューヨークの連邦地裁は、自らの暴飲暴食による肥満や健康被害の救済を法定に持ち込むのはお門違いだと原告らの損害賠償請求を棄却したという記事もあった。こちらは自己責任。なかなか線引きはむずかしいものである。ソクラテスが今日蘇ってきたら相変わらず道行く人をつかまえては「魂の世話」を説くのだろう。
2003年01月24日
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しばらく風邪で寝ていたせいか部屋の中が乱雑。たくさん出した本が散乱している。頭だけは忙しく思いついたことがあると関連の本を出してはそのままにしておいたのがいけなかった。 村上春樹の『羊をめぐる冒険』。登場人物の一人が次のようなことをいう。初対面の人に会うと十分間しゃべってもらうことにする。そして相手のしゃべったこと内容とは正反対の観点から相手を捉える、と。 僕は自分の人生をこんなふうに語る。「ずっと退屈な人生だったし、これからだって同じさ。でもそれが気にいらないというわけでもない。要するに仕方ないことなんだよ」 僕だってこれを聞いたらいいたいことがある…これを聞いて正反対の観点から相手を捉えるという人はいう。「その方法をあなたにあてはめてみると、こうなると思うの。つまり、あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたじゃないかってね。それは間違ってる?」(講談社文庫、上、p.63)。 奈良は冷たい雨が降っていた。十年以上通ってきた大学だが後片手で数えられるしかもうくることはないと思うと気持ちが沈む。『ソクラテスの弁明』続き。諸君が私を無罪放免しても私は決してこれまでやってきたことを止めることは決してないだろう。 「わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、決して知を愛し求めること(哲学)を止めないだろう。わたしは諸君に勧告し、いつ誰に会っても、諸君に指摘することを指摘することをやめないだろう。そしてその時のわたしの言葉は、いつもの言葉と変りはしない。世にもすぐれた人よ、君はアテナイという、知力においても、武力においても、最も評判の高い、偉大なポリス(市民国家)の一員でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることもしないというのは、と言い、もし諸君のうちの誰かが、これに異議をさしはさみ、自分はそれに心を用いていると主張するならば、その者をわたしは、すぐには去らしめず、またわたしも立ち去ることをせず、これに問いかけて、しらべたり、吟味したりするでしょう」(田中美知太郎訳、29d-e) 上の訳で「たましいをできるだけすぐれたよいものにするように、心を用いる(epimeleomai)」となっているところは別の対話篇では「魂の世話」という言葉で表現されている。例えば、『ラケス』では「魂に関する世話」(peri psyches therapeia, 185e)とある。前にも別のところで何度か指摘しているが、このギリシア語から英語のpsychotherapyという言葉が作られていることがわかるだろう。サイコセラピー(心理療法)とは「魂の世話」なのである。『ソクラテスの弁明』のもう少し後の個所ではソクラテスは自分は神によってアテナイというポリスに付着させられた「あぶ」のようなものだといっている。一匹の馬があるとして、この馬は素性のいい大きな馬だが、大きいためにかえって普通よりにぶいところがある。目をさましているためには何かあぶのようなものが必要で、それが私だ、と。当然、このような存在はわずらわしいのでソクラテスは知られているように死刑になる。 今の世界情勢を見ていると一匹ではあまりに非力である。
2003年01月23日
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微熱がまだあったのだが思い切って外出した。朝起きると昨日学校を休んで家にいた娘はいなかった。 本屋で『村上春樹全作品 1990~2000』の第二巻を買う。この間には『国境の南、太陽の西』と『スプートニクの恋人』が収められている。どちらも今は文庫本で手に入るのでためらったのだが、『スプートニクの恋人』はいつかカウンセリングにきた人に貸したまま帰ってきてないので読み返す機会が泣く今に至っているので、村上の解題が載っているということもあって買うことにした。『国境の南、太陽の西』はもともと『ねじまき鳥クロニクル』の一部として組み込まれていたが、そこから切り離し独自に発展させ新たな小説として完成させたものであることを始めて知った。村上は『ねじまき鳥クロニクル』の第一部と第二部を一年余りで集中的に書いたが「その出来上がりについて僕としてはなにかしらしっくりとこないというか、いくぶん納得のいかないところがあった」(p.481)。 村上の「同居している配偶者」が面白いことは面白いが一つの本にするには多くの要素が盛りすぎていることを指摘、もう少しすっきりさせたほうがいいと「何度も作品を読み返し、具体的方策について長い時間をかけ、額をつきあわせてディスカスした結果」三つばかりの章はあきらめて除去した方がいいだろうということになった。 この変更は当然後の調整を大変なものにしたわけだがこの除去した三つの章が『国境の南、太陽の西』として結実したのである。『国境の西、太陽の西』のハジメ君は、『ねじまき鳥クロニクル』の岡田トオルともともとは同一人物だったのである。 このような作品成立の経過が著者自身によって語られているのは興味深く、解題が収録されている第二巻を買ってよかった、と思えた。 僕がおもしろいと思ったのは、一年間息を詰めるようにして書き続けた『ねじまき鳥クロニクル』が大がかりな暗礁に乗り上げ、一頓挫して、がっかりし、本格的に落ち込んだことを説明する次のような村上の言葉である。「小説家が長い時間をかけてようやく書き上げた長編小説を誰かに読ませて、「根本的に書き直す必要があるよ」と言われたときに(そしてまた相手の意見が客観的にある程度正しいように見えたときに)どれほど暗澹たる気持ちになるものか、これはおそらく経験者にしかわからないだろう。頭の中がしばらく真っ白けになるというか、極端な言い方をすれば手足をもがれてしまったような、ほんとうに「何をする気にもなれない」という自失状態に陥ってしまうのだ」(p.483) しかしそれにもかかわらず村上は結果的に二つの小説(一つは長編小説、一つは中編小説)を完成する。根本的に書き直す必要があるといわれたときの暗澹たる気持ちは僕にはよくわかる。助言を受け入れることも、書き直しに着手する勇気が要ることはいうまでもない。 驚くことではないのかもしれないかもしれないが村上の小説といえども何の問題もなくすらりすらりと書かれているわけではないわけだ。 ついでながら村上は1991年にアメリカにわたりプリンストンに居を構える。この時から村上はマックを使って『ねじまき鳥クロニクル』を書き始めたということである。昨日、少し書いたがアドラーの「悪文」と格闘して『個人心理学講義』を訳していた頃は僕もマックを使っていたことを思い出した。
2003年01月22日
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まだ本調子ではなくて本もあまり読めないまま一日を過ごした。娘が今日は休んでいた。昼に一緒に食べたが途中でやめてしまった。 試験問題を作って送ったが添付ファイルをつけるのを忘れたようで(よくする失敗)もう一度送るようにというメールが昼過ぎ届く。異なる学科で同じ科目を教えたのだが試験日が違うので情報が漏れる恐れがあるので違う問題にしてほしいということなので違う問題を作った。大学だと学年を超えて情報交換が盛んで前年度の試験問題が出回ったりするが専門学校ではそんなことはあまりないように思っていた。前回再試験をしたがそんな工夫(というべきか)をしたとは思えなくてやむをえず不可をつけざるを得ない答案があって残念だった。奨励しているわけでは決してないのだが。 年末にカウンセリングに来られた人から安原顕が危ないと聞いていたが20日に肺癌で亡くなる。「本も読めず、原稿も書けなければ、生きていたってしようがねえ!」と壮絶な闘病だった様子。1月6日が最後のヤスケンの編集長日記になった。辛口(激辛)の書評は参考になった。 今は手元には安原が編集した『私の文章術』(メタローグ)しかないのだが、「編者から、ひと言」というあとがきには「編集者」としての仕事がどんなものかが書いてあっておもしろい。作家の原稿に赤ペン片手にどんどん手を入れていく「いわば古風な馬鹿編集者」は時にそんなふうにされて「むかつく」筆者がいてそういう筆者には二度と原稿依頼をしないというようなことが書いてある。 まだ翻訳も著書も出したことがなかった時に読んだ本なので本を出すというのは厳しいものだと思った。実際、何冊か本を出したが原稿や訳文に的確なコメントをつける編集者たちに出会うことになった。初校ゲラにはたくさんの付箋がついていてその一つ一つのコメントをふまえて書き直すのは骨が折れた。 この安原が編集したエッセイは五十人ほどの作家、評論家、学者らがこのテーマで書いたものを集めたものである。アメリカ文学の柴田元幸が翻訳について書いているエッセイにラインマーカーで線を引いているところがあった。「ひっかかり、抵抗感が味である「悪文」的な原文の、そのひっかりを再現する技はまだまだである。下手にやると、単に下手な訳文にしか見えなくて、結局は弱気になり、「通りのいい」訳文にしてしまうことが多い」 この本の出版年を見て思い当たった。この本を読んだ頃、アドラーの翻訳をしていた。アドラーの書いたものを読んで「なんて悪文」と思っていたのである。もっともアドラーのは「味」どころではなかった。
2003年01月21日
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試験問題を作成してメールで送信。さて知識を必ずしも問わず、かつ講義を聴いていた人が報われるような試験になったかどうか気がかり。 ヘッセの『デミアン』続き。シンクレールは自分が犯した過ちを親に打ち明けることができない。長い一日が終り自分のベッドに横たわる。母がいつものように「おやすみ」といって部屋から出ていった。手に持った蝋燭の光が戸の隙間から見える。もしももう一度引き返してきてキスをして「どうしたの」とたずねてくれたら僕は泣けるだろう、何もかも話せるだろう、そうすれば首にある石は溶けるだろう、僕は救済されるだろう…シンクレールはこんなことを考える。しかし母は去り、蝋燭の光は消えあたりは暗闇になる。 今日カウンセリングの時に話したのだが、子どもたちがこんなふうに今自分が置かれている行詰り(アポリア)から脱却するために親からの方の働きかけを待っていることがあるかもしれない。実際親の働きかけによって子どもが長年にわたる膠着状態から解放されたケースを知っているのだが通常は時間はかかっても援助する用意があることは告げても(もちろん援助できることしか援助できないのだが)子どもの動きがあるまでは静観することを僕は助言する。結局のところ親といえども子どもの人生をかわりに生きることはできないのである。
2003年01月20日
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今日は少し風邪気味で思うように仕事ができなかった。息をするのが苦しいと身体が自分の存在を主張するような感じ。でももうすわれるようになったので大丈夫。明治東洋医学院の試験問題をつくらないといけない。ずっと構想を練っていてメモをとってきているのだが。 ある講演の質疑応答で「これは試練なのですね」という発言があった。誰もが生きている今の状況の中で多かれ少なかれうまくいかない対人関係がある。そのような関係を生きることによってこそ人は何かを学び成長する。順風満帆な時ではなく失敗した時こそ学べるように。 今日は村上春樹の『1973年のピンボール』。僕が生きた時代より少し前だが共通体験もあって時代の雰囲気などよくわかるところがある。学生の頃の忘れていたことを思い出してしまう。あまりいい思い出は蘇ってこない。「多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めていた。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しくなる」(講談社文庫、p.60) 大学生の頃、大学の近くに部屋を借りていたことを思い出した。同じ下宿にいた友人に僕はギリシア語の辞書を二冊持っていたので一冊を貸した。大学院に進まなかった彼はいつかいなくなってしまった。僕の辞書も返ってこなかった。
2003年01月19日
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弁天町市民セミナーで講演。全部で五回。人は自分で意味づけにした世界にいて、本当はこの世界はシンプルなのに複雑な意味づけをすることでシンプルではないようにしている。ではどうすればシンプルな世界を取り戻すことができるか…という話から始める。一回目は「人の間で生きる」というテーマで、対人関係の文脈の中で人の言動、症状を見ていくこと、原因ではなく目的を見ていくことについてエピソードを多用して説明した。二時間の講演枠の中の最初の一時間半僕が話、最後の三十分を質疑応答にあてたが、質疑応答の時間をもっと取った方がいいと思った。定員の二倍の申し込みがあり抽籤に当たった人が聴きにこられただけあって終始熱心に聴いてもらえ話しがいがあった。 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』読了。人がたくさん殺されるのでちょっと驚いたが村上の小説の中でももっとも気にいった小説の一つである(これは英語の直訳だがあいまいな表現だ)。次はさかのぼって『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』を読んでみよう。 ユキは13歳の女の子。ユキの親の代わりに食事をしたり、ハワイにまで行ったりする。「(ユキは)車を下り、ばたんとドアを閉めて、後ろも振り向かずに歩いて行ってしまった。僕はユキのほっそりした後ろ姿が人込みの中に消えていくのをじっと見送った。彼女の姿が見えなくなると、僕はとても哀しい気持ちになった。まるで失恋したみたいな気分だった」(下巻、p.317)「こういうのには名前がつけられるぜ」と僕は思った。喪失感、と僕は口に出して言ってみた。あまり感じの良い言葉がでなかった」(p.318) 失恋ではなくても失恋したみたいな気分というのはわかるような気がする。最後のカウンセリングの人か最後の授業の時に感じる。弁天町のセミナーもきっと五回も話をするので最終日はこんな感じがするのだろう。日本語には「情が移る」という表現がある。 帰り、『ノーム・チョムスキー』(鶴見俊輔、監修、リトル・モア)を買う。息子が詩チョムスキーの本を何冊か図書館で借りてきていたから僕も読んでみようと思った。チョムスキーのインタビューや講演が訳されている。帰って息子に見せたらこれのDVD版を持っていた。でも買ってきたのを知って「見せろよな」と。本そのものがだぶってなくてよかった。アメリカの外交政策のことを一生懸命調べているようなので、僕も少しは知ってみたいと思ったのである。
2003年01月18日
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専門学校での講義が終り(目下、試験を作成中)それと入れ替わるかのように明日から弁天町の市民セミナーで五回連続の講義をする。定員があって倍ほどの応募があったので抽選が行われたと聞いている。「貴方のための心理学講座 ~私が”わたし”であるために~」というのがテーマである。 身辺雑記的にぽつりぽつりと書いている日記の中で昨日、知らないことが多すぎるということを書いた。村上春樹の短編(「加納クレタ」)の中に「姉が修行した場所にはアレン・ギンズバーグも来たし、キース・リチャーズも来た」と書いてあったが、言及されている二人の名前のうちキース・リチャーズは最近ローリング・ストーンズのことを知ったのでわかったが、ポール・マッカートニーやジョン・レノンらと親交があった詩人であるギンズバーグのことは知らないという話である。 僕のこれまでの人生での経験はきわめて限られているので知らないことが多い。子どもの頃のある時期、家にあったテレビは民放が映らなかったので(今となってはどうしてそんなことになったのかはわからないのだが)同じ世代の人が共通して知っている漫画のことを知らない。大学生になってからはずっと紀元前五世紀のギリシア語ばかり読んでいたのであまり本をあまり読めてない。もちろん、そんなことは理由にならないので同じ研究室の仲間は博識だったのだが。 精神科に勤務してからはこんなことではカウンセリングができないので読む本の幅を広げたのだが、カウンセリングにこられる人たちに教えられることの方が多かったように思う。 こんなことを書いた一方で知っていなければならないことと必ずしもそうではないことを区別しておかない。限りある人生ですべてのことを知ることはできないからである。ギリシアの哲学者、ヘラクレイトスは博識は知者を作らないといっている。 しかしこのように考えるとまた極端に考えてしまって本など読まなくてもいいというようなことになってしまう。デカルトが『方法序説』の中で、「先生たちの監督を離れてもいい年齢に達するやいなや、私は書物による学問を全くやめてしまった」といっているが、読書をすべて止めてしまったというのではなく、読書だけが真理発見の唯一の、またもっとも有効な方法だと考えることを止めた、と解すべきであろう。読書をデカルトが止めたとは考えられない。その意味でデカルトのこの言葉を文字通り取ることはないので、そんなに簡単に本を読むのを止めることはできない。 また他方、知ることではなくて「体験」が重要であるという人がいる。僕が講演やカウンセリングで話すのを聞くと納得するが、「決心」とか「実行」とかはなかなかできない、理解と実行には大きな段差があるように感じるという人は多い。頭だけで理解しているだけでは十分ではないということである。 しかし、もしも体験が人を賢くするのであれば、老人は皆賢いということになるだろうが、必ずしもそうは思えない。頭だけでわかっていても十分ではないというのは本当だが、頭でわかることは出発点としては重要なことである。
2003年01月17日
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前から予定していたことがキャンセルになって思いがけずオフ日に。昼間家にいると選挙カーからの放送がやかましい。「ただいま候補者本人が助手席に白いたすきをかけてすわっています…」何か大きな誤解をしているのではないか。そんなことを考えてばかりでなかなか集中できなかった。 今日もローリング・ストーンズの曲を聴く。David Wildのライナーノートを読もうとするのだがいつも読んでいる英語とはずいぶん違うように思う。「…大きな音で(ローリング・ストーンズの)曲をかけてみるがいい。何度も何度も、親しい友人がいるところで。もしこの音楽に反応しない人の隣にすわるようなことがあれば静かに立ち上がって一番近くの出口に行くこと。この音楽に感じない人がいるとしたら何か大きな間違いがある。なぜならこの音楽はずっと鳴り響き、少なくとも二、三世代の間快楽を定義したからである。あなたの人生を変える音楽だ。そしてもっとも重要なことは、人を酔わせうる(そして実際、酔わせた)音楽である(*get laidはきっと特別な意味だろう…)」 こんなふうに賛美してあっても嫌いな人は嫌いだろう。 ロニー・ウッドの使うsecond bananaという言葉(昨日引いた)は脇役という意味だが、これの反意語はtop bananaである。こちらは主役ということになるが、なぜこのような意味になるのかは僕にはわからない。カウンセリングではクライエントとカウンセラーは対等であるとアドラー心理学では考えているが、それでもカウンセラーは主役ではなく、second bananaであるといえる。カウンセラーの存在は最終的には忘れられていい。頭が切れ「かみそりのような」という形容詞がふさわしい人がいるがこのような人がもしもカウンセリングをして鋭い解釈をクライエントに示したら見事な解釈の前にずたずたになるかもしれないが救われないだろう。アドラーはこのようにならないことをしばしば戒めている。自分の力でよくなったと思ってほしいし、実際に、second bananaであることが望ましい。 second bananaのことを書いていて坂口安吾の『二流の人』という作品のことをふと思い出して少し気分がよくなかった。優れた知略を備えながら二流の武将に甘んじた黒田如水のことを書いた小説だったと記憶しているが、second bananaは二流という意味ではない。
2003年01月16日
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一日吹雪の舞う日。雪の中、二人がカウンセリングに。「これから必要なものは」と昼からきた人がいった「やさしさ、強さ」。それに僕は賢さを加えた。それを受けて「それからユーモアもね」と…知性、ユーモア、やさしさ、強さ。どの資質も備わっていたらいいのだが。 いろいろ毎日考えているが後で振り返るといろいろ「繋がり」(村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』のキーワードの一つ)があるのに気づく。単なる連想だが。ローリング・ストーンズ(転がる石たち?)のことを考えていたので「傾向」のことを思った。カントのいう「傾向性」(Neigung)。カントが理性と対立させるこの言葉を僕が昔教えを受けた先生の一人は坂道を転げ落ちる石を例えに引いて説明した。講演の時に子どものできてないこと、短所、欠点、問題行動を見つけるのは坂道を石が転げ落ちるように簡単なことだという時、いつも「傾向性」のことを念頭に置いている。村上春樹は「傾向」を説明する時に使う「宿命」という言葉を別のところでは「春の雪崩のような宿命的な恋」と表現していることはこの連想から僕の注意を引いた。 そして今日、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like A Rolling Stone)を聴いた。「転がる石のように家がなく誰にもまったく知られないことはどんな気がする…」 ローリング・ストーンズがこの曲をカバーしている。ローリング・ストーンズのサイトで聴くことができた。 ローリング・ストーンズのギタリストのロニー・ウッドがこんなことをいっている。「一年の間に二百五十万の人の前で演奏し、それなのに『あいつは一体誰だ?』と人々にいわせたのはおそらく僕くらいのものだろう。でも僕はプロの脇役(second banana)なのだから当然なんだ。僕は他の人をよく見せるのが得意なんだ。僕はずっとそうしてきた」 なるほど、と思ったけれど、やっぱり僕は脇役ではなくてNo.1になりたい、なんて。
2003年01月15日
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明治東洋医学院での講義。試験前の最終講義で今年度の最後の講義でもある。四月から複数のクラスでの(科も学年も違う)臨床心理学と教員養成科での教育心理学。教育心理学は今年度と同様IとIIのあわせて24回の講義。今年度は昨年までのIの先生の都合が悪くなりピンチヒッターとして引き受けたが来年度も担当させてもらえることになった。前に教えた学生が何人か声をかけてくれる。講義は最後だったがあまりそのことに意識を向けないでおこうと思った。もうこれで終りだと思うとつらくなるから。教師の仕事をしていてつらいことがあるとしたら最後の講義の日である。なんとも思わない人もいるのだろうが。これで終り、やれやれ、と。 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中に「傾向」について次のようなことがいわれている(講談社文庫、上、p.163)。「どうしてそんなことをしたんだろう?」「わからないね」「でも、たぶんそれはどうしようもないことだったんだろうね。何か宿命のようなものさ。なんというか、うまい言葉が思いつかないけど……」「傾向」と僕は言ってみた。「そう、それだよ。傾向。おいらは思うんだよ。もう一度人生をやりなおしても、あんたはきっとまた同じことをするだろうね。それが傾向っていうもんだよ。そしてその傾向というものは、ある地点を越えると、もうもとに戻れなくなっちまうんだ。手遅れなんだ」 人は固有のライフスタイル(性格)を持っている。そのため相手が変わっても同じことを繰り返すことがある。そこまでは認めるが、このライフスタイルは人が選び取ったものであるから、どうしようもないとは考えない。村上は「宿命」という言葉を別の個所で次のように使っている。「(僕が)十五だったら恋におちている、と僕はあらためて思った。それも春の雪崩のような宿命的な恋に」(p.225)。ライフスタイルは宿命ではない。坂道を石が転げ落ちるような傾き(傾向性)でもない。 ローリングストーンズを何度も何度も。ギターの音がきれいで聴き入ってしまった。僕の意識はギターだけに向けられる。 歌詞が聞き取れない。中には単純な歌詞もあってそういうのなら問題はないのだが。僕にはニュースを聴くよりもむずかしい。詩を理解しないで音楽の価値は半減するだろう。西洋の絵画を見る時にキリスト教やギリシア神話を知らずに見たら理解できないように。
2003年01月14日
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村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中で「僕」は次から次へとミュージシャンの名前をあげて酷評しているところがある。それなのにローリング・ストーンズだけは違う。僕は車を運転しながら音楽を聴いている。「途中でローリング・ストーンズの「ブラウン・シュガー」がかかった。僕は思わず微笑んだ。素敵な曲だった。「まとまだ」と僕は思った」 このデビュー40年を超えるグループにただの一度も注意を向けたことがなかった。だからまったく何も知らないのである。僕は人から影響を受けやすい方なのにローリング・ストーンズを勧める人は誰もいなかった。 よし聴いてみよう、と決心して買いに行くことにした。僕を待っていたかのようにすぐに"FORTY LICKS"という2枚組のベストアルバムがあった。新曲4曲を含む全40曲。さっそく帰って聴いてみたが、僕が勝手にイメージしていたのとは全然違う音楽が流れてきた…(キースの歌う"Losing My Touch"がよかった) こんなふうにまったく触れようとしないで知らないで損をしてきていることが多いのかもしれないと思った。高校生の頃は音楽を聴いただろうか。大学ではクラシックにしか関心はなかった。知らないことは何も知らない。 高校生の息子と話をしていていつも驚くのだが、彼は何でも知っている。小学生の頃から国際政治に強かったから仕事から帰ったらいつも息子にその日あったことを聞いていた。 NHKの日曜のドラマで宮本武蔵の話をやっている(題名を知らないという…)。息子がこの場面はまんがでもあったというので「バガボンド?」とたずねたら「そうだ」と。「読んだ?」「ああ、友達に借りた」「僕も読みたかったなあ」「なんだ読みたかったのか」僕はたまたまこのコミックのことを知っていたが息子は読んでしまっているわけである。 僕が特定のことにしか関心をもたずそれから外れることについては関心を持とうとしなかったのに息子はどんなことにも幅広い関心を持っている。それと顕著な違いは僕が本を貸してくれるような友人を持たなかったことである。今もそれほど高校生の頃と変わっていない。あきれるほどつきあいが悪いのでずいぶん損をしているように思う。
2003年01月13日
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やかましい一日。市長及び市会議員選挙の公示日だったので候補者が一斉に選挙カーを街に繰り出したからである。選挙は一週間後、この間、名前の連呼に煩わされることになる。知りたいのは名前ではないのだがこんなに短い選挙期間に名前以上の何を知ることができるというのか。 今日は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』。見事なほど何も覚えていない。「僕が僕自身についていったい何を知っているだろう? 僕が僕の意識を通して捉えている僕は本当の僕だろうか?」(講談社文庫、上、p.16) テープレコーダーに吹き込んだ声が自分の声のようには聞こえないのと同じで、僕が捉えている像は、歪んで認識され都合良く認識され都合良くつくりかえられた像なのではないだろうか、と「僕」はいう。 録音した声が自分の声に聞こえないというたとえはよくわかる。講義や講演を録音して後で聴くようになってからはずいぶん自分の声に慣れたが、骨を通して聞こえる声こそ自分の声だと固く信じていたので初めて録音された声を聞いた時は驚いた。 こんなふうに考えると昨日書いたことにもかかわるが、自分のことは自分ではなく他の人の方が知っていることになる。しかし本当にそうなのか…要熟考。 つまらないのでめったに読まないのだが赤旗の日曜版(1月12日号)の記事がふと目に止まった。はしだのりひこのインタビュー記事である。フォーククルセーダーズで活躍していた頃のはしだのことはよく覚えている。その後、妻が病気で長期入院したことがきっかけになって主夫になった。その時の経験を講演で話し本も出版している。息子の通っていた保育園であったはしだの講演を聴いたことがある。特に主張があるわけでなく漫談でしかないと思ったが、僕も当時保育園の送り迎えをする身だったので共感するところもあった。後に僕も育児の講演をするようになるとはその頃は少しも思わなかった。 はしだはインタビューに答えてこんなふうにいっている。「ぼくらのようなアーティストという自由業は、明日の生活の保障は確かなものはありませんが、明日に夢を託すことができるし、希望をもつこともできます。きっと明日はよくなると思って生きる。そこを大事にしたいんですね」 同じ自由業の僕はこんなふうに思ったことがなかった。明日に夢と希望を。
2003年01月12日
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女性専用車に乗っていることに気がつかない男性がいることについて、MEMORIZEの日記に書いたが、女性専用車と表記したステッカーは窓の外に貼ってあるので中からはステッカーの文字は見えないのである。外からは男性が女性専用車に乗っていることはステッカーでわかるが、中の人は文字が書いてない白いステッカー(要は裏面)しか見えない。だからこそ何もわからずすわっていられるわけである。 他(外)の人にはわかるが当の本人はわからないというのは人間の無意識と同じである。 他の人の自分についての見方は受け容れがたいことがあるが、一度認める価値はあるという話を今日カウンセリングの中で話した。 今日は村上春樹は『風の歌を聴け』。ずいぶん前に一回読んだきりでほとんど内容を忘れていた。こんな小説は書けるかも、とふと思った。ただし人が死なない…村上のは殺人はないが(あったかも?)自殺が多すぎる。そして少しセックスシーンがある小説。 朝、夢の中で学生の時にお世話になった先生を見かけた。年をとっていて胸をつかれたが、今も勤勉に研究を続けてられるのがわかって襟を正した。今日から手近に積み上げている本の山の中にプラトンの対話篇を入れた。
2003年01月11日
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今日はカウンセリング。講演の依頼が2件。7月にアドラーギルドで講演することになった。テーマ(仮題)は「ギリシア哲学とアドラー心理学」。専門の研究成果を話してほしいということなので久しぶりに本格的に哲学の講義をしてみたいと思っている。 村上春樹の『ノルウェイの森』読了。「僕」のやさしさがとりかえしのつかない悲劇を招く。死んだ人もつらいが生き残った人たちはこれからどう生きていくのか? 救いがなく重苦しい感じがいつまでも残ってしまう。 懲りずに『風の歌を聴け』を探し出す。『村上春樹全作品1990~2000』(講談社)を買う。収録されている『TVピープル』は『ノルウェイの森』を書いてから落ち込みの後、「復帰」第一作。突然短編小説が書きたくなった、と村上はいう(「解題」p.294)。「まるで頭の中で何かのスイッチが入ったみたいに、僕は立ち上がって机にむかった。そしてワードプロセッサのキーをぱたぱた叩き、ほとんど自動的にこの物語を書いた」
2003年01月10日
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夜、尼崎で保育士自主研修会。公開保育の研修から数えると三年目になる。勉強したい人ばかりなのでこれからもずっと続くといってもらえうれしかった。運営母体(というのか)が変わり今回から新しい場所で。尼崎駅で保育士さんたちと待ち合わせて会場へ行った。 行って思い出したのが、ここはもう何年も前に民生委員さんを対象に講演をしたところだった。その時の講演はよく覚えている。二時間の講演の間誰も笑わなかった。その前日、広島で養護教諭の研修会で好評を博しただけに大いに驚くと共に落胆した。夏の暑い日、失意のうちに駅まで歩いた。 新たにスタートした研修会なので最初にこれまでの話をまとめてみた。その後いつものように事例検討。何回研修を重ねても気づくことがある。短所、決定、問題行動、異常行動、できていないところは容易に目に付くが適切なところ、できているところ、長所を見るのは努力がいる。前に村上春樹の小説から引いた「良いニュースは小さな声で語られるのです」という言葉を思い出す。今日の研修はこの点を再認識した。 村上春樹の『ノルウェイの森』を読みたくなって文庫を息子が持っているので貸してといったら断わられた。君は本の扱いが乱暴だから、と。ブックカバーをするならなどというのでめんどうになって自分で買うことにした。上巻を読了。ずいぶん前に読んだ時と印象が違う。レイコさんはもっと年上だと思っていたが今読み返すとそんなことはないと思った。その分、僕が年をとったということか。
2003年01月09日
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学校が始まったので朝から誰もいなくなる。食器を洗い(食器洗い機に入れるだけだが)洗濯物を干してから暖房のきいているダイニングにコンピュータを持ち込んでコーヒーを飲みながら仕事。夜、あまり寝られてなかったが眠ることなく過ごせた。思いがけず昼前に娘が帰宅。冷凍庫にあったラーメンを娘の分も作ったら喜んでくれた。娘はねぎを刻んでくれた。 息子のことは講演などでもよく引き合いに出すのに娘のことはあまり話さないとよく指摘されるのだが、きっと関係があまりによくてトラブルが起こらないからである。保育園に子どもを送り迎えしていた頃、息子はしばしば行かないといって困らせたが娘はただの一度も行くのを嫌がったことがない。 娘が小学校に入った頃はちょうど僕が京都の精神科に勤務していた。朝早く家を出て、帰りはいつも深夜だったので娘と顔を合わすことがあまりなかった。後に退職してからある日娘と話している時に友達のことが話題になった。「僕はそのお友達のこと知らないよ」というと「よくうちにきてたよ。お父さん、あの時、どこに行ってたの?」と娘がいった。「あの時」というのは僕が医院に勤務していた時のことをいっていることがわかり驚いてしまった。たしかにあの頃、あまり会ってないし、話もあまりしていなかったように思う。 兄よりも気性が激しいように見えることもあるがきっと非常に繊細で、今でこそ言葉できちんと主張できるようになったが幼い頃は身体の症状で訴えることが多かった。ある日娘が僕の父と二人で外で食事をしたことがあった。僕も一緒に行くつもりだったが直前にこみいった相談の電話が入って二人で行ってもらった。帰ってから父が「えらく食が細いなあ」というのでどういうことかたずねたらラーメンを半分くらいで残してしまったのだという。娘に後から聞くと、娘は卵のアレルギーがあるので卵は食べないようにしているのだが、思いがけず注文したらラーメンに卵が入っていて、もし僕と一緒だったら僕に卵を取り除くか別のものを頼めただろうに遠慮していえなくて我慢して食べたということだった。親の前だと「まずい」とか「食べない」とはっきりというのできつく見えるがそのほうがむしろいいわけである。 どんな機嫌の悪い時でも朝、出る時は明るく行ってきますという。どんなに機嫌の悪い人にも(息子がよくそんなことがある)明るく声をかけている。その声を僕はよくまだ半分夢の中で聞いている。
2003年01月08日
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朝早く(というほどのこともないのだが)起きると早くも眠い。もうそろそろ生活を変えねばと夜に寝たが(MEMORIZEの日記に書いたとおり)眠りは浅く奇妙な夢ばかり見て朝まで何度も目を覚ましては寝るのを繰り返した。昼間、仕事をしていると昼まで息子が、まだ学校が始まっていない娘がいたりして何度も仕事は中断するが、邪魔をされるというよりはいい意味で気分転換にはなるのだろう。娘は友達と七草粥を食べに行って(これはおいしくなかったらしい)その後髪も毛を切ってくると行って出かけた。帰ってくるなり「ねえ、前髪作ったの」と上機嫌で見せてくれた。三歳くらい幼くなったように見えるが気にいったようでご機嫌。息子は散髪してくるから、とお金がほしいという。帰りに昼ご飯をコンビニで買ってきてといっておいたら娘の分もたしかに買ってきてくれたが少しおつりが少ないような気もしたが、ま、いいか。 五日の日記に「食欲が湧いてこないのは、あるいは僕の中に文学的リアリティーのようなものが欠如しているからではないかと思った」という村上春樹の言葉を引いたが、「文学的リアリティー」の対義語として「日常的リアリティー」という言葉を使うとするならば、もちろんこの世界では日常的リアリティーが優先する。 村上の小説を読み終えて楽しみがなくなりがっかりしたが(続けて今度はドストエフスキーの『白痴』を読み始めた)、物語は終わっても人生は終わらない。日常的リアリティーでは、ギリシア悲劇でストーリーが行き詰まった時に持ち出される機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキーナ)は出てこない。しかるべく完結はしない。それが人生である。 とはいっても事実は小説よりも奇なりといわれることがあるように、そんなことが本当にあるのかと思えるような話は多々あるのであって、そんな話を僕はカウンセリングの場面では聞くことになる。その話は僕のところで当然ストップする。 ヘッセの『デミアン』を昨年来少しずつ読んでるのだが、「私」は目下自分が犯した過ちを誰にもいえなくて悩んでいる。父にいっそすっかり打ち明けようか、父の裁断と罰を受け、父を私のMitwisserにしようか、と思う。自分の一味にしようというような意味だが、Mitwisserは文字通りには、誰か他の人と何かを(共に)知る人という意味である。そんな人がいるのといないとでは大違いである。「私」は結局父にはいわないと決心するのだが、その苦悩は容易に想像できる。
2003年01月07日
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外に行く仕事がまだ始まらないのでまだ休みの感覚をぬぐえない。また何日も外に一歩も出ない生活が続いている。年賀状やメールの返事が滞っている。長く音信のなかった(僕が連絡を取らなかったということだが)友人から年賀状。三年越しの小説が今年は完成しそう、と。僕も頑張らねば、と思う。 『ねじまき鳥クロニクル』第3部読了。「(真実であるにせよないにせよ)それが僕にとって真実だ」(第3部、p.440) 話を聴く仕事をしているのではたしてこれは本当のことなのかと迷うことはよくある。妄想の類いの話ではない。人は時に多かれ少なかれ妄想的になることはある。みんなに嫌われているというような… 同じ出来事を経験してもそれについての意味づけは人によって違うので別の人から話を聞くとどちらが真実なのかわからなくなることがある。少なくとも、その人にとってはそれが真実なのだと思って話を聞くしかない。それは違うといってみてもあまりかいはない。ついこの間の出来事でも細部は大きく違っている。その違いがどこから出てきたのか、話す人の論理を聞いていく。その際、あらゆる人にとって真実かどうかは問題にならない。 今ここで起こっていることが別の場所で起こったことと関係があるとか、運命のようなもの、あるいは予言を僕は認めない。あるいは「僕だけがそれに気づいていないのかもしれない」(p.427)というようなことも。人間の自由意思をいかに救うかということをいつも考えている。「良いニュースは小さな声で語られるのです」(2部、p.350) 小説の中で何度か語られるこの言葉は小説の文脈とは別に本当にそうだと思う。悪いニュースは耳を覆っても聞こえてくる。良いニュースは全神経を集中させていないと聞こえてこない。
2003年01月06日
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寒い日。京都の冬は厳しい。雪でも降った方が寒さはましなくらい。夕方、サッシの窓についている喚起用の穴が開いているのを見つけた。なぜ開いてたかわからない。寒いはず。がっくりしてしまった。 何の予定もなかったのでずっと今日も村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読みふける。全部で3冊あるが、3冊目を読んでなかったのだ。調べると3冊目だけが一年以上後に刊行されている。なぜよみさしなかったといえば考えられるのは、間があいたのでストーリーを忘れてしまい読むのがおっくうになったか、ちょうど刊行された時にそれだけに取り組まなければならない仕事があったかどちらかである。後者である可能性は高い。ともあれ今回集中して読んで楽しむことができた。 主人公のねじまき鳥(もちろん本名ではない)がヘミングウェイの『武器よさらば』を引いてこんなことをいっている。その主人公が異国の地で妻の出産を待ちながら次から次へと食事を続けるところに強烈なリアリティーが含まれていると感じた、と。「不安で食事が咽を通らなくなるよりは、逆に異常なくらい食欲が湧いてきた方が文学的にリアルであるような気がしたのだ」(第2部、p.18)。 ホメロスにもこのような話がある。嵐で船が難破する。嵐が去った後、亡くなった友のことを嘆くよりも空腹であることに気づき船に残された食物を食べる… ねじまき鳥はある日妻に去られ困惑する。「でも実際にこうして、静かな家の中で時計の針を眺めながら、何かが起こるのをじっと待っていると、『武器のさらば』とは違った、食欲なんてまるでわいてこなかった。そしてふと、食欲が湧いてこないのは、あるいは僕の中に文学的リアリティーのようなものが欠如しているからではないかと思った。自分自身がまずく書かれた小説の中の一部になったような気がした。お前は全然リアルじゃない、と誰かに糾弾されているみたいだ。あるいは実際にそのとおりなのかもしれない」 リアルとは何か、現実とは何か…話は現実、夢、過去、外国を行き来して進んでいく。 現実とは何かということはカウンセリングをしているといつも考えておかなければならない。僕の本の第4部で取り上げたテーマである。
2003年01月05日
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休みが終りに近づくと時間が加速度的に進むように思う。『ねじまき鳥クロニクル』第2部の続きを少し。 前に別の機会に取り上げた問題なのだが、その後も考え続けている問題がある。 五木寛之の『大河の一滴』の映画化の宣伝に「人間は、『生きている』、ただそれだけで値打ちがあると思うのです」というのがあって、池田晶子はおかしいと指摘している。 論理的には次の問題がある。「ただそれだけ」というのは、文字通り「ただそれだけ」なのだから「値打ちがある」「値打ちがない」の価値判断以前の、たんなる事実をいうはずである。 ところが、「ただそれだけ」といっておきながら、同時に「それが価値である」といっているのだから、「ただそれだけであることが価値である」、すなわち「価値でないことが価値である」といっていることになる。これは論理的におかしい。 次に、ここでかっこ付きでいわれる「生きている」は、文法的に後続する「ただそれだけに」と同格だから「生きている」の意味内容は、物理的存在として生きている、生存しているという意味である。 そこで、「人間は、『生存している』、ただそれだけで値打ちがあると思うのです」という意味になる。はたしてそうなのか、と池田はいう。ソクラテスの「大切なのは、ただ生きることではなく、善く生きることだ」という言葉を引きながら、結論的にいうと池田はただ「生存している」ことには価値がない、善く生きている人だけが生きている価値がある、といいたいのである。 しかし、池田のいおうとすることは理解できるが、実際問題としては、あるいは、臨床的には、なかなかむずかしい問題をはらんでいる。 僕の母は脳梗塞で倒れ、意識を戻す兆候が一切見られなくなった。はたしてそのような母はただ生存しているだけなのだから、そのような母は生きている価値はなかったのか。 本人だけはこの問いに答えることができる。私はそんな状態では生きる価値がないので延命のための措置をやめてほしい、と。しかし、その時当の本人は意思表明することはできない。 そんなふうになる前に意思表明をしておけばいいという考えもあるだろう。しかし、実際自分がそのようになる前に予想していてもいざそうなった時に延命措置をやめてほしいなんていわなければよかったと思うかもしれないということはありうることである。 池田は生存するという言葉を広い意味で使っていてこのような意識のない、さらには脳死状態の患者のことを念頭においてないのかもしれないが、考えなければならない問題だろう。 本人はいえるかもしれないが、家族はいえない。ただ生きているだからもう死なせてやってくださいとは…きっとそういう判断をしたらずっと後悔するだろう、と母の病床で考え続けた。 勇気づけについて講演する時に、ただ生きていることを零点としてイメージすればどんなことでも加算法で見ることができるという話をよくする。これは家族(まわりの人)の視点からいっていることである。まわりの人についてその人のありのままを認めるということは必要なことである。子どものことで悩んでいる親は悩むことで子どもが親の理想ではないことを非難している。今がどんな状態であれ親としては今のそのままの子どもを受け入れるしかない。 しかし、「私」の視点からいえば今のこの自分のままでいいかといえばよくないかもしれないのである。生き方についてもよりよい生き方を求め、まわりの人に貢献できるよう努力することは必要であろう。ソクラテスのいう「大切なのは、ただ生きることではなく、善く生きることである」とは「私」の視点からいえることである。 ただ、出発点としては今のこの私しかないのであって、現実の自分を見据えずにいきなり理想の自分をめざしても、理想に到達しない自分を感情的に責めることは意味がない。
2003年01月04日
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父は機嫌よく帰って行った。父は気づいてないのかもしれないが二つ大きな変化があって僕は驚いてしまった。家にくると父は欠かすことなく仏壇の前にすわったものだが今回そうしなかった。お供えを持ってはきたが。前は仏壇が閉まっているとか花が供えてないとか怒っていたものだが…それと父が信仰する宗教の話を一度もしなかった。これには驚いた。父の信仰心が今も強いことは知っているのだが僕に話さなくなったので快適である。もともと反対はしたことはないのだが、僕は僕で譲れないものがあるので時に父の話に困ったことはあった。 ずっと父との間にあると感じていた距離があまり感じられなくなった。父のことを何と呼んでいいいのかわからなかった(「お父さん」「父上」!?)、というか、これまで父に呼びかけたことがないのかもしれない。子どもの頃、勇気を出して「おとうちゃん」と呼んだら、「そんな子どもみたいな呼び方はやめろ」といわれ、それっきりになってしまった。 僕は人と接する時に、距離を置くと、指摘されたことがあるが(当たっている…)、僕は他の誰よりも父と距離を置いてきたと思う。父と二人っきりになれば何か説教をされるに違いないと恐れていた。僕は父に対していつも恐れを感じており、避けてばかりいた。いさかいをすることもないかわりに(実際、親と喧嘩をしたり、ぞんざいな口をきいたりしたことはただの一度もなかった)、人生のどんな重大事についても相談をしようと思ったことはなかった。 この数年は父もまるくなり、たまに家に帰ってきても以前のようにうるさいことをいうこともない。それでも父は自分の価値観を僕に押しつけてきたように思って抵抗してきたのだが、今回の父の変化には驚かないわけにいかなかった。 僕の方の変化も大きいと思う。父とではなくて、他の同じくらいの年配の人と話すのと同じような感じで話せるようになった。 僕の息子は僕のことを恐れることなくいろいろなことを、話をしてくれる。「君は本当に権威というのがないなあ」と息子にいわれたことがあったが僕としてはそういわれることはうれしいことである。息子は、僕のことを「お前なあ」と時々、友だちに話しかけるように呼んでくれる。はたしてこの先、人生の重大事を僕に相談してくれるかはわからないのだが。
2003年01月03日
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昼前から父がきている。いつもは犬を飼っているので夕方になると早々に帰るのだが預けてきたとのことで初めて泊まって帰ることになった。前の家でもいいのだがこの季節人気がなくて寒いので一人で泊まらせるわけにはいかないので今住んでいるマンションに泊まることになった。 今年で七十五歳になる、知らない間に年を取るものだ、と父はいう。耳が遠くなって僕の声は聞き取れないようだ。大きな声で話しているのだが。さすがにこの頃はバスに乗っていても席を譲られることが多くなった、やっぱり年寄りに見えるのかなあ、と気は若い。少し前までは断わっていたようだが最近はせっかくの好意を無にするのも悪いのですわるという。大きな手術をした心臓の方は最近は調子がいいという話をしてくれるので安心するが親が老いていく姿をみるのはつらいものがある。 僕にとっては常に怖い存在で子どもの頃からずっと面と向かって話をしたことがない。話してもわかってもらえないだろうと思い込んでいたからかもしれないし、実際、大学院を終えてからも一向に就職しない僕の生き方は父の理解を超えるものだったのだと思う。ようやく精神科に就職した時は父は喜んでくれた。ところが三年に満たないうちにそこを退職した。そのことを父に告げることを僕は恐れた。しかし父は僕が恐れていたような反応をしなかった。これからはフリーで、講演と執筆活動を続ける、といったら思いもかけず父はこういってくれたのだ。「うん、そうか、わかった。それはいいことだ。頑張ってくれ」その後、顔を見たら僕に説教していた父がいつのまにか「お前のいうカウンセリングというのを受けてみたい」といい出した。僕がもし父くらいの年まで生きることができた時に息子に話をきいてくれとはたしていうのだろうか…父は僕が「人助け」の仕事をしていると思い込んでいる。講演会のチラシをある日見せた時にそんなふうにいうので驚いた。たしかにあたっているかもしれない。 休みということで長編に挑戦。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『白痴』。どれも読めない公算が大きい。
2003年01月02日
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朝まで本を読んでゆっくり過ごす。その後届いた年賀状を読む。毎年たくさんくるので恐縮。二年前の正月はアドラーの神経症の本の翻訳をたしか八日までに完成すると編集者氏と約束していたので寝食を忘れて仕事に打ち込んだが、そんなことがない年は限りなく怠惰に過ごすので(ずっと寝ているということだが)年賀状の返事を書くのが遅れに遅れてしまう。 ある年は母が入院していたので病院で年明けを迎えた。ICUにいたので急患がかつぎこまれたりして夜になっても落ち着かない。看護婦さんたちの詰め所から「おめでとう」という声がかすかに聞こえてきて新年が訪れたのを知る。見回りにきた看護婦さんに挨拶をする。今年もよろしくというのは考えたら妙な挨拶ではある、と思った。この先ずっとここにいるわけにはいかないしそんなことがあってはならないからである。 これからの一年を思った。どんな仕事をしようか、と。そして、唐突に(前後脈絡はないのだが)有島武郎の『生まれいずる悩み』のことを思った。私のところに青年が絵を持ってやってくるところから小説は始まる。「私は一目見て驚かずにはいられなかった。少しの修練も経てはいないし幼稚な技巧ではあったけれども、その中には不思議に力がこもっていてそれがすぐ私を襲ったからだ。私は画面から目を放してもう一度君を見直さないではいられなくなった」 幼稚なというところはかっこにいれないといけないが、長く外国語を教えてきて新しい学生に会うとよくこんな感想を持ったものだ。僕がすることはもともとある力を適切な方向へと伸ばす援助をすることで僕が何か新しい知識を授けるというわけではないのだ、とその度に思う。カウンセリングでも同じだし、ソクラテスの問答に見られる哲学も同じである。
2003年01月01日
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